箱根越え;旧東海道・東坂

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箱根湯本から元箱根まで
箱根八里を越えようと思った。昨年から、秩父や奥武蔵、奥多摩、津久井などの古街道を歩き、いくつもの峠を越えた。で、今回はその続き。旧東海道・箱根路越え。趣のある石畳が残ると言うし、杉並木・松並木もよさげではあるが、何よりも「天下の嶮」がどれほどのものか歩いてみよう、ということに。
古来箱根越えにはいくつかのルートがあった。大きく分けて、足柄峠を越えるルートと、箱根峠を越えるルート。ふたつのルートのうち、足柄峠を越えるルートのほうが古い。奈良時代以前は小田原方面から関本を経て足柄峠を越え、その後は御坂峠から甲府方面に抜ける。東山道につながったのだろう。平安時代になると、足柄峠からは甲府に向かわず、御殿場から富士川に向かって下ってゆく。ついで、平安後期から鎌倉になると、御殿場から富士に向かわず、三島に下る。三島からは根方街道を富士川に向かった。これらのルートは箱根越え、というよりも、「天下の嶮」の箱根の山を迂回するルートである。
一方、箱根峠を越えるルートは文字通りの箱根の山を越えるもの。このルートも時代によってふたつに分かれる。ひとつは「湯坂路」。小田原を発し、湯本に。そこからは湯坂山、浅間山、鷹巣山への稜線を進み、元箱根から箱根峠に。峠からは尾根の稜線を三島へと下る。平安から鎌倉・室町の頃のルートである。話によれば、富士の大噴火によって足柄道が通れなくなったために開かれた、とも言う。
で、今回歩く箱根峠越えのルートが江戸になって開けた道である。小田原を発し、湯本に。そこからは湯坂路の山越えの道を避け、須雲川に沿って川沿いに進み、畑宿を経て元箱根に。元箱根からは箱根峠に至り、そこからは、湯坂路の一筋南の尾根道を三島へと下ってゆく。箱根八里と言うから32キロ。2日に分けて、「天下の嶮」を越えてゆく。



本日のルート;箱根湯本駅>早川>箱根町立郷土資料館>白山神社>早雲寺>湯本茶屋>猿渡石畳>観音坂>葛原坂>須雲川集落>駒形神社>鎖雲寺>須雲川自然探傷歩道>割石坂>大澤坂>畑宿>畑宿一里塚>西海子(さいかち)坂>七曲の坂>樫の木坂>猿滑り坂>笈の平>甘酒茶屋>於玉坂>白水坂>天ガ石坂>湯坂道との合流点>権現坂>芦ノ湖


箱根湯本駅

小田急に乗り一路箱根湯本へと。小田原を越え、風祭、入生田へと進む。車窓からは見えることはないのだが、線路に沿って続く山腹には荻窪用水が走っている、はず。そのうちに実物を目にしたいものである。
入生田を越えると山崎の地。幕末、佐幕派の伊庭八郎を隊長とする遊撃隊が上総上西藩主林昌之介などと共に小田原藩・官軍と戦った地(中村彰彦さんの『遊撃隊始末(文春文庫)』に詳しい)。山崎を過ぎると、ほどなく箱根湯本駅に到着。

早川
湯本駅を下り箱根町立郷土資料館に。早川を渡った対岸の段丘上、というか、早川と須雲川の合流点の南側に残る小高い台地上にある。駅の改札を出て、地下通路で国道1号線を渡り、バスターミナル辺りへ。そこからは成りゆきで進み早川に架かる橋を渡る。
早川は芦ノ湖を水源とし、湖尻水門で取水され仙石より国道138号線(別名箱根裏街道)に沿って湯本に下る。橋から下流を眺めるに、三枚橋が見える。往時、長さ40m、幅も18mあるという大きな橋であった、とか。名前の由来は板を三枚並べた幅があった、から。とはいうものの、念仏三昧の「三昧」から、との説もある。往時の早川は現在よりずっと広く、中州を繋ぐ地獄橋・極楽橋・三枚橋があった、とのこと。いつものことであるが、地名の由来はあれこれ、定まることなし。

