中野区散歩 Ⅰ:沼袋・江古田・荒井地区

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中野散歩をはじめる。どこから歩き始めたらいいものやら、いまひとつポイントが思い浮かばない。で、例によって、あれこれお散歩のフックを得るために中野区の歴史民俗資料館に。場所は新青梅街道沿いの江古田4丁目。電車の駅からは、どこからも微妙に外れている。なんとなく最寄りの駅、ということで西武新宿線・沼袋駅に向かう。



本 日のルート;西武新宿線・沼袋駅>氷川神社>禅定院>実相院>密蔵院>明治寺>貞源寺>正法寺>歴史民俗資料館>お経塚>氷川神社>下徳殿橋>江古田川(開渠)>豊玉中1丁目>豊中通り>北江古田公園>東福寺>江古田層発見の地>新青梅街道・妙正寺川合流>江古田古戦場の碑>北野神社>中野通り>哲学堂>野方配水塔>蓮花寺>光徳院>東光寺>新井薬師前>新井薬師>新井五差路>(中野通り)>早稲田通り・新井>JR中野駅>中野五差路>青梅街道・椙山公園交差点>十貫坂上>中野通りを離れる>杉並能楽堂>和田1丁目>和田2丁目交差点>駒の坂橋・善福寺川弥生町6丁目>方南町


西武新宿線・沼袋駅

西武新宿線、って明治28年開通の川越鉄道(国分寺と川越を結ぶ)、それと昭和2年開通の(旧)西武鉄道(東村山と高田馬場を結ぶ)が後年合わさったもの。当時、それほど乗客も多くないわけで、肥料や野菜を運ぶ「農業鉄道」の色彩が強かった、とか。駅名・沼袋の地名は妙正寺川によってつくられた低湿地・沼沢の地形による。文明9年(1477年)の太田道潅と豊島氏との戦いに「沼袋」の名が登場していると言うから、早くから開けては、いたのであろう。台地上は畑や果樹類栽培、川沿いの湿地は水田開墾地、といったところか。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


氷川神社

駅を降り、線路沿いを少し東に戻り氷川神社に。沼袋の鎮守さま。創建は正平年間(1346-1370年)とも寛正年間(1460-1466年)とも。大田道潅が豊島氏との合戦のとき、戦勝を祈願して杉を植える。いまではその「枯根」が残るのみ。
氷川神社は出雲の簸川、から。往古、武蔵の地に移ってきた出雲族の心のよりどころであったのか。関東ローカルな神様。東京、埼玉だけで290弱を数える。関東ローカル、とはいうものの、昔の荒川の流れである元荒川の東側にはほとんどない。そこにあるのは香取神社。川を境に祭司圏がはっきり分かれている。ちな みに、両祭祀圏の間に、久伊豆神社群。岩槻とか越谷で結構立派な久伊豆神社を見かけたが、いまひとつ、そのはじまりなど、はっきりしない、とか。

禅定院
神社を離れ、台地を下る。少し駅方向に戻り、禅定院に。鎌倉幕府滅亡の際、この地に落ちのびた北条氏家臣・伊藤氏が運慶作の薬師如来をまつり、一族の菩提をとむらうため開いた、とか。「伊藤寺」とも。境内には樹齢600年とも伝えられるイチョウの古木がある。

実相院
お寺から続く道筋を駅に向かう。いかにも昔の参道、といった雰囲気。駅前に戻り、北に上る道に向かう。少し歩くと実相院。開山不詳。伝承によれば、新田一族の矢島氏が足利氏との合戦で破れ、この地に定住しこの寺を開いた、と。ために矢島寺とも呼ばれた。

