伊予北条 河野氏ゆかりの地を歩 そのⅠ;河野氏の本貫地、伊予北条(現松山市)を辿る

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今年の夏だっただろうか、たまたま図書館で『東予市内(一部丹原町)河野氏ゆかりの史跡』を見つけ、そこに記載されている旧壬生川・丹原(現西条市)と一部今治に点在する河野氏ゆかりの地を辿った。br> 7回にわたるメモの最後に、「これで、『東予市内(一部丹原町)河野氏ゆかりの史跡』に説明のあった河野氏ゆかりの地は、ほぼ歩き終えた。次は、前々から気になっていた河野氏の本貫地である旧北条市(現松山市)に足をのばし、高縄山の山裾にある河野氏の館跡・善応寺、その館を囲む山城である雌甲山・雄甲山、高穴山、そして河野氏の合戦の折々に登場する恵良山の山城・砦跡を辿ろうと思う」と記した。

今回はその河野氏の本貫地である伊予北条(現在松山市)に出向き、高縄山の西麓、河野川と高山川に挟まれた河野氏の旧館跡や館を囲む山城を辿る。河野氏は、この地を開墾し、開発領主として力をつけていったと言われている。

河野氏の居館
Google earthで作成
河野氏の館について「えひめの記憶;愛媛県生涯学習センター」には、「北条平野の中央部に、風早郡五郷の一つ河野郷があり、平野から約四キロメートルほど東へ入り込み、南・北両側を平行して東西に連なる標高約一二○~一三〇メートルの低い丘陵に挾まれた馬蹄形の小平地―善応寺部落がある―に、両丘陵を天然の土塁として土居は構築された。
高縄山(標高九八六メートル)の西斜面に発し、山麓西部を開析して、高穴山(標高二九二メートル)の南側を西流する河野川と、雄甲山(標高二三八メートル)・雌甲山(標高一九二メートル)の南側を河野川と平行して西流する高山川とが、土居内を防衛する濠の役割をつとめた。
東へ向かって緩傾斜の耕地をのぼりつめると、土居の内全体から斎灘までの展望がきく標高七〇メートルの高台があり、建武年間河野通盛が、土居館を改築して創建した河野氏の氏寺善応寺がある。『善応寺縁起』などによって(善応寺文書・一二四一)、寺創建以前の土居館が広壮雄大な居館であったと推察される。この居館の周辺には、河野館の防衛にあたる一族郎従の屋敷が設けられていた」とあった。

善応寺は、鎌倉末期から南北朝期にかけて活躍した第27代当主・河野通盛が、一族の本拠を河野郷から道後湯築城に移すにあたって、それまでの居館を寺院に改めたものといわれている(異説もある)。

高縄山城
河野氏の足跡をチェックすると、「高縄山城を攻める」「高縄山城落城」といった表現が記録に残る。この高縄城については「河野郷土居の東部、居館の背後にそそり立つ雄甲・雌甲の二岩峯と、土居の北東端に聳える高穴山には、天嶮を利用してそれぞれ山城を構築して、三つの山城があいまって土居全体の防衛を堅固にしていた。
とくに高穴城は、源平合戦当時築かれていた河野氏の主城で、「山高、谷深、四方嶮難」(予陽河野家譜)の要害堅固の城であった。(中略)この三城と背後に高く聳える高縄山一帯を総称して高縄山城といったとおもわれる(「えひめの記憶」)」とあった。
高縄山城とは雌甲山・雄甲山、高穴山の山城と、背後に高く聳える高縄山一帯を総称して高縄山城と称したようである。


本日のルート;
■善応寺;12時11分
■雌甲山・雌甲山
城山道(北口)>舗装された道を進む>尾根手前分岐
◆雌甲山に向う>尾根分岐点>雄甲山
◆雌甲山
雌甲山に向う>城山道標>善応寺に戻る
■高穴山
高穴山取り付口>削平部に>堀切>山頂>下山

