足立区散歩 そのⅠ; 大鷲神社からはじめ、毛長川・新芝川に沿って荒川まで

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いつだったか、曳舟川跡散歩のとき、足立区の神明地区から亀有まで、中川に沿って南に下った。中川は足立区の西の境、である。今回の足立区散歩は、さてどこから、と考えた。で、なんという理由はないのだが、なんとなく花畑にある大鷲神社に行こう、と思った。現在お酉さまで有名なのは浅草の大鷲神社ではあるが、元々のお酉様は足立区の大鷲神社という。
大鷲神社の場所を確認。足立区と埼玉県八潮市、草加市の境にある。綾瀬川と伝右川、そして毛長川の合流点。毛長川が埼玉・草加と足立の境になっている。毛長という名前に惹かれた。また、毛長川は、古墳の入間川の流路、である。
現在の入間川は飯能あたりを源流とし、川越とさいたま市の境あたりで荒川に注ぐ。江戸の荒川西遷事業の頃は、現在の荒川・隅田川の流路を下っていた、という。荒川西遷事業、というのは、現在の元荒川・古利根川筋を流れていた荒川の流れを、西に流れる入間川に大鷲神社瀬替した大工事のことである。で、古墳時代の入間川は、というと、これが当時の利根川水系の主流であった、よう。熊谷>東松山>川越>大宮>浦和>川口>幡ヶ谷、と下り、現在の毛長川に沿って流れ足立区の千住あたりで東京湾に注いでいた、ということだ。
葛飾・柴又散歩のとき、東京下町低地の二大古墳群は柴又あたりと毛長川流域とメモした。そのときは、それといったリアリティはなかった。が、千住あたりが当時の海岸線である、とすれば、この毛長川流域、って東京湾から関東内陸部への「玄関口」。交通の要衝に有力者が現れ、結果古墳ができても、なんら違和感は、ない。
大鷲神社がきっかけに、古墳時代の武蔵の「中心地」のひとつ、毛長川が現れた。ということで、今回の散歩は、大鷲神社からはじめ、毛長川にそって埼玉・川口市まで歩く。その後は、新芝川に沿って荒川まで進み、鹿浜橋を越え王子に出る、といったルート。つまりは、東京と埼玉との境を川にそってぐるっと一周することにした。



本日のコース: 竹の塚駅 > 竹塚神社 > 保木間氷川神社 > 花畑・正覚寺 > 綾瀬川・伝右川・毛長川合流点 > 大鷲神社 > 白山塚古墳・一本松古墳 > 花畑浅間神社 > 花畑遺跡 > 法華寺境内遺跡 > 伊興・白旗塚古墳 > 応現寺 > 伊興寺町 > 東伊興・氷川神社 > 伊興遺跡 > 毛長川・毛長橋 > 見沼代用水跡 > 諏訪神社 > 舎人氷川神社 > 入谷古墳・入谷氷川神社 > 入谷・源証寺 > 新芝川・荒川の合流点 > 鹿浜橋

地下鉄日比谷線・竹の塚
地下鉄日比谷線・竹の塚下車。近くに竹が生い茂る塚・古墳があった、とか、「高い塚」を意味する「たかきつか」が転化したもの、とか例によって諸説いろいろ。エスカレータで降り、駅の東を進む。

竹塚神社
竹塚神社。源頼義公の足跡。奥州征伐の折、この地に宿陣した、と。墨田にしても、葛飾にしても、いやはや源頼義、その息子八幡太郎義家の由来の多いこと

延命寺

北に少し進み竹塚5丁目に延命寺。総欅造りの山門はなかなか渋い。昭和51年に佐渡の円通寺から移されたもの。鎌倉とか室町の作と伝えられる聖徳太子がある。

保木間氷川神社
延命寺の東、保木間1丁目に保木間氷川神社。保木間地区の鎮守さま。もと、この地は千葉氏の陣屋跡。妙見社が祀られていた。妙見菩薩は中世にこの地で確約した千葉一族の守り神。千葉一族の氏神とされる千葉市の千葉神社は現在でも妙見菩薩と同一視されている。菩薩は仏教。だが、神仏習合の時代は神も仏も皆同じ、ってこと。後に、天神様をまつる菅原神社、江戸には近くの伊興・氷川神社に合祀。この地で氷川神社となったのは明治5年になってから。本殿の裏手に富士塚。鳥居には「榛名神社」。ということは、富士は富士でも榛名富士? 氷川神社の前を通る道は江戸時代の「流山道」。花畑の大鷲神社、成田さんへ、また、西新井大師へと続く信仰の道。 (「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

