南千住から汐入地区を辿り、三ノ輪に戻る
荒川散歩の2回目は千住、そして汐入地区。荒川区の東部一帯である。千住って地名は折に触れてよく聞く。メモをはじめわかったのだが、千住は隅田川を隔てて北と南に分かれる。北千住、もっとも北千住って地名はないようだが、隅田川の北の千住は足立区。隅田川南の南千住が荒川区、であった。
往古、南千住は交通の要衝であった。とは言うものの、この場合の南千住は、現在の千住大橋近辺というより、先般の浅草散歩でメモした白髯橋近辺、橋場の渡し・白髯の渡しのあたりではなかろうか。
鎌倉から戦国期の地図を見ると、鳥越から砂州に沿って石浜のあたりまで東海道が通り、この渡しを超え市川の下総国府につながっている。武蔵野台地と下総台地のもっとも接近したところであり、交通の要衝であったのもごく自然なことである。すぐ近くには古代の海運の一大拠点・浅草湊もあるわけで、交通だけでなく商業・宗教。軍事拠点であったわけだ。
戦国期の南千住のあたりの地図を眺めてみると、浅草から橋場・石浜に隅田川(当時は、入間川)に沿って砂州・微高地がある。同様に、現在の千住大橋・素盞雄(スサノオ)神社近辺にも砂州が認められる。が、その内側は千住大橋から三ノ輪を結ぶ線より東は入り江状態。その線より西は三河島のあたりまでは泥湿地帯となっている。源頼朝が浅草・石場から王子へと平家討伐軍を進めるに際し、小船数千を並べて浮橋とした、というのも大いにうなずける。江戸以前、南千住の一帯は、入間川(隅田川)沿いに堆積した砂州を除き、ほとんどが水の中・湿地帯であった、ということだ。
本日の散歩をはじめる千住大橋近辺も古くから開けたところである。戦国期の地図を見ると、入間川沿いの砂州・微高地に飛鳥社が見て取れる。飛鳥天王社、現在の素盞雄(スサノオ)神社であろう。この神社は古墳跡とも言われる。
周囲を川と湿地・汐入の入り江で囲まれた「浮島」のようなこの千住大橋近辺が、橋場・白髯地区にとって替わり、交通の要衝となったのは、まさしく千住大橋が作られて以降であろう。文禄3年(1594年)のことである。この橋ができて以降、従来は橋場・石浜から下総へと延びていた佐倉街道、奥州街道・日光街道、水戸街道は、この千住大橋経由にシフトした。以降、宿場町として賑わいをみせることになる。ちなみに千住の名前の由来は、川の中から「千手」観音が出てきた、とか、千寿姫にある、とか、「千」葉氏が「住」んでいたから、とか、例によってあれこれ。ともあれ、散歩にでかける。
本日のコース: 三ノ輪 > 百観音・円通寺 > 素盞雄(スサノオ)神社 > 荒川ふるさと文化館 > 誓願寺 > 熊野神社 > 千住大橋 > 日枝神社 > 胡録神社 > 水神大橋 > 回向院 > 小塚原刑場跡 > 日光街道
百観音・円通寺
三ノ輪橋跡より日光街道を北に、千住大橋に向かって進む。道の左手に百観音・円通寺。延暦10年(791年)、坂上田村麻呂の開創とか。また、源義家が奥州平定の際、討ち取った首を境内に埋めて塚を築く。これが小塚原の由来、とも。江戸時代、下谷の広徳寺、入谷の鬼子母神、簔輪の円通寺、この三つのお寺を下谷の三寺と呼ぶ。秩父・坂東・西国霊場の観音様を百体安置した観音堂があったため、「百観音」とも。
境内に上野寛永寺の黒門が。上野のお山でなくなった彰義隊の隊士をこのお寺の和尚さんが打ち首覚悟で供養した。官軍に拘束されるも、結局埋葬・供養を許される。そうえいえば、京都散歩のとき、黒谷金戒光明寺にあった会津小鉄のお墓。鳥羽伏見の戦いでなくなった会津の侍を命がけで埋葬。坊さんと侠客と、少々キャラクターは異なるが、その話とダブって見える。
素盞雄(スサノオ)神社
