秩父 秩父観音霊場散歩 Ⅴ;第二回秩父札所巡り(2)

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宿でのんびりしながら、翌日の予定をどうしたものかと、少々真面目に話し合う。当初の予定では、最初に長瀞に向かい、それから西武秩父へ成行きで戻り旅、などと考えていた。地図を見る。宿は語歌橋の近く。5番札所・語歌堂も直ぐ近い。ということは千体仏の4番札所金昌寺もその先に。ということは、先回の札所散歩のとき、時間切れで行けなかった1番、2番札所は、そのもう少々先にある。宿から西武秩父まで歩くのであれば、とっとと、1,2番札所に進むべし。 で、黒谷の和同開珎の露天掘り跡を経て長瀞へというコースに、急遽というか、計画しておけば当たり前というか、の段取りですんなり決定。(水曜日, 12月 20, 2006のブログを修正)



本日のルート;語歌橋>5番札所・語歌堂・長興寺>4番札所・金昌寺>2番札所・真福寺>1番札所・四萬部寺瑞岩寺>和同開珎>秩父鉄道・黒谷駅>上長瀞駅>長瀞>宝登山神社>西武秩父

朝、宿を出立。交通量の多い県道・11号を避け、一筋東に入った道を歩く。5番札所語歌堂前を通り、先回パスした5番札所の納所・長興寺にちょっと立ち寄り、先に進む。織姫神社。昔、このあたりに織物工場があり、織物にちなんだものではあろう。が、秩父夜祭、って秩父神社の織姫さまと武甲山の龍神さまの年に一度の逢瀬のとき。こちらのコンテキストで考えるほうが、なんとなく落ち着きがいい。
織姫神社のところを東に入り、4番札所・金昌寺の門前をかすめ、先に進む。山の端をしばらく歩き二番札所の納経所・光明寺に立ち寄り、2番札所真福寺に向かう。大棚地区の山道を進み、九十九折れ・急勾配の峠道を越えると木立に囲まれた真福寺に着く。4番札所・金昌寺から、50分程度の歩き。途中の峠あたりか らの武甲山など、山々が美しい。

2番札所・真福寺
観音堂は、屋根・向拝や彫刻も美しく、風格ある趣き。本尊の聖観音立像は一木造りで室町時代の作。長享の頃というから15世紀の末、水害に遭い札所からはずされていたようだが、信者からの復活要望も強く34番目の札所として再登場。現在の場所に移ったのは江戸時代初期のこと。当時はもっと大きな規模であったようだが、万延元年(1860)火災により焼失した、と。本堂の左手に注連縄を張った社というか小祠。春日神社、諏訪神社などがまつられている。ちなみの、長享頃って、どんな時代だったか、ということだが、室町幕府、将軍・足利義尚の子治世。加賀の一向一揆の門徒が、守護・富樫氏を攻め自刃においやった、といった時代である。
ご詠歌;「巡りきて願いをかけし大棚の誓いもふかき谷川の水」

真福寺を離れ山道を下る。結構急勾配。この道を上るのは大変であろう、と思いながら歩いていると、サイクリング自転車に乗った御仁が急勾配をものともせず上がり来る。脱帽。坂道を30分程度下ると四萬部寺に。

1番札所・四萬部寺
山門をくぐり中へ入ると、正面奥に観音堂。元禄の頃の建築。紅葉が素晴らしい。いい雰囲気。寺伝によれば、昔、性空上人が弟子の幻通に、「秩父の里へ仏恩を施して人々を教化すべし」と。幻通はこの地で四萬部の佛典を読誦して経塚を建てた。四萬部寺の名前はこれに由来する。本尊の釈迦如来像が明治の末に、行方不明になったことがある。その後、70年をへて都内で発見され、現在この寺に収まっている、と。本堂の右手に施食殿の額のかかったお堂。お施食とは、父母、水子等があの世で受けている苦しみを救うための法会。毎年、8月24日に、この堂で行われる四万部の施餓鬼は、関東三大施餓鬼のひとつと。大いに賑わう。ちなみにあとふたつは「さいたま市浦和の玉蔵院の施餓鬼」、「葛飾・永福寺のどじょう施餓鬼」。

四萬部寺が札所一番になったいきさつは、上でメモしたように、江戸からのお客様対策。繰り返しになるが、江戸からの巡礼道としてもっともよく使われていた「川越通り(川越から小川、東秩父を経て粥新田峠(かゆにたとうげ)>三沢>曽根坂峠>秩父大宮)」にしても、熊谷方面からの「熊谷通り(中仙道>熊谷>寄居>釜伏峠>皆野>秩父大宮)」にしても、秩父へのゲートウエイとしては、結局はこの四萬部寺がベストロケーション。粥新田峠から皆野町三沢地区に下ると、四萬部寺までは県道82号(長瀞・玉淀自然公園線)の一本道。釜伏峠から下って来ても三沢地区で同じ県道に出る。ということは、川越通り、熊谷通りのどちらを歩いても、この寺が一番近い秩父札所ということ。
ご詠歌;「有難や一巻ならぬ法(のり)の花 数は四萬部の寺のいにしえ」


