千葉 小金の牧散歩 ; 「小金の牧」と「小金城跡」を辿る

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「小金の牧」と「小金城跡」を辿る
いつだったか、週末の午後、1時頃からフリーとなった。はてさて、何処へ。とはいうものの、それほど時間もない。気にはなりながら、行きそびれているところにヒットエンドランで駆け抜けよう、と。
それでは、と思いついたのは「小金の牧」と「小金城跡」。先日、松戸から市川に歩いたときにちょっと気になっていた。 小金の牧は下総台地に広がる野馬の放牧地。小金城は下総屈指の中世城郭跡とか。当時の姿など今に留めるわけなどない、とは思いながらも、なんとなく気になる以上、とっとと行くべし、といった心持ちであった。 

 



本日のルート:常磐線・南柏駅>野馬除土手>常磐線・北小金駅>根木内歴史公園>富士川の氾濫原>本土寺>大谷口歴史公園・小金城址

常磐線・南柏駅
常磐線・南柏で下車。水戸街道を越えたあたりに「野馬土手」がある。「小金の牧」を歩こう、とはいうものの、柏や松戸といった都市に放牧場が残っているわけでもないだろう。牧の名残としては実際のところ、なにがあるのだろう、と思っていた。偶然のことながら、先回散歩のとき、松戸の駅で手に入れた観光パンフレットに、南柏の「野馬土手」が案内されていた。野馬土手は野馬除土手とも呼ばれる。野馬が牧の外に出て、人家や田畠を荒らさないようにと、つくられたもの。牧の名残りの一端でも感じることができれば、と南柏にやって来た。
「小金の牧」のことを知ったのは件(くだんの)の書・『江戸近郊ウォーク』。「小金の牧道くさ 下総国分寺」散歩随想の箇所があった。大江戸の散歩の達人・村尾嘉陵が、わざわざ訪ねきた「小金の牧」ってどんなところなのか気になっていた。文化14年(1817)の早朝に屋敷を出て小金牧を訪ねた、とある。 「松戸渡し、向ひにわたれば松戸宿、人家四五百戸...」 と、江戸川の松戸の渡しより松戸宿へ。さらに、馬橋村(まばしむら・松戸市)などを経て向小金村(むこうこがねむら・流山市)の小金牧に歩いてきたわけだ。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

 『江戸近郊ウォーク』より小金牧の箇所をちょっとまとめる;「牧が7つある。水戸街道の北を上の牧。ヘイビ(蛇?)沢原、高田台(柏市高田辺り)、大田原。水戸街道の南を下の牧。日ぐらし山(松戸市日暮:白子についで多く馬100頭ほど)、五助原(船橋の台地)、平塚(印旛郡白井町)、白子(松戸の宿の東にあたり;500頭ぐらいの馬がいる)。西は船橋、中山、国府台、松戸、馬橋辺りの山を境にする。東南は下総佐倉の手前辺りを境として馬を放しているのだろう。上の牧は下の牧に比べてやや小さいと思われるが、確かなことはわからない。(中略)野馬は宵から暁にかけては、街道近くまで来て、人に馴れているような仕種を見せるが、昼間は人の近くには来ない。下の牧の中には、東北の果てに木立の茂っている山が見えるが、昼はその山に集まっている。この辺りには狼もいないので、馬が食われる心配はない。下の牧には追い込みの枡が3箇所。毎年11月15日過ぎに、江戸から吉川摂津守が来て、馬狩りをおこなう。牧師は全員ここに滞在し、毎日牧を見廻って損馬を改め、頭数を調べて台帳に記す。上・下合わせて1500、1600頭程度馬がいる。牧の入口に木戸がある。土居を築いて土に竹を植えて、里の牧との境としている。木戸に入ると小金の牧。」、と。南柏のこの野馬土手って柏市豊四季。千葉県流山市松ヶ丘との境界でもあるので、だいたいこのあたりを訪ねてきたのではなかろう、か。

