青梅街道 柳沢峠越え そのⅡ :丹波山村から柳沢峠を越え、甲州市(旧塩山市)の裂石に

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初日は多摩湖畔の国道を辿り、丹波山村の中心丹波地区で宿泊。 二日目は柳沢峠へと向うのだが、途中、青梅街道・国道411号の右岸に、明治の頃、柳沢峠から当時の陸の孤島であった丹波山村へと開削され、当時は「新青梅街道」と称された道筋が残る、と言う。現在は廃道となっており、手元に正確な地図もなく、また本日はゴールの裂石から東京に戻るため、バスに乗り遅れることのないよう、状況を見ながらの廃道へのアプローチ。首尾良くいけば廃道を辿ることができるだろうか、などとの想いを抱き散歩に出かける。

参考図書; 『奥多摩歴史物語;安藤精一(百水社)』『奥多摩風土記:大館勇吉(有峰書店新社) 』『多摩の山と水(下);高橋源一郎(八潮書房) 』『青梅街道:中西慶爾(木耳社) 』『多摩源流を行く;瓜生卓造(東京書籍)』『奥多摩;宮内敏雄(白水社)』



本日のルート;丹波山村丹波地区>奥秋>余慶橋>羽根戸トンネル>三条橋>「東京水道水源林」の碑>黒川谷>大常木トンネル>一之瀬高橋トンネル>藤尾橋>落合>御屋敷>湧水>林道泉水横手山線入口>大日影沢>高芝大橋>裂石

丹波山村丹波地区;午前7時20分_標高664m
山梨県北都留郡丹波山村。北都留郡は明治の頃は丹波山村、小菅村、現在の大月市、上野原市の一部を加えた地域であったが、現在は丹波山村と小菅村で構成される。現在の道路網からみればあり得ない地域の集まりではあるが、昔の道筋である峠道から見直すと、小菅村から松姫峠を超えての大月、鶴峠を超えての上野原と、往昔の文化圏が垣間見える。これらの地域が同じ地域共同体であっても違和感は何も無い。
で、丹波山村であるが、その面積は広く101?。人口600強。我が家のある杉並区は面積34?、人口55.3万であるから、杉並区の3倍の面積に1000分の一の人が住む。それも当然で、雲取山や大菩薩嶺といった険しい山々に囲まれ、全体の97%が山林であり、集落は川沿いの河岸段丘や山肌の傾斜地に限られる。 宿泊した丹波山村の中心地である丹波地区、昨日国道より見下ろした高尾、押垣外、保之瀬集落などは、深い谷を刻む丹波川に残った河岸段丘に開けた集落である。「丹波」の語源は諸説あるも、「山間の奥まったところにある平地」の説もある。深い渓谷に開けた平地の有難さをもってその地名としたのだろうか。 産業はかつて薪炭、養蚕、コンニャク景気もあったようだが今は昔。清流を利用した山葵の栽培は栽培法が難しく不安定。観光も交通の便が良くなり過ぎて日帰り客が多く昔ほど民宿に止まる人もいなくなったようだ。
林業も丹波山村の山林の70%が東京都の水源涵養林となっているため伐採は厳禁、残りの三分の一の私有林は戦中・戦後の薪炭と木材景気で伐り尽くされている、とのことである。因みに丹波山村の山林の三分の二が東京都の水源涵養林のためでもあろうか、丹波山村の下水道普及率は96%ほどで、山梨県で一番の普及率なっている、と。

○旧青梅街道
国道411号は多摩川に沿って西に向かうが、その原型ができたのは明治の頃。明治20年(1887)に丹波山村で開通式が行われている。それ以前はこの渓谷を遡上し甲斐に向かう街道は無かったようである。当時の青梅街道は中世の甲州街道と同じ道筋を進んだようであり、その道筋は、小菅村から「牛の寝通り」の尾根道を辿り大菩薩嶺に進むか、小菅川の源流部を遡上し尾根道上がりに大菩薩嶺を経て甲斐に出る、または、この丹波山村からマリコ沢を遡上し尾根道を大菩薩嶺を越えて甲斐に向かったとのこと。

