伊予の遍路道にある,よさげな峠越えの遍路道が,歩き遍路のそもそもの発端であった。で、どうせのことなら歩き終えた峠と峠の間の遍路道を繋いでみよう。それならば、どうせのことなら伊予の旧遍路道をすべてカバーしてみようかと思いたち、古き標石を目安に土佐と伊予の国境からはじめた旧遍路道トレース伊予で終えるはずが、どうせのことなら讃岐もカバーしてみよう。讃岐を歩き終えると、阿波まで進んでみようか。阿波まできたのであれば土佐もカバーして四国の遍路道をすべて繋いでみようかと、今、土佐に入った。
今回から土佐の遍路道を歩く。本日のルートは甲浦から室戸岬突端部にある第二十四番札所最御崎寺まで、その距離おおよそ30キロというところだろうか。
現在は山地が海に落ち込むような海岸線を国道が走る。江戸の頃、道もなく波しぶきを浴びながら、荒磯の岩を飛び跳ねて進んだであろう難路の名残は既になく、単調ではあるが雄大な大洋を見遣りながらの快適な遍路道であった。
遍路道には標石がほとんど見当たらない。道がないわけであるから、当然といえば当然であるが、そもそも山地と海に挟まれた荒磯・浜を進むわけで、標石の必要もないだろう。というわけで今回は標石を目安の旧遍路道トレースの要はない。その替わりといってはなんだが、山地が海にストンと落ち込むような室戸岬東海岸や室戸岬の乱礁部の地形・地質の成り立ちにフックが掛る。とはいうものの、この領域は全くの門外漢。好奇心旺盛のリタイア・ビジネスマンの戯言メモとお許しいただければと思う。


本日のルート;甲浦>東俣番所跡> 熊野神社 >江藤新平の遭厄記念碑>甲浦坂トンネル>野根大師〈明徳寺)>白小石の六部堂と里神社>野根の標石>国道493号に合流>地蔵堂(庚申堂)>伏越の鼻>ゴロゴロ休憩所>法海上人堂>飛び石地蔵(水尻仏海標石)>入木(いるき)の仏海庵>佐喜浜>鹿岡(かぶか)鼻の夫婦岩>椎名>日沖の大礁・大碆(おおばえ)>厄除弘法大師坐像〈中務茂兵衛建立)>三津漁港>青年大師像>御蔵洞>乱礁遊歩道>(ビシャゴ岩>弘法大師行水の池>エボシ岩>土佐日記御崎の泊碑>弘法大師目洗いの池)>国道55号に戻る>最御崎寺への旧遍路道>大師一夜建立の岩屋>捻岩>最御崎寺・室戸スカイライン分岐>第二十四番札所最御崎寺(ほつみさきじ)


甲浦
宍喰の町より海に突き出た半島丘陵部を抜けてきた県道309号は、丘陵部を穿つ水床トンネルを抜けて来た国道合流と合流。その直ぐ先が徳島と高知の県境となる。
遍路道は県境から右に逸れる道に入り甲浦の町へと進む。
丘陵部を抜けると甲浦の内港。内港はふたつにわかれ、北に入り込んだ内港を東俣と呼ぶ。藩政時代は土佐藩の船蔵や船大工小屋があったようだ。東俣を跨ぐ橋を渡り、港の最奥部に東俣番所跡があるとのこと、ちょっと立ち寄り。
東俣番所跡
民家が密集する漁港の堤防前に番所跡の石碑が立つ。「甲浦東股番所跡」と刻まれる。前回の散歩でメモした宍喰の古目番所から宍喰峠で阿波と土佐の国境を越えた土佐街道はこの地に下りて来た(ルートは後述元越番所の掲載図参照ください)。

熊野神社
東俣より湾に沿って南に下り湾の南端の岩場に建つ熊野神社手前で道は右に曲がる。この西に入り込んだ椀を西股と称する。この神社には鳥居がない。結構珍しい。鳥居を建てても直ぐ倒れる。それが繰り返されたことにより、鳥居をたてないことが神意であろうと、その後建てられることはなかった、と。その替わりこの社には鐘楼が建っている。これも珍しい。
甲浦の由来
この社の森は沖からの目安となったのか、「甲ヶ山」と呼ばれる。甲ヶ山のある浦ゆえだろうか、この地は昔より甲ヶ浦(かぶとがうら)と呼ばれていたようだ。甲のカタチに似た甲貝が採れた浦との設もある。
「かぶとがうら」が「こうのうら」となったのは、甲ヶ浦(かぶとがうら)>甲の浦(こうのうら)>甲浦(かんのうら)と転化した説、熊野神社に那智の熊野権現十二社のひとつが飛来したとの縁起より、「神が来た浦」>かみのうら>かんのうら、となったとの説などあるようだ。
西股
西に入り込んだ西股の北に沿って道は進む。西股の南岸に御殿跡と地図にある。土佐藩初代藩主山内一豊公が土佐に最初に上陸した地であり、参勤交代の折の御殿や船蔵があったようだ。御殿は宝暦の大地震の後は現在の甲浦小学校のある地に移った。
西股南の丘陵には藩政以前、この地に割拠した豪族の城跡が残るとのことである。甲浦の湊口には葛島、二子島、竹ヶ島(徳島県)が並び、沖の波浪を遮り、古くからの天然の良港。土佐と上方を結ぶ船運の要衝の地であったようだ。
参勤交代の道
藩政時代、土佐藩の参勤交代の道は土佐湾に面する奈半利から室戸岬への海岸沿いの野根に抜ける35㎞の野根山街道を進み甲浦から海路を利用した。が、そのルートは海任せ・天候任せ。順調に進めば20日ほどで江戸に着いたというが、潮待ちなどにより50日ほどかかることもあった、と言う。
江戸到着予定日の遅参は「一大事」であり、遅参により改易の沙汰もあり得るといったものであり、遅参の怖れある場合は逐次幕府に報告をしなければならない。そんな面倒なことをやってられない、と思ったのか、海路の安定した瀬戸内の湊への道が拓かれた。その道は土佐北街道と呼ばれる。
高知の南国市から愛媛県の四国中央市に抜ける山越えの道である。享保3年(1718)の頃、古代の官道である南海道跡を基本に整備された道その道を5回に分けて歩いた()。そういえば、一部抜けている箇所があることを想いだした。そのうちに歩かなけらば。

江藤新平の遭厄記念碑
西股最奥部を左折し南に進む。甲浦小学校の対面の平和塔敷地内に大きな石碑が立つ。傍の案内には「江藤新平・甲浦遭厄の標 東洋町民は、この標を建立し偉大な功績を顕彰する 平成21年3月31日」とあり「明治5年司法郷や参議に就任。明治6年政変後に参議を辞し野に下る。明治7年、板垣退助・後藤象二郎らと民撰議院設立運動を起こす。これが後に自由民権運動となる。新平は、日本の近代的政治制度づくりに参画し、司法制度の確立、民権的法律の整備に貢献した。娼妓制度廃止など国民の基本的人権の礎を築いた。
佐賀の乱(明治7年)により政敵とみなされ、高知県に入り逃避行を続けたが、明治7年3月29日ここ甲浦の地で捕縛された。大正6年、「江藤新平君遭厄之地」石碑が甲浦青年団により建立されている」と記される。

明治政府に対する不平士族の乱に与し逆賊となった江藤新平であるが、大正5年(1916)には西郷隆盛らとともに名誉が回復され、正四位が贈位されている。記念碑建立はその状況を踏まえてのものだろう。江藤新平のあれこれは司馬遼太郎さんの『歳月』に詳しい。

元越番所跡

町を抜けた遍路道は小池川橋を渡り左に折れて河内川を渡り国道55号に合流するが、地図に牟岐線の甲浦駅の北に元越番所跡が記される、ちょっと立ち寄り。
国道と逆方向、小池川橋を渡り右折し甲浦駅の高架を抜け三差路を右に。元越番所跡は耕地が広がるだけで特に案内もない。その先、道が山裾に当たるところに「元越番所跡」の碑が立っていた。




宍喰の馳馬(はせば)から元越を越え阿波から土佐に入る道に立つ番所であった。
番所跡とその記念碑が異なる場所に立つ理由は不明。

土佐藩の遍路政策
藩政時代、土佐藩の遍路政策は他国に比して厳しいものであったよう。遍路はこの甲浦で土佐に入り宿毛で土佐を出るか、その逆だけが入出国箇所として認められた。更に在所で発行された往来手形(身分証明書)は必携MUST。入国に際しては甲浦〈宿毛)で添手形(通行許可書)を受け取り、出国の際に返却する必要があった。
真念も『四国遍路路道指南』に、「かんの浦 これより土佐領。入口に番所有、土佐一こくの御かきかえ出る」と記し、宿毛の番所のある大ふか原村で「大ふか原村 番所有、土佐通路の切手ハこれへわたす」と書く。
この通行許可書の発行には厳しい制限があり、往来手形と共に、渡船証、所持金が求められ、老人や子供は入国を許されなかった。
通行証明書が発行されても、多くの制限があり、定められた遍路道だけを歩くこと、遅滞なく歩くこと、脇道に入り込む者を取り締まるといった政策がとられていたようである。

甲浦坂トンネル
国道55号を下ると甲浦トンネル。長さ150m、昭和43年(1968)完成。旧道はトンネル手前の道を右に逸れ、大阪と呼ばれた坂を上り、トンネルの上辺りから道を左に逸れて細い土径を進みトンネル南口辺りに下りるといった古い記事がある。真念さんも「四国遍路道指南」に「甲浦坂:という大阪を越え生見へと坂を下ったと書く。
記事に従い坂を上る。特段の遍路道案内もなく、トンネル真上辺りのミカン畑の境を少し下ってみたのだが行き止まり。国道へと下る土径が見つからず、結局甲浦トンネルを抜けて生見に入る。

野根大師〈明徳寺
遍路道は国道55号を下り、生見を抜け、相間トンネルは手前から国道を逸れる旧道を辿り、相間川を渡り野根に入る。野根への遍路道は国道55号を逸れて旧道に入る。右手に野根八幡を見遣り進むと、そのお隣に野根の大師(明徳寺)が建つ。

山門を上がると正面に本堂、横に通夜堂。本堂右横を抜けると「弘法の滝」がある。こじんまりとしたお寺さまである。
Wikipediaには、「明徳寺(みょうとくじ)は高知県安芸郡東洋町に所在する真言宗豊山派の寺院。山号は金剛山。本尊は弘法大師。別名、東洋大師。四国八十八箇所霊場番外札所。

寺伝によれば、平安時代前期に空海(弘法大師)が42歳の時に四国を巡錫中にこの地に立ち寄った。その際、この地の住人より水が涸れて大変困っていると訴えた。すると空海は谷を登った所に錫杖を突き立てて祈祷を行った。すると水が湧き出て滝となり、以来、涸れずに流れているという。この滝の前に寺院が建立されたのが始まりと伝えられている。
この寺院には通夜堂があり巡礼者は宿泊が可能である。今では寺院の前を国道55号が室戸岬まで延びている。しかし、国道が開通するまでは道なき海岸を通って室戸に向かうしかなかった。そこで、満潮時はこの寺院で一休みして室戸へと向かったといわれる。このため、この寺院で休憩することを「野根の昼寝」と呼んだ」とあった。

東洋町のWEBには野根大師について、「江戸時代、ここには観音寺があったが、明治維新の廃仏毀釈で退転し、跡地に弘法大師堂が建立された。昭和南海地震のあと、真言宗明徳寺が中村からこの地へ移転し、同居している。古くは「野根大師」いまは「東洋大師」と呼ばれ四国遍路の番外札所となっている。背後の山にはミニ八十八カ所がある」とする。

貞享4年(1687)の真念の『四国遍路道指南』には「のねうら 入口宮立有 并大師堂」(野根浦の入り口宮(野根八幡)が建ち、大師堂が並び合わさる(并)、とある。寛永18年(1641年)には既に番外札所としてあったとの記録もあり、その頃にはお遍路さんが立ち寄ったお寺となっていたのだろう。ということは観音寺が大師堂とみなされていた、ということか。
東洋大師
因みに、野根への国道に「東洋大師」の案内がいくつも立っていた。看板を見ながら、「なんのこと?」と思いながら道を辿ったのだが、この案内でやっとわかった。昭和34年(1959)甲t浦町と野根町が合併してできたのが東洋町ということであり、「東洋」という名には歴史的意味はなく、対等合併ゆえの妥協の産物であるとすれば、「東洋大師」と称するようになったのは、それ以降ということだろう。

白小石の六部堂と里神社
野根大師を南に、参道口に進む。道とT字に合わさる角に寺標があり、「高野山大師教会高知支教区野根支部」と刻まれる。
その斜め前、道の左手に六部堂があった。興味を惹かれあれこれチェックすると、この六部堂は白小石の六部堂と称される。
寛政12年(1800)の『四国遍礼名所図会(九皋主人写 河内屋武兵衛蔵本)』には「観音寺(松原に有) 六十六部廻国修行者石塔(武州深川人宝暦十年此所二て病死 観音寺の前 松原二有 人々此墓に願望をかけれバ成就致スといゝ 日々参詣不絶」とある。

それはそれでいいのだが、白小石は「城恋し」から、と東洋町の記事にあった。 「天正3年7月、長宗我部兵の野根城館奇襲により野根一族は阿波国へ落ちのびていった。その途中、野根国長は燃上する城を振り返って「ああ、城恋し」と嘆いたという。それで白小石(城恋し>白小石)という地名になった」と。ブロック塀に囲まれた六部堂の左の広場奥に誠に小さな祠が祀られる。里神社というこの小祠は「野根氏や安芸氏をはじめ、安芸郡下惟宗一族の始祖とされる曽我赤兄を祭っている(東洋町の記事)」と。

野根の標石
野根の街並みを進む。昔は豪商が軒を連ねる繁華街で、四国霊場二十三番札所日和佐薬王寺と二十四番札所室戸最御崎寺の真ん中に位置するため遍路宿も多かった。戦国時代のカギ曲がり道路桝型(ますがた=カギ曲がり)道路、、高札場(こうさつば)跡、送番所跡、ぶっちょう造り民家もある。カギ曲がり道路は戦国時代に野根領主が京都へ出兵して見聞した戦略道路を野根浦の町づくりに採用したらしい。上町(うわまち)のカギ曲がり道路に対し、下町(したまち)は直線道路。ほかに寺町、中町広小路(なかまちひろこうじ)、廐屋(うまなや参勤交代の馬)、船場(せんば)などの歴史的な地名もある」と東洋町の記事にある。道の右手に標石。「是ヨリ新四 明治三十一年 左遍路」と刻まれる。
野根
野根は戦国時代、天正3年(1575)長宗我部元親に滅ぼされるまで野根・甲浦を支配した野根氏の本貫地。元は野根川を少し上った内田の地に城郭を築いたが、天文年間に野根川下流域の中村地に「野根城館」を築き、そこを本拠とした。上述「城恋し」は長宗我部元親軍の奇襲攻撃をうけ戦わずして甲浦へ逃げ、さらに阿波国へと落ちのびていった野根一族が野根城館を想ってのことではあろう。

国道493号に合流
遍路道は野根の街を出て野根川手前で国道493号に合流する。この国道493号の道筋は往昔の野根山街道。土佐湾の奈半利から野根山連山を尾根伝いに進み、この野根に至る。上述土佐北街道が開かれるまでは土佐藩主参勤交代の道であった。
遍路道は直進し野根川に架かる「みなとくぼ橋」を渡る。昭和6年(1931)建設の橋は現在人道橋となっている。
野根山街道
Wikipediaには「野根山街道は奈良時代養老年間に整備された官道で、奈良と土佐国府を結ぶ街道「南海道」の一部である。高知県安芸郡奈半利町と東洋町野根を尾根伝いに結ぶ行程約36 km、高低差約1,000 m の街道で、古くは『土佐日記』の著者紀貫之の入国の道として、また、藩政時代には参勤交代の通行路として使用された。現在は「四国のみち」環境省ルートとして整備されている」とあった。

地蔵堂(庚申堂)

橋を渡ると正面に地蔵堂(庚申堂とも)が建ち、中に木食仏海上人が刻んだと伝わる舟形地蔵が祀られる。この地蔵は標石を兼ねており、「左へんろうみち さきのはまへ四り 願主木食仏海」と刻まれる。
仏海上人
伊予北条の生まれ。全国の霊場を巡り木食の境地に入る。四国霊場巡礼二十四度。三千体の地蔵尊を刻したと伝わる。
渡し場
野根浦の船場跡
往昔、野根川に架かる橋はなく、この地に渡しがあった。メモの段階でわかったことだが、東洋町の記事に「野根浦の船場(せんば)は、渡し舟の渡し場だった。昔の旅人は野根山街道が正規の旅行ルートだが、四国遍路はここから渡し舟で野根川を渡り、室戸岬の東寺へ向かった。現在船場に[武田徳右衛門標石]、旧野根川橋西岸の庚申堂に木食仏海作の石仏があり、いずれも「東寺へ何里」と刻まれた遍路石である。木食仏海作の遍路石は地蔵ケ鼻や仏ケ崎にもある」とあった。
徳右衛門道標
徳右衛門道標?今となっては再度のことながら後の祭りではあるが、チェック。東洋町の写真にも、徳右衛門道標の一覧表にも確かに徳右衛門道標が掲載されているのだが、GOOGLE Street VIEWで渡し場後をチェックしてもあるはずの道標が写っていない。どこかに移されたのだろか。

伏越の鼻
地蔵堂から国道55号を進み野根漁港を越えると上り坂となり、伏越(ふしごえ)の鼻に。国道海側に歌碑が立つ。「産みに寄す 伏越ゆ 行かましものを まもらふに うち濡らさえぬ 波数まずして」と刻まれる。万葉集1387番の和歌で、万葉仮名では「伏超従 去益物乎 間守尓 所打沾 浪不數為而」となっている。
意味は文字通り読めば「伏越を通って行けばよかったのだけど(行かましものを)、様子を窺っているうちに、波の間合いが計れず(まもらふ)濡らされてしまった」ということだが、恋の告白との意とする記事もあった。磯に打ち寄せる波が激しければ激しいほど浪への畏れはいや増す。それはちょうど自分の恋人に対する恋しさと恐れとの混じり合った心と同じであり、『恋の告白をためらっているいる間に周囲の事情が悪くなり、結局はその恋に破れてしまった嘆きを全体として表している』とする(私の万葉集ノート NO7 著名人それぞれの万葉集談義(日本の名随筆、万葉二より))。 石碑の裏には東洋町が万葉集に詠われることを誇りとする、とも刻まれるが、この伏越が東洋町のこの地と比定はされていないようではあるが、文字通りの解釈からすればこの先に待ち受ける道なき荒磯の難所を想起させ、此の地にぴったりの歌のようには思える。
伏越番所跡
歌碑の国道を隔てた山側、すぐ上に伏越番所があったようだ。東洋町の記事には「伏越ノ鼻、国道のすぐ上にある。江戸時代、甲浦東股番所で旅人は通行手形(自国発行の身分証明書)の確認を受け、土佐一国の通行許可証を発行してもらい、土佐路に入る。野根からは、一般の旅人は野根山街道を通るが、四国遍路は海岸線を通り、24番札所室戸最御崎寺をめざす。このとき伏越番所で通行許可証に裏書きをしてもらう。淀ケ磯はまともな道路もなく、波が荒いと通れない。そんな時、この番所役人が門を閉じて旅人の通行を禁止する」とある。
真念は『四国遍路道指南』に「こゝにてかんの浦切手は裏書いつる。ふしごえ坂、是より一里よは、とびいしとて、なん所海辺也」と書く。
あれこれチェックしたが伏越番所の写真は確認できなかった。
伏越
「フシ」は柴の古語であり、柴山(フシヤマ)・伏原(フシハラ)といわれるように、柴は山野に生える雑木の総称である(民俗地名語彙辞典)。ここ野根は紀州、日向とともに日本三大備長炭の産地である。土佐備長炭の原木はウバメガシであることから、柴山はまさにウバメガシの生い茂る山と云えよう。  「フシ」は「伏」でなく「柴(フシ=ウバメガシ)」と理解したい;との記事があった。

ゴロゴロ休憩所
伏越を過ぎると次の集落のある「入木」までおよそ12キロ。山地がそのまま海に落ち込むといった断崖と荒磯の間を国道が走る。しばらく進むと道の右手に「ゴロゴロ休憩所」。
多用させて頂く東洋町の記事には「ゴロゴロの浜(とび石はね石ごろごろ石) 丸い石ばかりのゴロゴロ浜は「土佐の音100選」の一つ。波が打ち寄せ引き返すたびに丸石が転がってゴロゴロと鳴る。四国遍路がゴロゴロ石を懐に入れると弘法大師のご利益を受けるとされる。淀ケ磯は俗に「とび石はね石ごろごろ石」という。岩から岩へ飛び移り、石から石へ跳ねながら、ゴロゴロ石で転ばぬよう、荒波よせる遍路道を通ったのであった」とある。

室戸岬東岸の地質
国土地理院・地質図
甲浦辺りからの地質を国土地理院の地質図でチェックすると、付加体・砂岩泥岩互層(地質図の薄緑部)と付加体・海成層砂岩(地質図の黄色部)の地層が相互に現れ、時に堆積岩・海岸平野堆積物物の岩質が見える。この構成はこの先、佐喜浜辺りから、付加体・砂岩泥岩互層に替わり付加体・海成層の泥岩質層(地質図の薄青部)が現れ、その構成が高岡辺りまで続く、その間、 大碆の辺りには付加体・玄武岩 海成岩質の帯が東西に走り、三津漁港の手前には海成岩・玄武岩貫入岩の層(後述;地質図の紫部)が見える。
高岡漁港から室戸岬にかけては付加体・砂岩泥岩互層(後述;地質図の薄緑部)、火成岩斑レイ岩(後述;地質図の赤紫部)、付加体・砂岩泥岩互層(後述;地質図の薄緑部)となっている。
基本的には海底に堆積した砂岩・泥岩がプレートの沈み込み時などに生じた地震活動によって隆起した砂岩・泥岩層にマグマ貫入により生じた斑レイ岩や玄武岩によって海岸線が構成されているようだ。
山地が崖となって海に落ちる
で、何故に山がすとんと海に落ち込むような姿になっているのだろう?以下は地質についての素養がないため妄想。通常大地が形成されるときは地震などにより隆起と沈降を繰り返す。東海岸は海底活断層が海岸に沿って延びており、この断層の運動によって陸側が隆起し、断層崖が形成されている、とする。
それはそれでいいのだけれど、河岸段丘ではないけれど、隆起した大地には海成段丘が形成されることも多い。室戸岬西岸の土佐湾側は東岸と一変した発達した海成段丘が見られる。 この違いって?室戸ジオパークの記事に「室戸岬東海岸には沖合2,3キロのところに1000mまで落ち込む崖がある。一方、西海岸の土佐湾では沖合7キロまで100mより浅い海が続く」とあった。 浅い海であれば隆起した大地が台地として残る余地はあるけれど、一気に1000mまで落ち込むような崖に台地ができる余地はないように思える。隆起が繰り返されたとしても、台地ができることなく海底崖にスベリ落ちてしまうように思う。再度繰り返すが、まったくの妄想。なんら根拠なし。

法海上人堂
しばらく道を進むと道の右手に地蔵堂と「法海」と書かれた木標。その奥、すこし上ったところにお堂が見える。お堂の中には 宝筐印塔が祀られていた。お堂横に手水場。その右手に沢が切れ込んでいる。庄屋谷と呼ぶようだ。
「淀ケ磯橋と御崎(オンサキ)との真中あたり、昔ここに木賃宿があった。この木賃宿に法海上人という廻国行者が泊まった。ちょうどその夜は野根の神祭りで、宿の家族達は野根へ招かれて法海だけが宿に残った。翌朝、家族が帰ると米ビツの中がカラッポになっていた。疑いは法海にかかったが、彼は知らぬ存ぜぬで水掛け論になった。ついに法海は「無実の証しに亭に入る」と言って裏山に穴を掘り、生きながら墓に入り即身仏になってしまった。
法海さんは大漁の神様で、昔は室戸岬、佐喜浜、野根方面の漁師や漁協がお参りにきて、たまにはブリ一本が奉納される時もあったという。法海上人のような廻国行者を六部様とか六十六部とも言う。それで、ここの浜を「六部の浜」と呼んでいる(「東洋町の記事」より)」」 とある。
お堂の宝篋印塔は法海上人の墓石とのこと。

堂内は一坪ほどの広さで畳敷き、線香やローソクもあり。お通夜(私注;宿泊)も出来そう。その昔、遍路の避難場、休憩場所でもあったのだろう。お堂は昭和31年(1956)に佐紀浜、平成6年(1994)から7年にかけ年には野根の篤志家の手により再建、平成10年(1998)には台風の被害を受け、愛媛のお遍路さんの尽力で修復されたという。そのお遍路さんは高野山より僧籍を授与され、この庄谷法海上人堂にて得度式をあげられたとのことである。

飛び石地蔵(水尻仏海標石)
国道を進み、室戸市に入ると巨岩が屹立する地蔵ヶ鼻がある。そこに舟形地蔵。仏海上人の「飛び石地蔵」と呼ばれ、「是よりさきのはまへ一り のねへ二り半 願主木食仏海」と刻まれた丁石を兼ねる。
国道はその先で少し開けてた平地となっている入木に入る。





江戸期の遍路道
現在は快適な海沿いの道を遍路するが、道路整備される以前の遍路道は道なき荒磯を辿る難路であったよう。波打ち際を荒磯の岩伝いに歩く危険な難路であった。『梁塵秘抄』には「衣は何時となし潮垂れて、四国の辺道をぞ常に踏む」とある。
伏越ノ鼻より入木までの四里を「淀ヶ磯」と呼ぶが、その間の遍路道を「ゴロゴロ休憩所」とあったように、「ゴロゴ石」と波打つ岩音を行きながら岩を飛び、跳ねて先に進む遍路第一の難所とする。「飛び石、跳ね石」の中を進む四国第一の難所としている。
淀ヶ磯;伏越ノ鼻より入木までの四里はかつての難所(Google Mapで作成)
此の難所について、真念は『四国遍路道指南』に「ふしごえ坂、これより一里よハとびいしとてなん所、海辺也」とのみ記すが、承応二年(一六五三)四国を遍路した澄禅はその『四国遍路日記』に、「六日早天宿ヲ立テ、彼ノ音ニ聞土州飛石・ハネ石ト云所ニ掛ル。此道ハ難所ニテ三里カ間ニハ宿モ無シ。陸ヨリ南エ七八里サシ出タル室戸ノ崎へ行道ナリ。先東ハ海上湯々タリ、西ハ大山也。京大坂辺ニテ薪ニ成ル車木ト云材木ノ出ル山也。其木ヲ切ル斧ノ音ノ幽ニ聞ユル斗也。其海岸ニ広サ八九間十間斗ニ川原ノ様ニ鞠ノ勢程成石トモ布キナラベタル山ヲ飛越ハネ越行也。前々通リシ人跡少見ユル様ナルヲ知ベニシテ行也。或ハ又上ノ山ヨリ大石トモ落重テ幾丈トモ不知所在リ。ケ様ノ所ハ岩角ニトリ付、足ヲ爪立テ過行。誠二人間ノ可通道ニテハ無シ。此難所ヲ三里斗往テ仏崎トテ奇襲妙石ヲ積重タル所在リ 爰二札ヲ納」と書く。
因みに、「仏崎トテ奇襲妙石ヲ積重タル所在リ 爰二札ヲ納」と「奇岩積み重なる仏碕。ここに(爰)札を納める」とするのは上述地蔵ヶ鼻の飛び石地蔵のことと思う。
伊能忠敬も、『伊能測量隊旅中日記』の文化5年4月21日に「一今六時頃過出立野根海辺より測量始。海岸即四国八十八ヶ所遍路道に而飛石筑(跳)石ころころ石といふ岩石上を歩行道あり。夫より佐喜浜浦に至る」と「ころころ石」を飛び跳ねながらの測量を伝える。

入木(いるき)の仏海庵
山地が海に落ち込んだ断崖と荒磯の間の一本道を辿った遍路道は、入木川の河口に開けた入木の集落に入ると国道55号を右に逸れ旧道に入る。少し進むと道の右手に仏海庵があった。お堂の右手には「仏海上人百五十年法会頌徳碑 大正七年」と刻まれた石柱、左手には「是より東寺迄五里」と刻まれた徳右衛門道標が立つ。
庵に入ると祭壇、そのまま庵を裏に抜けると宝篋印塔。即身成仏した仏海を弔う。
お堂の前にあった手書きの案内には、「仏海庵 仏海は伊予北条市の生まれ。宝暦一〇年(一七六○)この地に駐錫し仏海庵を起こして淀ヶ磯難渋の遍路を救い、衆生教化に尽した。宝篋印塔を建て、明和六年(一七六九)旧十一月一日、塔下暗室で即身成仏した、七十歳。
生前全国霊場を巡り修行して木食の境界に入り、四国八十八ヶ所巡拝二十四回に及び、地蔵尊像彫刻三〇〇〇躰に達したという」とあった。

徳右衛門道標を立てた武田徳衛門も伊予今治の朝倉村の生まれ。仏海の生まれた伊予北条猿川村とそれほど遠くない。遠く離れた土佐の地に同郷のふたりの事績が並ぶ。

佐喜浜
仏海庵からの旧道を進み国道55号に出る。少し国道を進み佐喜浜の町に入る手前で国道を左に逸れ旧道に入る。佐喜浜八幡、浜宮神社を見遣り佐喜浜川に架かる佐喜浜橋(昭和4年架橋)に。通行止めのため一度国道に迂回し旧道に戻り、佐喜浜の町を抜け佐喜浜漁港の先で旧道は国道に出。佐喜浜は崎浜とも書く。
「佐喜浜城主大野家源内奮戦跡」の石碑
国道に出る手前に大きな石碑。「佐喜浜城主大野家(私注;おおやけ)源内奮戦跡」の石碑。碑には「往古天正の戦雲にあたり此の地に奮戦せし豪将勇士の冥福を祈り明治三十一年生七十三歳の同士槍掛松跡に碑を立つ」と刻まれる。
石碑の脇に「源内槍掛けの松」の案内。「佐喜浜城主の大野家源内左衛門貞義が長宗我部元親の阿波侵攻の道を開くのをはばむため戦った佐喜浜合戦は有名である。寄手300人、佐喜浜方200人がこの戦で討死したと言われる。
源内は縦横無尽に戦い、えびす堂前、本陣の前の松の木に槍を打ち掛け、一息入れ寄せ手の沢田太郎右衛門と対決したが源内左衛門は突き伏せられ、佐喜浜勢は総崩れとなり、老人、子供までも殺されて、生き残りは20~24人であったと言われる。 松は昭和6年(1931年)3月20日に倒れて今は無い」とあった。

鹿岡(かぶか)鼻の夫婦岩
佐喜浜の集落を離れ国道55号に戻る。尾崎川が開いた尾崎の集落は国道を右に逸れ、直ぐ国道に戻り立岩を過ぎると道の先、屹立する4つの岩が見える。近づくと、山側の二つは道路工事で開削された切通であった。海側が旧道開削時のもの。山側の切通が現国道の切通し。真念も「かぶか坂」とその著『四国遍路道指南』に記す。
夫婦岩は岩礁部に並ぶふたつの大岩。波触・風蝕により蜂の巣構造と風紋の表面が見える。 夫婦岩碑には、「南路志に云う往古より大晦日の晩夫婦岩の間鵜の碆に「竜燈」がともるとこの神火を地元では「かしょうさま」と云い立岩の峯々を超えて大滝の上に舞い上がり四方山麓の家々に請じ入れられて六年を迎える浄火となったと云う」とある。
鵜の碆の「碆」はやじりの石の意と言うが、海水により見え隠れする岩の意とする記事もあった。「波」と「岩」の組み合わせでできる文字。言い得て妙である。

椎名
鹿岡、清水の集落を越え椎名の湊に。椎名はかつて捕鯨で栄えた漁港と言う。椎名に漁がはじまったのは藩政期。室戸岬西岸の室津、呂津に野中兼山により港が開かれてから。この椎名で鯨漁がはじまるのは、寛永初年(1624)津呂で突取捕鯨が始まり次いで津呂、室津両港が修築され捕鯨が始まり、漁労技術がこの地に伝えられたようである。
室戸には津呂組と、浮津組の二つの鯨組があり、江戸時代のはじめから明治の終わり頃まで網と銛で鯨を捕ってた。椎名は津呂組捕鯨が進出して冬漁の基地となった。
漁法は土佐古式捕鯨と称されるもの。鯨船には勢子船、網船、もっそう船があり全部で30そうの船で漁師達が力を合わせて鯨を捕り、鯨網に追い込んで何本もの銛を打って弱らせ、船にくくりつけてから剣でとどめをさしたという。
椎名捕鯨山見跡
椎名には捕鯨山見跡があり、明治末期の古式捕鯨終焉まで営々とその役割を果たしてきた、とのことである。





日沖の大礁・大碆(おおばえ)
捕鯨山見跡の先、国道を逸れ旧道に入り椎名川開いた椎名の集落を抜け国道に復帰。少し進むと岩礁部に「大碆」と地図にある。地図には日沖・丸山海岸とある。
その岩礁部に巨大な岩が重なる。これってなんだろう?「日沖の大礁」という記事がみつかった。「三津の岩屋から日沖港北にかけて、いわゆる日沖海岸は海底火山の活動を示す溶岩や、玄武岩質集塊岩がある。枕状溶岩は、海底火山の噴出物が水によって急激に冷却され、枕状に水中で形成されたものである。上部は丸く膨らみ下部は凹んで固まるものであるから、この大礁は上下が反転している。これは陸上部の岩が転がり落ち反転したものと考えられる」とある。

国土地理院・地質図
上述の如く国土地理院の地質図を見ると、大碆の西に聳える四十寺山辺りはすべて砂岩(地質図の黄色部)か泥岩(地質図の薄青部)の付加体であるが、この大碆に続く一筋の地層だけが付加体・玄武岩(地質図の濃緑部)と表示されていた。「四十寺山層は砂岸から成るが、その基盤は玄武岩類で、大碆などに有る柱状溶岩も四十寺山層の玄武岩分布域から海岸にもたらされた巨大な転石である」と言った記事もあった。
因みに、地質図の下部の紫部は玄武岩貫入岩ではあるが付加体ではなくマグマが冷え固まってできた火成層とある。














志賀丸遭難者慰霊碑
大碆の国道を隔てた山側に「志賀丸遭難者慰霊碑」案内が立つ。「昭和十九年五月三十日、この沖合約千五百米を高知より大阪に向けて航行中の貨客船、滋賀丸約九百トンは、アメリカ潜水艦の魚雷攻撃を受け瞬時にして沈没した。
当時は報道を禁止され、詳細は不明のまま三十年が過ぎた。室戸ライオンズクラブはこの痛ましい霊を慰めるべく、極力調査の結果、幼児を含む三十七名の遭難者を確認、その御霊を祭って昭和四十九年五月三十日、眼下の波打ち際に慰霊の碑を建立した。以来毎年この命日には遺族と共に慰霊祭を行っている。平成十四年五月三十日  室戸ライオンズクラブ」とあった。
石碑は案内板の国道を隔てた岩礁部に立つ。


厄除弘法大師坐像〈中務茂兵衛建立)
一本道の国道を進むと、山側の巨岩の下の窪みに、隠れるように石造が佇む。台座を含め1.5mほどもあるだろうか。台座には「厄除弘法大師」の文字と共に「為二百二十四度目供養 中務茂兵衛 明治四十一年」といった文字が茂兵衛の在所住所と共に刻まれていた。
海の美しさに気をとられていると見過してしまいそうな場所である。


三津漁港
山地が直接海に落ちたような地形の地を進んで来た国道が、山地と岩礁の間に少し平地が開けたところに三津の漁港がある。この漁港も藩政期享保3年(1718)港の改修が行われてから捕鯨漁が行われた。漁場は日沖の大礁から室戸岬一帯の海域であった、とのことである。
国土地理院の地質図を見ると、周囲が玄武岩・貫入岩、付加体・海成層泥岩であるが、この三津の辺りが東西に付加体・海成層砂岩とある。山地と海の間に開けた平地と関係あるのだろうか。

青年大師像
高岡漁港を越えると道の右手に巨大な大師像。「室戸青年大師像」とある。昭和59年(1984)開眼。高さ21mとのこと。弘法大師生誕千百五十年を記念してのもの。











御蔵洞
少し南、山側の岩壁の下に波の侵食作用でできた洞窟がjふたつある。標識には「みくろどう」 「御厨人窟と神明窟」とある。
御厨人窟と神明窟をあわせて「みくろどう」と称するようだ。左の洞窟が大師が修行された御厨人窟。「西の窟(くつ)」とも称されるようだ。洞窟は奥行6メートルくらいだろうか、広々としたスペースの奥に御所神社が祀られている。右側は神明窟。「東の窟」と呼ばれ祭神は大日愛貴(オホヒメノムチ=天照皇大神の別名を祀る。
洞窟の入口には海蝕による落石を防ぐため鉄製の防護屋根が設置されていた。

大師の虚空蔵求聞持法の修行成就の地
大師はこの洞窟で虚空蔵求聞持法の修行をおこない、幾度も挫折したその大願を成就したと言う。大師自ら著された『三教指帰』に、「爰(私注;ここ)に一沙門有り余(私注;われ)に虚空蔵求聞持の法を呈す」とあり、その修行について「阿國大滝岳にのぼり(私;注原文旧字)攀(私注;よ)ぢ、土州室戸崎に勤念す、谷響を惜まず、明星来影す。」とある。十九歳の大師は此の御厨人窟(御蔵洞)にこもって修行され、阿國大滝岳(私注;第二十一番札所太龍寺)でも得られなかった「求聞持の法」を苦行のすえ成就した。
虚空蔵求聞持法の修行
『弘法大師伝記集覧』には、「太龍寺舎心嶽の岩上での虚空蔵求聞持法の修行も、その悉地(祈願成就)を得ることなく、ために、一命を捨て三世の仏力を加えるべく岩頭から身を投げる(捨身)も諸仏によりその身を抱きかかえられ本願を成就した」とある。
虚空蔵求聞持法の修行のことだが、虚空蔵菩薩の真言「ノウボウ アキャシャキャラバヤ オンアリキャ マリボリソワカ」を百万遍唱えることにより、一切の教法を暗記できるとする難行苦行。大師も幾度か挫折したとある。
大師自らの『御遺告』には「名山絶瞼のところ、嵯峨たる孤岸の原、遠然として独り向い淹留(おんりゅう)して苦行す。或は阿波の大滝の嶽に上って修行し、或は土佐の室生門の崎に於て寂暫して心観すれば明星口に入り、虚空蔵光明考し来て菩薩の威を顕わし、仏法の不二を現す」とあり、 虚空蔵求聞持法の修行は太龍寺、舎心嶽での苦行の末、土佐の室戸において大願成就したようである。

空海の名
青年真魚が大学を中退し入唐までの足跡は不明なことが多い。優婆塞としての修行の時代というが定説はないようだ。名も「無空」。「教海」、「如空」と改名し、空海と改名したのはこの室戸の海と空に接したこの洞窟修行での大願成就との説もあるが、延暦23年(804)、東大寺戒壇院での得度受戒の時との説が有力視されている。31歳のときである。
「法性の室戸といえど われすめば 有為のなみかぜ たたぬ日ぞなし」。勅撰和歌集に載る弘法大師作として唯一残る和歌に室戸を詠んでいる。

海蝕崖
Wikipediaにはこの洞窟を「隆起海蝕洞である。洞窟前の駐車スペースとなっている場所は波食台であり洞窟上部の崖は海食崖である」とする。室戸ジオパークの記事には「御厨人窟」と「神明窟」は、共に約1500万年前~700万年前、マグマが地下の深いところで冷えて固まった「斑れい岩」が、プレートテクトニクスによる隆起運動によって地上に持ち上げられ、太平洋の荒波に曝された断崖に発生した「海蝕洞」である。
斑れい岩そのものは緻密であるが、隆起運動による複雑な営力を受けた結果、亀裂には数多くの亀裂が発達している。その結果、岩壁はもろくなっており、随所に岩盤崩壊の跡を見ることができる。
看板の左にある三角形の岩塊は、ひょっとするとすぐ左にある垂直の壁が剥がれたものかもしれないが、周囲に堆積している土砂の様子から、かなり古いもののようである(地質的年代では新しいかもしれない」とあった。
看板の左にある三角形の岩塊とは天狗岩のことだろうか。言われてよく見ると、天狗に見えて来た。

乱礁遊歩道
御蔵洞(みくろどう)に眼前に広がる岩礁部の見どころ案内があった。地形には興味あるものの、地質は門外漢には少々荷が重く、さてどうしたものかと思いながらも、歩けば奇岩・巨岩が並ぶ岩礁の成り立ちなどに少しはフックがかかるものかと、ちょっと立ち寄ることに。

ビシャゴ岩
御蔵洞の少し北の岩礁部に屹立する大岩・ビシャゴ岩へと向かう。国道を少し北に戻ると、海岸に乱礁遊歩道へのアプローチ。国道を逸れて遊歩道をビシャゴ岩へと向かう。
「ビシャゴ岩は斑レイ岩からできている。約1400万年前、マグマが地層に貫入(入り込むこと)して固まったとされる岩で、水平に貫入したものが、その後の地殻変動により、ほぼ垂直に回転したものである。左から順に駒細かい粒ー粗い粒とマグマが冷やされたマグマの時間の長さにより模様が変わる。この岩には「おさご」という絶世の美女にまつわる伝説がある」との案内があった。



国土地理院・地質図
国土地理院の地質図を見ると、このビシャゴ岩の北と室戸岬突端部の少し手前辺りは付加体・砂岩泥岩(地質図の薄緑部)の岩質とあり、それに囲まれるようにビシャゴ岩から後述烏帽子岩あたりまで火成岩・斑レイ岩の岩質の帯(地質図の赤紫部)が室戸岬西岸に帯となって斜めに延びていた。
室戸岬は、南海トラフからユーラシアプレートの下に沈み込むフィリピンプレート帯の沿って起こる巨大地震によって引き起こされた大地の隆起により形成されたとするが、上述 「約1400万年前、マグマが地層に貫入して固まった」とは海底下で起きた活動であり、その後隆起により眼前の姿を呈したということだろう。
なおまた、「地殻変動により垂直に反転した」とはビシャゴ岩のことであり、岩礁部の斑レイ岩層は反転することもなく、「水平」なままの姿を呈している、ということかと「読む」。
おさごの伝説
津呂の町におさごという漁師がいました。おさごは、このあたり一体で、比べもののない美人だったそうですその美しさはめっそうな評判になり、毎日あっちの村、こっちの村から若衆たちがおしかけてきたそうな。
おさご見物にあんまりたくさんの人たちがやってくるので、おさごは何をするにしても人の目を意識せずにはおられなかった。それでとうとう身も心も疲れ果ててしまった。(こんなに私がつらい目にあうのもみんな美しく生まれたせいだから、そうだ汚くしよう)
 こう思いついたおさごは、顔になべずみをぬり、わざと縞目もわからぬようなぼろの着物を身にまとうた。でも、こうしたおさごの苦心の変身も、おさごの美しさに魅せられた若衆達の心をそらす事はできなかった。あまりのうとましさに、おさごは、ある夜こっそり家をぬけだし岬へむかった。ここにはたくさんの大きな岩が海に向かってそそりたっているが、その一つ「びしゃご礁にあがると「これからは、私のように、つらい娘ができませんように」こう祈ると海の中に身をなげて死んだということである。(室戸市史 下巻より)

弘法大師行水の池

ここには隆起したノッチ(波食窪)。 波食窪は海水面近くで形成されるものだが、行水の池は標高6mほど。室戸岬は現在でも1000年に1,2m隆起していると言うから、3000年頃前には海水近くにあった、ということだろう。空海修行の頃は現在より1、2メートル程低いわけであろうから、ほとんど波しぶきのかかる辺りであったのだろう。
室戸岬の山頭火
夫山頭火はその日記に、「室戸岬の突端に立ったのは三時頃であったろう、室戸岬は真に大観である、限りなき大空、果しなき大洋、雑木山、大小の岩石、なんぼ眺めても飽かない、眺めれば眺めるほどその大きさが解ってくる、......ここにも大師の行水池、苦行窟などがある、草刈婆さんがわざわざ亀の池まで連れて行ってくれたが亀はあらわれなかった、婆さん御苦労さま有難う」と書く。 
行水池はこの地、苦行窟は御蔵窟。亀の池はどこだろう。 「波音しぐれて晴れた」、「かくれたりあらはれたり岩と波と岩とのあそび」、「海鳴そぞろ別れて遠い人をおもふ」などを詠む。

