参考図書; 『奥多摩歴史物語;安藤精一(百水社)』『奥多摩風土記:大館勇吉(有峰書店新社) 』『多摩の山と水(下);高橋源一郎(八潮書房) 』『青梅街道:中西慶爾(木耳社) 』『多摩源流を行く;瓜生卓造(東京書籍)』『奥多摩;宮内敏雄(白水社)』
本日のルート;丹波山村丹波地区>奥秋>余慶橋>羽根戸トンネル>三条橋>「東京水道水源林」の碑>黒川谷>大常木トンネル>一之瀬高橋トンネル>藤尾橋>落合>御屋敷>湧水>林道泉水横手山線入口>大日影沢>高芝大橋>裂石
丹波山村丹波地区;午前7時20分_標高664m
で、丹波山村であるが、その面積は広く101?。人口600強。我が家のある杉並区は面積34?、人口55.3万であるから、杉並区の3倍の面積に1000分の一の人が住む。それも当然で、雲取山や大菩薩嶺といった険しい山々に囲まれ、全体の97%が山林であり、集落は川沿いの河岸段丘や山肌の傾斜地に限られる。 宿泊した丹波山村の中心地である丹波地区、昨日国道より見下ろした高尾、押垣外、保之瀬集落などは、深い谷を刻む丹波川に残った河岸段丘に開けた集落である。「丹波」の語源は諸説あるも、「山間の奥まったところにある平地」の説もある。深い渓谷に開けた平地の有難さをもってその地名としたのだろうか。 産業はかつて薪炭、養蚕、コンニャク景気もあったようだが今は昔。清流を利用した山葵の栽培は栽培法が難しく不安定。観光も交通の便が良くなり過ぎて日帰り客が多く昔ほど民宿に止まる人もいなくなったようだ。
林業も丹波山村の山林の70%が東京都の水源涵養林となっているため伐採は厳禁、残りの三分の一の私有林は戦中・戦後の薪炭と木材景気で伐り尽くされている、とのことである。因みに丹波山村の山林の三分の二が東京都の水源涵養林のためでもあろうか、丹波山村の下水道普及率は96%ほどで、山梨県で一番の普及率なっている、と。
○旧青梅街道

奥秋
丹波地区の道を下組、中組、上組と西に進む。道祖神をみやりながら国道を進む。この国道も車が通れるようになったのは昭和35年(1960)というから、つい最近のことである。
余慶橋;午前7時57分_標高693m
羽根戸トンネル;午前8時_標高722m
三条橋;午前8時35分_標高766m
丹波川渓谷の景観を見やりながら街道を進むと泉水谷が丹波川に注ぐ地点に。泉水谷と小室川の水が合わさり、更に黒川谷の水が合わさる地点でもあるため「三重河原」とも称される。黒川谷に近づいた故か、信玄屋敷とか牛金淵といった黒川金山ゆかりの地名も残る、とか。
ここからは明治に柳沢峠を越えて丹波山へと繋いだ当時の「新青梅街道」,今は人も通わぬの廃道を辿るべく、三条橋を渡り丹波川の右岸に出る。
泉水谷林道
三条橋を渡ると「泉水谷林道」のゲート。三条新橋広場と呼ばれているようである。この林道は泉水谷に沿って上り、大黒茂谷の沢を越え牛首沢に。林道はそこからV字に折り返し、「泉水中段線」という林道名で黒川山(鶏冠山)方面の横手山峠近くの三本木峠を経て青梅街道・国道411号に出る。この林道の全ルートは「泉水横手山林道」と呼ばれているようである。
『多摩源流を行く;瓜生卓造(東京書籍)』によれば、この泉水谷林道は「日本深山」と言う民間企業によって開かれたとある。安井誠一郎戸都知事の頃である。本来この地域は東京都の水源涵養林であり伐採はできないはずではあるのだが、高度成長時代の時勢もあってか伐採が許可された、とか。当初は昨日の散歩でメモした「後山林道」を開き伐採を開始したがうまくいかず、この泉水谷に移り伐採をおこなった。日本深山の活動は昭和28年(1953)から昭和34、5(1959,1960)年まで続いたとのことである。
「東京水道水源林」の碑
東京都の面積の10%に相当するまでの水源林となるまでは長い歴史があるようだ。好奇心からちょっとチェック。江戸時代の奥多摩の山々には多くの幕府直轄の「お止め山」があった。その数、34箇所、2000町歩(2000ヘクタール)にもなった、とか。森林は厳しく管理され、村民には火災防止の義務などを課せされる代わりとして、入会権が認められ茅や薪といったに日常資材の採取、また「サス畑(焼畑)」も認められ(収穫の一部は上納)、定期的に人の手が入り山が荒れることはなかったようだ。