瑞岩寺
四萬部寺を離れ次の目的地・黒谷の和同開珎露天掘跡に向かう。野道を20分程度進み、国道140号線の手前あたりに瑞岩寺。秩父十三仏霊場のひとつ。裏山は岩肌の露な魅力的な風情。ツツジの名所とか。ツツジの季節に来てみたい。この岩山、戦国時代大田道潅と戦った長尾景春の居城跡と伝えられる。
長尾景春って結構面白い。室町から戦国時代初期にかけ、関東を戦乱・混乱に巻き込んだ立役者。ことの発端は、関東管領・山内上杉憲実の家宰・長尾景信の跡継ぎ騒動。景信は景春の父。景春はてっきり自分に家宰の跡目が廻ってくる、と思っていた。が、管領・上杉憲法は跡目を景信の弟・忠景に継がせた。怒り狂った景春は寄居の鉢形城に立てこもり上杉家に戦いを挑む。これが「長尾景春の乱」のはじまり。一時は上杉軍を破り、上杉・管領家は上野に退却。ここで扇谷上杉家の家宰・大田道潅の登場。道潅は景春に復帰を呼びかけるが不調。で、合い争い、結局景春は破れ再び鉢形城に籠城。上杉軍が鉢形城を包囲。景春は上杉と争う古河公方・足利成氏に支援要請。なぜ古河公方か。簡単に言えば、といっても、簡単には説明できないのだが、関東管領・上杉氏と犬猿の仲であった、ということ。もとは鎌倉において鎌倉公方であったのだが、公方の補佐役・管領上杉家と争い、結局は鎌倉から追い出され、古河に本拠地を構える。古河公方と呼ばれる所以。で、鎌倉の公方(堀越公方)・上杉管領家と関東を二分した争いが続く。
本題に戻る。成氏動く、との報に接し、上杉軍は包囲を解き足利軍に備える。結局、上杉と足利は停戦成立。取り残された景春に対し、大田道潅は鉢形城を攻め景春を秩父へと追放した。瑞岩寺の景春の居城跡、って、このとき拠点としたところだろう、か。 その後のこと:道潅死後は再び秩父から出兵し、群馬・渋川市にある白井城を拠点に上杉家と戦い続け、最後は小田原・北条早雲と同盟を結ぶことになるが、あくまでも上杉家と戦い続けた。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


和銅露天掘跡
瑞岩寺から30分程度の歩きで秩父鉄道黒谷駅。駅を越え、再び山地に向かう。30分程度登り、ちょっと沢に下ると「和銅露天掘跡」。秩父市と皆野町にまたがる蓑山(587m)につくられた「美の山公園」の麓。蓑山って、秩父唯一の独立 峰、ってことをどこかで見たような気がする。ともあれ、ここは秩父古生層と第三紀層の大きな断層崖が形成された地。この露頭壁に走る自然銅の鉱脈を、露天掘りによって採掘したのであろう。この地で採掘された「にぎあかがね」・自然銅は精錬銅に対して熟銅とも言われる極めて純度の高いものであった、とか。慶雲5年(708年)、秩父から自然銅が元明天皇に献上される。天皇大いに喜び、詔を発布し年号を「和銅」と改元した。で、その銅をもとに日本での最初の流通貨幣「和同開珎」がつくられた。銅は秩父の広い範囲から産出されたが、和銅にちなむ名前が多いこの黒谷をもって昭和61年「和同開珎の碑」が建てられた。
秩父の歴史は古い。縄文遺跡は市内に五十ヶ所、弥生式文化も数ヶ所から出土している。「チチブ」という名が現れたのは旧事記、国造本紀の中で「崇神(すじん)天皇の時代、知知父国造(ちちぶくにのみやつこ)が任命された」がはじめて。この「知知父」が「秩父」に改まったのは元明天皇の和銅六年、国、郡等の名を二字の好字に定めたことによる。で、古い歴史をもつこの秩父が歴史上有名になったのは、なんといってもこの黒谷の和銅を天皇に献上したときであろう。なにせ、改元したほどであるわけだから。大赦もするわ、臣下や百官を昇進させたり、老いた人にはモミを配ったり、徳の有る人を表彰したり、武蔵国にはその年の庸(よう)、秩父郡は庸・調(ちょう)等の租税を免除した、というし、いやはや、国を挙げての一大行事であったのだろう。
和銅露天掘跡に登る道すがら、「聖神社」という趣のある社があった。時間がなくなり、気になりながらもパスしたのだが、この神社って採掘された自然銅を御神体にした神社。神社創建の式典には天皇からの勅旨が派遣され、その際「銅のムカデ」が授けられ、神社の宝物となっている、とか。「ムカデ」の意味合いは、渡来人との関連で考えるのがわかりやすい。渡来人の王・若光王をまつる「白髭神社」の神のつかいはムカデ。フイゴ祭りには藁でつくったムカデをまつる風習もあるし、ムカデの油漬けは火傷の薬としても効果ある。精錬・鍛冶・金工といった、一連の作業に関係するムカデの霊力をまつる行為は渡来人の間でおこなわれていた祭祀のひとつ。和銅の採掘には金上金上无(こんじょうむ)等、渡来人のもつ技術なくしては不可能であり、渡来人の信仰の対象であった「ムカデ」を天皇が記念に贈ったのであろう。この神社をパスしたのは少々残念。散歩の鉄則として、「とりあえず行く」の精神を再確認。

