結願の札所 八十八番大窪寺へ向かう。距離は15キロほどだろうか。途中標高400mほどの花折峠越えがあるが、上り口が標高150mほどであるので、比高差は250mほど。
峠を下ったあとは、吉野川水系となった谷筋を大窪寺へと向かうことになる。途中、東谷川筋から槇川の谷筋へ支尾根を越えるがこれも比高差50mほどの緩やかな上りである。
その後大窪寺へと槇川の谷筋を上るが、結願の寺ということで険路・山道を想像していたのだが、遍路道は国道377号といった整備された道であった。



本日のルート;八十七番長尾寺>清水九兵衛地蔵座像>茂兵衛道標(139度目)>塚原橋北詰の標石>地蔵堂と「誰が袖」標石>石造大灯籠と地蔵堂>一心庵>高地蔵と石仏群>一貞作の石仏群>徳右衛門道標>「伊勢大神宮献鐙田」の自然石碑>前山ダム>茂兵衛道標(242度目)>前山おへんろ交流センター>峠道の徳右衛門道標>花折峠道の遍路休憩所>花折峠の地蔵標石>69丁石・68丁石>先生墓と67丁石>66丁石>お堂と65丁石>64丁石・63丁石>60丁石・57丁石>細川家住宅>56丁石と小祠脇に55丁石>3基の地蔵丁石と馬頭観音>45丁石と一夜庵>二百万遍供養塔>分岐点に標石>38丁石・34丁石跡>>遍路休憩所傍に30丁石>不動明王と29丁石・27丁石>26丁石と地蔵堂前の丁石>>21丁石>国道377号と県道3号の分岐点に石造群>20丁石と槇川の庚申塔>19丁石・18丁石>17丁石・(16丁石・15丁石・14丁石)13丁石>?丁石・11丁石>お堂の10丁地蔵標石と石仏群>10丁石・9丁石>8丁石・7丁石>6丁石・5丁石>4丁石・3丁石>八十八番札所・大窪寺


長尾寺から大窪寺へ

清水九兵衛地蔵座像
長尾寺の仁王門を左に折れ、直ぐ先の四つ辻を右に折れて道を南に向かう。県道10号と交差する手前、道の右手に墓石が並ぶが、その一角にコンクリート造りの小祠があり、その脇に「秋田清水久兵衛地蔵座像 明和九年(1772)に出羽国秋田の清水久兵衛が建立した三界萬霊供養の地蔵座像」とある。
先回の散歩で、長尾寺手前で同じく清水久兵衛の標石があったが、その説明に「六年後の明和九年に、南の県道高松・長尾・大内線と市道筒井・北原線の交差点北詰の、木戸家の墓地に清水九兵衛は立派な三界万霊供養の地蔵坐像を建立している」とあった地蔵座像がこれである。


茂兵衛道標(139度目
南に下り鴨部川に架かる塚原橋の手前200m辺り、道の左手にブロック塀に囲まれたような茂兵衛道標がある。「大窪寺道 是より四里 東 白鳥四里 西 琴平十里 左 長尾寺伽藍 明治二十九」といった文字が刻まれる。茂兵衛139度目の巡拝時のもの。 現在はT字路ではあるが、往昔道は東西に通り、東の白鳥宮、西の琴平宮への分岐点であったのだろうか。

塚原橋北詰の標石
鴨部川の北詰、道の右手の草叢の中に「大くぼ* 百七十*」と刻まれた標石が残る。
鴨部川
多和地区の額峠(がくたわ)の北の河川の水を集め讃岐平野を下る。県道3号も通る額峠は分水界。峠を越えると吉野川水系曽江谷川の上流部となる。



地蔵堂と「誰が袖」標石
鴨部川を渡ると東から県道3号が合流し、五差路の交差点となる。遍路道は県道3号の東、鴨部川の左岸を通る道をとる。道の右側にある小さな地蔵堂を越えると、道の左手に標石。長い袖が特徴的な「誰が袖」風といった標石。
手印と共に正面に「右長尾道 十五丁 やくり三里」とある。「右」は長尾寺と逆方向。道の反対側にあったとすれば長尾寺も八栗寺も方向としては理屈に合うが、そうなれば手印は長尾寺と逆を指すことになる。どういうこと?
誰が袖標石
「誰(た)が袖標石」は便宜的につけたもの。古今集にある「色よりも香りこそあわれと思ほゆれ 誰が袖触れし宿の梅ぞも」の風情より。

石造大灯籠と地蔵堂
ほどなく道の右手に自然石の大きな灯籠があり、その直ぐ先の四つ辻角の建物前に小さな地蔵堂がある。
四つ辻に道案内があり、遍路道は直進、左「行基苑 から風呂」 とあった。
行基庵・から風呂
から風呂は古代のサウナ。行基が地元民の病気治癒を願って造ったと伝わる。から風呂傍に行基堂(行基苑は公園)もあるようだ。場所は熊田池の畔。先回メモした静御前が義経の菩提を弔うべく結んだ庵・静薬師堂は熊田池の直ぐ南、鍛冶池の畔にある。

一心庵
しばらく道を進むと、道の右手に「旧へんろ道」の案内があり、大窪寺への道筋が記されている。その建物南の庭に石造物が並び、お堂らしき建物の前に「一心庵」とある。案内には「明和元年(1764)印誉意心法師の草創で本尊は阿弥陀如来。へんろ道の沿道にあり18世紀の終わりに小豆島肥土山の接待講が「常接待」をしているなど、かなり広汎な地域からの出張接待があった。 なお手水鉢に「寛政3年(1791)御料小豆島肥土山邑 万人講 施主太田氏妻」とあり、小豆島で大庄屋を勤めた太田氏であり、今日も農村歌舞伎の盛んな肥土山であることから、当塚原が50年ほど前まで歌舞伎の盛んであった土地柄とあわせて注目したいのである」とある。

正面建物には真言宗一心庵。手水鉢のある右手のお堂前には「波切不動」と記された石碑がある。お堂には波切不動が祀られているのだろう。
お堂傍、道沿いに自然石の標石。手印と共に「右へんろ道 大窪寺二里 文化四」といった文字が刻まれる。指示方向と大窪寺方向が合わない。道の左手にあったものだろう。

高地蔵と石仏群
旧道を進んだ遍路道は県道3号と合流。その合流点手前右手にお堂、そして高地蔵や石仏群が並ぶ。案内には「高地蔵界隈 此処は旧長尾西・長尾名・前山村の3か村の村境である。「高地蔵」は、台座の上に座り、4メートルに余る高さなのでこの名がある。元の3か村の庄屋が発起人となって、文久元年(1861)に建立したものである。
地蔵菩薩は、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上と輪廻する衆生を救済してくれるところから、当地では毎年3月に、この地蔵を「流れ灌頂の本尊」として法要を行い、「三界万霊」「永代有縁無縁」の供養をしている。
「大師堂」は、自然の巨岩に大師像を彫ったものをお堂で覆い、阿弥陀三尊をもお祀りしている。 少し奥まったところに「忠左衛門」の墓碑がある。四国霊場を136度巡拝したという、芸集(広島)山形郡中原村の忠左衛門を供養するために、地元の弁蔵・伊三良が発起人となって建立したものである。
道路の改修で、昔と面影は変わったが、人々は聖地の霊験を信じて、近在のいやしの空間となっている」とある。
高地蔵にお参り。大師堂は道端の小屋とは思えず、眼前の巨岩に彫られた石仏が大師像であろうか(不動明王のようであり、大師像?とは思いながらも)、であれば大師堂のお堂は壊れたのだろうか、などと思い込み、小屋(大師堂)に入ることなく石仏群の辺りを彷徨った。 後でわかったことではあるが、小屋の中に大師像、阿弥陀像と共に卵型の忠左衛門の墓碑もあったようだ。
大師像や忠左衛門の墓石は見逃したが巨岩に彫られた石仏群は印象に残る。「少し奥まったところに忠左衛門の墓碑がある」との記述を読み間違え、旧道側から続く石段を上るのが「奥」だろうと進むと、県道3号側に出る。そこにも巨岩に彫られた石仏と同じ風情の石仏が並んでいた。「一貞作」とも刻まれており、どうも地元の仏師の作のようだ。忠左衛門の墓標を探し彷徨うが、見つかることがなかったのは上述のとおり。

馬の墓
大師堂の道側に「馬の墓」の案内。「1950年代までは、馬車・荷馬車が陸上輸送の主力であった。現在の自動車の前身である。
この付近は燃料である薪炭や、前山の水車で製造された小麦粉などが荷馬車で運ばれた。 志度・長尾から今の前山ダムのある中津までの馬車も通っており、長い年月の間には曳き馬が死ぬこともあったのである。
こうした馬の墓が何か所かある。人の墓と同じように動物の墓も作られ、懇ろに葬られるのである」と記される。
傍には石に馬が彫られた「馬の墓」があった。このように実際に馬が彫られたものはあまり見かけることはなかった。

一貞作の石仏群
一旦県道3号に出た遍路道は、ほどなく左の旧道へと斜めに入る。しばらく道なりに進むと自然石に刻まれた道祖神、また双体道祖伸に続き道の左右に石仏群が並ぶ。作風は高地蔵のところで見た「一貞作」と刻まれた石仏と同様のテイスト。道の右手の塀囲いのお宅の主が「一貞」さんだろうか。
石仏群の中に手印と共に「へんろ道」と刻まれた自然石の標石があった。

徳右衛門道標
道を進むと左手に道標があり「徳右衛門道標」との案内があり、「武田徳右衛門の道標 大師像 是より大窪寺迄二里半 寛政六年(1794)、伊予の越智郡朝倉上村生まれの徳右衛門は長尾西村の十蔵をスポンサーにしてこの道標を建てている。
徳右衛門は文化十一年(1814)十二月に没するまで約百基の道標を建てているが、この道標はいよいよ初期のものである。
さぬき市内にはこれをいれて四基の徳右衛門道標がある」と記されている。
遍路道を歩くと時に徳右衛門道標に出合うが、この道標は常の徳右衛門道標と異なっている。柱頭は常のカマボコ型ではなく四角錘。大師像も常のものより大きく、また通常大師像の上にある梵字はない。また、常は側面や裏面に架かれる施主や願主、建立年などがすべて前面だけに刻まれている。

「伊勢大神宮献鐙田」の自然石碑
遍路道を進み、左手に「伊勢大神宮献鐙田」と刻まれた自然石碑。安政四年の建立。鐙は「あぶみ」。音読みは「とう」。鐙田(とうでん)をお伊勢さんに献上したのだろうか?とはいえ「鐙田」ってなにかわからない。

前山ダム
遍路道は一旦県道3号に合流するが、その先で県道から左に斜めに入り旧道に。鴨部川に沿って道を進むと前面に前山ダム。遍路道はダム堰堤で行き止まりとなる。堰堤手前から県道3号に迂回する石段を上り県道3号に戻る。
鴨部川の洪水治水対策、長尾・志度の上水利水対策として建設された。



茂兵衛道標(242度目)
県道3号に上る。県道3号がダム湖南を東へと折れる手前、道の左手に茂兵衛道標が立つ。ダム湖に沈んだ遍路道から移されたものではあろう。手印と共に「長尾寺 大窪寺 明治四十五年」いったと文字が刻まれる。
その傍に「遍路道」の案内と大窪寺までのルートが示されており、「前山ダムより西に入って、花折峠を越え、谷川沿いの谷川沿いを辿ったものでした」と記される。この記述が現在のことか、過去のルートのことかわかりにくい。また「前山ダムを西に入る」もちょっと混乱。県道3号は鴨部川に沿って西に向かいその先で南に折れて前述「額峠」を越えて続くが、花折峠は前山ダムの西端部に南から流れ込む鴨部川支流に沿って花山峠に向かうようだ。
説明は少しわかりにくいが、地図があるのでそれを目安とすればいい、かも。

前山おへんろ交流センター

花折峠への道を確認すべく地図をみていると、前山ダム湖の南、県道3号わきに「前山おへんろ交流センター」があった。花折峠越えの前にちょっと立ち寄り休憩とする。

茂兵衛道標
センター手前には野仏群、センター前にはダム建設などでこの地にまとめられた標石が並んで建っていた。その中に茂兵衛道標もあった。手印と共に「大窪寺 長尾寺 明治三十四」といった文字が刻まれる茂兵衛184度目のこの道標は、前山ダム堰堤手前の遍路道にあったもの、と言う。



納札俵
センター内に入る。休憩所とともに遍路関係の資料が展示されていた。予想外の充実した展示内容であった。中でもはじめて知ったのが納札俵。「遍路行者を接待した際に受け取った納札を収める俵。接待は遍路行者の工程を扶助するものであると同時に、各家の厄や災いを託す願いも込められた。また、霊場を巡ったものと同じ利益があるものと言う。
それ故、接待の証左となる納札は大切にされ、その集積となる俵を家屋の梁に括り、家内安全を願った。また、稲わら製であることから五穀豊穣の祈願にもなるという。
この度は大・小ふたつの俵を出品するが、ちいさいものには数十年、大きな俵になると100年間を越える納札が納められているという」とあった。
往来手形
また、遍路が携えた往来手形の原本も展示されていた。現代訳がついており、それによると「江戸時代の弘化二年(1825)、越後国蒲原郡下木津村の百姓五郎右衛門の弟毎太(25歳)に対し小笠原信助御代官所が出した往来一札。村の庄屋栄太、組頭甚兵衛、百姓代弥右衛門の印がある。内容は、諸国の神社仏閣拝礼の旅であり、関所を通して頂きたい。宗派は禅宗。途次病死の折は在所の作法で埋葬願いたい」といったことが書かれていた。実物を見たのははじめてであり。個人名がリアリティを増す。
そのほか興味深い品が数多く展示されていた。

峠道の徳右衛門道標
思いがけず興味深い展示物に出合った交流センターを出て花折峠への上り道に入る。道は県道3号が前山ダム湖南西端から東へと折れる箇所から南に入る。道は峠越えの山道との予想に反し完全舗装されている。トラックの往来が多いのは、砕石場といったなんらかの施設があるからだろうか。
鴨部川水系の花折川の谷筋左岸を進み大きなヘアピンカーブで右岸に移る。峠道を上りはじめて20分ほど、高度を50mほど上げたところ、道の左手に大師座像を刻んだ自然石の道標が立つ。「是より於くぼ迄 二里 願主 予州 *右ヱ門」と刻まれるようであり、徳右衛門道標とされる。


花折峠道の遍路休憩所
右岸から左岸に、更に右岸へと花折川に沿って道を上る。標高286m辺りで源流点となった花折川の谷筋から離れた道はヘアピンで一気に高度を50mほど上げると標高350m辺りにさぬき市建設残土処分場があった。道が舗装整備されているのはこういった施設もその因のひとつであろうか。
標高350m辺りからは緩やかに高度を上げ標高385mの辺りに遍路休憩所があった。傍に「古道と砦」の案内。「江戸時代初期に、「元暦のむかし、義経が矢(屋)島に向かった路」と澄禅大徳が『邊路日記』に書き、巨石に目印として銭をはさんで、平氏が祖谷へと落ちて行ったとの伝承のある古道―花折道(約2キロ)、少し北へ下ったところに標識がある。 東讃岐の豪族寒川氏の居城『昼寝城』関連の砦跡が、今も山の尾根で観察できる場所がすぐ北側にある」と記される。

阿波の勝浦に上陸し、海岸線に近い阿讃国境の大阪峠を越え海岸線を進み、長尾街道で道を西にとり、田面峠を越えて長尾に至り、そこから北上し屋島に向かった、とするのがよく言われる奇襲路とすれば、この花折道を通ることはないだろうな?とも思いながら、それよりなにより、今更北に戻る気力もない。あれこれチェックすると舗装道から離れた道を地元の有志が開きているとのこと。それが花折道ということだろうか。

花折峠の地蔵標石
遍路休憩所からもしばらく緩やかな上りが続き標高400m辺りでピークとなる。峠特有の切通しといった風情の左手に石造物が並ぶ。傍に案内があり「相草東峠 七十丁の標石」の案内があり、「この峠を東花折峠とも呼ぶ。その昔、神仏に加護を願って供える柴を手折ったとことだという。 ここから結願の大窪寺まで、約7.6キロメートルと案内したもの。
南へ数百メートル行った、道の右側の主を、先生墓(医者の墓明治五年没)と呼んでいる。紀州若山春日山の住人とお位牌にある。
晩年当地で施療していたが、遺言によって、ここに墓を建てた。回向をお願いします」とあった。

今まで花折峠と書いてきたが、「東花折峠」が正確な呼称のようだ。その峠の左手、ブロックの中に地蔵座像。台座に「七十丁」と刻まれる。またその右側には遍路墓。「寛政七年 大阪」「寛政六年」といった文字が刻まれる。
左手には地蔵世話人の石碑が立っていた。峠さんという名前も刻まれる。この辺りには多い姓のようである。
馬の墓
峠の少し手前、道から少し奥まったところに馬の墓がある。舟形石に「明治二」といった文字とともに馬が彫られていた。前述、高地蔵の所でも馬の像が刻まれた馬の墓があったが、馬頭観音ではなく、直接馬が彫られる供養塔は今まであまり見かけたことはなかったように思う。

69丁石・68丁石
峠を越えると直ぐに民家がある。その先から道は緩やかに下りはじめ、ほどなく道の左手に地蔵丁石。「六十九丁」と刻まれる。峠の地蔵台座にあった「七十丁」から大窪寺まで丁石が続く。 六十九丁石のある辺りから道の左手に沢が現れる。花折峠が分水界ともなっているので、この沢は吉野川水系の川に注ぐことになる。道を少し下るとその先にも上部が破損した丁石。「六十八」丁石だろう。

先生墓と67丁石
道の左手に小祠。ここが峠の案内にあった「先生墓」だろう。お堂の中に梵字と大師像らしきものが祀られていた。記事によっては大師堂とも記されている。
先生墓の傍にも丁石。これも摩耗し文字が読めないが、この先で現れた丁石が六十六とあったので、ここは六十七丁ではあろう。先の「六十八」丁石も、この六十七からの逆算ではある。

66丁石
峠越えの道が里に下り、里道と合流する手前、左手に案内板。「道の辻 六十六丁石」とあり、「大窪寺まで約.2キロメートル。右(西)からの牛の首峠・山伏峠を登って来た道と合流する。 左に行くとほどなく県道(志度山川線)に出る。昔は額村と呼ばれたところである。
南へ約1キロメートル行くと、左かなたの山麓に細川家住宅が見えてくる。右へ少し山を登ると、旧へんろ道の石垣上に「御接待 一萬五千人所」と書いた供養碑が建っている」と記される。

案内板傍には丁石ともう1基石仏が並ぶ。牛の首峠、山伏峠、また「御接待 一萬五千人所」の碑は特定できず。

お堂と65丁石
里道を左に進むとほどなく県道3号に合流する。合流点の県道左側に鉄骨造りのお堂があり、延命地蔵尊2基が並ぶ。
その傍に「*十五丁」と刻まれた舟形地蔵丁石が立つ。傍には「六十五丁 南進して大窪寺へ六十五丁(約7キロメートル)このあたりを額峠という。 昔、讃岐国の現さぬき市以東と小豆島を領有した昼寝城主寒川氏の重臣で、奥山村政所額氏の領邑である。
源平合戦のとき開戦の合図の鏑矢が到着した場所をヤトコと呼んだという伝承がある。また、義経の一隊が屋島からの兵士を捕らえて平家の布陣を聞き出したとも言い伝えている。 額村から「ヒロソ」を経て墓松のところから昼寝城へ通じる道があって、古大窪へも行くことができた。
北進すると中津(前山ダム)へ下り、西へ行くと鹿庭(三木町神山)に通じる」と記される。
案内にある説明がよくわからない。とりあえず、ここに65丁石がある、ということだけに留めて先に進む。
額峠(がくとう)
里道が県道3号と交差する辺り、標高368m地点が額峠であろう。峠の北には前述鴨部川の源流域、峠の南には吉野川水系祖江谷川へと水を集める支流(槙川・額川)の上流部となっている。額峠が分水界ということだ。
峠の南も香川県さぬき市ではあるが、讃岐に注ぐ水系を離れ、阿波に注ぐ吉野川水系に足を踏み入れたわけであり、往昔の往来の観点から云えばここは文化圏としては阿波だろう。嫁取りも阿波が多かった、とか。ちなみにこの地を開墾した真部助光氏の祖は額孫右衛門。讃岐でしばしば登場する神櫛王の末裔とする、との記述があった。

64丁石・63丁石
峠を少し下ると県道右手に2基の石仏が見える。1基上部が欠けているが、もう1基には「六十四丁」の文字が見える。更に下りこれも道の右手に2基の石仏があり、そのうち1基に「六十三丁 明和」と刻まれた丁石が続く。
この辺り多和額。多和は一般的には「たわんだ」ところ。ただ、この多和はかつて奥山村と呼ばれたところ。大正8年(1919)に奥山村から多和村に改名したようだ。たわんだ=湾曲した地形からの命名ではあろうが、多和は北から南まで結構長く、どこがたわんだ地形として特徴的であったのか特定できない。

60丁石・57丁石
更に下ると道の左手に、牧場口バス停。その傍に六十丁と刻まれた丁石がある。その少し先に県道の左手を斜めに入る道がある。その入り口には「細川家住宅」の案内。前述案内にあった住宅でもあるので、とりあえず左の道に入る。
少し進むとT字路が。その角に57丁が立つ。遍路道は先に進むが、T字路を左に折れて細川家住宅にちょっと立ち寄る。

細川家住宅
T字路を左に折れ道なりに進むと、道の左手に「細川家住宅」を案内する表示があり、道から少し上ったところに細川家住宅が建つ。案内には「国指定重要文化財 細川家住宅 さぬき市多和額東 四六 山の自然を利用し母屋、納屋、便所、木納屋などを並べた屋敷取りをしている。母屋は梁行6.1メートル(三間半)桁行12.8メートル(六間)で十八世紀初め頃の建物と推定される。屋根はカヤぶきで下までふきおろしたツクダレ形式である。周囲の壁は柱を塗り込んだ大壁造りであり、開口部は片壁引戸で狭い内部の柱はすべて栗の曲材を巧みに使い、ちょうな仕上げになっている。間取りは横三間取りで土間(ニワ)土座、座敷になっている。ニワはタタキニワでカマド、大釜、カラウス等が置かれている。土座は中央にいろりがあり、四国では最古の様式である。座敷は竹座で北中央に仏壇がある。
昭和四十六年六月に国の重要文化財に指定され昭和五十二年に解体修理を行い元の姿に復元された。 昭和五十三年三月」とある。
江戸時代に普通に見られた農家ということである。ツクダレ形式とは雪を滑り落ち易くするため、軒先まで低く草葺屋根を葺き下ろしたものである。

56丁石と小祠脇に55丁石
57丁石の建つT字路まで戻り、旧道を先に進むと直ぐに県道3号に合流。道の右手に56丁の舟形地蔵丁石。上部が少し欠けている。
更に道を進み、同じく右手に小祠がふたつ並び、その傍に舟形地蔵。「五十五丁」と刻まれる。




3基の地蔵丁石と馬頭観音
更に少し先、道の右手に4基の石仏が並ぶ。そのうち1基は「馬頭観音 大正二」と刻まれる。その他の3基は舟形地蔵丁石。「*十四丁 明和元」「是与札所に五十丁 宝暦」「五十三丁 宝暦九」と刻まれる。

右手の多和浦山方面から合わさる沢の合流点辺り、県道右手に壊れた石仏群を見遣り先に進み、多和助光で道は左に折れる。この道は県道3号と国道377号の並走区間となっているようだ。
助光
助光の地名は、この地を開いた真部助光の名に由来する。

45丁石と一夜庵
国道377号との並走区間となった県道3号を進むと、天体望遠鏡博物館の対面、道の右手の石垣上に「四十五丁」の舟形地蔵丁石が立つ。
そのすぐ先、石仏群や青面金剛像が彫られた東谷庚申塔が並ぶお堂があり、案内に「一夜庵 唐から帰国して真言密教の道場の地を探して巡錫していたお大師さんが、当地においでになったとき、山が火を噴き、大鳴動して、人々が恐れおののいていたという。
お大師さんは、ここで一夜の庵を結び、胡麻を焚いて鎮められたと伝えられている。 護摩山の山頂にある巨岩は、大窪寺の寺地を決めたとき、紫雲がたなびいて、聖地の趣を感じて、密教修行の地とされたと言われる。以来、一夜庵として今日を迎えている」とあった。
護摩山・矢倉山
一夜庵の案内の直ぐ先に「護摩山・矢倉山」の案内があり、「護摩山・矢倉山 東谷川を中にして、南に護摩山、北に矢倉山と、当地は西日本では珍しい山や地質で注目されている。 ひつとは千五百万年前の火山活動で、花崗岩の割れ目にマグマが貫入して、そのまま冷えて固まった流紋岩からできた護摩山で、この山の岩頚は香川県自然記念物に指定されている。 もうひとつの矢倉山は、角ばった小石が堆積した角礫凝灰岩でできている。
護摩山には新四国八十八箇所の霊場の石仏が点在し、頂上には大師が護摩を焚いて祈願した巨石がある。
一方、矢倉山には西国三十三箇所霊場の移し霊場が祀られている」とある。
矢倉山にはこの案内板の奥に建つ慰霊碑辺りから上るようだ。

二百万遍供養塔
東谷川を越えると道の右手に『二百万遍供養塔』が立つが、その傍に護摩山の岩頚の案内が再び。「乳白色の岩石で、雲母の結晶や流状構造が肉眼でも観察することができる」とある。


護摩山に立ち寄り
山頂の巨岩がいかなるものか、護摩山にちょっと立ち寄る。山麓にあつた金毘羅さん脇から山道を山頂に向かう。新四国霊場の石仏が点在する山道を10分ほどで山頂に到着。巨岩があるわけうだでもなく、即撤退。里から眺めた山頂部の突出したそれが山頂岩頚であったようだ。

分岐点に標石
東谷川左岸の国道377号を進む。往昔、人馬がやっと通れる程度の道であったようだが、大正4年(1915)に改修工事がなされ、現在は国道として整備されている。結願の寺・大窪寺へは山道だろうと勝手にイメージしていたのだが、情緒には少々欠けるが快適な道ではある。
しばらく進むと、道の左手、ガードレールの端、左に道を分けるところに標石。手印と共に「右 へんろ* 左 山道 昭和十二年」とある。なんとなく左に進みそうな道筋であるため、あえて注意をしてくれているのだろう。

38丁石・34丁石跡
道の左手、コンクリート造りの建物の傍、鉄の柵に囲まれた中に「三十八」丁の舟形地蔵丁石。国道はこの辺りから東谷川筋を離れ支尾根を越えて槇川の谷筋へと向かう。
標高350m辺りの東谷川の谷筋から50mほど標高を上げた標高410m辺りが尾根のピークとなるが、その辺りで道の右手から道が合流する。国道改修以前の道筋だろうか。それはともあれ、その合流点の少し手前、法面の窪みに「三十四丁石」の案内。
「雲の峰 三十四丁石 新しい国道の工事で少し位置は動いたが、丁石は崖の上にある。大窪寺の丁石は宝暦十二年(1762)五月から三年間で、七十丁建てられたのである。
一丁目の石碑を除いて、その他の石材は当地より数キロメートル徳島側に入った砥石谷より切り出したものと考えられる。
近世の讃岐は製糖が盛んであった。煮汁を煮詰める大鍋の底を砥ぐために盛んに切り出された」とある。
旧遍路道
道 案内のある上を彷徨ったが三十四丁の丁石は見付けられなかった。それはそれでいいのだが、ひょっとして遍路道は右から合流する道筋では?国道筋に三十八から三十四までの間の丁石もなかったしなあ、とGoogle Street Viewでチェックする。三十八丁から国道を逸れた道筋に丁石の案内が立っていた。ミスった。が、道を戻る気力なし。

遍路休憩所傍に30丁石
道を進み国道左手に遍路休憩所。その傍に「竹屋敷口 三十丁石」の案内。「大窪寺まで、あとおよそ3.3キロメートルとなった。竹屋敷口・槇川・兼割と、結願寺までの最後の集落へと入って行く。
三十丁、二十九丁の丁石は、高松塩屋町の中條氏の二人の尼僧が施主となっている。「法界萬霊」のためとして、あらゆる霊魂の菩提を祈るもので、この地で二百五十年の歳月を経たものである。このあといよいよ結界に近づく」と記される。
旧遍路道の丁石
三十四丁の案内の先、国道から左に逸れる道がある。34丁から30丁まで丁石が空いているので、これももしやとGoogle Street Viewでチェックすると、道筋に丁石の案内が立っていた。遍路道はこの国道を逸れた道。ここもミスった。

不動明王と29丁石・27丁石
道の右手に2基の石仏。1基は不動明王、あと1基は舟形地蔵丁石。「廿九丁」と刻まれる。案内にあった尼僧が建てた丁石だ。
国道377号は槇川の谷筋へと下り、右手より槇川に沿って上って来た道と合流する手前に27丁石。「廿七丁」と刻まれる。

26丁石と地蔵堂前の丁石
多和竹屋敷の槇川谷筋からの道との合流点を少し先に行くと、道の左手、電柱脇に舟形地蔵。「*六丁」と刻まれる。次いで、道の右手に小さな地蔵堂。地蔵堂前にも舟形地蔵。「*丁 宝暦十三」と刻まれる。

21丁石
地蔵堂の先に槇川。小さな橋が架かる。その手前に北に延びる道があり「歩き遍路」のタグはこの路を指す。が、標石はこの道筋より国道377号筋のほうが多くあるとの記事もあり、国道筋を進む。 と、国道の左手に舟形地蔵があり、21丁石の案内。「国境の二十一丁石 竹屋敷から祖江谷川の支流槇川に沿って、へんろ道が通っていた。途中、光明真言の多数供養塔も建てられている。 この丁石は当地の覚者 三次良と長八の二人が施主となっている。槇川橋より少し北へ行って川を渡り、民家の裏を50メートルほど東へ進むと、二百年前に建てられた四国西国一という大きな庚申塔がある。これから後、川をあっちこっちと渡って大窪寺に至る」とあった。

案内の遍路道が往昔のものか、現在のものかよくわからない。指示によれば槇川橋西詰から槇川右岸を進み50mほど進んで左岸に渡り庚申塔へ、とあるが、橋らしきものも確認できず、まま、国道筋を進むことにした。少し先に石造物群が見えたのも、国道筋をルートにとった一因。

国道377号と県道3号の分岐点に石造群
21丁石からすぐ先で国道377号と並走してきた県道3号は右に分かれる。その分岐点に上述の石造群が立つ。
伊藤萬蔵の標石
道路側の大きな石碑の正面には「名古屋市西區塩町 伊藤萬蔵」と刻まれ、手印と共に「四国八十八番大窪寺道 四国第八十八番奥之院 阿波国大滝寺江百五十三丁」とある。
伊藤萬蔵寄進の石灯籠や香台は遍路歩きの途次に時に見かけるが道標はあまり記憶にない。
伊藤萬蔵
伊藤 萬蔵(いとう まんぞう、1833年(天保4年) -1927年(昭和2年)1月28日)は、尾張国出身の実業家、篤志家。丁稚奉公を経て、名古屋城下塩町四丁目において「平野屋」の屋号で開業。名古屋実業界において力をつけ、名古屋米商所設立に際して、発起人に名を連ねる。後に、全国各地の寺社に寄進を繰り返したことで知られる。68番神恵院の石灯籠、74番甲山寺の香台など遍路歩きの各所で萬蔵寄進の石灯籠、香台に出合った
徳衛門道標
伊藤萬蔵の標石の左、三つ目の石造物は徳右衛門道標。上部に地蔵坐像。 左へんろ 右あハ 徳右衛門」といった文字が読める。丁数が彫られず、大師像ではなく地蔵坐像の彫られたと徳右衛門道標はあまりみかねない。
舟形地蔵標石
徳右衛門道標の左は舟形地蔵標石。「左扁んろ道 宝暦十四年 當村おくに」といった文字が刻まれるようだ。



20丁石と槇川の庚申塔
県道3号と分かれた国道377号は北に向きを変える。一度槇川から離れた国道が槇川へと接近し谷筋を上る地点、道の右手に「二十丁」の舟形地蔵丁石。
その対面に国道から下りるステップがあり、そこにお堂が建ち庚申塔が祀られる。 案内には「五穀豊穣・悪疫退散・無病息災・子孫繁栄などを願う庚申信仰は、千年の歴史をもつ民間信仰である。
それは、干支の十干の甲・乙・丙の『庚』と、十二支の子・丑・寅・卯の『甲』の組み合わせで六十日あるいは、六十年ごとに巡ってくる『庚申』に祈願するものである。
ここ槙川の庚申塔は、文化九年(一八一二)に建てられて、四国西国一といわれている。 上の日月から、尊像と六つの手と法具、下の『見ざる』『言わざる』『聞かざる』の三猿や、朝を知らせる鶏まで、儀軌の約束通りの立派な石像である。
主尊は当地のような青面金剛のほかに、帝釈天・猿田彦神などがあって、庚申の日を縁日にしており、古くから地域間の交流がみられたのである」とあった。
高さは1メートル強もある立派なもの。「槇川講中 世話人甚右衛門」と刻まれる。
これが21丁石のところにあった庚申塔。道が改修整備される以前は、21丁石から槇川筋からこの地に遍路道があったのだろう。

19丁石・18丁石
道の右手に19丁石。「札所左十九丁 宝暦十二」といった文字が刻まれる。国道から左へと槙川右岸に渡る道筋を分けた更にその先、これも道の右手に18丁石。「十八」と刻まれた舟形地蔵丁石。共に山側、コンクリートで補強された壁面傍に立つ。

17丁石・13丁石
コンクリート面が切れた山側、道の右手に「十七丁」と刻まれた丁石。その先も道の右手に「十三丁」の舟形地蔵丁石が立つ。




16丁石から14丁石
17丁と13丁と間が開いている。見落としがないか確認に戻るが丁石は見当たらない。で、21丁石の案内にあった「これから後、川をあっちこっちと渡って大窪寺に至る」との記事を思い起こす。 ひょっとして、国道377号の左に流れる槙川の右岸を通る道筋にあるのでは?と、18丁石の先にあった槙川右岸へと向かう分岐まで戻り、成り行きで道を進み槙川右岸の道に出る。少し進むと道の右手に「十六丁石」の指示がある木標が立つ。予想があたった。


16丁石
右手に入る土径を進むと無住かと思われる民家がある。その軒先を抜け、道を進み前面が開けた道の左手に自然石の石碑と共に十六丁石が立つ。旧遍路道の趣を残す景観が、誠にいい。


15丁石
その少し先、道の左手の小祠に石仏座像と十五丁石が並ぶ。この風情も、いい。






15丁を越え、成り行きで進み左に曲がり道に出る。そのT字路に案内があり、「蹴切り石を見越すふたつの丁石 十五丁と十六丁のふたつの丁石の周辺は、もっとも昔のへんろ道の風情を残す地域である。
北を見ると、瀬戸内海を一跨ぎにして、はるか南海の果てへ通り過ぎていった巨人の伝説で、足蹴りにしたという岩山の情景は、矢筈山の山容を一望できる。 地主墓や弘法大師座像が横に建ち並び、川の水音と、鳥や虫の鳴き声に見せられる場所である」とあった。
巨人伝説のくだりは、そのつながりがよくわからないが、15丁石の横に並ぶ石仏像は大師座像、16丁石横の自然石は地主墓ということだろうか。
14丁石
道を進むと、道の右手、畑の向こうの竹林の前に木標が見える。木標までは道らしきものはないのだが、畑の端の畔道を進み木標に。木標には「十四丁」とあり、右を指す。
竹林を抜け、細くなった槙川に架かる橋を渡り左の藪へと入る。道は少々荒れ、大丈夫かな、などと不安になる頃に、「十四丁石」、「十三丁石」の案内。十三丁石は先を指すが、十四丁石は谷側を指すように見える。目をこらすと、道の下、槙川傍に舟形地蔵が見える。
立ち木で体を支え斜面を下りるとそこに「十四丁」と刻まれた舟形地蔵丁石が佇んでいた。橋の架かる以前のへんろ道筋ではあったのだろう。
13丁石へ戻る
十四丁石から元の土径に戻り、国道377号下のコンクリート水路溝を進み、民家庭先を抜けて国道377号へのアプローチとなる坂道を上る。国道と対面には先ほど見た13丁の舟形地蔵丁石が立っていた。これで丁石はなんとかつながった。また往昔の遍路道らしき道筋も少しばかりトレースできた。

⒓丁石・11丁石
13丁石まで戻り、先に向かうと、国道左手、ガードレールの外に「十二丁」と刻まれた舟形地蔵丁石。その先、国道右手に「十一丁 宝暦十三年」と刻まれた舟形地蔵丁石が立つ。

お堂の10丁地蔵標石と石仏群
11丁石の対面、国道の左側が少し広くなった駐車スペースとなっており、そこに「大窪へ十丁、脇町へニ百丁」の案内が立ち、「元文三年(1738年)の宝珠を持った 地蔵菩薩坐像 に "札所へ十丁" と刻み、横の明和四年(1767年)三月建立の 弘法大師坐像 には、"これより脇町二百丁、四国中やどや中" と彫った、地蔵立像があり、「先祖菩提のため」と書いた蓮の花を持った地蔵尊など四体の石像が、一つ屋根の小屋に収まっている。
その周辺は庚申さん、地神さまが祀られる兼割の聖地である」と記される。

どこにお堂が?と、その傍に「兼割庚申塚」の木標が国道から下りる方向を指している。指示に従い取りあえず下りてみる。途中、「十丁石」、「十一丁石」を指示する木標があり、十丁は進行方向、十一丁は国道方向を指す。十一丁は国道に立っていたので、オンコースと先に進むとお堂があった。
中には台座に梵字と供に「三界萬霊 従是札所 十丁有」と刻まれた地蔵坐像、台座に手印の刻まれた地蔵坐像、案内にあった地蔵立像(摩耗し文字は読めない)などが並ぶ。お堂傍には青面金剛の彫られた兼割庚申塔も祀られていた。
お堂から先の遍路道
さて、これから先は?お堂の地蔵坐像の台座に彫られた手印は左手、つまりは国道377号と真逆の槇川右岸を指す。お堂の廻りは獣除けの柵で囲まれてはいるのだが、槇川には石橋も架かり、右岸に渡れそう。とはいえ、古い遍路道の記事には丁石は現在の国道に沿って残るとのこと。結局国道筋に戻り、丁石を目安とした遍路道トレースを続けることにした。

10丁石・9丁石
国道に戻り先に進むと、道の右手、国道より少し奥まったところに舟形地蔵が見える。「十丁」と刻まれる。その先、これも国道右手に「九丁」と刻まれた舟形地蔵が立っていた。

