杉並区散歩 そのⅢ;桃園川跡を辿る

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何回かにわけて歩いた桃園川緑道散歩をまとめる。源流点というか、水源は天沼3丁目23あたりにあった弁天池、とのこと。もっとも、練馬区の関町あたりで千川上水から分かれた分水流が青梅街道に沿って進み、この弁天池に流入した、と。弁天池までは用水溝といった小さな流れで、「用水掘」とか「新堀」と呼ばれており、弁天池から下流が桃園川と呼ばれたようだ。
天沼3丁目を成行きで歩く。いかにも水路跡のような遊歩道。辿っていくと、天沼八幡神社の境内前に出る。桃園川跡に間違いなし。八幡様の参拝は後にまわし、とりあえず源流点・弁天池跡に進む。

少し西に進むと遊歩道が切れる。が、いかにも川筋跡のような道が北に続く。ちょっと辿るとお屋敷手前で道が切れる。結構な屋敷跡。屋敷「跡」というのは、更地工事をしているようであった、から。鬱蒼とした緑は未だ残っている。ここが弁天池を埋めた跡地ではなかろうか。
お屋敷の周りをぐるり一周。直ぐ西には東京衛生病院。この病院は息子と娘が生まれたところ。病院のする裏手、というか東側が源流点であった。後からわかったのだが、この弁天池跡地のお屋敷は西武の堤義明氏の荻窪御殿、と呼ばれていたところらしい。件(くだん)の事件もあり、お屋敷を売却したのだろう、か。

「天沼」という地名の由来は弁天池、から。雨でも降ると水が溢れ、一面沼沢地のようになったのであろう、か。天沼=雨沼、かもしれない。実際、この一帯の地名、井草=「葦(藺)草;水草」、であり、荻窪=荻の生える窪地、ということで湿地帯であったことは間違いないだろう。天沼の北に「本天沼」って地名がある。もとの天沼村を南北に分けるとき、北が「本天沼」と先に宣言。もともとの地名の由来にもなった地域は「天沼」に。素人目には「本天沼」のほうが本家・本元って感じがする。
『続日本紀』に武蔵国「乗潴(あまぬま)駅」って記述がある。諸説ある中でも、その場所はこの天沼あたりではないか、というのが定説になっている。「乗潴(あまぬま)駅」は、武蔵の国府のある国分寺から下総の国府のある国府台に通じる街道の「駅家」。官用の往来のため、馬などを常備していた、と。乗潴(あまぬま)駅から、武蔵にあったもうひとつの駅家・豊島(江戸城付近)を経由する官道があったのだろう。ちなみに「潴」、って「沼」の意味。



本日のルート;
天沼八幡神社(天沼2)>天沼熊野神社(天沼1)>慈恩寺(阿佐谷北3)>世尊院>阿佐ヶ谷神明宮>欅屋敷>馬橋稲荷神社>高円寺5丁目・大久保通 り>宮園橋>中野5差路>上宮橋>もみじ山公園下>堀越学園前>谷戸小学校>宝仙寺>宮下・山手通り>田替橋>末広橋>神田川合流>北新宿>新宿

天沼八幡神社

源 流点を確認し、再び桃園川緑道に戻る。少し歩くと天沼八幡神社。弁天沼跡から100m程度だろうか。天正年間(1573~92)の創建といわれる。天沼村中谷戸(なかがいと)の鎮守。弁天池はもと、この八幡様の土地。現在の社殿の建築費用をつくるため売却し、埋め立てられた、とか。弁天池の弁天様は現在境内に遷座している、と。境内末社の大鳥神社では酉の市が開かれる。

天沼熊野神社
桃園川緑道に戻り下流に向かう。天沼2丁目に「天沼熊野神社」。緑道から少し離れたところにある。旧天沼村の鎮守。明治以前には十二社権現と呼ばれた。創建年代は不明だが、社伝によると「元弘三年(1333)に新田義貞が鎌倉攻めの途次、ここに宿陣し、社殿を修め、戦勝を祈って2本の杉苗を献植した」と。伝承の杉は昭和10年に枯れた。今も伐り株が残っている。

中杉通り

桃園川緑道を下る。民家の間をくねくね進み、阿佐ヶ谷1丁目29
あたりで中野と杉並を結ぶ「中杉通り」に交差する。ここで緑道は一度途切れる。阿佐ヶ谷北1-1、JR中央線脇にある「けやき公園」の先から緑道が再びはじまるまでは、湾曲した、いかにも川筋跡といった道路を進む。

阿佐谷神明宮
緑道をちょっと離れる。阿佐谷神明宮と世尊院に。阿佐谷神明宮は丁度秋祭り。旧阿佐ヶ谷村の鎮守さま。『江戸名所図会』に、「景行天皇44年に、日本武尊ご東征の帰途、ここに休まれたので、のちに里人が日本武尊の武功を慕って神明社を建立。また、建久(1190-99年)のころ、横井兵部が伊勢五十鈴川から持ち帰った霊石をご神体とし、僧祇海が社を今の地に移した」、と。景行天皇44年って、西暦 4世紀ではある。が、そもそも景行天皇って、伝説上の天皇でもあるわけで、縁起は縁起としておこう、と。