「和同開珎の碑」を離れ、秩父鉄道・黒谷に向かう。次の目的地は長瀞であるのだが、膝のガタもさることながら、時間が少々タイト。電車を利用し、上長瀞駅に。昨年紅葉の季節の見た、上長瀞駅近くの県立自然博物館付近の紅葉の美しさを再び、と思った次第。紅葉の中を長瀞駅までのんびり歩き、これも昨年食べた「田舎饅頭」の味を再び、と。なんとなく子供の頃、なくなった祖母がつくってくれた「饅頭」の味を思い出す。お土産に、「田舎饅頭」を買い求め、最後の目的地・宝登山神社に向かう。

宝登山(ほどさん)神社

秩父鉄道・長瀞駅から一直線に参道が。白大鳥居が目に付く。結構歩いた。山麓に宝登山(ほどさん)神社。秩父神社、三峯神社とともに秩父三社のひとつ。ここにも日本武尊が登場する。寺伝によれば、三峯とおなじく景行天皇の御世、その皇子である日本武尊がこの山に登る。突然の山火事。一面火の海。いずことのなく現れた「お犬さま」が奮闘し鎮火。危機一髪の難を逃れる。お犬さまは日本武尊を山頂に案内し、再び何処とも無く立ち去る。「お犬さまは、神のお使い」と感謝。この山を「火止山(ほどやま)」と命。山頂からの美しい眺めに神の山にふさわしい、と「神日本磐余彦尊(かみやまといわれひこのみこと;神武天皇のこと)」「大山祇神(おおやまづみじんしゃ;山の御神霊)」「火産霊神(ほむすびのかみ;火の御神霊)」の三柱をまつる。その後、火止山は霊場として続き、弘仁年中に宝珠が光り輝き山上に飛翔する神変。ために「宝登山」と称し、仏教、特に修験場として栄える。山麓には玉泉寺(真言宗)も開基され、神仏習合の宮として明治の神仏分離令まで続く。日本武尊伝説にちなみ防火、災難消除の神として信仰厚い神社となっている。

この神社の御眷属は三峰神社と同じく「お犬さま」、というか狼。御眷属、というか、神様のボディガードと言うか、神様の使いもバリエーション豊富。伊勢神宮はニワトリ。天岩戸の長鳴鳥より。お稲荷様は狐。「稲成=いなり」より、稲の成長を蝕む害虫を食べてくれるのがキツネ、だから。八幡様はハト。船の舳先にとまった金鳩より。春日大社はシカ。鹿島神宮から神鹿にのって遷座したから。北野天満宮はウシ。菅原道真の牛車?熊野はカラス。神武東征の際三本足の大烏が先導した、から。日枝神社はサル。比叡に生息するサルから。松尾大社はカメ。近くにある亀尾山から。といった按配。それぞれに御眷属としての「登用」に意味はあるわけだが、その決定要因はさまざま。いかにも面白い。

石神井川散歩の東伏見稲荷のところでメモしたのだが、それぞれの神社が祭祀圏を広げるに際し、キャンペーンガールならぬマスコットをつくりあげ、市井の民にわかりやすい形を組み上げたうえで勢力拡大・販路拡大を図ったのであろう。巧みなマーケティング戦略ではありましょう。

予定では、ケーブルに乗り、奥宮へと考えていた。が、残念ながら、時間切れ。ケーブルもほぼ最終便といったところで、宝登山への登りはあきらめる。後から、宝登山から眺める武甲山の美しい姿などをおさめた写真を見るにつけ、あと一歩、先に進んでいたら、などとの思いもあり。が、今回は、時間が時間だけに景色もほとんど見えなかったはず、と思い込み、次回のお楽しみとする。
2回にわけて歩いた秩父札所。まだ半分ほど残っている。はじめた以上は全部クリアを、ということで、年明け、厳冬の秩父を歩こうと、同僚諸氏と話す。それより、個人的には、川越通りにそって、峠越えにて秩父へと歩いてみたい。春には決行、と。

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