箱根町立郷土資料館
坂を上り郷土資料館に。旧東海道・箱根越えに関するあれこれを、スキミング&スキャニング。『あるく・見る 箱根八里;田代道禰(かなしんブックス)』を買い求める。この書籍で今回の東海道・箱根越えが急に充実したものになってきた。今回のお散歩メモは、この書籍や、その後に古本屋で手に入れた『ふるさとの街道 箱根路三島道石畳を歩く;土屋寿山・稲木久男(長倉書店)』、『近世小田原ものがたり;中野敬次郎(名著出版)』、『はこね昔がたり;勝俣孝正他(かなしんブックス)』、『おだわらの歴史;小田原市立図書館』
などを参考にメモする。

白山神社
郷土資料館から下を眺めると、段丘の南の低地を挟み、その先に山塊が連なる。郷土館を離れ、箱根町役場本庁舎脇の細路を上る。後山と言う地名が示すように、ちょっとした小山。神明宮などが佇む。軽くおまいりを済ませ、旧東海道が通る県道732号線・湯本元箱根線へと成り行きで下ってゆく。
県道の南に白山神社。白山神社って、加賀白山市にある白山比咩神社が総本社。奥宮は標高2702mの白山に鎮座する。神仏習合で天台宗との結びつきを強め、天台宗の普及につれて白山神社も全国に。現在、全国に数千社がある、という。
白山神社の東には辻村伊助の屋敷があった。伊助は小田原の素封家の出。学生最後の1年を園芸の研究とアルプス登山のため渡欧。大正2年のことである。アルプスで雪崩の被害に巻き込まれる。看護を受けたスイス人女性と結婚し帰国。スイスの気候に近いこの地に家を構えるも、関東大震災のとき、山崩れで家族共々命を失った。スイスのアルプスに登り『スウヰス日記』を書く。登山小説の白眉と言う。

早雲寺
白山神社と県道を隔てたところに早雲寺。小田原北条二代目当主・氏綱が北条早雲の菩提寺として建てたもの。秀吉の小田原攻めの時に焼失。北条家当主の墓は一時散逸。現在境内にある北条五代の墓は江戸時代に再建されたもの。
境内には飯尾宗祇や山上宗二の供養塔が残る。飯尾宗祇は室町期の連歌師。旅の途中この地でなくなる。山上宗二は堺の豪商で千利休の高弟。失言より秀吉の不興を買い、追放されこの地へと流れ北条の庇護を受ける。小田原攻めの降り、秀吉に謁見を受けるも、再びの失言。秀吉の命により命を失う。口は災いのもと、の代表的人物。ちなみに、利休が秀吉を見限ったのが、山上宗二に対するこの秀吉の残虐な仕打ちにある、と言う。後に利休も秀吉により死を賜ることになるわけであるから、その遠因はこの宗二にある、とも。

正眼寺
道端の道祖神を見やりながら旧東海道を進む。ほどなく正眼寺。建武の頃、というから14世紀の中頃、足利尊氏が北条時行と戦った箱根山での合戦(中先代の乱)の記録に「湯本の地蔵堂」という名が見える。歴史の古いお寺さまである。
境内に大きな地蔵さま。湯本の地蔵堂と呼ばれていた頃の名残だろう。それにしても、このお地蔵様、なんとなく中国っぽい雰囲気。慶應4年(1864年)消失した当時の地蔵菩薩の替わりとして、入生田の名刹・紹大寺から移された。紹大寺が黄檗宗であるとすれば、大いに納得。おおらか、愛嬌のあるお地蔵様である。
このお寺には曾我堂というお堂もあった。曾我兄弟をまつるもの。兄弟二体の地蔵像が残る。地蔵堂も曾我堂も戊辰の戦乱に遊撃隊と官軍の戦いで焼け落ちるが、曾我兄弟の二体の地蔵は難を逃れ、今に残る。
曽我兄弟といえば、日本三大仇討ち話で有名。富士の裾野の巻狩で親の仇である工藤祐経を討ち果たし、といった話はだれでも知っている、と思っていた。が、なんかの折に、その話題を出したものの、廻りの人は、だーれも知らなかった。
正眼寺は北向きの斜面に建つ。境内からは北の早川の渓谷、湯本の温泉街、そしてその北に聳える北箱根の山稜が見える。

