立川崖線散歩;立川から分倍河原まで

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ほぼ立川崖線に沿って進む。先日、国立を歩いた時、このあたりには立川崖線とか青柳崖線が続いている、と。青柳崖線は先回、「くにたち郷土文化館」から谷保天神までの散歩を楽しんだとき、その崖下に沿って歩き、なんとなく雰囲気を感じた。で、今回はもうひとつの崖線・立川崖線を肌で感じよう、と思ったわけだ。
立川崖線といっても、はてさて、どこから続いているのかよくわからない。昔、立川の南、奥多摩街道を走っているとき、その南の多摩川の低地とは結構比高差があるなあ、などと思っていた。たぶんそれが崖線の流れあろう。
で、どこからスタートするか、ふと考える。地図を見る。西立川に歴史民俗資料館。奥多摩街道とも近い。そこにいけば何らか手がかりもあるか、と。とりあえず資料館にむかうことにする。「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)
(2009年8月の記事を移行)



本日のルート;JR青梅線・西立川>立川市歴史民俗資料館>首都大東京昭島キャンパス>郷地町交差点>奥多摩街道>歴史民俗資料館>奥多摩道路>東京都農事試験場>富士見町3丁目・富士見通りと交差>滝口橋・残掘川>残堀川筋>JR普中央線交差>普済寺>奥多摩街道>諏訪神社>多摩モノレール・柴崎体育館駅>立川公園・立川市民体育館>根川緑道>新奥多摩街道・根川橋>国道20号線・甲州街道>野球場・陸上競技場>至誠学園>甲州街道>矢川緑地公園>矢川>国立六小>甲州街道>滝野川学園>おんだし>ママ下湧水公園>石田街道>矢川(府中用水)・くにたち郷土文化舘下>ヤクルト中央研究所北>城山公園>谷保天満宮>立川崖線樹木林下>国道20号線・国立IC>上坂橋>日新町・NEC>市川緑道(中川用水・新田川)>鎌倉街道>中央道>新田川緑道・分梅橋>分倍河原合戦碑>中央道交差>京王線・分倍河原駅

青梅線・西立川駅
青梅線・西立川で下車。駅の北は昭和記念公園。むかしの米軍の基地跡。そのまた昔は陸軍の飛行場があった、とか。駅を南に進む。途中、首都大学東京昭島キャンパス。昔の都立短大ではなかろうか。仕事で来たことがあるような、ないような。

奥多摩道路

その脇を通り、しばらく進むと奥多摩道路。EZナビに従い細路を進む。お寺の塀。常楽院。その先は崖下。ガイドでは、「ここ」だとのたまうのだが、それらしき建物はなし。ナビを切り、奥多摩街道に戻ったり、またまたお寺方面に戻ったりと、あたりをうろうろ。
どうも崖下ではなかろうか、と降り口を探す。家庭菜園といった趣の畑地の脇に細い下り道。成算はないのだが、とりあえず下に。車道に出る。少し西に進むと、歴史民俗資料館があった。崖の下。この崖は立川崖線であるのだが、その崖に包み込まれるように建っていた。「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

歴史民俗資料館
展示室で立川の歴史・自然などのお勉強。ロビーにあったビデオも楽しんだ。記憶に残ったこととしては、このあたりは「立川氏」の勢力下にあった、こと。古社・諏訪神社が鎮座する。それと、立川って、陸軍の飛行隊、そしてその飛行場とともに発展してきた、といったこと。陸軍飛行第五連隊が駐屯し、大正11年から終戦まで、「空の都 立川」の代名詞でもあった。
で、例によっていくつか資料購入。
買い求めた「歴史と文化の散歩道」をもとに、本日のルートを考える。基本的には立川崖線に沿って分倍河原方面に向かう。これは基本。が、途中、立川氏舘跡に。そこからしばらく崖線を離れ、諏訪神社に。それから再び崖線に戻る。多摩川傍の「日野の渡し」に。しばらく崖線に沿って進み、日野に下る甲州街道を越えたところで、再び崖線を離れ清流・矢川の源流点である矢川緑地保存地域に。そこからしばらく矢川にそって下る。いくつかの湧水点を楽しみ、先回歩いた青柳崖線近くを進み保谷天神に。そこで、ふたたび立川崖線に戻り、後は府中に向かって崖下を歩く、といった段取りとする。

奥多摩街道

さてと、出発。資料館を離れ、崖下を少し進む。如何にも湧水、といった池を見やりながら、坂道をのぼり奥多摩街道に戻る。崖上の道を東に向かう。東京都農事試験場前を進み、富士見3丁目交差点で富士見通りと交差。奥多摩街道は車の通りが多い。トラックの風圧に結構怖い思いをしながら滝口橋で残堀川を渡る。