世尊院

世尊院。永享元年(1429年)に阿佐ヶ谷にあった宝仙寺が中野に移った頃
、それを惜しんだ地元民が小寺として残したのがそのはじまりと、いう。宝仙寺は大宮八幡宮の別当寺であった、といわれる。阿佐ヶ谷に居を構えた江戸氏の庶流・「あさかや殿」の庇護のもと作られたのであろうか。「あさかや殿」が歴史に現れた記録は応永27年(1420年)の『米良文書』にある。熊野那智神社の御師が武蔵国の大檀那の江戸氏一門の苗字を書き上げた中に、中野殿などとともに登場する。「あさかや殿」はこのあたりを拠点に土地を拓きながら、戦乱の続く南北朝を生き抜いたのであろう。その衰退の時期はつまびらかではない。が、上にメモした、永享元年(1429年)頃、庇護した宝仙寺が中野に移ったころではないか、と言われている。庇護する威勢を失っていたのであろう。一般公開はしていない。観音堂にまつられている聖観音像は南北朝の作と言われる。ちなみに阿佐ヶ谷の地名の由来は「浅ケ谷」から。桃園川が流れる「浅い谷〔地〕」、であったということだろう。

JR中央線の阿佐ヶ谷駅
Jr中央線の阿佐ヶ谷駅に。JR中央線って、もとは甲武鉄道。明治22年、立川―新宿。立川―八王子が開通した。本来の路線計画では、甲州街道か青梅街道沿いに走る予定であった。が住民の反対に会い、田園・林野を一直線に走る現在の路線になった、とか。駅から少し東、「けやき公園」に。

馬橋公園

ちょっと寄り道。けやき公園から北に進んだ、馬橋公園のあたりに陸軍中野学校教場があった。本部は中野駅前。昭和2年に陸軍通信学校が建設されたことと関係あるのだろうか。なんせ。防諜と通信は切り離すこと叶わず、であろう。太平洋戦争末期には陸軍気象部がおかれ、戦後運輸省気象研究所になった。現在は公園となり、気象庁の職員住宅となっている。また、この馬橋公園の近く、阿佐ヶ谷北5丁目-3あたりには、縄文時代後期の遺跡・小山遺跡も発見されている。桃園川沿いの微高地でもあり、古くから人々が生活していたのであろ う。

馬橋稲荷神社
中央線を越えたあたりから、再び緑道がはじまる。少し歩くと「馬橋稲荷神社」。旧馬橋村の鎮守さま。馬橋村って、このあたりから高円寺にかけての昔の地名。地名の由来は、これまた例によってあれこれ。ひとつは、桃園川か馬で一跨ぎする程度の小さい川であった、という説。また、昔々、桃園川の湿地帯を馬の背を橋のかわりにして軍勢が押し渡ったため、といった説もある。真偽の程は定かならず。




新堀用水、というか天保用水が合流
緑道を進む。緑道脇に桃園川の流路図。結構複雑に分岐している。その川筋のひとつだろう、とは思うが、昔、このあたりには新堀用水、というか天保用水が合流していた、と。中野・馬橋・高円寺の三村に灌漑用水を供給するため善福寺川から分水したもの。桃園川の湧水が減り、天水に頼らざるを得なくなった、その対策として村相互の協力によって計画したもの。
先日散歩の須賀神社の脇で見た新堀用水跡、つまりはこのあたりにあった弁天池に善福寺川から導水し、池の湧き水とともに掘割と暗渠で青梅街道を通り、区役所脇を東北に抜け、馬橋児童遊園のあたりを通り桃園川に合流していた、と。いつか、もう一度流路図をチェックし、用水流路を確認しておこう。

長仙寺
寄り道が多く、なかなか先に進めない。高円寺南3丁目を進む。民家の間を進む。高円寺駅から南に青梅街道まで続く「駅前商店街 パル」にあたる。駅の南口に長仙寺。本堂前庭に「歯神様」と呼ばれる石仏の如意輪観音が安置している、と。享保9年(1724年)の銘。「駅前商店街 パル」を越えると緑道の北に氷川神社と高円寺。

氷川神社
氷川神社は高円寺村字原の鎮守様。天文(1532-55年)の頃の創建、と。境内に小祠・気象神社。先のメモした、陸軍気象部がきちんと気象予報ができるようにと、つくられた。

高円寺

氷川神社を東に少し進むと高円寺。創立にはちょっとしたお話がある;昔、ひとりの旅人がこの地に。父娘の住む農家に一夜の宿を求める旅のもの。飢饉ゆえ食るものも無い、と断わるも、たっての頼みに断わりきれず泊めることに。で、娘が食べ物を探しに外出した後、父親はその旅の人が大金を持っていることを知り、殺害。戻ってきた娘はそのことを悲しみ尼となり、庵をたて菩提をとむらった。弘治元年(1555)建室和尚がその庵をもとにつくったのがこの高円寺、と。
『新編武蔵風土記功稿』の「高円寺村」の箇所に「当村、古は小沢村と言えるも、大猷院殿(三代将軍徳川家光)しばしば村内高円寺にお遊びありければ、世人高円寺御成りありと言いしに、いつしか高円寺村の名起これり」と。昔は小沢村と言っていたが、将軍が鷹狩に御成りのとき、ここで休憩をとった、事実お寺には御茶屋跡もあるとかで、高円寺というお寺の名前が一人歩きし、いつしか寺名が地名までも奪取した、ということか。

