2日目は横瀬地区を中心とした札所巡り。横瀬町には5番から10番までの札所がある。秩父市街からは台地で隔てられ、横瀬川によって切り開かれた地域。ガイドブックには東丘陵などと紹介されている。横瀬川は秩父連山の武川岳や二子山といった800mから1000m級の山地にその源を発す。いくつもの支流の水を集めながら芦ヶ久保地区を西に流れ、横瀬地区では平坦部を北に進み、秩父線・黒谷駅近くで荒川本流に合流。全長19キロ程度の荒川の支流。(月曜日,12月 18, 2006のブログを修正)
1泊2日の秩父札所巡りを終える。17の札所を巡った。信仰心には縁遠く、B級路線まっしぐらの我が身も、辿るとともに、なんとなくの、修行者なる心持も。今回は秩父市と横瀬町が中心。秩父札所の所在地をみると、秩父市22カ所、横瀬町6カ所、荒川村、小鹿野町各2カ所、吉田町、皆野町各1カ所に広がる。次回はどこからはじめようか。
本日のルート;9番札所・明智寺>8番札所・西善寺>7番札所・法長寺>6番札所・ト雲寺>5番札所・語歌堂>4番札所・金昌寺>3番札所・常泉寺>10番番札所・大慈寺>11番札所・常楽寺>西武秩父駅
西武秩父線・横瀬駅
さてさて、横瀬地区札所散歩は西武秩父線・横瀬駅からはじめる。武甲山が美しい。散歩のはじめに少々気になっていた武甲山についてメモする
武甲山;昨年はじめて秩父を訪れたとき、御花畑から見たこの山の印象は強烈であった。秩父といえば三峯山、という程度の智識はあったので、てっきり三峯山と思い込んでいた。で、この武甲山、山容がいかにも猛々しいのはさることながら、これまた、いかにも切り崩されたような白い山肌に強く惹かれた。後からわかったのだが、それって石灰を切り出したためにできたもの。明治になってセメントの原料として採掘が進められ、特に1940年以降の採掘はすさまじく、山容が変貌。北斜面の崩壊が著しく、少々の衝撃を受けたのはこの崩壊した斜面であったわけだ。標高も明治期に比べて30mほど低くなっている。山頂部が削り取られたから、という。
武甲山の名前の由来だが、日本武尊が東征のとき、甲を奉納したから、とか。しかし、これは江戸・元禄の頃に、なにが要因かしらないが、こういった伝承が伝わり、今に至る、というだけ。山の名前はあれこれ変わっている。武甲山資料館の資料によれば、最初は単に「嶽」とか「嶽山」と世ばれ、神奈備山(神のこもる山)として崇められてきた。はるか昔のことである。
次に、「知々夫ヶ嶽」とか「秩父ケ嶽」と呼ばれるようになる。秩父神社のメモで書いた、知知夫彦命が知知夫の国造に任命され、ご神体としてこの山をまつった頃のこと。その次の名前は「祖父ヶ嶽」。大宝律令が制定(701年)され、武蔵国初代の国司として赴任した人物/引田朝臣祖父の名前を冠した名前となった。平安時代には「武光山(たけみつ)」。山麓に武光庄という荘園があった、ため。武光とは荘園開発者であろうか、と。次は妙見山(ミョウケンヤマ)。これも秩父神社のところでメモしたが、1235年秩父神社は落雷炎上。再興に際し、秩父平氏の流れを汲む武士団が信仰した妙見大菩薩を習合し、名前も「秩父大宮妙見宮」と変わった。ためにお山の名前も「武光山」から「妙見山」に。で、最後が江戸になってからの武甲山、と。山の名前も、それがありがたい山であるがゆえに、信仰・政治的背景によって変わってきた、って次第。
はじめからの寄り道が、結構長くなった。散歩にでかける。最初の目的地・明智寺に向かう。横瀬の駅から線路にそって南方向に下り、のんびりとした田舎の風景を眺めながらすすむと目的の寺。
9番札所・明智寺
安産子育ての観音様として知られ、明智寺というより、「九番さま」との愛称で呼ばれる札所。縁起によれば、目のみえない母親の回復を祈り、日夜この観音堂におまいりする孝行息子の前に老僧が現れ、「無垢清浄光・慧日破諸闇」を唱えるべし、と。お堂にこもりこの二句を唱え続ける。と、明け方内陣より「明るい星の光」が親子を照らし、母の目が見えるようになった。ために、このお堂は「明星山」と。「明智」はこのお寺を開いた明智禅師から。なお、観音堂は平成になってつくりかえられたもの。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)