8丁石・7丁石
今度は国道左手に「八丁」、「七丁」と刻まれた舟形地蔵丁石が続く。






6丁石・5丁石
次いで、国道右手、法面手前に「六丁」と刻まれた舟形丁石。五丁と刻まれた舟形地蔵は国道右手、大窪寺へと国道から左へ折れる角のガードレール手前に立っていた。遍路道はこの角を左に折れ大窪寺への最後のアプローチとなる。

4丁石・3丁石
ゆるやかな坂を上ると、道の左手に駐車場。道に沿ったコンクリート壁上の駐車場フェンス傍に舟形地蔵が見える。上部が少し欠けた石仏には「四丁」と刻まれていた。
3丁石は道の右手、駐車場の出入口前の一段高い所に立っていた。傍にあった案内には「土佐の井筒屋の建てた丁石 宝暦十二年(1762年)五月吉日、遥か土佐国 ( 現 室戸市佐喜浜 ) の廻船問屋井筒屋「利平治」が、六丁までの丁石を寄進している。
「大窪寺」前の "一丁地蔵尊" だけが、高さが 124cm ある花崗岩に彫られ、精緻な小屋の中に安置されている。
この "三丁石" は高さ 64cm、"五丁石" が高さ 53cm、"六丁石" は高さ 65cm の砂岩に、地蔵尊 の立像が彫られている」とあった。


八十八番札所・大窪寺

駐車場から進むと左手から道が合わさる。二十一丁石の辺りで分かれた槇川右岸の道である。国道377号(県道3号)からの分岐点には歩き遍路のタグはこの路を指している。標石を目安に旧遍路道をトレースするといった酔狂な者でもない限り、歩き遍路さんはこの道を辿るのだろう。

仁王門
道の合流点先に大きな仁王門が見える。結構新しそう。平成2年(1990)に再建されたようだ。結願の寺へのアプローチは昔からの山門から境内に入ろうと、道なりに先に進む。


山門
土産店で賑わう山門前に。「八十八番結願所」と刻まれた石柱の上部には左右を指す手印も刻まれる。
石段を上り山門へ。鐘楼門となっているこの山門は二天門と称される。仁王ではなく大梵天と帝釈天がお寺を護る故とのことである。元禄年間再建された、とのこと。


本堂・阿弥陀堂
二天門を潜ると正面に本堂。その右手に阿弥陀堂。Wikipediaには、「医王山(いおうざん)遍照光院(へんじょうこういん)大窪寺と号する。本尊は薬師如来。宗派は真言宗大覚寺派。 寺伝によれば、奈良時代の養老年間(717年‐724年)に行基がこの地を訪れたとき悪夢を感得し草庵を建て修行をしたのが開基とされ、弘仁年間 (810‐823) に唐から帰朝した空海(弘法大師)が現在の奥の院にある岩窟で虚空蔵求聞持法を修し、谷間の窪地に堂宇を建て等身大の薬師如来坐像を刻んで安置し、また恵果阿闍梨から授かった三国伝来の錫杖を納めて、窪地にちなみ「大窪寺」と名付けたとされている。
その後、真済僧正が住職のころ寺領百町四方を結界とし大きく隆盛し、また、女人の参詣を許して勧請を授けたので女人高野として栄えた。そして、天正の兵火や明治33年の大火で苦難を受けたときもあるが結願霊場として法灯を守っている」とある。

本尊の木造薬師如来は常の薬壷ではなく、法螺貝を持つ。厄を吹き払うということのようだ。その法螺貝も痛みが激しく水晶に替えられた、とあった。
また本堂には弘法大師が巡錫中に手にされていた三国伝来(天竺・唐・日本)の杖錫も祀られる、と。大師が唐の恵果大阿闍梨から授かったものと伝わる。168センチ、1.2キロほどのものと言う。一度見てみたい。
この杖錫は天正年間、長曾我部勢の堂宇焼き討ちにも耐え今に伝わるとのこと。それにしても、讃岐の寺は長曾我部勢による兵火で焼失したものが多い。関東では武田信玄の信玄焼きが知られるが、「長曾我部焼き」といった言葉でものこるのだろか。 因みに、天正年間に焼失した堂宇は、江戸時代に高松藩主である松平公にょり七堂伽藍が再建されたが、上述の如く明治33年に失火で股灰燼に帰した。現在の堂宇はほとんどそれ以降の再建と言う。

大師堂
本堂の左手に大師堂。大きな堂宇であるが、昭和59年(1984)に再建されたものとのこと。本堂が二天門正面であったが、大師堂は新築された仁王門からの最初のアプローチ先。

宝杖堂
大師堂の傍には結願のお遍路さんが杖を納める宝杖堂も建っていた。杖は年に二度、お焚きあげに供されるとのことである。





奥の院胎蔵峯寺
お寺さまには奥の院があるという。結願の締めくくりというわけでもないのだが、ちょっとお参りに。大師堂から仁王門へと向かう途中から奥の院へと上る石段がある。石段は直ぐに岩場の多い道に替わる。途中、女体山へと分ける分岐点を左に折れるとほどなく奥の院に着く。1キロ弱。30分もかからない。
奥の院のある場所は少し開けており。岩場に食い込んだようなトタン張りの小屋とその左手にふたつの小祠に石仏が座る。小屋は施錠され内部は窺えない。祠の石仏は1基は大師像、もう1基は不動明王の姿に見える。祠の左は危険通行止めとなっていた。
Wikipediaには「境内から女体山への登山道を0.5km上がると奥の院との分岐があり、その0.2km先に堂がある。阿弥陀如来や弘法大師など6体の石仏を祀っていて、その堂の左には、空海が本尊に水を捧げるため杉の根本を独鈷で加持すると湧き出た清水が今も枯れず直径1m弱の池になっている。広場の先(崖崩れの危険の為通行止め)の岩壁に、上には虚空蔵菩薩を下の左右には胎蔵界と金剛界の大日如来を表す3つの梵字が刻まれ、この場所で行が行われたとみられる」とあった。石仏にお参りし境内に下りる。

参道口の道標
参道口、道の反対側の土産物店の前に2基の標石が立つ。舟形地蔵には「二丁 宝暦十二」と刻まれる地蔵丁石、もう1基には「是ヨリ切幡ヘ五里 白鳥ヘ*里半」と刻まれる。
参道口石段前の「八十八番結願所」と刻まれた石碑にも手印で指すように、讃岐の結願の寺から阿波への遍路道を示すようだ。
切幡寺は四国霊場十番札所。阿讃の嶺を越えて10番札所に出る。ルートは大雑把に言えば、大窪寺より吉野川水系日開谷川筋を長野まで進み、そこから南下する日開谷川筋に沿って県道2号を吉野川が開析した低地に向かう。
白鳥は白鳥の社で知られる地。大窪寺から国道377号を長野までは切幡寺ルートと同じ。旧遍路道は長野の先で中尾峠を越えるが、ルートは基本湊川の谷筋を国道377号に沿って進み、途中318号に乗り換え白鳥に。そこからは義経奇襲ルートで知られる大阪峠を越えて1番札所霊山寺に向かうのだろう。1番から10番までは吉野川左岸の低地にあり、それほど距離も離れていないため、ショートカットで切幡寺に下ってから、1番から9番をカバーするということかとも思える。

予土国境からはじめた遍路歩きも、と言うか、標石を目安とした旧遍路道トレースも、当初の伊予をカバーし終え、成り行きで讃岐に足を踏み入れ、讃岐もカバーした。ここまできたら次は阿波と土佐もカバーしようかと。
屋島寺、八栗寺、志度寺と讃岐の北東端の海沿いを辿った遍路道も、志度寺からは南に下り阿讃を画する山地へと向かう。
南に進んだ次の札所である八十八番長尾寺は未だ讃岐平野の中。大よそ7キロほどの行程。距離はみじかいのだが、志度寺であれこれ気になることが現れ、メモが少し多くなった。今回は志度寺から長尾寺までのメモとする。



本日のルート;
八十六番札所 志度寺>普門院>高松自動車道手前に山頭火歌碑>暮当・当願大明神>標石>萩地蔵>玉泉寺に2基の茂兵衛道標(241度目・143度目)>造田八幡の茂兵衛道標(159度目)>広瀬橋北詰の茂兵衛道標(181度目)>長尾橋(へんろ橋)北詰に2基の標石>茂兵衛道標〈175度目〉>住吉神社北の標石>秋田清水九兵衛道標>八十七番札所長尾寺

八十六番札所 志度寺

圓通寺・自性院
参道を仁王門へと進む。途中左手に圓通寺、右手に自性院。圓通寺は、元志度寺の末寺西林坊と称され、江戸時代、元和年間(17世紀初頭)の頃までは志度寺住職の隠居寺となっていたようだ。
自性院は元志度寺の御影堂跡とも言われ、境内に平賀源内の墓があることで知られる。源内の墓は浅草橋場の総泉寺跡にあるが、そこから分骨されたものとのこと。お墓の写真は常のごとく遠慮しておく。

仁王門
大型の八脚門。切妻造り・本瓦葺き。寺伝によれば寛文年間(17世紀中頃)再建と言われ、国の重要文化財に指定されている。仁王門に建つ金剛力士像は3mを越える大像であり、運慶作とも伝わる。
仁王門を潜り境内を進む。一万坪とも言われる境内には木々が茂り、森の中を歩くといった雰囲気。土佐と伊予の県境から讃岐へと多くのお寺さまを歩いて来たが、こういった参道が木々に覆われた境内はあまり見かけなかったように思う。境内を進み本坊・庫裏の前を左折し本堂に。

五重塔
本堂に向かう左手に五重塔。地元篤志家が建てたもので、昭和50年(1975)落成法要が行われている。その高さ33mと言われる。

奪衣婆堂
本堂手前の左手に奪衣婆堂。奪衣婆像とその左右には地蔵像と太山府君が並ぶとのこと。奪衣婆は三途の川で待ちかまえ、亡者の衣服をはぎ取り、その重さで三途の川の渡りかたを教える役割をもつ、と言う。楽に渡れるか苦労するか、亡者があの世で最初に出合う試練である。閻魔大王の妻とも言われ、民間信仰では重要な役割をもつ。
奪衣婆像の左右に並ぶ地蔵と太山府君。地蔵は閻魔の化身、また太山府君は閻魔さまと同じく地獄の10人の裁判官(十王のひとり)ともされる。

それはともあれ、奪衣婆が立派な堂に祀られることは四国の札所ではあまり見かけなかったように思う。この寺の境内には閻魔堂もあり、なんとなく閻魔様が重要視されているようだ。チェックすると、このお寺様は閻魔様の氏寺といった縁起があった;
御衣木縁起
寺に御衣木(みそぎ)縁起が残る。御衣木(みそぎ)とは神仏の像を造るために用いる木のことである、縁起に拠れば、はるか昔近江の国高島郡の深谷・白蓮華谷に瑞光・異香を薫じる大木があった。その大木が継体天皇の御代、天変地異により谷より流れ、琵琶湖、淀の津を経て海上に至り志度の浦に流れ着いた。その間数百年の歳月を経るも朽ちることはなかった、と。
推古天皇33年(626)、この地、志度寺直ぐ傍の地蔵寺の地に庵を結ぶ凡薗子尼(おおしそのこに、智法尼とも)がこの霊木を草庵へ持ち帰り安置した。と、しばらくして仏師が現れ、その霊木を刻み十一面観音を造立した。この仏師は補陀落観音の化現であった。
本尊はできた。が、それを安置する堂宇がない。さて、と思っていると番匠が現れ一間四面の堂宇を建てた。この番匠は閻魔大王の化現であった。閻志度寺が閻魔大王の氏寺と称される所以である。

本堂
中世以来の密教本堂の姿を今に伝える本堂は国指定重要文化財。本尊の木造十一面観音も国指定重要文化財となっている。
補陀落山清浄光院志度寺。真言宗善通寺派の寺。補陀落山の由来は補陀落信仰の故。境内のすぐ北に迫る志度の海は、土佐の24番札所御崎寺、38番金剛福寺と共に補陀落渡海の海。補陀落浄土に繋がるとされ、極楽浄土を求める渡海者を生んだと言う。「死度の海」、「死門の海」とも称された。
死度の海
死度の海と言えば、この寺も「死度道場」とも呼ばれた、と。「讃州志度道場縁起」には:天智天皇の御代、藤原鎌足の娘・白光女が唐の高宗の妃となる。白光女は藤原氏の氏寺である興福寺に三つの宝珠を送るも、そのひとつ面向不背の珠が志度の浦で竜神に奪われる。
時を経て鎌足の子、藤原不比等が珠を取り戻すべく志度の浦に。3年の歳月が過ぎ海女との間に房崎を成す。不比等は素性を明かし、珠を竜神より取り返すことができたなら、房崎(次男であるが)を後継者とすると海女に告げる。
海女はわが子のために浦に潜り竜神より珠を取り戻すが、竜神との闘いの傷がもとでむなしくなる。不比等は五間四面の堂を立て海女を弔った。このお堂は「死度の道場」と名付けられた。「死んで帰る」の意である。不比等は都に戻り、房崎は長じて房前の大臣となった。この「海女の珠取り伝説」は謡曲「海人」として知られる。

元より藤原鎌足の娘が唐の皇帝の妃となったこともなく、不比等が志度の浦に来たこともないであろうが、「讃岐の志度道場」は平安時代後期の歌謡集である「梁塵秘抄(りょうじんひしょう)」には、信濃の戸隠、駿河の富士などとともに、「四方(よも)の霊験所(れいげんしょ)」として知られていたようであり、それ故に、志度の海は古くから異界へ通じる霊場とされていたようである。「死度」の所以ではあろうか。

因みに取り戻した珠は一時興福寺中金堂に戻るも、康平三年(1060)のお堂焼失後行方不明となる。が、はるか時を隔てた昭和51年(1976)に琵琶湖に浮かぶ竹生島の宝厳寺で見つかった、との記事があった。竹生島は越前の興福寺所領の海上輸送路上ではある。
また、珠を奪われた竜神は取り戻すべく奈良興福寺の猿沢の池に来たりて、奈良の竜神となった後、室生の善女竜神となった、と言う。これもなにか意味がありそうだが、深堀は一時思考停止。 因みに興福寺は藤原氏の氏寺である。

それはそれとして、何故に藤原不比等が志度寺の縁起に登場するのだろう。讃岐の代表的国人は讃岐氏、讃岐橘氏、讃岐藤原氏ともいう。そう言えば、遍路道すがら出合った香西氏も藤原氏の流れであった。そういった背景があっての藤原家の祖である不比等の登場だろうか。単なる妄想。根拠なし。

大師堂
本堂右手に大師堂。本堂と結ばれる。大師堂の傍に薬師如来、阿弥陀如来、観世音菩薩の坐像がある。初代藩主松平頼重が若き頃、家臣を切腹に処したことを後悔し別邸に祀ったもの。元禄15年(1702)住職が時の藩主頼常に願い当時に移したものである。

閻魔堂
大師堂の北に西面する閻魔堂。奪衣婆堂と対面する。お堂には十一面閻魔大王が祀られる。上述縁起の如く、志度寺は閻魔が番匠として化現し寺を建てたとされるが、その他の寺に伝わる縁起も閻魔大王による蘇生譚をベースとして寺の再建がなされたとの縁起がある。白杖童子、当願暮当、松竹童子縁起による平安時代の再興、また千歳童子、沙弥阿一の蘇生による鎌倉時代の寺の修造伝説がそれである。十一面観音の宝冠を戴く龍王=閻魔の慈悲により蘇生するといったストーリー・蘇生譚を語り修行僧が寺の修築費用を勧請して廻る拠り所としての縁起譚という記事も見かけた。
因みに、今回奪衣婆堂→本堂→大師堂→閻魔堂と巡ったが、志度寺はかつて「死渡道場」とも呼ばれ、この世とあの世の境と考えられていたわけで、とすれば三途の川でまず奪衣婆に出会い、観音様(本堂)、お大師様(大師堂)で功徳を積み、閻魔様の裁きで蘇生する、というストーリーがこの境内で展開されるよう配置されているとの記事もあった。

薬師堂
薬師堂前の石造香台は名古屋の伊藤萬蔵の寄進、世話人中務茂兵衛の手になるもの。茂兵衛道標で知られる中務茂兵衛は説明するまでもないだろう。
伊藤萬蔵
伊藤 萬蔵(いとう まんぞう、1833年(天保4年) -1927年(昭和2年)1月28日)は、尾張国出身の実業家、篤志家。丁稚奉公を経て、名古屋城下塩町四丁目において「平野屋」の屋号で開業。名古屋実業界において力をつけ、名古屋米商所設立に際して、発起人に名を連ねる。後に、全国各地の寺社に寄進を繰り返したことで知られる。68番神恵院の石灯籠、74番甲山寺の香台など遍路歩きの各所で萬蔵寄進の石灯籠、香台に出合った。

海女の墓
仁王門の北側に石塔群が建つ。上述『讃州志度道場縁起』には、藤原房前が行基菩薩とこの地を訪れ、母である海女の菩提を弔うため千基の石塔を建てたとあるが、石塔群はその名残である。

生駒親正の墓
海女の墓の傍に生駒親正の墓塔と伝わる五輪の塔がある。常の如く写真はパス。
美濃の生まれ。織田信長に仕え、のちに秀吉のもと身を立て、賤ヶ岳の合戦などの武功により、秀吉の天下の頃、天正15年(1587)には17万石を与えられ讃岐国主となり、高松城、丸亀城を築き善政を敷く。
朝鮮出兵の後は伏見城に戻り中老として豊臣政権を支える。関ケ原合戦時には西軍に与したため謹慎し、一時高野山に籠るも、一子一正の東軍での活躍によりその罪を許された。所領を安堵され、讃岐に戻り、慶長8年(1603年)に高松城にて没する。
案内には「隣の海女の墓は生駒家の先祖に当たるとして志度寺を崇敬した」とある。ということは生駒氏の先祖は藤原摂関家に繋がるとのことであろうか。チェックすると、生駒氏は藤原氏の末裔と称した、と、その故の不比等の珠取り伝説?とは思えども、志度寺縁起は鎌倉から室町の頃のものと言うから、生駒氏の来讃より古いわけで、妄想あえなく撃沈。

志度寺庭園
本坊の裏に庭園がある。室町期の文明5年(1473)頃、讃岐を支配していた細川氏により寄進された曲水式、回遊式池水庭園。長年荒廃したままであったようだが、昭和56年(1981)修復された。


お辻の井戸
回遊式庭園に続く無染庭の南にはお辻の井戸がある。田宮坊太郎の仇討ち成就を金毘羅大権現に祈願し満願の日に自害して果てた乳母のお辻ゆかりの井戸と言う。この井戸で水垢離をとったと伝わる。
田宮坊太郎
我々の世代には子供時代の読み物に登場した人物であり仇討物の主人公として知られるが、仇討のエピソードは信憑性が疑われており、芝居や講釈師や浪花節などから生まれた虚構との説もある。
それはそれとして、案内には「坊太郎の父田宮源太郎は文武にすぐれ讃岐丸亀藩の生駒氏に召し抱えられる。が、その信望の高まるのを恐れた藩の武芸指南である堀口源太左衛門によりだまし討ちにあう。
坊太郎を護るべく乳母のお辻は志度寺に逃れる。成人した坊太郎は江戸に出て柳生道場で剣の修行に励み、18歳になり丸亀に戻り藩主の許可を得て本懐を遂げる。坊太郎はその後仏門に入り父とお辻の冥福を祈り、二十二歳でその生涯を終えた」とあった。

上述の如く、数々の伝説に彩られたこの寺は源平合戦の舞台でもあった。平家は志度寺に陣を張っている。が、志度を目指した義経の率いる八十騎に不意を突かれ一戦も交えることなく海上に退いたとのこと。
室町時代には四国管領の細川氏が代々寄進を行い繁栄するが、その後、長曾我部の兵火により堂宇悉く焼失。江戸時代に入り、慶長9年(1604年)生駒親正の夫人教芳院が観音堂を再興。善年に亡くなった生駒親正の供養だろう。その後代々の生駒氏により寺は庇護され、寛文10年(1671)、には新たに高松藩主となった松平氏によりの本堂・仁王門などの寄進が行われ、寺は興された。

志度寺から長尾寺へ

普門院
志度寺山門を出て参道口を左に折れ南に下る。道の左手に普門院。境内を囲む塀が美しい。境内も落ち着いたお寺さま。世界的デザイナであるイサムノグチ氏の愛した寺とも言う。ロスの生まれ。高松市牟礼の花崗岩・庵治石を使ったことがきっかけで牟礼にアトリエを構えた、と。 道なりに進み、国道11号を越えると道は県道3号志度山川線となる。徳島県吉野川市へと抜ける道である。

高松自動車道手前に山頭火歌碑
更に南に進み、高松自動車道の少し手前で県道から右に入る道がある。これが旧遍路道。県道を離れ右に入ると高松自動車道の高架手前にお堂があり、傍に「カラスないてわたしもひとり 山頭火」と刻まれた石碑が立つ。
山頭火
種田山頭火。漂泊の自由律詩人として知られる。遍路歩きの途次、松山では終焉の地一草庵に出合った。また讃岐の出釈迦寺には「山あれば山を観る」と刻まれた大きな句碑も立っていた。 この句碑がここにあるのは、山頭火がこの地で詠んだ?チェックすると、この句は大正15年(1926)の俳誌「層雲」に掲載されたもので、詠まれたのは大正14年(1925)、熊本の味取観音堂での堂守の時。山口県防府市の実家破産の後、精神疾患などを病んだ末に熊本に居を移し、出家得度した時の作。添書きに「放哉居士の作に和して」とあるように、「層雲」に掲載された尾崎放哉の「咳をしても一人」を念頭に造られたもの。オリジナルは「鴉啼いてわたしも一人」。 漂白の詩人たる『解くすべもない惑ひを背負うて』、行乞(ぎょうこつ)流転の旅に出たのは大正15(1926)年のことであり、四国遍路は昭和3年(1928)、46歳の時と昭和14年(1839)57歳の時の二度と言う。ということは、この句はこの地の詠まれたものでもないし、漂白の旅の途次の作でもないようだ。寂しさの漂う詩情に故に立てられたものかと思える。

暮当・当願大明神
高松自動車道で一旦途切れた遍路道は、高速道路高架先から再び県道に沿って山側に入る。少し小高い所を進み再び県道3号に合流する箇所に「しこくの道」の指導標が立つ。
県道に合流した遍路道は幸田地区を進む。道の左手に幸田池(国土地理院地図は幸田池とあるが、Google mapは長行池とある)を見遣り長行地区に入ると、県道右手に幾多の石造物の立つ堂宇がある。暮当・当願大明神である。
暮当・当願については、志度寺の縁起に登場した。文字面に何となく惹かれたのだが、深堀すると大変そう、ということでスルーしたのだが、またまた現れた。案内には「延暦(約1200年前)の昔、此の長行に当願と暮当という仲の良い猟師が居た。ある日、志度寺の修築法要が営まれ、暮当は狩りに出たが、当願は志度寺に参拝した。法席にいながら当願は「暮当は大きな獲物を捕まえただろう」と殺生心を起こした。忽ち当願は口がきけず立つことが出来なくなった。
心配して迎えに来た暮当は、当願の下半身が蛇となっているのを見て驚いた。当願を背負って帰る途中、「体が熱いので池に入れてくれ」と云うので、しかたなく幸田の池に入れた。
この時に当願は片眼をくり抜き「この目玉を壷に入れておくと汲めども尽きに美酒ができる」と教えた。暮当は云うとおりにして売ると家は繁盛した。
当願の体は次第に大きくなり、幸田池から満濃池に、その後大槌、小槌の海に入って竜神となったという。里人はゆかりのある此処に二人を大明神として祀った。旱ばつの時に神酒を供えて雨乞いをする習慣が今も残っている」とある。

なんとなくわかったようでわからない。目玉をくり抜くくだり、そして特に後半部は結論を急ごう、といった風で繋がりがわからず、唐突感がある。あれこれチェックし補足する;
目玉をくり抜くくだりは、「蛇となった当願に暮当は毎日会いに来る。当願はそれを徳とし、一眼を抜いて暮当に与え、尽きることのない酒を手に入れることができるようにした」とある。
また後半部は、「この美酒の秘密に不審の念をもった暮当の妻が不思議の因が珠(目玉)にあることを知る。そのことが噂となり国主の耳に達する。曰く、「美酒を生み出すのが片目であるとすれば、もう一つの目も差し出せ」と。
暮当は深く悩みながらも大蛇となった当願にもうひとつの目を乞う。当願は快諾。暮当はもうひとつの目国司に献上するも褒賞も断り、それ以来行方不明となった。 当願はこのことを知り、悲しみ怒り、池を飛び出し高松・香西沖の大槌と小槌の島の間(槌の門)まで飛んでいき、竜神となった」ということである。
縁起仕様で読むと
なんとなくストーリーはつながった。が、志度寺の縁起という観点からこの話をどのように解釈すればいいのだろう。以下は妄想。
まずは暮当と当願という名前。猟師というより僧侶といった響きの名。暮当は「暮に当たる>末世を連想させる。当願は「仏に救いを願う」、また「とうがん>到岸=涅槃の岸」を連想させる。 次いで、当願が参列した志度寺の法要。これは山城淀の津の白杖童子が仏のお告げによって志度寺本堂を造営し、その落慶供養の席とのこと。その大切な法要で、有難い法華八講の最中、弟の狩りでの殺生・邪心を抱き念仏を唱えることもなかった、と。蛇となったのはその報いということだろうか。
暮当の行いを徳とし、一眼を抜いて暮当に与え、尽きることのない酒を与えるといったくだりは、暮当は「六根の缺ぬる者は成佛せす」とその申し出を断ろうとするが、当願は、「薩?は虎に身をほとこすといへとも皆是佛果を証」すと左眼を抜いて渡したようだ。如何にも仏の功徳といったテイストである。美酒を与えるとは邪心故に大蛇となった当願の菩薩行=利他行への境地を暗喩しているようにも思える。我流解釈ではあるが、なんとなく縁起話といったコンテクストになってきた。 境内の説明にはなかった、当願が行方不明となったというくだりは、単に己の行いを恥じた故のことか、それとも暮当と当願が一心同体の存在に昇華されたとの暗示?ちょっと強引だが。

以上を志度寺の縁起風に読むならば、末世において彼岸の浄土を願う民が己の邪心故の咎として苦悩する(大蛇の姿)も、菩薩行を行い、自分だけでなく他人をも仏とする(美酒で象徴)といったストーリーとして読み解く。あくまでも妄想。なんら根拠なし。

標石
遍路道は堂宇脇から県道を逸れ土径を進む。ほどなく舗装された道となる遍路道を進む。農家の間、のどかな風景を見遣りながら歩くと道はふたつにあかれる。その分岐点、コンクリートの墓地土台前に標石。「右 扁んろみち」とある。
指示に従い右手の道を数進むと、ほどなく少し広い舗装道に出る。その箇所から先には如何にも遍路道らしき土径が続くのだが、遍路道はここを左折。道なりに進み県道3号に戻る。

萩地蔵
遍路道は県道を斜めに横切り、県道の左手に移るのだが、県道との交差点に萩地蔵が祀られたお堂がある。お堂といってもプレハブ造りで遍路休憩所を兼ねているようだ。飯田桃園の敷地にあり、飯田さんが管理してくださっている、とのこと。
お堂に入ると石造の地蔵坐像がある。台座には弘化三年と刻まれる。
お堂にあった萩地蔵の由来によれば、「本村大字宮西字長行に萩地蔵がある。地蔵堂は明治三十三年の頃までは今の場所で西に面していたのを志度脇町線の道路改修の時、東面に変更した。
この地蔵を萩地蔵と言うのは千百数十年前、弘法大師が四国開発のため志度から長尾に向かっていたところ、ここに萩の木があった。大師はこの萩の木を採取してその萩の木のあったところに安置し開眼し萩地蔵と言った。
そして*百年前、長尾寺本尊開帳及び寺宝展覧を行った時、弘法大師とゆかりのふかいのと隣村ということでこの萩地蔵尊を持ち帰り陳列した。展覧が終わっても返還しなかったので長行村の人がとりに行った。ところが寺の方は地蔵尊を紛失したといってその責任をとって今の石造りの地蔵尊を代償として送り今のところに安置したと伝えている。
なおもとの萩の地蔵尊は現在長尾寺の堂内に安置しているとのことである」とある。
この案内には手書きで補足修正がなされている。大師がこの地の萩の木を採取して尊像を彫った とのくだりには、「志度寺の本尊を作った、その余った木でつくったとの説あり。当時、鋸は無く、石を割るように、木を剥ぐ技法が使われていた」と書かれている。萩の木は尊像を彫れるような大きな木でもなく、本尊を彫るための木を剥ぐ>はぐ>萩という事だろう。
戻された石造りの地蔵尊については「衣をはぐってみると弘法大師の像の頭部と左手を壊し、別のもので急ぎつくった偽物地蔵であることが判明している」とあり、最後には「後年別の大師像も小さな像にすり替えられているので、そのままあったとしても盗難にあっていたはずなので、長尾寺恵良にあるほうが良策と思える」としていた。
なおまた、「四国のみち」にある案内は作り話で、この案内がこの地に伝わる伝承を記述した原本と一致するとのコメントも書かれていた。
まとめると、萩地蔵は萩の木で彫られたものではなく、志度寺の本尊を彫るために剥いだ木の余ったものを、貰い受け彫った〈剥地蔵>萩地蔵〉ものであり、木彫りが石造りとなっているのは長尾寺が木彫り地蔵に替えて石造地蔵を戻したため。ということだろう。「四国のみち」にある案内は目にしていないためコメントできず。

玉泉寺に2基の茂兵衛道標(241度目・143度目)
県道左手に移った遍路道を進むと、道の左手に玉泉寺がある。境内は道路より一段高いが道脇には2基の道標。共に茂兵衛道標である。
手前のものは茂兵衛241度目のもの。「八十七番奥の院」、また手印と共に「日切地蔵尊 明治四十四年」といった文字が刻まれる。もう1基には「ひだり 長尾寺 明治弐十八年」といった文字が刻まれる。巡礼回数は刻まれていないのは珍しいが、巡礼年度からして143度目のものである。このお寺は札所長尾寺の奥の院ということになる。

石段を上り境内はいる山門前に「お大師さんの休み場」の案内。「十六世紀の半ば過ぎに書かれた岡田大夫の『さぬき一円道者日記』には、西沢の里から宮の西の里の間に六人の道者の名が書かれている。このあたりが「お大師さんの休み場」と言われる由来も、ここがそのような聖なる場所であったためと思われる。『新撰讃岐圀風土記』には、宮の西に仏堂として「数珠くり地蔵」が載っている。門前に「お茶堂」があって、昔からお接待で賑わうミニ札所であった。
お地蔵さんは、この世とあの世を守る仏として、庶民に親しまれ、信仰されてきた。
玉泉寺の本尊日切地蔵の日切というには、日を限ってお願いすると功徳がいただけるというお地蔵さまである。
境内には六十年間に二百八十回巡拝した中務茂兵衛が建てた明治二十八年(1995)と明治四十四年の二つの道標がある。
同寺の本堂・庫裏・鐘楼は、昭和恐慌の不景気の最中に整備されたもので、山門は霊芝寺から移された薬医門である。本堂前の棚仕立ての古木〈白い房の長い藤の花〉は、近在きっての美しさである」とあった。

宮西はこの辺り。西沢の里はどこなのか不明。お接待は盛んでたったようで、振る舞われたミカンの皮を頼りに歩けば長尾寺へと至った、とも。霊芝寺は、この地の東、野間池傍に見える。

山門を潜り境内に。こじんまりしたお寺さま。縁起によれば、大師がこの地に紫雲たなびく光明を発する霊石を感得し一宇を立て、地蔵菩薩を安置したのがはじまり。故に古くは霊石寺と称されたが、明治初年に廃寺となるも、昭和5年(1930)に観音寺の玉泉寺を移し寺名を玉泉寺とした、と言う。

造田八幡の茂兵衛道標(159度目)
道を南に下り、造田八幡の石段上り口に茂兵衛道標。「長尾寺 志度寺 明治参十壱年」、巡拝礼159度目のもの。手印が逆を指す。どこか、道の右手にあったものを移した故だろう。








広瀬橋北詰の茂兵衛道標(181度目)
道を進むと鴨部川に架かる広瀬橋北詰で遍路道は県道3号に合流。橋の北詰、県道右手に茂兵衛道標が建つ。手印と共に「長尾寺 志度寺」と刻まれる巡拝181度目のもの。 橋の南詰にも道標があるが、旧遍路道は橋を渡らず、鴨部川北岸の土手を西に向かう。




長尾橋(へんろ橋)北詰に2基の標石
鴨部川左岸の土手を進むと長尾橋が架かる。橋柱には「へんろ橋」と書かれる。その北詰に遍路休憩所があり、2基の標石も立つ。
木標の傍の標石には手印と共に「左 へんろ道 十三丁」、橋傍の標石には大師坐像と共に「左 扁んろ道 安政四」といった文字が刻まれる。手印に従い道を左に折れて橋を渡る。橋には「旧へんろ道」の案内もあった。


茂兵衛道標〈175度目〉
橋を渡ると道の左手に「京都中井氏の道標」の案内がある。地図と共に「図の吉田家のところにある道標の願主中務茂兵衛は大正十一年四国を巡拝すること二百八十度目の長尾寺を前にして、七十八歳で果てたのである。今までに知られている彼の名を刻んだ道標は、四国に二四〇基近くあるとされている。
施主は京都三条通東洞院西入の中井三郎兵衛とその妻ツタである。明治三三年三月にここに建てた道標は、中井氏先祖代々供養のためとして、長尾寺と志度寺の道しるべとなっている。 中井氏と中務氏が組んで建てた道標は、明治二四年に高坂市坂本に、明治三年に徳島県平等寺の近くに、明治三四年に愛媛県新宮村に建てられている。四国の四県に各一基ということになるが、いずれも、二か寺を案内する道標になっている。
中井三郎兵衛氏は、京都府会議員で、観光都市京都の発展に貢献した実業家である」と案内される。

地図に従い、「へんろ橋」の南詰めを左折し、土手道を50mほど進み道なりに南に折れる。この道筋は大正10年(1921)に遍路橋が架けられる以前(現在の橋は昭和39年(1964)のもの)、漁船のあがり底を針金で止めてつくられた「橋」を渡り、土手から続く遍路道とのこと。
集落を南に進むと四つ辻、農家の軒下に茂兵衛道標が立つ。道標の正面には「長尾寺 施主 京都三条通り」、右面には「志度寺 為中井氏先祖代**」、左面には「明治三十三年」、裏面には「百七十五度為供養 願主中務茂兵衛」と刻まれる。
中務茂兵衛終焉の地
「えひめの記憶」には、「最後の78歳280度目は6か月余りかかって、長尾寺と結願の大窪寺を目前にして、彼のよき支援者であり、信奉者であった久保ちか子方(香川県高松市通り町)で56年にわたる遍路生涯の幕を下ろして大往生を遂げた。時に、大正11年(1922) 3月20日午前1時であり、旧暦の2月23日であった」とある。

亡くなる10日前まで巡礼を続けていたとの記録もある。この辺りで倒れ、高松市内に運ばれたのだろう。
茂兵衛が道標を立てはじめたのは280回に及ぶ四国霊場巡拝の88度目から。明治19年(1886)からのことである。発願の88度目は19基、最大は明治21年(1888)の28基、建立のない年もある。願主として中井氏のような施主と共に建立するケースが多いが、自ら施主となっている道標もある。茂兵衛は単なる遍路というだけではなく住職の資格を持ち、念仏行者として祈祷し謝礼を得ることもでき、独力でも道標建立ができたわけである。
道標には添句が刻まれるものもある。「旅嬉し只一すじに法の道」「迷う身を教えて通す立石のこの世はおろか極楽の道」などが知られるが、「生まれきて 残れるものとて 石ばかり 我が身は消えし 昔なりけり」の句が、いい。

住吉神社北の標石
茂兵衛道標の手印に従い四つ辻を右折し、へんろ橋からの道筋に戻る。その四つ辻、左角に標石。手印と「文政七」といった文字が刻まれる。四つ辻を南に進むと左手に住吉神社の社があった。




秋田清水九兵衛道標
道なりに進むと、道の右手に「秋田清水九兵衛道標」の案内。「明和三年に、出羽国(秋田県)の清水九兵衛が建てたもの。南無大師遍照金剛、これより六丁長尾寺までの距離を書く。六年後の明和九年に、南の県道高松・長尾・大内線と市道筒井・北原線の交差点北詰の、木戸家の墓地に清水九兵衛は立派な三界万霊供養の地蔵坐像を建立している」とある。
正面に「南無大師遍照金剛」の文字が読める。右面には「是より六丁 明和三」といった文字が刻まれているようだ。





八十七番札所長尾寺

道なりに南に進み、道の右手に長尾寺の東門を見遣り四つ辻に。そこを右折すると長尾寺の正門前に着く。

経幢2基
山門の左右に覆屋で保護された石造物が並ぶ。案内には「重要文化財 長尾寺経幢二基 経幢(きょうどう)は中国で唐から宋時代に流行したもので、わが国では鎌倉中期ごろからつくられ経文を埋納保存する施設、あるいは供養の標識として各地に建てられるようになった。この形式に単制と複制とがあり単制はこの経幢のようなもの、複制は幢身の上部に中台や龕(がん)部があって灯篭ふうになったものである。
この経幢は凝灰岩製で基礎の上に面取り四角形の幢身を立て、その上に重厚な八角の笠と低い宝珠をのせたもので東側のは弘安九年五月、西側のは弘安六年七月の銘があり一基ずつ相ついで奉納されたことがわかる」とある。
年代から見て、弘安の役での犠牲者の霊を供養するためのものとも伝わる。幢身上部には 阿弥陀如来、閼伽如来、宝生如来、不空成就如来といって尊像を象徴する種子(しゅじ;梵;)がうっすら残る。
種子
密教において仏尊を象徴する一音節の呪文(真言)。梵字で表記したものを、日本密教では特に種子字(しゅじじ)と言い、また種字(しゅじ)とも略称し、一般にはこの「種字」という表記が多用される。
これら種子は、密教の修法において本尊となる仏を想起するためのシンボルとなるので、これを植物の種に譬えて種子という。
また護符や曼荼羅などに、仏尊の絵姿の代わりに種子を書くことも多い。 これには、絵姿を描くより梵字で済ませた方が手間がかからないという実用的な意味もある、とWikipediaにある。 仏さまを表わす梵字は、基本となる一字(親)に点や線を付加えることで、色々な字(子)が生まれるので種子しゅじと称されるようである。

仁王門
山門より境内に入る。左右に仁王さまが立つ仁王門は日本三大名門のひとつとWikipediaにある。日本三大名門が何を指すのか不明であるが、それはそれとして、それほど大きくはないが寛文10年(1670年)建立とされる門は落ち着いた風情がある。

