今回は金剛福寺を打ち、土佐最後の札所、宿毛の第三十番延光寺を目指す。金剛福寺から延光寺への遍路道は大きく分けて2つある。ひとつは既述の市野瀬の真念庵近くの金剛福寺・延光寺遍路道分岐点まで打ち戻り、幡多郡三原村を経由して宿毛市の延光寺に進むもの。真念はこのルートを歩いている。
もうひとつは足摺岬より西岸の道を進み、幡多郡大月町に建つ番外霊場として知られる月山神社を経て延光寺を目指すもの。月山神社は元は月山霊場・守月山月光院南照院と称せられた神仏混淆の霊場であったが、明治の神仏分離令で月山神社となった。澄禅はこのルートを辿っている。
今回は真念庵まで打ち戻り、幡多郡三原村を経て延光寺を目指す。大雑把なルートは真念庵 近くの金剛福寺・延光寺遍路道分岐点まで打ち戻り、そこから県道346号を辿り土佐清水市から 幡多郡三原村に入り、途中山越えの道となる県道346号より道なりに繋がる県道46号に乗り換え、 三原村の上長谷(ながたに)で県道を離れ山越えの道を上り地蔵峠に。そこから四万十市の江ノ村に下り、西行し宿毛市の延光寺に至るものである。

延光寺を打ち終えれば長かった四国遍路歩きも一巡したことになる。遍路歩きのきっかけは、田舎の愛媛に帰省の折時間を見付けて伊予の遍路道にある峠越え。いくつかの峠越えを楽しんだ後、どうせのことなら峠と峠の間の遍路道を繋いでみようか、で、ついでのことなら伊予の遍路道を繋いでしまおうと想い、予土国境の延光寺からはじめ四国中央市の第陸十五番札所三角寺まで辿り終えた。
これで大団円と思っていたのだが、どうせのことなら讃岐もカバーしよう、讃岐まで来なら阿波も、 せkっかく阿波を打ち終えたのであれば土佐もカバーしようということになり、結果的に四国八十八箇所霊場を一巡することになったわけである。
もとより深き信仰心があるとは言い難く、好きな峠越えからはじまった四国遍路歩きではあったのだが、四国遍路のあれこれ、また四国各地のあれこれをちょっとだけ「深く」知ることができた。また、道標、標石を目安に旧遍路道の道筋のトレースは結構し得たと思う。路傍に佇む古き道標、標石、丁石を探すのはなかなか大変ではあったが、「宝探し」ゲームのようでもあり楽しいものでもあった。
一巡し終え、事前準備は最小限、出たとこ勝負、少々格好良くいえば、セレンディユピティ(serendipity)、素敵な偶然に出合ったり、予想外のものを発見する喜びを基本とする散歩ではあったが、それはそれなりに得るものの多かったのだが、事前準備不測故の「後の祭り」も多かった。
時間をみつけ、見落としたところを再び訪れる楽しみを残し、とりあえず四国遍路歩きのメモは一応お終いとする。



本日のルート;
第三十八番札所金剛福寺 
■市野瀬の遍路道分岐点まで打ち戻り三原村の地蔵峠を越えて延光寺へ 第三十八番札所金剛福寺>(市野瀬の遍路道分岐点まで打ち戻り)>金剛福寺と延光寺への遍路道分岐点>下ノ加江の標石>( 成山峠越えの遍路道・成山峠) >狼内の「狼内城跡」の案内>真念道標>地蔵峠>江ノ村大師堂>西ノ谷集落>上土居川橋>中筋川を渡り国道56号に戻る>住吉神社手前四つ辻の自然石標石>39番札所延光寺参道口に標石2基>9番札所延光寺 
■月山神社経由の遍路道 第三十八番札所金剛福寺>松尾>中浜>清水(志水)>三原への分岐点>三崎>川口>具ノ川(具ノ河)>大津(粟津)>才角(サイツ野)> 月山神社 >西泊(西伯)>小筑紫(コヅク)>七日島>伊与野(イヨ野)滝厳寺>三倉坂または御鞍坂(ミクレ坂)>宿毛>9番札所延光寺 



 第三十八番札所金剛福寺

山門前の標石
三門前左側、大きな石灯籠傍に3基の標石。1基は最近のもの。金剛福寺本堂、岩本寺、延光寺などへの距離が刻まれる。延光寺へは真念庵まで打ち戻り三原経由では五五、一粁、海岸廻りの月山経由は七五、二粁、とある。
その前に立つ標石は風化は激しいが「従是寺山江打抜十三里 月山へ九り」と刻まれる。その左の標石は徳衛門道標。「是より寺山迄十二里」と刻まれる。
寺山は延光寺のこと。月山は元は月山霊場・守月山月光院南照院と称せられた神仏混淆の霊場であったが、明治の神仏分離令で月山神社となった。西海岸廻りの高知県幡多郡大月町に建つ。
山門
山門は仁王像が並ぶ。寛永十年(1633)の作。扁額「補陀落東門」は元は嵯峨天皇の揮毫。現在のものは江戸初期に模写された、と。
奇岩を配した庭園風境内
山門を潜ると池、そして奇岩を配した庭園風境内となる。造作はそれほど古くない。平成26年(2014)が弘法大師四国霊場開場1200年記念の年であり、それを踏まえての平成の大修理によるのではないだろうか。
石灯籠
当日は見落としたのだが、山門を潜ると左手に元和の石灯籠と称される古い灯籠があるとのこと。元和4年(1618)松平土佐守(2代藩主山内忠義)の奉納したもので、「元和四戌午四月十七日」と刻まれている。元和2年(1616)東照大権現(徳川家康)菩提のために奉納したもの。伊豆半島の輝石安山岩で造られ、船でこの地まで運ばれたと言う。




奇岩に囲まれた手水場の左手、池の向こうに鐘楼堂と朱色の六角堂。正面に本堂、右手に護摩堂と多宝堂、その先に和泉式部の逆修塔。左手に愛染堂、十三重石塔、行者堂、権現堂、文殊堂、大師堂と並ぶ。 Wikipediaには「金剛福寺(こんごうふくじ)は、高知県土佐清水市にある真言宗豊山派の寺院。蹉?山(さだざん)、補陀洛院(ふだらくいん)と号す。本尊は千手観世音菩薩。
寺伝によれば、弘仁13年(822年)に、嵯峨天皇から「補陀洛東門(ふだらくとうもん)」の勅額を受けた空海(弘法大師)が、三面千手観世音菩薩を刻んで堂宇を建てて安置し開創したという。空海が唐から帰国の前に有縁の地を求めて東に向かって投げたといわれる五鈷杵は足摺岬に飛来したといわれている。寺名は、五鈷杵は金剛杵ともいわれそれから金剛を、観音経の「福聚海無量」から福を由来したとされている。
六角堂と鐘楼堂
本堂前庭園と愛染堂

金峰(きんぽう)上人が住持の時、修行を邪魔する魔界のもの達を呪伏すると、そのもの達が蹉?(私注;サダ)した(地団太を踏んだ)ことから、山号を月輪山から蹉蹉?山に改めたといわれる。 歴代天皇の祈願所とされたほか、源氏の信仰が篤く、源満仲は多宝塔を寄進、その子頼光は諸堂を整備した。平安時代後期には観音霊場として信仰され、後深草天皇の女御の使者や和泉式部なども参詣している。
鎌倉時代後期(建長から弘安期)には南仏上人が院主となって再興したと伝えられ、また阿闍梨慶全が勧進を行ったとも伝えられている。南仏を「南仏房」と記す史料もあり、南仏(房)は慶全の別名であったとみられる。

権現堂
室町時代には尊海法親王が住職を勤め、幡多荘を支配していた一条家の庇護を受けた。戦国期に一時荒廃したが江戸時代に入っても土佐藩2代藩主山内忠義が再興した。
境内には亜熱帯植物が繁っている。足摺岬の遊歩道付近には、ゆるぎ石、亀石、大師一夜建立ならずの華表、亀呼場、大師の爪書き石の「弘法大師の七不思議」[1]の伝説が残されている。山号の文字「蹉」も「?」もともに「つまづく」の意味で、この地が難所であったことを示していて、当寺は俗に足摺山という。また、大師御遺告の25条の第1条の中に「名山絶嶮の処、嵯峨孤岸の原、遠然(えんねん)として独り向ひ、掩留(おんる)して苦行す」とあるのは当地であるといわれる」とある。
弘法大師は寺建立に際し、「この地たるや、四国の南極に位し、うしろに大悲の山そびえ、前に弘誓の海漫々として観音菩薩の生の霊地たり」と述べたと言う。四国の南極と称される如く土佐の辺地にありながら、嵯峨帝ののちも代々天皇家の勅願所として、又、藤原氏や源氏一門はおろか、徳川時代には諸大名から帰依者も多くあったとのことであり、この岬一帯には、堂塔十六、二十二社が建ち並び、末寺十堂社二十七を支配するほどの大寺であった、と。
明治初年の排仏毀釈には一時衰えるも後に復興し、現在に至っている。
補陀落渡海信仰
那智参詣曼荼羅図全景(正覚寺本)
扁額に「補陀落東門」とあるように、また、弘法大師が「観音信仰の霊地」と讃えた如く、この寺は観音菩薩の補陀落浄土をめざして大海に漕ぎいだした紀州熊野と同じく、補陀落渡海信仰の地として知られる。此の金剛福寺のある足摺岬もまた補陀落渡海の行場であった。金剛福寺の本尊千手千眼観音菩薩が、熊野補陀落山寺の本尊と同じ三面形式であることは、熊野との強い結びつきを示しているといえる。
補陀落渡海の様子は、後深草天皇の中宮であった二条(藤原公子)の『とはずがたり』という日記文の一節に「土佐の足摺の岬と申す所がゆかしくて侍るときに、それへ参るなり。かの岬には、堂一つあり。本尊は、観音におはします。隔てもなく、また坊主もなし。ただ、修行者、行きかかる人のみ集まりて、上もなく、下もなし。・・・・一葉の舟に棹さして、南を指して行く。坊主泣く泣く『われを捨てていずくへ行くぞ』と言ふ。小法師、『補陀洛世界へまかりぬ』と答ふ。見れば、二人の菩薩になりて、舟の艫瓶に立ちたり。心愛く悲しくて、泣く泣く足摺をしたりけるより、足摺の岬といふなり。・・・・・」とある。
また熊野より木の葉のような小舟に身を託した補陀落渡海について『吾妻鏡』は、に「彼は船に乗り家形に入って後、外より釘をもって皆打付、一扉も無し、日月光をみることあたはず、ただ燈びによるべし。三十余日のほどの食物ならびに油等をわずかに用意す」と記される。



足摺由来の変化
承応二年(1653)に書かれた澄神の『四国遍路日記』には、「足摺山当寺ハ大師ノ開基、嵯峨天皇ノ御願也。往古ハ此山魔所ニテ人跡絶タリ、然ヲ大師分入玉イ悪魔ヲ降伏シ玉フニ、咒力ニヲソレテ手スリ足スリシテニゲ去リケル間、元ト月輪山ト云シヲ改テ蹉?山ト号シ玉フ。二字ヲ足スリフミニジルト訓ズル故也。其訓ヲ其儘用ヒテ足摺山ト云也」とある。
女西行とも云われた上述後深草院二条の『とはずがたり』が書かれたのは嘉元四年(1306)のこと。このときは補陀落渡海の様より「心愛く悲しくて、泣く泣く足摺」とその由来を記すが、それから350年ほど後には、弘法大師が 修行を邪魔する魔界のもの達を呪伏し蹉?せしめたとする

Wikipediaには修行を邪魔する魔界のもの達を呪伏し蹉?せしめたの金剛福寺の上人とあったが、それが空海に置き換わっている。四国遍路における弘法大師一元化の一端が垣間見れて面白い。
多宝塔
金剛福寺多宝塔は、伝承(蹉?山縁起)では清和天皇の菩提のため源朝臣多田満仲が建立したとされる。
創建時の九輪の露盤銘文によると、南北朝時代の応安8年(1375)、九輪は摂州堺の鋳物師山川助頼が鋳造し、院主・南慶の歓進により建立されたと記される。その後、江戸時代の貞享3年(1686)には4代土佐藩主山内豊昌が本堂とともに多宝塔を修造される。
現在の多宝塔は、明治13年(1873)に地域の人々の寄進で建て替えられ、清松村大浜の大工棟梁市川安太郎の建築。九輪頂上の宝形中には水晶の五輪塔1基が納められ、その中には5粒の仏舎利が入ってい。近年、破損により取替えられた創建当初の九輪は、現在、多宝塔前に建てられている(土佐清水市HPより)。
天灯竜灯の松
室町時代専海法親王の磋?山縁起の中に「天灯松樹に輝き竜灯備前を照す云々」とあり、本堂前に松の大木があったが現在はそのあとをとどめるのである(土佐清水市HPより)
逆襲の塔
金剛福寺多宝塔前の宝篋印塔は、砂岩で作られたもので、室町時代前期の作と言われる。 上部の相輪が3つに割れ、笠の部分の四隅につけられた「方立」は1つが破損してが、他は完全に保存されている。また、和泉式部の黒髪をうめた逆修の塔とも言い伝わる。
宝篋印塔(ほうきょういんとう)とは、宝篋印阿羅尼経(ほうきょういんだらにきょう)を納める塔を摸して造られた塔のことで、墓標や供養のために建てられる塔。形は下部に方形の石を置き、下から種々の形に積み上げ最上部に棒状の相輪をおく。
笠は上下に幾段にも積み重ねられ、最も広い部分の四隅に「方立(ほうだて)」という三角形の飾をつけている。
逆修
「コトバンク」には
1 煩悩に身を任せ、真理から遠ざかること。⇔順修。
2 生前に、自分の死後の冥福(めいふく)のために仏事をすること。予修(よしゅ)。逆善。逆修善。
3 年老いた者が、年若くして死んだ者の冥福を祈ること。
4 生前に、墓石に戒名を刻むこと。朱書きとする。また、その戒名。逆修の朱。
とある。和泉式部の黒髪をうめた逆修の塔の「逆修」は、はるばるこの地を訪れ死後の冥福を祈り建立した、との記事があるので、2の意味であろう。
五鈷杵
弘法大師留学先の唐より帰国の際、三種の鈷杵を投げ「密教の栄えるところに鈷杵とどまる」と諭された。五鈷杵はこの金剛福寺の松にとどまった、とも伝わるが、その他のふたつ、三鈷杵は高野山に、独鈷は三十六番青龍寺にとどまったとされる。

足摺の七不思議
時間に余裕がなく、また愛媛が田舎でもあるため足摺岬には時に応じて訪れており、足摺岬などや周辺の見どころは今回パスした。メモの段階で土佐清水市のHPに、「弘法大師が建立した四国八十八ヶ所第三十八番札所「金剛福寺」があり、それにまつわる数々の「不思議」が遊歩道沿いに点在しています。それを総じて「足摺七不思議」と呼んでいます。足摺岬灯台や椿のトンネルを通る遊歩道沿いにありますのでぜひ見つけて下さい。
※七不思議とは、不思議が七つあるという意味ではなく、多くの不思議があるという意味です」とあった。弘法大師とゆかりのある話でもあり、写真と共に説明文も掲載されて頂く。
ゆるぎ石
弘法大師が金剛福寺を建立した時発見した石。乗り揺るがすと、その動揺の程度によって孝心をためすといわれています。
不増不滅の手水鉢
賀登上人と弟子日円上人が補陀落に渡海せんとしたとき、日円上人が先に渡海していったので非常に悲しみ、落ちる涙が不増不滅の水になったといわれています。
追記;『蹉?山縁起』には、「長保頃にや賀登上人補陀落渡海のために難行苦行積功累徳し侍りしに、弟子日円坊奇瑞によりて先に渡海ありしに、上人嗟嘆のあまり五体投地し、発露涕泣し給ひし、其涙不増不減水となれりといへり。此外秘所秘窟久住老僧面受口伝せしむと云々」と記されている。
亀石
この亀石は自然石で、弘法大師が亀の背中に乗って燈台の前の海中にある不動岩に渡った亀呼場の方向に向かっています。
汐の満干手水鉢
岩の上に小さなくぼみがあり、汐が満ちているときは水がたまり、引いているときは水がなくなるといわれ、非常に不思議とされています。
根笹
この地に生えている笹はこれ以上大きくならない笹だといわれています。
大師一夜建立ならずの華表
大師が一夜で華表(とりい)を造らせようとしたが、夜明け前にあまのじゃくが鳥の鳴真似をしたため、夜が明けたと勘違いし、やめたといわれています。
亀呼場
大師がここから亀を呼び、亀の背中に乗って前の不動岩に渡り、祈祷をされたといわれています。
大師の爪書き石
これは弘法大師の爪彫りといって、「南無阿弥陀仏」と六字の妙号が彫られています。
地獄の穴
今は埋まっていますが、この穴に銭を落とすと、チリンチリンと音がして落ちて行き、その穴は金剛福寺付近まで通じるといわれています。






市野瀬の遍路道分岐点まで打ち戻り
幡多郡三原村経由で地蔵峠を越え宿毛市の延光寺に至るへの遍路道

今回は真念庵まで打ち戻り、幡多郡三原村を経て延光寺を目指す。大雑把なルートは真念庵 近くの金剛福寺・延光寺遍路道分岐点まで打ち戻り、そこから県道346号を辿り土佐清水市から 幡多郡三原村に入り、途中山越えの道となる県道346号より道なりに繋がる県道46号に乗り換え、 三原村の上長谷(ながたに)で県道を離れ山越えの道を上り地蔵峠に。そこから四万十市の江ノ村に下り、西行し宿毛市の延光寺に至るものである。
このルートは真念が『四国遍路道指南』(貞享四年(1687)に「(足摺山)・・・ 是より寺山迄十二里。右真念庵へもどり行。○真念庵〇成山村○おほうめうち村、真念庵より是迄山路、渓川。○上長谷村、しるし石、いにしへハ左へゆきし、今ハ右へゆく、但大水のときハ左よし。○ゑ の村、川有。水ましの時ハ庄屋并村翁遍路をたすけわたす。〇いその川村、やきごめ坂。〇ありおか村〇やまだ村。三十九番寺山院山をうしろにし南むき。はた郡中村。本尊薬師秘仏、御作。南無薬師諸病悉除の願こめてまひるわが身をたすけましませ」ルと記すートを辿ることになる。
「おほうめうち」は狼内(おおかみうち)、 「ゑ の村」は江ノ村、「いその」は磯ノ川のこと。

市野瀬の金剛福寺と延光寺への遍路道分岐点
金剛福寺から市野瀬の金剛福寺と延光寺への遍路道分岐点までは前回メモを参照して頂くこととして(金剛福寺から分岐点までのルートマップは参考のため再掲しておく)

県道346号、市野瀬川に架かる市ノ瀬橋北詰に道案内などと共に6基の標石が立つ。
道案内は「県道右折は三原、左折は真念庵前(へんろ道0.2km)、38番金剛福寺29km」とある。三原は宿毛市の39番札所延光寺への途中の集落であり、多くのお遍路さんは金剛福寺を打った後、この地まで打ち戻り土佐最後の札所である延光寺へと向かったようだ。
北詰に残る標石は左端に自然石標石。多数の文字が刻まれれるがはっきりしない。その隣、最も大きな板状標石には「あしずり三百五十丁 五社十四里 寺山へ五里 弘化二」といったも文字が読める。その横は手印だけが見える。その横の標石は形から見て真念標石のように思えるがはっきりしない。その横の標石には「左 三十八番 左足摺道七里打戻り 寺山道 昭和七年」といった文字が刻まれる。右端の自然石標石の文字は読めない。
寺山は宿毛の延光寺のこと。五社は札所岩本寺の前身、五社(高岡神社)のこと。

下ノ加江の標石
遍路道分岐点より県道346号を左折し、下ノ加江川水系の市野瀬川に沿って進む。ほどなく道の左手に「伊豆田神社社叢」の木標、伊豆田神社と刻まれた標石。「鳴谷川に沿って0.8キロ、高知山背に鎮座。文化財・木彫ご神像」とある、そしてその傍に自然石の標石。手印だけが見える。
加江
植物の茅に由来。燃えやすい茅の字を嫌い霜栢に変 わり、明治には下ノ加江村(土佐地名往来)
伊豆田神社
市野瀬の遍路道分かれまでは伊豆田峠を越えてきたわけで、伊豆田神社って、なんらかこの辺りの由緒ゆかしき社かとチェック。
標石はあるのだが、参道の案内はない。道の北側に山に入る土径がある。それが参道だろうか。当日は時間に余裕がなく参拝することはできなかったのだが、メモの段階で伊豆田神社のことをチェックする;
創祀年代は不詳であるが、式内社・伊豆多神社に比定され、明治元年に伊豆田神社と改称されたようだ。現在は無社格。明治の頃由緒ある社として県社格を願い出たが叶わなかったようである。中世以降は伊津多大明神、伊都多大明神と呼ばれていた、との記事もあった。
伊豆多はイデユタ(出湯田)に由来すると。湯は冷水の湧き水も含む。市野瀬の市(イチ)も湯地(ユチ)の変化し たもの。また市野々は伊豆田神社の祭礼時の市に由来するとの記事もあった。 『土佐物語』にも長曽我部元親が「伊豆田神社は、當國廿一社の一つなればとて、立寄らせらる」とあるのでこの地の人々に深く信仰されていた社であったのだろう。

狼内の「狼内城跡」の案内
成川、家路川と川の名の付く集落を進むと土佐清水市から幡多郡三原村の成山集落に入る。その先で県道346号は市野瀬川の源頭域から離れ丘陵を上り長谷(ながたに)川の谷筋に下りる。 長谷川の谷筋に下りた県道346号は谷筋を北に四万十川水系中筋川の谷筋に下り四万十市の具同に向かうが、遍路道は長谷川の谷筋で県道346号から県道42号に乗り換え、長谷川を渡り川の右岸を狼内(おおかみうち)へと進む。
道の右手に「狼内城跡」の案内。「狼内城跡 城主・江口六太夫  天正十七~十八年領主として地検帳に記されているもと一条家の家臣であったが、天正三年一条氏亡びて長宗我部元親に仕えて帆(浦)奉行を勤めるなど政事にたずさわった。そして城の麓の土居館に領主として居住していた。中村市鍋島の豪族江口と一族と目され、三原村内に其の給地三町六反余をもっていた。城跡は二段にわかれ、前後三条の空堀が残っており、本丸は約二00平方メートルある。 」と記されている。
成山峠越えの遍路道
メモの段階で成山の先、分水界を越える県道から左に逸れる旧遍路道がある、という。Google Street Viewでチェックすると、成山集落の道の左手、県道から左に逸れる一段高い所に小祠、道標、案内板が見える。そこが成山峠越えの旧遍路道取り付き口だろう。
案内には「へんろ道跡 この道標から山腹の植林の中を登り成山峠越えて、狼内、川平郷の分岐にある指差造務まで、昔のへんろ道の姿が残る。
この道は昭和のはじめまで三原の百性が下ノ加江へ米売りに馬で通った道であり、魚を担うた浜の魚売りが越えた道である。江戸時代の遊路記に「谷間い長く木重なり、淋し」とある。 平成十年三月 三原村教育委員会」とある。
市野瀬の真念庵から市野瀬川を遡り、この道を通り江ノ谷から地蔵峠越え、江ノ村、有岡を経て三十九番寺山延光寺へ至るへんろ道で「寺山道」とも言われていたようである。
道はおおよそ県道に沿って丘陵を進み成山峠を越え、長谷川の左岸の道を西進し、下に記す真念道標のところに出るとの記事があった。峠を越えて里に出たところに手印だけの指指道標が残るようである。

上長谷の真念道標
長谷川の支流・木和田川に架かる木和田橋を渡り少し行くと右側に天満宮、その鳥居より西へ約30メートルほど進むと北に逸れる道があり案内板と標石2基と石仏らしきものが立つ。
案内には、「真念法師の道標 「右遍路みち左大ミつのときハこのみちよし」願主 眞念  為父母六親・貞享四年(六八七)丁卯三月廿日 施主大阪西浜町てらしま五良衛(私注;字がでないので「衛」で代用)門建之とある。真念法師はへんろみち道標の創始者と伝へられる。  平成十年三月三原村教育委員会」とある。

右端一番大きな標石には「へんろ道 右寺山道 左足摺山 願主 愛媛縣」と刻まれる。愛媛県ができたのは明治6年(1873)であるのでそれほど古いものではない。寺山は延光寺、足摺山は金剛福寺。その横の標石は案内にある「右遍ん路みち 左 大ミつのときハこのみちよし」と刻まれる。 

大水の時は遍路道の先、北を遮る山稜を越えた中筋川の谷筋が氾濫する、ということだろうか。 真念道標の隣、左端は風化激しく標石か石仏かの区別もできない。
中筋川洪水の特徴
中筋川地溝帯(Google Earthで作成)
国土交通省の資料に拠れば、「中筋川は、その源を高知県宿毛市白皇山(標高458m)に発し、ヤイト川、山田川、横瀬川等の支川を合わせ中筋平野を東流し、河口の四万十市実崎地点において四万十川と合流している1級河川である。
中筋川周辺の地形は、四万十川下流部と宿毛湾奥部をほぼ東西に連続する「中筋川地溝帯」と呼ばれる低地および丘陵地帯と、その南北両側に分布する起伏山地よりなっている。
・中筋川は低平地を流れ、洪水時に本川水位の影響を受けることから、内水被害が発生し やすい。
中筋川洪水の特徴として
中筋川流域の平均年降水量は2,200~2,600mmで日本有数の多雨地帯。
・降雨のほとんどが台風に起因し、大規模な洪水がしばしば発生。
・中筋川は、四万十川合流点から約11kの区間の河床勾配は約1/8,000と非常に緩やかであるため、沿川では四万十川の背水の影響により、度々内水被害が発生」と記される。
度重なる洪水対策として昭和4年(1929)よりはじまった改修工事によ り洪水被害が次第に減少してはいる」とある。
中筋川地溝帯
中筋川周辺の地形は、四万十川下流部と宿毛湾奧部をほぼ東西に連続する「中筋川地溝帯」と呼ばれる低地及び丘陵地帯と、その南北両側に分布する起伏山地より成っている。
地溝とは、ほぼ平行に位置する断層(中筋川の場合は北の国見断層と南の江ノ村断層)によって区切られ、峡谷の形状をなしている地塊および地形のこと。侵食によってできた谷とは異なり、基本的に正断層の活動によって形成される。
地殻において水平方向に伸張力が働くと、その地域には正断層が発達する。この断層線が、水平面においてほぼ平行に複数発達すると、一部地塊は沈降し、峡谷の形状を成す地溝となる。

大ミつのときハこのみちよし
洪水の時は左へとある。どのような道筋なのだろう。ちょっとチェック。県道44号を西行し、途中宗賀で下ノ加川に沿って南下する県道とわかれ、県道21号に乗り換え下ノ加江川水系の宮ノ川などの支流に沿って三原村役場のある村の中心部に。
村の中心部を越えた県道21号は下ノ加江川水系の分水界を越え、四万十川水系中筋川の支流である清水川に沿って中筋川ダム(洪水対策などの多目的ダム)を経て宿毛市平田に出る。
微妙な分水界
下ノ加江川水系と四万十川水系中筋川支流清水川の源頭部は急接近している。境は船ヶ峠と記された、峠というよりちょっとした「高み」といった箇所。船ヶ峠の標高は170mほど。両水系の谷筋の標高は150mほど。ちょっとした地殻変動で河川争奪が起こりそうに思える。






江ノ谷川を渡り北進し地蔵峠へ
真念道標を右折し天満宮の鎮座する丘陵西裾を進み、道なりに江ノ谷川を渡り車道に合流し、東西の丘陵に挟まれた江ノ谷川に沿って北進する。道は舗装されており古き趣はない。 真念道標からおおよそ50分弱、地蔵峠に出る。
上長谷(ながたに)城跡
遍路道の左手、県道に突き出た丘陵上は上長谷城跡。武元真季(敦いは武光兵庫ともいう)の居城。戦国時代天正のはじめ頃(一五七三)柚木城主敷地官兵衛、下長谷城主大塚八木右衛などと共に一条氏に仕えた。天正三年栗本城(具同村)にて一条勢と共に長宗我部元親軍と戦って破れ降伏、一命と領地は安堵されたが、その後の消息は不明とのこと。城の本丸と目される所330平方メートル、下段に三条の空堀あるようだ。

地蔵峠
坂を上り切ったところ、尾根道も舗装された道が走る。四万十市と幡多郡三原村を結ぶ県道344号だ。峠は四万十市と三原村の境となっている。
県道とのT字路交差点、正確には土径が北に下るため四つ辻といったほうがいいかもしれない。
その四つ辻の北西側、一段高いところに舟形石仏が3基佇む。その内1基は三体が刻まれたもの。なんだか惹かれる。この地蔵尊ゆえの地蔵峠ということだろうか。
県道344号
宿毛線・四万十くろしおライン国見駅の少し東で国道56号と分かれ間集落から山間のジグザグ道を上り、この地蔵峠を経由して三原町に抜ける。



江ノ村大師堂
地蔵尊を左上に見遣りながら、地蔵峠の四つ辻から土径となった遍路道を下る。峠の標高は260mほど。等高線に沿うように、250m、200mと緩やかに坂を下り、標高150m辺りの平坦地を過ぎ100m、50mと坂を下る。時に崖が崩れたところもあるが虎ロープなどでサポートされており、それほど危険な箇所はない。
峠から40分強で江ノ村大師堂。新しく建て直されたのだろうか、少し新しい建屋となっていた。林間から里が除く。

西ノ谷集落で里に出る
遍路墓のような石碑に頭を下げ数分歩くと西ノ谷集落の里道に出る。里道を進み東西に走る中村宿毛道路の高架手前に遍路休憩所と安らぎ大師像。高架を潜り中村宿毛道路の北を走る道に遍路道案内のタグ。西を指す。
中筋川を渡り国道56号に戻る 中村宿毛道路に沿って丘陵裾を西行すると水路が行く手を遮る。北に迂回し上土居川橋を渡るとその先、中筋川を渡る道筋と山裾を西行する道の分岐点。

中筋川を渡り国道56号に
橋を渡るところまでは遍路道タグがあったのだが、分岐点をどちらに進むかわからない。真念の『四国遍路道指南』には「○ゑ の村、川有。水ましの時ハ庄屋并村翁遍路をたすけわたす。〇いその川村、やきごめ坂。〇ありおか村〇やまだ村。三十九番寺山院山をうしろにし南むき。はた郡中村。本尊薬師秘仏、御作。南無薬師諸病悉除の願こめてまひるわが身をたすけましませ」とある。 この記事に拠れば、中筋川を渡り磯の川村から有岡村へと向かっている。
分岐点の対岸は磯ノ川、有岡の集落がある。はっきりしないが、この辺りで中筋川を渡り磯ノ川、有岡へと向かったのだろう。分岐点を北に国道56号に戻る。

住吉神社手前四つ辻の道標
磯ノ川、有岡と進み中筋川支流横瀬川、山田川を渡ると四万十市から宿毛市に入る。先に進むと道の右手に住吉神社。その手前の四つ辻に自然石標石が立つ。「右 日本勧請始金毘羅宮 廿丁 宮ヨリ打チ抜ケ五十丁  左 三拾九番寺山寺 六十五丁 文政治十丑龍 山田村講中」と刻まれる。ということは、真念の記事にある「やまだ村」とはこの道標の立つ辺りであろうか。東には山田川も流れている。「右 日本勧請始金毘羅宮 廿丁 宮ヨリ打チ抜ケ五十丁」は何処を指すのか不明。

39番札所延光寺参道口に標石2基

国道を西行し平田、寺尾を越えると延光寺参道口に至る。参道口に大きな標石2基。高いほうの標石には「四国霊場第三十九番札所延光寺」とあり、線で彫られた矢印と共に、是ヨリ一キロ 約八丁 中村二十キロ 宿毛六キロ」 「文化財 本尊薬師如来・笑不動、銅鐘、いぶき」 「昭和三十九年三月一日 施主 滋賀県長浜 中尾多七・高田金二」と刻まれる。
中尾多七さんたちが建てた標石には遍路道の途次多く出合った。線彫りの矢印での方角指示が特徴的な角型標石をその典型とする。
もう一基の標石は茂兵衛道標。「東 中村 西 宿毛 」、手印と共に「寺山延光寺 足摺山江十一里 大正五年十二月」。茂兵衛227度目巡礼時のもの。またこの道標には添歌も刻まれており、「花の香や いと奥深き法の声」と刻まれる、と言う。

39番札所延光寺
標石を右に折れ、左折・右折で北に進み途中、左に分ける「40番 観自在寺 歩き遍路道」に入る土径の角に茂兵衛道標。正面には「第三十九番」、歩き遍路道側には「四十番 是ヨリ七里」と刻まれる。延光寺はすぐ。




市野々より県道21号を辿る遍路道

金剛福寺より真念庵近くの遍路道分岐点に打ち戻る途中、下ノ加江から県道21号を進み宿毛に出るお遍路さんもいるようだ。特段古くからの遍路道というわけでもないが、ちょっとメモしておく。距離は30キロほどだろうか。
市野々で県道21号に乗り換え、下ノ加川に沿って進み大川内の集落を越えると土佐清水市から幡多郡三原村に入る。芳井、久繁、下長谷と進む。下長谷の対岸、宮奈路の丘陵に下長谷城跡がある。
下長谷城跡
「下長谷城跡 大塚八木右衛生門の居城で一条氏に仕え、天正二年(一五七四)一条氏の家老(安並、羽生、為松)などが謀って其の主君兼定を豊後(大分県)に追放するも、是れに憤り加久見城(加久見左衛門)などと共に兵を挙げ三家老を亡した。
翌天正三年、一条兼定が中村に復帰を試み、伊予の援を得て栗本城において長曽我部勢と抗したがたが破れて降伏、一命と領地は安堵されたが、数年にして亡んだ。本丸は約100平方メートル、一条の空堀のあとが残る」、と。
奈路
四万十町地名辞典には、「東北の平(たい)、九州の原(はる)、四国の平(なる)と同じ地名の群落。奈良も千葉県の習志野も、ナラス、ナラシの当字で、平らな原野を表現している。」と書かれている。 成川・鳴川も同じ。

下長谷城跡のある丘陵を廻り込むとそして宗賀の集落。この地で県道21号は下ノ加川筋からその支流長谷川筋に入り三原村の中心をなす来栖野と進む。
来栖野を越えた県道21号は、長谷側源頭部の船ヶ峠を越え、四万十川水系中筋川の支流である清水川に沿って下り、多目的ダムである中筋川ダムを越え県道56号の平田へと下る。遍路道は平田で国道を右折し延光寺へと向かう。
藤林寺
県道が国道56号に合流する手前、沖前の丘陵裾に曹洞宗藤林寺がある。境内には一条家の房良、房冬、房基を弔う五輪塔・卵塔などの墓石がある。


月山経由延光寺への遍路道

金剛福寺から西へと海岸廻りの遍路道を記す。実際に歩いたわけではないので、このルートを歩いた澄禅の『四国遍路日記』 (承応二年=一六五三)をもとに遍路道をトレースする。金剛福寺前の案内では、三原経由55.1キロ、月山経由が73.2キロである;
澄禅の『四国遍路日記』
「六日逗留ス(金剛福寺)。 七日、寺ヲ立テ足摺山ノ崎ヲ往廻リテ、松尾 ・志水・三崎ナド云所ヲ経テ行ニ、海辺ノ事ナレバ、厳石ノ刃ノ如ナル所モ有リ、平砂泙々タル所モ在、カカル所ニ、三崎ノ浜ニテ高野・吉野ノ辺路衆、阿波國ヲ同日ニ出テ逆ニメグルニ行逢タリ。互二荷俵ヲ道ノ傍ニ捨置テ、半時斗語居テ泪ヲ流シテ離タリ。夫ヨリ川ロト云所ニ正善寺ト云浄土宗ノ寺二一宿ス。 八日、寺ヲ立テ海辺ヲ十町斗往テ、大坂ヲニツ上リ下リテ貝ノ河ト云所ニ至ル。夫ヨリ坂ヲ上リテ粟津・サイツ野ナド云所、坂ヲ上リテ浜ヲ下リ下リテ御月山ニ至ル。
御月山ハ、樹木生茂リタル深谷を二町斗分入テ其奥ニ厳石ノ重タル山在リ、山頭ニ半月形ノ七尺斗ノ石有、是其仏像ナリ、誠ニ人間ノ作タル様ナル自然石也。
御前ニ二間三間ノ拝殿在リ。下ニ寺有、妻帯ノ山伏ナリ住持ス、千手院ト云。当山内山永久寺同行ト云。此寺ニ一宿ス。
九日、御月ヲ出テ西伯ト云浦ニ出ツ。又坂ヲ越テ大道ヲ往テコヅクシト云所二出。爰ニ七日島ト云小島在リ、潮相満相引ノ所ナリ、由来在リ。夫ヨリイヨ野滝厳寺ト云真言寺ニ一宿ス。御月山ヨリ是迄四里ナリ。
十日、寺ヲ出テミクレ坂ト云坂ヲ越テ宿毛ニ至ル。爰ハ土佐・伊与両國ノ境目ナリトテ、太守一門 山内左衛門佐ト云仁ヲ置タリ。七千石ノ城下也。城ハ無テ屋舗カマエナリ、侍小路町如形也。真言・禅・浄土・一向宗都テ四ケ寺浄土寺ト云。浄土寺ニ宿ヲ借リ荷ヲ置テ寺山エ往ク。宿毛ヨリ二里也、五十町一里ナリ。
寺山本堂東向、本尊薬師。二王門・鐘楼・御影堂・鎮守ノ社、何モ太守ヨリ再興在テ結構ナリ。寺ハ近所ニ南光院ト云妻帯ノ山伏在リ」。

松尾・志水(清水)
寺を西に白山神社、白山洞門、県道27号を進む。大戸を過ぎると澄禅の記す松尾。大浜を越え、中浜に。この地にはジョン万次郎の生家がある。
中浜を越えると清水。澄禅が志水と記した地である。この地、県道右手に「清水の名水」。土佐清水の地名の由来ともなった湧水である。

三原への分岐点
土佐清水市で県道27号と分かれ町並みを抜け国道321号に乗り換える。養老を越え益野川を渡ると三原への分岐点。「宮ノ川経由36.8キロ 下川口経由41.8キロ」の遍路案内があるようだ。 宮ノ川への道は益野川の源頭部を詰め、山稜を越えて下ノ加川の谷筋に下り三原の中心部来栖野の傍に宮ノ川へと辿るのかと思うが、結構な山越えのよう。

三崎・川口・具ノ川(具ノ河)
分岐点から浜に下ると澄禅が記す三崎。その先、奇岩で知られる竜串がある。国道を西に進むと下川口。澄禅の記す川口正善寺は廃寺となり現在は大師寺となっている。下川口は上述遍路案内にあった地名。
下川口の先には国道に二つのトンネルがあるが遍路道は海岸線に沿った旧道。二つ目のトンネル出口で国道に戻り、澄禅が「貝ノ河」と記す貝ノ川を越え大津へ。大津は澄禅の記す粟津と比定される。

才角(サイツ野)
大津の先にもトンネルふたつ。トンネルを迂回する旧道を進むと小才角。土佐サンゴ発祥の地として知られる。
ここから幡多郡大月町となる。その先才角。澄禅の記す「サイツ野」である。才角の先、大浦分岐で国道321号から離れ大浦に向かう。切り込んだ谷筋を北に進み廻り込み、再び南に下ると朴碕(ほうざき)の岬の断崖の上に出る。「月山神社1.4キロ」と記された「四国のみち」指導標が立つ、という。
土佐サンゴ発祥の地
ここ月灘沖を含めた渭南海岸には, 徳川時代からサンゴのあることがわかっていました。一人の漁師が桃色サンゴを釣り上げた偶然が日本サンゴ史の始まりとされて います。
土佐藩では厳重に採取を禁止し, その所在を口にすることを固く禁じました。このことは今なお残る童唄

お月さんももいろ だれんいうた あまんいうた
 あまのくちひきさけ
  (注:だれん=誰が いうた=言った あまん=あま)

にうかがい知ることができます。この唄は口をとざされた漁師や子供たちによって唄いつがれたものでここ小才角はこの唄の故郷であります。
明治維新後この禁令は解かれ, 明治七年にこの付近の海域ではじめてサンゴ船による採取が行なわれその後は急速に発展し, 明治三十年代には七百隻の採取船が出漁し, 愛媛県からも多数の船が沖の島周辺に来て採取しました。乱獲の結果資源が涸渇, ついに大正十二年頃には ほとんど中止の状態となりました。
その後, 五島, 台湾, 奄美大島, 小笠原諸島周辺やミッドウェー沖にて多くとれ, 当地方では今もなお, その 加工が盛んです。最近また月灘沖の赤サンゴが大変注目されています」と案内にある。 赤サンゴ、または「血赤珊瑚」は「トサ」の代名詞で世界中から注目されているとの説明もある。ヨーロッパのバイヤーは血赤珊瑚のことを「トサ」と呼び、高知県で生産される宝石珊瑚は「土佐珊瑚」と別格視され、またイタリア産カメオの原木は日本(高知)より供給されています、といった記事もあった。

月山神社
「月山神社 当神社は、月夜見尊、倉稲魂尊(うかのみたまのみこと)を祭神とし、表筒男(うわ つつお)、中筒男(なかつつお)、底筒男(そこつつお)の三神と事代主尊を合祀し、もと月山霊場「守月山月光院南照寺」と称せられ、神仏混合の霊場であったが、明治元年に月山神社と改称され現在に至っている。
月山の名は、神社の御神体が月形の石であり、月夜見尊を奉斎したことによる。伝承によれば、遠く白鳳の世、後世に修験道の開祖といわれる役小角がはじめて此の山に入り、月影の霊石を発見し、月夜見尊、倉稲魂尊を奉斎したのが開基といわれる。後、僧空海が此の霊石の前に廿三夜月待の密供を行い、それより陰暦一月二十三日を例祭とされた。
由来、サンゴの名産地で知られる大月一帯の護り神として、また四国八十八ケ所番外札所として今も参詣する人が絶えない。
特に家内繁栄、海上安全、大漁祈願などに霊験ありとする。
なお、当神社は昭和三十三年、大月町有形文化財に指定されている」との案内がある。
境内の大師堂は文政五年頃の建築と推定されており、現社殿は明治二十二年の建築という。

西泊(西伯)・小筑紫(コヅクシ)
月山神社から先、澄禅の記事には「御月ヲ出テ西伯ト云浦ニ出ツ。又坂ヲ越テ大道ヲ往テコヅクシト云所二出。爰ニ七日島ト云小島在リ、潮相満相引ノ所ナリ、由来在リ。夫ヨリイヨ野滝厳寺ト云真言寺ニ一宿ス。御月山ヨリ是迄四里ナリ」としごく大雑把に記されている。 あれこれ記事をチェックする。月山神社を出た遍路道は一度赤泊の浜に出て、澄禅の記す西伯(西泊ではあろうに進み、赤泊の音無神社から谷筋を北に向かい、国道321号に合流し、北上。馬路を越えた先、福良川が海に注ぐ河口域に出ると行政区域幡多郡大月町から宿毛市に変わる。地名は小筑紫。澄禅の記す「コヅクシ」であろう。

七日島
福良川を渡った先、道の左手に天満宮があり、その横に「七日島」と地図にある。澄禅記す「七日島」がそれ。菅原道真が大宰府に配流される途次、嵐のため宿毛漂着し、「筑紫はここか」と問うたのが、小筑紫の地名の由来。また嵐がおさまるまで七日間船をこの地に留めた故の「七日島」であった。

伊与野(イヨ野)滝厳寺
国道を北に少し進むと、澄禅が「イヨ野滝厳寺ト云真言寺ニ一宿ス」と記す滝厳寺が国道右手、伊与野川右岸の丘陵に建つ。

三倉坂または御鞍坂(ミクレ坂)
滝厳寺を出た澄禅は「寺ヲ出テミクレ坂ト云坂ヲ越テ宿毛ニ至ル」と記す。 ミクレ坂は三倉坂または御鞍坂)、宿毛市小筑紫町小浦から同市坂ノ下に下る道であったよう。現在の国道321号は海岸線を走っているが、往昔は海岸線の小筑紫町から山越えの道に入り、松田川が宿毛湾に注ぐ河口部の坂ノ下に出る道を辿ったのであろうか。
この後、宿毛市内から延光寺を目指したようである。


これで四国霊場を一巡し終えた。古の標石を目安に旧遍路道を辿る散歩は母親の介護に6年ほど毎月帰省した折の気分展開ではじめたものではあったが、山あり谷あり、里や海辺を辿る旅となり変化の富む四国の景観を知るいい機会となった。 旅の途中、見逃した旧遍路道、バリエーションルートも結構多い。暇を見付け「後の祭り」フォローアップの散歩にでかけようと思う。



旧土佐中村市(現四万十市)の四万十川右岸より足摺岬突端に建つ金剛福寺までをメモする。その距離おおよそ50キロ弱だろうか。四万十市と土佐清水市を画する伊豆田峠を越えた市野瀬に真念庵がある。そこまでおおよそ12キロ。この地は足摺岬にある38番金剛福寺と土佐最後の札所、宿毛市の39番延光寺への分岐点。多くのお遍路さんは真念庵より金剛福寺を打ち、此の地まで打ち戻り宿毛の延光寺を目指すと言う。
その真念庵から先、時に「あしずり遍路道」の案内が立っていた。真念庵にあった案内には、 「真念庵から足摺三十八番札所金剛福寺までは、約十四キロメートルの遍路道が残っています」とのみの案内があった。当日は「あしずり遍路道」の標識が旧遍路道として残る道筋の指導標とは思わず、単に金剛福寺への遍路道標識と思っていた。
「あしずり遍路道」の標識が旧遍路道への指導標とわかったのは、メモの段階で土佐清水市の「あしずり遍路道」の案内を知ったことによる。そこには、真念庵から金剛福寺までの間に、10余の遍路道名とともにマークが示されていた。国道改修工事から逃れ、現在に残された旧遍路道が約14キロ整備されているようである。
遍路名とマークだけでルートが示されていないのが少々残念ではあるが、遍路道マークの場所から推測すると、それは国道筋を逸れた山道・沢筋といったルートのようである。「あしずり遍路道」の標識は旧遍路道への出入り口指導標であった。
当日は知らず、いくつかの「あしずり遍路道」を辿ったが、ほとんどが後の祭り。 「あしずり遍路道:標識をもとにGoogle Street Viewでそのルートを推測するという為体(ていたらく)であった。 事前準備なし、ほとんど成り行き任せのお散歩をその基本としているため、思いがけない出合いの楽しみもあるが、残念!との想いも多くある。室戸岬東岸でも多くの旧遍路道を見逃したが、足摺岬東岸でも同様の想いを残すことになった。
共に土佐を代表する岬の東岸。この2地域はもう一度しっかり旧遍路道をトレースしようと思う。 ともあれ、メモを始める。



本日のルート;
■四万十川の渡しから伊豆田峠へ
四万十大橋>県道321号を南下>県道343号を南下し旧遍路道に入る>津蔵渕川左岸を国道321号に>津蔵渕集落西端で津蔵渕川を渡り国道321号に>徳右衛門道標
伊豆田峠越え
国道を右に逸れ旧道に>伊豆田峠への山道に入る>伊豆田峠>峠から林道へ>金剛福寺と延光寺への遍路道分岐点
真念庵からあしずり遍路道を金剛福寺へ
真念庵への標石>真念庵>真念庵より「あしずり遍路道;真念道」を進む>市野々・あしずり遍路道分岐点>国道321号に戻る>小方から旧路に逸れ下ノ加江川左岸を進む>下ノ加江大橋を渡り鍵掛へ>鍵掛(かいかけ)>久百々(くもも)>ふた浜>大岐東道>大岐浜>下港山へのあしずり遍路道>以布利>窪津分岐>県道27号と県道347号分岐点>窪津>津呂道>あしずり遍路道・赤碆東道分岐点>舟形標石>第三十八番金剛福寺


●旧土佐中村市(現四万十市)四万十川右岸より金剛福寺への遍路道●

■四万十川の渡しから伊豆田峠へ■

四万十大橋
先回の散歩では往昔の遍路道は下田の渡しへの道筋であろうと四万十川河口部の渡船場へと向かったのだが、事前の準備不足で渡船は予約制とのことで渡船できず、また、それよりなにより下田の渡しは昭和初期から開始されたとのことを知り、往昔の四万十川の渡しがあったとされる高島の渡し、現在の竹島大師堂まで辿った。
現在は高島の渡し・竹島の渡しは運行されておらず、お遍路さんは上述下田渡しを利用するか、四万十大橋を渡り四万十川右岸に移ることになるわけだが、今回の散歩は澄禅や真念も辿ったであろう竹島・山路の渡しにより近い四万十大橋を渡り、四万十川右岸に移る。
山路の渡し跡
四万十大橋の南北に、四万十川と中筋川を分ける砂洲・河川敷が続く。高島の渡し・竹島から四万十川右岸に渡る山路の渡し跡は、四万十川に沿って走る国道321号を北に進み、国道が中筋川右岸から中州・河川敷に入り、四万十川に後川が合流するあたりにあった。
この河川敷のどこかに往昔の竹島・山路の渡しの船着き場があったのだろう。
旧中村市
更に上流、四万十川・中筋川・後川により形成された沖積平野にかつての幡多郡の中心地であった旧中村市(現在四万十市)がある。
平成17年(2005)に西土佐村と合併し四万十市となる。Wikipediaには「国造が割拠した7世紀には、中村は、都佐国造ではなく波多国造の領土に属していた。律令制が敷かれると、都佐国造と波多国造が合併して土佐国となり、旧の波多国造の領土は幡多郡となった。
戦国時代には土佐一条氏の城下町となり、「土佐京都」と呼ばれるように京都をモデルとした都市造りが行われ、幡多郡の中心地へと発展した。しかし、土佐一条氏は、天正時代になると、高知を本拠地とする長宗我部氏によって倒され、長宗我部氏の領内に入れられた。
江戸時代になると、長宗我部氏から山内氏に統治者が変わり、中村は山内氏が治める土佐藩の領内に入った」とある。
土佐一条氏
一条氏の土佐下向とは、応仁の乱を避けた前関白一条教房公は京を離れ家領の中村に移り、京に模した町作りを行なった。町並みも中村御所(現一条神社)を中心に碁盤状に整備し、土佐国にありながら高い官位を有し、戦国時代の間、土佐国の主要七国人(「土佐七雄」)の盟主的地位にあった。次第に武家化し伊予国への外征も積極的に行うが、伸長した長宗我部氏の勢いに呑まれ、断絶した。

県道321号を南下
四万十川と中筋川を跨ぐ四万十大橋を渡り、橋の西詰で左折し国道321号に乗る。中州によって四万十川と分けられた中筋川の右岸に沿って実崎(さんざき)地区を南下。中州も切れ中筋川を合わせた四万十川の右岸を進むと、道の左手に「間碕の枕状溶岩」の案内。道の右手の岩盤を指す。
枕状溶岩
マグマが水中で噴出する際にできるもの。西洋枕が積み重なったように見えこの名が付く。おもに玄武岩質のマグマに寄る、と言う。



四万十川
何時だったか訪ねた四万十川源流・松場川の一滴の水は下田・初崎間では1.2キロの大河となっている。
全長196キロという四万十川には、大小合わせると70ほどの一次支流、200以上の二次支流、支流に流れ込む300以上沢があると言われる。それゆえの「四万十」とされるが、その中でも幹線となるのが、高岡郡津野町の不入山から南下し窪川に下る松葉川、四国カルストの山地から下り四万十町田野野で本流に注ぐ梼原川、愛媛の北宇和郡の山間部にその源を発し、四万十市西土佐の江川崎で本流に注ぐ広見川の三川とのこと。その三つの幹線支流を繋ぐのが「渡川」とも呼ばれる四万十川の川筋である。
現在、海から最も遠い地点ということで源流点となっている、不入山の源流点から南下してきた四万十川は窪川の辺りでその流れを西に変え、その後北西に大きく弧を描き、山間の地を、蛇行を繰り返しながら、田野野で梼原川、江川崎で広見川を合せ四万十市中村で土佐湾に注ぐ。
東流から西流へ
現在は上述の如く、窪川辺りで西に流れ、山地を大廻りする四万十川の流れではあるが、はるか昔には、松葉川も梼原川も広見川も、その流れは窪川盆地から、そのまま太平洋に注いでいた、と言う。梼原川や広見川は現在の流れとは逆に、「東流」していたことになる。その流れが西に向かうことになったのは、南海トラフの跳ね返りで、海岸線に山地が現れ(興津ドーム)、南下を阻まれた流れは西に向かうことになった、とか。
興津ドームの隆起によって太平洋に注ぐ流れを妨げられた四万十川は、何故に、このように海に背を向けて大きく弧を描く特異な流れとなったかについて『誰でも行ける意外な水源 不思議な分水;堀淳一(東京書籍)』は「四万十川が山地の中を激しく蛇行していることから、この流域を含む一帯はむかし、海面に近い平坦な低地だった、と考えられる。そこを川は自由気ままに蛇行していたのである。
しかし、その後土地が隆起したため、川は侵食力を回復して、その流路を保ちながら谷を削り込んでいった。その結果、現在のような穿入蛇行(山地にはまりこんだ蛇行)の状態が出来上がった。但し、この隆起は全体的に一様に起こったのではなく、たまたま四万十川の流域の中央部が最も高くなるように起こった」とあった。このことは時系列で言えばV字谷>U字谷>準平原の順で地形が形成されるとするが、四万十川上流部に近い窪川辺りの谷底低地は開析最終プロセスの準平原状態となっており、下流部がU字・V字と通常の地形生成プロセスと逆転していることからもわかる。
四万十川・渡川
地図を見ると四万十川(渡川)と記される。かつては四万十川とも渡川とも呼ばれていたが、明治になり河川法が作られた際に、正式名称は「渡川」、俗称四万十川とされた。 それが「四万十川となったのは、昭和58年(1983)、NHKが放送した「土佐・四万十川~清流と魚と人と~」がきっかけ。この放送により「清流四万十川」が世に広まり、平成6年( 1994年)には法改正により四万十川を正式名称とすることにした。もっともこの四万十川は本流を指す名称であって、支流310とも言われ、またその支流に中筋川と後川いう1級河川をももつ水系のことは渡川水系と称されている。四万十川は渡川水系四万十川と言うことだ。

県道343号を南下
左手、四万十川の大きな中州を見遣りながら間碕(まさき)地区の丘陵裾を回り込むと、ほどなく県道343号が国道から南に分かれる。分岐点手前に、「初崎分岐」バス停、分岐点には「四国のみち」の指導標があり県道直進は「大文字山」、左折『初崎」とある。遍路道はここで左折し県道343号に乗り換える。


県道343号を右に逸れ旧遍路道に入る
少し南下し、道の右側の作業小屋から右に入る道がある。遍路道の案内はないが、遍路道はここを右に折れて西進する。
ここは下田の渡しで四万十川を渡り初崎から県道343号を北進してきた遍路道との合流点でもある。



初崎からの遍路道
下田渡船場から1.2キロ、四万十川河口部の初崎からの遍路道は上述、県道343号を北進するコースと、南の海岸沿いを歩く二つのコースに分かれる。海岸沿いの立石・布浦経由下ノ加江まで17キロ、澄禅や真念も歩き、今回辿る山越えの遍路道はその距離14キロである。
〇初碕
中世にさかのぼる地名で、古くは福崎村。いわば 「地域の果てとなるところの崎」河口の岬(土佐と銘往来)