ウバメガシ・アコウ
遊歩道覆う高さ2,3mの常緑樹はウバメガシ。本来は真っすぐにのびる幹だが、強風のため屈曲している。土佐備長炭の原料ともなる。アコウの巨木は岩を抱えるように根をのばす。









エボシ岩
遠くから見ると「烏帽子」のように見えることから名付けられた。この岩も斑レイ岩。花崗岩に似ているが、黒い結晶の割合が多い。










火成岩・斑レイ岩の岩質帯から付加体・砂岩泥岩の岩質層に
烏帽子岩から南は付加体・砂岩泥岩の岩質層(上掲載地質図の薄緑部)となる。縦に縞模様が刻まれる奇岩があり、タービダイトとある。タービダイトとは乱泥流堆積物のこと。砂や泥が海水と混ざった流れによって海底に降り積もってできたシマシマの地層のことです。奇岩の縦じまは水平に堆積した後、回転して立ち上がったため縦向きの縞模様になったようだ。
タービダイト層が折れ曲がり、一部バラバラになっているのは、大陸プレートに押し付けられた際に変形したた、と言う。
タービダイト
「川によって運ばれる砂粒や泥は、河口から海に流れ出て近海の海底に堆積します。厚さが増すと自重の圧力により水分が抜けて堆積岩へと変化していきますが、海底の急斜面などに降り積もった不安定な堆積物は、地震などが引き金となって、一気に深海へと崩れ落ちて行くことがあります。砂や泥などが混ざりながら一気に落ちて行きますが、その粒子の大きさにより落下速度が異なるため(砂粒の方が早く落ちる)、砂と泥がわかれて深海底に堆積します。これを「砂泥互層」、または「タービダイト」と呼びます。室戸岬の白黒ストライブの岩礁は、四国沖の南海トラフの水深4000mの海底にたまったタービダイトだったのです(「室戸ジオパーク」の記事より)。
付加体
深海に降り積もったタービダイト層は、どのようにして地上に現れるのでしょう。 日本列島に沿うように走る海溝やトラフは、海洋プレートが大陸プレートの下に沈み込む場所にあたります。海洋プレートの上には、プランクトンやサンゴの死骸、大気中を漂う塵や火山灰などが堆積しています。さらにそこにタービダイト層が加わります。これら堆積物は、海洋プレートと一緒に大陸の下に潜ることはできず、リンゴの皮を剥くように、大陸のヘリによって海洋プレートからはがされてしまいます。
行き場のないこの堆積物は、そのまま大陸のヘリに次々と押し付けられていき、新たな陸地へと生まれ変わります。これを「付加体」と呼んでいます。海洋プレートが沈み込む場所にだけ見られる陸地化の現象です(「室戸ジオパーク」の記事より)。
ホルンフェルス
砂岩泥岩層と火成岩・斑レイ岩層の接するあたりに「ホルンフェルス」堆積岩層に斑レイ岩をつくった高温のマグマが貫入し、その溶岩によって堆積岩が焼かれて変成し固くなった変成岩である。
班レイ岩(一部は玄武岩)とホルンフェルスの境界には、泥が溶けて固まった花崗岩が見られる、と。






土佐日記御崎の泊碑
海食台の上に立つ碑に「土佐日記御崎の泊」と刻まれる。この石碑の建っている場所が少し、平らな岩になっているが、これは、『波食台』。
土佐日記には室津の港を出た船は、雲行き怪しきため引き返したが、その港が室津との説とこの浜との説があるようだ。
この辺りの浜は岩礁がなく、土佐日記の掛れた頃はもっと土地と海が近く、自然の港のようになっていたのでは、と言う。
「都にて やまのはに見し 月なれど なみより出でて なみにこそ入れ」と紀貫之が詠った句に月が海から出るとあるが、それは室戸の東側でなけらば見えないでしょうと、此の地に泊まったことのエビデンスとする説もあるようだ。
なお、この場所では南海地震によって土地が隆起した跡が見られる。

弘法大師目洗いの池
目洗いの池は、空海がこの水を使って、諸人の眼病を癒したと伝えられています。どんな晴天にも干上がることがなく、水位が一定だという伝説がある、と。








国道55号に戻る
この辺りで乱礁遊歩道から国道55号に戻り、少し南の中岡慎太郎の像を見遣り、国道を戻り最御崎寺への旧遍路道取り付き口に向かう。
中岡慎太郎象
中岡慎太郎は、海援隊長の坂本龍馬とともに活躍した明治維新の勤王の志士。慶応3年11月15日(1867年)京都河原町の近江屋で刺客に襲われ、龍馬とともに落命。この時慎太郎は30才。 この像は昭和10年安芸郡青年団が主体となって建てられた。








最御崎寺への旧遍路道

旧遍路道取り付口
国道山側に逸れる舗装された坂道。入り口にはいくつもの最御崎寺(ほつみさき)への案内が立つ。4mほどの石柱には「四国第廿四番霊場東寺最御崎寺」と刻まれる。「室戸岬灯台徒歩20分」、木標で「捻岩」、その他多くの歩き遍路タグが貼られる。その入り口の少し先に標石。手印と供に「へんろみち 大正五年」といった文字が刻まれる。


大師一夜建立の岩屋
坂を上ると直ぐ広場。岩場に洞窟が見える。洞窟入り口「第廿四番奥の院」の石碑が立ち、七観音と大師像が並ぶ。間口が幅1.2m,高さ2.3m,奥行き9mの洞内には小さ祠が祀られていた。
案内には「空海(弘法大師)が一夜で建立したと伝えられる岩屋で、現在、最御崎寺の奥の院。
寺伝では、空海が唐からお持ち帰りになった石像が安置されていた場所。
明治初年までは、女性の納経所はここにあって、本堂には登らず女道を通って25番行ったところです」とある。
空海が唐からお持ち帰りになったと伝わる石像は如意輪観音。江戸時代に発見されたと言う、地元の漁師が大量祈願で石を欠きとり一部破損しているようだが、平安時代作の大理石像は珍しく、重要文化財に指定され現在は最御崎寺の宝物殿に保管されているようだ。
最御崎寺は明治初年まで女人禁制であり、ここで札を納め室戸の岬を廻り次の札所に向かった。 尚、この地に求聞持堂があるとの記事が多いが、現在はお堂はなくかっていた。
寂本は「四国遍礼霊場記」 に「山下の岩窟口の広さ六七尺、奥へ入事六七間、内に如意輪観音の石像長二尺ばかり也。竜宮よりあがり玉ふとも云。人間のわざとは見えず、あやしむべしとなり。巨石にて厨子あり、内に二金剛を置。両とびらに天人あり、皆うけぼりにしたり。心目をまじゆるにあらずば、言語ののぶる所をもて察すべきに非ときこゆ。
東の大窟、奥へ入事十七八間、高さ1丈或は二丈三丈の所もあり。広さ二間三間或は五間十間の所もあり。太守巨石を以、五社を建立せられ、愛満権現と号す。是はむかし此窟中に毒竜ありて人民を傷害しけるを大師駆逐して、其迹に此神を鎮祠し玉ふとなり。
又其東に窟あり、天照大神の社あり、坂半に聞持堂あり。坂より上は女人禁制なり」と記す。

捻岩
広場の洞窟対面には忠魂碑。昭和40年建立。日清戦争以降の戦没者の霊を祀る。最御崎寺への遍路道はこの忠魂碑脇、ブロック塀の脇の道に入る。入り口には「最御崎寺 本堂 六九六米」と刻まれた標石が立つ。
コンクリートで固められた石段を数分のぼると「捻石」の案内。大師の母である玉依御前が、修行中の大師の身を案じてここを訪れた際ににわかに暴風雨となったため、大師がこの岩を捻じってその中に避難させた と伝えられる。

最御崎寺・室戸スカイライン分岐
山道途中に休憩もあるのだが、木々が邪魔して展望は効かなかった。捻岩から20分弱、コンクリート石段も切れ、石の敷かれてた山道を上り、高度を100m弱上げると最御崎寺と室戸スカイライン分岐の木標が立つ。その木標を最御崎寺方向に向かい数分、室戸岬への分岐点を越えて最御崎寺山門前に出る。



第二十四番札所最御崎寺(ほつみさきじ)

山門
山門は仁王門。4mほどの仁王像。寛永十年の作と伝わる。
岩見重太郎・薄田隼人の塚
山門右手に小堂。「岩見重太郎・薄田隼人の塚」とあり、「生没年 慶長20年5月6日 豊臣秀吉に馬廻衆として仕えたと伝わる。秀頼には三千石で仕えていた。剣の道を極めるため、諸国を武者修行の旅に出たが、天橋立での仇討の助っ人をした話や信州松本の吉田村で狒々退治をした話など著名。大阪冬の陣と言われる慶長19年11月には大いに戦って有名をとどろかし、さらに翌元和元年五月の夏の陣では、ついに惜しくも戦死したと伝えられる」とあった。 豪傑岩見重太郎の狒々(ひひ)退治伝説は、全国各地に残る。団塊の時代の我々世代はよく知る名前である。
薄田隼人は講談で名高い岩見重太郎のモデルと言わる武将。豊臣秀頼に仕え大阪冬・夏の陣に参戦した。岩見重太郎は薄田隼人をモデルに、各地に残る狒々や大蛇退治といって豪傑伝説を取り入れ、講談家の手により創り上げられた人物のようである。
お堂の中には宝篋印塔の石を活用した五輪塔が祀られている。

本堂・大師堂
仁王門を入ると右手に幾多の石仏が並ぶ。その先に袴腰造の鐘楼堂。慶安元年(1648)建立。次いで虚空蔵菩薩石像、多宝塔などが建る。
左に大師堂。大師堂右側に徳右衛門道標が立つ。「是ヨリ津寺迄一里」と刻まれる。この先左手に手水場、納経所があり正面に本堂が建つ。

本堂裏には霊宝殿、聖天堂、護摩堂などが並び、最奥の宿坊である遍路センターの建物内には遍路休憩所がある。

Wikipediaには「最御崎寺(ほつみさきじ)は、高知県室戸市室戸岬町にある真言宗豊山派の寺院。室戸山(むろとざん)、明星院(みょうじょういん)と号す。本尊は虚空蔵菩薩。土佐で最初の札所である。
室戸岬では東西に対峙している第二十六番札所の金剛頂寺を西寺(にしでら)と呼ぶのに対し、東寺(ひがしでら)と呼ばれる。寺号は「火つ岬」(火の岬)の意。
空海は都での学問に飽き足りず、19歳の延暦11年(792年)頃からの約5年間、山林修行を続けた。空海の『三教指帰』には「土州室戸崎に勤念す」(原文は漢文)とあり、室戸岬にほど近い洞窟(御厨人窟)で虚空蔵求聞持法に励んだとされる。
寺伝によれば空海は大同2年(807年)に、嵯峨天皇の勅願を受けて本尊の虚空蔵菩薩を刻み、本寺を開創したとされる。当初は奥の院四十寺のある四十寺山頂にあり、現在地に移ったのは寛徳年間(1044年 - 1055年)頃といわれている。
嵯峨天皇以降歴代天皇の信仰が篤かった。延久2年(1070年)の『金剛頂寺解案』(こんごうちょうじげ あん)によれば、現・室戸市域の大部分が金剛頂寺(西寺)の寺領となっており、最御崎寺(東寺)は金剛頂寺の支配下にあったことが窺われる。鎌倉時代末期から室町時代初期にかけては、金剛頂寺の住持が最御崎寺を兼帯していた。正安4年(1302年)には後宇多上皇から寺領を寄進されているが、これは京都槇尾西明寺住持で東寺・西寺の住持を兼帯していた我宝の尽力によるものであった。
暦応4年(1341年)、足利尊氏によって土佐の安国寺とされる。その後火災により焼失したが、元和年間(1615年 - 1624年)には土佐藩主山内忠義の援助を受け僧の最勝が再興する。堂塔を建立、七堂伽藍を有したという。明治に入って神仏分離令によって荒廃するが、大正3年(1914年)には再建された。また、女人禁制の寺で岬からの登山口脇にあった女人堂から拝んでいたが、明治5年に解禁された。阿南室戸歴史文化道の指定を受けている」とあった。
〇ほつみさき
Wikipediaに「寺号は「火つ岬」(火の岬)の意」とある。「火つ岬」>ほつみさき>最御崎ということだろうが、「ほつ」に「最」をあてる?あれこれチェックするが「最」を「ほつ」と読むのは「最手:ほて、ほって(優れた腕・技;横綱)」の一例しか見つからなかった。それも、何故「ほて、ほって」と読むかわからない。何故だろう。

クワズイモ畑
本堂すぐ横には空海の七不思議のひとつ「くわずいも」の伝説にちなんだクワズイモ畑がある。昔、土地のものが芋を洗っているところに弘法大師が通りがかり、その芋を乞うたところ「これは食えない芋だ」といって与えなかった。それ以来ほんとうに食べられなくなったと伝えられる。現在は胃腸の薬として利用される。


鏡岩
本堂参道左手に鏡岩。サヌカイトの石塊。握りこぶしほどの丸石で叩くと、その音は冥途まで届くと言う。
空海の七不思議
空海の七不思議としてつたわるのは上、くわずいも、 鐘石。既述の観音窟、行水の池、目洗いの池、 ねじれ岩。そして 明星石。
明星石には出合っていない。寂本の「四国遍礼霊場記」には、「大師修行の時、来影せる明星はき出し玉へば五色の石となり、いまにあり、今明星石といふ是也とかや。山下に光明石と云有、大師勧修の時竜
鬼障碍をなしける時、呪伏して涕唾し給ふに、傍の石に付て光明ありしかばいふとなん」と、星のように光を放ち、毒龍の妨げを防いだという伝説の石と記す。
あれこれチェックすると、特定の石ではなく、室戸岬に分布する斑レイ岩のことのようだ。別名は明星石と呼ばれるが、これは、空海が金星(明星)を見ながら修行をしたことと、斑レイ岩がキラキラと光って星のようだからということから名付けられた、と室戸ジオパークの記事にあった。

室戸岬灯台
仁王門まで戻り、少し坂をくだると岬突端に室戸岬灯台が立つ。眼前に広がる太平洋の眺めは、いい。案内には「室戸岬灯台 日本一の一等レンズ 四国の南東端に位置する室戸岬灯台は、明治32年(1899年)4月1日に完成した。その後、昭和9年(1934年)の室戸台風と戦災、昭和21年(1946年)の南海地震で灯台のレンズが破損し、修理を行いました。
鉄造りの灯塔はほとんど被害はなく、建設当時の姿を残しています。光源は、最初石油を使用しておりましたが、大正6年(1917年)12月に電化されました」とあり、光の届く距離は約49キロメートルで日本一の光達距離。日本一第1等レンズの「日本一」はこの光達距離を指すのだろう。
一等レンズ
第1等レンズとはレンズ直径 259 cm、焦点距離 92 cmのことを指す。を使用した灯台で、第1等レンズをもつ灯台を第1等灯台と呼び、日本では、現在5ヶ所しかない。
レンズの大きさには第一等から第六等まで(第三等は大・小二種)の計7種類に分けられる。

今回のメモはこれでお終い。次回は最御崎寺から室戸岬西海岸の土佐湾に面した札所を辿る。

阿波最後の札所・薬王寺の次は土佐の最御崎寺(ほつみさき)。薬王寺のある日和佐から最御崎寺のある室戸岬突端部まではその距離おおよそ80キロ。今回のメモは日和佐の薬王寺から阿波と土佐の国境まで、おおよそ50キロの遍路道をメモする。当日、実際にこの距離を歩いたということではない。メモの区切りとして国境という響きがよかろうというだけの理由である。
ルートは薬王寺を離れ、日和佐川に沿って県道36号を進む奥の院泰仙寺道を選んだ。薬王寺門前の自然石標石が「奥之院玉厨子山 是ヨリ二里」と刻み、茂平道標が「東寺へ二十一里」と北を指すその道筋が奥の院道である。
茂兵衛道標の手印に従い国道55号を少し北に戻り、日和佐川手前で県道36号に乗り換え、西河内集落を越え奥の院泰仙寺との道を分ける落合に。奥の院道を選びながら、時間の都合もあり奥の院泰仙寺をパスするという為体(ていたらく)ではあったが、落合から南に下り、日和佐川支流の山河内谷川を上流へと進み、山河内集落で国道55号筋に合流。
山河内からは国道55号に沿って山河内谷川の源流域まで詰め寒葉峠を越える。峠は分水界となっており、峠を越えると牟岐川水系の橘川に沿って国道55号を進み、川又で牟岐川に合流。海岸部に開けた牟岐の町へと牟岐川を下る。
牟岐から浅川までの12キロほどは、「土佐街道」の標識を目安に国道55号と「土佐街道」を出入りしながら進む。この区間はその昔、八坂八浜と称され八つの丘陵と浜を上り下りした遍路泣かせの難路であったとのことだが、それは今は昔のお話。いくつかはそれらしき風情の土径旧道が残るものの、現在は道路整備されており、どこが難所の八坂八浜かメモの段階で特定するのに苦労したほどではあった。
それはともあれ、浅川からは丘陵を越えて海部に入り、那佐、宍喰を経て甲浦手前の阿波と土佐の国境に着いた。

常のことながら、メモの段階でわかったことだが、今回も「後の祭り」が多くあった。薬王寺からの山河内集落に出る遍路道も、今回歩いた奥の院道のほか、現在の国道55号筋を進む「横子峠」越、丹前峠越のふたつのルートがあった。
また山河内から牟岐に出る遍路道も、丘陵を越えて海岸の集落である水落に下り、海岸線を牟岐に向かうルートもあった。『四国遍路日記』の澄禅の辿ったルートとも推定されている。
海部から宍喰への遍路道も今回歩いたルート以外に、馬路越、居敷越といった峠越えのルートがあった。
宍喰から土佐の甲浦への道も今回歩いた岬寄の道の他、宍喰峠越えのルートもあった。

歩く前は、今回は国道沿いの遍路道で少々味気ないなあ、なとど思っていたのだが、ちょっと調べれば「峠萌え」にはフックのかかるルートがいくつもあった。阿波の南東部は四国遍路を一巡した後、「後の祭り」フォローアップに出かけてもよさそう、なとど思っている。 ともあれ、メモを始める。

本日のルート;23番薬王寺>落合橋南に標石>国道55号交差箇所に茂兵衛道標(210度目)>打越寺>辺川集落の標石2基>小松大師>東川又地蔵堂の標石>山頭火歌碑>牟岐>大坂峠取り付き口( 八坂八浜:最初の坂 )>大坂峠>標石>草履大師>内妻の浜(八坂八浜:最初の浜)>内妻トンネル手前左に逸れ松坂峠取り付き口に(松坂;八坂八浜2番目の坂)>松坂峠>古江浜(八坂八浜;2番目の浜)>福良坂(八坂八浜;3番目の坂)>福良浜(八坂八浜;3番目の浜)>鯖江坂(八坂八浜;4番目の坂)>鯖大師>鯖瀬浜(八坂八浜;4番目の浜)>萩坂(八坂八浜;5番目の坂)>大綱浜( 八坂八浜;5番目の浜 )>鍛冶屋坂( 八坂八浜;6番目の坂 )>鍛冶屋浜( 八坂八浜;6番目の浜)>栗浦坂( 八坂八浜;7番目の坂 ) >栗ノ浜( 八坂八浜;7番目の浜 ) >仮戸坂( 八坂八浜;8番目の坂 ) >三浦浜(八坂八浜:8番目の浜 )>大郷の標石>海部の町に入る>那佐湾>宍喰(ししくい)>古目大師>宍喰浦の化石漣痕(国指定天然記念物)>金目番所跡


●第二十三番札所・薬王寺●

門前町である桜町通りを直進し、国道55号の交差点を渡ると正面に第二十三番札所薬王寺の山門が見える。
茂兵衛道標・自然石標石
山門手前、短い厄除橋の右側に茂兵衛道標。主面に「東寺へ二十一里 伊予国三角寺奥の院」、左面に「平等寺 五里余」 、右面には「明治山十六年」のも文字と共に添歌「鶯や法 ゝ 希経の乃りの聲」(うぐいすや ほうほけきょの 乃りのこえ)が刻まれる。
東寺とは次の24番札所最御碕寺のこと。26番札所金剛頂寺を西寺と呼ばれることと対をなす。手印は東寺へと北を指す。それはそれでいいのだが、ここに伊予の最後の札所三角寺奥の院()の案内がある理由はなんだろう?

厄除橋の左側には自然石の標石。「奥之院玉厨子山 是ヨリ二里」とある。玉厨子山とは薬王寺奥の院泰仙寺のことである。
山門
厄除橋を渡り石段を上ると山門。山門を潜り順路は左に折れ厄坂の石段を上る。最初は三十三段の女厄坂。
石段を上ると屋根のついた拝殿。中に臼と杵が置かれる。抹香臼、厄除杵と称される。臼の中には抹香が入っており、厄除杵で厄年の数だけ搗き厄を落としたとの話が残る。

本堂・大師堂
男厄坂四十二段を上ると境内。正面に本堂。本堂左に大師堂。大師堂から鍵型に曲がって繋がる地蔵堂、そして十王堂。十王堂には冥土で亡者の罪を判断する裁判官といった十王が祀られる。


十王
秦広王(初七日 不動明王)、初江王(二七日 釈迦如来)、宋帝王(三七日 文殊菩薩)、五官王 (四七日 普賢菩薩)、閻魔王(五七日 地蔵菩薩)、 変成王(六七日 弥勒菩薩)、泰山王(七七日 薬師如来)、平等王(百 ヶ日 観世音菩薩)、都市王(一周忌 勢至菩薩)、五道転輪王(三回忌 阿弥陀如来)。十尊に対応する不動明王などは、十尊の本地仏とするが、それは鎌倉時代に考えだされたもの。
生前に十王を祀れば、死して後の罪を軽減してもらえるという信仰ゆえの十王堂であろう。

肺大師
と大師堂の間には鎮守堂と肺大師の小祠。肺大師に祀られる弘法大師石像台座からは瑠璃の水と称される霊水が湧き出す。ラジウムを含んだ水であり、肺疾患に霊験あらたかと伝わる。そういえば、国道55号脇の薬王寺駐車場横に薬師の湯という温泉施設があった。このお山一帯からラジウム含有の水が涌くとのことである。
瑜祇塔
本堂右手、男女坂と称される厄坂であり61段の石段を上ると瑜祇塔。昭和39年(1964)の建立。弘法大師四国八十八ヶ所の霊場を開創1150年、また、翌40年(1965)は高野山開創1150年に当たることからこれを記念して建立されたもの、とあった。
瑜祇塔は高野山以外に例を見ないと言う。屋根の中央と四隅に立つ相輪を瑜祇五峰と称し、五智の象徴として金剛智を示し、周囲8柱が胎蔵の理論を表すようだ。そして屋根の下の円筒形と四角の一重の塔をして金剛・胎蔵両部不二を象徴すると、する。ふたつの相対するものが一つになることを建物で示している。門外漢にはよくわからないが、この両部不二という、真言密教の経典である瑜祇経を建物の姿で象徴しているの、かも。

瑜祇塔は正式名、「金剛峰楼閣瑜祇塔」。高野山の寺名金剛峰寺の由来となるものであり、弘法大師が重要視した瑜祇経を後世お堂の形で建立されたもののようである。






23番札所薬王寺から奥の院道を辿る

山門を出て次の札所へのルートを想う。薬王寺の門前の自然石標石が「奥之院玉厨子山 是ヨリ二里」と刻み、茂平道標が「東寺へ二十一里」と北を指す。
当日はこの薬王寺奥の院道を歩くことにした。薬王寺から奥の院泰仙寺を経て東寺(第24番最御崎寺へと向かう遍路道は、門前より国道55号を北に向かい日和佐川手前で左折し。日和佐川に沿って県道36号を進み、西河内の集落を経て山河内谷川合流点から県道を離れ、山河内集落に出る。
このルートは澄禅が辿った道と言う。薬王寺から先の記述は「右ノ道ヲ一里斗往テ貧シキ在家二宿ス」とあるだけであるが、この短文から泊まったのは日和佐川筋の西河内集落と推定してのことと言う。
その他の遍路道
当日は迷うことなく奥の院道を辿ったのだが、メモの段階で地図を見ていると、山河内集落への往還としては、どう見ても現在の国道55号筋が自然では?チェックするとそのルートは往昔の土佐街道・横子越えの往還であった。奥の院泰仙寺参詣を目することがなければ当然のこととしてこのルートを辿ったお遍路もいただろう。


横子峠越え・土佐街道の遍路道
現在の国道55号に沿って奥潟川の谷筋を進み、日和佐トンネル(昭和45年;1970年開通)を抜け山河内谷川筋に下ると山河内集落に出る。日和佐トンネルが出来る前は日和佐トンネル傍の横子峠を抜けていた。峠には弘法大師像とへんろ標石があtったようであり、へんろ道として利用されていた。標石には「是より東寺迄」と刻まれる、と。昭和7、8年(1932、1933)ごろまで横子越えの土佐街道は利用されていたようである。
昭和7、8年以降利用されなかった理由は?日和佐川に沿って西河内、山河内へと繋がる道路が整備されたということだろうか。単なる妄想。根拠なし。
奥潟川筋の真念道標
この道が遍路道であるとのエビデンスはないかとチェック。薬王寺から国道55号を南に進み、JR牟岐線と交差する傍の旧路に真念道標が立つ。真念が歩いた遍路道ということかと推測できる。
土佐街道・丹前峠越
チェックの過程で更にもうひとつの遍路道・土佐街道が見つかった。藩政時代の土佐街道は薬王寺から日和佐川を上り、丹前から山入りし丹前峠を越えて山河内谷側筋の府内におりてきたようである。上述横子越えの土佐街道が開かれる前の土佐街道である。
奥潟川筋ではなく尾根筋を進む道に街道が開かれた理由は不詳であるが、思うに往昔の街道道の定石を踏まえたものであろうか。土木建設技術が確立する以前の街道は、土砂崩れ・崖崩れの多い谷筋を避けて道の安定した尾根を通るのを基本とするケースが多い。
丹前峠の道筋には特段遍路標石は残らないようだが、土佐街道を歩いたお遍路もいたのでは、と選択肢に入れる。

落合橋南に標石
北河内谷川と日和佐川が合わさる辺りで国道55号を左に折れ、県道36号を日和佐川に沿って上流に向かう。左手に上述藩政時代の土佐街道への取り付口である丹前、澄禅が一夜の宿を借りたとされる西河内の集落と蛇行する川筋に沿って進む。
西河内からほどなく日和佐川と山河内谷川が合流する少し南に落合橋。落合橋を渡り県道を進むと薬王寺の奥の院。遍路道は山河内谷川にそって南に進む。
奥の院を訪ねようかどうしようかと思案。奥の院道を辿りながら奥の院にお参りしないって、それはないよな、などと少々悩みながらも、どうしても段取り上時間が足りず今回はパスする。

落合橋を少し南に進むと集落。道端、道路開通の石碑の横に2基の標石。1基は自然石の標石。手印だけが刻まれる。その横の標石には「二十三番薬王寺  玉厨子山 泰仙寺」と刻まれていた。
奥の院泰仙寺
本尊は如意輪観世音菩薩である。玉厨子山(標高540m)の中腹にあり、1188年薬王寺が焼失したとき本尊の薬師如来が飛び出し、この地にとどまり輝いたという。さらに約50mほど上ると大岩があり小さい祠が祀られていて、ここの奥之院がある。駐車場はあるが寺まで徒歩で約40分かかる(Wikipedia)。

国道55号交差箇所に茂兵衛道標(210度目)
山河内谷川上流に向かって南に進む。途中、藩政時代の丹前峠越えの土佐街道が下りてきたであろう府内の集落を越え、道は国道55号とクロスする。その角、南側に2基の標石。上述横子峠越えの遍路道はこの辺りに出てきたのだろう。
1基は茂兵衛道標。「薬王寺 左 東でら 左新道 明治四十年」といった文字が刻まれる。茂兵衛210度目巡礼時のもの。道標の手印の指す方向は間尺に合わない。手印と札所を合わすとすれば、180度回転させなければならない。道路建設に際し、どこかから移されたものだろう。それに合わせて道標にある「新道」の方向は傍の国道に抜いたトンネル方向を示す。グルリと丘陵を迂回する旧道をショートカットする道でもあったのだろうか。「東でら」は最御崎寺のこと。
もう1基は「是ヨリ三十丁 明和二年 左奥之院玉厨*」といった文字が刻まれる。

打越寺
国道トンネル南ををグルリと廻る旧道を進む。牟岐線山河内駅の傍、道の右手に「駅路山打越寺」の寺標石。三十段の石段を上ると庫裏というか、民家といった風情の建屋。境内(?)を歩くのはちょっと躊躇われ、すぐに石段を下りる。なんとなく狐につままれたように思いながらも、当日は旧道を進み打越寺の裏山を抜けるトンネル西口に出た。
打越寺大師堂
メモの段階で地図を眺めていると、国道55号傍に立派なお寺が建ち、打越寺とある。広い境内には堂宇が建つ。案内には「当山縁起 当山は約四百年の昔、慶長三年(1598)初代藩主蜂須賀家政公が藩内の重要な街道に沿った真言宗の八ヶ寺を当時困難を極めた遍路・旅人を助けることを願して、専ら慈悲を肝要とする駅路寺を制定され、それより駅路山打越寺を号しました、
当山では同行二人のご誓願を具現すべく弘法大師をご本尊としておまつりしています。
此所は、日和佐川上流、山河内字なかに所在し、川をはさんで山が両岸に迫り、左岸に一条の土佐街道が通じており、寺は街道を見下ろす高台に位置し交通の要衝関所でありました(江戸初期の澄禅遍路日記より)。
現在は土佐街道も国道55号線となり、寺の裏山を通ることになり、ここに駅路寺開創四百年を記念し檀信徒の協力を得て、大師の誓願、蜂須賀公の遺願に元く大師堂を建立、脇侍に不動・愛染の二大明王をまつり興王利生とこの街道を往来する人々の心身の安穏を日々護摩法を修し祈願するものであります(後略)」とあった。
堂宇は国道建設に伴い新築された大師堂のようである。当日訪れた民家風の建屋は本堂とのことではあるが、なんとなく駅路寺打越寺旧跡といった「立ち位置」のように思える。
澄禅
案内に澄禅の日記に打越寺の記述がある、とするが澄禅の『四国遍路日記』には打越寺の記述は全くない。真念の『四国遍路道指南』には「ここにうちこし寺、真言道場 遍路いたはりとして国主より御建立」とある。また、『四国遍礼名所図絵』には「打越寺(往還の右の山ノ側有 遍路人為大守様御建立)」とある。記載内容からすれば『四国遍礼名所図絵』の記事が最も近い。

辺川集落の標石2基
遍路道は国道55号を西に進む。山河内谷川の上流部に沿って国道を時に旧道に逸れながら源流部に。その先に寒葉坂。この坂は日和佐川水系と牟岐川水系の分水界となっており、坂を越えると牟岐川水系の支流・橋川が西に下る。峠は海部郡日和佐町と海部郡牟岐町の境となる。 遍路道は牟岐線返川駅の手前で国道55号から右に逸れ、段丘下の平地に下りる。その分岐点の傍に標石2基。右手の標石には「右 二十四」と読める。方角が真逆であり、道路工事の際にでも移されたものだろう。左手の標石らしき石柱の文字は読めなかった。
国道を逸れ段丘崖下の耕作地を進む、橋川に架かる返川橋を渡り道を進むと、民家石垣にも標石があった。

小松大師
段丘崖下の道が国道55号に合流する手前、右手の一段高いところに小松大師がある。小松はこの辺りの地名である。
境内にお堂。大師坐像が祀られる、と。縁起では、17世紀中頃大阪難波の石工が三尺の大師坐像の注文を受ける。と、夢枕に弘法大師が現れ、阿波の小松の里に送るようにと伝えた、とのこと。 境内には自然石、地蔵尊像が刻まれた六部供養碑。「六十六部回国供養塚 慶応二」といった文字が刻まれていた。

東川又地蔵堂の標石
国道55号を進み、橋川が牟岐川に合流する地点、現国道に架かる牟岐橋手前から左に逸れる旧道があり牟岐川に橋が架かる。人道橋であるその橋の手前にコンクリート造の祠。2基の地蔵が祀られたこの東川俣地蔵堂傍に標石。「右四国二十四番 東* 左牟岐町」と刻まれる。「東」は何度か登場した東寺と称される24番最御崎寺のこと。

山頭火歌碑
人道橋を渡り国道55号を進む。牟岐町川長関に入ると道の右手に石碑があり、「山頭火 宿泊の宿長尾屋」とある。石碑には、「山頭火 宿泊の宿長尾屋 「しぐれてぬれてまつかな柿もろた」 途中、すこし行乞、いそいだけれど牟岐へ辿り着いたのは夕方だった。よい宿が見つかってうれしかった、おじいさんは好々爺、おばあさんはしんせつでこまめで、好きな人柄で、夜具も賄もよかった、部屋は古びてむさくるしかったが、風呂に入れて貰ったのもうれしかった、三日ぶりのつかれを流すことが出来た。
御飯前、一杯ひっかけずにはいられないので、数町も遠い酒店まで出かけた、酒好き酒飲みの心裡は酒好き酒飲みでないと、とうてい解るまい、 昭和十四年十一月三日山頭火日記抄」と刻まれていた。
山頭火は自由律の俳句で知られる旅に生きた歌人。山頭火は2度四国遍路の旅に出ているが、この句は2度目のもの。歌碑に彫られた句は当日の日記にある16の句のひとつ。宿の夫婦の何気ない心配りが、いい。
山頭火2度目の遍路
昭和14年(1939)10月5日に松山を出て遍路するも、旅は11月16日に「行乞は辛い」と中断。松山に戻り松山在住の句人高橋一洵の奔走でみつけた「一草庵」を終の住処とした。「落ち着いて死ねさうな草枯れる」は一草庵で詠んだもの。
「うしろすがたのしぐれてゆくか」「分け入っても分け入っても青い山」「まっすぐな道でさみしい」などの句が、情感乏しきわが身にさえ、なんだか刺さる。

牟岐
国道55号を進み、牟岐線牟岐駅を越えた先で右にカーブする国道と分かれ直進し牟岐の町に入る。牟岐中央商店街とかかれた道筋が遍路道。時に往時の商家の風情を残す建屋を見遣りながら道を直進し、牟岐浦神社で右折し瀬戸川に架かる八坂橋を渡り、牟岐の街を出る。
牟岐川の左岸である牟岐浦は古くからの漁港・港町、一方牟岐川右岸の中村を中心とした地区は商業の町と性格を異にした。中世には牟岐川筋の木材を集めた積出港として賑わい、藩政期には公用船への水や薪を供給したり、加子役(船をこぐ者)を勤める、労役を課された浦、「加子浦」に指定され、藩営の水揚場が設けらえるなど、往時の陸海交通の要衝であったよう。

水落廻りの遍路道
メモの段階で澄禅の遍路日記を見ていると、澄禅は打越寺のある山河内から先は、今回歩いた寒葉峠越えの道ではなく海岸ルートをとったと推測する記事があった。ルートは山河内から南へ白沢(はくざわ)川筋を遡上し、白沢集落から山入。標高400mピークを越え海岸線に出て、海岸沿いの水落の集落を経て牟岐に向かったとする。「山河内から海にかかる」といった記述からの推定ルートではある。参考の為推定ルートを載せておく。



八坂八浜

大坂峠取り付き口(八坂八浜:最初の坂)
橋を渡った遍路道はそのまま直進し、右手下に国道55号を見遣りながら丘陵の坂を上る。ほどなく道の右手に「旧へんろ道 八坂八浜の大阪峠 草履大師へ」の案内と大阪峠から草鞋大師へのルート図があった。
傍にあった案内には「八坂八浜とへんろ道(旧土佐街道):牟岐町から浅川(海陽町)に至る「八坂八浜(やさかやはま)は、12kmの間に、八つの坂と八つの浜があり、駄馬も通れない「親不知子不知(おやしらずこしらず)」と言われ、波の荒い時は、道を洗い交通不便な難所であった。「草鞋大師」から内妻の浜に下る小道が昔の土佐街道である」といった記述があった。
八坂八浜(やさかやはま)
散歩当日はこの大坂での案内の他、時に現れる旧土佐街道の峠越えの標識を見る以外、特段八坂八浜と明記した標識はなかったように思う。地図には、後程訪ねる鯖江の手前の浜に「八坂八浜」と記されており、その辺りが八坂八浜かとも思いながら道を歩いたわけで、道路整備ゆえか難路・険路の風情は消え、当日は知らず八坂八浜を歩いていた。で、メモの段階で改めて八坂八浜って何処?とチェックした。
真念
真念は『四国遍路道指南』に「右、八坂々中、八浜々中の次第。○逢(大)坂。○うちすま(内妻)。○松坂。○古江。○しだ坂。○福良村。○福良坂。○鯖瀬村。○はぎの坂。○坂中大砂という浜。○かぢや坂。○粟ノ浦坂過ぎ、天神宮有り。伊勢田川、潮満ち来れば、河上へ廻りて良し。○伊勢田村。○浅川浦、大道より左に町有り。○いな村観音堂あり。この村市兵衛、宿を施す。○からうと坂。これまで八坂々中八浜々中」と書く。
高群逸枝
詩人で女性史学の創設者として知られ、大正7年(1918)に遍路に出た高群逸枝は、その著 『お遍路』に、「北から順に坂は、大坂、松坂、福良(ふくら)坂、 鯖瀬(さばせ)坂、萩(はぎ)坂、 鍛冶屋(かじや)坂、栗浦(くりうら)坂、 借戸(かりと)坂、であり、浜は、内妻(うちづま)浜、古江(ふるえ)浜、 福良浜、鯖瀬浜、大網(おおあみ)浜、鍛冶屋浜、 走(はしり)浜、三浦浜である」とする。 〇司馬遼太郎 また、司馬遼太郎は『空海の風景』に、「牟岐からむこうで、頻繁に小入江が連続している。海浜の崖や山をよじ登っては、小さな入江に すべり落ちてゆく。坂の名と浜の名とを挙げると、大坂を降りると内妻(うちづま) の浜である。松坂を降りれば古江の浜であり、歯朶(しだ)坂の急峻をおりれば 丸島の浜である。福良坂をおりれば福良浜があり、萩坂をおりればしろぼの浜になる。 鍛冶屋坂につづくのが苧綱(おつな)浜であり、楠坂のつぎが桶島浜、 借戸坂のつぎが三浦浜である。この連鎖してゆく小さな入り江ごとに何人かの人間が住んでいたかもしれないが、 しかしこんにちでも浜におりるとなお無人にちかい。この入り江群の沖はすでに外洋であり、その風濤の たけだけしさが、人の住まうことを拒絶しているのであろう。空海はときに無人の浜に出て海藻や貝を ひろったにちがいない」と書く。
Wikipedia
Wikipediaは、「牟岐浦から南へ、大坂・松坂・福良坂・鯖瀬坂・萩坂・鍛冶屋坂・粟浦坂・借戸坂の8つの坂と、内妻浜・古江浜・福良浜・鯖瀬浜・大綱浜・鍛冶屋浜・栗ノ浜・三浦浜の8つの浜からなる」とする。
それぞれ微妙に地名が異なるが、これらの地名を頭に入れ、少々後付けの感は否めないが、以下知らず当日歩いた道を八坂八浜と合わせながらメモすることにする。

大坂峠
取り付き口から道を上る。尾根筋に乗った辺りで左手に浜が見えてくる。上り始めて20分強で大坂峠に。案内に、「大坂峠は、八坂八浜の最初の峠で、街道がそのまま残っている。峠の高さは97mで、そこには内妻の一里松があり草鞋地蔵尊が祀られていたが、一里松は枯れ地蔵尊は移設されてしまった。峠から旧国道への下り坂は急で、さらに土地造成で急になっている」といったことが書かれていた。

標石
峠からほどなく「九拾」と刻まれた標石らしき石柱。その先で今から下る内妻浜が見える。八坂八浜で第一の坂である大坂に続く第一の浜である。「九拾」の指すことは不詳だが、九拾丁であれば牟岐の町なら距離が合う。妄想。
内妻の浜が近づいてくる。

草履大師
峠から下ること7分ほどで旧街道は大坂峠取り付き口で分かれた車道とクロスする。その角に草履大師。大坂峠にあった案内に拠れば、峠よりこの地に移したものである。台座には「草履供養」と刻まれる。これから始まる難路・険路を控えての草履供養であろうか。またこのお大師さんは盲目の相を呈する。眼疾に霊験あると伝わる。
道路をクロスした遍路道は草履大師脇の急坂を下る。坂はすぐ内妻の浜に続く舗装道に下りる。

内妻の浜(八坂八浜最初の浜)
道なりに進み浜の堤防に出る。堤防に沿って成り行きで先に進むと行き止まり。それらしき旧道は無いかと探す。少し離れた旧国道に松阪隧道が地図にあるが、そこに続く道は見当たらない。で、結局、行き止まり地点にある鉄製のステップを上り国道55号に出る。


内妻トンネル手前左に逸れ松坂峠取り付き口に(松坂;八坂八浜2番目の坂)
どうしたものかと思いながら国道を進むと内妻トンネル手前、左手に逸れる道。左折すると直ぐ「旧へんろ道 松2阪峠入口」の案内。メモの段階でわかったことがが、ここが八坂八浜2番目の坂ということだ。
取り付き口にはルート図と案内。松坂峠への峠道は約500メートル、標高は60mほどだろうか。頂上に「地蔵尊(」かずら地蔵)が祀られていたが、大正十一年、旧・国道の完成によりこの峠を通る人も耐え、旧国道松坂トンネル東口に移された。

松坂峠
案内から右に取り着き、上り口から7分ほど、比高差60m上ると峠。「松坂峠 これより古江浜」の案内がある。
峠からは切通し、ちょっとした急坂を10分ほど下り砂浜に出る。古江浜だ。八坂八浜第二の浜に出る。








古江浜(八坂八浜2番目の浜)
砂浜や海に突き出た丘陵突端、波を受ける岩礁を越えて先に進む。成り行きで進むと浜辺に道路下を潜る水路があり、その坂に遍路タグがあり、国道に戻る。
明治の頃に県道が整備され、昭和43年(1968)に国道55号に編入される以前、満潮時には海に入らないと通行できないといった八坂八浜の難所の一端を垣間見た。

岩礁部の遍路タグ
「歩く四国八十八カ所」より
当日は見落としたのだが、メモの段階で丘陵が海に突き出た突端の岩礁部に、岩場を上れ、といった遍路案内があるとの記事を見た。現在の古江トンネルの辺りだろうとは思うのだが、司馬遼太郎が『空海の風景』に言う「歯朶(しだ)坂」であり、急峻をおりたところ、古江トンネル東の浜が「丸島の浜」であったのだろうか。「 松坂を降りれば古江の浜であり、歯朶(しだ)坂の急峻をおりれば 丸島の浜である。福良坂をおりれば福良浜があり」との記述からすれば、ここしか既述に該当する丘陵地が見当たらない。




福良坂(八坂八浜3番目の坂)
国道を進むと、道の右手に「鯖大師本坊800m先右折」の大看板。そこに国道55号を逸れて右に逸れる舗装道がある。曲がり具合からして国道整備以前の旧道のよう。それほど急な坂でもないが、道は海岸線に突き出た丘陵部を越えた入り江の辺りで国道55号に合流する。この海に突き出た丘陵部に福良坂があったのだろうか。

福良浜(八坂八浜3番目の浜)
国道からちょっと浜に下りる。特に遍路道らしきものもなく、国道に戻る。
地図にはこの浜と岬を越えた南の浜に八坂八浜と載る。入り江の南北を囲む丘陵部が海に海に落ちるところがいくつもの入り江となり、その岩礁部に白浪が立つ。幾つもの尾根が海に沈み岬(坂)となり、谷が入り江(浜)となった、「沈水性」地形を呈す。
散歩当日は、これらの岩礁部をもって八坂八浜と称するのだろうと思っていた。特段の標識はないが、位置関係からしてこの浜が八坂八浜の福良浜であろう。



