伊予 遍路道;下坂場峠と鶸田(ひわた)峠を越えて久万の町に

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下坂場峠と鶸田峠を越え、遍路道を久万(上浮穴郡久万高原町)の町に下ってみようと思った。常の如く、良いとこ取りの「歩き遍路」。舗装道路は避けて、車で進めるところまで進み、そこから土径を辿り峠を越える、といったルート取りである。単独行のため、峠を越えた後は、車デポ地までピストンも、常の如くでもある。
下坂場峠と鶸田峠を越えてみたいと思ったのは数年前のことになる。久万の町にある四国霊場第四十四番札所・大宝寺や第四十五番札所・岩屋寺を辿ったとき、これら久万の札所に入るにはいくつかの峠越えの遍路道があり、そのひとつが、下坂場峠と鶸田峠の遍路道であることを知った。
早速遍路道を辿り峠越えと思ったのだが、久万の前の札所は西予市宇和町にある明石寺であり、この間の距離は80キロ弱もある。卯之町、大洲、内子の町へと北に進み、内子の町を越えた後、東から流れ込む小田川筋の谷に入り、北から小田川に流れ込む田渡川の谷筋を進んだ後、これらの峠を越えて久万の町に入る。谷筋にバスなどを利用した段取りのいいルーティングは望むべくもない。

Google Earthで作成
ルート取りをどうしたものかと、数年が経過したのだが、先日予土国境の坂本龍馬脱藩の道を歩いたとき、これもバスの便など望むべくもない山間のルートであり、結局「ピストン」で進むことにした。車で谷筋の進めるところまで進み、そこに車をデポし峠を越え、次の谷筋まで下った後、車デポ地に引き返す、所謂「ピストン」を繰り返し、目的の地に向かうわけである。
「ピストン」行では時間は倍かかるが、足の便・宿泊の心配はない。今回の峠越えもピストンでの折り返しと決めてルーティング。当初峠越えは結構長い距離を進むことになるだろうと思っていたのだが、Street Viewでチェックすると、舗装された林道が両峠近くまで続いており、峠越えのピストンはそれほど大変ではなさそう。両峠越えに2時間もみておけば充分。朝早く出れば日帰りでもふたつの峠を越えることができそうだ。

こうなれば少し欲が出てきた。田舎の新居浜の家から90キロほど車を走るわけで、2時間の峠越えだけではもったいないと、急遽、これまた常の遍路歩きと同じく、「えひめの記憶;愛媛県生涯学習センター」を参考に遍路道標をチェックしながら進むことにした。

このルーティングを日帰りでカバーするため、スタート地点は、田舎の新居浜市からの往路2時間ほどの時間も考慮し、第四十三番札所・明石寺から北に向かった遍路道が、内子の町を越え小田川筋を東へと向かう辺り、国道56号から分かれた国道380号〈379号;内子町吉野川まで重複〉が小田川の谷筋へと進む地点とする。第四十三番札所・明石寺から久万の札所までの長い遍路道のおおよそ中間点である。
このルーティングで、数年来気になっていた峠を越え、道標もすべて確認し、夕刻暗くなる前に家には着いた。「ピストン」行でと性根を決めれば四国の山間地峠越えも、怖いものなし、かと。




本日のルート;石浦バス停>下和田の石仏>中和田の石仏>大瀬の徳右衛門道標>十郎神社>石積の徳右衛門道標>川登の大師堂>路木の大師堂>梅津の大師堂>突合の道標>へんろ小屋>吉野川大組の道標>新田神社の徳右衛門道標>中田渡大師堂>中田渡の道標>上田渡の道標>上田渡の薬師堂>落合の大師堂と道標>県道42号に>倉谷の徳右衛門道標>畦々の道標>上畦々の大師堂と徳右衛門道標
下坂場峠に
土径に>土径の道標>下坂場峠久万高原町に>葛城神社下の道標>葛城神社脇の大師堂>森田大師堂の道標>福城寺参道口の道標>鶸田峠登り口に
鶸田峠に
由良野の衛門道標>町道に交差>>だんじり岩>鶸田峠>町道と交差>地蔵尊 >久万高原町との道を繋ぐ