その状況は明治の御維新で一変。「お止め山」は維新後に皇室の御料林や県有林となる。それにともない、村の入会権は認められなくなり、薪も手に入らなくなった村は一部国から山林を買い取り村有林とする必要にも迫られた。幕府の厳しい管理下からはずれ、また、入会地として日常的に人の手が入っていた山林に人が入らなくなるにつれ、山林の荒廃が進む。明治維新から明治30年(1897)にかけての状況である。
東京府の水源地である多摩川最上流部の荒廃に危惧を覚えた東京府知事千家氏は明治34年(1901)、本多静六氏を水源林に派遣。川の汚濁、山津波、盗伐、濫伐、放火の状況を把握。笠取山も丹波山、小菅も日原も森林は荒廃し、禿げ山だらけとなっていた。その対策として、宮内省と交渉し丹波山、小菅両村御料林の譲渡を受け、同時に日原川流域の民有地を保安林に編入。これで日原、丹波山、小菅の核心部は東京府の水源林として確保した。
しかし状況は深刻で植林もできない状態。まずは治山からはじめる必要があったようである。『多摩源流を行く;瓜生卓造(東京書籍)』によれば、泉水谷を遡上した山中に学校尾根、学校向尾根といった尾根があるが、それは明治末に50組の炭焼きが岐阜から入植。泉水谷小屋はその子弟の学校跡。尾根の名前はその名残り。
それはともあれ、明治41年(1908)には東京市民の水源管理は東京市が管理すべきと当時の東京市長尾崎行雄は自ら現地調査し東京市による水源地経営案を作成し、明治43年(1910)市議会で決議を受け東京府より水源林の譲渡を受ける。明治45年(1912)には最後の懸案事項である山梨県との交渉も解決。多摩川源流である水干のある笠取山南面は山梨県林として下賜されており、その地域を買収すべく困難な交渉のすえ譲渡を受けることができた。
その後も水源林買収が進む。大正年間には奥多摩町の公私有林、昭和8年(1933)には日原川上流の私有林、戦後の昭和25年(1950)に奥多摩町古里の私有林、ダム完成後には湖岸の私有林などを買収し現在に至る。
黒川谷;午前9時15分_標高895m_
後日チェックすると、木橋を渡り切ったあたりから南の100mほど崖全体が崩落しているようであり、立ち入禁止とあった谷筋を50mほど下り、崩落したガレ場の斜面を這い上がれば道筋が見つかるとのことであった。ちょっと残念。
○黒川通り
翌7年(1874)、道路開通告示。街道道筋提示、工事は8年(1875)から開始。財ある者は金、財なきものは労力を提供せよ、と。多数の囚人も動員された。全域に渡り秩父古生層で硬く急峻な山を削り、岩を穿つ。工具は玄能、石ノミ、鍬、万能。土砂や岩はモッコと天秤。岩道はすべて手掘り。爆薬も硝酸類だけといった貧弱な状態で工事は困難を極めるも、5年ののちに開通。明治13年(1880)、落合で竣工式が行われ、明治20年(1887)には丹波山村で開通式が行われた(『多摩源流を行く;瓜生卓造(東京書籍)』。
その後、藤村の甲府と首都圏を結ぶ大道が浮上したのは、昭和10年(1934)代に入り小河内ダム計画が進んだことによる。ダム建設にともなう従来の道路の付け替え工事を上流の柳沢峠まで伸ばすことになり、工事費は東京府の予算で実行される。昭和20年(1945)までに氷川から船越橋までが完成。戦中は工事中断するも、戦後昭和23年(1948)、ダム工事再開とともに昭和30年(1955)には三重河原まで開通、34年(1959)には藤尾まで開通した。このときの道筋にはトンネルはひとつもなかった、と言う。思うだに結構怖い断崖絶壁を進む道ではあったのだろう。