花畑・正覚寺
保木間地区をブラブラと歩き綾瀬川まで進むことに。途中の保木間4丁目には寺町っぽい地区がある。地名の保木間は、もともとは「堤や土地の地滑りを防ぐ柵のこと。山城の国からやってきた人々が一面の湿地帯を開拓し部落をつくったときにつくったこの柵のことを地名とした。「ほき」は「地崩れ」、「ま」は「場所」。
少し東、花畑3丁目に正覚寺。ここにも新羅三郎義光の伝説。兄である八幡太郎義家を助けるため奥州遠征の途中、この寺に立ち寄る。守り本尊を預け、戦勝祈願を。正覚院に凱旋帰還。住職曰く「枯れ木に花又が咲くがごとくなり」と。

花畑・綾瀬川、伝右川、そして毛長川の合流点

毛長・綾瀬合流先に進み綾瀬川の堤に。雑草が生い茂る土手道。草を踏み分けながら北に進む。途中、花畑6丁目に諏訪神社。先に進むと綾瀬川、伝右川、そして毛長川がひとつにあるまる合流点に。花畑7丁目。花畑ってなんとなく惹かれる名前。地名の由来を調べる。元は花又村。明治に近隣の村が一緒になるとき、もとの花又村の{花}と、近辺が畑地であったので「畑」を加え、「花畑」に。で、もとの花又であるが、花 = 鼻 = 岬・尖ったところ。又 = 俣>分岐点。毛長川と綾瀬川、伝右川のが合流・分岐する三角洲、といった地形を美しく表した名前である。
photo by harashu

大鷲神社

大鷲神社毛長川に沿って湾曲部を進む。雑草が深い。湾曲部を廻りきったあたりで道路と交差。左に折れると直ぐに大鷲神社。大鷲神社はこの地の産土神。中世、新羅三郎源義光が奥州途上戦勝祈願。凱旋の折武具を献じたとか。
浅草酉の市の発祥の地。室町時代の応永年間(1394 - 1428年)にこの神社で11月の酉の日におこなわれていた収穫祭がお酉さまのはじまり。「酉の待」、「酉の祭り」が転じて「酉の市」になった、とか。
この地元の産土神さまのおまつりが江戸で有名になったのは、近隣の農民ばかりでなく広く参拝人を集めるため、祭りの日だけ賭博を公認してもらえたこと。賭博がフックとなり千客万来状態。江戸から隅田川、綾瀬川を舟で上る賭博目的のお客さんが多くいた、と。が、安永5年に賭博禁止。となると客足が途絶える。新たなマーケティングとして浅草・吉原裏に出張所。これが大当たり。本家を凌ぐことになった。賭博にしても、吉原にしても、信仰といった来世の利益には、こういった現世の利益が裏打ちされなければ人は動かじ、ってこと。かも。ついでに、参道で売られた熊手も、もとは近隣農家の掃除につかう農具。ままでは味気ないということで、お多福などの飾りをつけて販売した。
「大鷲」の名前の由来:この産土神さまは「土師連」の祖先である天穂日命の御子・天鳥舟命。土師(はじ)を後世、「ハシ」と。「ハシ」>「波之」と書く。「和之」と表記も。「ワシ」と読み違え「鷲」となる。ちなみに、天鳥舟命の「鳥」とのイメージから「鳥の待ち」に。この待ちは、庚申待の使い方に同じ。
鳥の話、といえば、鉄道施設と鳥のかかわり。東武伊勢崎線はこの花畑地区を通る予定だったらしい。が、この「陸蒸気」、その轟音と煤煙でにわとりが卵を産まなくなる、とか、大鷲神社の「おとりさま」に不快な思いをさせるのは畏れ多い、ということであえなく中止。電車が通っていたら、この辺りの環境は今とは違った姿に、なっていたのでは、あろう。
photo by harashu

毛長川:白山塚古墳・一本松古墳・花畑浅間神社
毛長川に沿って進む。川に沿って古墳が多い。大鷲神社近辺には白山塚古墳、一本松古墳。花畑大橋をすこし進むと花畑浅間神社。といっても本殿はなし。富士塚があるだけ。「野浅間」と呼ばれる。つくられたのは明治になってから。毛長川にそって点在する古墳を利用したもののよう。

毛長川:花畑遺跡・法華寺境内遺跡
さらに進む。花畑から保木間に入るあたり、日光街道に交差するあたりに花畑遺跡。草加バイパスを越え、直ぐ先、川からすこし入ったあたりに法華寺境内遺跡。
先に進む。東武伊勢崎線と交差。西清掃事務所に沿って谷塚橋に。左に折れ、次の目的地・白旗塚古墳に向かう。

