毎月の田舎帰省。お袋との話相手の合間を縫って四国のあちこちを歩いているのだが、今回は来島海峡の激しい潮流に囲まれた来島群島のふたつの島を歩く。そのひとつは、来島村上水軍の拠点であった「来島」。そしてもうひとつは明治の砲台要塞のひとつ「小島」である。
島を訪ねるきっかけは、お盆に田舎に戻った娘をどこか歴史を感じる史跡に連れていこうと、あれこれチェックしていると来島、そして小島が目に止まった。同じ伊予、と言うか愛媛に住みながら、また、来島群島を眼下に見下ろし「瀬戸内しまなみ海道」を幾度となく往来しながらも、来島のことはなんとなく来島海峡の辺りということは知ってはいたが、全島砲台要塞化していたという小島については全く知らなかった。
ということで来島と小島を辿ることに。チェックすると、この二つの島はお隣同士。島を巡る定期船もこのふたつの島を繋いでいる。定期船の時間を調べると、午前10時10分に波止浜桟橋を出発し、10時15分に来島到着。次の来島発小島行きは11時15分。来島は周囲1キロほどの島であるとのことであり、村上水軍の史跡を辿っても1時間もあれば十分だろうと、11時15分の小島行きの定期船に乗り、小島には11時20分着。
小島は周囲3キロ程度。1時間半もあれば全部辿れそうではあり、小島発波止浜行12時55分の船に乗る予定とし、時間が足りなければ14時30分発を利用すべしと計画。娘とふたりで田舎の新居浜市から今治市の波止浜へと向かった。
本日のルート;波止浜港>龍神社>来島に渡る>八千矛神社>心月庵>村上神社>本丸跡>小島に渡る>28cm榴弾砲(レプリカ)>(南部砲台跡周辺)>発電所跡>南部砲台跡>(南部砲台跡から中部砲台跡へ)>弾薬庫跡>兵舎跡>(中部砲台跡周辺)>中部砲台跡>地下兵舎跡>司令塔跡>(北部砲台跡周辺)>軽砲の砲座跡>発電所跡と地下兵舎跡>24センチ砲4門の砲座跡>司令塔跡>(小島南端部)>探照灯跡
国道317号を今治市波止浜へ
実家の新居浜を出て、西条市を経由し今治市波止浜にある定期船乗り場に向かう。国道196号を進み、蒼社川を越えた先で国道317号に乗り換え波止浜に。この国道317号は波止浜港辺りで行き止まり。何故に波止浜で?チェックすると、この国道は瀬戸の島々を縫い、瀬戸内海を越えて広島県尾道市まで続いていた。「瀬戸内しまなみ海道」ができるまではフェリーボートを乗り継いでの、四国と中国地方を繋ぐ道ではあったのだろう。
波止浜港
カーナビナビの案内で波止浜の定期船乗り場に。波止浜湾の対岸や波止浜の東、今治市波方に大規模な造船所が見える。Wikipediaによれば、「波止浜港は港口には来島・小島の2島を控え、古来、箱港と呼ばれている。燧灘・斎灘を航行する船舶が、来島海峡の急潮と風波を回避するため利用していたほか、漁港としても利用されてきた。また、湾奥は古くは塩田であり、塩の積出港として発展してきた歴史もある。
港湾は埋め立ての歴史でもある。港内には、今治造船、新来島どっく、浅川造船、檜垣造船等の造船所がひしめき、クレーンが林立し活況を呈している。西側は古くから港町で栄えてきた歴史を感じさせる建築物・構築物もみられ、来島・小島への定期船もこちらの桟橋から発着する。東側は西側に比べると新しく開けたエリアであり、造船所等の集積する工業港区である」とある。
○灯明台
波止浜港の定期船待合室横に灯明台があった。Wikipediaにもあるように、奥深い入江が箱のような形をした波止浜湾は、筥潟湾(はこがたわん)と呼ばれ、古くから船の重要な風待ち、潮待ちの天然の良港であり、戦国時代は来島水軍の船溜まりとして、また、和3年(1683)以降の塩田開発による町家の増加、塩運搬船の出入りが多くなり、港町として発展し、伊予の小長崎といわれるほどに成長した、とのこと。
元禄16年(1703)には港の入り口に出入船舶を監督する船番所が置かれ、船舶と他国者の往来の取り締まりや船税の徴収にもあたった。船番所があった所は御番所前と呼ばれ、定期船桟橋対岸のドックの中あたりにあったようであるが、この大燈明台は、嘉永2(1849)年、その御番所前に建てられた。花崗岩の切石を積み重ねたこの石造灯明台は、嘉永2(1849)年の築造。「金毘羅大権現」の文字が刻まれ、航海安全への思いが込められている。
波止浜の町並み
村上水軍の根拠地であった来島への定期船の出発時間である10時10分までは少し時間がある。港の近くを少し歩くことにする。港に来る途中に「龍神社」があった。そこの往復ぐらいはできるであろうと港から道なりに神社に向かう。如何にも港町といった波止浜港辺りを離れ東に向かう、
Wikipediaに拠れば、「波止浜町(はしはまちょう)は愛媛県の越智郡にあった町である。旧野間郡。波止浜湾の西岸から波方町と接する小山までの地域。 東は今治市、南は乃万村と接し、北は来島海峡に面す。
かつては塩田で栄えたが、時代ともに消滅した。その後塩田は埋め立てられ造船所が立地するようになり現在では今治造船、新来島波止浜どっくなどの造船会社の本社、工場がある。造船が盛んなことから造船関連の産業も発達し渦潮電機、潮冷熱の工場が立地している」とある。
○八木亀三郎翁
道脇に誠に立派なお屋敷が目に入った。八木亀三郎翁(1863年~1938年)の御屋敷とのこと。大正初期に建てられた近代和風建築で、各地から高級資材を取り寄せて建てられ、裏山を取り込んだ回遊庭園は、様々な石が歩くごとに変化するように配置されている、とのことである。
波止浜には明治期に塩田業で財をなし、その資金をもとに多角的に事業展開をおこなった塩地主が幾人かいるようであるが、八木翁もそのひとり。「えひめの記憶」に拠れば、「シベリア鉄道の着工を踏まえ明治24年にはロシアに渡り、翌年からシベリアの巨商クインスト・アルベルスと日本塩の輸送を特約した。のちニコライスクに日本人で初めての漁区を占有し,以降十数年大量のサケ・タラを輸入した。
函館に八木本店を設け,北洋の力ニ漁業に着目,大正13年に業界にはじめての3,000トン級のカニ工船樺太丸を建造,近代的な母船式カニ漁業の先がけとなった。北洋漁業経営は長男八木実通が受げ継ぎ,昭和工船会社に発展した。亀三郎は帰省して今治製氷会社の設立に貢献,今治商業銀行の頭取に就任した。
昭和2年同行が休業した時,全私財を提供して処理したため,政府の同情を得て融資が与えられ,預金者には迷惑をかけなかったという」とあった。
帆船に波止浜の製塩を積んでロシアで商い、サケやタラを積んで帰り水産事業家として大成功をおさめる。また、蟹操業は活況を呈し巨万の利益を得、その後、愛媛第一の多額納税者になった、とか。
龍神社
道なりにすすみ龍神社に。波止浜港を見下ろす、やや高台に鎮座する。境内の案内には「御祭神:彦火火出見尊・鵜茅葺不合命・豊玉比古命・豊玉比賣命 延宝年間(1673~1681)に松山藩主松平定直により塩田が築造された際に、浦手役長谷部九兵衛並びに、代官郡奉行園田藤太夫成連が海面埋立の難工事を成功させるには神のご加護によらねばならないと、成連の先祖が信奉する八大龍を近江国勢多郷から勧請し、仮宮(入亀旭方)を建て完成を祈ったという。天和3年(1683)に現在地(出亀)に新社殿が完成し遷宮し、ここに波止濱が誕生した。