善応寺に向かう
実家の新居浜から西条、今治を国道196号で進み、斎灘の海岸線を走り、菊間・浅海を越え、鴻之坂越えの際に目にした恵良山、腰折山の特徴的な山容を見遣りながら進むと旧北条市(現松山市)に入る。
北条に入り、JR北条駅前を越え、河野川に架かる橋を渡り左折し県道178号に乗り換える。県道を少し南に進むと、県道脇に沿うように右に分岐する車道があり、道なりに進み集落の間を抜けると善応寺に到着する。
県道178号
瀬戸内の沿って進む国道196号と高縄山地・石ヶ峠を経て高縄山中の国道317号を結ぶ。河野氏ゆかりの高縄寺が建つ高縄山に向かうには、石ヶ峠で県道を離れ、一車線(1.5車線?)の道を進むことになる。
河野川
いつだったか高縄寺を訪れたとき、石ヶ峠から高縄寺に向かう道、ヘアピンカーブの曲がり角に河野川の源流点があった。通常の地図では、川筋は結構下流で切れているのだが、カシミール3Dのプラグインである「タイルマップ」を使い、国土地理院地図に「川だけ地図」をオーバーレイ(重ね合わせ)すると、川筋は石ヶ峠の少し西まで伸びており、源流点から「川だけ地図」の川筋跡までは、等高線の谷筋を結べば繋がった。
河野川はその名前の通り河野氏の本貫地、風早平野(往昔の風早郡河野郷)を流れ、JR 予讃線・柳原駅の東で瀬戸内に注ぐ。


善応寺;12時11分
地蔵菩薩、馬頭観音を祀る小祠の手前に、平成に建てられた「河野 善応寺」の石碑がある。右手の坂を上り駐車場に。石組の塀に囲まれた境内前に「中世伊予の豪族 河野氏発祥の地 風早郡河野郡」と刻まれた大きな石碑が建ち、その傍に「碑誌」と、往昔の善応寺の威容を示すイラストがあった。
碑誌
河野氏は、伊予国第一の大族で、風早郡(現北条市)河野郷土居(善応寺)この地より起こる。
中世伊予を代表する武士であった河野氏は、河野郷を中心として発展するが、確かな記録では、平安時代の末期から地方豪族として、広く世に知られるようになった。
特に源平合戦で活躍した河野通信が、確固不動の地位を獲得し、瀬戸内海に面する伊予の実権を掌握した。
瀬戸内海に突出する高縄半島にある河野氏発祥の地、河野氏の本拠である河野郷土居は、中世伊予の軍事・経済・文化の中心で、日本の政治と深く係わり合って、波瀾にみちた歴史を生んだところである。

往昔の善応寺の威容を示すイラスト
イラストには、「(創建当時の好成山善応寺)河野氏の館、土居館を寺城として建武2年(1385年)京都の東福寺に模して建てた伊予の守護職通盛の時である」とのキャッチコピーの下に七堂伽藍・塔頭が建ち並ぶ大寺群が描かれ、その下に説明がある;
「建武年間、河野通盛が道後に湯築城を築き、河野氏の本拠地を道後に移し、それまでの河野の土居館を寺院に改築し、河野一族の氏寺として、好成山善応寺を創建した。
創営当時は、善応寺古文書によると、七堂伽藍・十三塔頭寺院が並び、近世の善応寺村全域にわたる広大な大禅刹であったが、天正年間、豊臣軍の四国攻めにより、諸堂一朝の灰塵となる。
江戸中期、徳川将軍吉宗の厚遇を受け、今の地、明智庵跡に、松山藩主松平定長により、現在の善応寺を再建した」とある。

境内に入る。雌甲山を背後に控えた本堂の姿は予断故か、戦いに備えた館の風格が感じられる。本堂にお参り。お寺様の縁起案内には;

善応寺縁起(冶革)
開基河野通盛(1364没)は、通有の末子に生まれ 河野総領家を継いだが、元弘の乱(1331)に失脚し、鎌倉建長寺の南山士雲をたより、旧勢を保つことができた。
この時、南山士雲の恩に報いるため、河野郷土居館を京都東福寺に擬して寺院に改築し、建武2年(1335)に河野一族の氏寺として好成山善応寺を創営した。 通盛(法名善恵)は、南山士雲の法嗣正堂士顕を東予市長福寺(私注;通有建立の寺)から迎え開祖としたが、正堂法嗣の寺として永代住持(住職)を定めた。 この後、貞治3年(1364)には、諸山の列(官寺)に加えられた。
古文書によれば、寺域を「東限鳩谷之透、南限揚岐庵山過山峰之透、西限裟婆山之透、北限土居山尾新宮山」とし、現在の善応寺部落全域にわたり、その面積は60町歩に及ぶ広大なものであった。
七堂(仏殿・法堂・僧堂・万丈・庫司・東司・浴室)十三塔頭(通玄庵・萬松院・千手院・養寿院・大崇院・宗玄院・林少院・萬年寺・一心庵・見寿庵・明智庵・霊雲庵)を有する大禅利であった。
その後、善応寺は代々河野氏の帰依を受け盛観を呈したが、天正13年(1585)7月河野氏没落と共に戦火に焼失荒廃した。
江戸時代中期、善応寺17世の黙翁士徹によって、将軍徳川吉宗の厚遇を受け、明智庵のあとに現在の善応寺を再建した。