境内
境内には枝ぶりのいい松が、これも落ち着いた風情を呈する。正面に本堂、右側に大師堂、薬師堂、左側に常行堂、護摩堂と並ぶ。

補陀落山観音院長尾寺。天台宗寺門派のお寺さま。Wikipediaに拠れば本尊は聖観世音菩薩。寺伝によれば天平11年(739年)行基が当地で楊柳に霊夢を感じその木で聖観音菩薩像を刻み、堂宇に安置したのが始まりとされ、その当時は法相宗とされた。なお、寂本の『四国偏礼霊場記(1689年刊)』には、聖徳太子が創建し、本尊聖観音菩薩像は空海作で同時に阿弥陀如来を造り当寺を再興したとなっている
。 空海(弘法大師)が渡唐前、入唐求法の成功を祈願し年頭七夜の護摩の秘法を修し、その7日目の夜に護摩符を丘の上より人々に投げ与えたとの伝説があり、これは毎年1月7日の「大会陽福奪い」として今に伝わっている。天長2年(825年)唐より帰朝した空海は大日経を一石に一字写経の万霊供養塔(現存せず)を建立し伽藍を整え真言宗に改宗した。
その後、幾度かの兵火により堂宇は失われたが、慶長年間(1596~1615)生駒氏によって再興、長尾観音寺と呼ばれる。天和元年(1681)には藩主松平頼常が堂塔を寄進、翌々年には讃岐七観音の随一とし、真言宗から天台宗に改宗される。元禄6年(1693)には寺領を賜り観音院長尾寺と改称する」とある。
常行堂
常行三昧堂は天台宗の寺に見られる堂宇。「常行三昧」、ひたすら阿弥陀仏の名を唱えながら本尊を回る修行をするための道場、である。
常行堂という言葉に最初にフックがかかったのは姫路の書写山円教寺。ここに結構な構えの常行堂があった。菩薩行(利他行)をベースに現世功徳のイメージの強い法華教を根本経典とし、法華天台宗とも称される天台の寺に、何故に来世のイメージの強い阿弥陀仏がと思っていたのだが、「ブラタモリ」の比叡山延暦寺の放送で、延暦寺に常行堂があるのを知った。天台宗の僧の多くは「朝題目に夜念仏」と、現世は法華に来世は弥陀を頼みとした、とのことである。
〇天台宗への改宗
改宗は高松藩初代藩主である松平頼重の頃との記事もあった。幕府指南役でもあった上野寛永寺の天台僧である天海大僧正の教えを受けた頼重が、改宗を契機に堂宇の整備、料田の寄進が行われ、「賽銭無用」の寺であったとされる。
東門
仁王門に辿る途中、遍路道の右手にあった門。往昔この東門が正門であったよう。現在の門は、元は栗林公園の北側正門として18世紀中頃に建てられたもの。大正2年(1913)に移された。
静御前 剃髪塚
本堂左脇陣には静御前ゆかりの剃髪塚がある。案内には、「静御前 剃髪塚 平安時代の武将 源義経が愛したとされる静御前。
静は舞の名人であった母 磯禅師から舞を教わり、宮中で雨乞いの舞を披露した際に後白河天皇より"日本一の舞姫"と賞賛される。
母 磯禅師が東かがわ市小磯の生まれだった縁から静が晩年過ごしたとされる旧長尾町や三木町には史跡が数多くあり、その中の一つがこの「剃髪塚」。
静は奈良・吉野の山中で義経と別れた後、京へ帰ったが義経恋しさのあまり病気を患い、郷愁を感じていた母と共に讃岐の地へ帰ることになる
。 母と共に信仰の旅へ出た静は長尾寺へと辿り着き、住職の宥意和尚から「いろはうた」などにより世の無常を諭され、二人は得度した。静は宥意和尚の一文字をもらい「宥心尼(ゆうしんに)」、母は「磯禅尼(いそのぜんに)」となった。
その際に落とした静御前の髪が剃髪塚に納められているとされる」とある。

静御前にまつわる物語は全国にある。いつだったか利根川東遷事業の地を訪ねて埼玉県久喜市栗橋を訪れたとき、駅前に直ぐ近くに「静御前終焉の地」があるとの案内があった。奥州へ落ちのびた義経を追って、このあたりでその死を知り、落胆のあまり命を落とした、とか。 静御前終焉の地って全国に7箇所もあるようで、実際のところはよくわからないが、ここ栗橋駅周辺の伊坂の地は往時、静村と呼ばれていたようだし、この地の静御前の墓は、江戸末期の関東郡代・中川飛騨守忠秀が建てたとも伝えられるわけで、諸説の中では信憑性は高い、とは言われている、と。
とはいうものの、静御前は『吾妻鏡』にその名が出るだけで、他に資料は何もない。ちなみに長尾寺の南西2キロほどのところ、鍛冶池の畔に静御前が庵を結び義経の菩提を弔ったとの口伝のある静薬師堂があるとのことである。
長尾天満自在天神宮
本坊の南に鳥居の建つ社がある。長尾天満自在天神宮とある。案内には、「平安時代、当長尾寺に明印という名僧がいた。讃岐国司であった菅原道真公と親交厚く、延喜2年(902年)、道真公が九州へ左遷のときに志度浦に出て「不期天上一円月、忽入西方万里雲」の詩を贈って心を慰めた。公もまた詩と自画像を明印に与え別れを惜しんだが、後にこの古事により、宝永7年(1710年)、天満自在天神宮として建立、当山鎮守として祀られている」と記される。
「天満大自在天」とは菅原道真の御霊に追贈された神名。世界を創造し支配するヒンズー教のシバ神の漢訳である大自在天の威力を道真の御霊に習合させたものである。
この寺の天満自在堂は「幼な姿の天満宮」とも称される。上述明印の詩に対し、流人故の身を憚って童形の姿を描き答礼したという。その画像が今に残る、とか。
https://09270927.at.webry.info/201807/article_17.html 面白い 境内の標石
本堂右手の「四国八十七番霊場」と刻まれた碑の裏面には「左 志度道 明治」といって文字が刻まれる。「世話人 長州 中務茂兵」といった文字があるようで、茂兵衛道標ではとの記事もある。駐車場から境内を出る辺り、自在天満堂の傍にも手印と共に「右 へんろみかみち」と刻まれた標石がある。また山門右手に「大くぼじ江三里半 文政」と刻まれたもの、本坊そばにも2基の標石がある。

本日の散歩はこれでお終い。次回は結願の寺、88番札所大窪寺へ向かう。
八栗寺から八栗山を東南に下り、海岸線を志度寺へと向かう。距離おおよそ5キロ強。途中、四国遍路中興の祖とも称される真念法師が眠る地に出合ったり、希代の異能・平賀源内の旧宅にであったりもしたのだが、なにより嬉しかったのは、八栗寺からお山を下る途中で生木観音に知らず出合ったこと。生木をくり抜き刻まれた古き観音様を見たのはこれがはじめて。これも事前準備無しの成り行き任せの散歩の妙。ひとり、セレンディピティ( serendipity)とはこのことと悦に入る。とはいいながら、保存状態があまり良くないのは、世にこの生木観音様を有り難く思う人はそれほど多くないということだろうか。
ともあれ、散歩のメモをはじめる。

本日のルート;八十五番札所 八栗寺>(裏参道)>一丁標石>二丁標石>三丁標石>生木観音>源平合戦碑と標石>六万寺道分岐点に標石>(六万寺)>二ツ池傍に2基の標石>小堂と標石>標石と「四国のみち」指導標>真念墓所への裏道分岐点>真念の墓跡>塩竃神社の標石>茂兵衛道標>多和神社参道口に標石>御蔵用心堀の石灯籠>平賀源内旧邸>珠橋西詰の大燈篭と標石>地蔵寺>石鉄大権現灯籠>八十六番札所志度寺の山門


八十五番札所 八栗寺
お迎え大師
表参道を上り切ったところに展望台があり、石造りのお迎え大師坐像がある。屋島や高松などの讃岐平野が眼下に広がる。展望台や大師石造は結構新しい。案内には、「弘法大師が修行でこの五剣山にたどりついた時、岩間よりあふれる清水でのどをうるおしたと言う。里人はその水辺に大師像をまつり、いつしか水大師と呼ぶようになった。
このたび大師堂の弘法大師木造を、石像で作り讃岐平野をのぞむこの地にまつる。 水大師にちなみ、参詣者を迎えるお迎え大師と名付けた。平成二十二年」とあった。
水大師さんは表参道途中にあった「弘法大師御加持水」の石仏群の中にあった大師坐像のことだろう。か。

山門
これも比較的新しい役の行者の石像をみやり鳥居を潜り山門に。正面の本堂の背後に五剣山の峰が聳える。険阻な五つの峰よりなるが故の「五剣山」。うちひとつは宝暦四年(1707)の地震で崩れ、現在は四峰、とのこと。
役の行者の石像のが示すが如く、このお山は修験の地。山頂には祠が祀られるとのことだが、峰に上る鎖場や鉄梯子は高所恐怖症には荷が重そう。現在では峰への入山は危険立ち入り禁止とされている。鳥居と山門そして背後に聳えるお山。この絵柄を眺めるだけで充分。

本堂
本堂にお参り。Wikipddiaには「八栗寺(やくりじ)は、香川県高松市牟礼町牟礼字八栗にある真言宗大覚寺派の寺院。本尊は聖観音。
四国85番霊場とともに、歓喜天霊場として知られ、木食以空が東福門院から賜った伝・弘法大師作の歓喜天が祀られていて「八栗の聖天さん」と呼ばれる。
寺伝によれば空海(弘法大師)がここで虚空蔵求聞持法を修めた際、五本の剣が天から降り蔵王権現が現れて、この地が霊地であることを告げた。空海は降ってきた剣を中獄に埋め、岩盤に丈六の大日如来の像を刻んで山の鎮護とし五剣山と名づけ天長6年(829年)開基したという。
五剣山頂上は眺望が良く八つの国が見えたので、「八国寺」ともいわれた。唐から帰朝後、空海は再訪し唐に渡る前に入唐求法の前効を試みるため、植えておいた焼き栗八つがみな成長し繁殖しているのを見て八国寺を「八栗寺」に改めた。
天正の兵火で全焼したが、文禄年中(1593-96年)に無辺上人が本堂を再建した。さらに寛永19年(1642年)高松藩主松平頼重が現在の本堂を再建して、聖観音を本尊とし観自在院と称するようになる。なお棟札によると二天門と本堂は三代藩主松平頼豊が宝永6年(1709年)再建とあるが、宝永3年(1706年)五剣山のうち東峰が崩壊する大地震が影響していると思われる」とある。

聖天堂
本堂の左手に聖天堂。歓喜天を祀る。表参道の途中に建つ鳥居の扁額に「歓喜天」とあったように、この寺は御本尊の聖観音だけでなくこの歓喜天、聖天さまへの信仰も強い。「大聖歓喜自在天」故の「聖天」さま。
このお寺さまの歓喜天は秘仏として拝顔できないが、通常は象頭と人身男女二体抱擁の姿。男女二体抱擁の形像はその姿が示すが如く、男女和合の神として、更には家内安全・商売繁盛の神として多くの参拝者を集める。初詣には例年10万人もの参詣者で大混雑といった記事もあった。屋島のケーブルカーが運休となったのに、八栗寺のケーブルが残るのはこういった因も?
違い大根
聖天さんの外陣を飾る幕は右が「巾着」、左は「ふた股大根」。大根を食べて元気に、巾着に財を貯めよう、ということだろう。
またよく見ると、お堂右手の石造物も「ふた股大根」。歓喜天の性格からして少々意味深ではあるが、「ちがい大根」として寺紋となっているようだ。「八栗聖天大根祭り」で賑わうという。


磨崖五輪塔
お堂の周りを彷徨っていると、お堂右手の崖岩に切り込みが。よく見ると7基ほどの五輪塔が線彫りにされていた。摩崖五輪塔は七十一番札所弥谷寺や七十三番札所出釈迦寺の奥の院で出合って以来、それまでなら見過ごしたであろう、崖にうっすらと残る五輪塔を見つける「眼力」がついたようだ。

中将坊
本堂左手より山に上る石段。上り口に手印と共に「中将坊道一丁 文久」と刻まれた丁石がある。百七十段ほどの石段を上る。途中三つの鳥居を潜る。お堂は岩肌に食い込むように建っていた。 中将坊はお山の守護神とされ、尊像は両翼のある天狗像とのこと。山門前で見た行者石像は役の行者ではなく中将坊?が、その石像には翼がなく、また役行者開山の修行のお山ともあったので、お像はやはり役行者だろう。
五剣山
お参りを済ませ本堂へと戻る途中に「危険 入山禁止」の案内があった。そこがお山への登山口。山好きの弟が五剣山に登ったレポートがあったが、寺からではないアプローチで登ったようで、下山してはじめて入山禁止に気づいたようだ。写真を見るにつけ、とてもではないが高所恐怖症の人は敬して近づかずがいいように思える。

鳥居脇に標石
中将坊からの下り石段は本堂右手に下りる。そこから本堂と逆方向へと向かうと鳥居が立つ。境内には神仏混交の名残である鳥居が多い。
鳥居の右側に標石。硯状の窪みに大師座像が浮き彫りで刻まれ、「自是志度 五十丁 寛政十二」といった文字も見える。
その標石の直ぐ先、四国八十八霊場八十八番大窪寺の石仏脇にも標石。手印と共に「大師堂六十米 本坊百八十米」とある。

大師堂 
左手に以空上人座像、地蔵堂と続きその先に大師堂があった。
以空上人
木食以空上人として知られる。肉類,五穀を食べず,木の実や草などを糧として修行することを木食といい,その修行を続け身を浄め,心を堅固にした高僧を木食上人と称す。以空上人は江戸時代前期の人。摂津の勝尾寺で苦行を続け霊験あらたかな僧として知られた。

多宝塔
多宝塔、八十七番札所長尾寺の石仏、比較的新しそうな四国八十八石仏霊場への石段入口を越え本坊の辺りで道はふたつに分かれる。








裏参道へ
右に折れるとケーブル乗り場、直進すると裏参道に出る。分岐点に標石があり、手印で「八十六番志度寺」への裏参道を示す。裏参道とは言うものの、そこは県道145号。舗装された車道となっていた。特段駐車場はないようだ。道の左右に車を停めていた。




八栗寺から志度寺への旧遍路道

一丁標石
県道を下り最初のカーブを東に廻りこむ箇所、道の右手に標石があり摩耗した大師像の下に「是ヨリ一丁」の文字が刻まれる。周りは開けており見落とすことはないだろう。道の反対部にも標石。こちらの手印は八栗寺を指す。

二丁標石
カーブを曲がり切った道の左手、少し道から入ったところに舟形地蔵。更に道を下ると左手に古い日本酒の看板の残る建屋。商店のようでもある。道の反対側に標石があり、「是ヨリ二丁 八月」と刻まれる。

三丁・四丁標石
道の右手に「三丁」、少し下ったカーブの左手に「是より四丁 八月」と刻まれた標石が続き、更に道を下った先に、道の右手に「四国のみち」の指導標。
そこから少し南、道の右手、林の前の砂利スペースにブロック造りのふたつのお堂。そこに生木観音があった。

生木観音
ふたつのお堂のうち、上手のお堂の中に観音像や石仏とともに生木観音(なまきかんのん)が祀られる。伐りとられた枯れた松の根元の穴の中に、高さ50センチほどの観音像が刻まれている。かつてはブロックのお堂横に枯れた木のまま残されていたようだが、現在はお堂内に移されていた。 生木仏像は愛媛で2箇所ほど出合った。ひとつは西条市の生木地蔵。こちらは「いききじぞう」と読む。もうひとつは四国中央市。前者は実物を見ることができず、後者は昭和に彫られたもので「生き木地蔵」とあるから、読みは「いきき」だろう。
詠みの違いは、それはそれとして、昔ながらの生木仏像はここで初めて出合った。が、保存状態は少々ぞんざい。堂内の観音石仏は生木観音の写しであるようだが、オリジナルの保全が少々気になる。生木仏像に「萌える」人はそれほど多くない、ということなのだろうか。

生木観音から林の中を尾根筋に続く土径がある。尾根筋を下り、後述する麓の六万寺へと下る道もあった、といった記事を見かけた。辿ってみたいとは思えども、時間に余裕がなく、道を少し進み、それらしき雰囲気を感じた後に県道に引き返す。

源平合戦碑と標石
生木観音辺りまでは開けていた空も、その先は木々に覆われ、遍路道は木々の緑の中を下る。カーブとなった箇所に「源平合戦碑」と刻まれた石碑。特段、石碑箇所がどういった史跡跡といった案内はないが、石碑天辺の地図に、石碑東に源氏ヶ峰(217m)が刻まれていた。
源平合戦の折、源義経が山頂より平家の陣を見下ろし作戦を立てた、との故事が残るようだ。山好きの弟によれば源氏ヶ峰の頂きからは屋島全体は見えないが、平氏の海側守りの拠点であった総門付近は見下ろせる、と。
源平合戦碑から少し下った道の左手、山側に舟形地蔵標石があり、「志ど道」と刻まれる。

六万寺道分岐点に標石
県道から六万寺へと向かう道が右に分岐する箇所に標石。「安徳天皇行在所 讃岐霊場六万 西国三十一番霊場」「志度」といった文が手印と共に刻まれる。
安徳天皇行在所の文字に惹かれ、ちょっと立ち寄り。右に折れる急坂を下り、簡易舗装の道を15分ほど里道を進むと六万寺があった。この道筋は「馬ガ背道」と称されるようである。
六萬寺
比較的こぶりなお寺様。ここが行在所?案内には「寺記によれば、天平年間、全国に伝染病が流行し、多数の死者を出したので、聖武天皇は、行基菩薩に命じてこの地に一寺を建立し、お祈りさせたところ忽ち伝染病は消滅したという。
その後有志により六万躯の小仏像を安置して六万寺と称したと伝えられています。また牟礼、大町附近に42の支院を持ち寿永2年源平合戦の時、安徳天皇の行在所となった由緒ある寺であるといわれています。
しかし中世兵火のため焼失したがその後復興された。現在の建物は、延宝6年再興されたものであるといわれています」とあった。
讃岐の寺院には「中世兵火のため焼失」という記録が多い。それはほぼ土佐の長曾我部氏の四国平定の折での徹底した焼き討ちよる。只、この寺の縁起には、この寺に関しては長曾我部元親しは寺の由来などに感激し焼き討ちの対象となることはなかったが、家臣の失火により焼失した、とあった。
道休禅師の墓
当日行きそびれたのだが、六万寺の南、蓮池土手の南西角に道禅師の墓がある。真念はその著『四国遍路道指南』の中で、「是(注;八栗寺のこと)志度寺まで一里半。たい村、皆々志有、やどかす。此所に道休禅師がはか有り。此の禅門ながく大師に帰依し奉り、はき物せずしてじゅんれいする事十二度、すべて二十七度の遍路功なりて、ついにみまかるとて(中略)皆々ご回向頼たてまつる。大町村、志度村(後略)」と記す。
ここには道休禅師は27度の四国遍路をなした僧であり、ここ田井村にその墓があること、そして遍路に道休への回向を頼んでいる。『四国遍路道指南』に他には個人の墓への回向を頼んでいる記述はないようであり、そのことから真念と道休は親密な関係であり、また、『四国遍路道指南』発行に際し、真念は四国遍路の先達である道休から多くの情報を得たその感謝の証、ともされる。 さらに、この記述から、真念当時の遍路道は、八栗寺から蓮池を経て讃岐牟礼駅から大町駅をへて志度寺へと向かったと思われる。なお、八栗寺から蓮池までの間は上述生木観音から右に折れ尾根道を下り六万寺近くから蓮池へと出たようである。
上述馬ガ背道を含め、この蓮池経由の道は「六万寺経由の遍路道」と称される。


役戸経由の遍路道

二ツ池傍に2基の標石
六万寺への分岐点に戻り、県道を下り里に出る。道は二ツ池で大きく二つに分かれる。県道145号は南に下るが遍路道はここを左折し東へ向かう。この道は上述「六万寺経由の遍路道」に対し、「役戸経由の遍路道」と称される。
分岐点に標石2基。坐像の下に「是ヨリ十八丁」と刻まれる標石とい、結構摩耗した自然石の標石。浮かし彫りの手印である、と言われればそう見えないこともない。

小堂と標石
左に折れ少し役戸の集落を東に進むと道はふたつに分かれる。その分岐点に小堂。その右手に手印と供に「右しど道 左やくり道 明治四十年」といった文字が刻まれる。
役戸
かつてこの地に荘園があった頃、この地は年貢積み出しの湊であり、役所があったため、とのこと。牟礼港と地図にあった。
牟礼港
牟礼港は美しい五剣山を背後に控え、志度湾に臨む、庵治半島の基部に位置しています。 本港の歴史は古く、かつて讃岐の各郡が一つずつ港を持っていたころ牟礼港は、三木郡(旧木田郡の牟礼町・庵治町・三木町)唯一の海の玄関として砂糖、米、塩の積出し等で賑わいました。 また、明治に入っては背後で良質の粘土が算出することから、港の周辺は窯業の町へと一変し、港は窯の煙突で取り囲まれるほどとなり、浜には土管、レンガ、コンロ等の製品が並べられ、機帆船で各地へ出荷されました。
代わってコンクリート製品化が進んだため、現在の港湾貨物は砂・砂利等が大半を占めるようになっています。
また、本港周辺海域では、ノリ、カキ等の養殖業も盛んであり、平成10年度に新たな物揚場が整備され、背後地域は高松市のベッドタウンとして急激な都市化も進んでいることから、今後はこのような、新しいニーズに応えた総合的な港湾としての発展が期待されています(香川県土木部弘港湾課)」

標石と「四国のみち」指導標
標石に従い右手の道をとり先に進むと県道36号・高松牟礼線がある。県道交差部にある「四国のみち」指導標を見遣り、県道を東に越えた次の道筋の交差部に標石と「四国のみち」の指導標。 標石には手印と共に「志度寺 三十六丁 八栗寺」と刻まれるようだが、風化してよくわからない。「四国のみち」には「八十六番志度寺 4.2km 八十五番八栗寺2.8km」とあった。
交差点には遍路道案内の「遍路タグ」もあり、指示に従い角を右折し南に進む。

真念墓所への裏道分岐点
遍路道は南に進み下井出川に架かる「しもいで川橋」を渡る。橋を渡って直ぐ、道の右手に遍路休憩所、その先右のお墓の方に分かれる細路がある。民家の裏とお墓の間の道を進むと四つ辻に標石。手印と共に「志度寺 廿五丁 八栗寺 明治廿七年」といった文字が刻まれる。志度寺にも八栗寺へも二十五丁。丁度札所の中間点ということだ。

真念の墓跡
標石の先、道の左手にあった墓地は消え民家が続くが、ほどなく墓地が現れる。「南三昧」とある。須崎寺に移される前、真念が無縁仏として祀られていた墓跡がある共同墓地だ。
墓跡を探すがなかなか見つからない。あきらめて裏道筋に出たところ、お墓の南西端、裏道と接するような場所に真新しい御影石があり、「四国遍路の父 真念の墓跡」「平成三年」といった文字が刻まれていた。
真念
Wikipediaより掲載;真念(しんねん、出生年は不明、没年は1692年〈元禄5年〉、または1691年〈元禄4年〉の説もある)は、江戸時代初期の高野聖。その生涯の長らくにわたり四国八十八箇所の巡拝を行うとともに、それにまつわる様々な活動を行って四国遍路を広く人々に知らしめたことから「遍路の父」「四国遍路中興の祖」と云われる。土佐国の生まれとされ、遍路巡拝を行わない時には大阪の寺嶋で暮らし、自らを抖そうする頭陀と称した。
四国八十八箇所を20回以上歩いて巡拝し、四国遍路について現存する初めての旅行案内書と云われる『四國邊路道指南(しこくへんろみちしるべ)』と、その霊験記である『四國遍禮功徳記』を出版し、また、遍路に宿を貸す人を募り、自ら遍路屋(真念庵)の建立や標石を200基余造立をして、庶民の四国遍路が定着したとされている。現存する標石は24基。
また、寂本の『四國遍禮霊場記』の作成に資料を提供した。同記には、初めて各寺の風景が描かれていて、当時の寺の様子が視覚でわかり、各札所の縁起・由緒がまとめられている。同記により四国遍路に興味を持った読者が、真念の本を持って四国遍路に出立するように意図されている。
以上の功績を遺してのち、元禄の初期に遍路巡拝の最中、讃岐国高松藩三木郡内において同郡の大町村と原村(現在の香川県高松市牟礼字大町から字原の区間)を結ぶ元結(もといむすび)峠の東側(原村側)にて倒死したとされる。墓は現地の人々の手により当初は元結峠付近の丘に建てられたとされるが、のちに地域の墓地整理などの紆余曲折を経て牟礼字大町の南三昧墓地に無縁仏として置かれるも、さらにのち1980年(昭和55年)に同墓地にて発見されたことで改めて手厚い供養を行う意図の元、現在は香川県高松市牟礼字宗時の洲崎寺に置かれている。
著作
四國邊路道指南:1687年(貞享4年)刊行。本書を以て初めて八十八の札所番号が記されていて、番号順に登場する。当書は、真念と寂本に加えて洪卓(真念と同じく聖の仲間)の3人グループで作ったと云われている。1698年(元禄11年)5回目の改刻から1ページあたり6行であったのを8行にして本を薄くし携行しやすくしているのと同時に、タイトルを『四國遍禮道指南』と変更していて、これは寂本の意見だと云われていて、「四国の縁辺を歩く人」という意味であったのから「人の生きる道を模索する人」との意味が込められた。内容として、旅に出る服装と持ち物、参拝方法、寺の立地と向き、本尊が秘仏か否か・姿態・大きさ・作者、御詠歌、道順、札所間の距離、宿の情報などが綿密に記されている。真念の没後、『四國邊路道指南増補大成』という形で明治時代まで引き継がれていくが内容はほとんど刷新されなかった。
四國遍禮功徳記:内容は次のような順で書かれている。仏教の利益と解説、八十八箇所の成立と88の理由、27の霊験話、大師の御家姓の事」

元結峠はJR高徳線・讃岐牟礼駅の南東、おおよそ500m弱のところにあるようだ。

塩竃神社
南三昧の共同墓地の南に塩竃神社。かつてあった塩田の神として勧請されたものだろう。地名の塩屋にしても塩田が想起される。
案内には「塩竈神社 祭神 塩竈塩土翁(しおがましおつちのおじ) この地は昔塩田のあったところである。祭神は塩竈塩土翁、元禄十一年(1698)に勧請され、地元では明神さんと呼ばれている。
大正十二年(1923)十月建立の七五三柱(しめばしら)には次のような歌が刻まれている。 人皆の朝け夕けに食う塩は この塩竈の神のたまもの」とあった。
塩土翁

Wikipediaには「シオツチノオジ(シホツチノヲヂ)は、日本神話に登場する神であり塩竈明神とも言う。『古事記』では塩椎神(しおつちのかみ)、『日本書紀』では塩土老翁・塩筒老翁、『先代旧事本紀』では塩土老翁と表記する。別名、事勝国勝長狭神(ことかつくにかつながさ)。
名前の「シホツチ」は「潮つ霊」「潮つ路」であり、潮流を司る神、航海の神と解釈する説もある。『記紀』神話におけるシオツチノオジは、登場人物に情報を提供し、とるべき行動を示すという重要な役割を持っている。海辺に現れた神が知恵を授けるという説話には、ギリシア神話などに登場する「海の老人」との類似が見られる。また、シオツチノオジは製塩の神としても信仰されている。
シオツチノオジを祀る神社の総本宮である鹽竈神社(宮城県塩竈市)の社伝では、武甕槌神と経津主神は、塩土老翁の先導で諸国を平定した後に塩竈にやってきたとする。武甕槌神と経津主神はすぐに去って行くが塩土老翁はこの地にとどまり、人々に漁業や製塩法を教えたという。白鬚神社の祭神とされていることもある。
『日本書紀』の天孫降臨の説話において、日向の高千穂の峰に天降ったニニギが笠狭崎に至った時に事勝国勝長狭神が登場し、ニニギに自分の国を奉っている。一書では、事勝因勝長狭神の別名が塩土老翁で、イザナギの子であるとしている。
海幸山幸の説話においては、ホデリ(海幸彦)の釣針を失くして悲嘆にくれるホオリ(山幸彦)の前に現れる。ホオリから事情を聞くと小舟(または目の詰まった竹籠)を出してホオリを乗せ、そのまま進めば良い潮路に乗って海神の宮に着くから、宮の前の木の上で待っていれば、あとは海神が良いようにしてくれると告げる。
『日本書紀』本文の神武東征の記述では、塩筒老翁が東に良い土地があると言ったことから神武天皇は東征を決意したとある」とあった。

祭神名である塩竈塩土翁ではヒットしない。「塩竈」は塩竈明神とも称される故、塩土翁の前に冠されたものだろうか。

神社鳥居横に2基の標石
「左 八栗寺道 三十五丁 右志度寺 寛政十一」、もう1基には「一国七十八番 愛染* 慶応三年」と刻まれるようだが、風化してまったく読めなかった。






県道合流点に標石
標石傍に遍路道案内のタグがあり、指示に従い右折する。県道に出たところにも標石があり、「左志ど道 右やくり道 享和元年」の文字が刻まれる。



茂兵衛道標
県道は南に進み琴電志度駅の東を踏切で越え国道11号に合流。南に下り「房前」交差点で国道を左折。遍路道は国道の一筋東の旧道を進むことになる。
旧道へ入る角に茂兵衛道標。「志度寺 長尾寺」「屋島寺 八栗寺」「高松 丸亀」」と言った文字が刻まれる。茂兵衛152度目の四国巡礼時のものと言う。
幡羅八幡
茂兵衛道標の直ぐ北鳥居が建つ。辺りに社はなくちょっと唐突。チェックするとこの地の少し北西、国道11号の西にある幡羅(はら)神社の鳥居とか。位置的にはちょっと不自然だが、Google Street Viewで見ると境内に続く道筋には他に1基鳥居があるので、長い参道を構成する鳥居なのか、またはこの八幡様は幾度か遷宮しているようであり、この鳥居に刻まれる弘化四年(1848)の頃は現在と別の地にあったと旧社殿への鳥居なのかはっきりしない。
それとチェックの過程でこの八幡様の境内には愛染山と称される産土神が鎮まる神山があるとのこと。上述標石の「愛染」が指すのはこの幡羅八幡なのかもしれない。
遠く奈良時代、持統天皇8年(694年)藤原房前がこの地に春日神社を勧請されたちなのに始まるという由緒ある社のようだ。交差点が房前であるのもこの故であろうか。
因みに、Google Street Viewで幡羅八幡境内近くの鳥居を見ていると、その扁額には「原八幡」と書かれていた。かつて幡羅八幡は、現在の原と大町からなる幡羅郷の氏神であったが、その後大町が離れ、氏子は原地区だけとなったため、とか。

多和神社参道口に標石
牟礼町原の町並みの中を進む。琴平電鉄志度線の原駅を越えると高松市からさぬき市志度となる。ほどなく道の左手、多和神社参道口に標石。「八十六番志度寺」の文字が手印と共に刻まれる。
多和神社
Wikipediaには「さぬき市志度にある神社。式内社で、讃岐国三宮と伝える。創建時期は不明である。志度寺に隣接しており、889年(寛平元年)、八幡神を祀り「多和八幡宮」と改称していたという。1479年(文明11年)に志度寺とともに焼失する。1671年(寛文11年)、高松藩藩主松平頼重の手で志度寺が復興されると、多和神社も復興される。この時、現在地に移転する(1623年(元和9年)現在地に遷座の説もあり)」とある。

御蔵用心堀の石灯籠
道の左手に4mほどの巨大な石の灯籠。案内には「用心堀と石灯籠 高松藩松平家が、領内の百姓から取り立てる年貢米を収納するため、藩内各所に米蔵を建てた。その一つが此処にあって、面積5.5ヘクタールの敷地に9mに27.3mの蔵が三棟と、年貢米検査所、藩役人や蔵番の部屋があり、志度のお蔵と呼ばれ、毎年秋に1万5千俵の米が収納され非常に賑わった。
志度町新町「平賀家」は、初代「喜左衛門良盛」が明暦3年(1657年)8月、お蔵番を命じられて以来、世襲してきた。平賀源内先生は父「茂左衛門良房」の死により後役となったが、宝暦4年(1754年)7月、学問を目指して退役したため、平賀家4代98年間のお蔵番に終わりをつげた。 この石灯籠は寛永4年(1851年)津田村の大庄屋「上野氏」と志度村庄屋の「岡田氏」の両氏がお蔵の用心のため建てたものである」とあった。

平賀源内旧邸
石灯籠からほどなく、道の右手に平賀源内旧邸があった。横には遺品館があり、入口前には源内ゆかりの「ホルトの木」が植えられている。
ホルトの木
讃岐の宇多津にある78番札所・郷照寺にもホルトの木があったが、源内ゆかりとは?「ポルトガから入ってきた木」という意味で「ホルトの木」と命名したのが源内との説がある。江戸時代に採取されたホルト油(オリーブ油)が取れた故との説もある。オリーブ油が採れるわけでもなく、日本各地に自生しており、ポルトガルから入ってきた木でもないようだ。
が、面白いにはその学名が「ホルトノキ」科の植物となっていること。また表記が「ホルトの木」なのか「ホルトノキ」なのかよくわから」ななくなってしまった。ホルトノキ科のホルトであればなんとなくしっくりするが、ホルトノキ科のホルトの木はないだろう、ということ。
平賀源内旧邸
平賀源内旧邸の案内には、「今から二百数十年前、日本の夜明けとも言うべき時代に現れ、数奇な運命をたどった源内先生は、高松藩の軽輩御蔵番の子として、ここ志度町新町(現さぬき市)に生まれた。
先生は幼名を伝次郎、四方吉。元服して国倫。通称を源内と呼んだ。また号を鳩渓、風来山人、天竺浪人。作家として福内鬼外、俳諧では李山と称した。
宝暦2年(1752)、新知識の輸入地である長崎に留学し、主として医学、本草学を修め、帰郷後は磁針計、量程機の発明、陶器の製造など藩に新風を吹き込んだが、世間の風当たりは強く、27歳の時退官を願い出て江戸に立ち、田村藍水に師事する一方、昌平黌にも学んだ。 宝暦7年(1757)、藍水と共に日本で最初の物産会を江戸湯島で開催、その後は自ら会主となった。高松藩では先生が名声を博するや、一方的に薬坊主格、切米銀十枚、四人扶持の藩士に召しかかえたが、先生は再び俸禄を辞した。
その後伊豆に於ける芒硝の発見、紀州物産誌の編纂、物類品隲の刊行をはじめ、火浣布の創製、秩父中津川鉱山の発掘、寒熱昇降器の発明、源内焼、西洋画の教授、日本で初めてのエレキテルの復元など世人を驚かせた。この外、滑稽小説「根南志草」、「放屁論」、「風流志道軒伝」や浄瑠璃「神霊矢口の渡」、「弓勢智勇湊」「忠臣伊呂波実記」などの作品をつぎつぎ発表して江戸の人気を博した。
安永8年(1779)、ふとしたことから人を傷つけ、同年12月18日、伝馬町の獄中で52歳の心なじまぬ生涯を終えた。友人杉田玄白は、ひそかに遺体を引き取り浅草総泉寺に埋葬。そのほとりに碑を建て「ああ非常の人、非常の事を好み、行いこれ非常、何ぞ非常の死なる」と記し、先生の一生を讃えた。
この旧邸は昭和54年3月25日源内先生二百年祭にあたり修復したものである」とあった。
平賀源内先生遺品館
また、平賀源内先生遺品館の案内には「源内先生は、日本文化の爛熟した江戸時代中期に生まれ、まず本草家として日本初の博覧会=薬品会を開催して名を挙げ、鉱山開発を行い、戯作・浄瑠璃を作っては作家の親玉と言われ、西洋画を描いては秋田蘭画の仕掛人となり、陶器を造っては源内焼の流れを作り、エレキテルの復元をはじめ数々の発明品を創り出し、変化龍の如く、その多彩な才能を発揮して、広範囲の分野で活躍しました。
先生は獄中で悲劇の生涯を閉じられましたが、洋学の黎明期に果たされたその偉業は広く認められ、その死は惜しまれました。
先生を顕彰する思いは明治13年の没後百年祭から始まり、昭和4年には百五十年祭とともに平賀源内先生顕彰会が発足しました。
松平頼寿(貴族院議長)を会長に、東京での墓地修復、「平賀源内全集」の発刊、地元では旧邸・遺品の保存、銅像の建設などが行われました。
そしてこの遺品館は、ニ百年祭記念にあたり昭和54年3月25日新築しました。
源内先生の先見性や独創性、また広い視野と柔軟な発想で現実に立ち向かった行動力を、ご来館の皆様に感じ取っていただければ幸いです」とあった。

散歩の折々で源内ゆかりの地が顔を出す。台東区では総泉寺跡に平賀源内の墓があった(この総泉寺は板橋(小豆沢)に移り、源内のお墓だけが残っている)。大田区・六郷用水散歩のとき、源内先生が考案した破魔矢がはじめて売られたという新田神社、はじめて住まいをもった神田加治町などなど。江戸のダヴィンチとも、奇人変人の代名詞とも言われる。「土用の丑の日」に鰻を食べるって習慣をはじめた人物、とも。
源内についてはあれこれの書籍で読んだりしており、讃岐の人とは知っていたが、この志度の生まれとは知らなかった。文字面だけで知っていた源内にまたひとつリアリティを付け加えることができた。

珠橋西詰の大燈篭と標石
源内通りと称される道を進むと玉浦川に架かる珠橋。その西詰のホルトの木も見える植え込みの中に自然石造りの大きな灯籠が立つ。「市指定文化財 新町自然石灯籠(石鎚山奉献灯籠)」とあり、植え込み中の案内に「自然石を使ったこのユニークな灯籠は、志度町間川、雲附山に祀られている石鎚神社の奉献と、志度の海辺から玉浦川の河口にかけて繋留する漁船のしるべの為、「もとや醤油」初代当主「小倉嘉平」が、石鎚神社の信仰に燃える実弟、高松藩士「田山助蔵」の勧めによって、弘化3年(1846年)に建立したものである。小倉嘉平を中心に始まった石鎚講は、間川を中心に今も続いている」とある。
灯籠左手には「石鉄山道 是ヨリ二十丁」と刻まれた自然石標石も立つ。雲附山(標高239m)の石鎚神社までおおよそ2キロ強ということ。
植え込みには手印と共に「八十六番へ七丁 八十五番へ六十丁」と刻まれた丁石。その右側には「珠橋」「慶応三」と刻まれたかつての玉橋の橋柱もあった。