塩田の増加につれ祟敬者益々繁栄し藩主代官所よりも篤く祟敬されるようになった。藩主より葵紋付き箱提灯一対、また野間代官所よりも提灯が奉納された。祭典には藩より検使が派遣せられ代官所よりは代官が参列するようになった。 安永六年(1777)には京都の公郷桜井少将より菊花御紋章付きの提灯二張りが献納せられた。安永七年、神祇管領朝臣卜部より八大の二字を削除した自筆の神額を賜り龍神宮と社名を改めた。また安永九年には公郷桜井少将の(注;この箇所読めず)祈願所となった。
明治六年、境内素我神社を相殿に奉祀して再び社名を龍神社と改めた。当社は古来より水を司る神社として五穀豊穣を祈り海上安全の神として、又、河川堤防を防ぎ雨乞いの神としても霊験あらたかで人々に篤く信仰された。 境内神社;神明神社、塩竈神社、亀山稲荷神社」とあった。
○波止浜と製塩業
波止浜は造船・海運の拠点であることは知ってはいたが、製塩業で栄えた町であるということは知らなかった。実際、波止浜という地名も塩田のために埋め立てた地を護る堤防=「波止」と「浜」と呼んだ塩田が合わさった言葉であり、往昔、この地は「箱潟」と呼ばれていたようである。
波止浜で製塩業が発展した主たる要因は3つ。ひとつは瀬戸内は晴れの日が多い地域であること、第二は波止浜湾が遠浅であり、また満潮・干潮の差が大きく塩田開発に適したこと、そして3つ目は製塩業が発達していた竹原が瀬戸内を隔てた近隣の地にあったこと。
実際県内長谷部九兵衛も竹原で製塩技術を学んでいる。「えひめの記憶」には「長谷部(注;九兵衛)義秀をして、芸州竹原に赴かしむ。時に世尚ほ未だ開けず、食塩製造は芸州の秘法にして之を他国に洩さざりし、然れども義秀力を盡し遂に其方法を詳にして帰る」とある。
天和3年(1683)、長谷部九兵衛により県内で最も古い「入浜式塩田」が作られ、世を経るにつれ大塩田が形成され大いに繁栄した波止浜の製塩業も化学製塩の時代には抗せず、昭和34年(1959)廃止されることになる。
南は予讃線、北は龍神社、東は北郷中学辺り、西は波止浜湾を隔てた対岸まで広がって塩田跡は埋め立てられ宅地や船関係の工場となっている。
○製塩業と造船
「えひめの記憶」に拠れば、「波止浜の造船業は、明治35年(1902年)に設立された波止浜船渠(せんきょ)が始まりで、同社は大正13年(1924年)からは鋼船の建造も始めている。第二次世界大戦中から戦後にかけて造船所が次々と設立されたが、これらは木造船から鋼船の建造に切りかえて発展していった。昭和40年(1965年)の調査によると、波止浜湾岸には鋼造船所9工場と木造船所1工場が立地している」とある。
製塩業の地か造船の町となったのは、それなりの理由がある。塩を造る>全国各地に船で塩を運ぶ>船の修理が必要になる>船大工が育つ、といった因果関係が考えられる。
もっとも、造船業発展の要因は製塩業の発展だけと言うわけではない。波止浜は、天然の良港で、古くより船の風待・風邪待ち、あるいは避難港として利用され、港町として栄えたこと、西隣には、古くから海運業の町として知られた波方(なみかた)町(現在の今治市波方)があり、大正期から昭和の戦後まで石炭輸送が盛んであり、海運に使用した船の建造や修理を手がけたことが基礎になっていることは論を待たない。
■「ウバメガシの樹林」
龍神社の境内を歩く。大鳥居の背後には繁茂した「ウバメガシの樹林」がある。この地方では珍しい貴重なものとして今治市の天然記念物に指定されている。 案内には「市指定天然記念物 ウバメガシの樹林 ウバメガシ(ブナ科)はバヘ・ウマメガシともいう。塩分・乾燥・公害に耐えてよく生育する。竪果(ドングリ)は海水によっても運ばれ、かこう岩地帯の海岸近くや絶壁によく繁茂する。
昔はこの辺り一帯がウベメガシの樹林であったのが、開拓されるにつれて切り払われ、当時の自然がわずかにこの樹林に残されたもので、昔の状態を想像することのできるただひとつのものといえよう。目通りの幹の大きさ50~100cmのもの26本、100cm以上23本、合計約50本のウバメガシの老木がある。 台風で倒れた目通り250cmの木の年輪が200年以上あり、龍神社創建当時より残された貴重な森といえる(今治市教育委員会)」とあった。
バベとは方言。ウバメガシの名前の由来は姥がこの葉に含まれるタンニンをお歯黒に使ったとの説、新芽の茶褐色の色、葉に皺があること、幹のごつごつした木肌から、などあれこれあるようだ。
■神明橋
境内の石垣にアーチ型の石橋が「埋め込まれ」ていた。案内には「神明橋 径間:3.0m 環厚:33cm(要石45cm) 明治42(1909 )年」とあり、神明橋碑文が続く。
「抑く吾が神明橋は明治三十三年石工藤原清八郎が精魂籠めて作り上げた実に頑丈無類の立派な橋であったが道路拡張整備といふ時代の要求に抗し得ず、可惜撤去せざるを得ざる羽目と相成ったとは云へ此のメガネ橋こそ吾が全町民の愛着遣る方なき橋、せめてその原形だけでも永久に遺したいと云う切なる願黙し難く昭和五十六年十二月此の神域に復元したものである」とあった。
定期船で来島に
そろそろ定期船の出航時間が近づいた、波止浜港を挟んで対岸に龍神社の仮宮であった荒神社や、波止浜湾の岸壁の海中に半分海に浸かった龍神社の鳥居があるとのこと。鳥居は遠浅の海岸線が広がっていた参拝口に、竜神様が往来しやすいように建てられたようである。誠に興味深いのだが、次回のお楽しみとして定期船乗り場に向かう。
10時10分発の来島行の定期船に乗る。船は来島>小島>馬島と巡航している。切符は波止浜港の切符売り場で往復とか、島から島への料金を調べて買うことになる。各島には切符売り場はないようだ。乗船時に半券も含めてすべて乗務員に手渡すのがちょっと新鮮ではあった。
来島
波止浜港を出ると5分程度で来島に接近。途中来島海峡の渦潮も小規模ながら見えた。時間によってはもっと激しいものにはなるのだろう。それにしても小さな島である。周囲1キロ、と言う。ここが村上水軍の拠点のひとつ、と言われても今一つ実感がない。桟橋から桟橋脇にある社に向けて「来島村上水軍」の幟が立つ。
○村上水軍
桟橋から島の散策に向かう。資料は波止浜港の待合室に置いてあった「来島保存顕彰会(発行)、資料提供;今治地方観光協会」作成の1枚ペラのパンフレットのみ。島に残る村上水軍の概要や遺構が簡単に紹介されている。パンフレット表面には「村上水軍城」イメージ図とともに城の遺構、裏面には「来島村上水軍の歴史」が説明されていたので、裏面の資料をもとに「村上水軍」のあれこれをちょっとまとめておく。
■来島村上水軍の歴史
瀬戸内海は、日本の交通の大動脈。古代から瀬戸内海の人達は穏やかな気候の中、魚漁や農作業をしながら、船の水先案内をしたり、行き交う舟と交易をしていたと考えられる
□平安後期・鎌倉・室町時代
○瀬戸内海に水軍登場
瀬戸内海で航海や貿易がさかんになるにつれ、瀬戸内の海で暮らしていた人達も集団化・組織化されるようになる
○芸予諸島、瀬戸内海を支配
海賊衆の中でも最も力をもった村上水軍の村上師清は、三人の子供を因島、能島、来島に配置し、芸予諸島(しまなみ海道)を封鎖し、瀬戸内海を支配するようになる。
