書写のお山へと東坂参道を上り、広い境内を巡り、今回は西坂参道下山ルートをメモする。下山の参道にも丁石が立ち、特段のメモすることもないところは上りと同じく、「山を下りながら こうかんがえた」妄想を付け加える。


本日のルート;
JR姫路駅>書写山ロープウエイ乗り場>東坂露天満宮
東坂
東坂参道上り口>壱丁>二丁>三丁>宝池>四丁>五丁>五丁古道>六丁>七丁>八丁>九丁>十丁>十一丁>紫雲堂分岐>紫雲堂跡>十二丁>十三丁>和泉式部の案内>十七丁
圓教寺境内
仁王門>壽量院>五重塔跡>東坂・西坂分岐点の標石>十妙院>護法石>湯屋橋>三十三所堂>魔仁殿>岩場の参詣道>姫路城主・本多家の墓所>三之堂>鐘楼>十地院>法華堂>薬師堂>姫路城主・松平直基(なおもと)の墓所>姫路城主・榊原家の墓所>金剛堂>鯰尾(ねんび)坂参道>不動堂>護法堂>護法堂拝殿>開山堂>和泉式部歌塚塔>弁慶鏡井戸>灌頂水の小祠>西坂分岐点に戻る
西坂
妙光院>二丁>三丁>四丁>五丁>六丁>七丁>八丁>九丁>十丁>十一丁>十二丁>十三丁>十四丁>十五丁>十六丁>十七丁>下山口


西坂参道

東坂・西坂の分岐点の「一丁」標石
摩尼殿下の東坂・西坂の分岐点に立つ「一丁」標石を右に折れ西坂参道に入る。道の左手には元金輪院塔頭であった。常のことながら成り行き任せ。当初の予定では上りも下りもロープウエイで利用予定であったのだが、上りの東坂も、下りの西坂参道も成り行きで出合い、急遽予定を変更したもの。
下る前は坂の状態もわからず痛めた膝の優しい参道であれかしと、とりあえず道を先に進んだ。



妙光院
ほどなく道の右手に妙光院。「安養院跡地に建立されたのが今のものであるが、壽量院の北側に元あったものである。創建は不詳で、明応四年(1495)鎮永が再興するまでは妙光坊と称していた。
享和年中(1801~1804)祖渓が再修したが、明治の末年に至って修理の見込みがたたないので、ついに本尊を他に移し建物を取りたたんだ。その後「妙光院」の名称だけが残っていたのを現地に再建し、本尊を安置した」と案内にある。



二丁;13時33分
妙光院の先で道はふたつに分かれる。左に折れるとロープウエイ山頂駅へと向かう。往路で仁王門へと西国三十三観音道へと折れた慈悲の鐘(こころの鐘)鐘の立つ分岐点である。 西坂参道は右というか、道なりに進む。分岐点には二丁標石が立つ。




和泉式部の絵巻風パネル
ここから先、六丁標石辺りまでは単調な道を下り、時に丁石を見るくらいであり、特段メモすることもない。ということで、書写の山に性空上人を訪ねて上った多くの貴人、聖を差し置いて、パネル解説されていた和泉式部についての解説を、折角のことでもあるので載せておく(1から3までは掲載済みであり、4から)。

■「(パネル番号」4 和泉式部の生涯のあらましを、お話ししましょう。幼名は許丸(おもとまる)。名だたる儒家の大江家に生まれました。父は大江雅致(まさむね)。一家は学問のほかに、母の妙子(昌子(しょうし)内親王のおん乳母)とともに、昌子内親王様のお守役をつとめました。
昌子内親王さまは冷泉天皇の皇后(御父は朱雀亭)です。和泉式部は、そうした教養溢れる雰囲気の中で、歌才に恵まれた美少女して、おほらかに育ちます」。
■「 幼い日の和泉式部(お許丸)の毎日は、内親王さまがお育てになっている幼いご兄弟の皇子さまと、仲よく遊ぶことでした。皇子の御名は、兄宮さまは為尊(ためたか)親王さま、弟宮さまは敦道(あつみち)親王さま。そして別邸には、その上の二人の兄宮さま(のちの花山天皇と三条天皇)がお暮らしでした。
お許丸のお相手は、こうしたご身分のかたばかりでした。このご縁が、彼女の生涯のコースをのちのちまで定めてゆきます」。

■「 やがて三人は成人してゆきます、兄宮さまは弾正ノ宮(だんじょうのみや)(司法官)に、弟宮の敦道親王は帥ノ宮(そちのみや)(行政官)になられます。お許丸も彩色秀でた新進歌人・和泉式部として名をあげてゆきます。
その頃、三人が幼い時からお慕いしてきた昌子内親王様が、ご病気療養のために和泉の大江邸に滞在して、その家で薨去なさいます。
その時、兄宮さまは淡い恋心を和泉に抱かれますが、翌年に早逝されます。そして弟宮敦道親王と和泉の"大きな恋"が始まります」

三丁;13時35分
道を進むと「西坂参道 日吉神社・姫路工大へ」の案内。どこに下りるのか地図をチェックする。麓に姫路県立大がある。姫路工業大学など県立三大学が統合されて姫路県立大学となったようである。
その直ぐ先に、小さな石造五輪塔や数基の石仏と共に「三丁」の標石が立つ。

■「 弟宮の敦道親王は和泉にぴったりの多感な貴公子でした。容姿端麗、立居もきわ立っていました。和泉は言います。「敦道親王こそ、幼い日から わたしが夢みてきた最高の男性像です」。初めての添寝の翌朝、和泉は、心身の深い満足度をこう歌います。
世のつねの ことともさらに思(おも)ほえず はじめて物を思う朝(あした)は 教養を突き破って自分の感動を歌いあげる大胆さ。この"歌魂"(かこん)こそ、彼女の歌の特性であり、目のさめる近代性でした」。

■「 敦道親王は自邸の南院に和泉を住まわせました。翌春の加茂大祭(かものたいさい)には、二人が相乗りした牛車が、御簾を揚げて都大路へ出ました。
そうした相愛の歌を、彼女は「和泉式部日記」の中に、たくさん遺します。親王の御子石蔵宮(いしくらのみや)も生まれ、生涯を賭けた大恋愛でした。

しかし、二年後、この最愛の敦道親王も二十七歳で亡くなりました。その魂祭の夜、和泉は涙を涸らしてうたいます。 亡き人の 来る夜と聞けど君もなし わが住む里や魂(たま)なきの里」。

■「 弟宮を亡くしてやつれ果てる和泉の姿を心配して、関白道長は肩をたたいて、「中宮の彰子は わしの娘だが、中宮御所へいって、歌でも教えてやってくれないか」と気分転換をすすめます。
道長は器の大きい人でした。彰子も利発で教養高い美妃でした。中宮御所には、紫式部、伊勢大輔(いせのたいふ)、赤染衛門(あかぞめえもん)など超一流の女性メンバーが揃った文学サロンがあります。彰子は「お美しいお子さんの小式部の内侍(こしきぶのないし)も ご一緒にどうぞ」と温かく和泉を迎えてくれました」。

■「10 小学生にも人気の高い軽快な「大江山いくのの道の遠ければ まだふみもみず天の橋立」の百人一首の歌は、小式部十二才頃の御所での即興作です。「さすが母似(ははに)よ」と公卿たちは騒ぎました。
一方、和泉式部と紫式部は、お互いにライバル意識がありました。が、やがて、「歌は和泉式部、小説は紫式部」と、しぜんと定まってゆきました。文芸サロンでは、和泉と中宮彰子は互いに親しみ、敬し合う仲となりました。

四丁;13時38分
数分で四丁標石。ここまで歩いて、上った東坂参道に比して、この西坂参道は道がきれいに整備され車でも登れそうである。「参道」といった趣には少し乏しいが、痛めている膝には優しい。

■「11 中宮彰子は年若く、信心の篤い人でした。性空上人の教えを受けたくて、遥々と書写山を訪ねます。権勢を好まない性格の上人は、居留守を使って中宮との面会を避けました。中宮はひどく失望して下山し始めます。傍にいた和泉式部は、自作の歌を上人へ届けます。
冥きより 冥き道にぞ入りぬべき 遥かに照らせ山の端の月
和泉の歌の、格調の高さと宗教性の深さに、上人は非常に感動して、すぐ中宮を呼び戻して、中宮のためにみ佛の道を説きました」
上述の如く和泉式部が中宮彰子に仕えたのは1008年から1011年頃までと言う。性空上人は1007年に没しており、この逸話には無理があるとも言う。

五丁;13時39分
直ぐに五丁標石。
■「12 あらざらむこの世の外(ほか)の思い出に 今ひと度(たび)の逢ふこともがな 白露も夢もこの世もまぼろしも たとえて言えば久しかりけり
和泉はこうした名歌を生涯かけて生みつづけます。勅撰(ちょくせん)歌集もおさめられた歌の数は、日本の女流歌人の首位となりました
「天才のみが、よく天才を知る」と申しますが、本邦第一級の天才、能楽創始者の世阿弥(ぜあみ)は、和泉をテーマに、幽玄能の傑作「東北」(とうほく)を創作して、和泉の地位を永遠化しました」。

■「13 お能「東北」のあらすじ。 ある早春、京へ上った東北の僧が、洛東・東北院(中宮彰子の持寺)の庭に咲く梅に見とれていると、「和泉式部ゆかりの軒場の梅です」と教えられました。その夜、僧がその梅の前で法華経を唱えると、女の霊が現れ「私はここの方丈に住む和泉式部の霊です。御佛のお陰で今は極楽で歌舞菩薩にして頂いて毎日幸福です」と語って、序の舞を舞いながら方丈へ消えました。
僧は「あの霊は観音様の化身かも知れない」と合掌しました。(終)」

パネルはこれで終わる。何となく落ち着かない終わりかたとも思えるが、あまりよく知らなかった和泉式部のあれこれが少しわかったことをもって良しとしよう。

六丁;13時42分
道脇に「左一丁 蜜厳院墓地」の標石(13時41分)を見遣り六丁の標石。その先に石に彫り込まれ並び立つ石仏が2基並ぶ。2体並ぶ石造は道祖伸では男女像としてたまに見ることがあるのだが、石仏では初めて見た。はっきりとはわからないが、どうも双石仏、双体石仏、地蔵双体仏などと呼ぶようだ。



双石仏、双体石仏、地蔵双体仏
刻まれた石仏の姿を見ると、左手の像は錫杖を肩に架けたその姿は地蔵尊のように見える。また右の像は阿弥陀如来の姿のようにも見える。あれこれチェックすると、阿弥陀地蔵双仏石と呼ばれる石像もあるようだ。現世に現れて衆生を済度する地蔵尊と、来世を阿弥陀浄土で迎えてくれる阿弥陀仏の2体を1つの石に彫り、現世と来世のご利益を同時に願うためのもの、といった記事もあった。地蔵尊と阿弥陀如来のコンビネーション?といった妄想もあながち的外れでもなさそうに思える。

七丁;13時44分
七丁標石のところにはお堂が建ち、案内には文殊堂跡とある。「康保三年(966)紫雲のたなびくのを瑞兆と感じた性空上人は、この西坂を登ってきたとされる。入山の途中、文殊菩薩の化身と云われる白髪の老人に逢い、この山の由来を伝えられた。その伝えられた場所がこの地であるといわれている。
文殊堂はもと正面三間、側面三間、入母屋造りで。文殊菩薩を本尊とする堂であったが、昭和62年(1987)10月に焼失した。現在の文殊堂はその後の再建」との案内。
お山の由来
文殊菩薩の化身に伝えられたこの山の由来とは?この山に登るものは菩提心をおこし、峰にすむものは六根を清められるという文殊菩薩のお告げがあり、摩尼殿上の白山で六根清浄の悟りを得たと伝えられる、といった記事が多く見受けられる。
『一遍聖絵』にある「大聖文殊異僧に化現して性空上人に誘へて云く、「山名書写 鷲頭分土 峰号一乗、鶏足送雲 踏此山者、発菩提心、攀此峰者 清六情根、云々」などを踏まえてのことかと思える。

八丁;13時46分
尾根筋を少し巻き気味に下り、標高250m等高線を少し下ったあたりに八丁の標石が立つ。
文殊菩薩と性空
性空上人の逸話には文殊菩薩がこのシーン以外にも登場する。幼き頃より仏心篤き上人の出家の願いがかなえられたのも、母の夢枕に現れた文殊菩薩のお告げによる、とも伝わる。 それはそれとして、幼名・小太郎、橘善行と呼ばれていた上人が性空と名乗り仏に仕えることとなったと伝わるが、Wikipediaに拠れば、上人が天台の高僧慈恵大師に師事し出家したのは36歳の頃という。名門橘家に生まれた上人の36歳までの足跡が少し気になるが、詳しいことはよくわからない。

九丁;13時48分
性空の由来
ところで、性空ってどういう意味?性空上人の「性空」についての解説は見当たらなかったが、『摩訶般若波羅蜜経問乗品第十八』には「内空。外空。内外空。空空。大空。第一義空。有為空。無為空。畢竟空。無始空。散空。性空。自相空。諸法空。不可得空。無法空。有法空。無法有法空」といった十八の空が挙げられる。その中にある「性空」について、コトバンクには「十八空の一。一切のものは因縁和合によって生じたもので、万有の本性は空であるということ」とある。この性空に由来するのだろうか。
また,Wikipediaに拠れば文殊菩薩は釈迦に代わって般若の「空」を説いたとある。上述性空上人と文殊菩薩との関りを考えれば十八空に由来との妄想も、当たらずとも遠からずのように思えてきた。

十丁;13時49分
普賢菩薩と性空上人
文殊菩薩もさることながら、性空上人と普賢菩薩に関わる話も見受けられる。生を受けたとき、普賢菩薩の生まれ変わりとされたこと、また鎌倉時代の説話集である『十訓抄』には上人が普賢菩薩に出合えた話が載る;普賢菩薩との感得を願う上人に「生身の普賢菩薩に出合いたければ神崎(江口の里とも。ともに色里)に赴き、そこの遊女を見なさい」との夢のお告げ。お告げに従いその地に出向く。遊宴乱舞の中、閑に信仰・恭敬する上人に、彼女が普賢菩薩となって白象にのって消えてゆくところが見えた、と。

十一丁;13時51分
『十訓抄』に描かれる性空上人
上人が遊女に普賢菩薩の姿を見たくだり。私でもなんとなく理解できる。以下掲載。
「上人閑所に居て、信仰、恭敬して、横目もつかはず、まもりゐ給へり。この時に、たちまちに普賢菩薩の形に現じ、六牙の白象に乗りて、眉間の光を放ちて、道俗、貴賤、男女を照らす。すなはち微妙の音声を出して、実相、無漏の大海に五塵六欲の風は吹かねども随縁真如の波の立たぬ時なしと。
感涙おさへがたくして、眼を開きて見れば、またもとのごとく、女人の姿となりて、周防室積の詞を出す(私注;遊女の歌う歌のこと、だろう)
眼を閉づる時は、また菩薩の形と現じて、法門を演べ給ふ。
かくのごとくたびたび敬礼して、泣く泣く帰り給ふ時、長者(私注;遊女の、だろう)、にはかに座を立ちて、閑道より上人のもとへ来りて、 「このこと口外に及ぶべからず」といひて、すなはちにはかに死す。異香、空に満ちて、はなはだ香ばし。
長者の頓滅のあひだ、遊宴興さめて、悲涙することかぎりなし。上人、ますます悲涙におぼれて、帰路にまどひけりとなむ
かの長者、女人、好色のたぐひなれば、たれかはこれを権者の化作とは知らむ。仏菩薩の悲願、衆生化度の方便に形をさまざまに分ちて、示し給ふ道までも、賤しきにはよらざること、かやうのためしにて心得べし」

