成増から赤塚、徳丸へと進み東武練馬駅に
板橋区散歩の2回目は成増からはじめることにした。先回赤塚地区を歩いたとき、赤塚やそのお隣の成増地区にある神社仏閣、そして複雑な地形を、如何にも歩き残した感があった、ため。
営団成増で下車。赤塚地区に向かう前に、どうせなら西の端、和光市との境まで進み、境を流れる白子川、そして白子宿をちょっと眺めてみよう、と思った。「川はみな曲がりくねって流れている。道も本来は曲がりくねっていたものであった」からはじまる、岩本素白さんの描く『白子の宿』の地をちょっと歩いてみたかった、から。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)
成増駅
駅を南に進み川越街道に。西に進む。川越街道が大きく下る。白子川を渡るため台地から川に向かって下っていくのだろう。道の左手に団地が建て並ぶ。この一帯は成増1丁目遺跡。縄文から弥生にかけての集落跡が発見されたところ、とか。
大山常夜燈
坂道の途中、川越街道から旧川越街道がわかれるあたりに道祖神と大山常夜燈、そしてその近くに八坂神社。道祖神、って旅人の道中の安全を守るもの。江戸時代に街の辻などにあり、道標の役割も果たした。猿田彦命が御祭神。大山常夜燈は江戸中期、庶民の信仰の対象となった大山信仰のためにつくられた。
八坂神社
八坂神社は京都の八坂神社を勧請したもの。「天王さま」とも呼ばれている。御祭神は素戔嗚尊とイナダヒメノミコト。元々は現在地よりやや南にあったが、昭和8年の川越街道新道工事の際に移された」、と。
板橋区散歩の2回目は成増からはじめることにした。先回赤塚地区を歩いたとき、赤塚やそのお隣の成増地区にある神社仏閣、そして複雑な地形を、如何にも歩き残した感があった、ため。
営団成増で下車。赤塚地区に向かう前に、どうせなら西の端、和光市との境まで進み、境を流れる白子川、そして白子宿をちょっと眺めてみよう、と思った。「川はみな曲がりくねって流れている。道も本来は曲がりくねっていたものであった」からはじまる、岩本素白さんの描く『白子の宿』の地をちょっと歩いてみたかった、から。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)
本日のルート;成増駅>大山常夜燈>八坂神社>白子川>菅原神社>小松原阿弥陀堂>青蓮寺>氷川神社>諏訪神社>赤塚公園の崖線>北野神社>天神坂>前谷津川緑道から不動通り>東武練馬駅
成増駅
駅を南に進み川越街道に。西に進む。川越街道が大きく下る。白子川を渡るため台地から川に向かって下っていくのだろう。道の左手に団地が建て並ぶ。この一帯は成増1丁目遺跡。縄文から弥生にかけての集落跡が発見されたところ、とか。
大山常夜燈
坂道の途中、川越街道から旧川越街道がわかれるあたりに道祖神と大山常夜燈、そしてその近くに八坂神社。道祖神、って旅人の道中の安全を守るもの。江戸時代に街の辻などにあり、道標の役割も果たした。猿田彦命が御祭神。大山常夜燈は江戸中期、庶民の信仰の対象となった大山信仰のためにつくられた。
八坂神社
八坂神社は京都の八坂神社を勧請したもの。「天王さま」とも呼ばれている。御祭神は素戔嗚尊とイナダヒメノミコト。元々は現在地よりやや南にあったが、昭和8年の川越街道新道工事の際に移された」、と。
八坂神社って京都が本家本元。が、そのはじまりはよくわからない。一説では高麗の調使であった伊利之(いしり)の後裔・八坂氏が、朝鮮の牛頭(ごず)山に祀る牛頭天王を移したことにはじまる、とも。「天王さま」と呼ばれる所以である。
八坂神社という名になったのは明治の神仏分離令以降。明治になって。京都の「天王さま」・「祇園さん」が八坂神社に改名したため、全国3000とも言われる末社が右へ倣え、ということになったのだろう。八坂という名前にしたのは、京都の「天王さま」・「祇園さん」のある地が、八坂の郷、といわれていた、から。ちなみに、明治に八坂と名前を変えた最大の理由は、「(牛頭)天王」という音・読みが「天皇」と同一視され、少々の不敬にあたる、といった自主規制の結果、とも言われている。「祇園さん」と呼ばれていた理由は、「牛頭天王さま」は祇園精舎のガードマンでもあった、ため(鈴木理生『江戸の町は骨だらけ(ちくま学術文庫)』)。