野馬除土手

駅から北西に向かって進む。水戸街道の北に緑地が見える。そこが豊四季緑地。駅から500m程度だろう、か。なんとなくそのあたりだろう、と成行きで進む。緑地公園といった雰囲気。緑地の北端に掘・土塁といった「構え」が北に向かって続いている。何処にも案内板もなく、これが野馬土手だろうか、と思い悩みながらも土塁に沿って歩いていく。
土塁の北には住宅街が続いている。比高二重土塁。牧側が小土手、外側が大土手。堀底からの比高は大土手で3m、小土手で2m程度。小土手は馬の脚を痛めないようにと、少々なだらかにつくられている。こういった土手は柏市内に10箇所程度残っている、とか。
北にしばらく進むと土塁が終わる。その先にも小川に沿って土塁のような土手が続くのだが、野馬土手かどうかよくわからない。一応、野馬土手の雰囲気を感じることができたので、気持ち豊かに駅に戻る。ともあれ、豊四季緑地に残るこの野馬土手は規模・保存状態でもっともいい状態のものである、という。

野田市立図書館・電子資料室のHPなどを参考に小金牧についてのまとめておく;小金牧とは下総台地上、現在の野田市から千葉市にかけて点在していた放牧場の総称。もともとは、周辺の村から逃亡した馬などが原野で育ち、自然発生的につくられた牧場といったもの。平安時代にはすでに5つほど牧があった、とか。 徳川幕府は、馬牧の経営や馬の育成に力を入れ2つの牧をつくった。「佐倉牧」とそしてこの「小金牧」。江戸初期、小金牧には7牧あった。庄内牧(野田市。新田開発のため消滅)、高田台牧(柏市)、上野牧(柏市)、中野牧(松戸市・鎌ヶ谷市)、一本椚牧(享保8年に中野牧に吸収)、下野牧(船橋市)、印西牧(白井市)。今日歩いた牧は、上野牧だろう。柏にはそのほか十余二に高田台牧があった。市の5分の1は小金牧であった、とも言われる。

牧では、幕府の役人・牧士(もくし)が管理し、時期がくれば捕込(とっこみ)に野馬を追い込んで捕らえ、良馬は軍馬に、それほどでもない馬は近郊農民達にも売り払ったりしていた、と。とはいうものの、馬は野で育てて、野で捕まえる、といったもので、計画的に馬の飼育が行われていたわけでなかったようだ。 牧の中には村が点在。そのため、野馬は村や畑に侵入して耕作物などを荒らした。 各村々は、村境に野馬除土手をつくり被害を防ごうとしたわけだが、完全に防ぎきれず被害に大変苦しんだ、という。野田市中里の愛宕神社には「野馬除感恩塔」があるという。それは、農民に被害を与えていた野馬の里入防止に尽力した岩本石見守に感謝した村人が、その善政をたたえ記念碑をつくったほど、わけである。 村々の被害は馬だけではなかったようだ。野に繁殖する鹿や鳥獣による被害も多大なものとなった。ために年貢が減るといった状況にもなり、その対策として鷹狩が行われている。八代将軍吉宗を始めとして、3人の将軍が4回にわたって鹿狩りをおこなっている。

牧は徳川幕府の終結と共に廃止される。その後、新田開発を目的として、牧野が開拓されることになる。これは、新政府の最初の事業とも言われる。江戸というか東京に集まった旧武士8000人をこの地に移し、入植・開墾に従事させることにする。社会不安の根を摘む施策でもあった、よう、である。明治2年のこと。結局この事業は失敗に終わったようだが、そのときできた13の開墾集落の名前は今に残っている。今回歩いた豊四季もそのひとつ、である。
13の開拓地区名;1番目 初富(はつとみ)(鎌ヶ谷市)-小金牧内・中野牧>2番目 二(ふた)和(わ)(船橋市)-小金牧内・下野牧>3番目 三咲(みさき)(船橋市)-小金牧内・下野牧>4番目 豊(とよ)四季(しき)(柏市)-小金牧内・上野牧>5番目 五(ご)香(こう)(松戸市)-小金牧内・中野牧>6番目 六(むつ)実(み)(松戸市)-小金牧内・中野牧>7番目 七(なな)栄(え)(富里市)-佐倉牧内・内野牧>8番目 八街(やちまた)(八街市)-佐倉牧内・柳沢牧>9番目 九(く)美上(みあげ)(佐原市)-佐倉牧内・油田牧>10番目 十倉(とくら)(富里市)-佐倉牧内・高野牧>11番目 十余一(とよいち)(白井市)-小金牧内・印西牧>12番目 十余二(とよふた)(柏市)-小金牧内・高田台牧>13番目 十余三(とよみ)(成田市)-佐倉牧内・矢作牧(野田市市立図書館の資料より)