少し先に、素盞雄(スサノオ)神社。「てんのうさま」とも。スサノオのことを牛頭天王(ごずてんのう)とも呼ばれるからだろう。朝鮮半島の牛頭山に素盞雄(スサノオ)が祀られていることに由来する。日本神話の神様・素盞雄(スサノオ)って、朝鮮半島の神様である、ということ。
この神社、石神信仰に基づく縁起をもつ。延暦14年(795年)、石が光を放ち、その光の中から素盞雄命と事代主命(ことしろぬしのみこと)が現れて神託を告げる。その石を瑞光石と呼ぶ。光の中から出現した二神が祭神。
散歩の折々、石を神として祀る神社も時々出会う。石神井神社、江東区亀戸の石井神社、それと先日歩いた葛飾立石の立石様、といったもの。石といえば、この素盞雄(スサノオ)神社の石は、千葉県鋸山近辺の「房州石」であり、この石材は古墳の石室に使われる。よって、素盞雄(スサノオ)神社って古墳跡では、とも言われている。
荒川ふるさと文化館
神社の裏手に「荒川ふるさと文化館」。例によって、常設展示目録、企画展資料・「川と川」、「ひぐらしの里」といった資料を購入。
誓願寺
文化館を離れ千住大橋の袂に。誓願寺。奈良時代末期、恵心僧都源信の開基と伝えられる。源信といえば、『往生要集』(985年)。地獄・極楽を描き出し、ゆえに極楽浄土への往生をすすめる浄土教基礎を確立した人物。恵心は叡山で学んでいたときの道場名である。
境内には親の仇討ちをした子狸の「狸塚」。お寺の隣にあった魚屋の魚が無くなる。不審に思った近所の人たちがウォッチ。古狸の仕業。で、打ち殺す。その夜から、魚屋の魚が宙に浮く。祈祷師に見てもらうと、子狸が親の敵討をしていた、といった按配。ちなみに先日の隅田散歩での多門寺にも狸塚が、あった。狸塚って、結構多い。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)
熊野神社
誓願寺の近く、民家に囲まれたところに熊野神社。入口に門があり鍵がかかっているような、いないような、ということで中に入るのは遠慮し、外からちょいと眺める。創建は永承5年(1050年)。源義家の勧請によると伝えられる。千住大橋を隅田川にかけるにあたり、関東郡代・伊奈忠次は成就祈願。橋の完成にあたり、その残材で社殿の修理を行う。以後、大橋のかけかえ時に社殿修理をおこなうことが慣例となった。
神社のあたりは材木、雑穀などの問屋が立ち並ぶ川岸。奥州道中と交差して川越夜舟、高瀬舟がゆきかい、秩父・川越などからの物資の集散地としてにぎわった。秩父の材木は筏に組んで流され、千住大橋南詰めの三王社前で組み替え、深川方面に運ばれた。ために、このあたりは材木屋が立ち並んでいた、とか。
千住大橋
千住大橋。荒川ふるさと館で仕入れた「常設展示目録」をもとに、メモする:文禄3年(1594年)、家康の命により、伊奈忠次が総指揮。万治3年(1660年)に両国橋が架けられるまでは「大橋」と。奥州・日光方面への入口として交通・運輸上の要衝。橋を渡ると足立区。
ともあれ、千住大橋の南北に広がる千住宿は、江戸四宿のひとつ。日光道中の最初の宿駅。参勤交代や将軍の日光参詣など公用往来の重要な継立地。橋の南の小塚原町、中村町は「千住下宿」として諸役人の通行や荷物搬送のため人馬を提供。奥州方面への玄関口として街道筋がにぎわい、荒川を上下する川舟の航行が盛んになると、さまざまな職業の店が立ち並ぶ宿場町を形成」、と。i
日枝神社・旧砂尾堤土手の北端
千住大橋を少し東に。日枝神社。入口に歯神・清兵衛をまつる祠。千住の歯神、とも。どこかの藩の清兵衛が歯の痛みに耐えかねてこの地で切腹、といったエピソード。が、それよりもなによりも興味があるのは、このあたりが旧砂尾堤土手の北端である、ということ。