石浦バス停
松山自動車道を走り、内子五十崎ICで下り、国道56号を少し北に戻り、中山川と小田川が合わさる辺りで国道380号(379号)に乗り換え、蛇行する小田川を東北に向かう。七反、長野を過ぎ富浦(内子町五百木)に。石浦バス停(喜多郡内子町五百木)の対面辺りに北を示す「水戸森峠(みともりとう)」への木標がある。ここが水戸森峠を下って来た遍路道の合流点である。

内子市内からの遍路道
第四十三番札所から卯之町、鳥坂峠を越え大洲と進んだ遍路道は、十夜ヶ橋から肱川の支流・矢落川に沿って東に向かい、予讃線五十崎駅辺りの黒内坊から北、内子運動公園へと進み、廿日市、六日市、護国と内子の街中を通る。内子の街並みを外れた遍路道は国道56号井を越え、中山川を渡り、水戸森に入り、水戸森峠を下り、この地に出る。

長岡山トンネル手前から旧国道に
大きく北に蛇行する小田川に沿って走ると長岡トンネルが見える。トンネル手前から国道から離れ蛇行する川に沿って進む旧国道が通る。旧道がいつの頃建設されたものか不明だが、道筋にある真弓峠の隧道が通ったのが昭和11年(1936)であるから、それ以前だろう。その旧国道が小田川に沿って道が建設されるに従い、それまで山中を進んでいた遍路道も川沿いの旧国道を進むようになった、とのことである(「えひめの記憶」)。

「えひめの記憶」に拠れば、前述水戸森峠から小田川筋に下った遍路道は、「直進して小田川対岸の長前に渡り、小田川を再度渡った後、国道を横切り山中を抜けていたという。かつての遍路道は、このように川に面した急傾斜地では、見通しがきく安全な山の中腹や尾根道を通っていたが、国道開通とともに遍路道は次第に川沿いの道に移り、以前の遍路道は消滅して山林や草道の中に昔の面影を残すだけとなっている」とある。
下和田の石仏
旧道を走ると「えひめの記憶」に記されるように、岩肌にミニ霊場の舟形石仏や馬頭観音、地蔵などが祀られていた。舟形石仏は舟形の石に一体の仏が刻まれている。観音様が多いようだ。

和田トンネル手前から旧国道に
長岡トンネルの東口で国道に戻り、東に進むと中和田(内子町五百木)の和田トンネルが見える。その手前から川に沿って進む旧国道が見える。
中和田の石仏
旧国道を走ると、ここにも岩肌に祀られた舟形石仏やお地蔵さまが祀られている。右手にはのどかな景観の中、小田川が流れる。「えひめの記憶」には「この辺りは標高100mから200m前後の山並みが小田川の両岸を覆うように連なっており、一般に大瀬谷と呼ばれていた。古川古松軒は『四国道之記』に、「うちの子の町より逢瀬谷といふにかかる、此谷は六里半の谷道にて、谷川数度渡る事なり。左右は山のみにて淋しき道なり」と書きとめている」とあるが、前述の如く、山の中腹や尾根道を往昔と異なり、広い国道が整備された今、淋しき道と感じることはない。

大瀬
旧国道はトンネル東口で国道に合わさり、東に進むが掛木集落から左に折れて旧国道を進み大瀬の町(内子町大瀬中央)に入る。
大瀬の徳右衛門道標
町の中心地に入る手前、現国道を繋ぐ新成屋橋の北詰に休憩所らしき四阿(あずまや)があり、その脇に徳右衛門道標が立ち、「是〆菅生山迄七里」と刻まれる。「菅生山」とは久万高原町にある第四十四番札所・大宝寺の山号である。


徳右衛門道標
徳右衛門こと武田徳右衛門は越智郡朝倉村(現在の今治市)、今治平野の内陸部の庄屋の家系に生まれる。天明元年(1781)から寛政四年(1792)までの十一年間に、愛児一男四女を次々と失い、ひとり残った娘のためにも弘法大師の慈悲にすがるべし、との僧の勧めもあり、四国遍路の旅にでる。
その遍路旅は年に3回、10年間続いた。で、遍路旅をする中で、「道しるべ」の必要性を感じ、次の札所までの里数を刻んだ丁石建立を思い立ち、寛政6年(1794)に四国八十八ヶ所丁石建立を発願し、文化4年(1807)に成就した。その数は102基に及ぶとのことである(「えひめの記憶」を参考に概要をまとめる)。 因みに、幾多の遍路道標を建てた人物としては、この武田徳右衛門のほか、江戸時代の大坂寺嶋(現大阪市西区)の真念、明治・大正時代の周防国椋野(むくの)村(現山口県久賀町)の中務茂兵衛が知られる。四国では真念道標は 三十三基、茂兵衛道標は二百三十基余りが確認されている。