津蔵渕川左岸を国道321号に
作業小屋で県道343号を右折し旧路に入る。左右草で覆われた道を進むと右手に「四万十川野鳥自然公園」。道端に立つ使途不明の石碑を見遣りながら津蔵淵川左岸を進むと国道321号とクロスする。
大文字送り火
この交差箇所から国道を北に戻り、四万十川野鳥自然公園の北西端北に見得る小丘陵に「大」の跡が残る。この丘陵で、大文字送り火が行われるとのこと。
国道脇にあった案内には 「大文字の送り火 今から五百有余年前、前関白一条教房公は京都の戦乱を避けて家領の中村に下向され、京に模した町作りを行なった。東山、鴨川、祇園など京都にちなんだ地名をはじめ町並みも中村御所(現一条神社)を中心に碁盤状に整然と整備し、当時の中村は土佐の国府として栄えた。
此の大文字山の送り火も、土佐一条家二代目の房家が祖父兼良(かねら)、父教房の精霊を送ると共に、みやびやかな京都に対する思慕の念からはじめたと、この間崎地区では云い伝えられている。現在も旧盆の十六日には間崎地区の人々の手によって五百年の伝統は受け継がれている」とある。
四国のみちの指導標には「大文字山」とあったが、十代地山と呼ばれているようである。

しかし、である。旧中村市内に館を持つ一条氏が何故に、館より結構離れたこの地を選んだのだろう?また、一条氏の威を示すにはあまりに規模が可愛らしすぎる。
あれこれチェックすると、平成2年(1990)6月13日の高知新聞に「中村市の大文字送り火 市文化財保護審が確認 一条公ゆかり説覆る 起源250年遅い享保年間」という記事があり、それによると、同審議会が確認したとする原典は、江戸後期の文化八年(一八一一年)に山之内家の家老だった深尾氏の家臣で、国学者の岡宗泰純が著した『西郊余翰』(「南路志翼四十二」に原本収容)の記述。
幡多地域一帯を見聞した泰純は同書に「間崎村西山の山腹に大文字あり」と記し、続けて「享保年中見善寺の僧侶江翁良邑京都東山に模して作りたりとそ」とし、更に「世々一条公の名残といへとも左にあらす」と一条公との関りを否定している。
見善寺は現在の間碕の薬師堂近くにあったとされる。澄禅の『四国遍路日記』にも「真碕ト云所二見善寺トテ妙心寺流ノ禅寺有リ。是二一宿ス」とあるので見善寺があったのは間違いないだろう。 尚、真念は『四国遍路道指南』に「ま崎村、薬師堂有」と記す。
僧侶江翁良邑についてははっきりしないし、そもそも原典となっている書籍が確認されていないようではある。
とはいうものの、一条公ゆかりとする文書も残らず口伝であり、なんとなく享保説のほうにリアリティを感じる。素人妄想。真偽のほど不明。
間碕
四万十川の下流右岸。南の初崎と北の実崎との間が 間崎(土佐地名往来)

津蔵渕集落西端で津蔵渕川を渡り国道321号に
国道をクロスし、津蔵渕左岸を進み津蔵渕集落西端部で橋を渡り国道321号に戻る。国道に出た山側にお堂がある。寺庵と書かれていた。




徳右衛門道標
しばらく国道を進むと、道の右手に赤いエプロンをつけた石仏と石碑。石碑は大師像より下が埋まった徳右衛門道標。徳右衛門道標に特徴的な梵字と大師像、文字は「是*足*」と言った文字が残る。





■伊豆田峠越え■


国道を右に逸れ旧道
国道をしばらく進むと右に逸れる道がある。旧国道のようである。現在の国道321号の伊豆田峠を抜ける新伊豆田トンネルが開通したのが平成6年(1994)というから、それほど遠い昔ではない。 
尚、伊豆田峠越を避け国道321号を進むと全長1650mの新伊豆田トンネルを抜け市野瀬川の谷筋に出る。トンネル手前に覇今大師が建つ。
今大師
今大師の由来には、「この「今大師堂」には弘法大師、不動尊、玉還喜伝坊の三体をお祀りしている。最初のお堂は玉還喜伝坊を祀って明治5年(1872)に建てられた。その後昭和28年(1953)に規模を広めて改築し、新たに弘法大師、不動尊もお祀りするようになった。
さて玉還喜伝坊を「今大師」と称するのは、信者達が坊の並々ならぬ人徳と霊力に敬服して「今大師」とよび、高野山もそれを認めて許していたからだと言う。
坊の出身地は信州筑摩郡瀬波村(長野県諏訪郡富士見町瀬波)である。徳川時代の文化6年(1809)この地に出生、若くして出家し、本州、四国、九州と日本全国を巡歴して50年近くも修行を重ねた。
そして明治4年(1871)四国巡礼のとき幡多郡八東村高野谷にあった植田常蔵宅に宿をとるが、滞在中に病におかされ同年旧10月9日に逝去した。享年63歳。墓碑は坊の希望した現本堂のそばに建てられた。
然し間もなくはるばる泉州堺より「六根祈念行者大菩薩」と刻まれた石塔が送られてきた。つまり坊には二つの法名があり、この法名のもと本州に多くの信者がいたことになる。この石塔は現本堂内にまつられている。
今大師の念忌は明治5年より毎年旧10月9日植田家を先達に多くの信者の協力をえて行われている。平成8年旧10月9日には第126回忌がとり行われた。平成9年3月吉日」とあった。
             
伊豆田隧道
旧国道を進むと右に逸れる道があり、遍路道案内も右への道を示す。遍路道案内を見遣り、旧 国道に残るという伊豆田隧道をちょっと見に行く。遍路道分岐点からほどなく道が突然藪に遮られ、その先に閉鎖された旧国道・伊豆田隧道の入り口が藪の中に残っていた。






伊豆田峠への山道に入る
伊豆田隧道から遍路道の案内のあった場所に戻り、林道へと右に逸れる。ほどなく道の右手に「伊豆田道」の案内。林道を逸れて山道に入る。




伊豆田峠
10分弱歩き、標高を50mほど上げると稜線鞍部に。特に案内はないが伊豆田峠であろう。文字は読めないが標石らしき自然石の石柱が立つ。「七里半」の文字がかすかに読める。足摺山との文字も刻まれているようだ。
峠には茶屋があったようで、如何にも小屋跡といった一画が残る。峠を境に四万十市から土佐清水市に変わる。共にかつての幡多郡に属した地域である。

峠から林道へ
峠からの下りは等高線に沿って少し少し険しい坂を50mほど高度を下げ、その先少し緩くなった垢を更に50mほど高度を下げた後は、緩やかな坂を50mほど高度を下げた、最後にトラバース気味に50mほど高度を下げると舗装された林道に出る。峠からおおよそ1時間弱といったところだろうか。

澄禅は『四国遍路日記』に「イツタ坂トテ大坂在、石ドモ落重タル上二大木倒テ横タワリシ間、下ヲ通上ヲ越テ苦痛シテ峠ニ至ル。是ヨリ坂ヲ下リテ一ノ瀬ト云所ニ至ル」とある。大雨大嵐の後であるとは言え、歩いた感じではそれほど厳しい峠越えではなかったように思えた。地元の方の道整備の御蔭かと感謝。

剛福寺と延光寺への遍路道分岐点
市野瀬川の支流に沿って山裾の林道から里道を南に進み、市ノ瀬川に架かる市ノ瀬橋北詰で県道346号に合流。その北詰に道案内などと共に6基の標石が立つ。

道案内は「県道右折は三原、左折は真念庵前(へんろ道0.2km)、38番金剛福寺29km」とある。三原は宿毛市の39番札所延光寺への途中の集落であり、多くのお遍路さんは金剛福寺を打った後、この地まで打ち戻り土佐最後の札所である延光寺へと向かうことになる。この地が金剛福寺と延光寺への遍路道分岐点ということだ。
案内には「ここより三十八番札所金剛福寺(足摺岬)まで七里の遍路道には、三百五十基の丁石(道標石)が設けられていましたが、道路工事や開発等でその数が少なくなり、現在、約十四キロメートルの遍路道と道沿いには五十五基の丁石が残っております」とあった。
北詰に残る標石は左端に自然石標石。多数の文字が刻まれれるがはっきりしない。その隣、最も大きな板状標石には「あしずり三百五十丁 五社十四里 寺山へ五里 弘化二」といったも文字が読める。その横は手印だけが見える。その横の標石は形から見て真念標石のように思えるがはっきりしない。その横の標石には「左 三十八番 左足摺道七里打戻り 寺山道 昭和七年」といった文字が刻まれる。右端の自然石標石の文字は読めない。


真念庵からあしずり遍路道を金剛福寺へ■

真念庵への標石
市野瀬川を渡り県道を少し進むと、道の右手に2基の石碑。小さいほうには「日本第一霊場 真念庵 昭和十二年」、高いほうは標石。「番外霊場 真念庵一八〇米 三原村経由延光寺二五、六粁 窪津経由金剛福寺 二九、八粁」とある。
その横に真念の案内。 「真念 大阪寺島で活躍していた真念法師は、四国八十八ヶ所札所中 三十七番札所岩本寺から三十八番札所金剛福寺、三十九番札所延光寺までは距離が長く難行道程であるため三寺を結ぶ中間地(市野瀬)に、天和(一六八一から一六八三年)の頃、地蔵大師堂を建立しました。
この地蔵大師堂はいつしか真念庵と呼ばれるようになり庵の前に四国八十八ヶ所札所の本尊仏を設置し、三十八番札所足摺金剛福寺巡礼の打戻りの宿や荷物置場として利用されるようになりました。
この庵から三十八番札所金剛福寺までの七里の遍路道に、一丁間隔で三百五十丁の丁石(道標石)が設けられています。これを「足摺遍路道三百五十丁石」と呼んでいます。
足摺の地は古くから「補陀落東門」(観音菩薩の住む山の東門)と呼ばれ、各地から多くの遍路 (巡礼者)が巡礼に来ています。地図のない時代、知らない土地で、この丁石を頼りに金剛福寺への巡礼をしたと思われます。
これらの丁石の大部分は作州(岡山県)や播州(兵庫県)摂州(大阪府)の遍路と地元の人々によって建てられています
最近、道路などの開発工事で遍路道や丁石が少なくなっていますが、真念庵から足摺三十八番札所金剛福寺までは、約十四キロメートルの遍路道が残っています」とあった。

真念庵
真念庵の案内前の自然石でできた石段を上る。境内右側に最近建て直された風情の新しい大師像が建つ。その対面には二列になった88基の舟形石仏がミニ霊場として並ぶ。ミニ霊場右手の2基の舟形地蔵に囲まれた角柱石碑には正面梵字の下に「真念法師 中開(?)實道」の文字が読める。実道は明治初期の庵主であり、四国巡拝をおこない浄財を集め88体のミニ霊場を造ったとのことである。
舟形石仏の前に自然石の標石。「是よ里足摺山江 三百四十九丁 弘化二」の文字が読める。その右手、地蔵立像の彫られた小さいがなんとなく印象深い石仏の前に、手印と友に「此の方 あしずり道」と刻まれた標石がある。
真念は『四国遍路道指南』に、「市野瀬村、さが浦より是まで里で八里。此村に真念庵といふ大師堂、遍路にやどをかす。これよりあしずりへ七里。但さ々やまへかけるときハ、此庵に荷物をおき、あしずりよりもどる。月さんへかけるときハ荷物もち行。初遍路ハさ々やまへかへるといひつたふ。右両所の道あないこの庵にてくハしくたづねらるべし」と記す。
『下茅の歴史』には、「真念が、お大師さんの遺蹟を訪ねて巡錫中、成川にさしかかったところ、音瀬寺という三十三間堂を模ねたお堂が荒れ放だいになっているので、本尊の地蔵菩薩を市野瀬に移し、弘法大師の像と薬師如来の二体とともに祭り、真念がイオリを結んだ跡」と記す。寺伝には真念が高野山より等身大の大師像を背負い安置したともあるが、この地に伝わる三度栗の話、また「くわず梨」の話と同じく伝説は伝説として聞き置くべし、か。
さ々やま
さ々やまは「篠山(ささやま)神社・篠山観自在寺のこと。愛媛県南宇和郡愛南町正木の標高1065mの篠山に建つ。札所ではないが、往昔より多くのお遍路さんが巡拝した番外札所である。

真念庵より「あしずり遍路道;真念道」を進む
あしずり遍路道標識A
真念庵より先へと「あしずり遍路道」の標識がある。県道に沿った丘陵を10分ほど歩くと県道346号と国道321号が合流する辺りで遍路道は舗装道路に下りる。
石段を下り切ったところに「道標アリ あしずり遍路道」の標識(便宜的に、「あしずり遍路道標識A」とする、以下の標識も同様)があり、その横に丸い自然石がある。標石かもしれない。
メモの段階でわかったことではあるが、この箇所の「あしずり遍路道」は「真念道」と称される。 ここからしばらく国道321号を辿ることになる。

市野々・あしずり遍路道分岐点
あしずり遍路道標識B
国道を少し南下すると右に逸れる道があり、その分岐点に「あしずり遍路道」の標識(あしずり遍路道標識B)が立ち、「真念庵水車口(国道1,7km)-市野々分岐=長野道北口(県道約1.2km)」の案内もある。
国道を右に逸れ旧道に入る。ほどなく道の右手、民家の角に「道標あり(あしずり遍路道)」の標識と共に板状の大きな標石が立つ。文字は読めなかった。
あしずり遍路道
分岐点のあしずり遍路道の標識に「長野道北口」と記されれていた。「長野道」って何だ?チェックすると土佐清水市観光協会のページにあしずり遍路道として「出発点>真念道>長野道>鍵掛道>久百々(くもも)道>ふた浜道>大岐東道>大岐浜道北口>ジンべー道駄馬口>以布利浜道駄馬道>ホウノ谷道>窪津鯨道>下駄馬道>権現道>津呂道>つばき道>赤碆道>赤碆東道>切詰道>足摺岬道>第38番札所金剛福寺」の地図が示されていた。
真念庵の案内にあった「真念庵から足摺三十八番札所金剛福寺までは、約十四キロメートルの遍路道が残っています」とあるのがそれだろう。
出発点は伊豆田峠を越え県道346号に合流した地点、6基ほどの標石の立っていた金剛福寺と延光寺への遍路道分岐点であった。
金剛福寺まで、あしずり遍路道の区間道を頭に入れ乍ら進むことにする。

国道321号に戻る
左折分岐点(遍路タグ
分岐点から少し進むと左を指す遍路タグがある。上述標識にあった長野は未だずっと南。直進すれば上述あしずり遍路道にあった、長野道>鍵掛道と続く。直進べきか、左折すべきか躊躇。
真念の『四国遍路道指南』に「〇市のゝ村〇をがた村、しるし石有。川有、洪水の時ハ下ノかやうら舟渡り有り。此かやうら太郎左衛門其外やどかすなり。常にはをがわしるし石より右へ渡る」とある。 をがた村(小方村)は下ノ加江川左岸。とりあえず、真念の記述に従い左に折れ国道321号に戻る。

小方から旧路に逸れ下ノ加江川左岸を進む

国道321号に戻り、すぐ左に逸れ旧路に入り直ぐ国道に復帰。このあたりで市野瀬川は下ノ加江川に合わさり、下流は下ノ加川として南流する。
下ノ加江川に沿って南に進み小方から左に逸れる旧路に入る。旧道を進み左八坂神社のあるところで右折し下ノ加江大橋に向かう
下ノ加江
植物の茅に由来。燃えやすい茅の字を嫌い霜栢に変 わり、明治には下ノ加江村(土佐地名往来)
小方
下ノ加江川の河口左岸、昔は小さな入り干潟。やが て土地となり集落となる小潟が小方(土佐地名往来)

初崎より東海岸廻り遍路道との合流点
初崎より伊豆田峠を越えることなく、東海岸を歩くお遍路さんもいる。初崎・立石・布経由・下ノ加江まで17キロほど。伊豆田峠越えより3キロ長い。海岸線とはいいながら山が海岸に迫り、前線舗装ではあるが、山道といった道筋ではあるという。

下ノ加江大橋を渡り鍵掛へ
八坂神社で右折し下ノ加江大橋を渡り対岸の鍵掛へ。上述真念の『四国遍路道指南』には、市野々村から下ノ加江川を左岸の小方村に移り、下ノ加江浦で舟で鍵掛村に渡ったように読める。ゆえに、このルートを辿ったのだがなぜ市野々から長野・鍵掛と下ノ加江川右岸を進まなかったのだろう。歩けるような道がなかったのだろうか。



あしずり遍路道:長野道
あしずり遍路道標識C
メモの段階で少し気になり土佐清水市の「あしずり遍路道」を参考にGoogle Street Viewでチェックすると、左折することなく下ノ加川右岸を進むと「道標有り(あしずり遍路道)」の標識(あしずり遍路道標識C)が立っていた。傍に道標は見えなかったが、長野道はこのコースのようだ。 真念の『四国遍路道指南』にも、「 つねにはをがたしるし石より右へわたる」とある。小方から下ノ加江川を渡ればこの「道標有り(あしずり遍路道)」の辺りに出る。長野道が下ノ加江川の右岸を直進するのか、一度左岸に渡り小方村から再度川を渡り直して右岸に出たのか不明ではある。

鍵掛(かいかけ
あしずり遍路道標識Dと標石
下ノ加江大橋を渡ると、橋の西詰、四国霊場巡拝案内所 御接待の一心庵の前に標石と「あしずり遍路道」の標識(あしずり遍路道標識D)。少し新しい標石には「延光寺 金剛福寺 岩本寺」の方向が示される。
この辺りが「 鍵掛道の始点かとも思う。ルートははっきりしないが、国道から逸れる旧道が通る。それが鍵掛道かもしれない。旧路から国道に戻り、左に浜を見遣りながら久万地岬を進む。
鍵掛(かいかけ)
中世以前の地名で古くはかぎかけ、かぎがけ。カケ は崩壊地名。カイは欠きから転じたもの

久百々(くもも
あしずり遍路道標識E
あしずり遍路道標識F

久万地岬を廻り込むと久百々の浜に出る。遍路道は浜を走る国道を右に逸れ山裾を進む。直ぐ久百々に架かる橋。橋の北詰に「あしずり遍路道」の標識(あしずり遍路道標識E)。ここが「あしずり遍路道」の久百々道の始点かとも思う。
旧道を進み再び国道に合流する手前に「あしずり遍路道」の標識(あしずり遍路道標識F)。そのまま国道に戻る。
あしずり遍路道・久百々道
当日はそのまま国道に出たのだが、メモの段階で標識をよく見ると山に向かって進むようにも見える。久百々道は標識から道に折れ山道に入り双浜に向かうのかとも思える(推定)。

ふた浜
あしずり遍路道標識G
当日は山道に入ることなく国道321号に戻り「ふた浜」に進む。浜の南端、小川を渡ると「あしずり遍路道」の標識(あしずり遍路道標識G)。当日はそのまま蟻碕の岬へと先に進んだ。





あしずり遍路道・ふた浜道
あしずり遍路道標識H
これもメモの段階で標識を見ると、国道を進むことなく山道に入る案内ではないかと思えてきた。その根拠は、蟻碕の岬にある漁港の辺り、旧道が国道に合流する箇所に「あしずり遍路道」の標識が立っていたため(あしずり遍路道標識H)。「あしずり遍路道・ふた浜道」は山側の道を進み国道合流点の標識に出て来たのかもしれない(標識たけからの推測)



大岐東道
あしずり遍路道標識I
蟻碕に入ると国道から法面壁手前から右に逸れる道がある。入り口左側には舟形地蔵。右側には」あしずり遍路道」の標識(あしずり遍路道標識I)が立つ。遍路道はここで右に逸れ旧道に入る。

 

旧道に入ると右手に標石。さらには地蔵を祀る小祠、欠けた石造物などが目に入る。国道の山側を進む「あしずり遍路道」はほどなく国道32号に合流する。
この箇所は土佐清水市の「あしずり遍路道」にある「大岐東道」だろう。

大岐浜
国道に合流するとほどなく道の左手、海側に展望・休憩スペース。「大岐松原」の案内。「大岐松原は官有地であったが、上灘村三代目村長の十年の長きにわたる運動により終に払下に成功した。当時は今の倍位あったものが半分は開墾し畑にして部落民にわかち与え、現在残っているのは部落共有である。
松原の由来は不詳でであるが古老の言によれば江戸時代野中兼山の植林せものが樹齢三百年、三年、高さメートルの松になったものという。
天空に聳え林立して壮観なものであったが、昭和三十年頃、マツクイムシのために括れて、長さ十八メートル、節悪しの見事な木材として浜より高知市種崎の造場所に運ばれた、現在は古本は 一本もなく、海寄りの松の内、大きいものは七十年位前に大岐青団の手により植林されたものである」とある。
砂浜に沿って続く松林がそれだろう。

下港山へのあしずり遍路道
あしずり遍路道標識J
遍路道は直ぐ先、国道を右に逸れ浜垣集落に入る旧路を進んだ後国道に戻り南下、大岐浜が切れる辺り、大岐南橋を渡ると左に逸れる旧道がありそこに「あしずり遍路道 大分岐2.1km」の標識(あしずり遍路道標識J)が立つ。国道を逸れ下港山の集落へと進む。




大岐浜道北口
あしずり遍路道標識K
上述、展望・休憩所で大岐浜を見ていると、大野川と大岐川が合わさり海に注ぐ流れに橋が架かる。この橋を渡り浜を進むお遍路さんもいるようだ。どこから浜に入るの探してみる。
展望・休憩所より少し先に進むと浜に出る道があり、そこに「あしずり遍路道」の標識(あしずり遍路道標識K)が立つ。「あしずり遍路道」にあった「大岐浜道北口」がこのあたりかもしれない。 大岐浜道は上述大岐南橋を渡り下港山集落に進む旧路に上がってくるのだろう。当日はその上り口を見逃した。

以布利
「四国のみち」指導標X
「四国のみち」指導標Y
下港山の旧道を進み国道に合流。その先旗陽小学校の先で遍路道は国道56号を離れ以布利の町に入る。道なりに進み、以布利港を越えると道は上りとなる。その上りはじめる道の左手に「四国のみち」の指導標。坂を上り北へと大きく蛇行する北端に「四国のみち 大岐 窪津」の指導標が立つ。その先で県道27号に合流。ここが窪津への分岐点。窪津へはこの分岐点を左に折れる
あしずり遍路道・ジンべー道駄馬口
あしずり遍路道標識L1
あしずり遍路道標識L2
土佐清水市の「あしずり遍路道・ジンべー道駄馬口」はこの道筋の辺り。メモの段階でGoogle Street Viewでチェックすると国道321号から以布利の町に左に折れる分岐の少し北に「あしずり遍路道」の標識(あしずり遍路道標識L1)があった。位置からすればこの辺りがジンべー道駄馬口ではあろう。
更にGoogle Street Viewでチェックすると、国道から逸れた旧道から港へと左に折れる道を進むと左に逸れる分岐点に「あしずり遍路道」の標識(あしずり遍路道標識L2)が立つ。
道を左に逸れ、再び旧路車道に合流し港へと向かうと、切通状の道の左手に「遍路道」の案内があった。これが「ジンべー道駄馬口」の道筋かどうか不明だが、海岸を進む遍路道ではあったのだろう。
また、当日は由布利の町を抜け、「四国のみち」の標識を見遣りながら車道を県道27号・窪津分岐へとすすんだのだが、遍路道は坂を上る手前、道の左手にあった「四国のみち 大岐 窪津」の指導標(「四国のみち」指導標X)からから車道を左に逸れ坂を上る。すぐ蛇行して上ってきた車道とクロス。そこが上述「四国のみち 大岐 窪津」の指導標(「四国のみち」指導標Y)が立つところ。そこから車道を横切り更に上り県道27号窪津分岐に数むようである。
駄馬
駄馬は河岸段丘の意味との記事があった。

窪津分岐
あしずり遍路道標識M
窪津への分岐点には舟形地蔵など3基の石造物。道を左に入り先に進むと「あしずり遍路道」(あしずり遍路道標識M)の標識。道は海岸側から合流している。







あしずり遍路道標識N
さらにその先、南西に切り込む沢筋を大きく迂回すると突端に「あしずり遍路道」の標識(あしずり遍路道標識N)と「四国のみち 以布利1km 窪津4km」の指導標、そして「金剛福寺」と刻まれた結構新しい道標が立つ。






あしずり遍路道標識O
あしずり遍路道標識P
沢を迂回し、更にもうひとつ沢を迂回するとその先、道の左右に「あしずり遍路道」の標識が立つ。 谷川の標識には「四国のみち 以布利1.5km 窪津3,7km」(あしずり遍路道標識O)とあり谷筋から上ってきている。また山側の「あしずり遍路道」の標識(あしずり遍路道標識P)は車道を逸れて山側に入っている。
はてさて、これはどういうこと?あれこれチェックすると今まで辿ってきた遍路道とは異なる「あしずり遍路道」が現れた
海岸廻りの遍路道
ジンべー道駄馬口もそうだが、それ以外にもGoogle Street Viewでチェックすると以布利港の西に窪津分岐へと辿った道を左に折れ浜方面に向かう遍路道案内がある。
漁港を越え砂浜を少し歩き山道に入る。山道を上り切ったところが上述、窪津分岐の先で出合った「あしずり遍路道」の標識(あしずり遍路道標識M)のところのようだ。
そこから車道を歩き、これも上述金剛福寺の石碑があったところに進むが、この石碑のあるところいが「あしずり遍路道ほうの谷道」のスタート地点(あしずり遍路道標識N)。あしずり遍路道はここから沢に下り、上り返したところが、これも上述「四国のみち 以布利1.5km 窪津3,7km」の「四国のみち」指導標(あしずり遍路道標識O)の箇所。

あしずり遍路道標識Q
ここから遍路道は車道をクロスし、山側にあった「あしずり遍路道」(あしずり遍路道標識P)の標識から山道に入り伊予駄馬へと向かうようだ。車道を進むと尻貝の浜の先、民家の建傍で大きく道が弧を描く道の山側に「あしずり遍路道」の標識(あしずり遍路道標識Q)が立っていた。伊予駄馬道の出口ではあろう。
上記「あしずり遍路道」はその標識を基にしたあくまでも推定コース。当日は「あしずり遍路道」の標石が旧路を案内するものとは思わず、ルートがオンコースである目安程度であろうとに歩いていたのだが、もう少しちゃんと調べておけば結構面白そうな遍路道を歩けたのに、と常の如く後の祭り。今回は残念な思い強し。

県道27号と県道347号分岐点
あしずり遍路道標識R
海岸沿いの鬱蒼とした樹林帯の中、道を進むと県道27号と県道347号が左右に分かれる分岐点に出る。分岐点には「四国のみち」の指導標。「窪津1.9km  以布利3,3km」とある。
遍路道は左へと県道27号に折れる。そこには「あしずり遍路道」の標識(あしずり遍路道標識R)が立っていた。
当日は、遍路道オンコースの案内であろうと海岸沿いの道を進み窪津の町へと入った。
あしずり遍路道・窪津寺下道
メモの段階でチェックすると、県道分岐点の「あしずり遍路道」標識の直ぐ先から山に入るようだ。Google Street mapでチェックすると右手に山に入る道が見える。ルートははっきりしないが、窪津寺下道と称されるように、山中を進み窪津の町にある海蔵院辺りで里に出るようだ(推定)。




窪津
窪津鯨道が象徴するように、窪津は東海岸最大の漁港。藩政時代は捕鯨、と言うか、鯨の生け捕りで栄えた町とのこと。このあたりの古名は「伊佐」とのことだが、それは鯨(いさな)由来と言う。昭和初期まで伝統的捕鯨が続いたようだ。
当日は窪津を抜け海岸沿いの県道27号を津呂へと向かった。
あしずり遍路道・下駄馬道
あしずり遍路道標識S
四国のみち」の指導標と遍路道案内
窪津漁港の南端、窪津の旧道が県道に合流する箇所に「四国のみち」の指導標が立つ。その傍に遍路道案内があり、県道と逆方向を指す。この県道を右に逸れる旧道から山道に入る遍路道があるようだ。清水市観光教会の資料にある「下駄馬道」がそれだろう。地図にも窪津碕をぐるりと廻る県道をショートカットし、丘陵部を進み県道に続く実線が描かれている。その県道合流部には「あしずり遍路道」の標識(あしずり遍路道標識S) が立っていた。
あしずり遍路道・権現道
あしずり遍路道標識T
あしずり遍路道標識U
下駄馬道が県道に合流するところ(推定)から更に南に進むと権現という地名がある。Google Street Viewでチェックすると松碆の辺り、道の右手に「あしずり遍路標識」(あしずり遍路道標識T) があった。更に南、柳駄馬辺りで道の左手から県道に合流する箇所に「あしずり遍路道」(あしずり遍路道標識U)の標識があった。
想定するに、北の標識より県道を右に逸れた遍路道は南下し県道を横切り柳駄馬にあったあしずり遍路標識のところに出るのだろう。

津呂道
あしずり遍路道標識V
県道27号を進み左に金毘羅宮を見遣り先に進むと、道の分岐点に3基の石仏が立つ。遍路道はここで県道を離れ右に逸れる道に入る。分岐点には「四国のみち」指導標、「あしずり遍路道」(あしずり遍路道標識V)の標識も立つ。





2基標石
道を進むと右手に「道標あり(あしずり遍路道)」の標識。傍に自然石の標石2基。大きな標石には「六十五丁」の文字、また「七ふしぎ」の文字も刻まれる。「七ふしぎ」って何だろう。 その横、誠に小さな標識には「五十六丁」と刻まれる。


3基石造物
右手の竈戸神社社の先に遍路墓。少し進むと「道標あり(あしずり遍路道)」の標識があり石造物3基。右端は「五十五丁」、その横は「五十*丁」と読める。左端は文字は読めなかった。
先に進むと石造物の並ぶ覆屋。その先で遍路道は県道27号に戻る。県道合流点には「遍路道」案内が立っていた。
この遍路道はあしずり遍路道・津呂道である。
津呂
津呂は山間で川水の淀んで波静かなところを指すトロ(瀞)の土佐での転化とも言われる。この地の津呂も自然の浦曲の状をなし、内部に侵入した海水もここでは穏やかな淀みになっていたものと考えられる、と「四万十町地名辞典」にある。

あしずり遍路道・赤碆東道分岐点
あしずり遍路道標識W
津呂道から県道に戻った遍路道は県道27号を駄馬、大谷、赤碆、赤碆東へと進み県道から左右に道が分岐する箇所に「あしずり遍路道」の標識(あしずり遍路道標識W)が立つ。土佐清水市のあしずり遍路道の案内と比較すると、この分岐点が「あしずり遍路道・赤碆東道」への分岐点かと推定する。
あしずり遍路道
津呂からこの赤碆東道分岐点までにもあしずり遍路道がある。津呂道を出た先、駄馬地区のあたりに「つばき道」があると言う。標識はみつからなかった。つばき道とは、この辺り河岸段丘面に強風を避けるために椿を植えたゆえではあろう。
「つばき道」の先に「赤碆道」があると言う。赤碆地区を下り、白碆と黒碆の岩礁部の間、赤碆東地区の海側に「赤碆道」のマークが示されるが、県道にはその出入口の標識は見るからなかった。

舟形標石
あしずり遍路道・赤碆東道分岐点から海岸に沿って県道27号を南下。右に伊勢宮の小さな社を過ぎると道の右手に舟形地蔵。横に消えかけた手書きの案内があり、「この石地蔵は金剛福寺への 道しるべ"として建てられたものです。県道開通以前の旧道には、足摺のお山にかかる切詰の谷から金剛福寺までの約八百八十メートルの間にこのような石地蔵が一丁(約百十メートル)ごとに八体建てられおり、ここからはお寺まで一丁あります」とある。
あしずり遍路道・切詰道と足摺岬道
この案内に拠れば、海岸沿いの県道ができる前は赤碆東道分岐点を右に折れた後、丘陵の中を抜けこの舟形地蔵のところに出て来たようだ。その遍路道が切詰道であり、足摺峠道ではあったのだろう。土佐清水市の案内にはあしずり遍路道・赤碆東道分岐点から県道を離れ右に折れると道は南下しヘアピン状で曲がる突端あたりに「切詰道」のマークがあり、道から離れた南に「足摺岬道」のマークがある。
国土地理院の地図には県道の山側に破線が描かれている。この破線に沿って遍路道は続いているのだろうか。

第三十八番金剛福寺
舟形標石の先、足摺岬を廻ると第三十八番金剛福寺に着く。 本日のメモはここまで、次回は金剛福寺から土佐最後の札所延光までの遍路道をメモする。

岩本寺を打ち終え次の札所はあし足摺岬突端に建つ金剛福寺。真念の『四国遍路道指南』には「別当岩本寺くぼ川町に居。是よりあしずり迄廿壱里」とある。単純に一里4キロで計算すると84キロとなるが、事実は少し異なる。
「みちのりは、あハととさハ(私注;阿波と土佐は)五十一丁一り、いよとさぬきは、三十六丁一り」といった記録もあり、阿波では一里48丁(5.2km)、土佐50丁(5.5km)、伊予と讃岐は36丁(4km)ともあった。現在では一里4㎞とするが、それが通用するのは伊予と讃岐だけ。理由は不詳だが、かつては国によって一里の距離が異なっていたようだ。
これをもとに計算すると 21(里) X 51(丁) X 109(m)=116,735(メートル)、つまり117キロ弱となる。昔のお遍路さんは3泊4日の遍路行であったよう。
メモは2回に分ける。今回は岩本寺から旧土佐中村市(現四万十市)の左岸、往昔渡しのあった竹島大師堂までをトレースする。距離はおおよそ50キロほどだろうか。
途中、知らずはるか昔の四万十川(古四万十川)が太平洋に注いだ伊与木川の谷筋を歩くことができた。現在四万十川は源流より東流し大きく弧を描き旧土佐中村市で太平洋に注いでいるが、それは南海トラフの地殻変動で海岸部が盛り上がり(興津ドーム)、海に落ちることができなくなり、東へと流路を求めた結果であった。
遍路歩きとは全く関係はないのだが、地形フリークのわが身には誠にありがたい出合い、セレンディユピティであった。
ともあれ、メモを始める。



本日の散歩;
■第三十七番札所 岩本寺>水車亭の標石群>国道56号を峰ノ上・片坂越え分岐点に
■片坂越え;(旧遍路道土径に>片坂第一トンネル東口上を歩き国道56号に下りる>市野瀬に下る)>市野瀬で伊与木川筋に出る
■荷稲>伊与喜>熊越坂>徳右衛門道標と地蔵堂>土佐佐賀の石地蔵群>横浜トンネル南口で国道に戻る>井の岬を廻る>松山寺跡>安政地震の碑>有井で国道に合流>王迎浜の碑>浮鞭(うきぶち)の大師堂>入野松原>県道42号を馬越分岐へ>県道20号を左折し下田の渡しへ>高島の渡し・竹島大師堂



岩本寺から片坂越えに

第三十七番札所 岩本寺
岩本寺を離れ山裾を東に向かう。すぐに土佐くろしお鉄道中村線の高架を潜り、山裾をぐるりとまわり国道56号へと向かう。
土佐くろしお鉄道中村線
土佐くろしお鉄道は高岡郡四万十町の窪川駅と四万十市の若井駅を結ぶ。途中、四万十町の若井駅から全長2134mの若井トンネルを抜けた先、川奥信号所で予土線が分岐する。土佐くろしお鉄道は川奥信号所からすぐループ式トンネルの第一川奥トンネルに(2031m)に入りグルリと円を描き50mほど高度を下げて伊与木川支流の渓谷に沿って南下する。
一方、川奥信号所で分岐した予土線はすぐ先でトンネルに入り、家地川の谷筋を北へ進み四万十川近くの家地川駅に向かい、北宇和島駅で予讃線に繋がる。予土線は北宇和島・川奥信号所までの72.7キロがその路線ではあるが、川奥信号場と若井駅 間は土佐くろしお鉄道中村線・予土線共に属する重複区間となっており、宇和島と窪川駅が直接結ばれている。

水車亭の標石群
国道56号に合流する手前、大きな水車がトレードマークの水車亭の駐車場脇に5基の標石。「八十八ヶ所道標 明治四十互年頃、近郷の有志が建立した道しるべである。その志を後世に伝えたい。合掌 平成四年」と書かれた案内も立つ。
大岩に置かれた3基は右から「順 四国三十八 二十一り 逆三十七番へ四丁 三十六番まで十三里 明治四十五年」、その横、猫脚台に乗る標石には大師座像と「右 左 四国」と言った文字が残る。左端の標石の文字は読めない。
大岩の横に2基の標石。右手の上部破損の標石には「拝みちしる志 七番 八番」といった文字、左手の自然石標石には「右ハへんろみち 左よつしわ道」といった文字が刻まれる。「よつしわ道」は与津や志和を指すのだろうか。

国道56号を峰ノ上・片坂越え分岐点に
国道56号と合流するとすぐに東から流れてくる見付川が吉見川と合流する地点に。共に窪川台地の南に連なる五在所の峰(標高658m)より流れ出す四万十川の支流。
遍路道は吉見川が開析した谷筋を南下する国道56号をその最奥部まで進み、五在所の峰から西に繋がる丘陵鞍部を上る。丘陵鞍部といっても谷筋との比高差は30mほど。それでもこの丘陵を境に水系が四万十川水系の若井川へと変わる。若井川の源流部の流れに沿って進み峰ノ上に。 遍路道はここで国道を逸れ片坂越えの道に入る。


■片坂越え■

旧遍路道土径に
国道分岐点から峰ノ上集落の中を進む。途中、溜池から若井川に注ぐ水路を横切り。右手に天満宮の鎮座する小丘陵を見遣り、さらに丘陵より若井川に注ぐ沢を越え、丘陵に切り込んだ谷の最奥部まで進む。ここまで続いた舗装も切れ土径へと入る。
行政区域も高岡郡四万十町から幡多郡黒潮町に変わる。

片坂第一トンネル東口上を歩き国道56号に下りる
土径を15分弱歩くと国道56号に抜かれた片坂第一トンネル東口上に出る。東口端のフェンスよりに片坂第二トンネル西口を見遣りながら片坂第一トンネル東口、国道南側に出る。




市野瀬に下る
片坂第一トンネル東口、国道南側に下り切ったところに遍路道案内のタグと比較的新しい標石。「南大師遍照金剛 金剛福寺七五粁」と刻まれる。




市ノ瀬の国道56号に合流
案内に従い遍路道はそのまま土径を伊与木川支流の谷に向かって下り市野瀬集落で国道56号に合流する。国道56号は片坂第一、片坂第二トンネルを抜け、ヘアピンカーブを経てこの地に至る。
市野瀬
「中世以前からの地名で一の瀬・一野瀬・市ノ瀬。川の上流の坂を下ったところ。市は一番目の瀬(桂井) (土佐地名往来)

四万十川の流路変遷
上述の如く、現在峰ノ上の丘陵を境に四万十川水系と伊与木川はその分水界を分けるが、太古の昔、不入山にその源を発した古四万十川は土佐を大きく西龍することなく峰ノ上・片坂越えで出合った若井川から伊与川へと流れ太平洋に注いでいた、という。
四万十川流路の変遷をちょっとまとめておく;
全長196キロという四万十川には、大小合わせると70ほどの一次支流、200以上の二次支流、支流に流れ込む300以上沢があると言われるが、その中でも幹線となるのが、高岡郡津野町の不入山から南下し窪川に下る松葉川(現在目にしている流路)、四国カルストの山地から下り四万十町田野野で本流に注ぐ梼原川、愛媛の北宇和郡の山間部にその源を発し、四万十市西土佐の江川崎で本流に注ぐ広見川の三川とのこと。その三つの幹線支流を繋ぐのが「渡川」とも呼ばれる四万十川の川筋である。
現在、海から最も遠い地点ということで源流点となっている、不入山の源流点から南下してきた四万十川は窪川の辺りでその流れを西に変え、その後北西に大きく弧を描き、山間の地を、蛇行を繰り返しながら、田野野で梼原川、江川崎で広見川を合せ四万十市中村で土佐湾に注ぐ。 これが現在の四万十川の流路であるが、上述の如く、太古の昔不入山にその源を発した古四万十川は土佐を大きく西龍することなく峰ノ上・片坂越えで出合った若井川から伊与川へと流れ太平洋に注いでいた、という。
いつだったか偶々図書館で見つけた『誰でも行ける意外な水源 不思議な分水;堀淳一(東京書籍)』にあった「海に背を向けて流れる川 四万十川の奇妙なはじまり(高知県高岡郡窪川町・中土佐町)」というトピックにあった、「四万十川は奇妙な川である。その最東部の支流である東又川は、土佐湾の岸からたった二キロしか離れていない地点からはじまっているのに、海にすぐ入らず、海に背を向けてえんえんと西へ流れ。。。」といった記事に惹かれ、二度に渡って訪れた散歩チェックした四万十川の流路変遷のメモ以下再掲する(「四国四万十川の後期第四系,特に形成史に関して(満塩大洸・山下修司;高知大学理学部地質学教室)」の記事を参考に作成)。
約70万年から40万年前;若井川経由で伊与木川から土佐湾に注ぐ
約70万年から40万年前、まだ南海トラフの跳ね返りによる海岸線の山地(興津ドーム)の影響を受ける前、古四万十川は与津地川から興津に落ちるものと若井川を経由して伊与木川から土佐湾に落ちるものがあった。
因みにその頃は、江川崎から現在の四万十川河口までには河川は存在していなかったか,あるいは,存在していても小規模のものであった、と。
私注:若井川経由の伊与木川とは、片坂越えで市野瀬に下った伊与木川支流の谷筋がその流路だろうか。その伊与木川支流の源頭部は片坂の尾根を境に若井川源頭部と誠に短い距離で近接している。
約40万年前から10万年前;興津ドームの影響を受け、若井川・羽立川経由で伊与木川から土佐湾に落ちる
興津ドーム隆起の影響を受け始めた約40万年前から10万年前には、古四万十川の西方への逆流が始まり、興津への出口を失いはじめた川は,窪川町付近における湖沼の時代を経て,若井川に加えて羽立川を排出口にした、とある(私注;羽立川か家地川のどちらかを経由して現在立っている伊与木川の谷筋を経て土佐湾に注いだということだろう。羽立川と家地川は後述)。 江川崎あたりから四万十川河口までの河川は, いまだ小規模であり,本格的なものではなかったようだ。
約10万年前から1万年前
この時期では,さらに興津ドームの隆起の影響を受け,古四万十川が西流をはじめたため、伊与木川にも水は流れなくなった。
いっぽう十和村付近(現在は四万十町;梼原川の合流点の少し下流)から江川崎,また,江川崎から現在の四万十川河口までの範囲が本格的に形成さしれ始めた.ただし,時期的には後者の方が前者より早く河川として成立していた。
約1万年前から現在
四万十川は現在みられるような流れとなった。

川の生成史では、流域は時間軸に従えば、V字谷>U字谷>準平原となるところ、四万十川では窪川盆地が準平原、その下流にV字谷やU字谷がある。とすれば、初期の流れは窪川辺りから南へ土佐湾に注いでいたであろうことは納得できる。 現在の「海に背を向けて流れる」四万十川の流れは、海岸線に出来た山地・興津ドームに南下を阻まれ、西流することになった「新しい」流れのようだ。「新しい」とは言え、はるか、はるか昔、10万前年から1万年の事ではある。


片坂越えから四万十川の渡しへ

市野瀬で伊与木川筋に出る
思わず知らずではあったが、はるか、遥か昔の四万十川の流路跡らしきルートを辿り市野瀬で伊与木川本流の谷筋に出る。
遍路道は国道56号を横切り伊与木川左岸の旧道を進む。しばらく歩き大前橋で国道56号をクロスし伊与木川右岸の旧道に移り、拳の川(こほ(ぶ)しのかわ)で国道56号に合流する。
伊与木の由来
「イオ、イヨ」は土佐で魚を指す。「木」は場所の意であるので、魚の豊富な場所、といった説がある。

荷稲 
国道56号をしばらく下ると荷稲。「かいな」と読む。荷稲とは「カイ(峡)は山と山の間、両方から山が迫ってくる地形。荷稲は峡野の転訛では(桂井氏)(土佐地名往来)」とある。
「稲をかうる(になう)」といった地名由来もあるが、伊与木川が形成する渓谷を「佐賀谷三里」と称し、荷稲はその中ほど。『四国遍礼名所図解』にも「是(市野瀬)より佐賀町、四里の間谷合にして家少なく用心悪し」と記されているので、「峡野の転化」が納得感が高い。
渓谷と言えば、伊与木川本流筋も渓谷ではあるが、上述川奥信号所でループして南下し土佐くろしお中村線の荷稲駅に至る谷筋も結構な渓谷である。土佐の片峠・四万十川の源流を辿る散歩の折り、この渓谷を走ったことがあるが、誠に狭隘な谷筋であった。
古四万十川の流路
この狭隘な谷筋を下り荷稲で伊与木川本流に注ぐ伊与木川支流の川奥川は、遥か、はるか昔、上述の如く古四万十川が西流することなく太平洋に注いだ流路である。
ループ線のある峠を境に北は四万十川水系の家地川と羽立川、南には伊与木川支流・川奥川の最奥部の谷筋が近接している。いまでもちょっとした近く変動が起これば、南北が繋がり四万十川の流れが伊与木の谷筋に流れ込みそうである。
この峠も片峠となっており、片峠の姿を時間すべく家地川そして羽立川の源頭部を辿り歩いたことが思い出される。

伊与喜
荷稲からしばらく国道56号を伊与川に沿って進み伊与喜の町に。伊与喜はこの辺り、伊与木郷の中心であったところ。一条教房が応仁二年(1468)に幡多中村に入国の後、文明二年(1470)に京都から堀川大炊助藤原信隆を招き、文明十年(1478)に伊与木城を築城した。藤原信隆は1200石を給され初代城主となり以来伊与木氏を名乗る。伊与木城跡は伊与木川の左岸、川に突き出た丘陵上に残る。
戸たてずの庄屋
この地の大庄屋の家に泥棒が入り込み、コメを盗んで逃げようとするも足が動かず捕まってしまった。この話が近郷に伝わり庄屋屋敷の敷居を削り持ち帰る村人が絶えなかった、と。これが前述岩本寺に伝わる大師の由来の七不思議のことだろうか。場所の比定はできなかった。
同様の話は愛媛の南予・愛南町正木にもあり、そこでは「戸たてずの庄屋」とも「戸たてずの楠」として伝わる;庄屋屋敷の楠に上り悪さをしていた天狗が家人の放った矢にあたり地に落ちる。家人は翼を返してやったところ天狗は喜び、「以降家に泥棒が入らぬようにする」と言い残し去っていった。天狗ではなく篠山権現のご加護といった話もあるが、それはともあれ、その後泥棒がこの家に入るも足が動かなくなり捉えられた。以降、近郷の村人は盗難除けに庄屋屋敷の敷居を持ち帰るようになった、と。
篠山権現
篠山(ささやま)神社・篠山観自在寺のことだろう。愛媛県南宇和郡愛南町正木の標高1065mの篠山に建つ。札所ではないが、往昔より多くのお遍路さんが巡拝した番外札所である。

熊越坂
土佐くろしお鉄道中村線・伊与喜駅を越えて少し下ると国道左に熊野神社。遍路道はここから国道56号を左に逸れ熊井の集落に入り熊越坂の旧路に入る。残念ながら散歩当日は旧路にあるトンネル先で工事通行止めのため国道56号を南下することにした(注;ルート図には熊井トンネル経由の道を記す)。
熊井トンネル
旧路にある熊井トンネルは情緒のある古いトンネルのようである。トンネル傍の案内には「熊井 トンネル 明治三十八年(一九六五)十二月に工事が完成し、長さ九十メートルあり、『トンネルというものは入口は大きいが、出口は小さいものじゃのう』と云った人があるという。
レンガは佐賀港から一個一銭の運び賃で小学生などが一~二個づつ運び、熊井側入口の石張は二人の職人が右と左に分かれ腕前を競ったといわれる。
昭和十四年(一九三九)までは県道として利用されたが、現在はわずか土地の人の通行に利用されているのみである」
熊井
上述熊野神社の由来には、「寿永年間 源平戦乱の後 弁慶の父別当田辺湛増は紀州より舟で熊野浦に上陸。文治二年末 熊居に移り 熊野三所権現を鎮座する」とある。熊居>熊井と転化したのだろう。

徳右衛門道標と地蔵堂
国道を進み上分集落で国道を左に逸れる旧道に入る。熊井トンネルを抜けた熊坂越えの遍路道との合流点に徳右衛門道標。「是より足ずり迄十六里」とある。傍には地蔵堂も。
遍路道は旧路を南下しほどなく国道に合流する。




土佐佐賀の石地蔵群
国道に合流した遍路道はほどなく国道を左に逸れる旧道に入る。丘陵裾に沿って進み道の右手に土佐佐賀駅を見遣りながら丘陵南裾に廻り込んだところに石地蔵堂。百基ほどもあるだろうか。 中に遍路墓らしき石碑も見える。

横浜トンネル南口で国道に戻る
佐賀の町を進み伊与木川に架かる佐賀橋を渡り、鹿島ヶ浦やその沖合に鹿島を見遣りながら道を進み横浜トンネル南口の先で国道56号に戻る。かつては鹿島ヶ浦と呼ばれていたようである。
土佐佐賀
伊与木川の河口に開けた町。ブリ大敷網漁業や足摺岬沖のカツオの一本釣り漁業の基地。江戸時代は捕鯨で知られた。かつての幡多郡佐賀町。現在は平成18年(2006)佐賀町の西に隣接する大方町と合併し幡多郡黒潮町佐賀となっている。
幡多郡
地図を見ていると現在幡多郡に属する町はこの黒潮町、三原町、大月町と飛び地のように離れている。かつての幡多郡はこの三町に加え、現在の宿毛市、四万十市、土佐清水市、高岡郡四万十町の一部を含む土佐最大の行政域であった。

国道56号を逸れ井の岬を廻る
遍路道は国道56号を南下する。海に落ちる山地と海岸の間を走る国道は、今でこそ整備されているが、往昔海岸線を辿る遍路道は結構大変だったことだろう。土佐白浜駅の先で山地を穿つ「井田第一トンネル」と分かれ、国道は更に南下し灘に至る。この辺りはかつての大方町。現在は佐賀町と合併し黒潮町となっている。
国道56号は灘から山地の東西幅最短部を「井の岬トンネル」で黒潮町井田に抜けるが、遍路道は国道を離れ更に南下し、井の岬を廻り井田に向かう。分岐点には「四国のみち:指導標が立つ。「土佐 入野松原へのみち」と刻まれる。
もっとも、分岐点とは記したのだが。「四国のみち」の示す方向がよくわからない。国道を直進するようも見える。その先「井の峠トンネル」があるが、その辺りはそれほどキツイ丘陵越えでもなさそう。往昔トンネル上を辿る遍路道があったのかもしれない。井の峠を廻るより結構なショートカットになる故の妄想である。


松山寺跡
岬を廻り切ったところに右に折れる道。岬を廻ってきた道と「井の岬トンネル」を出た国道56号を繋ぐこの道を右に折れたところに多くの石仏とともに松山寺跡の案内、「松山寺跡 清岸山東光院松山寺、真言宗 本尊薬師如来、並に地蔵菩薩。開山は空海と伝えられる。
往時はこの寺山に伽藍が聳え立ち、法燈は栄え、藩政時代にはお馬廻り三百石権大僧都の格式で、夕陽に映える寺山は古き頃『幡東八景』の一つでもあった。明治初年廃仏棄釈の政策により廃寺となる。
寺宝として土佐守紀貫之の『月字の額』が伝承され、古来南路志をはじめ多くの文献により京師の月郷雲客の間に喧伝され、その観賞価値は次第に高まっていった。寛政二年、中村の郡奉行尾池春水の『月字額之記』及び弘化二年、京の歌人一人一首読み人百三十七人による『月字和歌集」など原本のまま今も残り、寺跡には歌碑もある」とある。
月字額
国司館跡の「月字」
案内の後半がよくわからない。チェックする;ある年、松山寺の煤払いのとき梁上にあった扁額を無用のものと焼き棄てようとしたが、途中で思いなおし焼け残りの「月」の一文字を取り上げて残し置いた。その話を聞き及んだ尾池春水が紀貫之の真筆と相違ないと京都の日野大納言資枝に鑑定を依頼。資枝は真筆と認めた。紀貫之が土佐守として国府にで書いたものが松山寺に移されたものか、松山寺に立ち寄った折に書いたものかと伝わる。
『月字額之記』はそのままだが、それ以降の「京の歌人。。。」は、尾池春水没後30年ほどした紀貫之没後900年忌に合わせ、一橋家の執事野々山市郎左衛門包弘が,貫之の月字の搨本(とうほん;拓本)を入手・感激し,それを模刻して諸方の文筆愛好家に贈り,それらの人々から和歌を求めて一帖を作った、これが「月字和歌集」。百三十七人が皆月字の額を詠む。
参道を上ると歌碑などが残るのことだが、当日は参道口を見付けることができなかった。案内あたりからジグザグの参道があるようだ。
と、ここまでmemoした後、この話どこかでメモしたように思えて来た。そう、第二十九番札所国分寺近くの国司館跡(紀貫之邸跡)に上述と同じメモをしていた。そこには「月」の字のレリーフも造られていた。

安政地震の碑
松山寺跡から少し西に進んだ道の右手に自然石の「安政地震の碑」がある。石碑に刻まれた文字の最後に「松山寺住文瑞」の文字が読める。松山寺住職文瑞和尚の建立とのことである。





有井で国道56号に合流
遍路道は伊田川に架かる橋を渡り伊田漁港前を進み、その先で国道56号に合流する。この地には伊田第一トンネルを抜けてきた土佐くろしお鉄道中村線が近接し、すぐ西に有井川駅がある。
有井庄司
駅の北の丘に有井庄司の墓がある。有井庄司は元弘の乱(1331年)で敗れ土佐に流された尊良親王(後醍醐天皇の第一皇子)をかくまった鎌倉時代の勤王家。鎌倉幕府後滅亡後、帰京した親王が病死した有井氏を悼み送られた五輪塔と言う。
○元弘の乱
元弘の乱(げんこうのらん)は、鎌倉時代最末期、元徳3年4月29日(1331年6月5日)から元弘3年6月5日(1333年7月17日)にかけて、鎌倉幕府打倒を掲げる後醍醐天皇の勢力と、幕府及び北条高時を当主とする北条得宗家の勢力の間で行われた全国的内乱。

王迎浜の碑
有井川を渡り上川口に。蜷川(みながわ)に「王迎橋」が架かる。橋を渡った先は「王迎」地区。土佐くろしお鉄道中村線の「海の王迎駅」の南、国道脇の海岸線に、台石の上に置かれた自然石の「王迎浜の碑」が立つ。
「尊良親王御上陸地 侯爵佐佐木行忠謹書」と刻まれた石碑の脇にある手書きの案内には「王無浜 元弘二年二年・三月(1332)北條氏の専横により、後醍醐天皇第一皇子一の宮尊良親王は土佐の畑に遠流の身となられ、若宮は佐佐木判官時信らに警護され「一の宮はたゆとう波にこがれ行く、身を浮船に任かせつつ土佐の畑へ赴かせ給」(太平紀巻四)同月下旬この浜に御上陸なされた。時に奥湊川の領主大平弾正一族がお迎え申し上げ、程なく馳参じた有井庄の庄司有井三郎左衛門門尉豊高らに警護され山路踏みわけ今に残る「弾正横通り」を踏破して弾正の館にお着きになった。
以来若宮は北條方の監視厳しい中を「王野山」に「米原の里」にと移り変わる行在所で京の都を恋いつつ、二歳近い配所の日々をお過ごしになられたのである」とあった。
王無
王無浜の王無は「王待」の転化とも、有井三郎が到着したときは若宮は既に立ち去った後であったためとか諸説。また王無浜も北條氏をはばかってか「玉無浜」と称されたとの記事もあった。