十二丁;12時52分
直ぐ十二丁。その先で道は簡易舗装となる。性空上人がはじめて上ったお山への道も古き面影は消え去っている。車で荷物を寺に運ぶ車道としても使っているように思える道である
『十訓抄』に描かれる性空上人
性空は普賢菩薩を大変、尊敬していたようだ。六牙の白象が登場するのは、 『法華経』 「普賢菩薩勧発品」にある 「此の経を読誦せば、我、爾の時、六牙の白象王に乗り、大菩薩衆と倶に其の所に詣りて、而も自ら身を現し、供養し守護して、其の心を安んじ慰めん」に拠る。実際、普賢菩薩像は白象に乗る。
また、普賢菩薩の語る「実相、無漏の大海に五塵・六欲の風は吹かねども、随縁真如の波の立たぬ時なし」は苦しみに沈む衆生に対しひとときも休むことなく救いの手を差し伸べる、といったこと。
性空上人と普賢菩薩の因縁話は、性空上人が普賢菩薩に深く帰依し、己が菩薩行(他者の救済>人すべて仏となる、といった法華経の教え)を表しているのであろうか

十三丁;14時1分
いままですべて道の左手、谷側にあった標石であるが、この十四丁の標石は道の右手、弥m側に立っていた。見逃し十四丁まで進み、あれ?となり少し戻って見つけることができた。
釈迦三尊
文殊菩薩、普賢菩薩のことをメモしながら、釈迦三尊像のことを思い起こした。いくつかバリエーションがあるものの、多くは釈迦如来の左右に両脇侍として左脇侍(向かって右)に文殊菩薩、右脇侍に普賢菩薩が配される。釈迦三尊像がこれである。文殊菩薩は釈迦の知恵、普賢菩薩は釈迦如来の慈悲を表す、とか。
如来は知恵と慈悲を兼ね備え、知恵と慈悲で衆生を済度する、と。文殊菩薩と普賢菩薩って結構重要な存在であったわけだ。
で、ここで言いたいのは、釈迦如来と一心同体といった、そんな重要な文殊菩薩と普賢菩薩との深い関りが伝えられる性空上人って、当時の人にとって、それほど重要な存在であったということがわかる、というか、わからそうと縁起譚を創り上げた上人に対する強い崇敬の念を感じる。

十四丁;14時3分
如来と菩薩
釈迦如来と文殊菩薩、普賢菩薩と書いて、如来と菩薩の違いをちょっと整理。上にちょっとメモしたが、Wikipediaには「広い意味での「仏」は、その由来や性格に応じ、「如来部」「菩薩部」「明王部」「天部」の4つのグループに分けるのが普通である。「如来」とは「仏陀」と同義で「悟りを開いた者」の意、「菩薩」とは悟りを開くために修行中の者の意、なお顕教では、十界を立てて本来は明王部を含まない。これに対し密教では、自性輪身・正法輪身・教令輪身の三輪身説を立てて、その中の「明王」は教令輪身で、如来の化身とされ、説法だけでは教化しがたい民衆を力尽くで教化するとされる。そのため忿怒(ふんぬ)といって恐ろしい形相をしているものが多い。(中略)「天部」に属する諸尊は、仏法の守護神・福徳神という意味合いが濃く、現世利益的な信仰を集めるものも多数存在している」とある。
如来、菩薩は挙げるまでもないだろう。明王は不動明王が代表的。天部の諸仏は梵天、帝釈天、持国天・増長天・広目天・多聞天(毘沙門天)の四天王、弁才天(弁財天)、大黒天、吉祥天、韋駄天、摩利支天、歓喜天、金剛力士、鬼子母神(訶梨帝母)など。金剛力士が寺の仁王門に立つ所以である。
なお、菩薩に関しては如来としての「力量」はあるものの、衆生済度のために敢えて「菩薩」ステータスに留まるものもあるようだ。

十五丁;14時5分
十三丁、十四丁標石辺りで一度途切れ再び現れた簡易舗装の道を下ると十五丁標石。
如来の誕生
如来・仏陀には阿弥陀如来、薬師如来、大日如来など、また釈迦の代わりにはるか未来に仏陀となることを約束されている弥勒如来(菩薩)などが代表的なもの。
常行堂のところでちょっとメモしたが、「如来」って紀元前5世紀に生きた歴史的実在者としての釈迦を永遠の存在として絶対化にするための「装置」のように思える。
釈迦の死後、原始仏教の時代、自己の悟りに重きを置く小乗仏教の時代を経て、紀元1世紀頃に衆生すべて仏といった大乗仏教の時代を迎える。ここで重きをなすのが菩薩行。自己の解脱より他者の救済、利他行に重きをおく動きである。
ここで、救済者・仏陀である釈迦を歴史的存在者として留めることなく、仏陀は釈迦の遥か昔から、またはるかかなたの未来にも存在するとした。所謂「過去仏」であり「未来仏」である。 『相応部経典』の第6章「梵天相応」には、「過去に悟ったブッダたち、未来に悟るブッダたち、現在において多くの人々の憂いを取り除くブッダ、これらブッダはすべて正しい教えを重んじて、過去にも現在にも未来にもいるのである。これがブッダと言われる方々の法則である」とする(『仏陀たちの仏教:並川孝儀(中公新書)』)。
釈迦を含めた過去七仏が構想された。未来仏として弥勒仏が構想された。大乗仏教に『法華経』や『華厳経』が生まれる紀元4世紀から5世紀にかけては華厳の巨大な廬舎那仏が構想され、それが密教の影響もあり大日如来として世界の中心に君臨する普遍的存在とした。世界の中心だけではなく各方面にも仏陀が必要だろうと西方極楽浄土の阿弥陀如来、東方瑠璃光浄土の薬師如来も登場することになったわけである。こうして歴史的存在者であった釈迦は永遠の絶対的存在者である仏陀のメンバーとして「止揚」されたわけである。

十六丁;14時7分
再び簡易舗装が切れたところに十六丁標石。書写山を貫く山陽自動車道書写山第二トンネルの真上あたり。ほぼ山を下りてきた。
釈迦・仏陀・釈迦如来
本来、釈迦を永遠の絶対的存在とするために考えられたであろう「如来」であるが、どうもその構想があまりに巨大化し、元々の主人公であったお釈迦さまが大構想の中に埋没したように感じる。実際、このメモをするまで釈迦如来ってお釈迦さんと関係あるのかなあ、といった為体であった。
また、仏・仏陀とお釈迦さんの関係もよくわかっていなかった。仏・仏陀とは悟りをひらいたもの、ということであり、お釈迦さまもその巨大な構想力の中の一人であった。 性空上人のあれこれにフックがかかり、多分に素人の妄想ではあるが、それなりに結構納得し、空白スペースを埋めるメモを終える。

十七丁;14時8分
十七丁まで下ると山裾の街並みが木立の間から垣間見える。少し下ると赤い鳥居が立つ。宗天稲荷大明神とある。「宗天」って、あまり聞いたことがない。あれこれチェックしたが、その由来を見つけることはできなかった。



下山口;14時10分
宗天稲荷大明神にお参りし、安養寺・日吉神社を見遣り兵庫県立大学姫路工学キャンパスを南に下り、広い車道に出た少し西にあるバス停に到着。本日の散歩を終える。







性空上人ゆかりの書写の山。思うだに大変そうと、長年寝かせておいた上人と観音霊場巡礼の縁、その観音霊場巡礼のはじまり、またそもそも巡礼って?といったテーマや、メモをしながら気になってきた上人が何故に世に知られるようになったのだろう、などといった新しい疑問を、多分に妄想ではあるのだが、自分に納得できるストーリーとしてまとめるのに少々スペースを使ってしまいメモが長くなってしまった。
書写のお山と性空上人に関するメモの2回目は、圓教寺の仁王門からはじめ境内を辿り、奥の院までをカバーする。当初のメモの予定では境内を巡る途中で出合った西坂を麓まで下りるところまでカバーしようと思っていたのだが、さすが広い境内に建つ幾多の堂宇。メモに少々スペースをとってしまった。西坂参道下山のメモは次回に廻す。

本日のルート;
JR姫路駅>書写山ロープウエイ乗り場>東坂露天満宮
東坂
東坂参道上り口>壱丁>二丁>三丁>宝池>四丁>五丁>五丁古道>六丁>七丁>八丁>九丁>十丁>十一丁>紫雲堂分岐>紫雲堂跡>十二丁>十三丁>和泉式部の案内>十七丁
圓教寺境内
仁王門>壽量院>五重塔跡>東坂・西坂分岐点の標石>十妙院>護法石>湯屋橋>三十三所堂>魔仁殿>岩場の参詣道>姫路城主・本多家の墓所>三之堂>鐘楼>十地院>法華堂>薬師堂>姫路城主・松平直基(なおもと)の墓所>姫路城主・榊原家の墓所>金剛堂>鯰尾(ねんび)坂参道>不動堂>護法堂>護法堂拝殿>開山堂>和泉式部歌塚塔>弁慶鏡井戸>灌頂水の小祠>西坂分岐点に戻る
西坂
妙光院>二丁>三丁>四丁>五丁>六丁>七丁>八丁>九丁>十丁>十一丁>十二丁>十三丁>十四丁>十五丁>十六丁>十七丁>下山口


圓教寺境内

壽量院;12時47分
仁王門を潜り境内を進むと参道右手に壽量院。「圓教寺の塔頭の一つ。承安四年(1174)に後白河法皇が参籠したという記録が残されており、山内で最も格式の高い塔頭寺院として知られている。
建物の構成は、仏間を中心として中門を付けた書院造風の部分と、台所を設けた庫裡とに区分され、唐破風の玄関を構えて両者をつないでいる。当時の塔頭寺院としては極めて珍しい構成で、圓教寺型ともいえる塔頭の典型である」の説明がある。
●五重塔跡
壽量院傍に五重塔跡の案内。「「書寫山圓教寺参詣図」「播州書寫山縁起絵巻」「播磨書寫山伽藍之図」に壽量院のあたりに五重塔が描かれ、その礎石と思われるものが確認されている。
それ等には大講堂横の五重塔は描かれておらず、この塔は元徳三年(1331)三月五日落雷により焼失、大講堂・食堂・堂行堂の全焼という大火災になった。
壽量院横から大講堂まで延焼してゆくことは考えにくい。そういうことから壽量院横と大講堂横との東西二つの五重塔があり、西の塔が金剛界五仏であることから、この東の塔は胎蔵界五仏を安置していたのであろうか」とある。

東坂・西坂分岐点の標石;12時50分
道の左手、T字路分岐点に標石。「すぐほんどう 右西坂 左東坂」「一丁」の文字が刻まれる。下りはロープウエイで、などと思っていたのだが、標石を見てしまった以上、帰りも参道をとの思いが強まる。







十妙院
分岐点の先に白い塗塀の美しい建物。十妙院との案内があり、「天正七年(1579)正親町天皇により「岡松院」(こうしょういん)の勅号を賜った。これは、赤松満祐がわずか十六歳で亡くなった女の冥福を祈るために建てたものとされる。
圓教寺第百六世 長吏實祐(ちょうりじつゆう)の住坊となり、實祐を中興第一世とする。その後同じく正親町帝より「十妙院」の勅号を賜った。塔頭壽量院とは左右逆であるが、ほとんど同じ平面構成をもつ圓教寺独特の塔頭形式である」と書かれる。
赤松満祐(あかまつ みつすけ)
室町時代中期の武将で守護大名。播磨・備前・美作守護。室町幕府六代将軍足利義教を暗殺したことで知られる。

護法石(別名/弁慶のお手玉石);12時54分
道の右手に護法石の案内。「昔、この石の上に乙天、若天の二人の童子がこの石に降り立ち、寺門を守ったという伝説が残っている。また別名「弁慶のお手玉石」と呼ばれ、この大きな護法石を、弁慶はお手玉にしたといわれている」とあった。
乙天、若天童子とは、性空上人が康保三年(966)当山で修業中、いつも傍らで仕えた乙天護法童子と若天護法童子のことで、乙天は不動明王、若天は毘沙門天の化身で容貌は怪異であるが怪力、神通力を持ち、上人の修行を助けた山の守護神、と後述する護法堂の案内にあった。
また、乙天、若天童子これも後述する性空上人が九州の背振山での修行時に現れたと伝わる。

書写山圓教寺縁起
境内 by 圓教寺
傍に石に刻まれた円教寺縁起があった;「開基は康保三年(西暦966年)、性空上人による。上人は敏達天皇の御末、橘善根卿の御子として生まれ、十歳にして妙法蓮華経に親しみ、読誦の行を積み、三十六才にして九州霧島に至り、母を礼して剃頭し、二十年にわたり、九州各地に聖地を求めて修行される。
後、瑞雲の導きに従って当山に入り、草庵を結び、法華経読誦の行を修め、六根清浄を得悟され、世に高徳の宝と仰がれる。
寛弘四年三月十日九十八歳にして入寂されたが、御徳、世に広まり大衆の帰依も悠々厚く、花山法王は特に尊崇され二度も御来駕。後白河法王も七日間、御参籠される。御醍醐天皇は隠岐より帰京の途次御参詣、大講堂に一泊される。亦、平清盛、源頼朝をはじめ、武将の信仰も厚く、寺領を寄せ、諸堂を建立する。  昭和五十九甲子年一月吉日 (1984年1月吉日)」とあった。

湯屋橋;12時55分
少し弧を描いた石橋を渡る。湯屋橋とある。案内には「湯屋橋の擬宝珠は昭和十九年に戦時供出され、昭和三十年に旧刻銘「奉寄進 播州飾西郡書寫山圓教寺御石橋 願主 本多美濃守忠政」を刻銘した擬宝珠が寄進された。
本多忠政は元和三年(1617)に池田光政転封のあと姫路城主となり、元和六年(1620)書写山に参詣してその荒廃に驚き、一門・家臣・城下で寄進を募り復興に尽力し、湯屋橋もこの時再興された。書写山の荒廃は天正六年(1578)三木城の別所長治離反に対し羽柴秀吉が当地に要害を構え布陣したことによる。
湯屋橋の名はこの辺りに湯屋(沐浴所)があったことにちなむといい、「播磨国飾磨郡円教寺縁起事」によると、釜一口・湯船一隻・湯笥一・水船一口を備える四間板葺、西庇一面の湯屋を記し、特に釜は性空上人から依頼された出雲守則俊朝臣が鉄を集めて鋳造し人夫を整えて運搬した」ととある。
●出雲守則俊朝臣
出雲守則俊朝臣って誰?少々唐突な登場だが、出雲の国司に則俊の名がある。朝臣は古代、皇族に次ぐ高い地位を示す姓(かばね)であるのはわかるが、人物不詳。ともあれ、たたら製鉄で知られる出雲で造られたものだろう。