ご詠歌;「巡り来てその名を聞けば明智寺 心の月はくもらざるなん」
明智寺を離れ、南に進む。三菱マテリアル横瀬工場。いかにも石灰を切り出し、セメントをつくる、って雰囲気の工場。工場脇を進み西武秩父線を越え、線路に沿って続く道筋を進む。武甲山の麓といったところに西善寺。
8番札所・西善
秩父への巡礼道として飯能>旧正丸(秩父)峠を越える「吾野通り」を歩くと最初たどりつくのがこのお寺。この寺をはじめとして札所を巡った人も多かったのだろう。江戸時代、竹村立義が表した紀行文「秩父巡拝記」によれば、竹村は8番>9番>7番>10番と巡り、10番以降は札番の順に巡っている。江戸期は川越通りからの往還がメーンルートとメモした。とはいうものの、どの往還を選ぶかは人次第ではある。当たり前、か。
このお寺、古い正丸峠越え(665m)の苦労に報うだけの品のいい寺さま。境内に枝をひろげるモミジの巨木は、樹齢500年とも600年とも。紅葉の頃は、さぞ美しいことであろう。モミジの下に如意輪観音さまや六地蔵。如意輪観音は、「文字どおり」、意のままに願いが叶う仏さま。
お地蔵さんは「六道能化の地蔵尊」とも呼ばれる。六道とは「仏教で衆生が輪廻の間に、それぞれの業の結果として住む六つの境涯(広辞苑)」。地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天の六つ。お地蔵さんとは、釈迦入滅後、弥勒が出現するまでの間現世にとどまり、衆生を救い、また、冥府の救済者。つまりは、この世で困っている人なら誰でも助けてくれる仏さま。ここまで活動範囲が広ければこの六道すべてに関係から、六道能化の地蔵尊と。六地蔵とはこの六つの世界をそれぞれ表しているのだろう、か。六地蔵は六道能化の本尊は恵信僧都の作と言われる、十一面観音。秘仏のため拝観叶わず。
ご詠歌;ただ頼めまことの時は西善寺 きたりむかえん弥陀の三尊
西武秩父線・横瀬駅
さてさて、横瀬地区札所散歩は西武秩父線・横瀬駅からはじめる。武甲山が美しい。散歩のはじめに少々気になっていた武甲山についてメモする
武甲山;昨年はじめて秩父を訪れたとき、御花畑から見たこの山の印象は強烈であった。秩父といえば三峯山、という程度の智識はあったので、てっきり三峯山と思い込んでいた。で、この武甲山、山容がいかにも猛々しいのはさることながら、これまた、いかにも切り崩されたような白い山肌に強く惹かれた。後からわかったのだが、それって石灰を切り出したためにできたもの。明治になってセメントの原料として採掘が進められ、特に1940年以降の採掘はすさまじく、山容が変貌。北斜面の崩壊が著しく、少々の衝撃を受けたのはこの崩壊した斜面であったわけだ。標高も明治期に比べて30mほど低くなっている。山頂部が削り取られたから、という。
武甲山の名前の由来だが、日本武尊が東征のとき、甲を奉納したから、とか。しかし、これは江戸・元禄の頃に、なにが要因かしらないが、こういった伝承が伝わり、今に至る、というだけ。山の名前はあれこれ変わっている。武甲山資料館の資料によれば、最初は単に「嶽」とか「嶽山」と世ばれ、神奈備山(神のこもる山)として崇められてきた。はるか昔のことである。
次に、「知々夫ヶ嶽」とか「秩父ケ嶽」と呼ばれるようになる。秩父神社のメモで書いた、知知夫彦命が知知夫の国造に任命され、ご神体としてこの山をまつった頃のこと。その次の名前は「祖父ヶ嶽」。大宝律令が制定(701年)され、武蔵国初代の国司として赴任した人物/引田朝臣祖父の名前を冠した名前となった。平安時代には「武光山(たけみつ)」。山麓に武光庄という荘園があった、ため。武光とは荘園開発者であろうか、と。次は妙見山(ミョウケンヤマ)。これも秩父神社のところでメモしたが、1235年秩父神社は落雷炎上。再興に際し、秩父平氏の流れを汲む武士団が信仰した妙見大菩薩を習合し、名前も「秩父大宮妙見宮」と変わった。ためにお山の名前も「武光山」から「妙見山」に。で、最後が江戸になってからの武甲山、と。山の名前も、それがありがたい山であるがゆえに、信仰・政治的背景によって変わってきた、って次第。