いのちの泉碑
Google Street Viewに写る井戸
王迎浜の碑より国道は少し上りとなる。上り切ったあたりで遍路道は国道を左に逸れ旧道に入る。 王無の浜をぐるりと廻り国道56号を潜り東分川に架かる東分橋を渡る。
古い資料にはその先に「いのちの泉碑」があると言う。水の乏しいこの地の民は慶長の頃というから17世紀初頭に井戸を掘りあて、昭和31年(1957)に水道網が整備されるまで生活用水として使われた。それを感謝し「いのちの泉碑」を建てたとのことであるが、道の左手にコンクリートで固めらられた一画があり、台石の上のに破損した石が載る。訪れた時にはこの石碑以外に何も残っていなかったのだが、Google Sreet Viewには井戸らしき囲いとその横に標石らしき石碑が横倒しで写る。最近になって井戸跡も潰され、標石も撤去されたのだろうか。

浮鞭(うきぶち)の大師堂
その先で旧道は国道に合流。少し進むと大師堂があり、お堂の横に標石。「足摺山十二里」と刻まれれる。
浮鞭(うきぶち)
浮鞭は東の浮津と西の鞭地区の間にあり、両地名を足して二で割った地名。鞭は急に険しくなった山地、急傾斜地が崩壊してできた地といった意味のようである。

入野松原
遍路道は湊川手前で国道56号から左に逸れ入野松原に向かう。ここは元々は大きな潟の海中にできた砂洲に自然生の松が育ち松原となったもの。砂洲の内側の潟はこの地を領していた入野氏による代々の干拓事業により埋め立てられ、室町期には既に現在のような入野平野となっていたようであり、砂洲は砂浜となり砂丘の松原となっている。
入野松原は公園現在となっており、砂浜に沿った道、松林の中を通る遊歩道、キャンプ場、野球場などが整備されている。松林の中の道を歩き成り行きで砂浜に出る。長さ4キロにも及ぶという砂浜・松林が続く。
松林の起源については一般にいわれているのが、長宗我部元親の中村城代・谷忠兵衛が天正四年(1567)から四年間、防風林のために囚人を使って松を植えさせたという説である。否、全体の植林ではなく、松原の両端部である吹上川と蛎瀬川河口部を捕植したとの説もある。また、宝永四年(1707)の大地震による津波の復旧策として、住民各戸から松を六本持ちより防潮を目的として植樹させたのが始まりだという説もあるようだ。
谷中兵衛
谷忠兵衛は元は土佐神社の神職であったが、元親に仕えて重臣となった。豊臣秀吉が元親掃討の兵を起こす前、京都・伏見城で秀吉と会い、秀吉を「天下の盗人」と放言したとの話も伝わる。秀吉をして「珍しき男かな」と評価された人物であり、長宗我部が秀吉に屈した後も一國を治めることができたのは、忠兵衛の力に負うところが多かったという。
〇入野氏
応仁の乱を避けて一条家が土佐中村(現在の四万十市)に下向する以前、この入野一帯を治めていたのが入野氏(元藤原氏)と言う。公家大名として、勢力を拡大させてきた一条家により、幡多荘管理に組み込まれ、その後親子ともども殺害され滅した。


入野から四万十川の渡しへの遍路道■

往昔の遍路道は入野から現在の国道56号筋を進み、田の口から逢坂峠を経て古津賀へと進み、古津賀で国道を離れ古津賀川を下り四万十川左岸の井沢から渡し舟のあった高島へ向かったとも言う。
とはいうものの、澄禅はその著『四国遍路日記』に「入野ナド云所ヲ過テ田浦ト云浜ニ出タリ(中略)猶浜辺ヲ行キテ高島ト云所ニ出ズ爰ニ高島ノ渡迚大河在リ」と田野浦から浜辺を進み高島に進んだと記す。
また真念も「うきつ村、是より海ばたを行、ふきあげ川わたりて、塩干の時ハすぐにゆく、ミち塩の時ハ右へ行。〇入野村、かきぜ川引舟有。○たの浦、これより七八町はまを行。標石有。むかふ山はなハ下田道、こなたハ舟わたし。少まわり道○いでぐち村、此間小川・坂あり〇たかしま村、大河舟わたし、さね碕村天まというところに引舟あり」と田野浦から出口まで進み、そこから高島村に出て四万十川を渡ったとする。
澄禅は田野浦の先は「浜辺ヲ行キテ高島ト云所ニ出ズ」とありその間のルートは不詳である。また真念は田野浦から出口まで海岸線を進むとあるが、これも出口村から高島までのルートの記述はない。
因みに高島という地名は地図に無いが、四万十川沿いの井沢の南に竹島という地名があり、その地が高島では、とのことである。

澄禅、真念の歩いたルートははっきりしない。さてどうしよう。上述国道56号を辿るルート以外に出口から県道339号を進み「沢の峠」を経て上述古津賀に出た後古津賀川を下り四万十川左岸に向かうルートもある。実際このルートを歩くお遍路さんもいるようだ。
この国道56号、県道339号を抜けるふたつのルートは四万十川左岸の竹島にあった高島の渡しで四万十川を渡る遍路道としては理屈に合うが、現在高島に渡しは無い。
はてさて。あれこれチェックすると四万十川の渡しは河口の下田にあると言う。で、結局、出口から先の遍路道ははっきりしないけれども渡しのある四万十川河口の下田へと向かうことにした。

県道42号を馬越分岐へ
入野松原を抜け蛎瀬(かきせ)川に架かる蛎瀬橋を渡り、県道42号をを澄禅や真念の日記にもあった田野浦を抜け、出口の横浜。こまじり浜を左手に見遣り県道を進むと幡多郡黒潮町を離れ旧中村市域、現在の四万十市に入る。
双海を過ぎ金ヶ浜で平野への海岸線の道を分ける県道42号をそのまま進み、馬越えの分岐から山裾の道を辿り四万十川右岸の下田へ向かう。

県道20号を左折し下田の渡しへ
県道42号は四万十川左岸に建つ貴船神社角で県道20号に合流する。下田の渡しはここを左折し下田漁港をぐるりと廻る。漁港の突端辺りに「四国のみち」の指導標が立ち、「下田の渡し」の文字と共に四万十川に向かって道筋が示されている。特に待合所といった施設は無い。 改めてチェックすると、現在は予約制(202010月現在)で運行されているよう。下田の渡し保存会という有志の善意によるものである。予約もしておらず渡船叶わず。
下田の渡し
かつて四万十川には昭和の頃まで20以上の渡しがあったようだが、現在はこの下田の渡しが唯一残る、と。下田の渡しは昭和初期から運行が開始され、昭和40年頃までは個人の申し合わせで運営されその後平成17年(2005)までは旧中村市(現在の四万十市)が運営した。2005年からしばらく廃止されたが平成21年(2009)、上述の如く地元有志によって再開された、という。


高島の渡しへの旧遍路道再考
あれ?下田の渡しは昭和初期に開始された?ということは澄禅や真念の頃は下田の渡しはない。ふたりの日記に下田の渡しが記載されていないはずである。
であれば、そのルートは?更にルートをチェックすると『江戸初期の四国遍路 澄禅「四国辺路日記」の道再現;柴谷宗叔(法蔵館)』に推定ルートが載っていた。オリジナルの日記には田野浦の浜の次は高島とあるわけで、推定の域は出ないかとも思うが、そのルートは可能性として2つ示されている。
ひとつは出口のこまじり浜から丘陵部に入り高島(竹島大師堂)に向かうもの。もうひとつは出口の南、双海の集落から西の丘陵部に入り高島へと向かうもの。 真念の高島へのルートはみつからなかったが、日記に「○いでぐち村、此間小川・坂あり〇たかしま村」とあるので、上述澄禅の推定ルートをあるいたのかとも思える。そのルートは共にピタッと合う道は現在残らない。出口から丘陵を越えて竹島にある高島の渡しに向かった、といった理解で??よし、とする。



高島の渡し・竹島大師堂
予約もしておらず下田の渡しで四万十川を渡ることはできない。対岸に渡るには四万十川大橋を渡るしか術はなし。県道20号を歩きながら竹島大師堂をチェック。四万十大橋の少し北にそれはある。
ついでのことでもあるので、竹島にある往昔の高島の渡しを見ておこうと四万十大橋を越え県道20号を北進する。四万十大橋を越え丘陵部が四万十川に突き出たところまで進む。堤防の道は切れるが、少々荒れてはいるが川岸へtと下りる道があり、その先に高島大師堂があった。大師坐像が祀られる。この辺りが往昔の高島の渡しであろうと言われる。
記録には昭和51年(1976)までは竹島と対岸の山路(竹島の上流。後川が四万十川に合流する四万十川右岸に『山路の渡し」の碑がある)を結ぶ渡し「竹島・山路の渡し」があったと言う。昭和40年代までは船頭も常駐する渡し場であったようであるが、澄禅の頃は渡しとは言うものの、渡し舟も渡し守も常駐していたわけでなく、澄禅が「爰ニ高島ノ渡迚大河在リ。渡舟トテモ無シ。上下する舟ドモに合掌シテ三時斗咤言シテ舟ヲ渡シ得サセタリ」と、三時というから6時間ほど手を合わせ、咤言(大声で)お願いしてやっと渡河したとのことである。

本日のメモはここまで。次回は下田の渡しで四万十川を越えた初碕から先の遍路道をメモする。
青龍寺から岩本寺までのメモの2回目。須崎市安和(あわ)の焼坂峠の分岐点から焼坂を越え中土佐町の国道を歩き、久礼より添蚯蚓を越えて、窪川台地・高南台地上の道を四万十町(旧窪川町)に建つ札所・岩本寺までをメモする。
焼坂峠・添蚯蚓越えから岩本寺(Goole Earthで作成)
安和から久礼に抜けるには焼坂峠を越える5キロ、比高差200mの山越え道を1時間半ほどかけて歩く他に、安和から国道56号をそのまま進み焼坂トンネルを抜けて久礼に出るルートもある。昭和44年(1969)に整備されたこの国道を歩くお遍路さんもいるようだが、全長966mの焼坂トンネルは歩き遍路には現在の「難所」とも言える。
焼坂を下りた遍路道は国道56号に合流し中土佐町久礼の町に入る。久礼から窪川台地。高南台地の「入り口」とも言える七子峠への遍路道はふたつある。ひとつは今回歩いた添蚯蚓越えルート。距離6キロ程比高差は370mほどの山道を2時間半ほど歩き七子峠近くに下る。もうひとつのルートは山越えとは異なり、大阪谷川の谷筋を進み、窪川台地・高南台地に上ることになる。 谷筋の道は地形図で見る限り平坦ではあるが、最後の1キロほどは比高差200mほどを七子峠への急坂を這い上がることになりようだ。
七子峠からは四万十川支流の仁井田川に沿って窪川台地・高南台地の平坦な国道56号を15キロほど歩き岩本寺へと向かうが、この間国道を直接岩本寺へ向かう遍路道と、途中元37番札所であった五社・高岡神社経由の2つの遍路道がある。今回は五社・高岡神社ルートを選んだ。 メモを始める。



本日のルート;国道56号・焼坂分岐点>徳右衛門道標>安和保育園前に自然石の石碑>土讃線の高架を潜り土径に
焼坂峠越え
焼坂峠への取り付き口>竹林の中を進む>林道と合流>焼坂峠>沢の源頭部を迂回>滝>林道に出る>高知自動車道焼坂第一トンネル南口>久礼道ノ川で国道56号に合流>国道56号を左に逸れ久礼の町に>添蚯蚓道分岐点・上久礼橋>県道319号を左に逸れる>蝉ヶ谷橋東詰めに標石
添蚯蚓越え
標石と遍路小屋>添蚯蚓取り付き口>高知自動車道左の丘陵に標石>高知自動車道右の丘陵山道に入る>墓石兼標石>墓石兼標石>海月庵跡>平坦な尾根道の409mピーク付近から下り道となる>県道41号に合流
高岡神社経由岩本寺へ
県道56号合流点を右折>床鍋>お雪椿>活禅寺窪川別院>土讃線・影野駅>替坂本>平串で県道を逸れ五社(高岡神社)へ>東川角に標石2基>五社大橋分岐点に標石2基>高岡神社>第三十七番札所 岩本寺


焼坂峠越え


国道56号・焼坂分岐点
国道分岐点を右折し焼坂峠越えの遍路道に入る。峠越えを避けるお遍路さんは国道56号をそのまま進み、1キロ近くの距離があり歩道幅も十分ではないと聞く焼坂トンネルを抜けて久礼に向かう。
右折して土讃線の南を西進する里道を焼坂峠取り付き口へと向かう。


徳右衛門道標
ほどなく道の右手、消防団格納庫らしき倉庫の手前に徳右衛門道標。大師坐像と共に「是より五社迄六里」と刻まれる。また、徳衛門道標に並んで小さな標石。手印だけが刻まれている。
安和保育園前に自然石の石碑
その先、道の右手、安和保育園入り口の生垣の中に2基の自然石石碑がある。文字は読めない。






土讃線の高架を潜り土径に
舗装された道は土讃線高架前に。土讃線の左に沿って側を進む道もあるのだが、高架手前には「これより右焼坂遍路道です。登坂口まで0.5K,焼坂峠(標高228m)まで1.1K,久礼道ノ川国道合流点まで道合流点まで4.9Kの自然豊かな遍路道!」とあり、案内に従い右に折れ土讃線高架を潜り、右に折れ、土讃線右側を進む土径に入る。

焼坂峠への取り付き口;午前6時36分
道の左手に小祠、右手下に焼坂第一トンネルに入っていく土讃線線路を見遣り先に進むと道の右手に登坂口の案内。





竹林の中を進む
山道を上り沢を渡る。その先竹林の中を進む。この辺りの竹は虎斑(とらふ)竹と称される竹の産地と言う。
虎斑竹
表面に虎皮状の模様が入っているゆえの命名とのこと。命名者は世界的植物学者牧野博士。「はちく(私注;淡竹)の変種にして、高知県高岡郡新正村大字安和に産す。(現在の須崎市安和)凡の形状淡竹に等しきも、表面に多数の茶褐色なる虎斑状斑紋を有す。余は明治45年4月自園に移植し、目下試作中なるも未だ好成績を見るを得ず」と記す。大正5年(1916)の事である。
イギリスのBBC放送が取材に訪れMiracle!を連発した神秘的な竹とのことだが、情緒乏しき我が身には「神秘性」はよくわからない。もっとも道を囲む竹林が虎斑竹かどうか不明ではあるが。。。 それはともあれ、この虎斑竹はその文様以外に何が有り難いのか。チェックする。竹細工に適しているようだ。文様が独特の風合いを出すとのことである。
この虎斑竹はどうもこの地の他では生育することが困難なようで、安和の特産品となっている。

林道と合流;6時55分
その先で林道と合流。合流点に「これでもか」といった幾多の遍路案内。手書きの地図には遍路道は直進、左右は林道。林道を左に進むと「元の場所に」とある。地図をチェックすると等高線に抗うことなく屈曲する実線を左に辿ると登坂口に戻る。
この林道は明治時代に開削された焼坂越えの道のようだ。旧県道。県道は昭和の始め頃、焼坂越えを避け、海岸線を走り久礼に向かうルートが開かれたが、昭和44年(1969)に焼坂トンネルができると国道56号として再び焼坂を経由するルートとなった。
焼坂トンネル(966 m)は、地層は、中生代白亜紀に属する砂岩・頁岩の互層で破砕帯もあり湧水が多く難工事であったよう。
また国道56号の改築工事はこの焼坂トンネルだけではなく、後述七子峠までをカバーしたもので、ヘアピンカーブが多く標高差300mもある七子峠までを橋梁10箇所、トンネル4箇所を開削、建設して安和から久礼坂間を整備し、昭和45年(1970)供用開始した。
この整備区間は今回歩く焼坂峠と添蚯蚓越え区間に相当する。

焼坂峠;午前7時11分
林道をクロスし虎ロープの助けを受け高度を50mほど上げると切通状の鞍部、焼坂(やけざか)峠に到着する。
峠には北から林道が繋がっている。先ほどクロスした林道が等高線に抗うことなく北に大きく迂回してこの地に至る。旧県道として車を通すためにも緩やかな坂で峠に上る必要があったのだろう。 

峠から林道をちょっと北に戻ると眼下に安和の里が広がる。峠切通上から里に向かって山越えの送電線が下っている。どこにつながっているのか、チェックしてもヒットせず。
焼坂峠を境に須崎市から高岡郡中土佐村に行政区域が変わる。
焼坂
『土佐地名往来』には「須崎から久礼へ越える急坂は中村街道の指折りの難所。「土佐無双ノ大阪」。「土佐州郡志」に二つの伝承」とある。「土佐無双ノ大阪」は澄禅がその著に記す。焼坂の由来には、山越えが険阻ゆえに体が焼けるように苦しくなるゆえとの説もあるようだ。
高岡郡
現在は中土佐町、佐川町、越知町、檮原町、日高村、津野町、四万十町よりなるが、明治の頃には須崎市、土佐市も高岡郡に含まれていた。

沢の源頭部を迂回;午前7時26分
峠の先も比較的広く整備された道が続く。道筋は地図に実線で描かれており旧県道の道筋のようだ。道は切れ込んだ谷筋を迂回するため、沢の源頭部辺りまで大きく廻り込む。明治の頃ではあるが車が通れるように標高線280m線辺りを緩やかな傾斜で進む。
地図には安和から久礼への送電線が林道を横切るように描かれている。道の近くに送電線鉄塔のマークもみえる。送電線保線の保守車両を入れるために林道が整備されているようにも思える。 切り込まれた沢の最奥部には鉄製の簡易橋が整備されお遍路さんの足元を保護する。

滝;午前7時41分
沢の最奥部を回り込むと道は荒れてくる。15分ほど歩くと道の右手奥に滝が見える。その沢を渡ったあたりから、平坦な道から地図に実線で描かれた林道(旧県道)を離れ等高線を斜めに下り始める。15分ほど歩き高度を50mほど下げると林道に出る(午前7時55分)。


高知自動車道焼坂第一トンネル南口;午前8時8分
林道に下り土讃線に沿って道を進む。ほぼ平坦な道。木々に阻まれ土讃線は見えない。
林道(旧県道)を10分強歩くと前が開け高知自動車道が見えてくる。高知自動車道の須崎西I.C.~中土佐I.C.間が開通したのは平成23年(2011)のことである。

久礼道ノ川で国道56号に合流
高知自動車道の左手の道を進む。完全舗装の道はほどなく簡易舗装の道となる。草に半分埋もれたような道を進むと土讃線の高架。高架を潜り土讃線の左手に移り、国道56号との間をしばらく歩くと久礼道ノ川で国道56号にあたる。ここからは国道を歩くことになる。


久礼の町に

国道を少し進み、土讃線を高架で越える手前で遍路道は国道56号を左に逸れて旧道に入る。土讃線の東を南下し久礼川を渡り、更に長沢川に架かる上久礼橋に向かう。
久礼
『土佐地名往来』には「初出は建長2年(1250)。日の暮れやすい土地?建築用材の榑(くれ)の由来か?榑は古くからの献納品で林産物 の集積地」


添蚯蚓越え



添蚯蚓道分岐点・上久礼橋
添蚯蚓越えの遍路道は上久礼橋の北詰で右折し、長沢川左岸の道を進む。土讃線の高架を潜り、県道56号も潜りそのまま県道319号に入り西進する。

県道319号を左に逸れる
久礼変電所を越えると県道を左に逸れる道があり、その角に比較的新しい標石。「左土佐往還 そえみみず遍路道」「従是岩本寺一八七粁」と刻まれる。案内に従い国道を逸れて左の道に入る。 




蝉ヶ谷橋東詰めに標石
道を左に逸れ、長沢川・御堂岡橋を渡り先に進むと、左手の蝉ヶ谷橋詰に標石。「左土佐往還 そえみみず遍路道」、右は「ほんみみず 大野見村」と刻まれる。案内に従い道を逸れ蝉ヶ谷橋を渡り道を進む。
ほんみみず
地図でチェックすると長沢川の最奥部より、尾根筋を越えて四万十川水系の沢に繋がる破線が描かれ、「本蚯蚓」と表記されている。等高線からみてほとんど「片峠」の様相を呈する本蚯蚓の峠を越え沢を下ると中土佐市大野見に出る。

標石と遍路小屋:午前11時10分
案内に従い橋を渡り道を進むと道はふたつに分かれ、その分岐点に標石。「これよりあん迄二十四丁 文政十二」といった文字が刻まれる。「あん」は後述する峰の庵寺・海月庵のことである。分岐点から左手が遍路道。分岐点すぐ傍に遍路小屋が立つ。
遍路小屋の中に添蚯蚓越えのイラストが掲示されている。向後のメモにはこのイラストにある説明を参考にさせて頂く。
焼坂と添蚯蚓の時刻表示について
スケジュールの都合上、難所と言われる焼坂と添蚯蚓越えをふたつまとめて越えることにし、当日は車行で焼坂の登坂口まで車を寄せ、そこにデポ。焼坂を越えて車道に出るまで歩き、車道確認後にデポ地までピストンで折り返し、次いで添蚯蚓越えの取り付き口まで車を進め添蚯蚓峠を越えて七子峠まで進んだ後、ピストンで添蚯蚓を車デポ地に戻った。
ために、添蚯蚓越えの表示時刻は実際に焼坂を越えて久礼を経て歩く時間とは当然ずれがある。 添蚯蚓越えの表示時刻は所要時間の目安として参考にしてください。

添蚯蚓越取り付き口;午前11時16分
添蚯蚓越えのイラストマップを見ながら少し休憩し遍路小屋を出る。ほどなく道の左手に大きな標石。「岩本寺一七、九粁、七子峠四、八粁」「青龍寺三九、一粁」。平成九年(1997)立てられたもの。
道の右手には「遍路道・添蚯蚓について」の案内。「この地・長沢弘岡から四万十町(旧窪川町)床鍋(とこなべ)に至る往還(おうかん:今の国道)を添蚯蚓(そえみみず)と呼んでいます。1700年頃に書かれた「土佐州郡志」という書物には「東西逶?如蚯蚓之状故名」と記されており、道の状態が左右に曲がりくねって前に進むミミズのさまに似ているので、この名がついたのではと本の作者は述べています。
すぐ近くには「此ヨリあん迄24丁須崎カコヤ増平 文政12正月吉日」(文政12年は1829年)と刻まれた道標が建っています。道中にはおなみさんと土地の人に語り伝えられる遍路墓や弘法大師が旅人のために湧出させたと伝えられる弘法清水の跡があり、峠付近の庵跡には明治時代まで茶店もありました。
今は黒竹林となっている庵跡はその昔、修行中の空海が久礼湾上の月を賞して「海月庵」という庵(いおり)をむすび、地蔵菩薩と自坐像を刻んだという空海修行伝説の地でもあります。中世以前からの幡多路への通り道であった往還・添蚯蚓も明治25年に大坂谷から七子峠(ななことうげ)に越す道が開通してからは廃道となりました。しかしこの添蚯蚓は近年、貴重な先人の足跡を残した遍路道として見直されようとしています。江戸時代の風情が残り、道中には弘法大師ゆかりの遺跡や遍路墓等が存在するこの道は、町のまた四国の財産として後世に伝えなければならない大切な文化遺産でもあります。平成15年3月 中土佐町教育委員会」とある。
遍路道は案内傍より丘陵の山道に入る。

高知自動車道左の丘陵に標石;午前11時25分
山道を10分ほど歩くと前面が開け、眼下に高速道路が走る。山道を辿った遍路道はここで一度途切れる。高速道路を見下ろす休憩椅子傍に標石。「岩本寺遍路道」「土佐往還そえみみず迂回路の遊歩道約四百米 平成弐拾年拾弐月吉日」と刻まれる。
土佐自動車道建設に際し、遍路道の続いていた丘陵を掘割り、切通しとして道路を通したようだ。
久礼坂トンネル
この切通のすぐ先に久礼坂トンネルが抜ける。全長927m、 平成21年(2009)に開通。この久礼さかトンネル、大阪谷トンネル(全長955m)、影野トンネル(全長2393m:平成22年(2010)開通)や橋梁を建設し中土佐ICから四万十ICが平成24年(2012)開通した。

高知自動車道右の遊歩道を歩き丘陵山道に入る;午後11時39分
92段の石段を下り、高速下を潜り339段の石段を上る。けっこうキツイ。眼下の高速道路や遠景で気持をまぎらせながら「遊歩道」を進む。途中平坦な箇所もあるが、最後の石段を上る遊歩道は終わり、山道へと戻る。往昔は今は消え去った尾根道を進んできたのだろう。膝を痛めているとはいえ、石段の下り・上りに結構時間がかかった。

墓石兼標石;午前11時45分(標高138m)
山道に入るとすぐ右手に立方形の石造物。最初は水路施設かとも思ったのだが、墓石兼標石であった。戒名と「行年三十 俗名なみ 播州古川」といったお墓の文字と「五社へ四里 四万十川へ十五り半 あしずりへ二十り てら山へ三十八り いよ境まで四十一り」。「てら山」は土佐最後の札所である第39番延光寺。

尾根筋を進む
尾根筋を少し巻き気味で標高200m辺りまで進み、その先は尾根筋に入り急坂を標高300m辺りまで上る。その後ゆるやかなアップダウンで尾根道を進む。馬の背となった尾根道を過ぎると木々の間から道の左手に高速道路らしき道が見える。久礼坂トンネルを出て大阪谷を越え再び大阪谷トンネルへと入る高知自動車がだろう。
この添蚯蚓越えは特段峠とか鞍部といった箇所はないようだ。

海月庵跡;午後12時54分(標高357m)
尾根筋を進むt道の右手に少し広いスペースがある。そこが空海ゆかりの海月庵跡かと思う。何もサインがなく、実のところ往路では見逃したのだが、当日は添蚯蚓をピストンしたため復路で何気なく気になり道をそれてスペースに入り数基の墓石があったためそこが庵跡であることだろうと推察。
墓石は卵塔、舟形、角柱と形を異にしているが、古木の根元に立ち、遍路道からは見えない。僧職墓と言う。
海月庵の由来は、弘法大師が巡錫の途次、久礼湾に上る十五夜の名月を賞でて草庵を結び、地蔵菩薩と自像を刻んだことによる。また添蚯蚓越えの遍路道は土佐往還でもあったため藩主巡検の道でもあり、この地で休息したと伝わる。旅人やお遍路さんのための休息所や茶屋もあったようだが、明治26年(1893 )に焼失した。

平坦な尾根道を進み409mピーク付近を巻き下り道となる
海月庵の先で尾根筋を進む遍路道はブロックされ、遍路タグ案内は左に折れるように指示がある。 案内に従い左折し道なりに進む。尾根筋から離れ、添蚯蚓越えの最高標高点409mピークを巻いて進んでいる。巻道を進むと直ぐに谷筋に出る。上りはじめて尾根筋ピークまで2時間弱。ピークから谷筋まで20分弱。比高差は50mほどだが形から言えば「片峠」っぽい姿を呈する。
通常峠とは、山稜鞍部の峠を境に左右が上り・下りとなっているのだが、片峠とは峠を境に片方が急な傾斜であるが、もう一方は平坦な地となっている峠のこと。とは言うものの、片峠って、河川争奪のドラマでもない限り、それほど珍しいものではないだろう。中山道を歩いたときの碓氷峠、旧東海道を歩いたときの鈴鹿峠も今から思えば、典型的な片峠であった。
この谷筋を下る沢は仁井田川の上流域、というか源流域となっている。

県道41号に合流;午後13時41分
谷筋に下りるとルートは409mピークから続く破線の山道に合流する。ピークに向かう林道が右手に見える。沢に沿って道を30分ほど下ると県道41号に合流。のぼりはじめておおよそ2時間半で車道に合流した。
合流点には「青龍寺 四三、七粁」「岩本寺 一二、三粁」と刻まれた標石が立つ。添蚯蚓越えの取り付口で見かけた標石と同じタイプであり、古いものではない。
県道に向かった面には「人生即遍路」の文字。山頭火の句。この「人生即遍路」の句碑は室戸岬、 14番札所常楽寺入り、87番札所長尾寺山門などにも立てられているとのことである。

県道56号合流点を右折

県道41号を左折するとすぐ県道56号に合流する。遍路道は合流点を右折し国道56号を南下することになる。
七子峠
国道合流点を少し北に戻ったところが七子峠。ちょっと立ち寄り。展望台から深く刻まれた大阪谷の眺めは美しい。

いつだったかこの七子峠を訪ねたことがある。土佐の「片峠」を辿ったときのことである。上述の添蚯蚓の「片峠」はそれっぽい姿とメモしたが、こちらは峠を境に急峻な坂と平坦な窪川盆地、というか高南台地が画され、典型的な片峠となっている。
七子峠の由来はこの地が仁井田七郷への入り口であるところから。その「七郷」が転化したものと言う。七郷は、新在家、本在家、井細川、窪川、久礼、志和、神田の七郷である。大雑把に言って、現在の四万十町窪川、かつての高岡郡窪川町(仁井田村と窪川村が合併)、四万十川の支流仁井田川の中流から上流辺りと言ったところだろうか(ちょっと乱暴な括りではあるが)

七子峠への遍路道●
久礼から七子峠への遍路道は今回歩いた添蚯蚓越えの他、展望台から見下ろす大阪谷を辿る遍路道もある。
ルートは大阪谷川に沿ってその源頭部まで詰め、最後の1キロの急坂を上り七子峠の展望台脇に上ってくるようである。
大阪谷遍路道の分岐点は県道25号が大阪谷川を渡った土讃線を潜ると直ぐ四つ角。その角に「大阪休憩所0.4km」と書かれた「四国のみち」指導標がある。遍路道はここで県道25号を左折し大阪谷川に沿って西進することになる。すぐ傍に青木五輪塔への案内と標石もある。
大阪谷左岸の道
地図を見ていると、大阪谷川の北、国道56号の南を曲がりくねって進む道筋が残る。前述添蚯蚓登坂口の案内にあった、「中世以前からの幡多路への通り道であった往還・添蚯蚓も明治25年に大坂谷から七子峠(ななことうげ)に越す道が開通してからは廃道となりました」の説明にある明治に開かれた県道。道幅2間で馬車や人力車も通れたとのこと。説明には「廃道になった」と有るがこの道は曲折が多く、近道として添蚯蚓越えや大阪谷経由の道は実際は大正の頃まで利用する人も多かったようだ。
県道は昭和38年(1963)に国道に昇格。改築工事が進められら焼坂から七子峠までの間に橋梁10箇所、トンネル4箇所を開削、建設して安和から久礼坂間を整備し、昭和45年(1970)供用開始した。七子峠に向かう国道56号がそれである。
かつての道はすべて七子峠を目指したが高知自動車道は上述の如く久礼坂トンネルを抜けると大阪谷を橋梁で一跨ぎし大阪谷トンネル(全長955m)、橋梁、そして影野トンネル(全長2393m:平成22年(2010)開通)と進み、かつての交通の要衝であった七子峠をパスし、中土佐ICから四万十ICへと抜けた、平成24年(2012)のことである。

床鍋
国道56号を右折し仁井田川に架かる床鍋橋を渡り南下。地名の由来は、弘法大師が久礼坂の北、長沢の谷に独鈷を投げたことから「独鈷投げ>とこなげ>とこなべ」とか、この地の開拓者の故郷の地名といった説もあるが、床=川床のような石の多い地、なべ=なみ>並ぶ・続く、といったことから、石の多い土地といったところが妥当ではなかろうか
仁井田川
仁井田川は、七子峠の北東、高知県高岡郡四万十町床鍋の山腹(標高556m)を源流とし、南へ下り、土讃線・影野駅辺りで奥呉地川を合わせながら仁井田地区に広がる平地部を流下。その後は四万十町中の越で東又川を合わせ、山間の平地を蛇行しながら流れを西に向け、四万十町根々崎で四万十川に合流する、流路延長17キロほどの一級河川。

お雪椿
仁井田川に沿って国道56号を進む。道の周囲は標高500mから600mほどの開析残地と思われる小さな山地と比較的広い谷底低地となっている。谷底低地は仁井田川が開析したU字谷に土砂が堆積し形成されたもののようである。河川開析のプロセスはV字谷>U字谷>準平原の順で地形が形成されるとするが、この谷底低地は開析最終プロセスの準平原状態となっているのかと思える。
影野まで進むと道の右手に木で支えられた大きな古木が立つ。傍に案内があり、「お雪椿(ヤブツバキ) ツバキ科」とある。解説には「高岡郡窪川町影野  周囲1.5m、樹高10m、樹齢350年。 ここを館屋敷といい、寛永の頃の影野新田の開拓者で地頭職の池内嘉左衛門の屋敷跡である。池内氏の一人娘お雪は影野西本寺の修業僧・順安と恋仲となったので、お雪の父は順安を還俗させてお雪と夫婦にし、地頭職をゆずり嘉左衛門の名をつがせた。
夫婦はいたって 仲睦まじく、里人たちをも愛した。二人には子供が恵まれなかったので、彼等の死後、里人達はお雪が生前好んだ椿を墓所に植え、二人の供養を毎年行なってきた。その椿が風雪三百余年の今も毎年美しい花を咲かせて二人の霊を慰めている 昭和56年 建 高知県緑化推進委員会 窪川町」とある。
椿の右側にあるお雪負債の墓石は大正2年(1913)再建のもの。

活禅寺窪川別院
お雪椿の隣に堂宇。山門前には「信州大本山 白銀大明神御法殿」と刻まれた石碑が立つ。山門には「参禅専門道場」の木札が架かる。白銀大明神の名に惹かれてとちょっと立ち寄り。 長野市の善光寺の北、長野市箱清水にある参禅専門の単立禅宗寺院活禅寺の窪川別院のようだ。活禅寺は昭和18年(1943)、徹禅無形大師により小さな無形庵として開山。戦後の混乱期に青少年の育成を主眼に青年錬成参禅道場としてはじまり、その後現在の堂宇が整備されたとのこと。
信州の参禅道場が何故窪川に?これは後でわかったことだが、国道を少し南下すると堂宇があり、その前に「信州活禅寺開山・徹禅無形大和尚御生誕の地」と刻まれた石碑があった。開山和尚さんの生まれたところであった。
白銀大明神
境内に白銀堂。縁起には霊夢に菩薩界の化身・白銀大明神が示現し、故あって地中に埋没した吾を仏縁深き汝により掘り出し安置されんことを欲す、と。霊示に従い地中を掘り出した石墓を白銀大法院を建て安置した、と。結局「白銀大明神」って?は不明のまま。

土讃線・影野駅
国道を下り影野に。七子峠の東、大阪谷を越え影野トンネルを抜けた高知自動車道が影野で現れる。
また高速の出口近くに土讃線・影野トンネルを抜けて来た線路が現れる。 山を穿ち抜いたトンネルを抜けた高速道路、鉄道が同じところで山地から現れるのは、地形的にそれなりの理由はあるのだろう。
久礼駅から影野駅までの土讃線ルート
土佐久礼駅からおおよそ10キロ。土佐久礼の標高は8.3m, 影野駅は標高252m。比高差200mもあり、ほとんどの区間は1000mで25m上がる25パーミルが連続する急勾配区間と言う。25パーミルとは国鉄が鉄路を敷設する上限の目安である。この急勾配は単独では急坂を上れない機関車を補う機関車を必要としたようである。
この間25のトンネルを掘り、中土佐町と窪川町境の四道トンネル(1,823m)を最長にトンネルの総延長は約7kmに及ぶとのことであるが、25パーミルの上限を越えないルートどりとしてはこのルートしかなかったのだろう。影野駅が広いのはこの機関車の方向転換、石炭や水を補充する給水塔などの施設があったためと言う。
この辺りの土讃線は昭和10年(1935)に土讃線の須崎~窪川間32kmが着工、昭和14年(1939)11月に須崎~土佐久礼間13kmが部分開通した。昭和17年(1942)に全線の土木工事は終了しながら土佐久礼・影野間が開通したのは昭和22年(1947)のことである。

替坂本
土佐の片峠散歩の折、仁井田川の支流、東又川へと国道を離れ県道326号に乗り換えたところである。片峠散歩とはいいながら、本来の目的は、 「海に背を向けて流れる川 四万十川の奇妙なはじまり」の地点を確認する散歩。きっかけは偶々図書館で見つけた『誰でも行ける意外な水源 不思議な分水;堀淳一(東京書籍)』にあった「海に背を向けて流れる川 四万十川の奇妙なはじまり(高知県高岡郡窪川町・中土佐町)」という記事。
そこに「四万十川は奇妙な川である。その最東部の支流である東又川は、土佐湾の岸からたった二キロしか離れていない地点からはじまっているのに、海にすぐ入らず、海に背を向けてえんえんと西へ流れる。。。」とある。
多くの支流のひとつとは言いながら、四万十川の源流が、太平洋から二キロのところから始まるとは、想像もしていなかった。てっきり山間部を流れ下ると思い込んでいたので少々驚きもした。 東又川はその地から海に落ちることなく、西に下り途中仁井田川と合わさり、土讃線窪川駅の北で、不入山(いらずやま)の源流点から南に下ってきた四万十川(幹線流路のひとつ松葉川)と合流し、西に大きく半円を描き太平洋に注ぐ。四万十川の全長は196キロと言われるが、この合流点から先だけでも80キロ弱あるだろうか。
なんらかの地形変動が起きれば、東又川は海に落ちただろうし、そうすれば四万十川の流路も今とは変わったものになっただろうと、その源流点を確認に出かけたわけである。台地端に隆起した丘陵により東又川の源流部が海へと流れ落ちることが阻まれていた。
替坂本
替坂本って、面白い地名。由来をチェックすると、この地の東、土佐湾に面したところに「上ノ加江」がある。替坂本は、その「上ノ加江への坂の本」から。 Google Street Viewでチェックすると、上ノ加江から窪川盆地に上るには急傾斜の坂道を上らなければならない。峠と言う、人為的な命名があるのかどうか不明だが、峠があれば、そこも典型的な片峠と言ってもいいだろう。 因みに、地名などの語源については、「音」が最初にあり、漢字は適宜「充てられる」といった原則を再確認した「加江>替」ではあった。

平串で県道を逸れ五社(高岡神社)へ
六反地(ろくたんじ)、仁井田と国道を下る。往昔仁井田荘と称された窪川盆地・高南台地は、伊予の河野氏の一族が移り住み、土地の豪族とともに土地の開拓にあたった、とも言われる。戦国時代、長曾我部元親が仁井田窪川攻めをおこない、在地勢力は戦わず降伏したとのことであるので、その頃までは伊予の河野氏の流れの一族がこの一帯に勢を張っていたのではあろう。 国道を直進し窪川の岩本寺を目指すお遍路さんも多いが、今回は明治の廃仏稀釈以前の札所であった五社(高岡神社)経由で現在の札所である岩本寺を目指すことにした。
道を曲がるとほどなく高岡神社一の鳥居が道の右手に建つ。

東川角に標石2基
当日は見逃したのだが、メモの段階で四万十町観光協会の「のんびり遍路道周辺散策」にこの道筋に標石が2基あるとイラストにあった。チェックすると東川角に2箇所、それらしき石碑そのがGooglenStreet Viewに見える。ひとつは遍路道から南に逸れる道角にある。イラストに「渡し舟」の案内をする標石だろうか。もう1基は県道19号との四辻、電柱に並んで標石らしき石が見える。道路整備の折この地に移されたとの説明があった標石かもしれない。 とはいえ、GooglenStreet Viewで見た標石らしきものであり確証はない(この記事をお読み頂いた方で、これらの石碑が標石か否か確認できたかたはお知らせ頂ければ幸いです)。 

五社大橋分岐点に標石2基
平串で国道を逸れた遍路道は、土讃線五社踏切を渡ると五社の鳥居。丘陵裾を進み大きく蛇行する仁井田川に向かって南に突き出す丘陵鞍部を切り開いたような道を進む。道の左手に仁井田川。丘陵により南進を阻まれた仁井田川に東又川が合流し大きく蛇行し北に向かう仁井田川に架かる根々碕橋を渡る、北に蛇行した仁井田川は四万十川(渡川)と合流する。
橋を渡った遍路道は南下し五社大橋分岐点に「四国のみち」の指導標。「高岡神社500m 岩本寺2.4km」とある。その左右にに自然石の標石2基。左側は手印と「大しどう」、右側には「三十七番五社へ三丁」と刻まれる。
「大しどう」は、真念の『四国遍路道指南』に「〇六たんじ村〇かミあり村、しるし石あり。この間に小山越、うしろ川、引舟あり。これはねゝざき村善六遍路のためつくりおく。過て、大河洪水の時は手まえの山に札おさめどころあり、水なき時は五社へ詣」にある大師堂のことかと思う。
かつては四万十川を渡る渡し舟があったのだろうが、洪水のときには五社詣ではできず根々崎のごこかにあったお堂に札を納めていたようだ。

高岡神社
四万十川の五社大橋を渡ると県道322号にT字で当たる。正面、丘陵裾に鳥居が並ぶ。これが五社、高岡神社である。
一ノ宮
北端の鳥居は仕出山丘陵の支尾根山裾にあり、「高岡神社(東大宮)」とある。18段の石段を上ると社殿前に高岡神社の案内。
「 高岡神社(五社)由来記 平安時代初期、伊予豪族であった河野家の子孫がこの地に来住し、一帯を開発して祖神と崇敬神を祀ったのが仁井田大明神である。以来仁井田郷六十八ケ村の総鎮守神として崇敬せられ、特に戦国時代には仁井田五人衆の武運守護神ともされていた。 最初は一社であったが、天長三年弘法大師が境内に福円満寺を創立し四国霊場の札所とした時、 、社を五つに分け、各社に諸仏を祀り五社大明神と改称され、神仏習合の神社となった。当時、各社の神主は武家格式を有し、神社前には門前町が並んだ。神宝として、土佐二代藩主山内忠公奉納の金幣、西原紀伊守の刀、仁井田郷豪傑中西権七の所持したと伝えられる長刀、近くから発掘された古代の銅鉾などが納められている」とある。
東大宮は一の宮。大日本根子彦太迩尊=不動明王が祀られる、と。
二ノ宮
次の鳥居は一の宮(東大宮)の建つ丘陵支尾根の南の支尾根を画する細い谷筋の県道脇に建つ。鳥居には高岡神社(今大宮)とある。社は鳥居からちょっと離れてた先にある。今大神宮は二の宮。磯城細姫命=観世音菩薩が祀られる
その南、丘陵裾の鳥居には「児安花神社」とある。この社は五社とは別の社。



三ノ宮
次いで「高岡神社中ノ宮」と書かれた鳥居。中ノ宮は三の宮。大山祇命・吉備彦狭嶋命=阿弥陀如来が祀られる。鳥居右側に徳右衛門道標。「是ヨリ足すり迄廿一里 享和三」といった文字が刻まれる。
鳥居左手には「福円満寺跡」の標識も立つ。





四ノ宮
その南、「高岡神社 今宮」と刻まれた鳥居。四の宮であり、伊予二名洲小千命=薬師如来が祀られる。
五ノ宮
南端の鳥居は「高岡神社森ノ宮」と書かれる。五の宮・聖宮、伊予天狭貫尊=地蔵菩薩が祀られる。この社へは144段ほどの石段を上りお参りする。
この五つの社よりなり、「五社」さんとも称された社は室町時代後期の享禄 - 天文年間(1528年 - 1555年)には戦火に遭うなどで衰微した。 江戸時代に入り、土佐藩2代藩主山内忠義が神社を整備した。社殿の改築、金幣の奉納を行い武運長久の崇敬神とした。明治初年の神仏分離により本尊は岩本寺へ移された。
仁井田大明神の縁起
仁井田大明神とも称された「仁井田」には浦戸湾を渡る手前で出合った。そこには仁井田と呼ばれる地域があり、立派な仁井田神社が鎮座していた。その際『仁井田」の由来について調べたのだが、浦戸湾に浮かぶツヅキ島に仁井田神社があり、由緒書きには、「伊予の小千(後の越智)氏の祖、小千玉澄公が訳あって、土佐に来た際、現在の御畳瀬(私注;浦戸湾西岸の長浜の東端)付近に上陸。その後神託を得て窪川に移住し、先祖神六柱を五社に祀り、仁井田五社明神と称したという。
そのご神託とは『四万十町地名辞典』には続けて、「『高知県神社明細帳』の高岡神社の段に、伊予から土佐に来た玉澄が「高キ岡山ノ端ニ佳キ宮所アルベシ」の神勅により「海浜ノ石ヲ二個投ゲ石ノ止マル所ニ宮地」を探し進み「白髪ノ老翁」に会う。「予ハ仁井ト云モノナリ(中略)相伴ヒテ此仕出原山」に鎮奉しよう。この仁井翁、仁井の墾田から、「仁井田」となり。この玉澄、勧請の神社を仁井田大明神と言われるようになったとある」と記す。
この縁から三年に一度、御神輿を船に乗せ浦戸湾まで"船渡御(ふなとぎょ)"が行われた。この御神幸は波静かな灘晴れが続くときに行われるため、"おなバレ"と土佐では言われる。この時の高知での御旅所が三里(現在の仁井田)の仁井田神社であるといわれる。窪川の仁井田五社から勧請されたのが高知の仁井田神社であると伝えられている。(ツヅキ島の仁井田神社は横浜地区の総鎮守で地元では"ツヅキ様"と呼ばれる)」とある。
仕出原山とは窪川の高岡神社(仁井田五社明神)が鎮座する山。仁井田の由来は「仁井翁に出合い里の墾田」とする。
「投げ石」のプロット
上述神託の「投げ石」のプロットは土佐神社の「礫岩の謂れ」とほほ同じ。土佐神社の「礫岩の謂れ」を再掲すると、「古伝に土佐大神の土佐に移り給し時、御船を先づ高岡郡浦の内に寄せ給ひ宮を建て加茂の大神として崇奉る。或時神体顕はさせ給ひ、此所は神慮に叶はすとて石を取りて投げさせ給ひ此の石の落止る所に宮を建てよと有りしが十四里を距てたる此の地に落止れりと。
是即ちその石で所謂この社地を決定せしめた大切な石で古来之をつぶて石と称す。浦の内と当神社との関係斯の如くで往時御神幸の行はれた所以である」とあった。

「投げる」と言えば、空海の縁起にも独鈷杵を投げる話も多い。青龍寺縁起には空海が唐からの帰朝に際し有縁地に至るよう独鈷杵を東に投げたわけだが、その地が青龍寺の建つ地と感得し唐の青龍寺と同じ名の寺院を建立した。山号も独鈷山と称す。

第三十七番札所 岩本寺

五社さんから岩本寺に向かう。五社大橋を渡り直し分岐点標石まで戻る。「四国のみち」の指導標には岩本寺まで2.4㎞。山沿いの道を進み窪川中学前を通り窪川駅前を右折。吉見川に架かる吉見橋を渡り丘陵前を右折、西進すると岩本寺に至る

門前に並ぶ店を抜けると正面に仁王門。仁王門傍に案内。「岩本寺 四国霊場八十八ヶ所第三十七番札所
寺伝によれば、ここから北に約3.5kmのところにある高岡神社(通称五社さん)の別当寺であった福円満寺が前身。 16世紀になり、寺社を再建する際に福円満寺の法灯と別当の役目を、この地にあった岩本寺(当時は岩本坊)に移して再建したといわれています。

藤井山五智院と号し、現在の本尊は不動明王、観音菩薩、阿弥陀如来、薬師如来、地蔵菩薩。弘法大師にまつわる「岩本寺の七不思議」という七つの逸話が言い伝えられています。本堂の天井には、プロ、アマチュアを問わず、全国の方々から奉納された575枚の板絵が飾られ、また、清流殿の天井には沈下橋が架かる四万十川の天井絵が描かれ、それぞれ岩本寺の見所の一つとなっています」とある。
また天井井としては本坊天井には沈下橋が架かる四万十川の天井絵が描かれている、ようだ。
境内に入ると右手に大師堂、修行大師像、聖天堂、開山堂、鐘楼、本堂、左手に本坊が建つ。鐘楼傍には「文化十一」と刻まれた徳右衛門道標に似た形式の石碑が残っていた。
高田屋嘉兵衛道標
メモの段階でわかったのだが、この石碑は江戸中期の海商、高田屋嘉兵衛が立てたもの。文化11年(1814)といえば、嘉兵衛がカムチャッカを解放され、帰国した翌年。妻おふさが嘉兵衛の無事を祈って四国巡礼をした、との言い伝えもあり、無事帰朝したお礼に夫妻で四国遍路に出かけ、添蚯蚓の海月庵を修理し、その前に立てていたものと言う。それを昭和30年頃、地元の若者が荒れ果てた海月庵から岩本寺に移したとのことである。
高田屋嘉兵衛
Wikipediaには「江戸時代後期の廻船業者、海商である。幼名は菊弥。淡路島で生まれ、兵庫津に出て船乗りとなり、後に廻船商人として蝦夷地・箱館(函館)に進出する。国後島・択捉島間の航路を開拓、漁場運営と廻船業で巨額の財を築き、箱館の発展に貢献する。ゴローニン事件でカムチャツカに連行されるが、日露交渉の間に立ち、事件解決へ導いた」とある。高田屋嘉兵衛は司馬遼太郎の『菜の花の沖』に詳しい。


大師堂は奥の院を兼ね、矢負地蔵も祀られると言う。
矢負地蔵
昔この地の貧しいが信心深い猟師が、「一代にて長者にならせ給え。狩りに出ても一疋は見逃します」と観音様に近く。が、年貢を納める日が近づいても獲物が見つからず、これ以上の殺生は無益と思い自分の胸をその矢で射た。帰りを待ちわびる妻のもとに猟師が訪れ、「獲物が多いので迎えに行くように伝え、獲物のひとつと袋を置き立ち去る。現場に急いだ妻は意識を失った夫を起こすと、そばを見ると矢の刺さったお地蔵様が倒れていた、と。お地蔵様が身代わりとなって命を救ってくれたと感謝し、家に戻り仲間の置いて行った袋をあけると金銀財宝が出て来た。領主も新人ゆえと財宝を猟師に下され、一夜にして長者となった、このことから観音様を福観音、地蔵さま矢負地蔵と呼ぶようになった、とか。いつものことながら昔話は何をいいたいのかよくわからない。
本堂におお参り。本尊は不動明王、聖観世音菩薩、阿弥陀如来、薬師如来、地蔵菩薩の五仏。5体の本尊は四国霊場唯一のもの。五社・高岡神社それぞれのご神体の本地仏を祀った故であろう。
天井にはプロ・アマ問わず全国から寄せられた575枚の天井絵が飾られマリリン・モンローや銭形平次なども。これらは昭和53年(1978)「の本堂改築に合わせて公募し、奉納されたものとのこと。

Wikipediaには「岩本寺(いわもとじ)は、高知県高岡郡四万十町にある真言宗智山派の寺院。藤井山(ふじいざん)、五智院(ごちいん)と号す。
寺伝によれば天平年間(729年 ? 749年)に聖武天皇の勅命を受け行基が七難即滅・七福即生を祈念して開創したのが起源であるという。それは現在地より北西約2kmの仁井田川のほとりで、仁井田明神のあったことから当時は「仁井田七福」、別名「七福寺」とよばれた。
その後、弘仁年間(810年 - 824年)に空海(弘法大師)が五社・五寺からなる福円満寺を増築し、東から、東大宮が不動明王、今大神には清浄観音菩薩、中宮が阿弥陀如来、西大宮が薬師如来、聖宮が将軍地蔵菩薩とそれぞれ本尊を安置し、星供の秘法を修したという。こうして「仁井田五社十二福寺」と称し嵯峨天皇の勅願所となり栄え、別当寺の福円満寺が札所であった。 

天正年間(1573年 - 1592年)に兵火によって焼失するが、時の足摺山主・尊快親王が弟子の尊信に命じて再興した。
一方、岩本寺は、町中にあり福円満寺から足摺へ向かう途中の宿坊であった。中世末に一宿した尊海親王がこの宿坊に岩本坊の名を与え繁盛した。1652年から1688年の間に衰退した福円満寺から別当が移り、岩本寺と改称し、納経は「五社大明神 別當岩本寺」と記帳された。
明治初期には神仏分離により仁井田五社の5つの仏像は岩本寺に移されたが、しばらくして、仏像と札所権は八幡浜の吉蔵寺に移る。しかし、明治22年(1889年)岩本寺は復興して仏像と札所権を取り戻し、現在に至る」とあった。

岩本寺の七不思議
仁王門傍の案内にあった弘法大師にまつわる岩本寺の逸話とは;
子安桜
この桜に祈れば安産する。大師が五社建立のとき、桜の木の下で産気をもよおた旅の女に加持して安産させたこと由来する。現在の桜はその実生(その桜の種から発芽し成長したもの)とか。
三度栗
空海伝説による登場する話。ここでは栗を持ち帰らなければ継母にいじめられる子供のため、「うない児のとる栗三度実れかし木も小さくいがも残さずに」と歌を詠む。と、年に三度実をつけ、高さも子供が採れるほどの高さの栗の木が実るようになったとか。
口なし蛭
近くの高野の田で蛭に血を吸われ苦しむ娘を見て加持をし雄蛭の口を封じ血を吸わなくした。
桜貝
大師は御室(みむろ)の浜の景をめでて、庵をむすび桜を植えられた。年を経て花のころに庵を訪ねるに既に花は散ってしまっていた。
大師、「来てみれば御室の桜散りうせぬあわれたのみしかいもあらじな」と歌を詠むと大師の徳を感じた海神が、磯の貝殻が桜の花弁に化したという。今も花の頃には桜色した小さな貝殻が浜に打ち寄せる、と。
筆草
月を愛でながら筆を投げられたところに、翌年から筆に似た草が生えた。里人みなこれを筆草と呼び、大師の能筆にあやかるおまじないとし、また、かゆみ、痛みのところにお供えの水をしめして撫でると不思議と治ると伝わる。
尻なし貝
大師が伊与木川を渡られたときに、蜷貝がわらじを貫き足を突き刺した。これでは往来する人々が困るだろうと、呪文を唱えて貝の尖ったところを抓(つね)ってすてた。以来この川の蜷貝は尖りがとれ、尻がまるくなったと言う。
戸たてず庄屋
空海が泊めてもらったお礼に加持をしたら泥棒が入らなくなった。ために里人は、その家の柱や敷居を削って持ち帰り、盗難除けとした、とか。

また、七つの逸話には入っていないが、『四国遍礼功徳記』に記される、このあたりにまつわる弘法伝説をひとつ挙げる;。窪川村に住む弥助の女房が布を織っていた。そこにひとりの遍路の僧が托鉢喜捨を乞う。が貧しくあげるものがなく、織りかけの布を切り与えた。それからというもの女房の織る布はいくら切っても尽きることがない。さてはあのお坊さんはお大師さんに違いないと夫婦ともどもいよいよ大師を崇拝するようになったという。

平串から岩本寺へ直行する遍路道●
平串から五社を訪ねることなく岩本寺へ向かう遍路道は国道56号を直進し、仁井田川に架かる平串橋を渡り、県道19、号分岐点まで直進。分岐点で県道から右に逸れ時坂トンネルを潜り、土讃線を越えると左折し窪川駅方面へと南下、窪川駅辺りで五社経由の遍路道と合流し岩本寺へと向かう。
今回のメモはここまで。次回は第38番札所金剛福寺への道をメモする。



青龍寺から岩本寺までは十三里、52キロの長丁場である。土佐市から須崎市を抜け高岡郡中土佐町久礼から高岡郡四万十町、かつての窪川町まで歩くことになる。途中須崎に抜ける仏坂越え、また「角谷♪焼坂♪添蚯蚓」と歌われた山越えの道がある。
角谷(かどや)は旧路は消え、舗装された旧国道を歩くだけであったが、仏坂は上り1.8kmの距離を高度150mほど上げることになる。それほど厳しい上りではない、下りは10分程度で谷筋に下りそこからは平坦な道となる。
焼坂は大よそ5キロ、比高差200mを1時間半ほどで越える。添蚯蚓は距離は6キロ程度だが比高差は370mほどあり2時間半ほど歩き七子峠近くに下りることになり。
下山口近くの七子峠から岩本寺まではおおよそ15キロほどだろうか。窪川台地・高南台地とも称される四万十川支流・仁井田川流域に開けた標高200mほどの台地の道を歩き札所に向かう。 メモは2回に分ける。一回目は青龍寺から仏坂を越えて須碕に入り、角谷を歩いて須崎市安和にある焼坂峠への遍路道分岐点まで。二回目は焼坂峠の分岐点から焼坂を越え中土佐町の国道を歩き、久礼より添蚯蚓を越えて四万十町(旧窪川町)に建つ札所・岩本寺までをメモする。


