先日、旧中川を歩いた時、荒川放水路で切り離された中川に合流する綾瀬川に出合った。2004年と2010年の水質ワーストワンといったあまり有り難くないタグ付けされたこの綾瀬川であるが、この川は江戸の頃、利根川の東遷事業や荒川の西遷事業が実施される以前に江戸に流れ込んでいた利根川・荒川水系の本流であった。当時の利根川・荒川は現在の綾瀬川源流点の近く、桶川市と久喜市の境までは元荒川筋の流路を下り、そこからは上尾、さいたま、越谷、草加へと現在の綾瀬川の流路を下っていた、と言う。草加から下流の川筋は流路定まることなく、洪水の度に川筋が変わる氾濫原の低湿地帯であった、とか。綾瀬川の名前の由来が、流路定まることのない、「あやし川」から、との所以でもある。
歩くこともままならないこの低湿地帯を北に進むには、氾濫原を蛇行する河川の自然堤防を辿ったのではあろうが、慶長11年(1606)には大川図書が草加の地の茅野を開き、沼を埋めて、八潮の八条、大相模へと大きく東に迂回していたそれまでの奥州街道をまっすぐに越ヶ谷に進む新道を開いた、と。また、江戸に入ると、代官伊奈氏により足立郡内匠新田(足立区南花畑)から葛飾郡小菅(小菅)に、流量を調節すべく新たに水路を開削した。これが現在の綾瀬川の水路となっている。
その後、五街道制定にともない、寛永7年(1630年)に草加宿の設置が決まる。これに合わせ、天和3年(1683年)に蒲生大橋(東武伊勢佐木線新田駅の北東)辺りから九十九曲がりと称され、千々に乱れる綾瀬川の流路の直線化工事を行った。直線化工事とは、この蒲生大橋から古綾瀬川との合流点辺りまでの一直線になった綾瀬川の区間ではあろう。綾瀬川と平行する日光街道の松並木で知られる区間でもある。当時の日光街道(奥州街道)は、江戸付近の千住宿から、いったん東に回って松戸宿を経由し、西に戻って越ヶ谷宿に出てから北に向かっていたが、これ以後、日光街道は一部綾瀬川沿いを通るようになった。
中・下流域では千々に乱れる綾瀬川であるが、それでもその流路としては、一筋は足立区花畑あたりから東へと向かい、松戸の近くで江戸川に流れ込んでおり、そして、もうひと筋は水元公園の辺りから中川筋(といっても、開削される前の古利根川の細流)へと下ったようであると、先日の中川散歩でメモした。その時は草加辺りを直線に下る綾瀬川が江戸の開削工事の結果ということがわかっておらず、綾瀬川の乱流は花畑辺りから下流かとも思ったのだが、実際はもっと上流、草加の蒲生大橋の辺りからはじまっていたようである。
地図を眺めていると草加の蒲生大橋の辺りから蛇行を繰り返す川筋跡が目に止まった。川の名前も古綾瀬川とある。これはもう実際に歩き、古い綾瀬川の川筋を辿るべしと、とある週末、草加へと出かけることにした。
本日のルート;東武伊勢崎線・新田駅>金明・鳩ヶ谷線>閻魔堂跡>金明通り>稲荷神社>田中家ふるさとの森>天満宮>松森稲荷>金明氷川神社>宝積寺>綾瀬川>綾瀬大橋>蒲生大橋>蒲生の一里塚>藤助河岸>古綾瀬川暗渠>葛西用水>八幡神社>浅井家ふるさとの森>外環状道路>厳島神社>観正院>女軀神社>谷古田用水>草加宿松並木>東武伊勢崎線・松原団地駅
東武伊勢崎緯線・新田駅
古綾瀬川の川筋跡が現在の綾瀬川から分かれる蒲生橋の最寄りの駅である東武伊勢崎線・新田駅に向かう。草加駅、松原団地駅を越え新田駅で下車。駅名の由来は、江戸の頃盛んに開墾された「新田」から。元禄から亨保(きょほう)までの田を「古新田」、以降のものを「新田」と称するとのことだが、明治になり9ヵ村を合併して誕生した村のうち、6ヵ村が近世開発新田だったところから「新田」と命名し駅名にもなった、とか。
