土佐 歩き散歩:阿土国境の甲浦からはじめ第二十四番札所 最御崎寺へ

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伊予の遍路道にある,よさげな峠越えの遍路道が,歩き遍路のそもそもの発端であった。で、どうせのことなら歩き終えた峠と峠の間の遍路道を繋いでみよう。それならば、どうせのことなら伊予の旧遍路道をすべてカバーしてみようかと思いたち、古き標石を目安に土佐と伊予の国境からはじめた旧遍路道トレース伊予で終えるはずが、どうせのことなら讃岐もカバーしてみよう。讃岐を歩き終えると、阿波まで進んでみようか。阿波まできたのであれば土佐もカバーして四国の遍路道をすべて繋いでみようかと、今、土佐に入った。
今回から土佐の遍路道を歩く。本日のルートは甲浦から室戸岬突端部にある第二十四番札所最御崎寺まで、その距離おおよそ30キロというところだろうか。
現在は山地が海に落ち込むような海岸線を国道が走る。江戸の頃、道もなく波しぶきを浴びながら、荒磯の岩を飛び跳ねて進んだであろう難路の名残は既になく、単調ではあるが雄大な大洋を見遣りながらの快適な遍路道であった。
遍路道には標石がほとんど見当たらない。道がないわけであるから、当然といえば当然であるが、そもそも山地と海に挟まれた荒磯・浜を進むわけで、標石の必要もないだろう。というわけで今回は標石を目安の旧遍路道トレースの要はない。その替わりといってはなんだが、山地が海にストンと落ち込むような室戸岬東海岸や室戸岬の乱礁部の地形・地質の成り立ちにフックが掛る。とはいうものの、この領域は全くの門外漢。好奇心旺盛のリタイア・ビジネスマンの戯言メモとお許しいただければと思う。


本日のルート;甲浦>東俣番所跡> 熊野神社 >江藤新平の遭厄記念碑>甲浦坂トンネル>野根大師〈明徳寺)>白小石の六部堂と里神社>野根の標石>国道493号に合流>地蔵堂(庚申堂)>伏越の鼻>ゴロゴロ休憩所>法海上人堂>飛び石地蔵(水尻仏海標石)>入木(いるき)の仏海庵>佐喜浜>鹿岡(かぶか)鼻の夫婦岩>椎名>日沖の大礁・大碆(おおばえ)>厄除弘法大師坐像〈中務茂兵衛建立)>三津漁港>青年大師像>御蔵洞>乱礁遊歩道>(ビシャゴ岩>弘法大師行水の池>エボシ岩>土佐日記御崎の泊碑>弘法大師目洗いの池)>国道55号に戻る>最御崎寺への旧遍路道>大師一夜建立の岩屋>捻岩>最御崎寺・室戸スカイライン分岐>第二十四番札所最御崎寺(ほつみさきじ)


甲浦
宍喰の町より海に突き出た半島丘陵部を抜けてきた県道309号は、丘陵部を穿つ水床トンネルを抜けて来た国道合流と合流。その直ぐ先が徳島と高知の県境となる。
遍路道は県境から右に逸れる道に入り甲浦の町へと進む。
丘陵部を抜けると甲浦の内港。内港はふたつにわかれ、北に入り込んだ内港を東俣と呼ぶ。藩政時代は土佐藩の船蔵や船大工小屋があったようだ。東俣を跨ぐ橋を渡り、港の最奥部に東俣番所跡があるとのこと、ちょっと立ち寄り。
東俣番所跡
民家が密集する漁港の堤防前に番所跡の石碑が立つ。「甲浦東股番所跡」と刻まれる。前回の散歩でメモした宍喰の古目番所から宍喰峠で阿波と土佐の国境を越えた土佐街道はこの地に下りて来た(ルートは後述元越番所の掲載図参照ください)。

熊野神社
東俣より湾に沿って南に下り湾の南端の岩場に建つ熊野神社手前で道は右に曲がる。この西に入り込んだ椀を西股と称する。この神社には鳥居がない。結構珍しい。鳥居を建てても直ぐ倒れる。それが繰り返されたことにより、鳥居をたてないことが神意であろうと、その後建てられることはなかった、と。その替わりこの社には鐘楼が建っている。これも珍しい。
甲浦の由来
この社の森は沖からの目安となったのか、「甲ヶ山」と呼ばれる。甲ヶ山のある浦ゆえだろうか、この地は昔より甲ヶ浦(かぶとがうら)と呼ばれていたようだ。甲のカタチに似た甲貝が採れた浦との設もある。
「かぶとがうら」が「こうのうら」となったのは、甲ヶ浦(かぶとがうら)>甲の浦(こうのうら)>甲浦(かんのうら)と転化した説、熊野神社に那智の熊野権現十二社のひとつが飛来したとの縁起より、「神が来た浦」>かみのうら>かんのうら、となったとの説などあるようだ。
西股
西に入り込んだ西股の北に沿って道は進む。西股の南岸に御殿跡と地図にある。土佐藩初代藩主山内一豊公が土佐に最初に上陸した地であり、参勤交代の折の御殿や船蔵があったようだ。御殿は宝暦の大地震の後は現在の甲浦小学校のある地に移った。
西股南の丘陵には藩政以前、この地に割拠した豪族の城跡が残るとのことである。甲浦の湊口には葛島、二子島、竹ヶ島(徳島県)が並び、沖の波浪を遮り、古くからの天然の良港。土佐と上方を結ぶ船運の要衝の地であったようだ。
参勤交代の道
藩政時代、土佐藩の参勤交代の道は土佐湾に面する奈半利から室戸岬への海岸沿いの野根に抜ける35㎞の野根山街道を進み甲浦から海路を利用した。が、そのルートは海任せ・天候任せ。順調に進めば20日ほどで江戸に着いたというが、潮待ちなどにより50日ほどかかることもあった、と言う。
江戸到着予定日の遅参は「一大事」であり、遅参により改易の沙汰もあり得るといったものであり、遅参の怖れある場合は逐次幕府に報告をしなければならない。そんな面倒なことをやってられない、と思ったのか、海路の安定した瀬戸内の湊への道が拓かれた。その道は土佐北街道と呼ばれる。
高知の南国市から愛媛県の四国中央市に抜ける山越えの道である。享保3年(1718)の頃、古代の官道である南海道跡を基本に整備された道その道を5回に分けて歩いた()。そういえば、一部抜けている箇所があることを想いだした。そのうちに歩かなけらば。

江藤新平の遭厄記念碑
西股最奥部を左折し南に進む。甲浦小学校の対面の平和塔敷地内に大きな石碑が立つ。傍の案内には「江藤新平・甲浦遭厄の標 東洋町民は、この標を建立し偉大な功績を顕彰する 平成21年3月31日」とあり「明治5年司法郷や参議に就任。明治6年政変後に参議を辞し野に下る。明治7年、板垣退助・後藤象二郎らと民撰議院設立運動を起こす。これが後に自由民権運動となる。新平は、日本の近代的政治制度づくりに参画し、司法制度の確立、民権的法律の整備に貢献した。娼妓制度廃止など国民の基本的人権の礎を築いた。
佐賀の乱(明治7年)により政敵とみなされ、高知県に入り逃避行を続けたが、明治7年3月29日ここ甲浦の地で捕縛された。大正6年、「江藤新平君遭厄之地」石碑が甲浦青年団により建立されている」と記される。

明治政府に対する不平士族の乱に与し逆賊となった江藤新平であるが、大正5年(1916)には西郷隆盛らとともに名誉が回復され、正四位が贈位されている。記念碑建立はその状況を踏まえてのものだろう。江藤新平のあれこれは司馬遼太郎さんの『歳月』に詳しい。