はじめからの寄り道が、結構長くなった。散歩にでかける。最初の目的地・明智寺に向かう。横瀬の駅から線路にそって南方向に下り、のんびりとした田舎の風景を眺めながらすすむと目的の寺。
9番札所・明智寺
安産子育ての観音様として知られ、明智寺というより、「九番さま」との愛称で呼ばれる札所。縁起によれば、目のみえない母親の回復を祈り、日夜この観音堂におまいりする孝行息子の前に老僧が現れ、「無垢清浄光・慧日破諸闇」を唱えるべし、と。お堂にこもりこの二句を唱え続ける。と、明け方内陣より「明るい星の光」が親子を照らし、母の目が見えるようになった。ために、このお堂は「明星山」と。「明智」はこのお寺を開いた明智禅師から。なお、観音堂は平成になってつくりかえられたもの。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)
ご詠歌;「巡り来てその名を聞けば明智寺 心の月はくもらざるなん」
明智寺を離れ、南に進む。三菱マテリアル横瀬工場。いかにも石灰を切り出し、セメントをつくる、って雰囲気の工場。工場脇を進み西武秩父線を越え、線路に沿って続く道筋を進む。武甲山の麓といったところに西善寺。
8番札所・西善
秩父への巡礼道として飯能>旧正丸(秩父)峠を越える「吾野通り」を歩くと最初たどりつくのがこのお寺。この寺をはじめとして札所を巡った人も多かったのだろう。江戸時代、竹村立義が表した紀行文「秩父巡拝記」によれば、竹村は8番>9番>7番>10番と巡り、10番以降は札番の順に巡っている。江戸期は川越通りからの往還がメーンルートとメモした。とはいうものの、どの往還を選ぶかは人次第ではある。当たり前、か。
このお寺、古い正丸峠越え(665m)の苦労に報うだけの品のいい寺さま。境内に枝をひろげるモミジの巨木は、樹齢500年とも600年とも。紅葉の頃は、さぞ美しいことであろう。モミジの下に如意輪観音さまや六地蔵。如意輪観音は、「文字どおり」、意のままに願いが叶う仏さま。
お地蔵さんは「六道能化の地蔵尊」とも呼ばれる。六道とは「仏教で衆生が輪廻の間に、それぞれの業の結果として住む六つの境涯(広辞苑)」。地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天の六つ。お地蔵さんとは、釈迦入滅後、弥勒が出現するまでの間現世にとどまり、衆生を救い、また、冥府の救済者。つまりは、この世で困っている人なら誰でも助けてくれる仏さま。ここまで活動範囲が広ければこの六道すべてに関係から、六道能化の地蔵尊と。六地蔵とはこの六つの世界をそれぞれ表しているのだろう、か。六地蔵は六道能化の本尊は恵信僧都の作と言われる、十一面観音。秘仏のため拝観叶わず。
ご詠歌;ただ頼めまことの時は西善寺 きたりむかえん弥陀の三尊
次の目的地・法長寺に向かう。少し秩父方面に戻ることになる。西善寺を離れ、北に下る道筋を進む、途中に「御嶽神社」。この里宮は武甲山頂に鎮座する御嶽神社の遥拝所。もっとも、石灰の採掘により削られ、山頂が30mほど低くなった、とメモした。山頂の御嶽神社も移された、って、こと。
地図を見ていると、御嶽神社の西のほうに白髭神社がある。これって、高麗王若光をまつるもの。吾野通りを下った高麗の里は霊亀2年(716年)、甲斐・駿河・相模・上総・下総・常陸・下野など七カ国の 高句麗人 (高句麗からの渡来人)、1799人を武蔵国に移し、 高麗郡(こまぐん)としたところ。高麗王若光をまつる高麗神社や聖天さまがある。
秩父は渡来人の里とも呼ばれる。吾野通りを通り、正丸峠から芦ヶ久保そして横瀬、大宮郷と帰化人たちも歩いてきたのだろう。秩父に絹織物の技術を伝えたもの、和紙の製造技術を伝えたもの、そして黒谷での和銅の採掘技術を伝えたもの渡来人。そういえば、この芦ヶ久保のあたりは706年に高麗羊太夫が芦ヶ久保村楮久保で、和紙の製造をはじめたというし、近くの根古屋って、絹織物の産地として有名。白鬚神社があって当然、か。西武秩父線を越え、生川交差点で国道299号線を秩父方面に。横瀬橋交差点近くに法長寺がある。