明治13年(1880)の草加の地図を見るに、新田駅の西には、綾瀬川に沿って南から「九佐衛門新田(現在の旭町;以下同じ)」「金右衛門新田(金明町)」「長右衛門新田(長栄町)」「新兵衛新田(新栄町)」「九左衛門新田(旭町)」、その南、伝右川に沿って北から「清右衛門新田(清門町)」「善兵衛新田(新善町)」「弥惣右衛門新田(栄町)」と確かに、九つの新田が記されている。奇妙なのは現在の綾瀬川の東には「新田」と名のつく地名はほとんど見あたらない。新田駅周辺に限らず草加市域全体を見ても、新田と名前のついた地名は綾瀬川の東だけである。そもそも伝右川は17世紀の前半、鈎上新田(現・さいたま市岩槻区)の伝右衛門により、新田開発を目的として開削された河川であり、一帯の低湿地の悪水を落とし新田開発を容易にしたものであるわけで、新田が多いには当然ではあるか、とも。
ということで、新田跡の「今」が如何なるものかと、新田駅を下りて、すぐに駅の東にある蒲生橋の古綾瀬川流路の分岐点へと進む前に、新田駅の西側を彷徨うことにした。
閻魔堂跡地
駅の西口側に下り、成り行きで県道328号・金明・鳩ヶ谷線を進む。この辺りの金明町は昭和33年(1958)の市制施行の際、大字である「金右衛門新田」を改めたものである。
金明・鳩ヶ谷線を進み、北に折れて新田幼稚園の手前に閻魔堂跡地。上組・下組・八木組の三組からなる金右衛門新田のうち、八木組持ちの閻魔堂があったところ。昭和60年(1985)に取り壊されたとのことだが、なんらかの名残でも、と訪れるも、なにも、なし。
稲荷神社
幼稚園前の道を北に進むと金明通りに当たる。通を西に折れ、少しすすみセブンイレブンの手前を入り用水路跡らしき道筋を進む。この用水路跡は「川戸落し」と呼ばれる用水路に繋がる、とか。川戸落しは草加市の北端、川口市との境にある新栄団地辺りから先ほど駅から辿った県道328号をもう少し西に進んだ新田小学校辺りに向かって下る、とのことである。
それはともかく、用水路跡の暗渠を先に進むと誠にささやかな祠。祠の中にお狐さまに跨る宇迦之御魂命を描く掛け軸が架かる、とか。掛け軸には「笠間稲荷」の印がある。この祠は江戸末期のもの、と言う。
この辺りも昭和40年(1965)頃までは一面の田畠であったとのことだが、現在では周囲を宅地で囲まれ、神社の廻りに畑地が残る、のみ。
天満宮
稲荷神社から成り行きで北に進み、屋敷林(「ふるさとの森田中家屋敷林」)などを眺めながら東に折れ用水路跡とおぼしき暗渠を進むと天満宮(金明町1212)。明神鳥居をくぐると、右側には4つの石仏が並んでいる。一番左の六十六部供養塔。寛政元年(1789)と刻まれている。
六十六部供養とは法華教六十六部を書き写し、全国六十六カ所の霊場に一部ずつ奉納して廻ること。その巡礼または遊行の僧を六十六部(六部とも)と称し、白衣に手甲・脚絆・草鞋がけ、背には阿弥陀尊を納めた長方形の龕(がん)を負い、六部笠をかぶった姿で諸国をまわった。
六十六部は物乞い、行き倒れも多く、その場所には六部塚がつくられた。この供養塔がこのような六部僧の供養のためのものか、巡礼を終えた六部尊の記念のためにつくられたものか、どちらだろう。左から二番目の地蔵菩薩には、宝永4年(1707)と刻まれている。あと右二つの石仏は崩れて刻字は不明であった。社ヒノキの柱が立派な瓦葺、寄棟造の社殿の姿は御堂のようにも見える。内部に本殿が納められているのだろう、か。社殿は新しく、昭和53年(1978)に再建された、とか。
