東京下町散歩 墨田区 (1); 墨田区中央部

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墨田区中央部・北十間川から隅田川沿いの微高地に 墨田区散歩の第一回は墨田区中央部・北十間川から隅田川沿いの微高地を歩くことにする。 墨田区の地形をかんたんにまとめておく;中世のころの臨海部は大体、北十間川のライン。隅田川のまわりは砂州というか微高地が南に延びている。向島あたりから下に「牛島」と呼ばれる大きな島、というか細長い砂洲が南に総武線あたりまで延びている。一大湿地帯であった墨田区が現在の姿のようになるには、江戸の明和年間の都市計画というか埋め立て・開発を待つことになる。明暦の大火を契機に本所地域の開発が計画され、本所築地奉行の指揮のもと、堅川(たて川)、横川、十間川、北十間川、また両国地区の六間掘、南割下水、石原町入掘などが開削される。その揚げ土による埋め立てがおこなわれ、現在の墨田区の中央部・南部である本所・深川地区が人の住む地域に生まれ変わる。 隅田?墨田区?どっちだ?隅田川が最初に文献に登場するのは承和2年の太政官符。「武蔵・下総両国境、住田(すだ)河」とある。また伊勢物語の東下りの一節に「武蔵と下総の中に有る角田(すみだ)川の堤におりいて、思い侍るに。。。」とある。また「すだ」とも読まれ「須田」「墨田」「州田」とも書かれた。江戸時代には元禄には「須田村」。天保時代には「隅田村」と表記されている。明治になると、隅田村そして隅田町に。
これほど広く使われた隅田が区の名前に使われず、墨田区となったのは、昭和22年(1947年)3月15日、北部区域の「向島区」と南部区域の「本所区」が合併して、新しい「区」が誕生することになったとき、隅田区とする計画が頓挫。隅が当用漢字になく「隅田」が使えなかったわけだ。また、墨田はもともと使われてきた墨田ではなく、合成語。隅田川堤の異称「墨堤」の「墨」と、「隅田川」の「田」から2字を選んだ、とか。わかったようでわからない
墨田区散歩に向かう。大体のルーティングは、墨田区中央部、というか中世の海浜部を東から西に隅田川まで進み、そこからは隅田川沿いの微高地を南から北に登り、古代からの交通の要衝・「隅田宿」あたりまで進む、といったところ。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)





本日のルート: 総武線・亀戸駅 > 横十間川 > 北十間川 > 浅草通り・押上 > 三つ目通りから「言問橋東詰め」に > 牛嶋神社 > すみだ郷土資料文化館 > 三囲神社 > 水戸街道・秋葉神社 > 長命寺 > 白髯神社 > 隅田川神社 > 木母寺 > 北千住駅

総武線・亀戸駅から横十間川に
総武線・亀戸駅で下車。西に進み横十間川」を北に。「横十間川」のメモ;横十間川は北十間川から別れ堅川、小名木川とクロスし、仙台堀に合流する水路。仙台掘との合流点は二十間川とも呼ばれる。北十間川から小名木川までは水面が残るが、その南は「横十間川親水公園」となっている。川幅が十間(18m)であったことが名前の由来。本所・深川地区開発の万治2年(1659年)に開削された。

北十間川
直ぐに「北十間川」と合流。合流点に柳島橋。ここからは北十間川に沿って「浅草通り」を西に進む。隅田川と中川をつなぐこの北十間川のラインが古代から中世にかけての海岸線、と言われている。つまりは、墨田区の大半は一大湿地帯ということ。左手に広がる一大湿地帯を想像しながらのんびり歩く。

浅草通り:業平橋・押上
北十間川にそって浅草通りを業平3丁目、4丁目と進む。地名の由来は江戸時代にこのあたりに業平天神社がまつられたことによる。とはいうものの、現在その名の神社は見当たらない。業平の名はいわずと知れた伊勢物語の在原業平(ありわらのなりひら)による。
先に進む。四ツ目通りとの交差が「押上」。「押し上げ」って、隅田川というか中川というか江戸川というか、流路を銚子方面に付け替える前の利根川河口に流れ込み堆積される土砂、その堆積するさまがよく表される地名である。

三つ目通りを北に折れ、言問橋東詰めに

業平1丁目を越え、大横川跡に。現在は大横川親水河川公園となっている。浅草通りと大横川のクロスするところに業平橋。更に進む。東駒形を越え三ツ目通りと交差。右折し北に進み言問橋東詰めにある牛嶋神社に向かう。

