スタート早々に計画の見直し。最初の予定では車を熊野本宮大社の駐車場に置き、バスで発心門王子まで行く。そこから熊野本大社に向って戻ってくる、ということであった。が、道路工事のためバスは走らない、との情報。タクシーに乗り、ぎりぎり道路封鎖を免れる。(土曜日, 11月 26, 2005のブログを修正)
2日目旅程;くまのじ>熊野速玉大社>熊野本宮大社>発心門王子>水呑王子>伏拝王子>三軒茶屋跡>祓戸王子>熊野本宮大社>渡瀬温泉 熊野瀬
発信門王子
発信門王子から熊野本宮大社までほぼ7キロ。標高314mから89mまでほぼ下り道。里山もあり鬱蒼とした森もあり、距離の割に変化の富んだ道。おおよそ3時間弱の散歩。発心門王子は五体王子のひとつ。11世紀初頭の文献にこの地に大鳥居があったと。それが発心門。「菩提心を発す門」。門前でお祓いをし、王子に参る。発心門は本大社への入り口であった。明治の神社合祀後、王子神社遺址の碑が立つだけであったが、近年整備され社殿が建てられている。
水呑王子
発心門王子からは舗装された道路。里山の風景を楽しみながら30分程度歩くと水呑王子。小学校分校の一隅に石碑が。古い記録には内水飲という記録も。12世紀初頭の記録に、この王子が新王子と。設置時期は平安末期だったのだろう。
伏拝王子
水呑王子から伏拝王子までは30分程度。森に入る。植林された杉林。森に深みはない。古道の森を抜けると伏拝地区の里山風景。遠くに三里富士。趣のある山容。伏拝地区は「伝馬所」として栄えたところ。標識に従って丘に登ると伏拝王子。ここまで来ると森が開ける。本宮旧社地・大斎原が眼下に、とはいうものの、はるか・かなた。
「はるばると さかしき峯を 分けすぎて 音無川を 今日見つるかな(後鳥羽上皇)」
あまりの感激に、「感涙禁じがたし」と、本宮を伏し拝んだ、というのが、この王子の名前の由来と。我ら、ほとんど歩いてもおらず、感慨起こるわけもなし。
石造りの祠の横に和泉式部の供養塔と言われる卒塔婆が。この王子中世の記録にはない。とはいうものの、和泉式部の伝説って日本全国にある。あり過ぎ。以仁王とか小野小町とか、それから花山院もしかり。熊野比丘尼とか高野聖とか、全国を遊歴するエバンジェリストが大きな役割を果たしたのだろうが、ともあれ、そのうちに伝説が全国に広がるプロセスをまとめてみよう。
三軒茶屋
で、伏拝の里を抜け、鬱蒼とした森。途中三軒茶屋。高野山を起点とする小辺路との合流点というか、分岐点。三軒茶屋を少し歩くと見晴台へのバイパス。少し坂を登るが、整備された公園から大斎原が見下ろせる。見晴台を下り、石畳の坂を下る。
祓所王子
伏拝王子からほぼ50分、標高差も250mから90mまで下ると祓所王子。熊野本宮大社のすぐ裏手、杉やイチイガシの林の中に石造りの小さな祠がある。ここは旅のけがれを祓い清める潔斎所。名前の由来もそこにある。で、熊野本宮の駐車場に戻り、今夜の宿に。2日目の予定終了。
薩摩守忠度
今日気になったことがひとつある。熊野本宮のすぐ近く、宮井のあたりを走っていると「薩摩守忠度の生まれたところ」って標識。子供のころから無賃乗車するときに、「さつまのかみ」をする、って普通に使っていた。が、今回の同行者、それほど若くない男性と女性の誰もが「そんなん知らん」とノタマった。そもそも、ただ乗り=忠度、で正しいのか、また、なにがきっかけで、この表現が刷り込まれたのであろうか:
「忠度=ただ乗り」は狂言にあった;狂言の「薩摩守」の内容はこんな感じ。(『世界大百科事典』より)