鯖江坂(八坂八浜第4番目の坂)
国道を進み福良トンネルの手前、道の右手に標識が見える。「いやしの古道 土佐浜街道 鯖大師から鯖瀬浜に至る」とある。道の左手、福良トンネルの海側を走るのが旧国道。道を右に逸れ土佐街道に入る。
牟岐線のトンネル入口を見遣り先に進むと道の途中に案内があり、「土佐浜街道〈馬ひき坂」とあった。幾度か引用させて頂いた奈佐和彦さんの「かいふのほそみち」の「馬曳坂」には、その由来として「弘法大師が鯖瀬に来たとき、馬子が馬の背に乗せてあった鯖を所望した。馬子はこれを断り、大師は歌を詠んだ。
大坂や八坂坂中 鯖一つ 大師にくれで 馬の腹痛む。
やがて坂道にさしかかると馬は急に腹痛を起こした。馬子はあの僧が大師と気づき、詫びて一尾の鯖を差し上げた。大師は
大坂や 八坂坂中 鯖一つ 大師にくれて馬の腹止むと詠むと馬は元気になった。
馬が腹痛を引き起こした坂は、今も「馬曳き坂」と呼んでいる(『海南町史』)とあった。
峠は海部郡牟岐町と海部郡海陽町の境。坂を下ると鯖大師に出る。




鯖大師
「四国霊場別格札所 鯖大師本坊」の寺柱から境内に入る。正面に本堂。鯖を右手にさげた大師立像が本尊。左手大師堂にも石造の鯖。絵馬に開運、子宝成就、病気平癒などの願い事を書いて奉納し3年間鯖を口にしないことを誓う、鯖断ちの祈願を行うと願いが成就すると伝わる。
Wikipediaには「八坂寺(やさかでら)は徳島県海部郡海陽町に所在する高野山真言宗の寺院。山号は八坂山。本尊は弘法大師。通称は鯖大師本坊または鯖大師。
空海の鯖伝説
鯖大師と呼ばれる由縁は、この地を訪れた空海(弘法大師)の伝説によるとする。その霊験は上述馬曳坂でメモしたとおりであるが、そのエピソードに続き、「空海が法生島(ほけじま)で先ほどの塩鯖に加持祈祷を行い、海に放ったところ塩鯖は生き返り泳いで行った。これに感服した馬子は空海の弟子となり、この地に小堂を建て行基の像を祀り「行基庵」と名付けた。また「鯖瀬庵」とも呼ばれた。空海が加持祈祷を行った海岸は鯖瀬(さばせ)と呼ばれている」とある。
行基の鯖伝説
大師堂
更にそれに続けて「行基にまつわる鯖伝説も残されている。これは、江戸時代前期の貞享4年(1687年)に真念という僧によって書かれた四国遍路の現存する最古のガイドブックである『四国遍路道指南』(しこくへんろみちしるべ)に記載されている伝説である。
これに拠れば、行基が四国を巡錫している時にこの地を訪れた際、鯖を馬に背負わせた馬追が通りがかった。行基が鯖を所望したところ、馬追はこれを断った。行基はこれに対し「大坂や八坂坂中鯖ひとつ 行基にくれで馬の腹や(病)む」と歌を詠んだ。すると、馬は急に腹痛で動かなくなった。困った馬追は行基に鯖を差し出した。行基は今度は「大坂や八坂坂中鯖ひとつ 行基にくれて馬の腹や(止)む」と、「くれで」を「くれて」と1文字変えて詠むだけで、馬の苦しみは治まった。 この行基の話は、江戸時代初期の寛永18年(1638年)賢明によって書かれた四国巡拝の記録誌『空性法親王四国霊場御巡行記』にも記載が見られる。また、江戸時代後期の寛政12年(1800年)に作製された四国巡礼ガイドブック『四国遍礼名所図会』にも記載がある。
行基が詠んだとされる歌は、弘法大師伝説では空海が「大坂や八坂坂中鯖ひとつ 大師にくれで馬の腹や(病)む」、「大坂や八坂坂中鯖ひとつ 大師にくれて馬の腹や(止)む」と詠んだとされている」とある。
行基から空海伝説へ
八角の護摩堂
なんだか縁起成立のプロセスが垣間見えて面白い。真念さんたちの記述に拠れば、行基菩薩と鯖の伝説は江戸初期には成立していた、ということである。元は行基庵と呼ばれていた、とも言う。 行基伝説が弘法大師伝説に変わったのは何時、何がきっかけであったのだろう。
江戸の頃、この寺は海部郡にある真言宗誓願寺の末であった。それが同じく海部郡の曹洞宗正福寺の末に変わる。それが昭和16年(1941)になって「鯖大師協会」に改めたという。
最後にWikipediaは「鯖伝説について 民俗学者の五来重は鯖大師伝説について、山姥が牛方や馬方の塩鯖を求めるという民話との関連を指摘している。これは山中や峠にさまよう荒ぶる祖霊に供物を捧げて道中の無事を祈る風習に基づくものと解釈し、またサバは仏教語で鬼神等への供物を意味する「生飯(さば・さんばん)」が同音である鯖へと変化したものではないかと考察している。 鯖大師伝説もこのような祖霊信仰が行基伝説へと変化し、大師信仰の隆盛と共に旅の僧が行基から弘法大師へと移り変わったものと指摘している」として締める。
本坊から八角の護摩堂にお参りし境内を離れる。

鯖瀬浜(八坂八浜;4番目の浜)
鯖瀬浜;Google mapで作成
境内を離れ、鯖瀬川に架かる鯖瀬大師橋を渡り先に進む。牟岐線の高架を潜り国道55号に。その前の浜が鯖瀬浜ということだろうか。










萩坂(八坂八浜5番目の坂)
萩坂;google mapで作成
浜を離れ丘陵部に上る。鯖江トンネルの手前に左手、海側に逸れる道がある。この旧道が萩坂のようだ。道は整備された故か険路・難路の名残はない。土佐街道の案内もないため、成り行きで道を進む。








大綱浜( 八坂八浜5番目の浜 )
放生島

道は鯖江トンネル出口で国道にあたる。理由は不明だが合流点は車止めとなっている。左手には大浜海岸が広がる。大砂は大綱の転化と言う。
大浜海岸の南端の岩礁部に立つ大岩は、鯖江大師でメモした塩鯖縁起の放生島ではないだろうか。


鍛冶屋坂( 八坂八浜6番目の坂 )
鍛冶屋坂・鍛冶屋浜;GoogleMapで作成
大浜海岸が切れる辺りから国道は、海に突き出た丘陵部突端を切り開き進む。この辺りが往昔の鍛冶屋ではないだろうか。地図にこの丘陵部越えた浜に「鍛冶屋」とあったことだけが、ここを鍛冶屋坂と推定した唯一の理由ではある。







鍛冶屋浜( 八坂八浜6番目の浜)
丘陵を抜けた所、海辺に「鍛冶屋」の地名が地図にある。往昔の八坂八浜の鍛冶屋浜と推定ではあろうが、現在は如 まpde何にも埋め立られた風情を呈す。
その浜の先に加島城跡が地図に載る。案内には「加島城跡 加島の山上に築城された浅川城は別名加島城ともいう。築上されたのは元亀の頃で今から約四百年前のことである。風雲急をつげる戦国の世においては自分の土地を外敵から守るために最大のエネルギーがつかわれた浅川においても加島の豪族浅川兵庫頭が城主となり加島のとりでを守った。しかし天正三年(一五七五年)土佐の長曾我部の大軍が侵入衆寡敵せずに落城した。
藩政時代に至り、加島の山に遠見番所がおかれた、これは異国船を監視するところで。今もなお遠見の松が昔の面影をとどめている。また山上に石火矢床という地名があるがこれは黒船来襲に備え砲台所が設けられていたところである。
城下の御屋敷の一角に現住している吉田利夫氏は加島の豪族の子孫でありこの家の墓地には戦国時代の五輪塔が数基みられる。
加島城(浅川城)は鞆城 海部城と共に大海を背景に築造された海部の名城であった」とある。

栗浦坂( 八坂八浜;7番目の坂 ) 
栗浦坂・栗ノ浜(Google mapで作
鍛冶屋浜の先で国道は丘陵切通しを抜ける。切通の先の集落が栗の浦とあるので、この辺りが栗浦坂があった丘陵越えの地ではないだろうか。

 栗ノ浜( 八坂八浜;7番目の浜
川が海に注ぎ、少し開けてた平地となっている栗ノ浦の集落の前の海岸が栗の浜ではないだろうか。栗之浦神社も建つ。





仮戸坂( 八坂八浜;8番目の坂 )
弥勒像脇の切通し
国道を進み伊勢田川を渡り、天神社を越すと山裾に弥勒菩薩など多くの石仏が並ぶ。台座には「弘法大師千季供養」。天保五年(1834)、地元の庄屋と淡路、堺、大阪、兵庫の商人、僧侶の寄進により立てられた。御影石の石仏の高さは3m強。県下最大の弥勒石仏」といった説明と共にこの石仏が「浅川湾に臨む三浦浜に造立された、との文字が読めた。
ということは、この石仏群の建つ丘陵がかつての「仮戸坂」があったこころだろうと推測できる。国道55号から分かれた丘陵部を切通して抜いた県道196号辺りを往昔の仮戸坂がくだってきたのだろうか。

三浦浜(八坂八浜;8番目の浜 )
借戸坂切通と三浦浜(Google map)
三浦浜浜は現在埋め立てられ、浜の名残はなにもない。

これで八坂八浜を全てカバーした。といっても、土佐街道の案内などしっかりした案内にあるところ以外は、浜と坂の順、その間の地名を勘案しての全くの推定ではある。 で、歩いた結論として、往昔の八坂八浜の風情を楽しめるのは、第一の大阪峠から第一の内妻の浜に下り、第二の松坂を越え第二の古江浜に下りて国道に戻るまでと、第四の坂である鯖江坂から鯖大師への旧遍路道だろう。そのほかの坂と浜は美しい景観は楽しめるが、道路整備のため往昔の難路・険路の名残はない。


大里の標石
浅川漁港に入る県道196号を進む。ほどなく分岐。漁港堤防を進む県道から分かれ右に逸れる道を進む。直ぐ先に遍路道案内があり、右折の指示。そのまま進むと国道55号に出てしまった。 なんとなく県道196号筋が旧道ではと、成り行きで県道196号に戻り、浅川橋を渡り丘陵を上る。 県道196号は浅川港で切れるため、この坂道のこと正式に何と呼ぶのか不明だが通称、スベリ坂とも称するようだ。が、整備され滑る余地はない。
分水界となる丘陵ピークを越え、南阿波ピクニック公園への分岐点、道の右手に標石が残る。正面に「左ともうら 右おくうら 不つ 天保十二」といった文字が刻まれる、と。 奥浦、鞆甫共に南の海部の町に見えるが、標石の指す「右」は道の左手の丘陵部を指す。道があるとも思えない。どこかから移されたのではあろう。

海部
丘陵をくだり大里を抜け善蔵川を渡る。川の手前、右手に大里古墳。5世紀から6世紀の頃、古代豪族海部氏の建造の横穴古墳とのことだが、いまひとつ「古墳萌え」感が乏しくパス。
道は県道299号に合流し左折し海部川に架かる海部川橋を渡り旧海部町域に入る。橋を渡った本町商店街は旧土佐街道。土佐街道は商店街を南進し、突き当りの江川橋の手前を右折し国道55号に出る。
海部城
南北を川に挟まれ、東に鞆奥漁港を臨む標高50mの独立丘陵に建つ。元亀2年(1571)海部友光の築城。天正5年(1577)土佐の長曾我部元親の侵攻により落城。長曾我部氏の四国制覇のはじまり、という。
天正13年(1585)羽柴秀吉の四国攻めにより元親が降伏。阿波は秀吉家臣の蜂須賀家政の所領となり、家政重臣の益田氏を城番とするもその子の分藩の動きの科ににより廃城となり、陣屋が置かれることとなる。
その後は国境警備を主目的に半形人と鉄砲衆が配置され、文化四年(1807)に郡代役所が日和佐に移されるまでは海部郡の中心地として栄えた。城跡には虎口、曲輪、主郭跡、石垣などが残る。
〇半形人
半形人とは阿波水軍の大将、森村春の家臣。朝鮮の役、大阪の陣にも出陣している。 陣屋には36名の半形人が配置された。

那佐湾
海部の街を離れ国道55号を進む。と、眼前に深い湾入の姿を見せる那佐湾が目に入る。何だか印象的な湾だ。どのようにして形成されたのかチェックすると断層破砕帯に沿って形成された、とある。
地質図を見ると東西に那佐断層破砕帯が走る。断層破砕帯はずれの生じた断層面に沿ってできた岩石破砕部のことのようで、 破砕帯は一般に軟弱で,浸食,崩壊が速く進む、とある。門外漢のためよくはわからないが、東西に長く延びる断層面が侵食・崩壊によりこの形を成した、ということであろうか。海に突き出た岬には国土交通省が「地すべり防止区域」と指定している。
それはともあれ、この那佐湾は古くからの天然の良港として知られ、伝説では三韓征伐の折り、神功皇后が風待ちでこの湊にはいったとの伝説、また『播磨風土記』には履中天皇が、和那散(わなさ;当時この那佐湾一帯を「和那佐」と称した)でシジミを食したとの記述もある。
藩政時代は塩の製造をこの湾でおこなっていたようである。
乳の崎狼煙台・ 島弥九郎事件跡
国道55号が那佐湾に入ってほどなく、道の左手に「乳の崎狼煙台・ 島弥九郎事件跡」の案内。その対面、切通で残された海側の小丘に沿って国道から左に逸れる道がある。そこを進むと。「乳の崎狼煙台・ 島弥九郎事件跡」の案内がある。
「乳の崎狼煙台 今から200年前、江戸時代後期になると、異国船が日本近海に出没するようになり、また異国船の漂流もあって徳島藩は主に海上警備のため県南海岸に10ヶ丘の狼煙台を設置した。竹ヶ島煙台を起点にこの乳ノ崎煙台に継がれ、次に牟岐大島へと順次狼煙をあげ、御城下へとつたえられた。この乳ノ崎煙台は那佐湾の対岸山頂にありほぼ全景が残っている。 海陽町教育委員会」
「島弥九郎事件跡 元亀二年(1571)春、長曽我部元親の末弟島弥九郎は、病気治療に有馬に出かける途中、風浪を避けて那佐湾に停泊していたが海部城主越前守の率いる軍勢の急襲を受け、土佐勢の奮戦も空しく弥九郎は家臣三名(三島小島)に上り自害して果てた。このことは元親阿波侵攻の口火となった。弥九郎の非業の最後を哀れみ、村人は島の上に小塚を建てて霊を弔った。後年、元親もこの地に三島神社を建立して、弥九郎の霊を祭った」

乳ノ崎煙台はさすがに遠すぎる。パス。島弥九郎事件は前述海部城のところでメモした。ここにある三島小島は湾に浮かぶ二子島?三島神社は那佐湾の少し西、地図には那佐神社ときされている、那佐三島神社がそれ。

馬路越・居敷越
那佐湾についてチェックしていると、馬路越の記事に出合った(何度も引用させて頂いている、奈佐和彦さんの「かいふのほそみち」)。それによると。「中世の初期から発達し始めた四国霊場巡拝の遍路道として馬路越土佐本道が開発されて海部郷-那佐-宍喰」が結ばれた、とあった。
さらに古い時代には、馬路越道より西の丘陵を跨ぐ居敷越の道があったよう。馬路越えのルートでなくこの居敷ルートが造られたのは単に道を開く技術上の問題なのか、経済的理由も含め単に那佐湾辺りに下りる強い理由がなかったためか、結構面白そうなトピックではあるが、あまりに本題からはなれてしまいそうであり、思考停止とする。
土佐街道
居敷下り口辺りをGoogle Streeet Viewでチェックしていると、下り口(推定)から少し西に進んだ道の左手に「古道旧土佐街道」の案内があった。あれこれチェックすると、結構危険なルートのようだ。特にルート案内もないようだ。
道を入ると直ぐに浜に出るが、ルートは浜の手前で右折する。牟岐線高架を潜る辺りまでは荒れてはいるが、なんとなく踏み跡らしきものもあるようだが、そこで行き止まり。あとは道なき道や崖を力任せで進むようだ。浜に出て進む方もいたが、こちらも結構危険なルート。
国道55号への出口は国道が海岸線に出る辺りに這い出る記事がほとんどだった。ともあれ、このルートには足を踏み入れないほうがいい、との記事が大半だった。

宍喰(ししくい)
国道55号を進み宍喰(ししくい)の街に入ると、遍路道は国道を右に折れ県道301号に入る。徳島最南端の町。現在は海部郡2町(海部町・海南町)と合併し海陽町となっている。
県道は藩政時代の土佐街道往還筋。阿波と土佐の国境の宿場として発展したと言う。
往還筋には藩政時代、慶長三年(1598)阿波藩主蜂須賀家政に駅路寺として指定された円頓寺があったようだが、現在は往還筋右の大日時に合併されている。寺町の往還筋左には願行寺も建つ。
今は静かな町ではあるその歴史は古い。Wikipediaの記事をまとめると「古墳時代の5世紀には大和朝廷から鷲住王(わしずみおう)が脚咋(あしくい)に派遣され近隣を治めたと伝わる。中世期には脚咋の地はを宍喰庄、海部郷に別れ、宍喰庄は1135年以降は鳥羽院の御領をへて1216年に高野山の蓮華乗院に寄進され寺領荘園になる。 本土への年貢や堺地方への木材の出荷を通じて、貨幣経済が発展した。また、海部刀などの刀鍛冶が発展していき、鎌倉時代には宋及び高麗との交易を行った。
戦国時代になると国司や郡司、荘園を治める荘官やその下で名田を治める名主が勢力を強めるが、宍喰地方においも鷲住王を祖とし、藤原姓を名乗る一族が宍喰城・愛宕山城・祇園山城などを築き、この地方を治めた。また、近隣の牟岐城・浅川城・野根城主とは同族で、高知県の安芸氏とも姻戚関係を結んで地盤を固めていた。 1578年土佐国を平定した長宗我部氏に侵攻され、城はことごとく落城する。秀吉の四国征伐後は、部将である蜂須賀氏が阿波国を治めるようになりその統治下に入る。
徳島藩政下では日和佐、後に海部に郡代官所が置かれ、宍喰では各村の庄屋と役人が年貢の徴収や政に当たった。 本町は土佐国との国境にあるため、国境警備目的の関所や鉄砲役を置いた鉄砲小屋、狼煙台、街道沿いの治安維持と旅人の宿泊施設として駅路地が置かれた。
「宍喰」の由来
「宍喰」の由来として、「宍喰(ししくい)は脚咋(あしくい)の転訛とされる。脚咋は「葦(イネ化の植物)をつくって主食とした住民」。履中天皇の時代に大和朝廷から鷲住王(わしずみおう)がこの地に遣わされ、宍喰川下流の平野部を利用した農耕が近隣地域に先立って発達した事による。時代とともに狩猟に纏わる宍(カン、しし、にく)が使われるようになり、鎌倉時代以降は宍喰と呼ばれるようになった」とあった。


古目大師
宍喰川を渡ると山際に古目大師堂。県道はここを左に折れ海に突き出た半島部を上り阿波と土佐の国境へと向かう。
古目番所跡
古目大師のある古目の地は藩政時代、国境の関所(古目番所)のあったところと言われる。阿波から土佐の甲浦への山越えの道の上り口。古目の由来も「古い目付」との説もある。番所後は古目大師堂から直ぐ先の四つ辻を右折し、少し南に進んだ先の三差路を右に折れた道の左手に標識だけが立っていた。

宍喰越の土佐街道
メモの段階でわかたことだが、古目から土佐の甲浦に抜ける山越えの土佐街道があった。あれこれチェックすると、古目番所跡から少し西に峠への取り付き口があるとのこと。Google Street Viewでチェックすると、道の左手に木標が立ち「旧土佐街道 へんろ道 古道」と書かれていた。「へんろ道」ともあるので、わかっておれば峠を越えて土佐に入ったのだが、今となっては後の祭りである。






























宍喰浦の化石漣痕(国指定天然記念物)
県道を進むと直ぐ道の左に案内ボード。「宍喰浦の化石漣痕(国指定天然記念物)」とある。案内はふたつあり、「約4500年頃前、この地域は深海にあった。地震などが発生したときに、土砂が一気に海底に引き込まれ、海底の表面に凹凸の模様を作って土砂がたまり、それが積み重なり地層となった。
その後、隆起して陸地となり、今のような状態になった。規模も大きく、わかりやすい状態で残されていることから学術上貴重である」とあり、もうひとつの案内には「宍喰浦の化石漣痕」は、約4500万年前、新世代第三紀の始新世中期に生成にされた水流漣痕で、露頭面積も広く、彫刻も深く、かつ数種の異型のものが別々の層をなしている。地層は四万十帯、室戸半島層群の奈半利川層に属し、泥岩と互層する細粒砂岩層に上面には、水流漣痕を見ることができます。
代表的なものは、波長数10cmの舌状漣痕です。水流漣痕は、断面の形態が非対称で、一定方向の流れによって形成され、当時の水流が海溝軸に沿って、東北東から西南西に向かっていたことが伺われます。下面には底生生物に生痕化石が見られ、日本海溝の水深4000mを超える陸側斜面で見られる生物の這い跡に比類されます。当時の海溝に至る陸側斜面深部の海底の様子を物語るものです 地層面は東西に延び、北側に高角度で傾いており、海洋プレートの大陸下への沈み込み伴い、大陸側に傾きながら押し上げられた付加運動によるものです」とあった。
いまひとつ「萌える」こともなく、説明と共にあった写真の粒粒の岩(土砂の固まり)が並ぶ地層がそれなのだろうと即場所を離れる。

金目番所跡を越え阿波・土佐国境へ
県道309号を進み半島を抜け入り江へと出る辺りに左の竹ヶ島方面へと向かう道が分かれる角に「金目番所跡」と刻まれた石柱が立つ。この番所は主に船の航行の警戒と海上警備の任にあった番所とのことである。
この先、県道は水床トンネルを出て来た国道55号に合流。そこが阿波と土佐の国境である。

 今回のメモはここまで。次回は阿波と土佐の国境から室戸岬突端に建つ第二十四番札所最御崎寺までをメモする。
四国遍路の難路と世に言う第に十番札所鶴林寺道、第二十一番札所太龍寺道をクリアし第二十二番 平等寺まで進んだ。
今回は平等寺からはじめ、阿波の最後の札所である第二十三番札所薬王寺へと向かう。 平等寺のある阿南市新野から薬王寺のある海部郡美波町奥河内までの距離はおおよそ25キロほどだろうか。那賀川水系の桑野川支流を上流部まで進み東西に延びる丘陵部に取り付く。桑野川水系の分水界となる標高80mほどの丘陵部ピーク越え福井川筋に。
福井川筋に下った往昔の遍路道は洪水対策のために建設された福井ダム底に沈む。ために、ダム湖に沿った国道を南に進み、ダム湖を越えて福井川上流部へと進み、由岐山地に入る。由岐山地、と言ってもそのピーク由岐峠は標高130mであり、ちょっとした丘陵といったものだが、峠を越えると海岸線にちょっと開けた由岐の街に出る。
由岐の町からは田井川により開かれた田井、苫越の岬、木岐の町を抜け山座峠(標高115m)を越えて日和佐の町に建つ第二十三番札所薬王寺に着いた。
メモの段階でわかったことだが、日和佐に抜けるには由岐峠経由ではなく、貝谷・松坂峠越えのほうがよさげ、であった。旧遍路道として整備もされているようだ。
常の如く後の祭り。ちょっと残念ではあった。アスファルト舗装の由岐峠ではなく貝谷・松坂峠道を歩くのもいいかと思う。
ともあれ、阿波最後の札所への遍路道メモを始める。



本日のルート;平等寺>茂兵衛道標〈159度目)>広重口の標石>月夜橋北詰の破損標石>手印標石>池手前に標石>月夜御水大師>破損標石>鉦打坂薬師堂>弥谷観音>茂兵衛道標〈153度目)>由岐坂峠(郡界標)>由岐町の「四国のみち」指導標>田井浜の遍路休憩所>木岐>白浜の安政地震津波石灯籠>山座越入り口のお堂と丁石>山座峠>えびす洞>24番薬王寺


●第二十三番札所平等寺●

石段を上ると山門。境内の左手に鐘楼、閻魔堂、大師堂と並ぶ。正面にふたつに分かれた石段。下段十三段の石段は女性の三十三歳、上段四十一段の石段は男性四十二歳の厄除坂と呼ばれる。歳数に足らない分は足踏みを歳数とみなし数を合わせていたようだ。
石段左手に御加持水。白水の井戸。弘法の霊水とも開運鏡の井戸とも呼ばれ、この水は万病に効くと伝わる。
石段を上ると本堂。本堂の左手に不動堂が建つ。本堂前の生垣に新聞記事のコピー。本堂の壇から遠くを見ると大師が寝ているような風景が見られる、と。言われてみれば、前面の丘陵がそのようにも見える。
本堂左手に「女厄除坂」。こちらは三十三段と歳と厄歳と合う。後年、平成3年(199)頃には既にできてたようで、さすがに足踏みでの調整は如何なものかと新しく造作されたのだろうか。
Wikipediaには「平等寺(びょうどうじ)は、徳島県阿南市新野町にある高野山真言宗の寺院。白水山(はくすいざん)、医王院(いおういん)と号する。本尊は薬師如来。
寺伝によれば、空海がこの地で厄除け祈願をすると五色の雲がわき金剛界大日如来の梵字が金色に現れた。さらに、その端相に加持すると薬師如来像が浮かび上がったので、錫杖でその場に井戸を掘ると乳白色の水が湧いた。その水で身を清め百日間の修行をした後薬師如来を刻み、堂を建てて本尊として安置したのに始まるという。
寺名は、この霊水により、人々の平等な幸せを願い、また、一切の衆生を平等に救済する祈りを込めて「平等寺」と称されたという。
七堂伽藍や12の末寺を持つまでに栄えたが、天正年間(1573年 - 1592年)に長宗我部元親の兵火で焼失した。享保年間(1716年 ? 1736年)になって照俊阿闍梨によって再興される」とある。 山号は御加持水である「白水」からのものであった。
茂兵衛道標
境内にちょっと唐突に標石が立つ。文字を読むと「平等寺  右立江寺 徳島 明治三十一年」といった文字と共に周防大島といった中努茂兵衛の在所が刻まれる。茂兵衛道標であった。施主は伊藤萬蔵。
この道標、茂兵衛道標の記録に見当たらない。チェックすると、阿南市福井町の鉦打トンネル付近の国道三差路に立っていたもの。昭和45年(1970)頃、道路整備の際に撤去され、近くの喫茶店に保管されていたものを譲り受け、この地に移設したとのこと。
平成27年(2015)8月16日付けの徳島新聞の記事にあるので、その頃に移されたのだろう。







第二十二番 平等寺から第二十三番札所薬王寺へ

平等寺から薬王寺までおおよそ20キロ。大洋に面した日和佐へと向かう。

平等寺新橋南詰に茂兵衛道標〈159度目)
門前、石段の左手に「これより薬王寺迄 五り」の標石。山門前より南に向かう道に入り桑野川に架かる平等寺新橋を渡る。
橋の南詰めに道標と石碑。左手のものは茂兵衛道標。「弐拾三番薬王寺へ五里 平等寺 明治三十一」と刻まれる茂兵衛159度目の巡礼時のもの。右手の大きな石碑は摩耗が激しく文字は読めなかった。



広重口バス停傍の標石
丘陵に挟まれた平地を進む。道は県道284号山口鉦打線。丘陵裾を進み桑野川支流が開く生谷を抜け、次いで現れる丘陵裾に入ると東から道が合流。「広重口」バス停のあるこの道の合流点の少し北、台座に三界萬霊と刻まれた片足を下した地蔵坐像の左手に標石。「左日和佐薬王寺 四 廣重」といった文字が読める。
新野の地形
平等寺からのルートを衛星写真でみていると、平等寺のある新野(あらたの)を取り巻く地域の奇妙な地形が気になった。桑野川本流が流れる平等寺辺りは谷底平野、というか山間盆地といった風情であるのはいいのだが、その周辺の丘陵が複雑に刻まれ、その間に谷底平野といった地が挟まれる。
Google Mapで作成
以前、櫛淵の地でみた三方を丘陵で囲まれたくさび型の平地、 櫛目状に連なった地形も見える。海岸近くの陸地には、はるか昔、隆起や沈降によりおぼれ谷状にできた入江とも思えるギザギザに入り込んだ多くの丘陵が見える。陸上にあった谷が、その地形を保ったまま何らかの理由で水面下に没し、またなんらかの事情陸地化して残った地形だろうか。
国土地理院の地質図には平地は堆積岩。形成時代は新世代。岩質は谷底平野・山間盆地・河川・海岸平野堆積物。丘陵地は付加体。形成時代は中生代。岩質は海成層、砂岩泥岩互層、とある。何となく惹かれる地形である。参考にGoogle Earthで作成した写真を掲載しておく。
付加体
付加体とは海洋プレートが海溝で大陸プレートの下に沈み込む際に、海洋プレートの上の物がはぎ取られ、陸側に付加したもの。平地・平野部の堆積岩は付加体・砂岩泥岩曹が川の開析・風化・侵食などにより礫・砂・泥として堆積したものかと思う。門外漢のため素人推量。


月夜橋北詰の破損標石
丘陵の間を流れる南川に沿って県道284号を進み、丘陵裾を抜け、西から流れてきた南川が北へと向きを変える辺りに架かる月夜橋を渡る。橋の北詰に上部の破損した標石。「*んろ道」と読める。








月夜御水大師傍、県道脇に手印標石
南川が流れる小振りの山間盆地といった平地の南には東西に連なる丘陵があり行く手を阻む。県道284号が丘陵に辺り、左に折れて丘陵越えの道となる箇所では大規模な道路工事が行われていた。丘陵を南北に切り開こうとしている。丘陵取り付き口部の県道が細く蛇行しており、その箇所の直線化工事なのだろうか。
で、その道路工事始点に遍路道の案内。歩き遍路は直進とあるのだが、どこをどう進めばいいのかよくわからない。結局、県道を進むことにした。
左に折れ大きく曲がった先に思いがけなく手印だけの標石に出合った。


池手前に標石
道を進むと右手の崖下に小堂が見える。チェックすると月夜御水大師とあった。お堂へと下る道を探しながら進むと池があり、県道から池に逸れる道の分岐点に、真ん中から折れた標石。「右」といった文字が読める。







月夜御水大師
その対面に一箇所ガードレールの切れ目。そこから大師堂に下る道がある。 坂を下ると月夜御水庵 (月夜のお水大師)。1間四方の古いお堂。境内には樹齢1000年と伝わる杉の巨木。
伝わるところに拠ると、この地で泊まった空海(弘法大師)が、水がない衆生の不便を感じて加持し清水を湧かせた。と、水底に光を放つ石。その石で仏をつくり祈願をこめると闇夜に光明現れ月夜となった。その光で薬師如来と地蔵菩薩石仏を刻み薬師如来を祀った一宇の庵が月夜御水大師と言う。道から見えた小堂は伝説にある加持水のお堂であった。
今回は道路工事のため、歩き遍路の道がはっきりせず県道を上り、結果お堂の裏側からお参りすることになったが、表からお堂に向かう道がどこかにあったのだろう。


桑野川と福井川の分水界丘陵を越える
月夜御水大師から先の県道284号は、東西に延びる丘陵を越える。地図で見るとこの丘陵は北の桑野川水系と南の福井川水系の分水界となっている。曲がりくねった道を進み丘陵を下りて福井川筋に下りる。


月夜坂
月夜坂取り付口
県道建設以前の往昔のこの丘陵越えは「月夜坂」越と呼ばれていたようだ。ルートは池の南西端あたりに法面を上るステップがあり、そこから南の尾根筋を通り現在の福井ダム手前の谷、その名も裂股と呼ばれるとろこに出てきたよう。道筋には遍路墓や標石も残ると言うが、道は荒れ通行はできないようである。






鉦打橋を渡り県道55号に
福井川に架かる鉦打橋を渡ると右折。国道55号と並行して少し西に進むと県道284号は左に折れて国道55号に合流する。
遍路道はそのまま西に進み法面とガードレールに挟まれた道を進み、右に折れて水路を渡り耕地の中の道を進み、竹林を上ると県道55号東鉦打橋の西詰に出る。橋の下にささやかな水路はあるが、橋と言うより丘陵と丘陵の間の平地を跨ぐための高架橋のようにも思える。


福井川の河川争奪
地図を見ていると牟岐線新野駅から阿波福井駅へと通る平地がなんとなく気になった。桑野川水系の支流上流域と福井川支流の上流域が平地で接近している。地形からみて河川争奪が起こりそうな風情。チェックすると往昔、福井川はこの牟岐線の走る平地を桑野川へと流れていたよう。福井川は桑野川の上流域であった、ということだ。
その後この流れは動々原(牟岐線阿波福井駅の北東)辺りで福井川に争奪され現在の流れとなったようである。動々原辺りに福井川に注ぐ支流が残るが、これは往昔の川筋跡でろうか。

鉦打坂薬師堂
遍路道は東鉦打橋の西詰で国道55号に出る。国道対面にお堂。右側の覆屋には3基の石仏。左はコンクリート造りのお堂。その間に案内があり、『 鉦打坂 薬師堂由来』とあり、「右側に安置する薬師堂は新国道北側の旧土佐街道沿いに鎮座されていたもので、平成二年福井治水ダム建設工事により裂股に仮安置し、平成七年三月十七日現在地に遷座されたものであります。
お堂の裏の山道は過去の歴史に名高い「土佐街道」で、街道随一の難所鉦打坂が延々と続いており、その昔これを越える旅人(特に四国八十八ヶ所巡礼)が険しい山道に行き暮れて病に倒れるもの少なからず、里人講中の人々甚しく哀れに思い、相計って養生所を建て手当をつくし、不幸病没後はねんごろに弔い供養塔を建立、のち享保四年(一七一七)、衆生の病苦を救い無明の病疾を癒すという「薬師瑠璃光如来」を灌頂祈願したのがはじまりと伝えられております。
宿借ら ん 行方も見えず久方の 天の河原の 行き暮れの空
時は移り明治となって新しい国道が敷設され、嘗ての土佐街道は通行人も絶え、従って講中以外の参詣者もなく寂しい佇まいとなっておりましたが、霊験灼かな如来の衆生済度の念の然らしめるものか、この度参詣至便、而も往時の由緒深き現在地に遷座、再び衆生の前に御影を現わし給う。 「願わくば無辺の慈悲により、除病厄難を消除し、息災延命の御加護を成し給え」
「オンコロコロセンダリマトオギソワカ」 平成七年三月吉日 鉦打講中」とあり。

鉦打大師堂
鉦打坂薬師堂の左手には鉦打 大師堂。「『鉦打 大師堂 由来』 には「左側に安置する大師堂は、宗祖弘法大師を祀る「鉦打坂のお大師さん」と諸人に親しまれ衆生の篤い信仰を集めていたもので、福井治水ダム建設工事により裂股に仮安置し、平成七年三月十七日現在地に遷座されたものであります。
大師が四国霊場開創遍歴のみぎり、第二十二番平等寺より月夜坂を越え土佐街道の現在地付近を通り、姥目崖を下り渓流を渡って七分蛇、怪猫の住むという弥谷渓谷に足を留められ、ここを奥の院修験の場と定め厳しい修行の末、霊験受得・三界万霊・森羅万象全ての自然界と自分の身と心が一体と感じ念ずる即身成仏を唱え、如意輪穴観音、七不思議の霊跡を遺す。傍らの碑に示すとおり
一、不二地蔵 二、ゆるぎ石 三、笠地蔵 四、御硯り石 五、四寸通し 六、日天月天 七、胎内くぐり、
その他種々多様の石仏を祀るのが秘境弥谷観音で、同行二人の誓願をたて八十八の遺跡によせて利益を成し給う内の一つである。
後世に至り里人斉しく大師の偉大な御遺徳を偲び御跡を崇め弘化二年(一八四五)堂を建てて弥谷観音の前堂として灌頂し、その御徳を礼賛し奉ったのが起源と伝えております。
「願わくば無明長夜の闇路を照し、二仏中間の我等を導き給え」
「南無大師遍照金剛」「平成七年三月吉日 鉦打講中」とあった。
土佐街道
案内にある土佐街道は、薬師堂・大師堂のあるところから南に進む道を少し進み、現在の福井トンエルの先で国道55号筋に出たようである。現在は藪で荒れており歩けそうにない、とのこと。「裂股」は旧遍路道である月夜坂を越え福井川筋に下りる谷間を含めた、福井川左岸の丘陵部を福井町裂股と呼ぶ。

福井ダム
県道55号を進むと鉦打トンネル。このトンネルは福井ダム建設に伴う国道の付け替え工事で掘られたもの。竣工昭和63年(1988)、開通平成11年(1999)。301mのトンネルを抜けると福井川を堰止めた福井ダムとダム湖が右手に広がる。
平成7年(1995年)に完成。高さ42.5メートルの重力式コンクリートダムで、洪水調節・不特定利水を目的とする、徳島県営の治水ダムである。福井町は日本第二の降水量を記録したこともあるようで、徳島県の資料に「この地域は,徳島県においても多雨地域であり,台風期以外でも他地域に類を見ない豪雨があり,急峻な山地からの水の流出は早く,鉄砲水となります。特に,昭和20年代の度重なる大雨により被害が発生し,昭和27年3月22日には時間雨量162mmという集中豪雨により,死者6名,被害家屋360戸,浸水農地111haという大きな被害が発生しています。
また,本川沿いの耕地は,かんがい用水を福井川に依存しており,しばしば用水不足を来しています」とある。これが洪水・多目的利水ダムの所以だろう。

名月橋
福井ダム湖の左岸に22番平等寺奥の院弥谷観音があると言う。上述鉦打大師堂での由来にあるように由緒あるお堂。ダム建設後の姿は如何なものかとちょっと立ち寄り。
国道55号を左折しダム湖に架かる名月橋を渡る。橋の西詰に案内。「名月橋という名について ここ弥谷(いやだに)の-自然石の岩肌に線刻手法彫りこまれた「弥谷七不思議」のひとつ......。日輪と月輪の天体像を日天月天さんと呼んできました......。古代の民俗信仰の神秘性と深い謎につつまれたまま永遠にダムの湖底に沈むことになりました。
その日天月天の淡い月影が湖面に映えて明るく、まさに「明」めいの文字どおり仲良く並んで、渡れるようにとの意味ですが、はるかなる幻想と歴史的イメージから「明月橋」と美称したものでありました」とあった。
上述、鉦打薬師堂に弥谷観音の七不思議とあった「日天月天」に由来するとのことだ。


遊歩道に笠地蔵と日天月天
遊歩道入り口

福井ダム湖左岸の道を進むと、道の左手に「弥谷観音堂 右へ200m」の案内と共に、「弥谷観音 夫婦地蔵 笠地蔵 日天月天」は左へ、の案内。


車道を逸れ遊歩道といった土径の道を進むと夫婦地蔵、笠地蔵、日天月天の石造物が道端に立っていた。
道を進み擬木を上ると弥谷観音堂の少し手前の車道に出る。


弥谷観音堂
ゆるぎ石
お堂は車道より一段高いところに建つ。「弘法大師様ゆかりの 阿波坂東観音霊場第壱番 弥谷観音 御本尊如意輪観音」と刻まれた寺標石を見遣りお堂へと上る。擬木の敷かれた坂の周囲には幾多の石仏が並ぶ。
上り切った平場に大岩。「ゆるぎ石」とある。前述弥谷観音七不思議のひとつ。「第二十二番平等寺奥の院」と書かれた木札の掛る堂宇は観音堂とあった。本尊は防犯のためか祀られていなかった。
弥谷観音堂旧地
かつての弥谷観音堂は、福井川の渓谷にあった。現在の弥谷観音はダム建設に伴い移設されたもので、旧地は現在ダム湖の底に沈む。
前述『鉦打大師堂』の由来に「姥目崖を下り渓流を渡って七分蛇、怪猫の住むという弥谷渓谷に足を留められ、ここを奥の院修験の場と定め(中略)如意輪穴観音、七不思議の霊跡を遺す」とあるように、渓谷の岩窟を修行の場と定め、岩場に如意輪観音を刻み、絶壁には大日如来を祀り「行場とした、と言う。上述七不思議の笠地蔵、日天月天、ゆるぎ石も渓谷に沿った道筋にあったものを遊歩道や現在の弥谷観音堂に移したものである。
旧遍路道
福井トンネル傍、旧土佐街道出口(推定)
福井ダムが建設される以前の遍路道は福井川に沿って弥谷の渓谷に入り、弥谷観音に詣でた後、 福井川右岸に渡り上述「姥目崖」を上り、現在の弥谷観音堂の対岸にある福井トンネルを迂回する旧国道筋に出たようである。上述土佐街道は福井トンネルの先で下りてきたとのことであるので、遍路道は土佐街道に合流したのであろう。
因みに平等寺で見た茂兵衛道標は「鉦打トンネル」付近の国道三差路に立っていた」とあったが、 場所の特定はできなかった。



由岐分岐
名月橋まで戻り、国道55号を右に折れ福井トンネルを抜ける。抜けた先で右手からトンネルを迂回する旧国道が合流する。また、左手から下りてくる藪道は鉦打薬師堂・大師堂の辺りから越えてきた土佐街道・鉦打坂の下口だろうか。
道を進むとほどなく右に逸れる右。ガードレールに「右薬王寺」との案内がある。右に逸れ県道200号に乗り換える。





小野集落の茂兵衛道標〈153度目)
県道200号を進むと橋を渡る。逆瀬橋と呼ばれダム上流部の福井川を跨ぐ。この地で北に大きく蛇行した福井川が、一瞬、逆流しているよう見える故の命名だろうか。
その先、国道55号を潜った県道200号はほどなく左に折れて進む。遍路道はそのまま直進し小野の集落に入る。三叉路に茂兵衛道標。「是ヨリ三里半 薬王寺二十三番 平等寺 徳島 明治三十年」茂兵衛153度目巡礼時のもの。

由岐坂峠(郡界標)
茂兵衛道標の三差路を左に折れ、福井川に沿って進む。道は県道20号となる。ほどなく国道55号バイパスの高架を潜る。この辺り東西、南北に流れてきた福井川の支流が合流する地点。右に曲がれば貝谷の谷筋、左に進むと辺川の谷筋。
地図を見ると辺川の谷筋を進む県道20号筋に遍路休憩所がある。とりあえず左に折れ、遍路休憩所を見遣りながら谷筋を進むと県道は丘陵を越えるべく右に折れ峠に向かう。
二車線の立派な県道を上り峠につくと右手に「阿南市」、左手に「美波(由岐)」の看板が立つ。阿南市と海部郡美波町の行政域のここが境。
峠の左手には郡界標が残る。「郡界標 北那賀郡 南海部郡 距徳島県庁十一里二十* 距海部郡役 三里三十一丁 大正十年」といった文字が刻まれる。
峠には特に峠名の表記はないが、地図には由岐坂峠とあった。峠を下り田井に下りる。

土佐街道・貝谷峠・松阪峠越え遍路道
メモの段階でわかったことなのだが、往昔の遍路道は由岐坂越えではなく、貝谷峠・松阪峠を越えて田井に出たようである。ルートは、福井川の支流が合流する地点で今回歩いた逆、右に曲がり貝谷の谷筋に入り、そこから貝谷峠・松阪峠を経て、現在の55号線バイパスのトンネル出口辺りに出たあと、里道に下ったようである。
道も地元の方の尽力で整備されているとのこと。このルートは往昔の土佐街道であり、『四国遍礼日記』を著した澄禅もこのルートを歩いたと記事にあった。
土佐街道・星越峠越え遍路道
上述、小野集落の茂兵衛道標〈153度目)を右に折れ、現在国道55号が通る道筋も藩政時代の遍路道。星越トンネルのある辺り、星越峠には地蔵尊があり、「「薬王寺 二里余 弘化二巳年(1845)七月二四日建」と刻まれていたようだ。
由岐町経由の貝谷峠・松阪峠越え土佐街道が星越峠ルートに変更になったのは明治34年(1901)。阿南市小野と日和佐町大戸を結ぶルートに変わり、峠越えのバスも走った、とか。星越トンネルが開通したのは昭和43年(1968)のことである。