新たに建設された青梅街道のルートのうち、明治に開かれた黒川道のうち、「ふなこし(船越橋)」から三条河原をへて藤尾に至る丹波川右岸の道は計画から外された。これが今回撤退した廃道区間である。丹波川や柳沢川の深い谷を高巻きする川右岸の高地斜面を避け、丹波山川・柳沢川 左岸の崖面に沿って道を通した。建設技術の進歩がそれを可能にしていたのだろう。因みに新青梅街道の廃道は今回アプローチした黒川谷より東の「ふなこし橋:船越橋」辺りから残っているとのことである。
ついでのことだが、柳沢峠からの道を開く建議は青梅の小沢安右衛門との説もある。貧困から身を起こし、一代で巨商、仙台から長崎までを商圏に活躍。しかし慶応2年(1866)瀬戸内で1万2千両の荷を失い。青梅に戻り豆腐業に。明治元年(1868)、「甲斐国黒川通り新道切開願」を江川太郎左衛門に提出するも、明治の混乱期で停滞。明治8年(1874)、になって山梨県令藤村四郎から新道切開の命。9年着工。11年(1878)の完工。丹波山村奥秋から柳沢峠まで3里半。柳沢峠から甲府まで4里半。23カ所に橋を架けその総工費13万円。小川は380円を寄付した、と言う。
○黒川金山跡
黒川通りの廃道を辿ることはあきらめて元の三条橋まで引き返す。ところで黒川谷を上へと遡れば、大菩薩嶺の北の鶏冠山(黒川山;標高1716m)にある黒川金山跡に続く道があるとのこと。おおよそ2時間弱の歩き、とか。
甲斐の武田家の軍資金を支えたとされる黒川金山であるが、現在残る廃坑跡辺りの一つの鉱区に集中していたわけではないようである。その範囲は広く、黒川山を取り囲んで、南は泉水谷、北と東は一之瀬川、柳沢川、西は横手山から六本木峠に囲まれた楕円の地域一帯に広がっていた、と。現在残る廃坑跡はこの黒川中で最も新しい採掘場のあったところ、とのこと。採掘場もあちこちに点在し、「黒川千軒」と称される黒川金山の集落も黒川山のあちこちに点在していた、と。
また、黒川金山ははじめからこの黒川山で採掘が開始されたわけでもないようだ。『多摩源流を行く;瓜生卓造(東京書籍)』によれば、最初に候補地は一之瀬地区。応永元年(1394)。武田の密命で数名の家臣が金の探索のため一之瀬川を上り詰め、将監峠、牛王院山に金の鉱脈発見。しかし採掘量が少なく。次に大常木谷を探るが空振り。大常木谷に残る「屋敷の窪」「御屋敷沢」などの地名は試掘の名残、とか。
次いで大常木谷を下り、一之瀬川と柳沢川との合流点に。柳沢川の上流と高橋川一体も試掘し藤尾橋の下あたりに砂金をあげた跡がある、と言う。一方、一之瀬川と柳沢川の合流点から下流に向かった一隊は黒川谷との合流点で川床が光るの見つけ、黒川谷を遡り黒川金山を発見したとのことである。
黒川金山は享禄年間(1528?1532)から信玄の全盛期を経て、天正10年(1582)の武田家の滅亡まで、60年に渡って武田の軍資金を支える。額は24万両とも80万両とも。また、黒川金山は黄金の山とも貧鉱とも諸説ある。結果的には明治には貧鉱のため水源林として買収された。
大常木トンネル_午前10時16分_標高857m
大常木トンネルはその手前のアプローチも含め「大常木バイバス」を呼ばれているが、全長490mのバイパスのうちトンネル部分が355m、それ以外のバイパス道路は旧道を改修したもの。バイパスの開通は平成23年(2011)11月。つい最近のことである。バイパスを建設は平成18年(2006)7月に発生した大規模な土砂崩れによって国道が45日間も通行止めになったことを踏まえて計画された、とのことである。
大常木トンネル内を歩き、出口から旧道を確認するに、こちらはトンネルの東口以上に完全にブロックされていた。川沿いの旧道歩きはあきらめ先に進む。
一之瀬高橋トンネル_午前10時24分_標高861m
大常木バイパスと同じ平成23年(2011)11月に開通した一之瀬高橋バイパスを進む。一之瀬高橋バイパスは全長は460m。丹波川に架かる岩岳橋と一之瀬高橋トンネル、それとトンネルを抜けるとすぐに柳沢川に架けられた橋からなる。柳沢川に架けられた橋はダブルヘアピンカーブの旧道の一個目のヘアピン部分につながり、ヘアピンは旧道にくらべひとつ減っている。