松森稲荷
天満宮から西に進み、長栄町と金門町の境の道を少し南に下り、新田中学校・長栄小学校に折れる隅に茅葺きの屋根をもつ松森稲荷がある。創立は不詳であるが、この辺りから西側の長右衛門新田(現在の長栄町)は元和・寛永(17世紀の前半から中頃)の頃の開発であるので、この社はそれ以降のものではあろう。長栄町は北を綾瀬川、南を清門町と新栄町、西を川口市との境あたりで綾瀬川まで町域を拡げた新栄町、東を金明町に囲まれた一帯である。
金明氷川神社
長栄町と金明町の境の道を北に進む。長栄町の北端、T字路を右に折れ金明町を200mほど進むと、旭神社がある。通称金明氷川神社と称される。もとは氷川の社であったものが、明治40年にこの近隣36の社を合祀し旭神社と改めた。社の創建は不詳。境内の石碑に明和2年(1765)、享保9年(1724)と刻まれており、金右衛門新田の鎮守であるとすれば、この頃の創建であろう、か。鳥居には藁で編んだ注連縄を絡ませている。蛇ねじりの行事は豊作と悪疫退散を願った神事とのこと。町内を4組に分けて注連縄つくりを担う、とのこと。注連縄の頭は当番となった地域に向ける、とのことだが、どこが蛇の頭なのか、いまひとつわからなかった。
また、この社には算額が奉納されている。案内によれば、江戸から昭和にかけて、和算家が解法を祈願、また祈願成就の御礼に奉納したもの。全国に数百、埼玉に90ほどの算額があるとのことであるが、この社の算額は埼玉で7番目に古いもの、とか。草加地方の和算家として大川図書の名前が記してあった。上でメモしたように大川図書って、それまで大きく東に迂回していた奥州街道を、茅野を開き湿地を埋めて、越ヶ谷に向かってまっすぐな新道を開いた。また、草加の地に宿駅を置くように幕府に願い出て、周辺9ヶ村で恆成する草加宿を開いた人物と言われる。土木工事に算術を活用したのだろうか。神社の裏手には綾瀬川が流れ、川底から縄文時代の丸木舟が出土している。
宝積寺
氷川の社から200mほど東に進むと宝積寺。創建は慶長年間(1596-1615)とのこと。このお寺さまは千体地蔵が知られる。案内によると、境内の地蔵堂に祀られているようであり、あちこち境内を彷徨うが、それらしきものは見あたらない。結局は本堂の中に祀られていた。ほの暗い本堂の奥に並ぶ千体地蔵を目をこらして眺め、そしてお詣りを済ます。
案内によれば;宝積寺は金明山と号し、本尊に、弥陀を安置する新義真言宗の寺である。当寺の千体地蔵は、境内に新築された地蔵堂に安置されており、須弥壇中央に本尊の勝軍地蔵及び両脇侍地蔵を置き、その周囲に1列50体、20段にわたって千体の小地蔵を並列している。
本尊の勝軍地蔵は鎧、兜に身を固め、右手に錫杖、左手に宝珠を持ち、白馬に騎乗する姿の寄木造、彩色からなり総高40.5cmである。両脇侍の地蔵は、ともに一木造、彫眼、色彩からなり、像高は約39.4cmで、右脇侍は黒衣を、左脇侍は朱衣をまとっている。また、千体の小地蔵は、平均像高23.0cmほどで、概ね黒衣をまとうが、うち横1列10体毎に、数を計る目安にするためか、朱衣の地蔵を置く。
この千体地蔵の構造は、だいたい一木造、彫眼、色彩からなるが、一部に薄材を前後二材寄せ、足先を別につけた寄木造のものがある。これは、後世の補作によるものとも思われる。