由岐の町
Google mapで作成
峠道の途中に遍路休憩所を見遣り、牟岐線の手前を右折し、牟岐線由岐駅の山側の道を進む。駅の海側に由岐の街並み。リアス式海岸の入り江に港。かつては土佐や九州との海上交通の中継地点として栄えたとのことである。
『太平記』には「阿波の雪の湊と云浦には、俄に太山の如なる潮漲来て、在家一千七百余宇、悉く引塩に連て海底に沈しかば、家々に所有の僧俗・男女、牛馬・鶏犬、一も不残底の藻屑と成にけり。」とある。
太山の如なる潮漲来てとは、正平16年/康安元年(1361年)の正平・康安地震による津波のことであるが、この津波で1700余の家屋が津波に呑み込まれたとある。ここにある「雪の湊」は由岐の湊のことであっるが、当時既に1700戸の家が建つ大きな港であった、ということである。
『平家物語』には「権亮三位中将維盛は、(中略)忍びつつ屋島のたちを出で、阿波国雪の浦より鳴戸の沖をこぎ渡り、和歌の浦、吹あげの浜、玉津島明神、日前、国懸の御前を過ぎて、紀伊ぢの由良の湊といふ所に着給へり」とある。「雪の浦」とは由岐の湊のことであるが、船運中継地としての 性格を示す記述である。
海部郡由岐町は平成18年(2006)、日和佐町と合併し現在は海部郡美波町となっている。

苫越
県道を進みかつての由岐町の名残を残す美波町西由岐(対岸にも東由岐の地名がの残る)を越え、牟岐線田井の浜駅の山側を進む。ほどなく牟岐線の踏切を渡り海岸側に。そこは田井の浜。名の由来は、「定説を欠くが、「たい」は「田結い」からの語で農作業上の手間がえを意味し、漁村では共同で地引網を引く意であることから名付けられたという説がある」とWikipediaは言う。
田井の浜休憩所z8お遍路休憩所)を見遣り海岸に沿った県道を少し進むと、遍路道は木岐トンネルに向かう県道を右に逸れ、ほどなく県道高架下を潜った後、木岐トンネルの海側を迂回する旧道に入る。
道を上ると直ぐ、山側に「土佐街道」の標識。当日は、土佐街道を辿る散歩でもないしなあ、などと通り過ぎ木岐トンネル南口で県道25号と合流し次の入り江の町、木岐へと下る。
土佐街道苫越ルート
ちょっと考えれば、県道などの道路整備される以前の遍路道は土佐街道を利用したのだろう、といったことはわかるのだが、当日は先に進むことに気が急き苫越岬の上り口にあった「土佐街道」の標識を軽く往なした。
で、メモの段階で標識の写真をじっくり見ると」「土佐街道苫越登り口 一里松跡と薬王寺 二里の道しるべ(この上五十〈米))」とあた。チェックすると「道しるべ」とは徳右衛門道標のことのようだ。「従是薬王寺二里 本願主豫州 徳右ヱ門 施主 那賀郡答島郷 新浜善蔵」と刻まれrとある。峠への上り下りの道は荒れ果て現在は廃道となっているようだが、徳右衛門道標があるとわかっておれば、藪漕ぎで進んだではあろうが、今となっては後の祭りである。

苫とは歴史民俗用語で、「菅(すげ)・茅(かや)などで編んで作ったもの。船などを覆い、雨露をしのぐのに用いる」とある。昔地震による大津波のとき、苫がこの峠まで打ち上げられたところからつけられたとも伝わる。

木岐の四国千躰大師標石
苫越の県道を下り、木岐に(美波町木岐)。県道を道なりに進むと木岐駅の少し北、牟岐線の高架手前に照蓮の四国千躰大師標石が立つ。左を指す手印に従い道なりに進み、牟岐線木岐駅前をぐるりと左に廻り木岐の港に沿って進む。

この木岐(きき)を含め海部郡の海岸線には志和岐、木岐、由岐、牟岐など「岐」のつく町が目につく。地名の由来、特にこの場合の「岐」は何を意味するのだろう。
あれこチェックするが、それらしき記事がヒットしない。で、妄想を逞しくすると、最初に思いつくのは過日12番札所焼山寺から13番札所大日寺への道すがら出合った、船盡(ふなと)神社での「妄想」。
そこでは、船盡(ふなと)神社のベースには、阿波に多く残る「岐(ふなと)信仰」にあるのでは、メモした。その岐信仰は「来名戸(くなと)信仰」からの転化。「来名戸」は「来名戸祖先神(くなとさえの神)がそのベース。「くなと」は戸(家)に来るのを拒否する、の意。さえの神とは塞(さえ)の神。塞神とは疫病などが村々に侵入するのを防ぐ道祖伸である。
この岐神信仰に由来する?この海部郡にも岐神信仰由来の伝承があるとは言え、焼山寺を下った神山町に七百以上もあると言う岐神さまを祀る祠がの辺りに多数あるとの記録もない。岐信仰と結びつくエビデンスが見つからない。
別の説としては、古代豪族紀氏の傘下に組み入れらた海人由来のものといった記事もあった。紀>岐の転化ということだろう。
ともあれ、「岐」の由来は不明。少し寝かせて置く。

白浜の安政地震津波石灯籠
木岐漁港に突き出た丘陵裾を抜ける県道25号を進むと白浜の海岸に。ほどなく海岸沿いに遍路休憩所。遍路道はここで県道を逸れ海岸堤防に沿って進む。
少し進むと右手に木岐王子神社。ちょっとお参り。さっぱりとした境内に「木岐王子神社石灯籠 奉一燈 嘉永七年(1854)11月5日快晴の午後4時ごろ大地震が発生し、1時間ほどの間に津波が三度押し寄せ、家が流された。波の高さは12m以上にもなった。王子神社も流され翌年に移転した。大地震の節は油断なきようあらかた記しおく」の説明と、灯籠に刻まれた「嘉永七寅十一月五日清天七ツ時大地震、半時之内大汐三度込入軒家流失凡四丈余上リ、當宮流失明卯八月遷宮、大地震之節油断無之事荒方記置」の写しが掲載されていた。
地震の規模は現代風に言えばマグニチュード8.4。房総から九州まで被害を及ぼした大地震であるが、この木岐浦においても被害は甚大で230戸のうち190戸が津波で流失した、という。

山座峠越入り口のお堂と丁石
王子神社の先、遍路道は木岐浜から恵比須浜に抜ける山座峠越の道に入る。海岸際の取り付口にセメント造りのお堂と地蔵座像、お堂の左手に下半分が埋まった標石があり、手印と共に大師像が見える。照連の四国千躰大師標石だ。お堂の中に祀られる舟形地蔵も丁石を兼ねており、台座に「辺路道 薬王寺 七十五丁」と刻まれる、と。
如何にも海辺の樹林といった風情のウバメガシ(?)の木々の中をしばらく進むと、白浜で分かれた県道25号に合流する。比高差は70mほどだろうか。1キロ弱を緩やかに上る道であった。
土佐街道・殿さま道
往昔の土佐街道・殿さま道は、遍路道とは異なり、上述王子神社辺りから丘陵に取り付き、山座(さんざ)峠の西へと下りていたようだ。現在は廃道となり藪漕ぎMUSTの荒れたルートとなっているようだ。

山座峠
県道25号に合流点には「四国のみち」の木標。「山座峠1.0km」とある。県道とはいえ、ほとんど車が通ることはない。大型地震による津波浸水想定地帯を走る県道25号の代替ルートとして建設された国道55号バイパスを利用しているのだろう。

しばらく歩くと山座峠。峠といった風情はない。そこに山座休憩所(遍路休憩所)。ルート図があり、山座峠から県道を離れ恵比須浜に下りる道が示される。浜に下りた後は海岸に沿って日和佐の町へと向かうようにと示されていた。
擬木の敷かれたアプローチから下り、100mほど高度を下げると田井の集落に下りる。途中舟形地蔵丁石。「遍ろう道 是より五十丁 左日和佐浦 天明元」といった文字が刻まれる、と。
しばらく歩き、潟湖堤防前に遍路道は下りる。


田井の一石三体の石塔
Googke mapで作成
田井の集落に下り、田井湾に沿って道を進む。巾着の口のように締めた地形の田井の浦の地形は結構面白い。砂(礫)洲・砂(礫)堆によって造られた潟湖を活用した浦であろうし、外洋と結ばれた細い水路は砂(礫)洲・砂(礫)堆を掘りぬいたものではないだろうか。砂(礫)洲・砂(礫)堆は20mほど、その下にも6mほどのシルト層(沈泥)が堆積していると国土地理院の資料にあった。
県道が恵比須浜へと右に折れる角に一石三体の石塔。上部に役小角、右に不動明王、左に地蔵菩薩が刻まれる。


恵比須洞の岬上り口に四国千躰大師標石
田井の浦を過ぎ、恵比須浜に沿って南に突き出た岬に進む。岬への上り口、海側に標石が見える。 正面に大師坐像、側面には「真念再建願主」といった文字が刻まれた照蓮の四国千躰大師標石。
岬の突端に「恵比寿洞」の案内。「美波町周辺の海岸は、打ち寄せる太平洋の荒波に浸食されて、いたる所に大小の海蝕洞が見られる。中でもこの恵比須洞は標高52mの岩山に、内部が32m、高さ31mの半円状に貫通しており、県内では最大のものである。
荒波が押し寄せると洞窟の中で轟音を発し出口から噴出する様は実に壮観である。山上には展望台があり、傍らに夫婦和合の神として、恵比須洞神社が祭られている。洞穴には町指定天然記念物である「イワツバメ」が棲息している」とあった。

日和佐
ウミガメの産卵地で知られる大浜海岸北端辺りまで海岸線を走った県道25号は、日和佐八幡神社北側の道へと進み、三差路を西に向かう。道の右手に弘法寺、観音寺と続く。観音寺の道を隔てた北側には美波町役場。その前に日和佐御陣屋跡が立つ。
美波町役場の先はT字路。県道25号は左折し、北河内谷内川に架かる厄除橋を渡り、直ぐ桜町通を右折。門前町の桜町通りを直進すれは第二十三番札所薬王寺に至る。
弘法寺
弘法寺は法印さんで知られるようだ。法印さんは江戸末期の、日和佐で生まれた行者。栄寿法印と称し、荒行の末小松島での化け物退治なといくつもの霊験譚が伝わる。本尊は弘法大師坐像。境内には法印堂も建つ、と言う。
観音寺
観音寺には「二見千軒と寺屋敷」の話が残る。「日和佐町の西南端に小さい円い湾があって、そこを二見といっている。湾の周囲は険しい山であるが、その山の中腹に、一町四方程の平地があり、ここを寺屋敷といっている。この地が「二見千軒」と言う伝説のところであって、大昔、二見には千軒ほどの家があったが、陥没してなくなり、寺屋敷にあった寺も日和佐に移った。今の観音寺がその寺で、山号も二見というと伝えられている。
観音寺の縁起には「弘法大師が二見に来られた時、霊木得て十一面観音を造り、補陀落山観音寺を創立せられた。その後、440余年を経て正嘉二年(1258)八月、台風雨洪水大波のため、山下の町八百余家が一時に海となったので住居しがたく、檀家の人びとと共に現在の所に移って来て、村を開いた」と書かれている。
日和佐御陣屋跡
阿波藩は、地方行政の役所として明和6年(1769)郡奉行と代官の名を改め郡代と唱え、阿波国内を6区とした。那賀・海部が一区となり、3人の郡代はそこに常駐したが、時々管轄地を巡見するのが通例であった。
寛政11年(1799)海部郡鞆浦に、海部郡代所が新築されて新御陣屋と呼ばれた。海部郡は徳島より遠く、交通不便で異国船の警備や、国境に近い重要地などの関係で設置されたものと思われる。
更に文化4年(1807)御陣屋は日和佐のこの地に普請をして移転された。この日和佐御陣屋が最後の郡代役所となった。以来明治初年に至る約60年間、郡代役所の機能を十分に生かし、上は藩庁の指揮に随順し、また管轄6箇町・木頭4箇村の協力を得て、多事多難であった行政に有終の美を発揮したのである。今日も尚、遺跡は町役場・日和佐小学校として行政と文教の歴史を織りなしている。
いま、御陣屋の遺構として残っているのは、北西隅の土塀の一部と、遺物としては、ここにある蜂須賀氏の卍紋のついた瓦と的石である。
この役場庁舎の玄関横にある的石は、御陣屋の西北隅の射場に南面して立っていた矢見立岩である。日和佐小学校改築の際に移転してから、三度の移転を経て、平成9年現在地に設置したものである。
地上部は、高さ1.8メートル、巾2.0メートル、厚さが0.5メートルで、岩質は堆積岩(礫岩)で、日和佐町の宝木橋付近に産する珍しい石で出来ている。矢見立岩の名のとおり、この岩陰で、的を射とめたかどうか判定するのに使用したものである。
日和佐の町
日和佐の町についての記事を探していると、「美波町日和佐地区散歩絵地図」にわかりやすい説明があった。「門前町と港町 門前町である「寺前・桜町」と、古来より港町として発達した港町(川口町)として発達して来た日和佐浦(港町周辺の総称)よりなり、門前町は参詣者や陸上交通の発達で栄えた比較的新しい町。日和佐浦は江戸中期より台頭してきた廻船商人の活躍や、"御陣屋"(後の郡役所)が置かれた事もあり、明治に至るまで、海部郡の政治・経済・文化の中心として栄えてきました。とくに"谷屋" に代表される廻船(交易)によってもたらされた様々な文化が、この町の構成や人々の営みに多大な影響を与えていたことは、日和佐浦の古い町並みなどからも見てとることができます」とある。
桜町は上述の通り。日和佐浦は弘法寺や御陣屋跡があった、、北河内谷内川北側の地区。北河内谷川に架かる厄除橋も、元の橋は廻船業で財を成した谷甚助が総引受人となり、人々の浄財をもとに完成した。と言う。引船渡、木橋を経て石橋を架けた。
日和佐の由来
日和佐を中心とした上灘一円はその昔「和射(わさ)」郷と称していた。明治13年(1880)徳島県が調査した「阿波国村誌」には「古老伝に、往古、和佐(和射)と言いけるが、空海はじめてこの地へ着船、陸に上りし時、旭登れるに所の名を問う。土民「和佐」と答えけるが、朝日を受けて良き地なりとして「日和佐」と言しよし」と記される、と。

土佐街道・小田坂峠越
今回の散歩は田井の恵比寿浜から海岸に沿って大浜海岸を経て日和佐に入った。メモの段階で危険な海岸沿いの道ではなく山越えの道があるのではとチェック。と、田井から日和佐に抜ける土佐街道・小田坂峠越の道があった。
Wikipediaには「北河内側から登る際には、小田坂といい、田井側からはソロバン坂とも言われる。この峠は北河内田井から北河内札場へと抜ける、かつての土佐街道の本線で、阿波藩藩主である蜂須賀氏も通ったと伝わる。かつて道幅は6尺(1.8メートル)ほどあったが、昭和期には、3尺(90センチメートル) ほどになっており、現在は通行困難となっている」とあり、「峠には一本松があり、峠から200mほどの日和佐側には花折地蔵が祀られる」と記されていた。
北河内の真念道標
Wikipediaには現在通行困難とのことだが、WEBをチェックすると結構多くの方が歩いている。それはそれでいいのだが、この道が遍路道であった(当然そうだろうが)エビデンスはないものかと更にチェック。と、牟岐線北河内駅の少し北に真念の道標が残る。「右 大く巳んみち   左 やく巳う寺みち 十丁余」と刻まれると言う。
「大く巳んみち」って何だろう。これが小田坂峠越えとの関連があるのであれば、小田坂峠越えの遍路路のエビデンスになるのだが?そういえば徳島の十番札所の傍にあった真念道標にも「大くわん道」と刻まれていた。以下妄想。観音寺(かんのんじ)のことを真道標には「くわんおんじ」とあった。とすれば、大く巳んみち>大かんみち>おおかんみち>往還道?土佐街道・小田坂峠のことを指しているのだろうか?単なる妄想。根拠なし。

○日和佐浦の旧遍路道
小田坂峠越遍路道のエビデンスとなる標石をチェックしていると、上述「美波町日和佐地区散歩絵地図」に和佐八幡神社の西、通りを少し奥まったところに、遍路道標の記事。Google Street Viiewでチェックすると「日和佐町日和佐浦 旧険路道しるべ」と書かれた標識とその傍に舟形地蔵と角型石柱があった。
上述北河内谷に出る遍路道とも、澄禅が辿ったとする海岸沿いの遍路道ともルートが外れる。あれこれチェックすると、ここから奇岩・大岩から小田坂峠を経て田井に抜ける道があったようだ。この道標はその道を辿ったお遍路さんのために立てられたのではないだろうか。
尚、この記事作成に際しては、いわや道・平等寺道をメモする際、中山道の記事を参考にさせて頂いた「大瀧嶽記(奈佐和彦)」のお世話になった。地元の方の記事は、誠にありがたい。
今回のメモはこれでお終い。次回は第二十三番薬王寺から始める。

先回のメモは、那賀川筋の大井から第二十一番札所太龍寺までをメモした。今回は第二十一番太龍寺から第二十二番札所平等寺までの遍路道をメモする。全行程12キロほどだろうか。
ルートは太龍寺から阿瀬比の集落に下り、その後尾尾根峠を抜けて平等寺に向かう。太龍寺から阿瀬比の集落までのルートはふたつある。ひとつは黒河道。太龍寺仁王門の東にある遍路道分岐点から加茂谷川の谷筋に下り、黒河の集落を経て県道28号に合流し南に下り阿瀬比に向かう。誠に狭いながらも太龍寺への唯一の車参道だが、標石・丁石といったものは残らなようだ。
全体ルート図(Google Earthで作成)
もうひとつは太龍寺から加茂谷川の谷筋を隔てた南の稜線部を辿り阿瀬比の集落に下りるもの。このルートは「いわや道・平等寺道」と呼ばれ、標石や舟形丁石も残ると言う。標石を目安に旧遍路道をトレースするスタンスでの遍路道歩きであり、迷うことなく「いわや道・平等寺道」ルートを採る。 太龍寺からは山稜部を巻き気味に麓の集落・阿瀬比まで続く「いわや道・平等寺道」はその距離6キロほど。比高差は350mほど。
阿瀬比の集落に下りた後は大根峠を越えて平等寺までおおよそ6キロ。大根峠は、峠といっても取り付き口からの比高差は100mもない。それほどキツクはないだろう。普通に歩けば2時間もあれば十分ではあろうが、平等寺道の下りで膝が完全にダメになり3時間ほどかかってしまった。
実のところ、当日は阿瀬比の集落で膝がアウトになった時に備え、念のため阿瀬比集落を通るバスをチェックしていた。午後に2便(2時46分、4時26分)JR牟岐線の駅に繋がるバスの便を確認していたわけだが、なんとか騙しだまし平等寺までたどり着いたといった為体(ていたらく)ではあった。
以下、一応ポイント毎に当日の時刻表示はするが、そういった事情でのコースタイムであり、特に平等寺道の急坂以降のコースタイムは実際はもっと早く進めるかと思う。 メモをはじめる。


本日のルート;
那賀川筋水井橋から太龍寺道を第二十一番札所太龍寺へ
水井橋>地蔵座像と標石>中尾多七標石>10丁>11丁>12丁>休憩所>14丁>16丁>中尾多七奈標石1>17丁>中尾多七標石2> 中尾多七標石3 >遍路墓>19丁>20丁>21丁>23丁>24丁>25丁>尾根>27丁>21番太龍寺
第二十一番札所太龍寺からいわや道・平等寺道を阿瀬比集落へ下る
太龍寺>1丁石>舎心嶽>石仏と丁石〈4丁?)>茂兵衛道標>角柱標石>7丁>6丁?>9丁?>破損石仏>遍路墓>笠付標石>12丁>13丁>14丁>15丁>16丁>17丁>18丁>>19丁>20丁>阿瀬比3㎞>22丁>24丁>遍路墓>25丁>いわや道・平等寺道分岐点>阿瀬比集落1.6km>急坂>39丁>標石>平等寺5km>茂兵衛道標(169度目)
阿瀬比集落から大根峠を越えて第二十二番札所平等寺へ
中尾多七標石>標石2基>倒れた標石>大根峠>地蔵立像>角柱丁石(20丁)>休憩所>石仏群と15丁石>石仏群と11丁石>真言供養塔>岩戸橋北詰2基の標石>22番平等寺


太龍寺からいわや道・平等寺道・大根峠越え経由平等寺ルート


第二十一番札所太龍寺からいわや道・平等寺道を阿瀬比集落へ下る

太龍寺を離れいわや道、平等寺道を経て阿瀬比の集落へと向かう。地形図を見ると、太龍寺の建つ山稜の南、加茂谷川を隔てた山稜の稜線部を巻き気味に進み、阿瀬比の集落へと降りてゆく。南舎心嶽あたりから始まる「いわや道」は平等寺道分岐までおおよそ3キロ、そこから阿瀬比の集落までの「平等寺道」はおおよそ2.5キロ。6キロ弱歩くことになる。

太龍寺ロープウエイ乗り場;午前10時46分
境内に立つ「舎心ヶ嶽680米」の標石の手印に従い境内を左に逸れる。ほどなく太龍寺ロープウエイ山頂駅。舎心ヶ嶽への道は山頂駅脇を太龍寺山〈618m)方向へと向かうことになる。

太龍寺ロープウエイ
by 四国ケーブル〈株)
山麓駅から那賀川を跨ぎ山頂駅まで2,775m。西日本一の長さと言う。開業は平成4年(1992)と結構新しい。上述Wikipediaに「戦後は山中の山寺ゆえに困窮の時代を迎えたが、1992年に太龍寺ロープウェイ が運行するようになったため容易に参拝できるようになり、遍路ブームの到来もあって隆盛時を迎えた」とあった。
山中の山寺ゆえロープウエイが運行されるまで、太龍寺の困窮は大変なものだったのだろう。龍の窟の地は石灰鉱山会社に売却され、取り壊されてしまったと言うし、三重塔も四国中央市の興願寺に売却されたと聞く。また車参道といってもその黒河道は狭路・難路であり、気軽に参拝できるようには思えない。ロープウエイのおかげで太龍寺参拝は身近になったようだ。 運営は四国ケーブル〈株)。八栗ケーブル、雲辺寺ロープウエイ、箸蔵山ロープウエイ(現在は分社化)も運営しているとのこと。

1丁石;午前10時50分
南舎心ヶ嶽への道に入る。道に沿って四国88箇所霊場の本尊石仏が並ぶ。結構新しい。ほどなく舟形地蔵。「一丁」と刻まれる地蔵丁石が現れる。




南舎心ヶ嶽;午前11時2分
等高線500mに沿って少し進み、30mほど高度を上げると。不動明王などの小祠と「聖跡 舎心ヶ嶽」の石碑が立つ。「聖跡 舎心ヶ嶽 弘法大師二十四歳の時著された『三教指帰』にも「阿國大滝の獄にのぼりよじ、土州室戸の崎に勤念す。谷響を惜まず明星来影す」と記されており、この地において見事悉地成就なされ青年時代の思想形成に重要な役割を果たしたことは疑えない事実であります。
平成五年大師入山千二百年を記念し「求聞持法御修行大師像を造立致しました。虚空蔵菩薩の化身とされる東方の明けの明星(金星)を拝されている御姿です。「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おんありきゃ まりぼりそわか」百万遍 建立協賛者 河内金剛講」とある。
谷側の岩上に求聞持法御修行大師像が座す。説明の如く古き仏さまではないようであり、鎖場をちょっと上ることはパスし、道から拝礼。 


石造物と丁石:午前11時5分
舎心ヶ嶽の先で、ストンと10mほど高度を落とし平場に下りる。坂の途中「IWATAMICHI 22」の案内。「22」は第22番札所平等寺を指すのだろう。
平場には石造物6基。左の3基は摩耗し文字は読めない。その横は五輪塔の宝珠部分だろうか。宝珠(?)隣に坐像石仏、右端は自然石の丁石。上部が欠け「*四丁」の文字が読める。


茂兵衛道標;午前11時7分
左手に大師坐像の刻まれた角柱石。その直ぐ先、道が太龍寺山の尾根道の左右に分かれる箇所に、多くの道案内と茂兵衛道標が立つ。
左を指す案内には「22」、「ふだらく山 中山道」、「いわや道」、そして「阿波遍路道 いわや道」。右を指す案内には「北地」とある。
茂兵衛道標には「平等寺 明治二十一年」といった文字が刻まれる。茂兵衛100度目巡礼時のもの。臼杵陶庵の詠む「山中で嬉しきものは道教え」の添歌も。誠にその通り。
「ふだらく山 中山道」・「北地」
「ふだらく山 中山道」ってなんだ?唐突に現れた。チェックすると中山は太龍寺山の南、中山川の谷筋の集落。中山道とはこの辺りの集落の人が太龍寺にお参りする参詣道。集落にある地福寺から支尾根稜線部を上り太龍寺山南の峠から太龍寺山頂を経由して「いわや道」に下りてきたようだ。途中には自然石の丁石が並ぶ、と言う。
太龍寺山頂上には観音堂があり。阿波秩父観音霊場十一番札所であったよう。ために太龍寺山は通称「補陀落山」と称された、と。「ふだらく道」の所以である(WEBにあった「大瀧嶽記(奈佐和彦)」を参考にさせて頂きました)。
また、「北地」は中山川が那賀川に合流する辺り、太龍寺ロープウエイ山麓駅のある辺りの地。


中山道分岐点に角柱標石:午前11時9分
いわや道へと左に折れると道の右手に立つのは遍路墓のなのだろうか。その直ぐ先、道は上下に分かれる。その角に「へんろ道」と刻まれた角柱標石。
上段の道は前述の「中山道」。遍路道は下段の道を進むことになる。中山道の案内は特になかったように思う。


舟形地蔵;午前11時15分
等高線500mに沿って少し歩くと舟形地蔵(午前11時15分)。丁石だとは思うのだが摩耗激しく文字は読めない。







丁石2基
直ぐ舟形地蔵丁石(午前11時16分)。「丁」は読めるのだが数字は読めない。更に舟形地蔵丁石 (午前11時19分)。これも「九丁」のよう読めるのだが、確信はない。




破損石仏
数分歩くと道の左手、大岩の上に石仏台座が残る(午前11時22分)、なんとなく、いい。次いで遍路墓(午前11時25分)らしき苔むした石柱が立つ。





笠付道標・12丁
等高線480m辺りをほぼ水平に通る遍路道を少し進むと笠付道標(午前11時28分)。「右 ふだらく山道」のように読めるのだが、前述「ふだらく山』の刷り込み故だろうか。自信はない。 その先に舟形地蔵丁石(午前11時30分)。「十二」の文字がはっきり読める。


13丁・14丁
「十三丁」と刻まれた舟形地蔵丁石(午前11時33分)。傍に「よみがえった歴史の道 阿波遍路道」の案内。直ぐ先に「十四丁」と刻まれた舟形地蔵丁石(午前11時35分)。




15丁・16丁
山側に「十五丁」の舟形地蔵丁石(午前11時38分)。次いで谷側に「十六丁」の舟形地蔵丁石(午前11時40分)。







17丁・18丁
山側に「十七丁」の舟形地蔵丁石(午前11時44分)。同じく山側に「十八丁」の舟形地蔵丁石(午前11時47分)。






19丁・20丁
山側、平たい岩の上に「十九丁」の舟形地蔵丁石(午前11時50分)。岩も仏も苔むした「二十丁」の舟形地蔵丁石(午前11時54分)。




阿瀬比3㎞の案内: 午前11時58分
「国指定史跡 阿波遍路道(阿瀬比集落まであと3km)」(午前11時58分)の案内の先、左手谷側が開ける。谷を隔てた山稜に鉄骨構造の建屋がかすかに見える。太龍寺あたりだろうか。


22丁・24丁
「二十二丁」と刻まれた舟形地蔵丁石(午前11時59分)。次いで「廿四丁」と刻まれた舟形地蔵丁石(午後12時3分)。丁数の表示形式が異なる。





25丁
遍路墓らしき石造物(午後12時8分)の先に「廿五丁」と刻まれた舟形地蔵丁石(午後12時10分と続く。







いわや道・平等寺道分岐点;午後12時13分・標高430m
直ぐ先で道が上下に分かれる。分岐点に「左 へんろ道」の標石。標石に従えは遍路道は左、下段の道だが、通行止めのバーが道を塞ぐ。道も荒れている。
一方、上段の道には「国指定史跡 阿波遍路道「平等寺道」(阿瀬比集落まで2.5km」とある。特に案内はないのだが、ここが「いわや道」と「平等寺道」の分岐点であった。
で、当日は標石の指す遍路道って何?と少々??を感じながら、ここで平等寺道に乗り換えたのだが、メモの段階でチェックすると、この下段道は「いわや道」であった。往昔はこの道を辿り「龍の窟」へと向かったようだ。ここではじめて「いわや道」の由来がわかった。「龍の棲む岩屋」故だろう。 前述の如く、「龍の窟」の地は売却され。石灰岩の採掘によりその面影は既になく。採石場もあってか危険なため道は閉ざされているようだ。
この分岐点はほぼ中間、3キロほどを1時間、高度を40mほど下げたことになる。稜線巻道をゆるやかに高度を下げてきた。
いわや道のルート
往昔のいわや道は龍の窟を経てどちらに向かったのだろう?あれこれチェックすると、現鉱業権者であるヒロックス〈株)太龍鉱山(元の鉱業権者は住友石炭工業株式会社)へのアプローチ道が、県道28号に合流する地点に35丁の舟形地蔵丁石が立つ。丁数から考えて、ここに出たとしても違和感はない。
因みにこの丁石はあたりをつけてGoogle MapのStreet Viewでチェックし見つかった。





阿瀬比集落1.6km:午後12時29分
等高線430mに沿って稜線を巻くこと10分程、道は稜線鞍部に乗る。「阿瀬比集落1.6km」の案内を見遣り先に進む。ここから先は阿瀬の集落に向かって下ることになる。




急坂案内;午後12時40分
少し進むと「急坂」の案内。急斜面には虎ロープが張られている。那賀川筋から歩きはじめておよそ5時間。急坂を前に大休止。痛めた膝を休める。
休憩しながら地形図チェック。支尾根稜線をほぼ等高線と垂直に比高差250mを下ることになる。膝が心配。休憩を終え午後12時40分坂に向かう。


39丁;午後13時4分・標高250m
虎ロープを握り膝をかばいながら急坂を150mほど高度を避げると舟形地蔵。「三十九丁」と刻まれる。平等寺道ではじめての丁石。というか、結局平等寺道に残される丁石はこれだけであった。 ここまで150mほど高度を避げるため25分もかかっている。ふつうであればその半分程度で下れるだろう。






「平等寺5km」の案内:午後13時?分
39丁石より50mほど高度を下げると、木々の間から右手下に道路、その先に川が見えてくる。地図で確認すると中山川上流部の支流のひとつのようだ。川筋まで下りてくると「山道おつかれさまでした 阿波遍路道 平等寺まであと5km」の案内。里に下りてきた。案内の右手には廃屋が建つ。 


薬師庵;午後13時31分
里道を10分ほど歩くと、県道28号合流手前に一堂宇。「薬師庵」とあったり、WikipediaやGoogle Mapには「あせび観音堂」とあったりはっきりしない。上述「大瀧嶽記(奈佐和彦)」に「集落が近くなると成就院専念寺がある。成就院は太龍寺の七支院の一つで太龍寺の境内にあった。その後ここにうつされ、専念寺もこの地に創建された。成就院の本尊は虚空蔵菩薩で、不動明王、弘法大師を脇仏として祀っている。専念寺の本尊は薬師如来だ」とあった。薬師庵であれば納得できるが、観音堂と結びつくエビデンスは見つからない。


自然石標石;午後13時34分
遍路道は県道28号を右折。直ぐ先、県道から左に逸れる分岐角に納屋のような建屋。その道角に丸い自然石。何気にみると、手印が線彫りされており、「右 へんろ道」の文字も読める。印象的な標石だ。








中山川と加茂谷川の分水界
自然石標石あたりから周囲の景観を楽しんでいると、県道28号の東に小川が流れる。山を下るときに見た中山川上流部の支流だろうと地図をチェックする。と、この小川は北に流れ加茂谷川に合流し那賀川に注いでいる。一方、中山川支流は県道28号手前でグルリと廻り、支流を集め中山川となって西に流れ那賀川に注ぐ。県道28号が両水系の分水界となっていた。
分水界となる県道28号筋を挟んだ両水系の距離は100mも離れていない、標高差もほとんどない。両河川の最接近部からの上流部は加茂谷川筋が圧倒的に長い。加茂谷川筋が洪水などで流れを少し西に変えれば中山川の上流部は河川争奪され、中山川筋に流れることなく、加茂谷川となって北に下っただろうな、などと一時妄想にふける。




阿瀬比集落から大根峠を越えて第二十二番札所平等寺へ

阿瀬比の集落から大根峠まで2基キロ弱、大根峠から桑野川が開いた谷筋に下り平等寺まで4キロ弱。大根峠も取り付き口からの比高差は100mもない。普通に歩けば2時間もあれば十分ではあろうが、平等寺道の下りで膝が完全にダメになり3時間ほどかかってしまった。以下、一応ポイント毎に当日の時刻表示はするが、そういった事情でのコースタイムであり、実際はもっと早く進めるかと思う。

遍路休憩所;午後13時38分
県道28号は国道195号に合流しそこが終点。遍路道は国道を横切り先に進む。国道を渡ると真新しい標石。札所の案内と共に、英語・韓国語・中国語が刻まれる。"We are rooting for you(応援してるよ;頑張って)"と。
その先に遍路休憩所。なんだか素朴な手書き遍路道案内か、いい。少し休憩。


茂兵衛道標(169度目);13時46分
遍路道は遍路休憩所を先に進み、旧国道195らしき旧道をクロスし細路に入る。その角に歩き遍路タグや「22番札所平等寺へ 歩きへんろ道」の案内と共に茂兵衛道標。「平等寺 太龍寺 鶴林寺 明治三十二年」といった文字が刻まれる。茂兵衛169度目巡礼時のもの。


中尾多七標石;午後13時57分
簡易舗装された山裾の道を進むと加茂谷川支流の谷筋に入る。そこに「四国のみち」の木標と共に、上部に刻まれた両端矢印が特徴的な中尾多七標石。「へんろ道」と刻まれる。



標石2基;午後14時8分
先に進み遍路道は加茂谷川支流に架かる小橋を渡り右岸に移る。橋の手前に立つ「四国のみち」の円柱木標の脇に2基の標石。大型角柱標石には「二十二ばん 一里 二十一ばん」といった文字が刻まれる。その横の丸い自然石も標石。「へんろ道 平等寺四十丁」の文字が読める。





倒れた標石;午後14時14分
その先直ぐ右手に逸れる道。その分岐点のシキビに隠れるように倒れた標石。「右 へんろ路*」と刻まれる。
10分ほど歩くと「四国のみち」の木標、「右へんろ道」と書かれた歩き遍路タグ、近年立てられたような標石(午後14時24分)。「へんろ道 大根いやしの道を守る会」と刻まれていた。


大根峠;午後14時37分
標石の直ぐ先、遍路道は山道に入る。取り付き口に擬木。10分ちょっと擬木の敷かれた山道を上ると切通し。「大根峠・阿瀬比1km、大根峠・平等寺2.5km,大根峠・音坊山1km」の案内が立っていた峠の切通しはカラフルな五色の旗が飾られていた。
●音坊山(おとんぼ山)
遍路道とは関係ないのだが、音坊山の案内はあるけど、切通部からそれらしき道はない(なかったように思う)。どうも、峠から右手の尾根筋に上り南西に進むようだ。で、何故に案内が?
地図にも載らない山だが、山頂(333m)からの眺めがいいようだ。城跡(塁)も残るといい、往昔は丹生谷(にゅうだに;現在の国道195号筋の那賀町)を繋ぐ交通の要衝でもあったようだが、その後荒れ果てていたものを、地元の方の尽力で道を整備しといった記事があった(当然、この尾根道とは別ルートだろう)。

地蔵立像;午後14時44分
切通しを抜け下り道に。直ぐ「左 平等寺」と刻まれた標石(午後14時40分)。50mほど高度を下げた平場には石組の祠に地蔵立像。1mほどもあるだろうか。延享2年(1745)のものと言う。



角柱丁石(20丁); 午後14時51分
標高200m辺りまで下ると竹林が現れる。里が近づいた。道の右手に角柱標石(午後14時51分)。「二十二番 廿丁 大正九年」といった文字が刻まれる。
その先急坂を100mほど下り沢に架かる木橋(午後15時13分)を渡る。先に休憩所がある、との木柱が立つ。


休憩所;午後15時22分
右手に開けた里の景観を目にしながら歩くと遍路休憩所。傍にコンクリート造りの小堂が建つ。ちょっと休憩。






石仏群と15丁石:午後15時42分
遍路休憩所を離れ中山川に注ぐ小川を渡るとT字路。そこに「音坊山・へんろ道」の案内が立つ(午後14時34分)。音坊山頂まで2.3kmとある案内図には展望台、駐車場も記される。そのルートは地図にはない。大根峠でメモした、地元の方の尽力により開かれた道がこれだろうか。 T字路を左に折れ道を進むと道の右手に地神と標石。「右平等寺 十五丁 文政十五」といった文字が刻まれる。


石仏群と11丁石;午後15時49分
その先東西に通る道に合流する地点に「四国のみち」が立ち、その傍に石仏群と丁石。横長角柱には「二十二番平等寺 十一丁 右太龍寺 大正四年」といった文字が読める。
その横に並ぶ石仏群にも丁石1基。「是より平等寺へ十町 文化四」といった文字が刻まれる、と。





光明真言供養塔;午後15時59分
道が中山川に遮られ東に折れるところ、道の左手に笠付き石造物や地神小祠。笠付き石造物には「光明真言二百六十五萬遍供養塔」と刻まれる真言供養塔、その先田圃の中に少彦名碑。


岩戸橋北詰2基の標石;午後16時4分
少し東に進むと中山川に架かる岩戸橋。北詰に「四国のみち」の木標と2基の標石が立つ。左の標石には「二十一番太龍寺 二里二十四丁 二十二番平等寺六丁」「右轟神社 左へんろ道 大正十三」といったも文字が読める。
右の標石には「平等寺江六丁 天保二」といった文字が刻まれる。標石前にはお花が供えられている。この標石には地元の方の先祖戒名が刻まれており、その子孫が菩提を弔っている、と。
轟神社
轟神社って?ここらか南西、80キロほど離れたところ、徳島県海部郡海陽町に轟神社がある。 天正時代の建立。今もなお御滝を神霊の坐すところとして信仰し、阿波藩主蜂須賀家政侯が、朝鮮出兵にあたり海上安全を祈願したとも伝えられている社。
が、それにしても遠すぎる。ちょっと唐突。と、この橋を渡り桑野川右岸を少し東に向かったところに轟神社が建つ。弘仁5年(814)、奈良生駒の龍田神社を分霊したと由緒にある古社。樟の巨木で知られる、と。『延喜式』にある那賀郡の七座のひとつ、室比売神社がこの地にあった、とも伝わる。この神社を案内しいるのだろうかこの神社を案内しているのだろうか。


第二十二番札所平等寺に;午後16時21分
岩戸橋から中山川脇の道を15分ほど進むと第二十二番札所平等寺にやっと到着(午後16時21分)。

これで2回にわけた太龍寺越えから平等寺のメモを終える。メモは2回に分けたが当日は太龍寺越えから平等寺まで、おおよそ17キロをカバーした。膝を痛めてるということもあり、やっとこさ辿り着いたといった為体(ていたらく)であった。
プラニングの段階では鶴林寺道から一気に平等寺まで、おおよそ22キロをカバーしようか、などと考えていた。実際に当日、平等寺から鶴林寺を越えて勝浦川筋の生名まで歩いてる方にもお会いした。
 膝を痛めていなければどうという距離ではないのだが、もし途中の太龍寺越えで膝がアウトになった場合はどうしよう。阿瀬比の集落で撤退となるが、阿瀬比からバスはある?午後2時46分と4時26分にバスはある。これならJR牟岐線の駅に辿りつけそうだ、などとあれこれ思案してはいたのだが、結局は太龍寺越えから平等寺までを歩くことにした。 で、予想通りではあるが、後半はほぼ膝がアウト。結構キツイ1日となった。


先回は勝浦川筋の生名より鶴林寺道に取り付き、第二十番札所鶴林寺を打ち那賀川筋の大井の集落まで下った。全行程6キロほど、3時間の山越えであった。阿波の遍路道で「一に焼山、二にお鶴、三に太龍」と称される難路ということだが、整備された山道のおかげか、6キロほどの距離ゆえか、それほどの難路・険路というほどではなかった。

全体ルート図(Google Earthで作成
今回は「一に焼山、二にお鶴、三に太龍」と称される「大龍」、即ち難路・険路として知られる第二十一番札所太龍寺越えのアップ・ダウンの後、二十二番札所である平等寺への遍路道を辿る。全行程17キロといったところ。
ルートは那賀川筋の大井から太龍寺道を上り第二十一番札所太龍寺までおおよそ5キロ弱、標高40m弱の取り付き口から標高490mほどまで上る。比高差450mほど。太龍寺を打った後は「いわや道・平等寺道」と呼ばれる稜線部を6キロほど歩き、標高140mの阿瀬比の集落まで下る。比高差350mほど。この所謂、太龍寺越えの距離は11キロほど。
阿瀬比の集落から後は第二十二番札所平等寺までおおよそ6キロ。峠越えといっても比高差100mほどであるのでそれほど厳しくはないだろう。

このルートで全行程おおよそ17キロ。普通ならどうということのない距離だが、痛めた膝が太隆寺越えの下りでほぼアウト。阿瀬比の集落から平等寺までの6キロは普通に歩けば2時間もあれば十分だろうが3時間ほどかかってしまった。
結局全所要時間7時間半強。以下、一応ポイント毎に当日の時刻表示はするが、そういった事情でのコースタイムであり、実際はもっと早く進めるかと思う。

メモは2回に分ける。今回は那賀川の太龍寺道の取り付口から第二十一番札所太龍寺まで。次回は太龍寺から「いわや道・平等寺道・大根峠」を辿り第二十二番札所平等寺までの遍路道をメモする。


本日のルート;
那賀川筋水井橋から太龍寺道を第二十一番札所太龍寺へ
水井橋>地蔵座像と標石>中尾多七標石>10丁>11丁>12丁>休憩所>14丁>16丁>中尾多七奈標石1>17丁>中尾多七標石2> 中尾多七標石3 >遍路墓>19丁>20丁>21丁>23丁>24丁>25丁>尾根>27丁>21番太龍寺
第二十一番札所太龍寺からいわや道・平等寺道を阿瀬比集落へ下る
太龍寺>1丁石>舎心嶽>石仏と丁石〈4丁?)>茂兵衛道標>角柱標石>7丁>6丁?>9丁?>破損石仏>遍路墓>笠付標石>12丁>13丁>14丁>15丁>16丁>17丁>18丁>>19丁>20丁>阿瀬比3㎞>22丁>24丁>遍路墓>25丁>いわや道・平等寺道分岐点>阿瀬比集落1.6km>急坂>39丁>標石>平等寺5km>茂兵衛道標(169度目)
阿瀬比集落から大根峠を越えて第二十二番札所平等寺へ
中尾多七標石>標石2基>倒れた標石>大根峠>地蔵立像>角柱丁石(20丁)>休憩所>石仏群と15丁石>石仏群と11丁石>真言供養塔>岩戸橋北詰2基の標石>22番平等寺