大江健三郎氏の生家
四阿脇に大瀬の案内があり、大瀬本町(成屋)に「大江邸」と刻まれていた。作家の大江健三郎氏は内子の生まれとは知っていたが、ひょっとしてこの地?古い町並みが整備された旧国道沿いにその生家はあった。同氏の作品のモチーフとなる「四国の深い森」はこの大瀬の谷がその原風景なのだろうか。国道(バイパス)が通る現在の谷筋は,イメージとは異なり、結構明るく、のびやかではあった。

十郎神社
鵜川が小田川に合わさる河口を越え、乙成集落(内子町大瀬中央)に入ると道脇に「曾我十郎首塚登山口」の木標。「歩いて20分・車で5分」とあるので、左折し坂道を登ると「十郎神社」と書かれた赤い鳥居。車一台分の舗装された道を上り、そして下ると広場に出る。十郎谷公園と呼ばれるようだ。そこに小さな鳥居があり、奥の祠に十郎の首塚が祀られる。また、なにも説明がないのでわからなかったが、一段下に立つ小祠には五郎が祀られていたようだ。

乙成に伝わる曽我伝説
案内には「幼い時(兄5才弟3才)に父を討たれ数奇な運命を生きた曽我十郎五郎の兄弟の仇討ちは日本三大仇討ちの一つとして有名である。
領地争いのため、伯父工藤祐経に父河津三郎祐泰を殺された兄弟が満22才になった1193年富士の裾野で巻き狩りをする御陣へニ人だけで忍び込み、仇の工藤を見事に討つ事ができた。しかし、その直後多数の家来に囲まれ勇敢に戦ったものの討死した。
曾我十郎の家来だった宇和島出身の鬼王は主人の首を故郷へ持ち帰り弔ろうとしたが、瀬戸内海を渡る時、しけに会い上灘(双海町)に漂着し中山町、程内を通って乙成(此処椎ノ木駄場)まで来た。しかし追っ手が伸びまた首も痛み臭いを放し出したため持ち帰る事をあきらめ、この地へ首を埋め石を積み塚を作った。
塚石の表には「曽我十郎祐成首塚」裏には「建久四年癸丑五月二十八日於富士野御狩場殺父之敵工藤祐成経于時以公命仁田四郎忠常討つ之臣宇和島産鬼王者持帰其首埋于此」と記されている。乙成地区住民は先祖よりこの曽我十郎神社をお祀りし地域の文化遺産として守っている。
また首塚という事で首から上の病はお祈りすれば治ると伝えられ、信者も多くそのお礼に小さな鳥居が多数奉納されている。平成四年四月吉日日 乙成地区 曽我十郎神社を守る会」とあった。
いつだったか、東海道箱根越えの折、曾我兄弟の墓に出合った。曾我兄弟の墓は全国に14か所もあるというので、それはそれとしていいのだが、神社名が十郎神社と言い切り、「五郎」が登場しないのは何故だろう。上の伝承では十郎の家来の鬼王が「主人の首」を、とあるので、首塚は十郎だけであったため、であろうか。ともあれ、伝説は伝説として置くべし、か。

虎御前の涙雨・五郎十郎の涙雨
「えひめの記憶」には「五月二八日に降る雨を「虎が雨」「虎御前の涙雨」といっている。
この日、曽我十郎祐成が富士の裾野で仇討の本懐を遂げ、討死した。それを十郎の愛人である大磯の虎御前が悲しんで流した涙が雨になったのだというのである。
伊予郡中山町や北宇和郡では「虎御前の涙雨」、喜多郡長浜町や東宇和郡では「曽我兄弟の涙雨」といっており、喜多郡肱川町では「五郎十郎の涙雨」といい、この日は大なり小なりの雨が降るものと信じている。ともかくこの日は仕事を休んで雨を待望するむきがあるが、本県では、南予地域にのみある伝承である。 『大洲旧記』大瀬村の条に曽我五郎十郎首塚のことが見え、「五月二十八日には、其塚より霊出て雨ふり出し、此国中雨ふらずと言事なし。当年より十年程は雨降らずとも有」とある。五郎十郎の話がこの地に「根付いた」経緯などを知りたいものである。