砂尾堤土手とは、荒川の氾濫に備えて築かれた堤。昔の地図を見ると、この神社あたりから東に伸び、現在の隅田川貨物駅あたりの東端を南に下る。よくわからないが、南端は明治通りのあたりだろうか。氾濫する隅田川の水をこの堤で防ぐ。この堤を越えた水はその南、東西に続く日本堤で防ぎ、ふたつの堤で増水した水を絞り込んで隅田川に再び流し込んでいた、のだろう。ちなみに、「汐入堤」とも呼ばれるこの堤は石浜の土豪・砂尾長者が築いたとか。
胡録神社
日枝神社から東に進む。常磐線・つくばエクスプレスのガードを越え、東京地下鉄千住車庫に沿って進む。その先は汐入地区と呼ばれる。このあたりまで満潮時には海水が隅田川を上ってきていたのだろう。「川の手新都心構想」のもと、都市整備が進んでいる。次の目的地、「胡録神社」もそのど真ん中にあった。都市開発に際して、元の地から50mほど、境内全体を移設、というか「曳き家」をおこなった、と。
この神社に来たのは、名前に惹かれたから。荒川とか足立に多く見られるローカルな神社ではあるらしい。千葉の野田にも三社あると言う。胡録の由来はよくわからない。「胡」粉+第「六」天、の合成といった説もある。胡粉はかきがらを石臼で粉にした装飾材料。このあたりは汐入の入り江であり、カキガラも多くあっただろうし、それはそれなりに納得感はある。が、それに第「六」天の「六」が転化、といった論の展開の瞬間に??、と相成る。また、胡録神社はここだけでない。ために、この地特有であるカキガラを根拠とした推論が、どの程度一般化できるものか、少々心もとない。また、胡録は弓の武具の呼称である、という説もある。ともあれ、よくわからない。
ちょっと見方をかえて推論、というか空想。胡録神社、って「神社」という名前になったのは、明治になってから。それ以前の名前は、とチェックする。第六天の社、と呼ばれていた。どこの胡録神社もそのようである。この第六天、新編武蔵風土記稿によれば武蔵には各村に1社ある、といったほどの多かった、とか。その多くは江戸初期に土地を切り開いていった農民が祀ったもの。神社が隅田川から江戸川の間に多いのもうなずける。
その開墾農民であるが、指導者には帰農した元武士も多かったよう。で、第六天であるが、織田信長が自らを第六天魔王、と称していたほどである。当然のこととして、武士の間で信仰されていたと考えてもそれほど不思議ではないだろう。ということは、帰農武士とともに、第六天魔王信仰が広がっていたのであろう。事実、この胡録神社もはじまりは、川中島の合戦の後、この地に逃れてきた上杉の家臣高田、杉本、竹内氏が其の守護神をまつる祠をつくったことはじまると、いう。
で、この守護神、第六天魔王であれば、これで推論はおしまいであるのだが、その守護神は面足尊(おもだるのみこと)と惶根尊(かしこねのみこと)の両神、とのこと。「体の整いたる神、国の整いたる神」である面足尊(おもだるのみこと)と惶根尊(かしこねのみこと)は、天地開闢の7代の神様のうちの6代目の神様。初代国常立尊(くにのとこたちのみこと)からはじまり、七代伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊弉冉尊(いざなみのみこと)で終わる 神代七代と言われる神々の六代目、つまりは第六天神、ということになる。それはそれなりに理屈に合うのだが、第六天魔王との関係が気になる。