奥秋
丹波地区の道を下組、中組、上組と西に進む。道祖神をみやりながら国道を進む。この国道も車が通れるようになったのは昭和35年(1960)というから、つい最近のことである。
国道を進むと奥秋(おくあき)地区。奥秋(おくあき)って、好い響きの地名。奥多摩には秋切といった地名がある。炭焼きも焼畑も秋になると仕事を切り上げることに由来する地名とのこと。奥秋も漢文の「返り点」でもあれば「秋に仕事を置く>切り上げる」のニュアンスは感じるのだが、実際はどのような由来があるのだろう。 国道の上に子の神社。大己貴命(大黒主命)を祀る。その鳥居は国道下の急坂の途中にある。国道の開削によって切り離されたのであろう。 また、奥秋地区の国道下には「おいらん堂」が残る、と言う。武田家滅亡のとき、黒川金山の秘密を守るため淵に沈めた遊女が流れ着いたのがこの奥秋の地。不憫に思った村民がお堂を建て遊女の霊を安んじた、と。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」)


余慶橋;午前7時57分_標高693m 
奥秋を越え、「余慶橋」を渡る。手前には昭和36年(1961)架けられた旧橋も残る。新しく架けられた橋は曲線箱桁の橋に架けかえられている。丹波川に沿って右岸を進むと右手から火打石谷と小常木谷が合わさった水が合流する。この辺りから丹波渓谷がはじまる。断崖絶壁が国道に沿って続く。道脇に「ナメトロ」の案内。「川幅が狭く渓流が両岸の岩肌をなめるように流れるため」とあった。

羽根戸トンネル;午前8時_標高722m
丹波川右岸を進み丹波川に架かる「新羽根戸橋」を左岸に渡るとすぐに「羽根戸トンネル」に入る。左岸を進み、「ふなこし橋」で右岸に渡り、すぐ「大常木橋」で再び左岸にと、トンネルと橋がめまぐるしく続く。もとは「新羽根戸橋」の左手にある「羽根戸橋」から丹波川左岸を通っていた国道が難路であったのか、土砂崩れが多かったのかその理由は不詳だが改修工事が実施されたのだろう。トンネルの出口がすぐに橋につながるような難所を建設技術で乗り越えている。「羽根戸トンネル」の竣工は平成14年(2002年)、新羽根戸橋の竣工は平成13年(2001年)。現在使っている、カシミール3Dに同梱されていた国土地理院の2万5000分の一の地図の道筋にはないトンネルや橋が造られていた。

三条橋;午前8時35分_標高766m
丹波川の左岸を進み「丹波山トンネル(竣工平成12年(2000))」を抜けると、崖から湧水が湧いている。水を汲みに来ていた方は定期的にここまで水を汲みに来ている、と。
丹波川渓谷の景観を見やりながら街道を進むと泉水谷が丹波川に注ぐ地点に。泉水谷と小室川の水が合わさり、更に黒川谷の水が合わさる地点でもあるため「三重河原」とも称される。黒川谷に近づいた故か、信玄屋敷とか牛金淵といった黒川金山ゆかりの地名も残る、とか。
ここからは明治に柳沢峠を越えて丹波山へと繋いだ当時の「新青梅街道」,今は人も通わぬの廃道を辿るべく、三条橋を渡り丹波川の右岸に出る。

泉水谷林道
三条橋を渡ると「泉水谷林道」のゲート。三条新橋広場と呼ばれているようである。この林道は泉水谷に沿って上り、大黒茂谷の沢を越え牛首沢に。林道はそこからV字に折り返し、「泉水中段線」という林道名で黒川山(鶏冠山)方面の横手山峠近くの三本木峠を経て青梅街道・国道411号に出る。この林道の全ルートは「泉水横手山林道」と呼ばれているようである。
『多摩源流を行く;瓜生卓造(東京書籍)』によれば、この泉水谷林道は「日本深山」と言う民間企業によって開かれたとある。安井誠一郎戸都知事の頃である。本来この地域は東京都の水源涵養林であり伐採はできないはずではあるのだが、高度成長時代の時勢もあってか伐採が許可された、とか。当初は昨日の散歩でメモした「後山林道」を開き伐採を開始したがうまくいかず、この泉水谷に移り伐採をおこなった。日本深山の活動は昭和28年(1953)から昭和34、5(1959,1960)年まで続いたとのことである。