地蔵寺
珠橋を渡ると道の左手にお寺様があり、塀に案内がある。「地蔵寺には、その中興の祖密英が日本廻国六十六部巡礼を果たして奉納した一国一仏の仏像六十六体が納められています。 日本廻国六十六部とは、鎌倉時代から江戸時代まで続いた全国を巡る巡礼です。明治以前、我が国は六十六カ国に分かれており、その国ごとにいづれかの一寺社に詣で、法華経を奉納して納経帳に請取証を貰うのがこの巡礼の建前でした。
密英は宝永二年(1705)から約3年をかけて全国を巡り納経帳を遺しました。さらに享保十年(1725)全国六十六カ国の納経寺社の本尊・本地仏として六十六仏を造立しました。
三世紀以上前の納経帳が残るだけではなく、諸国霊場の六十六体の仏像を祀る寺院は全国でもほとんど類例が無く、これらは当時の巡礼を知る貴重な歴史資料です 文殊院地蔵寺」と。

遍路道を歩いていると六部(六十六部)ゆかりの「日本廻国供養塔」によく出合う。で、六十六部の文字に惹かれ境内に。「志度寺奥の院」と刻まれた寺名石のある門から境内に。
本堂に祀られるという六十六仏像は拝顔できなかった。ちょっと残念。どんなものだろうとサイトを検索するがその仏像群の写真はヒットしなかた。これも残念。
境内に「史跡と伝統の寺 地蔵寺」の案内。「景行天皇23年、土佐の海に棲んでいた怪魚が瀬戸内海にはいりこみ神出鬼没、時には海岸にまで押しよせて悪事を働いた。
天皇は心配して、日本武尊の御子霊子に討伐を命令した。
悪魚退治に成功した霊子は、天皇より褒美として讃岐一国を貰い受け国司となり、里人から讃留霊王(さるれおう)と呼ばれた。
後に悪魚のたたりを恐れた里人が、お堂を建て地蔵菩薩を安置したのが地蔵寺(別名魚霊堂)の始まりだと伝えられている。
開祖は、文殊菩薩の化身といわれる薗子尼で、近江の国より流れてきた霊木から志度寺本尊十一面観音を刻ませたお方で、当寺が志度寺奥の院といわれる由縁である。
本堂には本尊文殊菩薩と、中世から江戸時代にかけての巡礼で(当時は日本は66の国で構成されていた)日本全ての国を拝むことにより願い事が叶うといわれた「日本廻国六十六体尊」の本尊が祭られ密教仏としては、全国で唯一のものといわれている」とあった。
讃留霊王
讃岐を歩いているとこの讃留霊王の悪魚退治の話に時に出合う。79番札所・天皇寺傍の八十場の霊水のところでは、「八十場は古くは矢蘇場、弥蘇場、八十蘇場とも書かれた、と。景行天皇の御代、南海の悪魚を制すべく出向いた讃留禮王子と八十人の軍勢が、王子の持参した泉(前述の八十場の泉)の水で蘇生したが故の地名である」とメモした。

また80番札所国分寺の手前にあった「日向王の塚」のところでは、
「『全讃史』に景行天皇の御代、南海に大魚があり船を呑み込むなどして人々を苦しめていたため、武穀王(たけかいおう)に命じて退治させた。
武穀王は讃留霊王(さるれおう)とも称され、讃岐の国造であったとも伝えられる。日向王は讃留霊王の七代目の子孫。古代に綾川流域を中心とした阿野郡に勢力を誇った綾氏の祖先とされる。この塚が王の墓跡とされる」とある。

この南海の悪魚、武穀王・讃留霊王は、折に触れて登場する。南海の悪魚とは海賊のことであろうか。その海賊を退治したのが景行天皇の御子である日本武尊の第五子である武穀王。武穀王は讃留霊王とも称されるとあるが、讃留霊王は景行天皇の御子である神櫛王ともある。はるか昔の伝説であろうから、どちらがどちらであっても門外漢にはかまわないが、ともあれその讃留霊王は讃岐国造の始祖であり、綾氏の祖先とするようだ。
で、讃留霊王って、讃岐に留まる霊なる王と読める。武穀王であれ、神櫛王であれ「讃岐に留まり国造の祖となったが故の讃留」か?と妄想したのだが、本居宣長はこの漢字は後世の当て字であり。「サルレ」の音のみが有意とするとある。妄想だった。
また、「海賊退治」とメモには書いたが、景行天皇は自ら兵を率いて西国に赴き、南九州の異族・豪族の叛乱鎮圧にあたったが、この武力討伐際しては諸王子も動員し、御諸別王を東北山形方面へ、櫛別王を四国讃岐方面へ、武田凝別王を四国伊予方面へ、国乳別王を四国宇和島方面へと派遣し異族鎮定に当たらせている。とすれば、悪魚とは王権に服(まつろ)わぬ讃岐の部族を指しているのかとも思える。
本居宣長の古事記伝にある「讃留霊王」
讃岐国鵜足郡に讃留霊王と言う祠あり、それは彼の国に讃留霊記と言ふ古き書ありて記せるは景行二十三年、南海の悪しき魚の大な るか゛住みて、往来の船を悩ましけるを、倭建命の御子、此の国に下り来て、討ち平らけ゛賜ひて、やか゛て留まりて国主となり賜へる故に、讃留霊王と申し奉る、それを綾氏和気氏等の祖なりと云ことを記したり、
或いは此を景行天皇の御子神櫛王なりとも、 は大碓命なりとも云ひ伝へたり、讃岐の国主の始めは倭建命の御子、武卵王の由、古書に見えたれは゛、武卵王にてもあらむか、
今とても国内に変事あらむとては、此の讃留霊王の祠、必す゛鳴動するなりと、近きころ、 彼の国の事と゛も記せる物に云へり、
今思ふに、讃岐の国造の始めならは゛、神櫛王なるへ゛し、然れと゛も倭建命の御子と云、又綾君和気君の祖と云るは武卵王と聞ゆるなり、 さてさるれいと云は、いかなる由の称にかあ らむ、讃留霊と書くは、後人の当てたる文字 なるへ゛し

石鉄大権現灯籠
地蔵寺を過ぎると志度寺は指呼の間。街並みの中を続く道を一直線に進むと志度寺参道口に。参道手前で遍路道と交差する大きな車道の西側、上述の「もとや醤油」酒蔵の前にこれも大きな石灯籠。市指定文化財に指定されている雲附山に祀られている石鎚神社への奉献の自然石灯籠。ここが雲附山への参詣道なのだろう。

八十六番札所志度寺の山門
四つ辻を突き切ると八十六番札所志度寺に到着。八十五番八栗寺より志度寺への旧遍路道を辿り終へ、本日の散歩を終える。

真念の『四国遍路道指南』には、「是(私注;屋島寺)よりやくりじまで一里有。寺より東坂十丁下り、ふもとに佐藤次信のはか有」とあり、その後は相引川を渡り牟礼に入り、洲崎寺をへて八栗寺へと上っている。
本日のルートはこの遍路道を辿るのだが、寺から?丁下るという東坂がどこかよくわからない。国土地理院の地図を見ると、屋島寺から屋島東麓を次信地区へ延びる破線があり、その道筋に佐藤継信の墓もある。道は荒れて歩けないといった過去の記録もあるようだが、とりあえずその破線ルートが真念の言う東坂であろうとトライした。
結局道はきれいに整備されており何の問題もなし。その後は地名の壇ノ浦が示すように、源平争乱記の壇ノ浦合戦の旧跡と処々に出合いながら八栗寺へと上った。
それにしても源平屋島合戦の地が壇の浦、また平氏滅亡の舟合戦のおこなわれた地も壇の浦。偶然一致とすればできすぎている。島の壇の浦の由来は、飛鳥時代に大宝律令に基づき、屋島に軍団が置かれ、その軍団の浦(湊:津)故に団の浦>壇の浦とWikipediaにあった。山口の壇の浦は海岸地形を表す名とある(Wikipedia)だけで詳細は不明。少し寝かせてそのうちに深堀してみよう。

本日のルート;八十四番札所 屋島寺>遍路道下山口へ>下山口>3丁目舟形地蔵丁石>屋島スカイウエイ>舟形地蔵丁石と石仏>車道と繋ぐ>>舟形地蔵丁石と破損した大師座像>大楽寺>佐藤継信の墓>茂兵衛道標>小堂に地蔵標石>安徳天皇社>小堂と地蔵>源平合戦史跡の石碑>菊王丸墓>高橋手前のお堂に標石と石仏>洲崎寺角に茂兵衛道標>洲碕寺>標石2基>牟礼北小学校正面前に標石>三叉路のお堂に地蔵丁石と遍路墓>小堂に地蔵丁石と傍に標石>「山田家うどん」傍のお堂に地蔵と標石>県道146号に出る>八栗ケーブル駅>お堂や舟形地蔵>加持水>歓喜天の扁額をもつ鳥居>お迎え大師>八十五番番札所 八栗寺

八十四番札所 屋島寺
仁王門より境内に。
四天門
前後各2体、前には増長天と持国天、後ろに多聞天と広目天の四天王が寺を護る。 四天門の右手に標石。「是よりやく里寺 **五丁」といった文字が刻まれる。
可正桜
また四天門左手、門の少し手前に可正桜。「この老桜は高松藩士松平半左衛門可正が老後の楽しみとして、寛文五年(1665)、屋島寺石段の左右に七株を植えました。そのうち六株は枯れ残った一株を現在の地に移植したものです。
可正は次のような歌も残しています。
花の時人きてもしも問うならば可正桜と名を知らせてよ」
梵鐘
四天門を潜ると右手に鐘楼、左手に本坊。鐘楼の梵鐘は鎌倉時代の作。国指定重要文化財。「平家供養の鐘」とも称されるこの梵鐘は国分寺の鐘に次ぐ古鐘とのこと。
本堂
正面に本堂。鎌倉時代後期に再建されたもの。江戸時代に半解体修理されたため向拝、妻飾、軒廻りなど一部江戸様式を残す国指定重要文化財。本尊は十一面千手観音。後背の銘には「弘法大師御作之本尊也 弘仁元年二月」といった墨書きがある、ともされる。藤原時代初期の作でこれも国指定重要文化財となっている。

Wikipediaには「南面山 千光院 屋島寺(やしまじ)。屋島の南嶺山上(香川県高松市屋島東町)にある真言宗御室派の寺院。
律宗の開祖である鑑真が天平勝宝6年(754年)朝廷に招かれ奈良に向かう途中に当地を訪れて開創し、そののち弟子で東大寺戒壇院の恵雲がお堂を建立し屋島寺と称し初代住職になったという。ここから1kmほど北の北嶺山上に屋島寺前身とされる千間堂遺跡がある。

その後の時代の古代山城屋嶋城の閉鎖に伴い、南嶺の屋嶋城本部跡地に屋島寺を創設したとされる。すなわち815年(弘仁6年)嵯峨天皇の勅願を受けた空海は、お堂を北嶺から南嶺に移し、千手観音像を安置し本尊とした。天暦年間(947年~57年)明達が四天王像と、現在の本尊となる十一面千手観音坐像を安置した。
明徳2年(1391年)の西大寺末寺帳に屋島寺と屋島普賢寺の名があり、当時は奈良・西大寺(真言律宗)の末寺であったことがわかる。高松藩主生駒一正は慶長6年(1601年)に屋島寺の寺領25石を安堵。近世を通じ、当寺は高松藩の保護下にあった。現在も国有林部分を除いて、屋島山上の敷地のほとんどは屋島寺の所有である」とある。

鑑真の弟子で初代住職は恵海と書かれている記録もありはっきりしないが、空海が15歳で都に上る折、当山に上り空鉢恵海律師より戒律を受け、それ故に「空海」と称するようになったといったお話もある。

蓑山大明神
本堂の右手に赤い鳥居が北に続く。扁額に「蓑山大明神」とある鳥居前、両側に大きな狸像。赤い鳥居といえばお稲荷さん、お稲荷さんと言えば狐とくるが屋島寺は狸であった。 鳥居脇の案内には「蓑山大明神之由来 屋島太三郎狸 その昔、弘法大師さんが四国八十八ヶ所開創のみぎり、霧深い屋島で道に迷われ蓑笠を着た老人に山上まで案内されたと言う。のちにその老人こそ太三郎狸の変化術の姿であったと信じられております。
屋島の太三郎狸は、佐渡の団三郎狸、淡路の芝右衛門狸と共に日本三名狸に称せられています。
太三郎狸は屋島寺本尊千手観音の御申狸(おんもうしだぬき)として善行をつんだため、土地の地主の神として、本堂の横に大切に祭られ、四国狸の大将としてあがめられ、その化け方の高尚さと変化妙技は日本一であった。
尚屋島太三郎狸は一夫一婦の契りも固く、家庭円満、縁結び、水商売の神、特に子宝に恵まれない方に子宝を授け福運をます狸として全国よりの信者が多い」とあった。
屋島稲荷
鳥居横、本堂との間には「蓑山塚」があり多くの狸の置物が奉納されていた。その横には蓑山大明神を祀る小祠がある。それはそれでいいのだが、小祠を更に先に進むとその先に「屋島稲荷」と扁額に書かれた赤い鳥居前に出る。立ち並ぶ赤い鳥居を潜りゆくと狐が両側に座る石造物があり、真ん中の石には「平雄明神、朝日明神、七九朗明神」と刻まれていた。蓑山大明神にお参りすることは、知らず屋島稲荷の大明神にお参りするといった「立て付け」となっている。これってなんだろう?




大師堂・三体堂・千体堂
蓑山大明神の東側に大師堂。その南側に三体堂と千体堂が並ぶ。三体堂には鑑真が祀られ、千体堂には中央に千手観音、その背後に千体仏が並ぶ。



獅子の霊験
千体堂の南に山門があり、次の札所へと辿る遍路道に出るのだが、その前に屋島寺の西にある獅子の霊験にちょっと立ち寄り。
四天門まで戻り可正桜の所を東に進む。途中、土産物屋、新屋島水族館前を通り屋島寺西側の眺望の地に。獅子が吼えているような岩が屹立する故の命名と言うが、小学校の修学旅行での「瓦け投げ」を思い出す。瀬戸の島々、高松市街が一望の地。
で、霊験とは?弘法大師が屋島のお山に巡錫の折、本堂を一夜で建立し、また本尊の千手観音を一夜で彫上げたとの寺伝がある。その時のこと。完成しないうちに夕方となったため、この地(獅子ノ霊験)の地にて祈願し、夕日を呼び戻して彫上げた、と。その不思議な感応を以てしての「霊験」の命名かと。


屋島寺から八栗寺へ

遍路道下山口へ
獅子ノ霊験を離れ、次の札所八栗寺への遍路道下山口に向かう。下山口は特定できてはいなかったのだが、国土地理院の地図に屋島寺から東に続く折れ線が描かれる。それが下山道ではと、あたりをつけて下山口をチェック。Google Street Viewでチェックすると、屋島寺の東にある駐車場の南、今は廃墟となっている大きな建物傍(ホテル?)に下山口らしき標識があった。

屋島東側
そこを目指し、山門を出て源平合戦の折兵士が血刀を洗ったと伝わる「血の池」を経て屋島東側に。こちらも獅子の霊験同様の眺望が楽しめる。源平合戦の地・檀の浦、そしてその向こうに次の札所のある五剣山。こちらは台地状・メサの屋島とは趣を異にした姿を現す。白く削られた山肌は世に知られる庵治石(花崗岩)の丁場(石切場)かと思う。

屋島と五剣山
屋島と五剣山、隣り合う半島に突き出した山にも関わらず、その山容は全く異にする。屋島は山頂部の平坦地とそれを取り囲む急斜面の台地とそれを支える緩斜面の裾野。メサと称される。一方の五剣山は山頂部険しい岩峰が屹立し、その周囲は深い谷が刻まれる。
これってその因は何だろう?チェックする。地質は全く不案内ではあるが、大雑把に理解したところによると;両者の基盤を成すのは同じ地質の花崗岩。おおよそ9000万年前に形成された。その後1400万年前に火山活動が起こる。その時に基盤の花崗岩に被さった地質が異なったようだ。
屋島側は讃岐岩室安山岩、通称サヌカイトと称される固い岩質、それに比べて五剣山側は「柔らかい」岩質。その因は異なる系統の火山活動による火砕流堆積物の違い。それを成したのはかつて、といっても1400万年も昔のことだろうが、屋島と五剣山の間には山があり、屋島側と五剣山側を隔てていたようである。
で、長い年月による侵食作用に対しても、その抵抗力の強い固いサヌカイトの地層をもつ屋島は大規模にその山体が残り、故に山麓部の花崗岩層が地震などで崩壊しても山頂部から岩石を供給し谷が造られず現容を留める。一方、屋島側に比して「柔らかい」地層からなる五剣山側は削られ、険しい山峰よりなる五剣山として残り、またそれ故に山麓での崩壊部に供給しうる岩石に乏しく谷が発達し更に削られて現在の山容を呈した。はるか、遥か、気の遠くなるような1400万年前と言う時間軸での話ではある。


百聞は一見にしかず、ということで、メモの参考にさせてもらった、「屋島のメサはどのようにしてできたのか? 香川大学工学部 長谷川修一」の図(「約 1400 万年前の屋島と五剣山))を掲載させて頂く。




ついでのことでもあるので、香川のお山を特徴づけるお椀を伏せた山容の因は?これも基盤は7000万年から8000万にできた花崗岩。そこにマグマが陥入し垂直に花崗岩層を垂直に貫いた地層を形成。その地層が屋島山頂部と同じ、固い讃岐岩室安山岩(サヌカイト)。ために周囲の花崗岩が風化しても核となる部分が固い岩質であるため、山体は崩れず、谷も発達せず、なだらなか山容を保つ、と言う。


下山口;10時38分
眺望の地を少し南に進み、上述廃墟となった建物脇を進むと道の右手に2基の石仏、そして「八栗寺 へんろ道」と書かれた木の標識があった。下山口を確認。道の山側には 舟形地蔵も立っていた。




3丁目舟形地蔵丁石;10時55分
下山口から山道に入る。整備はされているが結構な急斜面。虎ロープも処々に張られている。痛めた膝には少々キツイ。17分ほど下ると舟形地蔵丁石。「3丁目」と刻まれる。


屋島スカイウエイ;10時57分
その丁石から少し下ったところにも舟型地蔵。丁石とは思うが文字は摩耗して読めなかった。
舟形地蔵丁石から直ぐに屋島スカイウエイと交差。かつては民営の屋島ドライブウエイとして有料道路であったが、高松市による無料化の取り組みがなされ、平成30年(2018)に屋島スカイウエイとして供用が開始された。

舟形地蔵丁石と石仏;11時11分
スカイウエイを越えると斜面は少し緩やかになる。スカイウエイからおおよそ15分下ると舟形地蔵丁石と石仏。丁石には「五丁目」と刻まれる。



車道と繋ぐ;11時16分
舟形丁石から少し下ると猪侵入防止フェンス。フェンスを抜けるとその先に簡易舗装の急坂があり、里の民家が見えた。おおよそ40分弱で山道を下ったことになる。膝を痛めていなければもっと時間は短くて済んであろう、そんな山道下りであった。

舟形地蔵丁石と破損した大師座像
里に出る急坂を下り切った道の右手に舟形地蔵丁石と破損した大師座像。丁石には「六丁目 享保十四」といった文字が刻まれる。更に少し下った道の右手に広場があり、その道端にも舟形地蔵丁石が立つ。摩耗が激しく文字は読めない。

大楽寺
道の左手に大楽寺のお堂。境内には台石と共に、4mほどの宝篋印塔が建つ。「三界万霊 天保八」といった文字が刻まれる。



お堂前、道の右手には大きな地蔵座像の石仏や南阿弥陀仏と刻まれた石碑、3基ほどの舟形地蔵が並ぶ。舟形地蔵には「八丁」「*丁」といった文字も刻まれる。少し下った道の左手に2基の石仏。美しい。

佐藤継信の墓
集落を南北に横切る車道を越えると、道の右手に佐藤継信の墓がある。広場中央の大きな石積みの上に碑が建ち、その裏手に高さ1.5mほどの古い五輪塔もあった。
案内には「継信は寿永4年(1185)2月の源平屋島合戦のとき、平家の武将能登の守教経の強弓により、大将義経の命危ういとみて、義経の矢面に立ち、身代わりとなって討死しました。
この継信の忠死を広く世間に知らせるために寛永20年(1643)初代高松藩主松平頼重公が、合戦当時に義経が丁寧に葬ったあとを受けて、屋島寺へ続くこの遍路道の傍に建立したものです。また、墓は牟礼町王墓に残っています。高松市 高松観光協会」とあった。お墓と言うより供養塔といったもののようだ。

供養塔前、道の左手には多くの石仏が並ぶ。中でも目立つのが薬師如来とか十二薬師、十二薬師如来とか刻まれた文字仏石。十二薬師ってよくわからない。薬師如来には除病安楽、苦悩解脱などの十二の誓願があるようだ。そのことと関係あるのだろうか。「弘法」の文字が読める破損した割石石柱もあった。
牟礼町王墓
佐藤継信の墓は高松市牟礼町牟礼2395の神櫛王墓の東隣にもある。案内にある「王墓」とはこの神櫛王墓のことだろう。景行天皇の子で讃岐国造の祖とされる神櫛王には、80番札所国分寺手前の「日向王の塚」で出合った。

茂兵衛道標
道を東に進み、南北に走る車道に出たところ、四つ辻の東北角に茂兵衛道標が立つ。手印と共に「八栗寺 屋島寺 明治二十九年」といった文字が刻まれる。茂兵衛149度目の四国遍路巡礼時のもの。遍路道はここで右に折れ南に向かう。

小堂に地蔵標石
南に下る道が東にカーブする箇所に小堂があり中に舟形石仏。お地蔵様の頭の上に手印があり標石となっている。天保年間に造られたもの。カーブを曲がると道の左手に安徳天皇社がある。




安徳天皇社
社の前に「屋島遍路みち案内(弘法の道)」の旧跡案内があり、「寿永2年(1183)、平宗盛は安徳天皇を奉じ、一の谷から屋島に逃れてきました。ここは、檀の浦の入り江に臨み、後ろに険しい屋島の峰、東に八栗の山をひかえ、戦いには地の利を得たところであったので、宗盛は行宮を建て将士の陣営をつくりました。安徳天皇社あたりが行宮跡だったと言われています」とあった。
社の建立時期は不明。壇之浦の合戦で平氏が破れ、入水しむなしくなった安徳天皇の霊を弔うために建てられたのだろうか。境内には屋島の合戦で亡くなった平氏将士を弔う三界万霊碑も建つ。
壇之浦(壇之浦)
この案内には檀ノ浦とあるが、壇ノ浦との表記もある、それよりなにより源平最後の合戦は山口の壇ノ浦、この地、屋島の合戦が行われた地も壇ノ浦と表記は同じ。安徳天皇が入水したのは山口県の壇ノ浦である。
で、讃岐の壇ノ浦だが、都を追われた平氏は屋島に拠点を置いている。安徳天皇と三種の神器を奉じ、この地で再起を図る。そして都奪還を目し兵を進めるが兵庫一の谷で源義経に敗れ再び屋島に退き、源平屋島の合戦となるわけだ。
平氏は何故屋島を拠点としたの?ひとつには讃岐の国は平清盛の祖父、正盛が国司をしていたこともあり、古くから平家の支配下にあった。都を追われた平家は、清盛の家人であり阿波守として阿波・讃岐に威を張った田口成良を頼った。
で、屋島を拠点としたのは、平氏の都落ち後四国に戻った田口成良は讃岐を制圧し、屋島に内裏を造営したこと。当時の屋島は完全な島であり、天然の要塞。東側は庵治半島との間に大きく入り込んだ入江が広がり、海から攻めてくるであろう源氏と対するには絶好の地とされたわけだ。実際は義経が浅瀬を渡り、背後から攻め込んだのは既知のこと。
田口成良
Wikipediaには「阿波国、讃岐国に勢力を張った四国の最大勢力で、早い時期から平清盛に仕え、平家の有力家人として清盛の信任が厚かった。承安3年(1173年)、清盛による大輪田泊の築港奉行を務め、日宋貿易の業務を担当したと見られる。(中略)治承・寿永の乱が起こると軍兵を率いて上洛し、平重衡の南都焼討で先陣を務めた(『山槐記』)。美濃源氏の挙兵で美濃国へ出陣し、蹴散らされて被害を出している。
寿永2年(1183年)7月の平氏の都落ち後、四国に戻って讃岐を制圧する。屋島での内裏造営を行い、四国の武士を取りまとめた。一ノ谷の戦い、屋島の戦いでも田口一族は平氏方として戦うが、屋島の戦いの前後、源義経率いる源氏方に伯父・田口良連、弟・桜庭良遠が捕縛・襲撃され、志度合戦では嫡子・田内教能が義経に投降したという。『平家物語』によれば、教能が投降した事を知った成良は壇ノ浦の戦いの最中に平氏を裏切り、300艘の軍船を率いて源氏方に寝返った事により、平氏の敗北を決定づけたとされる。しかし、『吾妻鏡』には平氏方の捕虜に成良の名が見られ、正否ははっきりしない」といった記述があった。

小堂と地蔵
安徳天皇社から少し皆に進み、小川の先で左に折れる。民家の間を縫う細路である。左に折れると直ぐに小堂があり舟形地蔵が祀られる。「右 扁ろ道 享保十四」などと刻まれた標石となっている。また、このお堂には地蔵の前に2個の頭部像が置かれていた。

源平合戦史跡の石碑
水路フェンスに沿って東に進むと県道150号に出る。遍路道はそこを右折し県道を少し南に進むと安徳天皇社前から南東に下った道と合流。合流点に石碑。各所に見られる「源平合戦史跡」の石碑だ。比較的新しい。「源平屋島合戦800年祭り」を記念し昭和55年(1980)に建てられたもの、という。
「アワ益田」
その石碑脇に三角石柱。県道進行方向の面には「アワ益田」「へんろ*」「観自在菩*」といった文字が刻まれる。このような形状の標石は珍しい。
「アワ益田」は、この三角石柱を立てたアワの住人である益田さんとも言われる。特徴は「アワ益田」と共に、「大日如来」「釈迦如来」「弥勒菩薩」「虚空蔵菩薩」といった文字が刻まれる。ここは「観自在菩薩」と刻まれていたのだろう。
六十一番札所・香園奥の院の標柱石に「四国六十一番奥の院 徳島県麻植郡 石工 益田喜一 昭和十六年」とあり、この方が「アワ益田」と言われる。阿波の札所十一番藤井寺から十二番焼山寺への遍路道にもあるとのこと。また先ほど佐藤継信の墓前の道端に見た、「弘法」と刻まれた破損した割石も「アワ益田」さんのものでは、とのこと。ともあれ、昭和の初期に遍路歩きされた方の供養物である。「アワ益田」はここからしばらく頻出する。

菊王丸墓
県道を進むと直ぐ、屋島東小学校の北隣、道の右手に菊王丸の墓。案内に「源平合戦の時、源氏の勇将佐藤継信は、大将義経の身代わりとして、能登守平教経の強弓に倒れました。 そのとき、教経に仕えていた菊王丸は、継信に駆け寄り首を切り落とそうとしましたが、そうさせまいとする継信の弟 忠信の弓により倒されました。
菊王丸は、教経に抱きかかえられ、自らの軍船に帰りましたが、息をひきとりました。教経は、菊王丸を哀れんでこの地に葬ったと伝えられています」とあった。
敷地内には数基の石仏とともに、手印の標石もあり、「右やくり」と刻まれる。また、菊王丸を祀る小祠の右手に上部が破損した石があり、「薬師如* 益田」と刻まれる。上述「アワ益田」のものだろうか。

高橋手前のお堂に標石と石仏
更に南に進み、相引川に架かる高橋へと左折する手前、県道右手にお堂があり標石や石仏が並ぶ。堂内の大師座像は矢印で屋島寺方面を指す標石、舟形地蔵の1基には「ひたりやくりミち 寛政元」といった文字が刻まれる標石となっている。
また、お堂の左右には舟形地蔵と共に仏名石が建ち、「勢至菩薩 へんろ 益田」「阿しゅく(注;元の漢字が表示できない)如来 へんろ道 アワ益田」とあるようだ。

洲崎寺角に茂兵衛道標
道の左手に立つ「源平合戦史跡」を目安に県道を左折し高橋を渡り四つ辻、洲崎寺北西角に茂兵衛道標。手印と共に「屋島寺 八栗寺」とある。また、四つ辻の茂兵衛道標の対角線角にも標石、手印と共に「八栗道 十八丁 是ヨリ三丁南 佐藤次信墓 明治五年」といった文字が刻まれる。
お堂と標石
高橋から茂兵衛道標へと続く道の一筋北に道が通る。道脇に面してお堂があり、中に舟形地蔵丁石が祀られ「右やくりミち」と刻まれえた丁石ともなっている。その道を東に進み、四つ辻から北に延びる道とのT 字交差の少し北にもコンクリートの小堂があり、その脇に手印のついた標石があり「八十五番」の文字が読める。手印は東を指すが道はない。どこからか移されたものであろうか。

洲碕寺
遍路道は茂兵衛道標に従い洲碕寺の塀に沿って南に折れる。塀が切れたところを左折し洲碕寺に。
「アワ益田」仏名石
曲がり角にはお堂があり、その左に「開明小学校跡」、「洲碕堂 大尊聖観世音大*」と刻まれた石柱、お堂の右手には「彌陀如来 へんろ アワ益田」と刻まれた文字仏石が並ぶ。
源平の庭
境内に入る。庭は「洲碕寺源平の庭」として、源平合戦旧跡が苔と岩で意匠されている。 境内の案内には、「洲崎寺は眺海山円通院と号し、大同年間(806~)に弘法大師により創建されました。本尊である「聖観世音菩薩」は大師の作と伝えられています。 源平合戦・長宗我部氏の侵攻により焼かれるなど、繁栄と衰退を繰り返し、元禄12年(1699年)に再興され、現在に至っています。
源平合戦時、義経の身代わりとなり討死した佐藤継信の亡骸を、戦火によって焼け落ちた本堂の扉に乗せて源氏の本陣の瓜生ヶ丘まで運ばれたと伝えられており、継信の菩提寺として、毎年3月19日に慰霊法要が行われています。
平成12年(2000年)に再興300年を記念して完成した庭園は、苔と石で「屋島檀ノ浦の戦い」を表現し、境内壁面に「扇の的」・「弓流し」等の合戦のあらましを刻んだ説明板があります。 また、江戸時代四国八十八ヶ所霊場を庶民に広め、「四国遍路の父」と称えられている「真念」の墓があります」とある。
真念の墓
あら、真念のお墓がこの寺に?事前準備なしの散歩故の驚きと楽しみ。境内の東、塀の前に「四国遍路大先達」「大法師 真念」と刻まれた石柱に囲まれた真念のお墓があった。 脇の案内には、「真念は江戸時代初期の僧であり、弘法大師に帰依し、四国八十八の霊場を巡ること二十余度に及ぶその間巡拝案内記を作り、遍路道を整備するなど、霊場の興隆につとめ、「遍路の父」と仰がれている。お墓は昭和五十五年二月、牟礼町塩屋の南三昧から当須崎寺に移したものである」とあった。
お墓を囲む石は新しそうだが、中央に立つ茄子型丸彫の墓石は南三昧の共同墓地から移されたもの、と言う。「大法師真念霊位 大阪寺嶋在 元禄」といった文字が刻まれる、と。 須崎寺は弘法大師である和気宅成の創建とも伝わる大師ゆかりの寺であり、共同墓地に無縁仏となっていた真実念の墓が当寺に移された、とか。
真念
真念は空海の霊場を巡ること二十余回に及んだと伝わる高野の僧。現在我々が辿る四国霊場八十八ヶ所はこの真念が、貞亭4年(1687)によって書いた「四国邊路道指南」によるところが多い、とか。四国霊場八十八ヶ所の全容をまとめた、一般庶民向けのガイドブックといったものである。霊場の番号付けも行い順序も決めた。ご詠歌もつくり、四国遍路八十八ヶ所の霊場を完成したとのことである。大阪などの信者から喜捨を募り、遍路する人のために案内石を建立した真念道標は 三十三基残るとのこと。
遍路そのものの数は江戸時代に入ってもまだわずかであり、一般庶民の遍路の数は、僧侶の遍路を越えるものではなかようだが、江戸時代の中期、17世紀後半から18世紀初頭にかけての元禄年間(1688~1704)前後から民衆の生活も余裕が出始め、娯楽を兼ねた社寺参詣が盛んになり、それにともない、四国遍路もまた一般庶民が辿るようになった、とのことである。

州崎寺の源平の庭にあったように、州崎寺の近くに源平合戦の旧蹟がある。ついでのことでもあり、ちょっと立ち寄り。
義経弓流しの碑
州崎寺の境内西塀に沿った道を少し南に下ると、道の左手の少し奥まったところに「義経弓流しの碑」が立つ。案内には、「源平合戦時,源義経は勝ちに乗じて海中に打ち入って戦ううち、脇下にはさめていた弓を海中に落として、平家方の越中次郎盛嗣に熊手をかけられあやうく海中に落ちかかりましたが、義経は太刀で熊手をあらい左手のムチで弓をかき寄せ引き上げたということです。
平家方に弓を拾われて「源氏の大将ともあろう者がこんな に弱い弓を使っているのか」と物笑いになるのをおそれたといわれております」とあった。
総門跡
道を少し南に下ると、道の左手に総門跡がある。案内には「総門 寿永二年九月、平氏は安徳天皇を奉じて六万寺を行在所として(屋島檀の浦の行宮のできるまで)ここで門を構えて、海辺の防備に備えました。
総門はこの遺跡です。後、檀の浦に行宮をうつしてからも、この門を南部の重鎮として大いに源氏軍を防ごうとしましたが、ついに源氏の占領するところとなりました。当時この付近は海浜でした。 標木は松平頼重の建てたもの、野津大将題、黒木欣堂撰書 "夏草や"の碑は久保不如帰氏作。 高松市教育委員会」とあった。

海から攻め来ると想定した平氏側の防衛策に反し、徳島から県境の大阪峠を越えて背後より攻め入った義経勢により、平氏は戦に敗れた、と言う。
野津道貫は明治の軍人。幕末の争乱、西南の役、日清・日露の戦役を武人として参戦しその武功により元帥の位まで上りつめた。
久保不如帰の"夏草や"の句は「夏草や ここにもひとつ 髑髏(されこうべ)」と石碑に刻まれる。その傍に「お遍路の 行きつつ 髪を束ねけり」と刻まれる、久保五峰の石碑も立つ。 黒木欣堂は明治・大正期の書家・漢学者。

屋島寺からの屋島南麓を進む遍路道

久保五峰の句にあるように、上にメモした屋島寺から屋島東麓を下る道とは別に、屋島南麓を進みこの総門を経て八栗寺へと進む遍路道もあったようだ。
その道筋は屋島寺表参道を下り、二つ池の標石を東に折れ、琴電・古高松駅の北、相引川に架かる赤牛橋の北詰めに至り、相引川の北岸を東に。明神橋で相引川を南岸に渡り、琴電・八栗駅の東で川を渡り北詰の「かつはし地蔵堂」を見遣り総門のある道筋に。

総門を過ぎると一筋北の道を右折。そこには標石がある。右折した遍路道の右手にはお堂が立つ。道は県道146号となり後述する八栗ケーブル駅へと向かう。




洲崎寺から八栗寺へ

県道36号を渡り田圃脇の径に
洲碕寺の境内を出た遍路道は左折し、寺の東側、県道36号に出る。道の逆側、田圃の中を南東に進む細路への入り口に遍路道案内の遍路タグがあった。




標石2基
細路を辿ると突き当りの民家ブロック塀に標石。手印と共に「右やくり道」の文字が見える。 手印に従い道なりに進むとT字路に。そこには手印だけの標石があった。手印に従い左折し北西へと道を進む。


牟礼北小学校正面前に標石
途中石造常夜灯(弘化二年)などを見やりながら道なりに進むと、遍路道は牟礼北小学校の校庭に阻まれる。往昔は校庭を突き切るルートであったようだが、左折・右折・左折を繰り返し牟礼北小学校の東側へと迂回する。
牟礼小学校正門辺りから北東に向かう道の角に標石。「従是八栗寺二、一粁」「従是屋島寺五、三粁」とある。比較的新しい。地元の石材業者が建てたものであった。

三叉路のお堂に地蔵丁石と遍路墓
遍路道は緩やかに坂を登り、左から比較的大きな道が合わさる三叉路にお堂がある。お堂の裏手は池のようで一帯は開ける。お堂には舟形地蔵標石と遍路墓。標石には「左やくり道」、遍路墓には「西井善七妻ゲン 備中浅口郡道口村 天保十四」といった文字が刻まれる。 遍路道は更に北東に進む。舟形地蔵標石の指す方向とはちょっと違う。広い道が整備されるときにでもお堂が移されたのだろうか。
お堂の対面にも標石が立つ。

小堂に地蔵丁石と傍に標石
道が民家石垣に突き当たったところに標石。手印と共に「やくり道」と刻まれる。遍路道は手印の指す左に折れると分岐点に小堂があり中に舟形地蔵丁石。「是より上やくりみち 文化八」といった文字が刻まれる。お堂脇にも標石があり手印と「十二丁」の文字。遍路道は手印に従い分岐点を右に折れる。

「山田家うどん」傍のお堂に地蔵と標石
うどん工場の傍の細路を進み、「山田やうどん」手前の坂を上る道の右手に一間四面のお堂。中中に、「左扁ん路道 享保十四年」と刻まれた舟形地蔵と台石に「明和二」と刻まれた地蔵があった。
お堂の先に「山田家うどん」の駐車場。昔風の美しい店構えの大きな食事処であった。国の登録文化財指定の建物とは後で知った。

県道146号に出る
「山田家うどん」の店構えの南東角を左折、直ぐに右折し細路を上り切ったところで車道に出る。合流点に自然石の標石。手印と「やく**」の文字が見える。
遍路道は手印の指す右に折れると、ほどなく左に細路が分岐する。細い道を抜けたところで電動146号に合流。合流点、道の反対側のガードレールには遍路道案内の「遍路タグ」。遍路道は左に折れて県道146号の坂を上る。

お堂と標石
県道との合流点から坂を上ると道の右手の墓石手前に舟形地蔵。標石のようだが摩耗し文字は読めない。その直ぐ先、道の左手に立像や座像石仏、舟形地蔵などが並ぶ。右から二番目の舟形地蔵には「右扁ろ道 享保十四」といった文字が読めた。

八栗ケーブル駅
源氏池を過ぎると八栗ケーブル・八栗登山口駅。お隣の半島である屋島では昔あったケーブルが廃止されているのだが、こちらは現在もお山の札所八栗寺へ人を運ぶ。歩き遍路はケーブル駅傍にある鳥居を潜り参道を上ることになる。

お堂や舟形地蔵
舗装された表参道を上る。鳥居を潜ると直ぐに道の右手に舟形地蔵。左手にお堂、お遍路休憩所、その先に4丁目と刻まれた舟形地蔵丁石がある。
舟形地蔵丁石の先、道の右手にお堂があり杖をついたおばあさんらしき像が祀られる(写真はピンボケ。残念)。比較的新しい。その先にも道の右手に舟形地蔵が立つ。