牛嶋神社
牛嶋神社は、隅田川の東、「牛嶋」と呼ばれた旧本所一帯の鎮守さま。牛嶋の由来は、天武天皇の時代、両国から向島にかけての地域・旧本所が牛馬を育てる国営の牧場(官牧)であったことから。浮嶋牛牧と称された。江戸切絵図によれば、昔はもう少し北、現在の桜橋の東詰めあたりに「牛御前」の名前が見える。縁起書によれば創建は貞観2年というから860年頃。結構古い。当時このあたりは既に小高い砂州となっていた。
由緒書によれば頼朝が下総から武蔵への渡河作戦に際して、折からの豪雨を鎮めるため神明の加護を願う。そして願いが叶ったことを慶び社殿を造営した、とか。後に天文6年(1538年)、御奈良院より「牛御前社」の勅号を賜る。江戸時代になっても鬼門守護の神社として将軍家の庇護を受ける。現在の地に移ったのは関東大震災後。隅田公園整備の一環として実施された。

牛嶋神社の隣に「すみだ郷土資料文化館」
神社を離れ、「すみだ郷土資料文化館」に。隅田公園を歩き、言問橋の東詰を進む。三ツ目通り、というか水戸街道から一筋隅田川に入ったあたりに「すみだ郷土資料文化館」。「すみだのあゆみ」をスキミング&スキャニング。有り難かったのは、常設展示目録。古代から現在に至るまでの地理と歴史がまとまっている。1冊1000円。そのほか、1階の図書資料コーナーで鈴木理生さんの『江戸の川 東京の川(井上書院;2700円)』の実物を目にしたことも嬉しかった。いろんなところで話題にはなるのだが、版元の連絡先が良くわからなかった。奥付で住所・電話を確認し後日手に入れた。『川がつくった江戸(林英夫;隅田川文庫;1850円)』も購入。

三囲神社
すみだ郷土資料文化館を離れ「三囲神社」に。すぐ北にある。対岸の浅草・山谷掘りからの「竹谷の渡し」の船着場も近くにある。歌川広重の「東都三十六景 隅田川三囲り堤」とか「江戸高名会亭尽 三囲之景」に描かれているように、江戸の行楽地。「三囲(ミメグリ)」の由来は、この地に弘法大師由縁の廃社・壊社があるのを聞き改築を。地中より白狐に跨る神像が。そのとき白狐が神像の周りを三度廻ったことから。雨乞いのために歌った宝井其角の歌碑もある。「ゆふだちや田をみめぐりの神ならば」、と。

水戸街道脇に秋葉神社

水戸街道を進み桜橋通りを越え、向島4丁目の「秋葉神社」に。正応2年(1289年)、この地にすむ与右衛門さんが屋敷内にお稲荷様をまつったのがその始まり。このあたりは五百崎・庵崎(イオサキ)の千代世(ちおや)の森とよばれていたので「千代世稲荷大明神」、とも。広重の『江戸名所百景』には紅葉の名所として描かれている。ちなみに五百崎とは五百もの砂州や浅瀬がある湿地帯のこと。このあたりは、干潮になれば砂や土砂の堆積による数多くの小島が遠浅の海面から浮かび上がる、そういった地帯だったのだろう。
秋葉神社の本家・本元は静岡県・秋葉山の秋葉神。秋葉三尺坊・秋葉山三尺坊大権現とも呼ばれる。秋葉信仰がブレークしたきっかけは、江戸前期、貞享2年(1685年)、江戸と京都に向かった秋葉山の神輿渡御。全国に名を知られるようになり、秋葉詣でも盛んになった、と。火の災厄を鎮める神さま。

隅田川堤防沿いに長命寺

秋葉神社を離れ、再び水戸街道を越え、隅田川堤防方向に向かう。堤防沿いの道から一筋入った墨堤通り・向島5丁目に「長命寺」。お寺よりなにより、「長命寺の桜もち」を買ってくるようにとのご下命あり。店は隅田川の堤に沿った道路脇。
桜餅といえば、先日古本屋で見つけた『考証 江戸を歩く:稲垣史生(河出書房新社)』に面白い話があった。ちょっとメモする:この桜餅屋の名前は「山本屋」。銚子より職を求め、長生寺に寺男として働く。土手の桜の落ち葉を醤油樽に漬けて餅に包むと、風味よく評判になった。評判になったといえば、この山本屋の娘さんは美しいことで評判でもあった。とか。19世紀の中頃の老中・阿部正弘がこの店の娘・お豊さんをその美しさ故に贔屓にした、と。また、明治維新のころ、オランダ公使もこの店の娘・お花さんを見そめた。またまた、かの正岡子規も山本屋のお陸さんに淡い恋心を抱いた、とか。 おみやげを買い求め、先を急ぐ。このあたりは江戸の昔は文人・墨客、江戸の市民が花見を楽しんだ一大行楽地。墨堤通りを進み、東向島1丁目と3丁目の境、地蔵坂通りとの交差に、「子育地蔵堂」。車の往来多い。
ちなみに川の堤に桜の多い理由は、土手を踏み固める戦略というか戦術のため。桜の名所をつくれば、桜見物に多くの人が来る。土手を歩き、結果的に土手が強化される、といった論法。事実かどうか定かではないが、事実だとすれば、なかなかスマートな手法である。