千体地蔵は、地蔵菩薩が六道に苦しむ衆生を教化するため分身した有様を造形化したもので、中世を頂点にかなりの作例がある。この宝積寺の千体地蔵は、作風から見て江戸時代後期頃の造立と見られるが、今日までほぼ完備した姿で伝えられているのは珍しく、貴重な存在である。
なお、その後の地蔵堂改築により、現在は左右2箇所に別けられて安置されている(草加市教育委員会)」、と。境内に新築された地蔵堂、って見つけることができなかったのだけど。。。
蒲生大橋
宝積寺を離れ、綾瀬川の堤を進み東武伊勢崎線を潜り、県道49号・日光街道に掛かる綾瀬橋を越え蒲生大橋に。橋の真ん中が市境となっており、対岸は越谷市である。ここは天和3年(1683年)、関東郡代・伊奈半左衛門が九十九曲がりと称され、千々に乱れる綾瀬川の流路の直線化工事を行った北端。今から辿る改修前の綾瀬川(古綾瀬川)は蒲生大橋の東詰め辺りから蛇行を繰り返し、東へと向かい、葛西用水の手前あたりで流路を南に替え、蛇行を繰り返しながら南西へと向かい、草加駅の北東辺りで綾瀬川に合流している。
直線化工事とは、この蒲生大橋から古綾瀬川との合流点辺りまでの一直線になった綾瀬川の区間ではあろう。綾瀬川と平行する日光街道の松並木で知られる区間でもある。
昔の日光街道はここで綾瀬川の東側に移っていたようであり、この地に土橋が掛かっていた、とのこと。文化3年(1806) の『日光道中分間絵図』には大橋土橋と記され、長さ12間4尺、幅2間1尺であった、とか(一間は六尺;一間はおよそ1.8m)。
蒲生の一里塚
橋を渡ったところに「蒲生の一里塚」。案内によると;「文化年間(1804~1818)幕府が編纂した『五街道分間延絵図』には、綾瀬川と出羽堀が合流する地点に、日光街道をはさんで二つの小山が描かれ、愛宕社と石地蔵の文字が記されていて、「蒲生の一里塚」が街道の東西に一基づつ設けられていたことがわかる。現在は、高さは2m、東西幅5.7m、南北7.8mの東側の東側の一基だけが、絵図に描かれた位置に残っている。
また、塚の上にはムクエノキの古木・太さ2.5mのケヤキのほか、マツ・イチョウが生え茂っている。多くの塚が交通機関の発達や道路の拡幅などによって姿を消した中にあって、『蒲生の一里塚』は埼玉県内日光街道筋に現存する唯一の一里塚である(埼玉県教育委員会 越谷市教育委員会)」、と。出羽堀とは二代将軍秀忠の頃、越ヶ谷の土豪である会田出羽が越谷の出羽地区の沼沢地を干拓し開削した水路。地図を見るに、北越谷の県民福祉村公園から南越ヶ谷駅に向かって南東に下り、駅の手前で南に流路を替える水路らしきものが見てとれる。蒲生の一里塚の南で綾瀬川に合流する水路があり、一里塚を挟んで北に水路、そしてその先に緑道らしきものがあある。これが現在の出羽堀ではあろう。
藤助河岸
蒲生の一里塚から綾瀬川に合流する出羽掘を越えると、蒲生大橋の袂に藤助河岸跡がある。「地酒 越ヶ谷宿」の看板が掛かる古き風情の店舗が河岸の名残を伝える。綾瀬川の堤にある案内によれば、「綾瀬川通りの蒲生の藤助河岸は、高橋藤助氏の経営によるもので、その創立は江戸時代の中頃と見られている。当時綾瀬川の舟運はことに盛んで年貢米はじめ商品荷の輸送は綾瀬川に集中していた。それは延宝8年(1680)幕府は綾瀬川通りの用水引水のための堰き止めを一切禁止したので、堰による荷の積み替えなしに江戸へ直送できたらで、以来綾瀬川通りには数多くの河岸場が設けられていった。