7番札所・法長寺(牛伏堂)
山門に菊水の紋。「不許葷酒入山門」葷とはニンニク、ラッキョ、ネギ、ニラといった野菜。その強い臭いが他人に不快感を与えるため。酒はいわずもがな。お寺の中では葷酒はだめ、ということ。本堂は間口10間の堂々とした構え。秩父ではもっとも大きい構えを誇る。本尊は十一面観音。江戸期の作。本堂の前に牛の石像。寺伝によれば、ある牛飼いが餌の草を刈っていると、一頭の牛が現れる。が、その牛、その場から動こうとせず、やむなくその地で一夜をあかす。と、夢に僧が現れ、「我は観音の化身なり。この地に草堂を結べば、この世の罪贖を取り除いてくれん」と。夜があけ、草の中からでてきた十一面観音をまつった、とか。「牛伏堂」と呼ばれる所以である。この牛伏堂は当時、横瀬の牛伏地区にあったらしいが、江戸時代にその堂が失われこの法長寺に札所が移された、と。本堂の虹梁の文様は平賀源内図と伝えられる
ご詠歌;「六道をかねて巡りて拝むべし 又後世(のちのよ)を聞くも牛伏」
横瀬橋を東に丘陵に向かう。畠にそって道を登る。境内に登る坂の途中に小さな祠。「お願い地蔵」がまつられている。竹林を背景にしたお堂の風情はなかなかいい。「日本百番霊場秩父補陀所第六番荻野堂」、と書かれた石標が入口に。正面に武甲山が美しい。
6番札所・ト雲寺;(ぼくうんじ;荻野堂)
このお寺、もとは別の場所にあった荻野堂が江戸時代にこの地にあったト雲寺に移されたもの。ト雲寺の名前の由来は、開山の嶋田与左衛門の法号が「ト雲源心庵主」である、から。本堂は、間口6間、奥行4 間。寺宝に、清涼寺形式の釈迦像、荻野堂縁起絵巻そして山姥歯等がある。荻野堂縁起絵巻が有名。
が、山姥の歯とは、少々面妖。縁起によれば、行基菩薩がこの地を訪れる。武甲山に山姥が棲み、里人を食う、という話を聞く。で、武甲山頂の蔵王権現にこもり山姥退治の祈願。この神力呪力によって山姥も降参。遠国へ立ち去るべし、と。山姥は悔い改め、再び里人を食わ誓いの証として前歯1枚、奥歯2枚を折り、献じて何処ともなく去ったという。もっとも、棄て台詞ではないだろうが、立ち去るとき「松藤絶えろ」と叫んだため、武甲山には松と藤が育たなくなった、とか。 本尊の聖観音は行基菩薩の作、と。蔵王権現にまつられていたもの、とか。
秩父は渡来人の里とも呼ばれる。吾野通りを通り、正丸峠から芦ヶ久保そして横瀬、大宮郷と帰化人たちも歩いてきたのだろう。秩父に絹織物の技術を伝えたもの、和紙の製造技術を伝えたもの、そして黒谷での和銅の採掘技術を伝えたもの渡来人。そういえば、この芦ヶ久保のあたりは706年に高麗羊太夫が芦ヶ久保村楮久保で、和紙の製造をはじめたというし、近くの根古屋って、絹織物の産地として有名。白鬚神社があって当然、か。西武秩父線を越え、生川交差点で国道299号線を秩父方面に。横瀬橋交差点近くに法長寺がある。
7番札所・法長寺(牛伏堂)
山門に菊水の紋。「不許葷酒入山門」葷とはニンニク、ラッキョ、ネギ、ニラといった野菜。その強い臭いが他人に不快感を与えるため。酒はいわずもがな。お寺の中では葷酒はだめ、ということ。本堂は間口10間の堂々とした構え。秩父ではもっとも大きい構えを誇る。本尊は十一面観音。江戸期の作。本堂の前に牛の石像。寺伝によれば、ある牛飼いが餌の草を刈っていると、一頭の牛が現れる。が、その牛、その場から動こうとせず、やむなくその地で一夜をあかす。と、夢に僧が現れ、「我は観音の化身なり。この地に草堂を結べば、この世の罪贖を取り除いてくれん」と。夜があけ、草の中からでてきた十一面観音をまつった、とか。「牛伏堂」と呼ばれる所以である。この牛伏堂は当時、横瀬の牛伏地区にあったらしいが、江戸時代にその堂が失われこの法長寺に札所が移された、と。本堂の虹梁の文様は平賀源内図と伝えられる
ご詠歌;「六道をかねて巡りて拝むべし 又後世(のちのよ)を聞くも牛伏」
横瀬橋を東に丘陵に向かう。畠にそって道を登る。境内に登る坂の途中に小さな祠。「お願い地蔵」がまつられている。竹林を背景にしたお堂の風情はなかなかいい。「日本百番霊場秩父補陀所第六番荻野堂」、と書かれた石標が入口に。正面に武甲山が美しい。