伊興・白旗塚古墳
白旗古墳伊興白旗交差点。いかにも水路跡のような道筋。どうも、保木間掘跡のよう。保木間掘親水公園と呼ばれるようだが、東部伊勢崎線との交差するあたりまでは、そういった雰囲気はない。
線路手前を南に折れるとすぐ「白旗塚史跡記念公園」。白旗塚古墳がある。5世紀から6世紀につくられたもの。伊興古墳群のひとつ。直径12m、高さ2.5m、広さ60平方メートルの上段円墳。白旗塚古墳以外にも、甲塚古墳、擂鉢塚古墳などがあったよう。白旗塚の由来は、例によって、源頼義、義家が登場。これも例によって、勝利の証、源氏の白旗を掲げたところ、だとか。
photo by harashu

伊興寺町
伊興遺跡古墳脇に座り、一息入れる。足立って、由来は何、と考える。低湿地帯に葦が立ち並ぶ、ってことだろう、と。どうもそのとおりのよう。公園を離れ伊興寺町に。伊興町狭間と呼ばれる。北の毛長川、南の沼地に挟まれた微高地だったのが狭間の由来。お寺は関東大震災の後、浅草本所近辺のお寺がこの地に移ってきた。ちなみに、浅草の南にあったお寺は烏山に移り、烏山寺町に。
応現寺:伊興五庵と呼ばれている五つのお寺を南から進む。最初は「応現寺」。寺宝のいくつかは国立博物館に展示されている、とか。一遍上人の開いた時宗のお寺。江戸初期の建築様式が残る山門が美しい。
東陽寺:塩原太助の墓がある。江東区散歩のとき、亀戸天満宮とか塩原橋など、何回か出会った。「本所(ほんじょ)に過ぎたるものが二つあり津軽大名炭屋? 塩原」と呼ばれた本所在住の豪商。1876年三遊亭円朝が『塩原太助一代記』をつくり、噺をして以来一躍有名人に。
「河村瑞軒の墓」もある。瑞軒にも中央区霊岸島散歩のとき出会った。川村瑞賢は江戸初期の豪商。明暦の大火のとき、木曽福島の木材を買占め大儲け。その後、米を運ぶための航路開発や淀川治水工事などに貢献した。
法受院:五代将軍・綱吉の生母 桂昌院の墓がある。「怪談牡丹灯篭の碑」も。谷中に住んでいた円朝は千駄木・三崎坂の荒涼たる法住寺をモチーフに怪談を創作。怪談に出てくる寺の了碩(りょうせき)和尚は当時実在した住職。子供の頃、新東宝映画でこの手の怪談ものを良くみた。三本立て10円であった。ともあれ、怪談牡丹灯篭のあらすじ:旗本の娘お露は浪人萩原新二郎に恋。父に許されず、恋焦がれ死して幽霊となり、乳母お米の幽霊を伴い夜ごと牡丹灯寵をさげて新二郎の許へ通う。三崎坂にカランコロンと響いた下駄の音、ってストーリー。
そのほかこの寺町には常福寺。「林家三平(海老名家)」の墓がある。
易行院には花川戸助六と芸者・揚巻の墓が。団十郎の建てた「助六の碑」も。このお寺、落語家・三遊亭円楽師匠の実家とのことである。浅草・清川町から移る。
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東伊興・氷川神社

氷川神社寺町から離れ、毛長川方面に。東伊興2丁目に氷川神社。足立区最古の氷川社。淵江領42カ村の総鎮守。「淵の宮」とも呼ばれる。奥東京湾の海中にあった東京下町低地一帯が陸地化していく中で、このあたりが最も早く陸地化した。古墳時代に人々は、大宮あたりから当時大河川であった毛長川を下り移り住む。で、大宮・武蔵一ノ宮の氷川神社を勧請。
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伊興遺跡