明治に入り政府は河川や用水路普請に対する国費の支給を打ち切ったので、とくに中川通りは寄洲の堆積で大型船の運航は不可能になり中川に続く古利根川や元荒川の舟運は綾瀬川に移っていった。
この中で陸羽道中(旧日光街道)に面した藤助河岸は地の利を得て特に繁盛し、大正2年(1913)には資本金5万円の武揚水陸運輸株式会社を創設した。当時この河岸からは、越谷・粕壁・岩槻などの特産荷が荷車で運ばれ、高瀬船に積み替えられて東京に出荷された。その出荷高は、船の大半を大正12年の関東大震災で失うまでは、年間18,000駄着荷は20,000駄以上に及んだといわれる。この河岸場は昭和初期まで利用されていた。なお、ここに復元された藤助河岸場は、藤助18代当主高橋俊男氏より寄贈されたものである(越谷市教育委員会)」、と。
綾瀬川の舟運が盛であったのは、蛇行が多く、蛇行が多いということは水流がそれほど激しくもなく水量も安定していた、ということと、そして、延宝8年(1680)に幕府が綾瀬川用水堰禁止令が発布し、綾瀬川に取水堰がなくなり、往来の妨げがなくなったこと、それに天和3年(1683年)代官伊奈半左衛門により、乱流する綾瀬川を改修し、直線に南に通したことなどがその要因のようである。
■古綾瀬川を辿る
谷古田河畔緑道
さて、やっと本日の目的である古綾瀬川を辿る出発点にやってきた。とはいうものの、古綾瀬川の始点がどこにあるのかはっきりしない。藤助河岸辺りを彷徨い、水路跡らしきところを探すと、綾瀬川から北東に延びる下水溝が目に付いた。なんらかの「展開」があるものかと先に進むと緑道というか親水公園といった風情の水路に出た。これが古綾瀬川かと少しすすむと案内があり、「谷古田河畔緑道」とあった。
谷古田河畔緑道は越ヶ谷駅の東、葛西用水や八条用水を分ける瓦曽根溜井から取水した谷古田用水の岸を整備したもの。流路を見るに、葛西用水に沿って小さな水路が南に下り、JR武蔵野線を越えた先から南西に流路を変え、蒲生大橋に向かって進む。これがここの案内の辺りである。谷古田用水はここで再び流路を変えて、南東へと下ってゆく。
古綾瀬川跡
谷古田用水には出合ったのだが、古綾瀬川の流路は何処?と再び彷徨う。と、谷古田用水が流路を南東へと下る、と言っても道路に埋められており、川筋などないのだが、ともあれ、谷古田用水が流路を変えるポイントの民家の裏に開渠となったささやかな水路がある。これが現在の古綾瀬川の水路ではあろう。民家の間をささやかな開渠が蛇行を繰り返し東へと進む。
水路脇に道があるわけでもないので、付かず離れず水路脇を進むと、ほどなく暗渠となる。暗渠のを覆う蓋の上を進む。公園脇を大きく迂回すると再び開渠となり県道115号、通称産業道路に当たる。
県道115号を越えると水路は北東に向かって蛇行を繰り返し進む。県道115号を越えると水路脇に道があり、水路を見ながら先に進む。ほどなく宅地開発された一画に広い農地が現れる。農地の真ん中の緑は屋敷林であろう、か。水路は農地に沿って大きく迂回し葛西用水手前で流離を南東に変え、葛西用水に沿って下る。
流路を地図で辿るに、蛇行を繰り返す古綾瀬川の流路が草加市と越ヶ谷市の市境となっている。川が行政区の境というのはよく見かける。昔の村境が現在の行政区境に反映されているのではあろう。
葛西用水
葛西用水は埼玉県羽生市の川俣で利根川から取水され、加須市・鷲宮町・久喜市・幸手市・杉戸町・春日部市・越谷市・東京都足立区へと続き、足立区からは曳舟川となる。全長70キロ。見沼代用水(埼玉)、明治用水(愛知)とともに日本三大用水のひとつと言われる。