墨堤通りを北に。東向島に「白鬚神社」

地蔵堂脇の道をすすむと東向島2丁目に「白鬚神社」。白鬚神社って昨年歩いた埼玉県日高市・高麗郷の高麗神社もそう呼ばれていた。高麗からの帰化人・王若光が晩年白髭を垂れ、白髭さまと呼ばれていたことに由来する。日高・高麗の郷の白髭神社を高麗総社とした白髭神社は武蔵の国に55社ある。この地の白鬚様もそのひとつ。武蔵の各地に分住した高麗人の子孫が王の遺徳を偲び分祀したわけだ。「白髯」は「新羅」からの転化である、といった説もあるほど、だ。
白鬚神社の縁起によれば、この地には古代帰化人が馬の放牧のために相当数移住した、とも。鈴木理生さんの『江戸の川 東京の川』にも「渡来人の基地としての浅草湊」という一項目が設けられている。大和政権は東国経営の一環として武蔵の国には、百済・新羅・高麗などからの渡来人を配置。夷を制する精鋭部隊でもあり、高い技術力をもつ開発者集団でもあったのであろう。海を渡り、上陸地を求めて浅草湊まで進み、ここを根拠地に武蔵野の台地へと踏み入ったのであろう。ともあれ、武蔵の地に帰化人の影響は大きい。荒川も渡来人「安羅」の川という説も。
ちなみに、「しろひげ」神社であるが、全国には「白鬚」「白髭」「白髯」「白髪」と名のついた神社が三百社以上ある、という。特に多いのは静岡や岐阜。東京では墨田区に目に付く。ここ白髯はアゴヒゲ、であるが、口ヒゲである白髭神社は平井や東墨田でも見かけた。

隅田川の堤そばに隅田川神社
墨堤通りを更に北に。明治通りと交差。左折し白鬚橋東詰めに。堤に沿って北に歩くと「隅田川神社」。治承4年というから1180年、頼朝がこの地に来たとき水神をあがめて建てた神社であり水神社とも呼ばれる。江戸切絵図にも「水神」という名前が見える。水運業者から深く信仰されていた。このあたりは、水神の森と呼ばれた微高地。隅田川の洪水にも沈むことがなく、ゆえに「浮島の宮」とも呼ばれた。狛犬ならぬ亀が鎮座している。水神様ならでは、というべきか。
このあたりは、奈良から平安にかけて、隅田川西岸の微高地を走る東海道が市川にあった下総の国府に至る道筋。墨田区西岸の橋場からの渡しもあり、河川交通の要衝。承和2年(835年)、隅田川に渡船の記録がある。伊勢物語の都鳥の舞台もこのあたりと伝えられている。天明年間(1781〜1789)に狂歌師・元の木網の「けふよりも衣は染つ墨田川 流れわたりて世をわたらばや」を刻んだ碑がある。

隅田川神社の隣には木母寺
水神社の直ぐ先に木母寺。能「隅田川」など日本の芸能に大きな影響を与えた梅若伝説の地。平安の昔、人買いにさらわれた梅若丸は隅田川のほとりで重い病を患い、隅田川東岸・関屋の里で置き去りにされる。里人の看病もむなしく「たづね来て問はばこたえよ都鳥墨田川原の露と消えぬと」という一首を残して12歳の生涯を閉じる。一年後、里人が梅若丸の塚で供養していると梅若を捜し求める母の花御前が。はじめてわが子がなくなったことを知る。花御前は嘆き悲しみ、吾が子のためにいのる。すると、塚の中から梅若の亡霊が現れ一時の親子の対面。しかし、梅若は再び姿を消す。花御前は悲しみのあまり、池に身を投げる。この木母寺は梅若を供養してつくった庵が起源。いまは鉄筋のお寺様。
本日はこれでお終い。あとは隅田川にかかる水神大橋を渡り台東区というか荒川区に入り、千住大橋経由で足立区北千住に進み一路帰途に。

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