三十三所堂;12時56分
橋を渡ると空が大きく開け、広場に出る。右手には「はづき茶屋」があり、休憩をとる参拝者で賑わう。はづき茶屋の対面に三十三所堂。「西国三十三観音をまつる堂である。西国三十三所観音巡礼が広く庶民の間で行われるようになったのは、江戸時代である。社会情勢や交通の不便な時代にあって、誰でも三十三観音にであえるように、各地に「うつし霊場」ができた。
有名なものは坂東、秩父霊場であり、播磨にも「播磨西国霊場」がある。他にも全国各地にこのような霊場があり、このような「うつし霊場」を更にミニチュア化したものが、この三十三諸堂の発生であると考えられる」とある。このお堂をお参りするだけで、西国三十三観音霊場巡礼と同じ滅罪の功徳が得られるということか

魔仁殿;12時59分
三十三所堂をお参りし、石段を上り摩尼殿に。堂々たる構えのお堂。靴を脱いでお堂に入る。お堂を囲む回廊から書写の山の緑を眺める。案内には「摩尼殿(如意輪堂)書写山の中心を成す圓教寺の本堂。天禄元年(970)創建と伝え、西国三十三所観音霊場の第二十七番札所。桜の霊樹に天人が礼拝するのを見た性空上人が、その生木に如意輪観音を刻み、これを本尊とする堂を築いたのが始まりと伝わる。
幾度か火災に見舞われており、現本堂は大正十年(1921)に焼失した前身建物の残存遺構や資料をもとに、ほぼ前身を踏襲した形で昭和八年(1933)に再建。近代日本を代表する建築家の一人である武田五一が設計し、大工棟梁家の伊藤平左衛門が請負った。懸造り建築の好例で、伝統的な様式を踏襲しながらも木鼻・蟇股などの彫刻等に近代和風の息吹が感じられる。本尊は六臂如意輪観世音菩薩(兵庫県指定文化財)で、四天王立像(国指定重要文化財)も安置されている」とある。
摩尼
摩尼とはサンスクリット語の「マニ;宝珠」から。「意のままに願いを叶える(サンスクリット語の「チンター」)宝珠(マニ)」とされる。如意輪観音をサンスクリット語で「チンターマニチャクラ」と称するようであり、本尊として祀られる如意輪観音ゆえの「摩尼殿」ではあろう。因みに「チャクラ(法輪)」は「元来古代インドの武器であったチャクラムが転じて、煩悩を破壊する仏法の象徴となったものである。六観音の役割では天上界を摂化するという(Wikipedia)」にあった。



岩場の参詣道
摩尼殿の右手から大講堂に抜ける道案内。矢印と共に「重要文化財 大講堂・常行堂・食堂 金剛堂 鐘楼順路  大講堂(釈迦三尊)常行堂(阿弥陀如来)食堂2階(宝物展示) 薬師堂(播州薬師霊場第16番・食堂の納経所で) 奥之院(性空上人 左甚五郎作力士像)姫路城主本多・榊原・松平家三廟所 三の堂(大講堂・常行堂・食堂)へ徒歩5分 三の堂より奥之院へ徒歩1分 金剛堂へは2分」と記される。
摩尼堂の庇(ひさし)の下、山崖の間の通路を抜けると岩肌を進む道となる。道脇には小堂、石仏が並び、なかなかいい雰囲気

姫路城主・本多家の墓所
山道を抜けると三之堂。その手前に姫路城主・本多家の墓所。案内には「5棟の堂は、本多忠勝・忠政・政朝・政長・忠国の墓です。本多家は江戸時代、初期と中期の二度、姫路城主になりました。忠政・政朝・忠国の3人が姫路城主です。
忠政は、池田家のあとをうけて元和三年(1617)、桑名より姫路へ移り、城を整備したり船場川の舟運を開いた城主です。政朝は忠政の二男で、あとをつぎました。忠国は、二度目の本多家の姫路城主で、天和二年(1682)に福島より入封しました。
忠勝は忠政の父で平八郎と称し、幼少より家康に仕え徳川四天王の一人。政長は政朝の子で、大和郡山城主となりました。
堂の無い大きな二基の五輪塔は、忠政の子・忠刻(ただとき)と孫・幸千代の墓です。忠刻は大阪落城後の千姫と結婚し、姫路で暮らしましたが、幸千代が3歳で死去。忠刻も31歳で没し、ここに葬られました。
五棟の堂は、江戸時代の廟建築の推移を知るのに重要な建物で昭和四十五年に兵庫県指定文化財となっています」とある。
寶蔵跡
廟所傍に寶蔵跡の案内。「明治三十一年(1898)五月二十八日焼失本多廟との位置関係は不明だが西面に門を設けた土塀を巡らし、西妻に御拝庇ありと記されている。寛政二年(1790)の「堂社図式下帳」にはその記載がないが、本多廟建立【慶長十五年(1610)最古】以前より存在したことが古版木「播磨國書寫山伽藍之図」によってあきらかである。安政五年(1858)春の「霊仏霊宝目録」に収蔵されていたと思われる品々が明記されている。「性空聖人御真影」「源頼朝公奉納の太刀」「和泉式部の色紙」等七十八点をあげているがそのうちほとんどが焼失した」とあった。

三之堂;13時8分
眼前の広場の先堂々としたお堂がコの字に並び建つ。右手が大講堂、中央が食堂、左手が常行堂である。ハリウッド映画、「ラストサムライ」やNHK大河ドラマ「軍師黒田官兵衛」の撮影にも使われたと言う。
大講堂
「大講堂は食堂、常行堂とともに「三之堂(みつのどう)」と称され、修行道場としての円教寺の中心である。建物をコの字型に配置した独特の空間構成で、かつては北東の高台に五重塔も建てられていた。
大講堂は、円教寺の本堂にあたる堂で、「三之堂」の中心として、お経の講義や議論などを行う学問と修行の場であった。永延元年(987)の創建以来、度重なる災禍に見舞われたが、現大講堂は、下層を永享12年(1440)、上層を寛正3年(1462)に建立したものである。雄大な構造で、和洋を基調とした折衷様式に、内陣を土間とした天台宗の伝統的な本堂形式になっている。 極めて古典的で正式な様式を駆使しながら、一部に書写の大工特有の斬新な技法を用いており、創建以来の伝統を残しながら、時代の要請を取り入れて存続してきた貴重な建造物である。 内陣には木造釈迦如来及両脇侍像(平安時代・国指定重要文化財)が安置されている」と案内にあった。
食堂
案内が見当たらなかったため、姫路市のWebサイトから引用:「本来は、修行僧の寝食のための建物。承安四年(1174)の創建。本尊は、僧形文殊菩薩で後白河法皇の勅願で創建。二階建築も珍しく長さ約40メートル(別名長堂)においても他に類を見ないものである。
未完成のまま、数百年放置されたものを昭和38年の解体修理で完成の形にされた。 現在1階に写経道場、2階が寺宝の展示館となっています。国指定重要文化財」
常行堂
「常行三昧(ひたすら阿弥陀仏の名を唱えながら本尊を回る修行)をするための道場。 建物の構成は、方五間の大規模な東向きの常行堂。
北接する長さ十間の細長い建物が楽屋、その中央に張り出した舞台とからなり立っている。 内部は、中央に二間四方の瑠璃壇を設け本尊丈六阿弥陀如来坐像が安置されている。
舞台は、大講堂の釈迦三尊に舞楽を奉納するためのもの。国指定重要文化財。(姫路市Webサイト拠り)
天台宗と阿弥陀如来
天台宗の僧の多くは「朝題目に夜念仏」と、現世は法華に来世は弥陀を頼みとした、と言う。大乗経典とは大雑把に言って般若経から法華経を経て浄土三部経に及ぶものであるから、それほど違和感はない。性空も胸に阿弥陀仏の刺青をしていたとも言うし、上述の浄土経の祖とされる恵心僧都源信との交誼からも阿弥陀仏への信仰が見てとれる。源信は天台宗に学ぶも名利の道を捨て、極楽往生するには、一心に念仏を唱えるべしとし、浄土教の基礎を築いたとされる。
阿弥陀如来
西方極楽浄土に臨する如来。如来とは悟りをひらいたもの、とされる。最初の如来は釈迦如来。生身の釈迦を永遠の存在とするための「装置」として誰かが創り出したのだろう。何世紀にもわたる釈迦の教え、または釈迦になる教えをまとめ上げる経典整備の過程において、如来が釈迦ひとりってことはなかろうと、いろいろな如来が誕生した。阿弥陀如来誕生は西域からの影響が強いと聞く。
三之堂から奥之院へ

三之堂を離れ奥の之院に向かう。成り行きで常行堂の左手を廻り先に進む。

鐘楼
「袴腰付で腰組をもった正規の鐘楼で、全体の形もよく整っている。 寺伝によれば、鐘楼は元弘二年(1332)に再建、鐘は元亨四年(1324)に再鋳とされる。いずれも確証はないが、形や手法から十四世紀前半のものと推定されている。 鎌倉時代後期の様式を遺す鐘楼として県下では最古の遺構であり、全国的にも極めて古いものとして貴重である。銅鐘は、兵庫県指定文化財(昭和二十五年八月二十九日指定)で、市内では最古のつり鐘である。








十地院
「もとは開山堂西の広大な敷地にあったが、妙光院と同じく名称のみが残っていたのを、勧請殿跡地に建立したものである。庭越しに瀬戸内海を眺望することのできる唯一の塔頭である」とある。










法華堂
「法華三昧堂といい、創建は寛和三年(985)播磨国司藤原季孝によって建立された。もとは桧皮葺であった。現在のものは、建物、本尊ともに江戸時代の造立。昔は南面していた。










薬師堂
「根本道とも呼ばれ、圓教寺に現存する最古の遺構。元々あった簡素な草堂を性空上人が三間四面の堂に造り替えたのが始まりと伝わる。寺記によると延慶元年(1308)に焼失し、現在の建物は元応元年(1319)に再建された。幾度か改修されており、当初の形は明らかではないが、もと方一間の堂に一間の礼堂(外陣)を付設したようである。挿肘木など大仏様の手法が見られ、組物や虹梁に当時の特色が残る。本尊(薬師如来)等は、現在食堂に安置されている。
なお、昭和五十三年の解体修理の際、奈良時代の遺物が出土しており、この地には圓教寺創建以前、既に何らかの宗教施設があったと推定されている。


姫路城主・松平直基(なおもと)の墓所
「松平直基は、徳川家康の孫にあたります(家康二男、秀康の第五子)。もと出羽国の山形城にいましたが、慶安元年(1648)西国探第職として播磨国の姫路城主を命じられました。 しかし、山形から姫路へ移封の途中、江戸で発病し姫路城に入らず亡くなり、遺骨は相模国(神奈川県)の最乗寺に葬られました。
のちになって、直基の子・直矩が姫路城主になってから寛文十年(1670)に分骨し、ここ書写山に墓所をつくりました」と。




姫路城主・榊原家の墓所
「榊原家は、江戸時代初期と中期の2回にわたって姫路城主となりました。前期、榊原忠次・政房 慶安2年(1649)~寛文7年(1667)
後期、榊原政邦・政祐(すけ)・政岑(みね)・政永 宝永元年(1704)~寛保元年(1741) ここの墓所には、上の城主のうち、政房と政祐の二人の墓碑が並んでいます。政房は寛文5年(1665)父忠次のあとをつぎましたが、わずか2年後に27歳で亡くなりました。墓碑には故刑部大輔従四位下源朝臣と刻んであります。
両墓碑とも政祐の養子政岑が享保十九年(1734)に建てました。忠次・政邦の墓所は姫路市内の増位山にあります。

金剛堂;13時15分
開けた展望公園を経て金剛堂へ。
「三間四方の小堂で、もとは普賢院という塔頭の持仏堂であった。内部には仏壇を設け、厨子を安置しており、天井には天女などの絵が描かれている。
性空上人は、この地において金剛薩?にお会いになり、密教の印を授けられたという。普賢院は永観二年(984)の創建で上人の居所であったと伝えられているが、明治四十年明石・長林寺へ山内伽藍修理費捻出のため売却された(戦災で焼失)。本尊の金剛薩?像は、現在、食堂に安置されている」


鯰尾(ねんび)坂参道
金剛堂の先、杉木立に「書写山参道 鯰尾坂」の案内が括りつけられている。書写のお山への参道は南へと上り下りする東坂、西坂以外にもあるようだ。チェックする;
鯰尾(ねんび)坂参道
お山の北西、新在家からの参道。距離はおよそ3キロ。かつての裏参道。登山口にある地蔵堂には、「かつて利用した人 数知れず」とあるようだ。国土地理院の地形図にはルート表示がない
刀出(かたなで)坂参道
お山へ西からの参道。新在家の南、刀出栄立町から奥の院までおよそ2.4キロ。近畿自然歩道といなっており、地形図にもルート表示がある。刀出の由来は、15世紀に古墳から刀が出土したとも伝わるが、定説とはなっていないようだ。
六角坂参道
これも西からの参道。刀出坂参道の登山口である、刀出栄立の少し南、六角地区から摩尼殿へとお山を上る。沢筋が六角から摩尼殿まで続いている。地形図に六角から沢筋途中まで破線が描かれている。
置塩坂参道
東からお山に上る参道。夢前町書写から摩尼殿へと上る。夢前川を北に登ったところに赤松氏の 居城であった置塩(おきしお・おじお)城跡があるという。孫見たさの姫時途中下車の折り、そすべての参道、そして置塩城跡を訪ねたものである。

不動堂;13時19分
「延宝年中(1673~1681年)に堂を造り明王院の乙天護法童子の本地仏不動明王を祀る。元禄10年(1697年)に堂を修理し、荒廃していた大経所を合わせて不動堂としている。俗に赤堂と呼ばれていた。
乙天童子の本地仏であるが、若天童子のそれはない。一説には若天はその姿があまりに怪異なため、人々が怖れたので姿を人々が恐れたので、性空上人が若天に暇を出したともいわれている」との案内。



護法堂(乙天社と若天社)
案内に「性空上人が康保三年(966)当山で修業中、いつも傍らで仕えた乙天護法童子と若天護法童子をまつる祠である。乙天は不動明王、若天は毘沙門天の化身で容貌は怪異であるが怪力、神通力を持ち、上人の修行を助け、上人の没後はこの山の守護神として祀られている。同寸同形の春日造で、小規模ながら細部の手法にすぐれ、室町末期の神社建築の特色をよく表している。向かって右が乙天社、左が若天社」とある。
乙天と若天は上人が九州、福岡県福岡市早良区と佐賀県神崎市の境に位置する背振山で法華経三昧の修行の折より生涯上人に仕えたとされる仏教の守護神、とか。

護法堂拝殿(弁慶の学問所)
「奥の院の広場をはさんで護法堂と向かい合っている。このように拝殿と本殿(護法堂)が離れて建てられているのは珍しい。今の建物は、天正十七年(1589)に建立されたもので、神社形式を取り入れた仏殿の様な建物で、一風変わった拝殿である。
この拝殿はその昔、弁慶が鬼若丸と呼ばれていた頃、七歳から十年間、この山で修業したことから、弁慶の学問所と呼ばれている。今もその勉強机が残っている。(食堂に展示中)」との案内。



開山堂(奥の院):13時21分
「圓教寺開山の性空上人をまつったお堂で、堂内の厨子には上人の御真骨を蔵した等身大の木像が納められている。寛弘四年(1007)上人の没年に高弟延照が創建、弘安九年(1286)消失。現存のものは江戸期寛文十一年(1671)に造り替えられたもの。
軒下の四隅に左甚五郎の作と伝えられる力士の彫刻があるが、四力士のうち北西隅の一人は、重さに耐えかねて逃げ出したという伝説がある」との案内。