本日のルート;第三十六番札所 青龍寺>埋立>花山神社>鳴無神社の遥拝所>仏坂>岩不動・ 光明峰寺>県道314号合流点に標石>石灯籠と標石>県道23号とクロス>観音寺>須崎駅>大善寺>土佐藩砲台跡>土佐新荘>国道56号から旧道に逸れる>安和・焼坂越え分岐点



第三十六番札所 青龍寺



前面はかつて、といってもおよそ五千年もの昔だが、内湾であった竜の池とも蟹ヶ池とも呼ばれる大池を核とした湿地、後ろに横波山地の宇都賀山(標高255.9m)を配した山裾に青龍寺は建つ。 駐車場からは二重塔が見える。多宝塔であった。本堂参道の左側に特徴的な形の鐘楼門。


その奥に客殿、書院、方丈が建つ。本堂参道口右手に手水場、左手に納経所。その左手に恵果堂が建つ。
石段横に「二丁目」の丁石。弘法大師像に頭を下げ45段ほど石段を上ると山門(仁王門)。棟に龍の瓦を使う。
仁王門を潜ると左手に地蔵堂と三重塔、右手に聖天堂。見上げる石段を上ると左手に滝。不動明王を祀る。さらに石段を上り、左手地蔵坐像のところに標石があり、「おくのいんみち嘉永元年由八月」と刻まれる。奥の院にはおよそ600mほどである。

更に石段を上り切ると正面に本堂、その左手に大師堂。大師堂前には伊藤萬蔵寄進の香台がある。本堂右手には薬師堂。その前には不動明王が立つ。薬師堂の右手には白山神社。
Wikipediaに拠れば、「青龍寺(しょうりゅうじ)は、高知県土佐市にある真言宗豊山派の寺院。独鈷山(どっこざん)、伊舎那院(いしゃないん)と号す。本尊は波切不動明王。
寺伝によれば弘仁年間(810年-824年)に空海(弘法大師)によって開基されたとされる。入唐求法の遣唐使として、恵果和尚より真言密教の奥義を伝授された空海が帰国の折、有縁の地に至るように祈願して独鈷杵(どっこしょう)を東方に向かって投げた。
空海はその独鈷杵がこの山中の松の木にあると感得し、嵯峨天皇に奏上。弘仁6年(815年)に恵果和尚を偲び、唐の青龍寺と同じ名の寺院を建立したという。

本尊の波切不動は、空海が乗った遣唐使船が入唐時に暴風雨に遭った際に、不動明王が現れて剣で波を切って救ったといわれ、空海がその姿を刻んだものであると伝える。 江戸時代初期には荒廃していたが、土佐藩2代藩主山内忠義によって正保年間(1644年 - 1648年)に再興された。しかし、宝永4年(1707年)には地震と津波で大きな被害を受け、江戸末期に再建された。
なお、本堂のある上段が如意山で、客殿のあるところが摩尼山の麓で、奥の院のある所が独鈷山。元は薬師如来が本尊であった如意山の本堂に奥の院の本尊不動明王を移し、その薬師如来は横に置かれ、そのあと大師堂を造ってずらっと並んだ伽藍の一つの寺になったとみられる。この並びは唐の青龍寺を模したものと言われる。
独鈷
鈷杵とは真言密教の法具で、両端のとがった爪の数によって九鈷杵、五鈷杵、三鈷杵、一つの 爪のものを独鈷杵という。大師座像の絵は三っ爪のように描かれているものが多いが五鈷杵である。
本尊の不動明王
不動明王を本尊としている札所は、第四十五番岩屋寺、五十四番延命寺とともに三ケ寺だけである。もっとも、第三十七番岩本寺の本尊五仏の中には不動明王が含まれている。 不動明王は大日如来の化身ともされ、誓願により如来の使者となって、悪を断じ善をすすめる明王である。
宝永四年(1707)の大津波では本堂以外のすべての建物を失ったとある。嘉永四年(1851)、藩主山内公によって護摩堂、鐘楼門、客殿が建てられ、明治初年に火災で本堂が焼夫したものの間もなく再建された。
波切不動の故事ゆえか、海上安全を祈願する漁業従事者の信仰篤く、出漁の際には寺の沖合でひと廻りして出港したとも言う。
奥の院道
奥の院には上述、本堂への石段途中より、また上の本堂境内からでも大師堂側からこの山道に出ることができ、途中右側上に恵果和尚の墓と称する小石造物群がある。
茂みの下の山道の途中には標石「日是より於くのいんへ三丁嘉永ニ己酉年四月」もある。また鐘楼門を潜り納経所の裏から山道に入り上述ルートに合流するコースもあるようだ。
青龍寺から奥の院への道は途中県道47号をクロスし、山道を上り、再び車道をクロスした後土径を進む。
奥の院
奥の院には白木の鳥居、そこには「清め塩」も用意されている。参拝者は昔から裸足と定められているらしく、靴を脱いでお参りする。手前に下駄箱も用意されている。
行場としての奥之院、本尊は石造の波切不動明王。大師が長安の都から帰国に際し、東に向って投げた独鈷杵がかかっていたといういわれの松は今はない。
案内には「青龍寺奥の院 弘法大師空海は延暦23年唐に渡り、長安の青龍で恵果和尚より真言密教の奥義を授けられ、真言八祖となられた。帰国に当り恩師報恩の為一宇を建立したし景勝の地に留まれと、独鈷杵を日本に向って投げられた。
大師四国巡礼錫の際、当地の松に懸かっている独鈷杵を感得され、此所に一宇を建立、寺号を独鈷山青龍寺とし不動明王の石像を安置された。以後森厳な行場として信仰を集めている」とある。



青龍寺より岩本寺への遍路道


青龍寺を打ち終えると、次の札所は窪川の第三十七番岩本寺。その距離は52キロほどと遠い。近年は横浪半島を抜ける県道47号を須崎へと抜けるお遍路さんも多いと聞くが、県道が整備されたのは昭和48年(1973)に竣工された宇佐大橋に合わせてのことだろし、建設省(現在の国土交通省)より主要地方道に指定されたのは平成5年(1993)というから、往昔横浪半島を辿る整備された道はなかったように思う。実際国土地理院の『今昔マップ〈1965年)』には道路は記載されていない。
かつての遍路道は青龍寺より宇佐まで打ち戻り、浦の内湾・横浪三里北岸の道を辿ることになるが、その他、宇佐まで戻ることなく井尻の港より横浪三里を舟で横浪へと向かうお遍路さんも多くいた、と言う。
真念の『四国遍路道指南』には「いのしりへもどり、よこなみといふ所迄三里、舟にてもよし、此間景よし」とある。『四国遍礼名所図会」にも「先の猪ノ尻村へ戻り、是より横波村迄海上三里舟ニ乗ル、船ニ乗事十一人より十五人迄よし、其余は乗べからず。壱艘借切七百文、壱人前六十四もん宛也。陸路ハ八坂・坂中といふ難所也」とある。
64文がどの程度のものだろう。Wikipediaには1800年代初頭の『東海道中膝栗毛』の記述では、餅一個の価格が3文から5文、街道の茶屋で酒一合が32文とある。酒二合に相当する金額ということだろうか。
とまれ、今回は宇佐まで戻り陸路を辿ることに。

埋立
県道23号を進むとほどなく須崎市域。地震沈降により形成されたリアス式海岸に横浪三里を左手に見ながら埋立、浦の内灰方、深浦、浦の内塩間(しわい)と進む。 『土佐地名往来』には、「浦の内」とは「曲折しながら長く延びた大きな浦(入り江)を内側 に抱え込んだ地形」を指すとある。
埋立から横浪三里の湾を渡海する巡航線があるようだ。往昔、道も整備されておらず多くのお遍路さんが舟で横浪三里を渡ったと言う。ルートは埋立>松ケ碕(横浪半島)>下中山(横浪半島)>深浦>塩間>長崎(横浪半島)>今川内( 横浪半島 )>福良( 横浪半島 )>須の浦( 横浪半島 )>横浪>鳴無>坂内( 横浪半島 )と浦の内湾の最奥部を繋ぐ。
灰方は灰方は礁(ハエ)潟由来の地形を表す地名。岩礁部を碆(バエ)と称するところより礁(しょう)に「ハエ」をあてたのだろうか。深浦から横浪三里を湾の西奥部横浪への渡海船を利用する遍路もいる、と聞く。
浦の内出水の県道右手に花山天皇(後述)勧請との話も伝わる鳴滝神社が建つ。

花山神社
浦ノ内湾に流入する小さな川に架かる出見橋を渡り、小川の南岸を県道より西へ入る。しばらく歩き左折して花山神社の鳥居前に至る。県道二十三号線の出見橋より約八百メートルである。
花山院廟とも呼ばれ、かつては春日山阿弥陀寺と称し、花山天皇の位牌を安置したと伝わる。明治四年(1871)廃寺となり「花山神社」となった。
真念の『四国遍路路指南』には、「出見村、この所をいづミといふ事、花山院離宮の御時、天気たゞならずして都のそら御なつかしくいくたびか門のほかへ出御なりしかバいづ見と名づく、又土佐の大平かももとへ御製
とさのうミに 身ハうき草の ゆられきて よるべ べなき 身をあわれとも見よ
御返し、大平
あはれをバ いかにあふがん及びなし 身ハ入うミの藻がくれにゐて
つゐには此所にて崩じ給ふとなん」と出見の由来と花山院がこの地でむなしくなったと記す。
花山神社からの旧遍路道
社の鳥居の左、道端に標石があり手印と共に「左へんろ道 従是仁井田五社迄 十一里 天保」といった文字が刻まれる、と。かつてはこの社から谷筋に入り、山越えで立目へと抜ける遍路道があったようだが、現在は藪に覆われて歩けない、と(未確認)。
花山院
花山院には散歩の折々、各所で出合う。熊野古道、秩父札所、西国札所、また鎌倉でも出合った。 花山法皇は、御年わずか17歳で65代花山天皇となるも、在位2年で法皇に。寛和2年(986)の頃と言う。愛する女御がなくなり、世の無常を悟り、仏門に入ったため、とか、藤原氏に皇位を追われたとか、退位の理由は諸説ある。
出家後、比叡山や播磨の書写山、熊野・那智山にて修行。霊夢により西国観音霊場巡礼を再興することになったとされる。西国観音霊場縁起は当然のことながら、そのモチーフを「借用」した秩父観音霊場縁起にも登場する。とはいえ、関東へ足を運んだといった記録はないようだ。また土佐でむなしくなったといった記録もない。
因みに、昨年だったか西国観音霊場の姫路・書写山圓教寺を訪れたとき、長年寝かせておいた性空上人と西国観音霊場縁起や秩父観音霊場のあれこれをメモした。花山天皇と直接関係はないが興味があればご覧ください。

鳴無神社の遥拝所
県道23号に戻り浦の内トンネルを抜け立目、槢木を過ぎる。「立目」、「槢木」の由来は不詳。県道を進み横浪に。道の左手、海側に「鳴無(おとなし)神社遥拝所」の鳥居が見える。浦の内湾を隔てた横浪半島に建つ鳴無神社の遥拝所である。深浦からの渡船も遥拝所東の港に入ってくるようだ。また、横浪から鳴無までの航路もあり、時間があれば(あえば)鳴無神社の参拝もできそうだ。


鳴無神社
鳴無神社(おとなし)には第三十番札所善楽寺傍の土佐一の宮・土佐神社で出合った。境内に畳弐畳ほどの自然石の大岩があり、その案内に「古伝に土佐大神の土佐に移り給し時、御船を先づ高岡郡浦の内に寄せ給ひ宮を建て加茂の大神として崇奉る。或時神体顕はさせ給ひ、此所は神慮に叶はすとて石を取りて投げさせ給ひ此の石の落止る所に宮を建てよと有りしが十四里を距てたる此の地に落止れりと。
是即ちその石で所謂この社地を決定せしめた大切な石で古来之をつぶて石と称す。浦の内と当神社との関係斯の如くで往時御神幸の行はれた所以である。
この地は蛇紋岩の地層なるにこのつぶて石は珪石で全然その性質を異にしており学界では此の石を転石と称し学問上特殊の資料とされている。 昭和四十九年八月 宮司」とあった。
ここにある「加茂の大神」が鳴無神社である。古代「しなね祭り」という土佐神社の重要な神事が海路、この鳴無神社へ神輿渡御されていたようだ。土佐神社を別名「しなね様」と称するわけだから、重要な神事ではあったのだろう。岩を投げたかとうかは別にして、土佐大神が祭神であった頃、高岡郡浦の内となんらか深い関係があったのだろう。
しなね様の語源
しなねの語源は諸説あり、七月は台風吹き荒ぶことから風の神志那都比古から発したという説、新稲がつづまったという説、さらに土佐神社祭神と関係する鍛冶と風の関連からとする説等がある(土佐神社の解説より)。


仏坂越え

仏坂
鳴無神社遥拝所の辺りで県道23号を離れ県道314号に乗り換える。奥浦川に沿って山道を上る。 大浦を越えると右手に標石。「佛坂遍路道」「岩不動経由岩本寺」と刻まれる。道の左手には手書きで「右 へんろ道 山道に入る」の案内。
一車線、二車線と混じって進んできた県道314号はここからは一車線の山道に入る。道は舗装されており旧遍路道の趣はない。
横浪から4.5㎞、山道に入って1.8km、高度を150mほど上げると仏坂の峠に着く。道の右手に「 弘法大師修行の地 光明峰寺 仏坂不動尊」の看板と標石。標石には「番外霊場 岩不動二三十米 青龍寺 二十・三粁」と刻まれる。遍路道はこの標石から県道を離れ左折し岩不動に向かう。 

岩不動・ 光明峰寺
標石のある峠から県道314号を逸れ急坂の土径を10分ほど下ると光明峰寺・岩不動に着く。坂を下り切ったところに巨石を覆いかぶさるようなお堂がある。うっすらと見える巨石に刻まれたお不動様に頭を下げる。この仏の彫られた大岩ゆえの「仏坂」の地名由来とある。
その先に不動堂(護摩堂)。丁度、お勤めの時でもあり、お経を耳にしながら本堂にも頭を下げ境内を抜ける。

県道314号合流点に標石
岩不動を離れ1キロ弱、舗装、簡易舗装が混在する道を歩くと仏坂で分かれた県道314号に合流。合流点手前の橋には、「仏坂不動尊右へ山添一キロ光明峯寺」と岩不動を指す標識が立つ。 



石灯籠と標石
桜川の支流に沿って県道を下り、桜川に架かる新川橋の東詰めに。そこに自然石の灯籠が立つ。 その脇に標石。「(梵字)南無大師 是与里五社へ八里 享和三」といった文字が刻まれる。次の札所五社(私注;正確には元札所。現在の高岡神社)のある窪川まで32キロとなった。青龍寺からおよそ20キロ進んだことになる。

県道23号と交差
桜川を渡ると県道314号は国道56号、高知自動車道にあたる。遍路道・県道314号は直進し、国道56号、高知自動車道の高架を潜り、土讃線の踏切を渡り、土讃線の西側を進むと県道23号と交差する。
鳥坂トンネル経由の遍路道との合流点
この交差点は仏坂を通ることなく、横浪から県道23号を進み鳥坂トンネルを抜けこの地に進んで来た遍路道のひとつ。昭和43年(1968)竣工の鳥坂トンネル辺りには旧道も残っているようだが、ほとんどのお遍路さんはトンネルを抜けるようだ。
青龍寺より横浪半島を走る横浪黒潮スカイラインは横浪三里の最奥部の浦の内西分で県道23号に合流し鳥坂トンネルを潜りこの地に至るする。

観音寺
県道314号を進み土讃線多ノ郷駅を越え、県道284号の高架を潜り須崎町西崎交差点で県道388号に合流。遍路道はここを左折し県道388号に乗り換える。
県道は大間の町を進む。大間はかつての多ノ郷村の中心地。南下し御手洗川を渡り大間本町交差点で県道314号を左に逸れ海岸線を進む県道313号に乗り換える。
左折すると直ぐ道の右手丘陵に観音寺。「弘法大師三度栗」で親しまれる。
無量山観音寺、真言宗智山派の寺で、本尊正観世音菩薩、
Wikipediaには「寺伝によれば、聖徳太子が四天王寺を建造するために百済より仏師や工匠を招聘した。敏達天皇15年(585年)、その帰途で須崎沖で台風に遭い須崎湾に漂着した。一同が観音像を刻み、この地に寺院を建立し海上交通の安全を祈願したことが当寺の始まりと伝えられている。
天武天皇13年(684年)10月14日に当地で大地震が起こり須崎湾が大陥没した。この地震により観音像は堂ヶ奈呂に流されたとされる。 その後、平安時代中期の延喜3年(903年)宮ノ中土居山へ移され、戦国時代の元亀3年(1572年)に竹ノ鼻、大正15年(1926年)に現在地へと移転した。
平安時代前期の弘仁10年(819年)頃、弘法大師がこの地をに巡錫した。少年が栗を持っていたので一つ所望したところ、持っていた栗を全て差し出した。大師は少年を誉め、その栗の木を祈念した。すると一年に三度実をつけるようになったという三度栗の伝説が残っている」とある。
三度栗伝説
三度栗の伝説は遍路道の途次、時に出合う。四国中央市には三度地蔵堂があった。愛媛南予の窓坂峠には三度栗ならぬ、七度栗大師堂があった。四国以外でも西日本に限らず宮城、群馬、静岡などの東日本にも三度栗伝説が残るとのこと。柿にまつわる伝説もどこか記憶に残る。芋に関する伝説も各地にみられるようだ。弘法大師の人気ゆえのことだろう。
百済仏師の伝説
また、百済の匠の話は34番札所・種間寺でも出合った。そこでは、用明天皇在位(585年 587年)四天王寺を建立するため来日した百済の仏師が帰国の際に暴風に襲われて種間寺に近い秋山の港に漂着、航海の安全を祈願して薬師如来刻んで本尾山頂に安置したという。 全体のプロットも時代もほぼ同じ。
百済仏師の造仏
Wikipediaに、四天王寺の造仏のため百済の仏師が来日したとある。日本に仏教が伝来したのは、欽明天皇七年(五三八)という。『書紀』は、欽明天皇の十五年(五四六)、僧恵ら九人の来朝、敏達天皇の六年(五七七)、百済の威徳王が日本からの使者大別王らに託し経論若干と「律師・禅師・比丘尼・呪禁師・造仏工・造寺工」の六人を送ったとあり、「難波の大別王の寺」に住したという。 その間も崇仏派の蘇我馬子と排仏派の物部氏の政争が続き、用明天皇を経て崇仏派馬子の勝利に終わる。次の崇峻天皇のあと推古天皇が皇位を継ぎ、天皇は甥にあたる厩戸皇子(聖徳太子)を皇太子として國政をまかせた。翌二年(五九四)には仏教興隆の詔も出す。こうした経緯を踏まえ私寺として四天王寺(五九三年)は聖徳太子の私寺として建立された。
種間寺の薬師如来像仏の仏師にしても当寺の造仏工が上述敏達天皇の六年(五七七)に送られてきた仏師かどうか不明だが、いずれにしても当時は仏教伝来からそれほど時も経ておらず、造寺、造仏、さらには僧侶も百済からの渡来人、帰化人なしでは成し得なかったであろうかと思う。

須崎駅
観音寺を離れ海岸に迫る城山丘陵の東裾を土讃線に沿って県道388号を下る。須崎は戦国時代、津野氏が開いた地。城山は津野氏の館があった。須崎湾の対岸には巨大なセメント工場の施設が見える。鉱山はどこ?仁淀川町の鳥形山がそれと言う。石灰岩の四国カルスト地帯だろう。地図で見ると。鳥形山から鉱石ベルトコンベアーが四国の山や谷を越えて須崎の南・新荘まで続いていた。総延長は20キロ以上、その半分が山を穿ったトンネルとなっている。
その先に須崎駅。「高知県国鉄発祥の地」の碑がある。須崎から日下間の高知線開業が大正14年3月(1925)。その後11月に日下から高知、翌大正14年(1926)には高知・土佐山田が開業と、須崎から北に伸ばしていった故の「高知県国鉄発祥の地」とする所以であろう。
須崎は日本有数の天然の良港で、広さと水深を持つ。また、『土佐地名往来』に「新荘川の流砂が堆積し沿岸洲が発達。砂州状の土地 がスサキ。池ノ内湾は潟湖で残る」とあるように自然の地形は防波堤となり波も穏かであり、高知線建設資材・車両の搬入に適していたのだろう。

大善寺
遍路道は須﨑駅から南下し、新町本通商店街で右折し西進する。新町本通りを進み、東古市、西古市と古市進み、通り南に建つ須崎八幡を越えた四つ辻を左折、更に一筋南の通りを右折し中町に入る。お大師通りとなった道を進むと右手丘陵に大善寺が建つ。
道に面して大師堂、丘陵上に鐘楼が見える。
このお寺様は別格二十番霊場第五番。36番青龍寺から37番岩本寺まで14里・56キロと遠い。ために「中札所」と呼ばれる。中札所としては、伊予の53番円明寺と54番延命寺の間に遍照院があった。

Wikipwsiには「二つ石大師 伝承によれば、現在寺院がある丘陵は須崎湾に突き出た岬であった。ここには「波の二つ石」と呼ばれる二つの巨石があった。ここを通る際には、通常は丘陵を越えて通行していたが、干潮時は二つ石の端を通行していた。
しかし、ここは「土佐の親不知」とも呼ばれる難所で突然の大波にさらわれる海難事故が絶えなかった。この岬は霊峰・石鎚山の南端に当たるとされ、不浄の者がここを通ると怪異に出会い難に遭うのだと言われた。
平安時代前期の弘仁6年(815年)空海(弘法大師)が42歳の時、四国霊場開創のため巡錫中に須崎を訪れた際この話を聞いた。空海はここで海難死亡者の菩提を弔い交通安全を祈願した。その後、ここに大師堂が結ばれたとされている。やがてこの大師堂は「二つ石大師」と呼ばれるようになった。二つ石は長年の波涛で周囲に土砂が堆積し陸地となった。昭和初期には防波堤が造られ、現在、二つ石は土中に埋まっている。
この寺院の名は、(中略)元々、八幡山明星院大善寺と言い、大和国(現在の奈良県)長谷寺の僧坊・小池坊の末寺であったと伝えられ、現在地より東寄りの古市町にあり、本尊は阿弥陀如来(伝・恵信の作、現在不明)で、八幡神社の別当として末寺17ヶ寺を従える大寺であったと伝えられている。
しかし、宝永4年(1707年)の宝永地震による津波で流され、古城山の麓に移ったとされている。 明治時代初期の廃仏毀釈により廃寺となったが、明治29年(1896年)廃寺となったことを惜しむ信徒により二ツ石大師の上部に寺院が復興された」とあった。

土佐藩砲台跡
大善寺の近く、富士ヶ浜の海岸に土佐藩砲台跡があると言う。当時の石積みや土塁が残るという。ちょっと立ち寄り。
砲台跡には案内があり「土佐藩砲台跡 昭和19年11月国の史跡指定
幕末、異国船の来航があり、海岸防備のため藩命により文久3年(1863)7月に着工し1ヶ月半の短時日に完成した。
須崎には西、中、東の3ヶ所に台場が築かれたが、そのうち現存するのはこの西台場のみである。規模が最大で長さ116m、砲門7座、内側に弾薬室が7ヶ所あったが、明治初年埋められた。この砲台跡は明治40年、須崎町が払下げをうけ、公園として保存してきた。
当時使用した砲弾が残っている。
慶応3年(1867)8月6日、イギリス水夫殺害事件で公使パークスは土佐藩と交渉するため軍艦 (バジリスク)で須崎港に入港し、幕府艦(回天丸)や坂本龍馬も来港して外国交渉の舞 台となった。【高知市民図書館蔵】平成10年3月20日」の解説と共に、「文久3年(1863)8月23日に完成した須崎砲台場の古図」のキャプションのついたイラストが掲載されていた。
また案内はもうひとつあり、「土佐藩砲台跡(西砲台) 幕末、日本近海へ外国船の接近が相次ぐようになり幕府や諸藩は砲台(台場)の築造を進めた。須崎でも文久3(1863)年7月から8月にかけて西・中・東の3基の砲台が築かれた。
西砲台は扇形の平面をしており7門の大砲を据えるようになっていた。大砲は砲台上部の土盛りと土盛りの間に置かれたという。
築造当初、背面の石垣には7つの薬室(弾薬庫)があり海側には堀があった。大正3(1914)年に公園化がなされ、昭和 19(1944)年に国史跡に指定されている。
各地の台場で残存するものは少なく全国的にみて貴重な史跡である。 中砲台は今の南古市町に造られ長方形の平面をしていた。 東砲台は浜町に造られ扇形の平面をしていた」といった解説と共に、「昭和初期の西砲台(絵葉書資料館提供) 下の2枚の絵図は左より西砲台、中砲台を描いたもの(オーテピア高知図書館平尾文庫蔵)」のキャプションのついた写真とイラスト、また西砲台跡、中砲台跡、西砲台跡の場所を示す簡易地図も載っていた。

土佐新荘
遍路道は大善寺前のお大師通りを進み左手、新荘川河口部にある土讃線土佐新荘駅を左手に見遣り、先に進むと県道388号に合流する。県道388号を西進し国道56号・須崎道路の高架を潜り、その先国道56号に合流。新荘川を渡り角谷山の山裾に向かう。
土佐新荘
新荘は新しい荘園の意。Wikipediaには「津野氏は最初は津野荘の地頭となり、その後津野新荘の地頭も兼ねるようになったと考えられる」とあり、その津野荘は「京の賀茂御祖神社の荘園で、高岡郡吾井郷津野保(現 高知県須崎市吾井郷;須崎市の北、土讃線吾桑駅あたり)にあった。
本来は土佐国の賀茂御祖神社の荘園は土佐郡潮江荘であったが津波により水没、代わって津野荘が立荘された。 また、津野新荘は土讃線土佐新荘駅や新荘川にその名をとどめており、名称からして津野荘の成立後に津野新荘が成立したものと考えられる。 新荘川の流域に津野氏の山の拠点となった姫野々城がある」とある。この新荘辺りに新たに立荘されたのが新荘の由来だろう。
津野氏
Wikipediaに拠れば、高岡郡の豪族津野氏の出自は元藤原氏であり、伊予に下り、河野氏の意向を受け土佐に入り、梼原を拠点に高岡郡の奥地山間部をその所領とし、その後南下し東津野村(津野町東部)、葉山村(津野町西部)から須崎市まで勢力を伸ばしたとの説があるが、その信憑性は低いとし、上述の如く、「津野氏は最初は津野荘の地頭となり、その津野新荘の地頭も兼ねるようになったと考えられる」とする。
どちらが正しいのか門外漢には不明だが、山間部の梼原から海岸部の須崎に進出したのか、その逆なのか、勢力拡大の方向が真逆になる。

国道56号から旧道に逸れる
角谷山裾に入った国道56号はほどなく旧道を右に分ける。角谷トンネル、久保宇津を抜けて進む国道56号と異なり旧道(旧国道だろう)は国道の山側から海側、さらには山側と蛇行して進み、久保宇津トンネルの先で国道56号に合流する。
この遍路道も旧道が開かれる以前、「角谷♪焼坂♪添蚯蚓」と詠われた須崎から窪川間の遍路泣かせの難所であったと言われる。現在の角谷トンネル北口付近の旧道から右に逸れる破線が地図上に描かれる。往昔、角谷坂越えの道があったのではと思える。
角谷坂の国道改修工事が完了したのは昭和43年(1968)のことである。
日鉄鉱業(株)鳥形山鉱業所
旧道分岐点の海岸側、角谷岬に日鉄鉱業(株)鳥形山鉱業所がある。上述仁淀川の鳥形山から 四国山地の山や谷を越え総延長22.6キロの鉱石ベルトコンベヤーの終点がこの工場。破砕工場で鉄鉱用、セメント用などに調整され船積みされる。鉄鉱用とはこの鉱山の原点。日鉄の文字の如く日本製鉄君津工場第三高炉への石灰石供給を目したことから始まった。
鳥形山鉱山の長径は2.5km, 常の露天掘り鉱山に見られるすり鉢状と異なりここは上部をスライス状に掘り下げ、鉱石?は中央部に設けた縦坑に落とし、ベルトコンベアで新荘へと運ばれる。
総延長22.6キロのうちトンネル部が21キロ。中には第六トンネルのように7727mと、この種のトンネルとしては世界最長のものもあるようだ。
途中の谷筋ではトンネルから出て谷を渡る鉱石ベルトコンベアの「渡り廊下」が顔を出す。
(掲載ルート図は「地質学ニュース615号 天空の鉱山「鳥形山」を訪ねる(須藤定久)」より)。

安和・焼坂越え分岐点
国道56号に出た遍路道はその先、安和トンネル手前で左に逸れる旧道に入る。海岸線を走る土讃線のトンネル上を走り、山側に向かい安和トンネルの上を越え安和小学校前まで進みT字路を左折し土讃線を潜る。その先の交差点が焼坂越えの古い遍路道分岐点。国道56号をそのまま進めば1キロ近くの距離があり歩道幅も十分ではないと聞く焼坂トンネルを抜けて久礼へと進むが、焼坂を越えて久礼に向かう旧遍路道は交差点を右に折れ桜川と呼ばれる小川の南を進むことになる。
安和(あわ)
『土佐地名往来』には「安和は角谷坂と焼坂との間の集落。はかなきのたと えの泡?須崎と久礼の「あわい」(境界)の転訛?」とある。

今回のメモはここまで。次回は焼坂峠越えから添蚯蚓坂越えをメモする。
今回は清瀧寺から青龍寺への遍路道をメモする。距離はおおよそ14キロほどだろう。このルートは地形の観点からみると少々バリエーションに富んだルートとなっている。虚空蔵山地の清滝山麓に建つ清瀧山からはじめ、仁淀川により形成された氾濫平野・谷底平野を進み、横瀬山山地を越える。横瀬山山地の南は地震沈降によるリアス式海岸の様相を呈する浦の内湾。かつては渡船、現在は湾口部に架かる宇佐大橋を歩き浦の内湾を渡り、対岸の横波半島に東西に連なる横波山地東端麓に建つ青龍寺へと進む。氾濫平野とリアス式海岸により三条に分かれた山地を北から順に辿ることになる。
Google Earthで作成

地層もバリエーションに富んでいる。虚空蔵山地を東西に走る仏像構造線の南は中生代後半(中生代白亜期)から新生代前半頃(新生代古第三期の地層よりなる四万十帯に属するが、清瀧寺の建つ辺りは中生代後期白亜紀の海成層砂岸(黄色)に中生代前期白亜紀の砂岸泥岩互層(黄緑)が割り込み、中央の高岡平野は仁淀川により形成された新生代の氾濫低地、その南の横瀬山地北側は中生代の海成層砂岸層と砂岸泥岩互層が幾条も並行して東西に走り、浦の内湾を挟んで横瀬山山地南側と横波半島の横波山地北側は中生代海成層の泥岩(薄い青)で造られている。

これらの地層はプレートが沈み込むときに海底に溜まっていた砂岩や泥岩が沈み込み部に取り残された「付加体」とされるが、大雑把に言えば日本列島って「付加体」でできているようなもの。どのような地殻変動でこのような地層が形成されたのか門外漢にはコメントできないが、それにしても面白い地層の並びである(右の国土地理院・地質図を参照ください)。
それはともあれ、遍路道に話を戻すと、お寺さまを繋ぐ遍路道も地形、地質・地層同様バリエーションに富んでいる、横瀬山山地には青龍寺道として国の史跡に指定されている塚地峠越え、横波山地の竜坂越えといった「軽い」峠越えあり、氾濫原の高岡平野では野中兼山開削水路跡など、峠越え・水路フリークには結構楽しいルートとなっている。もっとも峠越えはともあれ、水路フリークはお遍路さんにそれほどいらっしゃるとも思えないが、とまれ散歩のメモを始める。






本日のルート;35番清瀧寺>清瀧寺・青龍寺道分岐点>茂兵衛道標>波介(はげ)川の弥九郎橋>県道39号を南下>塚地休憩所>青龍寺道(遍路墓>供養塔と標石>峠手前に標石>塚地峠>標石>展望所>「遍路道 塚地峠あと600m」の標識(摩崖丁石)>大師の泉>舗装道路に出る(摩崖仏)>安政地震・津波の碑>常夜灯>伊気神社の茂兵衛道標>茂兵衛道標>県道23号合流点に標石>宇佐大橋を渡り横波半島に>竜坂越えの遍路道(旧遍路道の案内丹生神社の茂兵衛道標>井尻大師堂>峠>2基の石仏と遍路墓>9丁・8丁>竜の集落に下りる)>六地蔵>標石>36番青龍寺

清瀧寺から清瀧寺・青龍寺道分岐点まで打ち戻り

清瀧寺(きよたきじ)から高岡市内の清瀧寺・青龍寺(しょうりゅうじ)道分岐点まで打ち戻り。往路と同じ遍路道を戻ることになる。澄禅が『四国遍路日記』が「此宿ニ荷俵ヲ置テ札斗持テ清滝寺エ上ル也」、真念も『四国遍路道指南』に「荷物を高おか町にをき、札所へゆきてよし」荷を高岡に置くと書く所以である。メモは清瀧寺・青龍寺道分岐点より始める。

清瀧寺・青龍寺への遍路道分岐点に標石
清瀧寺から清瀧寺・青龍寺への遍路道分岐点へと打ち戻る。分岐点には「35寺 清龍寺」は北方向、「36寺青龍寺」は南方向を指す案内と、その下におおきな標石。「右清瀧寺道 左青龍寺道 文化五」とある。
青龍寺への遍路道は案内に従い、南下する。

茂兵衛道標(259度目)
道の左手を流れる用水路に沿って南下。東西に走る県道39号を渡り更に南下,用水路が鋳鉄の「たたら」をその語源とする「高殿」(「土佐地名往来)あたりで、北から下って来た用水路を「水路橋」で渡る辺りで用水路と共に道もその方向を東に変えしばらく進む。
ほどなく道の左手を流れていた用水路が右側に変わる。その少し先で道と用水路がペアで南東へと下り南へと下って来た県道39号とクロス。 その西南角に「清滝寺4.8km」「塚地峠2.5km」の「四国のみち」標識と茂兵衛道標がある。手印と共に「清瀧寺一里 青龍寺一里半余 大正四年」といった文字が刻まれる」。茂兵衛259度目巡礼時のもの。遍路道はこの四つ辻を右折し南下する。
鎌田井筋
清瀧寺・青龍寺道分岐点から遍路道に沿って続く用水路は。鎌田井筋として紹介されている写真と同じ風情であり、どうも往昔鎌田井堰で取水し、松尾八幡の東辺りで三つの流れに分かれた鎌田井筋のひとつのように思える。
八田堰の工事を完成した野中兼山は、八田堰の上流2.5km、仁淀川に架かる土讃線の鉄橋西側下辺りに取水口(鎌田井堰)を設けることとして、承応3(1654)年鎌田堰築造に着工。2年の歳月で長さ545m(300間)、幅18.1m(10間)、高さ12.7m(7間)の堰を完成。およそ23キロにも及ぶ鎌田井筋を開削し、土佐市のある高岡平野を潤した。
鎌田井堰は下流の八田堰まで舟筏を通す必要があったためか、「水越」を設けられ、「鎌田堰の筏越し」として知られたようである。

国土交通省の資料
広谷喜十郎:野中兼山と春野
この鎌田井堰も昭和12(1937)年、高岡郡日高村下分に水門を設け、トンネルを掘り抜き、新たな水路を開いた。ために、約300年近く利用されてきた「鎌田堰」は、昭和17(1942)年をもって取り除かれ、現在鎌田井堰跡には石碑が残るのみ、と。
鎌田井筋の水路図(国土交通省の資料と「広谷喜十郎:野中兼山と春野、高知市広報「あかるいまち」2007 年 12 月号」)などと現在の用水路を比較すると上流部の高知自動車道のすぐ南の松尾神社辺りまではそれらしき流路が比定できるのだが、その先で分岐した流れがどれもピタッと一致しない。一致しないのだが、土佐市の写真に鎌田井筋として紹介されている用水路とは同じ風情であり、往昔の鎌田井筋がベースとなった幹線用水路であろうと思い込む。

波介(はげ)川の弥九郎橋を渡る
路傍の地蔵尊を見遣り道を南下。波介川の弥九郎橋を渡る。弥九郎の由来は?そして何故に波介を「はげ」と読み、またその由来はなども気になる。
あれこれチェックするが「弥九郎」の由来は不明。長曾我部元親の異母弟に島弥九郎がいる。元親の阿波侵攻のきっかけとなった徳島南部、那佐湾での島弥九郎事件の当事者であるが、これといって橋名との関連を示す資料はなかった。
また、何故に波介を「はげ」と読む?『土佐地名往来』に「波介川の氾濫と、小野の樋台から逆流するサカウド(逆水)で、田面がホゲ通しのムラだった。ヒキ(蛙)の小便で早やツカル(浸水)ともいわれた。動詞ホグレルの名詞形ホゲに原意があったと考えられる。ホゲルは、方言でハゲルだった」とある。
波介川の氾濫水と、小野の樋台から逆流する仁淀川かの水がぶつかり合って土地が「はげる」場所と言うことだろう。「介」には間に挟まるって意味がある。波と波がぶつかり合うところどいうことで、「波の介(あいだ)」の文字をあてたのだろう。
往昔波介川は仁淀川に合流していた。「小野の樋台から逆流」とあるが、波介川が仁淀川に接近する辺り、波介川を渡る県道282号に「小野橋」が架かる。小野橋の下流、現在波介川水門のある辺りで波介川が仁淀川に合流していたのだろう。
仁淀川の水位は波介川の水位より高く、洪水時には仁淀川からの逆流が波介川を遡り、土佐市内は幾たびも洪水に見舞われた、という。仁淀川の逆流に加え、波介川が上流に行くほど地盤が低い低奥型の地形であることも大きな因ではあろう。
波介川の治水対策事業
昭和50年(1975)、土佐市は未曽有の洪水被害に見舞われた。洪水対策として仁淀川からの逆流を防ぐため波介川水門が設けられた。が、この水門により仁淀川の逆流は防げるが、低奥性の地形である波介川自体の洪水帯水を避けることができなかった。
その対策として両河川の合流点を現在の波介川樋門辺りまで下げたが、それでも洪水被害を避けることはできず、結局波介川筋を河口まで抜く波介川河口導流路工事に平成19年(2007)度に着手し平成24年(2014)5月に運用を開始した。
これにより、平時は波介川からの水を仁淀川に流すため、波介川と導流路を十文字堰で仕切り、波介川樋門は全開。波介川潮止堰は全閉し、河口から導流路内への塩水遡上を防止した。 洪水時は、波介川の水はけをよくするため、波介川潮止堰を全開し、十文字堰を倒伏しその後、波介川樋門を全閉して仁淀川と波介川を分断し、波介川の洪水を導流路から海域へ流すことで、土佐市街地を含む波介川流域の浸水被害を極力減らすことを目したようである。

県道39号を南下
弥九郎橋を渡ると前面に横瀬山山地が東西に連なる。山地は山脚を分岐し、山脚には発達した浸食谷が見られる。遍路道は塚地川の開析した谷筋を通る県道39号を南下する。
浸食谷を南下する県道最奥部に塚地坂トンネルがある。873mのこのトンネルは平成10年(1998)3月竣工、翌年年開通とあるので県道39号はそれに合わせて整備されたのだろう。
古い資料には県道開通前の旧路に道標などが残るとあるが、県道脇に時に旧路の面影を残す橋などが残るも、その先は既に藪となっており、とても踏み入る気にはなれない。仕方なく県道39号を南に進み、塚地休憩所に。
県道はその先で塚地坂トンネルを抜け宇佐の町に入るが、遍路道は塚地休憩所から塚地峠越えの山道を上ることになる。
塚地
『土佐地名往来』に、「古くは津賀地。集落にある猿喰古墳が由来。蓋石がいまも残り穴神様として祀る」とある。古墳の塚のある土地が由来ではあろうか。塚地川右岸に猿喰の地名は残るが、猿喰古墳は検索でヒットしなかった。
義盛山
猿喰をチェックしていると、塚地川谷筋の東側に義盛山(標高144m)が目にとまった。義盛で想起できるのは和田義盛。鎌倉御家人。頼朝を助け鎌倉幕府の重責を担うが、北条氏と不和となり、所謂、和田合戦により一族は滅亡した。
そんな和田義盛と土佐に何か関係が?あれこれチェックしていると、四国の水瓶・早明浦ダムの南西に和田の地名があり、また695.4m三角点に和田城山があるようだ。
一族滅亡とされる和田合戦の際、義盛の四男若狭守義直は一族を引き連れ、四国まで逃れ、讃岐和田浜にをへて、山奥の地・和田に来て城を築き神社を建てて再挙の時を待ったとのこと。
とはいえ、Wikipediaには建暦3年(1213年)に討ち死との記事もある。なんだか四国に多い平家の落人物語の様相を呈してきた。上述弥九郎同様、単なる妄想ではある。

塚地休憩所
塚地坂トンネルに向かう県道39号と源頭部から下る塚地川の沢筋の分岐点に塚地休憩所がある。 四阿(あずまや)や「大師の泉」と刻まれた石碑傍には水車などが添えられている。名称は大師の泉とあるが、特段お大師さんゆかりのものではなく、施設名といったものだろう。
この塚地休憩所には多くの案内パネルがあった。写真に写る文字をテキストに変換してくれる優れもの無料ソフト「一太郎pad」を活用し、案内をテキスト化する。
遍路道 巡礼の往還
まずは遍路道の案内。説明文とともに、摩崖仏と遍路塚とか大師の泉といった塚地峠越えの旧跡などの地図があるのだが、地図が大雑把すぎて場所の目安がつかない。成り行き任せとなるようだ。 遍路道の案内には「遍路道 巡礼の往還 塚地峠(宇佐坂)越えは、道のり二キロ、標高百九十メートル、四国霊場八十八ヶ所の第三十五番札所清滝寺から、横波半島の竜・第三十六番札所青龍寺へ向かう最短距離の遍路道である。
清滝寺は、奈良時代の僧・行基が、養老七年(七二三)、薬師如来像を作って寺を開き、さらに平安時代になって弘法大師・空海が再興したと伝えられる。また青能寺は空海が中国で修行中に秘法を授かり、手にした独鈷杵(仏具の一種)を海に投げた。それが竜の浜に流れついたという。空海は、ここを霊場と定め、延歴二十三年(八〇四)に開山したと伝えられる。
いずれも真言宗豊山派の寺で八十八ヶ所の札所の中で、山を越え海を渡って半島を結ぶ霊場はここだけである。交通が発達した今でも、白装束の遍路が鈴を鳴らして峠に向かう。
時には団体を組んだ遍路の列も見受けられる」とある。
また、遍路道の地図上に示された旧跡としては
峠の茶屋
「ふもとの手差し石(道しるべ)に従って一キロほど登ると峠に出る。この峠には昭和二十年代まで茶店があり、ここを通る遍路や商人たちの憩いの場であった。
峠からは、東に室戸岬、西に足摺岬を眺望し、横浪半島の竜・青龍寺の山々がパノラマのように見える」。
大師の泉
「峠から南に下りるとすぐ楢の林にはいる。その中に「大師の泉」という湧水がある。峠を越えてゆく者にとってこの水はお大師様の恵みと感謝して、のどを潤していったであろう」。
磨崖仏と遍路塚
「下りの道半ばを過ぎると、道より上に大岩が傾きほこら状になっている。その斜面を見ると このあたりでは珍しい磨崖仏が線刻で描かれている。
さらに下りたところに、その昔 各地から遍路巡拝の旅を続けるうちこの辺りで命尽きた人々の遍路墓が塚地側登り口と同様、多く見られる」。
水車小屋の跡
「宇佐側のふもと近くまで下ると、一軒の廃屋がある。この谷川の水を利用して、精米、製粉を営んでいた水車小屋跡である。戦後昭和二十年代まで老夫がすんでいたという。古き良き時代の 一 水車の名残をとどめている」。
〇安政大地震の津波の碑
「峠をおりきると、路傍右側に、南無阿弥陀仏の名号を彫った筒型の碑が建っている。これは、安政元年(一八五四)十一月五日の大地震と津波のことを記したもので、碑文には、人家流失し残る家僅か六、七十軒、溺死者七十余人など当時の状況が記され「先ず逃げよ、物欲にとらわれるな」と教えている。
安政四年に建立されたもので宝永・安政の二度の津波による死者の供養塔である」。 地図は大雑把なイラストであり、場所の特定はできそうもない。結構注意して歩いたのだが、大師の泉(多分そうだろう)と安政大地震の津波の碑以外は見つけることはできなかった。
「くらしの道 みちの移り変わり」の案内
「この塚地越えは、往事の商業の道でもあり、また、漁村を結ぶ産業文化の道でもあった。遠い昔、宇佐で作られた塩は、この峠を越えて穀物と交換され、郷と浦の人々を結ぶ生活道でもあった。
近時の車が発達するまでは、通勤の道でもあり、宇佐方面に勤める人たちはよくこの道を越えていった。特に、竜の不動祭や大相撲、潮干狩、海釣りなど高岡と宇佐を結ぶ最短の要路であった。 明治時代の終わりに中島から新居を経由して宇佐に通ずる郡道が開通し、主要交通路として確立するに従って、塚地峠を行き交う人の数はだんだんと減っていった。戦後、自動車交通が普及すると、この道はお遍路やハイキングの人たちの道となった。
その一方で、昭和三十三年の土佐市設置の際には塚地トンネルの建設構想が挙げられるなど、人々の心からこの塚地越えの道が忘れられることはなかった。
平成の時代になって、現在の科学技術の力により、この道はトンネルという形で再び私達の前に帰ってきた。全長八三七、五メートルのトンネルの開通により、峠をわずか二分で越える(通り抜ける)ことができるようになった」とある。
塚地峠越えから横瀬山地が仁淀川に落ちる東裾を走る県道282号、そして塚地坂トンネルの開通によって横瀬山地を県道38号によって一直線に結ばれることになった高岡と宇佐の「往還」変化の経緯が解説されていた。
「かつおと石」の案内
「夜売りの道 「宇佐の鰹」。これはその昔から多くの人に新鮮な魚としてよく知られてきた。塚地の峠に山つつじが咲く頃は、ことに初鰹で港は賑わった。早朝 港を出た船が次々に帰ってると、いきのいい鰹が砂浜に上げられ競りにかけられる。
待ち構えていた行商人たちは、鰹を入れた荷籠に檜の葉っぱをかぶせて一斉に商いに出る。氷が自由でない時代は、先を争って新鮮な鰹を食卓に届けようと 高知市や高岡の町を日指して算駄天のように 日暮の塚地峠を越えた。
漁師と町の人々とを結んだコースが「夜売りの道」である。塚地峠の他にも高知方面には新居坂を越えて十文字の渡しを通り 西畑から弘岡に出るコースや仁淀川河口を渡り仁ノから秋山をするコースがあった」。
「石工の里 塚地の里は、高岡町の南に位置し三方が山に囲まれた田園地帯である。波介川に架かる弥九郎橋を渡ると、東には義盛山があり その頂上には塚地城址がある。すぐ近くの猿喰地区は、初代衆議院議長の中島信行の生誕地でもある
塚地は古くから石工の里であった。江戸時代より石工が多く、一時期は、四十軒ばかりの石材加工を生業とした家があり、石工も六十余人がいたといわれる。
その石材は、塚地の峠を越え、須崎市浦ノ内の灰方山で採れる「土佐の青石が選ばれてきた。 石塔の外に、名前を刻んだ石灯籠や狛犬、石像など、塚地の石工は県下でも最高の技術を誇っていたらしく優れた作品が残されている。今でも五~六軒の石材店がその伝統を受け継いでいる」とある。

これらの解説の他、「塚地坂」周辺は、幻の鳥といわれる高知県の県鳥、「八色鳥(やいろちょう)」の生息地でもあるといった解説や、西隣りの須崎市との境にある「虚空蔵山」から、「横瀬山」へと続く「横瀬山山系」のハイキングコースなどの案内も公園にあった。


青龍寺道


塚地休憩所を離れ横瀬山地を越える青龍寺道に入る。全長およそ1.6km、標高およそ200mの遍路道で、平成28年(2016)秋、国の史跡に指定されている。「文化遺産オンライン」に拠れば、「(土佐遍路道のうち)塚地坂(つかじざか)を越える部分に旧状をとどめている。(中略)塚地坂を南に下って沢と合流する付近の岩塊には丁石としての文字が刻まれ,それに尊像が添え彫りされている。また,坂を下りきった宇佐側の沿道には磨崖仏が存在し,その一部には高岡郡域の中世期の石仏の特徴が見出される。青龍寺境内に慶長6年(1601)の接待供養塔が存在することをふまえると,遍路が一般化する時期以前から信仰の道として利用されていたことが推測される。遺存状況が良好であり,土佐における遍路道の実態を考える上で重要である」ということが指定の因であろうか。
とはいえ、肝心な処はすべて見逃した為体(ていたらく)ではあるが、ともあれ青龍寺道をメモする。

遍路道 塚地起点;14時3分
「遍路道 塚地起点 標高45.0m 塚地峠まで840m 標高差140m」の木標のあるところからスタート。道端に置いてある遍路杖をお借りして進むと、道の左手に「四国のみち」の概要図。沢に沿って数分進み、沢筋を離れる。






遍路墓
沢筋を離れ尾根筋に入るあたりにいくつもの遍路墓が並ぶ。尾根筋に入り、標高を100mほど上げる。道筋には「遍路道 塚地峠あと600m」、「遍路道 塚地峠あと500m」といった案内が立つ。 道は横木の敷いた階段状、石畳状などと整備されている。



供養塔と標石
「遍路道 塚地峠あと300m」の案内を越えると2基の石柱。1mほどの自然石には「南無阿弥陀仏」の文字がかすかに見える。供養塔のようだ。小さな石柱は「下 へんろ」といった文字が読める。標石だろう。






峠手前に標石
「遍路道 塚地峠あと200m」「遍路道 塚地峠あと100m」といったあたりには竹林に囲まれる、その先、峠鞍部への小さな切通がある手前に自然石の標石。手印と共に「下 へんろ道」と刻まれる。 






塚地峠:14時30分
上り口からおおよそ30分弱で峠に到着。峠には「へんろ道 塚地峠 標高185m」の標識の他多くの道案内の「標識が立つ。「宇佐」「高石(私注;弥九郎橋を渡った北側の地)」、「弥九郎橋」「大峠展望所」、またハイキングコースの案内もあり西の「大峠展望所」や「茶臼山」「波介山公園」への概要図があった。




標石
大峠展望所へのハイキングコースへの道との分岐点に標石が立つ、手印と共に「へん路道 嘉永」といった文字が刻まれる。宇佐への遍路道は標石の左の道を下ることになる。 ●手やり石
道を下るとすぐ、「手やり石」の案内。「手やり石は青龍寺までの道しるべとして路傍に建てられたもので、多くの人々が利用した」とある。が、肝心の手やり石らしきものが見当たらない。「手やり石」で検索すると、手印のついた標石のことを「手やり石」とする土佐の散歩記事が目についた。手印上述手印付きの標石のことを指すのだろうか。


展望所
道を進むと「遍路道 塚地峠あと100m」の案内。宇佐から上ってきた人のためのよう。その先、全面が開け、宇佐の町と内海が見える。
塚地休憩所にあった「茶屋跡」の案内は特になかった。






「遍路道 塚地峠あと600m」の標識
「遍路道 塚地峠あと200m」,「あと300m」、「あと400m」と続く。上りと異なり土径がほとんど。たまに石が敷かれる。「あと400m」のところには石垣が組まれれいた。その先に「遍路道 塚地峠あと600m」の標識。




摩崖丁石
以下、後付けのメモではあるが、青龍寺道を辿るも塚地休憩所にあった「摩崖仏」を目にすることはなかった。で、メモの段階であれこれチェックすると、春野公麻呂さんの書かれた、「土佐の摩崖仏三景」という記事の「萩谷磨崖仏(宇佐萩谷)」の項(私注;萩谷とはこのあたりの地名)に、塚地峠越えの道筋に2か所の摩崖史跡が紹介されていた。
そのひとつが、この「遍路道 塚地峠あと600m」の標識の少し先にあるという摩崖仏ならぬ「摩崖丁石」。上述の文化遺跡オンラインにあった「塚地坂を南に下って沢と合流する付近の岩塊には丁石としての文字が刻まれ,それに尊像が添え彫りされている」とあるのがこの史跡だろう。 自然の大岩に「是より青龍寺へ 四十九丁半」と刻まれる、と。これは前もって場所がわかり、その気になってじっくり岩を眺めなければとてもわからないだろう。
興味を持たれた方は、「遍路道 塚地峠あと600m」の標識から先辺りを注意しながら歩きいてみてください(もうひとつの摩崖史跡である摩崖仏は後述)。

大師の泉
何となく沢筋を感じ始めた辺りに「萩谷」と書かれた木の標識。その先に「遍路道 塚地峠あと700m」の標識を見遣り更に進むと砂防ダムが現れる。
砂防ダムを越えると「遍路道 塚地峠あと600m」の標識がありその先に水場。塚地休憩所にあった大師の泉の案内では、「峠から南に下りるとすぐ楢の林にはいる。その中に」大師の泉があるとする。「すぐ」が「大師の泉」に架かると思い峠近くで大師の泉を探したがみあたらなかったのだが、「すぐ」がかかるのが「楢の林」であり、そのそこから続く林の中に大師の泉がある、と解釈すれば、ここが案内にある大師の泉とも思える。特段の案内はなかった。

舗装道路に出る;15時34分
水場を過ぎるとほどなく舗装された道に出る。そこで小休止。少々荒れてはいるが簡易舗装の道を進み、「あと900m「あと1100m」、「へんろ道 青龍寺7000m 塚地峠1200m」の標識の先で沢に架かる橋を渡り、「塚地峠1.3km 青龍寺5.3km(私注;7キロから5.3キロに急に減っている)」の傍にある「金剛杖の返却箇所で上り口でお借りした杖を戻す。その間、上部の欠けた石仏、遍路墓、舟形地蔵などが道脇に立っていた。 上りはじめてから1時間半。膝を痛めているとはいえ、ちょっと時間がかかりすぎ。
舗装された道に出て、沢を左手、右手そして左手に見ることろで里にでる。
摩崖仏
上述、摩崖丁石のところで見落とした摩崖仏のチェックで、春野公麻呂さんの書かれた、「土佐の摩崖仏三景」という記事の「萩谷磨崖仏(宇佐萩谷)」の項(私注;萩谷とはこのあたりの地名)に、塚地峠越えの道筋に2か所の摩崖史跡が紹介されていた、とメモした。
記事に拠れば萩谷の登山口(四国のみちの道標あり)から徒歩10分ほどの地点にあるとのこと。他の方の記事を見ると摩崖仏は舗装道に出た辺りにあるようだ。
以下、春野さんの記事と写真を引用させていただく:「大小二つの岩に沢山の仏像等が彫られているが、地震か豪雨で岩が斜面から滑り落ちており、斜めに傾いている。

〇かなり沢山のものが彫られており、仏像以外のものもあるが、何か分からないものが多い。







〇「大きい岩の方の正面上部、一つの胴体に頭が三つあるカラス天狗が刻まれており、その下には弘法大師の座像。この頭が三つあるカラス天狗像は珍しくなく、高知市内の寺にも石像がある。