湯本茶屋
先に進むと、道端にまたまた道祖神。二体あり、一体は稲荷型、もうひとつは双立型と呼ばれる(『あるく・見る 箱根八里;田代道禰(かなしんブックス)』)。稲荷型はお稲荷様のお堂の姿、双立型は男女ふたりが仲良く手を組む姿。
このあたりは湯本茶屋と呼ばれる。その昔、二軒のお茶屋があった、とか。街道脇に石造りの貯水槽。この貯水槽は馬の水飲み場。往時、この地は「立場」があり、馬も人も休憩したのだろう。立場とは、江戸時代に設けられた五街道の宿場を補助するところ。宿場間が遠い所とか、峠などの難所が間にあるところなどに設けられる。一里塚の案内もある。江戸から22里。とはいうものの、一里塚特有の「塚」は既に、ない。

猿渡石畳
道脇に石畳道の案内。街道を脇にそれた崖下に石畳道が続く。旧東海道の石畳道である。石畳道ができたのは、江戸の五街道制度がはじまって、しばらくたった西暦1680年頃。はじめは、ぬかるみ道を整備するため、箱根の特産の「ハコネダケ」の束を敷いた、と言う。
が、タケは毎年敷きなおす必要があり、駆り出されるこの地の農民が根を上げる。ということで、石畳道にした、と言う。とはいうものの、石畳は滑りやすく少々危険。実際、この箱根越えの日は雨模様。何度も滑り、怖い思いをした。苔むした石畳道の、ヌルヌル、ツルツルは誠に、怖い。
石畳の道を下る。石畳を歩くだけで、なんとなく、江戸の時代を歩いている、といった気持ちになる。箱根の旧東海道には9キロ弱の石畳が残されている、と言う。ここがその第一歩。道を下ると沢に。猿沢と言う。その先は上り。石畳を進み、県道に戻る。

観音坂
県道を進む。沢を跨ぐ観音橋を越えると、湯本滝通りから上る道と合流。昔、あたりは宇古堂と呼ばれ、観音堂があったのが、その名前の由来。現在、観音坂の途中に箱根観音(大慈悲山福寿院)があるが、それとは別物の、よう。案内に「海道(東海道)の西片にあり、登り2町ほど(218m)ばかりなり」と。昔は、県道下をこのあたりまで東海道が続いていたのだろう。

葛原坂
勾配が増してきた県道を進む。北の景色が開けてきたのは、県道の標高が上がってきたのだろう。標高は200mから250mの間、といったところ。湯本のあたりは標高100mから150mの間であるので、50mから100m程度上ったことになる。
このあたりは葛原坂と呼ばれる。「クズ」がたくさんとれた、から。クズとは葛餅の「クズ」である。葛原坂を過ぎると、湯本茶屋の集落を離れ、須雲川の集落に進むことになる。

須雲川集落

二の戸沢にかかる二の戸橋を越え、道祖神に迎えられ須雲川の集落に入る。須雲川の向こうの稜線は湯坂山、浅間山、そして鷹巣山へと続く湯坂道。室町期の箱根越えの道である。
建設工事の技術が発達した現在の道は、川沿いがあたりまえではあるが、往時、街道は尾根道を通るのが基本であった。現在の川沿いの道は、岩を穿ち、邪魔な山塊にはトンネルを通し、沢は橋脚でひと跨ぎ、というわけだが、昔は谷間の川沿いの道など、一雨降れば土砂崩れ、といったことで、不安定この上もない。ために比較的安定している尾根道を通った、と言う。江戸時代に開かれたこの旧東海道は須雲川に沿った道。江戸になると、土木工事の技術も発達し、谷間を通せるようになったのだろう。かなた山道、こなた谷道と新旧街道が並走する。

駒形神社
集落に駒形神社。箱根の駒ケ岳山頂にある駒形権現の分社だろう。駒形神社って、往古関東に覇を唱えた毛野氏が、関東や東北にその勢を拡大したとき、地域の秀峰を駒ケ岳とか駒形山と名づけ山頂に駒形大神を祀ったことによる、と。とはいうものの、箱根の駒形権現は、大磯の高麗(こま)山に祀られていた高麗権現を勧請した、という縁起もある。
いつだったか、息子のサッカーの試合の応援で平塚に行った折、高麗山に足を伸ばした。海岸近くにこんもり聳える小山は印象的。はるばる海を越えやってきた帰化人が上陸の目印としたって説も大いに納得したことがある。毛野氏が崇敬した赤城山の赤城神社を「カラ社(コマ社)」とも呼ぶようであるし、駒ケ岳が渡来した高麗人によって開かれたって説は、結構納得感がある。