6番札所・ト雲寺;(ぼくうんじ;荻野堂)
このお寺、もとは別の場所にあった荻野堂が江戸時代にこの地にあったト雲寺に移されたもの。ト雲寺の名前の由来は、開山の嶋田与左衛門の法号が「ト雲源心庵主」である、から。本堂は、間口6間、奥行4 間。寺宝に、清涼寺形式の釈迦像、荻野堂縁起絵巻そして山姥歯等がある。荻野堂縁起絵巻が有名。
が、山姥の歯とは、少々面妖。縁起によれば、行基菩薩がこの地を訪れる。武甲山に山姥が棲み、里人を食う、という話を聞く。で、武甲山頂の蔵王権現にこもり山姥退治の祈願。この神力呪力によって山姥も降参。遠国へ立ち去るべし、と。山姥は悔い改め、再び里人を食わ誓いの証として前歯1枚、奥歯2枚を折り、献じて何処ともなく去ったという。もっとも、棄て台詞ではないだろうが、立ち去るとき「松藤絶えろ」と叫んだため、武甲山には松と藤が育たなくなった、とか。 本尊の聖観音は行基菩薩の作、と。蔵王権現にまつられていたもの、とか。
こんな話もある。とある禅師が庵を結んでの修業三昧。と、どこからともなく、「初秋に風吹き結ぶ 荻野堂 やどかりの世の 夢ぞさめける」という御詠歌、が。荻野堂の名前の由来がこれ。
ご詠歌;「初秋に風吹き結ぶ荻の堂 宿かりの世に夢ぞ覚めけり」
ご詠歌;「初秋に風吹き結ぶ荻の堂 宿かりの世に夢ぞ覚めけり」
ついでのことであるので「清涼寺形式の釈迦像」について。清涼寺のことをはじめて知ったのは、江戸の出開帳の記録を見ていたとき。成田山などとともに出開帳ベストテンに入っている。で、清涼寺についてチェックした次第。京都嵯峨野にあり、通称、嵯峨釈迦堂と呼ばれる。ここに伝わる国宝の釈迦像は請来されて以来、藤原摂関家以下朝野の尊祟をあつめた。ために、模刻が盛んにおこなわれ、これを「清涼寺形式の釈迦像」、と。つい最近、紅葉の嵯峨野を歩いたのだが、この嵯峨釈迦堂、拝観料を惜しみ、かつまた夕暮れ、雨模様という状況もありパス。残念。
ついでのことなので、もうひとつ寄り道。蔵王権現について;武甲山に蔵王権現がまつられていた、とメモした。観音霊場の起こりのときも、性空上人さまと13権者のひとりとして巡礼に従った、と。で、蔵王権現って、宮城というか山形というか、その蔵王のお山での信仰から、かと思い込んでいた。チェックしてみた。と、この神というか仏というか、ともあれ「仮の姿で現れた神仏」は日本固有のもの。インドに起源をもたない日本独自のほとけさま。役小角が吉野・金峯山で修行中に感得したという修験の神であり、釈迦・観音・弥勒の三尊の合体したもの、とか。で、蔵王山のことだが、これは古くから山岳信仰の対象ではあったが、平安の頃、空海の両部神道を奉じる修験者が修行の山とし、吉野の蔵王堂より蔵王権現を勧請し、お山の名前を「蔵王」とした、と。想像と順番が逆であった。
ト雲寺をはなれ、丘陵地帯をゆっくりくだり平地に下りる。県道11号線と横瀬川が交差する語歌橋に。県道11号線って、熊谷から小川町をへて秩父にいたる埼玉で一番長い地方道。約48キロある。11号線から少し南というか、東にはいったところに語歌堂がある。
5番札所・語歌堂(長興寺)
素朴な雰囲気の仁王様が睨む仁王門をくぐると、観音堂。その昔、この堂を建てたのは本間孫八という分限者。和歌の道に親しむ風流人。ある日一人の僧が訪ね来る。歌道の話に大いに盛り上がり、二人は夜を徹して論じ合う。翌朝孫八が目を覚ました時、旅の僧の姿はすでになく、のちにこの僧は聖徳太子の化身であった ことがわかった。夜を徹し「語」り合い、和「歌」を呼んだ。これが語歌堂の名前の由来。もっとも、旅の人と和歌の道を論じあい、聖徳太子の話に及んだとき、突如消え去る。で、これこそ救世観音の化身と悟った、といった話もある。何ゆえ、聖徳太子であり、救世観音であることがわかったのか、少々疑問?
納経所は近くの長興寺にある。このお堂、秩父事件の中心人物である秩父困民党総理・田中栄助が捕縛・調書に登場する:「五番ノ観音ノ岩窟ニテ夜ヲ明ク時ニ 十一月十二日ナリ」、と。とはいうものの、岩窟など見当たらない、のどかな平地にあるのだが??