この葛西用水は、自然の流路と溜井という遊水池を組み合わせた関東流の送水路のつくりをその特徴としている。流路については、羽生から加須までは人工的に開削されているが、加須市から下流は、利根川の東遷・荒川の西遷事業により取り残された河道跡や廃川を整備しその流路がつくられている。大雑把に言って加須市大桑から川口までは「会の川」、川口から杉戸までは「古利根川」、杉戸から越谷の瓦曽根溜井までは「大落古利根川」、「元荒川」の河道を使っている、ということだ。
もうひとつの葛西用水の特徴である溜井とは、農業用の溜池といったもの。川のところどころの川幅を広げるなどして、水を溜め灌漑に使っていた。瓦曽根溜井と松伏溜井。松伏溜井は古利根川にある。葛西用水はその松伏の地から南西に一直線に下り、新方川を横切り、越谷の市役所の少し上で元荒川に合流している。
葛西用水は曽根溜井から下流は「東京葛西用水」とも呼ばれている。流れは、南東にほぼ一直線に草加市・八潮市を貫き、足立区の神明に下る。神明から先は、先日散歩した曳舟川の川筋となり、足立区を南下。葛飾区亀戸からは南西に流路を変え、四ツ木で荒川(放水路)を越え(といっても荒川放水路が人工的に開削されたのは、昭和になってから)、墨田区の舟曳・押上に続いている。 葛西用水は関東郡代・伊那氏によって開発された。万治3年(1660年)のことである。
八幡神社
道脇に佇む馬頭観音や石碑だけの「男体八幡神社」などにお詣りをしながら葛西用水脇を進む。ほどなく東に折れ葛西用水から離れた古綾瀬川が再び南に向かって流路を変える辺りに八幡神社がある。
この社は旧槐戸(さいかちど)村の鎮守。本殿と拝殿は天保2年(1831)の造立、とか。神社建築と仏堂建築が合わさった建築手法、とのことではあるが、門外漢にはその有り難みはよくわからない。境内には稲荷社、御嶽山、雷電社の祠が合祀される。槐戸村の由来は、さいかちの木が古綾瀬川の津に生えていた、とか、村に侵入する疫病を防ぐ「塞(さい)の神」による、とか諸説ある。
「浅井家屋敷林ふるさとの森」
八幡神社を離れ、水路に沿って八幡北小学校脇を進むと、左手に屋敷林が見える。ちょっと川筋を離れ屋敷林に向かう。「浅井家屋敷林ふるさとの森」とのこと。とは言うものの、個人のお宅のようであり、外から欅やシラカシ、スダジイが茂る屋敷林を眺めることにする。風格ある母屋や玄関は安政年間(19世紀中頃)のもの、とか。
綾瀬川放水路
水路に戻り、南に下る。草加高校の西を進むと水路は外環状線(東京外郭環状道路)の側水路となっている綾瀬川放水路に合流するかたちで一旦断ち切られる。綾瀬川放水路への合流地点で古綾瀬川はふたつに分かれ、ひとすじは左に分岐し、網一筋は古綾瀬川上流排水機場へと向かう。何の根拠もなく単なる想像なのだが、左に分岐するのが北側の放水路、排水機場へと向かうのが南側の放水路なのではなかろう、か。
綾瀬川放水路は平成4年(1992)、外環状線の建設と平行して計画されたもの。川幅が狭く、洪水を流下させる能力の低い綾瀬川の洪水被害を防ぐため綾瀬川の水を中川に流すべく平成4年(1992)には北側の放水路、平成8年(1996)には南側の放水路が完成した。地下には貯溜槽もある、と言う。北側放水路と南側放水路の役割の違いなど、よくわからないが、単に放水量を大きくするためのものか、とも。因みに平成3年(1991)草加市内で11,000件あった床下浸水の被害は平成8年(1996)には913件まで減少している、とか。