「東京水道水源林」の碑
三条新橋広場から明治の青梅街道の廃道を求めて黒川谷への道を探す。と、三条新橋広場の脇に「東京水道水源林」の碑があった。東京都水道水源林とは、多摩川水源域の安定した河川流量の確保と小河内貯水池(奥多摩湖)の保全を図るため東京都水道局が管理している多摩川上流の森林のこと。その範囲は東京都の奥多摩町、山梨県下の丹波山村、小菅村、甲州市までカバーしている。各市町村に占める水源林の占める割合を地図で見ると、大雑把ではあるが、奥多摩町は北半分、埼玉県との境となる長沢背稜までが水源林、小菅村は村域の西半分と小河内村との境を接する南域の一部、丹波山村は青梅街道の南北の村域を除いたおおよそ7割、甲州市は東は丹波山村との境、北は埼玉県境の尾根道、西は笠取山から柳沢峠へと続く尾根道に囲まれた一帯が東京都の水源林となっている。
東京都の面積の10%に相当するまでの水源林となるまでは長い歴史があるようだ。好奇心からちょっとチェック。江戸時代の奥多摩の山々には多くの幕府直轄の「お止め山」があった。その数、34箇所、2000町歩(2000ヘクタール)にもなった、とか。森林は厳しく管理され、村民には火災防止の義務などを課せされる代わりとして、入会権が認められ茅や薪といったに日常資材の採取、また「サス畑(焼畑)」も認められ(収穫の一部は上納)、定期的に人の手が入り山が荒れることはなかったようだ。
その状況は明治の御維新で一変。「お止め山」は維新後に皇室の御料林や県有林となる。それにともない、村の入会権は認められなくなり、薪も手に入らなくなった村は一部国から山林を買い取り村有林とする必要にも迫られた。幕府の厳しい管理下からはずれ、また、入会地として日常的に人の手が入っていた山林に人が入らなくなるにつれ、山林の荒廃が進む。明治維新から明治30年(1897)にかけての状況である。
東京府の水源地である多摩川最上流部の荒廃に危惧を覚えた東京府知事千家氏は明治34年(1901)、本多静六氏を水源林に派遣。川の汚濁、山津波、盗伐、濫伐、放火の状況を把握。笠取山も丹波山、小菅も日原も森林は荒廃し、禿げ山だらけとなっていた。その対策として、宮内省と交渉し丹波山、小菅両村御料林の譲渡を受け、同時に日原川流域の民有地を保安林に編入。これで日原、丹波山、小菅の核心部は東京府の水源林として確保した。
しかし状況は深刻で植林もできない状態。まずは治山からはじめる必要があったようである。『多摩源流を行く;瓜生卓造(東京書籍)』によれば、泉水谷を遡上した山中に学校尾根、学校向尾根といった尾根があるが、それは明治末に50組の炭焼きが岐阜から入植。泉水谷小屋はその子弟の学校跡。尾根の名前はその名残り。
炭焼きが入った理由は荒廃した森林を涵養しようにもその予算がなく、当初は粗悪天然林を伐採し売却益を人工植林の費用にと裂石から丸川峠の索道を曳くなどの手当てをするも買い手がなく断念。木炭にして売却するために炭焼きが入植。水害で大黒茂谷の平坦地に移るも結局は炭焼き事業も断念。地元の人でさえ炭焼きに泉水谷にも大黒茂谷にも入っていない、そんな過酷なところでの炭焼きであったようである。
それはともあれ、明治41年(1908)には東京市民の水源管理は東京市が管理すべきと当時の東京市長尾崎行雄は自ら現地調査し東京市による水源地経営案を作成し、明治43年(1910)市議会で決議を受け東京府より水源林の譲渡を受ける。明治45年(1912)には最後の懸案事項である山梨県との交渉も解決。多摩川源流である水干のある笠取山南面は山梨県林として下賜されており、その地域を買収すべく困難な交渉のすえ譲渡を受けることができた。
その後も水源林買収が進む。大正年間には奥多摩町の公私有林、昭和8年(1933)には日原川上流の私有林、戦後の昭和25年(1950)に奥多摩町古里の私有林、ダム完成後には湖岸の私有林などを買収し現在に至る。

黒川谷;午前9時15分_標高895m_
三条新橋広場から黒川谷方向には上下2段の道がある。下の道はあまりに川床に近いため、上段の割と広い道を選ぶ。先に進むと丹波川との比高差が大きくなるとともに、最初の頃の砂利道とは異なり落石などで道が荒れてくる。丹波川から黒川の谷筋に入ったとは思うのだけれど、谷ははるか下なのか川筋も何も見えない。本当にこの道でよかったのか、少々不安になりながらもガレ場を越えなどを越えて泉水谷の入口から600mほどのところで突然広場が現れる。そしてその先に二段の滝が見える。滝脇にはコンクリート製の橋桁が残る。明治の頃開かれた道に架けられた橋の名残であろう。