〇「大岩の東側側面の顔が薄肉彫りの像は、錫杖を持っていることから山伏か役小角。他にもエジプトの王のような仏像等、数体の他、三味線や独鈷のように見えるものもある。




〇「小岩の方には、円形に連なった小太鼓を持っている雷様のような像に、烏帽子を被った神職のような像も描かれている。

当日歩いた時にこの大岩と前に立つ石仏は見た覚えはあるのだが、その大岩に線彫りの摩崖仏像が刻まれているなど思いもよらず、仏に頭をちょっと下げて素通りした。摩崖仏の説明文を見たときに、大分臼杵の石仏いった崖に彫られた巨大仏と思い込み、見逃してしまった。 そういえば、讃岐の弥谷寺や同じく讃岐の曼荼羅寺奥の院でみた摩崖五輪塔にしても、ちょっと大きめの岩に線彫りで描かれており、その気になって見ないことには摩崖塔であるとはとてもわからなかったことを思い出した。

安政地震・津波の碑
開けた萩谷の里の舗装された道を左手に水路(萩谷川)を見ながら進むと、道の右手に「安政地震・津波の碑」と書かれた解説文と石碑と標石らしきものが並ぶ。
「安政地震・津波の碑」は塚地休憩所の案内にあったものだろう。解説文には「この碑は、宝永四年(一七〇七)に発生した地震及び安政元年(一八五四)に発生した安政地震に伴う津波による犠牲者の追善と被害の教訓を後世に伝えるために安政五年(一八五八)に地元の衆議により潮先に近いこの地に建立されたもので、碑の前面には当時の状況が詳細に刻まれている。
後年発生した南海地震の際に、この教訓が生かされ、津波による死者は僅か二名のみであり、今後も津波への備えを語り続ける貴重な史跡である。 平成九年十一月十日指定 土佐市教育委員会」とあった。
円柱の石碑表面には当時の被害状況が刻まれており、「八、九度にわたって襲来した津波により、多くの人家は流され、残った家は六、七十軒。溺死七十余人。山手に逃げた人は助かったが、船で逃げようとした人は亡くなった。御蔵米の供出により飢えることはなかった。衣服等を拾い用いた人は伝染病で亡くなった・・」といった当時の状況を伝える。
安政の大地震・津波の碑は土佐の遍路道の途次、何度か出合った。安政の地震・津波の碑の傍に2基の標石。手印がかすかに見える。

常夜灯
水路(萩谷川)沿いの道を東進、そして南下すると水路が南と西方向に分かれる。その角に3mほどもある常夜灯。現在の遍路道はここを南に進み海岸線に出て宇佐大橋へと向かうが、宇佐大橋が架橋されたのは昭和48年(1973)。今回は架橋以前、お遍路さんが利用した渡船場への遍路道をトレースすることにする。
往昔の遍路道はこの角を右折し、萩谷川に架かる灯明1号橋を渡り西進する。

伊気神社の茂兵衛道標
萩谷川に沿ってしばらく西進し、川筋南に縦長い境内をもつ伊気神社のある箇所を左折し南に進む。境内に茂兵衛道標。常と異なり小ぶりな標石。
正面には「周防国云々」と常の如くの在所名と施主中務茂兵衛」、右面には「明治二十七年」と言った文字が刻まれるが、巡礼度数の表示がない。
伊気神社
地元の人々は「おいげさん」と呼ぶ。 「いげ」というのは、稲毛・池など水田稲作に由来する言葉のようで、豊穣の神。高知県では「神母神社」、「畝丘樹下神社」とも表記し、共に「(お)いげ神社」 と読むようだ。
泣沢売命(ナキサワメを祭神とする社もあった。泣沢売命はイザナミを失い悲しむイザナギの涙から生まれた神とされ、Wikipediaには「江戸期の国学者、本居宣長は『古事記伝』にて「水神」「人命を祈る神」、平田篤胤は「命乞いの神」と称するなど、水の神、延命の神として古代より信仰を集めている。
太古の日本には、巫女が涙を流し死者を弔う儀式が存在し、そのような巫女の事を泣き女という。この儀式は死者を弔うだけではなく魂振りの呪術でもあった。泣き女は神と人間との間を繋ぐ巫女だった。ナキサワメは泣き女の役割が神格化したものとも言われており、出産、延命長寿など生命の再生に関わる信仰を集めている。また、雨は天地の涙とする説があり降雨の神様としても知られている」とあった。

茂兵衛道標(88度目)
伊神社の角を右折し西進し萩谷川筋に合流、そのまま西進し海にほど近い潮止水門が見える辺りで成り行きで左折し宇佐の町中を進むと四つ辻、南西角のにほとんど壊れた標石らしきものが鉄脇で補強され電柱根元に置かれていた。
標石?、などと思いながらもチェックすると茂兵衛道標であった。かつての写真では三つに折れた標石が電柱脇に積まれている。よく見ると3段に積み重ねられていた。「*十八」といった文字も読めた。茂兵衛88度目巡礼時のものであったよう。

県道23号合流点に標石
かつての横波半島・井尻への渡し場があっただろう海岸へと西進し、成り行きで次の角を左折すると県道23号に合流。角に上部の欠けた標石があり、「是より青龍寺へ一里十丁 *知へ約六里 昭和三年」といった文字が刻まれるようだ。往昔の渡し場はこの先の海岸辺りにあったようだ。現在宇佐大橋西側の海岸近くに「青龍寺へんろ道 渡し場の跡」の碑が立つ。

宇佐大橋を渡り横波半島に

宇佐の町を歩き宇佐大橋に向かう。宇佐はかつて漁業で栄えた町。鰹節の加工地として知られた。海部郷とも海辺村とも称されたと言うが、九州の宇佐八幡を勧請して以降、宇佐の浦と称した。その後宇佐村、高岡郡宇佐町となり、昭和33年(1958)高岡町などと合併し現在は高岡市宇佐町となっている。
対岸の半島を隔てる浦の内湾は別名横波三里と称される。太平洋の波が湾口で横ざまに波紋を広げるのがその所以と言う。
湾口に架かる宇佐大橋に到着。全長645m。かつての渡しは既になくこの橋を渡り青龍寺へ向かう。橋を通る道は県道47号となっていた。

竜坂越えの遍路道


宇佐大橋を渡る。現在多くのお遍路さんは県道47号が走る海岸線をそのまま進み青龍寺へと向かうが、渡し舟で渡っていた時代には宇佐から対岸井ノ尻に渡った遍路の多くは山越えして背竜寺へ詣でたようである。海岸沿いの道が整備されているとも思えず、山越えの道が安全であったのかとも思える。実際横波スカイラインともよばれる県道47号は宇佐大橋の竣工(昭和48年;1973)に合わせて整備されたという。

竜坂越えについて、真念の『四国遍路道指南」には「○宇佐村、是よりかち道を行時は、此村西に荷物を置育竜寺へ行。但舟にて行ハ、いのしりへ荷物持行。ふくしま浦、此間に入海、渡し有。舟賃四銭。〇いしり村、此所に荷物を置札所へ行。此間りう坂。○りう村」とあり、また、『四国遍礼名所図会』では「宇佐村[此所にて支度]是より浜辺出、猪の尻川 [入海也、渡し舟四もん宛]、猪之尻村[此所に荷物預ケ行]、竜坂[峠より海辺津呂ノ御崎見ゆる]、竜村「是より寺へ三丁也]と記す。

旧遍路道の案内
宇佐大橋を渡り切ると横波山地が土佐湾に落ちる北端部、道の右手に「旧遍路道」の案内。「旧へんろ道 坂道ですが約30分です 旧道へ450m」とある。ここが竜坂越えのアプローチ地点。案内に従い右に折れ井尻の集落に入る。



丹生神社の茂兵衛道標
右に折れるとすぐ道の左手に丹生神社。社には上部破損の茂兵衛道標が立つとのことだが見逃した。茂兵衛188度目巡礼時のものと言う。鳥居横とも、境内文化銘の手水場そばの鳥居傍ともいうが、実際に見ていないのでどちらか不詳。
丹生神社
「にう神社」と読むのかと思ったのだが、「たんじょう神社」と読むようだ。祭神は罔象女命(ミヅハノメ)。水の神。弥都波は、水早、水走の意味で、耕地の灌漑の用水の意味、といった記事もあった。
罔象女水の神。弥都波は、水早、水走の意味で、耕地の灌漑の用水の意味か。

井尻大師堂
井尻の集落を抜け、湾と山裾の間の道を進むと右手にマリーナ、左手に井尻大師堂。竜坂越えの道は大師堂前とマリーナの間の細い道を入っていく。入り口には「旧へんろ道 上り口」の案内も立つ。

上り口から1分ほどで「廿一丁」と刻まれた丁石。木漏れ日の中、土径を10分ほど歩き、標高を100m弱挙げて峠に着く。
特段の峠表示はないのだが、「へんろ道 峠標高100m 井ノ尻529m 竜680m」の標識がある。峠に着いたのだろう。
見通しもよくなく、先に進むと手書きの「竜の一本松跡」の案内。「土地の人々は竜の一本松は桧か杉かと言い続けてきた。松の木としては巨木で中学生が両手で繋いで計るると6人分もあったよう。台風で折れた枝も巨木であったよう。現在は特段の跡は残っていない。

2基の石仏と遍路墓
峠からは100m等高線に沿って少し進む。時に前が開け土佐湾が見下ろせる。峠から5分ほど歩くと路傍に2基の石仏と遍路墓。「日向国 天明四年」といった文字が刻まれるようだ。


9丁・8丁
石仏を越えるあたりから下りとなる。標高を50mほど下げると「九丁」と刻まれた丁石。更に30mほど下げると「八丁」と刻まれた丁石がある。



竜の集落に下りる
8丁石を越えるとほどなく里の舗装路に下りる。井尻大師堂からおおよそ30分ほとであった。少し進むと四つ辻。道に石柱。神社の幡を立てる石柱かとおもったのだが、青龍寺の寺柱とのことである。竜坂越えが往昔の遍路メーンルートであったエビデンスでもある。

海岸通り遍路道との合流点

「青龍寺」直進の案内に従い先に進むと次の四つ辻で現在「多くのお遍路さんが歩く東海岸の県道からの遍路道と合流する。四つ辻左角には辻地蔵の小祠がある。
東海岸からの遍路道の四つ辻には「36番青龍寺」直進の案内。案内に従い竜の集落を抜ける。


六地蔵
道を進むと2つめの寺柱。道の左手に明徳義塾中学・高等学校 竜キャンパス、右手に横波山地の支尾根が張り出す箇所。山側に六地蔵が立つ。ここから先、道の右手、山側に阿波の札所1番からの四国88霊場の石仏が並ぶ。石仏は青龍寺境内まで続く。
竜の池
道の左手、明徳義塾竜キャンパスの南に大きな池がある。周辺の湿地帯を含めてベッコウトンボの生息地として有名。この地は、今から約五千年前には内湾であったが、二千五百年前 頃、弥生時代の小海退期に湾口が土砂で塞がれてできたもの。昆虫類の生息環境としてすぐれ、種類、数も豊富のようである。
伝説
この池は昔、青龍寺が出来た時に、八人の天女が天降り一夜で掘ったとも。七葉(七枚)掘った時夜が明けたため、この池の名を七葉の池とも云う。
また池の主が畳四畳半とも六畳とも言われる大きな蟹であり、それゆえの蟹ヶ池の名ともいう。 まだいくつか伝説があるが、伝説によくある今の我々には何を言いたいのかわからない話でもあるので割愛する。
八葉
上述伝説の「八葉」になんらかの意味がありそう。チェックすると、胎蔵界曼荼羅に蓮華の中央に大日如来が位置し、その周囲に四如来、四菩薩が八連弁に座す。この八弁を八葉とするのだろうか。

標石
右手に四国霊場の石仏に頭をさげながら進む。途中石仏の中に「二丁石」も立つようだが、わからなかった。道を進み青龍寺への最後の曲がり角に四国霊場の石仏と標石が立つ。「従是五社迄十三里 文化」の文字が刻まれる。
五社とは次の札所岩本寺の元の札所であった五社神社・高岡神社のことである。

三十六番札所 青龍寺 山裾のカーブを曲がると正面に青龍寺。やっと到着。
あれこれと気になることも多く、距離のわりにメモが長くなった。今回はここまで。




種間寺を離れ35番札所清瀧寺へ向かう。種間寺のある仁淀川東岸の高知市春野町から、仁淀川を渡り仁淀側西岸の土佐市高岡町にある35番札所清瀧寺までの距離はおおそ10キロ弱。地形でルートを見ると、土佐湾に面した高森山山地の山裾近く建つ種間寺からスタートし、仁淀川の流れにより形成された沖積平野・吾南平野を辿り、仁淀川を西岸に渡り、これも仁淀川が形成した沖積平野・高岡平野を斜めに横切り、高岡平野の北に東西に続く虚空蔵山地の清滝山山麓に建つ清滝山の山麓,標高160mほどのところにに建つ清瀧寺へと辿ることになる。
遍路道の途次、先回の遍路道と同様、野中兼山の治水・利水史跡に折に触れて出合った。東岸は仁淀川の八田堰で取水し弘岡井筋より分水される南川井筋、新川川筋を見ることができた。西岸は鎌田井堰からの水路ではあろう用水路が高岡の街を縦横に流れるが、往昔の水路図にある水路に出合うことはなかった。
地形にしても開削水路にしても、特段遍路歩きと関係はないのだが、個人的興味ゆえのこと。とまれ、散歩のメモを始める。


本日のルート;第三十四番札所 種間寺>県道279号を西進>茂兵衛道標(160度目)>茂兵衛道標(256度目)>新川町の涼月橋>仁淀川堤下に標石>仁淀川堤の新川大師堂>仁淀川大橋>柴の常夜灯>水路が縦横に高岡の町を巡る>清瀧寺・青龍寺への遍路道分岐点に標石> 三島神社一の鳥居手前の標石>三島神社北東端に標石>田圃の中の遍路道を歩き高知自動車道高架を潜る>第三十五番札所 清瀧寺参道>歩き遍路道に入る>第三十五番札所 清瀧寺


第三十四番札所 種間寺


寺には山門はなく、境内に入ると右手に鐘楼。石積みも高く鐘楼全体の高さも7,8mくらいあるだろうか。
境内右側に本坊・庫裏、大師堂、左側に水子地蔵・子安観音、そして一番奥が本堂が建つ。 本堂は鉄筋コンクリート造り、昭和45年(1970)の台風で甚大な被害を受け昭和50年(1975)再建された。
茂兵衛道標
境内に茂兵衛道標。「種間寺へ三丁 雪蹊寺へ一里余 大正三年」といった文字が刻まれる。茂兵衛252度目巡礼時のもの。文言からすれば、どこかから移されたものだろう。

本堂右手前に置かれている一抱え程の石の手水鉢には、「延宝五年(一六七七)」の銘。水溜め部が六角形に彫られている。あまり目にしない。県指定の有形文化財。
大師堂も、昭和45年(1970)の台風で土砂に埋まるも修復でき木造造りの姿を残す。子安観音堂は昭和52年(1977)の建立。


Wikipediaには「種間寺(たねまじ)は、高知県高知市にある寺院。山号は本尾山(もとおざん)。院号は朱雀院(すざくいん)と号する。宗旨は真言宗豊山派。
寺伝によれば用明天皇在位(585年 ? 587年)の頃、四天王寺を建立するため来日した百済の仏師が帰国の際に暴風に襲われてこの地に近い秋山の港に漂着、航海の安全を祈願して薬師如来刻んで本尾山頂に安置したのが起源であるという。
その後、弘仁年間(810年 - 824年)に空海(弘法大師)が巡錫し、堂宇を建立し仏師が刻んだ薬師如来を本尊として安置して開基したといい、その際に唐から持ち帰った五穀の種を境内に蒔いたことから寺号が定められたという。
天暦年間(947年 ? 957年)には村上天皇が藤原信家を勅使にして「種間」の勅額を下賜。土佐藩主からの信仰も得ていた。神仏分離令で廃寺となるが、明治13年(1880年)に再興される」とある。
寺名の種間寺は百済仏師の造仏譚に由来する。寺伝に「もとをの山の頂上に一宇の伽藍をたて尊形を安置せしめ、わが古里に帰らんとねがわしむ。其の志二六十二(にろくじゅうに)の神力にこたへたるにや、天上り両鶴飛来衆人を羽にのせ漢地の旧里にいたれりと。これ則ち造像の善根を植えし故なればとて、因の功を残さんために種間寺の称号をつく」と記す。 また、弘のt法大師が唐から持ち帰られた五穀の種子をこの付近に播か由来するものだとの説もある。
秋山・本尾山
秋山は種間寺の東隣の地区。秋山に漂着ということは、往昔は海がこの辺りまで入り込んでいたのだろうか。本尾山はどこなのかはっきりしない。が、甲殿川が土佐湾に注ぐ少し西に種間寺の奥の院がある。通称本尾山とも称されるようであり、奥の院の近くに高森山地の108mピーク、126mピークがある。どちらかが本尾山なのだろか。はっきりしない。

百済仏師の造仏
Wikipediaに、四天王寺の造仏のため百済の仏師が来日したとある。日本に仏教が伝来したのは、飲天皇七年(五三八)という。『書紀』は、欽明天皇の十五年(五四六)、僧恵ら九人の来朝、敏達天皇の六年(五七七)、百済の威徳王が日本からの使者大別王らに託し経論若干と「律師・禅師・比丘尼・呪禁師・造仏工・造寺工」の六人を送ったとあり、「難波の大別王の寺」に住したという。
その間も崇仏派の蘇我馬子と排仏派の物部氏の政争が続き、用明天皇を経て崇仏派馬子の勝利に終わる。次の崇峻天皇のあと推古天皇が皇位を継ぎ、天皇は甥にあたる厩戸皇子(聖徳太子)を皇太子として國政をまかせた。翌二年(五九四)には仏教興隆の詔も出す。こうした経緯を踏まえ私寺として四天王寺(五九三年)は聖徳太子の私寺として建立された。
種間寺の薬師如来像仏の仏師が上述敏達天皇の六年(五七七)に送られてきた仏師かどうか不明だが、いずれにしても当時は仏教伝来からそれほど時も経ておらず、造寺、造仏、さらには僧侶も百済からの渡来人、帰化人なしでは成し得なかったであろうかと思う。
本尊は薬師如来
とはいいながら、寺の本尊である薬師如来は仏師・定朝の作。帰化人・渡来人ではないようだ。またその様式も平安時代前期の大陸の影響を強く受けた唐朝仏の模刻から抜け出した和洋仏像彫刻様式。平安後期のヒノキの寄木造り座像は、像高一三八センチ。着衣の衣文の彫り出しは浅く平行線を多用し、平明優雅で瞑想的な表情をその特徴とするようだ。土佐には少ないこの定朝様式の像は重要文化財に指定されている。
藤原信家
上述藤原信家は勅使として「種間」の勅額を下賜したと記した。これには後日談があるようで、種間寺を訪れた信家は本尊の薬師如来に「大般若経六百巻の写経奉納」を誓う。が、都に戻ると自ら写経することなく旅僧に託し、三年三か月後、写経し終えた六百巻を種間寺に奉納。が、一天にわかに掻き曇り、突風吹き荒れ奉納した経典を天高く舞い上げる。
ほどなく嵐も止み、お経が本堂に落ち戻る。が、そのお経からは写経文字が消え、白紙の中にただ、五言四句(ごごんしく)の偈(げ)が、白字で記されていた。
師有信力故文字納霊山
願主不信故料紙還本土
信に反した奉納ゆえに受け取らず、といった意味だろう。この白紙となった般若経を「白紙(びゃくし)大般若経」といい、冷泉院の御代、宮中に納めることとなり、宮中からはかわりに大般若経六百巻と十六善神の一軸を賜った、とか
竜の池
寺の少し南に周囲200mほどの池があり、「竜の池」と称される。池には竜が棲み、毎月本尊如来さまの御縁日には夜中に竜王が燈をささげて堂内に来たり、本尊の光明を増したと云う。
この池は遠く仁淀川の天渦(あまうど)と通じていると言われ、池の主はその間を往来している、と。 また、この池には龍王の化身である「お竜」さんの話が残る。子のない老夫婦が祈願のすえ一女を授かる。お竜と名付けられ、長ずるに絶世の美女となる。言い寄る若衆あまた。「池に投げ入れた玉を拾ったものの妻になる」と告げる。皆、探すも見つからず。
ある夜、想いをよせる男に、池の中で光る石を指し示し、男は水に潜るも、そのまま浮かびあがることもなく、お竜も池の中に隠れてしまった、と。
例によって、何を言いたいのかよくわからない。伝説には、こういった我々の「理屈」では解釈できないお話が本当に多い。
天渦(あまうど)
種間の南の高森山地西麓、仁淀川沿いに春野町西原がある。天渦(あまうど)はその地にあったよう。そこは仁淀川の曲がり角になったところで、川水が岩に突き当って大きな渦を巻き、物凄い渕となっている、ということである。


三十四番 種間寺より第三十五番 清瀧寺へ

県道279号を西進
種間寺境内を出て県道279号を左折し35番清瀧寺へ向かう。道を歩きながらふと道の左手に続く水路が気になった。地図をチェックすると、新川川(甲殿川)に架かる新川川橋を渡り種間寺へと辿った県道279号左傍をずっと続いている。新川川橋の南も県道279号に沿って南東に続いている。『春野町史』の弘岡井筋水系図と見比べると「南川井筋」のように思える。


南川井筋
『春野町史』より
仁淀川の八田堰で取水し、開削水路・弘岡井筋を南下、小田井流で諸木井を西に分け、さらに南下し新川川を西に分ける。
井岡井筋は更に南東に下り、高森山山地が仁淀川にあたる最西端の山裾を更に南に下る弘岡井筋から分かれ、高森山山北裾を東進し県道279号に接近し、以東は県道279号に沿って東進・南進し新川川(甲殿川)に注ぐ(現在の地図は新川川に注いでいるが、上述資料は途中で切れている(Google Mapの推定水路を参考にしてください)。

茂兵衛道標(160度目)
西進(正確には西北)した県道279号が南の高森山山地に向かって弧を描くように入り込み、再び西進する箇所、道の右手の木立の前に標石2基。1基は茂兵衛道標。手印と「明治三十二年」の文字が見える。茂兵衛160度目巡礼時のもの。
もう一基は自然石道標。草叢に倒れている。「右、邊路道」とあり、手印は線彫りで、指がすべて開いている、と。
用水路
前述、南川井筋は茂兵衛道標の立つこの地の少し東で県道を離れ、高森山地山裾に向かい、山裾を西進することになる。
また、茂兵衛道標から北西へと水路が続くが、昔の広岡井筋の水系図には記載されていない。後世の用水路だろう。

茂兵衛道標(256度目)
県道279号を西進。城山神社の鎮座する標高23mほどの独立小丘陵を右手に見遣り森山下、森山中、森山上へと進む。南には高森山山地が迫り、北には遠く烏帽子山山地が見える。遍路道は南北の山地に挟まれた仁淀川が形成した沖積層からなる中央低地(氾濫平野・谷底平野)を進む。
森山上の四つ辻に茂兵衛道標。手印と共に「清瀧寺 種間寺 大正三年」といった文字が刻まれる。茂兵衛266度目巡礼時のもの。県道を斜めに横切る水路は『春野町史』の水路図と見比べると北川井筋のようにも思える。
北川井筋
『春野町史』の水系図をみると、南川井筋の少し北、新川川筋との間で弘岡井筋から分流され北西に向かい、新川川に合流している。この地で出合った水路は弘岡井筋の新川川筋と南川井筋の間で分水され北東に流れているが、新川川に合流することなく新川川に沿って南東に下っている。北川井筋とは思うのだけれど。。。

春野の地形
Google mapで作成
国土地理院・地質図V2
北部の烏帽子山地。吉良ヶ峰(245m)、柏尾山(323m)、烏帽子山(359m)へと東に連なる。山地中央部には仏像構造線が走り、その北側は秩父帯、南側は四万十帯。秩父帯は中生代中頃(中生代ジュラ紀)、四万十帯は中生代後半(中生代白亜期)から新生代前半頃(新生代古第三期)の地層とのこと。はるかはるか昔の頃であり、とりあえず秩父層は四万十層より古い時代の地層というくらいの理解で門外漢には十分。
国土地理院の地質図を見ると、山地中央部から南、仏像構造線の南には中生代後期白亜紀の 海成層砂岩の地層(地質図薄緑の帯)と中世第前期白亜期の砂岩泥岩互層(地質図黄色の帯)が幾条もの帯となって東西に続き、仁淀川の形成した沖積層からなる中央低地(新生代の氾濫平野・谷底平野)を挟んで再び中生代後期白亜紀の 海成層砂岩(地質図薄緑の帯)の地層と中世第前期白亜期の砂岩泥岩互層(地質図黄色の帯)が幾条もの帯よりなる高森山山地が東西に連なる。
基本仏像構造線より南は四万十帯に属し、山地は中生代後半(中生代白亜期)から新生代前半頃(新生代古第三期の地層よりなるが、中央低地は気の遠くなるような時間をかけ侵食、あるいは陥没、沈降を受け、相当の谷が発達し、場合によっては海水の侵入による入り江、湾を形成。そこに仁淀川、およびその分流、さらに周囲山地からの渓流によって押し流された砂礫により埋められ沖積層である中央低地が形成されたのだろう。 中央低地が地質図に新生代の氾濫平野・谷底平野とあるのはこういった経緯ゆえのことかと思う(門外漢の妄想)。
北部の山地を衛星写真でみると山地が左右に分かれているような箇所が見える。仏像構造線が東西に走るため、これに沿って鞍部をもつ通谷が発達し山地を二条に分け、山地を奥深く侵食し中央低地に注ぐ渓谷を造っているとのことである。
また、どのような地殻変動が起きれば、幾条もの帯状地層ができるのか興味深いのだが、その因の深堀りは門外漢には力不足と、思考停止とする。

新川町の涼月橋
茂兵衛道標の四つ辻を直進し、北西に向かい新川川に架かる新川橋南詰め手前で左折し、新川川の右岸を進み、Y字路を右折し恵比寿神社前を進み新川川橋に架かる涼月橋を渡る。 橋の北詰に角柱石が立つ。傍に案内があり、「承応元年(1648)土佐藩主忠義公の執政野中兼山先生(春野神社祭神)により、新川川、新川町がつくられた。
当初これにかかる橋は木造であり、現在の橋の片側に残っている純石造橋は明治30年(1897)頃の造りといわれ、この碑は当時の橋名柱の一部である。その工法のすぐれた形からメガネ橋と呼ばれ広く親しまれた」とある。
元は2mに見たない人道仕様の橋。それを車の通れる道とするため下流側が拡張されたようだ。橋の上流部側端には石造部が見える。そこが明治の頃の純石造橋の名残だろうか。また四連のメガネ橋の中央の2連には石造りアーチも見える。橋名柱には「里屋う*津はし」と読める(?)文字が刻まれていた。
新川の落とし
橋の下流部に水路段差が見える。新川川の「新川の落とし」の名残りだろう。仁淀川から取水した広岡井筋と新川川(仁淀川の分流路を浚渫整備した現在の新川川本流のことだろう)の高低差が3mほどあるため、その高低差を活用しこの地から新川川本流に向けて人工開削した「新川川」への木材の「落とし」を容易にするため造られた、との記事が目につく。涼月橋の上流側に水門を造り水を溜め、水門を開き一挙に「落とし」たとする。
これはその通りとは思うのだけど、水位差が3mもあれば木材は問題なく下流へと流れるわけで、敢えてこの地に「落とし」を造る理由がなんとなくしっくりこない。
以下は妄想であるが、「落とし」は舟溜を造るためのものではないだろか。急激な落としを造ることにより、「落とし」の最下流部に傾斜の緩やかな溜ができる。そこに新川川開削にともないこの新川町に移り住んだ商人の舟溜りを造ったのではないだろうか。
その理由は、上流から来た川舟や筏(いかだ)は町の水門までしか運航は認められておらず。この地から浦戸湾口長浜間の往来は新川町商人の特権として、彼らの所有する九十三艘(そう)のひらだ舟に限られていた。上流からの林産物は一旦、この新川の落としの船溜で新川町の商人の舟に移され城下町に運ばれ、また逆に城下町の物資や水産物などは、上流方面に運送されるようになった。この地に流れの溜まる船溜が必要な所以である。メガネ橋から見て右手、現在公園となっている辺りが舟溜があったとされる。
春野神社
水路段差のある川の左岸に春野神社がある。野中兼山を祀った神社。兼山は土佐藩執政として多大な業績を挙げたが、一方ではその強引とも言える手法に民衆の不満も大きく、また政敵も多く、執政として仕えた二代藩主忠義が隠居すると三代藩主忠豊の時に弾劾を受け失脚、宿毛に幽閉され49歳で失意のうちにその人生を終えた。兼山の血統は絶えたが、民衆は密かに小祠を建てて神として崇め、後に幕府の許可を得て「春野明神」と称した。
兼山を祀る社が何故春野明神なのだろう。地名の春野町は昭和31年(1956)に誕生し、その町名は春野明神に由来すると言うし、あれこれチェックしていると、元は「墾野神社」と呼ばれたようだ。これは『土佐地名往来』にある「墾る野。野中兼山への敬愛は、兼山を祭る春野神社 となり、昭和32年の合併では春野町」とも一致する。とはいえ「神社」という名称は明治以降のことのようであり、「墾野明神」とでも呼ばれていたのかもしれない。
人工水路・新川川
新川川は野中兼山によって開削された人工水路。仁淀川の八田堰から取水し、弘岡井(ひろおかゆ)、新川川、新川川本流を繋ぎ一帯を灌漑した後、再び本流から分かれ唐音の切抜を経て長尾川(新川川)と繋ぎ浦戸湾と結ばれた。
仁淀川の八田堰からの流路を見ると人工的に開削された水路と仁淀川の自然分流の川筋を繋ぎ合わせ浦戸湾に続けているようだ。特に南北に流れる新川川本流(甲殿川)などは人工的に開削した人工水路(新川川)を落とした自然水路のように思える。人工水路と自然水路を組み合わせた治水・利水事業はよく見る。利根川の東遷事業で源頭部を失い廃川となった古利根川の流路を改修し葛西用水の流路として活用した大落古利根川などが記憶に残る。
この新川川は灌漑、仁淀川と浦戸を結ぶ舟運〈木材)のほか洪水対策として排水の機能も備えるようだ。地図に人工開削水路新川川の流れを落とした新川川本流(甲殿川)が土佐湾に注ぐ手前で大きく西に向き変える箇所があるが、そのためもあってかこの甲殿川の河口が土砂で埋まり諸木地区が洪水に見舞われたようだ。そのため、甲殿川が西に向きを変える地点(西戸原)から人工的に水路を開削し、唐音の丘陵(後述)を切り抜き、長浜川と繋ぎ浦戸に水を流した。開削された新川川筋が唐音へと河口付近で不自然に東進、さらに北進し唐戸の切抜に繋がりるのは排水・洪水対策でもあったわけだ。

仁淀川堤下に標石
春野神社を離れ遍路道に戻る。道は県道279号。遍路道は涼月橋を渡り県道279号を仁淀川の堤に向かう。道筋にはかつての町人町の面影を伝える蔵構えの民家などが残る。木材舟運の特権などにより町は栄え、江戸時代中期には、町の家数が六十余戸だったものが、幕末になると百八十余戸となり、三倍も増加したようである。
堤に向かうと左手水路に橋が架かる。弘岡井筋から開削水路・新川川に分水する水路のようだ。県道から離れ左折し橋を渡ると南詰に標石。手印と共に「従是種巻寺へ四十丁」「従是清瀧寺へ五十丁 明治十三」といった文字が刻まれる。
標石を右折し仁淀川の堤下に向かうと、橋の上流には南流する弘岡井筋と新川川への分水堰が見える。橋の下流に見える水路は新川川分水を越え更に南下する弘岡井筋。上述南川井筋に養水する。

仁淀川堤の新川大師堂

仁淀川の堤の上にお堂が見える。地蔵堂とも新川大師堂とも称されるようだ。大師堂前は石垣が組まれており、石垣手前に自然石の石碑が立つ。「文政」といった文字が読めるが詳細不詳。
大師堂への石段上り口の石垣に何か不自然な縦長の石が嵌め込まれている。チェックすると、標石のようで、手印と共に「左清瀧寺 へんろ 幸屋通」と刻まれる、と。
大師堂裏手には遍路墓7基、舟形石仏、地蔵座像、大師堂の少し北には常夜灯が立つ。かつてはこの辺りから仁淀川「を渡る渡しがあったようだ。堤から広い河川敷を見ると田畑が広がる。
仁淀川の渡し
澄禅の『四国遍路日記(承応二年;1653)』には「(種間寺)・・・。扨(私注:さて、ところで)、西ヘ一里斗往テ新居戸ノ渡リトテ河在リ、是モ渡舟在テ自由ニ渡ル也。五日以前ノ洪水ニ、多人数込乗テ舟ヲフミ反シテ男女四人死ス。此新居戸ノ宿ヨリ清滝寺へ一里ナリ。又跡エ還ル程ニ、此宿ニ荷俵ヲ置テ札斗持テ清滝寺エ上ル也。種間ヨリ清滝寺迄二里ナリ」とある。
同じく、真念は『四国遍路道指南(貞享四年;1687)』に「(種間寺)是よりきよたきへ二里。○もりやま村〇ひろおか村、此間二淀川といふ大河有。舟わたし、わたしば川上に有時ハ、荷物をかけきよたきへ行。わたしば大道筋川しもに有時ハ、荷物を高おか町にをき、札所へゆきてよし」と、この地に渡しがあったことを記す。
なお、真念の記事に拠れば、渡しは2箇所あったようで、この地の渡しは「大道筋川下」にあると記す渡しであり、川上に有るとする渡しは後述、仁淀川右岸の常夜灯の辺りにあったようである。 また、澄禅も真念も清瀧寺に向かう遍路は荷を高岡(後述)などの宿に起き、清瀧寺へと北に向かい、そいこから打ち戻り荷を取て南の青龍寺に向かったと記す。高岡の街中に北へ清瀧寺道、南へ青龍寺道の分岐点がある。

仁淀川大橋
堤下を流れる弘岡井筋を見遣りながら仁淀川左岸の堤を進み仁淀川大橋を渡る。仁淀川を境に西は土佐市高岡町に変わる。
仁淀川
仁淀川(によどがわ)は、愛媛県・高知県を流れる一級河川で、愛媛県内では面河川(おもごがわ)と呼ばれる。流路延長124km。吉野川・四万十川に次ぐ四国第三の河川。
四国の最高峰である石鎚山に源を発する面河川と、分水嶺である三坂峠から流れる久万川が、御三戸(愛媛県久万高原町)で合流して形成される。四国山地に深いV字谷を刻みこみながら南下し、高知県高知市/土佐市付近で太平洋へと注ぎ込む。三坂峠から御三戸を経て高知県越知町までの区間では、松山と高知を結ぶ国道33号が並行する。 2019年(平31年・令和元年)、国土交通省の「水質が最も良好な17の河川のひとつに選ばれている。
〇弘岡井筋
仁淀川大橋で開削水路・弘岡井筋と分かれるが、上流部を地図でちょっと確認。
八田堰
仁淀川の上流、幹線水路から支線への取水口を意味する井流(ゆる)の地に八田堰。兼山構築当時は堰の長さは 415m、高さは 3m、幅は15m とされている。昭和6年にコンクリート化され、その後同 40 年に改修し一部が可動堰となっている。平成7年にさらに可動部他改修がなされた。現在の堰の長さは 320m、高さは平均 1.8m、幅は平均 20m。長さが往時のほうが長いのは、水勢対策で曲線斜め堰であったためのよう。
行当の切抜
先回の記事でメモした唐音の切抜と共に水路開削当時の難所のひとつ。切抜の規模は「長二十間、巾九尺、高六間」。現在は道路下に隧道(トンネル)を通して、用水路を流している。昭和初期には隧道を通していたようだ。
小田井流(おだゆる)
弘岡井筋から東へ諸木井筋を分岐する地点。現在広岡井筋分岐公園が整備されている。流路は分岐点より東東進し久万で県道278号と交差。水路はここで流路を南に向きを変え、県道278号に沿って下り、新川川の水を合わせた甲殿川と北山川が合流する辺りで東に向きを変え、大用川に架かる中筋橋を水路橋で渡り、中筋地区の先で丘陵部を切抜で通し丘陵西側山裾を県道278号に沿ってて進み、東諸木の丘陵南裾を進み禰宜谷(「地検帳にもネキカ谷・ネキヤシキ。禰宜=神官に給 された田が由来。禰宜の原意は「祈ぐ・労ぐ (ネ)」で労う(土佐地名往来)」)で新川川に合流し、浦戸に向かうようである。
井流(ゆる)とは上述幹線である弘岡井筋と支流との接点につくられた取水口。現在はコンクリート製であるが、昔は大石と巨木を方形に組んでの大工事であったと『春野町史』にある。

柴の常夜灯
仁淀川大橋を渡り、右岸上の道を進む、。途中道の右手に台石に法界萬霊と刻まれた石仏が立つ。
ほどなく右岸堤から左へと堤を下りる道が別れる。その右手に常夜灯が立つ。柴の常夜灯のようで、この辺りが真念が川上にあったと記す渡し場があったようだ。常夜灯の前には松田神社の石柱。ささやかな石の祠が松田神社であろうか。
法界萬霊
法界萬霊供養塔は、三界万霊とも十方法界萬霊とも四生六道法界萬霊とも言われ、あらゆる精霊を合祀して供養をするために建てられた塔。
萬霊とはありとあらゆる精霊のこと。三界とは欲界(食欲・物欲・性欲の世界)、色界(物質の世界)、無色界(欲も物もない世界)の三つの世界。十方とは四方八方に上下を合わせ、全ての世界ということ。
四生とは卵生(卵から生まれるもの)、胎生(母胎から生まれるもの)、湿生(湿気の中から生まれるもの)、化生(過去の業力により忽然と生まれたもの)という生まれ方。六道は地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上という六つ世界のこと。

水路が縦横に高岡の町を巡る
堤を下り、道なりに西進。堤下から道の右手に水路が現れる。国道56号土佐市バイパス少し手前で北から下ってきた水路と繋がっていた。南下してきた用水が仁淀川にながされているのだらろうか。
国道56号土佐市バイパス交差点を越えると道の左手に暗渠が続き、ほどなく開渠となって南へ下って行く。更にその先に開渠となって南流する水路が現れる。現在は宅地化されているが往昔は田畑を潤す用水路であったのだろう。
仁淀川の東岸の高知県春野町に野中兼山の開削水路があったわけで、当然のこととして仁淀川の西岸の土佐市も兼山の治水・利水事業があったのだろうとチェック。鎌田井筋と称される開削水路があった。
鎌田井筋〈鎌田溝筋)
国土交通省の資料
「広谷喜十郎:野中兼山と春野」より
八田堰の工事を完成した兼山は、八田堰の上流2.5km、仁淀川に架かる土讃線の鉄橋西側下辺りに取水口(鎌田井堰)を設けることとして、承応3(1654)年鎌田堰築造に着工。2年の歳月で 長さ545m(300間)、幅18.1m(10間)、高さ12.7m(7間)の堰を完成させ、およそ23キロにも及ぶ鎌田井筋を開削し、土佐市のある高岡平野を潤した。
鎌田井堰は下流の八田堰まで舟筏を通す必要があったためか、「水越」を設けられ、「鎌田堰の筏越し」として知られた。

この鎌田井堰も昭和12(1937)年、高岡郡日高村下分に水門を設け、トンネルを掘り抜き、新たな水路を開いた、ために、約300年近く利用されてきた「鎌田堰」は、昭和17(1942)年をもって取り除かれ、現在鎌田井堰跡には石碑が残るのみ、と。
井筋をチェックしようと、鎌田井筋の水路図(国土交通省の資料と「広谷喜十郎:野中兼山と春野、高知市広報「あかるいまち」2007 年 12 月号」)などと現在の用水路を比較し、井筋を比定しようとしてはみたのだが、上流部の高知自動車道のすぐ南の松尾神社辺りまではそれらしき流路が比定できるのだが、その先で分岐した流れが以降の改修ゆえか資料流路とピタッと一致するものははっきりしない。とりあえず、市内を流れれる用水路が鎌田井筋がベースになった用水路であろうと思い込むことにする。

清瀧寺・青龍寺への遍路道分岐点に標石
西進すると直ぐ四つ角。ここも北から南に開渠用水路が流れる。その四つ角の西南角に、「35寺 清龍寺」は北方向、「36寺青龍寺」は南方向を指す案内と、その下におおきな標石。「右清瀧寺道 左青龍寺道 文化五」とある。
お遍路さんはこの四つ辻を右折し北に向かい清瀧寺を打ち、そこからこの四つ辻まで「打ち戻り」、青龍寺へ南下する。
土佐市高岡町
仁淀川を越え高岡町を東から西へと歩いてきたが、この高岡が土佐市の中心のようだ。土佐市というから、土佐国の中心でもあったのかと思ったが土佐市は昭和34年(1959)近隣の町村を合併してできた高岡町が市制施行し土佐市と改称したとのこと。古くより高岡の地は周辺農村地帯の物資交流の中心地であったようである。

三島神社一の鳥居手前の標石
遍路道分岐点の四つ辻を右折し北進、高岡市第一小学校南の道を左折し西進。ほどなくブロック塀に手書きで「青龍寺」と書かれた矢印に従い右折し北進する。
道を進むと三島神社の鳥居が見える。その少し手前、道の右手の水路脇に標石が立つ。手印と共に「右清瀧寺道 天保二年」といった文字が刻まれる。手印は清瀧寺を指すが、「右」って逆戻り方向?
とりあえず先に進むと鳥居までに右が左右に分かれる。標石の「右」って、ここを右手に、ってことかと三島の社と天理教の巨大施設の間の道を進む。

三島神社境内傍と北東端に標石
道を進むと神社石段に向かう境内入り口の右手、道脇に標石があった。手印と共に「右」の文字が読める。下半分が折れているように見える。
三島神社の東を進むと北東端に四つ辻。その角、石垣下に、「四国のみち」の指導標、上部が壊れた常夜灯と共に標石。南を指す手印と共に、「四国巡拝八十八回目為供養」と刻まれる。八十八度も巡拝されたお遍路さんて誰だろう。チェックすると栗田修三氏の標石。ここに限らず伊予の岩屋寺への遍路道、これから歩く青龍寺道にも栗田修三さんの立てた標石があるようだ。栗田氏に関するデータは不詳。

田圃の中の遍路道を歩き高知自動車道高架を潜る
三島神社の直ぐ北に国道56号が走る。遍路標石が見当たらず、取り敢えず国道を渡り北に向かうと東西に走る比較的大きな車道に合流する。
車道を北に渡ると、合流点の一筋西に木の「四国のみち」の指導標。「清滝寺2.2 km 青龍寺12.1km」の案内。
指導標に従い右折し田圃の中の道を北進、ほどなく再び「四国のみち」の木標。「清瀧寺1.3km 土佐市街へ1km」とある。道なりに進み高知自動車道の高架を潜り虚空蔵山地、大平峰(標高387m)から連なる清滝山(標高378m)の山裾に向かう。

第三十五番札所 清瀧寺参道口
山裾の道に並ぶ東谷集落の道を少し進むと、道がふたつに分かれる。分岐点に案内があり、「三十五番札所清瀧寺」は左の道を指す。
道を進むとすぐ「四国第三十五番醫王山清瀧寺」と刻まれた寺柱石。清瀧寺は清滝山の標高160m辺りに建つ。おおよそ1キロ上ることになる。
寺柱石のすぐ先、道の両側に常夜灯、その先、道の左手に石仏が並ぶ。更にその先、道の右手に石仏が並ぶ。次いで、道の左右に墓地。中には遍路墓も。

歩き遍路道に入る
断続的に続く墓地を抜けると民家が建つ。その先、道が左手にカーブするところ、道の右手に遍路墓らしき石造物が並ぶ。カーブを曲がると道が二つに分かれ、歩き遍路道は左手を指す。右手は車参道でお寺様まで続くのだろう。
歩き遍路道に入るとすぐ、道の左手に標石が残る。「四国巡拝八十八回目為 昭和五年 栗田修三密厳」と刻まれる。栗田氏の標石は上述三島神社で出合った。

土径を山門へ
木々に覆われた土径を進む。道脇に虚空蔵菩薩などの石仏が並ぶ。参道口から13分、歩き遍路分岐から5分ほど、比高差50mほど上げると前方に清滝寺も山門が見えてくる。







第三十五番札所 清瀧寺

山門
土径を進むと二十二段ほどの石段の先に山門が見える。石段を上り山門に。山門天井に龍が描かれる。
天井絵
案内には「清瀧寺楼門天井画 有形文化財(市) 明治33年(1900)清瀧寺の楼門建立に際し、地下の画家久保南窓の、揮毫した天井画「蛟竜図」「天女図」の二組が奉納された。竜は中央二面に続き、天女はその左右二面に描かれ、墨痕鮮やかで流易闊達な筆致に極彩色が施されており、近郷天井画の白眉である。
久保南窓(柳太郎) (1848~1917)は、高岡村走寄に生れ、生家は米穀商を営んでいたが生れつき画才に富み、弘瀬洞意(絵金)に学び、また青木南溟に私淑し、南画をもよくし地方画家として名声を博した。
近郷の社寺に得意の絵馬絵の佳作を多く残している。のち高知市に転住し、中央の画展にも出品して度々賞を受けた。大正6年没。墓所は高知市小高坂にある」とあった。

徳右衛門道標
山門を潜り、97段の石段を上ると境内左手に徳右衛門道標。「是より青龍寺迄弐里半」と刻まれる。

厄除大師堂
境内に高さ?mほどの厄除薬師像、その左に修行大師像が立つ。

その先、10段ほどの石段上、正面に本堂。本堂右手には子安地蔵尊、琴平社祠、裏手には瀧と池があり水子地蔵尊が祀られている。


本堂左の回廊続きに大師堂があり、その左に地蔵堂、観音堂が並ぶ。
本坊あたりか
ら眼下に広がる高岡平野の眺めが楽しめる。

Wikipediaには「寺伝によれば養老7年(723年)行基が本尊薬師如来を刻み、寺を開創し、景山密院繹木寺(けいさんみついんたくもくじ)と称したという。その後空海(弘法大師)が巡錫、五穀豊穣を祈願して山中で一七日(7日間)の修法を行い、満願の日に金剛杖で前の壇を突くと清水が湧き出て鏡のような池になったことから醫王山鏡池院清瀧寺と改めたという。
平城天皇の第3皇子である高岳親王は薬子の変に連座したことから仏門に入り空海の弟子となり真如と名乗った。貞観3年(861年)に本寺に来錫し逆修塔(生前墓)を建てた。
江戸時代は繁栄したが、明治4年(1871)廃寺となり、同13年(1880)再興された」とあった。
入らずの山
境内左側の茂みは「入らずの山」と呼ばれる。柵で囲まれ入ることはできない。石碑に「高岳親王塔」と刻まれる。寂本はその著『四国遍礼霊場記』に「真如親王の墓というあり。五輪塔長五尺許なるを立つ」とあるが、それは上述逆修塔(生前墓)のことだろう。
弘法大師の十大弟子ともされる高岳親王こと真如上人は、仏理をきわめるべく入唐を決意、唐でも願い成就できない場合は天竺(インド)までも渡ろうとの想いを抱く。時に貞観三年(八六一)のことと言う。同年、入唐を前に、大師の旧蹟を訪ね此の寺に来錫。一年あまり留まり修行を重ね、天竺に渡らることになったと。
出立にあたり「われ天竺(印度)に身を果すとも、幽魂はこの五輪塔下に帰り、永生当寺を守護し、 末世衆生を済度し、十方の幽魂を一心法界本有荘厳(しょうごん)の浄土に引導して、無上菩薩に廻向(えこう)せん」と念じられ、上述の五輪の逆修塔を刻まれて永生の菩提所に定められたと伝わる。
この翌年、貞観四年(862)、九州の太宰府から船出し、入唐したと伝わる。上人六十一歳の時と言う。その後の消息は不詳であるが、寂本の『四国遍礼霊場記』には、「上表して入唐、西域にゆかんとして流沙を過、逆旅に遷化し玉ふ。」とある。天竺への途次にむなしくなった、ということだろうか。
どこまでが事実か不詳だが、事実とすれば天皇の子として生まれ、一時は皇太子の地位にありがら天竺を目指すなど日本版三蔵法師として波乱の人生を送った人物である。
この寺の他にも、四国には真如上人の足跡を伝える寺は多いと言う。
因みに、マレーシアのジョホール・バル日本人墓地に真如上人の墓がある、と。広州から船出し天竺を目指すもこの地に流れ着き病でむなしくなった、と伝わる。1970年に供養塔が建てられた。寂本の西域行とは異なるが、どちらにしても壮大な物語である。
鏡池
由来にある鏡池ってどこ?本堂右手奥には滝があるが池らしきものは見あたらない。チェックすると、本堂の北三丁の山中に岩場があり、空海はその地に壇を築き修行。満願の日に壇の前の岩場を金剛杖で突くと清水が湧き出し滝となり、その下に鏡のような池ができた、とのこと。その水は今でも湧き出し清流となって麓の田畑を潤し、土佐和紙の原料である三椏(ミツマタ)を晒す水として土佐手すき和紙のふるさとをつくった、と。
地図で見ると、お寺様の東に尾根筋から下る沢筋が描かれ里に下る。地図に清滝とも記されている。この沢筋のどこかに鏡池があるのだろうか。

今回のメモはここまで。次回は三十六番札所青龍寺へ向かう。
今回は31番竹林寺より34番種間寺までを常の如く遍路標石を目安に旧遍路道を辿る。全行程23キロ程度だろうか。 
竹林寺から南の大畑山地を越え32番禅師峰寺までおおよそ7キロ。道は山地に深く切り込んだ侵食谷を辿るため、緩やかな坂道を上り標高20mほどの鞍部を越えるだけであり険しい山越えではない。
鞍部を越えると市域は高知市から南国市と変わる。大畑山地北麓を東西に走る仏像構造線の南は構造体としては四万十帯であり、山地は中生代後半(中生代白亜期)から新生代前半頃(新生代古第三期)の地層である砂岩・泥岩、砂岩泥岩互層などをその特徴とするが、国土地理院の地形図を見ると、山を越えた先、海岸線との間は形成時期を新生代第四期とする堆積岩、海岸・砂丘堆積物の岩質となる。打ち寄せる波により形成されたものだろうか。その海岸線の平坦地を辿り大畑山地の支尾根が海岸線に迫る丘陵にある禅師峰寺に。寺の標高は80mほど、山道参道もきつくない。
禅師峰寺から雪蹊寺まではおおよそ9キロ。大畑山地南の海岸・砂丘堆積物で造られた地を西に進み、南国市から再び高知市に入る。さらに西に進み浦戸湾に中州状に延びた先端部で渡海船に乗り、浦戸湾西岸に渡る。実際は散歩当日、何故か「欠航」となっていたが、それは稀なことのようであり、ルート図は海を渡ったこととして描いた。
浦戸湾西岸に渡るとその地形は烏帽子山山地から延びたいくつもの支尾根からなる長浜丘陵。幾筋もの支尾根奥に深く切り込まれた侵食谷は新世紀第四期の谷底平野の岩質を呈す。 遍路道は長岡丘陵を西に新川川に沿って進み雪蹊寺に。新川川は野中兼山によって開削された人工水路であった。 
雪蹊寺から次の種間寺までの距離は大よそ7キロ。新川川を西に進むと長浜丘陵を切り抜いた唐音の切抜。仁淀川から取水した新川川の水を浦戸湾に流すため切り抜いたもの。唐音の切抜を抜けると高知市長浜から、高知市春野町に入る。
春野は「墾る野」から。仁淀川東岸の新田開発のため野中兼山により開削された利水・治水の水路に知らず出合い種間寺にたどり着く。
跡付け、付け焼刃ではあるが、散歩の途次に出合った兼山開削の新川川と諸木井の水路図を地図にマッピングしておいた。遍路歩きに役立つとも思えないが、水路フリーク故の好奇心ではある。興味のある方はご覧ください。


本日のルート;
竹林寺から第三十二番禅師峰(ぜんじぶ)寺へ
坂本の茂兵衛道標(185度目)>下田川・遍路橋を渡る>県道247号を南下>武市半平太旧宅>>石土トンネルを抜け南国市に>石土神社>自然石標石を左折>禅師峰寺参道口に>三丁・二丁石>第三十二番札所 禅師峰寺
第三十二番禅師峰寺から第三十三番札所 雪蹊寺へ
青石板状標石>県立高知高等技術学校西端に標石>標石?>仁井田の聖神社>仁井田の仁井田神社・一の鳥居と御旅所>種崎の御座大師堂>県営渡船種崎待合所>(迂回)>渡船長浜待合所>人工水路・新川川(長浜川)に沿って西進む>鶴田熟跡>第三十三番札所 雪蹊寺>秦神社
第三十三番札所 雪蹊寺から第三十四番種間寺へ
日出野>唐音の切抜>一つ橋>丘陵鞍部で右に逸れる>標石が続く>甲殿川・諸木井水路橋>西諸木の標石>新川川に架かる新川川橋>第三十四番札所 種間寺に



■竹林寺から第三十二番禅師峰(ぜんじぶ)寺へ■

坂本の茂兵衛道標(185度目)
今回のメモは竹林寺より禅師峰道を下り、参道が県道32号にあわさる地点に立つ茂兵衛道標からスタートする。茂兵衛道標の「峯寺」への手印に従い道標を左折し、下田川に沿って県道32号を東進する。 
下田川
下田川(しもだがわ)は、高知県を流れる延長約14kmの二級河川。江戸時代には、稲生鉱山で採掘された石灰を運び出すための航路として利用されていた。
高知県南国市包末付近に源を発し、物部川から取水された農業用水を集めながら南西へ流れる。源流部を地図をチェックすると28番札所大日寺から29番国分寺に向かう途中に出合った松本大師堂の近く、野中兼山が物部川から水を引き開削した舟入川のすぐ傍。舟入川と同様兼山が開削した人工用水路のようだ。
下田川は小さいながら下田川水系とし、支流として樋詰川・介良(けら)川が合流し高知市五台山で浦戸湾に注ぐ。介良川は後述遍路橋の少し東で北の介良から注ぎ、樋詰川は更に上流で南から注ぐ。 流域はどの河川も物部川が形成した扇状地低地に流れを発し、香長平野平野の西に残る鉢伏山、五台山と、その南に東西に連なる大畑山丘陵山地に挟まれた一帯である。
樋詰川は海岸線を東西に流れる川筋と繋がっているように見える。地図に見える溜池を境に東西に流れがわかれているのだろうか。
介良
「土佐国長岡郡の九郷の一つ「気良郷」。のち源希義 の流摘の地が「介良庄」。キク科の古名ウケラの自 生地?(『土佐地名往来』)」

下田川・遍路橋を渡る
コンクリート護岸補強された下田川に沿って東進。右手護岸コンクリートに「ヘンロ橋跡」と書かれたプレートが埋め込まれている。かつての遍路橋が架かっていた箇所だろう。 その直ぐ東に遍路橋。遍路道はこの橋を渡り下田川左岸に移る。前面は直ぐ南に大畑山(標高143m)の丘陵が東西に繋がる。地区名は「唐谷」。「地検帳にはカラ谷。日影地のカウラが転訛しカラ、日 当たりの良くない谷」と『土佐地名往来』にある。

県道247号を南下
遍路橋を渡るとそのまま唐谷の集落を南下。大畑山から東に延びる丘陵の山裾まで進むと突き当りに遍路道案内。「禅師峰寺3.5km」とある。案内に従い左折、山裾の集落の細い道を東進し県道247号に合流。右折直ぐ「高知南国道路」の高架。遍路道は高架を潜り県道247号を南進する。 県道は大畑山山地を南に切り込んだ低地を進み(侵食谷?)、標高30m弱の鞍部を越えて南に抜ける。