河野通盛の墓
本堂の左手に石組の小高い塚があり、河野通盛が眠る。墓にお参りし、本堂に戻る。寺仏や寺所蔵文書の案内がある。

木造釈迦如来及び両脇侍坐像(県指定有形文化財;彫刻)
「中尊の釈迦如来坐像は、像高104センチメートル、台座96センチメートル。衲衣(のうえ)や台座の彫が力強く、肉感的のある写実的な面相をもった釈迦仏である。
脇侍の文殊菩薩像は像高54センチメートル、普賢菩薩像は像高52センチメートル。騎乗する獅子と象は肉感にあふれ、鎌倉時代の特徴をよく表している」。

木造達磨大師倚像・木造大建修利菩薩倚像・三牌(松山市指定有形文化財;彫刻)
重複する部分はカットして、概略をまとめる;
「木造釈迦如来及び両脇侍坐像とともに造像されたもので、寺伝によれば安阿作と。檜材の寄木造り。仏像の前に並ぶ「三牌」は開山正堂士顕の法兄である広智国師の真跡と縁起にある。広智国師は鎌倉の円覚寺、建長寺、京都の東福寺に住した高僧である」。

三牌
「三牌」ってはじめて聞いた。説明よれば、仏さまの前に並ぶ三つの「牌」のようだ。中央に「今上皇帝聖躬万歳」、両脇に「南方火徳星君聖衆」、「檀那本命元辰北斗」と刻まれた三つの牌がある。
案内には三牌とは何?の説明がない。チェックすると、「今上皇帝聖躬万歳」と刻まれた「牌」は、都の大寺において、天皇の健康と長寿を祈るもの。天牌、天皇牌、皇帝牌などと称されるようで、宋時代に禅宗寺院に祀られたものが日本に伝わった。両脇に控えるふたつの牌は詳細不詳。天皇牌を護るためのものだろうか?
それにしても、都の大寺はともあれ、伊予に天皇牌が祀られる所以は?開山正堂士顕の法兄、鎌倉の円覚寺、建長寺、京都の東福寺に住した高僧・広智国師故のものか、在京期間の長かった河野家当主・通盛故のものか不詳である。

金銅誕生仏立像(県指定有形文化;彫刻)
奈良時代後期とみられる像高10センチの銅像・鍍金の仏さま。大正13年(1924)に善応寺塔頭万年寺跡の灰層より掘り出された。

善応寺文書(県指定有形文化;文書)
南北朝時代から江戸時代にわたる河野氏と河野氏にゆかりの深かった西園寺氏関係の文書。内容は、足利義詮の御教書(写し)、庁宣状(役所から出す公文)、河野氏の下知状、寺務状、譲渡状、禁制、西園寺氏の寄進状作職権、半済(室町時代の租税の一つ)など五巻六十九通の巻物で、河野家の勢力台頭を物語る重要資料である。

西園寺氏と伊予
河野氏にゆかりの深かった西園寺氏」のエビデンスとしてお公家さんの西園寺氏が河野氏とペアとなって登場する例を挙げると、宮方に帰順し伊予の守護となった通堯(第29代当主)とともに知行国主として府中に入城したこと、そして武家方に復帰した通堯に与し同じ武家方の細川氏と戦い討死している。この場合の西園寺氏とは西園寺公俊公のことではあろう。
西園寺公俊の妻は河野通朝の娘というから、通堯とペアで動くその動向はわからなくもないが、それはともあれ、京のお公家さんである西園寺氏の流れが伊予に土着したのはこの公俊の頃と言う。
西園寺氏と伊予の関りは鎌倉期に遡る。鎌倉幕府が開かれ守護・地頭の制度ができた頃、当時の当主西園寺公経は伊予の地頭補任を欲し、橘氏からほとんど横領といった形で宇和郡の地頭職となっている。当時は、地頭補任は言いながら、伊予に下向したわけではなく代官を派遣し領地を経営したようである。
その後鎌倉幕府が滅亡し建武の新制がはじまると、幕府の後ろ盾を失った西園寺氏は退勢に陥る。伊予の西園寺家の祖となった西園寺公俊が伊予に下ったのは、そのような時代背景がもたらしたもののようである。
伊予西園寺氏は宇和盆地の直臣を核にしながらも、中央とのつながりをもち、その「権威」をもって宇和郡の国侍を外様衆として組み込んだ、云わば、山間部に割拠する国侍の盟主的存在であったとする(「えひめの記憶」)
橘氏
橘氏ははじめ平家の家人であったが、源平合戦期に源氏に与し多くの軍功をたてる。鎌倉幕府開幕時の守護・地頭の制度により、鎌倉御家人として宇和の地の地頭に補任される。その橘氏の所領の地に西園寺氏が触手をのばす。
橘氏は、宇和は警護役として宇和島の日振島で叛乱を起こした藤原純友を討伐して以来の父祖伝来の地とも、頼朝よりの恩賞の地とも主張するも願い叶わず、宇和は西園寺氏の手に移り、橘氏は肥後に領地替えとなった、とのことである(「えひめの記憶」)