厳島神社
外環道路を越えて、さて次はどこに、と少々迷う。後からわかったのだが、外環道路を東に進んだところから古綾瀬川が南に下り、途中で流路を南西に向け草加駅の北東の辺りで綾瀬川に合流していた。それを見逃し、先ほど古綾瀬川が外環にそった中川放水路に合流したとき、てっきり古綾瀬川の川筋はそこでお終い、と思い込んでしまった。なりゆき任せの散歩のため、後の祭りが結構多いのだが、今回も「懲りない」ケースのひとつ、となった。
で、結局、次の目的地としたのが厳島神社。鬼瓦に結構怖い蛇の装飾が施されている、との話に惹かれ訪れることにした。外環道路を越えて南東に、八幡小学校脇を下る。小学校を越えた辺りに水路が残る。地図でチェックすると古綾瀬川に繋がっている。先に進み「槐戸入口バス停」近くの交差点を右に曲がり厳島神社に。社殿にお詣りし、屋根に目をやり怖そうな鬼瓦を探すも、それらしき趣の瓦を見付けることができなかった。ひょっとすれば拝殿の奥の社殿にあったのか、とも想うのだが今となっては、これまた後の祭りのひとつ、である。
天保12年(1727)建立の石の幟立ての残るこの社には厳島神社ならではの、「弁天」さまの伝説が残る。案内によると、「その昔、水中で連なる光が昇るという不思議な沼があった。その正体を確かめるべく村人が沼に行くと、光の昇る沼底に一体の弁天様が沈んでいた。村人はそれを拾い上げ祠にお祀りした。また、その沼には篠竹が生い茂っており、竹が生い茂る近江の竹生島に則り、この地を篠葉村、沼を宮沼と呼ぶようになり、慶長10年(1605)には一院を建立、沼は拓かれ田畠となった」、と。もっとも、篠葉の「シノ」には「湿地」の意味があり、「シノバ」とは「湿った場」ということで、沼や湿地の多い土地、というのがその地名の由来との説もある。
ついでのことながら、厳島神社へ曲がった辺りに「槐戸バス停」があった、と上でメモした。先ほど訪れた八幡神社は槐戸村の鎮守であるが、槐戸村って、八幡神社の辺りからこのバス停辺りまで、現在の八幡町が昔の槐戸村の範囲ということである。
観正院
少々アンバランスほど長い参道を抜け、社の隣にある観正院に。創建は慶長10年(1605)。当時は東照寺と称された。その後元和3年(1617)に東正寺と改称。同年東照大権現となった徳川家康に「遠慮」しての改称だろう。明治41年(1908)、槐戸村にあった観音院と合併、両寺の名前を合わせ「観正院」とした。お寺さまの名前にもあれこれとポリティックスが働いている、ということだろう。新しい風情の本堂は昭和41年(1966)に解体修理されたもの。境内には寛文2年(1662)の地蔵堂と、延宝6年(1678)の大師堂がある。地蔵堂には篠葉村の37名が庚申供養のため造立した地蔵立像が祀られている。
女體神社
観正院を離れ、成り行きで西に向かい県道115号(産業道路)に。そこを少し北に上り、草加八幡郵便局のある交差点を左に折れ、先に進むと道脇にささやな社。鳥居には女體神社とある。旧中曽根村(現在の中根町)の鎮守で、創建は不詳ではあるが、享保年間(19世紀前半)には社があったようである。境内には雷電神社、笠間神社、御嶽神社の小祠が合祀されている。
谷古田親水公園
そろそろ家路への時間。女體神社を離れて西に向かうとほどなく水路に出合う。親水公園のようである。思うに、古綾瀬川散歩のスタート地点で出合った谷古田河畔緑道の水路ではあろう。