武市半平太旧宅
ほどなく県道の左手に「武市半平太 旧宅と墓」の案内。ちょっと立ち寄り。県道を左折し、侵食・開析され(?)東西に分かれた大畑山山地の東側山裾に「武市半平太 舊宅及墓」の石碑があり、古家がその左に建つ。
武市半平太
旧宅傍にあった案内には「国史跡武市半平太旧宅及び墓 【1936(昭和11)年9月3日指定】 武市半平太は、幼名鹿衛、諱は小楯、瑞山は号。別に吹山、?茗の号があります。(1829(文政11)~1865(慶応元)年)
半平太は、こちらの旧宅に22歳まで居住していました。宅地225坪で、その頃の規模が残っています。屋根は、元は藁葺でしたが、現在は銅板葺となっています。 (現在は民家として使用されていますので、旧宅は非公開させていただいております。ご見学はご遠慮ください。)
武市半平太の墓は、ここから南に接する丘陵にあります。墓碑には、武市半平太小楯と刻してあり、妻富子の墓と並んでいます。」とあった。
旧宅の逆を進むと瑞山神社と墓がある。

Wikipediaで補足。「優れた剣術家であり、黒船来航以降の時勢の動揺を受けて攘夷と挙藩勤王を掲げる土佐勤王党を結成。参政・吉田東洋を暗殺して藩論を尊王攘夷に転換させることに成功した。京都と江戸での国事周旋によって一時は藩論を主導し、京洛における尊皇攘夷運動の中心的役割を担ったが、八月十八日の政変により政局が一変すると前藩主・山内容堂によって投獄される。1年8か月20日の獄中闘争を経て切腹を命じられ、土佐勤王党は壊滅した」とある。 龍馬も元は土佐勤王党に参加するも、脱藩後は勝海舟の影響もあり「開国思想」と変わってゆく。

石土トンネルを抜け南国市に 
県道に戻り南下。緩やかな坂を大畑山地の鞍部に向かって上り、右手に刈松神社の社が建つ辺りより県道を離れ右手に逸れる道に乗り換える。
直ぐ石土トンネル。トンネルが高知市と南国市の境。トンネルを抜けると南国市緑ヶ丘となる。トンネル出口には神保神社が鎮座する。

石土神社
宅地開発されたような街並みを道なりに進み石土池西岸に出る。結構大きな池だ。場所から見て農業用溜池とは思えない。どうも宅地開発された十市パークタウンの雨水調整池のようだ。 名前の由来は、池の西南端にある石土神社からだろう。
石土神社
『続日本後紀(しょくにほんこうき)』に、延喜式内社と記載される古社。読みも「(いしつちじんじゃ」「 いわつちじんじゃ」などの名が見える。それもあってか石土池も「いわつちいけ」「いしどいけ」「いしづちいけ」、地名をとって「十市の池」とも呼ばれるようだ。

縁起を読んでいると、ちょっと気になる箇所があった。「三百有余年前修験者此神社より 伊豫國新居郡瓶ヶ森に勧請し延喜式社なりと衆人に呼かけても朝庭 に於せられては御記録の通りにて此郡此村にして寸分の紛れなしとて御変更なかりしとか其の後伊豫新居岡市の境なる伊豫の地高嶺に遷座してより本名高嶺の名は次第に廃れ現在の石鎚山となる石鎚神社は延喜式社に非ず、(中略)石鎚神社は元土佐の國より分霊したるものにして土佐長岡の石土毘古の命と原祠を稱すと記せり(石鎚山先達記に有り)」とする。古来伊予の石槌(いしづち)神社を奥の院に、当社を前の宮とも称する、と。
要は、伊予の石鎚神社は土佐から分霊されたとのこと。そういえば石鎚山のお山開き祭事の際、土佐の信者が供奉するとも聞く。また、当社裏手の石灰洞は伊予の吉田(私注;南予にある)まで続くといった話も残る。伊予との繋がりの深堀にフックが架かりそうだが、ここはちょっとセーブ。

自然石標石を左折
石土川から注ぎだす十市川に架かる石土橋を渡ると県道14号。遍路道は県道合流点を右折し、すぐ県道を左に折れる。そこに「32 禅師峰寺1.2km」と刻まれた新しい標石があり、「すぐ先左折」の矢印が記される。
指示に従い県道より南下すると、二筋南の四つ辻に自然石の標石。手印と共に「へんろミち」と刻まれる。
十市(とおち)
この一帯は十市地区。「海辺に延びた砂洲。遠く突き出ている「遠洲」、門戸のよ うな「戸洲」がとおつ、とおちに転訛」と『土佐地名往来』にある。



              第三十二番札所 禅師峰寺

禅師峰寺参道口に
集落の間の生活道を東進すると、前が広場となり道の左手に大きな石仏と小振りな石仏群、標石そして「四国第三十二番霊場 八葉山禅師峰寺」と刻まれた寺標石が立つ。 遍路道案内に従い広場を左折れ参道口に向かう。
参道口はふたつに分かれる。左は車道参道、歩き遍路は直進する。参道口には手印と共に「禅師峰本堂 三四〇米」と刻まれた標石が立つ。

三丁・二丁石
ジグザグの遍路道を上る。比高差は60mであり、それほどキツイ坂ではない。道の途中には三丁、二丁の舟形丁石、1基の石仏が立っていた。
尾根道散策コース
お気楽に山道参道を進んでいると、なんとなく違和感。地図をチェックすると寺から東へと離れている。引き返し、地図に記される寺への道筋と思しき実線まで戻る。
よく見ると分岐点には「尾根道散策コース」の案内。峰寺>栗山>札場へと独立丘陵の尾根道を進むハイキングコースの案内が雑草に埋もれるように置かれていた。少し注意しなければならない分岐点だ。
栗山は丘陵部、札場は丘陵の東、海岸に面した平地にその地名が見える。

境内
山道を出ると四十八段の石段。石段を上ると仁王門。仁王門の右手に本坊。仁王門を潜ると右手に石灰岩の奇岩を背に峰寺不動明王が立つ。




右手に奇岩を見遣りながら三十一段の石段を上り、右に曲がると正面に本堂、右手に鐘楼、左手に大師堂。大師堂前面には地蔵堂が建つ。
本堂も大師堂も香台の置かれたところにも覆屋が建っている。あまり見ない様式のように思う。本堂は昭和45年(1970)の台風で被害を受け、修築に際し時の住職がコンクリートでの再建案を避け木造を決断。美しい屋根のフォルムを楽しむことができるのもそのおかげである。

境内にあった「禅師峰寺略縁起」には、「寺伝によれば平城天皇の大同二年(八〇七)に、弘法大師が一宇を建て海上安全祈願のため自刻の十一面観音菩薩像を当寺の本尊として、安置せられ四国八十八ヶ所のうち第三十二番札所と定められた。
当山は観音の浄土天竺補陀洛山さながらの霊域にしてその山容八葉の蓮台に似たりとして八葉山と号し、大師当山に於いて求聞持の法を修せられたので求聞持院と称す。 藩政時代藩主が浦戸港出帆の際必ずこの寺の観音に海路平安を祈ったこのことから船観音ともよばれている。
金剛力士像二体は仏師定明の作(正応四年)で重要文化財に指定されている。(保管庫で保存)」とあった。
Wikipediaを基に補足すると、「禅師峰寺(ぜんじぶじ)は、高知県南国市にある真言宗豊山派の寺。寺伝によれば、聖武天皇の勅命を受けた行基が海上安全を祈願して堂宇を建立したのを起源とし、行基菩薩の開基された峰の寺ゆえに禅師峰寺と空海が名付けたとの話も残こる。

第三十二番禅師峰寺から第三十三番札所 雪蹊寺へ

次の札所雪蹊寺は浦戸湾を渡った西側、直線距離にして9キロほどである。直線距離と言ったのは、浦戸湾を渡る渡船を利用した場合のこと。如何なる理由か不詳だが、散歩の当日は欠航となっていた。仕方なく当日は浦戸大橋を渡り桂浜のある竜頭岬経由で雪蹊寺へと向かった。
結構大廻りとなったが、渡船は通常は欠航することがないようであり、メモもそのルートを組み込んでの 雪蹊寺への遍路道を記す。

青石板状標石
禅師峰寺を下り参道口に。遍路道は禅師峰寺への往路に辿った道筋より一筋南の道を西進する。 道は大畑山地の丘陵の南、太平洋に面した海岸堆積物を岩質とした堆積岩よりなる。 道の右手に小さな独立丘陵が見える阿戸地区の先、四つ辻左角に標石。青石で造られた板状標石には「へんろ道」。手印と共に「三十二番峯寺 三十三番興福寺」の文字が刻まれる。雪て蹊寺の旧寺名は高福寺。それゆえの「興福寺」ではあろう。
阿戸
「土佐日記の「大湊」十市説?オド(大門=門は水の 出入り口)が転じてアド(『土佐地名往来』)」

県立高知高等技術学校西端に標石
白石神社の建つ丘陵を越えると遍路道は県道14号とクロスし、そのまま直進する。県道を越えた道は地図に県道14号とある。交差して海岸部に向かう道も県道とある。遍路道は旧路というこtだろうか。
県道を境に南国市から高知市仁井田に行政域が変わる。

道を西進、砂地といった如何にも海岸堆積岩よりなる地形を表す地区を越え大平山(標142.8m)の山裾、県立高知高等技術学校の校庭西端の道の左手に標石らしき石柱。記録ではこの辺りに「へんろ道 三十二番へ十二丁 三十三番へ一里十六丁」と刻まれた遍路標石があると言う。その標石かもしれない。

三里
大平山の山裾を進み大平山を抜けて来た県道376号・高知南インター線を越えると、南に折れる県道14号と分かれ直進すると三里(みさと)小学校や三里中学校と、三里を冠する施設名が多くある。この辺りは仁井田??
現在は仁井田であるが、明治22年(1889)の町村制の施行により、種崎村・仁井田村・池村の区域をもって長岡郡三里村が発足したと言う。そういった歴史を踏まえての「三里」だろう。その後、高知市に合併し三里村一帯は高知市仁井田となったようだ。

仁井田の聖神社
道を進むと山側に聖神社がある。鬱蒼とした社叢に社が鎮座する。
鳥居傍の狛犬、阿吽一対の狛犬の姿が少し異なる。阿の狛犬台座には大正6年〈1917)とあるが、吽の狛犬には台字不明で、少し新しいようである。後年の作であろうか。
境内に由緒案内は無く、御祭神等は全て不明だが、昔は聖観音堂と称されていたようである。 聖神社境内前、道を防ぐように巨大な御神木が残る。
聖神社
聖神社の名前に惹かれ、あれこれチェックすると、結構全国に分布しているようである。秩父の黒谷、和同開珎の史跡を訪ねた時にも聖神社があり、そのご神体は採掘された自然銅を御神体にしていた。
高知にも他に聖神社が見受けられるが、高岡郡越知町にある聖神社が面白そう。断崖絶壁の洞窟に鎮座する社は鳥取県の三徳山三佛寺奥の院「投入堂」(平安時代後期:国宝)を思わせる景観であり、土佐の投入堂とも称されるようだ。江戸時代後期頃には造られたようだが、詳細は不明。一度訪れてみたい社である。

仁井田の仁井田神社・一の鳥居と御旅所
聖神社境内前の御神木脇を抜け西進。仁井田の街並みの中を進むと、道の左手にスペースが現れ、そこに鳥居と石造物が見える。チェックするとこの地の北、太平山南麓に鎮座する仁井田神社の一の鳥居と、石造物は御旅所であった。
仁井田神社
仁井田神社は道の右手に立つ注連柱の間の参道道を北に進み社頭に。そこに二の鳥居。社殿までには三の鳥居、四の鳥居を潜り進むことになる。社殿は入母屋造り千鳥破風付きの屋根を持つ大きな拝殿と、春日造りの本殿からなり、落ち着いた雰囲気を漂わせている。
社の由緒には「古くは五社大明神とも言われていた。天正15年(1587)頃、高岡郡の仁井田明神(現四万十町窪川の高岡神社)を勧請して祀ったのが当社という」とある。この説明だけでははるか離れた仁井田(現在の窪川一帯)と当地の仁井戸由神社の関りなどがわからない。ちょっとチェック。
浦戸湾と窪川の仁井田神社
あれこれデータを調べていると、『四万十町地名辞典』に、「仁井田」の由来については、浦戸湾に浮かぶツヅキ島に仁井田神社があり、由緒書きには次のように書かれてある。
伊予の小千(後の越智)氏の祖、小千玉澄公が訳あって、土佐に来た際、現在の御畳瀬(私注;浦戸湾西岸の長浜の東端)付近に上陸。その後神託を得て窪川に移住し、先祖神六柱を五社に祀り、仁井田五社明神と称したという。
この縁から三年に一度、御神輿を船に乗せ浦戸湾まで"船渡御(ふなとぎょ)"が行われた。この御神幸は波静かな灘晴れが続くときに行われるため、"おなバレ"と土佐では言われる。この時の高知での御旅所が三里(現在の仁井田)の仁井田神社であるといわれる。窪川の仁井田五社から勧請されたのが高知の仁井田神社であると伝えられている。(ツヅキ島の仁井田神社は横浜地区の総鎮守で地元では"ツヅキ様"と呼ばれる)」とある。
窪川移住の神託は「投げ石」
神託を得て窪川に移住とは?、『四万十町地名辞典』には続けて、「『高知県神社明細帳』の高岡神社の段に、伊予から土佐に来た玉澄が「高キ岡山ノ端ニ佳キ宮所アルベシ」の神勅により「海浜ノ石ヲ二個投ゲ石ノ止マル所ニ宮地」を探し進み「白髪ノ老翁」に会う。「予ハ仁井ト云モノナリ(中略)相伴ヒテ此仕出原山」に鎮奉しよう。この仁井翁、仁井の墾田から、「仁井田」となり。この玉澄、勧請の神社を仁井田大明神と言われるようになったとある」と記す。
仕出原山とは窪川の高岡神社(仁井田五社明神)が鎮座する山。仁井田の由来は「仁井翁に出合い里の墾田」とする。
土佐神社遷座の神託も「投げ石:
上述神託のプロットってどこかで出合った気がする。薄れゆく記憶に抗い思い起こすと、それは土佐神社の「礫岩の謂れ」とほほ同じプロットであった。
「礫岩の謂れ」を再掲すると、「古伝に土佐大神の土佐に移り給し時、御船を先づ高岡郡浦の内に寄せ給ひ宮を建て加茂の大神として崇奉る。或時神体顕はさせ給ひ、此所は神慮に叶はすとて石を取りて投げさせ給ひ此の石の落止る所に宮を建てよと有りしが十四里を距てたる此の地に落止れりと。
是即ちその石で所謂この社地を決定せしめた大切な石で古来之をつぶて石と称す。浦の内と当神社との関係斯の如くで往時御神幸の行はれた所以である」とあった。
物語の成り立ちを妄想
時代から考えて、仁井田神社の遷座に関わる物語は土佐神社のプロットを借用したのであろうか。 仁井田神社の物語に登場する仁井翁は、仁井田の地名に神性を付加するためのものだろうか。物語の主人公である伊予の小千玉澄公は『窪川歴史』に新田橘四郎玉澄とあるわけで、普通に考えれば仁井田は、「新田」橘四郎玉澄からの転化でろうと思うのだが、仁井翁を介在させることにより、より有難味を出そうとしたのだろうか。
もっとも、新田橘四郎玉澄も周辺の新田開発を行ったゆえの小千(後の越智)から「新田」姓への改名とも思えるし。。。?ともあれ、上述石土神社に限らず、土佐と伊予がはるか昔には結構強い繋がりがあったようである。
船渡御
ツヅキ島の仁井田神社由緒に「小千玉澄公が訳あって、土佐に来た際、現在の御畳瀬(私注;浦戸湾西岸の長浜の東端)付近に上陸。その後神託を得て窪川に移住し、先祖神六柱を五社に祀り、仁井田五社明神と称したという。この縁から三年に一度、御神輿を船に乗せ浦戸湾まで"船渡御(ふなとぎょ)"が行われた。(中略)この時の高知での御旅所が三里(現在の仁井田)の仁井田神社であるといわれる。窪川の仁井田五社から勧請されたのが高知の仁井田神社であると伝えられている」と記されるのだが、これがよくわからない。この船渡御ってコンテキストから考えれば窪川の仁井田五社明神からはるばると浦戸まで運ばれ船渡御で御旅所の当地仁井田神社に渡り、さらにツヅキ島の仁井田神社に船渡御された、と読めるのだが???
土佐神社もはるか昔には、西に大きく離れた浦の内湾の西端にある鳴無(おとなし)神社に土佐神社の神輿が渡御する「しなね祭り」が神事としてと行われた言うし、であれば、窪川と浦戸を結ぶ神事があったのだろうか。「高知での御旅所が三里(現在の仁井田)の仁井田神社」とあるわけで、 であれば神輿は高知以外のどこかから渡御あれたとしか読めない。とはいえ、少々遠すぎる感あり。

種崎の御座大師堂
道脇の御旅所にフックがかかり、仁井田神社で結構メモが長くなった。先に進む。遍路道は浦戸湾手前で県道278号に合流。浦戸湾入り口へと南西に延びるかつては砂礫洲といった趣の種崎地区を進む。道の意右手、浦戸湾側には造船所のクレーンが建ち並ぶ。
しばらく進むと道の右手に小堂。種崎の御座大師堂。33番札所雪蹊寺の奥の院とも言われる。弘法大師四国御巡錫の砌り種崎に足を泊めここを開基したと伝わる。


県営渡船種崎待合所
御座大師堂から少し南に進み、右に折れると浦戸湾の護岸壁前に県営渡船種崎待合所。人は無料で対岸の長浜地区の長浜渡船場までに渡る。その距離575m。およそ5分の乗船と言う。 が、何故か当日は「欠航」のサイン。結構、ガックリ。
浦戸の渡し
この通称浦戸の渡しは、その昔お遍路さんも使っていたようであり澄禅はその著『四国遍路日記』に、「「(禅師峯寺より)山ヲ下テ浜伝ニ一里斗往テ浦戸ト云所ニ至ル、爰ニ(私注;ここに)大河在リ、材木米等ノ舟出入スル所ナリ、大裏焔上ニ付テ、太守与進上ノ材木ノ舟トテ三十余艘、順風ヲ待テツナキ置タリ、此河二太守与渡シ舟ヲ置テ、自由自在ニ旅人渡ル也、夫与浜伝ニ一里余行テ高福(雪蹊寺)ニ至ル」と記す。
種碕
岸壁より対岸を眺める。6キロ弱と誠に狭い。種崎は、「戸の崎、ト(門・戸)は土地が両方迫り狭くなった水運 路?刀禰(船長)の居る崎、刀禰崎」と『土佐地名往来』とあった。

浦戸大橋経由で長浜渡船場に
渡船欠航のため仕方なく歩いて対岸に向かう。ルートをチェック。と、種崎から海を隔てた南の竜頭岬に浦戸大橋が架かっている。浦戸大橋を渡り竜頭岬経由で種碕渡船場対岸の長浜渡船場に向かうのが最短コースのようだ。
浦戸大橋を渡ると浦戸城跡、龍馬像で知られる桂浜、長曾我部元親の墓などちょっと気になるところはあるのだが、とりあえず長浜渡船場に向かうべしと途中の旧跡はすべてカットし、成り行きで進み長浜渡船場に「戻る」。
浦戸湾の地形
浦戸湾(Google Earthで作成)
歩きながら浦戸湾の地形を見ていると、高知平野と浦戸湾の境、仏像構造線が東西に走る線にある西の烏帽子山山地と東の大畑山山地がバッサリと切り開かれ海峡となり高知平野と浦戸湾を繋いでいる。
また、大雑把に言えば浦戸湾の高知平野への開口部と浦戸湾が太平洋に繋がる部分も南北に一直線に切り開かれているようにも見える。川が切り開くにはちょっと不自然。これってなに? あれこれチェックしていると、「寺田虎彦博士東西方向の山脈が南北方向の断層によって分断された結果ではないかという科学者としての文章を残している。高知県の地質には南北方向の断層線がほかにも多く分布している」といった記事を目にした。はるか、はるか昔の地殻変動の所産なのだろう。


●渡船長浜待合所から雪蹊寺へ●

渡船長浜待合所
渡船場の場所を確認し、遍路道歩きのスタート。地図に渡船場の北に御畳瀬(みませ)の地名が見える。上述、伊予の小千(後の越智)氏の祖、小千玉澄公が訳あって、土佐に来た際、最初に上陸したとされる所である。
烏帽子山地と長浜丘陵(Google Earthで作成

左右に見える低山は烏帽子山山地から南に突き出した幾つもの支尾根からなる長浜丘陵ではあろう。
笑ヶ浦(わらいがうら)
渡船長浜待合所の道を隔てた丘陵側に庭園風の門構え。門は締め切られているが、門傍に「長浜史跡コース 笑ヶ浦(わらいがうら)」の案内。「明治二十三年(一八九O) 当時笑ヶ浦の住人、森九郎右衛門、号笑浦の書いたこの地の由来記の一節に、『山嶺ニハ一小茅亭ヲ建テ爰ニ笑ヶ浦ノ八景ヲ題シ、笑浦夜雨、西法寺晩鐘、浦戸帰帆、種崎晴嵐、桂濱秋月、藻洲潟落雁、桟嶋夕照、仁井田寮雪、ト云。」と書いてあります。
また明治二十年漢詩人で吾川郡長を勤めた三浦一竿の詩碑と、翌二十一年清人馬仲?の詩碑が山上に残されています。
両詩碑とも山上の見晴亭から浦戸湾の美を称えた詩であります。さらに由来記には、「漁船等ヲ繋泊スル一小湾二シテ安政年間故太田儀左衛門氏ノ物語ル二地名ハ「和合ヶ浦」ナニト。」と書いてあります。
天正十七年長宗我部地検帳には、「「わラヵ浦』一所拾六代下畠(ひとところじゅうろくだけのはたけ)「わラヵ浦村」宮崎強力扣(ごうるりきひかえ)」とあります」とある。
これだけではなんのことかよくわからなかったが、後述する雪蹊寺駐車場にあった「長浜史跡コース」にこの丘陵東端部に笑ヶ浦とあtった。門が閉まりここからは入れないが、丘陵に上る道があり、笑ヶ浦八景を愛でるところがあるのだろう。

人工水路・新川川(長浜川)に沿って西進む
遍路道は新川川の北岸を西進する県道278号を辿る。この新川川は野中兼山によって開削された人工水路。仁淀川の八田堰から取水し、弘岡井(ひろおかゆ)、新川川により一帯を灌漑した後、浦戸湾と結ばれた。
仁淀川の八田堰から概略図を書いてみる。地図を見ると人工的に開削された水路と仁淀川の自然分流の川筋を繋ぎ合わせ浦戸湾に続けているようだ。特に南北に流れる甲殿川などは人工的に開削した人工水路(新川川)を落とした自然水路のように思える。人工水路と自然水路を組み合わせた治水・利水事業はよく見る。利根川の東遷事業で源頭部を失い廃川となった古利根川の流路を改修し葛西用水の流路として活用した大落古利根川などが記憶に残る。

「広谷喜十郎:野中兼山と春野」より
この新川川は灌漑、仁淀川と浦戸を結ぶ舟運〈木材)のほか洪水対策として排水の機能も備えるようだ。地図に新川川の流れを落とした甲殿川が土佐湾に注ぐ手前(西戸原)で大きく西に向き変える箇所があるが、そのためもあってかこの甲殿川の河口が土砂で埋まり諸木地区が洪水に見舞われたようだ。そのため、甲殿川が西に向きを変える地点(西戸原)から人工的に水路を開削し、唐音の丘陵(後述)を切り抜き、長浜川と繋ぎ浦戸に水を流した。開削された新川川筋が唐音へと河口付近で不自然に東進、さらに北進し唐戸の切抜に繋がりるのは排水・洪水対策でもあったわけだ。
仁淀川からこの地を流れる新川川(長沢川)に繋がる人工水路には新川川のほか、諸木井などもある。諸木井を浦戸に繋げたのは灌漑用水の用途の他、新川川と同じく排水の機能もあったのだろうか。
(流路概要はGoogle Mapと共に掲載地図を参照ください;「広谷喜十郎:野中兼山と春野、高知市広報「あかるいまち」2007 年 12 月号」より)。
この利水・治水工事は慶安元年(1648 年)、まず弘岡堰(現八田堰の前身)と八田川(一名弘岡井筋)の工事に着手し、5カ年を要して承応2年(1653 年)に完成したとのことである。

鶴田熟跡
新川川に沿って県道278号を西進。しばらく歩くと道の右手、T字路を少し北に入った石垣の前に石碑があり
「鶴田熟跡 幕末の土佐藩政吉田東洋が蟄居中に開いた熟跡 熟生に岩崎弥太郎、、後藤象二郎、福岡孝弟などがいた」と刻まれる。傍に手書きの案内。「鶴田熟跡 幕末の土佐藩政吉田東洋が蟄居中に開いた熟跡である。東洋は安政元年(一八五四)、江戸出府中に、酒癖の悪い山内家親戚の幕府役人を接待していて、頭をなぐったため罰せられた。翌年四月、長浜の鶴田に塾を開き、安政五年(一八五八)一月、参政に復帰するまで、ここで子弟の教育につとめ、後藤象二郎、福岡孝弟、岩崎弥太郎らの門弟を養成した」とあった。
石垣上の熟跡は更地となっていた。
吉田東洋
武市半平太の土佐勤王党の郷士により暗殺された土佐藩執政ということは知るが、暗殺に至る経緯などは知らない。ちょっとチェック。
Wikipediaをもとにまとめると、「先祖は土佐の土豪名家。戦国期は長宗我部元親に仕えた。土佐在郷の名家ゆえ山内一豊の入国後、一豊から三顧の礼をもって仕官を勧められ、土佐藩上士として迎え入れられた家柄に生まれる。
東洋は藩の重臣として仕えるも、上述事件により蟄居。この地で若手藩士を教育するが、その子弟が「新おこぜ組」と称される一大勢力となり、幕末期の土佐藩の動向に大きな影響を与えることになる。
安政4年(1857年)12月に蟄居赦免。翌年1月には参政として藩政に復帰し、法律書『海南政典』を定め、門閥打破・殖産興業・軍制改革・開国貿易等、富国強兵を目的とした改革を遂行する。然し、このような革新的な改革は、保守的な門閥勢力や尊皇攘夷を唱える土佐勤王党との政治的対立を生じさせる結果となり、文久2年4月8日(1862年5月6日)、帰邸途次の帯屋町にて武市半平太の指令を受けた土佐勤王党の那須信吾などによって暗殺された」とあった。


第三十三番札所 雪蹊寺

更に西に進むと深い叢が県道まで延びている。その直ぐ先、左手が大きく開ける。雪蹊寺参拝の駐車場となっている。駐車場の境内玉垣の前に前述「笑ヶ浦」でメモした「長浜史跡コース」が案内されていた。

境内への8段ほどの石段の前、左手に寺標石。「四国三十三番霊場」の左右に「みね寺二り 是よりたねま寺二り 明治四十年十月」と刻まれ、標石を兼ねている。

境内に入ると右手に鐘楼、左手に安産地蔵、馬頭観音堂と並び、正面に本堂、その右手に大師堂が建つ。本堂に置かれたなで仏(おびんずるさま)は患部治癒の願いからよく磨かれ、真鍮色に輝いていた。
曾我部信親公の墓所
本堂右裏には長曾我部信親公の墓所がある。宝篋印塔、五輪塔、宝塔などが立つ。長曾我部信親公は元親の嫡男。秀吉の軍門に下った後、九州攻めに参陣。無謀とされる戸次川(へつぎかわ)の合戦で島津勢の大軍に敗れ戦死。信親に殉じた家臣の供養塔も残る、と言う(基本、墓所撮影は遠慮しており、写真なし)


境内にあった「長浜史跡コース」には「高福山雪蹊寺(四国霊場三十三番札所) 延暦年間(七八二~八〇六)弘法大師が開基されました。もとは高福寺といいましたが、鎌倉時代に運慶と湛慶作の毘沙門天の仏像など(国重文)が安置されたところから、慶雲寺と改称された経緯があります。
戦国時代、月峰和尚を中興の祖とし臨済宗に改宗され、長宗我部元親の菩提寺となり、元親の法号にちなみ雪蹊寺と改称されました。

慶長五年盛親の敗戦で山内一豊公の入国となり、七十石を拝領しました。歴代の住職やその弟子に朱子学を学んだ天質と小倉三省、谷時中などを輩出し、南学の中心地ともいわれています。 明治二年廃仏毀釈により廃寺となりましたが、同十二年山本太玄和尚を住職とし復興され、その弟子山本玄峰和尚は昭和の傑僧といわれました。本尊薬師如来三立像」とある。

Wikipediaにより補足すると、「雪蹊寺(せっけいじ)は、高知県高知市長浜にある臨済宗妙心寺派の寺院。高福山(こうふくざん)、高福院(こうふくいん)と号する。
『土佐国編年紀事略』には嘉禄元年(1225年)、右近将監定光なる人物が高福寺を創建したとする。天正16年(1588年)の長浜地検帳には「慶雲寺」とあり、この頃までに慶雲寺と改称していたことが窺える。
雪蹊寺改名の元となる長曾我部元親の法名は「雪蹊恕三大禅定門」。江戸時代初期には「南学発祥の道場」といわれ天室僧正が朱子学南学派の祖として活躍、野中兼山などの儒学者を生み出した。
明治時代になると廃仏毀釈により明治3年(1870年)廃寺となり、翌年、後方に隣接して当寺所蔵の長宗我部元親坐像を神体とした秦神社が建立された。その後、大玄和尚により復興した。なお、明治12年(1879年)に再興されるまで納経は、31番竹林寺で「高福寺」の名でされていたという。
太玄和尚
境内を入るとすぐ左手に「太玄塔」と刻まれた石碑が立つ。「長浜史跡コースの案内には「太玄塔  雪蹊寺が廃仏毀釈の後、再興に尽力した十七世山本太玄宜點和尚のために、養子嗣法となった玄峰和尚が建立した塔で碑文は裏側に刻まれています。
碑文の一節には、「文政九丙戌年(一八二六)京都ノ公家二生マル幼時花園桂春院ノ徒トナリ長ジテ岡山国清寺月珊和尚二師事シ三十餘歳ニシテ茨木本源寺二住ス明治十二年本山妙心寺ノ特命二ヨリ當寺再興ノ為来ル。(中略)明治三十六年六月二十八日當寺二於テ遷化ス世寿七十八歳」 昭和廿八年七月吉辰 前妙心寺派管長嗣法比丘般若窟玄峰謹志」とあった。





山本玄峰老師
太玄塔の横に2基の石碑。そのうち1基が上述、明治の頃寺の復興に努めた山本玄峰師の石碑。上半身像が載る。石碑に人物の説明も刻まれているのだが、当日は篤志家のひとりでもあろうかと注意を留めず「太玄塔」の案内写真の端に偶々石碑が写るが解説は半分だけしか読めない。あれこれとチェック。と、検索ヒット多数。「長浜史跡コース 雪蹊寺」の案内に、「昭和の傑僧といわれました」とある所以である。
慶応2年(1866年)和歌山の生まれ。十代で目を患い四国遍路にでる。裸足での遍路だったと。 7回目の途上、雪蹊寺の門前で行き倒れとなっていたところを住職の山本太玄師に救われる。24歳の時という。
この出会いにより出家を決意。妻と離別し翌年雪蹊寺で出家。修業を重ね83歳で京都の妙心寺管長、最後は江戸期臨済宗中興の祖・白隠禅師創建の三島龍沢寺の住職となり、昭和36年(1961年)96歳で遷化した。生涯四国遍路すること17回。最後の遍路は95歳の時と言う。
で、気になる「昭和の傑僧」の所以だが、若き頃参禅会で玄峰を慕った田中正玄、井上日昭といったいわゆる右翼、昭和のフィクサーとの交流ゆえか(5.15事件では井上日昭の弁護を引き受けている)、また三島龍沢寺に師を頼った多くの著名人との交流ゆえではあろう。
天皇の玉音放送にある「 堪え難きを耐え忍び難きを忍び」の文言は終戦時の首相である鈴木貫太郎への終戦を勧める書簡の中の一文とも言う。また、書簡には象徴天皇制への示唆も書かれているとか。
月峰和尚
戦国時代、雪蹊寺の中興の祖、月峰和尚には妖怪とのやりとりの伝説(歌詠み幽霊の伝説)、所謂「雪蹊寺物語」がある。
ある日、ひとりの旅僧が寺での一夜の宿を村人に願う。村人は「妖怪が出るので近づかないほうがよい」と。が、僧は一人寺にて座禅を組む。と、夜更けにどこからともなくむせび泣く声。耳をすますと「水も浮き世という所かな」と聞こえる。
旅の僧は、和歌の下の句と聞き取り、上の句がないため成仏できず悲しんでいるのだろうと思い至る。
翌晩、同じくむせびなく声。僧は「墨染めを洗えば波も衣きて」と上の句を詠み、続けて「水も浮き世という所かな」と繋ぐと、むせび泣く声はハタと止んだ。
この話をきいた長宗我部元親はその僧に雪蹊寺の住職になるように頼み、元親は雪蹊寺を立派に建て直し、今に至るという。その僧こそが月峰和尚であった、と。
南学
土佐を歩いていると、、雪蹊寺の案内にもあったように時に「南学」という朱子学派が顔を出す。コトバンクによれば「天文 17 (1548) 年南村梅軒により南海の地土佐に興った朱子学派。海南学派ともいう。京学,東学に対する称。四書を重んじ,道学者的態度を固持するとともに実践躬行を尊び,実際政治に参与した。梅軒のあと,吸江庵の忍性,宗安寺の如淵,雪蹊寺の天室らを経て,谷時中にいたって仏教から完全に独立し,基礎を固めた。その門人に野中兼山,小倉三省,山崎闇斎が出た。のち三省の門下から,谷一斎,長沢潜軒,大高坂芝山らが出,また闇斎の門弟,谷秦山が帰国して,南学を振興した。
人間系譜は以上のようにたどれるものの,三省が世を去り,兼山が失脚して藩府より南学派は弾圧を受けて両人の門人や闇斎も土佐を去り,土佐における南学派は一時中絶した。秦山が復興した教学は三省,兼山までの本来の南学と質を異にし,京,江戸の学風の移入とみることができる。もっとも秦山は大義名分論に立つ尊王思想を説き,幕末勤王運動に影響を与えたが,こうした政治と結びついた強い実践性の点では,広い意味での南学は一貫している」とあった。
土居楠五郎 (保) 墓
境内の長浜史跡コース案内に掲載されていた。案内には「土居楠五郎 (保) 墓 坂本龍馬の剣の師、長岡郡十市村字系木の郷士(現南国市十市)高知築屋敷の日根野弁治道場の師範代として、龍馬が十四歳の時から指導し、人間形成にも深い影響を与えたようです。慶応三年九月二十三日、龍馬最後の帰郷の時、種崎中城家に上陸、小島家にて二人は劇的対面をしています。十市の土居家墓所を移転の時一族の墓石とともに当寺へ移したようです」とあった。

秦神社
雪蹊寺の東、寺に隣接して建つ。長宗我部元親の菩提寺である雪蹊寺が廃仏毀釈により明治3年(1870年)に一時廃寺となった。そのため、雪蹊寺に安置していた元親公の木像を移し、ご神体としたのがこの社のはじまり。明治4年(1871年)4月7日(新暦5月25日)に建立された。戸次川の戦いで戦死した長宗我部兵の霊璽板(大位牌)も祀るとのこと。
秦神社の社名の由来は長宗我部氏が中国秦王朝の始皇帝の子孫とされる秦河勝の後裔と称したことによる。河勝は聖徳太子に仕え京都の太秦(うずまさ)を開いたことでも知られるが、その後裔が信濃国に移り、26世の孫能俊(よしとし)の代に、土佐国庁役人として赴任し土佐に入ったとする(異説もある)。
土佐入部の経緯ははっきりしないが、長曾我部氏の祖はこの能俊(よしとし)とすることは一致しているようだ。
秦が長曾我部となったのは、居住した地が長岡郡宗部郷(宗我部郷)であったため。能俊は地名をとって宗我部氏を称したが、隣の香美郡にも宗我部氏を名乗る一族があったため、香美郡の曽我部氏を香曽我部氏、長岡郡の曽我部一族を長曾我部氏したとのことである。
長浜城址
長浜史跡コース」案内には「長浜城址 秦神社と雪蹊寺の背後の山が長浜城址であり、二カ所の竪堀跡がありました。しかしながら現在は、四百有余年の星霜により風化し、樹木に覆われ容易に目にすることはできません。
戦国時代に、土佐、吾川の両郡を支配していた本山梅慶(茂宗)の子茂辰の支城で、大窪美作守(弁作)が城主でした。
長宗我部国親は、父の兼序の死と岡豊落城の首謀者であった本山氏の討滅を決意していましたが、その機会ができたので、国親の元家臣であった福留右馬允の手引きによって日時を定め、永禄二年(一五六〇)五月二十六日の雨風激しき夜、種崎から海を渡り御畳瀬より、長浜城を奇襲して攻略しました。今も城山の北西の谷を夜討が谷と伝えています。
戸の本古戦場跡
秦神社から少し西、新川川の南の「戸の本一号公園」の中に「古墳勿毀」と刻まれた石碑が立つ。 「こふんなり。こぼつなかれ」と読むようだ。戦死者を弔う塚であるので、こわしたらダメ:ということだろう。
ここは長浜城攻防戦の時、長曾我部と本山氏が戦った古戦場跡。国親急襲の報を受け、本山氏の居城である朝倉城(高知市西郊)より本山茂辰が二千の兵を率いて長浜に攻め寄せ、長曾我部勢一千と激突した。
このとき長曾我部元親は22歳。この合戦が初陣であった。「姫和子」と呼ばれていた元親はこの合戦での働きにより以降、「鬼和子」「土佐の出来人」と称されるようになった、とか。 四国制覇を目した戦国の雄である長曾我部氏であるが、元々強大な力をもっていたわけではなかったようだ。土佐七雄(本山、吉良、安芸、香曾我部、大平、長曾我部)の中でも最弱であったようで、居城岡豊を本山氏に奪われ一族存続の危機に瀕している。
岡豊城の落城際し、兼序の嫡子千雄丸は一条房家を頼り中村に逃れ、一条房家の下で元服して長宗我部国親を名乗った。そして房家の配慮により永正15年(1518年)岡豊城に帰還して長宗我部氏を復興、20代当主となっている。このような経緯を踏まえての長浜城急襲ということである。
一条房家
文明9年(1477年)、関白・一条教房の次男として誕生。土佐一条氏は、父・教房のとき所領の土佐国幡多郡に下向して在地領主化した公家大名である。房家自身も正二位の高位に昇り、その名門の権威をもって土佐の国人領主たちの盟主として勢力を築き、土佐一条氏の最盛期を築き上げた。本拠地の中村には「小京都」と呼ばれるほどの街を建設した。なお、現在の四万十市にある東山や鴨川という地名は、房家が京都にちなんで名づけた地名であるといわれる(Wikipedia)。


■第三十三番札所 雪蹊寺から第三十四番種間寺へ■

次の札所種間寺までの距離はおおよそ7キロほど。高知市長浜から高知市春野町となる。春野町は野中兼山が開削した水路が幾筋も流れる。春野の地名の由来は「墾る野」。野中兼山への敬愛は、兼山を祭る春野神社 となり、昭和32年の合併では春野町」と『土佐地名往来』にある。散歩の途次、兼山開削の水路に知らず出合うことになる。

日出野
雪蹊寺を離れ県道278号を東進する。右手の日出野地区は「中世の悲田院(病人貧者の救護施設)由来の地名。「土佐 幽玄考」に悲田院野の訛り」とあると『土佐地名往来』は記す。『続日本記』には、土佐には幡多郡と吾川郡長浜に造るとあるようだ。悲田院の場所は比定されていない。
悲田院
聖徳太子が隋にならい、大阪の四天王寺に四箇院の一つとして建てられたのが日本での最初とする伝承がある。
日本では養老7年(723年)、皇太子妃時代の光明皇后が興福寺に施薬院と悲田院を設置したとの記録があり(『扶桑略記』同年条)、これが記録上最古のもの。また、奈良時代には鑑真により興福寺にも設立された。
平安時代には、平安京の東西二カ所に増設され、同じく光明皇后によって設立された施薬院の別院となってその管理下におかれた。
鎌倉時代には忍性が各地に開設し、以降、中世非人の拠点の一つとなった。 大阪市天王寺区の南端に位置する悲田院町(JR・地下鉄天王寺駅近辺)など、地名として残っているところもある(Wikipedia)。

唐音の切抜
唐音の切抜(Google Earthで作成)
日出野地区過ぎると前面を丘陵地が防ぎ、県道・水路はその丘陵地を堀割った切通しを抜ける。ここが前述唐音の切抜(切通し)。県道が2車線に整備され切り抜きの風情はあまりない。
左右の丘陵を見遣りながら歩くと、法面補強された北岸の一段高いところに石碑。「唐音の切抜」とあり。「土佐藩の奉行職野中兼山は吾南平野の灌漑と水運のため弘岡用水と新川川の水路の開発に1648(慶安元)年より5年の歳月を費やして完成した。
唐音の切抜は新川川と浦戸湾を結ぶ水路として開発されたもので長さ50間(90m)高さ15間 5尺(27m)幅7間(12m)に及ぶ大工事であった。





この切抜の開通により仁淀川流域と高知城下町とが内陸水路によって結ばれ産業は発展した。兼山苦心の遺跡である。春野町教育委員会  昭和63年3月建之」とあった。
開削工法は里芋の茎(ずいき)を干した物を岩盤の上で燃やして、その熱で岩盤に亀裂を入れては、金槌と石ノミで割る、このプロセスを繰り返す気の遠くなるような作業であったよう。
記念石碑の対面、新川川(長浜川)に門扉が設けられている。高潮対策のためのようだ。西に進むと道は急に1車線、昔ながらの道となっていた。唐戸の切抜を境に行政区域は高知市長浜から高知市春野町に変わる。
唐音
唐音の由来は「勾配の緩やかな切り通しの道「空峠」の転訛。同地名が各地にある。兼山ゆかりの春野治水の旧跡が 「唐音」」と『土佐地名往来』にあった。
亀割
切抜辺りの地図をみていると、切抜南の丘陵の南に亀割といった地名が見える。『土佐地名往来』には、「地検帳には亀ハリ。"川目"は網の目の水路、開墾を ハリ(墾リ)。川目墾りが「亀割」と転訛」とある。灌漑水路と結果生まれた新田開発の名残を示す面白い地名だ。

一つ橋
唐戸の切抜を抜けると北から下る「内の谷川」に架かる「一の橋」を渡る。橋の西詰に角柱が立ち、「三界萬霊」と刻まれる。
橋の下流は新川川。この地で新川川と内の谷川が合流(鉢合わせ?)する。当日は北から流れる内の谷川の一部が唐戸の切抜を抜けて新川川(長浜川)に流れ、残りが下流の新川川へと流れるのだろうなどと思っていたのだが、上述新川川のメモの如く、新川川(甲殿川)が土佐湾に注ぐ手前(西戸原)で人工水路を開削し北上、この地で内の谷川を合わせて唐戸の切抜へと流れているようだ。




新川川
内の谷川
前もって分かっていれば当日、この一の橋あたりの水の流れをチェックしたのであろうが、こんなことがわかったのはメモをはじめてから。常の如く後の祭りである。
それにしても、仁淀川支流筋であった川筋(甲殿川)を浚渫し(たのであろう)、人工水路である新川川を落とし新川川水路の本流となった甲殿川が土佐湾に注ぐ手前(西戸原)からこの地へと水を通すということは、高きから低きに流れる水ゆえの勾配、内の谷川の水が下流にながれることなく新川川に「含まれ」唐戸に向かう「仕組み」なと気になることが多い。
もっとも、現在でも新川川が往昔と同じ機能を果たしているということが大前提。そのあたりのことも気になるが、これも後の祭り(国土交通省の「新川川水系河川整備」の資料には、「唐戸で内の谷川が新川川に合流し」浦戸へ注ぐ、とあるから、現在の新川川・内の谷川の流れも浦戸湾へと流れているようにも読める。。。)

丘陵鞍部で右に逸れる
県道278号は左折し南下するが遍路道は直進し、前面に見える独立丘陵へと向かう。遍路道に入る道のガードレルには種間寺を指す歩き遍路のタグがある。
ビニールハウスの並ぶ田圃の中を一直線に進み丘陵山裾で2車線の車道に合流。正面の春野保育園の壁面には「種間寺4.4km」左折の案内。指示に従い左折し山裾の道を進むとほどなく丘陵鞍部へのゆるやかな上りとなる。
上り切った辺りに右に逸れる道があり、新しい遍路標石と供に「遍路タグ」が右折を告げる。2車線の車道を離れ右折し丘陵裾の道を辿る。
丘陵の地質
Google Earthで
この辺りの丘陵は烏帽子山地から南に突き出した支尾根といったもの。長浜地区は長浜丘陵と呼んだが、この辺りも長浜丘陵なのだろうか。烏帽子山地を走る仏像構造線を境に北の秩父帯と画した四万十帯の地質からなるのだろう。
秩父帯は中生代中頃(中生代ジュラ紀)、四万十帯は中生代後半(中生代白亜期)から新生代前半頃(新生代古第三期)の地層とのこと。はるかはるか昔の頃であり、とりあえず四万十帯は秩父帯より新しく、砂岩・泥岩からなるといった程度を理解しておくことにする。
ただし、丘陵を取り巻く低地は新生代第四期の河川平野堆積物の岩質。仁淀川により形成された沖積地が四万十帯の岩質の上に被さっているのだろうか。門外漢ゆえ不明。
真偽のほどは別にしても、秩父帯とか四万十帯と言われてもピンとこないのだが、実際に歩いてみると、地溝帯を画する仏像構造線を境に、南に新しい層(四万十帯)、北にそれより古い地層(秩父帯)、秩父帯の北の御荷鉾構造線を境に、さらに古い地層三波川変成帯といった、いままで頭に入らなかった地層、構造線のことがちょっとわかったような気になった。

標石が続く
丘陵南裾の道を少し進むと民家脇に出る。そこで一筋南から来た道と合流するが、その角に標石が立つ。ちょっと傾いた板状標石にには手印と共に、「三十四番 へんろ道 大正九年」といった文字が読める。
手印に従い西進し弧を描き南に向かう。T字路を越え三差路角に2基の標石。少し大きき角柱標石には手印と共に「種間寺 橋迄十五丁  雪蹊寺」といった文字が読める。もう一基の板状標石には手印と共に「へんろ道 明治廿六」といった文字が刻まれる。

甲殿川・諸木井水路橋
諸木井を越える遍路道
諸木井の水路橋
道なりに進み、前面に見える烏帽子山地の支尾根丘陵裾に出る。丘陵手前の芳原川に架かる高田橋を渡ると県道278号に出る。と、すぐ下流、県道278号に架かる橋(落山橋)の南に水路橋が架かる。これってなんだ?
チェックすると、この水路は新川川と同じく野中兼山が開削した仁淀川東岸に開削した人工水路・諸木井筋であった。



諸木井
『春野町誌』より

水路をトレースする。仁淀川の八田堰から取水し、開削水路・井岡井を南下、行当の切抜を越え現在の井岡井筋分岐公園で南下する新川川筋と分かれ東進。国道56号を越え、そのまま県道36号を東進し。久万で県道278号交差。水路はここで流路を南に向きを変え、県道278号に沿って下り、新川川の水を合わせた甲殿川と北山川が合流する辺りで東に向きを変え、大用川に架かる中筋橋を水路橋で渡り、中筋地区の先で丘陵部を切抜で通し丘陵西側山裾を県道278号に沿って当地に至る。
なおこの先の流路は、同じく県道278号に沿って進み、東諸木の丘陵南裾を進み禰宜谷(「地検帳にもネキカ谷・ネキヤシキ。禰宜=神官に給 された田が由来。禰宜の原意は「祈ぐ・労ぐ (ネ)」で労う(土佐地名往来)」)で新川川に合流し、浦戸に向かうようである。
『春野町誌』に掲載されていた用水路をみると、仁淀川東岸だけでも新川川、諸木井すじだけでなくいくつもの開削水路が記されていた。春野が「墾る野」たる所以である。

西諸木の標石
遍路道は県道をクロスし、諸木井の水路を渡り、丘陵裾への道に入る。道は直ぐ丘陵部を離れ西諸木を南下。道が少し左にカーブする手前に2基の自然石の標石。少し小さな標石には「右 へん**」、もう一基は左右を指す手印が見える。
さらにその先に3基の地蔵が佇む小堂脇に標石。「へんろ道 種間寺右へ二十丁二十間 昭和六年」といった文字が刻まれる。
諸木
「白鳳地震で海に没した黒田郡。深井戸を掘ると大き な木材が出土するそれら諸々の木々が埋まった土地 から諸木」と『土佐地名往来』は云う。
黒田郡は実際の郡名には登場せず、「地震のために陥没したる面は、東の方、室戸岬より、西の方、足摺岬にわたる、黒田郡と称する一円の田島にして(『土佐大震記(作者年代不詳)』)」などと大よそ土佐の一円を指しているようだ。

新川川に架かる新川川橋
直ぐ先、新川川に架かる新川川橋の東詰、道の左手に自然石に刻まれた大きな石仏、その前に小さな舟形地蔵、道路改修記念碑などが並び、椅子も置かれた休憩所ともなっている。 少し休憩し新川川に架かる新川川を渡る。
新川川・甲殿川?
橋には新川川とある。Google Mapには甲殿川とある。地図をトレースすると人工的に開削された新川川が広岡下で北から下る流れに合流するが、その上流部はGoogle Mapでは甲殿川となっている。以下は妄想であるが、仁淀川から浦戸へと抜いた人工水路の総称が新川川。途中、人工的に開削するだけでなく、既にあった仁淀川の支線(往時、流路定まることはなかっただろうから)を浚渫し新川川水路として活用したのが甲殿川。人工水路新川川の水を落とした甲殿川は新川川水路の本流となたため、新川川ともまた本来の流れである甲殿川とも呼ばれるのではないかと思う。


第三十四番札所 種間寺に

新川川橋をわたり、県道279号まで進み、県道を右折し西進する。右手には独立丘陵、左手には高森山(標高143m)を主峰とする妙見山脈の支尾根丘陵が見える。県道は南北の丘陵の間を進む。支尾根丘陵の間には発達した侵食谷が奥へと入り込む。
丘陵の間を抜けると道の左手に第三十四番札所 種間寺の寺標石。左に折れて境内に進む。

本日のメモはここまで。次回は種間寺から三十五番清滝寺、三十六番青龍寺へと向かう。



30番札所善楽寺から31番札所竹林寺へ向かう。ルートは大きくかけてふたつある。ひとつは善楽寺から南下し五台山を目指し山腹にある竹林寺を目指すもの。おおよそ7キロ、といったところだろうか。もうひとつは高知城下を経由し竹林寺を目指すもの。おおよそ10キロほど。
『四国遍路道指南』を書いた真念や『四国辺路日記』の著者である澄禅は城下町を廻り竹林寺に向かっているが、多くの遍路は厳しい遍路政策をとる土佐藩の番所での詮議を避け、直接五台山に向かったとの記事もある。真念にしても城下町の中核である城近くの武家区域(郭中)に入ることはできず、現在のはりまや町あたり、かつての下町(しもまち)に宿をとったとのことである。
で、今回の遍路歩きは城下町経由を選んだ。その理由は真念や澄禅の辿った道といったことではなく、高知平野の地形に惹かれたゆえのことである。
国土地理院・高知地形概念図

先回の散歩で物部川流域の広大な扇状地に地形フリークのわが身にフックがかかり高知平野のことをあれこれチェックした。
今回歩く高知市街は物部川の大扇状地を含めた広義の高知平野ではなく、狭義の高知平野を指す。その地の特徴は国分川、久万川、鏡川などの河川により形成された低湿地、三角州のデルタ地帯である。何故にこのような湿地帯に城下町を普請したのか、実際に歩けばなにかにフックがかかり、普請のプロセス、低湿地ゆえの治水対策などにアテンションが向くのではと思った次第。
それともうひとつ、高知平野を囲む地形が面白い。北は四国山地の北端の細藪山地が走り、南の海岸線にも四国山地と並行して山地が東西に走り、その間に高知平野が嵌っている。どのようにしてこのような地形ができたのだろう。あれこれチェックすると、高知平野は地質学的には地溝性盆地状沖積低地と称されるようである。地溝とは両側の断層崖間にある低地のことで、高知平野は断層間が陥没し低地となったようだ。
Google mapで作成
国土地理院の地質図でチェックすると、高知平野北端部の細藪山地には東西に御荷鉾(みかぶ)構造線が走り、南の太平洋岸に東西に連なる山地には仏像構造線が走る。この構造線に沿ってプレートの沈み込みが起き、その時に形成された断層の間が陥没したのが高知平野であろうか。通常仏像構造線とに御荷鉾(みかぶ)構造線の間は秩父帯と呼ばれる中世代の地層が挟まれているのだが、高知平野は五台山など一部の小山が中生代の地層を残す以外、低湿地の高知平野は形成時期は新生代の河川平野堆積物の岩質となっていた。陥没した中世代の秩父層の上に、川によって運ばれてきた泥や砂礫が積み上がり、現状新生代の地層となっているのだろうか。
門外漢の妄想であり大いなる誤認の恐れあるも、自分としてはこれでよし、とし高知平野を取り巻く地質・地形などを思い描きながら散歩を始めることにする。



本日の散歩;土佐神社参道口・県道384号角の標石>掛川神社>久万川に架かる比島橋を渡る>比島の茂兵衛道標>江ノ口川の山田橋を渡る>はりまや町(かつての下町区域)を南下>はりまや町1丁目交差点>北光社移民団出航の地>松ヶ鼻番所>青柳橋
五台山竹林寺への遍路道
土径遍路道に入る>独鈷水分岐点>伊達兵部宗勝の墓>車道をクロスした先に遍路道案内>五台山展望台公園に出る>竹林寺西門(裏門)に下る>第三十一番札所竹林寺
竹林寺から五台山を下りる>徳右衛門道標>貞亨元年法華經塔>南吸江の茂兵衛道標

土佐神社参道口・県道384号角の標石
第30番札所善楽寺横の土佐神社の長い参道を歩き、県道384号との合流点に。土佐神社参道口交差点西北角の電柱脇に標石。「三十一 左へんろ 昭和六年」と刻まれる。
この遍路標識はこの交差点を南下し、第三十一番札所竹林寺を目指す最短コース。今回は、高知平野の地形の面白さに惹かれ、真念も歩いたと言う高知の城下町経由の遍路道を歩く。今は埋め立てられ何らかの痕跡もなかろうとは思うのだが、国分川、久万川、鏡川の形成した三角州に立地する高知市街の雰囲気を感じたい、との思いからである。

五台山竹林寺への直進コース
旧城下を廻ることなく直接竹林寺を目指すお遍路さんも多いと聞く。一応ルートのみをメモしておく(マップにもプロットしておく)。
土佐神社参道口交差点を標石に従い県道251号を南下>一宮東小学校を左に見遣り土讃線土佐一宮駅前で県道249号に合流>県道249号を少し東に向かい、県道を右に折れ土讃線の踏み切路を越え田圃の中の道を進み国分川へ>国分川に架かる錦功橋を渡り更に南下>舟入川に架かる新木橋を渡る>新木橋を渡ると直ぐ、県道195号を右折し西進>とさでん交通御免線の文殊通駅手前を左折(文殊通駅の駅名は竹林寺本尊文殊菩薩より)>南下し大規模農業用水池・絶海(たるみ)池に架かる大島橋を渡る>橋を渡って最初のT字路左折>高須大島集落の標石を右折(その少し東にも遍路道右折指示の案内がある)>案内に従い山麓に取り付き牧野植物園を経て竹林寺へ