■河野氏の盛衰(通盛まで)■

善応寺の開基は河野通有の末子、河野通盛とある。通有は河野家第26代当主、通盛は第27代当主である。7回にわたる壬生川・丹原地区(現西条市)に残る河野氏ゆかりの地を訪ね、歴代当主について、その事蹟をまとめてきたのだが、既に記憶が薄れてきた。ここに第27代当主通盛に至るまでの河野家当主の概要を整理しておく。

鎌倉以前;伊予国衙の役人であったよう
鎌倉以前の河野氏については、国衙の役人であったらしい、というほか、詳しいことは分からない。その本貫地は善応寺の一帯。伊予北条(現在松山市)の南部、河野川と高山川に挟まれた高縄山の西麓であったようだ。この地を開墾し、開発領主として力をつけていったと言われている。

鎌倉幕府開幕期;源氏に与し威を張るも、承久の変で宮に与し衰える
記録が残るのは第22代当主河野通清からである。第22代当主・通清は頼朝の平氏打倒の挙兵に呼応し四面楚歌の中、通清は敗死するも、その子通信(第23代)の武功により鎌倉御家人としての確固たる地位を築く。
しかし、頼朝没後、承久の変において後鳥羽上皇に与し敗れ、河野氏は没落。一族の内、ひとり幕府側に与した通久(第24代)によって河野家の命脈は保たれる、といった状況となる。

元寇の変の武功で勢を回復するも、内紛で一族は分裂
この衰退した河野家を復権させたのが第26代当主・河野通有。元寇の変で武功を立て盛時の威を取り戻す。
通有の元寇の変における活躍によって往時の勢を回復した河野氏であるが、通有没後、家督相続や嫡庶間の競合や対立により、一族間の抗争が激化。河野一族は、通有の後を継いだ通盛(第27代)の率いる惣領家と、土居通増や得能通綱らの率いる庶家とに分裂し、鎌倉末期から南北朝時代へと続く動乱のなかにまき込まれていくことになる。