残堀川
残堀川って、いつだったか玉川上水を歩いていたとき出会った。西部拝島線の武蔵砂川駅の近く。記憶では交差する用水上を「立体交差」していたように思う。
残堀川は、瑞穂町箱根ヶ崎の狭山池から流れ出し、立川市柴崎町の立日橋付近で多摩川に注ぎこむ。狭山池助水とも呼ばれるように、残堀川はもともと玉川上水に水を注いでいたのだが、明治になって残堀川が汚れてきた。ために、玉川用水と切り離すべく、工事をおこない、玉川用水が残堀川の下を潜らせた、と。

残堀川脇を進む

奥多摩道路から残堀川筋に下る道を探す。しばらく進むと下りの道筋。残堀川脇に出る。西を見ると、さきほどの滝口橋から南に下った残堀川が、その下で直角に曲がっている。人工の川筋ならではの流路。
川に沿って東に進む。JR中央線と交差。地図ではJR中央線を越えるとすぐに立川氏の館跡である普済寺なのだけれど、石垣が続くだけで、上にのぼる道がない。結構東に持っていかれた。

普済寺
根川緑道がはじまるあたりから、川筋からのぼる道をみつけ、そこからお寺に向かって西に戻る。根川緑道は清流の続く美しい道筋。とはいうものの、湧水は高度処理された下水である。
普済寺。中世に武蔵七党と呼ばれた西党の一族、立川氏の館跡。平安初期に立川二郎宗恒が地頭としてこの地に来た。それ以前の立川は、20戸程度の寒村に過ぎなかった、と。その後小田原北条に仕えるも、秀吉の小田原攻めのとき、八王子城の落城とともに滅んだ。
境内には国宝六面石幢。場所を探していると、丁度通りかかった和尚さんに道を案内して頂く。感謝。厳重にガードされたお堂の中に格納されていた。崖上から多摩川を見下ろし次の目的地、諏訪神社に向かう。

諏訪神社

諏訪神社。弘仁2年(811)に信州の諏訪大社から勧進された立川最古の神社。「お諏訪さん」として親しまれている。本殿は新しい。平成6年に火災に遭い新しく再建された、と。

多摩モノレール・柴崎体育館駅
神社を離れ、次の目的地・多摩の渡しの跡に向かう。住宅街を進み、多摩モノレール・柴崎体育館駅に。このあたりで再び立川崖線に戻る。

旧甲州街道の道筋
立川公園と市民体育館の間を進む。体育館の東に旧甲州街道の道筋。ちょっと旧甲州街道の道筋をチェック。国立方面から西に真っ直ぐ進んできた道筋は、日野橋交差点あたりで北に向かって円を描くように湾曲し、ここ柴崎体育館あたりに続いているよう。

根川緑道旧甲州街道の道筋を南に下り、根川緑道を越え、新奥多摩街道をわたる。新奥多摩街道、って西に向かって進んできた甲州街道が日野橋に向かって南にくだる交差点を、そのまま西に進む道筋。

日野の渡し碑
新奥多摩街道を越え、下水処理場に沿って南に進むと「日野の渡し碑」。「日野の渡し」は、現在の「立日橋」のあたり、立川の柴崎と日野を結んでいた渡し。大正時代に日野橋ができるまで、高遠藩・高島藩・飯田藩といった三大名家、甲府勤番、そして庶民がこの渡しを利用していた、と。ちなみに渡し賃は、馬と人は別途徴収。僧侶、武家は無料であった、という。

甲州街道
下水処理場の南を、ぐるっと廻る。日野橋に下る甲州街道に。甲州街道を越えると野球場・陸上競技場。根川緑道は落ち着いたいい雰囲気。

根川貝殻坂橋

陸上競技場を過ぎると、「根川貝殻坂橋」に。吊橋を模したスタイル。案内によれば、「貝殻坂橋」の名前の由来は、「万願寺の渡し」にある、と。この万願寺の渡し、って先ほど見た、日野の渡しが出来る前に遣われていた多摩川の渡し。甲州街道を進んできた旅人は、国立市青柳で段丘を下り、国立市石田から多摩川を渡り日野市の万願寺に渡っていた。その段丘を下る坂道に多くの貝殻が
出てきた、と。ために、貝殻坂と呼ばれた。「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

矢川緑地公園
次の目的地は矢川緑地公園。橋を渡り、崖線を上る。このあたりは国立との市境。甲州街道まで進み、至誠学園のあたりで甲州街道を北にわたる。立川と国立の境を道なりに北にすすむと矢川緑地公園。緑地公園のある羽衣町は立川市となっている。緑地の西を台地にのぼる道筋から矢川緑地を眺める。湿地帯が美しい。台地下にもどり、緑地入口から木道のかけられた湿地に入る。水が湧き出る、というだけで、それだけで結構うれしい。この景色を楽しめただけで本日の散歩は大いに満足。

矢川に沿って甲州街道に
湿地を進み、湧水の水を集め清流として下る矢川に沿って歩く。ひたすら川筋に沿って進む。水草の生い茂る川面が美しい。国立六小前には、児童が育てる「ほたる」の飼育湿地もあった。
甲州街道手前には五智如来。先に進み甲州街道を再び越え、さらに川筋に沿って進む。