語歌堂の本尊は准胝(じゅんでい)観世音菩薩。「菩薩の母」、「仏母(ぶつも)」といわれ。母性を象徴し、子授けの観音菩薩。この観音様を本尊とするのはほかに西国霊場11番・上醍醐寺だけである。
ト雲寺をはなれ、丘陵地帯をゆっくりくだり平地に下りる。県道11号線と横瀬川が交差する語歌橋に。県道11号線って、熊谷から小川町をへて秩父にいたる埼玉で一番長い地方道。約48キロある。11号線から少し南というか、東にはいったところに語歌堂がある。
5番札所・語歌堂(長興寺)
素朴な雰囲気の仁王様が睨む仁王門をくぐると、観音堂。その昔、この堂を建てたのは本間孫八という分限者。和歌の道に親しむ風流人。ある日一人の僧が訪ね来る。歌道の話に大いに盛り上がり、二人は夜を徹して論じ合う。翌朝孫八が目を覚ました時、旅の僧の姿はすでになく、のちにこの僧は聖徳太子の化身であった ことがわかった。夜を徹し「語」り合い、和「歌」を呼んだ。これが語歌堂の名前の由来。もっとも、旅の人と和歌の道を論じあい、聖徳太子の話に及んだとき、突如消え去る。で、これこそ救世観音の化身と悟った、といった話もある。何ゆえ、聖徳太子であり、救世観音であることがわかったのか、少々疑問?
納経所は近くの長興寺にある。このお堂、秩父事件の中心人物である秩父困民党総理・田中栄助が捕縛・調書に登場する:「五番ノ観音ノ岩窟ニテ夜ヲ明ク時ニ 十一月十二日ナリ」、と。とはいうものの、岩窟など見当たらない、のどかな平地にあるのだが??
語歌堂の本尊は准胝(じゅんでい)観世音菩薩。「菩薩の母」、「仏母(ぶつも)」といわれ。母性を象徴し、子授けの観音菩薩。この観音様を本尊とするのはほかに西国霊場11番・上醍醐寺だけである。
ついでに観音さまについて。観音様のバリエーションは基本となる聖観音のほか、十一面観音、千手観音、馬頭観音、如意輪観音、准胝観音をもって六観音と称す。これが真言系。天台系では准胝観音の代わりに不空羂索観音を加えて六観音とする。
ご詠歌;「父母の恵みも深き語歌の堂 大慈大悲の誓たのもし」
札所5番から10番までは横瀬町。11号線を北に進むと秩父市に入る。県道から少し丘陵地に入ると金昌寺。
4番札所・金昌寺(新木寺)
二階造りの仁王門。秩父には、村子然とした素朴な仁王さまが多いなか、このお寺の仁王さまは、いかにも仁王然とした力強い形相。口を大きく開いた呵形の金剛、ぐっと口を結んだ吽形の力士である。左右の柱に大草鞋。仁王は健脚の神ゆえの奉納か。金昌寺は石仏の寺として有名。1300余体の羅漢、観音、地蔵、不動、十三仏が寺域に広がる。奥の院には大きな岩。清水が流れ出ていた。
この千体仏、1624年住職古仙登嶽和尚が、寺院興隆のため石造千体仏建立を発願。江戸を中心とする各地を巡り寄進をつのり、7年の歳月をかけて成就。石仏寄進者のほとんどが江戸に集中。全体の7割,武州を合わせると9割。地元秩父の寄進者はわずか5%。秩父札所巡礼という流れに咲いた花であり、水元が枯れればすぐ萎える。その水源は江戸百万市民である、と上でメモした。
ご詠歌;「父母の恵みも深き語歌の堂 大慈大悲の誓たのもし」
札所5番から10番までは横瀬町。11号線を北に進むと秩父市に入る。県道から少し丘陵地に入ると金昌寺。
4番札所・金昌寺(新木寺)
二階造りの仁王門。秩父には、村子然とした素朴な仁王さまが多いなか、このお寺の仁王さまは、いかにも仁王然とした力強い形相。口を大きく開いた呵形の金剛、ぐっと口を結んだ吽形の力士である。左右の柱に大草鞋。仁王は健脚の神ゆえの奉納か。金昌寺は石仏の寺として有名。1300余体の羅漢、観音、地蔵、不動、十三仏が寺域に広がる。奥の院には大きな岩。清水が流れ出ていた。
この千体仏、1624年住職古仙登嶽和尚が、寺院興隆のため石造千体仏建立を発願。江戸を中心とする各地を巡り寄進をつのり、7年の歳月をかけて成就。石仏寄進者のほとんどが江戸に集中。全体の7割,武州を合わせると9割。地元秩父の寄進者はわずか5%。秩父札所巡礼という流れに咲いた花であり、水元が枯れればすぐ萎える。その水源は江戸百万市民である、と上でメモした。