□戦国時代
○伊予の守護大名である河野氏の重臣となる
戦国時代の来島村上氏は、伊予国の守護大名、河野氏と姻戚関係をもつ。当主村上通康は、河野家で最も有力な武将であった。
○日本の歴史を変えた厳島合戦
陶晴賢と毛利元就が争った厳島合戦で勝利した毛利氏は中国地方の覇者として歩み始める。村上水軍は、「毛利氏の勝因は村上水軍を味方につけたこと」と、言われるほど大活躍をした。
○戦国時代末期・三家分裂
織田信長と毛利氏の戦いに参加した村上水軍は大きな変化を強いられる。村上三家は分裂し、因島・能島は毛利方に、来島は織田方へと分かれて戦う。このころから村上通総は来島通総と名のるようになる。
□安土・桃山時代
○来島通総は、秀吉の命令で水軍大将として二度の朝鮮出兵に参加し、二度目の慶長の役での鳴梁海戦で戦死。戦死した水軍兵士を地元人が埋葬してくれた遺跡が珍島に残る
□江戸時代
九州・豊後の森藩に 因島・能島・来島の中で唯一大名として生き残った来島氏も、家康の命令で 九州の海のない森藩(現在の大分県玖珠町)に移動となり、姓を来留島と改める。その後森藩は12代、明治維新まで存続した。
海のない九州森藩に行くことなく、多くの家臣はこの地に留まった。その人達は、その後塩田開発を行い、開運の仕事や舟を造る仕事に従事。現在の今治市の海運・造船の礎を築いたと言われている。
以上が、パンフレットに記載された村上水軍の歴史である。
いくつか説明の「行間」を埋めていく。
■水軍
まず、「水軍」と言う言葉。この言葉ができたのは昭和になってから、と言われる。有力御家人として「海賊」=「海の盗賊」の取り締まりを行ったり、戦国大名の傘下で一種の「海軍」勢力として活躍した「海賊衆」の後裔としては、所謂「海賊=海の盗賊」と一括りにされるのは、あまりにイメージ良くないし、実態と異なるということから造られた言葉かと思える。
■集団化・組織
次に平安後期・鎌倉・室町時代の項に「集団化・組織化されるようになる」とある。これは、もともと漁業を生業とし、戦いが起こると在地の小豪族に率いられ舟や乗組員を提供し、戦働きが終えればまた漁業に戻るといった漁業者集団が、在地の有力豪族か都から下った貴種の後裔なのか不詳であるが、ともあれ「有力者」のもとで海上警護や海賊取締を生業とする戦闘要員専従者となっていくことであろう。
■村上師清
次に、芸予諸島、瀬戸内海を支配したという「村上師清」が唐突に現れる。村上師清」って誰?チェックすると、不詳ではあるが、村上氏は清和源氏頼信の後裔とされる。村上姓を名乗ったのは源頼信の後裔が信濃国の更級郡村上郷に住み村上信濃守を称したことによる。時期は頼清の子仲宗のとき、あるいは仲宗の子盛清の代とも言われるがはっきりしない。文書の記録には白川上皇に仕えていた盛清が、上皇を呪咀したとして信濃に配流となったとされるから、遅くとも盛清の代には「村上姓」を名乗ったのではあろう。
信濃に下った「村上氏」は盛清の子(為国)や孫の代、保元の乱や源平合戦時の源氏方として活躍し、村上氏繁栄の礎を築いたとされる。
で、この村上氏と伊予の村上氏との関連であるが、村上氏繁栄の礎を築いた為国の弟である定国は保元の乱(1156)後、信濃から海賊衆の棟梁となって淡路、塩飽へと進出。そして、「平治の乱(1160)」の後、父祖の地越智大島に上陸し、瀬戸内村上氏の祖になったとする。
「父祖の地越智大島に」の意味するところは、村上氏の祖とされる清和源氏頼信の子源頼義が前九年の役の後に、伊予守として赴任し、河野親経と甥の村上仲宗に命じて寺社の造営を行わせたとされ、この頃仲宗は今治の対岸、伊予大島(能島)に城を築いていたと伝えられることに拠る。村上氏は村上仲宗の代に既に瀬戸内に勢力を築いていた、ということであり、その旧領に定国が「戻った」ということであろう。
ここでやっと「村上師清」の登場。パンフレットに記載された「村上師清」は瀬戸内の村上氏の祖ともされる「定国」から数えて八代ほど後の人物である。ついでのことながら、村上師清の先代は南北朝に南朝方として活躍した(伝説上の人物とも)村上義弘とされるが、血の繋がりはないようである。為に、村上師清は南朝の重臣であり、海事政策を掌握していた北畠親房の子孫との説もあるが、信濃村上氏から入り後継者となったとする説が有力のよう。そのためもあってか、定国から七代目の義弘までを前期村上氏、師国以降を後期村上氏と称する。
■村上師清は、三人の子供を因島、能島、来島に配置
パンフレットでは「師清は、三人の子供を因島、能島、来島に配置」とあるが、師清の子である義顕が長男雅房を能島(越智郡宮窪町)へ、次男吉豊を因島(広島県因島市)、三男吉房を来島(今治市)へと入城させ、能島・因島・来島の村上三家を成した、とも言われる。
ここで気になるのは師清が三家創設した人物の父なのか祖父ということより、パンフレットにある村上三家創設の物が北畠親房の流れ、ということである。それはそれでいいのだが、更に気になるのは、来島村上家の系図には北畠系の流れはこの村上三家の祖である三名の人物以降の記述がない。
一方、この師清>義顕>雅房・吉豊・吉房の系列とは別に、師清を祖父とし、その子顕忠の三人の子供を能島(義顕)・因島(顕長)・来島(顕忠)に入れ村上三家をなしたとする流れがある。こちらはこの三名以降も系図が続いている。思うに、この流れが信濃村上の血を受け継ぐとする系列ではあろう。どちらの系列が正しいのか詳しい資料もないようであり、そのためもあってか、パンフレットには敢えて三人の名をいれてないのだろうか。
■伊予国の守護大名、河野氏
河野氏が伊予の守護大名であったかどうかはっきりしない。平家方であった新居氏に対抗するといった意味合いもあり、伊予において源氏挙兵にいち早く呼応実績を挙げた河野四郎通清が恩賞として伊予の守護大名に遇されたとの説があるが確証はないようだ。
その四郎通清の子である通信は義経の傘下で戦績を挙げるも、承久の乱(1221年)で宮方に与し、幕府勢に敗れ河野氏は苦難の時代を迎える。生き延びたのは一族で幕府方に与した河野通久。
通久の孫である通有は13世紀末の元寇の役で活躍し、通有の子の通盛は鎌倉末期から南北朝期にかけて活躍し,勢を伸ばし一族の本拠を河野郷(北条)から道後湯築城に移した、とのことである。
「伊予国の守護大名、河野氏と姻戚関係をもつ。当主村上通康は、河野家で最も有力な武将であった」とある河野氏は通盛から数えて七代後の河野通直ではないだろうか。
■村上通総
村上通総は河野家で最も有力であり、河野氏の当主より後継者として指名された村上通康の子。それがもとで河野氏子飼いの武将より反発をうけ、河野・来島村上の抗争にまで発展したのだが、それはともあれ、その通康の子である村上通総は天正10年(1582)、信長が中国攻めをはじめたとき、他の村上氏と袂を分かち、毛利・河野氏からも離反し、織田方に走った。ために、能島・因島の両村上水軍は、来島城をはじめとする来島村上氏の拠点を次々と攻略し、来島城を捨て、秀吉の下に敗走した。
因みに、この村上通総は師清>顕忠>義顕・顕長・顕忠の流れ、信濃村上系の後裔のようである。
■家康の命令で九州の海のない森藩に移動