伊興遺跡当時はこのあたりは淵が入り組んだ一帯。「淵の宮」と呼ばれた所以。付近一帯は古代遺跡。神社の直ぐ隣に伊興遺跡。縄文後期(約4000年前)から古墳時代初期の遺跡。毛長川沿いにあった遺跡のなかでもっとも繁栄した遺跡。毛長川を利用した水上交通の要衝。西日本からの須恵器なども発見されている。公園内の展示館には出土品を展示してある。伊興の地名の由来。定かならず。「吾妻鏡」に地頭で「伊古宇」の名前などが登場する。関係あるのかないのか、ともあれ不明。
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毛長川・毛長橋
毛長川毛長川に沿って西に進む。ところで、毛長川の名前の由来。地名の由来がいつも気になる、というか、地名の由来から昔の姿を想像する、それが楽しい。ともあれ、毛長川の由来:毛長川を隔て、埼玉の新里すむ長者に美しい娘。葛飾・舎人の若者と祝言。婿殿の実家と折り合い悪く実家に戻ることに。その途中沼に身を投げる。その後、長雨が続くと沼が荒れる。数年後沼から長い髪の毛を見つける。娘のものではないかと、長者に届ける。長者感激。ご神体としておまつり。それ以降沼が荒れることがなくなる。その神社が現在新里にある毛長神社。沼を毛長沼と。
毛長橋を越えると古千谷本町4丁目。「古千谷」 = こじや。古千谷の由来:江戸時代の文書にこの地を「東屋」=「こちや」。東風(こち)吹かば、匂いおこせよ、の「こち」。もともとは「荒地谷(こうちや)」だった、かも。「こうち」は「洪水のあることろ」。「や」や沢とか湿地・低地未開拓の湿地帯のこと。ちなみに、小千谷(おじや)は「落合」。水が落ち合 = 合流するところ。なんとなく音・表記が似ていたのでメモした、だけ。
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舎人・見沼代用水跡と諏訪神社

毛長川の堤を進み、舎人3丁目に。舎人の由来。これも、舎人親王に関係あるとか、「とね = 小石の多いやせ地」+「いり = 入り江」 = 「とねいり」>転化し「とねり」>「舎人」と表記、とか諸説あり定かならず。
堤からはなれ、一筋南に水路跡。見沼代用水跡。現在は親水公園になっている。親水公園脇に諏訪神社。小さい鳥居。この神社にまつわる婚姻説話:昔、この社地に夫婦杉。が、見沼代用水を掘り割るとき、水路を隔てた泣き別れに。以来、里人は縁起をかつぎ、この地を避けて通ることに。その心は、婚礼の時、難儀するほうが後々幸せに、といったこと、また、里を練り歩き、婚礼を披露するための方便に、といったこともある、とか。

舎人氷川神社
先に進み、舎人5丁目に舎人氷川神社。鎌倉初期に大宮氷川神社を勧請。現在の社殿は天保7年(1836年)のもの。総欅つくり。舎人の地も古くから開けたところ。神社近くの舎人遺跡からは古代の井戸が見つかっている。江戸時代は赤山街道の宿場として栄える。
入谷古墳・入谷氷川神社 少し南に入谷古墳・入谷氷川神社。「新編武蔵風土記」入谷古墳のメモ:「八幡社 塚上ニアリ。土人白旗八幡ト称ス。古岩槻攻ノ時、当所ニ幡ヲ立ショリ、カク称セリト云」と。昭和49年区画事業により、この塚の半分以上が削られることになっていたが、入谷氷川神社総代を中心とした住民の反対により計画変更。保存されることに。

入谷・源証寺
少し南に下った入谷2丁目に源証寺。江戸中期の建築様式を今に伝える太子堂、梵鐘で知られる。入谷の由来。毛長掘からは「入り込んだ」湿地。

新芝川
入谷から皿沼、谷在家、加賀そして鹿浜、そして新芝川へと進む。皿沼の由来。定かならず。が、「さら」 = 「浅い」ということで、「浅い沼」>「湿地帯」。皿沼は水はけの悪い、水田地帯だった。加賀。これも由来不明。が、「かが」って「耕作地にできない草群とか岩地」。このあたり耕地になりえないようなところだったのだろうか。谷在家の由来。沼田川の谷もしくは沢に開いた農家。在家は集落のこと。「湿地の部落」って意味。どうしたところで湿地帯であったようだ。ちなみに鹿浜。「しかはま」または「ししはま」。鹿を「しし」と読むことは多い。鹿が群れていたところだったのだろう。
入谷からのルート一帯は御神領。神の領地。この場合の神は東照大権現・家康。御神領とはつまりは東叡山・寛永寺の領地のこと。家康入府以来、このあたりは天領であったが、四代将軍家綱、五代将軍綱吉が寄進した。御神領堀といった用水も道筋にあった。

新芝川から荒川との合流点に
御神領を進み、新芝川の堤を下り荒川との合流点に。合流点近くに休憩所。夕刻でもあり、眺めが素晴らしい。しばしゆったり。荒川に沿って下り、鹿浜橋を渡り新田地区に。夕刻時間切れのため、タクシーにのり新神谷橋を渡り王子の駅に。本日の予定終了。

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