加持水
道右手に石仏群。弘法大師御加持水。水不足に困る老婆の話を聞き、独鈷をもって岩を割ると水が出た、との弘法水の地。それにしても大師座像、不動明王、舟形地蔵、石仏など多くの像が並ぶ。舗装道路として整備されるときにでも集められたのだろうか。

歓喜天の扁額をもつ鳥居
先に進むと再び大鳥居。「歓喜天」の扁額をもつ。八栗寺は本尊の聖観音よりも歓喜天への信心が強いお寺さま。そのことを鳥居も表している。




鳥居を潜ると道の左に石仏群、右手には「左本堂参詣道」と刻まれた標石が立つ。その先には「霊徳洽三界」と刻まれた石柱が立つ。「れいとくこうさんがい」。洽は「あまねく」との意味であるから、「霊徳三界にあまねし>「お大師さまの霊験が三界世界にいきわたる」と言った意味だろう。参道はその先でヘアピン状に曲がる

お迎え大師
ヘアピンカーブを曲がり、最後の急坂。曲がり角にも多くの石仏が並ぶ。急坂を上り切ったところに駐車場。車でここまで来れそうだが、お山を東へと降りる道とは繋がっていない。
駐車場を先に進むとお迎え大師。展望台となっており、屋島や讃岐の里の遠望が楽しめる。

八十五番札所 八栗寺
お迎え大師から続く参道の先に山門。八十八番札所八栗寺に到着。これで屋島寺から八栗寺までの旧遍路道を繋いだ。本日のメモはここまで。次回は八栗寺を打ち終え志度寺までの旧遍路道を辿る。

一宮寺よりはじめ、八十四番札所屋島寺へ向かう。常の如く標石を目安にして旧遍路道を辿ったわけだが、今回はちょっと厄介ではあった。一宮寺からしばらくの間は宅地開発などで旧遍路道が消えているところが多く、時に現れる標石を繋ぐだけで精一杯。
その、時に現れる標石の位置確認はGoogle Street Viewを活用。古き資料に残るデータからおおまかな道筋や標石の位置を推定し、Google Street Viewでチェック。幸いにして今回は市街地ということもあり結構Street Viewで標石を確認することができた。
そしてその位置をiphoneにインストールしているG-Map Toolという無料GPS活用アプリにプロット。その位置を目安に旧遍路道資料にあるルートに極力近い道筋を辿るといったもの。辿ったトラックログはGPS watchであるSUUNTO Traverseでとり一宮寺から屋島寺までの遍路道をなんとか繋げた。便利になったものである。
ともあれ、散歩に出かける。

本日のルート:八十三番札所一宮寺>田村神社>県道12号の北に地蔵堂と2基の標石>県道172号と水路合流点の標石>自然石標石>三名神社東の標石>手引き地蔵>手印だけの標石が続く>光臨寺傍の標石>太田天満宮>伏石八幡>野田池の地蔵堂と標石>松縄東公園の南に2基の標石が続く>琴平電鉄長尾線歩行者踏切の標石>夷神社>分かれ股地蔵と標石>高須公民館脇に標石>春日川橋東詰に標石>新川橋東詰に標石>相引川・大橋北詰にお堂と標石>双ッ池南の標石>遍照院傍に「四国のみち」指導標
屋島寺表参道登山口>弘法大師加持水>十二丁・十三丁石>不喰梨弘大師>畳岩>名号石>徳右衛門道標>八十四番札所 屋島寺仁王門


八十三番札所一宮寺
一宮寺への遍路道は、順打路である八十二番根香寺からのふたつのルート、香西口ルートと鬼無口ルートのいずれの道を辿っても、また逆打ルートである七十九番天皇寺から八十一番白峰寺、八十二番根香寺を経て八十番国分寺に至り、そこからこの八十三番一宮寺へと辿る遍路道をとっても共に境内西側に至る。一宮寺の正面仁王門は境内の東側にあり、順路は寺の北西角、大師堂脇から入ることになるし、逆打ちルートは西門(裏門)から境内に入ることになる。

順打路より境内に入ると左手に大師堂。大師堂の右手に本堂がある。境内は比較的こじんまりとした趣。Wikipediaに拠れば、「神毫山 大宝院 一宮寺。一宮寺(いちのみやじ)は、香川県高松市一宮町にある真言宗御室派の寺院。讃岐国一宮の田村神社に隣接する。本尊は聖観音。 寺伝によれば、義淵により法相宗の寺院として大宝年間(701年 ? 704年)に建立され、年号にちなみ大宝院と称したと伝えられる。そして、和銅年間、諸国に一の宮が制定された際、讃岐一宮・田村神社の第一別当として行基が堂宇を改修し一宮寺と改めたという。その後大同年間(806年 ? 810年)に空海(弘法大師)が伽藍を整備し、106cmの聖観世音菩薩像を刻んで安置し、真言宗に改宗した。
1584年(天正12年)の兵火により焼失するも、宥勢大徳により中興される。延宝7年(1679年)に時の高松藩主である松平頼常によって田村神社が両部神道から唯一神道に改められたため当寺以外に12あったと云われる宮寺は廃止される。唯一存続を許された当寺は、それまで神社とは一体で同一場所にあったが、分離され現在地に移転、別当寺は解職され、本地仏であった正観音像は当寺の本尊となり、一国一宮として選ばれていた神社の四国八十八箇所83番札所は当寺が引き継いだ。 明治初期の神仏分離より200年も早く神仏の分離が行われ現在に至る」とある。

義淵は玄昉、行基の師であり当寺は古刹であったようだ。それはともあれ、その後神仏習合の時世のもと、田村神社の別当寺となるが、17世紀には高松藩主により田村神社と分離され、現在の地に移ったとある。
両部神道とは、日本の神は仏教の仏が衆生救済のため仮の姿で現れたとする真言宗の本地垂迹説をもとにした神仏習合思想。唯一神道とは吉田神道とも伊勢神道とも呼ばれるようだが、仏は日本の神が仮の姿で現れたものとする説。主客逆転、日本の神を外来の神である仏の上位にとらえているように思える。
お寺がなんとなくこじんまりしていると感じたのは、この田村大明神から分離され、唯一残された一寺といった歴史も関係しているのだろうか。

薬師如来
本堂手前左に石の祠に薬師如来が祀られる。祠には石の扉がある。意地悪なおタネばーさんが扉から頭を入れると地獄の釜の音が聞こえ、頭が抜けなくなった。罪を悔い改めると願うと扉が開き助かった。弘法大師の戒めであるとの話が伝わる。

三基の石塔
本堂左側に古く大きな石造りの塔が並ぶ。そのうち一基には宝治元年(1247)の銘がある。大宝院供養塔と称されるこの3基の石塔は孝霊天皇、百襲姫命 (ももそひめのみこと)、吉備津彦命(五十狭芹彦命とも)。18世紀中頃に田村神社から移したとのこと。百襲姫、吉備津彦は第七代孝霊天皇の子とも伝わる。

仁王門
菩薩堂にお参りに境内東の仁王門に。仁王と大わらじのある仁王門を潜ると正面は田村神社の境内を区切る塀が南北に続く。
茂兵衛道標
仁王門左に茂兵衛88度目の道標。「四国第八拾三番 四国八十四番屋島寺道 明治十九年」といった文字が刻まれる。右側にも標石。「右 仏生山道十八丁 左やしま道三里」、手印と共に「釈迦涅槃像・圓光大師御旧跡 見真大師御直作像 仏生山 是より十八丁」と刻まれる。

仏生山
仏生山とは仏生山法然寺のこと。一宮寺から南東、高松市仏生山町にある法然上人二十五霊場のひとつ。
Wikipediaには「鎌倉時代前期の建永2年(1207年)に讃岐に配流された浄土宗開祖の法然が立ち寄った那珂郡小松荘(現まんのう町)に生福寺が建立される。
江戸時代前期の寛文8年(1668年)に徳川光圀の実兄にあたる高松藩初代藩主松平頼重が、戦乱で荒れ果てていた生福寺を法然寺と改名して、香川郡百相郷(現在地)に3年の歳月を要し移転・建立した[1]。寺院背後の仏生山丘陵上を削平し「般若台」と呼ばれる松平家の墓所を設けて、当寺院を高松松平家の菩提寺とした」とある。

田村神社
仁王門を出て田村神社に向かう。正面仁王門前に南北に続く塀にそって北に進み、右折し境内北側の大鳥居前に出る。一宮寺は田村神社の別当寺でもあったわけで、この寺と社を遮るような塀に少し違和感。どうも、かつて一宮寺仁王門に向かい合うように田村神社の鳥居があったようだ。いつの頃状況が変わったのか不明ではあるが、田村神社は平成21年(2009)に大改装が行われたとの記事があった。その折にでも一宮寺に面する鳥居はなくなったのだろうか。単なる妄想。根拠なし。
裏参道
ともあれ大鳥居を潜り境内に。結構大きい。金ぴかのお迎え布袋尊に迎えられる。讃岐七福神巡りの布袋尊が田村神社であるためだろうか。赤い鳥居の裏参道を進むと中央に八咫烏と刻まれた石碑が立つ。この社の祭神の中に高倉下命が記される。神武天皇の東征時に登場する熊野の神である。それ故の八咫烏であろうか。
北参道
裏参道の赤い鳥居を左折すると、今度は中央にさぬき獅子を置く北参道。ここも赤い鳥居が続く。参道を進み正面に七福神巡り、弁天社、宮島社を見遣り右折すると天満宮、素婆倶羅社、宇都伎社、本殿と続く。
素婆倶羅社と宇都伎社
素婆倶羅社、宇都伎社は末社ではあるが、本社社殿と同規模の大きな社殿。素婆倶羅社の祭神は少名毘古那命。少名毘古那命は大国主命とペアで登場し、国造りから酒造りまで多様な分野をカバーする。ここでは安産など女性の守護神とされる。
宇都伎社の祭神は大地主神(おおとこぬしのかみ) 倉稻魂神(うかのみたまのかみ)。大地主神は田畑を司る神であり、倉稻魂神は室町以降には稲荷神として民衆に信仰された穀物豊穣の神。この社は衣食住を司る神と、さぬき七福神の布袋尊を祀る。布袋さんの大きな袋には日常生活に必要なものがすべて入っていた。とか。

境内には満蒙開拓者殉難之碑の碑、海軍少年飛行兵之碑、忠魂碑など鎮魂のための石碑や十二支巡りの造作、桃太郎話に仮託した犬・猿・雉と吉備津彦・倭迹迹日百襲姫命の石造、竜神の像など多くの石碑・石造が「展開」する。あまりにいろいろなものがありすぎて、とてもすべてメモできそうもない、
いくつものログに、田村神社はご利益神のテーマパークとの記述があったが、その通り。延喜式讃岐一之宮といった荘厳な雰囲気ではなく、なんだか明るい。平成21年(2009)に創立1300年を記念して大改装を行ったときの方針であった、とか。

Wikipediaをもとに田村神社の概要をまとめると;「田村神社(たむらじんじゃ);一帯は湧水地であり、現在も当社の奥殿が深淵の上に建てられているように、水神信仰を基盤とした神社である。別称として「田村大社」「一宮神社」「定水(さだみず)大明神」「一宮大明神」「田村大明神」とも。「田村」の社名は鎮座地名による。
祭神は以下の5柱で、「田村大神」と総称される。倭迹迹日百襲姫命 (やまとととひももそひめのみこと)、五十狭芹彦命 (いさせりひこのみこと:別名を吉備津彦命(きびつひこのみこと)、猿田彦大神 (さるたひこのおおかみ)、天隠山命 (あめのかぐやまのみこと;別名を高倉下命(たかくらじのみこと)、天五田根命 (あめのいたねのみこと) - 別名を天村雲命(あめのむらくものみこと)。 田村大神について、中世の書物では猿田彦大神や五十狭芹彦命を指すとされ、近世には神櫛別命・宇治比売命・田村比売命・田村命など様々で一定していない。社殿創建前は井戸の上に神が祀られていたという社伝から、元々は当地の水神(龍神)であったとする説もある。

社伝によれば、古くは「定水井(さだみずのい)」という井戸にいかだを浮かべて、その上に神を祀っていたという。その後、和銅2年(709年)に行基によって社殿が設けられたのが創建とする。この「定水井」は現在も奥殿の下にある。当初は義淵僧正によって大宝年間(701年-704年)に開基された一宮寺と同一視(建物も同じ)されていた。

朝廷の当社に対する信仰は篤く、平安時代には度々神階の授与が行われている。また延長5年(927年)の『延喜式神名帳』では「讃岐国香川郡 田村神社」と記載され名神大社に列したほか、讃岐国一宮として信仰された。建仁元年(1201年)には正一位の昇叙があったとされ、弘安7年(1284年)7月日の銘を有する「正一位田村大明神」の扁額が残っている。
また武家からも崇敬・統制を受け、長禄4年(1460年)には細川勝元により、社殿造営や寄進のほか「讃岐国一宮田村大社壁書」(高松市指定文化財)が定められた。これは当社の関係者に対し、守るべき事項を26箇条で記したものである。
天正年間(1573年-1592年)には兵火により一切経蔵を焼失したが、仙石秀久から社領100石を寄進された。その後も社領の寄進を受け、藩主が松平大膳家に代わったのちも祈願所として崇敬された。
延宝7年(1679年)、高松藩主であった松平氏により一宮寺が分割され、後に一宮寺は別の地に移された。その際、一国一宮として選ばれていた四国八十八箇所の札所と本地・正観音像は、一宮寺に移される。
明治4年(1871年)、近代社格制度において国幣中社に列した。現在に伝わる神宝は「田村神社古神宝類」として国の重要文化財に指定されている」

あまりにいろいとありすぎて、祭神のあれこれなどを深堀する気力がなくなってしまった。というより、祭神は後世の政治力学で創出されたものであり、もともとは境内に龍神として示現される水神様を祀ったものだろう。社の建つ地はかつて香東川の川淵であったよう。付近には出水(泉)も多く、社の本殿奥に神座があり、その下には深い淵があり水神である龍神が棲むという伝説がある。社の別称に「定水大明神」とあった。その語感からは、いかにも絶えることのない水を想起する。そんな稲作の生命線である水を水神として信仰の対象としたのがこの社のはじまりではないだろうか。 田村神社はこの辺りで終わりにし、遍路道へと戻ることにする。

■屋島寺への旧遍路道■

県道12号の北に地蔵堂と2基の標石
一宮寺から屋島寺への遍路道は仁王門を出て、田村神社の塀に沿って北に進む。途中右折すれば上述田村神社の北参道の大鳥居に出るが、遍路道は直進し県道12号を超える。県道の対面に北東に進む水路がある。遍路道はその水路に沿って進むことになる。
少し進むとブロック造りの地蔵堂があり、その前に標石2基が立つ。ひとつは茂兵衛道標。手印と共に「扁んろ道 明治十九年」の文字が刻まれる。もう一基の標石には手印と「八十三番一ノ宮寺ハコチラ」と刻まれる。
茂兵衛道標の手印は北を指すが、これはどうも高松市街真ん中にある高野山別院経由屋島寺への遍路道を指すようで、直接屋島寺に向かう道はここを右折する。

県道172号と水路合流点の標石
右折するといっても現在、そこは道と言うか民家の間の水路といったもので、特段道はない。とりあえず水路脇を進み県道172号に合流。
古い資料には国道との合流点に標石があるというが、なかなか見つけられない。あちこち探していると、水路が国道下に潜り込む手前、水路の石垣に標石らしきものが挟み込まれている。石垣を組み上げるために利用したのだろうか。






自然石標石
県道を越えた遍路道は北東へと上る、と古い資料にある。が、現在ではこの辺りは宅地開発されており遍路道は消えている。
次の目印は一筋北の道筋にある自然石道標。遍路道ではないだろうが水路に沿って進み、一筋北の道に出て右折し少し東に向かうと、道の左手に自然石の標石があった。手印と共に「左やしま」と刻まれていた。

三名神社東の標石
自然石の指示に従い道を左折。水路に沿って北東へと進むと「おさか脳神経外科病院」の南に出る。その東は国道192号。遍路道は国道を渡り東へと進む。ほどなく道の左手に三名神社があり、そこから50mほど進むと道の左手に標石がある。手印に従い左折し北に向かう。

手引き地蔵
北に折れる角、道の右手が一段高いスペースとなっており北西角に小堂がふたつ並ぶ。洪水のため流されて来たものとされ、「手引き地蔵」と呼ばれるようだ。






手印だけの標石が続く
北に進むと一筋先の道との交差に手印だけの標石。更に一筋先の交差部にも少し傾いた手印だけの標石。手印は北を指すが民家の敷地となっており先に進めない。道を右に折れる。




田圃の中を進む
道を右に折れると直ぐに民家傍に標石が立つ。手印は北を指す。指示に従い田圃の中の細路を進む。次の遍路道のルート目安は光臨寺傍にある標石だが、そこまでは標石もなく、成り行きで進むしかない。



光臨寺傍の標石
田圃の中の道を右折>左折>右折>左折と繰り返し県道147号に一旦出る。その先も成り行きで北進し水路脇に続く道に出る。
弧を描く水路脇の道を進み県道280号東側に。そのまま光臨寺の北側の道を進むと県道166号に当たる。合流点を左に折れると県道右側に標石。「右屋し満道 左高ま津道」と刻まれる。



太田天満宮
次のルート目安は太田天満宮だが、古い遍路道資料にある標石から北東に進む道はない。ここから先天満宮までは標石もなく、どうしたものかとあちこち彷徨うと、標石から少し南に戻った水路脇に遍路タグがあった。
遍路タグに従って水路脇の道を進み県道171号に。が、その先は遍路道案内のタグも見つけることができず、結局成り行きで進み太田天満宮の少し東に出る。今回は宅地開発などで旧遍路道が分断され、ルート確定が結構難しい。

伏石八幡
次のルート目安は伏石八幡。その間標石はない。古い資料にある道筋は、太田天満宮を左に見て県道171号を東進し、琴平電鉄を越えた一筋先の道を左に折れて北進。高松自動車道の高架を潜り、一筋北の道にあわさる交差部から北東に進む道筋に入り伏石八幡に進む、とある。その資料に従い伏石八幡前の参道に出る。
伏石神社
伏石八幡の由緒を刻んだ石碑に三石神社の由来とある。どういうこと?石碑には「伏石神社 三石神社の由来 祭神:応神天皇・神功皇后・玉依姫命 慶長七年寺島弥兵吉長の創建と伝えられ昔から当社東の方立石神社南東の居石神社とともに三所八幡又三石八幡といわれている。祭神は毒蛇を憎みその危害から人々を守る神として知られている。
今から三百七十七年前慶長六年八月のある晩この村の郷士寺島弥兵吉長は家から南西約三百メートルの林の中から出ているあやしい光を見つけた。不思議に思いながらそのまま寝たが、あくる晩もまた次の晩もその光が見えるのであった。不審に思った吉長はその正体を見届けようと家来を連れて林にわけ入った。あやしい光は林の中程にある大きな石から出ており、その石は方一丈余(約三メートル四方、高さ三尺約一メートル)ちょうど伏したような形のもので地面に埋まっている部分はどれくらいあるか想像もつかない大石であった。
吉長は「これはただの石ではない。神様が自分を呼び寄せるために光を出したに違いない」と一心に石に祈りそのわけをおうかがいしたのである。神様のお告げは次のようであった。
ここから二百歩ばかり東へ行くと立石という大きな石がある。松縄村には流石があり、また屋島の麓蒲生の海底には鰭石(ひれいし)といわれる石がある。この四つの石はみな神の宿る神石である。世の人々はこれを知らないから今ここにそのありかを教えておく。これからは神として年ごとの祭りを怠ってはならぬ」と。吉長はおそれ多く思いここに社を建て村の産土神としてまつることになったという。
亀石
幣殿の北に大きな亀石がある。この亀石は寺島屋敷の西南角に安置していたものを第十四代政吉氏が昭和二年の寄贈したものである。
立石神社
祭神:応神天皇・神功皇后・玉依姫命
伏石神社の参道を東へ進むこと約三百メートル。大きなもちの木を中心とした森がある。ここに鎮座ましますのが立石神社である。この神社は昔から三所八幡又三石神社のひとつとして崇敬されている。約三百七十年余り前寺島弥兵衛吉長が伏石のかみさ神に祈りを捧げたとき神様から教えられたご神石(立った形をしている石)があり、これが神体として祀られている。
居石神社
祭神:応神天皇・神功皇后・玉依姫命
保安年間居石五郎右衛門網光が祀ったものでその子孫は姓を佐藤といい又居石ともいう。 当社は保安五年居石五郎右衛門網光が勧請したもので出水「鹿の井」と深い関係がある。(以下略)」。

ここからわかることは、神の宿る石は四つであるが、ひとつは海底であり社を建てることができないため、神の宿る石をご神体とした社を三社建立。それが三石神社。この伏石神社はその第一社。由緒にある松縄村の流石とは伏石神社の南東、高松自動車道のすぐ南にある居石神社。ここが第三社と言うことだろう。

野田池の地蔵堂と標石
遍路道は野田池に向かう。伏石八幡鳥居前に東西に続く大きな道は「馬場道」と称されるようだ。この先、野田池までの遍路道ははっきりしない。野田池手前の蓮池土手に地蔵堂が残るとあるので、成り行きで県道43号を東に越えて蓮池に。
池の北東角にある地蔵堂を確認し伏石中央公園の東端を北に進み野田池に。池の土手に地蔵堂が立つ。脇の石碑には「このお地蔵さまは享保十二(西暦1727)湛明元江和尚と宝暦六(西暦1757)博道覚性沙弥二人のため、また野田池の安全と多くの人々の冥福を祈って建立されたものと思われる」とあった。年号は没年であろう。地蔵堂の脇には手印だけの標石もあった。

松縄東公園の南に2基の標石が続く
野田池から先の遍路道もはっきりしない。古い資料には野田池からまっすぐ北に300m進み右折。そこから東に進み、比較的大きな道を越えると標石があり。そこを左折し北へと向かい松縄東公園の東側に出るとある。松縄東公園への途次には2基の標石がある、とのこと。
Google Street Viewで標石確認
野田池からの北進は距離が300mほど、とあるので右折箇所は分かるのだが、そこから東進した後に左折する箇所がはっきりしない。その曲がり角を特定するためGoogle Street Viewを活用。資料にある曲がり角の標石と松縄東公園へ北進する道の途中にあるという2基の標石を探す。 松縄東公園から南へとStreet Viewでチェックし2基の標石は確認できた。曲がり角の標石を見つけることはできなかったが、なんとなくルートが見えてきた。

野田池を出発。北に300mほど進み右折し東進。チェックできた標石に北進する道を左折。少し北に進み手印だけの標石を確認。そこから先にT字路。右折し次の角を左折し松縄東公園へと進むと直ぐ、道の右手の家庭菜園端に標石があった。この標石の手印の上には元の石が庇(ひさし)の用に張り出している。あまり見かけない姿の標石だ。

琴平電鉄長尾線歩行者踏切の標石
古い遍路道資料には、松縄東公園から先は北に進み、県道10号を越えて松縄北公園方向へ進むとあるが、県道10号南に建物が建ち先に進めない。取り敢えず建物を迂回し松縄北公園へと進む道を辿るが遍路標識は見当たらない。
古い資料に拠れば、ルート目安となる標石は琴平電鉄長尾線歩行者踏切を渡ったところにあるとのこと。成り行きで道を進み右折・左折を繰り返し線路脇の道筋に出る。道を東に進み琴電の歩行者踏切を渡ると標石があった。

夷神社
踏切を渡った遍路道は琴電の線路に沿って進み、琴電踏切を渡ることなく交差点を直進し、詰田川に架かる木太橋を渡る。道は県道10号とある。川に沿って少し進み、道が南にカーブする手前に夷神社。遍路道は夷神社脇の道を左に入る。
夷神社
「祭神 八重事代主命 この社には、釣り竿を担ぎ鯛を小脇に抱えた石像がある。漁師たちが守護神として蛭子神(八重事代主命)を祭ったと言われている。
夷神社は蛭子宮(讃岐国名所図会)、蛭子の社(入江神社記)、蛭児大明神(翁謳夜話・讃州府誌)などと称せられている。また全讃史には「何年に祭られたが知らずとあり、寛永以前はこの地は入江にて漁者も住居し、蛭子宮ありて、地名を夷と言う。
寛永十四年(1637)生駒藩の時、この地以北の地を干拓して新田とした」と記されている。
夷神社は海岸線に位置し、地名も夷村と名付けられたと言われる歴史の古い神社である。昭和六十一年に本殿を改築して、夷地区の集会所としても使われている。 平成十年五月 木太地区文化協会」

分かれ股地蔵と標石
夷神社脇の細路を進み車道に出る。遍路道はここを左に折れて北に向かう。少し進むと道が二股に分かれる。その分岐点に小さな地蔵堂と標石がある。石柱には「分かれ股地蔵」とある。地蔵様の右手にある標石には「右屋島 左高松 寛政十」といった文字が刻まれる。


高須公民館脇に標石
道を北に進むと高須公民館の南、隣の建物の間に挟まれるように地蔵尊が祀られる。その高須公民館の北西角に標石。手印と共に「防州大島郡安下庄 嘉永」と言った文字が刻まれる。遍路道は手印に従い右折する。






春日川橋東詰に標石
高須公民館の北を右折し北東進した遍路道はT字路で左折。JR高徳線の軌道を潜り県道155号に出る。そこで右折し春日川に架かる春日川橋に。橋の西詰に地蔵堂。「ぽっくり地蔵」とある。また橋を渡ると東詰にお地蔵さまが石柱上に座る標石があり、手印と共に「右やしま寺 明治三十年」と刻まれる。手印に従い県道を更に東に進む。


新川橋東詰に標石
次いで新川に架かる新川橋を渡ると橋の東詰に標石があり、手印と共に「やし満 右一之宮 東徳島 西高松 北やし満」と刻まれる。遍路道はここを左折し県道155号を離れ県道150号に乗り換え相引川の右岸を北に進む。
相引川
なんだか面白い名前。チェックするとその由来は、「川の両端がともに海に繋がっているため、潮の満ち引き時には川の水が東西両方向から満ち、両方向へ向かって引いていくことから、相引川と呼ばれるようになったとする説がある。また、東側の河口付近に位置する檀ノ浦で行われた屋島の戦いの際に、源氏・平氏の双方が互いに譲らず引き分けたことを由来とする説もある」とあった。

それにしても奇妙な川。その成り立ちをチェックする。Wikipediaに「源平合戦(1185年)の時代には屋島と四国本土はかなり離れていた。江戸前期までは海であり、満潮時には海水が東西から満ち、干潮時には東西に分かれたことから「相引浦」と呼ばれたという。
生駒氏統治時代(1600年 - 1640年)の寛永14年(1637年)、生駒高俊が堤防を築かせ、屋島と四国本土は陸続きになったが、松平氏統治時代(1642年 - 1871年)になって、古来の妙跡を惜しんだ初代藩主松平頼重の命によって1647年(正保4年)に水路が復元され、現在の相引川の形が完成した」とあり、続けて「鎌倉前期の軍記物語の『平家物語』には、「・・・潮の引いています時には、陸と島との間は馬の腹もつかりません。」と記述され、浅い海であったとされている。また、1633年(寛永10年)の『讃岐国絵図』は、屋島は海を挟んで島として描かれている。そして、1789年頃(寛政頃)の『讃岐一円図』は、屋島は川で隔てられた島であり、1808年(文化5年)に測量された『伊能大図』は、現在と同様に相引川を挟んで島となっている」とそのエビデンスを示していた。

相引川・大橋北詰にお堂と標石
相引川に架かる大橋を渡ると北詰に立派なお堂が建つ。お不動さんを祀るとされるお堂の庇の下に4基の石造物とその外側に5基の石柱が残る。
石柱は旧大橋の石柱。「大橋」と刻まれる。4基の石造物はすべて標石を兼ねているようである。そのうち1基は角柱標石、3基は舟形地蔵丁石。角柱標石には正面に「南無阿弥陀仏」、「是よりやしま寺へ十九丁 一のみや江百五十丁」と刻まれる。建立近視者の菩提を弔う石碑のようだ。3基の舟形丁石には「一丁目 享保」「右扁ろミち」「二丁目 享保十」と言った文字が刻まれる、と言う。

双ッ池南の標石
北に進み、琴電潟元駅と、如何にも往昔の干潟の趣を残す駅の東側にある踏切を越え三叉路を北東に進む道をとる。しばらく進むと県道14号と交差。遍路道はここで左折し県道14号に乗り換えて北に進む。
ほどなく右から道が合わさる前面に土手。道の交差する土手下に「四国のみち」の指導標、大きな角柱石碑と共に標石があり、手印と共に、「左やし満道 文政二」といった文字が刻まれる。 傍には「屋島遍路みち案内(弘法の道)」があり、屋島寺への上り、屋島寺から八栗寺へと下る遍路道筋にある12か所の旧跡の案内があった。
八十五番札所八栗寺への遍路道
この交差部を左へと、屋島の山裾を進む道も遍路道。屋島寺を打ち終えた後、ここまで戻り次の札所八栗寺へと向かう遍路もいたようだ。

遍照院傍に「四国のみち」指導標
標石に従い道を進むと、二ツ池の西側、道の左手のガードレール外に標石がある。大師坐像が浮き彫りとなった結構大きな標石だ。手印と供に「一のみやミち 百三十丁」と刻まれる。
次第に急坂となった道を進み、左手に屋島小学校を見遣り先に進むと、道の右手に遍照院がありその先で道は二つに分かれる。その分岐点に「四国のみち」の指導標が立ち、遍路道は直進。 上述双ッ池土手下の「遍路みち案内」に、遍照院には弘法大師作の仏像が祀られる、とあった。

●八十四番札所 屋島寺表参道●

屋島寺表参道登山口
舗装された道を進み、民家も途切れ林に入る頃、道の左右に3基ほど舟形地蔵標石が続く。「七丁目」「九丁目」、共に「享保十一」と刻まれる、と。




道の左右の未舗装箇所には結構な数の車が停る。屋島寺なのか屋島のお山なのか、ともあれ車をここまで寄せて屋島へと向かうようだ。道はその先で石段となる。






石段付近には標石らしき傾いた石柱、左手の林の中にも舟形地蔵。「右 左」といった文字が刻まれており、標石となっている。







弘法大師加持水
石段となり車の進入を止めた先も幅3mほどの舗装された道が続く。4分ほど歩くと道の右手に多数の石造物があり、石柱に「弘法大師加持水」とあり、案内には「弘法大師が、仏天を供養し誦呪加寺(呪文を読み仏の加護保持を祈とうすること)をしたといわれる水です。
干ばつで各地の池や井戸水が枯れても、この湧水は絶えることがありません。 また、路傍の石碑に字が刻まれていますが、弘法大師の筆跡だと伝えられています」とあった。
数個の自然石に囲まれた湧水がかろうじて残っていた。
弘法大師加持水の先、道の右手に2基の舟形地蔵が並ぶ。

十二丁・十三丁石
加持水からほどなく道の右手に地蔵石仏、次いで4分程あるくと十二丁、更に5分ほどで十三丁の舟形地蔵丁石が現れる。道は相変わらず舗装され、朝の散歩のお山に上り、そして下りてくる多くの人にすれ違う。



不喰梨弘大師
十三丁石から4分程歩くと道の右手に再び石仏群が現れる。中央の等身大坐像の台座には「不喰梨弘大師」の文字が刻まれる。その横、大きな石碑は「くわすのなし これよ里本堂へ三丁 文政六」と刻まれ丁石ともなっている。
不喰梨の案内には「空海(弘法大師)が屋島に登ったとき、梨がおいしそうに熟していたので一つ所望をなさいました、でも持主は「うまそうに見えてもこれは食べられない不喰の梨です」と嘘を言ってことわりました。その後、この梨はほんとうに石のように固く食べられなくなってしまつたと伝えられています」とあった。

梨に限らずこの類の伝説は多い。芋、蕨、栗、柿、胡桃、そして水など。パターンも意地悪な場合は「不自由」に、親切な村人の場合は「恵まれる」といった勧善懲悪の型をとる。 こういった救荒食物や弘法水といった伝説は中世以降全国を遊行した高野聖に拠ることが多いと言う。

畳岩
不喰梨から数分で十五丁の舟形地蔵丁石。そこから5分ほどで畳岩。西行法師が屋島で「宿りしてここにかりねの畳岩,月は今宵の主ならぬ」と 詠じたとされる。屋島の頂上部を構成する讃岐岩室安山岩という固い岩石の発達した板状節理に拠る。
因みに屋島の美しい台形姿を構成するのは山頂部の堅い讃岐岩質安山岩は固く侵食に耐え元の姿を留める一方、中腹より下の花崗岩質は削れられなだらかな斜面となった故、と言う。 畳岩の直ぐ先には2基の舟形地蔵が並ぶ

名号石
数分進むと不動明王の石仏、さらに数分で自然石に「南無阿弥陀仏」と刻まれた名号石。前述「屋島の遍路みち案内」には、「地元の人はこの石の前でこけると腹がいたくなるから転ばぬようにせよ」とのいいつたえから、この石を腹くわり石と呼んでいる」とあった。屋島には弘法大師が仏の名を刻んだ名号石が3基あるとのことだが、これはそのひとつ。


徳右衛門道標
西国観音霊場二番札所の石仏をみやりながら進み右に折れると屋島寺の山門前に石段。石段を上る途中、右手に徳右衛門道標。「是より八栗寺迄一里 右八くり道 寛政十二」といった文字が刻まれる。この道標、常の徳右衛門道標と大師坐像の姿が異なり椅子にお座りになっていなかった。
それよりなにより、「右八くり」の示す方向は?先に建つ仁王門を越えると右折し屋島南嶺裾を南西に続く道がある。その道を指すのだろうか。はっきりしない。

八十四番札所 屋島寺仁王門
徳右衛門道標の先ににに仁王門。八十三番札所 一宮寺より八十四番番札所 屋島寺までの旧遍路道を繋いだ。次回は屋島寺から八十五番札所八栗寺までの旧遍路道を辿る。


先月は2回に分けて、八十二番札所 根香寺より五台山を下り八十三番札所 一宮寺へと向かう旧遍路道を、東に下り古刹香西寺を経由する香西口ルートと、南東に直接鬼無に下る鬼無口ルートをメモした。これらは七十九番札所 天皇寺より八十番 国分寺、八十一番白峰寺、八十二番根香寺を打ち八十三番一宮寺へと辿る、所謂順打ちルートである。
先般メモしたように、七十九番天皇寺から八十三番一宮寺への旧遍路道は、この順打ちルートとは異なる「逆打ちルート」がある。八十番国分寺から五台山の急登上り八十一番の白峰へと辿るルートを避け、七十九番天皇寺から高屋神社を経て八十一番白峰寺へと上り、八十二番根香寺を打った後、八十番国分寺へと下るルートである。江戸の中頃に開かれた、とのこと。
今回のメモは、この逆打ちルートを辿り、国分寺を打った後、八十三番一宮寺へと向かう、おおよそ2里(8㎞)の旧遍路道をトレースする。常の如く、旧遍路道の目安は処々に建つ標石である。

本日のルート;80番札所国分寺>関ノ池の地蔵尊>国道11号バイパスに「四国のみち」指導標>赤池地蔵堂>県道183号との交差部に2基の標石>下福家の自然石標石>県道12号三木国分寺線の「四国のみち」指導標>三界万霊地蔵尊>魔除大師>南海道一里松跡>県道282号交差点に横内地蔵尊と金毘羅堂>県道44号交差点に標石>円座橋西詰めの地蔵と標石>円座橋東詰めの舟形標石>小堂に舟形地蔵標石>標石と茂兵道標>一宮寺手前の石仏標石>細路に手印標石>札所83番一宮寺駐車場北西角に標石>札所83番一宮寺


関ノ池の地蔵尊
国分寺山門前を少し東に向かい、右折し県道33号・丸亀街道、その先の予讃線・瀬戸大橋線の踏切を越え、関ノ池の東堤に。池の東北角、柱と屋根だけの覆屋に大きな地蔵尊が佇む。台座に三界万霊と刻まれる。明治十二年(1879)の建立。両サイドに無縁仏と刻まれた比較的新しそうな五輪塔と古い趣の石仏が並ぶ。
仁和二年(886)、讃岐守となった菅原道真が国分寺門外の蓮池で蓮の花が開くのを見て、七言二十四韻の詩を詠った。その蓮池は関の池の前身とも伝わる。現在の関の池は昭和十四年(1939)から2年の歳月をかけて修築されたものと地蔵尊脇の石碑にあった。

国道11号バイパスに「四国のみち」指導標
関ノ池の東堤を進み、池の東南端にある取水口に架かる「関の池橋」を渡り、国道11号バイパスに出る。関の池橋下を流れる水路には「野間川」とある。池から流れる水路に川名?地図をトレースすると、関ノ池は北に点在する池と結ばれれており、その池は五台山からの沢筋と繋がっていた。沢から流れ出た水を有効活用した溜池群なのだろうか。
遍路道は国道11号を南にクロスするが、その角に「四国のみち」の指導標。一宮寺8.1kmとある。

赤池地蔵堂と標石
国道を渡り南東に少し進むと四つ角があり、遍路道は左折し東に向かう道に乗り換える。左折して直ぐに地蔵堂。赤池地蔵堂と呼ばれるようだ。道の南に池があるが、それが赤池だろうか。
お堂には大きな地蔵石仏と墓石らしき石が並ぶ。お堂の外、東側に自然石の標石。「右瀧宮道 左へんろ」と刻まれるようだ。
瀧宮
瀧宮はここから南西、琴平電鉄滝宮駅近くにある瀧宮神社(綾歌郡綾川町瀧宮)のこと。瀧宮神社の東隣には讃岐国府の官舎跡ともされる瀧宮天満もあり、この地は菅原道真の雨乞祈願で知られ、「雨乞い念仏踊り」を今に伝える。

県道183号との交差部に2基の標石
道の左手に「元国分高等小学校跡」の石碑を見遣りながら東に進むと、県道183号・綾川国分寺線と交差する東側、道の左右に標石が立つ。北側の標石には手印と大師像、そして一宮寺の文字が見える。南側の商店前の標石北面には「右国分寺 南瀧の宮道 左一ノ宮寺 北高松道」、西面には手印と共に「四国八十二番奥院・一国三十六番霊場 鷲峰寺 南八丁」と刻まれる。



鷲峰(じゅうぶ)寺
高松市国分寺町柏原、鷲ノ山(標高322m)の東麓にある八十二番札所根香寺の奥の院。天平勝宝6年〈754〉、鑑真和尚創建と伝わる古刹。平安時代前期、貞観二年〈860〉には円珍により智証大師十七檀林のひとつとして清和天皇の直願所となった。
智証大師は円珍の諡号。円珍は弘法大師空海の甥とも、姪の子とも言われる。

下福家の自然石標石
県道183号を越えると道の左手に大きな地蔵坐像。道の先には右手に讃岐特有のお椀を被せたような六ツ目山(標高317m)、左手に伽藍山(標高216m)が見える。 道をしばらく進み本津川を越えると、下福家の県道39号四辻手前に自然石の標石。「是与国分寺二十一丁 一ノ宮五十四丁」と刻まれる。