通総の子である来島長親(後に康親)は1万4千石を有していたが、関ヶ原の合戦で西軍に参陣。西軍敗北となるも、長親の妻の伯父である福島正則の取りなしもあり家名存続し、慶長6年(1601年)、豊後森に旧領と同じ1万4千石を得て森藩が成立した。2代通春は、元和2年(1616年)、姓を久留島と改めた。
これでなんとなくパンフレットに記載された村上水軍の歴史が自分なりに整理できた。村上水軍と言えば、城山三郎さんの『武吉と秀吉』に登場する能島の村上武吉や、南北朝に南朝方として活躍した(伝説上の人物とも)村上義弘など魅力的な人物がいるのだが、それはそれとして、あまりに前置きが長くなった。とっとと散歩にでかける。
八千矛神社
桟橋脇に古き趣の八千矛神社がある。隣接して東側には御先神社、岩戸神社などが祀られている。神社にお参り。祭神は大己貴命(おほなむちのみこと)と日本磐余彦命(やまといわれひこのみこと)。八千矛神とは大国主神(おおくにぬしのかみ)の別名であり、大国主神=大己貴命である。 前述のパンフレットには「松山・道後湯築城の河野氏が城の守り神として、建立したと伝えられる」とある。
神社由緒はいくつかある。ひとつは「文治2年(1186)8月、河野出雲守通助が箱潟の島に城を築き、八千矛神社を奉祀した」との記述。河野出雲守通助は上でメモした、源氏挙兵にいち早く呼応した河野通清の子である。
「来島八千矛(くるしまやちほこ)神社は、松山・道後湯築城(ゆづきじょう)の河野氏が来島築城の時、守り神として建立したものだと伝えられています」ともある。「松山・道後湯築城(ゆづきじょう)の」という記述は、文字通りに解釈すれば、河野氏が湯築に移ったのは14世紀初頭であろうから、創建年数がグーンと遅くなる。もっとも、「松山・道後湯築城(ゆづきじょう)の」を{後に松山・道後湯築城(ゆづきじょう)の}と読めば、初めの記述とも違和感がなくなる。
期待していた、「えひめの記憶」には「南岸の八千矛神社は、来島築城と共にその守護神として建立されたものである」とあった。誰がという記述は省略されていた。
この由緒からは、はっきりとはわからないが、来島村上氏との関連性は見て取れず、伊予の河野氏が来島に城を築いたと読み取れる。河野氏も水軍で覇を唱えたわけで、この地に橋頭保を築いても不思議ではない。
心月庵
八千矛神社を離れ、来島城址へと向かう。神社から桟橋方向に北に戻り、道なりに進むと「来島村上水軍」の幟が立つところがT字路となり、そこに標識がある。左に折れると城址、そのまま進むと往昔の水軍が使ったと言われる桟橋を支えた柱穴が岩礁に残る、とのこと。
道を左に折れ民家の間を進み石段を上ると「来島城址」と刻まれた石標が立つ。石標の後ろは石垣が組まれている。結構最近築かれたような風情ではあったので、スルーしたのだが、一部築城当時の石組みも残るようである。
石垣を上に進むと村上神社と本丸跡があるようだが、その先に右に折れ来島城主の館であったと伝わる「心月庵」に向かう。本丸らしき一帯を見上げ、足元の草叢に、かつては本丸や館を護ったであろう堀割りを想像しながら進むと城主館跡があった。館の裏手は本丸より一段低い廓が前述パンフレットに見て取れる。東側には館を囲んだ土塁が残る、とか。城主館跡は現在、薬師如来が祀られる薬師堂となっていた。
村上神社
道を戻り、石垣から上に進み石段を上ると、小振りだが趣きのある鳥居があり、その先に村上神社が祀られていた。来島村上氏の祖霊社である。社にお参り。小振りな拝殿の奥に更に小振りな本殿があった。前述パンフレットを見ると、村上神社は二の丸とその東に一段低く比較的広い廓との境辺りにあるように見える。
本丸跡
社を後に本丸跡に向かう。来島城は島の東端、北から南にかけて続く細い尾根を活用し三の丸、二の丸、そして本丸を構えている。三の丸は平坦地と見えるが、二の丸は本丸に向かって上り勾配の構えとなっている。
左手は海に落ちる崖脇といった道を上るとほどなく平坦地。本丸跡である。広いところで30mといった台地形の構えに見える。
遺構といったものは残らず、鉄塔が建つのみである。本丸跡からは島の南の波止浜側や、北の「しまなみ海道」下を行き交う船舶が見える。来島海峡を扼する地であることを実感する。
上で、「文治2年(1186)8月、河野出雲守通助が箱潟の島に城を築き、八千矛神社を奉祀した」とメモした。伊予における新居氏との抗争、また水軍というか海賊衆としての勢力を有した河野氏が来島に城というか砦に築いたのではあろうが、来島村上勢としてこの島に城を築いたのは村上吉房とされる。応永26年(1419)のことである。室町幕府第4代将軍、足利義持のころである。
村上吉房は上でメモしたように、祖父を村上師清、父は義顕とし、長男雅房を能島(越智郡宮窪町)へ、次男吉豊を因島(広島県因島市)、三男吉房を来島(今治市)へと入城させ、能島・因島・来島の村上三家を成した、その三男吉房のことである。それはそれでいいのだが、この師清>義顕>良房といった北畠系の系図には、良房以降の記述がないのは前述の通りである。
ところで、本丸から周囲を眺めながら気になったことがあった。如何に渦巻く潮流に護られた自然の要害にしても、果たして、このような周囲1キロといった小島で制海権を抑えるといった「水軍」が機能するものであろうか。
チェックすると、16世紀頃に至って、来島村上氏は、本拠の城を来島城から西方の波方浦に移し、そこに館を構え、その館を中心に当地周縁の海岸部に複数の城砦を配置した。代表的な城は館の南の遠見山城や対岸の糸山城(現在の糸谷公園辺り)であるが、その他の主だった城砦としては、東岸部(波方港の北部)では大浦砦・長福寺鼻砦・対馬山砦、北岸部(波方港の北に突き出た半島部)では大角の砦・大角番所・天満鼻見張り台、黒磯城、西岸部(波方ターミナルがある西に突き出た半島部)では梶取鼻砦・御崎城・宮崎城などがあったとのことである。
「えひめの記憶」には「これら海城の特徴は、①瀬戸の狭小な水路中の島嶼に立地している。②急潮による難所を要害として利用している。③島全体を城郭として縄張りしている。④島の本城の周辺に本城防衛のための支城・番城・砦などが設置されている。この点の例を来島瀬戸の西口海中にある来島城にとると、城主来島村上氏の発展に伴い、対岸の波方浦を中心とする波方城砦群(波方城・黒磯城・御崎城・宮崎城・大角砦・梶取鼻砦など七砦、天満鼻見張台・大角番所・波方館・養老館など)を築き、一六世紀以降大根城を来島から波方に移している。⑤城の周囲に桟橋・船入りなどの繋船施設を備えている。⑥用水が欠乏している城の給水施設(井戸)を島外の海浜に持っている。これらの特徴をもった海城に、上記三城のほか温泉郡中島と怒和島の間のクダコ水道中の久多児城がある」とあった。これで「水軍」として覇を唱えた規模感が納得できた。
小島に渡る
城址を下り、定期船が到着するまで少し時間があるので、パンフレットにあった岩礁に残る桟橋を支えた柱穴跡を見ようと東海岸を歩く。途中幾体かのお地蔵さまが並ぶ地蔵堂にお参り。岩壁が切れるところまで進むが、満潮のため柱穴の跡を見ることはできなかった。
桟橋に戻り11時15分発の定期船を待つ。で、来島という周囲1キロの島ではあるが、あれこれ気になることが多くメモが長くなった。砲台要塞である小島のメモは次回に回すことにする。