トンネルを抜けヘアピンカーブの坂を上りながら旧道方面を見る。柳沢川右岸、トンネルがしたをくぐる崖面は全体が落石ネットで覆われている。平成18年(2006)7月に発生した大規模な土砂崩れの名残ではないかと思う。対岸から川を越えて街道を岩で埋め尽くしたのであろう、か。
また、一之瀬高橋トンネルの真上山塊を見る。今回辿れなかった「新青梅街道」がトンネル真上辺りを通っているはずである。次回を期す。
○一之瀬川
一之瀬高橋バイパスを通らないで旧道を進むと北から一之瀬川が合流し、一之瀬川に架かる一之瀬橋が丹波山村と甲州市の境ともなっている。この一之瀬川の源頭部は多摩川の源流点となっている。「水干」と称される。一之瀬川林道を進み、黒川金山のところでメモした大常木谷を越え、一之瀬川、その上流の水干沢を詰め切った笠取山を少し南に下ったところにある。大常木谷の上流には「竜バミ谷」といった沢遡上にはフックの掛かる沢も。多摩川源流部の水干ともども一度訪れてみたいところである。
因みに一之瀬、二之瀬、三之瀬といった一之瀬高橋の集落はその交易は秩父が主であった、とか。将監峠を越えて甲州からは甲斐絹、麻布、紙。秩父側からは銘仙、相生織物、油、日用雑貨が運ばれた。
○おいらん淵
上で「一之瀬川」が合流するとメモしたが、一之瀬川の源頭部が多摩川の源流、ということは、一之瀬川が本流であり、合流するというのは適切ではないかもしれない。それはともあれ、一之瀬川が丹波川とその名を変える一之瀬橋より上流は柳沢川と呼ばれる。その柳沢川が、本流である一之瀬川・丹波川に合流する辺りに「おいらん淵」がある、という。
旧道沿いであり、訪ねることはできなかったのだが、この「おいらん淵」は武田家滅亡の時、坑道を埋め廃坑とするに際し、遊女の処置に困り、この渓上の宴台を設け、滝見の宴半ばで藤蔓を切り落し滝壺に葬る。55名とも、五十五人淵とも呼ばれる。
異説もある。皆殺しになることを知った女郎は、秩父の大滝を目指して逃げる途中、今の藤尾橋の下でつかまって谷に放り込まれた、と。断崖絶壁、道なき渓谷で宴を催すとの伝説よりも、ちょっとリアリティを感じる話ではある。
藤尾橋;午前11時_標高1013m
落合;午後12時10分_標高1148m
高橋川が丹波川に合流する少し西に集落。丹波山村から歩き始め、はじめての集落らしき集落である。街道脇に東京都水道局の水源管理事務所があった。この落合の集落は明治に新青梅街道が開かれたときにできたもの。その交通の便の故か一之瀬や高橋から人が下ってできた集落である。
この落合辺りから先、予想では険阻なる山峡の地と想像していたのだが、雰囲気としては「高原」の趣き。覚悟していた急勾配もなく、緩やかに峠へとアプローチしていく道筋である。落合から柳沢峠まで、おおよそ5キロを330上るだけである。
御屋敷;午後12時32分_標高1223m
国道を進むと「御屋敷」との地名。柳沢刑部守の屋敷があったのがその地名の由来とのことだが、刑部は伝説の人物で実在のほど定かならず。刑部平、馬場沢、的場、刑部岩などの地名も残るが、今回越える柳沢峠も、この柳沢刑部守に由来する、とも。
湧水;午後12時43分_標高1261m
林道泉水横手山線入口;午後13時_1342m
大日影沢;午後13時12分_標高1390m
柳沢峠;午後13時36分_標高1472m
峠に石碑が建つ。明治に青梅街道を開いた県令藤村紫郎と、昭和6年(1931)小河内ダム建設の建議以降、30年に渡り道路の改修に貢献した飛田東山氏と川手良親氏の顕彰碑であった。飛田東山氏は小河内ダム建設に参画し、その景観を守るため昭和25年(1950)に秩父多摩国立公園指定に成功し、その後も国都県を動かし甲府青梅線の改修に貢献した。川手良親氏は山梨県の土木部長として、昭和12年(1937)以来都県を結ぶ青梅街道の改修に貢献した、といったものであった。
高芝大橋;午後14時15分_標高1278m
裂石;午後16時_標高901m

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