石積の徳右衛門道標
国道に戻り、石積の集落(内子町大瀬東)を抜ける旧国道を走り、一度国道に出て、川登集落に向かった国道が再び旧国道に入る手前に徳右衛門道標がある「是〆菅生山迄六里」と刻まれる。








川登の大師堂
旧国道を進み川登の集落(内子町大瀬東)に入ると、道の左手に如何にも大師堂といった建物がある。遍路千人宿泊を記念して昭和5年(1930)に建て替えたという「千人宿記念大師堂」(善根宿)とのこと。大師堂は遍路の無料宿泊地であり、集落の人にとっては自らが遍路を行うと同じ功徳を受けるとされる善根宿でもあったのだろう。




路木の大師堂
旧国道を進み、南から北へと川に突き出した尾根を川が大きく迂回する路木の集落(内子町大瀬東)に大師堂と小振りの地蔵堂が立つ。楽水大師堂と称される。弘法大師が清水を飲み楽になったのが名前の由来、と。

梅津の大師堂
旧国道から国道56号に出て少し走り、梅津の集落(内子町大瀬東)へと入る。道から一段高いところに梅津の大師堂が立つ。それにしても大師堂が多い。
「えひめの記憶」には「石浦を出てほぼ12kmほどである。この間遍路道はほぼ一筋のためか、道標は徳右衛門道標2基のみである。ただ、道の左側の山肌には多くの石仏等が見られ、昔ながらの遍路道の名残をうかがわせる。
また、この間の道は谷あいの道で、明石寺から大宝寺までの長い道程では、行きなずむ遍路も多かったに違いない。そのためか、道に沿って遍路が宿泊したり、接待を受けたりしたという大師堂などの堂宇や遍路宿やその跡が目立つ。実際新谷(私注;大洲の遍路道要衝のひとつ)を過ぎると、かつては多くの遍路がこの山深い谷あいの地で宿をとっている。
古川古松軒は、この大瀬谷の地で遍路同士が虱(しらみ)狩りをして寄せ集めたところ1合(約180cc)ほどになったと当時の厳しい遍路行の一端を書きとめている。小林雨峯は、「渓流(けいりう)に沿(そ)ふて登(のぼ)り、また渓流(けいりう)に沿(そ)ふて降(くだ)る。眼(め)は飽(あ)くことを知らざれども、脚(あし)は疲(つか)れてヘトヘト」となったところで善根宿の誘いを受け、「食前佛前(しょくぜんぶつぜん)に讀經(とくきやう)し、一家(か)の衆(しう)と膳(ぜん)に就(つ)く、食後近隣(しょくごきんりん)の小児老幼(せうじろうえう)を集(あつ)めて談話(だんわ)す15)」と、大瀬谷一帯における善根宿の様子の一端を記している」とある。

突合(つきあわせ)の道標
梅津の集落の先、国道379号を越えて進むと田渡川が小田川に合流する突合(内子町吉野川)に出る。田渡川に架かる吉野川橋を渡ると三叉路となり、T字路角の民家軒先に道標が立つ。

上坂場峠・鶸田峠越と真弓峠・農祖峠越ルートの分岐点
この地が遍路道のルート分岐点。左に国道379号に沿って北上すると下坂場峠、鶸田峠を越えて久万に向かう道、右に小田川に沿って国道380号を進むと真弓峠、農祖峠を越えて久万に向かう道となる。

郡を越えた合併
突合の手前あたりはかつて喜多郡内子町と上浮穴郡小田町の境であった。現在は喜多郡内子町、五十崎町と合併し喜多郡内子町となっている。郡を越えた合併である。
郡を越えた合併の要因はいくつもあるようだが、峠フリークのわが身には、その要因のひとつに挙げられる真弓峠の存在にフックが掛る。現在は新真弓トンネルが通り、スムースな往来が可能となっているが、かつては険阻な峠により久万との交通が不便であったようだ。
新真弓トンネルの開通が昭和63年(1988)、平成の大合併による内子町への対等合併は2005年(平成17)であるから、交通の問題は解決しているわけで、平成15年(2003)の住民投票により内子町合併の流れができたようである。