島を訪ねるきっかけは、お盆に田舎に戻った娘をどこか歴史を感じる史跡に連れていこうと、あれこれチェックしていると来島、そして小島が目に止まった。同じ伊予、と言うか愛媛に住みながら、また、来島群島を眼下に見下ろし「瀬戸内しまなみ海道」を幾度となく往来しながらも、来島のことはなんとなく来島海峡の辺りということは知ってはいたが、全島砲台要塞化していたという小島については全く知らなかった。
ということで来島と小島を辿ることに。チェックすると、この二つの島はお隣同士。島を巡る定期船もこのふたつの島を繋いでいる。定期船の時間を調べると、午前10時10分に波止浜桟橋を出発し、10時15分に来島到着。次の来島発小島行きは11時15分。来島は周囲1キロほどの島であるとのことであり、村上水軍の史跡を辿っても1時間もあれば十分だろうと、11時15分の小島行きの定期船に乗り、小島には11時20分着。
小島は周囲3キロ程度。1時間半もあれば全部辿れそうではあり、小島発波止浜行12時55分の船に乗る予定とし、時間が足りなければ14時30分発を利用すべしと計画。娘とふたりで田舎の新居浜市から今治市の波止浜へと向かった。
本日のルート;波止浜港>龍神社>来島に渡る>八千矛神社>心月庵>村上神社>本丸跡>小島に渡る>28cm榴弾砲(レプリカ)>(南部砲台跡周辺)>発電所跡>南部砲台跡>(南部砲台跡から中部砲台跡へ)>弾薬庫跡>兵舎跡>(中部砲台跡周辺)>中部砲台跡>地下兵舎跡>司令塔跡>(北部砲台跡周辺)>軽砲の砲座跡>発電所跡と地下兵舎跡>24センチ砲4門の砲座跡>司令塔跡>(小島南端部)>探照灯跡
国道317号を今治市波止浜へ
実家の新居浜を出て、西条市を経由し今治市波止浜にある定期船乗り場に向かう。国道196号を進み、蒼社川を越えた先で国道317号に乗り換え波止浜に。この国道317号は波止浜港辺りで行き止まり。何故に波止浜で?チェックすると、この国道は瀬戸の島々を縫い、瀬戸内海を越えて広島県尾道市まで続いていた。「瀬戸内しまなみ海道」ができるまではフェリーボートを乗り継いでの、四国と中国地方を繋ぐ道ではあったのだろう。
波止浜港
カーナビナビの案内で波止浜の定期船乗り場に。波止浜湾の対岸や波止浜の東、今治市波方に大規模な造船所が見える。Wikipediaによれば、「波止浜港は港口には来島・小島の2島を控え、古来、箱港と呼ばれている。燧灘・斎灘を航行する船舶が、来島海峡の急潮と風波を回避するため利用していたほか、漁港としても利用されてきた。また、湾奥は古くは塩田であり、塩の積出港として発展してきた歴史もある。
港湾は埋め立ての歴史でもある。港内には、今治造船、新来島どっく、浅川造船、檜垣造船等の造船所がひしめき、クレーンが林立し活況を呈している。西側は古くから港町で栄えてきた歴史を感じさせる建築物・構築物もみられ、来島・小島への定期船もこちらの桟橋から発着する。東側は西側に比べると新しく開けたエリアであり、造船所等の集積する工業港区である」とある。
○灯明台
波止浜港の定期船待合室横に灯明台があった。Wikipediaにもあるように、奥深い入江が箱のような形をした波止浜湾は、筥潟湾(はこがたわん)と呼ばれ、古くから船の重要な風待ち、潮待ちの天然の良港であり、戦国時代は来島水軍の船溜まりとして、また、和3年(1683)以降の塩田開発による町家の増加、塩運搬船の出入りが多くなり、港町として発展し、伊予の小長崎といわれるほどに成長した、とのこと。
元禄16年(1703)には港の入り口に出入船舶を監督する船番所が置かれ、船舶と他国者の往来の取り締まりや船税の徴収にもあたった。船番所があった所は御番所前と呼ばれ、定期船桟橋対岸のドックの中あたりにあったようであるが、この大燈明台は、嘉永2(1849)年、その御番所前に建てられた。花崗岩の切石を積み重ねたこの石造灯明台は、嘉永2(1849)年の築造。「金毘羅大権現」の文字が刻まれ、航海安全への思いが込められている。
波止浜の町並み
村上水軍の根拠地であった来島への定期船の出発時間である10時10分までは少し時間がある。港の近くを少し歩くことにする。港に来る途中に「龍神社」があった。そこの往復ぐらいはできるであろうと港から道なりに神社に向かう。如何にも港町といった波止浜港辺りを離れ東に向かう、
Wikipediaに拠れば、「波止浜町(はしはまちょう)は愛媛県の越智郡にあった町である。旧野間郡。波止浜湾の西岸から波方町と接する小山までの地域。 東は今治市、南は乃万村と接し、北は来島海峡に面す。
かつては塩田で栄えたが、時代ともに消滅した。その後塩田は埋め立てられ造船所が立地するようになり現在では今治造船、新来島波止浜どっくなどの造船会社の本社、工場がある。造船が盛んなことから造船関連の産業も発達し渦潮電機、潮冷熱の工場が立地している」とある。
○八木亀三郎翁
道脇に誠に立派なお屋敷が目に入った。八木亀三郎翁(1863年~1938年)の御屋敷とのこと。大正初期に建てられた近代和風建築で、各地から高級資材を取り寄せて建てられ、裏山を取り込んだ回遊庭園は、様々な石が歩くごとに変化するように配置されている、とのことである。
波止浜には明治期に塩田業で財をなし、その資金をもとに多角的に事業展開をおこなった塩地主が幾人かいるようであるが、八木翁もそのひとり。「えひめの記憶」に拠れば、「シベリア鉄道の着工を踏まえ明治24年にはロシアに渡り、翌年からシベリアの巨商クインスト・アルベルスと日本塩の輸送を特約した。のちニコライスクに日本人で初めての漁区を占有し,以降十数年大量のサケ・タラを輸入した。
函館に八木本店を設け,北洋の力ニ漁業に着目,大正13年に業界にはじめての3,000トン級のカニ工船樺太丸を建造,近代的な母船式カニ漁業の先がけとなった。北洋漁業経営は長男八木実通が受げ継ぎ,昭和工船会社に発展した。亀三郎は帰省して今治製氷会社の設立に貢献,今治商業銀行の頭取に就任した。
昭和2年同行が休業した時,全私財を提供して処理したため,政府の同情を得て融資が与えられ,預金者には迷惑をかけなかったという」とあった。
帆船に波止浜の製塩を積んでロシアで商い、サケやタラを積んで帰り水産事業家として大成功をおさめる。また、蟹操業は活況を呈し巨万の利益を得、その後、愛媛第一の多額納税者になった、とか。
龍神社
道なりにすすみ龍神社に。波止浜港を見下ろす、やや高台に鎮座する。境内の案内には「御祭神:彦火火出見尊・鵜茅葺不合命・豊玉比古命・豊玉比賣命 延宝年間(1673~1681)に松山藩主松平定直により塩田が築造された際に、浦手役長谷部九兵衛並びに、代官郡奉行園田藤太夫成連が海面埋立の難工事を成功させるには神のご加護によらねばならないと、成連の先祖が信奉する八大龍を近江国勢多郷から勧請し、仮宮(入亀旭方)を建て完成を祈ったという。天和3年(1683)に現在地(出亀)に新社殿が完成し遷宮し、ここに波止濱が誕生した。