橋桁手前にある木橋を渡り黒川谷左岸に。ここから左に黒川谷を上れば黒川金山跡。一方、廃道となった新青梅街道・黒川道は右に進む。進むはずなのだが、右に進む道や踏み跡さえもない。谷に沿って下る崖面は崩れており、立ち入り禁止のサインがある。もっと上を高巻きしているのだろうか、などとあちこち目安を探すが結局見つからず、正確な地図も無いし、それほど廃道萌えでもなさそうな御老公には申し訳ないし、それよりなにより本日のゴールの裂石からのバスの便が気になり、ここで撤退することにした。
後日チェックすると、木橋を渡り切ったあたりから南の100mほど崖全体が崩落しているようであり、立ち入禁止とあった谷筋を50mほど下り、崩落したガレ場の斜面を這い上がれば道筋が見つかるとのことであった。ちょっと残念。

○黒川通り
結局は断念したが、「青梅街道・黒川通り」についてまとめておく:明治6年(1873)、藤村紫郎が山梨県令に。県内の殖産を計るためは道路整備が重要と考え「甲州街道」「駿州往還(甲府から静岡;国道52号)」「駿信往還(韮崎から鰍沢;)などを整備する。この黒川通りもその一環である。この黒川通りが新青梅街道とも呼ばれた理由は、従来の氷川から小菅村、または丹波山村から大菩薩嶺を通って山梨と結ばれていた青梅街道に変えて、新たに柳沢峠を越える道を開いたことによる。構想は塩山から柳沢峠を越し、一之瀬、高橋に至り、丹波山から小河内、氷川、青梅へと通じる大道を開き、山梨と首都圏を結ぼうというもの。
翌7年(1874)、道路開通告示。街道道筋提示、工事は8年(1875)から開始。財ある者は金、財なきものは労力を提供せよ、と。多数の囚人も動員された。全域に渡り秩父古生層で硬く急峻な山を削り、岩を穿つ。工具は玄能、石ノミ、鍬、万能。土砂や岩はモッコと天秤。岩道はすべて手掘り。爆薬も硝酸類だけといった貧弱な状態で工事は困難を極めるも、5年ののちに開通。明治13年(1880)、落合で竣工式が行われ、明治20年(1887)には丹波山村で開通式が行われた(『多摩源流を行く;瓜生卓造(東京書籍)』。
山梨から丹波山村までは道が開かれ馬車が走れるようになった。しかし神奈川県(明治の頃、奥多摩は小河内村を除き韮山県をへて神奈川県に属した)も東京都も、この大道建設には積極的ではなかった。丹波山から青梅までの10里近い険阻な道を開くのは大変なことであったのだろう。
その後、藤村の甲府と首都圏を結ぶ大道が浮上したのは、昭和10年(1934)代に入り小河内ダム計画が進んだことによる。ダム建設にともなう従来の道路の付け替え工事を上流の柳沢峠まで伸ばすことになり、工事費は東京府の予算で実行される。昭和20年(1945)までに氷川から船越橋までが完成。戦中は工事中断するも、戦後昭和23年(1948)、ダム工事再開とともに昭和30年(1955)には三重河原まで開通、34年(1959)には藤尾まで開通した。このときの道筋にはトンネルはひとつもなかった、と言う。思うだに結構怖い断崖絶壁を進む道ではあったのだろう。
新たに建設された青梅街道のルートのうち、明治に開かれた黒川道のうち、「ふなこし(船越橋)」から三条河原をへて藤尾に至る丹波川右岸の道は計画から外された。これが今回撤退した廃道区間である。丹波川や柳沢川の深い谷を高巻きする川右岸の高地斜面を避け、丹波山川・柳沢川 左岸の崖面に沿って道を通した。建設技術の進歩がそれを可能にしていたのだろう。因みに新青梅街道の廃道は今回アプローチした黒川谷より東の「ふなこし橋:船越橋」辺りから残っているとのことである。
ついでのことだが、柳沢峠からの道を開く建議は青梅の小沢安右衛門との説もある。貧困から身を起こし、一代で巨商、仙台から長崎までを商圏に活躍。しかし慶応2年(1866)瀬戸内で1万2千両の荷を失い。青梅に戻り豆腐業に。明治元年(1868)、「甲斐国黒川通り新道切開願」を江川太郎左衛門に提出するも、明治の混乱期で停滞。明治8年(1874)、になって山梨県令藤村四郎から新道切開の命。9年着工。11年(1878)の完工。丹波山村奥秋から柳沢峠まで3里半。柳沢峠から甲府まで4里半。23カ所に橋を架けその総工費13万円。小川は380円を寄付した、と言う。