元越番所跡

町を抜けた遍路道は小池川橋を渡り左に折れて河内川を渡り国道55号に合流するが、地図に牟岐線の甲浦駅の北に元越番所跡が記される、ちょっと立ち寄り。
国道と逆方向、小池川橋を渡り右折し甲浦駅の高架を抜け三差路を右に。元越番所跡は耕地が広がるだけで特に案内もない。その先、道が山裾に当たるところに「元越番所跡」の碑が立っていた。




宍喰の馳馬(はせば)から元越を越え阿波から土佐に入る道に立つ番所であった。
番所跡とその記念碑が異なる場所に立つ理由は不明。

土佐藩の遍路政策
藩政時代、土佐藩の遍路政策は他国に比して厳しいものであったよう。遍路はこの甲浦で土佐に入り宿毛で土佐を出るか、その逆だけが入出国箇所として認められた。更に在所で発行された往来手形(身分証明書)は必携MUST。入国に際しては甲浦〈宿毛)で添手形(通行許可書)を受け取り、出国の際に返却する必要があった。
真念も『四国遍路路道指南』に、「かんの浦 これより土佐領。入口に番所有、土佐一こくの御かきかえ出る」と記し、宿毛の番所のある大ふか原村で「大ふか原村 番所有、土佐通路の切手ハこれへわたす」と書く。
この通行許可書の発行には厳しい制限があり、往来手形と共に、渡船証、所持金が求められ、老人や子供は入国を許されなかった。
通行証明書が発行されても、多くの制限があり、定められた遍路道だけを歩くこと、遅滞なく歩くこと、脇道に入り込む者を取り締まるといった政策がとられていたようである。

甲浦坂トンネル
国道55号を下ると甲浦トンネル。長さ150m、昭和43年(1968)完成。旧道はトンネル手前の道を右に逸れ、大阪と呼ばれた坂を上り、トンネルの上辺りから道を左に逸れて細い土径を進みトンネル南口辺りに下りるといった古い記事がある。真念さんも「四国遍路道指南」に「甲浦坂:という大阪を越え生見へと坂を下ったと書く。
記事に従い坂を上る。特段の遍路道案内もなく、トンネル真上辺りのミカン畑の境を少し下ってみたのだが行き止まり。国道へと下る土径が見つからず、結局甲浦トンネルを抜けて生見に入る。

野根大師〈明徳寺
遍路道は国道55号を下り、生見を抜け、相間トンネルは手前から国道を逸れる旧道を辿り、相間川を渡り野根に入る。野根への遍路道は国道55号を逸れて旧道に入る。右手に野根八幡を見遣り進むと、そのお隣に野根の大師(明徳寺)が建つ。

山門を上がると正面に本堂、横に通夜堂。本堂右横を抜けると「弘法の滝」がある。こじんまりとしたお寺さまである。
Wikipediaには、「明徳寺(みょうとくじ)は高知県安芸郡東洋町に所在する真言宗豊山派の寺院。山号は金剛山。本尊は弘法大師。別名、東洋大師。四国八十八箇所霊場番外札所。

寺伝によれば、平安時代前期に空海(弘法大師)が42歳の時に四国を巡錫中にこの地に立ち寄った。その際、この地の住人より水が涸れて大変困っていると訴えた。すると空海は谷を登った所に錫杖を突き立てて祈祷を行った。すると水が湧き出て滝となり、以来、涸れずに流れているという。この滝の前に寺院が建立されたのが始まりと伝えられている。
この寺院には通夜堂があり巡礼者は宿泊が可能である。今では寺院の前を国道55号が室戸岬まで延びている。しかし、国道が開通するまでは道なき海岸を通って室戸に向かうしかなかった。そこで、満潮時はこの寺院で一休みして室戸へと向かったといわれる。このため、この寺院で休憩することを「野根の昼寝」と呼んだ」とあった。

東洋町のWEBには野根大師について、「江戸時代、ここには観音寺があったが、明治維新の廃仏毀釈で退転し、跡地に弘法大師堂が建立された。昭和南海地震のあと、真言宗明徳寺が中村からこの地へ移転し、同居している。古くは「野根大師」いまは「東洋大師」と呼ばれ四国遍路の番外札所となっている。背後の山にはミニ八十八カ所がある」とする。

貞享4年(1687)の真念の『四国遍路道指南』には「のねうら 入口宮立有 并大師堂」(野根浦の入り口宮(野根八幡)が建ち、大師堂が並び合わさる(并)、とある。寛永18年(1641年)には既に番外札所としてあったとの記録もあり、その頃にはお遍路さんが立ち寄ったお寺となっていたのだろう。ということは観音寺が大師堂とみなされていた、ということか。
東洋大師
因みに、野根への国道に「東洋大師」の案内がいくつも立っていた。看板を見ながら、「なんのこと?」と思いながら道を辿ったのだが、この案内でやっとわかった。昭和34年(1959)甲t浦町と野根町が合併してできたのが東洋町ということであり、「東洋」という名には歴史的意味はなく、対等合併ゆえの妥協の産物であるとすれば、「東洋大師」と称するようになったのは、それ以降ということだろう。

白小石の六部堂と里神社
野根大師を南に、参道口に進む。道とT字に合わさる角に寺標があり、「高野山大師教会高知支教区野根支部」と刻まれる。
その斜め前、道の左手に六部堂があった。興味を惹かれあれこれチェックすると、この六部堂は白小石の六部堂と称される。
寛政12年(1800)の『四国遍礼名所図会(九皋主人写 河内屋武兵衛蔵本)』には「観音寺(松原に有) 六十六部廻国修行者石塔(武州深川人宝暦十年此所二て病死 観音寺の前 松原二有 人々此墓に願望をかけれバ成就致スといゝ 日々参詣不絶」とある。

それはそれでいいのだが、白小石は「城恋し」から、と東洋町の記事にあった。 「天正3年7月、長宗我部兵の野根城館奇襲により野根一族は阿波国へ落ちのびていった。その途中、野根国長は燃上する城を振り返って「ああ、城恋し」と嘆いたという。それで白小石(城恋し>白小石)という地名になった」と。ブロック塀に囲まれた六部堂の左の広場奥に誠に小さな祠が祀られる。里神社というこの小祠は「野根氏や安芸氏をはじめ、安芸郡下惟宗一族の始祖とされる曽我赤兄を祭っている(東洋町の記事)」と。

野根の標石
野根の街並みを進む。昔は豪商が軒を連ねる繁華街で、四国霊場二十三番札所日和佐薬王寺と二十四番札所室戸最御崎寺の真ん中に位置するため遍路宿も多かった。戦国時代のカギ曲がり道路桝型(ますがた=カギ曲がり)道路、、高札場(こうさつば)跡、送番所跡、ぶっちょう造り民家もある。カギ曲がり道路は戦国時代に野根領主が京都へ出兵して見聞した戦略道路を野根浦の町づくりに採用したらしい。上町(うわまち)のカギ曲がり道路に対し、下町(したまち)は直線道路。ほかに寺町、中町広小路(なかまちひろこうじ)、廐屋(うまなや参勤交代の馬)、船場(せんば)などの歴史的な地名もある」と東洋町の記事にある。道の右手に標石。「是ヨリ新四 明治三十一年 左遍路」と刻まれる。
野根
野根は戦国時代、天正3年(1575)長宗我部元親に滅ぼされるまで野根・甲浦を支配した野根氏の本貫地。元は野根川を少し上った内田の地に城郭を築いたが、天文年間に野根川下流域の中村地に「野根城館」を築き、そこを本拠とした。上述「城恋し」は長宗我部元親軍の奇襲攻撃をうけ戦わずして甲浦へ逃げ、さらに阿波国へと落ちのびていった野根一族が野根城館を想ってのことではあろう。