白子川
八坂神社の脇を旧川越街道が下る。このあたりは新田宿。白子川を越えた白子宿に続く。坂を下りきったところに白子川。南大泉4丁目の大泉井頭公園を源流点とし、和光市、板橋区を流れ、板橋区三園で新河岸川に合流する全長10キロの川。かつては武蔵野台地の湧水を集めて流れる川。大泉の名前も、白子川に流れる湧水の、その豊さ故につけられた、とか。一時は汚染ワースト一位といった、あまり自慢にならないタグ付けをされたりしたが、現在では相当改善されている、と。
白子の由来は、新羅(しらぎ)が変化した、と言われる。奈良時代、武蔵国には高麗郡、新羅郡が置かれた、ってことは以前メモした。新羅や高句麗、百済からの渡来人が移住したわけだが、白子川も彼ら渡来人に由来する名前であろう。
白子川の手前に童謡作家、清水かつらが住んでいた家があった、とか。かつらの代表的な歌詞は「靴がなる」。当時としては「靴」は高級品であったわけで、わらじではなく、靴に「はれやか」な思いを託していたのかも。
八坂神社という名になったのは明治の神仏分離令以降。明治になって。京都の「天王さま」・「祇園さん」が八坂神社に改名したため、全国3000とも言われる末社が右へ倣え、ということになったのだろう。八坂という名前にしたのは、京都の「天王さま」・「祇園さん」のある地が、八坂の郷、といわれていた、から。ちなみに、明治に八坂と名前を変えた最大の理由は、「(牛頭)天王」という音・読みが「天皇」と同一視され、少々の不敬にあたる、といった自主規制の結果、とも言われている。「祇園さん」と呼ばれていた理由は、「牛頭天王さま」は祇園精舎のガードマンでもあった、ため(鈴木理生『江戸の町は骨だらけ(ちくま学術文庫)』)。
白子川
八坂神社の脇を旧川越街道が下る。このあたりは新田宿。白子川を越えた白子宿に続く。坂を下りきったところに白子川。南大泉4丁目の大泉井頭公園を源流点とし、和光市、板橋区を流れ、板橋区三園で新河岸川に合流する全長10キロの川。かつては武蔵野台地の湧水を集めて流れる川。大泉の名前も、白子川に流れる湧水の、その豊さ故につけられた、とか。一時は汚染ワースト一位といった、あまり自慢にならないタグ付けをされたりしたが、現在では相当改善されている、と。
白子の由来は、新羅(しらぎ)が変化した、と言われる。奈良時代、武蔵国には高麗郡、新羅郡が置かれた、ってことは以前メモした。新羅や高句麗、百済からの渡来人が移住したわけだが、白子川も彼ら渡来人に由来する名前であろう。
白子川の手前に童謡作家、清水かつらが住んでいた家があった、とか。かつらの代表的な歌詞は「靴がなる」。当時としては「靴」は高級品であったわけで、わらじではなく、靴に「はれやか」な思いを託していたのかも。
「靴がなる」
1.お手々つないで野道を行けば みんなかわいい小鳥になって 歌をうたえば靴が鳴る 晴れたみ空に靴がなる
2.花をつんではお頭(つむ)にさせば みんなかわいい兎になって はねて踊れば靴が鳴る 晴れたみ空に靴が鳴る
ちなみにおなじところに「浜千鳥」や「おうちわすれて」の作者・鹿島鳴秋も住んでいた。
「浜千鳥」
青い月夜の 浜辺には 親を探して 鳴く鳥が 波の国から
1.お手々つないで野道を行けば みんなかわいい小鳥になって 歌をうたえば靴が鳴る 晴れたみ空に靴がなる
2.花をつんではお頭(つむ)にさせば みんなかわいい兎になって はねて踊れば靴が鳴る 晴れたみ空に靴が鳴る
ちなみにおなじところに「浜千鳥」や「おうちわすれて」の作者・鹿島鳴秋も住んでいた。
「浜千鳥」
青い月夜の 浜辺には 親を探して 鳴く鳥が 波の国から
生まれでる
濡(ぬ)れたつばさの 銀の色
夜鳴く鳥の 悲しさは 親を尋ねて 海こえて
月夜の国へ 消えてゆく 銀のつばさの 浜千鳥
夜鳴く鳥の 悲しさは 親を尋ねて 海こえて