和泉式部歌塚塔
開山堂脇の奥まったところにあるという和泉式部の歌碑を訪ねる。お堂右手に廻りこんだ山肌に歌塚塔が見える。案内には「高さ二〇三cmの凝灰岩製の宝篋印塔で、塔身各面に胎蔵界の種子(梵字)を刻み、天福元年(1233〔786 年前〕)の銘がある。
県下最古の石造品であり、和泉式部の和歌「暗きより 暗き道にぞ入りぬべき 遥かに照らせ 山の端(は)の月」にちなむ和泉式部歌塚と伝えられる。
この歌は長保四年(1002)~寛弘二年(1005)に詠まれ「法華経」の「化城喩品(けじょうゆほん)」をもとに悟りへの導きを願い性空上人に結縁を求めた釈教歌と呼ばれるもので、勅撰「拾遺和歌集」に収録されている。
性空上人は「日は入りて月まだ出ぬたそがれに掲げて照らす法(のり)の燈(ともしび)」の返歌をしたといい、また建久七年(1196)~建仁二年(1202)に成立した「無名草子」には和泉式部が性空上人からこの歌の返しに贈られた袈裟を身に付けて往生を遂げたという逸話を載せている。 平成二七年二月 姫路市教育委員会」とある。
●「法華経」の「化城喩品(けじょうゆほん)」
「法華経」の「化城喩品(けじょうゆほん)をもとに」とは「法華経の巻第三化城喩品第七の「衆生常苦悩、盲冥無導師、不識苦尽道、不知求解脱、長夜益悪趣、減損諸天衆、従冥入於冥、永不聞仏名」、世に導きの師なく人は苦しみ、長い夜に悪道は増し神々さえも堕ちてしまい、人は冥がりを出ては冥に入るだけであり、長く仏の名を聞くこともない、にある「従冥入於冥」を踏まえたもの、という。
人に会うこと避けていた上人も、法華持教者故だろうか、その教養に感じ入り面会を許したという。それにしても、拾遺和歌集の成立は1006年頃とされるわけで、和泉式部の生まれは978年とされるので(Wikipedia), 「性空上人のもとに、よみてつかわしける」と題されたこの歌が詠まれたのは和泉式部が30歳前のこと。如何に法華経が宮廷貴族の間で広く読誦された時代背景であったとは言え、煩悩ゆえに苦界を転々輪廻しそこから脱することのできない衆生の生きざまを表す「冥」を、本当にわかるのだろうか。
和泉式部がもっと歳を重ねて、とは思っても、性空上人の没年は1007年と言うし、習い覚えた言葉をその才気に任せて詠んだようにも思える。が、そうとすればそれに性空上人が感じ入ることもないだろうし、ということは、返歌は創作?などと不敬な妄想がふくらむ。
因みに、上述の「書写山と和泉式部」には、和泉式部は中宮彰子のお伴で圓教寺を訪れたともあるが、和泉式部が中宮彰子に仕えるようになったのは1008~1011年頃の頃というから、性空上人は既に没している。
和泉式部と阿弥陀如来
それはともあれ、上人と和泉式部の問答が伝わるが、そこに興味を惹く一節があった。浄土往生を問う式部に対して上人は阿弥陀如来にすがるべし、と。上に天台僧は「朝題目に夜念仏」と、現世は法華に来世は弥陀にすがった、とメモしたが、法華三昧の上人ではあるが、胸に阿弥陀仏の刺青を彫っていたとも伝わる上人の阿弥陀信仰のほどを、逸話の真偽のほどは定かでなないが、その信仰を強める話となっている
因みに、式部は京都誓願寺の阿弥陀如来に帰依し出家、誠心院専意法尼と名を改め生涯を終えたとされる。万寿2年(1025年)、と言うから47歳までの生存は記録に残るが没年は不詳。

弁慶鏡井戸;13時24分
奥の院より三之堂に戻る。往路の北を成り行きで進むと弁慶井戸があり、「書写山には武蔵坊弁慶が少年時代を過ごしたという伝説があり、この鏡井戸や勉強机が今に伝えられている。
昼寝をしていた弁慶の顔に、喧嘩好きな信濃坊戒円(しなのぼうかいえん)がいたずら書きし、小法師二、三十人を呼んで大声で笑った。目を覚ました弁慶は、皆がなぜ笑っているのか分からない。弁慶は、この井戸に映った自分の顔を見て激怒し、喧嘩となる。その喧嘩がもとで大講堂を始め山内の建物を焼き尽くしてしまったといわれている」とある。
『義経記』には、性空上人を慕って比叡山を下り書写の山に修行に訪れたとも書かれる。

灌頂水の小祠
弁慶鏡の井戸の傍に小さな覆屋。仏事の際の灌頂水を汲む井戸。
灌頂
「灌頂(かんじょう)とは、菩薩が仏になる時、その頭に諸仏が水を注ぎ、仏の位(くらい)に達したことを証明すること。密教においては、頭頂に水を灌いで諸仏や曼荼羅と縁を結び、正しくは種々の戒律や資格を授けて正統な継承者とするための儀式のこと(Wikipediaより」」。
仏・仏陀
「菩薩が仏になる時」って、ちょっとわかり難い。ここで言う仏とは仏陀ということだろう。仏陀とは悟りをひらいたもの。菩薩は悟りをひらくための行をおこなっているもの。
仏陀も元々は釈迦ひとりであったものが、時代を経るにつれ東方極楽浄土、西方瑠璃光浄土などが構想され、そこに阿弥陀仏や薬師如来などの仏陀が存在するとした経典が現れてくる。仏陀とは所謂如来と言い換えてもいいかもしれない。既述の如く、この如来・仏陀とは生身の釈迦を永遠の存在とするための「装置」のような気もする。

灌頂水の覆屋を先に進むと大講堂と食堂の間を抜け、三之堂の広場に戻った。

西坂分岐点に戻る
復路も参道を下ることにして、摩尼殿下の東坂・西坂の分岐点に立つ「一丁」標石へと向かう。 三之堂から摩尼堂へは往路辿った道の下側にもうひとつ、大黒堂や瑞光院経由の道がある。三之堂からゆるやかな坂を「下り、左手に大黒堂、右手に瑞光院を見遣り標石に戻る。
瑞光院は一般公開はしていないようで、切妻、本瓦葺の門は閉じられていた。長く古さびた土塀が印象的な落ち着いた塔頭であった。塔頭は講中の宿坊として供することが多いが、ここは網干観音講の宿坊との記事を見かけた。
道を進み摩尼殿下の東坂・西坂の分岐点に立つ「一丁」標石へと戻る。

今回のメモはここまで。分岐点から先の西坂参道下山メモは次回に廻す。

娘の旦那が姫路に転勤。愛媛の田舎から東京に戻る途中、孫の顔見たさに姫路に途中下車。その折に、姫路と言えば姫路城でしょうを差し置いて、姫路市街の北にある書写山圓教寺を歩いてきた。
圓教寺は前々から気になっていたお寺さまである。気になっていたのはお寺さまそのものより、その創建者である性空上人。性空上人は、10年ほど前に秩父三十四観音霊場を歩いたとき、その開創縁起に登場した高僧であるのだが、何故に西国・播磨の上人が東国・秩父に「出張って」くるのか、その物語伝承が気になっていた。
もとより、性空上人は西国三十三観音霊場の開創縁起にも登場しており、そのコンテキストの延長線上での秩父観音霊場縁起への登場であろうことは妄想できるのだが、そもそも何故に西国観音霊場開創縁起に登場するのか、またそもそも観音霊場巡礼はどうしてはじまったのか、またまた、そもそも参詣と巡礼とは何が違うの、といった疑問が次々と頭を過り、これは手に負えないと思考停止し、しばらく「寝かせる」ことにしていた。
今回、その性空上人の本拠地である圓教寺を歩く。秩父を歩いたのは2009年であるので、その間は10年。少々「寝かせすぎ」のきらいはあるのだが、圓教寺を歩くその過程で性空上人へのリアリティを感じることができるだろうし、そうすれば「寝た子を起こす」きかっけになろうかとお寺さまのある書写山に出かけた。

本日のルート;
JR姫路駅>書写山ロープウエイ乗り場>東坂露天満宮
東坂
東坂参道上り口>壱丁>二丁>三丁>宝池>四丁>五丁>五丁古道>六丁>七丁>八丁>九丁>十丁>十一丁>紫雲堂分岐>紫雲堂跡>十二丁>十三丁>和泉式部の案内>十七丁
圓教寺境内
仁王門>壽量院>五重塔跡>東坂・西坂分岐点の標石>十妙院>護法石>湯屋橋>三十三所堂>魔仁殿>岩場の参詣道>姫路城主・本多家の墓所>三之堂>鐘楼>十地院>法華堂>薬師堂>姫路城主・松平直基(なおもと)の墓所>姫路城主・榊原家の墓所>金剛堂>鯰尾(ねんび)坂参道>不動堂>護法堂>護法堂拝殿>開山堂>和泉式部歌塚塔>弁慶鏡井戸>灌頂水の小祠>西坂分岐点に戻る
西坂
妙光院>二丁>三丁>四丁>五丁>六丁>七丁>八丁>九丁>十丁>十一丁>十二丁>十三丁>十四丁>十五丁>十六丁>十七丁>下山口

JR姫路駅
姫路駅前の神姫バス乗り場で「書写ロープウエイ行」バスに乗る。
姫路
姫路って、何となく姫を連想する。が、この地方を「姫路」と呼ぶようになったのは室町以降とする。それ以前は「日女路(ひめじ)」と呼ばれたようである。奈良時代に編纂された『播磨風土記』には、神世の昔、この辺り一帯が未だ海であった頃、大己貴(おおなむち:大国主命)命がその子の火明(ほあかり)命があまりに乱暴者であるが故に、この地の島に置き去りにした。が、その仕置きに怒り狂った火明命が嵐を起こし大己貴命の乗る船が難破。船の積み荷の蚕子(ひめこ;かいこ)が流れついた場所を「日女道丘」としたのがその名の由来とする。 蚕子(かいこ)を「ひめこ」と呼ぶ?蚕のうち、眼状紋のある種類を形蚕(かいこ)、ないものを姫蚕(ひめこ)と呼ぶようであり、さらに古語では「ひめじ」とも呼んでいたとも言う。 神話由来とは別の有力な説としては、この地方は養蚕が盛んであったため、蚕子(ひめこ)の古語である「ひめじ」由来するものもある。どちらにしても蚕子がコアにあるようだ。

ちなみに姫路には14ほどの独立丘陵が散らばるが、それぞれの山、というか往時の島には上述難破し漂着した船荷由来の地名が残る。日女道丘もそのひとつであり、それは現在姫路城の建つ姫山である。

書写山ロープウエイ乗り場
バスを30分ほど乗ると書写山ロープウエイ乗り場に到着。実の所、当日東京に戻る予定であり、圓教寺にはロープウエイを利用しようと思っていたのだが、ひょっとして、と乗り場の方に登山道を尋ねると、ロープウエイ乗り場近くに登山口があると言う。
国土地理院の地図でチェックすると、登山道と思しき実線がふたつ描かれている。ひとつはロープウエイ乗り場の近くから圓教寺まで。もうひとつはもう少し西に描かれている。標高もそれほど高くない(標高371m)。ということで、急遽予定を変更し登山道を上ることにした。

東坂露天満宮
ロープウエイ乗り場手前を左に折れ、山陽自動車道の高架を潜る。高架下に「書写山登山口 250m先右折」の案内があった。
高架を越え道なりに進むと露天満宮の案内。ルートからは少しはずれるのだが、「露天満宮」名という、あまり耳にしない天神様に惹かれてちょっと立ち寄り。
道を右に折れ、山陽自動車道が書写山のトンネルに入る少し西に露天満宮があった。社殿は比較的新しい。山陽自動車道の建設に伴い移転したとも言う。
境内にあった案内には「東坂露天満宮」とあり、「創建不詳。慶長六(1601)、『池田輝政公御検地明細地図』と付箋のある絵図に、天満宮が書写山東麓に描かれている。明治四(1871)年四月の記録には、東坂本村氏神と記されている。
祭神は学問の神様と言われている菅原道真。露天満宮は県下ではこの一社のみで、崇敬な天満宮と伝えられている。
由来は道真が都を離れ大宰府で、「露と散る 涙に袖は朽ちにけり 都のことを想ひいずれば」と呼んだ歌によるとされる。境内には露泉がある 平成二十年」とあった。

露天神と言えば、近松門左衛門の「曾根崎心中」で知られる大阪市にある通称「お初天神」が知られる。
その社名由来も上述「露と散る・・・」の歌にあるとされ、こちらは大宰府配流の途次、その社で詠ったとされる。もっとも由来には近くに露の森があったため、とか、露の時期に神社の前の井戸から水が湧き出たといったものもある。
その伝からいえば、この社にも露泉があるというから。それが社名の由来とするほうが、なんとなくしっくりくる。単なる妄想。根拠なし。境内には露泉と案内のある、覆屋に囲まれれた湧水らしき、ささやかな泉があった。

東坂参道上り口;11時37分
天神さんから道に戻り、山裾の民家の間を進むと四つ辻に標石らしき石と、登山道は右折の案内がある。右折し北に向かうと近畿自然歩道の木標に「東坂参道」と書かれた案内が取り付けられていた。ここにきてはじめて東坂とは圓教寺に上る参道であったことがわかった。
東坂参道の案内の傍には「紫雲堂跡展望広場」の案内もある。紫雲堂跡が有り難いのか、展望広場が有り難いのか、どちらに重点を置いた案内か不明だが、ともあれ東坂参道の案内に従い左折し山道に入る。

壱丁;11時41分
参道口の石碑を見遣りながら山道に入るとほどなく「壱丁」と刻まれた丁石が立つ。

■性空上人
ここからしばらく標石を辿りながらの登山であり、特段メモすることもない。漱石の『草枕』の有名な書き出し、「山に登りながら、こうかんがえた」ではないけれど、書写のお山に上りながら、性空上人と観音霊場巡礼のあれこれについてメモしようと思う。
メモするにあたっては、WEBで目にした『中世巡礼の精神史 山林修行者と冥界の問題;舩田淳一(2012年度大会シンポジウム』、『書写山の一遍上人;竹村牧夫(東洋学論叢)』、松岡正剛氏のWEB書評である『千夜千冊』の法華経や大乗仏教に関するページなどを参考にさせてもらった。