国道493号に合流
遍路道は野根の街を出て野根川手前で国道493号に合流する。この国道493号の道筋は往昔の野根山街道。土佐湾の奈半利から野根山連山を尾根伝いに進み、この野根に至る。上述土佐北街道が開かれるまでは土佐藩主参勤交代の道であった。
遍路道は直進し野根川に架かる「みなとくぼ橋」を渡る。昭和6年(1931)建設の橋は現在人道橋となっている。
野根山街道
Wikipediaには「野根山街道は奈良時代養老年間に整備された官道で、奈良と土佐国府を結ぶ街道「南海道」の一部である。高知県安芸郡奈半利町と東洋町野根を尾根伝いに結ぶ行程約36 km、高低差約1,000 m の街道で、古くは『土佐日記』の著者紀貫之の入国の道として、また、藩政時代には参勤交代の通行路として使用された。現在は「四国のみち」環境省ルートとして整備されている」とあった。

地蔵堂(庚申堂)

橋を渡ると正面に地蔵堂(庚申堂とも)が建ち、中に木食仏海上人が刻んだと伝わる舟形地蔵が祀られる。この地蔵は標石を兼ねており、「左へんろうみち さきのはまへ四り 願主木食仏海」と刻まれる。
仏海上人
伊予北条の生まれ。全国の霊場を巡り木食の境地に入る。四国霊場巡礼二十四度。三千体の地蔵尊を刻したと伝わる。
渡し場
野根浦の船場跡
往昔、野根川に架かる橋はなく、この地に渡しがあった。メモの段階でわかったことだが、東洋町の記事に「野根浦の船場(せんば)は、渡し舟の渡し場だった。昔の旅人は野根山街道が正規の旅行ルートだが、四国遍路はここから渡し舟で野根川を渡り、室戸岬の東寺へ向かった。現在船場に[武田徳右衛門標石]、旧野根川橋西岸の庚申堂に木食仏海作の石仏があり、いずれも「東寺へ何里」と刻まれた遍路石である。木食仏海作の遍路石は地蔵ケ鼻や仏ケ崎にもある」とあった。
徳右衛門道標
徳右衛門道標?今となっては再度のことながら後の祭りではあるが、チェック。東洋町の写真にも、徳右衛門道標の一覧表にも確かに徳右衛門道標が掲載されているのだが、GOOGLE Street VIEWで渡し場後をチェックしてもあるはずの道標が写っていない。どこかに移されたのだろか。

伏越の鼻
地蔵堂から国道55号を進み野根漁港を越えると上り坂となり、伏越(ふしごえ)の鼻に。国道海側に歌碑が立つ。「産みに寄す 伏越ゆ 行かましものを まもらふに うち濡らさえぬ 波数まずして」と刻まれる。万葉集1387番の和歌で、万葉仮名では「伏超従 去益物乎 間守尓 所打沾 浪不數為而」となっている。
意味は文字通り読めば「伏越を通って行けばよかったのだけど(行かましものを)、様子を窺っているうちに、波の間合いが計れず(まもらふ)濡らされてしまった」ということだが、恋の告白との意とする記事もあった。磯に打ち寄せる波が激しければ激しいほど浪への畏れはいや増す。それはちょうど自分の恋人に対する恋しさと恐れとの混じり合った心と同じであり、『恋の告白をためらっているいる間に周囲の事情が悪くなり、結局はその恋に破れてしまった嘆きを全体として表している』とする(私の万葉集ノート NO7 著名人それぞれの万葉集談義(日本の名随筆、万葉二より))。 石碑の裏には東洋町が万葉集に詠われることを誇りとする、とも刻まれるが、この伏越が東洋町のこの地と比定はされていないようではあるが、文字通りの解釈からすればこの先に待ち受ける道なき荒磯の難所を想起させ、此の地にぴったりの歌のようには思える。
伏越番所跡
歌碑の国道を隔てた山側、すぐ上に伏越番所があったようだ。東洋町の記事には「伏越ノ鼻、国道のすぐ上にある。江戸時代、甲浦東股番所で旅人は通行手形(自国発行の身分証明書)の確認を受け、土佐一国の通行許可証を発行してもらい、土佐路に入る。野根からは、一般の旅人は野根山街道を通るが、四国遍路は海岸線を通り、24番札所室戸最御崎寺をめざす。このとき伏越番所で通行許可証に裏書きをしてもらう。淀ケ磯はまともな道路もなく、波が荒いと通れない。そんな時、この番所役人が門を閉じて旅人の通行を禁止する」とある。
真念は『四国遍路道指南』に「こゝにてかんの浦切手は裏書いつる。ふしごえ坂、是より一里よは、とびいしとて、なん所海辺也」と書く。
あれこれチェックしたが伏越番所の写真は確認できなかった。
伏越
「フシ」は柴の古語であり、柴山(フシヤマ)・伏原(フシハラ)といわれるように、柴は山野に生える雑木の総称である(民俗地名語彙辞典)。ここ野根は紀州、日向とともに日本三大備長炭の産地である。土佐備長炭の原木はウバメガシであることから、柴山はまさにウバメガシの生い茂る山と云えよう。  「フシ」は「伏」でなく「柴(フシ=ウバメガシ)」と理解したい;との記事があった。

ゴロゴロ休憩所
伏越を過ぎると次の集落のある「入木」までおよそ12キロ。山地がそのまま海に落ち込むといった断崖と荒磯の間を国道が走る。しばらく進むと道の右手に「ゴロゴロ休憩所」。
多用させて頂く東洋町の記事には「ゴロゴロの浜(とび石はね石ごろごろ石) 丸い石ばかりのゴロゴロ浜は「土佐の音100選」の一つ。波が打ち寄せ引き返すたびに丸石が転がってゴロゴロと鳴る。四国遍路がゴロゴロ石を懐に入れると弘法大師のご利益を受けるとされる。淀ケ磯は俗に「とび石はね石ごろごろ石」という。岩から岩へ飛び移り、石から石へ跳ねながら、ゴロゴロ石で転ばぬよう、荒波よせる遍路道を通ったのであった」とある。

室戸岬東岸の地質
国土地理院・地質図
甲浦辺りからの地質を国土地理院の地質図でチェックすると、付加体・砂岩泥岩互層(地質図の薄緑部)と付加体・海成層砂岩(地質図の黄色部)の地層が相互に現れ、時に堆積岩・海岸平野堆積物物の岩質が見える。この構成はこの先、佐喜浜辺りから、付加体・砂岩泥岩互層に替わり付加体・海成層の泥岩質層(地質図の薄青部)が現れ、その構成が高岡辺りまで続く、その間、 大碆の辺りには付加体・玄武岩 海成岩質の帯が東西に走り、三津漁港の手前には海成岩・玄武岩貫入岩の層(後述;地質図の紫部)が見える。
高岡漁港から室戸岬にかけては付加体・砂岩泥岩互層(後述;地質図の薄緑部)、火成岩斑レイ岩(後述;地質図の赤紫部)、付加体・砂岩泥岩互層(後述;地質図の薄緑部)となっている。
基本的には海底に堆積した砂岩・泥岩がプレートの沈み込み時などに生じた地震活動によって隆起した砂岩・泥岩層にマグマ貫入により生じた斑レイ岩や玄武岩によって海岸線が構成されているようだ。
山地が崖となって海に落ちる
で、何故に山がすとんと海に落ち込むような姿になっているのだろう?以下は地質についての素養がないため妄想。通常大地が形成されるときは地震などにより隆起と沈降を繰り返す。東海岸は海底活断層が海岸に沿って延びており、この断層の運動によって陸側が隆起し、断層崖が形成されている、とする。
それはそれでいいのだけれど、河岸段丘ではないけれど、隆起した大地には海成段丘が形成されることも多い。室戸岬西岸の土佐湾側は東岸と一変した発達した海成段丘が見られる。 この違いって?室戸ジオパークの記事に「室戸岬東海岸には沖合2,3キロのところに1000mまで落ち込む崖がある。一方、西海岸の土佐湾では沖合7キロまで100mより浅い海が続く」とあった。 浅い海であれば隆起した大地が台地として残る余地はあるけれど、一気に1000mまで落ち込むような崖に台地ができる余地はないように思える。隆起が繰り返されたとしても、台地ができることなく海底崖にスベリ落ちてしまうように思う。再度繰り返すが、まったくの妄想。なんら根拠なし。