塩田の増加につれ祟敬者益々繁栄し藩主代官所よりも篤く祟敬されるようになった。藩主より葵紋付き箱提灯一対、また野間代官所よりも提灯が奉納された。祭典には藩より検使が派遣せられ代官所よりは代官が参列するようになった。 安永六年(1777)には京都の公郷桜井少将より菊花御紋章付きの提灯二張りが献納せられた。安永七年、神祇管領朝臣卜部より八大の二字を削除した自筆の神額を賜り龍神宮と社名を改めた。また安永九年には公郷桜井少将の(注;この箇所読めず)祈願所となった。
明治六年、境内素我神社を相殿に奉祀して再び社名を龍神社と改めた。当社は古来より水を司る神社として五穀豊穣を祈り海上安全の神として、又、河川堤防を防ぎ雨乞いの神としても霊験あらたかで人々に篤く信仰された。 境内神社;神明神社、塩竈神社、亀山稲荷神社」とあった。
○波止浜と製塩業
波止浜は造船・海運の拠点であることは知ってはいたが、製塩業で栄えた町であるということは知らなかった。実際、波止浜という地名も塩田のために埋め立てた地を護る堤防=「波止」と「浜」と呼んだ塩田が合わさった言葉であり、往昔、この地は「箱潟」と呼ばれていたようである。
波止浜で製塩業が発展した主たる要因は3つ。ひとつは瀬戸内は晴れの日が多い地域であること、第二は波止浜湾が遠浅であり、また満潮・干潮の差が大きく塩田開発に適したこと、そして3つ目は製塩業が発達していた竹原が瀬戸内を隔てた近隣の地にあったこと。
実際県内長谷部九兵衛も竹原で製塩技術を学んでいる。「えひめの記憶」には「長谷部(注;九兵衛)義秀をして、芸州竹原に赴かしむ。時に世尚ほ未だ開けず、食塩製造は芸州の秘法にして之を他国に洩さざりし、然れども義秀力を盡し遂に其方法を詳にして帰る」とある。
天和3年(1683)、長谷部九兵衛により県内で最も古い「入浜式塩田」が作られ、世を経るにつれ大塩田が形成され大いに繁栄した波止浜の製塩業も化学製塩の時代には抗せず、昭和34年(1959)廃止されることになる。
南は予讃線、北は龍神社、東は北郷中学辺り、西は波止浜湾を隔てた対岸まで広がって塩田跡は埋め立てられ宅地や船関係の工場となっている。
○製塩業と造船
「えひめの記憶」に拠れば、「波止浜の造船業は、明治35年(1902年)に設立された波止浜船渠(せんきょ)が始まりで、同社は大正13年(1924年)からは鋼船の建造も始めている。第二次世界大戦中から戦後にかけて造船所が次々と設立されたが、これらは木造船から鋼船の建造に切りかえて発展していった。昭和40年(1965年)の調査によると、波止浜湾岸には鋼造船所9工場と木造船所1工場が立地している」とある。
製塩業の地か造船の町となったのは、それなりの理由がある。塩を造る>全国各地に船で塩を運ぶ>船の修理が必要になる>船大工が育つ、といった因果関係が考えられる。
もっとも、造船業発展の要因は製塩業の発展だけと言うわけではない。波止浜は、天然の良港で、古くより船の風待・風邪待ち、あるいは避難港として利用され、港町として栄えたこと、西隣には、古くから海運業の町として知られた波方(なみかた)町(現在の今治市波方)があり、大正期から昭和の戦後まで石炭輸送が盛んであり、海運に使用した船の建造や修理を手がけたことが基礎になっていることは論を待たない。
■「ウバメガシの樹林」
龍神社の境内を歩く。大鳥居の背後には繁茂した「ウバメガシの樹林」がある。この地方では珍しい貴重なものとして今治市の天然記念物に指定されている。 案内には「市指定天然記念物 ウバメガシの樹林 ウバメガシ(ブナ科)はバヘ・ウマメガシともいう。塩分・乾燥・公害に耐えてよく生育する。竪果(ドングリ)は海水によっても運ばれ、かこう岩地帯の海岸近くや絶壁によく繁茂する。
昔はこの辺り一帯がウベメガシの樹林であったのが、開拓されるにつれて切り払われ、当時の自然がわずかにこの樹林に残されたもので、昔の状態を想像することのできるただひとつのものといえよう。目通りの幹の大きさ50~100cmのもの26本、100cm以上23本、合計約50本のウバメガシの老木がある。 台風で倒れた目通り250cmの木の年輪が200年以上あり、龍神社創建当時より残された貴重な森といえる(今治市教育委員会)」とあった。
バベとは方言。ウバメガシの名前の由来は姥がこの葉に含まれるタンニンをお歯黒に使ったとの説、新芽の茶褐色の色、葉に皺があること、幹のごつごつした木肌から、などあれこれあるようだ。
■神明橋
境内の石垣にアーチ型の石橋が「埋め込まれ」ていた。案内には「神明橋 径間:3.0m 環厚:33cm(要石45cm) 明治42(1909 )年」とあり、神明橋碑文が続く。
「抑く吾が神明橋は明治三十三年石工藤原清八郎が精魂籠めて作り上げた実に頑丈無類の立派な橋であったが道路拡張整備といふ時代の要求に抗し得ず、可惜撤去せざるを得ざる羽目と相成ったとは云へ此のメガネ橋こそ吾が全町民の愛着遣る方なき橋、せめてその原形だけでも永久に遺したいと云う切なる願黙し難く昭和五十六年十二月此の神域に復元したものである」とあった。
定期船で来島に
そろそろ定期船の出航時間が近づいた、波止浜港を挟んで対岸に龍神社の仮宮であった荒神社や、波止浜湾の岸壁の海中に半分海に浸かった龍神社の鳥居があるとのこと。鳥居は遠浅の海岸線が広がっていた参拝口に、竜神様が往来しやすいように建てられたようである。誠に興味深いのだが、次回のお楽しみとして定期船乗り場に向かう。
10時10分発の来島行の定期船に乗る。船は来島>小島>馬島と巡航している。切符は波止浜港の切符売り場で往復とか、島から島への料金を調べて買うことになる。各島には切符売り場はないようだ。乗船時に半券も含めてすべて乗務員に手渡すのがちょっと新鮮ではあった。
来島
波止浜港を出ると5分程度で来島に接近。途中来島海峡の渦潮も小規模ながら見えた。時間によってはもっと激しいものにはなるのだろう。それにしても小さな島である。周囲1キロ、と言う。ここが村上水軍の拠点のひとつ、と言われても今一つ実感がない。桟橋から桟橋脇にある社に向けて「来島村上水軍」の幟が立つ。
○村上水軍
桟橋から島の散策に向かう。資料は波止浜港の待合室に置いてあった「来島保存顕彰会(発行)、資料提供;今治地方観光協会」作成の1枚ペラのパンフレットのみ。島に残る村上水軍の概要や遺構が簡単に紹介されている。パンフレット表面には「村上水軍城」イメージ図とともに城の遺構、裏面には「来島村上水軍の歴史」が説明されていたので、裏面の資料をもとに「村上水軍」のあれこれをちょっとまとめておく。
■来島村上水軍の歴史
瀬戸内海は、日本の交通の大動脈。古代から瀬戸内海の人達は穏やかな気候の中、魚漁や農作業をしながら、船の水先案内をしたり、行き交う舟と交易をしていたと考えられる
□平安後期・鎌倉・室町時代
○瀬戸内海に水軍登場
瀬戸内海で航海や貿易がさかんになるにつれ、瀬戸内の海で暮らしていた人達も集団化・組織化されるようになる
○芸予諸島、瀬戸内海を支配
海賊衆の中でも最も力をもった村上水軍の村上師清は、三人の子供を因島、能島、来島に配置し、芸予諸島(しまなみ海道)を封鎖し、瀬戸内海を支配するようになる。
□戦国時代
○伊予の守護大名である河野氏の重臣となる
戦国時代の来島村上氏は、伊予国の守護大名、河野氏と姻戚関係をもつ。当主村上通康は、河野家で最も有力な武将であった。