「住吉の天王寺参詣を志す僧が,摂津の国神崎の渡し場の近くまで来る。茶屋で休息し,代金を払わずに出て行こうとし,亭主にとがめられる。が,真実無一文と 知って亭主は同情し,この先の神崎の渡し守は秀句(洒落)好きなので,船にただ乗りできる秀句を教えようといい,まず〈平家の公達〉と言って,その心はと問われたら〈薩摩守忠度(ただのり)〉と答えよと知恵を授ける。さて,船に乗り船賃を要求された僧は,教えられたとおり〈平家の公達〉といい,秀句らしいと気づいた渡し守が〈その心は〉と喜んで問うと,〈薩摩守〉までは答えたが,〈忠度〉を忘れて苦しまぎれに〈青海苔(あおのり)の引き干し〉と答えて叱責される」。
ただ乗り=忠度、という表現はあった。狂言で使われ、どういう経路か、ただ乗り=忠度、ってフレーズを覚えていたわけだ。で、忠度さんってどんな人?ついでに忠度さんの人となりを調べておく。
1.熊野・宮井生まれの女性が鳥羽上皇の御所で働き平忠盛の恋人に
「雲居より ただ漏りきたる月なれば おぼろげにては いわじとぞおもう」
宮中にて忠盛とのことを噂され、中途半端な応答はしません、と。ただ漏り=忠盛、にかけた粋な歌。
2.宮井に戻り忠度を産む
3.忠盛の出世とともに、忠度も出世;忠盛の嫡男・清盛の弟として。
4.この忠度に恋焦がれたのが「立田腹の女房(弁慶の祖母にあたる人)」の娘。
5.話は、河内源氏の五代当主為義に遡る。
6.河内源氏の流れは;初代頼信>二代頼義>三代八幡太郎義家=義家の孫>五代為義
八幡太郎義家の孫河内源氏五代の為義は検非違使・六条判官などを歴任。
7.為義の目標は子供66人つくること。日本全国66余州に我が子を配置といった壮大な目標。実際は46名。長男・義朝は熱田神宮の大宮司の婿と結婚するなど所定の目標は達した、か。
8.為義は熊野別当の娘・立田御前と縁を結び、息子と娘をもうける;新宮で生まれ新宮で育つ。この娘が立田腹の女房。ちなみに、新宮十郎も為義と立田御前の間の子;立田腹の女房の弟。
9.立田腹の女房;熊野別当湛快と縁を結ぶ。ふたりの間の子供が湛増、娘は乙姫(とする)。ちなみに湛快は清盛に京都進軍を勧めた人。
10.立田腹の女房は湛快が亡くなると、行範という熊野の神職と再婚。生まれた子供・行快も別当に。
11.乙姫;行快と結婚。兄弟が結婚!?。
12.しかし、乙姫は行快と別れ、京都へ。お目当ては平家の御曹司;薩摩守忠度であった。
13.忠度の最後;一の谷の合戦で華々しく討ち死に。これも、どこで覚えたのか分からないが、小学唱歌「青葉の笛」の2番に忠度最後の姿が歌われている。
1.一(いち)の谷の 軍(いくさ)破れ
討(う)たれた平家(へいけ)の 公達(きんだち)あわれ
暁(あかつき)寒き 須磨(すま)の嵐(あらし)に
聞こえしはこれか 青葉(あおば)の笛
2.更(ふ)くる夜半(よわ)に 門(かど)を敲(たた)き
わが師に託(たく)せし 言(こと)の葉(は)あわれ
今(いま)わの際(きわ)まで 持ちしえびらに
のこれるは 「花や 今宵(こよい)」の歌
一番は同じく一の谷で戦死した平の敦盛の笛の故事。2番が忠度。
一の谷の合戦が近づいたある夜、陣を抜け出し京の歌の師・藤原の俊成に自作の歌を手渡す。
俊成に託された歌の中から「千載和歌集」に選ばれた歌;
「さざなみや 志賀の都は荒れにしを むかしながらの 山さくらかな」
また、討ち死にしたとき、えびらに結んだ辞世の句「旅宿の花」:
「行きくれて 木の下かげを宿とせば 花よ 今宵のあるじならまし」
ただ乗り=忠度、というのは結構失礼な、上質の人物であったよう。
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