法海上人堂
しばらく道を進むと道の右手に地蔵堂と「法海」と書かれた木標。その奥、すこし上ったところにお堂が見える。お堂の中には 宝筐印塔が祀られていた。お堂横に手水場。その右手に沢が切れ込んでいる。庄屋谷と呼ぶようだ。
「淀ケ磯橋と御崎(オンサキ)との真中あたり、昔ここに木賃宿があった。この木賃宿に法海上人という廻国行者が泊まった。ちょうどその夜は野根の神祭りで、宿の家族達は野根へ招かれて法海だけが宿に残った。翌朝、家族が帰ると米ビツの中がカラッポになっていた。疑いは法海にかかったが、彼は知らぬ存ぜぬで水掛け論になった。ついに法海は「無実の証しに亭に入る」と言って裏山に穴を掘り、生きながら墓に入り即身仏になってしまった。
法海さんは大漁の神様で、昔は室戸岬、佐喜浜、野根方面の漁師や漁協がお参りにきて、たまにはブリ一本が奉納される時もあったという。法海上人のような廻国行者を六部様とか六十六部とも言う。それで、ここの浜を「六部の浜」と呼んでいる(「東洋町の記事」より)」」 とある。
お堂の宝篋印塔は法海上人の墓石とのこと。

堂内は一坪ほどの広さで畳敷き、線香やローソクもあり。お通夜(私注;宿泊)も出来そう。その昔、遍路の避難場、休憩場所でもあったのだろう。お堂は昭和31年(1956)に佐紀浜、平成6年(1994)から7年にかけ年には野根の篤志家の手により再建、平成10年(1998)には台風の被害を受け、愛媛のお遍路さんの尽力で修復されたという。そのお遍路さんは高野山より僧籍を授与され、この庄谷法海上人堂にて得度式をあげられたとのことである。

飛び石地蔵(水尻仏海標石)
国道を進み、室戸市に入ると巨岩が屹立する地蔵ヶ鼻がある。そこに舟形地蔵。仏海上人の「飛び石地蔵」と呼ばれ、「是よりさきのはまへ一り のねへ二り半 願主木食仏海」と刻まれた丁石を兼ねる。
国道はその先で少し開けてた平地となっている入木に入る。





江戸期の遍路道
現在は快適な海沿いの道を遍路するが、道路整備される以前の遍路道は道なき荒磯を辿る難路であったよう。波打ち際を荒磯の岩伝いに歩く危険な難路であった。『梁塵秘抄』には「衣は何時となし潮垂れて、四国の辺道をぞ常に踏む」とある。
伏越ノ鼻より入木までの四里を「淀ヶ磯」と呼ぶが、その間の遍路道を「ゴロゴロ休憩所」とあったように、「ゴロゴ石」と波打つ岩音を行きながら岩を飛び、跳ねて先に進む遍路第一の難所とする。「飛び石、跳ね石」の中を進む四国第一の難所としている。
淀ヶ磯;伏越ノ鼻より入木までの四里はかつての難所(Google Mapで作成)
此の難所について、真念は『四国遍路道指南』に「ふしごえ坂、これより一里よハとびいしとてなん所、海辺也」とのみ記すが、承応二年(一六五三)四国を遍路した澄禅はその『四国遍路日記』に、「六日早天宿ヲ立テ、彼ノ音ニ聞土州飛石・ハネ石ト云所ニ掛ル。此道ハ難所ニテ三里カ間ニハ宿モ無シ。陸ヨリ南エ七八里サシ出タル室戸ノ崎へ行道ナリ。先東ハ海上湯々タリ、西ハ大山也。京大坂辺ニテ薪ニ成ル車木ト云材木ノ出ル山也。其木ヲ切ル斧ノ音ノ幽ニ聞ユル斗也。其海岸ニ広サ八九間十間斗ニ川原ノ様ニ鞠ノ勢程成石トモ布キナラベタル山ヲ飛越ハネ越行也。前々通リシ人跡少見ユル様ナルヲ知ベニシテ行也。或ハ又上ノ山ヨリ大石トモ落重テ幾丈トモ不知所在リ。ケ様ノ所ハ岩角ニトリ付、足ヲ爪立テ過行。誠二人間ノ可通道ニテハ無シ。此難所ヲ三里斗往テ仏崎トテ奇襲妙石ヲ積重タル所在リ 爰二札ヲ納」と書く。
因みに、「仏崎トテ奇襲妙石ヲ積重タル所在リ 爰二札ヲ納」と「奇岩積み重なる仏碕。ここに(爰)札を納める」とするのは上述地蔵ヶ鼻の飛び石地蔵のことと思う。
伊能忠敬も、『伊能測量隊旅中日記』の文化5年4月21日に「一今六時頃過出立野根海辺より測量始。海岸即四国八十八ヶ所遍路道に而飛石筑(跳)石ころころ石といふ岩石上を歩行道あり。夫より佐喜浜浦に至る」と「ころころ石」を飛び跳ねながらの測量を伝える。

入木(いるき)の仏海庵
山地が海に落ち込んだ断崖と荒磯の間の一本道を辿った遍路道は、入木川の河口に開けた入木の集落に入ると国道55号を右に逸れ旧道に入る。少し進むと道の右手に仏海庵があった。お堂の右手には「仏海上人百五十年法会頌徳碑 大正七年」と刻まれた石柱、左手には「是より東寺迄五里」と刻まれた徳右衛門道標が立つ。
庵に入ると祭壇、そのまま庵を裏に抜けると宝篋印塔。即身成仏した仏海を弔う。
お堂の前にあった手書きの案内には、「仏海庵 仏海は伊予北条市の生まれ。宝暦一〇年(一七六○)この地に駐錫し仏海庵を起こして淀ヶ磯難渋の遍路を救い、衆生教化に尽した。宝篋印塔を建て、明和六年(一七六九)旧十一月一日、塔下暗室で即身成仏した、七十歳。
生前全国霊場を巡り修行して木食の境界に入り、四国八十八ヶ所巡拝二十四回に及び、地蔵尊像彫刻三〇〇〇躰に達したという」とあった。