月夜の国へ 消えてゆく 銀のつばさの 浜千鳥
白子宿
白子宿のあたりを少し歩く。坂の上に熊野神社。「東京名湧水57選」にも選ばれた湧水もあり行ってみたいのだが、これではきりがない。おまいりは次の機会とし、成増に引き返す。ちなみに白子宿といえば、岩本素白さんが「白子の宿 ひとり行く」という散歩のエッセーを書いている。『日和下駄』ではないけれど、散歩随筆の達人って、永井荷風がしばしば語られる。が、この素白さん、あれこれ散歩に「理屈」をつけることなく、自然な風情がなんとなく魅力的。
「白子の宿」から引用する;「僅かばかりしか家並みの無い淋しい町が、中程のところで急に直角に曲がり、更にまた元の方向に曲がっている。いわゆる鍵の手になっているのである。それと、狭い道の小溝を勢いよく水の走っているのとが永く記憶に残った。新しく出来た平坦な川越街道を自動車で走ると、白子の町は知らずに通り越してしまう。静かに徒歩でゆく人達だけが、幅の広い新道の右に僅かに残っている狭い昔の道の入口を見出すのである。道はだらだら下りになって、昔広重の描いた間の宿にでもありそうな、別に何の風情もない樹々の向こうに寂しい家並みが見える(白子の宿・独り行く2)」。素白先生は、この白子宿から新座の平林寺まで歩いた、という。そのうちに同じ道筋を辿ってみたい。
菅原神社
白子川から八坂神社まで戻る。脇に登り道。道なりにすすむと東武東上線。跨線橋を渡り先に進む。台地から坂道を下り、成増駅北口商店街、百々向川(ずずむきがわ)緑道を越えると台地下に天神下公園。少々休憩。台地の下をぶらぶら歩くと崖線に沿って旧白子川緑道が走っていた。台地を登る。菅原神社。旧成増村の鎮守さま。新編武蔵風土記では「天王社」。17世紀後半には「自在天社」。菅原神社となったのは明治になってから。
自在天、って仏教で言う地獄や天国といった六つの世界(六道)の最上位界に位する神様。菅原道真の御霊に「天満大自在天神」といった神号がついているが、これは道真の御霊と自在天が習合したものであろう。自在天社が菅原神社となった理由も、このあたりにあるのだろう、か。ちなみに、神社から臨む白子川の谷の眺めは結構、いい。
小松原阿弥陀堂
更に道なりに進むと小松原阿弥陀堂。阿弥陀堂自体は、さっぱりしたもの。その前の道角に庚申塔。「西 白子道 北 吹上道」と。区民農園に沿って進むと道は下りとなる。下りきるとケヤキの大木。その根元の道角に庚申塔。道は三方向に分かれている。適当に進む。左斜面は梅林。
青蓮寺
台地に登り少し進むと青蓮寺。台地の先端部分にあり、いい眺め。青蓮寺の寺号は「石成山」。成増の旧名でもある。「石」ころだらけの原野を開き、耕地と「成」したから、とか。成増の由来は、この石成村の名主の名前が田中左京成益であった、ため。成益が成増となった。また、富がどんどん成り増していく、のがその由来といった説も。お寺の近くの石成公園にちょっと寄り、三園通りに出る。成増と赤塚の境を南北に走る道である。
氷川神社
三園通りを越え少し東に進むと氷川神社。赤塚城主千葉自胤が大宮にある武蔵一宮・氷川神社から勧請したもの。境内脇に富士塚もある。桜の並木からなる長い参道を南に下ると参道入り口あたりにケヤキの老木。明治期の落語家三遊亭円朝の落語「怪談乳房榎」にちなんだ、「乳房榎大神」の碑がある。乳房の病にれいけんあらたか、とか。とはいうものの、落語に登場するのは、先回歩いた松月院の境内にある榎。コブからしたたる甘い雫をお乳がわりに、子供を育てたとか。
諏訪神社
白子宿のあたりを少し歩く。坂の上に熊野神社。「東京名湧水57選」にも選ばれた湧水もあり行ってみたいのだが、これではきりがない。おまいりは次の機会とし、成増に引き返す。ちなみに白子宿といえば、岩本素白さんが「白子の宿 ひとり行く」という散歩のエッセーを書いている。『日和下駄』ではないけれど、散歩随筆の達人って、永井荷風がしばしば語られる。が、この素白さん、あれこれ散歩に「理屈」をつけることなく、自然な風情がなんとなく魅力的。