へんろ小屋
旧国道を進み、国道に合流する手前に「へんろ小屋」と書かれたお遍路さんの無料休憩・宿泊所。「へんろ小屋 内子第38号」とあったので、内子にそんな多くの「へんろ小屋」があるのかとチェック。
この「へんろ小屋」は、内子市内ということでなく、四国四県にあり、平成28年(2016)4月現在で55のへんろ小屋が整備されている。地元の信用金庫や篤志家、企業の寄付でできているとのことである。寝袋の宿泊とはなるだろうが、お遍路さんには大きな助けとなるかと思う。

吉野川大組の道標
吉野川トンネルを抜けた国道379に合流し、吉野川大組(内子町吉野川)の集落を進むと、道の右に天満神社の鳥居がありその脇に道標が立つ。
大組
大組って何?「えひめの記憶 面河村」の項に「「組」あるいは「惣」は、南北朝時代(一三三六~一三九二)から始まった農村社会の自治組織である。「伯方の六軒株」とか、「草分(くさわけ)七軒」などといわれたものがその部落の起こりで、ある地域に住みついた同族が、共同生活を行っていたのであろう。やがて、他の人々が移り住み、「組」とか、「惣」という自治的な単位が、できたのであろう。
共同作業の場として「五人寄合」「惣持山」など、その名のとおり、一つのグループ又は組の所有の山畑があった。特に住居の屋根をふく「萱だば」は、組の惣持山であり、各組が所有、管理していた。
藩政時代には、庄屋・組頭・五人組などの村役人があり、明治時代になって、小組に伍長又は組長、大組に大組長又は総代があり、大組長は集落の選挙で選ばれ、大組の代表者であると同時に、自動的に村の行政的な役割を果たせられ、役揚と住民のたいせつな中間的な存在であった。
小組の中では、それぞれの関係の道路・家普請・橋梁・葬式などの共同助け合い作業、神社はもちろんのこと、学校までも、集落の共有として管理した。こうした作業は、集落全員、又は各戸回りで、出歩・内役といって、小組又は大組内の自治を円滑に行った。
こうした公共の作業以外に、個人の災害・不祥の事がらについても、そのことの大小に応じて小組又は大組は、人情味あふれる相互扶助の精神で苦難をともにしたものである。
大組長は部落の顔役、代表者であり、時には、部落の利益代表として、あるいは、役場の行政上のこまごました事から、協力・伝達者・特に税金の取立てなど、大きな仕事をつかさどった」とあった。

新田神社の徳右衛門道標
田渡川に沿って国道379号を北に進み、中田渡集落内子町中田渡)前で左岸に渡る国道379号と分かれ、左岸を進む旧国道に入ると新田神社にあたる。鳥居の脇に徳右衛門道標が立ち、「是〆菅生山迄四里」、「大洲領大瀬村太助熊吉要蔵」と刻まれる、と。
大洲領大瀬村?大瀬村は大洲領。では、この小田町一帯は?この一帯も大洲藩領であった。上に小田町が中予の上浮穴郡から郡を越えて南予の喜多郡内子町と合併したといったが、歴史的にみても大洲・内子との繋がりが強かったのも大きな要因か、とも。

中田渡の大師堂
新田神社の社殿裏手に大師堂。中田渡大師堂と称される。
新田神社
新田八幡神社は、新田義宗(よしむね)を祀る、と伝わる。南北朝の時代(1336~92年)、南朝の忠臣新田義貞(よしさだ)の三男である。上野沼田荘で戦死とのことであるが、異説もあり、再起を図り四国に逃れ、越智郡の大島や、宇和地方や、大洲、内子方面、小田川の北の方を経て、ここ中田渡に落ち延びてきた、と。
中田渡の谷間が南朝の拠点でもあった吉野に似ていることから、吉野の千本桜を懐かしみ、桜の美しい所を桜原(さくらわら)、そして、その谷間と合流して流れる川を吉野川と名前をつけたと伝わる。なんとなく、出来過ぎ?