秩父観音霊場縁起と性空上人
まずは、そもそもこの書写の山に来てみようと思ったきっかけとなった秩父札所縁起。そこに書写山圓教寺開山の性空上人が登場する;
縁起によると、文暦元年(1234)に、十三権者が、秩父の魔を破って巡礼したのが秩父観音霊場巡礼の始まりという。十三権者とは閻魔大王・倶生神・花山法王・性空上人・春日開山医王上人・白河法王・長谷徳道上人・良忠僧都・通観法印・善光寺如来・妙見大菩薩・蔵王権現・熊野権現。 また、「新編武蔵風土気稿」および「秩父郡札所の縁起」によれば、「秩父34ヶ所は、是れ文暦元年3月18日、冥土に播磨の書写開山性空上人を請じ奉り、法華経1万部を読誦し奉る。其の時倶生神筆取り、石札に書付け置給う。其の時、秩父鎮守妙見大菩薩導引し給い、熊野権現は山伏して秩父を七日にお順り初め給う。その御連れは、天照大神・倶生神・十王・花山法皇・書写の開山性空上人・良忠僧都・東観法師・春日の開山医王上人・白河法皇・長谷の開山徳道上人・善光寺如来以上13人の御連れなり・・・。時に文暦元年甲牛天3月18日石札定置順札道行13人」、と。
それぞれ微妙にメンバーはちがっているようなのだが、奈良時代に西国観音霊場巡りをはじめたと伝わる長谷の徳道上人や、平安時代に霊場巡りを再興した花山法皇、熊野詣・観音信仰に縁の深い白河法皇、鎌倉にある大本山光明寺の開祖で、関東中心に多くの寺院を開いた良忠僧都といった実在の人物や、閻魔大王さま、閻魔さまの前で人々の善行・悪行を記録する倶生神、修験道と縁の深い蔵王権現といった「仏」さまなどが登場する。

二丁;11時45分
数分で二丁標石。舟形地蔵も祀られる。

西国観音霊場縁起
上述秩父観音霊場縁起の元になったのは西国三十三観音霊場縁起。観音霊場巡礼をはじめたのは大和・長谷寺を開基した徳道上人と伝わる。上人が病に伏せたとき、夢の中に閻魔大王が現れ、曰く「世の人々を救うため、三十三箇所の観音霊場をつくり、その霊場巡礼をすすめるべし」と。起請文と三十三の宝印を授かる。
冥途より蘇った上人は三十三の霊場を設ける。が、その時点では人々の信仰を得るまでには至らず、期を熟するのを待つことに。宝印(納経朱印)は摂津(宝塚)の中山寺の石櫃に納められることになった。ちなみに宝印の意味合いだが、三十三箇所を廻ったことを証するもの。
今ひとつ盛り上がらなかった観音霊場巡礼を再興したのは花山(かざん)法皇とされる。徳道上人が開いてから300年近い年月がたっていた。花山法皇は、御年わずか17歳で65代花山天皇となるも、在位2年で法皇に。寛和2年(986)の頃と言う。愛する女御がなくなり、世の無常を悟り、仏門に入ったため、とか、藤原氏に皇位を追われたとか、退位の理由は諸説ある。
出家後、比叡山や播磨の書写山、熊野・那智山にて修行。霊夢により西国観音霊場巡礼を再興することになったとされる。ここには聖徳太子の墓所を護る石川寺の仏眼上人(熊野権現の化身とも称される)が中山寺の宝印を掘り出し先達として霊場を巡ったとか、『西国霊場縁起』には徳道上人の冥途・蘇生譚に続き、書写山の性空上人が法華経十万部の書写の導師として閻魔大王に召され、西国観音霊場巡礼を勧められ、聖徳太子開山の中山寺の弁光上人らをともなって三十三観音霊場を巡ったとかいくつかのバリエーションがあるようだ。

三丁;11時49分
二丁と同じく舟形地蔵と三丁の標石

●冥途・蘇生譚と罪滅信仰
縁起はともかく、記録に残る観音霊場巡礼の最初の記録は園城寺(三井寺)の僧・行尊の「観音霊場三十三所巡礼記」。寛治4年、というから1090年。一番に長谷寺からはじめ、三十三番・千手堂(三室戸寺)に。その後院政期天台宗寺門派の高僧、長谷上人とも称される園城寺(三井寺)の覚忠が応保元年〈1161〉那智山・青岸渡寺からはじめた巡礼が今日まで至る巡礼の札番となった、とか。そして、この覚忠に関して、醍醐寺の『枝葉抄』には、「覚忠頓滅して閻魔王宮に参ず。炎王問いて云う。日本国中に生身観音三十三ヶ所これ有。知るや否や。。」といった記述がある。
ここに秩父霊場巡礼縁起、西国巡礼縁起といった「縁起」だけでなく、その元となった実際の巡礼の記録にも共通するプロットというかモチーフが浮かび上がってくる。冥途・蘇生譚、そして在滅信仰としての観音巡礼がそれである。冥途に行くも閻魔大王より地獄に墜ちる衆生を済度すべしと蘇り、現世での衆生の罪を滅すべく霊場を巡るという物語である(『中世巡礼の精神史 山林修行者と冥界の問題;舩田淳一(2012年度大会シンポジウム』より)。

宝池;11時51分
三丁標石から直ぐ、道脇に「宝池 日本一小さい池」とある。

法華持経者の冥途・蘇生譚と罪滅信仰
西国巡礼の先駆者とされる行尊・覚忠は共に天台宗寺門派の山岳修行者・法華持経者として知られる。覚忠の記録に冥途・蘇生譚と罪滅信仰としての観音巡礼が見られたが、これは覚忠に限ったことではなく、法華経持経者として山岳に修行する天台宗の行者の伝記集成である『法華霊験記(1043年頃)』には同様のモチーフが数多くみられるとする(『中世巡礼の精神史 山林修行者と冥界の問題』)。
天台宗は法華経を根本経典とし天台法華宗とも呼ばれるわけで、上述基本モチーフ、そして中でも興味関心のトピックである滅罪信仰としての観音霊場巡礼は法華経にその源を求めなければならないように思えてきた。

四丁;11時52分
四丁は標石だけ。

法華経と菩薩・菩薩行
法華経のことは何も知らない。今回メモするにあたり駆け足で法華経をスキミング&スキャニング。と、法華経は「人はだれも平等に成仏できる」とする。これが、自己の解脱を目指す小乗仏教と異なる大乗仏教の根本思想と言う。
が、その根本思想の実現はそれほど簡単ではない。そこで登場するのが「菩薩」であり、「菩薩行」というプロット。「法華経の第? 従地湧出品」には幾萬もの菩薩が地を割り現れ、「利他行」者として仏陀の教えである衆生済度をアシストすることになる。上述山岳で修行する法華持経者とは、自己の解脱修行者というだけではなく、仏陀の根本思想である利他行・菩薩行を実践するものであった、ということだろう。

五丁;11時54分
数体の舟地蔵の先に五丁標石。

法華持経者と観音菩薩
それでは菩薩行者としての法華持経者の冥途・蘇生そして罪滅信仰としての巡礼に、幾多の菩薩を差し置いて何故に観音菩薩が登場するのだろう。
法華経をスキミング&スキャニングする過程で観音巡礼の深い関係が見えて来た。観音信仰のもとになる観音教は28品(章?)からなる法華経の第25 「観世音菩薩普門品」とあり、法華経の中に含まれるものであった。
冥途で閻魔大王に会うというストーリーは、閻魔大王が衆生の現世での罪を秤にかけ、地獄に墜ちるか否かを審判する故のことであろうが、蘇生する所以は現世での菩薩行を重ね、地獄に墜ちる衆生を減じるべし。そのためには観音菩薩がベストプラクティスとする。
観音菩薩がチョイスされたのは当時の時代風潮も影響したのかもしれない。来世での往生もさることながら、現世利益も欲しいよね、といった要望に、基本は現世利益の菩薩である観音さまが最適であったのかもしれない。観音さまは、その字義の如く、離れた来世で衆生の発する音(苦悩?)を聞き、はるばるこの世(現世)に来たりて救いの手を差し伸べるという菩薩行を担ってくれるわけである。
「(三十三所を)一度参詣の輩は縦い十悪五逆を造ると雖も、速に消滅し永遠く悪趣を離れん」、とか「観音の霊地、その庭に一度も参詣を遂げる輩は、無量劫の罪消滅、現世安穏なれば後生又善所に生を遂げて。。(「三十三所巡礼縁起之文」)」に観音様の現世功徳の程が見て取れる(『中世巡礼の精神史 山林修行者と冥界の問題』)。
法華持経者が罪滅の菩薩行として観音菩薩を選んだのは自然の流れであったように思えてきた。なお、三十三箇所というのは、衆生済度のため、観音菩薩が三十三変化することに由来するとされる。

五丁古道;11時56分
大日如来の石像を越えた先に「五丁古道」の案内。整備された登山道を離れ木々に覆われた道に入る。1分ほど歩き、再び整備された登山道に戻る。

法華持経者としての性空上人
それでは何故に性空上人が西国観音巡礼縁起に登場したのか、ということだが、Wikipediaには、「性空(しょうくう、延喜10年(910年) - 寛弘4年3月10日(1007年3月31日))は、平安時代中期の天台宗の僧。父は従四位下橘善根。俗名は橘善行。京都の生まれ。書写上人とも呼ばれる。
36歳の時、慈恵大師(元三大師)良源に師事して出家。霧島山や筑前国脊振山で修行し、966年(康保3年)播磨国書写山に入山し、国司藤原季孝の帰依を受けて圓教寺(西国三十三所霊場の一つ)を創建、花山法皇・源信(恵心僧都)・慶滋保胤の参詣を受けた。
980年(天元3年)には蔵賀とともに比叡山根本中堂の落慶法要に参列している。早くから山岳仏教を背景とする聖(ひじり)の系統に属する法華経持経者として知られ、存命中から多くの霊験があったことが伝えられている。1007年(寛弘4年)、播磨国弥勒寺で98歳(80歳)で亡くなった」とある。




六丁;11時59分
すぐに六丁休堂跡の石碑。傍に石仏も立つ。その先に六丁標石。

性空上人と観音巡礼縁起への登場
性空上人は高名な法華持教者であった。であれば法華持教者の菩薩行により誕生した冥途・蘇生、そして現世における滅罪信仰としての観音霊場巡礼に登場するのは何の違和感もない。
ただ、性空上人が実際に冥途・蘇生譚の当事者であったかどうかは別問題である。上述の如く、『西国霊場縁起』には「書写山の性空上人が法華経十万部の書写の導師として閻魔大王に召され、西国観音霊場巡礼を勧められ。。(1536)」といったくだりがあるが、これと似た話が13世紀の中頃編纂された『古今著聞集』に載る。曰く、性空上人があまりに熱心に法華経の写経をするため、地獄に堕ちる者が著しく減った。ために、もうこれ以上写経をするのをやめてほしいと閻魔大王の使者にお願いされた、って話である。が、これは北摂津一帯に広く伝わる清澄寺の尊恵上人の冥途・蘇生譚をその固有名詞を性空上人に置き換えただけとも言う(『中世巡礼の精神史 山林修行者と冥界の問題』より)。
そう言い出したら、観音巡礼をはじめたとされる徳道上人など7世紀とも8世紀ともいわれる頃の伝説の僧侶であり、観音巡礼に出たといった記録はないようで、11世紀から12世紀の頃、行尊や覚忠によりはじまり、室町期に盛んとなった三十三観音霊場巡礼の源を、時代をずっと遡らせるためだけに登場させているようにも思える。
また花山法皇もそうである。観音信仰・浄土信仰の聖地として知られる熊野は天台宗寺門派である園城寺(三井寺)の修験僧が奈良時代の後期、世俗的な寺から離れ開いたところである。修験道は平安時代に霊山で修行した法華持経者などを淵源としたわけで、「菩薩の勇猛精進深山に入りて仏道を思惟するを見る」とする法華経を依経とする天台宗と密接に関わって成立展開した。で、西国巡礼の先駆者とされる天台宗寺門派の山岳修行者行尊・覚忠に替え、観音信仰の有難みを出すべく、熊野信仰で知られる花山法皇をキャスティングしたように思える。
要は、この観音霊場の縁起で必要なのは冥途・蘇生譚、そして在滅信仰としての観音巡礼というストーリーであって、極端に言えば登場人物は誰でもいい。であれば、世にわかりやすい人物を適宜配置しておこう、といったところかもしれない。弘法大師伝説、行基伝説など高名な人物によくあるパターンである。
では世にわかりやすい人物として登場した性空上人って、どれほど高名であったのだろう。

七丁;12時
直ぐ七丁標石。

慕われる性空上人
上述Wikipediaの性空上人の説明には「花山法皇・源信(恵心僧都)・慶滋保胤の参詣を受けた」とある。後述するが清少納言との関りも深い。上人存命中は叶わなかったが、後白河上皇、一遍上人なども上人を慕ってお山に登っている。後白河法皇の梁塵秘抄にも謡われている。御醍醐天皇は隠岐より帰京の途次御参詣している。また、平清盛、源頼朝をはじめ、武将の信仰も厚く、寺領を寄(よ)せ、諸堂を建立する。14世紀中頃の『徒然草』にもその名が出る。性空上人は高徳・高名な僧であったことはまぎれもない。
以下、上記登場人物と性空上人との関りを簡単にメモする。
〇花山法皇
花山法皇は寛和2年(986)と長保4年(1002)の二度、書写山を訪れている。性空と結縁ののち比叡山や熊野に参籠修行し、西国三十三所巡礼を、性空らとともに再興したとされるのは上述のとおり。

恵心僧都源信
『往生要集』の作者、浄土教の祖として知られる恵心僧都源信は、性空上人と密な交流を重ね、上人を尊敬し「此の聖ほめ申させ給へ」と言う。また、晩年に性空上人は源信を書写山に招き、所蔵の書物供養の後、源信帰途の途中で性空上人はむなしくなる。
〇慶滋保胤)(よししげのやすたね)
『日本往生極楽記』の作者として知られる寂心(俗名は、慶滋保胤。1002年寂)も書写山にしばしば上り、性空と親しく交わったと言う。
性空上人存命のころ上人と縁とあった清少納言は後述。

八丁;12時2分
八丁標石と続く。

慕われる性空上人
以下は性空上人没後に上人を慕い書写のお山に登った人物。

後白河法皇
後白河法皇は承安4年(1174)、厳島神社参詣の帰途、七日の間参籠し書写山の本尊である如意輪観音を拝んだとのこと。また後白河法皇は『梁塵秘抄』の選者としても知られるが、そこには、「聖の住所は何処何処ぞ、箕面よ勝尾よ、播磨なる、書写の山、出雲の鰐渕や日の御崎、 南は熊野の那智とかや」と「聖の住所は何処何処ぞ、大峰・葛城・石の槌、箕面よ勝尾よ、播磨の書写の山、南は熊野の那智新宮」といった今様2首が載る。法皇の上人を敬する気持ちの表れでもあろうか。

九丁;12時5分
八丁を越えると空が開け、里の遠望も。その先に九丁標石。

慕われる性空上人
一遍上人
一遍は弘安10年(1287)春、書写山に登った。一遍は性空を尊敬し、上人手彫りと伝わる圓教寺の本尊を拝みたいと住僧に願うが、「久修練行の常住僧のほか余人すべてこれを拝したてまつることなし」とし、余人では後白河法皇のみが拝んだだけと拒絶される。
と、一遍は次の四匂の偈と和歌一首を作る。
書写即是解脱山  書写は即ちこれ解脱の山
八葉妙法心蓮故  八葉妙法は心蓮の故に
性空即是涅槃聖  性空は即ちこれ涅槃の聖
六字宝号無生故  六字の宝号無生の故に
かきうつすやまはたかねの空に消えて ふでもおよばぬ月ぞすみける
これをみた住僧は「この聖の事は他に異なり、所望黙止しがたし」と述べ、一遍が本尊を拝むことを許した。
一遍は内陣に入り、本尊を拝んで落涙。曰く、「本尊等を拝したてまつり、落涙していで給けり。人みなおくゆかしくぞ思ひ侍りける。聖のたまひけるは、「上人(性空)の仏法修行の霊徳、ことばもをよびがたし。諸国遊行の思いでたゞ当山巡礼にあり」と。長い聖遊行の旅もこのお山にすべてあり、といったところだろうか。
一遍は、「一夜行法して、あくれば御山をいで給けるに、春の雪おもしろくふり侍りければ、 世にふればやがてきへゆくあはゆきの 身にしられたる春のそらかな』と詠んだと言う(『書写山の一遍上人;竹村牧夫(東洋学論叢)』)。