上でメモしたように、谷古田用水は越ヶ谷駅近くの瓦曽根溜井から取水し、谷古田領(現在の草加市と川口市)を灌漑し、流末は古綾瀬川に落ちていた。瓦曽根溜井からの取水がはじまったのは延宝8年(1680)の綾瀬川用水堰禁止令にまで遡る。それまで谷古田領の用水は、蒲生村(現.越谷市蒲生)に堰を設けて綾瀬川から取水していたのだが、綾瀬川に堰を設けることが禁じられたために、瓦曽根溜井を新たな水源とした、ということである。
ところで、この「谷古田」であるが、もともとは「谷古宇」であったようである。江戸時代後期の地誌『新編武蔵風土記稿 足立郡之四』の谷古田領本郷村(現在の川口市本郷)の項に、この矢古宇郷について次のような記述がある;「本郷村ハモト谷古田郷ト唱ヘシヨシ云伝フレバ、其本郷タルコト知ベシ。按ルニ鶴岡八幡宮ニ蔵スル古文書及ビ東鑑ニ武蔵国矢古宇郷ヲ鶴岡社領ニ寄進アリシ由載タルハ、則此邊ノコトナルベシ。今此領ニ属スル村ニ谷古宇ト称スル所アリ。是古ノ遺名ニシテ舊クハ此邊スベテ矢古宇郷ト唱ヘシヲ、後イカナル故ニヤ谷古田ト改メ、今ハ領名トナリシナラン」、と。
谷古田郷とは『東鑑』に、承久3年(1221年)鎌倉の鶴岡八幡に寄進されという50町の矢古宇郷(草加市神明)のことであり、何故か後世、矢(谷)古宇が矢古田に改められた、とある。鎌倉時代の谷古宇郷の地頭の名に谷古宇右衛門次郎の名が残る。また、谷古宇という姓は全国に1200ほどあると言うが、その40%から50%は埼玉にある、とのことである。因みに、「谷古田」という姓は見あたらない。
ついでのことであるが、先日、草加の南を区切る毛長川流域を辿ったことがある。そのとき毛長川に沿って、足立区の竹の塚に伊興遺跡があった。毛長川流域に古代栄えた一帯であり、埼玉古墳群の先駆けとなるような豪族の存在があった、とのことであるが、それよりなにより、この「伊興」は「伊古宇」であり、「伊古宇」も「矢(谷)古宇」も同じ意味、というかどちらか一方から音が変化したもの、との説がある。「い」も「や」も「湿地」を著す、とか。「古宇」は市川の国府台(こうのだい)に代表される「国府」とも。湿地にある国府のような政治の中心地の意味、と言う。その説が妥当か否か、門外漢には判断できないが、鎌倉時代の『東鑑』に伊興遺跡や伊興古墳群が存在する足立区伊興を管轄する地頭として「伊古宇又二郎」の名が登場する。伊古宇も矢古井戸も地元の有力者であったことは間違いないようだ。
草加松原
谷古田親水公園を越え、綾瀬川に。綾瀬川に沿って松林が続く。この辺りは上でメモした天和3年(1683年)に伊奈半左衛門がおこなった綾瀬川直線化工事の区間。綾瀬川に沿って日光街道が通る。日光街道に沿っておよそ1.5キロ、江戸時代より「草加松原」「千本松原」と呼ばれる名所となっていた。松並木は天和年間の開削工事に合わせ日光道中を開削した時に植えた、とも言われるが、
寛延4年(1751)成立の『増補行程記』(盛岡藩士清水秋善筆)には松並木は描かれてはいないとかで、寛政4年(1792)に1230本の苗木を植えたということが記録に残る。文化3年(1806)完成の『日光道中分間延絵図』には街道の両側に松林が描かれている。
松原団地駅
日も暮れてきた。草加松原散歩は次回に回し、本日の散歩はここまで。綾瀬川から急ぎ足で東部伊勢崎線の松原団地駅に進み、一路家路へと。
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