○黒川金山跡
黒川通りの廃道を辿ることはあきらめて元の三条橋まで引き返す。ところで黒川谷を上へと遡れば、大菩薩嶺の北の鶏冠山(黒川山;標高1716m)にある黒川金山跡に続く道があるとのこと。おおよそ2時間弱の歩き、とか。
甲斐の武田家の軍資金を支えたとされる黒川金山であるが、現在残る廃坑跡辺りの一つの鉱区に集中していたわけではないようである。その範囲は広く、黒川山を取り囲んで、南は泉水谷、北と東は一之瀬川、柳沢川、西は横手山から六本木峠に囲まれた楕円の地域一帯に広がっていた、と。現在残る廃坑跡はこの黒川中で最も新しい採掘場のあったところ、とのこと。採掘場もあちこちに点在し、「黒川千軒」と称される黒川金山の集落も黒川山のあちこちに点在していた、と。
また、黒川金山ははじめからこの黒川山で採掘が開始されたわけでもないようだ。『多摩源流を行く;瓜生卓造(東京書籍)』によれば、最初に候補地は一之瀬地区。応永元年(1394)。武田の密命で数名の家臣が金の探索のため一之瀬川を上り詰め、将監峠、牛王院山に金の鉱脈発見。しかし採掘量が少なく。次に大常木谷を探るが空振り。大常木谷に残る「屋敷の窪」「御屋敷沢」などの地名は試掘の名残、とか。
次いで大常木谷を下り、一之瀬川と柳沢川との合流点に。柳沢川の上流と高橋川一体も試掘し藤尾橋の下あたりに砂金をあげた跡がある、と言う。一方、一之瀬川と柳沢川の合流点から下流に向かった一隊は黒川谷との合流点で川床が光るの見つけ、黒川谷を遡り黒川金山を発見したとのことである。
黒川金山は享禄年間(1528?1532)から信玄の全盛期を経て、天正10年(1582)の武田家の滅亡まで、60年に渡って武田の軍資金を支える。額は24万両とも80万両とも。また、黒川金山は黄金の山とも貧鉱とも諸説ある。結果的には明治には貧鉱のため水源林として買収された。

大常木トンネル_午前10時16分_標高857m
黒川谷から三条橋に国道411号に。左手の小丘に尾崎行雄の記念碑。「尾崎行雄水源踏査記念碑」を見やり先に進む。切り立った断崖、川どこまで100mほどもあろうかと思える丹波渓谷の景観を楽しみながら国道を進むと「大常木トンネル」が現れる。トンネル左手の渓谷沿いには旧道が見えるのだが、旧道への道はトンネル入口の構造物で完全にブロックされている。
大常木トンネルはその手前のアプローチも含め「大常木バイバス」を呼ばれているが、全長490mのバイパスのうちトンネル部分が355m、それ以外のバイパス道路は旧道を改修したもの。バイパスの開通は平成23年(2011)11月。つい最近のことである。バイパスを建設は平成18年(2006)7月に発生した大規模な土砂崩れによって国道が45日間も通行止めになったことを踏まえて計画された、とのことである。
大常木トンネル内を歩き、出口から旧道を確認するに、こちらはトンネルの東口以上に完全にブロックされていた。川沿いの旧道歩きはあきらめ先に進む。