これまた根拠のない空想ではあるのだが、神様の第六天神と仏様の第六天魔王が、なんとなく字面、語感が近く、江戸期には「理論武装」され神仏習合していたのか、はたまた、明治の神仏分離に際し、それまで「第六天魔王」で通してきたものが、急に神様を必要とし、第六の天神である上記神々を引っ張り出したのが、さてどちらであろう。なんとなく後者、といった感じもするのだが、根拠なし。寄り道が過ぎた。先に進む。
回向院
汐入地区をブラブラ歩き、隅田川が湾曲し南に下るあたりまで進む。水神大橋の西詰あたりで折り返し、汐入公園あたりを通り JR 常磐線・南千住駅に向かう。次の目的地は回向院と小塚原刑場跡。吉野通りと常磐線が交差する手前に回向院。鉄筋のお寺。イメージとは大いに異なる。このお寺は本所回向院の住職が行き倒れの人や刑死者の供養のために開いたお寺。安政の大獄で刑死した橋本左内、吉田松陰、頼三樹三郎ら多くの幕末の志士が眠る。毒婦・高橋お伝も。明和8年(1771年)、蘭学者杉田玄白・中川淳庵・前野良沢らが、小塚原の刑死者の解剖に立会ったところ。
小塚原刑場跡 小塚原刑場は、はてさて。地図でみると、線路のど真ん中。どうなっているのやら、と、とりあえず常磐線を越え、日比谷線のガードをくぐり、隅田川貨物線の線路を跨ぐ陸橋に上ろう、としたときに、右手にささやかな入口。そこが小塚原刑場跡(延命寺)。正面には大きな首切り地蔵が。刑死者をとむらうため寛保1年(1741年)につくられた、と。ともあれ、刑場跡は常磐線と隅田川貨物線の線路群に囲まれた「三角州」に、かろうじて残っていた、という状態であった。
日光街道
刑場跡を離れ、回向院脇の道を常磐線に沿って西に進む。途中、とほうもない行列のつづく店が。あまり食べ物に興味がないのではあるが、さてなんのお店であったのだろう、とは思いながらも先に進み日光街道に戻る。あとで調べてみると、「尾花」さんという鰻屋さんであった、よう。今回の散歩はここで終了。
荒川散歩の2回目は千住、そして汐入地区。荒川区の東部一帯である。千住って地名は折に触れてよく聞く。メモをはじめわかったのだが、千住は隅田川を隔てて北と南に分かれる。北千住、もっとも北千住って地名はないようだが、隅田川の北の千住は足立区。隅田川南の南千住が荒川区、であった。
往古、南千住は交通の要衝であった。とは言うものの、この場合の南千住は、現在の千住大橋近辺というより、先般の浅草散歩でメモした白髯橋近辺、橋場の渡し・白髯の渡しのあたりではなかろうか。
鎌倉から戦国期の地図を見ると、鳥越から砂州に沿って石浜のあたりまで東海道が通り、この渡しを超え市川の下総国府につながっている。武蔵野台地と下総台地のもっとも接近したところであり、交通の要衝であったのもごく自然なことである。すぐ近くには古代の海運の一大拠点・浅草湊もあるわけで、交通だけでなく商業・宗教。軍事拠点であったわけだ。
戦国期の南千住のあたりの地図を眺めてみると、浅草から橋場・石浜に隅田川(当時は、入間川)に沿って砂州・微高地がある。同様に、現在の千住大橋・素盞雄(スサノオ)神社近辺にも砂州が認められる。が、その内側は千住大橋から三ノ輪を結ぶ線より東は入り江状態。その線より西は三河島のあたりまでは泥湿地帯となっている。源頼朝が浅草・石場から王子へと平家討伐軍を進めるに際し、小船数千を並べて浮橋とした、というのも大いにうなずける。江戸以前、南千住の一帯は、入間川(隅田川)沿いに堆積した砂州を除き、ほとんどが水の中・湿地帯であった、ということだ。
本日の散歩をはじめる千住大橋近辺も古くから開けたところである。戦国期の地図を見ると、入間川沿いの砂州・微高地に飛鳥社が見て取れる。飛鳥天王社、現在の素盞雄(スサノオ)神社であろう。この神社は古墳跡とも言われる。