掛川神社
県道384号を南西に進む。県道44号高知北環状線を越えた先で久万川大橋へと向かう県道384号を離れ、県道249号に乗り換え土讃線北側に沿って直進。薊野(あぞの)駅を越えた先、道の右手に掛川神社がある。
遠州掛川5万石の藩主であった山内一豊が関ヶ原の合戦での功により土佐20万石の藩主に封 ぜられた。この社は二代目藩主忠義が掛川より勧請したもの。
案内には「掛川神社 江戸時代の寛永十八年(一六四一)、第二代土佐藩主山内忠義が、その産土神であった牛頭天王を遠州掛川 (静岡県)から勧請して、高知城東北の鬼門守護神として建立したのがはじめである。
以来、代々藩主から特別の崇敬を受けていた。明治元年(一八六八)現社に改称した。 合祭神社→龍宮神社、海津見神社は、現境内地付近に鎮祭の古社で、何れも明治三十二年(一八九九) 合祭した。
東照神社は延宝八年(一六八〇)、四代藩主豊昌が徳川家康の位牌殿を設けたのが始まりで、文化十一年(一八一四)には、十二代藩主豊資が境内に社殿を築造し、東照大権現と称していたが、 明治元年東照神社と改称、明治十三年(一八八〇) 合祭した。祭神が徳川家康であることから、県下の神社では唯一、社殿の軒下や手水鉢に徳川家の家紋、三つ葉葵がつけられている。
社宝として、国の重要文化財に指定されている「糸巻太刀 銘国時」(山内忠義奉納)、「錦包太刀 銘康光」(山内豊策奉納)がある。いずれも、現在東京国立博物館に寄託されている。
飛地境内社として椿神社・秋葉神社がある。 高知市教育員会」とあった。
江戸の頃、澄禅もこの社に詣でており、その著『四国遍路日記』に「(観音院)・ 夫与西ノ方ニ一里斗往テ小山在、美麗ヲ尽シタル社也。是ハ太守、天正ノ昔、遠州懸川ノ城主夕リシ時ノ氏神ヲ、当国ニ勧請セラレタリ、天王ニテ御座ト云ウ」と記す。
江戸の頃、牛頭天王と称していた社が明治に改名しているところが結構多い。一説には天王>天皇の連想から不敬に当たるとしての対処とも言われる。
国清寺
神社参道左手にお寺さま。牛頭天王の別当寺であった国清寺。案内には「陽貴山見龍院国清寺は、元和三年(一六一七)比島の龍乗院の開基でもある日讃和尚の開基で、寛永一八年(一六四一)牛頭天王宮 (現掛川神社) の別当寺となった。
二代快彦・三代快充・四代黙堂と次々に高僧が出て、藩主の帰依を得、上級武士や学者文人などとの交流が深かったといわれる。
もとは天台宗で、徳川将軍家の菩提寺である上野寛永寺門主支配の寺であった。慶安四年(一六五一)には三重の塔、続いて護摩堂が建立されるなど、藩主山内家の尊崇が篤かったが、明治 維新後の廃仏毀釈によって廃寺となった。
この廃寺に、明治四年(一八七一)四月から六年五月まで、明治政府によるキリシタン弾圧のため土佐に預けられた、長崎県浦上の信徒と家族九十人前後の人たちが、赤岡と江ノ口の牢舎から移されて生活していた。
明治一三年(一八八〇)、京都相国寺の独園大禅師が参禅道場を開き、退耕庵と名付けた。二代実禅大禅師も参禅を広め、門下の坂本則美・中山秀雄・弘田正郎らの協力を得て再興し、寺号 も旧に復して国清寺となった。臨済宗相国寺派に属する禅寺で、本尊は釈迦如来である。 高知市救向要員会」とあった。
〇明治政府のキリシタン弾圧
幕末、キリシタン禁止政策のもと、隠れキリシタン弾圧を受けた長崎の浦上村は「浦上四番崩れ」と世にいう4度目の弾圧により、一村全体、およそ3000名(3400名とも)が捕縛・拷問を受ける。幕府崩壊後もその政策を受け継いだ明治政府は村民すべてを流罪とし、流罪先は21藩に及んだ。ここ高知では当初赤岡(香南市)と江ノ口(高知市街)の牢舎に停め置かれたが、その後廃寺となっていた国清寺に移された。
キリシタン禁制が廃止されたのは明治6年(1873)。不平等条約改正のため欧州に赴いた遣欧使節団一行が、キリシタン弾圧が条約改正の障害となっていると判断し、その旨本国に打電通達し廃止となった。
獄中は劣悪な状態であり、おおよそ三分の一が帰らぬ人となったとのことである。

久万川に架かる比島橋を渡る
掛川神社を離れ、県道44号をクロスした県道249号は久万川に架かる比島橋を渡る。比島は「山の形がひ;箕のこと)に似ている島の意味(「土佐地名往来」より)。箕は穀物の餞別に使われていた農具だろうと思うのだが、それを裏返した形に似ていたということだろうか。とまれ、往昔湿地に浮かんだ島の痕跡は今はない。
久万川
国分川水系の川。東から西へ、物部川の発達した扇状地に阻まれ高知市内に注ぐ国分川とは真逆、高知市の北の細藪山地にその源を発し西から東へと流れ浦戸湾河口部で国分川に合流する。 現在は陸地化されているが、かつて高知平野を流れた久万川は氾濫平野であり、河口部は三角州であったわけで、とすれば両河川の浦戸湾への注ぎ口は現在より上流点であったろうし、であれば往昔は国分川と久万川は合流することもなく浦戸湾に注いでいたようにも思う。
それが国分川水系とされるのは?水系の定義である分水界を同じくする、を元にチェック。国分川と久万川の共通点は、東を土佐山田台地で物部川との分水界を画し、北は細藪山地が吉野川水系との分水界となり、西も南に突き出した細藪山地により鏡川と分水界を画している。要は北と西は細藪山地、東は土佐山田台地によって囲まれた流域であるということだ。
この定義にもとり、両河川は同一水系と考えてもよさそうだ。国分川水系とされたのは国分川も久万川も共に2級河川であるが、その流路距離や流路面積が一見して国分川が圧しているためだろうか。
国分川
国分川は、その源を高知県香美市土佐山田町 と平山 の甫喜 ケ峰 (標高 611m)に発し、領石川 、 笠 ノ川川等の支川を併せながら香長平野を南西に流れた後、下流部において久万川、江ノ口川 、舟入川等の支川を合わせ、浦戸湾に注ぐ。

比島の茂兵衛道標(100度目)
比島橋を渡った県道249号は西進し、すぐ南下するのだが、遍路道は西に折れることなく直進し、ゆるやかなカーブの道を進む。途中道の右手の古き趣のお屋敷端に「久保添家伝薬発売元」と刻まれた石碑が立つ。旧家には「クボゾエ外科科胃腸科」の看板がかかっていた。「*家伝来」は 家業意識の高さを示すもの。かつて家業として薬を販売していたのだろう。
その直ぐ先、道の右手に茂兵衛道標。手印と共に「安楽寺 左 高智 左国分寺 明治二十壱年」といった文字が刻まれる。茂兵衛100度目巡礼時のもの。
安楽寺は明治の神仏分離令に際し、廃寺となった善楽寺に替わり明治8年(1875年)に札所となったお寺さま。当地より南西5.5kmの所に建つ。
安楽寺
土讃線高知駅の西、千年の昔、辺り一帯が海であった名残を地名に残す洞ヶ島町に建つ寺院。Wikipediaには「高知県高知市にある真言宗豊山派の仏教寺院。山号は妙色山(みょうしきざん)。 妙色山 金性院 安楽寺と号する。
伝承によれば、延喜年間(901年-923年)、菅原道真の長子である菅原高視が配流先の土佐国潮江で菅原道真逝去の知らせを受け、筑紫にある道真の菩提寺の安楽寺にちなんで、当地に安楽寺と潮江天満宮とを建立したという。寺は当初の潮江から升形を経て久万に移転した(潮江、升形、久万はいずれも現・高知市内)。(中略)その後、12坊を有する大寺院となったが応仁の乱(1467年-1477年)の兵火を受けて焼失し衰退。(中略)明治時代初頭の廃仏毀釈の影響でついに廃寺となったが、明治8年(1875年)に、長宗我部氏の菩提寺であった旧瑞応院跡に再興された」。
廃寺となった善楽寺は昭和5年(1930年)に埼玉県与野町(現さいたま市中央区)にあった東明院を現在地に移転し、また国分寺に預けられていた弘法大師像を移し、本尊は有縁の江戸期作の阿弥陀如来坐像を迎えて30番札所東明院善楽寺として再興した。
そのため、30番札所が2箇所並立することになり、30番札所の正統性について善楽寺と安楽寺の間で論争が起こった。
昭和39年(1964年)四国開創1150年を機に両寺代表が協議し、善楽寺を「開創霊場」、安楽寺を「本尊奉安霊場」と称することになるも混乱は続いたが、平成6年(1994年)1月1日、札所は善楽寺、安楽寺は奥の院とすることで最終決着した」とある。

江ノ口川の山田橋を渡る
次の遍路道の目安は江ノ口川に架かる山田橋。真念はその著『四国遍路道指南』に「過ぎてひしま橋、次に丸山有。かうち城下入口に橋あり。山田橋という。次番所有、往来手形改。もし町に泊まる時は、番所より庄屋にさしづにて、やどをかる」と記す。
茂兵衛道標の立つ旧路を進み県道249号に復帰、南下し土讃線の踏切を渡ると江ノ口川。県道に架かる橋は平成橋。山田橋はそのひとつ上流に架かっていた。
この橋は伊予の川之江に出る北山越え、室戸岬東岸の甲浦に出る野根山越えの起点。橋の南詰めは少し広くなっているが、そこが真念の記す城下三番所のひとつ山田橋番所の跡だろうか。 山田橋の由来は長曾我部氏が城下町を建設するにあたり、土佐山田の人が移り住んだ故と言う。
江ノ口川
この川も久万川と同じく細藪山地西端近くの山裾(高知市口細山辺り)に源を発し、西から東へと流れ高知城の直ぐ北を経由して更に東進し国分川に合わさり浦戸湾に注ぐ。この川も久万川同様に国分川水系である。
江ノ口川はその流路故に、江戸時代の早い段階から浦戸湾と城下を結ぶ運河として利用され、高知城北側、江ノ口川に面する北曲輪は城に物資を運び込むための重要な場所であったとみられる。
江ノ口川の名前の由来は、現在の高知駅、入明駅周辺にあった江ノ口村に由来するようだ。

高知城

「カルポート(後述)前公園石碑にあった城下町図」より
真念が山田橋を「かうち城入口」と言うように、この地から1キロ強西に高知城がある。遍路道から周少し逸れるし、愛媛に育った者として折に触れ高知城は訪れているので今回はパス。 とはいうものの、今回の歩き遍路の過程で高知城が国分川、久万川、鏡川などの河川が織りなすかつての氾濫平野、三角州に立地することに初めて気づいた。で、そんなデルタ地帯に城下町を造った経緯とその後の治水施策をちょっと整理しておこうと思う。
元は大高坂山城
高知城は北は久万川、南は鏡川、東は国分川に囲まれた氾濫平野、三角州からなる低湿地帯のほぼ中央、標高44mほどの大高坂山に築かれている。大高坂山に城が築かれた、といっても砦といったののではあろうが、その初出は南北朝の頃、南朝方についた大高坂松王丸の居城であったとされるが、北朝方の細川氏に敗れ廃城となった。
長曾我部氏の城普請
戦国時代に入り、四国統一を目前に秀吉に敗れた長曾我部元親は、秀吉の命により居城を岡豊城からこの地に移すことになった。
デルタ地帯の水はけの悪さに加え、度重なる洪水被害に城普請は難渋を極め、城を本山氏の城塞のあった浦戸に移し浦戸城を整備したとの記事もある。が、地図で見る限りその地で本格的城普請が行われたとは考にくい。浦戸湾口に西から東に突き出た狭い岬に家臣団の住む城下町は考えられない。使われた瓦も安普請であり,浦戸城は朝鮮出兵に際しての出城であったとする説に納得感がある。事実、朝鮮出兵中も大高坂山城の整備が続けられていたとの説もある。
山内氏の城普請
長曾我部氏は関ヶ原の合戦で西軍に与し改易。山内一豊が土佐一国を与えられ掛川城から転封し、浦戸城に入るも、大高坂山を居城と定め城普請を始める。築城に際し、織田信秀の家臣として西軍に与し蟄居処分となっていた百々綱家(どど-つないえ)の登用を幕府に願い出でる。
百々綱家は元は浅井家の家臣であり、近江坂本の石工集団「穴太衆」との繋がりが強く、石垣普請の名手と称されていたようだ。幕府の許しを得た山内氏は6千石で百々氏を召しかかえ、総奉行に任じ、築城と城下町整備の全権を委ね、大高坂山に本丸の造営と、城下町の整備のために鏡川・江ノ口川など川の治水工事に着手した。石垣は浦戸城のものを流用したという。
慶長8年(1603年)1月、本丸と二ノ丸の石垣が完成。旧暦8月には本丸が完成し、一豊は9月26日(旧暦8月21日)に入城した。この際、城の名を河中山城(こうちやまじょう)と改名された。 普請開始は慶長6年(1601)9月といった記事もあるのでおよそ2年の工期。人足として山内家臣団も加わったという。
慶長15年(1610年)、度重なる水害を被ったことで2代目藩主忠義は河中の表記を変更を命じ、竹林寺の僧の助言を受け高智山城と改名した。この時より後に省略されて高知城と呼ばれるようになり、都市名も高知と呼称されるようになった。
慶長16年(1611年)、難関であった三ノ丸が竣工し、高知城の縄張りが全て完成した。


高知城下を護る治水対策
「高知の藩政期の水防災対策の再評価平成 25 年自然災害フォーラム論文,2013」

香川大学の資料にあった「高知の藩政期の水防対策の再評価平成25年自然災害フォーラム論文,2013」ラム論文,2013」の図およびその記事をもとにまとめると、 高知城下を洪水から防ぐ施策は大きくふたつのタイプに分類されるようだ。ひとつは城下の北から浦戸湾に流れ込む河川への治水事業。久万川、国分川、舟入川がこれにあたる。もうひとつは城下町の南を流れる鏡川の対策である。


国分川、舟入川、久万川の治水対策
資料図を見ると国分川や舟入川には霞堤とか水越(越流堤)が目につく。これらの堤は洪水を防ぐというより、洪水時には水が堤防を越ることをあらかじめ想定し、その下流を水没させ、中堤(水張堤)により一帯を遊水池とすることを目する。河川上流部を水没されることにより河口部の洪水を抑制し、城下町を護るといった治水施策をとっているようだ。国分川水系の洪水をそのまま河口部まで流すと鏡川などの城下町を流れる川の水位が上がり、逆流現象が起き水が城下に流れ込むのを防ぐこととも意図しているのではないだろうか。
久万川には洪水を防ぐ中堤(水張堤)が見られる。支流からの洪水が久万川に流れ込み久万川の水位が上がるのを防いでいるのだろうか。
洪水に対しては防ぐというよりは、堤防を越水させて遊水池となし、洪水が一挙に流下するのを抑え、それにより下流域の被害を少なく抑える「伊奈流」関東流と呼ばれる越流堤の治水施策は埼玉の見沼などで出合った。
■鏡川の治水対策
参考図には堤などは無いが、香川大学の記事によれば鏡川の城下町に対する治水対策は極めてシンプルである。洪水になれば鏡川右岸(南側)の堤が決壊し(いざとなれば人為的にでも「切る」)、鏡川の南一帯を水没させることにより、北側の城下町を洪水から防ぐ、というもの。
記事には寛文 1 年(1661 年)から安政4 年(1857 年)の約 200 年間に 17 回、鏡川南岸の潮江堤防の決壊記録が残っている。一方、鏡川北岸の堤防決壊の記録はない。記事には「城下町を守るため、潮江の堤防を鏡川左岸堤防なみに強く高く築くことをせず、城下側堤防よりも低く強度もいくらか弱めに築いていたと推察することができる」と記す。事実、鏡川北岸には下述の上町あたりから「大堤防」、郭中から下町にかけては「郭中堤防」が築かれているが。南岸にはこれといって名前のついた堤防は見当たらなかった。
城下町の水防体制
上町(家臣と商人・職人)・郭中(城と重臣)・下町(家臣と商人・職人)からなる城下町を12の区画に分け、水帳場と呼ばれる受け持ち区画には標柱が立っていたとある。高知市鷹匠町(柳原橋西)に残る標柱の案内には「この石柱は、江戸時代、鏡川流域の洪水による災害を防ぐために設けられた受け持ちの区域(丁場)の境界を示す標柱です。
西は、上町の観音堂より、東は喉場に至る鏡川沿いの堤防に、この丁場を示す標柱が建てられ、出水時には武士、町人らが協力して、十二に分かれた丁場を十二の組が出動して水防にあたりました。各組の長は家老があたり、その下に組頭がおり、組を率いていました。水丁場には、目盛りをつけた標本も建てられており、これで増水状態を確認しながら、その程度に応じて、出勤の人数を決めていたといわれています。他に同様の標柱が、上町二丁目・上町五丁目にのこっています」とある。標柱には「従是西六丁場、従是東七ノ丁場」 と刻まれる。
上町上流端に中堤(水張堤)、上町と郭中の間には升形堤防と呼ばれる中堤(水張堤)、郭中と上町の間にも中堤(水張堤)、さらにその東、下町の下流端にも比島中堤、宝永堤といった中堤(水張堤)が築かれ城下町への浸水に対処しているようである。

はりまや町(かつての下町区域)を南下
山田橋がフックに、高知城へ、さらには江ノ口川、国分川に挟まれた低湿地・デルタ地帯に城普請をした高知城のあれこれの寄り道が長くなった。遍路道に戻る。
山田橋を渡った遍路道は城下町を南下する。現在は西の国道32号から東の県道249号、北を江ノ口川、南を国道56号に囲まれた一帯が「はりまや町」となっているが、江戸時代の城下町の図(寛文七年(1667))から見ると、藩政重臣が住む「郭中」区域の少し東、「下町(しもまち)」区域を下っているようであり、町名も北から山田町、蓮池町、新市町、材木町、種﨑町と続き、東端の県道249号の辺りには新堀川、南の国道56号あたりには堀川の流れが見える。
新堀川と堀川
「高知城下町読本 土佐史談会編 明治初期
新堀川は江ノ口川と鏡川を結び高知城の東の外堀としての機能をもっていたようだ。現在ははりまや小学校の南辺りから、国道56号あたりまでが開渠となっている。
堀川は城下と浦戸湾を繋ぐ船運の水路。寛文七年(1667)の図(後述する「松ヶ鼻番所」の地図を参考にしてください)では新堀川が堀川に合流する地元では東が閉ざされ、南の鏡川筋に向かって水路が伸びるが、貞享4年(1687)には両水路合流点の東側も開削され、堀川をとおして城下と浦戸湾が一直線につながった。「高知城下町読本 土佐史談会編 明治初期」には開削され新堀川合流点から南東に延びる堀川の水路が描かれている。
横堀川と新堀川
新堀川や堀川のことをチェックしていると、江ノ口川と鏡川を南北に結んだ堀川を横堀川とし、寛文七年(1667)の図に、堀川の北、現在のはりまや小学校南辺りから「新堀川」に繋がる堀を「新堀」とする記事があり少々混乱。
チェックすると現在の新堀川は藩政期初期に開削された堀川。郭中から東西に流れる堀川を縦堀と呼ぶゆえに、南北に流れ縦川に交差する堀川を横堀(川)とした。新堀(川)は性格には上述、材木町(現在のはりまや小学校南)に東西に開削し横堀(川)に繋いだ水路。が、どのような経緯か、現在では横(川)を新堀(川)と呼ぶようになっていた。
〇城下町の縦と横
竪川(縦川)と横川って普通に考えると南北にはしるのが縦川、東西に走るのが横川って気がするけど、江戸の街歩きで同じケースに出合ったことがある。江戸の下町を東西に通るのが竪川(たてかわ)、南北に通る水路が横十間川などとあった。縦か横かはお城からみての縦横ということのようであった。

はりまや橋
高知といえば「はりまや橋」でしょう。、というわけでちょっとメモ。「はりまや橋」」は何処かとチェック。現在はりまや町域が広くなっているが、江戸期のはりまや町は郭中と下町の境の少し東、現在の国道32号と56号が交差する辺り。国道32号と56号のはりまや交差点の一筋北に朱に塗られた「はりまや橋」が造られ、下に水路が整備されていた。
元のはりまや橋は堀川に架かり、堀の南北に建つ高知の豪商である播磨屋と櫃屋(ひつや)の本店の往来の為に架けられた私設の橋であったようだ。
よさこい秘話
はりまや橋を有名にしたお話は、先回27番札所神峯寺を下りた山裾、安田の地にその案内があった。簪を買ってもらったお馬さんが騒動の後に働いた旅籠のあった地である。そこにあった案内をコピー&ペーストする。
「土佐の高知のはりまや橋で坊さん かんざし買うをみた
ヨサコイヨサコイ
よさこい節に登場する坊さんかんざし騒動の主人公お馬さんが、ここ安田、東谷の旅籠「坂本屋」で働いていた。幕末の土佐に、恋の自由を求めて奔放した 「よさこい、かんざし騒動」は、維新の志士達より早く自由精神を実践した。
由来
五台山、竹林寺の学僧、百余名を預る指導僧の純信と五台山麓、鋳掛屋の娘、お馬との恋の「かけおち」のため純信がお馬に花かんざしを買い求めたもので、安政元年(一八五四)の大地震の直後の翌二年、五月十九日の夕刻、純信、お馬と土佐山田出身の道先案内として安右衛門の三人で、物部村から国抜けし、讃岐の金比羅、百段目の旅籠「高知屋」で捕えられ、高知の山田町奉行所で取調べられた。
この時の奉行は、ここ安田に生まれ育った儒学者、岡本寧浦の門下生である松岡毅軒であった。 この取調べの際、松岡奉行が「なぜ年が二〇も違う親の様な人と好きで逃げたのか」との問いに、お馬は平然として「好きになったら、年の差などどうでもよい。」と答えたと毅軒は後世に書き残している。
やがて裁きが終り、お馬は安芸川以東へ追放、この安田・東谷の神峯登り口、旅籠「坂本屋」で奉公をする身になった。
一方、純信は仁淀川以西へ追放となったが、自らの意志で国外追放を願い、伊予国、川之江の 塩屋の三軒屋炒娚石の亀吉の世話により、学問一筋の家柄、井川家の私塾の教授となって、子弟の教育に専念する。
一方、お馬は、ここ坂本屋で奉公中、突然、追放先の変更を受けた。理由は、純信がお馬を連れもどしに来たとのことであった。
事実不明のままお馬は、今度は高岡郡、須崎池ノ内の百姓に、預けられ、のちに土地の大工と 世帯を持ち、二男二女をもうけた。
当時の坂本屋
安田の神峯は、よさこい節の一節にも登場している。
思うてかなわにや 願かけなはれ 流行る安田の神峯」
当時、安田の神峯は「流行る安田の神峯」と歌われたように、近郷近在の信仰と遊びの中心であった。神峯寺の前札所の発心庵(現在廃寺)がここ東谷集落の岡にあり参拝客相手の大きな料亭旅館がひしめき、繁華な場所であった。美人のお馬は大人気であっただろうと、想像される。
その後の「お馬」
お馬の子供達もそれぞれ成長し、明治一八年(一八八五)お馬夫婦は、長男の住む東京小石川に引越し、更に明治二一年(一八八八)に「二男の家で余生を送り、お馬は煙草屋の店先で店番をしていたという。東京都北区豊島で明治六年(一九〇三)六五歳で病没し、北区の西福寺で出かに眠っている。(お馬さんの眠る西福寺の写真)」

はりまや町1丁目交差点
山田橋より旧城下町の下町地区を南に下り県道249号が国道32号に合流する「はりまや町1丁目交差点」に。かつて北の江ノ口川と南の鏡川を繋ぐ横堀川(現在の新堀川)と郭中から下町を抜き浦戸湾へと東西に通じる堀川がクロスしていたところ。現在両堀の交差するところは暗渠となり、かつての面影は交差点北の新堀川の一部と暗渠となった交差点から東南に延びる堀川に残るのみ。
木屋橋跡
交差点北側には「木屋橋」の橋柱。北に新堀川の水路が見えるが、南は高知市の市民文化センター・かるぽーと(カルチャーとポートの合わせ技での命名)の敷地となり橋柱は残らない。
かるぽーと前の公園にあった石碑案内には、「江戸時代、城下町の外堀に架橋された。当時の呼称は菜園場橋。明治以降は橋のたもとにあった豪商木屋の名で呼ばれた。電車通りの拡張により大きく姿を変えている。橋長15m」とあった。
幡多倉橋跡
橋の名残は何もないのだが、かるぽーと前公園石碑に「幡多倉橋」の案内。「1687(貞享4年)菜園場農人町間の掘割が開通、掘割が交差した。この後掘割交差西側に架橋された。
周辺設備のため姿を消した橋は全長15.9m,幅員7.4m」とある。
菜園場橋跡
公園石碑に「1930(昭和5年)、九反田中央卸売市場開設の年、掘割交差東側に架橋された。現在では珍しいトラスト橋であった」とある。
納屋堀橋跡
公園にある橋に関する石碑を見て居いると、掘割の交差点を「四ツ橋」とある。であれば、交差部に四つの橋があったはず。木屋橋の石碑の平成10年(1998)の写真があり、掘割交差部南に納屋堀橋の名があった。納屋堀橋の南は既に埋め立てられているが、その他の橋は水路と共に残って見える。四ツ橋が覆われたのはそれほど昔のことではなかった。

北光社移民団出航の地
遍路道は四ツ橋の交差点から堀川に沿って浦戸湾に向かう。堀川北岸は農人町、堀川の南は九反田。ほどなく、道の右手に「北光社移民団出航の地」の案内。「北光社移民団出航の地 北海道北見開拓への経緯
北光社は、明治三十年(一、八九七年)、北海道北見(当時のクンネップ原野)に新天地を開く ため、坂本直寛、沢本楠弥、前田駒次ら高知県の有志によって組織され、この地の向い側にある高瀬屋(当時、旅館)に開拓移住民の募集事務所を開設し、応募者を集めた。
移民団の第一陣となった百十二戸は、明治三十年(一、八九七年)三月、この岸壁より船に乗り、 須崎港で再編成した後、関門海峡を通って日本海に出て北上し、はるばる小樽港へと向った。それから引きつづき北進し、宗谷岬を迂回して網走港に入港し、ここから今の北見市へと、移住の第一歩をしるした。
これらの人たちは、この人跡未踏の原野で想像を絶する苦闘に耐えて開発の成果をあげ、今の北見市発展の基礎を築いたのである。 昭和六十一年四月二十七日 高知市 高知ライオンズクラブ 高知市・北見市姉妹都市提携委員会」とあった。
農人町
北光社移民団出航の地の案内の直ぐ東に農人町の案内。
「高知城下町名今昔 旧農人町 
寛永二年(一六二五)、藩が城下の東外側の下知村に外輪堤を築き、堤内の耕地を御手先農民に耕作させ、長屋を貸与して住まわせたことに由来する町名。その後、元禄十一年(一六九八)には鉄砲方足軽が鉄砲町から移住してきた。
町の東端には、城下三番所の一つの三ッ頭番所と船着場があり、堤に松並木があったことから松ケ鼻とも呼ばれた」と。
御手先農民って?他の記事に「藩主の御手先農民」といった記述がある。藩主直属の農民ってこと?

松ヶ鼻番所
道を進み国道56号が鏡川を鏡川大橋で渡る少し手前、道の右手に「松ヶ鼻番所」の案内。「松ヶ鼻番所は、高知城下三番所の一つです。松ヶ鼻は、堀川沿いに植えられていた松並木の突端に位置していたので、この地名がつきました。また、堀川・鏡川・潮水(浦戸湾)の水が交わることから、三ッ頭とも呼ばれました。こうした地理的条件であることから、藩政時代から水上交通の要衝として栄えました。
東は物部川流域、西は仁淀川流域の産物が野中兼山によって整備された用水路網によって浦戸湾に集められ、さらにここ松ヶ鼻を通って城下町の七町方面まで運ばれました。ここに置かれた番所は、主にこうした水上交通を取り締まるためのもので、明治期以降は水上警察署も置かれました。また、浦戸湾内を走る巡航船も付近で発着し、松ヶ鼻は高知の海の表玄関として賑わいました。
城下町を読みこんだ「高知廻り歌」も、「高知松ヶ鼻・番所を西へ行く...」という歌い出しで歌い継がれてきました。
安政2年(1855)、駆け落ちしながらも捕らえられた純真とお馬がここでさらしの刑に処せられたときには、多くの見物人が集まったと伝えられています。
鏡川大橋の通りを東に渡った界隈は、幕末から明治にかけて開発され、明治期以降は有名な料亭が建ち並び、大いに賑わいました。明治44年(1911)には土佐電気鉄道株式会社の電車路線が新たに整備されたほどでした。
このように、河川や堀割を中心に水の都として発展してきた高知城下町の表玄関であった松ヶ鼻界隈も、現在では鏡川大橋に代表される大きな道路が通る地区として賑わっています。
近辺の史跡
① 北光社移民団出航の地 北海道北見クンネップの開拓団
②開成館跡 幕末の藩近代化の中枢機関」とあった。

七町
高知城下の二十五町」の中で「唐人町、掛川町、弘岡町、種崎町、浦戸町、蓮池町、朝倉町を築城頃からある古町として他の町とは別に「七町」と称される。城下町の地図を見ると、すべて下町、郭中に近い現在のはりまや町の中に見える。
開成館跡
「東九反田公園にある。慶応2(1866)年、土佐藩が殖産・富強を目的に設置した技術教育機関。維新後は、接客所となり、明治4(1871)年には西郷・木戸・大久保ら、政府の重鎮が来訪し、板垣・福岡らとの会談を行っている」と高知市のHPにある。ゲストハウスは現在取り壊され更地になっているようだ。
「城下町高知の成り立ち」案内図と説明
番所案内の傍に高知の城下町を案内した地図と説明があった。上述城下町に関するあれこれのメモ作成に際しては結構この図が助けになった。説明はダブルところもあるが、おさらいを兼ねて掲載しておく。
「この地図は、高知城を中心とした藩政時代の城下町と現在の高知市を重ね合わせています。 高知城の築城開始とともに、本格的な城下町の建設が慶長6年(1601)から始められ、お城を中心とした武家の住む郭中は、南の鏡川と北の江ノロ川との間、東は堀詰(地図の新京橋付近)、西は升形までの区域に設定されました。
町人街は、郭中を挟んで東西に設けられました。郭中の西側には武家の奉公人が多く住んでいたので、北奉公人町・南奉公人町などの町名が見られ、東側のはりまや橋界隈には、移住者の出身地を示す掛川町・堺町・京町や、商工業者の職業名をとった細工町・紺屋町などがありました。 また、地図のように、ほとんどの街区は現在よりも藩政時代のほうが大きく、その中央には水路が流れているところも多くありました。城下町には、この水路で区切られた細長い町が数多くつくられました。
歴史の道沿いには、藩政時代の名残があちこちに顔をのぞかせています。皆さんも街並みをよく観察してみてください」と解説されていた。

青柳橋
青柳橋(Google mapで作成)
堀川北岸の遍路道を進み久万川や江ノ口川、そして舟入川の水を集めた国分川に架かる青柳橋に至る。真念もこのルートを辿ったようで、『四国遍路道指南』には「さゑんば橋、過ぎて農人まち、町はずれをミつがしらという。これよりつゝミ、ひだりハ田也。右は入うミ、行きてたるミの渡」と記す。
現在は松ヶ鼻番所のあった三ッ頭より東へ、国分川の手前まで堀川の堤が伸びるが、松ヶ鼻番所にあった「寛永7年高知絵図(1667)」では、番所のある三ッ頭辺りで堀川の堤が切れ鏡川と合わさり浦戸湾との汽水域となっている。ひだりは田とは三角州を埋め立てた新田が広がっていたのだろうか。
絶海(たるみ
絶海池(Google mapで作成)
で、たるミの渡だが、明治初期に青柳橋が架かる前は国分川に橋が架かる前は、このたるみの渡しで対岸に渡っていたのだろう。が、国分川西岸に「たるみ」の地が見つからない。と、ふと札所善楽寺から竹林寺へと城下町を経ることなく南下する遍路道のメモで、竹林寺のある五台山の北にある農業用ため池が絶海池であり、地名が高須絶海であることを思い出した。この絶海は「たるみ」と読む。この絶海(たるみ)に渡る故の「たるみの渡し」ではあろう。『土佐地名往来』にも、「古くは"垂水"。タルミはハラミ・孕と対の地名ともいう。にちなんで字を充てる」とあった。
吸江寺絶海とは竹林寺のある五台山西麓の名刹吸江寺(ぎゅうこうじ)」ゆかりの名僧絶海中津のこと。絶海中津は「ぜっかい ちゅうしん」と読む。絶海(ぜっかい)を「たるみ」に充てたと所以など興味を惹かれるのだが、城下町のメモで結構寄り道し、これではいつまでたっても竹林寺に辿りつけない。ここは一旦、音の転化であろう、ということにして、ちょっと思考停止としておく。
絶海中津
絶海 中津(ぜっかい ちゅうしん、建武元年11月13日(1334年12月9日)- 応永12年4月5日(1405年5月3日))は、南北朝時代から室町時代前期にかけての臨済宗の禅僧・漢詩人。道号は絶海のほかに要関、堅子、蕉堅道人など多数ある。中津は諱。義堂周信と共に「五山文学の双璧」と併称されてきたが、20世紀後半から義堂より詩風の高さを評価され、五山文学ひいては中世文芸史の頂点を為すと論じられている。 南北朝時代を代表する禅僧夢窓疎石の弟子として疎石ゆかりの吸江庵を再興した。」


五台山竹林寺への遍路道

五台山竹林寺参道口
青柳橋を渡ると青柳橋東詰に五台山に上る自動車道。竹林寺への五台山西麓からの自動車参道口でもある。参道口に寺標石。「四国丗壱番霊場五台山竹林寺参道 昭和十一年四月吉日 参道完成記念」とある。この時は、この道が古くからの表参道で、その道が自動車参道となったのだろうと思っていたのだが、どうも違ったようだ。が、それは後になってわかったことであり、当日はこの参道を上った。
吸江十景
参道口の少し北、国分川に面した五台山山裾に吸江十景の案内。
「吸江十景について
「心あらん人に見せばや 吸江の 岸の向ひの 夕べあけぼの」
夢窓国師
群鳥静かに碧波に浮かぶ吸江湾みはるかす浦戸の入江、玉島を望むこの地に文保二年(一三一八)夢窓国師(疎石)は鎌倉幕府の執権、北条高時の母覚海夫人の招請をさけて土佐に来国した。 そして、五台山に吸江庵を開創して住んだが夢窓はこの地の景観を愛し、「見国領、独鈷水、白鷺洲、粋適庵、呑海亭、雨華巌、泊舶岸、玄夫島、潮音洞、磨甎」の吸江十景を選んだと伝えられている。
高知県立美術館蔵

しかし長い歳月の間に取り壊されたりその場所の面影がまったく変わったがため判定に困難な所もあるが、古来文人墨客が来遊し、詩歌、絵画の作品が残されており、中でも河田小龍の吸江 図志によりその場所をここに記した。
1.見国領 2 独鈷水 3.白鷺洲 4. 粋適庵 5. 呑海亭 6. 雨華巌 7. 岩船岸 8.玄夫島 9.潮音洞 10. 磨就堂」とあった。
青柳橋と新青柳橋の間が吸江湾と記あり、五台山西麓の吸江寺を含めた一帯に10の名所跡が記されていた。

土径遍路道に入る
車道を進みとすぐヘアピンカーブ。ヘアピンカーブ、道の右手に立つ「農民の友 山崎豊吉翁」の等身大像。元参議院議員。この像の直ぐ先に「伊達兵部墓、独鈷水」と書かれた案内と車道を逸れる石段がある。石段下に標石があり、手印と共に「近道上り 三十一番十丁」と刻まれる。
遍路道は石段を上り、敷石の旧道を進むことになる。


兼山神社
石段上り口の直ぐ先、道の右手に鳥居があり兼山神社とある。野中兼山を祀るのであろうとちょっと立ち寄り。境内敷地の石碑には、野中兼山を徳とするある修養団が建てたものとあった。石碑の日付も昭和46年(1971)、昭和58年(1983)とありそれほど古いものではないようだ。
吸江病院
兼山神社はそれとして、かつてこの地には高知では初めての西洋医学病院である吸江病院が建っていたようだ。明治3年(1870)、土佐藩最後の藩主、第十六代山内豊範が建てたもの。高給で外国人医師を招き治療にあたった。木造ではあるが明治初期を代表する西洋建築の様式を取り入れられており、その白堊巍然として偉觀を呈した建物は、明治7年(1874)頃にこの地から移された後、病院をへて明治17年(1884)から大正6年(1917)までは高知県庁の建物の一部として使われたそうである。

独鈷水分岐点
数分歩くと「独鈷水」への分岐点に至る。遍路歩きの各所で出合う弘法水。地図をチェックすろと、分岐点のある標高30mあたりから等高線に沿って五台山西麓を廻り、緩やかに高度を上げて標高60m地点までおよそ250ほど歩くことになる。ちょと立ち寄り。
少し歩くと木々に遮られていた浦戸湾が現れる。更にその先、道の下にパゴダの尖塔が見える。名刹吸江寺の境内に建てられた戦没者供養の塔と言う。独鈷水までに吸江寺へ下りる道でもあれば寄ってみようと思ったのだが、それらしき案内はなかった。

厳島神社・独鈷水
ほどなく、道の山側に木に書かれた、かろうじて読める厳島神社・独鈷水の案内。注意していなければ見落としてしまう。実際私も見落としだいぶ先まで行ってしまった。
案内のある箇所から道を離れ山道を10mほど上ると厳島神社の鳥居と、その先に厳島神社の小社、そして独鈷水が流れ出す、というか浸み出す岩があった。
寺伝弘仁6年(815)、空海が竹林寺を訪れた際、投げた独鈷杵で大岩が割れ、水が湧き出した、とか。周囲には細いパイプがひきまわされているが、山裾の集落の生活用水となっているのだろうか。
吸江寺
独鈷水への道下にに吸江寺のパゴダ

Wikipediaには「文保2年(1318年)、夢窓疎石が北条高時の母・覚海尼による鎌倉への招請から逃れるために四国に渡り、土佐国の五台山の山麓に結んだ草庵を起源とする。夢窓が草庵の前に広がる浦戸湾を「吸江」と命名したことで、草庵は吸江庵と称するようになった。
夢窓が足利尊氏の政治顧問に就いたこともあって、室町幕府の厚い庇護の下に隆盛し、海南の名刹と呼ばれた。室町時代には長宗我部氏が代々当寺の寺別当を務めた。江戸時代は、土佐藩主山内一豊の命を受けた義子の湘南宗化により中興され、このとき寺号を吸江寺と改めて現在に至っている」とある。 疎石の去った吸江庵には五山文学を代表する絶海中津、義堂周信といった高僧が法灯を継いだ。

伊達兵部宗勝の墓
独鈷水から遍路道まで戻り、幅広の石の敷かれた石段を上ると道の左に「伊達兵部宗勝墓」と刻まれた石碑が立つ。傍の案内には「独眼龍政宗で著名な仙台藩主伊達政宗の実子。歌舞伎の「先代萩」や山本周五郎著『樅の木は残った」に重要人物の一人として登場する伊達兵部宗勝の墓である。
彼は一の関3万石の城主で、三代藩主綱宗の実子亀千代の後見人となり藩政を補佐していたが、 側近の原田甲斐が刃傷事件をおこしたので、その責任を負って寛文11年(1671)に山内家預けとなり、延宝7年(1679)11月4日58歳で病死した。 平成2年3月 高知市教育委員会」とあった。 山本周五郎著『樅の木は残った」では藩内におけるお家騒動というより、幕府による仙台藩取り潰しから藩を守る中心として原田甲斐が描かれ、宗勝は藩を壟断する人物として描かれていたように思う。伊達騒動についてはいろんな解釈があるようだ。
お墓は基本撮らないことにしているので写真はなし。途次、浦戸湾が時に顔を出す。

車道をクロスした先に遍路道案内
石段を上ると車道参道に出る。車道を越えた道の反対側に木標が立つ。遍路道案内かと思ったのだが「至展望台」とあった。さてどうしよう。取り敢えず展望台への道を進んでみる。と、ほどなく道の右手に遍路道案内が立っていた。遍路案内に従い展望台への道を右に逸れ土径に入る。

五台山展望台公園に出る
土径を道なりに進むと何だか公園というか、崖面を岩や植物で整備したような場所に出る。五台山展望台下の椿園の辺りのようだ。遍路道といった雰囲気ではない。整備された区域とその南を通る木々の間にそれらしき道はないかと探すが見つからず、結局椿公園から五台山展望台前の公園を抜けて、その先にある公園駐車場傍に出た。前面にNHKの電波塔が立ち、その敷地に繋がったかたちで竹林寺の塀が南に続いていた。

竹林寺西門(裏門)に下る
竹林寺塀の北端、NHKとの境に「(左方を指す矢印 山頂 (右下方向を指す矢印) 本尊 知恵の文殊菩薩 五台山竹林寺」の案内があり下りの石段がある。石段の下り口に2基の標石。大型の標石には右手を指す手印と共に「三十一番 二丁 京都 田中亀吉 森藤輿三郎」と刻まれ、もう1基の標石には「三十一番 後藤」といった文字が刻まれる。
標石案内に従い石段を下りると竹林寺西門(裏門)に出る。


遍路道再考
遍路道の車道合流点
結果オーライで竹林寺まで来たのだが、途中の椿園の中を辿る道はどう考えても遍路道とは思えない。また竹林寺塀傍に標石2基があったので、そこは遍路道筋には間違いないのだろうが、それは五台山北麓を上りいくつかに分かれる遍路道案内のようにも思う。
で、あれこれチェックしていると、展望台下にある椿園の整備された公園の手前で右に逸れ車道に出るルートが国土地理院の山地図に描かれる。そのルートが車道に合流した地点をGoogle Street Viewで見ると、車道に出る土径があり、車道合流点には丁石らしき標石も見える。
青柳橋東詰めからの遍路道としては展望台に向かうことなく、伊達兵部宗勝の墓を越え車道をクロスし遍路道案内に従い右に逸れる土径に入った後、更に右に逸れる道に乗り換え再び車道に出て、そのまま車道を進み竹林寺西門に向かうルートがオンコースではないのだろうかと思う。

第三十一番札所竹林寺

西門から入ることなくとりあえず表門から境内に入るべく、車道を辿り土産物屋のある表門前の広場に出る。東側には牧野植物園温室が建ち、その脇を北に上ると牧野植物園に至る。植物園方面から下りてくるお遍路さんが多い。車参拝の駐車場も植物園の駐車場と共有しているようだ。

札所巡礼者は土産物屋前から石段を上る。山門手前、右側に鐘楼、虚空蔵菩薩堂、さらにその奥に本坊があり本坊に合わさって客殿と書院、その前面に伝夢想疎石作の庭園が広がる。
書院
江戸時代後期・文化13年(1816年)建立、玄関は切妻造り、車寄せは唐破風造り、主屋は入母屋造り。藩主参詣の際の接待殿として造営された。




五重塔
五重塔戻って仁王門を潜り境内に入ると左手高台に五重塔が見える。昭和55年(1980)再建されたもの。石段を上ると左手に大師堂、右手に本堂が建つ。
大師堂
寛永21年(1644)藩主山内忠義によって建立されたもの。
本堂
まことに美しい風情。入母屋造、柿(こけら)葺き。細部には禅宗様建築の意匠が用いられている。建立年代は室町時代と推定されている。重要文化財指定。


船岡堂
本堂と大師堂の間を抜け西門に向かう。五智如来像にお参りし先に進むと船岡堂。明治の廃仏毀釈により荒廃した寺を再興した明治・大正期の住職である船岡芳信師を祀る。師はこの地で生きながら入定した。船岡堂を先に進むと竹林寺西門に出る。





竹林寺(ちくりんじ)は、高知県高知市五台山にある真言宗智山派の寺院。本尊は文殊菩薩。京都の切戸文殊、奈良の安倍文殊とともに日本三文殊の一つに数えられる。四国霊場のうち文殊菩薩を本尊とするのは本寺だけである。
寺伝によれば、神亀元年(724年)に聖武天皇が唐の五台山で文殊菩薩に拝する夢を見た。天皇は行基に五台山に似た山を捜すように命じたところ、この地が霊地であると感得し栴檀の木に文殊菩薩像を刻み、山上に堂宇を建立して安置したという。その後、大同年間(806 - 810年)に空海(弘法大師)が滞在、瑜伽行法を修法し、荒廃した堂塔を修復したと伝えられる。
実際の創建年代等について不詳である。中世以降は武家の信仰も厚く寺運も隆盛し、1318年(文保2年)には臨済宗の僧夢窓疎石もこの寺に滞在している。その後、寛永年間(1624年 ? 1644年)空鏡によって再興された。江戸時代には土佐国における真言宗の触頭を勤める寺院のひとつであった。また、本尊の文殊菩薩の出開帳を江戸や大坂で行っている。
本尊文殊菩薩
渡海文殊(竹林寺HP)より

本尊文殊菩薩座像(高さ六センチ)は宝物殿の四眷属とともに一組をなしたもので、獅子にまたがった「騎獅子文殊」 であり、唐代の様式を伝える我が國最古の文殊菩薩像とされている。慈覚大師円仁が承和五年(838)に入唐の際に中国五台山よりもち帰ったものと同形とされ、後に「渡海文殊」とも呼ばれるようになった。
渡海文殊とは、騎獅の文殊が四眷属を従えて雲に乗り水上を進む像姿を言う。









竹林寺から五台山を下りる

下山口
参拝を終え、第三十二番禅師峰寺へと五台山を下りる。遍路道は仁王門石段を下りたところ、土産物屋の西側から下る石段がある。これが下山道だろうと石段を下りる。

徳右衛門道標
急な石段道を下ると直ぐ左手に標石が立つ。梵字と大師座像が刻まれた典型的な徳右衛門道標。「是ヨリ峯寺迄一里半」と刻まれる。この標石のところで左に下る石段もあり、禅師峰寺への案内もあったようなのだが、その時は全く気にすることなくそのまま石段をまっすぐ下る。



貞亨元年法華經塔
道を5,6分下ると右手少し高い所に石塔が立つ。道脇の案内には、「貞亨元年法華經塔 貞享元年(1004)、柏島法蓮寺の僧日教が建立。宿毛市、東洋町甲浦にも同形同大の経塔が存在する。方柱状の身部に笠を置き、上に宝珠を載せるもので題目式許と呼ばれる。総高2.98m、
石質は砂岩。身部正面に題目一尊を刻し、四面に経塔建立の願文、
法経経の功徳、塔下に法華経を経函に入れ収納していることを刻す。日蓮四百遠忌直感を意識して建立したものであろう。 平成2年3月 高知市教育委員会」とあった。

「土佐遍路道 竹林寺道・禅師峰道 高知市教育員会」に拠れば、柏島は現在の幡多郡大槻町栢島。この高知の最西端(南端とも)いえるところの寺僧が3基もの石塔を建てたのは、幡多郡が土佐における日蓮宗布教はじまりの地であることもさることながら、この栢島が船運の要衝の地として栄え、経済力があったからでは、とする。
また土佐入国・出国の地・交通の要衝である東洋町甲浦、宿毛市市山、そして土佐中央部の竹林寺に経塔を建立したのは土佐の人だけでなく、お遍路さんへの日蓮宗の布教を目したのでは、とも記す。実際、建立時期は、年間3万とも4万名とも言われる四国遍路のもっとも多い時期であるとする。
なおまた土佐藩主が土佐転封以前より日蓮宗要法寺を菩提寺とし、土佐転封に際しては、寺を土佐に移している。こういったことも真言宗の名刹参道に日蓮宗の法華塔が立つ所以だろうか。もっとも、法華経はすべての経典の中心となるとされるわけで、その観点からいえばそれほど特異なことではないのかもしれない。

南吸江の茂兵衛道標(100度目)
法華教塔から10分ほど下ると南吸江の集落に出る。下山口の石段東側に茂兵衛道標が立つ。手印と共に「五臺山伽藍」と刻まれる。道標には「右 高野寺 安楽寺」の文字も刻まれる。高野寺は高知市内にある四国遍路別格霊場、また安楽寺は廃仏毀釈で廃寺となった善楽寺にかわって明治8年(1875年)に30番札所となったお寺様。明治21年(1888)。茂兵衛100度目巡礼時のもの。


遍路道再考
五台山の遍路道
当日はこれで高知の城下町経由の竹林寺遍路道のトレースは終わったと思っていたのだが、メモの段階で上述貞亨元年法華經塔のところでメモした「土佐遍路道 竹林寺道・禅師峰道 高知市教育員会」を読んでいると、タイトルの如く竹林寺道・禅師峰道の案内があり、そのルートは当日辿った竹林寺への上り・下り道とは異なる案内が記されていた。
城下町経由の遍路道は国分川に架かる青柳橋まではおなじなのだが、上りの表参道は竹林寺道とされ、それは今下りてきた参道道。下りは禅師峰道と称し、下田川に面した坂本へと下るとする。
同レポートによると、国分川を渡った遍路道はそのまま国分川に沿って五台山西の山裾の道を進み吸江寺前を通り上述茂兵衛道標の建つ参道口に至る。同レポートではこの参道口から竹林寺に上る道を竹林寺道とし、竹林寺を打った後は、これも前述下山時に参道脇に立っていた徳右衛門道標のところから左に逸れ、石段道を下途中車道参道をクロスしながら坂本の集落に下りる。この禅師峰道と称する遍路道の下山地点、坂本小学校の東には茂兵衛道標が立ち、遍路道は茂兵衛道標を左に折れて下田川に沿って先に進む、とあった。
遍路道に特段の決まりはないわけで、どのルートを辿ってもいいわけだけど、国土地理院の山地図には竹林寺からの下山道として禅師峰道が描かれている。前述の如く、当日は青柳橋東詰から上る遍路道が竹林寺への表参道かと思っていたのだが、ひょっとするとレポートにある竹林寺道が往昔の城下町から竹林寺に上る表参道であり、そして禅師峰道が五台山を下るメーンルートかとも思い直し、とりあえず同レポートにあったルートを確認する;
徳右衛門道標の分岐点
当日は気づかなかった、というか気にしなかったのだろうが、確かに徳右衛門道標から左に下る石段があり、「禅師寺道」の案内もある。




車道クロス地点
国土地理院の山地図にある実線ルートが車道参道と交差する箇所をGoogle Street Viewで確認すると車道の両側に車道とクロスする土径が見える。
その先、車道を離れた遍路道をGoogle Street Viewでは確認できなきが、Google Mapには下山道らしき筋が透明の帯として山裾に下り、坂本小学校東側の道と繋がっていた。この道筋が禅師峰道だろう。 
坂本の茂兵衛道標(185度目)
坂本小学校東の道が下田川に沿って進む県道32号に合わさる地点、坂本小学校東南端に鉄骨で補強された標石が見える。茂兵衛道標だろう。
東面には手印と共に「五臺山 京都三条通東洞院西へ入 施主中井三郎兵衛」、北面には「峰寺 為中井氏先祖代々菩提」、南面には「左 高知 壱百八十五度目為供養 周防国大島郡椋野村在 発願人 中司茂兵衛義教」、西面には「明治三十四年 見わたせハ罪もき?ルリ法の道」と添歌も刻まれている、と。
中井三郎
中井三郎氏が施主となった茂兵衛道標には86番志度寺から87番長尾寺ねの途次で出合った。そこにあった案内には「(願主茂兵衛の説明に続き)施主は京都三条通東洞院西入の中井三郎兵衛とその妻ツタである。明治三三年三月にここに建てた道標は、中井氏先祖代々供養のためとして、長尾寺と志度寺の道しるべとなっている。 中井氏と中務氏が組んで建てた道標は、明治二四年に高知市坂本に、明治三年に徳島県平等寺の近くに、明治三四年に愛媛県新宮村に建てられている。四国の四県に各一基ということになるが、いずれも、二か寺を案内する道標になっている。
中井三郎兵衛氏は、京都府会議員で、観光都市京都の発展に貢献した実業家である」とあった。
添歌
添歌が刻まれたも茂兵衛道標も、遍路歩きの途次、時に目にする。現在比定されているも茂兵衛道標263基ほどの道標のうち、37基に句歌が刻まれる、と。 句歌は臼杵陶庵の作。本名臼杵宗太郎。明治9年、12歳で第七十六番札所金蔵寺に入寺。以来俳句を学び、茂兵衛とは巡礼時に金蔵寺納経所にて知己を得、後に茂兵衛建立の道標に句を添えた。
26番札所金剛頂寺から27番札所神峯寺への途次、不動岩の茂兵衛道標には「迷う身越教へ天通す法の道」の添歌と大正七年九月吉辰」の文字が刻まれていた。

今回のメモはこれでお終い。次回は茂兵衛道標の立つ坂本から次の札所へのメモから始める。



今回は28番札所からおおよそ9キロ歩き29番札所国分寺へ、そしてそこから更に7キロほど歩き30番札所善楽寺へとおおよそ16キロほどの行程。市域は大日寺のある香南市から物部川を渡り、ほんの一瞬香美市の南端部をかすめた後南国市に入り国分寺へ。国分寺からはゆるやかな逢坂峠を越えて高知市域に入り第30番札所善楽寺に至る。
地形は大日寺の建つ野市台地を離れ物部川を渡るとそこは広大な扇状地。かつては川床が低く水利に恵まれなかった荒れ地を江戸の頃、野中兼山の施策により物部川から取水した水路が開削され新田となった平坦な道を進み国分川に当たる。その辺り一帯は土佐山田台地を物部川との分水界として流れてきた国分川によって形成された氾濫平地が広がり、そこに国分寺が建つ。 国分寺から善楽寺への道は、国分川により形成された三角州を抜け細藪山地と平地の境に建つ善楽寺へ。善楽寺の前面は国分川、久万川、さらには鏡川の合作による複合三角州に高知の市街が見える。紀貫之が書いた『土佐日記』の頃、西暦930年から934年の頃、現在高知市街となっている三角州の大部分は海面下にあったようであり、その陸地化には藩政時代の埋め立てによるところが多いとされる。
本日の散歩はおおむね広義の土佐平野、土佐平野の東部に広がる香長(かちょう)平野、かつての香美郡(かつての香美郡のうち、香美平野は香美市の大部分)と長岡郡域(南国市の大部分・高知市と香美市の一部)を歩くことになる。


本日のルート;
第28番札所大日寺から第29番札所国分寺へ■
大日寺旧参道口に自然石標石>烏川に架かる佐古川橋を渡る>>上井(うわゆ)川>高天原・霊験地蔵>物部川を渡り香美市に入る>右折点に標石>自然石標石>松本集落に標石2基>真念道標>松本大師堂>南国市に入ると左折標石>旧国道195号・土讃線手前に標石>茂兵衛道標>バス停へんろ石>国分川を渡り標石を左折>第二十九番札所国分寺
>総社
 ■国分寺周辺
県道45号右折点に自然石標石>国司館跡(紀貫之郎跡)>比江廃寺塔跡>国丁跡
第29番札所国分寺から第30番善楽寺へ
寺より南進し田圃の中で右折>農道T字路を左折し南下>国分川手前を右折し西進>国道32号を潜り笠ノ川川を渡る>岡豊山裾の道に入る>水路に沿って進む>高知市域に入り逢坂峠へと上る>逢坂峠への先で県道384号を逸れる>県道384号をクロスし善楽寺へ>第三十番札所 善楽寺>土佐神社