一之瀬高橋トンネル_午前10時24分_標高861m
大常木トンネルを抜けるとすぐに丹波川に架かる橋とトンネルが見える。旧道は右手の川沿いに進んでいる。こちらの旧道はフェンスで遮られるも、入口は開けることができそうだが、立ち入り禁止のサインもあり、こちらも旧道歩きを断念した。
大常木バイパスと同じ平成23年(2011)11月に開通した一之瀬高橋バイパスを進む。一之瀬高橋バイパスは全長は460m。丹波川に架かる岩岳橋と一之瀬高橋トンネル、それとトンネルを抜けるとすぐに柳沢川に架けられた橋からなる。柳沢川に架けられた橋はダブルヘアピンカーブの旧道の一個目のヘアピン部分につながり、ヘアピンは旧道にくらべひとつ減っている。
トンネルを抜けヘアピンカーブの坂を上りながら旧道方面を見る。柳沢川右岸、トンネルがしたをくぐる崖面は全体が落石ネットで覆われている。平成18年(2006)7月に発生した大規模な土砂崩れの名残ではないかと思う。対岸から川を越えて街道を岩で埋め尽くしたのであろう、か。
また、一之瀬高橋トンネルの真上山塊を見る。今回辿れなかった「新青梅街道」がトンネル真上辺りを通っているはずである。次回を期す。
○一之瀬川
一之瀬高橋バイパスを通らないで旧道を進むと北から一之瀬川が合流し、一之瀬川に架かる一之瀬橋が丹波山村と甲州市の境ともなっている。この一之瀬川の源頭部は多摩川の源流点となっている。「水干」と称される。一之瀬川林道を進み、黒川金山のところでメモした大常木谷を越え、一之瀬川、その上流の水干沢を詰め切った笠取山を少し南に下ったところにある。大常木谷の上流には「竜バミ谷」といった沢遡上にはフックの掛かる沢も。多摩川源流部の水干ともども一度訪れてみたいところである。
因みに一之瀬、二之瀬、三之瀬といった一之瀬高橋の集落はその交易は秩父が主であった、とか。将監峠を越えて甲州からは甲斐絹、麻布、紙。秩父側からは銘仙、相生織物、油、日用雑貨が運ばれた。

○おいらん淵
上で「一之瀬川」が合流するとメモしたが、一之瀬川の源頭部が多摩川の源流、ということは、一之瀬川が本流であり、合流するというのは適切ではないかもしれない。それはともあれ、一之瀬川が丹波川とその名を変える一之瀬橋より上流は柳沢川と呼ばれる。その柳沢川が、本流である一之瀬川・丹波川に合流する辺りに「おいらん淵」がある、という。
旧道沿いであり、訪ねることはできなかったのだが、この「おいらん淵」は武田家滅亡の時、坑道を埋め廃坑とするに際し、遊女の処置に困り、この渓上の宴台を設け、滝見の宴半ばで藤蔓を切り落し滝壺に葬る。55名とも、五十五人淵とも呼ばれる。
異説もある。皆殺しになることを知った女郎は、秩父の大滝を目指して逃げる途中、今の藤尾橋の下でつかまって谷に放り込まれた、と。断崖絶壁、道なき渓谷で宴を催すとの伝説よりも、ちょっとリアリティを感じる話ではある。

藤尾橋;午前11時_標高1013m
国道を進むと吊り橋が見える。おいらん云々は伝説としておくとしても、この橋は当初の計画で辿ろうとした明治の新青梅街道が柳沢川を右岸に渡る地点。橋には立ち入り禁止の標識があったのだが、いにしえの青梅街道の一端に触れるべく、吊り橋を渡り少し道を辿る。適当なところまで歩き折り返したが。結構きちんとした道がこの辺りには残っていた。今では廃道となった船越橋から、黒川谷出合いを経て、この藤尾橋までいつの日か歩いてみたい。「立ち入り禁止」は気になりつつも。

落合;午後12時10分_標高1148m
先に進むと左から高橋川が合わさる。地図で川筋を見ると高橋の地名があり、そこから一之瀬地区とは犬切峠で結ばれている。この辺りを一之瀬高橋と称する所以であろう、か。明治5年(1872)学制が発布されたとき、明治15年(1882)に分校が標高1,300mの犬切峠にあったという。高橋と一之瀬の中間である、という理由だろうか。単なる妄想。根拠なし。その分校も明治13年(1880)に新青梅街道が開かれると、落合と一之瀬に分校ができた。
高橋川が丹波川に合流する少し西に集落。丹波山村から歩き始め、はじめての集落らしき集落である。街道脇に東京都水道局の水源管理事務所があった。この落合の集落は明治に新青梅街道が開かれたときにできたもの。その交通の便の故か一之瀬や高橋から人が下ってできた集落である。
この落合辺りから先、予想では険阻なる山峡の地と想像していたのだが、雰囲気としては「高原」の趣き。覚悟していた急勾配もなく、緩やかに峠へとアプローチしていく道筋である。落合から柳沢峠まで、おおよそ5キロを330上るだけである。