福家
香川では「ふけ」と読むようだ。平安末期、讃岐藤原氏の二代目、羽床を称した藤原資高の四男資光は地名をとり新居氏と改名。源平の乱で源氏に与し戦功をたてた。その新居の系が福家を名乗った、と。福家を名乗ったのが先か、福家という地を領した故の福家かはっきりしない。
チェックすると、「さぬき国分寺町誌」に 「福家は、不毛(ふけ)が語源で、元来は農作物を産しないこと、特に稲作に適さない土地を指すことが多く、不毛(ふもう)の土地であったことを意味する。 しかし鎌倉時代までに綾(讃岐藤原)氏の一族である福家氏などの在地領主が開発して水田化されたものである。豊かになった不毛の地にちなんで雅字をもって福家と充てたものであろう」としている。不毛という「地形」の地を新居氏が開拓し、地形を雅字に充て福家と改称し、地名も福家となった、ということだろうか。

県道12号三木国分寺線の「四国のみち」指導標
県道183号を越えると次の四辻南西角に標石。手印と共に、「右国分寺 左一の宮」と刻まれる。遍路道は田圃の中を六ツ目山と伽藍山の間の鞍部へと向かう。ほどなく県道12号三木国分寺線と斜めに交差。交差部には「四国のみち」の指導標が立つ。

県道12号合流部の三界万霊地蔵尊
県道12号を斜めに越えた遍路道は、県道12号に沿って弧を描き再び県道12号に合流。合流点には台座に「三界万霊」と刻まれた結構大きな地蔵が座る。峠を境に行政区域もかつての綾歌郡国分寺町(現在は高松市国分寺町)から高松市域に入る。
県道12号との合流点、地蔵尊の対面に石柱が見える。「青光山万灯寺 石鉄大権現別院登山口 昭和廿五年」」と刻まれる。この寺は「身代り薬師如来」として知られるようだ。

魔除大師
県道12号を少し東に下ると、道の左手にお堂がある。案内には、「渡唐山遍照院 当院は真言宗の寺院で、高野山金剛三昧院の出張所である。弘法大師をまつり「唐渡りのお大師さん」と呼ばれて親しまれている。
昔このあたりには悪魔や山賊がしきりに出没して民衆を苦しめていた。たまたま四国霊場を開山した弘法大師がこの地に来られ、早速七昼夜の真言密教を修めて彼らを唐の地に渡し民心を安んじられたという。そこでご本尊を魔除大師また厄除大師とも名付けている。
毎年五月二十一日に大法要が営まれ、この日を唐渡市という。かつては競馬が開かれ、農具や苗物などの店が立ち並んで、遠近からの参拝者で賑わった。
当院の南側には新四国八十八カ所や真宗二十四拝の仏像などが整備されている。この付近からの遠望は素晴らしく、高松百景のひとつに選ばれている。 檀紙地区地域おこし運営委員会」とあった。
新四国八十は八カ所や真宗二十四拝は明治後期に設置されたもの、県道12号や高松自動車道建設工事のため放置されていたが、平成3年(1991)に整備されたようだ。
真宗二十四拝
真宗の祖親鸞上人の弟子24人(二十四輩)開基の寺を巡る真宗門徒の霊地巡礼。元は全国各地を巡るが、他の巡礼と同様に地域や境内に「写し霊場」が設けられた。
写し霊場は江戸後期に盛んに設置された後、明治末期から昭和初期にかけても設置ブームが再現したようであり、この写し霊場もその折に設けられたものであろうか。因みに香川の寺院のおよそ4割が真宗という。

南海道一里松跡
魔除大師から先、県道12号を少し下った遍路道は高松道・高松西インター手前で県道を右に折れ、高松道を潜り県道12号の南を東進。県道178号・山崎御厨線、県道44号・円座香南線を越え古川を渡る。古川を越えて直ぐ、明治に檀紙・円座・川岡三カ村組合立として開設された堂山高等小学校の案内板の前に石碑があり、南海道一里松跡とあった。
古代官道である南海道は一宮寺・田村神社から西に、御厩(みまや)、六ッ目山の北の鞍部を越え国府に繋がっていたようだ。ということは知らず古代官道の道筋を辿っていたということだろうか。 御厩は魔除大師の北に御厩池があり、その辺りを御厩地区と地図にある。
檀紙
檀紙(だんし)とは、縮緬状のしわを有する高級和紙で、平安時代以後、高級紙の代表とされ、中世には備中・越前と並び讃岐国がその産地として知られた。讃岐では檀紙の原料となる「檀(まゆみ)」が本津川の支流である古川に繁茂した。檀紙地区には古川が貫流するゆえの地名であろうか。
檀紙地区の北には紙漉といった地名も残り、盛んに紙を漉いていたとのことだが、慶長年間というから16世紀茉から17世紀初頭の頃に途絶えたと。檀紙の原料が後に楮(こうぞ)が取って代わったとのことと何か関係があるのだろうか。
檀(まゆみ)を真弓とも書くのは、そのしなり故に弓の材料としても重宝したから、とか。
円座
円座はガマやスゲ、イグサで編み上げられた円形・渦巻き状の平らな敷物。菅円座とも呼ばれ、宮廷や神社で使われた。高松藩初代藩主松平頼重は円座職人である葛西氏を藩のお抱えとして庇護し幕府に献上している。葛西氏は東国の出。上代に讃岐に移り代々円座師として続いたという。が、現在この技術を受け継ぐ職人は2017年現在でただひとり、との記事があった。円座という地名はこれに拠るのだろう。
堂山
この地区の南西に標高302mの堂山がある。堂山小学校の名前の由来だろう。因みに「組合立学校」とは、小規模な自治体が公共事業を行うため作られた組合により開設された学校のこと。各自治体を越え、近隣する地区、複数の自治体が共同で設立した学校。

県道282号交差点に横内地蔵尊と金毘羅堂
道を東に進み国道32号を越え県道282号との交差手前、道の左手にコンクリート造りのお堂があり2基の石仏が祀られる。そのうち1基はお大師様のようだ。案内には「横内地蔵尊」とあった。横内は地区の名前である。
交差点を渡った東南角には小さいながらも瓦葺きの金毘羅堂。傍には大権現と刻まれた金毘羅常夜灯、大きく突出した手印と共に「一宮 高松 天保四」と刻まれた標石、その間に五角柱の石碑が並ぶ。
お堂傍にあった案内には「横内の四つ辻は、古代の南海道(官道)と金毘羅街道の交差点で、多くの旅人が往来し、大変繁盛した土地であります。
金毘羅末社;幕末の頃この地に?の御幣が天から降ってきました。地元の人々は本社の許しを得て、御幣を祀る末社を建てました。
金毘羅灯籠と道しるべ;金毘羅さんに参詣する旅人の道案内としてつくられた灯籠と「道しるべ」があります
地蔵;旅人の健康と安全を祈願する地蔵が安置されていましたが、道路拡張工事のため西方50mに移転しています。横内の地蔵盆は九月二十三日の夜、近在の人たちがたくさん集まり賑やかにおこなわれていました。
大納言頼経の墓;鎌倉幕府四代摂家将軍頼経は、北条氏に追われ讃岐国に落ちてきました。因縁の深いこの地に墓がつくられ、中に五輪の骨壺が納められています。常に四季の花が供えられ、線香の香りが絶えません」とあった。

横内地蔵堂の地蔵尊はここから移されたのだろう。また、五角柱の石柱は大納言頼経の墓のようだ。石面には「大納言頼経神霊 十月三日」と刻まれる、と。頼経が讃岐に落ちた記録は見当たらない。39歳、京都でむなしくなった、と。

県道44号交差点に標石
かつて金毘羅街道沿いの宿場町として栄えたという円座を東に進む。確認していないが、金毘羅街道は南西へと続く琴平電鉄琴平線に沿って道筋があったのだろうか。 県道282号の一筋東、県道44号との交差する西南角に上部の破損した標石。台座の上に乗る。道を隔てた東北角には「四国のみち」の指導標が立つ。



円座橋西詰めの地蔵と標石
香東川に架かる円座橋の西詰め、道の右手に等身大の地蔵尊立像。地蔵の傍に標石があり、「右 左」といった文字だけが残る。








円座橋東詰めの舟形標石
香東川を渡った東詰めにも舟形地蔵標石。「一宮寺へ十丁 国分寺へ一里半 昭和五十四年」といった文字が刻まれる。昭和54年(1979)建立なのに「丁」や「里」? 古くなり破損したものを修復し直したものだろうか。





小堂に舟形地蔵標石
遍路道は円座橋東詰めの舟形地蔵標石を右折し土手道を進む。香東川右岸を少し進むと左に分かれる道。道なりに進むと道の右手、道が東へとカーブする辺りに小堂があり。「右丸かめ 左」といった文字が刻まれる。






標石と茂兵道標
東に進むと香東橋東詰で別れた道に合流。合流点に小堂がありその傍に2基の標石。茂兵兵衛道標が立つ。1基は147度目の茂兵衛道標。手印と共に「一宮寺」「国分寺」「明治弐十九年」といった文字が刻まれる。もう一基の標石には「右八十番国分寺 一里十丁 皇紀二千六百年」といった文字が刻まれる。



一宮寺手前の石仏標石
道を東に進み御坊川を超えると、道の左手に標石が立つ。道路側には石仏立像が刻まれ、西面側には手印と共に「左へんろ道 札所へ二兆丁 寛政十二年」といった文字が刻まれる。 指示にある左は一見すると民家の敷地のようにも見える。が、何となくフェンスに沿って道らしき雰囲気もあり、標石の指示に従い左に折れる。高松南高等学校との境の細路を進む。

細路に手印標石
この道で大丈夫?などと思いかけた頃、細路に手印標石。オンコースとわかり一安心。成り行きで進むと車道に合流。そこに一宮寺駐車場があった。




札所83番一宮寺駐車場北西角に標石
駐車場の北西角、大師座像の下に「太札 二丁 明治四十三年」と刻まれた標石がある。「太札」と読めるのだけど何だろう。それはともあれ、標石を東に進むと山門があり、八十三番札所一宮寺の西門(裏門)にあたる。裏門内側右に手印と共に「八十三番札所」と刻まれた標石があった。

これで八十番札所・国分寺から八十三番札所・一宮寺へと辿る旧遍路道のメモを終える。次回は一宮寺から八十四番札所屋島寺への旧遍路道をトレースする。


根香寺から一宮寺への遍路道の2回目。今回はお山を南に直接鬼無に下り、一宮寺へと向かう遍路道をメモする。
このルートはあまりお遍路さんが歩かないのか、WEBにはこのルートの案内記事が少ないようだ。詳しいルート図も見当たらず、荒れた道故に利用されないのか、などと思いながら山道を辿ったのだが、指導標も立ち、道も整備されており、山裾までは道に迷うことはなかった。
山裾から鬼無の香西口ルートとの合流点までは遍路タグや指導標を見付けることはできなかったが、ルートのポイントとなる箇所はカバーしたので鬼無口ルートと考えてもほぼ間違いないだろう。

このルートは鬼無で香西口経由の遍路道に合流する。鬼無駅南の石灯籠と標石の立つ箇所が合流点だが、そこから一宮寺までは先回の香西口ルートの道筋と同じ。鬼無口ルートを辿るお遍路さんへの利便性のため、合流点から先は先回メモした一宮寺までの道筋もコピー&ペーストしておく。

本日のルート;
香西口ルート
82番札所・根香寺>香西口への下山口>山道を下る>八丁目>9丁目>里の車道と合流>民家生垣の標石>桑崎下橋の東に標石>十五丁舟形地蔵丁石>地蔵堂>神在口の鳥居と標石2基>香西寺>萬徳寺>御旅地蔵>瀬戸大橋線・鬼無駅>香西口・鬼無口ルート合流点・自然石灯篭と標石
鬼無口ルート
82番札所・根香寺>根香寺仁王門前を根香寺道に>根香寺道三丁目休憩所>根香寺道と鬼無口への分岐点>遍路墓>車道に出る>車道を逸れて土径へ>車道をクロスし坂を下り再び車道へ>一瞬土径に入り再び車道に>盆栽通り分岐>車道を右に折れる>香西口・鬼無口ルート合流点・自然石灯篭と標石
香西口・鬼無口共通ルート
自然石灯篭と標石>民家脇に標石>あごなし地蔵堂と石の卒塔婆>飯田お遍路休憩所>高地蔵>飯田の観音さん>古宮社>茶臼塚>定木の常夜灯と標石>舟形地蔵丁石>遍路標石と舟形地蔵>四ッ又地蔵>潜水橋>遍路墓2基>自然石の標石>成合橋北詰めの石仏標石>成合神社参道口の標石>小堂の舟形地蔵丁石>Y字路の標石>遍路小屋>83番札所・一宮寺



鬼無口ルート

根香寺仁王門前を根香寺道に
根香寺から鬼無に下るルートを探る。WEBに参考になる情報をスキミング&スキャニング。はっきりと道筋をガイドする地図は見つからなかったが、どうも、白峰寺から根香寺への根香寺道の三丁目標石のある辺りから麓に下るようだ。
国土地理院の地図をチェックすると、根香寺道の三丁辺りから県道180号の東側を南に下り、途中、県道180号から分岐し鬼無に下る道筋の東に沿って麓へ下線が描かれる。それが遍路道?と、あたりをつける。

根香寺仁王門から根香寺道に入る。入り口は仁王門前の駐車場谷側端、南に上る舗装された道がそれ。道の入り口には舟形地蔵丁石が立ち、一丁目と刻まれる
根香寺道
根香寺道は白峰寺から根香寺までの間、おおよそ5キロほどの遍路道。澄禅(ちょうぜん)の『四国遍路日記』(承応2(1653)年)には、「白峰ヨリ五拾町往テ根香寺ニ至ル」との記述があり、真念の『四国遍路道指南(みちしるべ)』(貞享4(1687)年)にも「これより根香寺まで五十町」と書かれている。一丁(町)はほぼ109mであるので、おおよそ距離も合致し、少なくとも江戸時代前期に使われた遍路道と推測される。
この根香寺道のうち、白峰寺出発点の一部と根香寺寺近くのおおよそ2.3キロが昔の面影を良く残すとして平成25年(2013)に国の史跡として指定されている。

根香寺道三丁目休憩所
舗装された道は歩き始めると直ぐに土径となる。道の右手に二丁目と刻まれた舟形地蔵丁石をみやりながら5分ほど歩くと空が開ける。そこには休憩所と遍路小屋。休憩所の手前に標石が立ち、正面には梵字、大師像と共に「是ヨリ一宮迄二里半」と刻まれる。また側面には「崇徳天皇御遺詔地千尋嶽是ヨリ一丁」とある。
千尋嶽は崇徳天皇がその風光を賞で,御陵を造るようにと言 った場所だと言われる。ここから少し西に435mのピークがあるが、そこが千尋嶽だろうか。
崇徳帝の御陵
帝の御陵は千尋嶽ではなく白峰寺の白峰御陵にある。その経緯は?チェックすると、江戸時代後期の儒者である中山城山がまとめた『全讃史』の「根香寺」の項に崇徳院とのゆかりを示す記述があった。
「保元中、崇徳帝 数々行幸を為し給ひて、風景の勝を愛し給へり。甞て詔して曰く、朕千秋の後は、必ず此の山に葬れよ(根来寺の景観を愛で、幾度も行幸を繰り返し、亡くなった後はこの寺に葬れ、と言った。)」、と。
が、「長寛二年八月二十六日、崩じ給ひ、従者 霊輿を奉じて 此の山に到れり。乃ち 僧徒 相議して曰く、吾が山は 即ち 大悲轉法の所、百王鎮護の場なり。豈に 凶穢の物を入るべきや と。乃ち 南嶺に出して 之を拒む(崇徳院が亡くなった時、遺言故に根香寺に棺を運び入れようとしたのだが、根香寺の僧は、崇徳院を"凶穢"として入山を拒んだ)」、と。 「是を以って、已むを得ずして 神輿を反す。時に、輿中に聲ありて曰く、何故反す、と。因って 其の地を謂つて "何故嶺" と曰ふ。遂に 白峯に奉葬せり。 此の寺の衰廃は もと、其れ之れの由る。厥(そ)の後、数々災ありき。亦、"帝の祟(たたり)" と云う」、と。
しかたなく神輿を戻すに、"何故、返すか" との声があった。「根香寺」のあたりの嶺 を、"那是か;何故嶺(なぜかれい)" と呼ぶようになった所以、とか。そして、白峯山に埋葬することになったわけだが、東西一里餘、十七檀林もあった大寺であった根香寺がその後衰退したの、崇徳帝の "祟り" によるもの、と言われる、と記されていた。

休憩所の傍には小祠と共に「崇徳天皇 遥拝小祠」と刻まれた石碑があり、上述エピソードと共に、「崇徳天皇御遺詔地千尋嶽是ヨリ一丁」とある崇徳天皇の遥拝所の小祠が荒れ果てたがゆえに、此の地に小祠を立てたといった記事が刻まれていた。

根香寺道と鬼無口への分岐点
鬼無への分岐点を探す。休憩所や遍路小屋傍にもう一基標石が立つ。手印は右を示し「国分寺六十四丁 瑞岡駅四十七丁」と刻まれる。瑞岡駅とあるからそれほど古いものではないだろう。
それよりなにより、瑞岡駅は国分寺の東2.3キロほど鬼無側にあるわけで、距離からすればこの標石の意味するところは、この分岐から瑞岡駅を経て国分寺への道を案内するということになる。ということは、へんろころがしの急坂経由国分寺の遍路道ではなく、鬼無口経由国分寺までの遍路道を案内しているようにも思える。
思うに、79番札所・天皇社から81番・白峰寺を経て82番・根香寺に進み、80番札所・国分寺へと下った後、82番札所・一宮寺へと向かう逆遍路道の標石か、とも。79番天皇寺から80番国分寺へと順路を進み、81番、82番に向かうへんろころがし・一本松の峠への急登を避けるため、江戸の中頃開かれた逆遍路道の道筋だろう。逆遍路道のルートは根香寺から一本松の峠・へんろころしの急坂を国分寺へと下っていたのだろうと思っていたのだが、いつの頃開かれたか不明だが、この鬼無口から国分寺へと向かう遍路道もあったようだ。
それはともあれ、この標石は鬼無口への手掛かり。このあたりに鬼無口分岐点があるだろうと辺りを彷徨うと、標石の右、というか少し西側に、比較的新しい石柱があり。そこには一宮寺方面と白峰へと向かう根香寺道の分岐案内があった。ここが根香寺道から鬼無口への分岐であろう。なんとか分岐点がみつかった。

遍路墓
一宮寺方面の指示が示す草の中に入る。ちょっとふあん。が、しばらく進むと踏まれた土径となり、一安心。6分ほど南に歩くと道の右手に6基ほどの石碑が並ぶ。遍路墓のように思える。
分岐点から南に下ってきた遍路道は遍路墓の辺りから等高線に沿って東に進む。国土地理院の地図でチェックすると、県道180号から東に向かって分岐し鬼無へと下る道に沿って進んでいる。遍路道が切れてもエスケープできる道があるわけで、さらに安心し先に進む。

車道に出る
東に向かった遍路道は北東に突き出た尾根筋突端を大きく廻り、途中激しく茂る草藪を突き抜けなどしながら遍路墓からおよそ20分歩くと舗装された歩道に出る。




車道を逸れて土径へ
車道を少し進み、北東に突き出た尾根を回り込んだ車道が南へと下る辺り、道の左手の草の中に遍路道と書かれたタグがある。
車道を逸れて土径を進むとほどなく車道へと上る道がある。確認のためその道を車道に上ると、そこには遍路道を案内する石柱があった。先の遍路道分岐点は草に隠れ見逃してしまいそうだが、こちらには一宮寺と刻まれた石柱であり、見逃すことはないだろう。

車道をクロスし坂を下り再び車道へ
遍路道を10分ほど下ると車道に当たり、その車道の対面に道が下る。結構な急坂でありしかも簡易舗装されており、雨上がりということもあって、ツルツルと滑り足元が危うい。道の右手には盆栽用の松が植えられている。
道の左手に舟形地蔵丁石を見遣り坂を数分下ると再び車道に当たる。ここからはしばらく車道を進むことになる。

一瞬土径に入り再び車道に
車道を南東へとしばらく進む。尾根筋に挟まれた赤子谷を抜け、東の尾根筋で車道が大きく南にヘアピン状に曲がるところに一宮寺と刻まれた石碑が立つ。車道を逸れ土径に入る。道筋には舟形地蔵丁石も立つ。
5分ほど歩くと遍路道は車道に合流する。ヘアピン状に曲がった車道が北に戻ったところである。

盆栽通り分岐
車道を7分ほど歩くと盆栽通りの標識。その左手に石柱と遍路道案内のタグ。石碑には一宮寺は右、遍路道タグには「へんろ道」は左との案内。共に一宮寺へと向かうわけだが泣き別れ。石柱の示す一宮寺への道は盆栽通りを下っていくのだろう。
ここは遍路道の案内タグに従い左へと車道を進む。
盆栽通り
鬼無は錦松、黒松、五葉松と言った全国の松盆栽の80%を生産する世界一の松盆栽お植木の里。歴史は今を遡ること200年、瀬戸内の沿岸に自生する松を植え、鉢植えとして販売したことに始まる。黒松を鉢植えに仕立てた鬼無仁三郎、販路を開拓した渡辺半太郎、黒松の突然変異種の錦松の接ぎ木に成功し大量生産を可能とした末澤喜一など先人の努力の賜物とのことである。

車道を右に折れる
盆栽通りへの分岐から車道を進むと直ぐ、最初のカーブを廻りガードレールが一瞬途切れるところ、ガードレール端に遍路道案内のタグ。うっかりすると見落としてしまいそう。遍路道案内タグに従い、その切れたガードレールから右に分岐する道に乗り換える。
舗装された道を進み、右手に見える池をこえたあたり、道の左手に谷北上集会所。遍路道は谷北上集会所前を通る、といった記事もあったの、オンコースであることを確認。

香西口・鬼無口ルート合流点へ
谷北上集会所から先の鬼無ルートの遍路道は、公民館前バス停を経て伊予街道、予讃線を越えて香西口からの遍路道に合流するという。地図をチェックすると谷北上集会所から直ぐ右折し、一筋南の道筋に公民館前バス停がある。その通りは先ほど出合った「盆栽通り」分岐から一宮寺へと向かう道筋のよう。盆栽通り分岐で分かれた道はここで合さり一宮寺へ向かうようである。
鬼無小学校前を右折し、公民館前バス停のある通りを左折、県道33号・伊予街道を越え予讃線の踏切を渡り直進すると、香西口遍路道との合流点である「八幡宮」と刻んだ3mほどの自然石と標石のある箇所に到着する。


香西口・鬼無口ルート合流点から一宮寺へ

根香寺から鬼無口に下る遍路道のメモはここまで。これから先一宮寺までは先回辿った香西口経由のメモを再掲する。

香西口・鬼無口ルート合流点・自然石灯篭と標石
鬼無駅前を南に下ると道の左手に大きな自然石の燈篭が見える。「八幡宮」と刻まれた石灯篭の前に標石があり、「左いちのみや」と刻まれる。
八幡社とは後述する、飯田の八幡様と称される岩田神社のことだろうか。 標石脇には遍路道表示もあり、ここでY字となった径に折れる。と、すぐに墓地を囲む生垣に埋もれるように標石が立ち、「是よ里一宮六十七丁」と刻まれる。
なおこの地は次回メモする根香寺からお山を直接鬼無に下る遍路道との合流点でもある。

民家脇に標石
径を進むと県道177号に当たる。遍路道は県道を突き切り民家の間の径に入る。径の角に標石があり、手印と共に「是よ里一のみや」と刻まれる。
径を進むと古さびた堂宇。道端大師堂とある。地蔵堂を超えると遍路道は本津川の堤に出る。昔の遍路道は本津川に下り、そこに架かる接待橋を渡ったようである。現在は少し下流に架かる永代橋を渡るが、この橋を接待橋とも呼ぶようだ。

あごなし地蔵堂と石の卒塔婆
永代橋を渡るとあごなし地蔵堂とその後ろに4mほどの卒塔婆。お堂の前の案内には、「孔雀藤 ふじなみや 音なきかぜのよりどころ 梅下庵主人
孔雀藤は樹齢八百年を数えると推定され、その名称は明治三十年(1897)ころに、孔雀の羽ように艶やかな藤であるというところから付けられた。
昭和十四年(1939)、香川県天然記念物の指定となり、昭和四十六年(1971)県の自然物の指定となる(この孔雀藤は岩田神社境内にある)。
遍路道
遍路道には一見してそれとわかる道標・丁石が立てられている。遍路は、それを道案内に札所から札所へ迷うことなく、大師の辿られた跡を慕って修行して歩けば、解脱成仏できると信じたようである。
根香寺から永代橋(接待橋)を渡ると卒塔婆・顎無地蔵・源岩田山蓮香寺本尊千手観世音菩薩安置所(観音さん)がある。これを東に進み、道祖伸より代官道を通り四ッ又地蔵へ、さらに一宮寺に行く道を遍路道という」とあった。

あごなし地蔵の説明はなかったが、歯痛に後利益あり、という。あごがどうして歯痛?チェックすると大阪府豊中市にある萩乃寺の秘仏・あごなし地蔵尊のいわれが見つかった。そこには、廃仏毀釈の嵐に巻き込まれた隠岐の島の伴桂寺より難を逃れるべく萩乃寺に遷座したとあり、秘仏あごなし地蔵尊のいわれとして、「平安初期の参議で歌人としても名高い小野篁卿が承和5年(838)12月、隠岐の島へ流されたときに阿古という農夫が身の回りの世話をしました。ところがこの阿古は歯の病気に大層苦しんでいたので、世話になったお礼にと、篁卿は代受苦の仏である地蔵菩薩を刻んでこれを授けました。阿古が信心をこらして祈願するとたちまち病が平癒し、卿も程なく都へ召し返されたので、奇端は偏にこの地蔵尊の加護したまうところと、島民の信仰を集めました。
その後、仏像は島の伴桂寺にまつられ「阿古直し」がなまって尽には、「あごなし地蔵」と呼称されるに至ったといわれています」とあった。
また、埼玉の広済寺にある「あごなし地蔵」は文字通り顎がない。顎がなければ歯もないわけで、歯痛がおきることもない、とのこと。
前者はいわれとしては面白いが、一般化するとすれば後者の広済寺のほうがわかりやすどうだ。お地蔵さまも心ももち顎がないように思える。

飯田お遍路休憩所
道なりに東に進むと岩田神社に。飯田の八幡さまとして知られる岩田神社は旧飯田郷四ケ村の氏神である。拝殿左手の藤棚は前述の如く孔雀藤と称され名所とのことだが季節外れ。拝殿にお参りし遍路道に戻る。
遍路道は岩田神社前で右に折れ、南下するが、右折する少し手前に真新しい遍路休憩所があった。飯田お遍路休憩所と呼ばれる。今まで結構多くの遍路休憩所や遍路小屋を見てきたが、この休憩所は最上のカテゴリーに入るように思える。

高地蔵
岩田神社前を右に折れ南に下る道に入るとすぐ、道の右手に二本柱の小屋根をいただいた高地蔵がある。台座を含めておおよそ6m弱あるだろうか。飯田の南、檀紙地区の旧家が牛の供養に立てたという。
檀紙
檀紙(だんし)とは、縮緬状のしわを有する高級和紙で、平安時代以後、高級紙の代表とされ、中世には備中・越前と並び讃岐国がその産地として知られた。讃岐では檀紙の原料となる「檀(まゆみ)」が本津川の支流である古川に繁茂した。檀紙地区には古川が貫流するゆえの地名であろうか。
檀紙地区の北には紙漉といった地名も残り、盛んに紙を漉いていたとのことだが、慶長年間というから16世紀茉から17世紀初頭にかけて途絶えたと。檀紙の原料が後に楮(こうぞ)が取って代わったとのことと何か関係があるのだろうか。
檀(まゆみ)を真弓とも書くのは、そのしなり故に弓の材料としても重宝したから、とか。

飯田の観音さん
高地蔵の横に集会所といった趣の建物がある。そこが飯田の観音様。外壁に取り付けられた木の札には「源 岩田山蓮香寺 本尊千手観世音菩薩安置所」とある。飯田神社の別当寺であった蓮香寺跡という。

古宮社
南下した遍路道は右手に「岩田神社御旅所」の案内があるコンクリート打ちっぱなしといった土台、左手に地蔵堂のある角を左に折れる。道を進むと左手に「五大神」と刻まれた自然石の石碑と「古宮社」と刻まれた石碑の立つお堂がある。

古宮社は地図に飯田神社と記される。これは上述岩田神社の旧地であり。延喜式内帳には式外社として『射田神』を祀るとある。およそ800年前に現岩田神社のある場所に遷座した、と言う。
五大神
お堂の前に「五大神」と刻まれた自然石が立つ。五大神って何だろう?チェックする。なんとなくではあるが、地神(じしん)さま、地神信仰と関連あるように思える。その年の稲の豊作を願い、農業にゆかりの深い土地神様を祀るようだ。
で、五神との関係は? どうも農業に関係深い神として「天照大神(あまてらすおおかみ)・少彦名命(すくなびこなのみこと)・埴安媛命(はにやすひめのみこと)・大己貴命(おおなむちのみこと)・倉稲魂命(うがのみたまのみこと)」の五神が挙げられ、五角柱の各面に五神名が刻まれる地神塔が見受けられるとのことだが、ここは「五大神」と刻むことで良しとしたのだろうか。単なる妄想。根拠なし。

茶臼塚
古宮社から少し進むと道の左手にふたつの小祠。これこそ地神さまかと思ったのだが、井岩田神社近くにあった案内に「茶臼塚」と記された場所のようだ。
で、茶臼塚って?これもはっきりしないが、応仁の乱の頃、この辺り(定木)を領した飯田氏がその祖先を祀るため立てられたようだ。
貞治元年(正平十七、1362)に細川頼之が讃岐の宇多津に上陸した時、一宮の大宮司らと共に細川氏に与し、その後も、頼之傘下で伊予の河野氏討伐に出張っている。 その後、香西氏に与しその重臣として長曾我部と戦う。秀吉の四国征伐の後は讃岐の領主となった生駒氏の家臣となった、とある。茶臼と飯田氏のいわれは不詳。

定木の常夜灯と標石
遍路道は東に進む。県道176号との合流点に常夜灯と標石がある。常夜灯は高さ4mほどの大きな自然石の灯籠。灯籠横の標石には手印と共に、「右 一宮 三十五丁 天保十三年」といった文字が刻まれる。標石の手印は直進ではなく右折を示す。



舟形地蔵丁石
手印に従い右折し、県道に沿った細路を少し南に下ると舟形地蔵丁石が立つ。「左 一ノ宮道」と示す指示に従い左折し県道に当たる。県道の対面には「一宮寺」と刻まれた石柱と遍路タグ。県道を渡る。

遍路標石と舟形地蔵
細路を進み民家の並ぶ通りにT字に当たる。遍路道はそのすぐ先を左折する。ほどなく道の右手に遍路標石と舟形地蔵。お大師さまを彫りぬいた標石には「一の宮へ三十二丁」とある。手印に従い右折する。




四ッ又地蔵
道なりに進むと友常池の北に小さな地蔵堂と標石がある。標石には手印と共に「左 一ノ宮道 三十一丁 明治廿九年」と刻まれる。あれ?手印は右を指すが、文字は左一ノ宮と相反する。手印と文字が間尺に合わない標石を時に見る。標石側からみての手印とも言うが、少々わかりづらい。
地蔵堂に案内があり、おじぞうさんの説明と共に四ッ又地蔵の由来として、「夫婦塚の飯田用水と檀紙からくる水路が合流して四つに分流するところ(四ッ又)にある」故とする。 夫婦塚はこの先、香東川に架かる潜水橋の少し上流にある墓地のようだ。源平合戦の死者をまとめて弔った塚で、道を挟んで両側にあったため夫婦塚と呼ばれたとする。檀紙からの水路は本津川支流の古川からの養水だろうか。

潜水橋
道なりに進み香東川の土手に出る。土手には舟形地蔵が佇む。檀が繁茂したのはこの香東川との記事も見かけたが、それはともかく遍路道は土手を下りて潜水橋を渡ったという。 潜水橋ということは沈下橋だろう。今も川に橋というか、堰と一体となった沈下橋があるのだが、通行止めの指示があり、少し上流の中森大橋を渡り右岸にでる。因みに香東川にはいくつか所謂、「沈下橋」が残るようだ。
標石
潜水橋から中森大橋に向かう途中、土手下に墓地がある。前述夫婦塚の辺りではあろうとおもうのだが、その墓地の土手上に笠のついた結構大きな標石があり手印と共に「一宮道」とあった。手印は中森大橋の方向を指していた。

遍路墓2基
中森大橋を渡り、潜水橋が香東橋を渡る箇所まで戻る。その土手には2基の遍路墓があった。ひとつには「摂州兵庫津船大工町 俗名義兵衛 文政十」、もう一方には「法名 知膳尼 嘉永元年」と刻まれると言う。遍路道は東進し、香川高専の辺りで右に折れ、南下する。


自然石の標石
南に下り高松自動車道の高架と当たる手前、道の右側にある「おへんろさん休憩所」と書かれた食事処の前に自然石の標石。手印と共に「一のみや道」と刻まれる。
高松自動車道の下、香川高専前交差点を渡り更に南下。県道171号に当たるとそこを左折し東進。県道282号・高松市勅使町交差点を右折し香東川に架かる成合橋へと南下する。



成合橋北詰めの石仏標石
香東川に架かる成合橋手前、道の左手に四本柱屋根付きの石仏が佇む。造りは結構新しい。享和2年(1802)の作で台座を含めて1.5mほどといった記事があるが、とてもそれほど古いは思えないし少々小ぶりな感もする。レプリカなのだろうか。前の2本の柱にはそれぞれ「右こんぴら道 左一のみや道」と刻まれる。



成合神社参道口の標石
遍路道は東に向かい、国道32号・成合大橋東交差点を横切り成合神社境内の北端を進む。境内の社叢を越えた先、民家の塀に遍路道の案内があり右折すると神社参道に。その角に雑草に隠れるように標石があり手印と共に「南 一宮道 根香寺道」と刻まれる。
成合
成合の由来は、成合地区の東にある本村の飯沼氏の出自である丹後国・成相にあるようだ。『今昔物語』の「丹後国成合観音霊験記」には成相寺の縁起として。「雪深い草庵で修行の僧。食べ物も尽き、食を本尊に祈る。と、堂外に傷つき倒れた猪。禁戒を破り食する。雪も消え里人が堂内を見るに、鍋に木屑、そして両腿の切り削がれた観音さま。僧は観音さまが身代わりになってくれたと、木屑を腿に着けると元の姿に戻った、と。故に成合〈相〉と。いつもながら昔の人の豊かな想像力に驚かされる。

小堂の舟形地蔵丁石
参道を抜けると遍路道は南に折れる。民家の間の一車線ほどの道を進むと、道の左手に小堂があり、中に祀られる舟形地蔵は「此方 一宮道 文化九年」と刻まれ丁石となっている。舟形地蔵丁石の横には小さな石造座像も祀られていた。





Y字路の標石
道なりにしばらく進み、南北に走る道に合流。少し南に下るとY字路がありその分岐点に標石が立つ。手印と共に「一宮道 右安原道 弘化三年」と刻まれる。安原道は南の塩江町への道のよう。遍路道は手印に従い左の道に入る。





遍路小屋
道なりに進み一宮中学校の西側を下り、一宮小学校の傍で御坊川を渡り民家の間のクランク状の道を右折・左折・右折と進み南に下ると遍路小屋がある。




八十三番札所・一宮寺 
遍路小屋を南に下り、県道12号・一宮町交差点を南に越え道なりに進み、高松南高等学校の辺りで左に折れると札所八十三番一宮寺の境内北側にあたる。


根香寺より一宮寺への遍路道はふたつある。ひとつは五台山を東に下り、香西(神在)口から鬼無を経て一宮寺へ向かうもの。おおよそ15km弱。もうひとつはお山を南東に下り、直接鬼無を経て一宮寺へ向かう遍路道である。おおよそ13km強の遍路道である。
東へ香西口へと下りる遍路道は2キロほど大廻りのように思えるのだが、四国遍路の最古の資料とも言われる澄禅の『四国遍路日記』には「東の浜に下ってカウザイ(高松市香西地区)から南へ向かって、大道(金毘羅高松街道)を横切り三里行って一ノ宮(田村神社、高松市一宮町、現在の八十三番一宮寺の東隣)に至る」とある。江戸時代初期の遍路道は香西口に下っていたようだ。思うに、香西西町にある古刹・四国別格霊場十九番香西寺をお参りした後、一宮寺を打ったのかとも。
根香寺から一宮寺への遍路道は、オーソドックスには香西口への下るものだろうが、距離的には鬼無へとお山を下りる道が近そう。で、どうせのことならと、ふたつの遍路道をカバーする。鬼無に下るルートの案内はあまり見当たらないのだが、行けばなんとかなるだろうと、常の如く行きあたりばったりのスタンスで散歩に出かけた。

本日のルート;
■香西口ルート
82番札所・根香寺>香西口への下山口>山道を下る>八丁目>9丁目>里の車道と合流>民家生垣の標石>桑崎下橋の東に標石>十五丁舟形地蔵丁石>地蔵堂>神在口の鳥居と標石2基>香西寺>萬徳寺>御旅地蔵>瀬戸大橋線・鬼無駅>香西口・鬼無口ルート合流点・自然石灯篭と標石
鬼無口ルート
82番札所・根香寺>根香寺仁王門前を根香寺道に>根香寺道三丁目休憩所>根香寺道と鬼無口への分岐点>遍路墓>車道に出る>車道を逸れて土径へ>車道をクロスし坂を下り再び車道へ>一瞬土径に入り再び車道に>盆栽通り分岐>車道を右に折れる>香西口・鬼無口ルート合流点・自然石灯篭と標石
香西口・鬼無口共通ルート
自然石灯篭と標石>標石>民家脇に標石>あごなし地蔵堂と石の卒塔婆>飯田お遍路休憩所>高地蔵>飯田の観音さん>古宮社>茶臼塚>定木の常夜灯と標石>舟形地蔵丁石>遍路標石と舟形地蔵>四ッ又地蔵>潜水橋>遍路墓2基>自然石の標石>成合橋北詰めの石仏標石>成合神社参道口の標石>小堂の舟形地蔵丁石>Y字路の標石>遍路小屋>一宮寺