明治寺
少し北に進み東に折れると明治寺。鉄筋の少々近代的なる建物。通常のお寺の雰囲気とは少々異なる。このお寺、明治天皇の病気快癒を祈念し観音様をまつったこ とにはじまる。開基は榮照法尼(えいしょうほうに)とおっしゃる尼様。観音信仰を支えに修行をおこない出家。篤志家の浄財もあつめ、百体の観音像を奉納。 百観音と呼ばれる。実際は180体、ということだが、境内、というか公園と一体になった敷地に西国三十三観音。関東坂東の三十三観音。そして秩父三十四観音がある。
観音巡礼の由来は、養老二年(718)大和長谷寺の徳道上人が生死の境をさまよい、地獄で苦しむ亡者の姿を見る。閻魔(えんま)大王がその夢の中に現れ、「衆生(しゅじょう)を救うべく、三十三ヶ所の観音札所を開設し、写経を納めて礼拝(らいはい)した人々には信心の証(あかし)として朱印(しゅいん)を授けるように」と告げて、三十三個の宝印を与えた、と。これが西国三十三ヶ所巡礼の始まり。
鎌倉幕府がはじまると、西国、つまりは京の朝廷に負けじ、と関東一円をカバーする坂東三十三所観音巡礼がはじまる。また、遅れて秩父三十三所観音巡礼も。時は戦乱の巷。関東一円を廻るなど、危険きわまりない、ということで秩父に霊場が生まれたとか。
西国・坂東・秩父それぞれ三十三の札所を合わせて九十九観音。それが百観音となったのは、折しも広まってきた百観音信仰。『今昔物語』にも登場するように、百観音は平安期にはじまっていたようだが、その百観音に合わせるべく、どこか融通つけろ、ということに。で、新参者の秩父がその札所を34とすることによって、その要請に応えた、とか。もっとも、秩父での札所割り込み運動が激しく、34カ所となってしまったので、後付けで百観音とした、って説もあり、真偽のほど不明。

寺町
明治寺の前に密蔵院、横に久成寺、少し北に歩いたところに貞源寺、正法寺。台地上には寺町がつくられている。お寺が集中したのは明治時代の「東京市区改正条例」と「関東大震災」で都心部から郊外へ移転させられた、ため。中野区の場合、明治時代からあった24寺に加えて、当時の東京市内から25寺が上高田・沼袋・江古田地区に移転。ちなみに杉並区では、高円寺南・梅里1~2丁目に24寺。世田谷区の北烏山4~5丁目には26寺が移転している。

中野区立歴史民俗資料館
新青梅街道に出る。新青梅街道って、昭和40年頃、交通量の増えた青梅街道のバイパスとして計画された。新宿区を基点に、西多摩郡瑞穂町まで青梅街道の北側を走る。中野区立歴史民俗資料館に。江古田村名主3家のひとつ、喜兵衛組の名主であった山崎家から敷地の寄付を受け開設。
江古田村って、現在の江古田、松ヶ丘、丸山、沼袋の一帯をカバーしていた。代官支配地と48人の同心の領地が入り組み、ややこしいので、江戸の中期には3組に分けられ、組ごとに名主以下の村役人がおかれていた。3つの名主は、庄左衛門組と孫右衛門家と前述の山崎家・喜兵衛組。山崎家は醤油醸造業を営んでいた、とか。

民俗資料館で『常設展示目録』『中野史跡ガイド』なかの史跡マップなどを買い求める。はてさて、どこから、どこへとルートを調べる。民俗資料館の北に、江古田川が大きく迂回している。舌状台地に沿って流れているのだろう。その先、妙正寺川との合流点あたりには、「沼袋古戦場跡」、その先には哲学堂などがある。なんとなく、江古田川から妙正寺川に沿って歩くのが面白そう、ということで、とりあえず、江古田川に向かう。

氷川神社

民俗資料館を離れ江古田2丁目を北に進む。氷川神社。旧江古田村の鎮守。社伝によれば、寛正元年(1460年)創建。当初、牛頭天王(ごずてんのう)と。太田道潅が戦勝を祈願との話も。
牛頭天王といえば、京都祇園の八坂神社。牛頭天王は元、インドの神様。祇園精舎の守り神でもあり、祇園天神とも呼ばれた。ために、祇園さん、と。八坂神社となったのは明治の神仏分離の後の話。
牛頭天王は八坂神社だけでなく、氷川神社と名前を変えた例も多いという。ここもその一例、か。牛頭天王はインドの神様と言ったが、朝鮮半島慶尚道楽浪郡に牛頭山という山がある。そこの神様の名前はスサノオの命。ために、牛頭天王=スサノオ、ということになり、改名のとき、その候補としてスサノオの命を主神とする氷川神社としたのだろう、か。単なる空想。真偽のほど定かならず。
ちなみに、牛頭天王の名前を変えることになったのは、天王=天皇、ということで、不敬にあたると自粛したとか、しない、とか。ついでに、朝鮮半島の牛頭山のスサノオ様。これって、ひょっとして、日本で勝手につくった神話ではないのだろう、か。朝鮮に元からスサノオ神がいたとは思えないにだけど。そのうち調べてみよう。