周囲を川と湿地・汐入の入り江で囲まれた「浮島」のようなこの千住大橋近辺が、橋場・白髯地区にとって替わり、交通の要衝となったのは、まさしく千住大橋が作られて以降であろう。文禄3年(1594年)のことである。この橋ができて以降、従来は橋場・石浜から下総へと延びていた佐倉街道、奥州街道・日光街道、水戸街道は、この千住大橋経由にシフトした。以降、宿場町として賑わいをみせることになる。ちなみに千住の名前の由来は、川の中から「千手」観音が出てきた、とか、千寿姫にある、とか、「千」葉氏が「住」んでいたから、とか、例によってあれこれ。ともあれ、散歩にでかける。
本日のコース: 三ノ輪 > 百観音・円通寺 > 素盞雄(スサノオ)神社 > 荒川ふるさと文化館 > 誓願寺 > 熊野神社 > 千住大橋 > 日枝神社 > 胡録神社 > 水神大橋 > 回向院 > 小塚原刑場跡 > 日光街道
百観音・円通寺
三ノ輪橋跡より日光街道を北に、千住大橋に向かって進む。道の左手に百観音・円通寺。延暦10年(791年)、坂上田村麻呂の開創とか。また、源義家が奥州平定の際、討ち取った首を境内に埋めて塚を築く。これが小塚原の由来、とも。江戸時代、下谷の広徳寺、入谷の鬼子母神、簔輪の円通寺、この三つのお寺を下谷の三寺と呼ぶ。秩父・坂東・西国霊場の観音様を百体安置した観音堂があったため、「百観音」とも。
境内に上野寛永寺の黒門が。上野のお山でなくなった彰義隊の隊士をこのお寺の和尚さんが打ち首覚悟で供養した。官軍に拘束されるも、結局埋葬・供養を許される。そうえいえば、京都散歩のとき、黒谷金戒光明寺にあった会津小鉄のお墓。鳥羽伏見の戦いでなくなった会津の侍を命がけで埋葬。坊さんと侠客と、少々キャラクターは異なるが、その話とダブって見える。
素盞雄(スサノオ)神社
少し先に、素盞雄(スサノオ)神社。「てんのうさま」とも。スサノオのことを牛頭天王(ごずてんのう)とも呼ばれるからだろう。朝鮮半島の牛頭山に素盞雄(スサノオ)が祀られていることに由来する。日本神話の神様・素盞雄(スサノオ)って、朝鮮半島の神様である、ということ。
この神社、石神信仰に基づく縁起をもつ。延暦14年(795年)、石が光を放ち、その光の中から素盞雄命と事代主命(ことしろぬしのみこと)が現れて神託を告げる。その石を瑞光石と呼ぶ。光の中から出現した二神が祭神。
散歩の折々、石を神として祀る神社も時々出会う。石神井神社、江東区亀戸の石井神社、それと先日歩いた葛飾立石の立石様、といったもの。石といえば、この素盞雄(スサノオ)神社の石は、千葉県鋸山近辺の「房州石」であり、この石材は古墳の石室に使われる。よって、素盞雄(スサノオ)神社って古墳跡では、とも言われている。
荒川ふるさと文化館
神社の裏手に「荒川ふるさと文化館」。例によって、常設展示目録、企画展資料・「川と川」、「ひぐらしの里」といった資料を購入。
誓願寺
文化館を離れ千住大橋の袂に。誓願寺。奈良時代末期、恵心僧都源信の開基と伝えられる。源信といえば、『往生要集』(985年)。地獄・極楽を描き出し、ゆえに極楽浄土への往生をすすめる浄土教基礎を確立した人物。恵心は叡山で学んでいたときの道場名である。
境内には親の仇討ちをした子狸の「狸塚」。お寺の隣にあった魚屋の魚が無くなる。不審に思った近所の人たちがウォッチ。古狸の仕業。で、打ち殺す。その夜から、魚屋の魚が宙に浮く。祈祷師に見てもらうと、子狸が親の敵討をしていた、といった按配。ちなみに先日の隅田散歩での多門寺にも狸塚が、あった。狸塚って、結構多い。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)
熊野神社