香西口ルート

香西口への下山口;10時27分
根香寺から香西口へと下る道筋をチェックする。と、根香寺の近くから国土地理院地図にお山を東へと下るルートが描かれている。お寺の山門を出て舗装された道を少し下ると、「四国のみち」の指導標があり、そこに「一瀬神社2.5km 香西口4.4km」とあり、「遍路道」のタグもついている。下山口はあっけなく見つかった。
「四国のみち」の指導標の脇が根香寺の駐車場となっており、そこに車をデポし山道に入る。常の如く山道を下りて車道まで下り、そこからピストンで引き返し山道と車道合流点へと車を廻し、ピストンを繰り返し、遍路道をトレースすことになる。

山道を下る
ジグザグの山道を下る。「四国のみち」として整備されており快適なコースだ。随所に「四国のみち」の指導標が立つ。25分ほど歩き標高を70mほど下げると小さな沢(10時52分)。沢を跨ぎ、獣侵入防止柵(10時57分)を出ると空が開ける。途中六丁の丁石があるとのことだが、見付けることはできなかった。

八丁目:10時59分
柵を出ると直ぐ、道の右手に2基の舟形地蔵丁石。一基は「八丁」と読めるが、もう一基は上部が破損し「丁目」だけが残る。
丁石の辺りはちょっとした展望台となっている。当日は雨模様で見ることはできなかったが、晴れていれば前面に屋根形をした勝賀山が見えたようである。標高364mの山頂は南北約350m、東西約160mの平坦地となっており、そこに勝賀城跡があるとのこと。土塁を巡らせた中世の山城である。
勝賀城
後鳥羽上皇が北条氏討伐を策した承久の乱(1221)で鎌倉幕府に与し、その戦功によりこの地の郡司として任じられた香西氏が要城とした城跡。香西氏は室町期には讃岐守護の管領細川氏の重臣として、また塩飽・村上といった水軍と通じ大いに栄え、秀吉の四国攻めで滅ぼされるまでおよそ4世紀に渡りこの地を支配した。

9丁目;11時16分
みかん、びわ畑に囲まれた道を下る。「四国のみち」の指導標が左を指すところに、道を右に入れとの遍路タグ。「四国のみち」から逸れて、ビワ畑の間の道を少し下ると小さな祠に舟形地蔵丁石があり、「九丁目」とあった。

里の車道と合流
九丁目の丁石から少し下り、車道に合流。何となく里に下りた感もあり、GPSに合流点のウエイポイントを取り、根香寺の車デポ地まで引き返す。ピストンは結構大変ではあるが、「ピストンで行く」と性根を決めれば、あれこれの段取りを考える必要もなく気楽ではある。
ともあれ、下った道をデポ地へと引き返す。復路、見落としたであろう「六丁目」の丁石に注意し乍ら戻ったが、前述の如く結局見付けることはできなかった。

民家生垣の標石
根香寺からの山道が車道と合流する地点まで車を廻し、そこにデポし散歩を再開。道なりに進むと桑崎池の土手下にある民家の生垣に隠れるように標石があった。「右 ねごろ」と読める。が、現在の道筋では方向が間尺に合わない。舗装された車道ではない遍路道があるのか、または標石がどこからか移されたのか不明である。



桑崎下橋の東に標石
「右 ねごろ」の標石から先の遍路道ははっきりしない。桑崎下橋の東に標石があるとのことであり、ということは桑崎池からの流れに架かる橋であろうと桑崎池から流れる水路に沿って下り桑崎下橋に。
桑崎下橋を渡ると直進方向は民家の鉄骨屋根下に入る。民家の敷地のようでもあるが、その先に坂らしき道筋。控えめに歩を進めると、道は鉄骨屋根の下を抜けて坂に続いており、上り口に標石があった。なんとなく道が繋がった。
標石には「すくこうさい道二十五丁 すく祚ころ寺道十五丁 白み祚寺道六十五丁 天保二年」と刻まれるという。

十五丁舟形地蔵丁石
坂を少し上ると右に折れる細路があり、分岐点に十五丁と刻まれた舟形地蔵丁石が立つ。道なり進み大きな池の土手下を進む。この辺りに十七丁の丁石があるとのことだが、生い茂った草に隠れているのか見付けることはできなかった。が、あちこちと探し彷徨っていると、土手上の池の畔に「十六丁」の舟形地蔵丁石があった。

地蔵堂
池の土手が切れる辺りで道はふたつに分かれる。「四国のみち」の指導標は立つのだが、ちょっと方向がわかりづらい。遍路道は右手にある勝賀山の山裾を進むといった記事もあり、なんとなく右に折れる。
道を折れて進むと結構大きな車道と合流。これが遍路道?と、少し不安になるが、しばらく進むと地蔵堂があった。桑崎池の先で遍路道は地蔵堂前を通る、といった記事もあり、オンコースと一安心。

神在口の鳥居と標石2基
しばらく広い車道を進むと右手に「四国のみち」の指導標が立ち、そこから右へ分岐する道がある。
道を右に入り細路を進むと鳥居と2基の標石、そして地蔵堂。標石には手印と共に、「志ろみね道」「左根香寺道 大正三年」と刻まれていた。遍路道はここで県道16号に合流する。
神在(しんざい)
神在は香西(こうざい)に由来すると思っていた。神在を「こうざい」とよめないこともない。「こうざい」の音に神在の漢字を当てたのだろうと思っていた。が、はっきりとはわからないのだが、神在(しんざい)は菅原道真由来、といった記事も見かけた。
神在口の北に牛ノ鼻と呼ばれる岬があるが、そこは菅原道真が大宰府配流の途中、舟を繋いだと伝わる地。どこ特定できなかったが、神在山は道真こと菅神のいた山故とのこと。鎮西、新祭、深際などとも呼ばれたが後に神在となった、とか。
と、あれこれの説もあるが、なんとなく神在はこの地の有力氏族である香西(こうざい)氏故との感が強い。

香西寺
県道16号を進み香西北町交差点で県道を離れ右に折れて香西寺へ。参道左手に手印と共に「香西寺 立石公園」とある。立石公園は香西寺の裏山にある公園のようだ。さぬき百景 香西寺と刻まれた寺名碑を見遣り仁王門を潜ると正面に毘沙門堂。国の重要文化財指定の毘沙門天立像を安置する。
その左手に本堂。真言宗大覚寺派。四国別格二十霊場第十九番札所。本尊は地蔵菩薩。 Wikipediaには「寺伝によれば、奈良時代の天平11年(739年)に行基が勝賀山の北麓に庵を結び、宝幢を刻んで宝幢山勝賀寺として創建したといわれている。この場所は奥の堂と呼ばれており、奈良時代?平安時代の瓦片が出土することから寺院跡とみなされ、勝賀廃寺と呼称されている。平安時代前期の弘仁8年(817年)空海(弘法大師)が現在地に寺院を移し、地蔵菩薩像を刻んで安置したと言われる。

嵯峨天皇の勅願寺となり、朱雀天皇の讃岐国勅旨談議所となったが、その後は衰微していたようである。 鎌倉時代になり、この地の豪族・香西左近将監資村が鎌倉幕府の命により寺院を再興し香西寺と名付けた。その後は香西氏の庇護を受けることとなった。
南北朝時代には室町幕府の守護大名の細川頼之が本津(現在の香西東町)に移転し、香西氏11代当主の香西元資が地福寺と改称した。
戦国時代の天正年間(1573年 - 1592年)には戦火により伽藍が焼亡した。桃山時代に讃岐国の大名として配された生駒親正が復興し高福寺と名を改めた。
江戸時代前期の万治元年(1658年)失火により伽藍を焼失し、再び現在の地に移転した。寛文9年(1669年)高松藩初代藩主松平頼重が伽藍を整備し別格本山 香西寺と改称した。しかし、その後も失火に見舞われ再建がなされている」とある。
四国別格二十霊場
空海ゆかりの番外霊場のうち、20のお寺様が集まり昭和43年(1968)に組織したもの。高知と愛媛の県境からはじめた歩き遍路の道すがら、宇和島の龍光院、大洲の十夜ヶ橋永徳寺、西条市の西山興隆寺と生木地蔵正善寺、四国中央市の延命寺と龍仙寺(札所三角寺奥の院)そして椿堂常福寺、香川に入り観音寺市の萩原寺、多度津町の海岸寺、そして徳島県の箸蔵寺と知らず別格霊場をカバーしていた。

お寺さまは香西氏が要城とした勝賀城のある勝賀山の北東麓。前述立石公園からは勝賀山が見渡せ、そこには香西伊賀守(香西住清)の石碑が立つという。
香西住清
鎌倉期、勝賀城を築いた香西資村の後裔は室町期に入り二系に分かれる。ひとつは京にあり管領細川氏に仕え(上香西氏)、もうひとつは讃岐の領地を差配した(下香西氏)。香西住清は下香西氏の流れ。下香西家は細川、三好氏といった讃岐支配者の傘下となるも、住清の代になり三好氏と離反。その後長曾我部傘下に入り、秀吉の四国征伐時に下野した。

萬徳寺
香西寺のすぐそばに萬徳寺。山門は鐘を上部に吊った鐘楼門となっている。また、山門左右に立つ像は石造り。仁王様のようでもあり、仁王・金剛力士と同じく天部の護仏天のようでもある。
なんとなく気になりチェックすると、「萬徳寺山門に置かれている仁王像は金剛力士像ではなく、甲冑をつけた二天将姿の石像。獣の皮を剥いで作った鎧を着た姿に彫られた武将像で、向って左側の像は右手に獅噛(しかみ)も彫られている。おそらく四天王の中の持国天と増長天(または持国天と多聞天)が二尊形式をとって山門(二天門)を守っていると思われる。(ふるさと探訪資料)」といった記事があった。
またこのお寺様の本尊である毘沙門天は聖徳太子作とも伝わる。手足に聖徳太子手刻と伝わる銘文があるとのこと。33年に一度御開帳の秘仏とされる。

天長7年(830)。天長山祥福寺として毘沙門天を本尊に開基され、国司時代の菅原道真により修造が進んだとのことである。
鐘楼山門に惹かれて何気なくお参りしたお寺さまで、あれこれと興味深い事柄に出合った。取り敢えず訪ねてみるという散歩のポリシーを再確認

御旅地蔵
萬徳寺を離れた遍路道は南へと下る。宇佐八幡参道から南に延びる道と交差する箇所で遍路道は右に折れる。県道177号とある。
県道177号を南に下ると。ほどなく道の右手に小祠。傍の石碑に「御旅地蔵」とある。御旅って?チェックすると、この地蔵祠の北にある宇佐八幡の御旅所が香西南町にあり、それゆえの「御旅」のようであった。
小祠の脇に「勝賀城跡 登山道」の標識があり、勝賀山へと続く道が南西へと延びていた。
宇佐八幡
香西資村が承久の乱の戦功により幕府御家人としてこの地に来た時に、備前の宇佐八幡を勧請したもの。藤尾山山上に鎮座する。
藤尾山には上述香西住清が長曾我部への備えとして勝賀城より本拠を移した藤尾城があったようである。

瀬戸大橋線・鬼無駅
御旅地蔵から南に、薬師山(標高78m)の東裾を下り県道33号に合流。県道33号を更に南に鬼無駅の手前で左に折れ、踏切を渡る。踏切を渡った遍路道は直ぐに右に折れ、瀬戸大橋線・鬼無駅前を南に下ることになる。
鬼無
寛永10年(1633)の「讃岐国絵図」には「毛無」とあるようだ。毛無とは木無からの転化で、木が生えていない地を意味する。 また、「香西(こうざい)記・全讃史・讃州府志」にはこの地にある熊野神社(昭和63年に熊野権現桃太郎神社と社名変更)の項に、「熊野権現が悪行を働く鬼の害を除き、鬼無(おにな)しになった。そこで祠を建て奉斎し、遂に地名の由来となった」とある。どちらが正しいのかわからない。
桃太郎伝説
鬼退治といえは桃太郎ということで、鬼無を桃太郎のお話と被らせた説明も多い。が、我々がイメージする桃太郎の鬼退治といったストーリーは江戸の頃、草双紙などでほぼ定着し、明治に入り明治20年(1887)の国定教科書を嚆矢に絵本などで人々の間に広まったもののようだ。元々の桃太郎伝説とは異なる、と。
桃太郎伝説は全国各地に伝わる。桃太郎といえば岡山を連想するが、これは1960年以降のキャンペーンの成果と言う。結構新しい。きび団子と吉備団子、岡山といえば桃といったイメージも桃太郎>岡山と言う図柄形成に大きく作用しているのだろうか。
香川では昭和の初期から桃太郎伝説発祥の地との主張があったようだ。鬼無の地名の由来に桃太郎が登場するのも、また元は熊野神社であったものを桃太郎神社とその名を変えたもの、その流れの一環かとも思える。
岡山にしろ香川にしろ、瀬戸の島にすむ鬼・外敵(塩飽諸島の海賊など)との攻防があっただろうし、今に伝わる桃太郎伝説との親和性は高いと思える。

香西口・鬼無口ルート合流点・自然石灯篭と標石
鬼無駅前を南に下ると道の左手に大きな自然石の燈篭が見える。「八幡宮」と刻まれた石灯篭の前に標石があり、「左いちのみや」と刻まれる。
八幡社とは後述する、飯田の八幡様と称される岩田神社のことだろうか。 標石脇には遍路道表示もあり、ここでY字となった径に折れる。と、すぐに墓地を囲む生垣に埋もれるように標石が立ち、「是よ里一宮六十七丁」と刻まれる。
なおこの地は次回メモする根香寺からお山を直接鬼無に下る遍路道との合流点でもある。

民家脇に標石
径を進むと県道177号に当たる。遍路道は県道を突き切り民家の間の径に入る。径の角に標石があり、手印と共に「是よ里一のみや」と刻まれる。
径を進むと古さびた堂宇。道端大師堂とある。地蔵堂を超えると遍路道は本津川の堤に出る。昔の遍路道は本津川に下り、そこに架かる接待橋を渡ったようである。現在は少し下流に架かる永代橋を渡るが、この橋を接待橋とも呼ぶようだ。

あごなし地蔵堂と石の卒塔婆
永代橋を渡るとあごなし地蔵堂とその後ろに4mほどの卒塔婆。お堂の前の案内には、「孔雀藤 ふじなみや 音なきかぜのよりどころ 梅下庵主人
孔雀藤は樹齢八百年を数えると推定され、その名称は明治三十年(1897)ころに、孔雀の羽ように艶やかな藤であるというところから付けられた。
昭和十四年(1939)、香川県天然記念物の指定となり、昭和四十六年(1971)県の自然物の指定となる(この孔雀藤は岩田神社境内にある)。
遍路道
遍路道には一見してそれとわかる道標・丁石が立てられている。遍路は、それを道案内に札所から札所へ迷うことなく、大師の辿られた跡を慕って修行して歩けば、解脱成仏できると信じたようである。
根香寺から永代橋(接待橋)を渡ると卒塔婆・顎無地蔵・源岩田山蓮香寺本尊千手観世音菩薩安置所(観音さん)がある。これを東に進み、道祖伸より代官道を通り四ッ又地蔵へ、さらに一宮寺に行く道を遍路道という」とあった。

あごなし地蔵の説明はなかったが、歯痛に後利益あり、という。あごがどうして歯痛?チェックすると大阪府豊中市にある萩乃寺の秘仏・あごなし地蔵尊のいわれが見つかった。そこには、廃仏毀釈の嵐に巻き込まれた隠岐の島の伴桂寺より難を逃れるべく萩乃寺に遷座したとあり、秘仏あごなし地蔵尊のいわれとして、「平安初期の参議で歌人としても名高い小野篁卿が承和5年(838)12月、隠岐の島へ流されたときに阿古という農夫が身の回りの世話をしました。ところがこの阿古は歯の病気に大層苦しんでいたので、世話になったお礼にと、篁卿は代受苦の仏である地蔵菩薩を刻んでこれを授けました。阿古が信心をこらして祈願するとたちまち病が平癒し、卿も程なく都へ召し返されたので、奇端は偏にこの地蔵尊の加護したまうところと、島民の信仰を集めました。
その後、仏像は島の伴桂寺にまつられ「阿古直し」がなまって尽には、「あごなし地蔵」と呼称されるに至ったといわれています」とあった。
また、埼玉の広済寺にある「あごなし地蔵」は文字通り顎がない。顎がなければ歯もないわけで、歯痛がおきることもない、とのこと。
前者はいわれとしては面白いが、一般化するとすれば後者の広済寺のほうがわかりやすどうだ。お地蔵さまも心ももち顎がないように思える。

飯田お遍路休憩所
道なりに東に進むと岩田神社に。飯田の八幡さまとして知られる岩田神社は旧飯田郷四ケ村の氏神である。拝殿左手の藤棚は前述の如く孔雀藤と称され名所とのことだが季節外れ。拝殿にお参りし遍路道に戻る。
遍路道は岩田神社前で右に折れ、南下するが、右折する少し手前に真新しい遍路休憩所があった。飯田お遍路休憩所と呼ばれる。今まで結構多くの遍路休憩所や遍路小屋を見てきたが、この休憩所は最上のカテゴリーに入るように思える。

高地蔵
岩田神社前を右に折れ南に下る道に入るとすぐ、道の右手に二本柱の小屋根をいただいた高地蔵がある。台座を含めておおよそ6m弱あるだろうか。飯田の南、檀紙地区の旧家が牛の供養に立てたという。
檀紙
檀紙(だんし)とは、縮緬状のしわを有する高級和紙で、平安時代以後、高級紙の代表とされ、中世には備中・越前と並び讃岐国がその産地として知られた。讃岐では檀紙の原料となる「檀(まゆみ)」が本津川の支流である古川に繁茂した。檀紙地区には古川が貫流するゆえの地名であろうか。
檀紙地区の北には紙漉といった地名も残り、盛んに紙を漉いていたとのことだが、慶長年間というから16世紀茉から17世紀初頭にかけて途絶えたと。檀紙の原料が後に楮(こうぞ)が取って代わったとのことと何か関係があるのだろうか。
檀(まゆみ)を真弓とも書くのは、そのしなり故に弓の材料としても重宝したから、とか。

飯田の観音さん
高地蔵の横に集会所といった趣の建物がある。そこが飯田の観音様。外壁に取り付けられた木の札には「源 岩田山蓮香寺 本尊千手観世音菩薩安置所」とある。飯田神社の別当寺であった蓮香寺跡という。

古宮社
南下した遍路道は右手に「岩田神社御旅所」の案内があるコンクリート打ちっぱなしといった土台、左手に地蔵堂のある角を左に折れる。道を進むと左手に「五大神」と刻まれた自然石の石碑と「古宮社」と刻まれた石碑の立つお堂がある。

古宮社は地図に飯田神社と記される。これは上述岩田神社の旧地であり。延喜式内帳には式外社として『射田神』を祀るとある。およそ800年前に現岩田神社のある場所に遷座した、と言う。
五大神
お堂の前に「五大神」と刻まれた自然石が立つ。五大神って何だろう?チェックする。なんとなくではあるが、地神(じしん)さま、地神信仰と関連あるように思える。その年の稲の豊作を願い、農業にゆかりの深い土地神様を祀るようだ。
で、五神との関係は? どうも農業に関係深い神として「天照大神(あまてらすおおかみ)・少彦名命(すくなびこなのみこと)・埴安媛命(はにやすひめのみこと)・大己貴命(おおなむちのみこと)・倉稲魂命(うがのみたまのみこと)」の五神が挙げられ、五角柱の各面に五神名が刻まれる地神塔が見受けられるとのことだが、ここは「五大神」と刻むことで良しとしたのだろうか。単なる妄想。根拠なし。

茶臼塚
古宮社から少し進むと道の左手にふたつの小祠。これこそ地神さまかと思ったのだが、井岩田神社近くにあった案内に「茶臼塚」と記された場所のようだ。
で、茶臼塚って?これもはっきりしないが、応仁の乱の頃、この辺り(定木)を領した飯田氏がその祖先を祀るため立てられたようだ。
貞治元年(正平十七、1362)に細川頼之が讃岐の宇多津に上陸した時、一宮の大宮司らと共に細川氏に与し、その後も、頼之傘下で伊予の河野氏討伐に出張っている。 その後、香西氏に与しその重臣として長曾我部と戦う。秀吉の四国征伐の後は讃岐の領主となった生駒氏の家臣となった、とある。茶臼と飯田氏のいわれは不詳。

定木の常夜灯と標石
遍路道は東に進む。県道176号との合流点に常夜灯と標石がある。常夜灯は高さ4mほどの大きな自然石の灯籠。灯籠横の標石には手印と共に、「右 一宮 三十五丁 天保十三年」といった文字が刻まれる。標石の手印は直進ではなく右折を示す。



舟形地蔵丁石
手印に従い右折し、県道に沿った細路を少し南に下ると舟形地蔵丁石が立つ。「左 一ノ宮道」と示す指示に従い左折し県道に当たる。県道の対面には「一宮寺」と刻まれた石柱と遍路タグ。県道を渡る。

遍路標石と舟形地蔵
細路を進み民家の並ぶ通りにT字に当たる。遍路道はそのすぐ先を左折する。ほどなく道の右手に遍路標石と舟形地蔵。お大師さまを彫りぬいた標石には「一の宮へ三十二丁」とある。手印に従い右折する。




四ッ又地蔵
道なりに進むと友常池の北に小さな地蔵堂と標石がある。標石には手印と共に「左 一ノ宮道 三十一丁 明治廿九年」と刻まれる。あれ?手印は右を指すが、文字は左一ノ宮と相反する。手印と文字が間尺に合わない標石を時に見る。標石側からみての手印とも言うが、少々わかりづらい。
地蔵堂に案内があり、おじぞうさんの説明と共に四ッ又地蔵の由来として、「夫婦塚の飯田用水と檀紙からくる水路が合流して四つに分流するところ(四ッ又)にある」故とする。 夫婦塚はこの先、香東川に架かる潜水橋の少し上流にある墓地のようだ。源平合戦の死者をまとめて弔った塚で、道を挟んで両側にあったため夫婦塚と呼ばれたとする。檀紙からの水路は本津川支流の古川からの養水だろうか。

潜水橋
道なりに進み香東川の土手に出る。土手には舟形地蔵が佇む。檀が繁茂したのはこの香東川との記事も見かけたが、それはともかく遍路道は土手を下りて潜水橋を渡ったという。 潜水橋ということは沈下橋だろう。今も川に橋というか、堰と一体となった沈下橋があるのだが、通行止めの指示があり、少し上流の中森大橋を渡り右岸にでる。因みに香東川にはいくつか所謂、「沈下橋」が残るようだ。
標石
潜水橋から中森大橋に向かう途中、土手下に墓地がある。前述夫婦塚の辺りではあろうとおもうのだが、その墓地の土手上に笠のついた結構大きな標石があり手印と共に「一宮道」とあった。手印は中森大橋の方向を指していた。

遍路墓2基
中森大橋を渡り、潜水橋が香東橋を渡る箇所まで戻る。その土手には2基の遍路墓があった。ひとつには「摂州兵庫津船大工町 俗名義兵衛 文政十」、もう一方には「法名 知膳尼 嘉永元年」と刻まれると言う。遍路道は東進し、香川高専の辺りで右に折れ、南下する。


自然石の標石
南に下り高松自動車道の高架と当たる手前、道の右側にある「おへんろさん休憩所」と書かれた食事処の前に自然石の標石。手印と共に「一のみや道」と刻まれる。
高松自動車道の下、香川高専前交差点を渡り更に南下。県道171号に当たるとそこを左折し東進。県道282号・高松市勅使町交差点を右折し香東川に架かる成合橋へと南下する。



成合橋北詰めの石仏標石
香東川に架かる成合橋手前、道の左手に四本柱屋根付きの石仏が佇む。造りは結構新しい。享和2年(1802)の作で台座を含めて1.5mほどといった記事があるが、とてもそれほど古いは思えないし少々小ぶりな感もする。レプリカなのだろうか。前の2本の柱にはそれぞれ「右こんぴら道 左一のみや道」と刻まれる。



成合神社参道口の標石
遍路道は東に向かい、国道32号・成合大橋東交差点を横切り成合神社境内の北端を進む。境内の社叢を越えた先、民家の塀に遍路道の案内があり右折すると神社参道に。その角に雑草に隠れるように標石があり手印と共に「南 一宮道 根香寺道」と刻まれる。
成合
成合の由来は、成合地区の東にある本村の飯沼氏の出自である丹後国・成相にあるようだ。『今昔物語』の「丹後国成合観音霊験記」には成相寺の縁起として。「雪深い草庵で修行の僧。食べ物も尽き、食を本尊に祈る。と、堂外に傷つき倒れた猪。禁戒を破り食する。雪も消え里人が堂内を見るに、鍋に木屑、そして両腿の切り削がれた観音さま。僧は観音さまが身代わりになってくれたと、木屑を腿に着けると元の姿に戻った、と。故に成合〈相〉と。いつもながら昔の人の豊かな想像力に驚かされる。

小堂の舟形地蔵丁石
参道を抜けると遍路道は南に折れる。民家の間の一車線ほどの道を進むと、道の左手に小堂があり、中に祀られる舟形地蔵は「此方 一宮道 文化九年」と刻まれ丁石となっている。舟形地蔵丁石の横には小さな石造座像も祀られていた。





Y字路の標石
道なりにしばらく進み、南北に走る道に合流。少し南に下るとY字路がありその分岐点に標石が立つ。手印と共に「一宮道 右安原道 弘化三年」と刻まれる。安原道は南の塩江町への道のよう。遍路道は手印に従い左の道に入る。





遍路小屋
道なりに進み一宮中学校の西側を下り、一宮小学校の傍で御坊川を渡り民家の間のクランク状の道を右折・左折・右折と進み南に下ると遍路小屋がある。




八十三番札所・一宮寺 
遍路小屋を南に下り、県道12号・一宮町交差点を南に越え道なりに進み、高松南高等学校の辺りで左に折れると札所八十三番一宮寺の境内北側にあたる。

これで一宮寺への香西口ルートはお終い。次回は鬼無ルートをメモする。
書写のお山へと東坂参道を上り、広い境内を巡り、今回は西坂参道下山ルートをメモする。下山の参道にも丁石が立ち、特段のメモすることもないところは上りと同じく、「山を下りながら こうかんがえた」妄想を付け加える。


本日のルート;
JR姫路駅>書写山ロープウエイ乗り場>東坂露天満宮
東坂
東坂参道上り口>壱丁>二丁>三丁>宝池>四丁>五丁>五丁古道>六丁>七丁>八丁>九丁>十丁>十一丁>紫雲堂分岐>紫雲堂跡>十二丁>十三丁>和泉式部の案内>十七丁
圓教寺境内
仁王門>壽量院>五重塔跡>東坂・西坂分岐点の標石>十妙院>護法石>湯屋橋>三十三所堂>魔仁殿>岩場の参詣道>姫路城主・本多家の墓所>三之堂>鐘楼>十地院>法華堂>薬師堂>姫路城主・松平直基(なおもと)の墓所>姫路城主・榊原家の墓所>金剛堂>鯰尾(ねんび)坂参道>不動堂>護法堂>護法堂拝殿>開山堂>和泉式部歌塚塔>弁慶鏡井戸>灌頂水の小祠>西坂分岐点に戻る
西坂
妙光院>二丁>三丁>四丁>五丁>六丁>七丁>八丁>九丁>十丁>十一丁>十二丁>十三丁>十四丁>十五丁>十六丁>十七丁>下山口


西坂参道

東坂・西坂の分岐点の「一丁」標石
摩尼殿下の東坂・西坂の分岐点に立つ「一丁」標石を右に折れ西坂参道に入る。道の左手には元金輪院塔頭であった。常のことながら成り行き任せ。当初の予定では上りも下りもロープウエイで利用予定であったのだが、上りの東坂も、下りの西坂参道も成り行きで出合い、急遽予定を変更したもの。
下る前は坂の状態もわからず痛めた膝の優しい参道であれかしと、とりあえず道を先に進んだ。



妙光院
ほどなく道の右手に妙光院。「安養院跡地に建立されたのが今のものであるが、壽量院の北側に元あったものである。創建は不詳で、明応四年(1495)鎮永が再興するまでは妙光坊と称していた。
享和年中(1801~1804)祖渓が再修したが、明治の末年に至って修理の見込みがたたないので、ついに本尊を他に移し建物を取りたたんだ。その後「妙光院」の名称だけが残っていたのを現地に再建し、本尊を安置した」と案内にある。



二丁;13時33分
妙光院の先で道はふたつに分かれる。左に折れるとロープウエイ山頂駅へと向かう。往路で仁王門へと西国三十三観音道へと折れた慈悲の鐘(こころの鐘)鐘の立つ分岐点である。 西坂参道は右というか、道なりに進む。分岐点には二丁標石が立つ。




和泉式部の絵巻風パネル
ここから先、六丁標石辺りまでは単調な道を下り、時に丁石を見るくらいであり、特段メモすることもない。ということで、書写の山に性空上人を訪ねて上った多くの貴人、聖を差し置いて、パネル解説されていた和泉式部についての解説を、折角のことでもあるので載せておく(1から3までは掲載済みであり、4から)。

■「(パネル番号」4 和泉式部の生涯のあらましを、お話ししましょう。幼名は許丸(おもとまる)。名だたる儒家の大江家に生まれました。父は大江雅致(まさむね)。一家は学問のほかに、母の妙子(昌子(しょうし)内親王のおん乳母)とともに、昌子内親王様のお守役をつとめました。
昌子内親王さまは冷泉天皇の皇后(御父は朱雀亭)です。和泉式部は、そうした教養溢れる雰囲気の中で、歌才に恵まれた美少女して、おほらかに育ちます」。
■「 幼い日の和泉式部(お許丸)の毎日は、内親王さまがお育てになっている幼いご兄弟の皇子さまと、仲よく遊ぶことでした。皇子の御名は、兄宮さまは為尊(ためたか)親王さま、弟宮さまは敦道(あつみち)親王さま。そして別邸には、その上の二人の兄宮さま(のちの花山天皇と三条天皇)がお暮らしでした。
お許丸のお相手は、こうしたご身分のかたばかりでした。このご縁が、彼女の生涯のコースをのちのちまで定めてゆきます」。

■「 やがて三人は成人してゆきます、兄宮さまは弾正ノ宮(だんじょうのみや)(司法官)に、弟宮の敦道親王は帥ノ宮(そちのみや)(行政官)になられます。お許丸も彩色秀でた新進歌人・和泉式部として名をあげてゆきます。
その頃、三人が幼い時からお慕いしてきた昌子内親王様が、ご病気療養のために和泉の大江邸に滞在して、その家で薨去なさいます。
その時、兄宮さまは淡い恋心を和泉に抱かれますが、翌年に早逝されます。そして弟宮敦道親王と和泉の"大きな恋"が始まります」

三丁;13時35分
道を進むと「西坂参道 日吉神社・姫路工大へ」の案内。どこに下りるのか地図をチェックする。麓に姫路県立大がある。姫路工業大学など県立三大学が統合されて姫路県立大学となったようである。
その直ぐ先に、小さな石造五輪塔や数基の石仏と共に「三丁」の標石が立つ。

■「 弟宮の敦道親王は和泉にぴったりの多感な貴公子でした。容姿端麗、立居もきわ立っていました。和泉は言います。「敦道親王こそ、幼い日から わたしが夢みてきた最高の男性像です」。初めての添寝の翌朝、和泉は、心身の深い満足度をこう歌います。
世のつねの ことともさらに思(おも)ほえず はじめて物を思う朝(あした)は 教養を突き破って自分の感動を歌いあげる大胆さ。この"歌魂"(かこん)こそ、彼女の歌の特性であり、目のさめる近代性でした」。

■「 敦道親王は自邸の南院に和泉を住まわせました。翌春の加茂大祭(かものたいさい)には、二人が相乗りした牛車が、御簾を揚げて都大路へ出ました。
そうした相愛の歌を、彼女は「和泉式部日記」の中に、たくさん遺します。親王の御子石蔵宮(いしくらのみや)も生まれ、生涯を賭けた大恋愛でした。

しかし、二年後、この最愛の敦道親王も二十七歳で亡くなりました。その魂祭の夜、和泉は涙を涸らしてうたいます。 亡き人の 来る夜と聞けど君もなし わが住む里や魂(たま)なきの里」。

■「 弟宮を亡くしてやつれ果てる和泉の姿を心配して、関白道長は肩をたたいて、「中宮の彰子は わしの娘だが、中宮御所へいって、歌でも教えてやってくれないか」と気分転換をすすめます。
道長は器の大きい人でした。彰子も利発で教養高い美妃でした。中宮御所には、紫式部、伊勢大輔(いせのたいふ)、赤染衛門(あかぞめえもん)など超一流の女性メンバーが揃った文学サロンがあります。彰子は「お美しいお子さんの小式部の内侍(こしきぶのないし)も ご一緒にどうぞ」と温かく和泉を迎えてくれました」。

■「10 小学生にも人気の高い軽快な「大江山いくのの道の遠ければ まだふみもみず天の橋立」の百人一首の歌は、小式部十二才頃の御所での即興作です。「さすが母似(ははに)よ」と公卿たちは騒ぎました。
一方、和泉式部と紫式部は、お互いにライバル意識がありました。が、やがて、「歌は和泉式部、小説は紫式部」と、しぜんと定まってゆきました。文芸サロンでは、和泉と中宮彰子は互いに親しみ、敬し合う仲となりました。

四丁;13時38分
数分で四丁標石。ここまで歩いて、上った東坂参道に比して、この西坂参道は道がきれいに整備され車でも登れそうである。「参道」といった趣には少し乏しいが、痛めている膝には優しい。

■「11 中宮彰子は年若く、信心の篤い人でした。性空上人の教えを受けたくて、遥々と書写山を訪ねます。権勢を好まない性格の上人は、居留守を使って中宮との面会を避けました。中宮はひどく失望して下山し始めます。傍にいた和泉式部は、自作の歌を上人へ届けます。
冥きより 冥き道にぞ入りぬべき 遥かに照らせ山の端の月
和泉の歌の、格調の高さと宗教性の深さに、上人は非常に感動して、すぐ中宮を呼び戻して、中宮のためにみ佛の道を説きました」
上述の如く和泉式部が中宮彰子に仕えたのは1008年から1011年頃までと言う。性空上人は1007年に没しており、この逸話には無理があるとも言う。

五丁;13時39分
直ぐに五丁標石。
■「12 あらざらむこの世の外(ほか)の思い出に 今ひと度(たび)の逢ふこともがな 白露も夢もこの世もまぼろしも たとえて言えば久しかりけり
和泉はこうした名歌を生涯かけて生みつづけます。勅撰(ちょくせん)歌集もおさめられた歌の数は、日本の女流歌人の首位となりました
「天才のみが、よく天才を知る」と申しますが、本邦第一級の天才、能楽創始者の世阿弥(ぜあみ)は、和泉をテーマに、幽玄能の傑作「東北」(とうほく)を創作して、和泉の地位を永遠化しました」。

■「13 お能「東北」のあらすじ。 ある早春、京へ上った東北の僧が、洛東・東北院(中宮彰子の持寺)の庭に咲く梅に見とれていると、「和泉式部ゆかりの軒場の梅です」と教えられました。その夜、僧がその梅の前で法華経を唱えると、女の霊が現れ「私はここの方丈に住む和泉式部の霊です。御佛のお陰で今は極楽で歌舞菩薩にして頂いて毎日幸福です」と語って、序の舞を舞いながら方丈へ消えました。
僧は「あの霊は観音様の化身かも知れない」と合掌しました。(終)」

パネルはこれで終わる。何となく落ち着かない終わりかたとも思えるが、あまりよく知らなかった和泉式部のあれこれが少しわかったことをもって良しとしよう。

六丁;13時42分
道脇に「左一丁 蜜厳院墓地」の標石(13時41分)を見遣り六丁の標石。その先に石に彫り込まれ並び立つ石仏が2基並ぶ。2体並ぶ石造は道祖伸では男女像としてたまに見ることがあるのだが、石仏では初めて見た。はっきりとはわからないが、どうも双石仏、双体石仏、地蔵双体仏などと呼ぶようだ。



双石仏、双体石仏、地蔵双体仏
刻まれた石仏の姿を見ると、左手の像は錫杖を肩に架けたその姿は地蔵尊のように見える。また右の像は阿弥陀如来の姿のようにも見える。あれこれチェックすると、阿弥陀地蔵双仏石と呼ばれる石像もあるようだ。現世に現れて衆生を済度する地蔵尊と、来世を阿弥陀浄土で迎えてくれる阿弥陀仏の2体を1つの石に彫り、現世と来世のご利益を同時に願うためのもの、といった記事もあった。地蔵尊と阿弥陀如来のコンビネーション?といった妄想もあながち的外れでもなさそうに思える。

七丁;13時44分
七丁標石のところにはお堂が建ち、案内には文殊堂跡とある。「康保三年(966)紫雲のたなびくのを瑞兆と感じた性空上人は、この西坂を登ってきたとされる。入山の途中、文殊菩薩の化身と云われる白髪の老人に逢い、この山の由来を伝えられた。その伝えられた場所がこの地であるといわれている。
文殊堂はもと正面三間、側面三間、入母屋造りで。文殊菩薩を本尊とする堂であったが、昭和62年(1987)10月に焼失した。現在の文殊堂はその後の再建」との案内。
お山の由来
文殊菩薩の化身に伝えられたこの山の由来とは?この山に登るものは菩提心をおこし、峰にすむものは六根を清められるという文殊菩薩のお告げがあり、摩尼殿上の白山で六根清浄の悟りを得たと伝えられる、といった記事が多く見受けられる。
『一遍聖絵』にある「大聖文殊異僧に化現して性空上人に誘へて云く、「山名書写 鷲頭分土 峰号一乗、鶏足送雲 踏此山者、発菩提心、攀此峰者 清六情根、云々」などを踏まえてのことかと思える。

八丁;13時46分
尾根筋を少し巻き気味に下り、標高250m等高線を少し下ったあたりに八丁の標石が立つ。
文殊菩薩と性空
性空上人の逸話には文殊菩薩がこのシーン以外にも登場する。幼き頃より仏心篤き上人の出家の願いがかなえられたのも、母の夢枕に現れた文殊菩薩のお告げによる、とも伝わる。 それはそれとして、幼名・小太郎、橘善行と呼ばれていた上人が性空と名乗り仏に仕えることとなったと伝わるが、Wikipediaに拠れば、上人が天台の高僧慈恵大師に師事し出家したのは36歳の頃という。名門橘家に生まれた上人の36歳までの足跡が少し気になるが、詳しいことはよくわからない。

九丁;13時48分
性空の由来
ところで、性空ってどういう意味?性空上人の「性空」についての解説は見当たらなかったが、『摩訶般若波羅蜜経問乗品第十八』には「内空。外空。内外空。空空。大空。第一義空。有為空。無為空。畢竟空。無始空。散空。性空。自相空。諸法空。不可得空。無法空。有法空。無法有法空」といった十八の空が挙げられる。その中にある「性空」について、コトバンクには「十八空の一。一切のものは因縁和合によって生じたもので、万有の本性は空であるということ」とある。この性空に由来するのだろうか。
また,Wikipediaに拠れば文殊菩薩は釈迦に代わって般若の「空」を説いたとある。上述性空上人と文殊菩薩との関りを考えれば十八空に由来との妄想も、当たらずとも遠からずのように思えてきた。