徳右衛門道標を立てた武田徳衛門も伊予今治の朝倉村の生まれ。仏海の生まれた伊予北条猿川村とそれほど遠くない。遠く離れた土佐の地に同郷のふたりの事績が並ぶ。

佐喜浜
仏海庵からの旧道を進み国道55号に出る。少し国道を進み佐喜浜の町に入る手前で国道を左に逸れ旧道に入る。佐喜浜八幡、浜宮神社を見遣り佐喜浜川に架かる佐喜浜橋(昭和4年架橋)に。通行止めのため一度国道に迂回し旧道に戻り、佐喜浜の町を抜け佐喜浜漁港の先で旧道は国道に出。佐喜浜は崎浜とも書く。
「佐喜浜城主大野家源内奮戦跡」の石碑
国道に出る手前に大きな石碑。「佐喜浜城主大野家(私注;おおやけ)源内奮戦跡」の石碑。碑には「往古天正の戦雲にあたり此の地に奮戦せし豪将勇士の冥福を祈り明治三十一年生七十三歳の同士槍掛松跡に碑を立つ」と刻まれる。
石碑の脇に「源内槍掛けの松」の案内。「佐喜浜城主の大野家源内左衛門貞義が長宗我部元親の阿波侵攻の道を開くのをはばむため戦った佐喜浜合戦は有名である。寄手300人、佐喜浜方200人がこの戦で討死したと言われる。
源内は縦横無尽に戦い、えびす堂前、本陣の前の松の木に槍を打ち掛け、一息入れ寄せ手の沢田太郎右衛門と対決したが源内左衛門は突き伏せられ、佐喜浜勢は総崩れとなり、老人、子供までも殺されて、生き残りは20~24人であったと言われる。 松は昭和6年(1931年)3月20日に倒れて今は無い」とあった。

鹿岡(かぶか)鼻の夫婦岩
佐喜浜の集落を離れ国道55号に戻る。尾崎川が開いた尾崎の集落は国道を右に逸れ、直ぐ国道に戻り立岩を過ぎると道の先、屹立する4つの岩が見える。近づくと、山側の二つは道路工事で開削された切通であった。海側が旧道開削時のもの。山側の切通が現国道の切通し。真念も「かぶか坂」とその著『四国遍路道指南』に記す。
夫婦岩は岩礁部に並ぶふたつの大岩。波触・風蝕により蜂の巣構造と風紋の表面が見える。 夫婦岩碑には、「南路志に云う往古より大晦日の晩夫婦岩の間鵜の碆に「竜燈」がともるとこの神火を地元では「かしょうさま」と云い立岩の峯々を超えて大滝の上に舞い上がり四方山麓の家々に請じ入れられて六年を迎える浄火となったと云う」とある。
鵜の碆の「碆」はやじりの石の意と言うが、海水により見え隠れする岩の意とする記事もあった。「波」と「岩」の組み合わせでできる文字。言い得て妙である。

椎名
鹿岡、清水の集落を越え椎名の湊に。椎名はかつて捕鯨で栄えた漁港と言う。椎名に漁がはじまったのは藩政期。室戸岬西岸の室津、呂津に野中兼山により港が開かれてから。この椎名で鯨漁がはじまるのは、寛永初年(1624)津呂で突取捕鯨が始まり次いで津呂、室津両港が修築され捕鯨が始まり、漁労技術がこの地に伝えられたようである。
室戸には津呂組と、浮津組の二つの鯨組があり、江戸時代のはじめから明治の終わり頃まで網と銛で鯨を捕ってた。椎名は津呂組捕鯨が進出して冬漁の基地となった。
漁法は土佐古式捕鯨と称されるもの。鯨船には勢子船、網船、もっそう船があり全部で30そうの船で漁師達が力を合わせて鯨を捕り、鯨網に追い込んで何本もの銛を打って弱らせ、船にくくりつけてから剣でとどめをさしたという。
椎名捕鯨山見跡
椎名には捕鯨山見跡があり、明治末期の古式捕鯨終焉まで営々とその役割を果たしてきた、とのことである。





日沖の大礁・大碆(おおばえ)
捕鯨山見跡の先、国道を逸れ旧道に入り椎名川開いた椎名の集落を抜け国道に復帰。少し進むと岩礁部に「大碆」と地図にある。地図には日沖・丸山海岸とある。
その岩礁部に巨大な岩が重なる。これってなんだろう?「日沖の大礁」という記事がみつかった。「三津の岩屋から日沖港北にかけて、いわゆる日沖海岸は海底火山の活動を示す溶岩や、玄武岩質集塊岩がある。枕状溶岩は、海底火山の噴出物が水によって急激に冷却され、枕状に水中で形成されたものである。上部は丸く膨らみ下部は凹んで固まるものであるから、この大礁は上下が反転している。これは陸上部の岩が転がり落ち反転したものと考えられる」とある。

国土地理院・地質図
上述の如く国土地理院の地質図を見ると、大碆の西に聳える四十寺山辺りはすべて砂岩(地質図の黄色部)か泥岩(地質図の薄青部)の付加体であるが、この大碆に続く一筋の地層だけが付加体・玄武岩(地質図の濃緑部)と表示されていた。「四十寺山層は砂岸から成るが、その基盤は玄武岩類で、大碆などに有る柱状溶岩も四十寺山層の玄武岩分布域から海岸にもたらされた巨大な転石である」と言った記事もあった。
因みに、地質図の下部の紫部は玄武岩貫入岩ではあるが付加体ではなくマグマが冷え固まってできた火成層とある。














志賀丸遭難者慰霊碑
大碆の国道を隔てた山側に「志賀丸遭難者慰霊碑」案内が立つ。「昭和十九年五月三十日、この沖合約千五百米を高知より大阪に向けて航行中の貨客船、滋賀丸約九百トンは、アメリカ潜水艦の魚雷攻撃を受け瞬時にして沈没した。
当時は報道を禁止され、詳細は不明のまま三十年が過ぎた。室戸ライオンズクラブはこの痛ましい霊を慰めるべく、極力調査の結果、幼児を含む三十七名の遭難者を確認、その御霊を祭って昭和四十九年五月三十日、眼下の波打ち際に慰霊の碑を建立した。以来毎年この命日には遺族と共に慰霊祭を行っている。平成十四年五月三十日  室戸ライオンズクラブ」とあった。
石碑は案内板の国道を隔てた岩礁部に立つ。


厄除弘法大師坐像〈中務茂兵衛建立)
一本道の国道を進むと、山側の巨岩の下の窪みに、隠れるように石造が佇む。台座を含め1.5mほどもあるだろうか。台座には「厄除弘法大師」の文字と共に「為二百二十四度目供養 中務茂兵衛 明治四十一年」といった文字が茂兵衛の在所住所と共に刻まれていた。
海の美しさに気をとられていると見過してしまいそうな場所である。


三津漁港
山地が直接海に落ちたような地形の地を進んで来た国道が、山地と岩礁の間に少し平地が開けたところに三津の漁港がある。この漁港も藩政期享保3年(1718)港の改修が行われてから捕鯨漁が行われた。漁場は日沖の大礁から室戸岬一帯の海域であった、とのことである。
国土地理院の地質図を見ると、周囲が玄武岩・貫入岩、付加体・海成層泥岩であるが、この三津の辺りが東西に付加体・海成層砂岩とある。山地と海の間に開けた平地と関係あるのだろうか。

青年大師像
高岡漁港を越えると道の右手に巨大な大師像。「室戸青年大師像」とある。昭和59年(1984)開眼。高さ21mとのこと。弘法大師生誕千百五十年を記念してのもの。











御蔵洞
少し南、山側の岩壁の下に波の侵食作用でできた洞窟がjふたつある。標識には「みくろどう」 「御厨人窟と神明窟」とある。
御厨人窟と神明窟をあわせて「みくろどう」と称するようだ。左の洞窟が大師が修行された御厨人窟。「西の窟(くつ)」とも称されるようだ。洞窟は奥行6メートルくらいだろうか、広々としたスペースの奥に御所神社が祀られている。右側は神明窟。「東の窟」と呼ばれ祭神は大日愛貴(オホヒメノムチ=天照皇大神の別名を祀る。
洞窟の入口には海蝕による落石を防ぐため鉄製の防護屋根が設置されていた。