十丁;12時7分
九丁の辺りから山肌が岩場の趣き。十丁標石の辺りでは尾根筋が一面に岩場となる。

慕われる性空上人
『徒然草』
鎌倉時代末期、14世紀の前半に吉田兼好により書かれた『徒然草』にも上人が以下の如く描かれる;「書写の上人は、法華読誦の功積りて、六根浄にかなへる人なりけり。旅の仮屋に立ち入られけるに、豆の殻を焚きて豆を煮ける音のつぶつぶと鳴るを聞き給ひければ、「疎からぬ己れらしも、恨めしく、我をば煮て、辛き目を見するものかな」と言ひけり。焚かるゝ豆殻のばらばらと鳴る音は、「我が心よりすることかは。焼かるゝはいかばかり堪へ難けれども、力なき事なり。かくな恨み給ひそ」とぞ聞えける。
法華の教えを体現し、眼耳鼻舌身意(げんにびぜつしんい)でという煩悩の根源である六根を清浄した上人が、豆の殻で火を焚きぶつぶと音をたてて煮られる豆を見たときのエピソード;「まんざら知らない間柄でもない豆の殻よ、なんの恨みで私を煮て熱く辛い思いをさせるのだ」、と豆がぶつぶつと言うの対し、豆の殻も「好き好んでやってるるわけじゃない。火で焼かれる自分たちも耐え難いのだけど、どうすることもできないのだ」と言っているように聞こえた、と。
なんだか意味深いエピソードにも思えるのだが、凡俗のわが身に解釈すること能わず。六根清浄なるがゆえに豆と豆柄の話も上人には聞こえた、といった辺りでメモを止めておく。

十一丁石あたりから、あれこれメモすることが現れた。性空上人に関するメモはちょっと中断する。

十一丁;12時10分
上下に続く岩場を見遣り十一丁に。「砥石坂」の案内がある。説明はない。東坂参道のことを「砥石坂」と呼ぶ、また、7歳から10年間に渡りこの書写山で修行した弁慶が長刀を研いだ故に「砥石坂」といった記事がWEBにあった。
その先に「岩の中の小石」の案内。「足元の岩場の中に見える小石は火山の爆発で吹き飛ばされた流紋岩などの破片で、火山灰の中に閉じ込められ岩となったもの。このような火山性の岩を角礫凝灰岩と呼ぶ。風化によって閉じ込められた岩が表面に現れて現在の岩肌を見せる」といったことが書かれていた。
「今からおよそ1億年前の白亜紀にこの辺り一帯で大規模な火砕流が起き、書写山にはその火砕流でできた広峰層が分布する。スレートやチャートなどの基盤の岩石をレキとして多く含む溶結凝灰岩が主な岩層である」といった記事をWebで見かけた。ということは帯となって尾根を覆う岩場は溶結凝灰岩で、その中に見える小石が流紋岩や安山岩からなる角礫凝灰岩、ということであろうか。



紫雲堂分岐;12時13分
数分上ると木標。「ロープウエイ山頂駅0.2km 円教寺0.7km 」「紫雲堂跡展望広場を経て圓教寺へ」と言った案内がある。、紫雲堂が如何なるものか知らないが、取り敢えず紫雲堂跡へと登山道を右に折れる。






紫雲堂跡;12時15分
数分で開けたところに。地形図で見ると東に張り出た210m等高線に囲まれた平坦部となっている。南面だけが開け、東西は木々に覆われ見通しはそれほどよくない。
案内には「創建は不詳。東坂上ノ休堂として、参詣者の湯茶の接待所としても長く愛されてきたお堂であった。昭和30年代半ば老朽化したので、建物を取りたたんだ。
その建物は元和9年(1623)に再建されたものと伝えられる。その由来は、康保3年(966)御開山性空上人が九州背振山より東上の折、紫雲がたなびく「素盞の杣(すさのそま)」に稀にみる霊性を感じ、終生の道場として入山、寺を開基された。その紫色の雲がたなびいていたのがこのあたりと伝えられ、阿弥陀如来を安置し紫雲堂が建てられた」とあった。堂跡を示すのだろうか、円形の造作物が置かれていた。
●素盞ノ杣
素盞ノ杣は元々、素盞嗚命が山頂に降り立ち、一夜の宿としたとの故事に拠る。往昔よりこの地には「素戔嗚命」の祠が祀られていたとも。圓教寺の山号の由来はこの「素盞(すさ)」からとの説もある。書写山一帯は昔、飾磨郡曽左村と呼ばれていたが、その「曽左(そさ)」も素盞(すさ)を由来とする、と。
『西国霊場縁起』に「書写山の性空上人が法華経十万部の書写の導師として閻魔大王に召され」といったように、性空上人のエピソードに、法華経の書写があちらこちらで登場する。書写の由来は、てっきりこの法華教書写からと思っていたのだが。。。
ちなみに寺号である、「圓教寺」の「圓」は円の形(園輪)は欠けたところがない境地、諸仏・諸法の一切の功徳を欠けることなく具足した「圓輪具足」であり、サンスクリットの曼陀羅の意。最高の悟りの境地を教える寺、といった意味だろうか。

十二丁;12時17分
紫雲堂跡を離れ、道脇に立つ石仏を見遣りながら進むと十二丁の標石が立つ。

性空上人はなぜ世に知られたのだろう
再び標石だけでスペースが空いたので、性空上人に関わるメモ再開。

性空上人を慕って多くの人がお山を登ったのは前述のとおり。あれこれの奇瑞譚、観音霊場開山縁起の冥途・蘇生譚、善光寺には渡唐譚もあるというが、それはすべて高徳・高名の僧となってからのこと。それでは世に名を知られるようになったのきかっけは?
何となくではあるが書写の山に登るころには、既に世に知られるようになっているように思える。とすれは、上人が世に知られるようになったのは、それ以前、どの解説にも、さらっと書かれている「霧島・背振山での修行」の時期のように思える。
「大日本国法華経験記」には性空上人の修行の様子を伝えるが、「人跡途絶えた深山幽谷に住み、暮らしぶりは日々の糧を求めることもなく、ひたすらに行を積む」とある。ひとり山に籠っての法華持教者の修行がその名を世に知らしめることになるとは思えない?

あれこれチェックすると、霧島では霧島六所権現を核とした霧島山信仰を創り上げたとされる。霧島山を天台の山として、観音霊山の骨格をつくりあげた、ともいう。
また、背振山に至っては、そこは深山幽谷での修験といったイメージとは異なり、8世紀開基の大寺院での修行であった。比叡山・高野山・英彦山と並び称される山岳仏教の聖地であった。『背振千坊・嶽万坊(たけまんぼう)』と称された大寺には伝教・弘法・慈覚・智証の諸大師や栄西といった数々の名僧智識が入山修行している。その大寺で性空は天暦元年(947)から康保3年(966)までの19年修行し、多くの堂坊を再建し法華経読誦に励み、お山を霧島山と共に一大山岳修行の霊山となしたようである。
深山にひとり籠っての修行三昧といったイメージとはまるで異なる上人像が現れてきた。であれば背振山を後にし、書写のお山に登ったときに上人の名が都まで届いていたというのは納得できる。

十三丁;12時20分
コンクリートで固められたステップを進むとロープウエイの山上駅。その道脇に十三丁の標石。

再び秩父観音巡礼縁起に戻る
秩父観音霊場開基縁起で登場した性空上人。あれこれ疑問があったのだが、テーマがややこしそうで、ずっと寝かせておいたのだが、圓教寺へと上りながらメモをまとめた。ついでのことでもあるので、秩父観音霊場を歩いたときにメモしたことをコピー&ペーストする。上記メモを踏まえて読むと、なんとなく以前とは違った風景がみえてきた;
「(秩父観音霊場は」修験者を中心にして秩父ローカルな観音巡礼をつくるべし、と誰かが思いいたったのであろう。鎌倉時代に入り、鎌倉街道を経由して西国や坂東の観音霊場の様子が修験者や武士などをとおして秩父に伝えられる。が、西国巡礼は言うにおよばず、坂東巡礼とて秩父の人々にとっては一大事。頃は戦乱の巷。とても安心して坂東の各地を巡礼できるはずもなく、せめてはと、秩父の中で修験者らが土地の人たちとささやかな観音堂を御参りしはじめ、それが三十三に固定されていった。実際、当時の順路も一番札所は定林寺という大宮郷というから現在の秩父市のど真ん中。大宮郷の人々を対象にしていたことがうかがえる。
秩父ローカルではじまった秩父観音霊場では少々「ありがたさ」に欠ける。で、その理論的裏づけとして持ち出されたのが、西国でよく知られ、霧島背振山での修行・六根清浄の聖としての奇瑞譚・和泉式部との結縁譚など数多くの伝承をもつ平安中期の高僧・性空上人。その伝承の中から上人の閻魔王宮での説法・法華経の読誦といった蘇生譚というのを選び出し、上にメモしたように「有り難味さ」を演出するベストメンバーを配置し、縁起をつくりあげていった、というのが本当のところ、ではなかろうか。
実際、この秩父霊場縁起に使われた性空蘇生譚とほぼ同じ話が兵庫県竜野市の円融寺に伝わる。それによると、性空が、法華経十万部読誦法会の導師として閻魔王宮に招かれ、布施として、閻魔王から衆生済度のために、紺紙金泥の法華経を与えられる、といった内容。細部に違いはあるが、秩父の縁起と同様のお話である。こういった元ネタをうまくアレンジして秩父縁起をつくりあげていったのだろ。我流の推論であり、真偽の程定かならず」と。
当たらずとも遠からずといった秩父巡礼散歩時のメモではあるが、今回の上述メモで、その行間を埋めることが少しできたようにも思える。
「寝た子を起こした」ためちょっと頭の整理が大変だったが、それなりのリターンを得たようにも思える。

和泉式部の案内;12時23分
先に進むと入山ゲート(志納所)。拝観料を払い入山。ゲートの辺りには「書写山と和泉式部」と題された案内に続いて、10枚の絵巻を切り取ったようなパネルに和泉式部の人となりが書かれていた。
「書写山と和泉式部」の案内には、西の叡山と呼ばれた書写山圓教寺の説明、性空上人の開山縁起、和泉式部と性空上人との関りが書かれる;「1.西の叡山と呼ばれて 書写山圓教寺は平安中期、西暦966年に性空上人が開いた天台宗の寺。この時期は平安女流文学が花開いた時期でもある。人々は当時の大寺を数え上げ、長谷山、石山、比叡山、書写の山と歌った。以来千年、圓教寺は西の比叡山と呼ばれ現在に法灯を伝える。上人は敏達天皇の末、橘姓
2.白雲に導かれて書写山へ 上人は幼いころから仏心篤く、出家して九州の霧島山で法華経による修行を重ね、新しい霊地を求めて旅に出る。白雲に導かれ播磨に至り、書写山に紫の瑞雲が漂うのを見て、この地に庵を結び、「六根清浄」の悟りを開き、崖の桜の木に観音像を刻み礼拝の日々となす。
3.恩賜の寺号と和泉式部の名歌がシンボル 上人が悟った報せは、直ちに京に届き、花山法皇は書写山に行幸し、大講堂を寄進し「圓教寺」の寺号を賜る。さらに上人のすすめで西国三十三観音巡礼を中興する。
一方、和泉式部は平安女流歌人の第一人者として 「冥(くら)きより 冥きみちにぞ入りぬべき 遥かに照らせ 山の端の月」の名歌を上人に献じる。恩賜の寺号と和泉式部の絶唱の名歌は圓教寺の象徴となっている」といったことが書いてあった。

十七丁:12時40分
ふたつに分かれる道の分岐点に慈悲の鐘。「こころの鐘」と読むようだ。比較的新しいよう。平成4年(1992)建立とのこと。和泉式部の絵巻風パネルの近くにあった「和泉式部歌塚案内図」にあった境内の地図に拠れば、左に折れると円教寺会館、妙光院、そして西坂参道へと進むよう。右に折れ、仁王門への参道へと歩を進める。
参道に「西国三十三観音道」の案内。「摩尼殿(本堂)まで約15分。摩尼殿から諸堂まで6分。文化財諸堂から奥の院・和泉式部歌塚まで2分」とある。参道に立つ銅製の西国三十三観音像を見やりながら進む。
十九番行願寺の千手観音立像を超えた辺りで右手が開け、展望台。播磨の里を見る。
先に進むと道脇に十七丁の標石が立つ。十四丁から十六丁の標石もあったのだろうか。

仁王門;12時42分
十七丁標石から数分で仁王門。「圓教寺の正門。東坂の終点にあたり、これより中は聖域とされる。
門は、両側に仁王像を安置し、中央が通路となっており、日本の伝統的な門の形を受け継いだ「三間一戸の八脚門」である。天井には前後に二つの棟をつくり、外の屋根と合わせて「三つ棟造り」となっている」との案内がある。
ここから境内にはいっていくのだが、「寝た子を起こした」ためのメモがちょっと長くなってしまった。取り敢えずここでメモは中断。仁王門から先のメモは次回に回す。
今回は天皇寺・高照院から白峰寺へ向かう逆打ち遍路道をカバーする。このルートが開かれたのは江戸の中期以降、と言う。国分寺から一本松峠へのへんろころがしの急登を避け、七十九番札所である天皇寺高照院から高家神社に向かい、八十一番白峰寺、八十二番根香寺を打ち、八十番国分寺へと下って行くルートである。高屋口ルートと称される。
国分寺仁王門前の標石は八十三番札所・一の宮へのルートを案内していた。この逆打ちコースは多くの遍路に利用されていたのだろう。

メモは天皇寺高照院から標石を目安にお高家神社に向かい、白峰神社参道への分岐点までとし、その先稚児ヶ嶽を左手に見遣りながら西行の道を白峰寺へと上るルートは既に歩き終えた国分寺・白峰寺・根香寺散歩のメモに託す。


高家神社経由の八十一番札所白峰神社への遍路道
衛士坂の遍路道>予讃線踏切>県道33号を交差>原集落四つ辻の標石>原集落の標石>民家塀角の石灯籠>茂兵衛道標(137度目)>長命寺跡碑>姫塚>中川原集落入口の標石>県道16号アンダーパス前に石灯籠>雲井御所>中川原集落の標石>県道脇に標石>田圃の畦道を白峰中学校北側の道に>県道16号北側の標石>神谷川東詰めの標石>遍照院分岐点の石柱と標石>石灯篭と標石>遍照院経緯の遍路道合流点の標石>(遍照院>遍照院東側の標石>防火用水池脇の標石)>高家神社>高家神社傍、県道180号脇の標石>高家神社から白峰寺参道分岐点へ