矢川は滝野川学園の敷地に
川は滝野川学園の敷地に入っていく。立ち入り禁止、かとおもったのだが、川脇にかすかな踏み分け道。先に進めそう。ほとんど敷地といった川筋を進む。森に囲まれたまことにいい雰囲気。

「おんだし」

学園敷地の森を抜ける。前方に中央高速が見える。水田のあぜ道といった道筋を進むと川はT字に合流。西から流れていた府中用水であろう。ということは、ここは「おんだし」。押し出し、と表記されるようであるので、「矢川の水が府中用水に勢いよく流れ込んださまを表したものであろう、か。
「おんだし」部分の川幅は結構広い。さすがにT字交差の用水を飛び越えることはできない。仕方なく、森のほうに引き返す。
矢川の流れの横にもうひとつ水路。森の手前から西のほうに伸びている。これって、「ママ下湧水」からの流であろう。ということで、矢川から「ママ下湧水」の水路にルート変更。



ママ下湧水
なんとか流れを飛び越え、流路にそって遡る。しばらくすすむと「ママ下湧水」。「ママ」って、「ハケ」とか「ハッケ」とも呼ばれる崖線のこと。崖下から、水が湧き出ている。結構な量。これほど勢いよく湧き出る水はあまりみたことがない。感激。感慨をもって崖線を眺め、また崖線を上ったり下りたり、しばし幸福な時を過ごす。

府中用水「ママ下湧水」を離れ、府中用水に沿って進む。先ほど歩いた矢川との合流T字路・「おんだし」に。水草の美しい流れ、矢川の名前の由来ともなった「矢のように速い流れ」そのものの水量。勢いのある澄んだ流れは心地よい。少し進むと先回「くにたち郷土文化館」に行く時通った道と交差。すこし北のほうに崖地が見える。青柳崖線。先日は、あの崖下の細流・せせらぎの小道、を辿ったなあ、などと思いにふける。
府中用水の流れにそって進む。ヤクルト中央研究所の手前で流れは南に。最後まで流れの行く末を見届けたいのだが、それよりなにより本日の散歩の目的は立川崖線を歩くこと。谷保天神のところで立川崖線が青柳崖線と合流する、ということであるので、北に歩をとる。

青柳崖線下を谷保天神に
ヤクルト中央研究所のフェンスに沿って青柳崖線下に向かう。細流・せせらぎの小道にかかる木橋を眺め先に進む。城山公園から谷保天神へと、勝手知ったる道筋を進む。谷保天神では先回見逃した「常盤の清水」に訪れ、しばし休憩。「ママ下湧水」ほどの勢いはない
ものの、「湧水」というだけで有難く思う。

上坂橋から日新町に

谷保天神を離れ、立川崖線に沿って進む。樹木林が生い茂る。崖下の道を進む。細流は府中用水、かと。国道20号線・国立ICとの道路。道路手前の崖線上には「下谷保遺跡」。螺旋階段を上り、国立ICへの道を越え、再び螺旋階段を下る。
崖線に沿って進む。崖線上には谷保東方横穴墓とか谷保東方遺跡。上坂橋を過ぎると日新町。NECの工場がある。このあたりから府中用水水は「市川緑道」と名前が変わっている。

市川緑道

市川緑道を進むと、今度はいつのまにか新田川の緑道となっていた。府中用水って市川とは新田川などと、場所によって呼び名が異なっているよう、だ。

鎌倉街道

しばらく進むと鎌倉街道。ここで、分倍河原の駅に向かおうか、などとも思ったのだが、なんとなく、昨
年だったか、多摩から分倍河原に向ってあるいた
ときに出会った、分倍河原合戦の碑を見ておきたくなった。新田川緑道脇にあったように思う。

分倍河原合戦の碑

街道を越え中央道の下をくぐり緑道を進むと分梅橋。分倍河原合戦の碑があった。分倍河原の合戦。新田義貞と北条軍の戦闘。緒戦新田軍不利。その際、武蔵の国分寺など焼失。が、翌日、陣容を立て直し、北条軍を破り鎌倉に攻め入り幕府を滅ぼすことになる。

京王線・分倍河原


道を北に進み、ロータリーっぽい交差点。御猟場道と分梅通の交差点。分倍=分梅の由来が書いてある。「新田義貞が梅を兜につけて進軍したという逸話に由来する『分梅町』から取られた」、と。
とはいうものの分梅町って名前は近世になってから、とのことではあるし、なんとなくしっくりこない。また、「多摩川の氾濫により収穫が少ないので、口分田を倍に給した所であったため『分倍(陪)』や『分配』と呼ばれていた」との説もある。が、これといった定説はないようである。脇道を進み京王線・分倍河原の駅に到着。本日の予定終了とする。   

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