氷川神社前の道を西に進み江古田合同住宅前を進む。ここは元、国立中野病院があったところ。この高台には昔、「江古寺」と呼ばれる寺があった、と伝えられている。

江古田川

台地を下ると下徳殿橋交差点。江古田川はここから上流は暗渠となっている。源流点は豊玉南3丁目・学田公園にあった池、とか。江古田川は、江戸中期に水が枯れたため千川上水から2箇所の分水も受けていた。開渠となった江古田川を台地下に沿って歩こう、と。が、台地沿って道はなし。結局豊玉中1丁目を成り行きで北に進み豊玉通りに。
豊玉通りを東に進むと川と台地が接近してくる。台地先端部のところで橋を渡り、「江古田の森公園」に。このあたりには縄文時代の低湿地遺跡北江古田遺跡があった。台地下の公園を進む。公園内の運動場は如何にも調整池、といったつくり。妙正寺川との合流点あたりで頻発する洪水対策として、ここに調整池がつくられたようだ。

東福寺

江古田川に沿って台地下の公園の中をぶらぶら進み、江古田川が東に流れを変えるあたりで川筋から離れ、少々南に進むと東福寺。徳川将軍御膳所跡。創建は鎌倉。弘法大師作の不動明王が本尊、とか。もとは江古田川東岸の大橋付近にあった、とのとこだが、元禄のころ、この地にうつる。古文書に「御林跡地 江古田新田東福寺」、と。江戸時代の初頭に、林や茅野を大規模に開墾し、このあたりが開発されていったのだろう。お寺の裏手には歌手・三波春夫さんの邸宅があった、とか。現在はマンションが建っていた。ちなみに東福寺のお隣には、先ほど訪れた氷川神社。台地下を逆回りにぐるっと一周した、というところ。
ところで、江古田。ここにくるまで、練馬区の西武池袋線の江古田しか知らなかった。中野区の歴史民俗館が江古田にある、ということで、思わず西武池袋線の江古田に行こうと、したほど。で、練馬の江古田って新田開発の地であって、本家本元はこの中野の江古田、のようだ。現在は江原町を挟んで中野と練馬に江古田がある。とはいうものの、江原町も元は江古田村と呼ばれていたわけで、このあたり一帯が江古田村であった、ということだろう。本家本元のこの地の江古田は、練馬の江古田を「向こう江古田」と呼んでいた、という。ちなみに、江古田の地名の由来。「えごの木」から、との説などもあるが、結論はその由来は不明。

江古田植物化石層発見の地
東福寺を出て江古田川方向に向かう。東橋に。「江古田植物化石層発見の地」の案内(江古田1-43);江古田川と妙正寺川流域に広がる最終氷河期(今から16000年から11000年前・先土器時代)の日本の気象と環境研究のスタート地点となった。橋の工事の際にみつかり、直良信博士が発見した世界的に有名な土層。カラマツなどの針葉樹が多く含まれることから、現在より10度ほど気温が低かったのでは、と言われている。