鎖雲寺
街道脇に水の音。岩を下る、かわいい滝。霊泉の滝と呼ばれる。滝横に鎖雲寺。境内に木食観正の名号碑。木食観正って、江戸期の木食遊行僧。米類を食べず木の実だけで精進する念仏行者。
境内には勝五郎・初花の墓がある、と言う。曽我兄弟と同じく、仇討ち話の主人公。仇を追って箱根に入り、夫婦力を合わせて、また箱根権現のご加護も受け見事 本懐を遂げた、ってお話。初七って、どこかで聞いた覚えがある、と思ったら、須雲川の北面の山腹にある滝の名前。初花の滝、って勝五郎の病気快癒を祈り、毎夜初花が滝行に通ったところ、とか。

須雲川探勝歩道

鎖雲寺を先に進むと、道は須雲川を渡る。現在の橋・須雲橋は川床より結構高いところにかけられているが、江戸のころはずっと下。明治初年の写真を見ると、川面より1mといった程度の小橋である。旧東海道はこの橋を渡り、斜面を直登した、と言う。その坂の名前は「女転ばしの坂」と呼ばれた。急峻な坂道に女性が難儀したことであろう。
須雲川の手前に左に折れる道がある。須雲川探勝歩道との案内。舗装の車道に少々飽きもきたので、探勝歩道に入る。入り口に「女転し坂の碑」。元のところから移されたものだろう。須雲川の南岸を進む。杉林の中をしばし進むと、道は川に下る。岩場に架けられた架設木橋を渡り、坂を上ると舗装道路に。県道から近くにある発電所に続く道だろう。道を進むと再び県道に。

割石坂
県道を少し進むと「割石坂」の案内。曽我兄弟が富士の裾野に仇討ちに向かうとき、刀の切れ味を試さんと路傍の石を切り割った、とか。旧東海道はここで県道と別れ、山に入る。ほどなく石畳の道が始まる。「江戸時代の石畳」といった案内があった。須雲川探勝歩道
の案内を見ながら進むと、再び「江戸時代の石畳」の案内。これだけ案内する以上、江戸期の石畳を保存しているものなのだろう。
畑宿まで0.9キロといった案内、古代から江戸に至るまでの箱根越えルートの変遷の案内などを見ながら先に進む。ほどなく県道に出る。合流点手前に「接待茶屋」の案内。「江戸時代後期、箱根権現の別当如実は箱根を往還する人馬のために、湯茶や飼葉を提供していたが、資金難に。で、江戸の商人の援助で東坂ではこの地、箱根峠から三島に下る西坂には施行平に接待茶屋を設けた」と。

大澤坂

県道を少し進むと道の左に再び古道へのアプローチ。ガードレールの切れ目から谷方向に降りてゆく。下りきったあたりで沢に架かる橋を渡り先に進む。再び石畳の道に。「大澤坂」の案内。別名「座頭転ばし」と呼ばれた、とか。
いつだったか、江戸期の甲州街道を歩いていたとき、談合坂パーキングエリアあたりの古道に「座頭転ばし」と呼ばれる箇所があった。そこは急坂というより、崖上の細路といったところ。国語辞典によれば、座頭転がし、って「かつて座頭が踏みはずして墜落死したという言い伝えのある、山中の険しい坂道」とのこと。石畳の大澤坂を上る。苔むした石畳はいかにも危ない。座頭でなくても結構、転びそう。