誓願寺の近く、民家に囲まれたところに熊野神社。入口に門があり鍵がかかっているような、いないような、ということで中に入るのは遠慮し、外からちょいと眺める。創建は永承5年(1050年)。源義家の勧請によると伝えられる。千住大橋を隅田川にかけるにあたり、関東郡代・伊奈忠次は成就祈願。橋の完成にあたり、その残材で社殿の修理を行う。以後、大橋のかけかえ時に社殿修理をおこなうことが慣例となった。
神社のあたりは材木、雑穀などの問屋が立ち並ぶ川岸。奥州道中と交差して川越夜舟、高瀬舟がゆきかい、秩父・川越などからの物資の集散地としてにぎわった。秩父の材木は筏に組んで流され、千住大橋南詰めの三王社前で組み替え、深川方面に運ばれた。ために、このあたりは材木屋が立ち並んでいた、とか。
千住大橋
千住大橋。荒川ふるさと館で仕入れた「常設展示目録」をもとに、メモする:文禄3年(1594年)、家康の命により、伊奈忠次が総指揮。万治3年(1660年)に両国橋が架けられるまでは「大橋」と。奥州・日光方面への入口として交通・運輸上の要衝。橋を渡ると足立区。
ともあれ、千住大橋の南北に広がる千住宿は、江戸四宿のひとつ。日光道中の最初の宿駅。参勤交代や将軍の日光参詣など公用往来の重要な継立地。橋の南の小塚原町、中村町は「千住下宿」として諸役人の通行や荷物搬送のため人馬を提供。奥州方面への玄関口として街道筋がにぎわい、荒川を上下する川舟の航行が盛んになると、さまざまな職業の店が立ち並ぶ宿場町を形成」、と。i
日枝神社・旧砂尾堤土手の北端
千住大橋を少し東に。日枝神社。入口に歯神・清兵衛をまつる祠。千住の歯神、とも。どこかの藩の清兵衛が歯の痛みに耐えかねてこの地で切腹、といったエピソード。が、それよりもなによりも興味があるのは、このあたりが旧砂尾堤土手の北端である、ということ。
砂尾堤土手とは、荒川の氾濫に備えて築かれた堤。昔の地図を見ると、この神社あたりから東に伸び、現在の隅田川貨物駅あたりの東端を南に下る。よくわからないが、南端は明治通りのあたりだろうか。氾濫する隅田川の水をこの堤で防ぐ。この堤を越えた水はその南、東西に続く日本堤で防ぎ、ふたつの堤で増水した水を絞り込んで隅田川に再び流し込んでいた、のだろう。ちなみに、「汐入堤」とも呼ばれるこの堤は石浜の土豪・砂尾長者が築いたとか。
胡録神社
日枝神社から東に進む。常磐線・つくばエクスプレスのガードを越え、東京地下鉄千住車庫に沿って進む。その先は汐入地区と呼ばれる。このあたりまで満潮時には海水が隅田川を上ってきていたのだろう。「川の手新都心構想」のもと、都市整備が進んでいる。次の目的地、「胡録神社」もそのど真ん中にあった。都市開発に際して、元の地から50mほど、境内全体を移設、というか「曳き家」をおこなった、と。
この神社に来たのは、名前に惹かれたから。荒川とか足立に多く見られるローカルな神社ではあるらしい。千葉の野田にも三社あると言う。胡録の由来はよくわからない。「胡」粉+第「六」天、の合成といった説もある。胡粉はかきがらを石臼で粉にした装飾材料。このあたりは汐入の入り江であり、カキガラも多くあっただろうし、それはそれなりに納得感はある。が、それに第「六」天の「六」が転化、といった論の展開の瞬間に??、と相成る。また、胡録神社はここだけでない。ために、この地特有であるカキガラを根拠とした推論が、どの程度一般化できるものか、少々心もとない。また、胡録は弓の武具の呼称である、という説もある。ともあれ、よくわからない。