「江古田原・沼袋古戦場」跡

少し歩くと新青梅街道にあたる。そこは妙正寺川との合流点。東福寺のところでメモした「大橋」って、このあたりにかかっていたのだろう、と思う。この合流点は「江古田原・沼袋古戦場」跡。文明9年(1477年)、太田道潅と豊島泰経が激戦をおこなった地。
時は室町末期。足利将軍家にすでに力なく、豪族が割拠しはじめた頃。この地一帯を支配していたのは平安末期から続く名家・豊島泰経。本拠地は石神井公園南の台地に築いた石神井城。そのほか、平塚(北区西ヶ原;あの「浅見光彦さま」行きつけの団子屋のある平塚神社)にも城を構える。文明8年(1476年)長尾景春が関東管領上杉氏に反旗を翻す。これが長尾景春の乱。豊島氏も長尾氏に呼応。扇谷上杉の家宰大田道潅がこもる江戸城と扇谷上杉家の居城・川越城の分断を図る。新参者の上杉―道潅ラインが目障りだったのだろうか。
豊島氏の動きに対し道潅は4月13日、豊島泰明のこもる平塚城を攻略。豊島泰経は石神井城・練馬城から援軍派遣。翌14日、江古田原・沼袋原で太田軍と戦闘。泰明は戦死、豊島軍は大敗。これが「江古田原・沼袋合戦」。泰経は石神井城に敗走し立て籠もる。が、道灌の攻撃に耐え切れず泰経は4月18日、石神井城の取り壊しを条件に和議交渉。しかしながら、泰経は開城することなく、逆に石神井 城の守りを固めようとした。ために、4月28日、道灌の力攻めに遭い落城。泰経と残党は平塚城に敗走。その後は横浜方面に逃げたとか、三宝寺池に馬もろとも飛び込んで華麗な最後を遂げたとか、あれこれ。

北野神社
散歩に戻る。妙正寺川を渡り、台地に登る。台地上をブラブラと進み北野神社を目指す。結局、神社は台地下にあった。少々こじんまり、としたお宮さま。片山村の鎮守。もとは天満宮、と。片山村とは、現在の松ヶ丘1丁目を中心と した一帯。上高田村、上沼袋村、新井村にも領地をもつ領主の支配地。東西500、南北400m、16軒の民家があった、とか。後ろが崖で片側だけ傾斜をなす地形であったのだろう。

哲学堂
台地を離れ再び妙正寺川に戻る。中野通りにかかる下田橋に。川の北に哲学堂。哲学館(現東洋大 学)創立者・井上円了が学校移転用地として購入。が、学校の移転中止となり、明治39年から大正8年まで、精神修養公園として整地。公園内には哲学堂77場と称する建物が点在する。
代表的な建物;哲理門(妖怪門とも。入口にある。天狗と妖怪の彫刻。世界は不可思議なものが根底にある、ということ、か)、宇宙館(哲学は宇宙の真理を探究するもの、ということ、か)、時空岡(じくうこう)、四聖堂(釈迦、孔子、カント、ソクラテスの四聖人をまつる)、六賢臺(聖徳太子・菅原道真(日本)・荘子・朱子(中国)・龍樹・迦毘羅仙(印度)の六人を東洋的「六賢」として祀る)、三學亭(平田篤胤(神道)・林羅山(儒道)・釈凝然(仏道)の三者を祀る)、などなど。
ちなみにこのあたり、和田山と呼ばれ、和田義盛の館跡と伝えられる。川に沿った台地上でもあり、立地的に は納得感はあるのだが、中野・杉並にいくつか伝えられる和田義盛にまつわる「伝説」のひとつ、だろう。

野方配水塔
のんびりと公園内を歩き、哲学堂公園北の運動場脇を進む。新青梅街道を北に少し進むと野方配水塔。ここに来るまで、この給水塔が哲学堂と思い込んでいた。
中島鋭治博士の設計。新宿淀橋浄水場の設計を手がけた近代水道の父、とも呼ばれる人物。関東大震災以降、急激に増えたこの地の人口のため従来の井戸水だけではまかなえなくなったため、多摩川の喜多見で分水し、豊多摩・北豊島両郡が組合をつくり、この配水塔をつくった。この配水塔は村山浄水場ができる昭和41年までその役目を果たす。
解体計画もあったが、2000トンを貯水する災害用給水槽として現在も利用されている、と。当初、荒川まで通じる計画であったこの「荒(川)玉(川)水道計画」も、板橋の大谷給水塔で止まっている。また、大谷給水塔も先日訪れたときには、立て替え工事中であった。