勝浦川筋大井休憩所より太龍寺へ


那賀川筋水井橋から太龍寺道を第二十一番札所太龍寺へ

茂兵衛道標(100度目):午前7時43分
先回の終点である県道19号脇の大井休憩所からスタート。道の右手に「服部因幡守 源啓元」と刻まれた石柱。結構新しい。阿波細川氏の家臣団に服部因幡守の名が残るが、その他不詳。
遍路道は県道を少し東に向かい那賀川に架かる水井(すいい)橋を渡る。水井橋への左折点に茂兵衛道標。正面に手印、「太龍寺」と刻まれる。
右面には添歌「暮可希亭壱里もか礼ずあきの山」が刻まれると言う、「暮れかけて 一里も枯れず 秋の山」と刻まれる。臼杵陶庵の句。
陶庵添句
遍路歩きで茂兵衛道標に出合ったとき、時に添歌が刻まれる。チェックすると、茂兵衛道標253基のうち、37基に陶庵の和歌が刻まれる、と。臼杵陶庵。本名臼杵宗太郎。明治9年(1876)、12歳で第76番札所金蔵寺に入寺。和歌を学び、巡礼時金蔵寺で茂兵衛と出合った事を契機に和歌を添えるようになった、という。

水井橋;午前7時46分
県道を左に折れ那賀川に架かる水井橋を渡る。道は鶴峠から下ってきた県道283号。橋の全長160m、幅3m、昭和40年(1965)完成。それ以前はここに那賀川の渡しがあったと言う。この辺りの遍路道について真念は『四国遍路道指南』に「これより太龍寺までは一里半、道ハちかミちなり。大師御行跡のすじハ加茂村、其ほど弐里旧跡もあり 〇大井村 なか川舟わたし。〇わかすぎ村、家四、五軒有」と記す。
かも道
真念が、「大師御行跡のすじハ加茂村、其ほど弐里旧跡もあり」と記すように、 往昔、この地から6キロほど下流に下り、加茂の集落にある弘法大師空海の旧跡・一宿庵に詣でたあと、尾根道を5キロ上り太龍寺へ向かったお遍路さんも多かったという。この遍路道は四国遍路が広まる以前の遍路道。鶴林道と同じく南北朝の頃に開かれた四国最古の遍路道とされる。
鶴林寺にあった注意書きには、悪路・一人歩き不適とあった。現状は不詳。

地蔵座像と標石;午前7時52分
県道283号・水井橋を渡る。道は右折し、その先直ぐふたつに分かれる。県道283号はそのまま那賀川に沿って進むが、遍路道は分岐点を左折し県道282号に乗り換える。
その分岐点、切通し手前に石仏と標石。傍に「遍路道沿いの石造物群」の案内があり「弘法大師坐像、地蔵尊、舟形地蔵丁石、遍路墓」が写真と共に記される。
「「明治期の大師坐像、文化年間の地蔵尊、「是ヨリ太龍寺マデ二十八丁」と刻まれた舟形地蔵丁石、遍路墓は切通の上に2基あり、また、いずれも水井渡しの船頭小屋横にあったが、水井橋の建設時(昭和40年)に移設された」といったことが説明されていた。

遍路道分岐点に中尾多七標石;午前7時57分
左折すると直ぐ「四国のみち」の木標、遍路タグ、「太龍寺 歩き遍路道」、標石などの道案内。県道を離れ右に入る。標石は中尾多七標石。

標石傍に「阿波遍路道の案内」。「国指定 阿波遍路道 太龍寺道・かも道・太龍寺境内・いわや道・平等寺道 四国八十八ヶ所霊場をめぐる遍路道は、四国4県にまたがる弘法大師ゆかりの寺院を巡る1,400kmに及ぶ壮大な巡礼道で、遍路道は古来より人々の往来や文化交流の舞台となり、丁石(札所寺院の距離を示す)・道標・遍路墓などの数多くの石造物等の文化財が残されている。
また、地元住民による「お接待」と呼ばれる心の文化も民衆が長い歴史の中で創り上げられたものである。すなわち遍路道には物心両面にわたり人びとにより今日まで受け継がれてきた数少ない巡礼に関する文化財が残されている古道として貴重である。 阿南市では平成22年8月5日に四国ではじめて「太龍寺道・いわや道」の一部が国史跡に指定、更に追加指定がなされ平成30年3月現在では「太龍寺道・かも道・いわや道・平等寺道」の一部約6.3kmが指定区間となっている。また平成29年2月9日には「太龍寺境内」が追加指定となった。
「太龍寺道」は鶴林寺から太龍寺までの区間で「遍路転がし」と呼ばれる急峻な、山道があり「一に焼山、二にお鶴、三に太龍」と言われている。「かも道」は南北朝期の丁石が残る四国最古の遍路道として、また大師行脚の道としても近年注目を浴びている。
「いわや道」は太龍寺から「龍の窟」へと向かう道で、多くの石造物のほか太龍寺建物や石段にも使用されている大理石(石灰岩)の採掘場も残されている。
「平等寺道」は「いわや道」からつづく22番札所平等寺までの通路道で、阿瀬比集落までの遍路道は近年地元住民による整備活動で復活した道である。
「龍の窟」とは弘法大師が悪龍を閉じこめたと伝説の残る石灰岩の刺激であるが、昭和49年(1974)には消滅した。 徳島県教育委員会/管理団体 阿南市教育委員会」とあった。
きちんとした地図も掲示されており誠に助かる。また、掲示横の小箱に「加茂谷へんろ道の会」作成の「あなん 遍路史跡めぐり」の小冊子が置かれていた。これも誠に有り難い。
実のところ、分岐点の石造物群のところで、「加茂谷へんろ道の会」に関係するご夫妻に出会い、石造物のお話と共に、この小箱に小冊子を置いていることをお教えいただいた。でなければ通り過ぎたかも。

10丁・11丁
法面に「若杉遺跡」との案内のある道を若杉谷川に沿って歩く。舗装された道も簡易舗装となり、20分強歩くと岩の上に舟形地蔵。「十丁」(午前8時21分)と刻まれる地蔵丁石(午前8時21分)だった。その先 にもの舟形地蔵丁石(午前8時27分)。[十一丁」のように思える。


休憩所:午前8時30分
若杉谷川の左岸を進んで来た道が右岸に渡ってすぐ、道脇に休憩所がある。そこに休憩所。傍に「国指定史跡 若杉山辰砂採掘遺跡」の案内。
「国指定史跡 若杉山辰砂採掘遺跡(所在地:徳島県阿南市水井町典田) 若杉山辰砂採掘遺跡 は、前方を流れる若杉谷川の対岸、若杉山の東斜面にあります。ここでは、弥生時代後期から古墳時代初頭(紀元前1世紀から3世紀)に水銀朱の原料となる辰砂が採掘されていました。
鮮やか赤色を発する水銀朱は、顔料として使用され、装飾として銅鐸や土器を彩ったほか、亡くなった人を埋葬する際に石室や棺に塗られました。徳島県内の弥生時代後期から古墳時代の墳墓でも葬送において水銀朱を使用した事例が見つかっています。
遺跡の発見は1953年(昭和28年)に「加茂谷村誌」の編集のために行われた、実地調査がきっかけとなりました。調査を視察した常松卓三(当時富岡西高等学校教諭)によって、遺跡の上部にある岩陰住居跡と考えられていた洞窟は、水銀朱の原料である辰砂を掘った跡であり、遺跡で採取される石杵と石臼は掘り出した辰砂を粉末にするために用いたものであると考えられました。これが、辰砂採掘遺跡として位置付けた最初の指摘となりました。
1984年(昭和159年)から1987年(昭和162年)には、徳島県博物館(徳島県立博物館の前身)によって、初めてとなる発掘調査が行われます。前方斜面の段々畑から、土器、石器、勾玉、獣骨、貝類、辰砂鉱石などが出土しました。なかでも採掘に使用された石杵と石臼があわせて400点余り出土し、採掘が大規模に行われていたことが明らかとなりました。
そして2017年(平成29年)からは徳島県教育委員会と阿南市が道跡の適切な保存と活用をはかるための発掘調査に着手しています。その結果、露天採掘によって辰砂の採掘を行った地点が特定されるとともに、遺跡の上部にある洞窟は、かつて常松氏が「辰砂を掘った跡」と指摘したとおり、辰砂をめざして掘り進んだ結果できた「採掘坑跡」であることが確かめられました。
「若杉山辰砂採掘遺跡は、弥生時代から古墳時代の辰砂の採掘方法を知ることができる全国で唯一の遺跡であり、弥生時代の社会を知るうえで重要な遺跡といえるでしょう」とあった。

地図を見ると川の対岸直ぐ近くに遺跡名が載るのだが、道案内が見当たらなかった。古代遺跡にそれほど「萌える」こともないので寄り道はパス。
一太郎pad
因みに説明文は最近お気に入りのiphoneアプリ、「一太郎pad」で作成したもの。iphoneで撮った写真を一太郎padで開き、完了を押すと写真にある文字をテキスト化してくれる。認識精度も高く、誠にありがたいアプリだ。しかも無料。今まで書き起こすことが大変だった案内、寺社の由緒のテキスト化が楽になった。

14丁・16丁
若杉川谷右岸を進む。左手に「十四丁」と刻まれた舟形地蔵丁石(午前8時38分)。その先に「十六丁」舟形地蔵丁石(午前8時44分)。




集落跡に中尾多七奈標石
その先一瞬平地が開ける(午前8時46分)。若杉と地図にあるが、真念が「四国遍路道指南」に「わかすぎ村、家四、五軒有」と記したように、集落があったのだろうか。地図には鳥居の印もあるが現在は何も残っていない。
その先、「四国のみち」の木標脇に中尾多七標石(午前8時48分)。下半分は埋まるが、中尾多七奈標石の特徴とする両端矢印と「へんろ」の文字が見える。

登山口に中尾多七標石;午前8時53分・標高170m
数分で「十七」と刻まれた舟形地蔵丁石(午前8時51分)。その先に「四国のみち」の木標脇で道を右に折れ山道に入る。擬木の敷かれた坂道の起点に中尾多七標石。両端矢印と「へんろ道」の文字が刻まれる。ここから太龍寺の建つお山に取り付くことになる。

標石・遍路墓
上りはじめると直ぐ標石(午前8時56分)。「太龍寺道 是より十二丁 大正十一年」といった文字が刻まれる。その先に遍路墓(午前9時1分)。戒名と共に「筑後国上妻郡柳瀬村 佐助娘ゑみ」と刻まれると言う。あまりにパーソナル。菩提を弔うべし。


19丁;午前9時3分・標高230m
直ぐ「十九丁」と刻まれた舟形地蔵丁石(午前9時3分)。等高線230mから250m等高線にトラバース気味に掘割り道を上る。





20丁・21丁石
等高線250m辺りに「二十丁」と刻まれた舟形地蔵丁石(午前9時9分)。⒛丁から先は支尾根筋に向かい等高線280m辺りで遍路道は支尾根に乗る。ここから先は基本、支尾根筋の突き出した等高線をほぼ垂直に上ることになる。
標高300m手前に「二十一丁」と刻まれた舟形地蔵丁石(午前9時15分)。地蔵の彫が深く、台座に寄進者大京原村 中野要碩」といった文字も読める。

23丁;午前9時26分・標高360m
擬木の敷かれた急坂が続く。「阿波遍路道 太龍寺道(あと1.1km)」といった案内を見ながら高度を上げる。標高360m辺りに「二十三丁」と刻まれた舟形地蔵(午前9時26分)。


24丁;午前9時32分・標高370m
直ぐ上部が欠けた丁石(午前9時32分)。「二十四丁」と刻まれる。24丁の先、一瞬緩やかな道。






25丁を越え稜線に;9時42分
ゆるやかな上りの先に「二十五丁」と刻まれた舟形地蔵丁石(午前9時36分)。その先、キツイ上りを50mほど上げると先に平坦な道が見える。稜線のようだ。太龍寺参道が近づいた。


黒河道・かも道合流点;午前9時45分
稜線に上ると「右 太龍寺」の標石。少し進むと稜線上の四つ辻に出る。角に「四国のみち」の木標が立ち「鶴林寺6.1km 平等寺11.3km 太龍寺0.4km」とその方向を示す。
木標が指す「平等寺」は、ここから加茂谷川筋を黒河集落に下り、県道28号を阿瀬比に向かい、そこから大根峠を越えて平等寺へ向かう遍路道を指す。黒河道と呼ばれるようだ。

と、「四国のみち」の先に尖塔方柱形式で頭部に切り込みが入る標石が見える。これって南北朝の頃に立てられた標石の特徴をなもの。ひょっとして南北朝の頃開かれた、四国最古の遍路道のひとつ「かも道」では?標石には「左 鶴林寺」「右 太龍寺」「右 かも道 富岡道」とある。一宿庵から上ってくる「かも道」の合流点だろう。



27丁・3丁(かも道)
太龍寺へと進む。数百メートルもあるだろうか結構長い。右手に「二十七」と刻まれる舟形地蔵丁石。その先に山門が見える。山門手前石段前に頭部に切り込みが入った尖塔方柱形式の標石(尖塔部分は摩耗?)。「三丁」と刻まれてる。流れから考えれば、「かも道」に立つ南北朝期の標石の続きでは?「かも道」の標石は太龍寺までの丁数を示すようであり、遍路道合流点の東に「七丁」標石がたつとの記事もあるので、ここに「三丁」があっても違和感はない、かと。

第二十一番札所番太龍寺

「三丁」標石から石段を上ると仁王門。朱塗りの仁王は鎌倉期の作と言う。仁王門は文化3年(1806年)建立。
仁王門を潜ると長い参道。右手に逸れると「北舎心」の祠がある。参道を進むと右手に六角堂、護摩堂、本坊と続く。一切経経蔵とも呼ばれる六角堂は古き趣。安政3年(1856年)の建立。護摩堂は明治34年(1901年)、本坊は明治28年(1895年)建立と言う。護摩堂の香台は伊藤萬蔵の寄進。
本坊(持仏堂?)の庭に「竜天井」の案内。廊下天井に龍の絵がちょっと見えた。土佐出身の画家竹内松嶺氏の作。明治の頃に描かれた、と。
その先、石段の上に堂々とした門が見える。明治36年(1903年)建立の鐘楼門。更に石段を上ると本堂に。嘉永5年(1852年)建立。
本堂をぐるりと右に廻り石段を上ると文久元年(1861年)建立の多宝塔。明治10年(1877年)建立の大師堂は更にその右にあった。
Wikipediaには、「太龍寺(たいりゅうじ)は、徳島県阿南市加茂町にある高野山真言宗の寺院。舎心山(しゃしんざん)、常住院(じょうじゅういん)と号する。本尊は虚空蔵菩薩。
太竜寺山弥山(標高600.1)の山頂近くに位置し、本堂は標高505m付近で八十八箇所で6番目の高さにあり、大師堂は、御廟の橋、拝殿、御廟が並び高野山奥の院と同じ配列になっていて、その大伽藍は「西の高野」と称され、阿南室戸歴史文化道の指定、とくしま88景の選定を受けている。阿波では「一に焼山、二にお鶴、三に太龍」と称され、へんろころがしと呼ばれる難所の一つである。
空海(弘法大師)の24歳での著作である三教指帰(さんごうしいき)の序文に「阿國大瀧嶽に...勤念す」と記されており、大瀧嶽は現在の大竜寺山であると考えられている。19歳で都の大学での学問に見切りをつけて修行に入った空海が、現在の境内の600m ほど西にある舎心嶽の岩上で百日間の虚空蔵求聞持法を修したとされる。山号はその舎心嶽から、寺名は修行中の空海を守護した大龍(龍神)にちなんでいる。
延暦12年(793年)に桓武天皇の勅願によって阿波の国司・藤原文山が伽藍を建立、堂塔が建立され、空海が虚空蔵菩薩像などを刻み安置したと伝えられている。
天長2年(825年)淳和天皇が寺領を寄進、嘉保2年(1095年)には白河上皇の命により東寺の長範が再興した。皇室や武家からの信仰が篤く寺勢は栄えたが、天正年間(1573年 - 1592年)に長宗我部元親の兵火によって焼失し衰退、その後も復興と荒廃を繰り返すが徳島藩主蜂須賀家の保護によって再建される。
戦後は山中の山寺ゆえに困窮の時代を迎え、龍の窟を失い、さらに昭和34年(1959年)には三重塔を失ったが、1992年に太龍寺ロープウェイ が運行するようになり車利用者でも約30分坂道を歩かないと行きつけない難所であったが容易に参拝できるようになり、遍路ブームの到来もあって隆盛時を迎えた。
2011年7月の台風6号により、樹齢400年に及ぶスギの先端およそ15メートルが折れて、本堂の屋根を突き破ったが数年後に復旧した。 また、大師堂もその後の台風で損傷していたが2018年には復旧している」とある。
虚空蔵求聞持法
『弘法大師伝記集覧』には、「舎心嶽の岩上での虚空蔵求聞持法の修行も、その悉地(祈願成就)を得ることなく、ために、一命を捨て三世の仏力を加えるべく岩頭から身を投げる(捨身)も諸仏によりその身を抱きかかえられ本願を成就した」とある。
同様のお話は讃岐の72番札所出釈迦寺でも出合った。こちらは大師七歳の時のストーリー。 捨身云々はよしとして、虚空蔵求聞持法の修行のことだが、虚空蔵菩薩の真言「ノウボウ アキャシャキャラバヤ オンアリキャ マリボリソワカ」を百万遍唱えることにより、一切の教法を暗記できるとする難行苦行。大師も幾度か挫折したとある。
大師自らの『御遺告』には「名山絶瞼のところ、嵯峨たる孤岸の原、遠然として独り向い淹留(おんりゅう)して苦行す。或は阿波の大滝の嶽に上って修行し、或は土佐の室生門の崎に於て寂暫して心観すれば明星口に入り、虚空蔵光明考し来て菩薩の威を顕わし、仏法の不二を現す」とあり、大師の著『三教指帰』にも「大聖の真言を信じて(中略)阿國大滝の獄によじのぼり、土州室戸の崎に勤念す。谷響を惜まず明星来影す」とある。
虚空蔵求聞持法の修行はこの地、舎心嶽での苦行の末、土佐の室戸において大願成就したようである。大師自らの著にはさすがに「捨身」のくだりはない。
因みに「舎心」って、「捨身」の当て字?その意との記事もあるが、心を舎(とど)めるの意のようである。

今回のメモはここまで。次回は太龍寺から平等寺までをメモする。


勝浦川筋の生名より鶴林寺道に取り付き第二十番札所を打ち、太龍寺道の取り付き口である那賀川筋の大井までをメモする。上り3キロ強、下り2キロ強。標高40m弱の生名から標高「470mの鶴林寺迄上り、そして標高40m弱の大井まで下る。全行程6キロ弱を3時間で歩いた。痛めた膝を庇いながらの下山でもあり、ふつうであればこれほど時間はかからないと思う。
ルート図(Google Earthで作成)
鶴林寺道は「一に焼山、二にお鶴、三に太龍」と並び称される阿波の難所の一つと聞いており、歩く前は結構身構えたのだが、距離がそれほど長いわけでもないためか、きちんと整備された道ゆえか、難路というほどの遍路道ではなかったように思う。
強いて言えば、那賀川筋から鶴林寺へと上る逆打ち遍路道が結構大変かもしれない。勝浦川筋の生名から鶴林寺までの距離より1キロほど短い山道を同じ比高差上るわけで、当然といえば当然かも。当日は生名の鶴林寺道取り付き口に車をデポしてのピストンであり、復路の上りが結構きつかった。

今回の散歩での思いがけない出合いは室町期の標石。四国最古の標石とのこと。特段標石に「萌える」わけではなく、単に旧遍路道をトレースする目安として標石を辿っているだけなのだが、それでもちょっとした感慨。遍路道に残る標石はほとんど江戸時代以降のものであり、遍路が世に広まる以前の標石に出合ったというだけで結構有り難く思ったわけである。
鶴林寺道のメモをはじめるが、ここで言う「鶴林寺道」は国指定史跡としての「鶴林寺道」ではなく、広義の意で使う。国指定史跡の鶴林道は、本日メモする遍路道のごく一部区間を指すが、メモでは鶴林寺へ向かう道として「鶴林寺道」を使う。


本日のルート;
鶴林寺道取り付口から第二十番札所鶴林寺に上る 
鶴林寺標・鶴林寺道取り付口>茂兵衛道標(154度目)>19丁石>標石2基(?丁)>18丁>標石2基>青石板状標石>18丁>15丁>水呑大師>標石2基(茂兵衛道標;219度目)>?丁>11丁>10丁>車道(青石板状標石)>9丁>8丁>7丁>6丁>4丁>3丁>第二十番札所鶴林寺
第二十番札所鶴林寺から那賀川筋の大井まで下る
舟形2丁>遍路墓>舟形3丁>不動石像>舟形4丁>舟形5丁>6丁>遍路墓>舟形9丁>>舟形10丁>四国千躰大師標石>舟形14丁>舟形15丁>中尾多七標石>自然石茂兵衛道標〈88度目)>地蔵堂(17丁)>大井休憩所




鶴林寺道取り付口から第二十番札所鶴林寺に上る

鶴林寺標・鶴林寺道取り付口;午前10時40分
スタート地点は勝浦町生名(いくな)。生名谷川傍に立つ4mほどの鶴林寺標が鶴林寺道の取り付口。「別格本山 四国第二十霊場鶴林寺」と刻まれる。この寺標の左手、生名谷川の左岸に沿って歩く。






茂兵衛道標(154度目):午前10時43分
生名谷川に沿って数分歩き、右手から水路が合流する橋の角に茂兵衛道標。順・逆を指す手印と共に、「二十番 十九番 明治三十年」といった文字が刻まれる。茂兵衛154度目の巡礼時のもの。





自動車参道と交差;午前10時45分
数分歩くと鶴林寺への自動車参道道と交差。その交差点に「四国のみち」の木標など幾つかの標識が立つ。「四国のみち」」には「阿波遍路道 鶴林寺道 あと3.0km」の案内、真新しい角柱標石には「20 鶴林寺3㎞ 車道5㎞」と刻まれる。遍路道は車道を横切り右に進む。 「四国のみち」の木標傍に標石らしき石。風化・摩耗激しく文字は読めないが、「二十番鶴林寺へ十九丁 立江寺へ二り半」の文字が刻まれる、とか。
自動車参道
生名谷川の谷筋を標高200m辺りまで上り、そこから谷筋を離れ標高270mの鶴峠をへて鶴林寺へ向かう。

標石2基(20丁);午前10時50分
車道参道をクロスした遍路道は民家の間を抜け変則四つ辻に。コンクリート壁の前にいくつもの遍路標識。「四国のみち」の木標には「20番鶴林寺 歩きへんろ道」、「阿波遍路道 鶴林寺道 鶴林寺へあと2.8km」の案内がある。
その横に2基の標石。角柱標石には「二十ばん鶴林寺江二十丁」、横広の標石には「右観正寺道 中 鶴林道 左 里道」といった文字が刻まれる。
遍路道はここから山稜尾根筋を上ることになる。
観正寺
西に200m強のところに観正寺がある。阿波西国観音霊場。ささやかな本堂のみが残る。

18丁;午前10時52分
案内に従い右に折れ、石垣の組まれた畑に沿って道を上る。ほどなく右に逸れる道があり、その分岐点に「四国のみち」の木標と、「阿波遍路道 鶴林寺道 あと2.6km」とあり、遍路道は右に逸れる道を示す。「四国のみち」の木標の傍には標石があり、「鶴林寺是ヨリ十八丁」と刻まれる。




石造物2基
道の左手、藪の中に石造物が2基が並ぶ。1基は舟形地蔵。横に立つのは遍路墓だろか。道の先に茅葺小屋が見える。その手前、ふたつの道があわさる箇所に石造物が残る。何かよくわからない。





茅葺き遍路小屋:標高100m・午前10時59分
茅葺小屋に。伊予でみた茶屋跡といった風情。地図には「茅葺き遍路小屋」とある。この辺り標高100m。生名の鶴林寺道取り付口から20分で、60mほど高度を上げたことになる。勝浦川谷筋の遠景が美しい。


青石板状標石;午前11時2分
藁葺き遍路小屋の直ぐ上に舗装道路が走る。鶴林寺へと上る車道から別かれた道のようだ。遍路道は車道をクロスし更に支尾根筋を上ってゆく。
車道交差角に標石。青石板状の標石には「四国第二十番霊場 鶴林寺へんろ道」と刻まれる。中尾多七さんたちが建てたものと言われるが、遍路道でよく見る所謂「中尾多七標石」とはその形状は大きく異なる。
中尾多七標石
中尾多七さん達が昭和37年から昭和38年(1963)にかけて建てた標石は阿波の23番札所までに60近くにのぼると言う。特徴は「へんろ道」の文字と、その上に両端に矢印のついた線。線には直線の他、カーブしたものなどがあり、道方向を示す。 中尾多七標石は阿波だけでなく伊予の竜光寺道、香園寺奥の院道など、道の迷いやすい山道にも見られる、と言う。

18丁;午前11時9分
「鶴林寺2.1km」と書かれた「四国のみち」の木標を越え、その先「鶴林寺1.8km」と書かれた「四国のみち」木標で遍路道は右に逸れる。分岐点には「国指定史跡(平成22年8月5日指定 阿波遍路道 鶴林寺道まで1.8km」とある。


15丁;午前11時14分
標高150m辺り、道の右手の石垣前に角柱の標石。「十五丁」とある。施主であろう「泉屋*」といった文字が刻まれる。セメント造りの道も狭くなってきた。






水呑大師;午前11時20分
ほどなくちょっとした平場。おおよそ標高200m。そこに岩組みの中から水が流れ出る。傍には「世の人に永久に残せし石清水 大師の慈悲を心して呑む 昭和三十八年盛夏 竹林晴浪」と刻まれた歌碑も立つ。
平場には小堂も建ち、「水呑大師」とある。全国各地にある弘法水であった。お堂脇には「十四丁」と刻まれた角柱丁石も立つ。
阿波遍路道案内
水呑大師の小堂脇に「阿波遍路道』の案内。
「国指定 阿波遍路道 鶴林寺道・太龍寺道・いわや道・平等寺道 四国八十八箇所霊場をめぐる遍路道は、四国4県にまたがる引法大師空海ゆかりの社寺を巡る全長1,400kmに及ぶ霊場巡礼道である。

勝浦町で指定を受けた遍路道は、阿波遍路道のうち第20番札所鶴林寺をつなぐ「静林寺道」と鶴林寺から第21番札所太龍寺をつなぐ「太龍寺道」の一部の範囲である。
「鶴林寺道』は現在地点である「水呑大師」(弘法大師が杖を突くと水が噴き出したという伝説がその名の由来となっている)と呼ばれている祠から鶴林境内までの道約1.27kmが指定範囲である。この区間には、約650年前の南北朝期に建てられた花崗岩の町石(丁石)が11基残されており、江戸時代以前より継承されてきた古道である。
また、六丁石を過ぎると遍路道は石畳道となり、鶴林寺境内手前の三丁石まで約300m続く。五丁石付近左奥には、鶴林寺により建てられた遍路の無料宿泊所である「通夜堂跡」(124m四方の建物)とともに便所跡・井戸跡なども残されている。
「太龍寺道」は鶴林寺本堂下から阿南市の大井集落手前の阿南市境までの約860mが指定の範囲になっている。この区間の遍路道は、急勾配の斜面階段が続く。遍路道の傍らには、船形の丁石や遍路墓、また道標も建ち、自然景観も含め往時の面影を色強く残している。
徳島県教育委員会/管理団体 勝浦町」との説明と共に、鶴林寺道と太龍寺道の地図が掲示されていた。

標石2基(茂兵衛道標;219度目);午前11時31分
呑大師から先はコンクリート簡易舗装も消え、擬木や石が敷かれた道となる。標高を30mほど上げたところに標石が2基。
1基は茂兵衛道標。「鶴林寺 当山厄除け弘法大師毎夜開帳 右太龍寺へ一里半 左立江寺へ二里半 明治四十年」といった文字が刻まれる。茂兵衛219度目巡礼時のもの。
もう1基は「鶴林寺道 十三丁 左仁*谷道 弘化二」といった文字が刻まれる。

12丁;午前11時35分
茂兵衛道標から数分、角柱の標石に「十二丁」と刻まれる。








11丁;午前11時39分
次いで現れた「十一丁」の丁石には上部に二本の刻みがある。はじめて見る形。これが上述、阿波遍路道案内に「約650年前の南北朝期に建てられた花崗岩の町石(丁石)が11基残されており」とあった標石のはじまりだろう。
それにしても室町期の標石?それって真念などにより四国霊場八十八ヵ所が定着する以前の時代。 ということは、この鶴林寺道は四国の遍路道でも最も古い時代の遍路道ということか。ちょっと感慨深い。
標石
遍路道標のはじまりは卒塔婆を建てて道しるべとしたようだ。鎌倉期には朽ちる木に替えて五輪塔形の標石となり、高野山に残ると言う。この南北朝の頃に立てられた丁石は、五輪塔を簡略化したもので、尖塔方柱形式で頭部に切り込みが入る。四国最古の頃の遍路標石だ。
鶴林寺道と同じ頃の室町期の標石は、鶴林寺を那賀川筋に下り太龍寺へと上る遍路道のひとつ、「かも道」にも残る。この遍路道も四国最古の遍路道と称される。

10丁;午前11時43分
擬木の敷かれた道を進み、標高300mを越える等高線の間隔も広くなり、少し緩やかとなったな坂を進むと「十丁」と刻まれた丁石。この丁石には「貞治二年四月十四日」と刻まれるとの記録もある。西暦1355年、四国最古の標石かもしれない。因みに貞治は北朝での元号。当時四国は北朝の勢力下であった、ということか。
この辺りで稜線部に上る。等高線の間隔も広く、緩やかな坂となる。



車道(青石板状標石);午前11時49分
コンクリートで一部固めたようになった道の先で、遍路道は鶴林寺車道参道に出る。遍路道は道をクロスし土径に入るが、その角に「四国のみち」の木標があり、傍に青石板状標石。麓で見た形式と同じ。中尾多七さんたちが建てた標石。「四国第二十番霊場 鶴林寺へ七百八十メートル 七丁 昭和四十年」といった文字が読める。




9丁・8丁
車道を越えるとすぐ「九丁」と刻まれた丁石(午前11時50分)。擬木の道を進み、「四国のみち」の木標が立つ傍に「八丁」(午前11時54分)。この八丁石には「貞治二年六月廿四日」の文字が刻まれると言う。11丁石に遅れること2カ月といった古い丁石である。

那賀川の遠景
ゆるやかに上る尾根道・稜線の遍路遍路道を進む。8丁石を越えると左手に那賀川の谷筋が見える。大きく湾曲した川に橋が見える。地図で確認すると水井橋のようだ。ということは橋の手前の家並は大井の集落だろう。あそこまで下りてゆくわけだ。




7丁・6丁
7丁(午前11時58分)、6丁(午後12時2分)の丁石を見遣りながら擬木の道を進むと自然石の敷かれた石段となり、そこを上ると再び車道参道に合流する。



4丁・3丁
車道をクロスすると下半分が埋まったのか、破損したのか少し小振りの「四丁」と刻まれた丁石(午後12時9分)。その先直ぐに「三丁」石(午後12時11分)。3丁石を越えると車道参道に出る。


2丁・茂兵衛道標(179度目)
車道参道を進み、車止めの先に向かうと山門がみえてくる。その山門手前に「二丁」の丁石。
先に進むと茂兵衛道標。参道側に「立江寺」、山門に面した側に「奥の院二里半」、また「明治三十三」といった文字が刻まれる。茂兵衛179度目巡礼時のもの。
立江寺を指す面の手印は今上って来た道を指すが、奥の院を指す手印は右手方向を指す。裏参道のようだ。かつて多くの遍路は20番札所奥の院慈眼寺に詣で、東棚野から裏参道を上りこの茂兵衛道標に至ったようである。
茂兵衛道標脇には享保年間に立てられた福良余兵衛標石がある。「一町」と刻まれる。裏参道にいくつか残ると言う。
20番奥の院慈眼寺
慈眼寺(じげんじ)は徳島県勝浦郡上勝町に所在する高野山真言宗の寺院。月頂山 宝珠院 慈眼寺と号し、別名「穴禅定の寺」である。四国八十八箇所霊場第二十番札所奥の院。本尊は十一面観世音菩薩。
上勝町正木の集落(標高150m付近)より山道を上った標高320m付近の車道脇から見上げると灌頂滝が臨め、さらに上がった標高550m付近に本坊・駐車場があり、そこから徒歩で約20分登った標高約700m付近の石灰岩質の山腹に本堂がある。
寺伝によれば平安時代初期の延暦年間(782年 - 805年)四国を巡錫中の空海(弘法大師)が、邪気の漂う不思議な鍾乳洞を発見した。洞窟の入口で数日間、加持祈祷を行ったところ悪龍が洞窟より出て空海を襲った。空海は法力で悪龍を洞窟の壁に封じ込めた。また、十一面観音を刻んで洞窟の前に堂宇を建立し安置した。これが慈眼寺の開創と伝えられている。



●第二十番札所鶴林寺●

仁王門を潜り境内に入る。明治42年(1909)再建。右手に六角堂。文久2年(1862)建立。堂内には大師作の六地蔵が祀られる、と。先に進むと左手に手水場。その先に宿坊がある。
手水場を右に折れ石段を上ると左手に大師堂(大正2年(1913)再建)、護摩堂(大正15年(1926)再建)、正面に本堂が建つ。

本堂は慶長9年(1604)の再建。左右には鶴が並び立つ。元の鶴は戦時に供出され、現在のものは戦後作り直されてもの。
本堂右手に三重塔。文政6年(1823)建立。大日如来、阿しゅく如来(あしゅくにょらい)、無量光壽如来(阿弥陀如来)、宝生如来(ほうしょうにょらい)、不空成就如来(ふくうじょうじゅにょらい)からなる五知如来が祀られと言う。
その右に鐘楼。宝暦9年(1759)のもの。鐘は昭和に鋳造されたと言う。これも戦時の金属供出令のためだろうか。
三重塔と鐘楼の間を置くに進むと承応2年建立の鎮守大権現。その先には宝暦8年(1758)建立の聖天堂が建つ。

Wikipediaには「鶴林寺(かくりんじ)は、徳島県勝浦郡勝浦町にある高野山真言宗の寺院。四国八十八箇所霊場第二十番札所。霊鷲山(りょうじゅさん)、宝珠院(ほうじゅいん)と号する。本尊は地蔵菩薩。
地元の人や遍路からは「お鶴さん」と呼ばれ親しまれているが、「一に焼山、二にお鶴、三に太龍」と並び称される阿波の難所の一つで、鶴林寺山(標高516.1m)の山頂近くにあり、本堂の位置で比較すると標高495m付近で八十八箇所中7番目、表参道は「へんろころがし」といわれる急傾斜の山道である。
寺伝によれば、延暦17年(798年)に桓武天皇の勅願によって空海(弘法大師)が開創。寺伝によれば、空海がこの山で修行中に雌雄の白鶴が杉の梢で小さな金の地蔵菩薩像を守護していた。空海はそれを見て、霊木に3尺(約90cm)の地蔵菩薩を刻み、その胎内に鶴が守っていた1寸8分の地蔵像を納めて本尊として鶴林寺の寺名を定めた。境内の雰囲気が釈迦が説法をした霊鷲山に似ていることから山号にいただいたという。 平城、嵯峨、淳和の各天皇からの篤い帰依、源頼朝、義経、徳島藩祖蜂須賀家政などからの信仰も受けて大いに栄えた。

本尊の伝承として、昔、猟師が猪を追って山に入り矢を放ち、たどって行くと本堂で地蔵菩薩の胸に矢がささり血を流していた。猟師は殺生を懺悔し仏門に入ったということから矢負いの地蔵と呼ばれ、本尊にはその傷が残っていると云われている」とある。

Wikipediaには阿波の寺院によるある記述、「天正の兵火により焼失」のくだりがない。長曾我部勢による焼失を免れたようだ。当時の住職と長曾我部氏の縁ゆえ、とも聞く。




第二十番札所鶴林寺から那賀川筋の大井まで下る


徳右衛門道標・茂兵衛道標と標石;午後12時29分
鶴林寺を離れ、那賀川筋の大井へと下る。距離は2キロほどだろうか。那賀川筋への下りは手水場脇。下り口手前に徳右衛門道標と標石、その先に茂兵衛道標と標石が並ぶ。徳右衛門道標には「是より太龍寺迄 壱里半」、標石には「一丁 是より下り太龍寺道」と刻まれる。
茂兵衛道標には「国宝本尊地蔵大菩薩 当山本堂 太龍寺 立江寺 明治三十三年」といった文字が刻まれる、茂兵衛179度目巡礼時のもの。脇の標石には「太龍寺へ五十丁 船渡し阿り 昭和四年」といった文字が刻まれる。
遍路道マップ
徳右衛門道標脇に鶴林寺から太龍寺への遍路道マップがあり、那賀川筋から太龍寺へ向かうふたつの遍路道が案内されていた。ひとつは那賀川に架かる水井橋を渡り若杉谷川に沿って太龍寺道を太龍寺に向かうもの。
もうひとつは水井橋を6キロほど下流に下り、旧跡一宿庵に参拝し尾根筋を太龍寺に向かうもの。これが前述の「かも道」。室町期に開かれた四国最古の遍路道。現在路面状態が悪く歩行不適。ひとりでは歩かないでほしい、との注意書きがあった。


舟形2丁・遍路墓
徳右衛門道標脇から下り道に入る。宿坊の建屋を右手に見ながら自然石の組まれた坂を少し下ると道の右手に舟形地蔵(午後12時34分)。「二丁」と刻まれる。下山地点に立つ徳右衛門道標脇の標石に「一丁」とあったので、これから丁石が続くのだろう。
そこから数分下ると遍路墓(午後12時38分)がある。

舟形3丁・石仏
「三丁」と刻まれた舟形地蔵丁石(午後12時41分)を過ぎると石仏(午後12時44分)。お不動さんといった風情。





舟形4丁・石造物
更に続いて「四丁」と刻まれる舟形地蔵丁石(午後12時46分)。その直ぐ先、「伊予新居郡上嶋山村 馬作石塚」と刻まれた石造物(午後12時47分)があった。伊予新居郡とは私の田舎の旧名。上嶋山村は西条あたりにあった旧村名であった。周布郡にあった小松藩の飛び地であったようだ。「馬作石塚」って何だろう?