○日本の歴史を変えた厳島合戦
陶晴賢と毛利元就が争った厳島合戦で勝利した毛利氏は中国地方の覇者として歩み始める。村上水軍は、「毛利氏の勝因は村上水軍を味方につけたこと」と、言われるほど大活躍をした。
○戦国時代末期・三家分裂
織田信長と毛利氏の戦いに参加した村上水軍は大きな変化を強いられる。村上三家は分裂し、因島・能島は毛利方に、来島は織田方へと分かれて戦う。このころから村上通総は来島通総と名のるようになる。
□安土・桃山時代
○来島通総は、秀吉の命令で水軍大将として二度の朝鮮出兵に参加し、二度目の慶長の役での鳴梁海戦で戦死。戦死した水軍兵士を地元人が埋葬してくれた遺跡が珍島に残る
□江戸時代
九州・豊後の森藩に 因島・能島・来島の中で唯一大名として生き残った来島氏も、家康の命令で 九州の海のない森藩(現在の大分県玖珠町)に移動となり、姓を来留島と改める。その後森藩は12代、明治維新まで存続した。
海のない九州森藩に行くことなく、多くの家臣はこの地に留まった。その人達は、その後塩田開発を行い、開運の仕事や舟を造る仕事に従事。現在の今治市の海運・造船の礎を築いたと言われている。
以上が、パンフレットに記載された村上水軍の歴史である。
いくつか説明の「行間」を埋めていく。
■水軍
まず、「水軍」と言う言葉。この言葉ができたのは昭和になってから、と言われる。有力御家人として「海賊」=「海の盗賊」の取り締まりを行ったり、戦国大名の傘下で一種の「海軍」勢力として活躍した「海賊衆」の後裔としては、所謂「海賊=海の盗賊」と一括りにされるのは、あまりにイメージ良くないし、実態と異なるということから造られた言葉かと思える。
■集団化・組織
次に平安後期・鎌倉・室町時代の項に「集団化・組織化されるようになる」とある。これは、もともと漁業を生業とし、戦いが起こると在地の小豪族に率いられ舟や乗組員を提供し、戦働きが終えればまた漁業に戻るといった漁業者集団が、在地の有力豪族か都から下った貴種の後裔なのか不詳であるが、ともあれ「有力者」のもとで海上警護や海賊取締を生業とする戦闘要員専従者となっていくことであろう。
■村上師清
次に、芸予諸島、瀬戸内海を支配したという「村上師清」が唐突に現れる。村上師清」って誰?チェックすると、不詳ではあるが、村上氏は清和源氏頼信の後裔とされる。村上姓を名乗ったのは源頼信の後裔が信濃国の更級郡村上郷に住み村上信濃守を称したことによる。時期は頼清の子仲宗のとき、あるいは仲宗の子盛清の代とも言われるがはっきりしない。文書の記録には白川上皇に仕えていた盛清が、上皇を呪咀したとして信濃に配流となったとされるから、遅くとも盛清の代には「村上姓」を名乗ったのではあろう。
信濃に下った「村上氏」は盛清の子(為国)や孫の代、保元の乱や源平合戦時の源氏方として活躍し、村上氏繁栄の礎を築いたとされる。
で、この村上氏と伊予の村上氏との関連であるが、村上氏繁栄の礎を築いた為国の弟である定国は保元の乱(1156)後、信濃から海賊衆の棟梁となって淡路、塩飽へと進出。そして、「平治の乱(1160)」の後、父祖の地越智大島に上陸し、瀬戸内村上氏の祖になったとする。
「父祖の地越智大島に」の意味するところは、村上氏の祖とされる清和源氏頼信の子源頼義が前九年の役の後に、伊予守として赴任し、河野親経と甥の村上仲宗に命じて寺社の造営を行わせたとされ、この頃仲宗は今治の対岸、伊予大島(能島)に城を築いていたと伝えられることに拠る。村上氏は村上仲宗の代に既に瀬戸内に勢力を築いていた、ということであり、その旧領に定国が「戻った」ということであろう。
ここでやっと「村上師清」の登場。パンフレットに記載された「村上師清」は瀬戸内の村上氏の祖ともされる「定国」から数えて八代ほど後の人物である。ついでのことながら、村上師清の先代は南北朝に南朝方として活躍した(伝説上の人物とも)村上義弘とされるが、血の繋がりはないようである。為に、村上師清は南朝の重臣であり、海事政策を掌握していた北畠親房の子孫との説もあるが、信濃村上氏から入り後継者となったとする説が有力のよう。そのためもあってか、定国から七代目の義弘までを前期村上氏、師国以降を後期村上氏と称する。
■村上師清は、三人の子供を因島、能島、来島に配置
パンフレットでは「師清は、三人の子供を因島、能島、来島に配置」とあるが、師清の子である義顕が長男雅房を能島(越智郡宮窪町)へ、次男吉豊を因島(広島県因島市)、三男吉房を来島(今治市)へと入城させ、能島・因島・来島の村上三家を成した、とも言われる。
ここで気になるのは師清が三家創設した人物の父なのか祖父ということより、パンフレットにある村上三家創設の物が北畠親房の流れ、ということである。それはそれでいいのだが、更に気になるのは、来島村上家の系図には北畠系の流れはこの村上三家の祖である三名の人物以降の記述がない。
一方、この師清>義顕>雅房・吉豊・吉房の系列とは別に、師清を祖父とし、その子顕忠の三人の子供を能島(義顕)・因島(顕長)・来島(顕忠)に入れ村上三家をなしたとする流れがある。こちらはこの三名以降も系図が続いている。思うに、この流れが信濃村上の血を受け継ぐとする系列ではあろう。どちらの系列が正しいのか詳しい資料もないようであり、そのためもあってか、パンフレットには敢えて三人の名をいれてないのだろうか。
■伊予国の守護大名、河野氏
河野氏が伊予の守護大名であったかどうかはっきりしない。平家方であった新居氏に対抗するといった意味合いもあり、伊予において源氏挙兵にいち早く呼応実績を挙げた河野四郎通清が恩賞として伊予の守護大名に遇されたとの説があるが確証はないようだ。
その四郎通清の子である通信は義経の傘下で戦績を挙げるも、承久の乱(1221年)で宮方に与し、幕府勢に敗れ河野氏は苦難の時代を迎える。生き延びたのは一族で幕府方に与した河野通久。
通久の孫である通有は13世紀末の元寇の役で活躍し、通有の子の通盛は鎌倉末期から南北朝期にかけて活躍し,勢を伸ばし一族の本拠を河野郷(北条)から道後湯築城に移した、とのことである。
「伊予国の守護大名、河野氏と姻戚関係をもつ。当主村上通康は、河野家で最も有力な武将であった」とある河野氏は通盛から数えて七代後の河野通直ではないだろうか。
■村上通総
村上通総は河野家で最も有力であり、河野氏の当主より後継者として指名された村上通康の子。それがもとで河野氏子飼いの武将より反発をうけ、河野・来島村上の抗争にまで発展したのだが、それはともあれ、その通康の子である村上通総は天正10年(1582)、信長が中国攻めをはじめたとき、他の村上氏と袂を分かち、毛利・河野氏からも離反し、織田方に走った。ために、能島・因島の両村上水軍は、来島城をはじめとする来島村上氏の拠点を次々と攻略し、来島城を捨て、秀吉の下に敗走した。
因みに、この村上通総は師清>顕忠>義顕・顕長・顕忠の流れ、信濃村上系の後裔のようである。
■家康の命令で九州の海のない森藩に移動
通総の子である来島長親(後に康親)は1万4千石を有していたが、関ヶ原の合戦で西軍に参陣。西軍敗北となるも、長親の妻の伯父である福島正則の取りなしもあり家名存続し、慶長6年(1601年)、豊後森に旧領と同じ1万4千石を得て森藩が成立した。2代通春は、元和2年(1616年)、姓を久留島と改めた。