畑宿
ほどなくして県道に戻ると、そこは畑宿。畑宿は、「宿」とは言うものの、正式な「宿」ではない。このあたりでの正式な宿場は小田原、箱根、そして三島の宿。とはいうものの、ここは名立たる「天下の嶮」。途中、人馬の継ぎ立てをしなければ難路は乗り切れないということで設けられた「立場」である。「民戸連なり宿駅の如し(新編相模国風土記原稿)」と称されるほどの賑わいであった、とか。
道脇に畑宿茗荷屋本陣跡。名主である茗荷屋の茶店で、大名諸侯も休憩したのであろう。茗荷屋と言えば、この畑宿で有名な箱根細工と大いなる関係がある、とか。
箱根細工、は「挽物」と「指物」に分かれる。挽物は、ろくろを利用してつくられるお盆とかお椀と言ったもの。指物は箱類で、表面を寄木細工とか象嵌細工で装飾される。で、全国的にろくろ師が住む山中の平地を「畑」と呼ぶところが多い、とか。この地も「畑宿」だし、名主・茗荷屋の主人の名前も代々「畑」さん、である。また、ろくろ師のすむ近くには「ミョウガ」が栽培されていたところが多い。「茗荷屋」の屋号にも「歴史」がある(『あるく・見る箱根八里』より)。ちなみに、畑宿には寄木細工をこの地ではじめた、石川仁兵衛のお墓がある。

畑宿一里塚

駒形神社などをおまいりしながら集落を進み、県道が集落の出口で大きくカーブするあたりから古道は県道と分かれ直進する。寄木細工のお店やお蕎麦屋さんの脇をすすむと畑宿一里塚。湯本茶屋の一里塚は碑だけであったが、この地の一里塚は江戸期の姿を残す。道を挟んで一対のこんもりとした塚は結構目立つ。古道はこの一里塚を境に、山道に入り込む。ここからが「天下の嶮」のはじまりである。

西海子(さいかち)坂
石畳の道を進む。途中、箱根新道を跨いだ、よう。橋が石畳仕様で作られているので、知らずに通り過ぎていた。新道を越えて石畳は続く。石畳の構造や排水についての案内を眺めながら進むと(西海子さいかち)坂。結構急な坂。「此の坂山中第一の嶮にして、壁立する如く、岩角をよじて上る。一歩を誤れば千仞の谷底に落つ(新編相模国風土記稿)」と言うほど現在は険しくはないが、それでも相当のものである。坂道を上りきると県道に出る。

七曲りの坂
しばらくは県道脇の歩道を進む。ヘアピンカーブが続く。七曲りの坂とは言われるが、実際は11曲がりあると言う。箱根新道の下をくぐり先に進む。旧東海道、県道、箱根新道と新旧の道筋が重なり合って進む。樫の木坂バス停を越えると道は再び山道へと入る。

樫の木坂
この坂も昔はもっと厳しかったようである。『東海道中膝栗毛』に「樫の木の坂を越えれば苦しくて、どんぐりほどの涙こぼれる、との記述がある(『あるく見る箱根八里』)。とはいうものの、現在は石段となっている。

猿滑り坂
道は再び県道に出る。が、その先には再び石段があり、県道から分かれる。ほどなく石段道が分岐。直進すれば見晴台バス停。元箱根は左に折れる。再び石畳の道。元箱根まで3キロの案内。小さな沢をまたぐ山根橋を渡ると道は少し平坦になる。等高線に沿ってトラバースする、って感じ。甘酒橋という小さな橋を渡り先に進むと県道への合流点手前に猿滑り坂。道脇の案内に「殊に危険 猿、といえども たやすく登りえず。よりて名とす」、と。

笈の平
県道に出る。歩道は道の反対側、山肌を県道より少し高いところを進む。ほどなく道は県道脇に下りる。階段を下りると歩道は県道に沿って続く。山側に「追込坂」の案内。「ふっこみ」坂と呼んだ、とも。その脇に石碑。「親鸞上人と笈の平」の案内。東国教化の旅を終え、箱根を越えて都に戻る親鸞聖人と、東国に残るその弟子が、悲しい別れをしたところ。とか。
笈の平の名前の由来は、親鸞上人が背負っていた笈を下ろしたことから。はいうものの、親鸞の頃は湯坂道しかないはずで、あれあれ、とは思いながらも、伝説はそういったものか、と納得しようとも思うのだけれども、実際、このあたりは「大平」とも呼ばれていたようで、オオダイラ>オイノタイラと変化した、というのが、妥当なところだろう。。