善応開基の通盛までの河野家の盛衰を簡単にまとめた。で、開基通盛であるが、少し詳しくメモする。

河野通盛(第27代);
建武の中興から南北朝争乱期、武家方に与し、天皇方についた一族と分裂するも、最終的に武家方として威を張ることになる

鎌倉後期、天皇親政を目指す後醍醐天皇により、北条鎌倉幕府の倒幕運動・元弘の乱(1333年)が起こる。風早郡高縄山城(現松山市)に拠った河野宗家の通盛(第27代)は幕府側に与するも、一族の土居通増・得能通綱氏は天皇側につき、河野一族は分裂。土居・得能氏の活躍により、伊予は後醍醐方の有力地域となる。
天皇側に与した足利尊氏、新田義貞の力も大いに寄与し、結果は天皇側の勝利となり、天皇親政である建武の新政となる。鎌倉幕府は滅亡し、最後まで幕府に与した通盛は鎌倉に隠棲することになる。
足利尊氏の新政離反と河野通盛の復帰
建武の新政開始となると得能氏が河野の惣領となり伊予国守護に補任されたとある(『湯築城と伊予の中世』)。しかしながら、恩賞による武家方の冷遇などの世情を捉え、足利尊氏は新田義貞討伐を名目に天皇親政に反旗を翻す。世は宮方(のちの吉野朝側)と武家方(足利氏側)とに分かれて抗争を続け、南北の内乱期に入ることになる。
この機をとらえ、鎌倉に隠棲中の通盛は尊氏に謁見し、その傘下に加わる。尊氏は、通盛に対し河野氏の惣領職を承認し、建武4年(1337)伊予に戻った通盛は新田義貞に従軍中の土居・得能氏の不在もあり、南朝方を府中から掃討し伊予での勢力拡大を図る。
宮方の脇屋義助(新田義貞の弟)の伊予国府での病死、伊予の守護であり世田城主大舘氏明の世田城での戦死などが伊予での南朝優勢が崩れる「潮目」となったようだ。
足利尊氏も一度は新田勢に大敗し、九州に逃れるも、天皇親政に不満を抱く武家をまとめ、京に上り宮方に勝利する。尊氏は通盛に対して、鎌倉初期における通信時代の旧領の所有権を確認し、通盛は根拠地を河野郷から道後の湯築城(異説もある)に移して、足利方の中心勢力となる。
湯築城へ移った時期
湯築城に河野氏が移ったのは、河野氏が室町幕府の統制下、伊予国守護職を相伝することになった、第30代当主・河野通義の頃との記事もある(『湯築城と中世の伊予』)。
第22代当主・河野通清とは?
河野通清以前は詳細不明である、とはいいながら、第22代当主とある。その所以は世の常の如く、先祖を貴種に求め、河野氏もその祖を伊予の古代豪族越智氏とする家系図故のこと。その越智氏の一族で白村江の戦いに出陣した越智守興と現地の娘との間に生まれた子・玉澄が河野郷に住み、河野を号した。その玉澄を初代として22代目が通清、ということである。因み祖をもっと古く遡る家系図(「越智宿禰姓 河野氏系図」;第26代通有の項でメモする)もある。


■雌甲山・雌甲山■



城山道(北口);12時23分
善応寺に城山たる雄甲山・雌甲山への案内があろうかと思っていたのだが、特段の案内はない。境内を出て、農作業をしていたご婦人に尋ねると、山裾の善応寺集落の中を通る道を少し東に進めば「城山道」の案内がある、と。 善応寺から数分歩くと「城山道」の石の道標と、手書きで「男甲山・女甲山」とかかれた木の標識の立つT字路があり、そこから右に民家の間を抜ける坂道が城山道であった。

簡易舗装された道を進む
左手に雄甲山を見遣りながら簡易舗装されて道を進むと、「城山道 是より25米先右」と刻まれた石の道標が立つ。ほどなく舗装は切れ、竹藪の中にある木の道標に従い土径を進む





尾根手前分岐;12時35分
集落のT字路から10分強く上ると「右 女甲山  左 男甲山」と刻まれた石の標識がある。石の道標の脇に木の道標があり、それを見ると左右にここで分かれる道は尾根道に繋がっている。とりあえず左手の男甲山へと道を取る。





●雌甲山(標高238.62m)●

尾根分岐点:12時38分
落ち葉の敷き詰められた気持ちのいい道は数分で尾根筋にのぼり、そこにも「右 女甲山  左 男甲山」と刻まれた石の標識がある。城山道(北口)から15分弱といったところである。左の男甲山へと道を取る。




雄甲山(おんごやま);12時46分
尾根道を6分程度進み、最後は少し岩場っぽい箇所を上り雄甲山に到着。国土地理院の四等三角点とともに、小さな祠が祀られる。木々に遮られ展望はあまりよくないが、北条沖の鹿島は木々の間から顔を出していた。




●雌甲山(189.1米)●

雌甲山(めんごやま)に向う
雄甲山を離れ尾根道を戻り、分岐点を越えて雌甲山に向う。こちらは雄甲山のように、山頂直前に岩場もなく、大岩の脇を迂回して山頂に向かう。






雌甲山;13時1分
雌甲山の山頂からの眺めは誠に美しい。四方が見渡せる。瀬戸の海、雄甲山に続く稜線とその先には高縄山(993.2m)・大月山(953.1m)の山塊。雌甲山は高縄山・大月山の山塊の支尾根の北端部である。
山頂の小祠には役行者像が祀られる。傍にあった石碑には「記 中世、文武両道に優れた伊予の豪族河野氏の発祥の地善応寺は、建武2年(1335年)通盛公が土居の館に七堂伽藍、十三の塔頭を建立し善応の里と改めて、五山の一つ此、女甲山に役行者の像を小さき石に刻み、眼下の仏塔を見守る如く龍中に安置したとの伝えが残っている。
道後の湯築城へ建武年間(1334~1337年)に移るまで通盛公の居城であったと。 天正13年(1584年)豊臣の天下統一により湯築城は開城、善応の里の仏閣も一朝の灰塵に。
河野氏滅亡後は、村人たちは代々、上石丸、城木家を宿として役行者を青葉の薫る五月八日にお山講としてお祭りし今に至るも、河野氏の遺徳を忍んでいる」とあった。