中田渡の道標
新田神社から旧国道筋に戻り、田渡川に架かる橋を渡り少し進むと道の左、六地蔵の手前に道標(内子町中田渡)が立つ。ここに道標が立つ理由は?左に折れ「ねむりが峠」に向かう道があるためだろうか。








上田渡の道標
右岸を進む国道が、左岸へと移る手前から旧国道に入り、高市川に沿って北に進む県道42号のアンダーパスを出た角に上田渡(内子町上田渡)の道標がある。









上田渡の薬師堂
田渡川を渡り国道379号に出ると、道の左手に結構立派な堂宇が立つ。上田渡の薬師堂。遍路道脇にあったものが移されたとのこと。







落合の大師堂と道標
国道379号の左岸から右岸へと移り、しばらく走ると左に入る旧国道がある。旧国道に入るも、入口あたりが荒れており国道に引き返し、隧道を抜けたところに旧国道の合流点がある。
道脇に車をデポし橋を渡ると正面、一段高いところに落合の大師堂。その下に道標。「右へんろ 左さぬき道」と刻まれる、とか。砥部へと向かう道が「さぬき道」という事だろう。
落合は文字通り、北から下る玉谷川と田渡川(臼杵川とも)が落ち合う箇所である。この大師堂のある田渡川の右岸はかつての広田村、現在は伊予郡砥部町となっている。



県道42号に
国道に戻り田渡川を越えると右に折れる道がある。昭和3年(1928)に開通した県道42号・中山久万線。下坂場峠はこの県道に沿って、臼杵川とも呼ばれる田渡川を源流部あたりから上ることになる。行政区域は再び内子町となる。






倉谷の徳右衛門道標
県道を進み臼杵川に倉谷川が合わさる箇所に架かる橋を渡る。橋の東詰(内子町臼杵)は三叉路となっており、その角に六地蔵と共に徳右衛門道標が立つ。「是〆菅生山迄三里」と刻まれる。








三嶋神社と厄除大師
県道を浮船、大込(おおこみ)、本成(内子町臼杵)と進む。と、道脇に立派な社。三嶋神社とある。この時は立派な構え、などと思っただけなのだが、後日真弓峠を越える遍路道を辿ったとき、その険路故に真弓峠手前から畑峠へと廻り、この三嶋神社辺りに下る遍路道があったことを知った。知らずあれこれ繋がるものである。
社の少し先には道の左手に厄除大師が建っていた。

畦々(うねうね)の道標
後谷(内子町臼杵)の集落を越え上畦々(内子町臼杵)に。「あぜ」ではなく「うね」と読む。「畔;あぜ」は田、「畔;うね」は畑の境の盛土の意があるようだが、ともあれ、素敵なネーミングだ。 その上畦々で、県道から左上に分岐する道の角に、「右は車で遍路 左は歩き遍路 車は行き止まり」との案内があり、その前に道標が立つ。「四十四番近道」と刻まれている、と。

左に折れ舗装が切れる箇所まで車で進むことにする。Google Street Viewで土径になる境までチェックでき、行き止まりに車を停めるスペースがあることも確認できた。

上畦々の大師堂と徳右衛門道標
県道から離れ少し車で進むと道の左手に大師堂がある。近年建て替えられたのだろうか、新しい感じがする。その大師堂の前に徳右衛門道標がある。「徳右衛門」「菅生山」と刻まれた文字がはっきり読める。常の徳右衛門道標の高さがないのは、欠損しているとのことである。



■下坂場峠に■



土径に
先に進むと道脇にクルーザーが置かれている。傍にいた方に聞くと、海に遊びに行くこともなくなったので、ここに置きお遍路さんの休憩所にでも、とのこと。しばしお話をさせて頂き、その先杉林に覆われた細い舗装道を抜けると車数台が駐車できるスペースがあり、そこで舗装が切れる。
土径入口には「鶸田 下坂場近道」「大宝寺 7,8粁(キロ)」と刻まれた石碑が立つ。篤志家の寄進により立てられたもの。近年のものである。

土径の道標
杉林の土径を数分進むと、右手の沢に向かって下る角に道標が立つ。草に隠れ少しわかりにくい。道標には朱で「右 遍路道」と書かれているが、いたずらなのだろうか。

下坂場峠
沢に下り、沢を渡り土径を上り、林道に出る。そこから少し下った先に上り口があり、そこを上りぐるりと廻りこむと峠(標高570m)に出る。上り始めて10分程度であった。
峠といっても県道が通り、見通しも効かず、早々に来た道を戻り車デポ地に。最初の峠は直前まで車で入れたこともあり、ピストンも苦ではなかった。