舟形5丁・6丁
直ぐ「五丁」と刻まれた舟形地蔵丁石(午後12時49分)、「六丁」舟形地蔵丁石(午後12時52分)が続く。





「四国のみち」木標
「大井休憩所0.8km」(午後13時)と書かれた「四国のみち」の木標を越えると直ぐ「九丁」と刻まれた舟形地蔵丁石(午後13時2分)がある。



舟形10丁・四国千躰大師標石
5分ほど下ると「十丁」と刻まれた舟形地蔵丁石(午後13時7分)。そこから数分下ると「四国のみち」の木標。ほぼ尾根筋を下ってきた遍路道はここで左折。角に照蓮の四国千躰大師標石(午後13時9分)が立つ。「是より太龍寺へ四十丁 文化六」といった文字が刻まれる。


県道283号と交差;午後13時15分
数分で車道が見えてくる。鶴峠から下ってきた県道283号だ。県道に下りると少し下ったとこころに遍路道分岐点。「四国のみち」の木標と共に「太龍寺 五・三粁」と刻まれた大きな標石があり、そこを左に折れる。標石傍には舟形地蔵が祀られていたが、丁石などの確認をミスした。
尾根筋を下って来た遍路道は、ここから谷筋といった地形を下ることになる。

舟形14丁;午後13時21分
車道を逸れ谷筋に。そこは谷筋最奥部。急傾斜の鉄骨階段を下り一気に谷筋に。尾根筋の遍路道と様相が異なり、暗い杉林の道を進む。谷筋と書いてはいるが特に川が流れておるわけではない。5分ほど歩くと岩の上のに頭部の欠けた地蔵。「十四丁」と刻まれていた。


舟形15丁・八幡神社
さらに数分。体の上半分が欠けた石仏(午後13時25分)。「十五丁」といった文字が読める。直ぐ八幡神社(午後13時26分)。傍に休憩所もある。小休止。



中尾多七標石; 午後13時29分
里に下る。直ぐ、道の左手に中尾多七標石(午後13時29分)。里が大きく開けて来た。
前方に見える稜線は太龍寺山だろう。




自然石茂兵衛道標〈88度目);午後13時32分
開けた里を数分歩くと道の左手に「21番札所太龍寺 歩きへんろ道」の案内。遍路道は舗装された生活道を左に逸れる。
その分岐点に自然石の標石。傍に「中尾茂兵衛建立の道標」の案内。「中務茂兵衛〈1845-1922)周防国大島郡椋野村 (現山口県周防大島町)の人。
本名は中司亀吉。21歳のとき家を出て、四国遍路を始め、生涯巡礼の旅を続け、78歳の時、280回目の結願を目前に倒れた。
道標の建立は、42歳の厄年、巡拝が88回になったのを記念に建て始め、以降四国各地に253基を建立した。
ほとんどは大型の石柱道標(平均124センチ)であるが、ここ大井町の道標は、唯一、自然石の表面に刻まれたもので、貴重な文化財である、
正面の刻字は「ちかみち 明治19年3月21日 88度目供養 行者 中司茂兵衛」とあった。 茂兵衛道標左の大樹脇に石組の祠に石仏が祀られる。いい風情だ。

六角地蔵尊堂(17丁);午後13時33分
案内に従い土径に入る。直ぐセメント造朱塗り柱の六角堂。境内、というかちょっとしたスペースに並ぶ石仏の中に舟形地蔵。「十七丁」と刻まれた舟形地蔵丁石であった。


大井休憩所;午後13時39分
地蔵尊堂から集落を抜け県道19号に出る。県道を少し西に進み大井休憩所に。これで本日の散歩メモを終える。

次回はここから太龍寺道を上り21番札所太龍寺から22番札所平等寺へ向かう。




18番札所恩山寺から19番札所立江寺を打ち、20番札所への取り付口までをメモする。立江寺までおおよそ5キロ、立江寺から鶴林寺道取り付口までおおよそ10キロ、全行程15キロ程度の遍路道。
ルートをGoogle の衛星写真で俯瞰する。徳島から勝浦川水系のつくった扇状地、デルタ三角地を抜け四国山地の最東端といったところに恩山寺が建つ。立江寺はそこから那賀川水系の開いた大扇状地、デルタ三角地に向かう。
立江寺にお参りした後、那賀川水系立江川に沿って、勝浦川・那賀川水系の分水界をなす田野山地の山裾を立江川源流域まで上り、そこから丘陵地を抜けて勝浦川筋に戻り、勝浦川に沿って鶴林寺道の取り付口である生名(いくな)に向かう。
途中思いもかけず「真念へんろ道」に出合ったり、その真念遍路道を衛星写真でチェックしていると、櫛の歯のように突き出たいくつもの田野山地の支尾根を「発見」したり、三つの山地・丘陵が境を画する川筋跡といった風情の「空白地・低地」に出合ったりと地形大好き人間には結構楽しい遍路道であった。 櫛の歯のように突き出た支尾根ゆえの地名とも言う櫛淵を進む「真念へんろ道」は、その前半部は歩いたのだが、残り半分は遍路タグを見落としたのか真念遍路道ではなく旧遍路道を歩くことになった。実際に歩いたわけではないので正確ではないが、後半部の真念遍路道も、その概略ルートを参考のため掲載しておく。

本日のルート;
18番恩山寺から19番立江寺へ
恩山寺>立江道分岐>弦巻坂に標石>舗装堂に>釈迦庵>分岐点の標石>四国千躰大師標石>標石>県道136号合流点に2基標石>般若心経碑>剣山大権現碑>標石>お京塚>真念遍路道案内>不動明王石仏>立江寺右折点に2基標石>19番札所立江寺
19番立江寺から鶴林寺道取り付き口へ
立江寺>立江寺奥の院清水寺碑>標石>真念遍路道分岐点に四国千躰大師標石>真念道標>茂兵衛道標(118度目)>県道22号T字路に標石2基>茂兵衛道標>茂兵衛道標>県道16号T字路の茂兵衛道標>東林庵の標石>鶴林寺道登山口の寺標



第十八番札所恩山寺から第十九番札所立江寺へ


恩山寺を離れ、次の札所・立江寺に向かう。距離は5キロ弱といったところ。恩山寺からは阿波遍路道(立江寺道)に入ると言う。境内には特段、立江寺道の案内はない。旧参道途中、石段前にあった照蓮の四国千躰大師標石よりその手印が指す左へ、との古い記事があったが、現在は法面補強のためか道路との比高差があり、とても左に抜けることはできそうもない。 とりあえず車道参道を下ることにした。

立江道分岐
車道参道を下ると、養豚場への車道分岐点に「恩山寺右へ」の標石があり、その傍に「立江寺へ 歩きへんろ道」と書かれた案内があった。指示に従い車道を右に折れ、養豚場傍の道を進む。


弦巻坂に標石
その直ぐ先、竹林手前に「四国のみち」や遍路タグと共に「立江寺へ 歩きへんろ道」と書かれた案内が再び。
竹林の中を進むとほどなく「弦巻坂」と書かれた案内と地蔵尊・丁石が並ぶ。丁石には「三丁」と刻まれる。地蔵尊は花折地蔵と称されるが、その由来は不詳。
弦巻坂の案内
義経軍は釈迦庵から恩山寺に登る坂の向こうに敵兵がいないことを探知して、弓の弦を巻くことにしたのが坂名の由来とあった。

標石
ほどなく「立江寺へ 歩きへんろ道」案内と立江寺と刻まれた標石。案内に従い右に折れると三差路。そこには逆打ち遍路さんへの「恩山寺へ へんろ道」の案内と「四国のみち」の標石が立つ。道なりに舗装された道を進む。
義経ドリームロード
小松島市の資料には「義経が屋島に向かって進軍した進路は、現在「義経街道」と呼ばれ、義経が大阪より風雨の中を押してたどり着き、軍船を集めたとされる「勢合」を起点として、小松島市内の義経ゆかりの地を結ぶ約10キロメートルを「義経ドリームロード」として案内板や道標が設置され、史跡やロマンを求める人々に親しまれています。
義経が小松島の海岸に上陸してから屋島に攻め入るまで、わずか1日の出来事でありながら、弦張坂、弦巻坂、旗山、くらかけの岩、天馬岩、弁慶の岩屋など、義経にまつわる伝説の場所が多く残されており、人々の義経にかける思いの深さが感じられます」とあった。

立江道を進む
車道を進むと、すぐ「立江寺へ 歩きへんろ道」の案内。案内に従い車道を離れ右に折れ。竹林の土径を進むが直ぐに車道に合流。大廻りする車道をショートカットしただけであった。 その先、竹林を抜け丘陵裾を蛇行する舗装道をゆっくり下ってゆく。 上述小松島市の資料に拠れば、弦巻坂へと上る道を「弦張坂」と呼ぶようだが、特段の案内は無かったように思う。

釈迦庵
恩山寺車道傍の立江寺道の入口から歩きはじめて20分弱、道の右手、藪の中に堂宇がひとつ建つ。そこが釈迦庵。道傍に「弘法大師おむつき堂」ともある。
寂本の『四国遍礼巡礼記』に、「大師御誕生のときのむつきを此藪おさむといひ伝うとなり」にある。「むつき」は産着のこと。
かつては「むつき堂」もあったようだが、現在は朽ち果てている、と。であれば、境内のお堂は釈迦庵だろう。その風情からして建て替えられたもののようだ。恩山寺の寺僧の隠居寺であったと言う。 荒れはてた境内には仏足石の案内。保護プレートの下に1m四角、幅15㎝ほどの石があった。
には、「釈迦庵の仏足石 銘文 右 三国伝来仏足石跡之図南 左都薬師寺所珍蔵之者也 古式の信仰として、我が国に仏足石が唐より伝来したのが天平勝宝5年(西暦753年)頃といわれ奈良薬師寺にある。ここ釈迦庵の仏足石は、江戸初期に造られたものといわれ、銘文によると、奈良薬師寺の仏足石を写したといわれている。その大きさは奈良薬師寺の仏足石とほぼ同じである。仏足石は全国的にも非常に少なく本県においても釈迦庵の他にはみあたらない」とあった。


分岐点の標石
釈迦庵を離れるとその先に里が広がる。T字路を左に折れ、道なりに進むと、道の右手に「立江寺へ 歩きへんろ道」の案内、「四国のみち」の標石。案内に従い車道を離れ、右折し畑の畦道といった土径に入る。


四国千躰大師標石
直ぐ、照蓮の四国千躰大師標石と「四国のみち 十九番立江寺」の標石。手印に従い水路脇の細い土径を進む。いい趣の道。「立江寺へ 歩きへんろ道」の案内も立つ。




標石
少し進むと「立江寺へ 歩きへんろ道」の案内と標石。「四国のみち」の標石と共に、「へんろ道」と刻まれた標石が立つ。標石脇には五輪塔に似た小さな石造物もあった。
案内に従い右に折れ水路を渡る。道端に石造物が並ぶ






県道136号合流点に2基標石
民家脇の細路を進むと県道136号に合流。そこに笠石をつけた標石と茂兵衛道標。笠石丁石には「是より恩山寺七丁 是より立江寺へ十八丁 文化六」といった文字が刻まれる。
茂兵衛道標には「徳島 立江寺 恩山寺 明治三十一年」といった文字が刻まれる。茂兵衛165度目巡礼時のもの。
県道136号分岐点の標石
この2基の標石が並ぶ県道136号合流地点の少し北、県道136号の分岐点に小堂と標石が並ぶ。左端は中尾多七標石、その右は風化激しく文字は読めない。小堂にも標石1基。照蓮の四国千躰大師標石の上部だけのよう。
ここに立つ標石は、恩山寺から弦巻坂を通らず、県道136号・土佐街道を辿る遍路道。茂兵衛道標の箇所で両ルートは合流する。

般若心経碑・剣山大権現碑
南東に下る県道136号が南に向きを変える角に小堂。横に「奉読誦般若心経」の碑。「読誦(どくじゅ)」とは、お経を称えること。「読誦般若心経百万遍」といった石碑が各地に残るが、この碑も祈願した般若心経を唱え終えた記念碑だろうか。
この先で道は丘陵に入る。小松島の赤石の海辺に向かって突き出した細長い丘陵部。道の右手に剣山大権現碑が立つ。

19丁石・お京塚
丘陵部の低いピークを抜け、立江川筋に向かって緩やかに坂を下る。坂の途中、丘陵部から平地に出る手前、道の左手のコンクリート壁面上に標石。「十九番立江寺」と刻まれる。
道を進み、県道136号が立江川に沿って進んできた県道28号と合流する手前に「お京塚」と刻まれた大きな石碑。その傍には遍路休憩所が建っていた。
お京塚
お京という女性が前非を悔い、庵を結んだところ。
お京は石州浜田(島根県浜田市)の在。16歳で大阪へ芸者に売られるも、22歳で要助と足抜けし故郷の浜田に戻る。夫婦となった二人だがお京は長蔵と密通。要助を無きものにし、故郷を逃れた二人は四国の丸亀に上陸し、四国巡礼の姿での逃避行。
阿波の国(現在の徳島県)にある19番札所立江寺に詣で本尊の地蔵尊を拝するに、忽ち、お京の黒髪が逆立ち鐘の緒に巻きつく。
お京至心に懺悔すると、不思議にも、お京の黒髪は肉とともにはがれ、辛うじて命は助かった。 その後ふたりはこの地に庵を結び、一心に地蔵尊を念じ生涯を終えた、と。
立江寺は阿波の関所寺と聞く。この勧善懲悪の説教話は、お大師さまの審判を受け邪悪な遍路は通さじとする関所寺所以のお話であろうか。
因みに土佐の関所寺は27番神峰寺、伊予は60番横峰寺、讃岐は66番雲辺寺。

「真念へんろ道」の案内
県道136号は立江川手前で県道28号と交差する。県道136号は立江川を渡るが遍路道はここで県道28号に乗り換える。その交差点角に、「真念へんろ道 小松島へんろみち保存協会」の案内。立江川左岸を進む県道28号方向を指す。
この案内の意味するところは後程わかるのだが、その時は「この道筋が真念遍路道?」と県道28号を先に進む。道の右手に不動明王石仏が祀られる。

立江寺右折点に2基標石
ほどなく道の左手に標石2基。1基は茂兵衛道標。「鶴林寺 立江寺 大龍寺 明治三十二年」といった文字が刻まれる。茂兵衛171度目巡礼時のもの。もう1基は風化が激しいが照蓮の四国千躰大師標石のようである。
立江寺はここを左折し立江川にかかる朱塗りの白鷺橋を渡れば直ぐそこ。
白鷺橋
橋柱に案内。「行基上人が立江寺草創の時、一羽の白鷺がこの橋に舞い降りる。橋の名は白鷺橋とも九つ橋とも称された。「九つ橋」の由来は、九界の地位を表す標であって、積悪邪険の者はこの橋で眼がくらみ足がすくみ、一歩も歩くことができず、そのときは必ず一羽の白鷺が橋に舞い降りると。無時渡れた人は善男善女でありとする」といったことが書かれていた。上述、お京の説教話同様、関所寺としての立江寺のイメージを高める。
九界
「九界の地位を表す標」って何?「九界とは仏語。十界のうち、仏界以外の世界。地獄・餓鬼・畜生・阿修羅(あしゅら)・人間・天上・声聞(しょうもん)・縁覚・菩薩(ぼさつ)の九界(コトバンク)」にある。 九界を渡り終えることにより、仏界に至るとの象徴だろうか。実際見たわけではないのだが、橋桁も八つあり、九のスペース(九界)をつくっている、とか。


第十九番札所立江寺(たつえじ)

白鷺橋を渡り直進するとT字路。角に寺標石が建つ。如何にも門前町といった雰囲気。その角を右折し、寺の境内を囲う塀に沿って進むと堂々とした山門がある。入母屋造楼門。

境内に入ると左に鐘楼、右に二重塔(多宝塔)。その裏手に白杉大明神。空海入唐時の守護神とあった。少し進んで右手に阿波七福神毘沙門天堂。
本堂はその先左手。本堂の左右に観音堂と護摩堂。大師堂は本堂に相対するように右手に建つ。その左右に神変堂と黒髪堂が建つ。 Wikipediaには「立江寺(たつえじ)は、徳島県小松島市立江町にある高野山真言宗の寺院。四国八十八箇所霊場第十九番札所で「四国の総関所」、また「阿波の関所」として知られる。橋池山(きょうちさん)、摩尼院(まにいん)と号する。本尊は延命地蔵菩薩。


寺伝によれば、聖武天皇の勅願寺として、行基が光明皇后の安産を祈願し一寸八分 (5.5cm) の金の子安の地蔵菩薩を刻み「延命地蔵菩薩」と名付けて本尊として開基したとされる。空海(弘法大師)が訪れた際、小さい本尊は失われる恐れがあるとして、一刀三礼して等身大の地蔵菩薩を刻み、本尊を胎内に収めたといい、このときに寺名が立江寺と改められたと伝えられている。当時は現在地から400mほど西の奥谷山清水寺のある場所であったという。

天正年間(1573年 - 1593年)に長宗我部元親の兵火により全焼したが、幸い本尊は難を逃れた。その後徳島藩藩祖蜂須賀家政によって現在の地で復興された。昭和49年(1974年)に火災が発生、本堂が焼けたが本尊は無事で昭和52年(1977年)に再建された」とあった。
黒髪堂
お京塚でメモしたお京の黒髪が残ると言う。上述説教話を刻んだ石碑があり、その最後に「肉付き鐘の緒を当山に納め置くは享和三年(1803)の春のことなり」とあった。
ということはお堂に、お京の神それも肉付き鐘の緒がある?とても見る気になれず。




第十九番札所立江寺から鶴林寺道取り付き口へ


立江寺を離れ次の札所20番鶴林寺への取り付口に向かう。その距離おおよそ10キロ。中川水系立江川に沿って丘陵裾を進み、その源流部の先で那賀川水系と勝浦川水系を隔てる丘陵地を北に抜け、勝浦川筋に移り勝浦町生名の取り付口に向かうことになる。
遍路道は立江寺境内を離れ、白鷺橋を渡り茂兵衛道標まで戻り、そこを左折し県道28号を歩く。

立江寺奥の院清水寺碑
道を進むとほどなく大きな石碑。「立江寺奥の院 新四国八十八ヵ所」とある。ここを右に上ると立江寺奥の院清水寺がある。
立江寺奥の院清水寺
県道から200mほど奥まったところに本堂のみが建つ。立江寺でみた寺の旧地がここ。長宗我部元親の兵火により全焼したが、幸い本尊は難を逃れた。その後徳島藩藩祖蜂須賀家政によって現在の地で復興された、は前述の通り。

取星寺道標石
先に進むと、少しあたらしい標石。「右へんろ道」とくっきり刻まれる。最近のものかと通り過ぎようとしたのだが、昭和十一年と刻まれる。お化粧直し?と、側面に「左 十九番奥院 取星寺道」とあり、大阪や日本橋といった寄進者の在も刻まれる。
清水寺の山号か院号が「取星」と軽い気持ちでチェック。と、立江寺奥の院取星寺がヒットした。場所は阿南市羽の浦。立江川の谷筋から向山山地を越えた那賀川筋の山麓にある。指示する方向は合っている。これってどういうこと?
立江寺の奥の院
チェックすると、立江寺の奥の院は取星寺の他、勝浦町星谷にある「岩屋山星谷寺(星の岩屋)」も立江寺の奥の院とあった。
その因は不詳だが、歴史的経緯の中で生まれたものだろう。特に明治維新での神仏分離令の頃、あれこれの混乱が起きている。
奥の院のケースではないが、明治の神仏分離令による札所・前札所の混乱に伊予で出合った。伊予の60番札所横峰寺には、その前札所清楽寺、妙雲寺があった。神仏分離令で廃寺となった伊予の60番札所横峰寺に替わり、その前札所であった妙雲寺が60番前札所となる。 一時期石鎚神社の遥拝所となっていた横峰寺がその後寺に復帰すると、あれこれの混乱はあったものの、現在横峰寺は60番札所、妙雲寺は60番前札所になっている。前札所であった妙雲寺は火災に遭い、現在は前札旧跡となったいた。
また、讃岐で出合ったケースでは、68番神恵院と69番観音寺がそれ。同じ境内にふたつの札所が建っている。これは神仏習合を廃することによる神宮寺の廃寺にその因がある。立江寺奥の院のケースもこういった混乱期に起きたことではと妄想する。根拠はない。
取星寺
取星寺(しゅしょうじ)は徳島県阿南市羽ノ浦町岩脇に所在する寺院。山号は妙見山。宗派は高野山真言宗。本尊は虚空蔵菩薩。四国八十八箇所第十九番立江寺奥の院
寺伝によれば、平安時代初期の延暦11年(792年)に空海(弘法大師)が太龍の峰(現・太龍寺)で修法中に、地上に厄災を及ぼす妖星が現れた。空海が秘法を用いると妖星が地上に落ち松の木に引っかかった。空海がその星を拾い、妙見菩薩と虚空蔵菩薩を刻んでこの地に納めたと伝わる。
南北朝時代の至徳元年(1384年)、増吽上人が鹿島大明神・香取大明神を勧進し妙見宮を建立したと言われる。明治時代の神仏分離令により取星寺と明現神社とに分離された。
星谷寺
星谷寺(しょうこくじ)は、徳島県勝浦郡勝浦町星谷にある、高野山真言宗の寺院。本尊は十一面観音。四国八十八箇所第19番札所立江寺の奥の院である。別名星の岩屋。現在は無住の寺院で鶴林寺が管理している。
その昔、人々に災禍をなしていた悪星を空海(弘法大師)が法力で地上に引き下ろしてこの岩屋に封じこめたところ、悪星が石と化したため、この石を祀ったといわれている。 境内には星の落下にまつわる伝説がある岩屋の中から見る「裏見の滝(不動の滝)」があり、その岩の外壁には「瀧之不動尊」と呼ばれる不動明王が刻まれている。樹齢約450年の朽ちかけた樟の木の巨木には「樟ノ木不動尊」や、最近、岩屋禅学堂から約30mほど上がった裏山の岩場に「定ヶ窟不動尊(天井の不動)」が刻まれ、また、道路脇の小さい滝の横には「先心之滝不動尊」石仏がある。

真念遍路道分岐点に四国千躰大師標石
ほどなく道の右手に照蓮の四国千躰大師標石。手印は県道28号を指すのだが、県道から右に逸れる道筋に「真念へんろ道」との案内がある。これが立江寺近くの県道28号交差箇所にあった「真念へんろ道」であったよう。
標石に従えば県道筋も遍路道であるが、「真念」のネームに惹かれ県道を離れ山裾の道に入る。

真念遍路道を進む
道は県道筋から次第に離れてゆく。山裾の道を進むと切通しといった丘陵鞍部を抜けると眼前に池。その向こうにトンネルが見える。池の東には高架橋桁だけがいくつか建てられている、いかにも工事現場といった風情。
池手前の工事用道路といったところに出ると、遍路タグがあり、右へと続く集落の生活道を山側に進む。
四国横断自動車道路
トンネルとか高架橋桁は何だろう。Google mapの衛星写真を見ると遍路道の北、天王谷でも工事が進んでいる、また更にその北、山稜を越えた勝浦川筋でも工事が進められていた。 四国横断道路の小松島・阿南の工事区間のようであった。

真念道標
道を山側に進み小堂を見遣りながら道なりに進み、池の西でピークを越えると遍路道は田野山地から突き出た支尾根丘陵の間を南に下る。
道を下り、県道合流点の少し手前、道の右手に標石が立ち、「真念道標」の案内があった。「右立江* 左*」といった文字が見える(?)。ここでやっと「真念へんろ道」と称される所以がわかった。地域の方の尽力により遍路道が整備されたようだ。傍に天満神社が建つ。

県道28号に真念道標
山裾を進んだ「真念へんろ道」は旧遍路道筋である県道28号に戻る。その先道が南西に少しカーブするところ、民家のブロック塀に囲まれるように2基の標石があった。1基はその形状から真念標石である。これもこの道筋を「真念へんろ道」と称する所以だろう。「右遍ん路み*』「左五丁ゆき くわんおん」「為父母六親」といった文字が刻まれる。
もう1基には「二十番鶴林寺 明治三十四年」といった文字が刻まれる。
真念へんろ道
これはメモの段階でわかったのだが、「真念へんろ道」はこの標石から再び県道を逸れ、西へと幾つかの丘陵を抜ける生活道を進み勝浦川手前の沼江で県道22号に出て、旧遍路道に合流するようだ。なんとなくよさげな道筋。分岐点に案内がなかった?見落とした?ともあれちょっと残念。因みに、県道分岐点から西に進む遍路道にも真念道標が立つと言う。道筋に3基の真念道標が立つゆえの「真念へんろ道」のネーミングを再確認。遍路道整備に尽力された地元の櫛淵を冠し「櫛淵真念へんろ道」とも称する。

茂兵衛道標(118度目)
を進み法泉寺の近く、県道左手に茂兵衛道標が立つ。手印と共に「鶴林寺 立江寺 明治四十年」といった文字が刻まれる。茂兵衛118度目の巡礼時のもの。







櫛淵
Google Street Viewで作成
この辺り櫛淵の地形は面白い。田野山地から突き出た幾つもの支尾根が平地を囲んでいる。この形をもって「櫛」とするのだろう。が、「淵」は?湿地帯。チェックするとWikipediaに櫛淵は「三方を丘陵に囲まれたくさび型の平地が東部に向かって展開している。隆起や沈降によりおぼれ谷(陸上にあった谷が、その地形を保ったまま何らかの理由で水面下に没してできた地形を指す用語)状にできた入江が櫛目状に連なり、櫛目形の谷が山麓を東西に走る」とあった。妄想も当たらずといえども遠からず、といったところ。
また、この辺りの平地も元は後背湿地とも潟湖であったとの記事もあった。往昔の那賀川は現在より北へと、立江川の方に流れていたともあるから、那賀川の自然堤防によってつくられた後背湿地帯であったのだろうか。これも妄想。

県道22号T字路に標石2基
この標石のある辺りは立江川が平地に流れ出すところ。ここからは北の田野山地、南の向山山地に囲まれた谷筋に入る。緩やかな坂の右手、立江川の源流点近くに池がある。立江川の上流部を「中の坪川」と呼ぶようだが、丘陵に囲まれた池は、何となく「中の坪」といった雰囲気。
坂を上り詰めた辺りは切り通しの風情。向山山地の西端部を彫り抜いて道を通しているように思える。
切通しを越えるとT字路。県道22号と合わさる。ここで那賀川筋へと左へと向かう県道28号と離れ勝浦川筋へと抜ける県道22号に乗り換え。T字路を右折する。
T字路に2基の標石。1基はT字路正面。「第二十番鶴林寺 第二十一番大龍寺 第十九番立江寺 弘法大師生誕千二百年記念 昭和四十年」といった文字が刻まれる。朱に塗られた文字、大龍寺は左折し那賀川筋への方向を示す。昭和48年(1973)に立てられたものであるとすれば、車参拝者への案内であろうか。もう1基はT字路右角。「右立江地蔵字 左鶴林寺」と刻まれる。 遍路道は標石に従いここを右に折れ、県道22号を進む。ここからは小松島市を離れ勝浦郡勝浦町域に入る。
T字路周辺の地形
Google Street Viewで作成
切通を抜けてT字路に出たとき、一瞬そこは川筋のように思えた。地形図で見ると特に川は流れれていないのだが、北の田野山地、南の向山山地、西から突き出た四国山地の支尾根の境を画しており、南の那賀川と北の勝浦川の間が「平地」で繋がれていた。何となく面白い地形だ。






茂兵衛道標(177度目)
県道を進み勝浦町の沼江に入ると、県道から右に逸れる道がある。県道整備前の旧路ではないだろうかと右に折れて道を進む。と、グルリと弧を描き県道へと戻る道の左手に茂兵衛道標があった。巡・逆打ちを示す手印と共に「立江寺 鶴林寺 明治三十三年」といった文字が刻まれる。茂兵衛177度目巡礼時のもの。



茂兵衛道標(149度目)
道は県道22号に戻る。先に進むと再び県道から離れる分岐点がある。これも旧路ではあろうと県道を離れ直進すると直ぐ、四つ辻の右手民家塀角に茂兵衛道標があった。
側面jは「十九番立江寺」とあるのだが、正面は塀側に面している。その正面には左折方向を示し、二十番鶴林寺」とある。 左折した県道22号には胎蔵寺があり、境内には大師堂もあると言う。ここを左折しても違和感はない。茂兵衛道標が立った頃は民家もなかったところ、と思えば理屈には合う。
真念へんろ道
県道から逸れる少し手前に北から県道に合わさる道がある。どうもそこが上述、県道28号から分かれ、いくつもの丘陵を抜けて西に向かう「真念へんろ道」が県道22号に合わさる箇所のようである。

県道16号T字路に茂兵衛道標(177度目
茂兵衛道標(149度目)から先の遍路道は、茂兵衛道標が指すように県道に戻り胎蔵寺に参拝し県道筋を進むのか、直進し集落の中の旧路を進むのかはっきりしない。とりあえず道標の指す県道筋に戻り先に進み、勝浦川手前でT字路・県道16号にあたる。
そのT字路角、沼江不動バス停傍に2基の標石。1基は茂兵衛道標。「鶴林寺 立江寺 左とくしま道 明治三十三年」といった文字が刻まれる。茂兵衛177度目巡礼時のもの。もう1基は角柱正面に不動明王が彫られ、その側面に「左遍路道 明治廿二年」といった文字が刻まれた標石となっている。
中央に阿波勝浦沼江不動と刻まれた石柱。不動明王の刻まれた石仏が沼江不動尊だろう。

東林庵薬師堂の標石
県道22号はこのT字路が終点。県道16号に乗り換えてT字路を左折し、勝浦川に沿って進む。 「道のえき ひなの里かつうら」の手前、勝浦川に注ぐ生名谷川からの流れの手前で遍路道は県道16号を逸れ左に入る。
生名(いくな)に入った道筋の右手に東林庵薬師堂。お堂脇に大きな石碑。「鶴林寺 右お久のいん八十五丁 左二十一丁」と刻まれる。
右お久のいんは、前述の徳島県勝浦郡勝浦町星谷にある立江寺奥の院星谷寺。別名星の岩屋のこと。「二十一丁」は鶴林寺までの丁数だろう。また境内の立像石仏の台石も苔・摩耗のためはっきりしないが標石となっているようである。
お堂にあった縁起には「弘法大師、19歳のとき大龍寺へ修行の地を求めてこの地に来たり、一草庵であった東林庵に滞在し薬師如来を祀った」とあった。

鶴林寺道登山口の寺標
東林庵の直ぐ先、生名谷川傍に4mほどの石碑が立つ。「別格本山 四国第二十霊場鶴林寺」と刻まれる。ここが鶴林寺への取り付口。この寺標石を左に入り第二十番札所鶴林寺へ向かう。

今回のメモはここまで。次回は鶴林道を上り鶴林寺を打ち、那賀川筋の大井までの遍路道を標石を目安に歩くことにする。






今回のメモは徳島市郊外の17番札所井戸寺から徳島市街を抜け、小松島市の恩山寺までの遍路道。歩いて印象に残ったのは徳島市街にほとんど標石が残らないこと。井戸寺から徳島市街に入る田宮川・藪ノ木橋まではそれなりに標石は残る(記録に残るも含め)のだが、市街地でみつけたのは眉山東北端部、臨江寺傍に1基のみ。その先も市街地、かつての城下町を離れ、園瀬川を越えるまで標石はひとつも見付けることができなかった。
これって何だろう?徳島藩の遍路政策が厳しかったため?これはあたらないようである。むしろ遍路に対しては寛大で、町役人がその方針に困惑しているほどである。
徳島藩の遍路政策
「えひめの記憶(愛媛県生涯学習センター)」には永宝5年(1708)の資料にそのエビデンスがある。井戸寺から恩山寺への遍路が徳島城下を通過する場合の処置に対する二軒屋(徳島城下の南端、城下と郷村の境)の町役人の問い合わせに対する藩の回答がそれである。遍路手形をもつ遍路には民家を善根宿として提供すべし、とある。遍路に厳しかった土佐藩とは趣が大きく異なる。
徳島城下の地形
では、標石が残らない因は地形?徳島大学の資料を参考に地形で考えてみる;徳島市は天正15年(1587)、徳島藩初代藩主蜂須賀家政がこの地に城を築いたことに始まる。この地が選ばれたのは、吉野川地域(当時の𠮷野川は徳島市に流れていない。広義の吉野川筋)の、いわゆる「北方(きたがた)」地方と、勝浦川・那賀川流域の「南方(みなみがた)」地方の接点にあたり、 海上交通の便にも優れていたためと考えられている。
城下町は助任川や新町川、寺島川(現在はJR線敷設のため埋め立てられている)などの吉野川の分流をそのまま水濠として利用した「島普請」であり、城は標高約60mの渭ノ山に築かれ、中州であった徳島・福島・寺島・出来島・常三島などに侍屋敷が置かれた。氾濫原に造られた城下町と言えるだろう。
氾濫原であれば洪水被害も多いだろう。築城当時現在の𠮷野川は第十堰(名西郡石井町藍畑)から北に流れており、大きな川は城下に流れてはいなかったようだが、築城に際しお濠の水を求めて開削された人工水路(別宮川)が次第に大きな流れになって変わっていった。始まりは幅11mほどであった水路は、その傾斜もあり元の𠮷野川の水を奪い、明治の頃には河口部では幅1kmほどの別宮川(吉野川と名を変えるのは昭和になってから)として地図に見える。
次第に大きくなる流れになる川筋は藩の政策のより「無堤」であったよう。徳島藩の財政を潤す阿波藍の畑を、洪水による自然客土で肥やすため、といった説もあるようだが、土手がなければ洪水被害も多かったであろう。
地蔵越の遍路道
洪水で標石は流された?何の目安もない野道ではなく、そもそも城下であれば標石が無くても成り行きで進めるのでは?などと、あれこれ妄想だけを膨らませ、そのエビデンスはないものかと、井戸寺から恩山寺への遍路の記事をみていると、多くの方が地蔵越えという遍路道を歩いている。徳島市街に入ることなく、眉山(標高290m)の峠(地蔵越)を越えて恩山寺へ向かっている。
その遍路道をチェックすると、眉山を越え園瀬川筋に出た遍路道は、南に下り「あずり越」を経て地蔵寺駅の西を勝浦川に向かうもの、また、園瀬川筋を県道136号、往昔の土佐街道筋あたりまで下り、県道136号を県道209号分岐点まで南下(この区間は今回歩いた遍路道と重なる)、そこで県道136号・土佐街道を離れそのまま県道209号を南下し地蔵寺駅西から勝浦川へと向かうものなど、いくつかバリエーションがあるようだ。
記事の多さからすれば、この地蔵越えが井戸寺から恩山寺へのメーンルートであったのかもしれない。であれば、徳島市街の標石の無さの一因はこの遍路道にあるのではと、真偽のほどは別にして自分なりに少し納得。
小松島の港からの遍路道
標石の件はそれでよしとして、その遍路道を眺めながら新たな疑問。今回歩いたルートは 遍路道資料でみた、「城下を抜け徳島市の地蔵橋からの江田の渡し(現・小松島市江田町潜水橋付近)で勝浦川を渡り、中田村(現・小松島市中田町)を経由する」遍路道である。
地蔵橋駅近くで県道136号・土佐街道(県道136号が土佐街道の道筋であることはメモの段階でわかったのだが)を直進することなく、何故に東へ大きく廻るのだろう。道筋に特段大師ゆかりのお寺もなかった。普通に考えれば県道136号・土佐街道筋を進むのだろうが、土佐街道から分かれ、勝浦川を江田の渡しから中田駅方面へと東へと大廻りしている。
これもあれこれチェックすると、これはどうも旧小松島港で四国に渡ったお遍路さんが徳島の城下へと向かう遍路道筋であったようだ。因みに、小松島港から恩山寺へ向かう遍路道もあった。
土佐街道
ここでまたまた疑問。地蔵橋駅近くで県道136号・土佐街道筋を東に江田の渡しに向かうことなく何故土佐街道筋を進まないのだろう。勝浦川を渡る渡しがなかった?チェックすると現在の勝浦川橋の少し、県道136号・土佐街道筋には前原の渡しがあった。??
それではと眉山の地蔵越えで歩かれた方のルートを見ると、園瀬川を東に向かった遍路道は県道136号・土佐街道に入り南下、その先で県道136号・土佐街道から離れ県道209号を南に下る。これが遍路道なのか、途中にある日本一低い標高(62m)の弁天山に寄るためのものか不詳であるが、この道筋は「あずり越え」を下った後のルートでもあり遍路道のひとつではあったのだろう。
そして眉山の地蔵越えの方のルートは、県道209号を南下し勝浦川を勝浦橋で渡った後(昔は勝浦橋の少し西、前原の渡で川を越えた)、県道136号・土佐街道に入り国道55号傍、小松川中学の南に立つ標石で、今回私が辿った遍路道に合流。その後県道136号・土佐街道を恩山寺に向かっている。結局、県道136号・土佐街道を下り前原の渡しで勝浦川を越えた遍路道のエビデンスはみつからなかったが、普通に考えればこのルートもあったのでは、と妄想する。
なんだか長々とメモしたが、これは自分の妄想の履歴。が、自分なりに実際歩いたルートと地蔵越のルートなど、井戸寺から恩山寺までの遍路道の全体像が何となく繋がった。
今回のメモは徳島市街地を抜ける遍路道を辿るが、地蔵越えルートも峠越フリークには魅力的である。ルート図だけ掲載しておく。実際自分で歩き、標石を目安とした旧遍路道トレースではないので、あくまで参考ルートではある。



本日のルート;17番札所井戸寺>標石2基>地蔵尊座像>鮎喰川左岸手前にお堂と標石>鮎喰川右岸土手に7丁石>庚申堂と大師堂>田宮川・藪ノ木橋>佐古橋北詰に遍路休憩所>臨江寺東の標石>忌部神社>県道209・136号分岐点傍の標石>県道136号から分岐>地蔵橋東詰めの地蔵と標石>勝浦川(江田の渡し)への分岐点>勝浦川左岸手前に石仏>四国千躰大師標石>県道120号右折直ぐお堂>青石板状標石>藤樹寺参道手前に標石>小松川中学南:県道136号(土佐街道)合流点の標石>お杖の水>茂兵衛道標と石仏群>青石自然石標石>千羽ヶ嶽>義経上陸の碑>寺標石>参道口の茂兵衛道標>18番札所恩山寺


第十七番札所 井戸寺から第十八番札所 恩山寺へ

恩山寺の標石
井戸寺を離れ徳島市街を抜け、小松島市の恩山寺に向かう。距離はおおよそ20キロ弱である。山門前に立つ青石自然石標石「四国十七番井戸寺霊場 これよりおんざんじ」の手印に従い東に向かう。

井戸寺の東に標石2基
ほどなく四つ辻。その北東角に2基の標石。1基は舟形地蔵標石。「右五ひゃくらかん道 廿五丁」、もう1基の標石には大師座像の上に「第百六十四番 右おんざんじ」の文字が読める。
五百羅漢と言えば第5番札所地蔵寺の羅漢堂を思い起すが、そこまでは11キロもあり25丁では距離が合わない。それに指の指す方向も違う。舟形丁石の指す、ここから3キロほどのところにある五百羅漢ゆかりの地はどこだろう。
地蔵越えルート?
と、当日は思ったのだが、メモの段階で17番井戸寺から18番恩山寺に向かう遍路道には徳島市街を抜けるルートと、眉山の地蔵越えを経て恩山寺へ向かうルートがあることを知った。その地蔵越えのルートがこの角を右に曲がるとする記事もある。
実際に辿ったわけではないため確証はないが、眉山地蔵越えルートの目安なのだろうか。とはいえ、五百羅漢にまつわるお寺さまは眉山山裾の地蔵院まで、その距離5キロ弱の区間に特に見当たらなかった。

地蔵尊座像
東に少し進むと道の左手に大きな地蔵尊座像。台座には「宝暦三 念仏講」といった文字が刻まれていた。舟形地蔵や標石らしき石柱もあるが、特にそれらしき文字は刻まれえていなかった。





鮎喰川左岸手前にお堂と標石
ほどなく道は交差する県道30号を横切り、更に東へと向かい鮎喰川左岸に達する。土手手前にお堂があり、常夜灯と4mほどの板状青石供養塔。「奉供養光明真言五億一百万遍」と刻まれる。
お堂の道を隔てた向かい側に石仏や石碑が並ぶ。左橋は照蓮の四国千躰大師標石。大師像と共に、「四国中千* 文化六 真念再建」といった文字が刻まれる。
その横に並ぶ6基の石仏のうち、1基は遍路墓、それ以外の5基は舟形地蔵丁石。「十丁、十*丁、十二丁、十七丁」といった文字が刻まれるようである。
真念再建
四国千躰大師標石に刻まれた「真念再建」とは真念道標や、日本最初の遍路ガイドブック『四国遍路道指南』を著した真念の威徳を継がんとした照蓮の意を示したもの。
四国中千躰とは四国遍路道に千躰の標石なのか、多くのと言う意味での「千」なのか不詳だが、ともあれ真念に心酔した照蓮が真念道標の後を継ぐべく道標建立を発願したわけだ。が、文化六年(1809)からはじめ数年で挫折した、と言う。
なお真念が立てた標石は200基を越えるとされるが、現存するのは20数基。照蓮の立てた標石は70基ほどと言われるが、ほとんどが阿波であり確認されたものとして50基残る。その他は土佐6基、讃岐3基で伊予は未だ発見されていない。
照蓮に先立つ道標建立の先駆者として武田徳右衛門がいるが、その出身は伊予の今治。武田徳右衛門道標は確認された110基ほどの大半が伊予に立つ。照蓮標石が伊予にないのはそれ故か、また照蓮は徳島講中をパートナーとして建立した故か薄学のわが身には不詳である。

鮎喰川右岸土手に7丁石
往昔の遍路道は土手に上り、鮎喰川に架けられた潜水橋を渡り対岸に出たようだ。鮎喰川の中流から下は雨の少ない時期は伏流水になっていたようで、当日も水はなく渡河できそうでもあるが、とりあえず少し上流に架かる中鮎喰橋を渡り、遍路道の対岸辺りに向かう。そその土手には舟形地蔵が立つ。七丁石のようだ。

庚申堂と大師堂
舟形地蔵のある土手を下りると秋葉神社がある。いかにも昔の道筋といった趣の街並み。道を東に進むとお堂がふたつ並ぶ。右には真言が書かれた木札。大師堂だろう。左のお堂には「庚申」の木札。庚申塔を祀るお堂。
庚申堂の左に大きな板状青石碑。「大峰山上四十五度 伊勢六神宮三十 石鎚山剣山四国霊場」といった文字が読めた。周りには石仏なども並ぶ。



田宮川に架かる藪ノ木橋の北詰めに進む
道なりに東に進む。道筋には丁石が残る、といった記事もあったが見ることはなかった。県道1号の交差点を直進、更に東に向かう。道は緩やかに南東に曲がりその先で県道30号を横切る。
県道30号を横切った道の右手に地蔵堂が建つ。この間も古い資料にある丁石を見ることはできなかった。
その先、遍路道は田宮川に架かる藪ノ木橋の北詰めの交差点に出る。
この辺りまでの遍路道は丁石や大師堂などによりほぼ確定しているようだが、この先徳島市街を進む遍路道は、眉山の東北端に建つ臨江寺傍まで標石もなく道筋ははっきりしない。成り行きで臨江寺辺りまで進むことにする。





徳島市街に

臨江寺の東に標石
藪ノ木橋を渡り成り行きで徳島市街を蔵元元町、蔵元を通り佐古八番から南佐古七番、南佐古五番、南佐古三番を抜け、諏訪神社を見遣り運河のごとき佐古川に沿って佐古三番、佐古二番、佐古一番へと眉山北側の山裾を進む。

眉山東北端近くに標石の目安となる臨江寺がある。寺は道筋から少し奥まりちょっと分かり難いが、その直ぐ東、眉山の東側に廻り込む道の左手に標石が立っていた。
正面に「いどじミち」の文字が読める。手印も井戸寺方向を指す。逆打ち遍路さんへの標石だが、往昔のお遍路は特段札巡に拘っていなかったようである。また側面には「おんざんじ道」と刻まれる。文化十三年の銘もある。
田宮川に架かる藪ノ木橋からこの地までは標石もなく旧遍路道は特定できないが、少なくともこの標石の地には続いていたのだろう。
佐古橋北詰に遍路休憩所
標石の北、佐古橋の北詰に「遍路休憩所」があった。そこに石碑があり「笹山とおれば笹ばかり 大谷とおれば石ばかり いのしし豆喰うて ホーイホイホイ 一丁目の橋まで行かんか来いこい」とある。これは何?
「アーラ偉い奴ちゃ エライヤッチャ、ヨイヨイヨイヨイ 踊る阿呆に 見る阿呆 同じ阿呆なら 踊らにゃ 損々」に続く阿波踊りの踊りばやしのようだ。「一丁目の橋」とは佐古橋のこと。
佐古川
運河のような水路に佐古川とある。川というにはちょっと不自然。チェックする;Wikipediaには「徳島県徳島市の市街地西部に水源があり、東へ流れ、徳島市中心街を流れる新町川中流部に合流する。
佐古と南佐古の境を流れており、水源は佐古と南佐古の西端にある。ただしさらに西の南蔵本町や蔵本町にはかつての佐古川上流部である水路が散見され、地下で佐古川とつながっている。
下流部は大谷(諏訪神社付近の眉山山麓)で切り出された青石の石垣で護岸が整備されているが、諏訪神社付近より上流ではコンクリートの護岸が増える。
新町川合流点近くでは、佐古と西新町・西船場町の境を流れる。合流点には水門があり新町川と区切られている。
元は鮎喰川の最も南寄りの流路であり、中世まではしばしば鮎喰川が流れ込んでいた。しかし蜂須賀家政が徳島城下町を建設するとき、徳島城築城時に鮎喰川右岸(南東岸)に築堤され、鮎喰川が流れてくることはなくなった。
江戸時代の佐古は布屋や染色業者など新興商人が軒を並べており、その中心は佐古川の堤防沿いの道である通称「往環」と呼ばれる伊予街道だった。商人たちは佐古川に物資を運ぶための船が通る川にするべく徳島藩に河川の整備をするように要請した。
明治時代から大正時代にかけて佐古が繁栄した頃に造られた青石の石積み護岸が現在でも所々に残っている」とあった。
築堤云々は前述徳島藩の無堤政策と矛盾するが、この地の商人の「力」故だろうか。それはともあれ、運河といった人工的な造作の所以がわかった。またこの地に阿波踊りの碑が立つのは、かつて栄えた佐古の町で阿波踊りも盛んに行われたといことだろう。
踊りばやし
石碑にあった、大谷はWikipediaにあるように諏訪神社山麓であることはわかった。では笹山って?どうもこれは南佐古三番町にあった佐古山のようだ。佐古山には笹が茂っていた、と。
ではでは「いのしし豆喰うて」って何?どうも豊作を祈る農耕儀礼である「猪追い」の囃子ことばのよう。つまりは、この踊りばやしは南佐古の農耕儀礼の囃ことばが由来のようである。藩政時代、この佐古が阿波踊りの盛んな地であったとのエビデンスと言えるだろう。
臨江寺のお松大明神
標石を探して臨江寺辺りを彷徨っていると、「お松大明神」の小社があった。由来に「狸合戦で有名なお松さんは、南佐古一番町臨江寺境内に祀ってある。椿さんの長女で庚申新八の女房であるお竹さんの姉に当たり、津田の六右衛門の娘小芝姫の乳母であったが、狸合戦では金長方に味方して義弟の新八と力を合わせて奮闘した。
明治の始め頃、佐古の大安寺に住んでいた幸兵衛と言ふ人か、夜中に富田の方から帰るとき、丁度お松さんの祠の前を通りかかると、橋下で狸が頭から藻をかぶって美人に化けているので、幸兵衛さんはお松の奴今時分美人に化けて何をするのかと暫く見ていると、美人に化けたお松ほトボトボと近所の家へ入ったので、その跡をつけて行って、戸の隙間から家の中を覗いていると、背後から「モシモシあなたは妙な格好をして一体何をしているのですか」と背中を叩かれて、気がつくと化かされていたので、戸の隙間と思って、一生懸命に石垣の穴をのぞいていたという」とある。
狸合戦って何?Wikipediaにある説明をもとにまとめる;
阿波狸合戦(あわたぬきがっせん)は、江戸時代末期に阿波国(後の徳島県)で起きたというタヌキたちの大戦争の伝説。
物語の成立時期は江戸末期と見られており、文献としての記録は1910年(明治43年)に刊行された『四国奇談実説古狸合戦』が初出とされる。明治時代から戦中にかけては講談で、昭和初期には映画化されて人気を博す。
そのお話は;天保年間(1830年から1844年まで)、小松島の日開野(後の小松島市日開野町)で大和屋(やまとや)という染物屋を営む茂右衛門(もえもん)が助けた狸から物語がはじまる。
狸を助けた善行故か、大和屋の商売が繁盛。やがて、その狸は店の万吉に憑き、「自分は金長という狸。この付近の頭株で歳は206歳」と素性を語る。その後も万吉に憑いた金長は、店を訪れる人々の病気を治したり易を見たりと大活躍し、大評判となった。
しばらく後、まだタヌキとしての位を持たない金長は、津田(後の名東郡斎津村津田浦、現・徳島市津田町)にいるタヌキの総大将「六右衛門(ろくえもん)」のもとに修行に出た。金長は修行で抜群の成績を収め、念願の正一位を得る寸前まで至った。
六右衛門は金長を手放すことを惜しみ、娘の婿養子として手元に留めようとした。しかし金長は茂右衛門への義理に加え、残虐な性格の六右衛門を嫌い、これを拒んだ。
これにより六右衛門は、金長がいずれ自分の敵になると考え、金長に夜襲を加えた。金長は一旦日開野へ逃れるも、その後反撃に転じ六右衛門たちとの戦いが繰り広げられた。この戦いは金長軍が勝り、六右衛門は金長に食い殺された。しかし金長も戦いで傷を負い、まもなく命を落とした。
茂右衛門は正一位を得る前に命を落とした金長を憐み、自ら京都の吉田神祇管領所へ出向き、正一位を授かって来たという。