「白子の宿」から引用する;「僅かばかりしか家並みの無い淋しい町が、中程のところで急に直角に曲がり、更にまた元の方向に曲がっている。いわゆる鍵の手になっているのである。それと、狭い道の小溝を勢いよく水の走っているのとが永く記憶に残った。新しく出来た平坦な川越街道を自動車で走ると、白子の町は知らずに通り越してしまう。静かに徒歩でゆく人達だけが、幅の広い新道の右に僅かに残っている狭い昔の道の入口を見出すのである。道はだらだら下りになって、昔広重の描いた間の宿にでもありそうな、別に何の風情もない樹々の向こうに寂しい家並みが見える(白子の宿・独り行く2)」。素白先生は、この白子宿から新座の平林寺まで歩いた、という。そのうちに同じ道筋を辿ってみたい。
菅原神社
白子川から八坂神社まで戻る。脇に登り道。道なりにすすむと東武東上線。跨線橋を渡り先に進む。台地から坂道を下り、成増駅北口商店街、百々向川(ずずむきがわ)緑道を越えると台地下に天神下公園。少々休憩。台地の下をぶらぶら歩くと崖線に沿って旧白子川緑道が走っていた。台地を登る。菅原神社。旧成増村の鎮守さま。新編武蔵風土記では「天王社」。17世紀後半には「自在天社」。菅原神社となったのは明治になってから。
自在天、って仏教で言う地獄や天国といった六つの世界(六道)の最上位界に位する神様。菅原道真の御霊に「天満大自在天神」といった神号がついているが、これは道真の御霊と自在天が習合したものであろう。自在天社が菅原神社となった理由も、このあたりにあるのだろう、か。ちなみに、神社から臨む白子川の谷の眺めは結構、いい。
小松原阿弥陀堂
更に道なりに進むと小松原阿弥陀堂。阿弥陀堂自体は、さっぱりしたもの。その前の道角に庚申塔。「西 白子道 北 吹上道」と。区民農園に沿って進むと道は下りとなる。下りきるとケヤキの大木。その根元の道角に庚申塔。道は三方向に分かれている。適当に進む。左斜面は梅林。
青蓮寺
台地に登り少し進むと青蓮寺。台地の先端部分にあり、いい眺め。青蓮寺の寺号は「石成山」。成増の旧名でもある。「石」ころだらけの原野を開き、耕地と「成」したから、とか。成増の由来は、この石成村の名主の名前が田中左京成益であった、ため。成益が成増となった。また、富がどんどん成り増していく、のがその由来といった説も。お寺の近くの石成公園にちょっと寄り、三園通りに出る。成増と赤塚の境を南北に走る道である。
氷川神社
三園通りを越え少し東に進むと氷川神社。赤塚城主千葉自胤が大宮にある武蔵一宮・氷川神社から勧請したもの。境内脇に富士塚もある。桜の並木からなる長い参道を南に下ると参道入り口あたりにケヤキの老木。明治期の落語家三遊亭円朝の落語「怪談乳房榎」にちなんだ、「乳房榎大神」の碑がある。乳房の病にれいけんあらたか、とか。とはいうものの、落語に登場するのは、先回歩いた松月院の境内にある榎。コブからしたたる甘い雫をお乳がわりに、子供を育てたとか。
諏訪神社
氷川神社の少し「南に清涼寺。横に石成公園。成り行きで進むと赤塚小学校とか赤塚体育館に至る道に出た。先に進むと松月院通りと交差。通りを東、というか、北東に進む。先回歩いた、松月堂大堂、そして松月院をやり過ごし、新大宮バイパスを越え、台地の北端に進む。「竹の子公園」隣に諏訪神社。
赤塚城主の千葉自胤が15世紀の中ごろ、信州諏訪神社より勧請。本当に台地の端。木立に遮られそれほど見通しはよくないが、高速道路越しに高島平が見下ろせる。
赤塚公園の崖線
赤塚公園の崖線
神社のある大門地区をはなれ、道なりに坂を下る。崖線下には赤塚公園が続く。結構な比高差。武蔵台地と沖積低地の境がはっきりわかる。崖下を進み赤塚公園交差点で再び台地に上る。
紅梅小学校、安楽寺と進む。安楽寺は室町時代の創建。九州・大宰府にある菅原道真の廟所である安楽寺を模したとか。
北野神社
松月院通りを越え、北野神社に。長徳元年(995年)、この地に疫病が流行したとき、梅の古木に祈願すると、あら不思議、ということで、梅にちなんで京都の北野天満宮より勧請。それにしてもこのあたり、北野神社とか菅原神社とか、安楽寺とか、紅梅(小学校)とか、菅原道真にちなむものが多いように思える。このあたりの「徳丸(徳麻呂)」の地名も、道真公の子供・徳丸から、って説もあながち間違いでもないのかも。