このお寺の石仏寄進者の半数以上が江戸の商人。豊かになった江戸の商人は信仰と行楽を兼ね、この地を訪れた。関所通行の煩わしさもなく、鉱泉もある、といえば願ったり叶ったりであった、ことであろう。また、秩父を支配していた忍藩の代官所も巡礼者を保護し、寛延3年1月から3月の3ヶ月には4万から5万の巡礼者があったとか。
ちなみに秩父と江戸の関係でいえば、巡礼を「待つ」ばかりでなく、秩父札所の「出開帳」が江戸でおこなわれている。明和元年、護国寺で開かれた「秩父札所惣出開帳」は、「前代未聞」の賑わい。将軍家治の代参、諸大名、大奥女中、旗本などの参詣があり、秩父札所の名声を高めた、とか。で、この興行の成功に味をしめ、その後も幾度か出開帳をおこなった、よう。境内にオビンズルさま。別名「酒飲地蔵」さま。散歩をはじめて、十六羅漢のひとり、このお地蔵さんに幾度出会ったことか。
ついでのことであるので忍藩。埼玉県行田市に本丸をもつ。開幕のころは家康の四男・信吉。その後、島原の乱の鎮圧の功により川越藩に移る前の知恵伊豆こと松平信綱や、阿部忠秋など「老中の藩」として軍事的・政治的に幕府の重要拠点藩でありました。
ご詠歌;「あらたかに詣りて拝む観音堂 二世安楽と誰も祈らん」
いかにも立派な、また、「秩父は江戸でもつ」ということを実感した金昌寺を離れ、県道11号線に下り、北に恒持神社あたりまで進む。秩父夜祭で冬を向かえた秩父路に春の訪れを告げる山田の春祭りで有名な恒持神社。古く江戸時代から続く。2台の屋台と1台の笠鉾が、勇壮な「秩父屋台囃子」とともに曳行される、とか。春にはお祭りに来てみたい、などと思いながら県道を西に折れ、横瀬川にかかる山田橋を渡って左折。少し歩く。丘陵地帯が前方に広がる。この台地の先は秩父市街。常泉寺はこの小高い山地の麓にある。
3番札所・常泉寺
本堂の石段を上がったところに観音堂。丘の中腹、林の中、といった雰囲気。もとの堂宇は、弘化年間(1844年頃)に焼失したため、1870年秩父神社の境内にあった薬師堂を移築した。本尊は室町時代の作と伝えられる聖観音の木彫像。この堂の向拝と本陣を結ぶ虹梁にある龍のカゴ彫り。江戸時代の彫刻の高い技術を表している。寺伝によれば、ここの住職が重い病に伏せていたとき夢に現れた観音様からお告げ。「境内の水を服用せよ」、と。あら不思議、病気がすぐに治ったと。この長命水が本堂前にある。また本堂の回廊には「子持ち石」。抱けば、子宝を授かる、と。ご詠歌の岩本寺とは、この寺の山号。
ご詠歌;「補陀落は岩本寺と拝むべし 峰の松風ひびく滝つ瀬」
常泉寺を離れ、丘陵地の麓に沿ってのんびり進む。南に戻る。秩父市から再び横瀬町に。語歌橋を越え、県道11号を一筋入ったところに大慈寺。
10番札所・大慈寺
延命地蔵に迎えられ、急な石段を上ると楼門形仁王門。形のいい仁王が構えている。本尊は、恵心僧都の作と言われる聖観音。お賓頭盧さま、も。オビンズル様とは
ちなみに秩父と江戸の関係でいえば、巡礼を「待つ」ばかりでなく、秩父札所の「出開帳」が江戸でおこなわれている。明和元年、護国寺で開かれた「秩父札所惣出開帳」は、「前代未聞」の賑わい。将軍家治の代参、諸大名、大奥女中、旗本などの参詣があり、秩父札所の名声を高めた、とか。で、この興行の成功に味をしめ、その後も幾度か出開帳をおこなった、よう。境内にオビンズルさま。別名「酒飲地蔵」さま。散歩をはじめて、十六羅漢のひとり、このお地蔵さんに幾度出会ったことか。
ついでのことであるので忍藩。埼玉県行田市に本丸をもつ。開幕のころは家康の四男・信吉。その後、島原の乱の鎮圧の功により川越藩に移る前の知恵伊豆こと松平信綱や、阿部忠秋など「老中の藩」として軍事的・政治的に幕府の重要拠点藩でありました。
ご詠歌;「あらたかに詣りて拝む観音堂 二世安楽と誰も祈らん」
いかにも立派な、また、「秩父は江戸でもつ」ということを実感した金昌寺を離れ、県道11号線に下り、北に恒持神社あたりまで進む。秩父夜祭で冬を向かえた秩父路に春の訪れを告げる山田の春祭りで有名な恒持神社。古く江戸時代から続く。2台の屋台と1台の笠鉾が、勇壮な「秩父屋台囃子」とともに曳行される、とか。春にはお祭りに来てみたい、などと思いながら県道を西に折れ、横瀬川にかかる山田橋を渡って左折。少し歩く。丘陵地帯が前方に広がる。この台地の先は秩父市街。常泉寺はこの小高い山地の麓にある。