大師の虚空蔵求聞持法の修行成就の地
大師はこの洞窟で虚空蔵求聞持法の修行をおこない、幾度も挫折したその大願を成就したと言う。大師自ら著された『三教指帰』に、「爰(私注;ここ)に一沙門有り余(私注;われ)に虚空蔵求聞持の法を呈す」とあり、その修行について「阿國大滝岳にのぼり(私;注原文旧字)攀(私注;よ)ぢ、土州室戸崎に勤念す、谷響を惜まず、明星来影す。」とある。十九歳の大師は此の御厨人窟(御蔵洞)にこもって修行され、阿國大滝岳(私注;第二十一番札所太龍寺)でも得られなかった「求聞持の法」を苦行のすえ成就した。
虚空蔵求聞持法の修行
『弘法大師伝記集覧』には、「太龍寺舎心嶽の岩上での虚空蔵求聞持法の修行も、その悉地(祈願成就)を得ることなく、ために、一命を捨て三世の仏力を加えるべく岩頭から身を投げる(捨身)も諸仏によりその身を抱きかかえられ本願を成就した」とある。
虚空蔵求聞持法の修行のことだが、虚空蔵菩薩の真言「ノウボウ アキャシャキャラバヤ オンアリキャ マリボリソワカ」を百万遍唱えることにより、一切の教法を暗記できるとする難行苦行。大師も幾度か挫折したとある。
大師自らの『御遺告』には「名山絶瞼のところ、嵯峨たる孤岸の原、遠然として独り向い淹留(おんりゅう)して苦行す。或は阿波の大滝の嶽に上って修行し、或は土佐の室生門の崎に於て寂暫して心観すれば明星口に入り、虚空蔵光明考し来て菩薩の威を顕わし、仏法の不二を現す」とあり、 虚空蔵求聞持法の修行は太龍寺、舎心嶽での苦行の末、土佐の室戸において大願成就したようである。

空海の名
青年真魚が大学を中退し入唐までの足跡は不明なことが多い。優婆塞としての修行の時代というが定説はないようだ。名も「無空」。「教海」、「如空」と改名し、空海と改名したのはこの室戸の海と空に接したこの洞窟修行での大願成就との説もあるが、延暦23年(804)、東大寺戒壇院での得度受戒の時との説が有力視されている。31歳のときである。
「法性の室戸といえど われすめば 有為のなみかぜ たたぬ日ぞなし」。勅撰和歌集に載る弘法大師作として唯一残る和歌に室戸を詠んでいる。

海蝕崖
Wikipediaにはこの洞窟を「隆起海蝕洞である。洞窟前の駐車スペースとなっている場所は波食台であり洞窟上部の崖は海食崖である」とする。室戸ジオパークの記事には「御厨人窟」と「神明窟」は、共に約1500万年前~700万年前、マグマが地下の深いところで冷えて固まった「斑れい岩」が、プレートテクトニクスによる隆起運動によって地上に持ち上げられ、太平洋の荒波に曝された断崖に発生した「海蝕洞」である。
斑れい岩そのものは緻密であるが、隆起運動による複雑な営力を受けた結果、亀裂には数多くの亀裂が発達している。その結果、岩壁はもろくなっており、随所に岩盤崩壊の跡を見ることができる。
看板の左にある三角形の岩塊は、ひょっとするとすぐ左にある垂直の壁が剥がれたものかもしれないが、周囲に堆積している土砂の様子から、かなり古いもののようである(地質的年代では新しいかもしれない」とあった。
看板の左にある三角形の岩塊とは天狗岩のことだろうか。言われてよく見ると、天狗に見えて来た。

乱礁遊歩道
御蔵洞(みくろどう)に眼前に広がる岩礁部の見どころ案内があった。地形には興味あるものの、地質は門外漢には少々荷が重く、さてどうしたものかと思いながらも、歩けば奇岩・巨岩が並ぶ岩礁の成り立ちなどに少しはフックがかかるものかと、ちょっと立ち寄ることに。

ビシャゴ岩
御蔵洞の少し北の岩礁部に屹立する大岩・ビシャゴ岩へと向かう。国道を少し北に戻ると、海岸に乱礁遊歩道へのアプローチ。国道を逸れて遊歩道をビシャゴ岩へと向かう。
「ビシャゴ岩は斑レイ岩からできている。約1400万年前、マグマが地層に貫入(入り込むこと)して固まったとされる岩で、水平に貫入したものが、その後の地殻変動により、ほぼ垂直に回転したものである。左から順に駒細かい粒ー粗い粒とマグマが冷やされたマグマの時間の長さにより模様が変わる。この岩には「おさご」という絶世の美女にまつわる伝説がある」との案内があった。



国土地理院・地質図
国土地理院の地質図を見ると、このビシャゴ岩の北と室戸岬突端部の少し手前辺りは付加体・砂岩泥岩(地質図の薄緑部)の岩質とあり、それに囲まれるようにビシャゴ岩から後述烏帽子岩あたりまで火成岩・斑レイ岩の岩質の帯(地質図の赤紫部)が室戸岬西岸に帯となって斜めに延びていた。
室戸岬は、南海トラフからユーラシアプレートの下に沈み込むフィリピンプレート帯の沿って起こる巨大地震によって引き起こされた大地の隆起により形成されたとするが、上述 「約1400万年前、マグマが地層に貫入して固まった」とは海底下で起きた活動であり、その後隆起により眼前の姿を呈したということだろう。
なおまた、「地殻変動により垂直に反転した」とはビシャゴ岩のことであり、岩礁部の斑レイ岩層は反転することもなく、「水平」なままの姿を呈している、ということかと「読む」。
おさごの伝説
津呂の町におさごという漁師がいました。おさごは、このあたり一体で、比べもののない美人だったそうですその美しさはめっそうな評判になり、毎日あっちの村、こっちの村から若衆たちがおしかけてきたそうな。
おさご見物にあんまりたくさんの人たちがやってくるので、おさごは何をするにしても人の目を意識せずにはおられなかった。それでとうとう身も心も疲れ果ててしまった。(こんなに私がつらい目にあうのもみんな美しく生まれたせいだから、そうだ汚くしよう)
 こう思いついたおさごは、顔になべずみをぬり、わざと縞目もわからぬようなぼろの着物を身にまとうた。でも、こうしたおさごの苦心の変身も、おさごの美しさに魅せられた若衆達の心をそらす事はできなかった。あまりのうとましさに、おさごは、ある夜こっそり家をぬけだし岬へむかった。ここにはたくさんの大きな岩が海に向かってそそりたっているが、その一つ「びしゃご礁にあがると「これからは、私のように、つらい娘ができませんように」こう祈ると海の中に身をなげて死んだということである。(室戸市史 下巻より)

弘法大師行水の池

ここには隆起したノッチ(波食窪)。 波食窪は海水面近くで形成されるものだが、行水の池は標高6mほど。室戸岬は現在でも1000年に1,2m隆起していると言うから、3000年頃前には海水近くにあった、ということだろう。空海修行の頃は現在より1、2メートル程低いわけであろうから、ほとんど波しぶきのかかる辺りであったのだろう。
室戸岬の山頭火
夫山頭火はその日記に、「室戸岬の突端に立ったのは三時頃であったろう、室戸岬は真に大観である、限りなき大空、果しなき大洋、雑木山、大小の岩石、なんぼ眺めても飽かない、眺めれば眺めるほどその大きさが解ってくる、......ここにも大師の行水池、苦行窟などがある、草刈婆さんがわざわざ亀の池まで連れて行ってくれたが亀はあらわれなかった、婆さん御苦労さま有難う」と書く。 
行水池はこの地、苦行窟は御蔵窟。亀の池はどこだろう。 「波音しぐれて晴れた」、「かくれたりあらはれたり岩と波と岩とのあそび」、「海鳴そぞろ別れて遠い人をおもふ」などを詠む。