十丁;13時49分
普賢菩薩と性空上人
文殊菩薩もさることながら、性空上人と普賢菩薩に関わる話も見受けられる。生を受けたとき、普賢菩薩の生まれ変わりとされたこと、また鎌倉時代の説話集である『十訓抄』には上人が普賢菩薩に出合えた話が載る;普賢菩薩との感得を願う上人に「生身の普賢菩薩に出合いたければ神崎(江口の里とも。ともに色里)に赴き、そこの遊女を見なさい」との夢のお告げ。お告げに従いその地に出向く。遊宴乱舞の中、閑に信仰・恭敬する上人に、彼女が普賢菩薩となって白象にのって消えてゆくところが見えた、と。

十一丁;13時51分
『十訓抄』に描かれる性空上人
上人が遊女に普賢菩薩の姿を見たくだり。私でもなんとなく理解できる。以下掲載。
「上人閑所に居て、信仰、恭敬して、横目もつかはず、まもりゐ給へり。この時に、たちまちに普賢菩薩の形に現じ、六牙の白象に乗りて、眉間の光を放ちて、道俗、貴賤、男女を照らす。すなはち微妙の音声を出して、実相、無漏の大海に五塵六欲の風は吹かねども随縁真如の波の立たぬ時なしと。
感涙おさへがたくして、眼を開きて見れば、またもとのごとく、女人の姿となりて、周防室積の詞を出す(私注;遊女の歌う歌のこと、だろう)
眼を閉づる時は、また菩薩の形と現じて、法門を演べ給ふ。
かくのごとくたびたび敬礼して、泣く泣く帰り給ふ時、長者(私注;遊女の、だろう)、にはかに座を立ちて、閑道より上人のもとへ来りて、 「このこと口外に及ぶべからず」といひて、すなはちにはかに死す。異香、空に満ちて、はなはだ香ばし。
長者の頓滅のあひだ、遊宴興さめて、悲涙することかぎりなし。上人、ますます悲涙におぼれて、帰路にまどひけりとなむ
かの長者、女人、好色のたぐひなれば、たれかはこれを権者の化作とは知らむ。仏菩薩の悲願、衆生化度の方便に形をさまざまに分ちて、示し給ふ道までも、賤しきにはよらざること、かやうのためしにて心得べし」

十二丁;12時52分
直ぐ十二丁。その先で道は簡易舗装となる。性空上人がはじめて上ったお山への道も古き面影は消え去っている。車で荷物を寺に運ぶ車道としても使っているように思える道である
『十訓抄』に描かれる性空上人
性空は普賢菩薩を大変、尊敬していたようだ。六牙の白象が登場するのは、 『法華経』 「普賢菩薩勧発品」にある 「此の経を読誦せば、我、爾の時、六牙の白象王に乗り、大菩薩衆と倶に其の所に詣りて、而も自ら身を現し、供養し守護して、其の心を安んじ慰めん」に拠る。実際、普賢菩薩像は白象に乗る。
また、普賢菩薩の語る「実相、無漏の大海に五塵・六欲の風は吹かねども、随縁真如の波の立たぬ時なし」は苦しみに沈む衆生に対しひとときも休むことなく救いの手を差し伸べる、といったこと。
性空上人と普賢菩薩の因縁話は、性空上人が普賢菩薩に深く帰依し、己が菩薩行(他者の救済>人すべて仏となる、といった法華経の教え)を表しているのであろうか

十三丁;14時1分
いままですべて道の左手、谷側にあった標石であるが、この十四丁の標石は道の右手、弥m側に立っていた。見逃し十四丁まで進み、あれ?となり少し戻って見つけることができた。
釈迦三尊
文殊菩薩、普賢菩薩のことをメモしながら、釈迦三尊像のことを思い起こした。いくつかバリエーションがあるものの、多くは釈迦如来の左右に両脇侍として左脇侍(向かって右)に文殊菩薩、右脇侍に普賢菩薩が配される。釈迦三尊像がこれである。文殊菩薩は釈迦の知恵、普賢菩薩は釈迦如来の慈悲を表す、とか。
如来は知恵と慈悲を兼ね備え、知恵と慈悲で衆生を済度する、と。文殊菩薩と普賢菩薩って結構重要な存在であったわけだ。
で、ここで言いたいのは、釈迦如来と一心同体といった、そんな重要な文殊菩薩と普賢菩薩との深い関りが伝えられる性空上人って、当時の人にとって、それほど重要な存在であったということがわかる、というか、わからそうと縁起譚を創り上げた上人に対する強い崇敬の念を感じる。

十四丁;14時3分
如来と菩薩
釈迦如来と文殊菩薩、普賢菩薩と書いて、如来と菩薩の違いをちょっと整理。上にちょっとメモしたが、Wikipediaには「広い意味での「仏」は、その由来や性格に応じ、「如来部」「菩薩部」「明王部」「天部」の4つのグループに分けるのが普通である。「如来」とは「仏陀」と同義で「悟りを開いた者」の意、「菩薩」とは悟りを開くために修行中の者の意、なお顕教では、十界を立てて本来は明王部を含まない。これに対し密教では、自性輪身・正法輪身・教令輪身の三輪身説を立てて、その中の「明王」は教令輪身で、如来の化身とされ、説法だけでは教化しがたい民衆を力尽くで教化するとされる。そのため忿怒(ふんぬ)といって恐ろしい形相をしているものが多い。(中略)「天部」に属する諸尊は、仏法の守護神・福徳神という意味合いが濃く、現世利益的な信仰を集めるものも多数存在している」とある。
如来、菩薩は挙げるまでもないだろう。明王は不動明王が代表的。天部の諸仏は梵天、帝釈天、持国天・増長天・広目天・多聞天(毘沙門天)の四天王、弁才天(弁財天)、大黒天、吉祥天、韋駄天、摩利支天、歓喜天、金剛力士、鬼子母神(訶梨帝母)など。金剛力士が寺の仁王門に立つ所以である。
なお、菩薩に関しては如来としての「力量」はあるものの、衆生済度のために敢えて「菩薩」ステータスに留まるものもあるようだ。

十五丁;14時5分
十三丁、十四丁標石辺りで一度途切れ再び現れた簡易舗装の道を下ると十五丁標石。
如来の誕生
如来・仏陀には阿弥陀如来、薬師如来、大日如来など、また釈迦の代わりにはるか未来に仏陀となることを約束されている弥勒如来(菩薩)などが代表的なもの。
常行堂のところでちょっとメモしたが、「如来」って紀元前5世紀に生きた歴史的実在者としての釈迦を永遠の存在として絶対化にするための「装置」のように思える。
釈迦の死後、原始仏教の時代、自己の悟りに重きを置く小乗仏教の時代を経て、紀元1世紀頃に衆生すべて仏といった大乗仏教の時代を迎える。ここで重きをなすのが菩薩行。自己の解脱より他者の救済、利他行に重きをおく動きである。
ここで、救済者・仏陀である釈迦を歴史的存在者として留めることなく、仏陀は釈迦の遥か昔から、またはるかかなたの未来にも存在するとした。所謂「過去仏」であり「未来仏」である。 『相応部経典』の第6章「梵天相応」には、「過去に悟ったブッダたち、未来に悟るブッダたち、現在において多くの人々の憂いを取り除くブッダ、これらブッダはすべて正しい教えを重んじて、過去にも現在にも未来にもいるのである。これがブッダと言われる方々の法則である」とする(『仏陀たちの仏教:並川孝儀(中公新書)』)。
釈迦を含めた過去七仏が構想された。未来仏として弥勒仏が構想された。大乗仏教に『法華経』や『華厳経』が生まれる紀元4世紀から5世紀にかけては華厳の巨大な廬舎那仏が構想され、それが密教の影響もあり大日如来として世界の中心に君臨する普遍的存在とした。世界の中心だけではなく各方面にも仏陀が必要だろうと西方極楽浄土の阿弥陀如来、東方瑠璃光浄土の薬師如来も登場することになったわけである。こうして歴史的存在者であった釈迦は永遠の絶対的存在者である仏陀のメンバーとして「止揚」されたわけである。

十六丁;14時7分
再び簡易舗装が切れたところに十六丁標石。書写山を貫く山陽自動車道書写山第二トンネルの真上あたり。ほぼ山を下りてきた。
釈迦・仏陀・釈迦如来
本来、釈迦を永遠の絶対的存在とするために考えられたであろう「如来」であるが、どうもその構想があまりに巨大化し、元々の主人公であったお釈迦さまが大構想の中に埋没したように感じる。実際、このメモをするまで釈迦如来ってお釈迦さんと関係あるのかなあ、といった為体であった。
また、仏・仏陀とお釈迦さんの関係もよくわかっていなかった。仏・仏陀とは悟りをひらいたもの、ということであり、お釈迦さまもその巨大な構想力の中の一人であった。 性空上人のあれこれにフックがかかり、多分に素人の妄想ではあるが、それなりに結構納得し、空白スペースを埋めるメモを終える。

十七丁;14時8分
十七丁まで下ると山裾の街並みが木立の間から垣間見える。少し下ると赤い鳥居が立つ。宗天稲荷大明神とある。「宗天」って、あまり聞いたことがない。あれこれチェックしたが、その由来を見つけることはできなかった。



下山口;14時10分
宗天稲荷大明神にお参りし、安養寺・日吉神社を見遣り兵庫県立大学姫路工学キャンパスを南に下り、広い車道に出た少し西にあるバス停に到着。本日の散歩を終える。







性空上人ゆかりの書写の山。思うだに大変そうと、長年寝かせておいた上人と観音霊場巡礼の縁、その観音霊場巡礼のはじまり、またそもそも巡礼って?といったテーマや、メモをしながら気になってきた上人が何故に世に知られるようになったのだろう、などといった新しい疑問を、多分に妄想ではあるのだが、自分に納得できるストーリーとしてまとめるのに少々スペースを使ってしまいメモが長くなってしまった。
書写のお山と性空上人に関するメモの2回目は、圓教寺の仁王門からはじめ境内を辿り、奥の院までをカバーする。当初のメモの予定では境内を巡る途中で出合った西坂を麓まで下りるところまでカバーしようと思っていたのだが、さすが広い境内に建つ幾多の堂宇。メモに少々スペースをとってしまった。西坂参道下山のメモは次回に廻す。

本日のルート;
JR姫路駅>書写山ロープウエイ乗り場>東坂露天満宮
東坂
東坂参道上り口>壱丁>二丁>三丁>宝池>四丁>五丁>五丁古道>六丁>七丁>八丁>九丁>十丁>十一丁>紫雲堂分岐>紫雲堂跡>十二丁>十三丁>和泉式部の案内>十七丁
圓教寺境内
仁王門>壽量院>五重塔跡>東坂・西坂分岐点の標石>十妙院>護法石>湯屋橋>三十三所堂>魔仁殿>岩場の参詣道>姫路城主・本多家の墓所>三之堂>鐘楼>十地院>法華堂>薬師堂>姫路城主・松平直基(なおもと)の墓所>姫路城主・榊原家の墓所>金剛堂>鯰尾(ねんび)坂参道>不動堂>護法堂>護法堂拝殿>開山堂>和泉式部歌塚塔>弁慶鏡井戸>灌頂水の小祠>西坂分岐点に戻る
西坂
妙光院>二丁>三丁>四丁>五丁>六丁>七丁>八丁>九丁>十丁>十一丁>十二丁>十三丁>十四丁>十五丁>十六丁>十七丁>下山口


圓教寺境内

壽量院;12時47分
仁王門を潜り境内を進むと参道右手に壽量院。「圓教寺の塔頭の一つ。承安四年(1174)に後白河法皇が参籠したという記録が残されており、山内で最も格式の高い塔頭寺院として知られている。
建物の構成は、仏間を中心として中門を付けた書院造風の部分と、台所を設けた庫裡とに区分され、唐破風の玄関を構えて両者をつないでいる。当時の塔頭寺院としては極めて珍しい構成で、圓教寺型ともいえる塔頭の典型である」の説明がある。
●五重塔跡
壽量院傍に五重塔跡の案内。「「書寫山圓教寺参詣図」「播州書寫山縁起絵巻」「播磨書寫山伽藍之図」に壽量院のあたりに五重塔が描かれ、その礎石と思われるものが確認されている。
それ等には大講堂横の五重塔は描かれておらず、この塔は元徳三年(1331)三月五日落雷により焼失、大講堂・食堂・堂行堂の全焼という大火災になった。
壽量院横から大講堂まで延焼してゆくことは考えにくい。そういうことから壽量院横と大講堂横との東西二つの五重塔があり、西の塔が金剛界五仏であることから、この東の塔は胎蔵界五仏を安置していたのであろうか」とある。

東坂・西坂分岐点の標石;12時50分
道の左手、T字路分岐点に標石。「すぐほんどう 右西坂 左東坂」「一丁」の文字が刻まれる。下りはロープウエイで、などと思っていたのだが、標石を見てしまった以上、帰りも参道をとの思いが強まる。







十妙院
分岐点の先に白い塗塀の美しい建物。十妙院との案内があり、「天正七年(1579)正親町天皇により「岡松院」(こうしょういん)の勅号を賜った。これは、赤松満祐がわずか十六歳で亡くなった女の冥福を祈るために建てたものとされる。
圓教寺第百六世 長吏實祐(ちょうりじつゆう)の住坊となり、實祐を中興第一世とする。その後同じく正親町帝より「十妙院」の勅号を賜った。塔頭壽量院とは左右逆であるが、ほとんど同じ平面構成をもつ圓教寺独特の塔頭形式である」と書かれる。
赤松満祐(あかまつ みつすけ)
室町時代中期の武将で守護大名。播磨・備前・美作守護。室町幕府六代将軍足利義教を暗殺したことで知られる。

護法石(別名/弁慶のお手玉石);12時54分
道の右手に護法石の案内。「昔、この石の上に乙天、若天の二人の童子がこの石に降り立ち、寺門を守ったという伝説が残っている。また別名「弁慶のお手玉石」と呼ばれ、この大きな護法石を、弁慶はお手玉にしたといわれている」とあった。
乙天、若天童子とは、性空上人が康保三年(966)当山で修業中、いつも傍らで仕えた乙天護法童子と若天護法童子のことで、乙天は不動明王、若天は毘沙門天の化身で容貌は怪異であるが怪力、神通力を持ち、上人の修行を助けた山の守護神、と後述する護法堂の案内にあった。
また、乙天、若天童子これも後述する性空上人が九州の背振山での修行時に現れたと伝わる。

書写山圓教寺縁起
境内 by 圓教寺
傍に石に刻まれた円教寺縁起があった;「開基は康保三年(西暦966年)、性空上人による。上人は敏達天皇の御末、橘善根卿の御子として生まれ、十歳にして妙法蓮華経に親しみ、読誦の行を積み、三十六才にして九州霧島に至り、母を礼して剃頭し、二十年にわたり、九州各地に聖地を求めて修行される。
後、瑞雲の導きに従って当山に入り、草庵を結び、法華経読誦の行を修め、六根清浄を得悟され、世に高徳の宝と仰がれる。
寛弘四年三月十日九十八歳にして入寂されたが、御徳、世に広まり大衆の帰依も悠々厚く、花山法王は特に尊崇され二度も御来駕。後白河法王も七日間、御参籠される。御醍醐天皇は隠岐より帰京の途次御参詣、大講堂に一泊される。亦、平清盛、源頼朝をはじめ、武将の信仰も厚く、寺領を寄せ、諸堂を建立する。  昭和五十九甲子年一月吉日 (1984年1月吉日)」とあった。

湯屋橋;12時55分
少し弧を描いた石橋を渡る。湯屋橋とある。案内には「湯屋橋の擬宝珠は昭和十九年に戦時供出され、昭和三十年に旧刻銘「奉寄進 播州飾西郡書寫山圓教寺御石橋 願主 本多美濃守忠政」を刻銘した擬宝珠が寄進された。
本多忠政は元和三年(1617)に池田光政転封のあと姫路城主となり、元和六年(1620)書写山に参詣してその荒廃に驚き、一門・家臣・城下で寄進を募り復興に尽力し、湯屋橋もこの時再興された。書写山の荒廃は天正六年(1578)三木城の別所長治離反に対し羽柴秀吉が当地に要害を構え布陣したことによる。
湯屋橋の名はこの辺りに湯屋(沐浴所)があったことにちなむといい、「播磨国飾磨郡円教寺縁起事」によると、釜一口・湯船一隻・湯笥一・水船一口を備える四間板葺、西庇一面の湯屋を記し、特に釜は性空上人から依頼された出雲守則俊朝臣が鉄を集めて鋳造し人夫を整えて運搬した」ととある。
●出雲守則俊朝臣
出雲守則俊朝臣って誰?少々唐突な登場だが、出雲の国司に則俊の名がある。朝臣は古代、皇族に次ぐ高い地位を示す姓(かばね)であるのはわかるが、人物不詳。ともあれ、たたら製鉄で知られる出雲で造られたものだろう。

三十三所堂;12時56分
橋を渡ると空が大きく開け、広場に出る。右手には「はづき茶屋」があり、休憩をとる参拝者で賑わう。はづき茶屋の対面に三十三所堂。「西国三十三観音をまつる堂である。西国三十三所観音巡礼が広く庶民の間で行われるようになったのは、江戸時代である。社会情勢や交通の不便な時代にあって、誰でも三十三観音にであえるように、各地に「うつし霊場」ができた。
有名なものは坂東、秩父霊場であり、播磨にも「播磨西国霊場」がある。他にも全国各地にこのような霊場があり、このような「うつし霊場」を更にミニチュア化したものが、この三十三諸堂の発生であると考えられる」とある。このお堂をお参りするだけで、西国三十三観音霊場巡礼と同じ滅罪の功徳が得られるということか

魔仁殿;12時59分
三十三所堂をお参りし、石段を上り摩尼殿に。堂々たる構えのお堂。靴を脱いでお堂に入る。お堂を囲む回廊から書写の山の緑を眺める。案内には「摩尼殿(如意輪堂)書写山の中心を成す圓教寺の本堂。天禄元年(970)創建と伝え、西国三十三所観音霊場の第二十七番札所。桜の霊樹に天人が礼拝するのを見た性空上人が、その生木に如意輪観音を刻み、これを本尊とする堂を築いたのが始まりと伝わる。
幾度か火災に見舞われており、現本堂は大正十年(1921)に焼失した前身建物の残存遺構や資料をもとに、ほぼ前身を踏襲した形で昭和八年(1933)に再建。近代日本を代表する建築家の一人である武田五一が設計し、大工棟梁家の伊藤平左衛門が請負った。懸造り建築の好例で、伝統的な様式を踏襲しながらも木鼻・蟇股などの彫刻等に近代和風の息吹が感じられる。本尊は六臂如意輪観世音菩薩(兵庫県指定文化財)で、四天王立像(国指定重要文化財)も安置されている」とある。
摩尼
摩尼とはサンスクリット語の「マニ;宝珠」から。「意のままに願いを叶える(サンスクリット語の「チンター」)宝珠(マニ)」とされる。如意輪観音をサンスクリット語で「チンターマニチャクラ」と称するようであり、本尊として祀られる如意輪観音ゆえの「摩尼殿」ではあろう。因みに「チャクラ(法輪)」は「元来古代インドの武器であったチャクラムが転じて、煩悩を破壊する仏法の象徴となったものである。六観音の役割では天上界を摂化するという(Wikipedia)」にあった。



岩場の参詣道
摩尼殿の右手から大講堂に抜ける道案内。矢印と共に「重要文化財 大講堂・常行堂・食堂 金剛堂 鐘楼順路  大講堂(釈迦三尊)常行堂(阿弥陀如来)食堂2階(宝物展示) 薬師堂(播州薬師霊場第16番・食堂の納経所で) 奥之院(性空上人 左甚五郎作力士像)姫路城主本多・榊原・松平家三廟所 三の堂(大講堂・常行堂・食堂)へ徒歩5分 三の堂より奥之院へ徒歩1分 金剛堂へは2分」と記される。
摩尼堂の庇(ひさし)の下、山崖の間の通路を抜けると岩肌を進む道となる。道脇には小堂、石仏が並び、なかなかいい雰囲気

姫路城主・本多家の墓所
山道を抜けると三之堂。その手前に姫路城主・本多家の墓所。案内には「5棟の堂は、本多忠勝・忠政・政朝・政長・忠国の墓です。本多家は江戸時代、初期と中期の二度、姫路城主になりました。忠政・政朝・忠国の3人が姫路城主です。
忠政は、池田家のあとをうけて元和三年(1617)、桑名より姫路へ移り、城を整備したり船場川の舟運を開いた城主です。政朝は忠政の二男で、あとをつぎました。忠国は、二度目の本多家の姫路城主で、天和二年(1682)に福島より入封しました。
忠勝は忠政の父で平八郎と称し、幼少より家康に仕え徳川四天王の一人。政長は政朝の子で、大和郡山城主となりました。
堂の無い大きな二基の五輪塔は、忠政の子・忠刻(ただとき)と孫・幸千代の墓です。忠刻は大阪落城後の千姫と結婚し、姫路で暮らしましたが、幸千代が3歳で死去。忠刻も31歳で没し、ここに葬られました。
五棟の堂は、江戸時代の廟建築の推移を知るのに重要な建物で昭和四十五年に兵庫県指定文化財となっています」とある。
寶蔵跡
廟所傍に寶蔵跡の案内。「明治三十一年(1898)五月二十八日焼失本多廟との位置関係は不明だが西面に門を設けた土塀を巡らし、西妻に御拝庇ありと記されている。寛政二年(1790)の「堂社図式下帳」にはその記載がないが、本多廟建立【慶長十五年(1610)最古】以前より存在したことが古版木「播磨國書寫山伽藍之図」によってあきらかである。安政五年(1858)春の「霊仏霊宝目録」に収蔵されていたと思われる品々が明記されている。「性空聖人御真影」「源頼朝公奉納の太刀」「和泉式部の色紙」等七十八点をあげているがそのうちほとんどが焼失した」とあった。

三之堂;13時8分
眼前の広場の先堂々としたお堂がコの字に並び建つ。右手が大講堂、中央が食堂、左手が常行堂である。ハリウッド映画、「ラストサムライ」やNHK大河ドラマ「軍師黒田官兵衛」の撮影にも使われたと言う。
大講堂
「大講堂は食堂、常行堂とともに「三之堂(みつのどう)」と称され、修行道場としての円教寺の中心である。建物をコの字型に配置した独特の空間構成で、かつては北東の高台に五重塔も建てられていた。
大講堂は、円教寺の本堂にあたる堂で、「三之堂」の中心として、お経の講義や議論などを行う学問と修行の場であった。永延元年(987)の創建以来、度重なる災禍に見舞われたが、現大講堂は、下層を永享12年(1440)、上層を寛正3年(1462)に建立したものである。雄大な構造で、和洋を基調とした折衷様式に、内陣を土間とした天台宗の伝統的な本堂形式になっている。 極めて古典的で正式な様式を駆使しながら、一部に書写の大工特有の斬新な技法を用いており、創建以来の伝統を残しながら、時代の要請を取り入れて存続してきた貴重な建造物である。 内陣には木造釈迦如来及両脇侍像(平安時代・国指定重要文化財)が安置されている」と案内にあった。
食堂
案内が見当たらなかったため、姫路市のWebサイトから引用:「本来は、修行僧の寝食のための建物。承安四年(1174)の創建。本尊は、僧形文殊菩薩で後白河法皇の勅願で創建。二階建築も珍しく長さ約40メートル(別名長堂)においても他に類を見ないものである。
未完成のまま、数百年放置されたものを昭和38年の解体修理で完成の形にされた。 現在1階に写経道場、2階が寺宝の展示館となっています。国指定重要文化財」
常行堂
「常行三昧(ひたすら阿弥陀仏の名を唱えながら本尊を回る修行)をするための道場。 建物の構成は、方五間の大規模な東向きの常行堂。
北接する長さ十間の細長い建物が楽屋、その中央に張り出した舞台とからなり立っている。 内部は、中央に二間四方の瑠璃壇を設け本尊丈六阿弥陀如来坐像が安置されている。
舞台は、大講堂の釈迦三尊に舞楽を奉納するためのもの。国指定重要文化財。(姫路市Webサイト拠り)
天台宗と阿弥陀如来
天台宗の僧の多くは「朝題目に夜念仏」と、現世は法華に来世は弥陀を頼みとした、と言う。大乗経典とは大雑把に言って般若経から法華経を経て浄土三部経に及ぶものであるから、それほど違和感はない。性空も胸に阿弥陀仏の刺青をしていたとも言うし、上述の浄土経の祖とされる恵心僧都源信との交誼からも阿弥陀仏への信仰が見てとれる。源信は天台宗に学ぶも名利の道を捨て、極楽往生するには、一心に念仏を唱えるべしとし、浄土教の基礎を築いたとされる。
阿弥陀如来
西方極楽浄土に臨する如来。如来とは悟りをひらいたもの、とされる。最初の如来は釈迦如来。生身の釈迦を永遠の存在とするための「装置」として誰かが創り出したのだろう。何世紀にもわたる釈迦の教え、または釈迦になる教えをまとめ上げる経典整備の過程において、如来が釈迦ひとりってことはなかろうと、いろいろな如来が誕生した。阿弥陀如来誕生は西域からの影響が強いと聞く。
三之堂から奥之院へ

三之堂を離れ奥の之院に向かう。成り行きで常行堂の左手を廻り先に進む。

鐘楼
「袴腰付で腰組をもった正規の鐘楼で、全体の形もよく整っている。 寺伝によれば、鐘楼は元弘二年(1332)に再建、鐘は元亨四年(1324)に再鋳とされる。いずれも確証はないが、形や手法から十四世紀前半のものと推定されている。 鎌倉時代後期の様式を遺す鐘楼として県下では最古の遺構であり、全国的にも極めて古いものとして貴重である。銅鐘は、兵庫県指定文化財(昭和二十五年八月二十九日指定)で、市内では最古のつり鐘である。








十地院
「もとは開山堂西の広大な敷地にあったが、妙光院と同じく名称のみが残っていたのを、勧請殿跡地に建立したものである。庭越しに瀬戸内海を眺望することのできる唯一の塔頭である」とある。










法華堂
「法華三昧堂といい、創建は寛和三年(985)播磨国司藤原季孝によって建立された。もとは桧皮葺であった。現在のものは、建物、本尊ともに江戸時代の造立。昔は南面していた。










薬師堂
「根本道とも呼ばれ、圓教寺に現存する最古の遺構。元々あった簡素な草堂を性空上人が三間四面の堂に造り替えたのが始まりと伝わる。寺記によると延慶元年(1308)に焼失し、現在の建物は元応元年(1319)に再建された。幾度か改修されており、当初の形は明らかではないが、もと方一間の堂に一間の礼堂(外陣)を付設したようである。挿肘木など大仏様の手法が見られ、組物や虹梁に当時の特色が残る。本尊(薬師如来)等は、現在食堂に安置されている。
なお、昭和五十三年の解体修理の際、奈良時代の遺物が出土しており、この地には圓教寺創建以前、既に何らかの宗教施設があったと推定されている。


姫路城主・松平直基(なおもと)の墓所
「松平直基は、徳川家康の孫にあたります(家康二男、秀康の第五子)。もと出羽国の山形城にいましたが、慶安元年(1648)西国探第職として播磨国の姫路城主を命じられました。 しかし、山形から姫路へ移封の途中、江戸で発病し姫路城に入らず亡くなり、遺骨は相模国(神奈川県)の最乗寺に葬られました。
のちになって、直基の子・直矩が姫路城主になってから寛文十年(1670)に分骨し、ここ書写山に墓所をつくりました」と。




姫路城主・榊原家の墓所
「榊原家は、江戸時代初期と中期の2回にわたって姫路城主となりました。前期、榊原忠次・政房 慶安2年(1649)~寛文7年(1667)
後期、榊原政邦・政祐(すけ)・政岑(みね)・政永 宝永元年(1704)~寛保元年(1741) ここの墓所には、上の城主のうち、政房と政祐の二人の墓碑が並んでいます。政房は寛文5年(1665)父忠次のあとをつぎましたが、わずか2年後に27歳で亡くなりました。墓碑には故刑部大輔従四位下源朝臣と刻んであります。
両墓碑とも政祐の養子政岑が享保十九年(1734)に建てました。忠次・政邦の墓所は姫路市内の増位山にあります。

金剛堂;13時15分
開けた展望公園を経て金剛堂へ。
「三間四方の小堂で、もとは普賢院という塔頭の持仏堂であった。内部には仏壇を設け、厨子を安置しており、天井には天女などの絵が描かれている。
性空上人は、この地において金剛薩?にお会いになり、密教の印を授けられたという。普賢院は永観二年(984)の創建で上人の居所であったと伝えられているが、明治四十年明石・長林寺へ山内伽藍修理費捻出のため売却された(戦災で焼失)。本尊の金剛薩?像は、現在、食堂に安置されている」


鯰尾(ねんび)坂参道
金剛堂の先、杉木立に「書写山参道 鯰尾坂」の案内が括りつけられている。書写のお山への参道は南へと上り下りする東坂、西坂以外にもあるようだ。チェックする;
鯰尾(ねんび)坂参道
お山の北西、新在家からの参道。距離はおよそ3キロ。かつての裏参道。登山口にある地蔵堂には、「かつて利用した人 数知れず」とあるようだ。国土地理院の地形図にはルート表示がない
刀出(かたなで)坂参道
お山へ西からの参道。新在家の南、刀出栄立町から奥の院までおよそ2.4キロ。近畿自然歩道といなっており、地形図にもルート表示がある。刀出の由来は、15世紀に古墳から刀が出土したとも伝わるが、定説とはなっていないようだ。
六角坂参道
これも西からの参道。刀出坂参道の登山口である、刀出栄立の少し南、六角地区から摩尼殿へとお山を上る。沢筋が六角から摩尼殿まで続いている。地形図に六角から沢筋途中まで破線が描かれている。
置塩坂参道
東からお山に上る参道。夢前町書写から摩尼殿へと上る。夢前川を北に登ったところに赤松氏の 居城であった置塩(おきしお・おじお)城跡があるという。孫見たさの姫時途中下車の折り、そすべての参道、そして置塩城跡を訪ねたものである。

不動堂;13時19分
「延宝年中(1673~1681年)に堂を造り明王院の乙天護法童子の本地仏不動明王を祀る。元禄10年(1697年)に堂を修理し、荒廃していた大経所を合わせて不動堂としている。俗に赤堂と呼ばれていた。
乙天童子の本地仏であるが、若天童子のそれはない。一説には若天はその姿があまりに怪異なため、人々が怖れたので姿を人々が恐れたので、性空上人が若天に暇を出したともいわれている」との案内。



護法堂(乙天社と若天社)
案内に「性空上人が康保三年(966)当山で修業中、いつも傍らで仕えた乙天護法童子と若天護法童子をまつる祠である。乙天は不動明王、若天は毘沙門天の化身で容貌は怪異であるが怪力、神通力を持ち、上人の修行を助け、上人の没後はこの山の守護神として祀られている。同寸同形の春日造で、小規模ながら細部の手法にすぐれ、室町末期の神社建築の特色をよく表している。向かって右が乙天社、左が若天社」とある。
乙天と若天は上人が九州、福岡県福岡市早良区と佐賀県神崎市の境に位置する背振山で法華経三昧の修行の折より生涯上人に仕えたとされる仏教の守護神、とか。

護法堂拝殿(弁慶の学問所)
「奥の院の広場をはさんで護法堂と向かい合っている。このように拝殿と本殿(護法堂)が離れて建てられているのは珍しい。今の建物は、天正十七年(1589)に建立されたもので、神社形式を取り入れた仏殿の様な建物で、一風変わった拝殿である。
この拝殿はその昔、弁慶が鬼若丸と呼ばれていた頃、七歳から十年間、この山で修業したことから、弁慶の学問所と呼ばれている。今もその勉強机が残っている。(食堂に展示中)」との案内。



開山堂(奥の院):13時21分
「圓教寺開山の性空上人をまつったお堂で、堂内の厨子には上人の御真骨を蔵した等身大の木像が納められている。寛弘四年(1007)上人の没年に高弟延照が創建、弘安九年(1286)消失。現存のものは江戸期寛文十一年(1671)に造り替えられたもの。
軒下の四隅に左甚五郎の作と伝えられる力士の彫刻があるが、四力士のうち北西隅の一人は、重さに耐えかねて逃げ出したという伝説がある」との案内。




和泉式部歌塚塔
開山堂脇の奥まったところにあるという和泉式部の歌碑を訪ねる。お堂右手に廻りこんだ山肌に歌塚塔が見える。案内には「高さ二〇三cmの凝灰岩製の宝篋印塔で、塔身各面に胎蔵界の種子(梵字)を刻み、天福元年(1233〔786 年前〕)の銘がある。
県下最古の石造品であり、和泉式部の和歌「暗きより 暗き道にぞ入りぬべき 遥かに照らせ 山の端(は)の月」にちなむ和泉式部歌塚と伝えられる。
この歌は長保四年(1002)~寛弘二年(1005)に詠まれ「法華経」の「化城喩品(けじょうゆほん)」をもとに悟りへの導きを願い性空上人に結縁を求めた釈教歌と呼ばれるもので、勅撰「拾遺和歌集」に収録されている。
性空上人は「日は入りて月まだ出ぬたそがれに掲げて照らす法(のり)の燈(ともしび)」の返歌をしたといい、また建久七年(1196)~建仁二年(1202)に成立した「無名草子」には和泉式部が性空上人からこの歌の返しに贈られた袈裟を身に付けて往生を遂げたという逸話を載せている。 平成二七年二月 姫路市教育委員会」とある。
●「法華経」の「化城喩品(けじょうゆほん)」
「法華経」の「化城喩品(けじょうゆほん)をもとに」とは「法華経の巻第三化城喩品第七の「衆生常苦悩、盲冥無導師、不識苦尽道、不知求解脱、長夜益悪趣、減損諸天衆、従冥入於冥、永不聞仏名」、世に導きの師なく人は苦しみ、長い夜に悪道は増し神々さえも堕ちてしまい、人は冥がりを出ては冥に入るだけであり、長く仏の名を聞くこともない、にある「従冥入於冥」を踏まえたもの、という。
人に会うこと避けていた上人も、法華持教者故だろうか、その教養に感じ入り面会を許したという。それにしても、拾遺和歌集の成立は1006年頃とされるわけで、和泉式部の生まれは978年とされるので(Wikipedia), 「性空上人のもとに、よみてつかわしける」と題されたこの歌が詠まれたのは和泉式部が30歳前のこと。如何に法華経が宮廷貴族の間で広く読誦された時代背景であったとは言え、煩悩ゆえに苦界を転々輪廻しそこから脱することのできない衆生の生きざまを表す「冥」を、本当にわかるのだろうか。
和泉式部がもっと歳を重ねて、とは思っても、性空上人の没年は1007年と言うし、習い覚えた言葉をその才気に任せて詠んだようにも思える。が、そうとすればそれに性空上人が感じ入ることもないだろうし、ということは、返歌は創作?などと不敬な妄想がふくらむ。
因みに、上述の「書写山と和泉式部」には、和泉式部は中宮彰子のお伴で圓教寺を訪れたともあるが、和泉式部が中宮彰子に仕えるようになったのは1008~1011年頃の頃というから、性空上人は既に没している。
和泉式部と阿弥陀如来
それはともあれ、上人と和泉式部の問答が伝わるが、そこに興味を惹く一節があった。浄土往生を問う式部に対して上人は阿弥陀如来にすがるべし、と。上に天台僧は「朝題目に夜念仏」と、現世は法華に来世は弥陀にすがった、とメモしたが、法華三昧の上人ではあるが、胸に阿弥陀仏の刺青を彫っていたとも伝わる上人の阿弥陀信仰のほどを、逸話の真偽のほどは定かでなないが、その信仰を強める話となっている
因みに、式部は京都誓願寺の阿弥陀如来に帰依し出家、誠心院専意法尼と名を改め生涯を終えたとされる。万寿2年(1025年)、と言うから47歳までの生存は記録に残るが没年は不詳。

弁慶鏡井戸;13時24分
奥の院より三之堂に戻る。往路の北を成り行きで進むと弁慶井戸があり、「書写山には武蔵坊弁慶が少年時代を過ごしたという伝説があり、この鏡井戸や勉強机が今に伝えられている。
昼寝をしていた弁慶の顔に、喧嘩好きな信濃坊戒円(しなのぼうかいえん)がいたずら書きし、小法師二、三十人を呼んで大声で笑った。目を覚ました弁慶は、皆がなぜ笑っているのか分からない。弁慶は、この井戸に映った自分の顔を見て激怒し、喧嘩となる。その喧嘩がもとで大講堂を始め山内の建物を焼き尽くしてしまったといわれている」とある。
『義経記』には、性空上人を慕って比叡山を下り書写の山に修行に訪れたとも書かれる。

灌頂水の小祠
弁慶鏡の井戸の傍に小さな覆屋。仏事の際の灌頂水を汲む井戸。
灌頂
「灌頂(かんじょう)とは、菩薩が仏になる時、その頭に諸仏が水を注ぎ、仏の位(くらい)に達したことを証明すること。密教においては、頭頂に水を灌いで諸仏や曼荼羅と縁を結び、正しくは種々の戒律や資格を授けて正統な継承者とするための儀式のこと(Wikipediaより」」。
仏・仏陀
「菩薩が仏になる時」って、ちょっとわかり難い。ここで言う仏とは仏陀ということだろう。仏陀とは悟りをひらいたもの。菩薩は悟りをひらくための行をおこなっているもの。
仏陀も元々は釈迦ひとりであったものが、時代を経るにつれ東方極楽浄土、西方瑠璃光浄土などが構想され、そこに阿弥陀仏や薬師如来などの仏陀が存在するとした経典が現れてくる。仏陀とは所謂如来と言い換えてもいいかもしれない。既述の如く、この如来・仏陀とは生身の釈迦を永遠の存在とするための「装置」のような気もする。

灌頂水の覆屋を先に進むと大講堂と食堂の間を抜け、三之堂の広場に戻った。

西坂分岐点に戻る
復路も参道を下ることにして、摩尼殿下の東坂・西坂の分岐点に立つ「一丁」標石へと向かう。 三之堂から摩尼堂へは往路辿った道の下側にもうひとつ、大黒堂や瑞光院経由の道がある。三之堂からゆるやかな坂を「下り、左手に大黒堂、右手に瑞光院を見遣り標石に戻る。
瑞光院は一般公開はしていないようで、切妻、本瓦葺の門は閉じられていた。長く古さびた土塀が印象的な落ち着いた塔頭であった。塔頭は講中の宿坊として供することが多いが、ここは網干観音講の宿坊との記事を見かけた。
道を進み摩尼殿下の東坂・西坂の分岐点に立つ「一丁」標石へと戻る。

今回のメモはここまで。分岐点から先の西坂参道下山メモは次回に廻す。

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