3番札所・常泉寺
本堂の石段を上がったところに観音堂。丘の中腹、林の中、といった雰囲気。もとの堂宇は、弘化年間(1844年頃)に焼失したため、1870年秩父神社の境内にあった薬師堂を移築した。本尊は室町時代の作と伝えられる聖観音の木彫像。この堂の向拝と本陣を結ぶ虹梁にある龍のカゴ彫り。江戸時代の彫刻の高い技術を表している。寺伝によれば、ここの住職が重い病に伏せていたとき夢に現れた観音様からお告げ。「境内の水を服用せよ」、と。あら不思議、病気がすぐに治ったと。この長命水が本堂前にある。また本堂の回廊には「子持ち石」。抱けば、子宝を授かる、と。ご詠歌の岩本寺とは、この寺の山号。
ご詠歌;「補陀落は岩本寺と拝むべし 峰の松風ひびく滝つ瀬」
常泉寺を離れ、丘陵地の麓に沿ってのんびり進む。南に戻る。秩父市から再び横瀬町に。語歌橋を越え、県道11号を一筋入ったところに大慈寺。
10番札所・大慈寺
延命地蔵に迎えられ、急な石段を上ると楼門形仁王門。形のいい仁王が構えている。本尊は、恵心僧都の作と言われる聖観音。お賓頭盧さま、も。オビンズル様とは
、十六羅漢中第一の位にあったが、その神通力をもてあそび、酒癖も悪く釈迦のお叱りを受けて涅槃を許されず、釈迦の入滅後も衆生を救いつづけたという白髪・長眉の仏神だったとか。山門からの眺めよし恵心僧都って、あの恵心僧都・源信のこと?天台宗の高僧。極楽浄土の思想をまとめた『往生要集』の著者として知られるが、仏さんを彫ったりもするものだろうか。少々疑問。
ご詠歌;「ひたすらに頼みをかけよ大慈寺 六(むつ)の巷の苦にかはるべし」
ご詠歌;「ひたすらに頼みをかけよ大慈寺 六(むつ)の巷の苦にかはるべし」
県道11号線を進み国道299号線に合流。丘陵地の切れ目なのか、工事によって切り通されたのか、定かには知らねども、秩父市街に向かってちょっとした峠道を進む。秩父側にでたところに常楽寺。今回最後の札所。
11番札所・常楽寺
11番札所・常楽寺
この寺は秩父市と横瀬町のまたがる山の中腹にある。秩父の市街地や武甲山や長尾根丘陵、両神山まで一望できる。昔は堂々とした伽藍を誇った。が、明治11年の秩父の大火で焼失。その後、明治30年に建てられたのが現在の観音堂。上で秩父札所の江戸での出開帳のことをメモした。常楽寺も享保3年(1718年)、江戸湯島天神で観音堂修復のための出開帳をおこなった、と。本尊は十一面観音。その他、行基作といわれ釈迦如来像も。大正9年、秩父を訪れた若山牧水が、「秩父町出はづれ来れば機をりの 歌声つづく古りし 家並に」と詠んだのは、この常楽寺前の坂道でのこと。
本堂に、元三大師と普賢菩薩。元三大師って、慈恵(じえ)大師良源のこと。天台宗。比叡山中興の祖と言われる実在の人物。命日が正月三日のため元三大師、と。中世以来独特の信仰をあつめ「厄除け大師」として有名。佐野厄除け大師は、弘法大師ではなくこの元三大師をまつっている。普賢菩薩は辰巳の守り本尊。本堂に向かって右手に、新しい六地蔵。座像一本つくりの釈迦如来がある。
本堂に、元三大師と普賢菩薩。元三大師って、慈恵(じえ)大師良源のこと。天台宗。比叡山中興の祖と言われる実在の人物。命日が正月三日のため元三大師、と。中世以来独特の信仰をあつめ「厄除け大師」として有名。佐野厄除け大師は、弘法大師ではなくこの元三大師をまつっている。普賢菩薩は辰巳の守り本尊。本堂に向かって右手に、新しい六地蔵。座像一本つくりの釈迦如来がある。
ご詠歌;「つみとがも消えよと祈る坂氷朝日はささで夕日かがやく」
1泊2日の秩父札所巡りを終える。17の札所を巡った。信仰心には縁遠く、B級路線まっしぐらの我が身も、辿るとともに、なんとなくの、修行者なる心持も。今回は秩父市と横瀬町が中心。秩父札所の所在地をみると、秩父市22カ所、横瀬町6カ所、荒川村、小鹿野町各2カ所、吉田町、皆野町各1カ所に広がる。次回はどこからはじめようか。
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