城山道標;13時13分
雌甲山を離れ尾根道を戻り、雄甲・雌甲山への分岐点に戻る。成り行きで道を下るが、どうも上って来た道とは違うようだ。道はしっかり踏まれているので、そのまま下ると「左 城山道」と刻まれた古い石の道標が立つ。






城山道(南口);13時16分
少々混乱しながらも、とりあえず道を下ると里に出た。道脇には「左 城山道」と刻まれた石の道標が建っていた。上った道と真逆の道を下りてきた。城山道は南からも北からも上れるようになっていたわけだ。少々混乱した理由もわかった。
善応寺に戻る;13時35分
城山道(南口)から道なりに20分ほど進み車をデポした善応寺に戻る。来た時は気付かなかったのだが、お寺への坂道の脇に「丁石、延命地蔵、馬頭観音」を祀る祠が建っていた。丁石は高縄寺まで一丁毎に建てられていたもののひとつ。旧道にあったものが移された、とのことである。
これで、善応寺、雄甲・雌甲山散歩を終え、次の目的地である高穴山に向う。



高穴山



高穴山取り付口;13時47分
善応寺を離れ、高穴山に上る取り付口を探す。県道178号を高縄山方面に向かい、河野川に架かる岩壺橋を渡った先に高穴山に入る石段が見えた。登山道は特段表示されていないため、どこから上ろうと同じではあるが、なんとなくその石段を取り付口とする。車を道脇にデポし頂上に向かう。

削平部に;14時4分
石段を上り山に入る。が、その先に踏み跡は何もない。とりあえず山頂に向かって適当に上るだけである。Iphone アプリのGmap Toolsで現在地を確認しながら、高穴山のピークに向かって這い上がる。シダ、杉林を力任せに進むだけ。 20分弱で平坦な箇所に出た。地図で確認すると、高穴山は250m等高線の台地の上に三つのピークがある。最高ピークは北端292.1m。そこが高穴山の山頂ではあろう。
城というか砦は三つのピークにそれぞれあったようだ。また250m等高線の平坦な地形は自然のものでなく、東西に連なる尾根を削平して人工的に造りあげたもののようである。

堀切跡(?);14時4分
250m等高線の台地から292.1mピークに向かう。結構藪がキツイ。堀切り(?)らしき遺構に見えなくもない、如何にも人工的に掘り切った箇所から、これまた強烈な藪を40mほど上る。





山頂;14時8分
藪を掻き分けて進むと山頂に。広くはないが、平坦地となっている。中央に小さな祠が祀られる。周囲は木々で覆われ見通しはよくない。平坦地には小さな池が残る。水は枯れることがないと伝わる。
  この山城にあった城、というか砦は、なかなかの堅城であったようで、四国攻めの小早川勢も攻略に難儀した、と言う。

高穴城
「えひめの記憶」には、「当城は東西に連なる尾根を削平して構築した関係で、東西一二五メートル×南北一七メートルで東西に細長く、東高西低の階段式構造の郭配置をとっている。
東部に二六メートル×一四メートルの長円形をした本丸が、長さ一〇メートルの石垣をもつ三メートル×二〇メートルの帯郭を西側に配して南東→北西に連なり、本丸の西、比高一五メートルの段差をもって東西二一メートル×南北一〇メートルの長方形をした二の丸があり、その西斜面は三〇メートルから二つの尾根に分かれ、両尾根に深さ一~三メートル、幅二~八メートルの空堀が掘られ、城の大手口の防衛にあたった」とある。

下山;14時50分
山を下りる(14時15分)。頂上に出た上り口をしっかり確認せず、適当に下り、しばらくして、どうも上ってきたルートとは違うように思えてきた。Gmap Toolsで現在地をチェックすると、あらぬ方向に向かっている。270m等高線あたりから南に下りるのを、そのまま北西に下っていた。
引き返し(14時25分)。Gmap Toolsを頼りに登山地点に向けて藪を避けながら下る。途中150m等高線辺りのU字溝越える辺りまで来ると河野川の流れの音も聞こえ、安心して登山口に。

当初の計画では恵良山もカバーする予定であったが、時間切れ。恵良山は次回に廻す。

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