ウバメガシ・アコウ
遊歩道覆う高さ2,3mの常緑樹はウバメガシ。本来は真っすぐにのびる幹だが、強風のため屈曲している。土佐備長炭の原料ともなる。アコウの巨木は岩を抱えるように根をのばす。









エボシ岩
遠くから見ると「烏帽子」のように見えることから名付けられた。この岩も斑レイ岩。花崗岩に似ているが、黒い結晶の割合が多い。










火成岩・斑レイ岩の岩質帯から付加体・砂岩泥岩の岩質層に
烏帽子岩から南は付加体・砂岩泥岩の岩質層(上掲載地質図の薄緑部)となる。縦に縞模様が刻まれる奇岩があり、タービダイトとある。タービダイトとは乱泥流堆積物のこと。砂や泥が海水と混ざった流れによって海底に降り積もってできたシマシマの地層のことです。奇岩の縦じまは水平に堆積した後、回転して立ち上がったため縦向きの縞模様になったようだ。
タービダイト層が折れ曲がり、一部バラバラになっているのは、大陸プレートに押し付けられた際に変形したた、と言う。
タービダイト
「川によって運ばれる砂粒や泥は、河口から海に流れ出て近海の海底に堆積します。厚さが増すと自重の圧力により水分が抜けて堆積岩へと変化していきますが、海底の急斜面などに降り積もった不安定な堆積物は、地震などが引き金となって、一気に深海へと崩れ落ちて行くことがあります。砂や泥などが混ざりながら一気に落ちて行きますが、その粒子の大きさにより落下速度が異なるため(砂粒の方が早く落ちる)、砂と泥がわかれて深海底に堆積します。これを「砂泥互層」、または「タービダイト」と呼びます。室戸岬の白黒ストライブの岩礁は、四国沖の南海トラフの水深4000mの海底にたまったタービダイトだったのです(「室戸ジオパーク」の記事より)。
付加体
深海に降り積もったタービダイト層は、どのようにして地上に現れるのでしょう。 日本列島に沿うように走る海溝やトラフは、海洋プレートが大陸プレートの下に沈み込む場所にあたります。海洋プレートの上には、プランクトンやサンゴの死骸、大気中を漂う塵や火山灰などが堆積しています。さらにそこにタービダイト層が加わります。これら堆積物は、海洋プレートと一緒に大陸の下に潜ることはできず、リンゴの皮を剥くように、大陸のヘリによって海洋プレートからはがされてしまいます。
行き場のないこの堆積物は、そのまま大陸のヘリに次々と押し付けられていき、新たな陸地へと生まれ変わります。これを「付加体」と呼んでいます。海洋プレートが沈み込む場所にだけ見られる陸地化の現象です(「室戸ジオパーク」の記事より)。
ホルンフェルス
砂岩泥岩層と火成岩・斑レイ岩層の接するあたりに「ホルンフェルス」堆積岩層に斑レイ岩をつくった高温のマグマが貫入し、その溶岩によって堆積岩が焼かれて変成し固くなった変成岩である。
班レイ岩(一部は玄武岩)とホルンフェルスの境界には、泥が溶けて固まった花崗岩が見られる、と。






土佐日記御崎の泊碑
海食台の上に立つ碑に「土佐日記御崎の泊」と刻まれる。この石碑の建っている場所が少し、平らな岩になっているが、これは、『波食台』。
土佐日記には室津の港を出た船は、雲行き怪しきため引き返したが、その港が室津との説とこの浜との説があるようだ。
この辺りの浜は岩礁がなく、土佐日記の掛れた頃はもっと土地と海が近く、自然の港のようになっていたのでは、と言う。
「都にて やまのはに見し 月なれど なみより出でて なみにこそ入れ」と紀貫之が詠った句に月が海から出るとあるが、それは室戸の東側でなけらば見えないでしょうと、此の地に泊まったことのエビデンスとする説もあるようだ。
なお、この場所では南海地震によって土地が隆起した跡が見られる。

弘法大師目洗いの池
目洗いの池は、空海がこの水を使って、諸人の眼病を癒したと伝えられています。どんな晴天にも干上がることがなく、水位が一定だという伝説がある、と。








国道55号に戻る
この辺りで乱礁遊歩道から国道55号に戻り、少し南の中岡慎太郎の像を見遣り、国道を戻り最御崎寺への旧遍路道取り付き口に向かう。
中岡慎太郎象
中岡慎太郎は、海援隊長の坂本龍馬とともに活躍した明治維新の勤王の志士。慶応3年11月15日(1867年)京都河原町の近江屋で刺客に襲われ、龍馬とともに落命。この時慎太郎は30才。 この像は昭和10年安芸郡青年団が主体となって建てられた。








最御崎寺への旧遍路道

旧遍路道取り付口
国道山側に逸れる舗装された坂道。入り口にはいくつもの最御崎寺(ほつみさき)への案内が立つ。4mほどの石柱には「四国第廿四番霊場東寺最御崎寺」と刻まれる。「室戸岬灯台徒歩20分」、木標で「捻岩」、その他多くの歩き遍路タグが貼られる。その入り口の少し先に標石。手印と供に「へんろみち 大正五年」といった文字が刻まれる。


大師一夜建立の岩屋
坂を上ると直ぐ広場。岩場に洞窟が見える。洞窟入り口「第廿四番奥の院」の石碑が立ち、七観音と大師像が並ぶ。間口が幅1.2m,高さ2.3m,奥行き9mの洞内には小さ祠が祀られていた。
案内には「空海(弘法大師)が一夜で建立したと伝えられる岩屋で、現在、最御崎寺の奥の院。
寺伝では、空海が唐からお持ち帰りになった石像が安置されていた場所。
明治初年までは、女性の納経所はここにあって、本堂には登らず女道を通って25番行ったところです」とある。
空海が唐からお持ち帰りになったと伝わる石像は如意輪観音。江戸時代に発見されたと言う、地元の漁師が大量祈願で石を欠きとり一部破損しているようだが、平安時代作の大理石像は珍しく、重要文化財に指定され現在は最御崎寺の宝物殿に保管されているようだ。
最御崎寺は明治初年まで女人禁制であり、ここで札を納め室戸の岬を廻り次の札所に向かった。 尚、この地に求聞持堂があるとの記事が多いが、現在はお堂はなくかっていた。
寂本は「四国遍礼霊場記」 に「山下の岩窟口の広さ六七尺、奥へ入事六七間、内に如意輪観音の石像長二尺ばかり也。竜宮よりあがり玉ふとも云。人間のわざとは見えず、あやしむべしとなり。巨石にて厨子あり、内に二金剛を置。両とびらに天人あり、皆うけぼりにしたり。心目をまじゆるにあらずば、言語ののぶる所をもて察すべきに非ときこゆ。
東の大窟、奥へ入事十七八間、高さ1丈或は二丈三丈の所もあり。広さ二間三間或は五間十間の所もあり。太守巨石を以、五社を建立せられ、愛満権現と号す。是はむかし此窟中に毒竜ありて人民を傷害しけるを大師駆逐して、其迹に此神を鎮祠し玉ふとなり。
又其東に窟あり、天照大神の社あり、坂半に聞持堂あり。坂より上は女人禁制なり」と記す。

捻岩
広場の洞窟対面には忠魂碑。昭和40年建立。日清戦争以降の戦没者の霊を祀る。最御崎寺への遍路道はこの忠魂碑脇、ブロック塀の脇の道に入る。入り口には「最御崎寺 本堂 六九六米」と刻まれた標石が立つ。
コンクリートで固められた石段を数分のぼると「捻石」の案内。大師の母である玉依御前が、修行中の大師の身を案じてここを訪れた際ににわかに暴風雨となったため、大師がこの岩を捻じってその中に避難させた と伝えられる。