牧といえば、先日会社の同僚と平将門の営所のあった、石井に出かけた。現在の坂東市である。で、この際と、将門の資料をいくつか読んだのだけど、その中に、牧の話がしばしば登場した。相馬御厨だったか、どこかの御厨で馬、それも半島渡来の馬を飼育し、実績を上げていた、とか。実績の話はともかく、その資料の中で、馬の放牧の話があった。はっきりとは覚えていないが、馬は自由に放っていた。それは、沼地や台地で遮られ、馬が逃げることができなかった、と。現在の開発された下総台地からは、いかにしても想像するのは難しい。そのうちに、昔の姿を想像しながら下総の台地を巡ってみよう、と思う。

常磐線・北小金駅
野馬土手より南柏駅に戻り常磐線・北小金駅に戻る。郊外の小さな駅舎といった風情を創造していた。が、予想とは大きく異なり、駅前には大きなショッピングセンターが建てられている。 東漸寺 駅を南に下る。しばらく進むと東漸寺。江戸初期には広大な境内・多くの堂宇を抱える大寺院。末寺35を数えたとか。関東18壇林のひとつ、壇林とは僧侶の学校のこと、である。
このあたりは昔の小金の宿。江戸時代、江戸と水戸を結ぶ重要な街道が水戸道中として整備された。小金は松戸~我孫子間の宿場町として繁栄。東漸寺を中心に、上宿、中宿、下宿、横宿がつくられ、本陣・脇本陣・問屋場 をはじめ、旅籠(はたご)が設けられていた。

『江戸近郊ウォーク』にも、このあたり・お寺さんのことが描かれている。「曲がりくねった道を行くと、小金の宿(水戸街道の宿、松戸市小金)である。人家300戸ほどの宿で、松戸に比べると家のたたずまいからしてやや貧しそうに思える。宿の入口が二ツ木村(松戸市)で、その先が上総内村(松戸市小金清志町辺り)である。西側に黒観音福昌寺道があり、宿の中ほど西側に仙法山一乗院(東漸寺)という寺がある。関東18壇林のひとつである。寺中にみるべきほどのものはない」、と。みるべきほどのものはない、とはいうものの、現在でも結構長い参道がつづく、堂々とした構えのお寺さんである。

根木内歴史公園
東漸寺を離れ、根木内歴史公園に進む。お寺から東に進み水戸街道にあたる。公園は水戸街道に沿った台地にある。この公園は中世の城郭跡。寛正3年(1462年)、高城胤吉の築城と言われる。天文6年(1537年)に大谷口城(小金城)に移るまでこの城を居城とした。空掘、土塁、土橋が残る。
高城氏は千葉氏の重臣・原氏の寄騎として軍事力を誇っていた。その所領は流山から船橋に至る広大なもの。太日川、船橋そして市川真間といった舟運の要衝を押さえていた。また、中山法華寺、真間弘法寺、平賀本土寺といった大寺をその支配下におき、その覇をとなえた、と。千葉宗家にとっても高城氏は重要な存在であり、千葉介昌胤は妹を高城胤吉の妻としている。
小田原北条氏の下総攻略時には、原氏とともに北条氏の他国衆(直接支配)として活躍。国府台合戦のときは、北条方として戦っている。天正18年(1590年)の秀吉による小田原征伐に際しては小田原城に入城し秀吉と戦う。小田原開城とともに、居城・大谷口の小金城を開城し下野。江戸時代は700石の旗本、御書院番士そして小普請として続くことになる、と。
高城胤吉は千葉宗家・千葉介昌胤の妹を妻とした、とメモした。あれ?高城胤吉は16世紀前半期の人物??どういうこと?千葉宗家は康正元(1455)年、というから15世紀の中頃には、小弓城主・原胤房や馬加城主・馬加康胤の攻撃により既に滅んでいる。で、その後、馬加康胤が千葉宗家を継いだ、というか、詐称(?)したわけである。ということは、高城胤吉の妻の実家・千葉宗家って、「本家」滅亡後のいわゆる後期千葉氏であろう。

あとひとつ?が。国府台合戦では小弓公方足利義明・上総武田氏・里見氏と、古河公方・北条氏・千葉氏・原氏らの勢力が戦った、とメモした。小弓公方って、小弓城を居城としたから、そう呼ばれるのだが、小弓城って原氏の居城では?また、千葉氏って原氏に滅ぼされたのでは?調べてみた。
永正十四(1517)年、真里谷城主武田信保は古河公方に対抗するため、足利義明を擁立し原氏の居城・小弓城を攻撃・奪取。足利義明は翌年に小弓城に移り、「小弓公方」と呼ばれることになる、と。つまりは、原氏はこの時期に小弓城を追い出されたわけだ。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