高家神社経由の81番札所白峰神社への遍路道


衛士坂の遍路道
前述の如く、天皇寺高照院の正面赤鳥居を左折し旧丸亀街道の四つ辻に。既述の如く、左手に石灯籠と標石、右手に茂兵衛道標、四つ辻から北に下る坂道の右角に舟形地蔵が立つ。
国分寺への遍路道はここを右に曲がったが、茂兵衛道標も舟形標石も四つ角を直進する高家神社への遍路道を指す。
舟形石仏の傍に「衛士坂の遍路道」とある。この坂道は「衛士坂」と呼ばれるようだ。案内には、行き倒れとなった遍路を弔う石地蔵とあり、時代は明治かそれ以前か定かではないが、石工の刻んだ「へんろ」の文字がかすかに残る、とあった。地蔵標石の手印に従い坂道を下る。

予讃線踏切
緩やかな坂を下ると予讃線の踏切。「遍路踏切」と称される、と。巡打ちルートである80番国分寺から81番白峰寺への「へんろころがし」の急登を避け、逆打ちルートである79番高照院から81番白峰寺・82番根来寺、そして80番国分寺を打つこのルートを辿った遍路道の名残だろうか。

県道33号を交差
右手に八十場駅を見遣り、踏切を渡ると県道33号。県道を越えた遍路道はちょっと右手、駅方向に進み、田圃を北に進む道へと左に折れる。
八十場
古くは矢蘇場、弥蘇場、八十蘇場とも書かれた、と。景行天皇の御代、南海の悪魚を制すべく出向いた讃留禮王子と八十人の軍勢が、王子の持参した泉(前述の八十場の泉)の水で蘇生したが故の地名であることは既に記した。



原集落四つ辻の標石
畑の中を北西に直線に進んだ道は、ほどなく北東へと進む比較的大きな車道に合わさる。遍路道はここを右に折れて東へと向かう。
しばらく進むとこれも比較的大きな車道と交差。遍路道は坂出市役所西庄公民館の少し北、西庄の原集落の四つ辻を直進するが、四つ辻右角の民家の壁前に標石がある。手印と共に「扁路う道 是与白峯寺五十丁 嘉永五」といった文字が刻まれる。



原集落の標石
原集落の中を少し進むと、道の右手、電柱の根元に小さな標石があり、手印と共に「へん**」と刻まれる、と。摩耗しほとんど読めない。遍路道はここを左折する。








民家塀角の石灯籠
ちょっと進むと塀に囲まれたお屋敷の角に石灯籠がある。火袋の下に、「金」、「白」と刻まれる。金毘羅さんと白峰寺への奉灯の意。文化十四年のもと、と言う。遍路道はここを右折する。







茂兵衛道標(137度目)
道を進むとT字路の突き当り。その正面電柱の前に茂兵衛道標がある。手印と共に「右 天王 明治に二十七年」といった文字が刻まれる。逆打ち遍路の道案内だ。茂兵衛137度目の巡礼時のもの。







長命寺跡碑
道は綾川の土手に向かう。土手に上る手前、道の右手に4mほどの大きな石柱。長命寺跡の石碑。大正時代に建てられたもの。
長命寺
保元の乱に敗れ讃岐配流となった崇徳上皇が住んだ雲井の御所(後述)との説もあるお寺さまであった。長曾我部勢の兵火により焼失し、現在はこの石柱だけが残る。




姫塚
道が綾川の土手に上る長命寺石碑から200mほど西、田圃の中に如何にも塚を想わせる緑が茂る。Google Mapでチェックすると「姫塚」とある。ちょっと立ち寄る。
四方をブロック塀で囲まれた中に自然石があり、「崇徳天皇姫塚」と刻まれる。 上述、前述の菊塚は男児であったが、こちらは崇徳上皇と綾高遠の息女の間に生まれた皇女の墓とのことであった。




中川原集落入口の標石
往昔の遍路道は長命寺跡の石碑から綾川の土手に出た辺りより川を渡ったようだが、そこには橋はない。左岸を少し、県道16号に架かる新雲井橋を渡り、橋の東詰めを右折した後、直ぐに中川原の集落へと、道を左に折れる。土手を下りるとすぐに標石。手印と共に「左扁ろ道 寛政十」といった文字が刻まれる。遍路道は左に折れる。





県道16号アンダーパス前に石灯籠
標石を左に折れた遍路道は、すぐに右に折れ県道16号に沿った旧道を進むが、右に折れず左に向かうと県道16号アンダーパス前に石灯籠があり、「白峯」と刻まれる。このアンダーパスを抜けると崇徳上皇ゆかりの「雲井御所」へと通じる。
雲井御所
県道16号に架かる新雲居橋の東詰め、堤防から少し離れた中川観音堂の隣に「雲井の御所」があった。 案内を簡単にまとめると;崇徳上皇が讃岐に配流されたとき、いまだ御所ができていなかったので、国府に勤める当地の庁官であった綾高遠(あやのたかとお)の邸宅を仮の御所としたと伝えられる。
上皇はこの御所で3年を過ごしながらも、都を恋しく思い詠んだ歌か「ここもまた あらぬ雲井となりにけり 空行く月の影にまかせて」。月の光が雲次第で思うに任せられないように、ここも思いもよらない住処(御所)になってしまったなぁ...、と言った意味。雲井の御所の名はこの歌に由来する、と。また里の名も雲井の里とも称されるが、上皇が愛でた「うずら」をこの里に離されたが故に「うずらの里」とも。
崇徳上皇は府中鼓ケ丘木ノ丸殿の完成をもって遷御され、時代が経るにつれこの雲井の御所の場所もはっきりしなくなったが、天保6年(18835)に,高松藩主松平頼恕(まつだいらよりひろ)公によって,この雲井御所の跡地が推定され,現在の林田の地に雲井御所之碑が建立された,とあった。

中川原集落の標石
道を少し東に進むと、道の右手民家のブロック塀の前に標石。手印と供に、「是ヨリ白峯江三十六里 弘化四」といった文字が刻まれる。
県道脇に標石
この標石の少し手前に県道16号に出る道があり、県道角に標石。「雲井御所跡 西二丁」とある。アンダーパスができる前は、ここから雲井御所へと向かったのだろう。と言うか、現在は新雲井橋を渡り、東詰めを直ぐに左折すると道なりに雲井御所があるが、新雲井橋ができたのが昭和54年(1979)と言うから、それ以前はこの標石の道筋が雲井御所へのメーンルートであったのかもしれない。




田圃の畦道を白峰中学校北側の道に
旧道を進むと道は左に折れ、県道16号に合流するが、遍路道は直進し、田圃の畦道を抜け、県道187号を横切り、白峰中学校北側の道に出る。中学校の敷地が切れるところで左折し、県道16号を横切る。







県道16号北側の標石
県道を越え50mほどのT字路角に標石。手印と共に「八十一番 八十二番 八十番 左へんろ逆べんり」と刻まれる。八十一番>八十二番>八十番と進む逆打ちがべんり、と示す。
遍路道はここを右折すると思うのだが、手印は更に北方向を示す。昔は電柱に南東面してもたれかかるようにあった、といった記事もある。それならルートに合うのだが、現在はシッカリ固定されている。据え付け直されたのだろう。




神谷川東詰めの標石
手印で少々混乱し、ひょっとしたら間違い、などと思いながら道を進むと神谷川にあたる。そしてその東詰めに誠に立派な標石が立つ。オンコースであることがわかり一安心。
笠石のついた標石には、手印と供に「すぐ扁ん路ミち 四国八十一番霊刹 これより弐拾五丁三拾間 南此方 国分寺 壱里弐拾四丁 瀧之宮 弐里弐拾四丁四拾間 高松 四里弐拾六丁 一之宮 三里弐拾八町二拾間 仏生山 四里拾八町五拾間 寛政六」といった文字が刻まれる。







遍照院分岐点の石柱と標石
神谷川を渡り少し進むと、道の左手に2基の石柱。ひとつは寺名石碑。「厄除大師御旧跡 納経御祈願所 慈氏山 松浦寺」とある。もうひとつは標石。手印と共に、「厄除大師**みち 当山ハ大師乃かいき 本尊ハ四十二歳自作のみゑい** 慈氏山遍照院 *門内より**」といった文字が刻まれる。
高家神社への遍路道はここで二つのルートに分かれる。ひとつは直進し白峰山の山裾を高家神社にすすむルート。もうひとつはこの標石を左に曲がり遍照院前を経由して高家神社に向かうもの。

ついでのことではあるので、ふたつのルートを辿ろうと思うが、先ずは標石から直進するルートを進むことにする。


石灯篭と標石
北東に道を進み比較的大きな車道・鴨川(停)五色台線を横切り山裾に。山裾を左に弧を描火袋がない石灯籠と標石がある。
石灯籠には「白峯大権現 天照皇大神宮 金毘羅大権現 氏神 嘉永七年」といった文字が刻まれる。
標石は二面の角に大師像を浮き彫りにする。あまり記憶にない造りだ。また手印は右手の山方向を指し、「志ろみ年江是与六丁」と刻まれる。ここから左に折れ山道を白峰寺への遍路道があったのだろう。それにしても六丁とは。700m弱ということはほぼ直登ルートとなるようだ。


遍照院経緯の遍路道合流点の標石
集落の中を進み、坂を上ると松井春日神社。道はそこから下りとなり、右から道が合わさるT字路。そこが遍照院経由の遍路道との合流点。そこに標石が立つ。手印と共に「扁んろミち 安政四年」といった文字が刻まれる。







遍照院経由の遍路道
遍照院への分岐点の標石を左に折れ道を直進すると遍照院の石段前に出る。石段は草に埋もれている。
遍照院
弘法大師が四十二歳の厄年のとき、この寺で修行されたと伝わる。その故に「厄除大師」として知られる。境内には大師修行の求聞持石と呼ばれる大石がある、と。かつては多くの遍路が立ち寄った寺と言う。
遍照院東側の標石
遍路道は石段前を右折。民家と田圃の間の細路を進み、車道・鴨川(停)五色台線に合流したところ、道の左に小さな標石。手印と共に「すぐ扁んへん** 文久三」といった文字が刻まれる。
防火用水池脇の標石
車道を分かれ斜めに数メートル進むと道に出る。前面に防火用水があり、その前に三角形の自然石標石がある。手印と共に「へんろミち」と刻まれる。 遍路道はここを左に折れ、道なりに進むと状上述遍照院経由の遍路道合流点の標石箇所に出る。




高家神社
遍照院経由のルートを合わせた遍路道は、ほどなく道を進むと県道180号にあたる。T字路を右に折れ県道180号を進むと高家神社に着く。
参道入り口に「血の宮」、鳥居には「崇徳天皇」、随身門にも「崇徳天皇 高家神社」とある。「国史見在之社 高家神社 崇徳天皇御舊跡 血ノ宮」と刻まれた古い石碑もあった。
坂出市のWEBサイトには「昔からここには高家首(たかやおびと)の一族が居住し,遠い祖先である天道根命(あめのこやねのみこと)をお祀りして氏神としました。里の人には森の宮とも呼ばれ,貞観九年従五位下を奉られています。 崇徳上皇崩御ののち,白峰山に遺体を運ぶ途中,高屋村阿気(あけ)という地に棺を休めた時,にわかに風雨雷鳴があり,棺を置いた六角の石に,どうしたことか血が少しこぼれていたといいます。
葬祭の後,里の人は上皇の神霊を当社殿に合祀し,また,血のしたたった石も社内に納めました。俗に血の宮と称される理由です。また,朱(あけ)の宮ともいわれています。
地名の阿気(揚)も,そこから出たことなのかもわかりません」とあった。 死後十数日が立つにもかかわらず鮮血が零れ落ちたという台石も境内に祀られている。

高家首とか天道根命などちょっと気になるのだが、本筋からはるか離れてしまいそうであり、高家神社は崇徳上皇と深く関係した由緒をもつ社ということを以て思考停止。隣の観音寺にお参りし境内を離れる。
国史見在之社
コトバンクには、「六国史(りっこくし)に神名、社名がみえるが、『延喜式(えんぎしき)』巻9、10の神名帳には登載されていない神社をいう。国史現在社(げんざいしゃ)、国史所載社(しょさいしゃ)、式外社(しきげしゃ)ともいった。式内社とともに朝廷の尊崇厚く、由緒ある神社として重んじられる。その数は60余か国390余社に及び、記載の事由は授位、奉幣(ほうへい)、祭祀(さいし)、祈請(きせい)、鎮祭などによる。著名な社(やしろ)として石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)、大原野(おおはらの)神社、香椎宮(かしいぐう)などがある。また所在未詳のものが少なくない」とある。


高家神社傍、県道180号脇の標石
県道180号と高家神社参道との分岐点の左右に標石がある。道の右手に3基。「二十七丁目」「左しろみね道 是より二十七丁 大正二年」、手印と共に「白峰御陵参道 昭和十年」とある。
県道左手、「四国のみち」の木標の脇に2基の標石。小さな標石には手印と共に 「志ろ*ね」、大きな標石は茂兵衛道標。手印と共に八十一番 旧道 へんろみち 明治二拾七年」といった文字が刻まれる。茂兵衛134度目巡礼時のもの。


高家神社から白峰寺へのルート
高家神社から先は旧遍路道はなくなっているようだ。県道180号・鴨川(停)五色台線を1.7 キロほど進み、左に「白峰寺(徒歩)1km」の木標で車道を離れ白峰寺へと向かうことになる。
正面には稚児ヶ嶽が見える。ここはいつだったか国分寺から根香寺、そして白峰寺へと歩き、麓の青海神社(煙の宮)へと下ったルートの途中。これから先は先回のルートメモに渡すことにして、今回のメモはこれで終了。
順打ち・逆打ちで天皇寺高照院と国分寺、白峰寺、根香寺への遍路道を繋いだ。次回は順打ちであれば八十二番・根香寺から八十三番・一の宮、逆打ちであれば八十一番・国分寺から八十三番・一の宮への旧遍路道を歩くことにする。
七十九番札所 高照院・天王寺を打ち終え八十番札所・国分寺へ。そしてその次は八十一番札所・白峰寺ということになるのだが、国分寺から白峰寺、更には八十二番札所である根香寺はすでに歩き終えている。
そのートは国分寺から北に向かい、一本松峠への急登を上り八十二番・根香寺から八十一番白峰寺を打ち、稚児ヶ嶽を右手に見遣りながら西行の道と称される長い石段を麓の青海神社へと下った。
その当時は特段遍路歩きといった想いもなく、山好きの弟に、どこか讃岐で面白い散歩道は?といってガイドしてもらったルートであった。
今回、遍路歩きというコンテキストでその時歩いたルートをチェックすると、そのルートは古い遍路道。江戸中期以降はこの急登ルートを避け、高照院・天王寺から白峰山西の山裾にある高家神社に向かい、そこから白峰寺へと向かう高屋口ルートが利用されという。国分寺から白峰寺へと向かう順路に対し、81白峰寺・82番根香寺・80番国分寺と辿る逆打ちルートである。天皇寺高照院から国分寺・白峰寺・根香寺を打つ遍路道はふたつあったようだ。
このふたつの遍路道のうち逆路ルートは次回に廻し、今回は順路ルートをカバーする。天皇寺高照院から国分寺を打ち、次いで白峰寺へと順路の遍路道を一本松峠に上る登山口までをメモし、その先は既に歩き終えた国分寺・白峰寺・根香寺散歩のメモに託す。