■久万高原町に■

車デポ地に戻り、曲がりくねった細い県道を峠に向かう。峠近くは2車線の広い道となり、行政区域も喜多郡内子町から上浮穴郡久万高原町となる。広い県道を1キロ程下り久万高原町二名の宮成集落に入る。

葛城神社下の道標
県道42号が県道220号と合流する手前に葛城神社(久万高原町ニ名)があり、その下に大きな道標がある、と「えひめの記憶」にある。社におまいりした後、道標を探すがなかなか見つからなかったが、県道42号から神社石垣に沿って民家裏に入り込む細路があり、その入口に大きな道標があった。備前国総右ヱ門が娘の供養を兼ねて建立した道標(「えひめの記憶)」とのことである。

葛城神社脇の大師堂
神社を廻りこんだ少し小高いところに大師堂が立つ。お遍路さんの宿泊などに供したのだろうか。
葛城神社
隋神門,本殿、拝殿ともに誠に立派な構え。本殿向拝、木鼻の彫り物も凝っている。歴史も古く,由緒では天武天皇の頃,国司小千玉興が大和葛城山より役小角を迎え、饒速日命を祀っていた社に一言主命を祀った,と。
後には伊予国主河野通俊公が建久3年(1192)山城国男山八幡を勧請し国中に22社祀った際に配祀され、文明3年(1471)には京都北野天満宮より菅公を勧請した、とのことこれだけの有り難さを並べられても,違和感のない社である。

何故にこの山間の地に?は現代の視点からもの、か。久万の札所大宝寺、岩屋寺の立派な構えを想い起こすにつけ、今は山間のこの地も、かつては南予と中予、そして土佐を繋ぐ往還道であったかと妄想する。


森田大師堂の道標
大師堂前の道を進み県道220号を越え二名川に架かる葛城橋を渡り左折すると直ぐに三差路があり、その角に森田大師堂立つ。森田の集落(久万高原町ニ名)にある故の命名だろう。大師堂の正面には3基の道標がある。同じところに3つも道標があるって?
「えひめの記憶」には「以前の遍路道は、葛城橋より少し上流で右折して二名川を渡ってから大師堂の正面に至り、その裏で左折したらしいが、この道は寸断されている」とある。その道筋にあった道標をこの場所に集めたのだろか。単なる妄想。根拠なし。

福城寺参道口の道標
森田大師堂の三差路を右に折れると直ぐ左手から道が合わさり、その角に道標が立つ。手印とへんろ道と刻まれる。今まで見てきた道標とは何となく雰囲気の異なる、ふっくらした石造りの道標である。








鶸田峠に


鶸田峠登り口に
当初の予定ではこの森田大師堂の辺りに車をデポし、鶸田(ひわた)峠に向おうと思っていたのだが、地図にある町道らしき道が舗装されており、それならと、行けるところまで車を入れてみようと計画変更。8分ほど車で走ると舗装が切れ土径となり、その手前に「鶸田峠 1㎞ 大宝寺 4.7㎞」「宮成1.7㎞」の木標が立つ。
道は鶸田峠を迂回し久万の町まで続いているが、これ以上車で進めそうもない。近くのスペースに車をデポし鶸田峠に向かうことに。

由良野の徳衛門道標
町道から木標の指示に従い右に折れ土径に入る。周囲は開け、明るい道筋を100mほど進むと、道の左手、一段小高いところに道標が立つ。道脇になく草に隠れ、うっかりすると見落としてしまう。実際私も上りの時は見つけられず、ピストン復路で偶然見つけたといったものである。「菅生山ヨリ二名村此所江二里」と刻まれた文字が読める。






町道に交差
道標を過ぎたあたりに木のテーブルとイスが置かれている。休憩所なのだろう。緩やかな勾配の坂を上ると町道に当たる。「鶸田峠 0.5km」の木標に従い町道を横切り山道を進む。ここまで上り口から10分ほどであった。