これがおおまかなお話。とはいうものの、何を言いたいの?よくわからない。Wikipediaをもとに、もう少し深堀り;「天保年間には、大和屋に助けられたタヌキが恩返しをしたという動物報恩譚があり、これを由来とする説がある」、と。だがこれだけでは狸合戦という物語全体からみて説得力に欠ける。
続いて、「この合戦における争い、悲恋、葛藤などは人間社会でも珍しくなかったため、阿波狸合戦の実態は、人間社会での出来事をタヌキに置き換えたものとも考えられている」とする。物語としてはこの説は説得力があるが、何か足りない。
更に続けて「徳島の修験道の霊山では別派同士の争いがあったこと、伝説を綴った古書『古狸金長義勇珍説席』で投石の場面があり、投石は中世以来の戦闘手段であったことから、太竜寺山と剣山との間で生じた修験道の争いがタヌキの伝説に仕立て上げられたのではないか、という説もある。この説においては、太龍寺の修験者が金長、剣山の修験者が六右衛門のモデルになったと考えられ、太竜寺山から北上しようとする勢力と剣山から南下しようとする勢力が衝突し、流派や拠点の異なる者同士の紛争に繋がった可能性が示唆されている」とする。
また、「徳島県では藍染めが盛んであり、その工程で砂を用いる。そして津田浦で採れる砂は藍染めに最適であった。よって、勝浦川の両岸地域で砂を巡る争いが起き、これが狸合戦の題材になったという説」がある。
さらに、「津田地区と小松島の間の漁業権の争いがモデルになったとの説もある。これらのように人間をモデルとする説が事実なら、どこか憎めないタヌキたちの姿は、実は愚かな人間たちの振る舞いの投影ということになる」とする。
そして最後に「なおタヌキの話の真偽はともかく、茂右衛門は実在の人物であり、映画『阿波狸合戦』も、講談本とともに茂右衛門の直系の子孫の家の口承をもとに制作されている。また万吉にタヌキが憑いた事件は、狸合戦とは別に実際に起きた事実であり、後の講談師がこの万吉の事件と狸合戦を結び付け、「阿波狸合戦」を創作したとする説もある」とWikipediaは締める。何となく由来の背景がわかった。

臨江寺東の標石で、遍路道トレースの本筋から離れたトピックで結構メモが多くなった。先に進む

寺町を進む
眉山東麓に廻ると寺が並ぶ寺町。Wikipediaには「蜂須賀家政は徳島城の建設に際し、寺院を勝瑞(現板野郡藍住町勝瑞)や旧地の尾張から移し、最初は寺島に集め、後に眉山山麓の当地に移転させた。その移転年代は不詳」とある。寺島は現在の徳島駅前辺り。徳島城は徳島駅の裏にある。
標高62mの徳島城の前面にあたる寺島から現在地寺町に移したのは、眉山が敵の手に落ちた場合に備えたもの、と言う。標高280mの眉山の山裾の寺に集結し防衛拠点とするとともに、攻撃の拠点ともしたのだろう。
このあたりも遍路道の目安となる標石は残らない。

大道
山裾を成り行きで南に進む。眉山ロープウエイ乗り場前を過ぎ、大道を進む。徳島市つくった遍路道の記事に、佐古から大道を進むとあるので、この辺りを遍路は抜けて行ったのだろう。
大道の地名は昭和15年(1940)になって出来たもの。戦前は徳島市内と神山方面を結ぶ大きな街道があったのが地名の由来だろうが、大道の地名は江戸の頃にも既にあったようだ。 現在も徳島市内から大道を抜け神山町に至る国道438号が走る。
大道の眉山寄りに伊賀町。伊賀者ゆかりの地であろうと推測。徳島市の資料には、出雲の堀尾家に仕えるもお家断絶、更に頼った讃岐の生駒家も改易、ために徳島藩に仕官を求めた伊賀者に由来すると。徒歩侍からはじめ、士分取り立てられ藩主のSPとしての御役目にもついた伊賀士の屋敷が置かれた地であった。元は伊賀士丁と呼ばれたが、昭和15年(1940)伊賀町となった。

忌部神社
大道・伊賀町を南に進むと眉山最東端、標高109mの勢見山に当たる。そこに忌部神社が建つ。
阿波の遍路歩きの道すがら忌部神社や忌部族にまつわる話に幾度か出合った。阿波の国が開かれるはるか昔にその歴史を遡る忌部神社。とは言うものの、この徳島市内にある忌部神社は明治の頃に建てられたもの。
何時だったか阿波の忌部市ゆかりの社を辿ったのだが、この徳島市内の忌部神社はパスした。その理由は、江戸から明治にかけて阿波の忌部神社の本家争いがあり、その妥協の産物として明治の頃、この地に忌部神社を建てたとの経緯故。
明治の頃に建てたものであれば往昔お遍路さんが訪ねたとも思えないが、とりあえず立ち寄ることに。長い石段を上り社殿にお参り。
忌部氏と忌部神社
遍路道を歩くと阿波の忌部氏ゆかりの地に出合う。頭の整理も兼ね、以下阿波忌部ゆかりの社を巡ったときのメモを再掲;忌部氏は天太玉命(あめのふとだまのみこと)が天孫降臨の際に従えた五柱の随神のひとりである「天日鷲命(あめのひわしのみこと)」をその祖とする。
天日鷲命は、穀木(かじ)麻を植え製紙・製麻・紡織の諸業を創始したと伝わる。で、何故に、穀木(かじ)麻を植えることが製紙・製麻・紡織の諸業を創始であるのか?チェックすると、麻や穀(楮)は、木綿(もめん)が日本に伝わる以前の糸・布・紙の原料。そこからつくられた原料のことを「木綿(ゆう)」と呼ばれ、布を織り、神事の幣帛や紙垂などに使われたようである。
この「天日鷲命」、天照大御神が天の岩戸に隠れた際、天の岩戸開きに大きな功績を挙げた、と伝わる。天日鷲命の神名も天照大御神が岩戸から出てきて世に光が戻ったとき、寿ぐ琴に鷲が止まったことに由来する、とも。
斯くの如き、当時の民の世界においてもその生活基盤技術の創始者であり、また神々の世界にあっても赫々たる実績を挙げた神故か、阿波の忌部氏の祖神である天日鷲命は、上述の如く天太玉命の率いる五柱のうちの第一の随神に挙げられる。そしてまた、その「第一に挙げられる神」の子孫故のことであろうか、阿波の麻殖(植)郡(おえ)郡に拠点を置く忌部氏については、単に地方の有力氏族というだけでなく、古代世界におけるその位置づけについて、諸説あるようだ。
通説では、忌部氏の本宮は奈良県樫原町忌部町にある天太玉神社(あめのふとたま)とされ、そこから各地方へ忌部氏が下って行ったとされる。それに対し、中央・地方の忌部は阿波忌部がその母体となっており、阿波忌部の全国進出とあわせて技術と文化の伝播をもたらした。つまりはヤマト王権も阿波忌部がその成立を支えた。こうした阿波忌部の起点となるのは麻植郡であるとするから、いうなれば麻植郡は日本そのものの発祥の地である、といったものである。
『古語拾遺』には、下総の地の名前の由来について「天富命、さらに沃壌を求め、阿波の斎部(いつきべ)を分かち。東国に率い行き、麻穀を播殖す。好麻の生ずるところ、故にこれを総国という。穀木(かじき;ゆうのき)の生ずるところ、故にこれを結城郡という。故語に麻を総というなり、今の上総下総の二国これなり」と言う。これをもって忌部氏の全国進出の一例とする。
阿波忌部氏が大和から下った一派なのか、阿波忌部氏がヤマトを支え日本をつくりあげた氏族なのか私のような門外漢にはわからない
斯くの如き論争はさておき、古代日本で重要な役割を果たした阿波忌部氏が祀る社が如何なるものかと社をチェック。と、徳島市内と吉野川市、そして美馬郡つるぎ町にそれらしき社が見つかった。
名称は忌部神社であったり、種穂神社であったり、御所(五所)神社であったりと、さまざまだがこれらの社の内、徳島市内の社は除外することにした。その理由は、明治になり、忌部神社の本家本元(延喜式内社)を巡る争いが激しく、その妥協の産物として造られた社が徳島市内の社である、ということから。ということで、阿波の忌部神社は吉野川市にある忌部神社(山川町忌部山)と種穂神社山川町川田忌部山)の2社と美馬郡つるぎ町の忌部(御所)神社の合計3社を辿ることにした。
これら3社、明治に本家本元(延喜式内社)を争った社と言うだけでなく、江戸の頃にも結構激しい本家本元争いを展開している。その主因は由緒正しきと言った正当性だけでなく、その正当性故に明治は国家から「補助金」を、江戸は藩から「社地」を得られるといった経済的メリットもあった、と言う。

意図したわけではないのだけれど、行かず仕舞いであった忌部神社にも偶々出合い、かつての城下町を後にして二軒屋を南に下る。

二軒屋の国道438・県道136号重複区間を南に下る
忌部神社から先は国道438・県道136号重複区間となっている二軒屋を進む。ほどなく国道438号は眉山の南側にと分かれ、園瀬川に沿って神山町へと向かう。
遍路道はそのまま県道136号を南下する。この県道136号は往昔の土佐街道筋であることを、メモの段階で知った。
二軒屋
本メモのイントロのところで、二軒屋を徳島城下の南端、城下と郷村の境とメモした。徳島市の資料に拠れば、「城下町徳島の南の玄関口にあったのが二軒屋町。阿波五街道と呼ばれた官道の一つ、土佐街道沿いに、江戸時代中期に成立した新興の町人地だ。
江戸時代中期以降、城下町は拡大の一途を辿り、そこで生まれたのが、「郷町」と呼ばれた新興の町人地。郷町(ごうまち)とは、郡(こおり)町とも呼ばれ、城下の本町(ほんまち)に対して郡奉行(のち郡代)管轄下で店舗を構え商業を許され町を形成した場所だった。
二軒屋町の町名は、その名のとおり、古くは人家が2軒しかなかったからという。しかし、江戸時代前期こそ人家が少なかったが、時代が下るにつれて家数が飛躍的に増え、江戸時代後期には230軒ほどになった。
町場化の進展に伴い、元禄6年(1693)には町方に編入され町奉行支配となっている。堂々たる町になっていた二軒屋は、元禄10年には再び村方に戻されるも、その後も順調に発展を遂げ、内町や新町、福島町、助任町、佐古町といった本町を衰微させるほどであったという。そして寛政元年(1789)以降は町奉行支配下に置かれることになる。
とはいえ、郷町は本町とは異なり、もとは村であったので、土地は郡代支配で依然として「村」、家屋と住民は町奉行支配の「町」となっている。如何にも城下町と郷村の境、その名も両者を足して二で割った「郷町」という二軒屋の歴史が面白く、遍路トレースの本筋からは離れるがメモを残した。
因みに「郷町」は城下町徳島近辺では、二軒屋の他、淡路街道沿いの助任郷町、伊予街道沿いの佐古郷町、福島築地(徳島城の東に福島の名がある)にできた福島郷町があったとのことである。

県道136・209号分岐点に標石
忌部神社から先は県道136号を進む。冷田(つめた)川に架かる冷田橋、園瀬川に架かる法花大橋を渡るとその先で県道136号・土佐街道はふたつに分かれ、直進は県道206号となるが遍路道は県道136号に沿って南東に方向を変える。
この県道の分岐点の直ぐ南、県道209号から県道136号に抜ける道角に標石が立つ。手印と共に「扁ん路道 森神社」と刻まれる。扁ん路道は県道136号・土佐街道方向を指す。

森神社
この分岐点から南西、徳島市方上町森谷にある。Wikipediaには「平安時代、覚鑁が創建したものと思われる。江戸時代に勧進され、明治年間に太発行して「方上の権現さん」と親しまれ、その名は県内はもちろん紀州にまで轟いたという。
境内には名水と評価される湧水があり、とくしま市民遺産に選定されている」とあった。

県道136号からの分岐点にお堂と標石
南東に向かう県道136号・土佐街道筋は犬山踏切で牟岐線を越え、西須賀で南に向きを変える。その先、牟岐線地蔵橋駅の東で遍路道は県道136号・土佐街道を離れ勝浦川方向へ向かう。
その分岐点角に小さなお堂と標石。標石は照蓮の四国千躰大師標石だ。大師坐像と「四国中千躰大師」の文字が読める。
土佐街道から離れる
今回歩いた遍路道は、ここで県道136号・土佐街道筋を離れ、徳島市の遍路資料にある「蔵橋からの江田の渡し(現・小松島市江田町潜水橋付近)で勝浦川を渡り、中田村(現・小松島市中田町)を経由する」ルートに入る。
散歩当日は県道136号が往昔の土佐街道であったことも知らなかったため、何も考えず土佐街道からわかれたのだが、土佐街道を進み、勝浦川を前原の渡し(これもメモの段階でわかったこと)で越え、その先も県道136号・土佐街道を恩山寺に進む遍路道もあったのだろうか。
分岐点の標石が照蓮の四国千躰大師標石であり、遍路道の方向を示すことがないため、ちょっとモヤモヤが残る。

地蔵橋東詰めにお堂と標石
その先、多々羅川(大松川?)に架かる地蔵橋の東詰めにふたつの祠。お堂傍に「三圀伝来阿弥陀」と刻まれる石碑。右の石造りの祠には坐像仏。左手、橋側のセメント造りの祠には「右 遍路道」と刻まれた舟形地蔵丁石が祀られる。
またその道の反対側にも3基の標石。下半分が埋まった照蓮の四国千躰大師標石、青石の自然石の標石、上部が破損した比較的大きな標石がある。崩し文字は読めない。 分岐点の土佐街道分岐点の遍路道云々は別にして、このルートが往昔の遍路道であったことはこれら標石をそのエビデンスとする。

勝浦川左岸手前に石仏
道なりに進み国道55号を交差し、更に南東に歩くと比較的大きな車道に合流。右折し車道を少し南に進むと左に分岐する道があり、その分岐点に小さなお堂が建つ。遍路道は左に分岐する道であろうと、南東へと進むと勝浦川の土手にあたる。
勝浦川土手の手前、道の右手にコンクリートブロック造りの祠があり、そこに2基の石仏と舟形地蔵が並ぶ。
小松島市江田町
この土手手前の左岸一帯は徳島市を離れ小松島市江田町になっている。基本小松島市は勝浦川右岸であり、その右岸にも江田町がある。町域が勝浦川によって分断されている。
なんとなく不自然。通常行政域は川など自然の地形で区切られる。チェックする;勝浦川の西を流れる大松川、多々羅川はかつての勝浦川の流路とも言う。自由蛇行した勝浦川はこの辺り一帯に大きな三角州を形成し湿地帯となっていたようだ。であるとすれば、護岸整備が実施される以前の勝浦川旧流路による行政区分の名残だろうか。単なる妄想。根拠なし。 因みに前述地蔵橋が架かる川が大松川か多々羅川か流路だけでははっきりしなかった。実際多々羅川と大松川は合流、分流を重ねているようだ。

潜水橋で勝浦川を渡る
土手に上り勝浦川を見る。と、土手下から対岸に潜水橋(江田橋)がある。かつて「江田の渡し」を遍路が渡ったとするが、お遍路さんはこの辺りで勝浦川を渡ったのだろう。






四国千躰大師標石
勝浦川右岸の江田町を進む。道の右手、民家前に標石。大師坐像と「四国中千躰大師」の文字が読める。照蓮の四国千躰大師標石。この道筋が遍路道であったことを確認。 道なりに進み県道120号に出る。合流点は道路整備のためか五差路となり少々ややこしいが、遍路道は県道120号を進む。



県道120号を右折し南下
県道120号を進み、道が東へと向かって程なく、牟岐線中田駅の一筋東の道を右折し南に下る。遍路道との確証はないのだが、「江田の渡し(現・小松島市江田町潜水橋付近)で勝浦川を渡り、中田村(現・小松島市中田町)を経由する」とあるため、成り行きで右折した。 直ぐ水路があり、左手に小さなお堂。その先道の左手に自然石の青石板状標石。手印と共に「十八番是ヨリ三十丁」と刻まれる。このルートが遍路道のオンコースであった。

「江田の渡し(現・小松島市江田町潜水橋付近)で勝浦川を渡り、中田村(現・小松島市中田町)を経由する」遍路道
これもメモの段階で気づいたことだが、何故に地蔵橋の傍で県道136号・土佐街道筋を離れ、東へと大きく廻り込むのだろう。チェックすると、この中田から江田の渡しへと続く遍路道は、小松島の湊で四国に上陸したお遍路さんが徳島城下へと辿る遍路道であったよう。何故土佐街道を南下しなかったのか依然不明だが、遍路道を歩いたことは間違いなかった。

藤樹寺参道口に標石
南に進み長手踏切で牟岐線を渡る。その先に神田瀬川。この小さな流れも往昔の勝浦川の流路跡とのこと。勝浦川の形成する三角州の低地に水路が見え、源流点は芝生川(後述)と同じく田浦の清浄ヶ淵とあるが、なんとなく勝浦川伏流水の湧水地といったところにある。如何にも乱流した川の流路跡といった趣の川である。
この乱流の川筋を見るにつけ、県道136号・土佐街道筋のほうが地形としては安定しているように思えるのだが、土佐街道の西にはかつての勝浦川の流路であった多々羅川、大松川が流れているわけで、どうしたところでこの辺りは勝浦川水系のデルタ、低湿地ではあったのだろうから、その時その時の状況に応じ、お遍路さんもルートを変えて歩いたということかもしれない。

神田瀬川を越え先に進むと、道の左手に倒れた標石。「左*」といった文字が読める。 遍路道は先に進むが、ここを右折すると藤樹寺参道。参道といっても普通の野道だが、何気なく右に折れちょっと立ち寄り。
藤樹寺
古き趣のある山門を潜り境内に。本堂にお参り。本堂横に「大鷹、小鷹、熊鷹大明神」と書かれたお堂。案内には「藤樹寺境内にいづれも鎮座している。大鷹狸は金長狸の身代わりとなって戦死し、小鷹狸は阿波の狸合戦で晴れて父の仇を討ち二代目金長狸となり小松島浦に善政を施したという。
農家魚家を守護し、交通安全厄除に霊験あらたかといわれている 阿波狸奉賛会」とあった。 当日は何のことやらと思いながら呼んだのだが、メモに段階で上述臨江寺のお松大明神で阿波狸合戦のことを整理したので、理解できた。
説明にはない「熊鷹」は大鷹の子、といった記事もあるが、既に訪れた井戸寺にも「熊鷹大明神」が祀られていた。そのメモには、熊鷹大明神は伏見稲荷などにも祀られ、稲荷信仰のコンテキストの中に見られる。この熊鷹が狸の子か、狐を眷属とする稲荷社との関連なのか不詳である、とメモしたが、それ以上の深堀は未だできない。
この辺り小松島市日開野。上述阿波狸合戦の舞台であった。




小松川中学南・県道136号合流点の標石
左手に小松島中学校を見て先に進むと、右手から県道136号・土佐街道が合わさる。その角に少し横広の標石。「四国第十八番 是ヨリ十三丁 大正十三年」といった文字が刻まれる。
土佐街道との合流点
ここが土佐街道との合流点であることはメモの段階で分かったこと。県道136号が往昔の意土佐街道であることがわかったため、上述イントロ部でのあれこれの疑問が起きた地でもある。

茂兵衛道標(215度目)と石造物群
県道136号が国道55号と交差する少し手前に大きな石造物。「大乗妙典」と刻まれる。その前に茂兵衛道標。「井戸寺 恩山寺 小松島 明治四十年」などの文字が刻まれた茂兵衛215度目の巡礼時のものである。
その茂兵衛道標脇に案内があり、「宝剣塔 ここは昔の接待場 藤のお薬師」の「文字と矢印で弘法大師お杖の水」とあった。
「宝剣塔 ここは昔の接待場 藤のお薬師」とはこの場のことだろう。小松島市の遍路資料にある「加々ませの接待所」ではないだろうか。「加々ませ」はこの辺りの地名。由来は不詳。
弘法大師お杖の水は北を指す。ちょっと立ち寄る。
弘法大師お杖の水
少し道を少し引き返し、東への道に折れるとほどなくお杖の水。弘法大師御杖の水と刻まれた大師像が祀られる。横にあった案内には、お大師さんが塩気の多い水に地元人の難渋を想い御杖をもって真水の湧き出る泉源を開かれた、と。続けて、この地を「接待場」と呼びお遍路さんの乾きを潤した、といったことが刻まれていた。
大師像の裏手には如何にもポンプ施設といったものがある。現在はポップアップしているのだろうか。
小松島の湊から恩山寺への遍路道
これもメモの段階でわかったことだが、四国遍路へと小松島の湊に上陸し恩山寺に向かう遍路道はこの地で県道136号・土佐街道筋に合流したようである。
地蔵越の遍路道
眉山の地蔵越からの遍路道は、あずり越・県道209号ルートや園瀬川・県道136・県道209号経由ルートなどバリエーションはあるものの、勝浦川を前原の渡し(現在は勝浦川橋)越えた後は県道136号・土佐街道を下り、この地で今回私が辿った江田・中田経由の遍路道に合流し県道136号・土佐街道を進むことになる。これもメモの段階でわかったこと。

県道136号・土佐街道に青石自然石標石
国道55号を斜めに横切った県道136号・土佐街道は直ぐ芝生川(しぼうかわ)を渡る。県道をしばらく進むと道の右手に青石の自然石標石。
手印と共に、「四国第十八番恩山寺江八丁 明治十」といった文字が読める。
芝生川
芝生川も上述神田瀬川と同じく勝浦川の旧流路。源流も神田瀬川と同じく田浦の清浄ヶ淵と言う。

千羽ヶ嶽
県道135号・土佐街道は山裾に向かう。バス道ではあるが結構狭い。山裾に沿って進むと道の右手の岩壁に「千羽ヶ嶽のお豊とお君の墓」とある。崖の下部の窪みにお供えの花の番台、その傍に石仏が並ぶ。お豊とお君を供養するものだろうか。

お豊とお君
お豊とお君って?チェックする;お豊六歳、お君三歳。貧しい家の母はお豊の継母。生活苦のため母親はお豊をこの岩壁から落とし亡きなきものとせんと図る。が、ひとりだけでは不自然と、実子のお君は布団にくるんで助かるようにして落とすことに。
お豊を突き落とすが崖の途中に引っかかり一命をとりとめる。一方、お君を落とすことを躊躇する。と、鬼のようなものが現れ、母親からお君を奪い取り崖から落とす。打ちどころが悪くお君は亡くなる。
非を悔いた母はその後お豊かを大切に育てたが、そのお豊も他界。ふたりをあわれんだ村人が、お豊が引っ掛かった崖の途中に地蔵を祀り、ふたりを供養した。
いつものことだが言い伝えは、考えれば考えるほど、何を言いたいことは分かり難い。それとも肝心なところが抜けているのだろうか。

「義経上陸の地」碑
千羽ヶ嶽と呼ばれる岸壁の直ぐ先、崖面前に「義経上陸の地」の碑。碑文には「源平合戦の元暦二年(1185)二月十八日、義経の軍勢は讃岐(香川)の屋島に逃れた平家を討つため、折からの暴風雨に乗じて摂津(大阪)の渡辺の浦より船を進めこの地に上陸した」とある。 『平家物語』には、「十六日、渡辺、福島を出でて、十七日に阿波の勝浦に着きにけり」とある。上陸地や進軍路にはあれこれあるようだ。



恩山寺標石と参道口の茂兵衛道標(181度目)
義経上陸の地の碑の直ぐ先に古い「恩山寺」の寺標石が立つ。その直ぐ先が恩山寺の車道参道。参道口に茂兵衛道標。「井戸寺 恩山寺 徳島 すぐ立江 明治三十年」といった文字が刻まれる。茂兵衛181度目巡礼時のもの。





第十八番札所恩山寺

旧参道を山門へ
舗装された参道を進むと右に逸れる道がある。旧参道はこちら。土径の道を進み第十八番札所恩山寺の山門に至る。古い趣の山門。結構、いい。




恩山寺山門
山門左手には車道参道が走る。山門を潜ると車道参道の右手に法面上を進む土径がある。石仏も見える。そこが元の参道であろうと土径に入る。




寺標石
不動明王像や舟形石仏を見遣りながら歩く。舟形石仏に刻まれる像も不動明王のように思える。ほどなく石段。その前に「本堂江二丁 嘉永」の文字が刻まれる標石。



お堂と標石
石段を上ると右手にお堂と標石。お堂右手に立つ標石には「二丁 文政」といった文字が刻まれる。道の右手に標石。円形の窪みに大師坐像。「四国十八番恩山寺 向江立江寺道 従是三十一丁 左井戸寺道 是ヨリ五里 寛政十二」といった文字が読める。

石仏群の中に丁石・四国千躰大師標石
その先、右手に石造仏群。中に「一丁」と刻まれる丁石も立つ。
更に照蓮の四国千躰大師標石。手印は左を指す。立江寺道方向を指すのかと思うが、左手は高い法面。左に進む道はない。場所が移された?標石の直ぐ先で堂宇前の広いスペースに出る。そこに「弘法大師御母公 玉依御前ゆかりの寺」の石碑が立っていた。


石段を上ると正面に本堂。本堂前には伊藤萬蔵寄進の香台があった。左手に大師堂。大師堂横に御母公堂。「大師御母公剃髪所」の石碑が立つ。境内には釈迦の十大弟子像、地蔵菩薩坐像と千体地蔵立像が祀られる地蔵堂も建っていた。
Wikipediaには「徳島県小松島市田野町にある高野山真言宗の寺院。母養山(ぼようざん)宝樹院(ほうじゅいん)と号する。本尊は薬師如来。
寺伝によれば聖武天皇の勅願により行基が開基し、当初は「大日山福生院密厳寺」と号する女人禁制の道場で、「花折り坂」より上は女性の立ち入りが許されなかった。
弘仁5年(814年)、空海(弘法大師)が本寺で修行していた際、訪問してきた母(玉依御前)のために、仁王門の辺りに護摩壇を築き17日間の修法を行い女人解禁を成就し、母を迎え入れた。玉依御前は本寺で出家・剃髪しその髪を奉納したことから、「玉依御前の剃髪所」と云われていて空海が自身の像を刻み現在の寺名に改めたとされる(母養山 恩山寺)」。 「弘法大師御母公 玉依御前ゆかりの寺」の石碑、御母公堂の建つ所以はこういうことであった。
「天正年間(1573年‐1592年)に長宗我部元親の兵火によって焼失したが、江戸時代に入って徳島藩主蜂須賀氏の支援を受けて復興、文政年間(1804年‐1830年)に現在の諸堂が建立された」とある。

これで今回の遍路道のメモを終える。




小松島市の遍路道ページに「恩山寺道は、17番井戸寺(徳島県国府町)から18番恩山寺(小松島市田野町)を結ぶ遍路道です。総距離は18km。井戸寺から八幡街道、伊予街道を通り、徳島城下町経由で土佐街道に入るルートと眉山を左手に見ながら地蔵越えやあずり越えなどの峠を経由するルートに分かれていました。徳島市の地蔵橋からの江田の渡し(現・小松島市江田町潜水橋付近)で勝浦川を渡り、中田村(現・小松島市中田町)を経由するルートも存在するなど、その時代や条件に応じて遍路道として利用されていたようです」とある。
今回のルートは「井戸寺から八幡街道、伊予街道を通り、徳島城下町経由で土佐街道に入り」、「徳島市の地蔵橋からの江田の渡し(現・小松島市江田町潜水橋付近)で勝浦川を渡り、中田村(現・小松島市中田町)を経由するルートを辿ったようだ。 イントロの如く「眉山を左手に見ながら地蔵越えやあずり越えなどの峠を経由する」ルート はメモの段階ではじめてわかった。歩く前にわかっておれば峠道大好きな我が身は迷うことなく地蔵越・あずり越を辿ったであろうが、今となっては後の祭り。いつかこのルートを居歩いてみたいとの思いもあり地蔵越・あずり越のルートも掲載する。実際に辿ったわけではないので確証はないが、参考にして頂ければと思う。




13番大日寺から17番井戸寺までの遍路道を、標石を目安にトレースする。地図を見ると山間部を流れてきた鮎喰川が平地に流れ出る辺りに建つ大日寺から、鮎喰川によって形成された扇状地に建つ四つの寺を辿って行くようにも見える。
この辺り、15番札所国分寺があることからもわかるように古くから開けた地。それもあってか、13番札所から17番札所までおおよそ8キロ弱の距離に5つの札所が並ぶ。「歩く五ヶ寺詣り」といった言葉もあるようだ。
鳴門市にある第一番札所霊山寺からはじめ第十番切幡寺まで、??野川北岸を進んだ遍路道は十一番札所藤井寺へと??野川南岸に渡り、そこから山深い第十二番焼山寺へと進み、焼山寺を打ち終えた後、鮎喰川の谷筋を戻り鮎喰川の扇状地に建つ徳島の札所に入って来たわけだ。
遍路歩きとしては17番井戸寺を打ち終えた後、次の札所18番恩山寺までをカバーするかと思うが、今回のメモは「歩く五ヶ寺詣り」までとする。


本日のルート;
13番札所大日寺から14番札所常楽寺
大日寺>石仏群>青石板碑と地蔵>分岐点に石仏と標石>茂兵衛道標(127度目)>一宮橋>百万遍供養塔>供養塔>常楽園分岐点の>第十四番札所常楽寺 常楽寺>四国千躰大師像標石>常楽寺奥の院>常楽寺奥の院>奥の院参道口の>道脇の自然石標石
14番札所常楽寺から15番札所国分寺
岩船地蔵>民家庭に茂兵衛道標>興禅寺>国分寺
15番札所国分寺から16番札所観音寺■
国分寺>国分寺北の四国千躰大師標石>石造物と標石4基>道の左右に標石>地蔵と茂兵衛道標>16番札所観音寺
16番札所観音寺から17番札所井戸寺■
観音寺>大御和神社角の標石>石仏と四国千躰大師標石>標石2基と石仏>四国千躰大師標石>石造物群>井戸寺標石>地蔵尊と標石>庚申塔と石造物>17番札所井戸寺



13番札所大日寺から14番札所常楽寺

13番札所大日寺を離れ次の札所常楽寺へ向かう。距離はおおよそ3キロ弱。遍路道は大日寺境内東端、県道21号から逸れて鮎喰川の土手へと向かう。
古い資料には県道21号から逸れる角に茂兵衛道標があったようだが、現在は見当たらなかった。

石仏群・青石板碑
鮎喰川の土手に向かって遍路道を進む。道の左手に石仏群。「南阿弥陀仏」碑、台座に「回国供養」と刻まれた地蔵座像、宝篋印塔らしき石造物、遍路墓などが集められている。かつての河川敷といったところを通るこの舗装道を整備するときにでもまとめられたのだろうか。
直ぐ先、道の左に2基の石造物。1基は青石板碑のようだ。横の石造物は摩耗が激しくよくわからない。

分岐点に石仏と標石
直ぐ先で道は二つに分かれる。その分岐点に石造物群。台座に座る地蔵は弘化四年の銘。地蔵座像の前にある2基の石像物は標石。右のものにはうっすら手印が見える。左を差す。半分埋まったものは手印と共に大師座像、そして「百」の文字が読める。照蓮が立てた四国千躰大師標石だろう。四国千躰大師標石にはよく見る「四国中千躰大師」と刻まれたものと、「百**番」といった番号を刻むものがあると言う。



茂兵衛道標(127度目)
標石の指示に従い道を左にとり、土手へと向かう。土手少し手前、倉庫の角に茂兵衛道標。正面に「丹波国多紀郡」「阿波国麻植郡」の文字とその下に村名や人名が刻まれる。寄進者なのだろう。
右面には「周防国」の茂兵衛の在所が刻まれる。左面には「明治二十七年」。茂兵衛127度目巡礼時のもの。かつてはこの辺りから渡しがあったようだが、現在は県道207号・一宮橋を渡る。



一宮橋を渡り「常楽寺」案内箇所に
鮎喰川に架かる一宮橋をわたると、現在の遍路道は橋を渡ると右に折れ、最初のT字路を左に折れて坂を上り「常楽寺」案内標識で右に折れて進む。が、かつての遍路道は渡しで鮎喰川を渡り、現在の一宮橋の少し西から進んだようだ。
道筋ははっきりしないが、なんらかその名残でもなかろうかと成り行きで民家の間の道筋に入る。北西に進むと上述、現在の遍路道にある「常楽寺」案内のところに出る。

百万遍供養塔
その先、道なりに進み池の東に沿って進むと、道の右手の少し小高いところに4mほどの自然石の石碑。「光明真言百万遍供養塔 天保十二」とある。
その傍に地蔵座像と「四国 西国 秩父 坂東」と刻まれた供養塔も立っていた。遍路道の風情を残す。


供養塔
道なりに進むと墓地の前に石碑。「四国十遍供養二世安楽」と刻まれる。その先の道脇に「瑜伽(ゆが)大権現」の石碑。「常楽寺世話人会」とある。常楽寺に何らかの関係があるものだろうか?台座に「三界萬霊」と刻まれた地蔵座像から少し奥まったところに小祠があるが、情報はなし。横に日枝神社がある。阿波一宮でもあった神山町上一宮神社・神宮寺にも瑜伽(ゆが)大権現が祀られる、と。神仏習合時代の名残り?
瑜伽(ゆが)大権現
Wikipediaには「瑜伽大権現(ゆがだいごんげん)は備前国瑜伽山の山岳信仰と修験道が融合した神仏習合の神であり、阿弥陀如来・薬師如来を本地仏とする。明治初期、神仏分離令が発せられたときは「相応大菩薩」と名称を変え対応していたが、現在は瑜伽大権現に名称を戻し瑜伽山蓮台寺で祀られている。
「此の山は無双の霊地にして、梵刹を開き、三密瑜伽の行を行い、我を瑜伽大権現として祀るべし」と夢のお告げを受けた行基が、天平5年(734)に開山したとの伝承である。行基が阿弥陀如来・薬師如来の二尊を祀ったのが瑜伽大権現信仰の始まりと伝わる」とあり、 また、瑜伽は「サンスクリット「yoga」の音写語。原義は「結びつくこと」「結びつけること」の意で、感覚器官が自らに結びつくことによって心を制御する精神集中法や、自己を絶対者に結びつけることによって瞑想的合一をはかる修行法をさし、最近の心身の健康増進法としての「ヨガ」もこれに由来する」とあった。

常楽園分岐点に四国千躰大師標石
その先、「四国のみち」の石標があり、「十四番常楽寺0.2km」左折の案内。その傍に照蓮の 四国千躰大師標石。「四国中千躰大師 文化六」といった文字が刻まれる。
左に折れると常楽園。常楽寺が経営する児童養護施設。昭和30年(1955)に戦災孤児のための社会福祉施設として設立され、現在1歳から18歳までの子供たちを支援している。何だかなあ、といった施設を経営するお寺を多く目にするにつけ、少しほっとする。
施設東端を回り込むと常楽寺は直ぐそこ。


第十四番札所常楽寺


四国千躰大師標石
常楽園から池端の道を進み常楽寺へ。池の放水路に架かる盛寿橋を渡り石段を上ると照蓮の四国千躰大師標石。大師像と共に、「四国中千躰大師」「世話人阿州徳島講 願主照蓮」の文字が読める。文化七年建立と言う。





流水岩の庭
石段を上って境内に。水の引いた巨岩川底といった風情の境内。流水岩の庭とある。正面に本堂、右側に大師堂、地蔵堂が並ぶ。
あららぎ大師
本堂右手にアララギ(イチイ)の巨木。木の股に「あららぎ大師」が祀られる。大師巡錫の折、病に苦しむ老婆に持参の霊木を削り飲ませたところ、病は癒える。地に挿した霊木がこの巨木と伝わる。



徳右衛門道標
本堂左手の手水場の脇に徳右衛門道標。「十四番常楽寺 従是国分寺 八丁」の文字の上には通常刻まれる大師座像ではなく、弥勒菩薩。常楽寺の本尊である。ちょっと珍しい。

高野山真言宗。盛寿山延命院。Wikipediaには「寺伝によれば、空海(弘法大師)がこの地で修行をしていた際に、弥勒菩薩が多くの菩薩を連れた姿を感得した。そこで霊木に弥勒菩薩を刻み堂宇を建立して本尊として安置したという。空海の甥に当る真然僧正が金堂を建立、祈親上人が講堂、三重塔などを建立し七堂伽藍の大寺院となったと伝える。
天正年間(1573年 - 1592年)に長宗我部元親の兵火によって焼失。万治2年(1659年)に徳島藩主蜂須賀光隆によって、現在地より下った谷間に再興された。文化12年(1815年)に元の山上への建て替えを願い出て、3年後、低地の谷間から石段を50段ほど上った現在地に移転した」とある。
四国霊場で本尊が弥勒菩薩はこのお寺さまだけのようだ。また、延命院の院号故か、この辺りの地名は徳島県国分寺町延命である。




奥の院慈眼寺へ

常楽寺奥の院は直ぐお隣。境内入口の照蓮・四国千躰大師標石まで戻り、標石の手印に従い左折し先に進む。
八幡神社傍に四国千躰大師標石
ほどなく八幡神社前に出る。鳥居を左に見遣り進むと道の右手に照蓮の四国千躰大師標石。この標石も大師座像の下に通常よく見る「四国中千躰大師」の文字の代わりに「百五十一番」と刻まれる。上述、鮎喰川の土手道手前の分岐点で見たものと同じタイプだ(以下番号タイプとする)。



奥の院慈眼寺
標石手印に従い先に進むと慈眼寺に。本堂は十一面観音。境内には大師堂と大師堂、そして生木地蔵堂が建つ。








生木地蔵
生木地蔵堂には、ヒノキに刻まれた地蔵が祀られる。かつて刻まれていたヒノキが枯れたため幹を切り取りお堂に祀ったとのことである。境内を一夜の宿とした越中の遍路に修行大師の夢のお告げがあり、お告げに従いヒノキに地蔵を刻んだとの縁起が残る。
生木に彫られた仏像といえば、八栗寺からの下り道で出合った生木観音が記憶に残る。






四国千躰大師標石

本堂から東に下る参道があり、その下り口に照蓮の四国千躰大師標石。この標石には通常よく見る「四国中千躰大師」と刻まれるが、手印がちょっと異なっている。手印が線彫り状になっている。これもちょっと珍しい。後世手直しされたもの、とも言われる。




道脇に自然石標石
参道道は常楽寺の境内に見た流れ岩。足元に注意し下ると道の合流点に自然石の標石が立つ。手印と共に「へんろ道」の文字が読める。手印に従い次の札所国分寺に向かう。









14番札所常楽寺から15番札所国分寺

岩船地蔵
次の札所である国分寺までは700mほど山裾の舗装道を進むと道の左手に極彩色のお堂。「岩船地蔵尊」「八祖大師」と書かれた札が見える。お堂に祀られる八体の像が八祖大師であり、その奥の厨子に祀られるのが地蔵尊? お堂前に自然石・青石の石碑。「御圀四十九薬師第三拾三番 是より興禅寺江二丁 安政六 八祖大師庵」と刻まれる。


六地蔵と庚申塔
道を進むと左手、道の側に石仏群。六地蔵と庚申塔や石仏が並ぶ。なんだか、いい。









民家の庭に標石2基
その先、道がふたつに分かれる。その分岐点、民家の庭に2基の標石。1基は茂兵衛道標。127度目巡礼時のもの。もうひとつは大きな自然石標石。「左十五番国分寺」と刻まれる。 標石に従い左の道に入る。





興禅寺前の六地蔵板碑
道の左手に六地蔵と庚申塔。その先興禅寺。臨済宗妙心寺派のお寺さま。質実簡素といった趣の山門が、いい。
興禅寺前にお堂。その傍に六地蔵板碑。一枚の青石に六体の地蔵が彫られる。案内には「板碑は青石の供養塔で、鎌倉時代から戦国時代にかけて建立されたものである。六地蔵を線彫し、下に宮谷講中の二十数名の氏名を記す。
本板碑は上部の二線のうち、一つは輪郭となり省略され、全体的に板状というより舟型に近いなど様式的にくずれている。天正十二年(1584)の紀年銘は本板碑が本県で最も新しいことを示すものである」とあった。
興禅寺の塗塀に沿って進むと右折国分寺の案内。正面に山門が見える。



第十五番札所国分寺

山門
「聖武天皇勅願所 四国第十五番 曹洞宗国分寺」と刻まれた寺標石が立つ山門を潜り境内に。正面の本堂は国指定名勝である庭園と共に2020年3月31日完成予定での修理工事中。その間、本堂右の烏枢沙摩明王(うすさまみょうおう)堂が仮本堂となっている。
烏枢沙摩明王堂

烏枢沙摩明王を祀るお堂。烏枢沙摩明王は密教における明王の一尊である。真言宗・天台宗・禅宗・日蓮宗などの諸宗派で信仰される。台密では明王のなかでも特に中心的役割を果たす五大明王の一尊である。
烏枢沙摩明王は古代インド神話において元の名を「ウッチュシュマ」、或いは「アグニ」と呼ばれた炎の神であり、「この世の一切の汚れを焼き尽くす」功徳を持ち、仏教に包括された後も「烈火で不浄を清浄と化す」神力を持つことから、心の浄化はもとより日々の生活のあらゆる現実的な不浄を清める功徳があるとする、幅広い解釈によってあらゆる層の人々に信仰されてきた火の仏である。意訳から「不浄潔金剛」や「火頭金剛」とも呼ばれた。 烈火をもって不浄を浄化する明王として知られ、寺院の便所に祀られることが多い。また、この明王は胎内にいる女児を男児に変化させる力を持っていると言われ、男児を求めた戦国時代の武将に広く信仰されてきた。
このお堂は土佐の長曾我部勢による天正の兵火の際も、大師堂と共に焼失せず残り、本堂再建まで本尊が安置されていたと言う。
天正の兵火により灰燼に帰した寺は、徳島藩主蜂須賀公の命令により寛保元年(1741年)に再建されるが、このお堂はそれ以前に建てられていて、国分寺にある建物ではいちばん古いものとされる。
鎮守堂
烏枢沙摩明王の右に鎮守堂。瑜伽(ゆが)大権現、秋葉大権現、白山大権現、大聖歓喜天が祀られる。瑜伽(ゆが)大権現が四国霊場に祀られることは珍しいのだが、先の札所常楽寺への手前の道筋に石碑があった。何らかの関係があるのだろうか。
大師堂
鎮守堂右手に大師堂。結構新しい。平成8年(1996年)に火災で全焼し、平成26年(2014年)に再建された、と。その間烏枢沙摩明王堂が仮大師堂となっていた、と言う。
七重塔の礎石
本堂左手、鐘楼の手前に大岩。かつて国分寺に建っていた七重塔の礎石。前述の興禅寺前の田んぼから見つかったもの。
礎石の傍に案内があったが、そこにかつての国分寺の境内推定図もあった。現在は比較的ささやかな境内ではあるが、往昔は現在の境内の四倍ほどの広大な境内であったようだ。

徳右衛門道標
境内、大師堂の右手に徳右衛門道標。常の様式とは異なり、大師坐像の横に「十五番 国分寺」と刻まれる。

薬王山金色院。宗派は曹洞宗。本尊は薬師如来。Wikipediaには「天平13年(741年)、聖武天皇が発した国分寺建立の詔により諸国に建てられた国分寺の一つ。寺伝では行基が自ら薬師如来を刻んで開基し、聖武天皇から釈迦如来像と大般若経、光明皇后の位牌厨子が納められたと伝わっている。当初は法相宗の寺院として七堂伽藍を有する大寺院であった。弘仁年間(810 - 824年)に空海(弘法大師)が巡錫した際に真言宗に改宗したとされる。 史実としては、正確な成立過程は不明であるが、『続日本紀』に天平勝宝8年(756年)、聖武天皇の周忌に際し、阿波国を含む26か国の国分寺に仏具等を下賜したとの記載があり、遅くともこの頃には完成していたことがわかる。
天正年間(1573 - 1592年)土佐の長宗我部元親率いる軍の兵火によって焼失。長らく荒廃していたが、寛保元年(1741年)に徳島藩主蜂須賀家の命により郡奉行速水角五郎が復興にかかり、丈六寺の吼山養師和尚が再建したことから宗派も現在の曹洞宗となった。





15番札所国分寺から16番札所観音寺

国分寺北の四国千躰大師標石
国分寺を出て次の札所観音寺に向かう。この間の距離も短く2キロ弱。大師堂裏の東口から出て少し北に歩くと、道の左手、ブロック塀の前に少し傾いた標石。市正面の下部は破損し、大師座像の下は「四国」の文字だけしか読めない。「四国中千躰大師」と刻まれた照蓮の四国千躰大師標石だ。