最御崎寺・室戸スカイライン分岐
山道途中に休憩もあるのだが、木々が邪魔して展望は効かなかった。捻岩から20分弱、コンクリート石段も切れ、石の敷かれてた山道を上り、高度を100m弱上げると最御崎寺と室戸スカイライン分岐の木標が立つ。その木標を最御崎寺方向に向かい数分、室戸岬への分岐点を越えて最御崎寺山門前に出る。



第二十四番札所最御崎寺(ほつみさきじ)

山門
山門は仁王門。4mほどの仁王像。寛永十年の作と伝わる。
岩見重太郎・薄田隼人の塚
山門右手に小堂。「岩見重太郎・薄田隼人の塚」とあり、「生没年 慶長20年5月6日 豊臣秀吉に馬廻衆として仕えたと伝わる。秀頼には三千石で仕えていた。剣の道を極めるため、諸国を武者修行の旅に出たが、天橋立での仇討の助っ人をした話や信州松本の吉田村で狒々退治をした話など著名。大阪冬の陣と言われる慶長19年11月には大いに戦って有名をとどろかし、さらに翌元和元年五月の夏の陣では、ついに惜しくも戦死したと伝えられる」とあった。 豪傑岩見重太郎の狒々(ひひ)退治伝説は、全国各地に残る。団塊の時代の我々世代はよく知る名前である。
薄田隼人は講談で名高い岩見重太郎のモデルと言わる武将。豊臣秀頼に仕え大阪冬・夏の陣に参戦した。岩見重太郎は薄田隼人をモデルに、各地に残る狒々や大蛇退治といって豪傑伝説を取り入れ、講談家の手により創り上げられた人物のようである。
お堂の中には宝篋印塔の石を活用した五輪塔が祀られている。

本堂・大師堂
仁王門を入ると右手に幾多の石仏が並ぶ。その先に袴腰造の鐘楼堂。慶安元年(1648)建立。次いで虚空蔵菩薩石像、多宝塔などが建る。
左に大師堂。大師堂右側に徳右衛門道標が立つ。「是ヨリ津寺迄一里」と刻まれる。この先左手に手水場、納経所があり正面に本堂が建つ。

本堂裏には霊宝殿、聖天堂、護摩堂などが並び、最奥の宿坊である遍路センターの建物内には遍路休憩所がある。

Wikipediaには「最御崎寺(ほつみさきじ)は、高知県室戸市室戸岬町にある真言宗豊山派の寺院。室戸山(むろとざん)、明星院(みょうじょういん)と号す。本尊は虚空蔵菩薩。土佐で最初の札所である。
室戸岬では東西に対峙している第二十六番札所の金剛頂寺を西寺(にしでら)と呼ぶのに対し、東寺(ひがしでら)と呼ばれる。寺号は「火つ岬」(火の岬)の意。
空海は都での学問に飽き足りず、19歳の延暦11年(792年)頃からの約5年間、山林修行を続けた。空海の『三教指帰』には「土州室戸崎に勤念す」(原文は漢文)とあり、室戸岬にほど近い洞窟(御厨人窟)で虚空蔵求聞持法に励んだとされる。
寺伝によれば空海は大同2年(807年)に、嵯峨天皇の勅願を受けて本尊の虚空蔵菩薩を刻み、本寺を開創したとされる。当初は奥の院四十寺のある四十寺山頂にあり、現在地に移ったのは寛徳年間(1044年 - 1055年)頃といわれている。
嵯峨天皇以降歴代天皇の信仰が篤かった。延久2年(1070年)の『金剛頂寺解案』(こんごうちょうじげ あん)によれば、現・室戸市域の大部分が金剛頂寺(西寺)の寺領となっており、最御崎寺(東寺)は金剛頂寺の支配下にあったことが窺われる。鎌倉時代末期から室町時代初期にかけては、金剛頂寺の住持が最御崎寺を兼帯していた。正安4年(1302年)には後宇多上皇から寺領を寄進されているが、これは京都槇尾西明寺住持で東寺・西寺の住持を兼帯していた我宝の尽力によるものであった。
暦応4年(1341年)、足利尊氏によって土佐の安国寺とされる。その後火災により焼失したが、元和年間(1615年 - 1624年)には土佐藩主山内忠義の援助を受け僧の最勝が再興する。堂塔を建立、七堂伽藍を有したという。明治に入って神仏分離令によって荒廃するが、大正3年(1914年)には再建された。また、女人禁制の寺で岬からの登山口脇にあった女人堂から拝んでいたが、明治5年に解禁された。阿南室戸歴史文化道の指定を受けている」とあった。
〇ほつみさき
Wikipediaに「寺号は「火つ岬」(火の岬)の意」とある。「火つ岬」>ほつみさき>最御崎ということだろうが、「ほつ」に「最」をあてる?あれこれチェックするが「最」を「ほつ」と読むのは「最手:ほて、ほって(優れた腕・技;横綱)」の一例しか見つからなかった。それも、何故「ほて、ほって」と読むかわからない。何故だろう。

クワズイモ畑
本堂すぐ横には空海の七不思議のひとつ「くわずいも」の伝説にちなんだクワズイモ畑がある。昔、土地のものが芋を洗っているところに弘法大師が通りがかり、その芋を乞うたところ「これは食えない芋だ」といって与えなかった。それ以来ほんとうに食べられなくなったと伝えられる。現在は胃腸の薬として利用される。


鏡岩
本堂参道左手に鏡岩。サヌカイトの石塊。握りこぶしほどの丸石で叩くと、その音は冥途まで届くと言う。
空海の七不思議
空海の七不思議としてつたわるのは上、くわずいも、 鐘石。既述の観音窟、行水の池、目洗いの池、 ねじれ岩。そして 明星石。
明星石には出合っていない。寂本の「四国遍礼霊場記」には、「大師修行の時、来影せる明星はき出し玉へば五色の石となり、いまにあり、今明星石といふ是也とかや。山下に光明石と云有、大師勧修の時竜
鬼障碍をなしける時、呪伏して涕唾し給ふに、傍の石に付て光明ありしかばいふとなん」と、星のように光を放ち、毒龍の妨げを防いだという伝説の石と記す。
あれこれチェックすると、特定の石ではなく、室戸岬に分布する斑レイ岩のことのようだ。別名は明星石と呼ばれるが、これは、空海が金星(明星)を見ながら修行をしたことと、斑レイ岩がキラキラと光って星のようだからということから名付けられた、と室戸ジオパークの記事にあった。

室戸岬灯台
仁王門まで戻り、少し坂をくだると岬突端に室戸岬灯台が立つ。眼前に広がる太平洋の眺めは、いい。案内には「室戸岬灯台 日本一の一等レンズ 四国の南東端に位置する室戸岬灯台は、明治32年(1899年)4月1日に完成した。その後、昭和9年(1934年)の室戸台風と戦災、昭和21年(1946年)の南海地震で灯台のレンズが破損し、修理を行いました。
鉄造りの灯塔はほとんど被害はなく、建設当時の姿を残しています。光源は、最初石油を使用しておりましたが、大正6年(1917年)12月に電化されました」とあり、光の届く距離は約49キロメートルで日本一の光達距離。日本一第1等レンズの「日本一」はこの光達距離を指すのだろう。
一等レンズ
第1等レンズとはレンズ直径 259 cm、焦点距離 92 cmのことを指す。を使用した灯台で、第1等レンズをもつ灯台を第1等灯台と呼び、日本では、現在5ヶ所しかない。
レンズの大きさには第一等から第六等まで(第三等は大・小二種)の計7種類に分けられる。

今回のメモはこれでお終い。次回は最御崎寺から室戸岬西海岸の土佐湾に面した札所を辿る。

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