寺町
氷川神社や高円寺と桃園川緑道を隔てた南側は寺町がつくられている。明治末期、この地の所有者が商売に失敗し、抵当流れで安い地価となった。お寺といえば少々広い土地が必要であろうし、ということでお寺がこの地に移ってきた、とか。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)



高円寺天祖神社と田中稲荷

緑道を進み、環七を越える。高円寺天祖神社と田中稲荷。高円寺村字通りの鎮守様。田中稲荷神社は高円寺天祖神社の境外末社。創建の由来は不明だが、桃園川沿いの田圃の中にあったので「田中稲荷」と。

鳥見橋

田中稲荷を越えるとすぐ中野区。少し進むと鳥見橋。名前の由来は、将軍家の「鷹場」を管理する鳥見役人の役宅に通じる道が通っていたため。役宅があったのは杉並区高円寺南5丁目あたりと言われている。御鷹場があったのは中野2丁目から5丁目にかけての広大な土地。
鷹場のあるところは、この地に限らず御鷹場禁制や御鷹場法度で農民は多くの制約を受けていた。で、村々を巡回し野鳥の保護を第一に、農民を監視していたのが鳥見役人。鳥見役人は若年寄支配下にあり格は高かったが、高円寺の役宅に常駐する役人は微禄の小役人。農民を苛め、賄賂をとるなど、代官所からも厄介者扱いされていた、とか。
であるからして、明治維新にはこの役宅、農民の怒りの矛先となり、すぐさま取り壊された、と。ちなみに、この「御鷹場」はもと、野犬の「御囲」場。綱吉による「生類憐みの令」による「お犬様」を保護・収容していたところ。綱吉の死後廃止され、鷹場となった。どちらにしろ、人々にとっては厄介このうえないものであっただろう。

桃園橋
宮園橋を越えると緑道は少し北に迂回。中野通りとの交差するところに桃園橋。そこは将軍吉宗が桃園に行くときの御成り橋。桃園は中野3丁目一帯にあった、と言われている。中野通りの一筋西を通る「桃園通り」を南に進み、下り坂となる分岐のあたりに「将軍のお立場(中野3丁目28)」。放鷹を眺めたり、桃園を眺めたりする絶好の場所であった、とか。

城山

中野五差路のあたりを越えると、緑道は「大久保通り」の南を、道に沿って進む。紅葉山公園が下る道筋を越え、大久保通りでいえば堀越学園前交差点のあたりに、太田道潅の砦跡、とも伝えられる「城山(中野1-31)」が。谷戸運動公園の北側に土塁跡が残る。
緑道は掘越学園の裏手を進み、実践学園傍を歩く。この南には宝仙寺。前にメモした「阿佐ヶ谷殿」が阿佐ヶ谷につくり、その勢力がうしなわれたころ、この中野に移
る。今回は緑道を急ぐ。お寺巡りは次回のお楽しみに残す。

先に進み、山手通りと交差。宮下交差点。南に下ると青梅街道の中野坂上。中央1丁目を進み田替橋を過ぎると大久保通り・末広橋で桃園川は神田川と合流。桃園川散歩を終える。後は、北新宿から西新宿を通りJR新宿駅に歩き自宅に戻る。

桃園川って、高円寺の商店街を歩いていたとき、いかにも路地裏、といったところでたまたま見つけた。なんということもない、小流であったのだろう、と思ったのだか、この流路に沿ってもあれこれ歴史があった。緑道もすぐ途切れる、と思っていたのだが、結局神田川まで引っ張られた。カシミール3Dでつくった地形図を見ると、なるほど、桃園川の流れに沿って、谷地が作られている。偶然見つけた川筋を、好奇心で歩き、あれこれ時空散歩が楽しめた。どこかで見かけた桃園川の案内をメモして今回はおしまい、とする。




桃園川緑道の沿革;桃園川緑道は、元来天沼の弁天池(天沼3丁目地内)を水源として東流し末広橋(中野区)で神田川と合流する「桃園川」と呼ばれる小河川でした。桃園川の名は江戸時代初期に付近の「高円寺」境内に桃の木が多かったことから将軍より地名を「桃園」とするよう沙汰があったことに由来しています(その後桃園は中野に移されています)。
江戸時代中期には千川上水から分水したり、善福寺川から「新堀用水」を開削し、導水するなどして、「桃園川」沿いの新田開発が進められました。大正末期には関東大震災を契機とした都市化の波を受け、川沿いの地区は耕地整理がおこなわれ数条に分岐していた「桃園川」も流路が整えられ、それにともない水田風景も姿を消しました」


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