蓮華寺

給水塔のすぐ横に蓮華寺。哲学堂をつくった井上円了の墓所がある。「略縁起」によれば、新しいお寺の建設が規制されていたとき、名主深野孫右衛門が寺社奉行であった大岡越前守に、とくに許されて、神奈川の星川村に名前だけ残っていた蓮花寺を継いだ形でこの寺をたてた、と。

東光寺

蓮華寺を離れ再び新青梅街道を渡り哲学堂公園に。台地下を流れる妙正寺川に沿った遊歩道を進む。ここにも川に沿って調整池がある。このあたり、川筋が大きくうねり蛇行しているわけで、ということは、傾斜が穏やかなわけで、つまりは水が溜まりやすい、つまりは洪水になりやすい、ということでの対策なのではあろう。
先に進み四村橋を渡る。川の南の台地にのぼると東光寺。上高田村の菩提寺。北側はかつて、遠藤山と呼ばれていた。



光徳院
横に光徳院。江戸御府内88ケ所巡礼58番。江戸御府内88箇所巡礼、って250年からの歴史がある割には、あまり知られていない。四国88ケ所を廻るのは少々時間に余裕がないが、御府内であれば、いいかも。とはいうものの、江戸のお寺って、あれこれ移転を繰り返しているので、江戸中期に決められた札所の順に御まいりするのは難儀であろう、。
境内に五重塔。御府内でここだけではないか、と。もっとも、少々可愛い五重塔ではあります。ちなみに東京近郊で思いがけず出合った五重塔としては、川崎市麻生区の香林寺が記憶に残る。高田の地名の由来は、高畑が転化した、とか。



新井薬師
お寺の近くに三井文庫。ちょっとおじゃまするが、展示館は開いていなかった。上高田5丁目の町並みの軒先といったところを進み西部新宿線新井薬師前駅に。商店街を南西に下ると新井薬師。
天正年間(1573-1591年)に僧行基によって開山。ということは、このころには村ができていた、ということか。
江戸期のこの村の人口は200名程度。戸数50軒と、どこかに書いていた。本尊は薬師如来。古来より、子育て、眼の治癒にご利益ある、とか。で、この本尊の薬師如来は、もとは新田一族の守り神であった、と。が、新田義貞の子・義興のとき、屋敷の焼失とともに消え去っていたものが、あら不思議、この地で真言の行をおこなっていたお坊さんが梅の根元で光るものあり、と。それが消え去っていた薬師如来であった、とか。先ほどの実相院も新田家と関係ある。 このお寺の縁起にも新田家が登場。
何故この地に新田氏が登場? ということだが、この地域は南北朝時代に南朝側(新田義貞)についた窪寺氏の本拠地があった、から。南朝についた窪寺氏は没落。新井薬師の梅照院は窪寺氏のお墓がある。ちなみに先に訪れた実相院の矢島氏は新田一族であった、かと。

ひょうたん池

新井薬師前の隣に北野神社。天正(1573~1591年)年間には、既に新井の里の鎮守であった、と。新井の由来は、室町幕府六代将軍足利義教の頃、関東管領・足利持氏が幕府軍に敗れる。敗残の士が現在の平和の森公園あたりに横穴を掘って生活、この地を開拓。地名を尋ねられたとき丁度新しく井戸を掘っていたときでもあったので、新井、と。神社の北に「ひょうたん池」。昔は湧水地であった、とか

中野駅

いよいよ日が暮れてきた。中野通りをどんどん進む。早稲田通りを越え中野駅に。ここから電車に乗る予定、ではあったのだが、ここまできたのなら家まで歩こう、と思い直す。ひたすら進むのみ。
中野五差路を進み、青梅街道・椙山公園交差点を越え十貫坂上に。地名の由来は中野長者が十貫文をいれた壷を埋めたとか、銭十貫でこのあたりの土地を買った、とか。中野長者は次回の散歩でメモいたしましょう。

中野通りを離れ、杉並能楽堂前から和田1丁目、和田2丁目交差点を越え、駒の坂橋・善福寺川弥生町6丁目から方南町に到着。商店街で家族の歓心を買うべくサーティワン・アイスクリームをお土産に買い求め、自宅に戻る。

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