天神坂
松月院通りを越え、北野神社に。長徳元年(995年)、この地に疫病が流行したとき、梅の古木に祈願すると、あら不思議、ということで、梅にちなんで京都の北野天満宮より勧請。それにしてもこのあたり、北野神社とか菅原神社とか、安楽寺とか、紅梅(小学校)とか、菅原道真にちなむものが多いように思える。このあたりの「徳丸(徳麻呂)」の地名も、道真公の子供・徳丸から、って説もあながち間違いでもないのかも。
天神坂
北野神社の鳥居あたりから南を眺める。低地を隔て、その先に台地が見える。あの台地上を川越街道が走るのだろう。名前は忘れたが、近くの公園に展望台があり、そこからの眺めもなかなか、いい。
北野神社に戻り、急な坂を下る。天神坂。20m程度の標高差があるよう。下りきったところに「前谷津川緑道」。水源は赤塚新町2丁目・赤塚新町保育園のあたり。松月院通りとほぼ平行に南から東に流れ、徳丸6丁目から北に向かう。また下赤塚駅近くから続く支流があり徳丸5丁目・石川橋付近で前谷津川に合流する。支流はもうひとつある。新大宮バイパスと東武線が交差する赤塚1丁目あたりからの流路らしきものが見られる。前谷津川のまとめ;前谷津川は台地上のいつくかの湧水を集め、今まで歩いてきた北野神社のある徳丸の台地と、今から歩こうとする西台の台地を分け、高島平に下る全長4キロ程度の川である、ということか。
北野神社に戻り、急な坂を下る。天神坂。20m程度の標高差があるよう。下りきったところに「前谷津川緑道」。水源は赤塚新町2丁目・赤塚新町保育園のあたり。松月院通りとほぼ平行に南から東に流れ、徳丸6丁目から北に向かう。また下赤塚駅近くから続く支流があり徳丸5丁目・石川橋付近で前谷津川に合流する。支流はもうひとつある。新大宮バイパスと東武線が交差する赤塚1丁目あたりからの流路らしきものが見られる。前谷津川のまとめ;前谷津川は台地上のいつくかの湧水を集め、今まで歩いてきた北野神社のある徳丸の台地と、今から歩こうとする西台の台地を分け、高島平に下る全長4キロ程度の川である、ということか。
前谷津川緑道から不動通り
前谷津川緑道に大山不動明王の碑。大山参詣の人たちが身を清めたところ。東に進み「不動通り」と交差。緑道を離れ、不動通りに。不動通りは東武練馬駅と高島平をつなぐ道。南は東武線との合流点で途切れ、北は都営三田線で途切れる。南に下り、坂が台地に登る手前に中尾不動尊。さっぱりしたお不動さん。不動通りの名前の由来はここにある。不動尊の脇の急坂を登る。長谷津観音堂。庚申塔や石仏が。これも、さっぱりしたお堂。
東武練馬駅
お堂を都立北野高校に沿って急な坂を登る。で、登りきったところが東武練馬駅。川越街道を走っているだけではわからない。が、北から進んでくると台地上に鉄道・道路が走っている、ってことがはじめてわかった。それにしても複雑な地形を歩いた一日であった。ルートマップでアップダウンを確認し、将に納得。
前谷津川緑道に大山不動明王の碑。大山参詣の人たちが身を清めたところ。東に進み「不動通り」と交差。緑道を離れ、不動通りに。不動通りは東武練馬駅と高島平をつなぐ道。南は東武線との合流点で途切れ、北は都営三田線で途切れる。南に下り、坂が台地に登る手前に中尾不動尊。さっぱりしたお不動さん。不動通りの名前の由来はここにある。不動尊の脇の急坂を登る。長谷津観音堂。庚申塔や石仏が。これも、さっぱりしたお堂。
東武練馬駅
お堂を都立北野高校に沿って急な坂を登る。で、登りきったところが東武練馬駅。川越街道を走っているだけではわからない。が、北から進んでくると台地上に鉄道・道路が走っている、ってことがはじめてわかった。それにしても複雑な地形を歩いた一日であった。ルートマップでアップダウンを確認し、将に納得。
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