だんじり岩
町道を越えて2,3分で祠が見える。その前に案内があり「だんじり岩 この十畳敷程ある大きな岩は、その昔弘法大師が四国八十八か所巡錫の時あまりの空腹と疲労のため自分の修行の足りなさに腹を立て、この岩の上で「だんじり(じだんだ)」を踏んで我慢されたそうです。その時踏んだ「だんじり」の足跡が岩に残っており.それ以来誰言うとなく、この岩を「だんじり岩」と呼ぶようになったそうです」とあった。
「えひめの記憶」に拠れば、祠は大師堂、前に立つ3基の石碑は「願ほどきの碑」、とのこと。その碑文の一つに、「寅之年之男 ヒフ病ニテ此処ノオ大師様ニオタノモシタラオカゲデナオリマシタオ願ホドキニコレオタテマス 昭和三年建之」とある。他の碑には、「胃腸病平癒」「諸願成就 胃癌」などと刻まれている」とのことである。

鶸田峠
だんじり岩から5分ほどで鶸田峠に到着。上り口から20分ほどで峠に着いた。3月中頃ではあるが、未だ雪が残っていた。
平坦な地には石碑と船形石仏が立つ。石碑には「奉納 四国四十度大願成就」などと刻まれる。「えひめの記憶」には、峠には道標があり菅生山まで33丁を示している」とあるが、この石碑が道標なのだろうか。
案内には、「鶸田峠 この峠は標高約800 mに位置し(久万町役場は約500m)古くは二名地区と久万地区を結ぶ主街道として賑わった所で、昭和30年頃まではこの場所に茶屋があり行き交う人々が一休みしたそうです。
「鶸田峠」の名は一説には弘法大師が八十八カ所開基の折、大洲からずっと雨続きでこの峠でやっと晴れ「日和(ひより)だ」と言ったのが訛って「鶸田」となったと伝えられています」とあった。

八十八カ所霊場
「えひめの記憶」に拠れば、現在我々が辿る四国霊場八十八ヶ所は貞亭4年(1687)真念によって書かれた「四国邊路道指南」によるところが多い、とか。「四国邊路道指南」は、空海の霊場を巡ることすること二十余回に及んだと伝わる高野の僧・真念によって四国霊場八十八ヶ所の全容をまとめた、一般庶民向けのガイドブックといったものである。霊場の番号付けも行い順序も決めた。ご詠歌もつくり、四国遍路八十八ヶ所の霊場を完成したとのことである。
遍路そのものの数は江戸時代に入ってもまだわずかであり、一般庶民の遍路の数は、僧侶の遍路を越えるものではなかったようだが、江戸時代の中期、17世紀後半から18世紀初頭にかけての元禄年間(1688~1704)前後から民衆の生活も余裕が出始め、娯楽を兼ねた社寺参詣が盛んになり、それにともない、四国遍路もまた一般庶民が辿るようになった、と言われる。

町道と交差
峠から山道を下り、久万の町からの舗装道まで遍路道を繋げることにする。峠少しフラットな道を進むと下りとなる。それほど急ではないが雪が残り足元が危うい。慎重に8分ほど下ると町道に当たる。道は舗装されていた。 ここで引き返そうかとも思ったのだが、「えひめの記憶」には久万の町に下る山道に「奥の地蔵尊」と呼ばれるところがあり、そこに道標がある、とのこと。とりあえず、そこを最終地点とし先に進む。

地蔵尊
舗装された町道を2分ほど下り、遍路道の案内に従い道を左に沢に沿った山道に入る。2分ほど進むと沢脇、木の下に地蔵尊が佇む。道標らしきものはない。さらに3分ほど下ると2基の地蔵尊と道標らしき石標が立つが、文字もなにも摩耗している。これが「奥の地蔵尊」? 傍には「鶸田峠 1㎞ 久万高原町役場 1.8km」の木標が立つ。

久万高原町との道を繋ぐ
このお地蔵様が「奥の地蔵尊」かどうが、今一つ自信が持てず更に7分ほど下ると再び町道に出る。右手には斎場があった。結局「奥の地蔵尊」と確信をもって言えるところは分からなかったが、先ほどのお地蔵様をそれとみなし、ここで引き返すことに。上り口が11時40分、折り返し地点が12時23分。おおよそ45分強で峠を越えて里の道に繋いだ。
ここから同じ道をピストンで折り返し、13時過ぎにデポ地に戻る。

これで本日の予定は終了。峠越えも呆気なく,今ひとつ歩いた感がない。これはもう,久万の札所へのもう一つの峠越えのルート,真弓峠から農祖峠越えを歩くべし、との想いを抱き一路家路へと。

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