これでなんとなくパンフレットに記載された村上水軍の歴史が自分なりに整理できた。村上水軍と言えば、城山三郎さんの『武吉と秀吉』に登場する能島の村上武吉や、南北朝に南朝方として活躍した(伝説上の人物とも)村上義弘など魅力的な人物がいるのだが、それはそれとして、あまりに前置きが長くなった。とっとと散歩にでかける。
八千矛神社
桟橋脇に古き趣の八千矛神社がある。隣接して東側には御先神社、岩戸神社などが祀られている。神社にお参り。祭神は大己貴命(おほなむちのみこと)と日本磐余彦命(やまといわれひこのみこと)。八千矛神とは大国主神(おおくにぬしのかみ)の別名であり、大国主神=大己貴命である。 前述のパンフレットには「松山・道後湯築城の河野氏が城の守り神として、建立したと伝えられる」とある。
神社由緒はいくつかある。ひとつは「文治2年(1186)8月、河野出雲守通助が箱潟の島に城を築き、八千矛神社を奉祀した」との記述。河野出雲守通助は上でメモした、源氏挙兵にいち早く呼応した河野通清の子である。
「来島八千矛(くるしまやちほこ)神社は、松山・道後湯築城(ゆづきじょう)の河野氏が来島築城の時、守り神として建立したものだと伝えられています」ともある。「松山・道後湯築城(ゆづきじょう)の」という記述は、文字通りに解釈すれば、河野氏が湯築に移ったのは14世紀初頭であろうから、創建年数がグーンと遅くなる。もっとも、「松山・道後湯築城(ゆづきじょう)の」を{後に松山・道後湯築城(ゆづきじょう)の}と読めば、初めの記述とも違和感がなくなる。
期待していた、「えひめの記憶」には「南岸の八千矛神社は、来島築城と共にその守護神として建立されたものである」とあった。誰がという記述は省略されていた。
この由緒からは、はっきりとはわからないが、来島村上氏との関連性は見て取れず、伊予の河野氏が来島に城を築いたと読み取れる。河野氏も水軍で覇を唱えたわけで、この地に橋頭保を築いても不思議ではない。
心月庵
八千矛神社を離れ、来島城址へと向かう。神社から桟橋方向に北に戻り、道なりに進むと「来島村上水軍」の幟が立つところがT字路となり、そこに標識がある。左に折れると城址、そのまま進むと往昔の水軍が使ったと言われる桟橋を支えた柱穴が岩礁に残る、とのこと。
道を左に折れ民家の間を進み石段を上ると「来島城址」と刻まれた石標が立つ。石標の後ろは石垣が組まれている。結構最近築かれたような風情ではあったので、スルーしたのだが、一部築城当時の石組みも残るようである。
石垣を上に進むと村上神社と本丸跡があるようだが、その先に右に折れ来島城主の館であったと伝わる「心月庵」に向かう。本丸らしき一帯を見上げ、足元の草叢に、かつては本丸や館を護ったであろう堀割りを想像しながら進むと城主館跡があった。館の裏手は本丸より一段低い廓が前述パンフレットに見て取れる。東側には館を囲んだ土塁が残る、とか。城主館跡は現在、薬師如来が祀られる薬師堂となっていた。
村上神社
道を戻り、石垣から上に進み石段を上ると、小振りだが趣きのある鳥居があり、その先に村上神社が祀られていた。来島村上氏の祖霊社である。社にお参り。小振りな拝殿の奥に更に小振りな本殿があった。前述パンフレットを見ると、村上神社は二の丸とその東に一段低く比較的広い廓との境辺りにあるように見える。
本丸跡
社を後に本丸跡に向かう。来島城は島の東端、北から南にかけて続く細い尾根を活用し三の丸、二の丸、そして本丸を構えている。三の丸は平坦地と見えるが、二の丸は本丸に向かって上り勾配の構えとなっている。
左手は海に落ちる崖脇といった道を上るとほどなく平坦地。本丸跡である。広いところで30mといった台地形の構えに見える。
遺構といったものは残らず、鉄塔が建つのみである。本丸跡からは島の南の波止浜側や、北の「しまなみ海道」下を行き交う船舶が見える。来島海峡を扼する地であることを実感する。
上で、「文治2年(1186)8月、河野出雲守通助が箱潟の島に城を築き、八千矛神社を奉祀した」とメモした。伊予における新居氏との抗争、また水軍というか海賊衆としての勢力を有した河野氏が来島に城というか砦に築いたのではあろうが、来島村上勢としてこの島に城を築いたのは村上吉房とされる。応永26年(1419)のことである。室町幕府第4代将軍、足利義持のころである。
村上吉房は上でメモしたように、祖父を村上師清、父は義顕とし、長男雅房を能島(越智郡宮窪町)へ、次男吉豊を因島(広島県因島市)、三男吉房を来島(今治市)へと入城させ、能島・因島・来島の村上三家を成した、その三男吉房のことである。それはそれでいいのだが、この師清>義顕>良房といった北畠系の系図には、良房以降の記述がないのは前述の通りである。
ところで、本丸から周囲を眺めながら気になったことがあった。如何に渦巻く潮流に護られた自然の要害にしても、果たして、このような周囲1キロといった小島で制海権を抑えるといった「水軍」が機能するものであろうか。
チェックすると、16世紀頃に至って、来島村上氏は、本拠の城を来島城から西方の波方浦に移し、そこに館を構え、その館を中心に当地周縁の海岸部に複数の城砦を配置した。代表的な城は館の南の遠見山城や対岸の糸山城(現在の糸谷公園辺り)であるが、その他の主だった城砦としては、東岸部(波方港の北部)では大浦砦・長福寺鼻砦・対馬山砦、北岸部(波方港の北に突き出た半島部)では大角の砦・大角番所・天満鼻見張り台、黒磯城、西岸部(波方ターミナルがある西に突き出た半島部)では梶取鼻砦・御崎城・宮崎城などがあったとのことである。
「えひめの記憶」には「これら海城の特徴は、①瀬戸の狭小な水路中の島嶼に立地している。②急潮による難所を要害として利用している。③島全体を城郭として縄張りしている。④島の本城の周辺に本城防衛のための支城・番城・砦などが設置されている。この点の例を来島瀬戸の西口海中にある来島城にとると、城主来島村上氏の発展に伴い、対岸の波方浦を中心とする波方城砦群(波方城・黒磯城・御崎城・宮崎城・大角砦・梶取鼻砦など七砦、天満鼻見張台・大角番所・波方館・養老館など)を築き、一六世紀以降大根城を来島から波方に移している。⑤城の周囲に桟橋・船入りなどの繋船施設を備えている。⑥用水が欠乏している城の給水施設(井戸)を島外の海浜に持っている。これらの特徴をもった海城に、上記三城のほか温泉郡中島と怒和島の間のクダコ水道中の久多児城がある」とあった。これで「水軍」として覇を唱えた規模感が納得できた。
小島に渡る
城址を下り、定期船が到着するまで少し時間があるので、パンフレットにあった岩礁に残る桟橋を支えた柱穴跡を見ようと東海岸を歩く。途中幾体かのお地蔵さまが並ぶ地蔵堂にお参り。岩壁が切れるところまで進むが、満潮のため柱穴の跡を見ることはできなかった。
桟橋に戻り11時15分発の定期船を待つ。で、来島という周囲1キロの島ではあるが、あれこれ気になることが多くメモが長くなった。砲台要塞である小島のメモは次回に回すことにする。
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