ちょっと見方をかえて推論、というか空想。胡録神社、って「神社」という名前になったのは、明治になってから。それ以前の名前は、とチェックする。第六天の社、と呼ばれていた。どこの胡録神社もそのようである。この第六天、新編武蔵風土記稿によれば武蔵には各村に1社ある、といったほどの多かった、とか。その多くは江戸初期に土地を切り開いていった農民が祀ったもの。神社が隅田川から江戸川の間に多いのもうなずける。
その開墾農民であるが、指導者には帰農した元武士も多かったよう。で、第六天であるが、織田信長が自らを第六天魔王、と称していたほどである。当然のこととして、武士の間で信仰されていたと考えてもそれほど不思議ではないだろう。ということは、帰農武士とともに、第六天魔王信仰が広がっていたのであろう。事実、この胡録神社もはじまりは、川中島の合戦の後、この地に逃れてきた上杉の家臣高田、杉本、竹内氏が其の守護神をまつる祠をつくったことはじまると、いう。
で、この守護神、第六天魔王であれば、これで推論はおしまいであるのだが、その守護神は面足尊(おもだるのみこと)と惶根尊(かしこねのみこと)の両神、とのこと。「体の整いたる神、国の整いたる神」である面足尊(おもだるのみこと)と惶根尊(かしこねのみこと)は、天地開闢の7代の神様のうちの6代目の神様。初代国常立尊(くにのとこたちのみこと)からはじまり、七代伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊弉冉尊(いざなみのみこと)で終わる 神代七代と言われる神々の六代目、つまりは第六天神、ということになる。それはそれなりに理屈に合うのだが、第六天魔王との関係が気になる。
これまた根拠のない空想ではあるのだが、神様の第六天神と仏様の第六天魔王が、なんとなく字面、語感が近く、江戸期には「理論武装」され神仏習合していたのか、はたまた、明治の神仏分離に際し、それまで「第六天魔王」で通してきたものが、急に神様を必要とし、第六の天神である上記神々を引っ張り出したのが、さてどちらであろう。なんとなく後者、といった感じもするのだが、根拠なし。寄り道が過ぎた。先に進む。
汐入地区をブラブラ歩き、隅田川が湾曲し南に下るあたりまで進む。水神大橋の西詰あたりで折り返し、汐入公園あたりを通り JR 常磐線・南千住駅に向かう。次の目的地は回向院と小塚原刑場跡。吉野通りと常磐線が交差する手前に回向院。鉄筋のお寺。イメージとは大いに異なる。このお寺は本所回向院の住職が行き倒れの人や刑死者の供養のために開いたお寺。安政の大獄で刑死した橋本左内、吉田松陰、頼三樹三郎ら多くの幕末の志士が眠る。毒婦・高橋お伝も。明和8年(1771年)、蘭学者杉田玄白・中川淳庵・前野良沢らが、小塚原の刑死者の解剖に立会ったところ。
小塚原刑場跡 小塚原刑場は、はてさて。地図でみると、線路のど真ん中。どうなっているのやら、と、とりあえず常磐線を越え、日比谷線のガードをくぐり、隅田川貨物線の線路を跨ぐ陸橋に上ろう、としたときに、右手にささやかな入口。そこが小塚原刑場跡(延命寺)。正面には大きな首切り地蔵が。刑死者をとむらうため寛保1年(1741年)につくられた、と。ともあれ、刑場跡は常磐線と隅田川貨物線の線路群に囲まれた「三角州」に、かろうじて残っていた、という状態であった。
日光街道
刑場跡を離れ、回向院脇の道を常磐線に沿って西に進む。途中、とほうもない行列のつづく店が。あまり食べ物に興味がないのではあるが、さてなんのお店であったのだろう、とは思いながらも先に進み日光街道に戻る。あとで調べてみると、「尾花」さんという鰻屋さんであった、よう。今回の散歩はここで終了。
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