第二十八番札所大日寺から第二十九番札所国分寺へ

大日寺旧参道口に自然石標石
大日寺を離れ次の札所二十九番国分寺に向かう。距離はおおよそ9キロ。旧参道の石段を下り県道22号に出るとると自然石の標石。手印と共に「右へん路道 二十八番大日寺」と刻まれる。 歩道参道の北には昭和39年(1964)に開かれた車道参道。参道口には自然石に刻んだ大きな碑。「四国霊場開場千百五十年記念 四国第廿八番大日寺参道 昭和三十九年二月新設」と刻まれる。

烏川に架かる佐古川橋を渡る
県道を渡ると、徒歩参道対面の少し左手に遍路道の案内石碑。案内に従い烏川に架かる佐古川橋南詰に出る。
橋を渡った遍路道は北西へと進む。地名は野市町母代寺。先に進むと野市町父養寺で県道237号に当たる。
遍路道は県道237号をクロスし直進、民家の間の細路を西進する。
母代寺・父養寺
なんだかいわくありげな地名。チェックすると貞観8年(866年)応天門の変に連座して土佐に流された紀夏井ゆかりの地であった。父養寺、母代寺という地名は、夏井が父母を弔うために建てた寺があったことがその由来。母代寺には県の史跡紀夏井住居跡が残るとのこと。
紀夏井(きのなつい)
平安時代前期の官人。善岑の子。廉直な国司として有名。書を小野篁 (たかむら) に学ぶ。天安2 (858) 年右中弁から讃岐守に任じられる。善政をしいたため,人民の要請により2年間留任。貞観7 (865) 年肥後守となったが,応天門の変で異母弟豊城の罪に縁坐,土佐に流された。
土佐国へ護送中、肥後国の百姓等は父母を失うがごとく嘆き夏井の肥後国外への移送を拒もうとしたり、讃岐国の百姓等は讃岐国内から土佐国の境まで夏井に付き随い別れを惜しんだという。中央・地方を問わず人望のあった夏井の失脚は、武内宿禰以来の名家である紀氏の政界における没落を決定的なものとした。この事件の後、同氏は宗教界や歌壇において活躍する氏族となっていく。
数年後母が死去したが、夏井は草堂を建立して亡骸を安置し、母が生きているときと同じように朝晩の礼を欠かさなかった。以前から仏教への信仰心は篤かったが、3年間の喪が明けるまで毎日、この草堂の前で大般若心経50巻を唱えたという。その後の動静は伝わらないが、配所で没したとされる。
夏井が讃岐守の任期を終えて20余年後に、菅原道真が讃岐守として現地に赴任した際、讃岐国の百姓は紀夏井の善政を忘却しておらず、道真は何かと夏井と比較され国政運営で難渋したという(「Wikipedia」、「コトバンク」参照)。

上井(うわゆ)川
民家に挟まれた車一台幅の細路を抜けると川というか水路を渡り物部川の堤防を走る県道234号に出る。県道の眼前には田畑が広がり、その先に物部(ものべ)川が流れる。田畑は県道より5mほど低い。物部川はそれより5mほど低いところを流れる。
田畑の広がる一帯は物部川により流されてきた土砂が堆積された地のように思える。国土地理院の地質図を見ると、物部川東岸だけてなく、西岸も広大な堆積層が広がる。山地の狭隘部から解放された物部川が香美市土佐山田町あたりを扇の要とし、その下流一帯が扇状地といった形状を呈する。
で、県道手前で渡った川というか水路は、物部川により形成された河岸段丘下を流れている。物部川の支流?チェックするとこの水路は野中兼山により開削された上井川と称される用水路であった。
野中兼山の物部川流域の水路開削と新田開発
地図をチェックすると上流、町田橋の辺りで取水されている。往昔町田堰と称された取水堰設けらていたようだ。
この上井川の流れをトレースしていると、少し下流に「三又」とマークされたポイントが地図に掲載されていた。上井川は三又で十善寺溝、町溝、東野溝の三つの大きな溝(用水路)と原田溝、武市溝の小さな用水路に分水されていた。
この用水路の開削は野中兼山の手によるもの。先回のメモで、野市の由来が「野中兼山らの開発により"野原のなかに新しい市町 ができた。土佐の"三野地"の最初が野一、その 転訛野市」と記したように、野中兼山が荒れ地であったのこの地を新田となすべく水路を通したわけだ。就任当時24歳。父の後を継ぎ奉行職としてその任にあたった。

右側が物部川扇状地(Google mapで作成)
兼山の治水事業は物部川東岸だけでなく、物部川西岸の広い堆積地にも及ぶ。町田橋の更に上流、物部川が山地より平地に流れ出す少し下流に設けた山田堰より取水し上井、中井、舟入の流れを開削し新田を開発した(山田堰からは東岸に父養寺溝も開削されている)。 また舟入川は西の大津川と結び物部川と高知の舟運の便に供した。山間部で伐採された木材は山田堰で集積されたようである。
このような水路開削による新田開発の結果、石高24万石とも言われた土佐藩に新たに8万石の増収をもたらしたとのことである。 とはいえ、兼山の普請施策は厳しく、藩内で反発をかい罷免され、山田堰近くに隠棲し、その数カ月後にむなしくなった。因みに、山田堰の完成には25年もかかったと言う。兼山は、その完成をみることはなかったようである。

高天原・霊験地蔵
遍路道は河岸段丘と物部川の堆積地を画する県道234号を逸れ田畑として開墾されている堆積地に下りる。と、物部川の傍に杉や雑木が茂る一角がある。そこにちょっと古い小堂とお堂が建つ。小堂には自然石にも文字が刻まれる。文字ははっきりしない。
大きなお堂は二つ区切られ共に地蔵尊が祀られる。お堂横には「高天原 霊験地蔵 八王山蓮光院」と刻まれた石碑が立つ。地蔵尊由来書によると、天明五年巳(1785)五月に建てられたようだ。 往昔この辺りには戸板の渡しがあり、遍路もこの地から物部川を渡ったと言う。

物部川を渡り香美市に入る
県道に戻り物部川に架かる戸板島橋を渡り物部川西岸に移る。市域は香南市から香美(かみ)市となり、香美市土佐山田町戸板島。
香美市
香美市は平成18年(2006)、香美郡香北町・土佐山田町・物部村が合併してできたもの。

戸板島集落の右折点に標石
戸板島橋を渡った遍路道は西詰で左折し、物部川の堤を走る県道372号の一筋西の道に入り、民家の間を抜け、田圃の中を東西に走る道にあたる。
合流点に少し傾いた標石とその後ろに石造物多数。標石には「右へんろ道」と刻まれる。遍路道はここを右折し、西進する。

立石の自然石標石
西進すると四つ辻に集会所のような建物。その西側に自然石の標石。中央に「へんろ道」、左右に「国分寺」「大日寺」の文字が手印と共に刻まれる。








松本集落に標石2基
更に一直線に西進し、県道31号を越え先に進むと田圃の先に土佐山田町松本の集落が見えてくる。集落入り口の民家生垣の前に少し傾いた標石。風化激しく文字は読めない、さらに道が南に折れる角にも小さな自然石の標石。「左邊路道 明和」といた文字が刻まれる。



真念道標
左折し少し南下すると、道の右手、民家の壁にくっつくように標石が立つ。「右 へん路みち 願主真念 為父母六親」と刻まれた真念道標。正面が側面より幅広い真念道標には珍しいタイプ。 遍路道はこの角を右に折れ、土径を直進する。






松本大師堂
土径を進むと大師堂に出る。お堂の周囲には多くの石造物が並ぶ。近年建て替えられてのだろうか。結構新しい。
大師堂の先で水路を渡る。メモの段階でチェックすると舟入川であった。


舟入川
既述の如く、野中兼山が奉行として物部川西岸に開削した人工水路。物部川の山田堰で取水し、荒れ地であった地を潤し新田となし多くの恵みをもたらした。舟入川葉は新田開発だけでなく、紀貫之が土佐を離れるとき船出した大津で大津川と繋ぎ、物部川と高知城下の舟運に供した、と。 土佐の石高は、江戸初期には20万2千6百石(幕府朱印状石高)とも24万2千石とも言われるが、幕末の廃藩置県前には49万4千石余に達していたと言われる。物部川流域の治水事業だけでも8万石の増収を可能としたと言われるが、兼山は土佐全土で主要河川16か所で堰を築き利水事業をおこなったとのことであるの石高倍増に貢献したのではあろう。

南国市に入ると左折標石
舟入川を越えると直ぐ三差路。市域は香美市を離れ南国市となる。分岐点に「四国のみち」の指導標と2基の標石。上部が破損した標石には「*ん路* 文化五* 国分寺迄三」、もう一基には「左国分寺三十五町 大正五年」といった文字が刻まれる。遍路道は「四国のみち」の案内に従い、左折する。
南国市
北部は四国山地の南端、また南部は高知平野が広がり、太平洋に面して東西約8キロメートルの海岸線を有する。香南市と物部川で市境を画す。野中兼山の新田開発によって作られた舟入川、また国分川が市の中央部を東から西に流れ、高知市で浦戸湾に注いでいる。
奈良時代の天平13年(741年)、この地に国分寺が建立され、前後して土佐国府が置かれ、土佐の中心地となった。戦国時代には長宗我部氏が本拠地として岡豊城を構え、長宗我部元親はここを四国統一の足がかりとした。
江戸時代初期、土佐藩家老として活躍した野中兼山によって新田開発が行われた。新田の中心部に商業圏を作り、その町作りに関わった入植者には年貢・役務を免除(御免)し、やがてこの地の名が「後免」と呼ばれるようになった。
昭和34年(1959)、長岡郡後免町・香長村・野田村・岡豊村・香美郡岩村が合併して発足。その後香美郡山田町の一部を編入し現在の市域をなす(Wikipedia)。

車道左折点に標石
「四国のみち」の指導標に従い道を左折、さらにその先、道なりに右折し北に少し進むと道に車道にあたる。その合流点にも標石。手印と共に明治二十年」といった文字が刻まれる。刻まれた文字ははっきり読むことはできなかった。






旧国道195号・土讃線手前に標石
T字路を左折し南西に直進する道を進む。途中、道の右手に「大将軍」の石額のかかる鳥居が建つ。その南に大将軍神社が鎮座する。名前に惹かれるが由緒不詳。であるが、他の大将軍神社には経津主命・タケミカヅチ命が祀られている。この地の産土神という。
その先、旧国道195号の手前、道の左手のお屋敷西破端のブロック塀前に4基の石造物が並ぶ。 そのうち2基が標石との記事もあるが、はっきりしなかった。

茂兵衛道標
遍路道は国道を横切り直進するが、その先には土讃線が走っており直進はできない。少し北に進み踏切を渡り線路横断地点に戻る。
遍路道は西進。左手に南国市鳶ヶ池中学校を見遣り進むと県道45号に合流。合流地点に茂兵衛道標。「大日寺」、手印と共に「国分寺」、「明治三十一年」といった文字が刻まれる。茂兵衛160度巡礼時のもの。
遍路道はここを右折し、県道45号を北上する。


バス停へんろ石
県道45号を北に進むと現在の国道195号とクロス。国道を横断し更に北に歩くと「へんろ石」バス停。バス停の西側には「へんろいしまんじゅう」の看板がかかる。老舗のおまんじゅう屋さんだ。子供の頃に食べた田舎饅頭のテイスト。
「へんろ石」の由来だが、かつて、と言ってもそんなに昔のことではないのだが、店の直ぐ北の四つ辻、水路に面して茂兵衛道標が立っていた。が、令和2年(2020)初夏に訪れたときは如何なる理由か、道標は撤去されていた。

国分川を渡り標石を左折
国分川に架かる国分橋を渡ると左に折れる道。その角に標石。手印はかすかに見えるが文字は読めない。左折すれば、国分寺までほぼ400メートルである。
国分川
香美市西部の山地にその源を発し、南西に流れ高知市街で浦戸湾に注ぐ、全長21キロjほどの二級河川。上流部では新改川と称される。上流部に休場ダムがあり、平山発電所、新改水力発電所で発電が行われる。
ところで、この新改川は水量が多くなく、??野川水系穴内川に建設された穴内ダムから四国山地を穿ち、その導水路を通して新改川に水を供給している。どうも休場ダムは一種の調整池としての機能を果たしてようである。
甫喜峰(ほきがみね)疏水路
で、導水路のルートをチェックしていると、野中兼山の事績に出合った。穴内ダムから導水路で下流の繁藤ダムに流した水は、繁藤ダム湖より山地を穿つ導水路を通して休場ダムに水を流し、ダムすぐ下流の平山水力発電所、また山地を穿った導水路と通して新改水力発電所に水を供給してている。
と、休場発電所の北に発電所マークがある。チェックするとそこはどうも旧平山水力発電所のようである。明治42年(1909)完成した高知ではじめての水力発電所。発電所がこの地に選ばれたのは既述穴内川の繁藤ダムあたりから国分川に分水する甫喜峰(ほきがみね)疏水路があり、その水を発電に利用しようと計画された。当時の県予算に匹敵するほどの予算規模であったが、県知事宗像政の強い指導力のもと明治39年(1906)工事着工に至り、2年の歳月をかけて完成した。
この甫喜峰(ほきがみね)疏水路は水量が乏しい新改川へ吉野川水系の水を通し、香長平野の灌漑用水を増やすべく野中兼山が指揮をとり開削をはじめたもの。難工事のため藩政時代に完成をみることはなかったが、明治に入り幾度も深刻な水不足に見舞われた住民の訴えにより、明治33年(1900)疏水路の完成をしており、その疏水路を活用できたわけである。
偶然の「出合い」を深堀すればあれこれ面白い話がでてくるものだ。


第二十九番札所国分寺

高知平野の東部、香長平野(旧香美郡と長岡郡)に建つ。境内は白壁の土塀に囲まれる。
山門
南側に山門(仁王門)。「摩尼山」の扁額が架かる。入母屋造楼門、金剛力士(仁王)像が安置される。明暦元年(1655)、土佐藩主山内忠義公の建立とのこと。
この山門は鐘楼と兼用されていた。その梵鐘は創建当時、平安時代前期の作と伝わり、国の重要文化財に指定されている。
山門を潜り境内に入ると右手に現在使われている鐘楼。建立年は不明だが、 寛永11年(1634年)最初の改築が行われたとあるので結構古いものだろう。
開山堂・酒絶地蔵
境内左手には当寺開創と伝わる行基菩薩を祀る開山堂。その脇に酒断地蔵尊を祀る小堂。正面に金堂(本堂)、その左に大師堂が並ぶ。

Wikipediaに拠れば、土佐国分寺(とさ こくぶんじ)は高知県南国市にある真言宗智山派の寺院。摩尼山(まにざん)、宝蔵院(ほうぞういん)と号す。本尊は千手観世音菩薩。国の史跡に指定されている。
聖武天皇が発した「国分寺建立の詔」により全国に建立された国分寺(金光明四天王護国之寺)の一つである。当寺は寺伝によれば天平13年(741年)に行基が千手観世音菩薩を刻み本尊として安置し開創したとされる。
その後弘仁6年(815年)空海(弘法大師)が毘沙門天を刻んで奥の院に安置、また、星供の秘法を修めたことから、当寺は星供の根本道場となり、大師像は「星供大師」と呼ばれている。そして、その頃真言宗の寺院となったという。史実としては、『続日本紀』に天平勝宝8年(756年)、土佐を含む26か国の国分寺に仏具等を下賜したことがみえるため、この年以前には創建されていたとみられる。
国分寺周辺は古代から中世まで土佐国の国府の所在地であり、「土佐日記」の作者紀貫之も国司として4年間当地に滞在した。国府の中心である国庁は国分寺から徒歩15分の位置にあり、かつてその近くにあった土佐国総社は現在当寺境内に移されている。
寺はたびたび兵火に遭ったが、永禄元年(1558年)には長宗我部国親、元親によって金堂が再建。明暦元年(1655年)に土佐藩2代藩主山内忠義が山門を寄進した。大正11年(1922年)に境内全域が国の史跡に指定されている」とある。

柿茸き(こけらぶき)、永禄元年(1558年)建立の金堂(本堂) -は明治37年(1904)、国の重要文化財に指定されている。また本堂に祀られる平安時代中期作 と鎌倉時代作 と伝わる木造薬師如来立像2躰も -共に明治44年(1911)、大正2年(1913)に国の重要文化財に指定されている。

境内の標石
境内には2基の標石。1基は大師堂左の石造物群の中にあり、自然石でつくられ、「これよりみきへへんろみち 元禄二」といった文字が刻まれる。
もう1基は山門を潜って左側に徳右衛門道標が立つ。常と異なり大師坐像が彫られていない。梵字と共に、「右一ノ宮*里半 二十九**」、手印と共に「三十ばん 願主 豫州越智郡朝倉上村  徳右衛門」といった文字が刻まれる。
土佐一ノ宮は第三十番札所善楽寺横にある土佐神社のことだろう。

総社
境内西隣に国分総社神社 。土佐国総社で大型の祠。土佐国21社を国庁所在地に勧請して一社にまとめたもので、当初は国分新町の南にあったが1669年(寛文9年)に移された、とWikipediaにある。
日本の律令制下、国司着任後の最初の仕事は赴任した国内の定められた神社(式内神社)を順に巡って参拝することであったが、手間が大変であり、平安時代になると国府の近くに総社を設け、そこを詣でることで巡回を省くことが制度として認められた。この総社には土佐国21社(安芸郡3、香美郡4、長岡郡5、土佐郡5、吾川郡1、幡多郡3)が勧請された。

国分寺周辺の国府関連史跡

次の札所第三十番善楽寺に向かう前に国分寺周辺の国府関連史跡にちょっと立ち寄り。先ず国司館跡(紀貫之郎跡)に向かう。

県道45号右折点に自然石標石
国分寺から東に県道45号まで戻り北進。500mほど進むと国府小学校。その校庭南西端から道が東に続く。国司館跡(紀貫之郎跡)はここを右折するが、その角、小学校のブロック塀の上に自然石。なんとなく気になりチェックすると、「紀子旧邸、国分寺、比江山親興城址」といったも文字が刻まれ、「東方約三町」などそれぞれの地への方向と距離も示されている。位置からするとこの地より3方向の地を示す標石であろう。
比江山親興
比江山親興は長曾我部元親の従兄弟の城。親興は一門として重きをなす。元親が秀吉の軍門に下った後、天正十六年(1588)、元親の嫡男信親が戸次川の戦いで討ち死。その後継者問題で讒言などもあり元親によって切腹を命ぜらた。比江山氏の断絶により、比江山城も廃城となった。 国分寺の西に長曾我部氏の居城である岡豊城がある。この比江山城は東の備えの城であったのだろう。

国司館跡(紀貫之郎跡)
右折し、道なりに進むと国司館跡(紀貫之郎跡)がある。入り口に「古今集の道」といった案内もあり、一帯が公園風に整備されている。「古今集の道」は30歳の若さで古今和歌集の撰者に任ぜられ王朝屈指の歌人でもあった紀貫之所以の命名だろう。

古今和歌集の道
公園に整備された「古今和歌集の道」には古今集に出てくる植物を歌と対比して掲載している。 「秋の菊 にほふかぎりは かざしてん  花よりさきと 知らぬわが身を 菊 276 紀貫之」。藤袴は「やどりせし ひとの形見か 藤袴 わすられがたき 香ににほひつつ」、また「秋の野の 草の袂か 花すすき穂に出でて招く 袖と見ゆらむ」はすすきを詠む、といった趣向である。

国司館跡(紀貫之郎跡)
公園を南へと進むと国司館跡(紀貫之郎跡)の案内。「奈良天平の時代から比江の地に土佐の国庁が置かれた。貫之は延長八年国司として来任。この地に住居した。地名を内裏(ダイリ)という。
承平四年在満ちて京都へ帰る時の船旅日記「土佐日記」は特に名高く、歌人として第一人者であると共に、国司としても極めて優れく々に敬慕せられた。
ここに建つ碑は天明五年(寛政元年竣工)のものと大正九年及び平成元年建立のものがあり、何れも後人が紀氏の徳を慕いその業績を讃えたもので、また俳人(高浜虚子の句碑もある」とあった。 年号から考えれば紀貫之が国司に任ぜられ土佐に赴いたのは60を過ぎてからのようだ。
比江
「土佐地名往来:には、「国司が都を懐かしんで後山を比叡山に見立て比江山 と名付。山裾に日吉神社(ひえじんじゃ)」とある。
高浜虚子の句碑
案内にあった虚子の句碑は紀貫之郎跡の東角に立つ。「土佐日記 懐にあり散る桜」と刻まれる。虚子は2度土佐を訪れているとのことだが、この句は初回昭和6年(1931)に浦戸湾から土佐入りし、この地を訪ね折からの満開の桜を詠んだとのこと。
この句碑は和19年(1944年)に虚子の古希祝いとして、土佐出身の俳人が集まり建立したもの。

高浜虚子の句碑に限らず敷地内にはいつくかの石碑が立つ。





「月」字の額
左が紀子舊跡碑
「紀貫之が土佐の守の任にあった時、自ら書いて庁舎に掲げてあった「松月庵」という額が幡多郡黒潮町伊田の松山寺 (現在は廃寺)に移されたものと伝えられている。その額を寺の僧が不要物と思い、捨て置いていたものを、当時、幡多の郡奉行であった「尾池春水」が寺に立ち寄り、紀貫之の真筆に間違いないとして世に広めた。
世々遠くあるかなきかの影とめて 月をかたみの水くきのあと 
この和歌は、尾池春水が月の字の鑑定を依頼した京都の日野大納言資枝が真筆に相違ないとして一首の和歌に託したもの。 平成二十五年十一月十日 国府史跡保存会」との案内があり、その横の石碑に「月」の文字が刻まれる。これが紀貫之の残した「月」字のレプリカであろう。

紀子舊跡碑
「月」字の額の案内の横に石碑。案内には「碑文 東面 あふく世に やとりしところ 末遠く つたへんためと のこすいしふみ 權大納言資枝」「南面 侍従 藤原豊雍 篆」「西面 文略 天明五年」といった説明があった。
何のことやらとチェック。上述尾池春水が天明五年に紀貫之の旧跡を顕彰すべく建てたもの。歌は「月」字と同様、尾池春水の和歌の師である日野資枝が呼んだもの。 「侍従 藤原豊雍 篆」とは 土佐藩の歴代藩主の中で、最高の名君とされる山内豊雍による揮毫であるということのようだ。
尾池春水
土佐藩士・歌人。天明6年(1786)2月、山奉行から幡多奉行中村定詰に任じられたのを機に、中村に移住。7年、9代藩主・豊擁のもとで天明の改革に取り組んだ。その後、教授方頭取兼帯・御馬廻組頭・側用役奥向用役兼帯・御馬廻組頭御仕置役格を歴任。
歌を日野資枝に就いて学ぶ。また旧国府の里に紀貫之を顕彰する「紀子旧跡碑」を建立し。紀貫之の書と言われる「月」字を広く紹介し、藩内はもとより、京都の公家にまで広めた功績は大きい(コトバンク)。

土佐日記の碑
石碑には二首の歌が刻まれる
「みやこへと、おもふをもののかなしきは、 かへらぬひとの、あはれなりけり」
「さおさせどそこひもしらぬわたつみのふかきこころをきみにみるかな」
「都へと思ふもものの悲しきは帰らぬ人のあればなりけり」は都へ帰る直前に、 京から連れてきた愛娘(6~7歳)を急病で亡くして、共に帰れない嘆き、 哀しみを詠う。
「棹させど底ひも知らぬわたつみの深き心を君に見るかな」は土佐を離れる船出に際し、名残を惜しんでくれる人の心を詠んだもの。日記では感傷に浸る間もなく、酒をくらった船頭が潮も満ち、風も吹いきたと乗船をせかした、と記される。
この碑は平成元年に建てられたもの。


「国府の碑」
「土佐のまほろば ここに 都ありき」 国府の碑について 明治30年国府村が生まれた。藩政時代の国分、比江、左右山の3村が、明治22年合併した国比左村を改称したもので、国府の名は、この地に奈良平安の古代、土佐の都国府が置かれたことに由来する。
当時の村人たちが熱い愛郷の誇りを現したものであって、爾来、行政区域は合併により、後免町から南国市へと変わったが、国府の名は地区名として連綿と受け継がれてきた。
国府史跡保存会は、昭和34年7月創立。地区内全戸が会員となり,土佐のまほろばの中核をなす史跡群の維持顕彰につとめ、史跡の傷みを心の痛みとして守り続けてきた。
ここに創立40周年を迎え、記念として国府の名を永く後世に伝えんと、この碑を建立する。 碑表の書 南国市長 浜田 純 平成11年9月25日」

千載不朽碑
「千載不朽 碑文 
麝香間祇候陸軍歩兵少佐従三位勲三等功五級侯爵 山内豊景  題額
はかなき道にのみ名をとどむるこそいとくちをしき わさならめ。
此君土佐の守たりし時、萬わたくしなかりしかは、そのいこい給ひし所をさへ後の世にもしたいものし侍るとこそ聞えける。
かくてこそ 花さへ実さへ、とことはに、そのかくはしさをのこすとこそいふへけれ。
近き世の守なる君、ここに石ふみたてて千とせ萬代にも伝へてんとはかり給ひし こころはせも、またくちしとこそおほゆれ、くはしきことはかきつくしてふみにゆつりてなん。
文化六年弥生 右近衛少将 源 定信 しるし侍りぬ
大正七年歳暮 御歌所寄人 大江正臣 筆とりぬ」と刻まれる。

源 定信とは松平定信。文化六年(1809)に定信の書き記した文を大正になって大江正臣さんが筆をとり、土佐藩主の後裔である山内豊景さんが千載不朽という題額をつけて紀貫之を顕彰するこの石碑を立てた、ということだろうか。

「貫之とはこんな人  ― 紀貫之と土佐 ―
奈良時代から平安時代を通じて、土佐に来任した国司(土佐の守)の数は、百十余人が文献に見えます。その国司の館跡が、現在「紀貫之邸跡」と称されるのは、歴代国司のうち、紀貫之が抜きんでて名の高かった故であります。
延長8年(930)1月、土佐の守に任された貫之は、当時60歳すぎでありましたが、都ではすでに王朝屈指の歌人として、その名を馳せており、30歳代の若き日に、醍醐帝の勅命による「古今和歌集」の撰者・序文の著者としての栄光を担っております。
4年間の国司の任務を無事に果たして、承平4年(934)12月には、京の都へ立ちますが、その時の船旅日記を綴ったのが、かな文字による日記文学として、後世に風韻を残した紀貫之の「土佐日記」であります。
この日記を通じて、貫之の、移りゆくものへの心くばり、情にあつい人となりが、よく分かりますが、なかでも都へ帰る直前に、京から連れてきた愛娘(6~7歳)を急病で亡くして、共に帰れない嘆き、いわゆる"帰らぬ人"への情愛・哀傷を、日記文のいたるところに滲ませております。
貫之は多情多恨、移りゆく心の持ち主であったことは、「土佐日記」や歌集などにもうかがわれますが、現在高知県安芸郡北川村に、貫之の寵を得たことを系図に記して、紀氏姓を名乗る家系があります。
貫之は土佐へ赴任する時、醍醐帝より「新撰和歌集」の撰進を命ぜられておりましたが、帝の崩御によって、作品は日の目を見ることはありませんでした。その痛恨・帰らぬ人へのおもいをこめて、「土佐日記」は創作されました。
こうした紀貫之であった故に、この邸跡に建つ新旧5つの碑は、みな紀貫之― 「土佐日記」 ― を敬慕し、讃えるものばかりであります。  (監修 岡林清水) 平成8年(1996)8月吉日  国府史跡保存会」

比江廃寺塔跡
紀貫之邸跡を離れ比江廃寺塔跡に向かう。道は紀貫之邸跡に来た東西の道を更に東に向かう。少し進むと四つ辻があり、その角、道の下に広場があり平たい石が置かれている。
その傍に「比江廃寺塔跡」の案内。「塔の心礎のみが残る古代寺院跡で、国史跡に指定されている。
礎石の大きさは、縦3.24m、横2.21mを測り、土佐では最大である。中央にある直径8.1cmの穴 は塔の心柱を支えるためのものであり、中心には、仏舎利(仏骨)を納めるための穴も開けられている。
当時の塔の高さは、心礎の柱径の約40 倍といわれることから30mを越す高さの五重の塔が 建っていたと推測されている。
発掘調体の成果から、この塔礎石が据えられたのは8世紀以降と判明しているが、周辺で出 土した古瓦から、寺の創建は白鳳時代後期と考えられている。 南国市教育委員会]とあった。 

 国丁跡
道を少し西に戻り、案内に従い左折し田圃の中を通る農道を少し南に下ると、ビニールハウスの脇に国丁跡の案内がひっそりと立っていた。案内には「国庁跡」とあり、「周辺に国丁、神ノ木戸、府中、内日吉、宝憧寺等の地名あり」の解説と昔の小字を記した周辺の地図が掲載されていた。 地図にはその他、内裏、クゲ、そして国庁跡の碑が立つあたりは「国庁」と如何にも国庁があった名残を示す小字が地図に記されていた。
国庁の広さは六丁四方、四丁四方の二説がある。現在発掘調査継続中で位置の推定はされていないが、昭和38年(1963)県指定の史跡となりここに「国庁跡」の標柱が立てられたようだ。東と南に国分川が流れ外敵からの守りに適し、かつ国分川を通じで国府の外港、紀貫之も船出したという大津湊に繋がる交通・軍事上の要衝であったのだろう。
大津(紀貫之船出の碑)
大津の紀貫之船出の碑は国分川に面する土讃線布師田駅の南、舟入川に面した大津小学校の正門を入ったところに立つ。「貫之舟出の碑」と刻まれる。
近くには土佐電鉄舟戸停留所もあり、 かつての湊の名残を今に伝える。『土佐日記』の12月27日の条に「大津より浦戸をさして漕ぎ出づ」とされる地と比定されている。

現在は舟入川傍ではあるが、舟入川は既述の如く江戸期に野中兼山によって開削された人工水路。紀貫之の時代に舟入川はなく、この辺り一帯は流路定まらない国分川筋ではあったのだろう。 周辺は現在は埋め立てられ陸地とはなっているが、千年の昔、この辺りは海であり、 紀貫之の時代、 高知市の市街部の大部分は浦戸湾が広がり、五台山、かつら島、 比島、高知城のある山は、湾の中の島であったとされる。



第29番札所国分寺から第30番善楽寺へ

国庁跡を彷徨い、国分寺まで戻る。次の札所善楽寺への遍路道を歩き始めることにする。距離はおおよそ7キロ強ほど。

寺より南進し田圃の中で右折
山門を離れ少し西に進むと南に下る道がある。これが遍路道。田圃の中を南下する。ほどなく四つ辻に「四国のみち」の指導標。案内に従い右折し西進する。




農道T字路を左折し南下
右折し西進した道はほどなくちょっと広い道にT字で合流。合流点には「四国のみち」の指導標があり、国分寺、岡豊城跡(岡豊山)への案内をする。岡豊城跡(岡豊山)まで2.4kmとあった。 遍路道はここを左折し南下する。
長曾我部検地帳の案内
その合流点にあるお屋敷入り口付近に案内板が見える。ちょっと確認。「長曾我部検地帳 二階(二階孫右衛門)」とあり、「二階氏の土居屋敷四方堀藪あり」「東ニホリ、上ヤシキ光富千熊丸給地」「カチ屋敷、中ヤシキ山田主馬兵衛」「ムロヤシキ、片村源兵衛国分寺領」「二階/東ニ上ヤシキ竹崎兵衛。毛利氏御用の廻船商人で官途「藤左衛門尉」を与えられた二階氏の一族と思われる」との記述があり、その下に地図が掲載されていた。

検地帳といえば、場所を特定する小字、耕作地の面積、所有者名が書かれているのが普通だとい思うのだが、石高の基準となる耕作面積の説明もなく(地図をはっきり見なかったので見落としかもsれない)、案内の主旨がよくわからずチラ見で済ました。
メモの段階でもう一度チェックすると、地図には検地帳に記された小字名を地元の方の努力により反映されているとのこと。「市場」、「風呂ノ前」、「市頭」、「堂ノ前」、「国分ノ前」、「町頭」、「東古市」といった小字名が記載されており、現在ののどかな田園風景とは異なった門前町の姿が想像できる。「長曾我部検地帳」というより、 長曾我部検地帳に記載された二階一族の住んだこのあたりの往昔の姿の案内、といったほうが分かりやすかったのでは、とも思った。
長曾我部検地帳
豊臣政権期に土佐国主であった長宗我部氏が実施した、土佐一国の総検地帳。天正15(1587)年から数カ年かけて行われた検地の成果で、土佐七郡全域にわたる368冊が現存する。初代土佐藩主山内一豊は慶長6(1601)年の土佐入国時、長宗我部氏の居城浦戸城に入城し、地検帳を接収。七郡の郡奉行がそれぞれ保管し、初期の土佐藩政に利用した。その後写本を作成し、原本は実務的な使用からは離れるが、近代まで土佐一国の基本台帳として大きな意義を持った(「文化遺産オンライン」より)。
領国すべての検地帳が残るのは珍しいようである。

国分川手前を右折し西進
南に進み、国分川の一筋手前に西に向かう農道がある。分岐点には「四国のみち」の指導標とともに、「30番札所 善楽寺 6.4km」との歩き遍路案内もある。遍路道はここを右折、道なりに左折、そして右折し、その後は農道を一直線に西進する。前面には岡豊城のあった岡豊山(おこう)が見える。
国分川を水管橋が渡っていた。



岡豊城跡
Wikipediaには「岡豊城(おこうじょう)は、高知県南国市にある中世の日本の城(山城)跡。戦国時代に四国の覇者となった長宗我部氏の居城であった。城跡は国の史跡に指定されている。
概要
南国市街の北西部、香長平野(かちょうへいや)の北西端にあたる国道32号の西側の岡豊山(標高97メートル)に位置する。戦国時代末期に廃城となり、現在は石垣、曲輪、土塁、空堀、井戸などが残り高知県指定史跡を経て国の史跡として整備されている。また、城址の一角には高知県立歴史民俗資料館がある。
城の縄張りは最高所に本丸に当たる詰(つめ)があり、東に詰下段、二の段、南から西に三の段、四の段、更に西側丘陵に伝厩跡曲輪が配された連郭式の山城である。また、城の北東部には岡豊八幡があった。
沿革
鎌倉時代初期に、信濃より土佐へ移住した長宗我部能俊が、土佐長宗我部氏の始まりであるといわれる。長岡郡宗部郷(現在の南国市岡豊町)に定住した当初は、ただの宗我部氏であったが、隣の香美郡にも別系ながら同じ名字の宗我部氏があったため、それぞれは郡名の一字を付け加え、長宗我部氏と香宗我部氏と名乗るようになった。この頃、長宗我部氏によって築かれたと思われる岡豊城は、調査の結果では13世紀~14世紀の築城年代と考えられている。
室町時代、応仁の乱後の永正4年(1507年)に管領・細川政元が暗殺された以降の細川氏本家では家督・管領職争いの抗争を続けるあまり、その直轄領である土佐でも支配力を低下させてしまう。それが長宗我部氏、本山氏、山田氏、吉良氏、安芸氏、大平氏、津野氏の「土佐七雄」と呼ばれる有力国人の台頭につながり、戦乱の時代の始まりとなった。
七雄の抗争は翌年の永正5年(1508年)に早くも表面化すると、本山氏、山田氏、吉良氏などの連合軍によって岡豊城は落城する。
従来の通説では、この岡豊城攻めの際に当主・長宗我部兼序は自刃、土佐南西部の中村の一条氏のもとに落ち延びていた兼序の子・国親は永正15年(1518年)、一条氏の取り成しで旧領に復し岡豊城に入ったことになっている。
それが近年の研究では、兼序は本山氏などに岡豊城を攻められた際に自害せず土佐国内に亡命しており、永正8年(1511年)に本山氏や山田氏と和睦して岡豊城主に復帰、永正15年頃に息子・国親へ家督を譲ったことが明らかとなっている。 岡豊城を足掛かりに国親は土佐の有力大名へと成長し、一条氏、本山氏、安芸氏とともに土佐を四分するまでになった。

国親の子・元親の時代に長宗我部氏は飛躍した。天正2年(1574年)主家であった一条兼定を豊後に追放し土佐を平定。この城を拠点に天正13年(1585年)には四国を統一した。しかし同年、羽柴秀吉の進攻により降伏し土佐一国に押し込められた。この後、天正16年(1588年)大高坂山城(現在の高知城)に本拠を移したが治水の悪さから再び岡豊を本拠とした。しかし、天正19年(1591年)浦戸城を改築して移った為、長宗我部氏累代の本拠・岡豊城は廃城となった。
昭和30年(1960年)2月15日、高知県史跡に指定された。昭和60年(1985年)より平成2年(1990年)にかけて、1~6次にわたる発掘調査が行われ史跡整備がなされた。平成20年(2008年)7月28日、国の史跡に指定された」とある。

岡豊城の東と南は国分川が流れ、往昔は三角州であり、氾濫低地帯として自然の要害とはなっていたのだろう。また近くに国丁があるように古くから開けた一帯であり、国分川の自然堤防の後背湿地では弥生時代から稲作が行われていたという。また国分川の東、現在は広大な扇状地となっている物部川流域もその昔、三角州が形成されそこでは古くから稲作が行われていたことだろう。 物部川を境に西は長曾我部氏、山田氏(香宗我部氏の後見)、本山氏、東は香宗我部、安芸氏などが覇を競い、国分川・物部川流域一帯の豊かな恵みをもたらす地を巡り攻防を繰り広げたのではないかと妄想する。

国道32号を潜る
農道を西進すると、道の左手に「四国のみち」の石標。その石標より県道に上る坂を逸れ県道を潜るアンダーバスを抜ける。





笠の川川に架かる下乃橋を渡る
国道のアンダーパスを越える国分川支流の笠ノ川川に架かる下乃橋を渡る。
笠ノ川川
笠ノ川川って、川名であるが、いつだったか土佐の片峠と四万十川源流点を辿ったとき(ⅠⅡ);上八川川とか、枝川川、小川川、北川川、四万川川など「川川」と重なる川名が気になりチェックしたことがある。とlこういったケースは特に高知に限ったものではなく、5万分の一の地図で見るだけでも全国に100ほどある、という(「地名を解く6;今井欣一」)。
その記事に拠れば、この場合の「小川」とか「北川」は、川の名前ではなく、地名とのこと。地名に偶々「川」があり、そこを流れる川故の「川」の重複と見えているようだ。
また、「小川」など「川」がつく地名も、もともとは「岡端・岡側」であった「端・側」に川の字をあてたものが多いとある。岡の端の崖下には「川」が流れているから、「川」をあてたのでは、と。
関係ないけど、ナイル川やガンジス川も、ナイルもガンジスも川の意であり、「川川」ではある。 笠ノ川川の流域をチェックすると上流に岡豊町笠ノ川と言う地名があった。

岡豊山裾の道に入る
笠ノ川川を渡った遍路道は西詰で左折、笠ノ川川の土手に沿って進む。ほどなく県道352号とクロス。笠ノ川川はこの地で国分川に合流する。
遍路道は国分川に架かる岡豊橋を左に見遣り、国分川の堤を進む。ほどなく道は堤を離れ、岡豊山裾を進む道へと右手に逸れる。


水路に沿って進む
山裾の道に入った遍路道は、集落を抜け山裾を流れる水路に沿って進む。国分川から引いた灌漑用水だろう。しばらく木立が日陰をつくる水路脇の道を進むと岡豊山裾の道を抜け、岡豊山西側、国分川に注ぐ支流にあたる。
支流に架かる橋を渡ると前面に高知大学岡豊キャンパス。遍路道は橋を渡ると左折し、国分川に沿って西進する。

高知市域に入り逢坂峠へと上る
西進し再び国分川に注ぐ山崎川に架かる蒲原(かもはら)橋を渡ると、国分川を離れ丘陵の裾を進む道に進む。道は岡豊町蒲原を進むが、直ぐ南は高知市域。
右手に延命寺を越えるあたりから、ゆるやかではあるが次第に逢坂峠への上りとなる。南の丘陵との間には宅地開発が進んでるようだ。
南国市と高知市の境となるふたつの丘陵の間を抜ける道を進み、途中遍路休憩所を見遣りながら道を上る。

逢坂峠への先で県道384号を逸れる
道を上り切るきると県道384号に合流。少し西に進むと道の左手は山肌が削られている。採石場のように思える。逢坂峠に着く。逢坂峠は高知市一宮となる。
逢坂峠を少し西に進むと道の左手に、左方向を指す「30 善楽寺まで0.8km」の比較的新しい標石がある。標石の辺りから高知市街が目に入る。
標石に従い、国道を左に逸れ、一宮墓地公園の西端を下る。
毘沙門院
大阪峠の北東、国道284号より山に入ったところに国分寺奥の院毘沙門堂がある。高さ30mほどの滝は空海が斎戒沐浴し観念修行したときに毘沙門天王が現れ、故に毘沙門尊像を刻みお堂に安置し29番札所の奥の院と定めたとの由緒が伝わる。

県道384号をクロスし善楽寺へ
丘陵を下り、一宮東町の民家の間を西進すると県道384号にあたる。県道を少し下ると「一宮東門」バス停。その傍、県道東側に「30 善楽寺 0.3km」と刻まれた新しい石標や善楽寺方向を示す木の標識。遍路道は標識に従い、古き趣を残す一宮集落の中を通る道に入る。



第三十番札所 善楽寺

集落の道を抜けると広い車道と社叢。車道は県道384号から続く車道参道になっている。社叢の中には土佐神社。車道を左に折れ少し進むと道の左手に善楽寺、右は土佐神社が鎮座する。
こじんまりとした善楽寺境内に入ると、境内北側に本堂、その左手に大師堂が建つ。境内南側には水子地蔵、その東に子安地蔵。子安地蔵堂の東には露座の地蔵尊。梅見地蔵と称される。
梅見地蔵
子安地蔵脇にある梅見地蔵の案内には、「文化十三年(1816)年に作られたもので、首から上の病気に利益のあると云い伝えられている。以前は大師堂 梅の木の下にあり、梅の花を仰ぎ見る姿であったことから梅見地蔵」と名付けられました」といった説明があった。

Wikipediaには「善楽寺(ぜんらくじ)は、高知県高知市にある寺院。宗派は真言宗豊山派 。百々山(どどさん)、東明院(とうみょういん)と号す。本尊は阿弥陀如来。
寺伝によれば、大同5年(810年)空海(弘法大師)が高鴨大明神(土佐国一宮で現在の土佐神社)の別当寺として、神宮寺とともに創建したといわれている。また、空海はこの辺りの森厳幽遠なる霊域を気に入り渓谷が百谷あれば入定の地に定めようと谷々を調べたが99谷で足りない1つを当寺を開くことにより1山補い、山号を百々山と名付けたと伝えられている。 応仁年間(1467 - 1469)に兵火で焼失したが、土佐藩2代藩主山内忠義の庇護を受けて栄えた。

『四国辺路日記(澄禅1653年巡拝)』には観音院と記されているが、万治元年(1658年)に長福寺と改名、そして『四国遍礼霊場記(寂本1689年刊)』には一宮本殿への参道の向かって右に長福寺、左に神宮寺が描かれていて、この時点での札所は「一宮百々山神宮寺」であり、本尊は阿弥陀如来、脇仏は観音と勢至であった。享保6年(1721年)徳川家重の幼名(長福丸)をはばかって善楽寺と名称が変更され、『四国遍礼名所図会(1800年刊)』によると神宮寺は衰退し、当寺は参道中ほどより入る中門を通じて立派な方丈と大きな護摩堂と大師堂を有す祈祷寺として隆盛した。
明治初期の神仏分離まで、筆頭別当寺の神宮寺では「高鴨大明神 本地阿弥陀如来 神宮寺」と、次席別当寺の観音院善楽寺(本尊十一面観音)では「正一位高賀茂神社 一之宮 善楽寺」と両方で30番の納経をしていたが、廃寺に際し、神宮寺を善楽寺に合併させ、続いて善楽寺を廃寺とするという措置がとられ、札所権と神宮寺の本尊であった阿弥陀如来坐像(重要文化財)と善楽寺の弘法大師像は南国市にある29番札所国分寺に移され国分寺で納経を代行するようになった。なお、護摩堂不動明王像の所在はそれ以降不明となっている。

両寺の廃寺により明治8年(1875年)当地より南西5.5kmの所に再興された安楽寺に、その阿弥陀如来像が移され30番札所となった。神宮寺は再興されず、善楽寺は昭和5年(1930年)に埼玉県与野町(現さいたま市中央区)にあった東明院をこの地に移転し、また国分寺に預けられていた弘法大師像を移し、本尊は有縁の江戸期作の阿弥陀如来坐像を迎えて30番札所東明院善楽寺として再興したが、30番札所が2箇所並立することになり、30番札所の正統性について善楽寺と安楽寺の間で論争が起こった。昭和39年(1964年)四国開創1150年を機に両寺代表が協議し、善楽寺を「開創霊場」、安楽寺を「本尊奉安霊場」と称することになるも混乱は続いたが、平成6年(1994年)1月1日、札所は善楽寺、安楽寺は奥の院とすることで最終決着した」とある。
神仏分離令の伴う札所騒動
善楽寺に限らず、神仏分離令施行に伴う札所騒動は遍路歩きの途次、時に目にする。記憶に残っているのは、伊予の横峰寺、清楽寺、妙雲寺の札所を巡る騒動、また、讃岐の68番札所神恵院と69番札所観音寺は神仏分離令がもとで、同一境内にふたつの札所が建っていた。

百谷伝説
この寺の山号である百々山(どどさん)の縁起にある、百にひとつ足りない故に云々、といった逸話も散歩の途次出合う。いつだったか小田急線の新百合丘辺りを歩いていたとき、弘法松に出合った。弘法大師が百谷あれば寺を建てようとしたが、九十九谷しかなかったのでお寺のかわりに松を植えたとあった。この弘法大師の百谷伝説は全国各地にあるようで、中には999と千にひとつ足りない故に云々、といった話もある。
百とか千にひとつ足りない故にということが何を意味するのか不詳。
安楽寺
土讃線高知駅の西、千年の昔、辺り一帯が海であった名残を残す洞ヶ島町に建つ寺院
。Wikipediaには「高知県高知市にある真言宗豊山派の仏教寺院。山号は妙色山(みょうしきざん)。 妙色山 金性院 安楽寺と号する。
伝承によれば、延喜年間(901年-923年)、菅原道真の長子である菅原高視が配流先の土佐国潮江で菅原道真逝去の知らせを受け、筑紫にある道真の菩提寺の安楽寺にちなんで、当地に安楽寺と潮江天満宮とを建立したという。寺は当初の潮江から升形を経て久万に移転した(潮江、升形、久万はいずれも現・高知市内)。(中略)その後、12坊を有する大寺院となったが応仁の乱(1467年-1477年)の兵火を受けて焼失し衰退。(中略)明治時代初頭の廃仏毀釈の影響でついに廃寺となったが、明治8年(1875年)に、長宗我部氏の菩提寺であった旧瑞応院跡に再興された」とある。


土佐神社

善楽寺を離れお隣の土佐神社にお参り。善楽寺傍から南に長い参道が延びる。参道北側直ぐにある大きな木製鳥居を潜り境内に。
入蜻蛉(いりとんぼ)様式の土佐神社)(「土佐神社」HPより引用)

正面に社殿。本殿の前に幣殿、その前に拝殿。幣殿の左右に翼拝殿。本殿は入母屋造、その他は切妻造り。屋根は?葺き。優美で勇壮、幣殿の静と翼殿の動と、誠に美しい。多くの社殿を見てきたが、この社は、いい。
この社殿の造りを「入蜻蛉(いりとんぼ)」形式と称するようだ。本殿を頭としたトンボ(蜻蛉)が飛び込む形を表すといわれ、元亀元年(1570) 長曾我部元親の凱旋帰陣を象徴する、土佐神社独特なものである。これらの社殿全体が国の重要文化財に指定されている。
御神木・礫石
社殿を囲む社叢、社殿をぐるりと一周しながらそこに建つ巨大な御神木をお参りするのもまた、いい。
御神木を眺めながら社殿を一周していると畳二畳ほどの自然石があり、「礫岩」との案内。「礫石の謂れ 境内東北方にある畳二畳ほどの自然石。「礫石の謂れ」の案内には「古伝に土佐大神の土佐に移り給し時、御船を先づ高岡郡浦の内に寄せ給ひ宮を建て加茂の大神として崇奉る。或時神体顕はさせ給ひ、此所は神慮に叶はすとて石を取りて投げさせ給ひ此の石の落止る所に宮を建てよと有りしが十四里を距てたる此の地に落止れりと。
是即ちその石で所謂この社地を決定せしめた大切な石で古来之をつぶて石と称す。浦の内と当神社との関係斯の如くで往時御神幸の行はれた所以である。
この地は蛇紋岩の地層なるにこのつぶて石は珪石で全然その性質を異にしており学界では此の石を転石と称し学問上特殊の資料とされている。 昭和四十九年八月 宮司」とあった。

高岡郡浦の内は現在の須崎市内の浦。そこに鳴無神社がある、古代「しなね祭り」という土佐神社の重要な神事が海路、この鳴無神社へ神輿渡御されていたようだ。土佐神社を別名「しなね様」と称するわけだから、重要な神事ではあったのだろう。岩を投げたかとうかは別にして、土佐大神が祭神であった頃、高岡郡浦の内となんらか深い関係があったのだろう。古くはこの礫石を磐座として祭祀が行われたとする説がある。
しなね様の語源
しなねの語源は諸説あり、七月は台風吹き荒ぶことから風の神志那都比古から発したという説、新稲がつづまったという説、さらに当社祭神と関係する鍛冶と風の関連からとする説等がある(土佐神社の解説より)。
禊岩(みそぎいわ)
境内東方の神苑に禊岩(みそぎいわ)と称される岩があるようだ。かつて禊の斎場であった境内西方のしなね川にあったが、境内に移し祀られている、とある。

Wikipediaには、「土佐神社(とさじんじゃ)は、高知県高知市一宮(いっく)しなねにある神社。式内社(大社)、土佐国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。
高知市北東部、南国市へと通じる大坂越えの西麓に鎮座する。『日本書紀』や『土佐国風土記』(逸文)の記述で知られるように古代から祀られた古社で、中世・近世には土佐国の総鎮守として崇敬された高知県を代表する神社である。
代々の領主は土佐神社に対して崇敬が篤く、現在の主要社殿は戦国大名の長宗我部元親による造営、楼門(神光門)・鼓楼は土佐藩第2代藩主の山内忠義による造営で、いずれも国の重要文化財に指定されている。また祭事としては土佐三大祭の1つとして知られる例祭「志那禰祭(しなねまつり)」が古代から続き、神宝としては鰐口・能面・銅鏡等を伝世している。
祭神は。味鋤高彦根神(あじすきたかひこねのかみ)と一言主神(ひとことぬしのかみ)。土佐神社の祭神は、古くは『日本書紀』に、「土左大神」とする。地方神としては珍しく「大神」の称号を付して記載されるが、この土左大神の祭祀には、在地豪族である三輪氏同族の都佐国造(土佐国造)があたったと考えられている。
その後、710年代から720年代の成立になる『土佐国風土記』の逸文(他書に引用された断片文)には「土左の郡。郡家の西のかた去(ゆ)くこと四里に土左の高賀茂の大社(おほやしろ)あり。その神の名(みな)を一言主の尊(みこと)とせり。その祖(みおや)は詳かにあらず。一説(あるつたへ)に曰はく、大穴六道の尊(おほあなむちのみこと)の子、味鋤高彦根の尊なりといふ」と神名が変わっている。

奈良県御所市に高鴨神社、葛城一言主神社がある、この社の祭神は共に味鋤高彦根神、一言主神。 大和葛城地方(現・奈良県御所市周辺)で賀茂氏が奉斎した神々とされる。
神名が変わった要因は、大和葛城地方の豪族である賀茂氏が土佐に勢力を及ぼし、都佐国造の祀る土左大神に賀茂氏祖先神の神格を加えたことにあると言う。

『古事記』や『日本書記』には、雄略天皇が葛城山で一言主と問答をした、といった記述があるようだ。が、『続日本紀』天平宝字8年(764年)条では、大和葛城山で雄略天皇(第21代)と出会った「高鴨神」が、天皇と猟を争ったがために土佐に流された、といった記述と変わる、また『釈日本紀』(鎌倉時代末期成立)には、葛城山で「一言主神」が雄略天皇と出会ったとし、一言主は土佐に流されて「土佐高賀茂大社」に祀られた、となっている。
賀茂氏祖先神の神格を加えるべく、、土左大神の鎮座譚に雄略天皇の葛城説話を組み込んだとされる。
これらの記述以後土佐神社祭神に関しては、賀茂氏祖先神である一言主説、味鋤高彦根説、一言主・味鋤高彦根同一視説などとなっているようである。
史実として国史に土佐神社の記載が見えるのは『日本書紀』天武天皇4年(675年)条が初見で、「土左大神」から天皇に神刀1口が献上されたという。これはレガリア(首長の政治的権力の象徴品)の献上、すなわち土左大神奉斎氏族の朝廷への服属を意味すると解されている。
延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では土佐国土佐郡に「都佐坐神社 大」と記載され、式内大社に列している。土佐国においては唯一の大社になる。
『百錬抄』元仁元年(1224年)条によると、大風(台風)によって「土佐国一宮」の神殿以下が一宇も残さずに顛倒したという(社伝では嘉暦元年(1326年)[。再建は不明)[1。中世以降に土佐神社は土佐国において一宮の地位にあったとされるが、それはこの記事を初見とする。元親は現在の本殿・幣殿・拝殿を、忠義(土佐藩第2代藩主)は現在の鼓楼・楼門を造営。
戦国時代には、永正6年(1509年)頃(諸説あり)の本山氏による岡豊城(長宗我部氏居城)侵攻で一宮村が焼かれ、土佐神社社殿も延焼により本殿以外ほとんどを焼失したという。これを受けて長宗我部元親は永禄10年(1567年)から社殿再建に着手し、元亀2年(1571年)に現在の本殿・幣殿・拝殿(いずれも国の重要文化財)が完成した。その再建工事の諸役には、高知平野の家臣が上下問わず課されている。また『長宗我部地検帳』によると、この頃の社領は一宮村を始めとして薊野・杓田・布師田・鴨部・石立・万々・朝倉・大高坂の各村に分布した。
江戸時代に土佐藩を治めた山内氏も土佐神社を崇敬し、第2代藩主山内忠義によって寛永8年(1631年)に楼門が、慶安2年(1649年)に鼓楼が造営されて現在に残っている(いずれも国の重要文化財)。

鼓楼
鼓楼 (重要文化財)-。拝殿南東に立つ。江戸時代前期の慶安2年(1649年)、土佐藩第2代藩主山内忠義による造営。二重で、屋根は入母屋造で柿葺。初層は「袴腰」と呼ばれる形式で、黒色の板を張り、中央に出入り口を設ける。上層は桁行三間・梁間二間で、彫刻・柱が彩色で彩られており、内部には時を知らせるための太鼓を吊るす。国の重要文化財に指定されている(Wikipedia)。


楼門(重要文化財)
参道を南に下り、県道384号との合流点に建つ。
楼門 - 境内入り口に立つ。「神光門」とも称され、江戸時代前期の寛永8年(1631年)、鼓楼同様に山内忠義による造営である。桁行三間、梁間二間の楼門(2階建て門で、初層・上層間に軒の出を造らないものをいう)で、屋根は入母屋造で銅板葺。初層は三間一戸(柱間三間で、中央の一間を通路とする意)で、左右間に随身を祀る。上層は初層に比して建ちが低く、勾欄を付した廻縁がめぐらされている。全体的に素木で、ほとんど装飾を付さない和様建築になる。国の重要文化財に指定されている。

本日のメモはこれでお終い。次回は第三十一番札所竹林寺へと向かう。

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