国府台合戦でどうして千葉氏・原氏といった「千葉県勢」が小弓公方とか里見勢といった「千葉勢」に寄騎しないで、小田原・北条勢に加勢したか、これで納得。 城を追われた原氏と、千葉宗家とはいうものの、原氏に滅ぼされた本家・千葉氏ではなく、本家・千葉氏を滅ぼした馬加氏が「継いだ」(後期)千葉氏ということ、か。納得。ちなみに、ここに古河公方が登場しているのは、長尾景信によって古河城が陥落し、古河公方・足利成氏は(後期)千葉氏を頼んでこの地に逃れてきた、から。
なお、都内で幾度か出会った武蔵千葉氏、千葉実胤・自胤は、原氏らにより滅ぼされた千葉宗家の遺児。武蔵に逃れていたため、武蔵千葉氏と呼ばれることになった。経緯から見れば、本家筋といえるだろう。

富士川の氾濫原
台地の裾を歩く。東には湿地が公園として保存されている。昔の富士川の氾濫原であったところだろう。木でつくられた通路を歩き、富士川脇に。川に沿って進むと水戸街道と交差。道路下をくぐる通路があり、先に進む。川の西の方角には台地が見える。平賀地区を成行きで進む。北西に走る如何にも参道といった風情の道に。先に進むと本土寺が見える

本土寺
正式には長谷山本土寺。池上長栄山本門寺,鎌倉長興山妙本寺と並ぶ日蓮宗「朗門の三長三本」のひとつ。開創は,鎌倉時代の建治3年(1277),領主曽谷教信が,源氏の名門・平賀左近将監忠晴の屋敷跡に地蔵堂を移して法華堂としたのが始まりと伝えられる。 
中世,この地を支配した千葉氏の信仰を得て大いに栄えた。水戸光圀公が寄進したと伝わる古い杉並木の参道や,朱塗りの仁王門,回廊,五重の塔がある。「あじさい寺」として知られるが、それだけでなく四季折々の花が有名とか。拝観料500円、ってなんだかなあ、と思ってはいたのだが、境内を歩き、花々の手入れを見るにつけ、維持費としても結構なお金がかかりそうである。拝観料も納得。
平賀氏って、源平争乱期、源義家の孫が信濃国佐久平・平賀郷を拠点とし、平賀氏を名乗る。鎌倉初期、平賀義信、源頼朝に従い活躍、鎌倉幕府の重鎮となる。平賀朝雅など、北条時政に推され将軍職をねらったりもする。あと延々と続くが、このくらいにしておく。ともあれ、源氏の流れをくむ一族。讃岐の出身・平賀源内もその流れ、とか。

大谷口歴史公園・小金城址
台地を下り、ちょっと大きな通り・まてばしい通りに。通りの南に緑豊かな台地が迫る。大谷口歴史公園。ここに戦国の時代、下総西部を領有した高城氏の居城があった。南北600m、東西800mという大きな構えをもつ城。下総屈指の城郭であった、と。現在は外曲輪の虎口であった達磨口と金杉口が残るだけ。あとはすべて宅地なっている。台地東端の達磨口から入る。すぐに行き止まりとなる。おおきな土塁が残っている。引き返し、公園入口を探す。台地上にあるお寺の西に公園入口。金杉口の虎口。障子掘や畝掘が。畝掘など、いかにも畠の畝って感じ。粘土質の地ならではのつくり。武者も脚をとられたことであろう。
既にメモした経緯をへて、高城氏が築いた小金城は北条方の西下総の拠点であった。永禄3年(1560年)、長尾景虎こと上杉謙信が関東攻略のため、古河城に進出。ために古河公方の足利義氏はこの小金城に逃れ来る。高城氏は謙信の関東侵攻時は、一時謙信に属したとか、いや、謙信の攻城を篭城戦で乗り切ったとか、ともあれ、謙信が越後に戻ると再び北条氏に属する。永禄7年(1564年)の第二次国府台合戦では、市河付近で兵糧調達を試みた里見義弘、大田資正を妨害するなど、北条軍の勝利に貢献。その後の経緯は上でメモしたとおり。城跡を離れ、北小金駅に戻り、一路家路を急ぐ。

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