御屋敷;午後12時32分_標高1223m
国道を進むと「御屋敷」との地名。柳沢刑部守の屋敷があったのがその地名の由来とのことだが、刑部は伝説の人物で実在のほど定かならず。刑部平、馬場沢、的場、刑部岩などの地名も残るが、今回越える柳沢峠も、この柳沢刑部守に由来する、とも。

湧水;午後12時43分_標高1261m
次第に細くなっていた柳沢川に沿って甲州では「大菩薩ライン」と呼ばれる青梅街道を進むと、道脇に土産店とその奥に宿があるようだ。また、土産店の手前にある「奥多摩湖源流の湧水」と書かれた看板に惹かれ、店脇の井桁風の水槽にホースから流れ出す水を飲む。柳沢川の上流から引かれただろう、か。その柳沢川はこの店の辺りから青梅街道から離れてゆく。ささやかな渓流となって流れる柳沢川を見送り先を急ぐ。

林道泉水横手山線入口;午後13時_1342m
街道の左手に「泉谷横手山林道入口」が見える。上でメモしたように、ここは泉水谷林道と繋がっているようであり、泉水谷に沿って上り、大黒茂谷の沢を越え牛首沢に。林道はそこからV字に折り返し、「泉水中段線」という林道名で黒川山(鶏冠山)方面の横手山峠近くの三本木峠を経てこの地で国道411号に出る。その出口、というか入口がここである。多くのライダーがこの林道を走っているようなので、ダートではあるがそれなりの道が整備されているのだろう。



大日影沢;午後13時12分_標高1390m
林道泉水横手山線入口まで来れば柳沢峠まで残り2キロ程度。もうひと頑張り。先に進むと大日影沢に架かる「大日影橋」。その先に逆にカーブする橋は「花ノ木橋」。大日影沢って、柳沢川の上流部のよう。地図では柳沢川の水路は、林道泉水横手山線入口の手前辺りで消えているのだが、橋に「柳沢川」と書かれていた。細いながらも水が流れるのを橋の上から確認できた。大日影橋も花ノ木橋も手元の2万5000分の一の地図の青梅街道の道筋から外れている。最近改修工事がなされたのであろう、か。豪快な橋である。

柳沢峠;午後13時36分_標高1472m
道の先に空が開き峠に到着。標高1472m。今まで結構多くの峠を越えたが、寂しい鞍部がほとんどであり、こんな車の往来頻繁な峠ははじめて。峠の茶屋から南に開く景観を楽しむ。天気が悪く富士山は見えなかった。
峠に石碑が建つ。明治に青梅街道を開いた県令藤村紫郎と、昭和6年(1931)小河内ダム建設の建議以降、30年に渡り道路の改修に貢献した飛田東山氏と川手良親氏の顕彰碑であった。飛田東山氏は小河内ダム建設に参画し、その景観を守るため昭和25年(1950)に秩父多摩国立公園指定に成功し、その後も国都県を動かし甲府青梅線の改修に貢献した。川手良親氏は山梨県の土木部長として、昭和12年(1937)以来都県を結ぶ青梅街道の改修に貢献した、といったものであった。

高芝大橋;午後14時15分_標高1278m
さて、後はバスに乗り遅れないように裂石に向かって下るだけ。柳沢峠から裂石までまだ10キロほども残っている。九十九折れの道をどんどん下る。と、突然巨大な橋が現れる。重川に架かる高芝大橋である。誠に巨大な橋梁である。また、その巨大なひとつの橋がS字に大きく曲がり、その橋桁の高さを含め今までに見たことも無いようなダイナミックな橋であった。橋の下には橋ができる前の青梅街道らしき道筋も見えた。

裂石;午後16時_標高901m
バスの時間も迫るため、脇目もふらずひたすら街道を下る。高芝トンネル、上萩原第一トンネル、上萩原第二トンネル、雲峰寺第一、雲峰寺第二トネルを抜け、裂石に到着。この地に泊まり翌日も甲州街道との合流点まで歩く元監査役と分かれ、バス停に。裂石にある名刹雲峰寺は数年前大菩薩から小菅に抜けたときに訪れたので今回はパス。コミュニティバスに乗りJR塩山駅に向かい、一路家路へと。本日は30キロ強、8時間半の峠越えであった。

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