石造物と標石4基
更に北に進むとT字路にあたる。その角に地蔵尊や石造物。その両端にそれぞれ2基標石が並ぶ。標石はどれも風化し文字は読めないが、右側には如何にも茂兵衛道標といった風情の標石と、左にはこれまた如何にも照蓮の四国千躰大師標石。
茂兵衛道標には手印と共に「国分寺 観音寺 明治三十年」と刻まれる茂兵衛157度目の巡礼時のもの。茂兵衛道標の右手の標石には「国分寺道 観音寺道明和二年」、照蓮標石右手の標石には「くわんおんじ道 こくぶんじ道」といった文字が刻まれるようだ。
八倉比売神社
遍路道はここを右に折れるが、地図を見ると逆側、左に折れて西に向かうと八倉比売神社がある。何となく名前に惹かれ社に向かう。
社は標高212m気延山の南尾根南麓尾根、標高112mの杉尾山に鎮座する。杉尾山自体を神として祀る。この山麓は阿波史跡公園として整備されているように、古墳や埋蔵物が発掘され古代から開かれた地。国分寺が近くにあることからも納得。
で、気になった八倉比売神社であるが、正式には天石門別八倉比売神社。天石門別(あまのいわとわけ)神と八倉比売神(やくらひめのかみ)を祀る。天石門別神は天孫降臨に随伴する神々の一柱で、天照大神が隠れた天岩戸神話に登場する。八倉比売神は、「八倉=多くの倉」を意味し、国府のあるこの古代の中心地でとれた作物を保管し護る神とも言われる。 これではいまひとつわからない。
もう少し深堀りする;阿波一宮・天石門別八倉比売神社には論社(いくつか候補があり、比定されていない社)があり、この社もそのひとつ。論社には神山町の上一宮大栗神社、一宮町の一宮神社、鳴門市の大麻比古神社などが挙げられるが、上一宮大栗神社の祭神は大宜都比売命またの名を天石門別八倉比売命あるいは大粟比売命(おおあわひめのみこと)、一宮神社も同じ。大麻比古神社の祭神は大麻比古神(おおあさひこ)、またの名を天太玉命(あまのふとだまのみこと)とする。
天石門別は天太玉命の子とされるので、これら神々の源は天太玉命(あめのふとだまのみこと)ということになる。天太玉命は阿波忌部氏の祖先神の一柱とされる。天太玉命が天孫降臨の際に従えた五柱の随神のひとりである「天日鷲命(あめのひわしのみこと)」を阿波忌部氏の祖先神とするゆえの「祖先神の一柱」との表現だろうか。
とすれば、天石門別八倉比売の神名は、阿波忌部氏が祖霊にあたる天石門別神(祖先神の一柱である天太玉命の子)を祀り、阿波の中心地である国府周辺からの穀物を収めた、多くの倉の守り神という意味であろうと妄想する。
本当のところはよくわからないが、何となく気になった八倉比売神社の由来は自分なりに納得。

道の左右に標石
T字路を右に折れ国道192号手前、北に向かう道の角、左右に標石が並ぶ。道の右手は四国千躰大師標石。大師座像の下に「百五十四番」と刻まれる照蓮の「番号」タイプの四国千躰大師標石。
道の左手の標石には「とく志ま くわんおんじ道 こくぶんじ道」といった文字が刻まれる。 遍路道はここを左に折れ北に向かう。



地蔵と茂兵衛道標
北に向かった道は国道192号で一旦分断され、その先更に北に延びる。国道を渡り、道を北に進むと県道123号にあたる。その角に茂兵衛道標と地蔵尊立像。茂兵衛道標は161度目のもの。「国分寺 明治三拾一」といった文字が刻まれる。2mほどもある地蔵尊立像も標石となっており、台座には「左こくぶん寺 右藤井寺 享保十三年」といった文字が刻まれるようだ。
ここを右に折れるとほどなく16番札所観音寺に着く。
遍路道
昔の遍路はそれほど札順に拘ってはいないようだ。『四国辺路日記』で知られる澄禅が承久二年(1653)に辿った遍路道は、高野山から和歌山を経て徳島に入り、一番霊山寺からでなく、17番井土寺(十七番井戸寺)から打ち始め、十三番大日寺まで逆打ち、十一番藤井寺、十二番焼山寺と打って、十八番恩山寺に飛び、十九番立江寺以降は順打ちで回り、一番から十番までは讃岐(香川県)の八十八番大窪寺を打ち終えて最後に回っている。
であるとすれば、この地に11番札所藤井寺を案内する標石があっても違和感はない。



16番札所観音寺

堂々とした山門を潜り境内に。正面に本堂、右手に大師堂が建つ。本堂と大師堂にお参り。 Wikipediaには「高野山真言宗、光耀山(こうようざん)、千手院(せんじゅいん)と号す。本尊は千手観世音菩薩。
寺伝によれば、聖武天皇が国分寺建立の勅命を出した際に行基に命じて勅願道場として本寺を建立、弘仁7年(816年)に空海が巡錫した際に本尊として千手観音像、脇侍に不動明王と毘沙門天を刻んで安置、現在の寺名に改めたとされる。
天正年間(1573年 - 1592年)に長宗我部元親の兵火に焼かれるが、万治2年(1659年)阿波藩主蜂須賀光隆の支援を受け宥応法師が再建した」とある。
八幡大神宮・惣社大御神
小じんまりとした境内に建つ本堂の横に「八幡大神宮・惣社大御神」と刻まれた鳥居があり、そこに小ぶりな社が祀られる。
八幡総社両神社の由緒には「阿波国の総社とし、阿波国府の所在地に設けられた神社。国司の重要な仕事の一つに、管内の官社及び国司の崇敬する神社を祭祀することがあり奈良時代、国司はこれらの神社に幣を奉りこれに詣するを例としたが、平安時代中期以降、中央政治の乱れにより、地方行政も弛緩し、祭祀も規定通り行われなくなり、従来、国司の祭祀してきた管内諸神社の神霊を国府 (国司庁)に近いところに勧請し、参拝の便をはかったのび総社の起源である。当社はその総社と、近在の八幡神社を合祀したもので、安政三年(一八五六年)再建の棟礼を存する。
「寛保改神社帳」には「観音寺村惣社大明神」「観音寺村 八幡宮」とある。なお、南方500メートルほどはなれた所に、面積約三十坪に及ぶと言われる当社の旧社地があったとされ、「総社が原」の呼称が現在に伝わっている。
主祭神(八幡神社) 応神天皇(総社)阿波国式内社五十座
阿波国の式内社は大麻比古神社を始め五十座四六社あり、国府町内では大御和神社(府中 の宮)、八倉比売神社などが式内社である」とあった。

〇本題とは全然関係ないのだけど、上記由緒はiphoneの無料アプリ「一太郎pad」を使い、撮った写真をテキスト化した。アプリを開き、写真を選択しシャッターを押し、完了で画像内の文字をテキスト化してくれる。それをメールで転送しPC上の本テキストにコピー&ペーストした。認識の精度が高く、ほぼ完全に読み込んでくれる。 散歩のメモで少々かなわんなあ、と思っていた由来や縁起は最近このアプリを使い結構楽している。ありがたいアプリだ。




16番札所観音寺から17番札所井戸寺

大御和神社角の標石
観音寺の次の札所は第17番井戸寺。距離は3キロ弱である。井戸寺を離れ門前を走る県道123号を東に。少し歩くと広い境内、大きな社叢をもつ社。大御和神社である。遍路道はT字路となった社の東南角を左に折れ、北へと向かう。この角に「四国のみち」の石標と共に両端矢印の線彫と「へんろ道」と刻まれた標石が立つ。 中尾多七標石の様式ではあるが、あまりに新しい風情。レプリカ?
また社境内に横倒しとなった標石があった。「十七番 いどじ道 大正三年四月吉日」と読めた。
大御和(おおみわ)神社
Wikipediaには「創祀年代は不詳である。一説に大和国三輪神社から勧請されたと伝わる。『延喜式神名帳』に記載された式内社である。
往古は印鑰(いんやく)大明神と称し、阿波国総社であったとも言われ、一般に「府中宮(こうのみや)」と呼ばれる」とある。

印鑰(いんやく)とは国のハンコと国庫の鍵のこと。印鑰と総社は直接関係しないようだが、その故もあり阿波国総社とも称されるのだろう。
由緒には「延喜式内小社で府中の宮と親しまれている。王朝時代国司政庁が此の地におかれ阿波国古代 の祭政の中枢となったが、その国府の鎮守として、 国分寺と共に、累代国司の崇敬が厚かった社である。
創立の事情はよくわからないが、おそらくは国司 が大和の大神神社の分霊を祀ったものであろう。本社はまた国璽の印及び国庫の鑰を守護せられし神徳により印鑰大明神と称したと伝えられる」とある。
阿波国の総社は先ほど訪れた札所観音寺の境内にもあり、その旧地は南500mのところにあったと由緒に記されていた。総社にしろ、一宮にしろ、その所在地は所説あり、定まることなし。

地蔵標石と四国千躰大師標石
北に進み国道192号の一筋手前、四つ角東北角に地蔵座像と標石。地蔵座像の八角形台座正面に「右井戸寺」、右側面に「左観音寺」と刻まれた標石となっている。地蔵前の標石は摩耗し文字は読めないが、その形からして照蓮の四国千躰大師標石だ。
標石の直ぐ傍に「四国のみち」の石標もあり、井戸寺は北を指す。








標石2基と石仏
北に進むと直ぐ国道192号に出る。国道を渡るとポールに「四国のみち」と書かれた小さな鉄板が架かる。が、どちらの方向に進めばいいのか指示はない。ここで右に折れ少し東に歩き、大きな交差点を左に折れて県道29号を北に向かうと徳島線府中駅へのY字分岐点。 そこを右に折れ、しばらく東へと歩き、北に折れる。北に進めば徳島線の踏切を越える。 その左折角に3基の石造物。そのうち2基は標石。左端は摩耗し文字は読めないが。形からして照蓮の四国千躰大師標石。番号タイプのもので「第百六十一番 文化六」といった文字が刻まれるようだ。中央の石造物も標石。「左* 右*寺」がうっすら読める。
右端の石造物の正面には「南大師遍照金剛」の文字が読めた。
遍路道
偶然に標石に出合ったが国道192号からこの標石までの遍路道はよくわからない。実は方向指示のない「四国のみち」鉄板を北に進むと「四国のみち 十七番」の石標が立っていた。その直ぐ先にも「四国のみち 十七番」の石標があり、北を指す。
その先、小さな社の手前の角にも「四国のみち」の石標。ここから先で手がかりを失い、仕方なく国道筋へと引き換えし、上述道筋を辿ったわけだが、もう少し根気よく探せば別の遍路道がみつかったかもしれない。

四国千躰大師標石
徳島線の踏切を渡り県道29号を北に進む。しばらく歩くと県道は右斜めにカーブする。その分岐点に「17井戸寺600m」の石柱と「17井戸寺300m」と書かれた手書きの木札。??その脇には照蓮の四国千躰大師標石も立っていた。

石造物群
斜めにカーブした県道29号が北に向きを変える手前、県道の右手、蔵の前に石造物が3基並ぶ。右端は庚申塔。青面金剛立像刻まれる。中央は台座に「三界萬霊」と刻まれた地蔵座像、左端は「奉誦光明真言一億万万遍」と刻まれた供養塔。百万遍はよく見るが、一億万遍は初めて見た。


標石
石像物の直ぐ傍、県道29号が北に向きを変えるところ、道の右手に標石。「左井戸寺道 道観音寺道 明治十三」といった文字が刻まれる。

地蔵尊と標石
少し北に進むと道の右手に「四国のみち」の石標。右井戸寺0.3km」とある。その横に2基の石仏。1基は地蔵尊、もう1基は三界萬霊供養塔。笠型が目を惹く。「文化十三 井戸村講中」といった文字が台座に刻まれていた。



庚申塔と石造物
指示に従い右に折れると四つ辻手前に庚申塔。その角を左折れ北に向かう。道の右手に庚申塔や五輪塔などの石仏を見遣り北に進むと井戸寺の山門前に着く。









第十七番札所井戸寺

山門
朱塗の山門を潜り境内に。何となく武家風の造り。元は徳島第十二代藩主蜂須賀重喜公の別邸の門を移築したもの。平成元年(1989)に新しい山門建設が行われたとのこと。屋根瓦や梁は新しそうだが、柱には古き趣が残る。

境内正面に本堂。右手に大師堂。左に日限大師堂が建つ。Wikipediaには「徳島県徳島市国府町井戸にある真言宗善通寺派の寺院。四国八十八箇所第17番札所。本尊は七仏薬師如来(伝聖徳太子作)。
寺伝によれば、阿波の国司に隣接し天武天皇が勅願道場として673年に創建し、七堂伽藍、末寺12坊を誇る壮大な寺院となり「妙照寺」と称していた。本尊は薬師瑠璃光如来を主尊とする七仏薬師如来で聖徳太子作、また、日光菩薩、月光菩薩は行基作と伝えられる。
伝承ではその後、弘仁6年(815年)に空海(弘法大師)が来錫、十一面観世音菩薩を刻んで安置したという。また、その際に土地の人々が水不足で困っていることを知り、錫杖で一夜にして井戸を掘った。そこでこの地を井戸村と呼ぶようにし、寺号も「井戸寺」と改めたという。
貞治元年(1362年)、細川頼之の兵火(細川清氏の反乱)で堂宇を焼失し、後に頼之の弟・細川詮春によって再建されたが、天正10年(1582年)に十河存保と長宗我部元親の戦い(第一次十河城の戦い)により再び堂宇を焼失、慶長年間(1596年 - 1615年)に徳島藩主蜂須賀氏によって再興に着手され、万治4年(1661年、藩主は蜂須賀光隆)にようやく本堂が再建となる。
大正5年(1916)正式名称を井戸寺にする。それまでは、納経には妙照寺が使われていたという。 その後、昭和43年(1968年)失火によりまたも本堂が主尊の中央本尊を残して焼失し、3年後に再建された」とある。
本尊
「昭和43年(1968年)失火により本堂が主尊の中央本尊を残して焼失し」とある。「本尊は薬師瑠璃光如来を主尊とする七仏薬師如来」ともある。七仏薬師とは薬師瑠璃光如来を主体とした7体の仏からなるようだ。
で、主尊の中央本尊を残して焼失とあるので、薬師瑠璃光如来を残して焼失した、ということだろうか。
が、ここで疑問。何故聖徳太子作と伝わるこの焼失を免れた仏さまが重要文化財に指定されていないのだろう?チェックすると、焼失する以前、七薬師像胎内から元禄期に京都で造られた、といった古文書が見つかったといった記事もあった。それ故だろうか。因みに現在の七薬師は主尊の他は火災の後造られたブロンズ像と聞く。
本尊を祀る本堂は焼失後再建の鉄筋コンクリート造り。美しく造られそれとは見えないが、屋根中央に立つ避雷針が今風ではある。
十一面観音菩薩
山門左手に六角堂(大悲殿)と呼ばれる観音堂がある。そこに国の重要文化財に指定された十一面観音菩薩が祀られる。この十一面観音像は上述本堂の火災から免れたもの。このお堂はその保護を目的に建てられたものと言う。
実際目にしたわけではないのだが、写真をチェックすると脇に2基の仏さまが従う。Wikipediaにあった「日光・月光菩薩立像:上記の十一面観音の脇仏、昭和33.7.18指定」と徳島県の有形文化財に指定されている日光・月光菩薩立像だろうか。


日限大師
本堂左手に日限大師を祀る堂宇。そこに井戸寺の由来ともなった井戸がある。弘法水のひとつ。「面影の井戸」とも呼ばれる由来は、お堂前の案内に「当寺御詠歌を「おもかげを うつしてみれば 井戸の水、むすべば むねの あかやおちなむ」と大師自ら井戸におもかげをうつされた。日を限って心願をかけると直にご利益を蒙るという、依って世に日限大師といわれ霊験あらたかである」にあった。お堂に祀られるお大師さんが日限大師である。 因みにこの井戸寺、鮎喰川が形成した広い扇状地に建つ。鮎喰川の伏流水がこの地に涌くのではあろう。
熊鷹大明神
六角堂脇に熊鷹大明神。名前に惹かれる。伏見稲荷にも祀られ、その他の地でも稲荷信仰との関連で登場することが多いようだ。
少し先走るが、次回散歩メモで阿波狸合戦ゆかりの地に出合い、そこに狸合戦に登場する狸である大鷹、小鷹と並び熊鷹大明神として祀られていた。熊鷹は大鷹の子とされる。
ここで祀られる熊鷹大明神が稲荷社との関連だろうか、阿波の狸合戦との関連だろうか? 狸合戦の関連でいえば、熊鷹だけが登場するのも唐突だしなあ、であれば稲荷信仰との関係?妄想は膨らむがすべて不詳ではある。

今回のメモはここまで。次回は徳島市の井戸寺から小松島市の恩山寺への遍路道をメモする。


先回のメモでは焼山寺を下った岩鍋集落よりはじめ、玉ヶ峠経由で20号線に下り、広野で21号に乗り換え大日寺へと歩いた。その道すがら、広野に「奥の院」を案内する標石があり、チェックするとそれは広野で県道21号を離れ、標高495mの西龍王山麓にある大日寺奥の院・建治寺を経由して大日寺に向かう遍路道であった。
かつては多くのお遍路さんが辿った巡礼道とも言う。ルートはあまりはっきりしないのだが、建治寺からの下りには鎖場や建治の瀧といった、ちょっと惹かれるワードもある。いかにも修験のお山といった趣ではあるが、その雰囲気が如何なるものか歩いてみることにした。
広野が標高60mほど。建治寺の標高が300mほどであるので、250mほど高度を上げればいい。広野の県道21号・建治道分岐点の伊藤萬蔵寄進の標石には「奥の院18丁」とあったが、実際の建治寺までの距離は18丁=1,962mを大きく上回る4キロ弱あった。 昔の遍路道筋とは異なる?とは思えど、基本標石を辿っての上りであり昔道の距離ではあったかと思う。 標石との距離の違いはともあれ、この4キロほどの上りに2時間。そこから荒れた沢筋を下り県道21号に戻るまで3キロ弱。ここで1時間半。全行程8キロほどのところを3時間半ほどかけて歩いたことになる。
足を踏み入れる前は、人里離れた山道をはっきりとしたルート図もなく歩くのはかなわん、などと思っていはいたのだが、上りの道筋の半分近くは山麓の集落を抜ける道であり気持ちも楽に歩けた。下りの鎖場は多くの記事にあるような「難所」といったものでもなく、危険と感じるところも特に無かった。只、下りは荒れた沢筋の道であり、沢筋に立つ四国霊場本尊石仏を目安に下る箇所もいくつかあったが、ルーティングにそれほど困ることもないかと思う。

建治寺道を歩くことなく、県道21号を建治寺分岐点から下りの県道21号合流点まで距離は5キロ強。時間も1時間強で歩けるだろう。建治道は県道21号ルートより距離は3キロ、時間は2時間半ほど余分にかかることになる。長旅で歩き疲れたお遍路さんに、さてどうだろう。単調な県道歩きの気分転換オプションとして、以下メモする。


本日のルート;
■上り;広野の建治寺道分岐点>伊藤万蔵標石>庚申塔と168丁石>2基の標石(169丁)>169丁石>中尾多七標石と163丁石>170丁石>中尾多七標石>中尾多七標石と172丁石>173丁石>舗装路に出る>177丁石>四国千躰大師標石>179丁石と石造物>西明寺寺道分岐点>>182丁石>大師堂>舗装道を離れる>石垣に標石>石仏と176丁石>山道に入る>車道に出る>祠に標石>車道に出る;中尾多七標石>171丁石>自然石標石>中尾多七標石>8丁石>7丁石>6丁石>5丁・4丁石と地蔵標石>建治寺
下り;山門>鎖場への分岐点>3丁石>建治の瀧>木の鳥居>権現道標石>奥の院標石>奥の院標石>県道21号の億の院標石


建治寺道

■上り■

広野の建治寺道分岐点
広野小学校の県道21号の反対側に「四国十三番奥の院 十八丁」と刻まれた標石が立つ(午前7時53分)。十三番札所大日寺の奥の院である建治寺を経由する遍路道は伊藤萬蔵寄進のこの標石より県道20号と分かれ山麓へと向かう。
伊藤萬蔵
伊藤 萬蔵(いとう まんぞう、1833年(天保4年) -1927年(昭和2年)1月28日)は、尾張国出身の実業家、篤志家。丁稚奉公を経て、名古屋城下塩町四丁目において「平野屋」の屋号で開業。名古屋実業界において力をつけ、名古屋米商所設立に際して、発起人に名を連ねる。のち、各地の寺社に寄進を繰り返したことで知られる。

庚申塔と168丁石
舗装された坂道を20mほど上ると道の左手、石垣の前に4基の石造物(午前7時53分)。1基は庚申塔。1m強はありそうだ。右端の舟形地蔵は「百六十八丁と刻まれる丁石。焼山寺からの丁数である。





2基の標石
更に10m、3基の石像物(午前7時55分)。左端の角柱石は「十三番奥ノ院近道 建治寺」、中央の舟形地蔵には「百六十八丁」と刻まれるようだ。
左に鮎喰川の谷が開けた眺めを楽しみながら緩やかな坂を上る。と、突然遍路道脇にあった民家の2階から「お遍路さん、建治寺への道は荒れて危険。通れませんよ。県道を歩きなさい」との声。 今までも遍路道を歩いていると、地元の方に「荒れて危険、通れない」と幾度かアドバイス頂いたのだけれど、藪漕ぎとはなったが、通れないところはなかったので、「どの程度か確認し危なそうであれば戻ります」と応え先に進むことにした。

169丁石・中尾多七標石と丁石
道の右手に「百六十九丁」の舟形地蔵(午前7時59分)。直ぐ先に2基の標石(午前8時1分)。「へんろ道」の文字と両端矢印の線が特徴的な中尾多七標石と舟形地蔵丁石。丁数ははっきりしない。

中尾多七標石
中尾多七さん達が昭和37年から昭和38年(1963)にかけて建てた標石は阿波の23番札所までに60近くにのぼると言う。特徴は「へんろ道」の文字と、その上に両端に矢印のついた線。線には直線の他、カーブしたものなどがあり、道方向を示す。 中尾多七標石は阿波だけでなく伊予の竜光寺道、香園寺奥の院道など、道の迷いやすい山道にも見られる、と。

170丁石・中尾多七標石
舗装された道は続く。道の左手に「百七十丁」の舟形地蔵丁石(午前8時3分)。鮎喰川の谷を背景にいい雰囲気。そこから数分、道の左手に中尾多七標石(午前8時6分)と続く。



2基の標石の先で舗装路から離れ山道に入る
道に2基の標石(午前8時9分)。1基は中尾多七標石。もう1基は「百七十二丁」の舟形地蔵丁石。その先数分で遍路道案内らしきタグが左の土径を指す(午前8時13分)。舗装路を離れ山道に入る。


173丁石の先は藪漕ぎ
地元の方がおっしゃっていた荒れ具合がどのようなものか気にしながら歩を進める。1分ほど歩くと「百七十三丁」と刻まれた舟形地蔵丁石(午前8時14分)。この辺りまではどうということはなかったのだけれど、その先は猛烈な藪。藪漕ぎに慣れていない方はちょっと大変かもしれない。

舗装道に出る
藪を漕ぎ、小枝を折り先に進む。路肩の不安定なところもあったがそれほど危険というほどではない。怖がりの私でもなんとか行けそうだ。しかし、こんな道がずっと続くのであれば勘弁、と思った頃、舗装された道に出た(午前8時33分)。おおよそ20分の悪路ではあった。建治寺道はここだけがちょっと厄介な個所ではある。



177丁石の先に民家
舗装された道を進む。地図で見ると南馬喰草の辺りで鮎喰川に突き出た支尾根を避け、大きく弧を描く辺りから車道らしきものがここに続く。車道合流点から数分歩くと道の左手に舟形地蔵丁石(午前8時36分)。「百七十七丁」と刻まれる。
その先に民家が見える。民家は全く想像していなかったので、結構気が楽になった。

四国中千躰大師標石・石造物と179丁石
舗装路を進むと石垣に「四国中千躰大師 文化七年」と刻まれた照連の四国千躰大師標石(午前8時39分)。その先数分で眼前が開ける。そこに石造物と舟形地蔵(午前8時43分)。「百七十九丁:と刻まれる。
ここから見る眼下に広がる遠景もいいのだが、山麓を通る舗装路に沿って民家が点在するのを見て、気持ちが楽になった。当初人気のない山道が続くのだろうと思っていただけにその安心感は、今はやりのフレーズで言えば、「半端ねえ」といったところ。
四国中千躰大師標石
文化年間(1804~1816)の僧・照蓮により建てられた標石。真念の志を受け継ぎ、四国中に千体の道標を建てようとした(総数未確認)。徳島は出身地ということもあり56基残る、と。

西明寺道分岐点
山麓を走る舗装道を鮎喰川の谷筋を見やりながらのんびり歩く。5分ほど進むと道の分岐点。その角に2基の標石が立つ(午前8時49分)。比較的新しい1基には、「金玉山 西明寺道」、古い標石には「成田山御分*不動尊道 十三番うちぬけ 是より三丁」とあるようだ。
地図を見ると県道近くまで下りていかなければならない。当日は、「まあいいか」と寄り道をパスしたのだが、メモの段階でチェックすると、往昔お遍路さんが足を向けたお寺さまであった。
道筋には標石も立ち、寺の前には徳右衛門道標も立つとのことであり、行けばよかったと、今となっては後の祭りではある。

182丁石・大師堂
道の右手に「百八十二丁」の舟形地蔵丁石(午前8時53分)。その先に風雪に耐えた趣の大師堂。常夜灯も立つ。





遍路道分岐点に3基の石柱
大師堂の直ぐ先、道の右手に3基の石造物(午前8時57分)。左端の自然石には、手印と共に、「右へんろ道」の文字が読める。その他の石造物は風化が激しく文字は読めない。 そこに遍路道右折の遍路タグがある。水路溝に沿って舗装された狭い坂が上っている。建治寺へはここを右に折れる。


集落の車道を逸れ遍路道に
集落の車道を離れ右に折れ狭い道を数分上ると集落を走る広い車道に出る(午前9時)。車道を歩くと右手石垣前に「十*丁」といった文字が読める(午前9時1分)。その先で遍路道は集落を走る車道を離れ右に折れる(午前9時4分)。
分岐点には遍路タグもあり、その先に鳥居が立つ。

常夜灯と16丁石
コンクリート壁前の舗装された狭い道を上ると大きな常夜灯と座像石仏があり、その傍に舟形地蔵(午前9時6分)。「右 十六丁」と読める。ここからは建治寺までの丁数表示となるようだ。
とすれば、先ほど集落の石垣前に立っていた丁石も建治寺への丁数を示すものではあったのだろう。



車道を上る
16丁石の先で車道に出る(午前9時8分)。土径との分岐があり、「徒歩近道」は土径とあるが、遍路道タグは右の車道方向を示す。ちょっとわかりにくいが、遍路タグに従い車道を進む。
車道地図で見るとこの車道はギザギザと曲がりながらこの先で神山森林公園へと続く車道に合流している。




山道に入る
車道を数分歩くと道の左手に遍路タグがあり、車道を逸れた土径方向を示す(午前9時12分)。竹林の中の土径を進む。




車道に出る
土径を5分ほど歩くと舗装道に出る(午前9時18分)。先ほど分かれた集落から上る車道である。
車道を進むと道の右手に石の祠。建治寺を案内する石祠の中に不動明王像と並び舟形地蔵丁石。「十二丁」のようにも読める。石祠前には両端矢印の線と共に「へんろ道」と刻まれた中尾多七標石も立っていた。

森林候公園への車道をクロスし山道に
数分歩くとアスファルト舗装の車道に出る(午前9時21分)。徳島県立神山森林公園へと上る車道のようだ。
遍路道は車道をクロスし山道へと入る。車道を越えたところには「建治寺本堂 1,150米」の真新しい標石があり、その傍に中尾多七標石が立つ。
ここから尾根筋まで、比高差100mほど上ることになる。

11丁石と自然石標石
車道クロス部では舗装された道も直ぐ土径となる。数分で石垣前に舟形地蔵丁石。「右十一丁」と刻まれる(午前9時24分)。その先数分で自然石標石。摩耗が激しく文字は読めない(午前9時26分)。



10丁石と中尾多七標石・8丁石
数分歩くと遍路道タグと共に、2基の標石(午前9時28分)。1基は「*十丁」と刻まれる舟形地蔵丁石。もう1基は中尾多七標石。
5分ほど歩くと舟形地蔵丁石(午前9時34分)。「八丁」と刻まれる。


7丁・6丁石
数分で「七丁」と刻まれた舟形地蔵丁石(午前9時28分)。更に数分で「六丁」の舟形地蔵丁石(午前9時41分)。木々の間に空が見える。尾根筋は近い。




5丁・4丁石と地蔵標石先で建治寺への車道に合流
数分で尾根筋に上る。そこには地蔵や舟形地蔵が立つ(午前9時44分)。その先には車道が走る。
舟形地蔵は2基。「五丁」「四丁」と刻まれる。舟形地蔵丁石に挟まれるように地蔵座像。そこには「左焼山道 右北*道」と刻まれる。「*」の部分ははっきり見えるのだけれど、何という字か読めない。教養の無さが悔やまれる。
これらの標石の右にも標石がある。手印だけがうっすら見える。
山道はここで建治寺へと続く車道に出る。森林公園に上る車道から山道に入り20分強で参道車道に出た。

建治寺車道を建治寺へ
車道を進む。道は尾根筋を少し東に廻り込み、300m等高線辺りを進むことになる。5分強歩くと寺の駐車場(午前9時52分)。駐車場から尾根の東側の遠景、お寺さまにお参りした後に下る遍路道ではあろう谷筋、その先の鮎喰川の遠景を楽しむ。





参道に1丁石
駐車場の端に寺標石。その先に、広すぎもせず狭すぎもしない、ほどよい幅の参道が続く。 直ぐ参道右手に「一丁」と刻まれた舟形地蔵丁石(午前9時55分)。
上りにおおよそ2時間かかったことになる。






第十三番大日寺奥の院建治寺

駐車場の右手、小高い場所に常夜灯。往昔、津田の湊(徳島市の南部)の漁師たちの灯台の火でもあったようで、毎年津田の漁師より油の寄進を受けたとある。玉姫大明神の小社も祀られる。玉姫稲荷さんがここに祀られる所以は不詳。

参道を進むと右手に宿坊。左手に厄除大師堂。正面に東面した本堂と続く。本堂には「四国三十六不動霊場」の幡が立ち並ぶ。当寺は第十二番霊場とのこと。
本堂にお参り。東寺真言宗。山号は大滝山。本尊は金剛蔵王大権現。脇仏として阿弥陀如来が祀られる。
建治龍門窟
大師堂の右手に「建治龍門窟」と書かれた石柱。先に進むと狭い洞窟が続き、最奥部には不動明王が祀られる。
建治寺縁起
境内にあった建治寺縁起には、「当山は白鳳時代天智天皇(661~671)の頃、役行者(神変大菩薩)の開基にして金剛蔵王大権現を本尊として祀る。
その昔、役行者が大峯山にて、かかる末世の衆生を救済すべく濁世降魔の尊をと祈念すれば、一天にわかに曇り大地鳴動して出現されたのが金剛蔵王大権現である。
弘仁年間(810~824)、弘法大師四国巡錫の折、当山に登り霊験あらたかなその聖地に感じ入り、修行場所として最適な霊地と逗留されることとなった。
大師修行中、ある夜、本尊金剛蔵王大権現を感得し、斎戒沐浴して御尊像を彫刻、深く岩窟の奥に安置し祀られた。
本尊金剛蔵王大権現は、右手に三鈷杵をいただき、左手は刀印を結び腰に安んじて、右足は虚空を蹴り、左足は強く大地を踏みしめる。
御身の青黒なるは大慈悲をあらわし、右手の三鈷杵は魔障を避け、左手の刀印は降魔の利剣。 右足は天魔を蹴散らし、左足は地下の悪魔を踏み砕く。
御身青黒色にして恐髪逆立ち、裂けんばかりの口には阿字を含み、睨みすえる眼はまさに忿怒の形相で、心悪しき物には恐怖と戦慄を覚える御姿である。
時代は下って、天正十三年(1585)蜂須賀家政が阿波藩主として入国後、豊臣秀吉の征朝郡に従い出陣することとなったが、戦況不利となり苦戦をしいられていたある晩、夢枕に白髪の翁が現われて勝利に導く霊示をされた。
半信半疑不思議に思いはしたものの、お告げの通り軍を進めたところ大勝を博する結果となり、大いに喜ばれた。
凱旋後、その仙人の風貌をした白髪の老翁こそ、建治寺の本尊金剛蔵王大権現の化身であったことが判り、藩公深く畏敬して城の守り本尊となすべく城下(眉山麓)に一寺を建立し、金剛蔵王大権現並びに薬師如来を勧請して寺号と共に移したのである。
これが現在の大滝山薬師であり持明院である。
然るにそれ以後というもの、寺に奇異なる現象が頻発し、藩公大いに恐れて高僧に伺いをたてさせたところ、本尊が元の建治寺に帰山を望まれていることがわかった。
しかし、藩公は御本尊を手放したくないため、仏師に建治寺より持ち帰った御尊像に似せて、もう一体の金剛蔵王大権現を作らせた。
礼を篤くしてそれを当山に祀り安置したものの、寺における変異は続き、困り果てた末、遂に薬師如来を残して弘法大師御作の御本尊を返されることになった。
故に、阿吽二体の金剛蔵王大権現像(弘法大師作は阿形、蜂須賀公の彫らせたものは吽形)が建治寺の岩屋奥に祀られ、今に到っている。
役行者が金剛蔵王大権現を勧請することによって始まった輝かしい建治寺の歴史は、弘法大師の威徳によって不滅の金字塔が打ち立てられた (四国霊場第十三番奥の院修験根本道 場として発展)
霊験あらたかな聖地を守り続ける心は絶えることなく受け継がれ、近年では(安政時代) 貞阿上人の業績にと、今なお脈々と命打っているのである」とあった。

〇貞阿上人 貞阿上人って?チェックすると「徳島 建縁起復活公演 小屋掛け人形浄瑠璃バスツアー」というページがあり、そこに貞阿上人の記事があった。
貞阿上人:貞阿上人は、文化二年(1805)3 月 12 日、 加賀国連華村(現石川県金沢市)の井口権三の三男と して生まれた。俗名を花寺貞信といい、安政 2 年 (1855)4月28日阿波国入田村の観正寺で得度した。 遍路として四国霊場を巡り、観正寺に足をとどめ、当 時、観正寺末であった金剛菩薩堂(現建治寺)で修行 した。以後、寺の復興と布教に努め、多くの信者をえ た。実際、上人建立の写し霊場、八十八の石塔の中に は、徳島城内の奥女中衆の寄進もあり、上人が広い階 層の信者の帰依を得ていたことが知られる。明治 8 年 (1875)2 月 18 日、補訓導を拝命したと記録にあり、 当時、観正寺に置かれた小学校で教鞭をふるったと考 えられる。明治 18 年旧 7 月 3 日に没した。享年 81 歳。墓碑銘に「白蓮舎照道貞阿上人」とある。

またそこには人形浄瑠璃「実録 建治山御法之花、貞阿上人滝行場之段 」のストーリーが書かれおり、「忠蔵と左代の兄妹が、仇敵を追って敵討ちの 旅に出たのが三年前。長い旅路のはてに弘法大師のお告げを聞き、阿波の霊場十三番札所大日寺奥ノ院建冶寺にやってくる。そして、建冶寺の滝で滝行する宿敵石川藤斎は人々に崇め慕われている貞阿上人その人であった。仇討ち装束に身を固めた兄妹は、滝行をする無心の上人に後ろから斬りかかろうとする。 目に入る「正道頓悟居士」と彫られた背中の入れ墨。 それは亡き父の戒名であった。そのとき、天にわかにかき曇り落雷響く雲の彼方から、建冶寺の本尊蔵王大 権現と亡くなった父正作が現れる。父は兄妹に、藤斎のこれまでの所行を語って聞かせる。故意に殺めたのではないこと、返り討ちにしてくれとの書置きはお家再興を奮起させるためのものであったこと、正作の戒名を入れ墨にまでして菩薩を弔っていたこと、大勢の人々に功徳を施し幼かった兄妹のことはかたときも れなかったこと、再任官をさせるため無抵抗で打たれる覚悟をしていること等々である。真実を知らされ た兄妹は、仇敵藤斎憎しの考えを改めて、藤斎の功徳に感謝すると共に、悲願であるお家再興を胸に秘め、 心静かに国元へ帰っていく」とあり、続けて
「この作品は幕末から明治初 年にかけて、建冶寺の中興の祖と讃えられた貞阿という人物から取材して創作されたものである。貞阿は四国巡礼中、観正寺に杖をとどめ、建冶寺で荒行を重ね、 観正寺から僧籍をゆるされ、後、建治寺の住職となった。貞阿は篤行の人として人望も厚く、信者も四方から集まり寺は栄えた。しかし上人の過去における経歴には不明なことが多く様々な伝説が生まれた」とあった。
この外題がつくられたのは明治末か大正の頃。地元の方がストーリーを徳島出身の文楽関係者が三味線と語りを受けもちつくられた、数少ない阿波オリジナルの浄瑠璃とあった。 少し長くなったが、物語、伝説がつくられるプロセスとして興味を覚え全文引用させて頂いた。


建治寺から県道21号に下る■

建治瀧ルートに下る;午前10時9分
境内を離れ大日寺へと、下りの遍路道に向かう。「十三番瀧行場へ(階段下る) 下の道場山門より下ってください 途中瀧行場を通過して大日寺に行けます」の案内、遍路タグに従い石段を下りて下の広場に。
広場(道場)では修験儀式といった準備が行われていた。柴燈護摩の広場とあるので、柴燈護摩の準備なのだろうか。
柴燈護摩
Wikipediaには「大柴燈護摩供(だいさいとうごまく)とは、野外で行う大規模な護摩法要のことである。柴燈大護摩供(さいとうおおごまく)と呼ぶ場合もある。
伝統的な柴燈護摩は真言宗を開いた空海の孫弟子に当たる聖宝理源大師が初めて行ったといわれており、醍醐寺をはじめとする真言宗の当山派修験道の法流を継承する寺院で行われる事が多い。すなわち、日本特有の仏教行事である。
伝統的な真言宗系当山派の柴燈護摩に柴の字が当てられているのは、山中修行で正式な密具の荘厳もままならず、柴や薪で檀を築いたことによる。なお、天台宗系本山派が行う野外の護摩供養は、「採燈護摩」というが、真言宗系当山派の柴燈護摩から「採取」した火により行われたので、その字が当てられるようになった。また、真言宗醍醐派の正当法流を汲む真如苑宗(真如三昧耶流)では、斉の字を当てて「斉燈護摩」と呼称している」とあった。

山門を出て滝行場へ;午前10時9分
柴燈護摩の広場の北端にささやかな山門が建つ。下山の遍路道は上述案内の通り、この山門を潜り滝行場へと向かう。
山門を潜ると荒れた沢筋。そこには四国八十八霊場の本尊石仏が並ぶ。大師座像とペアで並んでいる。


鎖場分岐点;午前10時17分
八十八霊場の石仏を目安に岩場の沢筋を下る。ほどなく遍路道は沢筋から離れる。石の祠に祀られる六十七番札所小松尾寺(大興寺)の本尊薬師如来の先に中尾多七標石(午前10時17分)。その直ぐ先で道はふたつに分かれる。
分岐点には「直進 鎖坂道 すべり注意」「左道 迂回路(安全)」とある。とりあえず直進し鎖場へ。

鎖場;午前10時21分
62番宝寿寺の十一面観音、60番横峰寺の大日如来などに一礼しながら道を進むと鎖場に。それほど危なそうではない。鎖をしっかり握り、足場を確保し鎖場を下りる。岩場には石仏が立つ。はっきりとは見なかったのだが、四国霊場本尊石像ではないようだ。




鎖場下に3丁石;午前10時29分
鎖場を下り切ったところに「三丁」の丁石。そこに遍路道は右とある。ここは要注意。この案内は鎖場迂回路の案内。当日は案内に従い右に進んだのだが、鎖場分岐点まで引っ張られ、 元に戻ることになった。





岩場の行場;午前10時29分
三丁石まで戻り、沢筋に向かうと梯子のかかった岩場に出る(午前10時29分)、梯子の上に岩壁を穿った溝といったものが見える。オーバーハング気味のルートを進むと岩場の行場があるようだ。高所恐怖症のわが身はご勘弁と梯子上りは避ける。
梯子の右手、岩場下にも石仏が並ぶ。ここも注意が必要。石仏が並ぶならそれが遍路道かと右に向かい大岩を上るが、その先はなんとなく遍路道っぽくない。
梯子の岩場に戻りルートを探すと沢方向への道案内があった。

建治の瀧;午前10時33分
沢筋へと下ると数分で右手に瀧。30m弱といったところだろうか。水はほとんど落ちていない。地形図を見ても、滝の上流部の区間も短く、大雨の後以外に水は流れようもない、滝の傍のお堂には不動明王と共に上述、貞阿上人も祀られている、と。






木の鳥居;午前10時46分
金治谷川の沢に架かる橋を渡り遍路道を下る。道は荒れている。遍路タグや四国88霊場の本尊石仏を目安に沢の右岸を下ると木の鳥居があった。





ごんげん道標石;午前10時49分
倒木を潜り、53番札所圓明寺の本尊阿弥陀如来石仏に一礼し成り行きで下ると、手印と共に「ごんげん道」と刻まれた標石があった。建治寺の本尊である蔵王権現を指すのだろう。


廃屋に;午前11時9分
四国霊場の本尊石仏を目安に進む。48番札所西林寺の本尊十一面観音を越えた辺りで遍路道は沢の左岸に移る。道に沿って続く四国霊場の本尊石仏に頭を下げながら歩くと、沢筋の道は平坦な道へと変わる(午前11時3分)。そこから5分強、廃屋が見えてくる。

「左おくの院」標石;午前11時13分
道を進み38番札所金剛福寺の本尊千手観音石像を越えたあたりで遍路道は車道にでる。建治寺よりおおよそ1時間で下りてきた。
車道合流点に「左おくの院」と刻まれた標石。その傍にルート図と共に、建治寺まで車道1700m,遍路道1200mの案内があった。
車道は県道21号より、南谷川(金治谷川)の谷筋を上り建治寺へと向かうルートのようだ。

「おくのいん」標石;午前11時24分
車道を進む。里は開け民家も現れる。四国霊場18番札所恩山寺の本尊薬師如来の立つ少し先、上述「おくの院」標石から10分ほど歩くと南谷川徒金治谷川の合流地点にT字路。その角に2基の標石。「おくおいんみち 文久三」「名勝建治乃瀧 右上」と刻まれる。 遍路道はここを左折し県道21号に向かう

橋傍に石仏群;午前11時34分
10分ほど歩くと遍路道は橋を渡り川の右岸に。橋傍に6基の石仏。四国霊場の本尊石仏だろう。大師像とのペアであるので3霊場だろうが、左端の石仏に「六番」と読める以外、摩耗が激しく札番号はわからなかった。
石仏群の向かいにもペアの石仏。「五番」のように読めた。

県道21号の奥の院碑石;午前11時43分
数分あるくと道は3つにわかれる。その真ん中の道、すぐ先にペアの石仏が並ぶ(午前11時38分)。札番号は読めなかったが、流れからすれば四国霊場本尊座像ペアであろうとその道筋を進む。建治寺から続いた四国88霊場の本尊石仏の一番がどこから始まるのか確認したかったのだが、結局わからずに終わってしまった。
そこから道なりに数分、県道21号の合流点、「四国十三番奥院建治瀧 登山道是より 大正五年建立」とかかれた標石が立つところで出た。


建治寺道散歩はこれでお終い。建治寺までの上り2時間、建治寺から県道21号奥の院標石までおおよそ1時間半弱。お寺の参拝も含めおおよそ4時間の散歩となった。

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