甘酒茶屋
県道の山側に道が続く。ほどなく藁葺き屋根の民家。箱根旧街道資料館。江戸時代、街道を往来した旅人の衣装や道具が残る。
資料館の横に甘酒茶屋。ドライブを楽しむ多くの人が集まる。甘酒茶屋の案内によれば、「赤穂浪士の神崎与五郎の詫び状文の伝説が残る茶屋。畑宿と箱根宿の中間にあり、甘酒を求める旅人で賑わった」と。神崎与五郎の詫び状文って、三島には同じ赤穂浪士の大高源吾の詫び状文の話が残る。いずれも、仇討ち本懐を遂げるまで、無用のトラブルは起こさじ、と、馬喰の無理難題を耐える赤穂浪士。で、見事本懐を遂げ、その噂を耳にした馬喰が己が行為を恥じ、菩提を弔うべく泉岳寺の墓守となる、って話。忠臣蔵の人気のほどが偲ばれる。

於玉坂
旧街道は甘酒茶屋の裏手を進む。道脇に「於玉坂」の石碑。三島の奉公先から逃れ箱根に。通行手形をもたないため関所破りをしたお玉が処刑されたのがこのあたり、とか。少し先の県道脇にある「お玉ケ池」は、その首を洗った池、と言う。元禄15年(1702年)のころ、本当にあった話のようだ(『あるく見る箱根八里』)。道は県道に当たる。県道を渡ると、そこからまた山道に入る。再び石畳の道となる。

白水坂
道に入ると石畳。白水坂と書かれた石碑を眺めながら坂を上る。城不見(しろみず)坂とも。小田原征伐の秀吉の軍勢が二子山に陣を張る北条勢のため先に進めず、小田原の城を見ることなく引き返したのが、その名の由来、とか(『あるく見る箱根八里』)。

天ガ石坂
ほどなく道にせり出した大石。「天ガ石坂」の石碑。天蓋石とも呼ばれるように、坂の上、天を覆う蓋のような大石、ということ、か。で、この坂を上れば、箱根・東坂越えの最高標高地点。805m。箱根湯本が標高100mほどであるので、700ほどの比高差がある。箱根湯本から延々と続いた上りもやっと終わる。

湯坂道との合流点
山側に向かって「箱根の森 展望広場」との案内がある。お玉ヶ池にも通じているよう。石畳の道が続く。と、道脇にベンチや石碑、案内板。八町平と呼ばれる平坦地。箱根権現まで八町(880mほど)と言うこと、だろう。
石碑には「箱根八里は馬でも越すが」といった有名なフレーズが刻まれる。案内板には北にそびえる「二子山」の案内。とはいうものの、木々に囲まれ見通し効かず。ほどなく十字路。右に折ると「芦の湯」方面へのハイキングコース。道脇にあった「旧東海道」の案内によれば、この地は江戸期の東海道と鎌倉期の東海道、つまりは湯坂道が合流したところ。江戸の頃は湯坂道を通ることはあまりなかったようだが、湯坂道・芦の湯方面にある曽我兄弟の墓へと寄り道した旅人も多かった、とか。

権現坂
十字路を越えると後は芦ノ湖に向かっての最後の下り。道脇に「権現坂」。箱根権現への最後のダウンヒル、ということだろう、か。八町坂とも呼ばれる。坂をくだり切ると「史跡 箱根旧街道」の石柱。道の右脇下に県道が見える。
道路を跨ぐ木橋を渡り歩道橋を下りると「ケンペル バーニーの碑」。ケンペルはドイツ人博物学者。鎖国の頃、唯一入国できるオランダ人と偽り入国。長崎のオランダ商館の総領事とともに箱根を越えた。箱根の美しさを描いた『日本誌』で知られる。バーニーはオーストラリア人貿易商。大正の頃、この近くに別荘をもつ親日家、この地の人たちとの友情を記念し、この碑を建てた。

芦ノ湖
興福院脇を下り元箱根の商店街に。元箱根のバス停を少し西に進み、芦ノ湖の湖面をタッチし、なんとなくの達成感を得る。仕上げというわけではないのだが、芦ノ湖に沿って道を東に戻り箱根神社におまいりし、本日の箱根・東坂越えはこれでおしまい。次回は箱根・西坂を下る。    

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