本日のルート;
七十九番天皇寺天照院から八十番札所国分寺へ
七十九番札所 天皇寺高照院>表参道の標石>旧丸亀道との四つ辻の標石>八十場駅前の六地蔵>城山(きやま)神社標石>開法寺>鼓岡神社>内裏泉>菊塚>椀塚>柳田の碑>讃岐国府跡>国府印鑰明神遺跡>綾坂橋西詰めの標石>綾坂説教所跡>国道11 号バイパス東の遍路墓と地蔵標石>日向王の塚>第八十番札所 国分寺
八十番札所国分寺から八十一番白峰寺への登山口へ
築地塀に沿って北に>地神と二丁標石>三丁目標石>四丁目標石>3基の標石>六丁標石>神崎池>神崎池東の標石>一本松峠への登山口に


七十九番札所 天皇寺高照院

当日は八十場の清水から裏参道を辿り白峰宮境内に。七十八番札所金華山天王寺高照院の本堂・大師堂は白峰宮境内につつましく建っていた。
崇徳上皇の霊を慰めるその歴史的経緯故か、院号より寺号が先にくる珍しい寺。元は天皇寺を抱く金山(標高280m)の中腹にあり、古くは金華山妙成就寺摩尼珠院と称された。金華も摩尼珠も空海ゆかりの縁起をもつ。
金華は金山権現が左右に持した金剛鈴と白蓮華より。空海が八十場の霊泉を閼伽井とし秘法修行のとき金山の守護神である金山権現(金山権現の化身である天童とも)が現前した、と伝わる。摩尼珠は大師修法の間、嶺に舎利(如意宝珠とも摩尼珠)を埋めた故。
大師は、その霊域にあった霊木で本尊十一面観音、脇侍阿弥陀如来、愛染明王の三尊像を刻造して安置。寺は霊場とされ、七堂伽藍が整い境内は僧坊を二十余宇も構えるほど隆盛したという。
その後、嵯峨天皇の御代になり、保元の乱(1156)に敗れ、讃岐に配流され更には誅された崇徳上皇の霊を慰めるため、この地に崇徳天王社が建立される。それに応じ院宣をもって摩尼珠院は崇徳天皇社の別当寺となり金山山麓よりこの地に移った。この故に、人は摩尼珠院を「天皇寺」とよび、崇徳天皇社を「天皇さん」と呼んだ
。 明治初年、神仏分離令によって摩尼珠院は廃寺となる。79番札所は筆頭末寺の奇香山高照院(約2km北の林田町にあった)が引き継いだ。崇徳天皇社は白峰宮と改称。また、明治天皇の宣旨により崇徳院御霊は京都白峯神宮へ戻った。 その後、高照院は、明治20年(1887)摩尼珠院跡の現在地に天皇寺高照院として移転した。

寺の歴史的経緯を眺めると、寺号が院号の先にあること、本堂や大師堂が白峰宮の境内につつましく建つ所以も納得できる。
札所
ところで、札所について、江戸時代、1653年に著された澄禅の『四国遍路日記』に、「大師御定ノ札所ハ彼金山ノ薬師也」とある。現在は荒れ果てているようだが、金山に当寺の奥の院である瑠璃光寺(金山薬師)がある。行基が薬師如来を本尊として堂宇を開創したとの縁起が残る。
空海の開いた摩尼珠院は、荒れ果てた行基開創の堂宇を再興したものとも伝わるが、それはともあれ、『四国遍路日記』に従えば、江戸の頃まで札所は現在地ではなく摩尼珠院の元地であったようにもとれる。

続けて『四国遍路日記』には、「子細由緒ヲモ知ラズ 辺路修行ノ者ドモガ、此寺ヲ札所ト思ヒ 巡礼シタルガ初ト成、・・・金山薬師ハ在テ無ガ如ニ成シ」とする。由緒を知らない遍路は、崇徳天皇社を札所と思い込み、いつしか金山薬師は在って無きが如し、となってしまった」とする。


七十九番天皇寺天照院から八十番札所国分寺への遍路道

天皇寺から白峰寺・根香寺へと辿る順路の遍路道である次の札所・国分寺へと向かう。

表参道の標石
朱に塗られた三輪鳥居を潜り境内を出る。表参道は東へと直進するが、鳥居を出てすぐ、境内に沿って北に進む道の角に標石。「白峯寺へんろみち 是ヨリ五十六丁 明治七」と刻まれる。八十番国分寺ではなく、八十一番白峰寺を案内する。
上述の如く、国分寺から白峰寺へと順路で進む、国分寺・一本松峠経由の遍路道ではなく、白峰寺から根香寺、そして国分寺へと進む遍路道の案内となっている。手印は表参道ではなく北を示す。標石に従い左折し境内に沿って北に進む。




旧丸亀道との四つ辻の標石
ほどなく道は旧丸亀街道に当たる。前回歩いた八十場の清水の標石を右折し裏参道に進むことな、標石を直進すればここに進む。表参道から向かう遍路道でもある。
この四つ辻に大きな自然石の灯籠、標石、舟形地蔵が立つ。自然石の燈篭前にある標石には、「天皇社 札所 摩尼珠院 寛政十二」といった文字が刻まれる。寛政十二年と言えば西暦1800年。1653年の澄禅の『四国遍路日記』では本来の札所は金山山麓の薬師堂であるのに、由来の知らない遍路は天皇社を札所と勘違いしている、などとの記述があったが、19世紀に入る頃には札所は摩尼珠院となっていたようだ。
四つ辻東角には茂兵衛道標。「明治二十七年」、茂兵衛135度目巡礼時の道標。指を二本伸ばす手印はあまり見ない。その指し示す方向は北。国分寺ではなく白峰寺への遍路道を示す。四つ辻北角の船形標石も「左 へんろ道」と白峰寺への遍路道を指すが、国分寺への遍路道はこの四つ辻を右に折れ、東へと向かうことになる。




八十場駅前の六地蔵
道なりに進むと八十場駅南の六地蔵堂脇に出る。駅前を南北に走る道を横切り白峰宮の赤鳥居に向かう表参道も横切り、国道11号バイパスの高架を潜り予讃線の南に沿って続く道を進む。別宮とか醍醐とか、別宮八幡や醍醐寺に因む地名が続く。別宮など如何にも崇徳上皇に関係ありそうな地名である。
3基の石仏が並ぶ民家を見遣りながら進むと、遍路道は予讃線鴨川駅手前で予讃線を越え県道33号に合流する。

城山(きやま)神社標石
国道を少し進み、弘法寺地区で県道33号を離れ右に折れ、再び予讃線の踏切を越え鼓岡神社への道を進む。
鼓岡神社手前の四つ辻に石碑があり、手印と共に「讃岐国之始祖 延喜式内当国廿四社之一明神大 県社城山神社」「此西鎮座 大正二年」といった文字が刻まれる。
その傍の石碑には「本村は古の甲知郷(こうちごう)仁にして国府のありし所也 仁和四年大旱仁当たり国主菅公が讃岐八十九郷二十萬蒼生の為仁雨城山(きやま)神仁祈りし処は是より二十二丁頂上にあり 昭和八年 府中村」とある。 ●菅公
菅公とは菅原道真公のこと。仁和四年(888)、43歳の頃讃岐守(讃岐国司)を拝任し、2年間讃岐に下向した。その後宇多天皇の信任を受け要職を歴任するが、異例の出世への妬みなのか、宇多天皇と醍醐天皇との確執なのか、ともあれ讒言により大宰府に左遷される。昌泰四年(901)というから56歳の頃だろう。



城山神社
なんとなく気になりちょっと立ち寄り。石碑を右に折れ道なりに進むと西山神社の先に城山神社が鎮座していた。こじんまりした社ではあるが社格は讃岐に三社ある式内社(明神大社)のひとつ。祭神は折に触れ登場する神櫛(かみくし)別命。景行天皇の御代、悪魚退治で知られ、讃岐国造の祖とされる




開法寺
遍路道に戻り、鼓岡神社へと向かうと、趣のある鐘楼が建つ。石碑には白鼓山開法寺とある。近くに奈良時代以前の古寺、讃岐最古の寺であったという開法寺跡があり、なんらかの関係があるのか?と思ったのだが、どうも関係はないようで、浄土真宗の寺とあった。




鼓岡神社
開法寺前の道を進むと鼓岡神社に着く。いつだったか白峰寺から根香寺を辿った時、崇徳上皇ゆかりの地ということで一度訪れたことはあるのだが再訪。 城山(標高162m)の山裾に鎮座する神社入口の石碑に「鼓岡神社 崇徳上皇行在所」とある。石段を上ると、広い境内、その奥に鳥居。鳥居から先に続く石段を上ると拝殿がある。
案内には、「鼓岡神社由緒 当社地は、保元平治の昔、崇徳上皇の行宮木の丸殿の在ったところで、長寛二年(1164年)八月二十六日崩御されるまでの六年余り仙居あそばされた聖蹟である。
建久二年(1191年)後白河上皇近侍阿闍梨章実、木の丸殿を白峰御陵に移し跡地に之に代えるべき祠を建立し上皇の御神霊を奉斎し奉ったのが鼓岡神社の創草と云はれている。伝うるに上皇御座遊のみぎり、時鳥の声を御聞きになり深く都を偲ばせ給い。
鳴けば聞き、聞けば都の恋しきに この里過ぎよ、山ほととぎす
と御製された。 時鳥 上皇の意を察してか、爾来この里では不鳴になったと云はれている。
境内には、木の丸殿、凝古堂、観音堂、杜鵑塚(ほととぎす塚)鼓岡行宮旧址碑、鼓岡文庫などがあり、付近には、内裏泉、菊塚、ワン塚などの遺跡がある」とあった。
境内には「瀬をはやみ岩にせかるる滝川の われても末にあはむとぞおもふ」と刻まれた石碑、案内にもあった「鳴けば聞き、聞けば都の恋しきに この里過ぎよ、山ほととぎす」由来の杜鵑塚(ほととぎす塚),「
などがあった。
擬古堂
また、境内には大正2年(1913)、崇徳上皇没後750年祭を記念し、木の殿を再現すべく建てられた「擬古堂」もあった。
案内には「保元元(1156)年、保元の乱に敗れた崇徳上皇は讃岐へと配流され、長寛2(1164)年、ここ鼓岡で四十五歳の生涯を終えます。
上皇が暮らしたところは御所(天皇が住む屋敷)であるにも関わらず、とても粗末な造りであったため「木の丸殿」と呼ばれ、上皇を慕って訪れた笛の師蓮如(結局上皇と会うことは叶いませんでした)にも次のように詠まれています。 朝倉や 木の丸殿に入りながら 君にしられで 帰る悲しさ
この建物は大正二(1913)年、崇徳上皇750年大祭が挙行された際に造られたものです。粗末だったとされる木の丸殿を偲び、その雰囲気を模して造られているため「擬古堂」という名称が与えられました。
また、『白峯寺縁起』によると、実際に上皇が暮らした木の丸殿は、上皇亡き後その菩提を弔うため、遠江阿闍梨章實という人物により御陵(上皇のお墓)近くに移され、これが今の頓証寺殿となったとされています」とあった。
御所としては粗末なのだろうが、田舎のどこにでもある民家といった風情。都に送った大部の写経をおこなったのもこの場所とのこと。大河ドラマでは、都に送ったものの、無残にもつき返され、怒りのあまり「われ魔王となり天下に騒乱を起こさん」と、日々凄まじい形相となって、後白河上皇らに深い怨みを抱きながら憤死する、ということであるが、それはどうも、『保元物語』や『雨月物語』の筋書きのようであり、実際は、この地で穏やかな日々を送ったとの説もある。
「鳴けば聞き、聞けば都の恋しきに この里過ぎよ、山ほととぎす」も、上皇の嘆きを察し、地元の人々がホトトギスの鳴き声が聞こえないように、追っ払っていた、とも伝わる。
また、木の丸殿は、その名の如く丸太で組まれた簡素な館との説とされるが、3年の歳月をかけたとの記録や古絵図にある上皇崩御後この御所を移した言われる頓証寺(白峰寺にある。現在のものは再建)の規模を示す古絵図などからして、立派な御所であったとの説もあるようだ。

ついでのことでもあるので、鼓岡神社の案内にもあった、付近の崇徳上皇の遺跡を巡る。


内裏泉
鼓岡神社北東端の四つ辻傍、擬古堂北側の斜面下に内裏泉(だいりせん)と称される水場がある。「内裏泉 木丸殿御井 崇徳上皇は長寛二年(1164)に崩御されるまで六年間、府中鼓ヶ岡の木ノ丸殿にお住いになられました。この泉はその頃に上皇の飲用に供された泉で、内裏泉と呼ばれ、地形上も谷筋に位置していることもあり、決して大旱魃にも枯れない泉であると伝えられています」とある。
この水で、目を洗うと目が悪くなる、との言い伝えがあるようだ。? チェックすると、高貴な人が飲んでいた水を大切に守るため、村人が意図して流した噂との記事もあった。
菊塚
内裏泉から開法寺方面に少し戻ると道に沿った民家敷地に「菊塚」がある。崇徳上皇の御子の墓と言う。崇徳上皇が雲井御所(後述)に居たとき、警護役の綾高遠(あやのたかとう)の息女との間になした男子。上皇の一字を与え顕末と称した、と。
椀塚
菊塚の先を右に折れると、道の左手、畑の中に「椀塚」がある。案内を簡単にまとめると、「讃岐配流となった崇徳上皇は松山の津という港に着船し、林田町にある仮の御所(雲井御所)で2年間過ごした後、国府に近い鼓岡の木の丸殿に移された。
国府の厳しい監視の中、人に会うことも、出歩くこともせず、淋しい日々の中この地で崩御し、白峯に祀られた。
この椀塚は、崇徳上皇が使用していた食器を埋めたとされる塚。年代不詳だが(?冢;わんづか))と刻まれた石が残る。
その真偽のほどは定かではないが、崇徳上皇の地域の与えた影響の程はわかる」といった案内があった。
松山の津
場所は県道161号・さぬき浜街道沿いにある。道は山稜の間をすり抜ける。道の左右の山は雄山(標高139m)と雌山(164m)。「松山の津」の案内は、その雄山を抜ける手前の道路脇にあった。案内には、崇徳院の讃岐配流までの経緯と、松山の津の説明がある。
「敗れた崇徳上皇は讃岐に配流となり、ここ松山の津に着いたとされる。津とは港のことであり、当時の坂出地域の玄関口となる場所であった。その頃は今よりも海が内陸部まで迫っており、この雄山のふもとも海であったと考えられる」、と。津=港ではあるが,松山は古くから条理制地割りの設けられているところで,海岸から府中の国府に至る重要な場所でもあったのだろう。
案内に「浜ちどり 跡はみやこへ かよへども 身は松山に 音(ね)をのみぞなく 保元物語」の歌も添えられていた。讃岐に到着した崇徳上皇が都を恋しく思って詠んだ歌とされるが、江戸時代に書かれた上田秋成の「雨月物語」では、讃岐配流の後、写経に勤しんだ上皇が、せめてお経の筆跡だけでも京の都に置いて欲しいと朝廷に送った歌ともされる。上で鳥羽上皇の弔いのために送った写経が都で受け取りを拒まれ、崇徳院が激怒し怨霊したとメモしたが、その写経と関係があるのだろう、か。単なる妄想。根拠なし。
柳田の碑
県道33号のJA香川の国道を隔てた対面にある自動車整備工場(?)の裏手の予讃線の線路脇に「柳田」の碑がある。誠にささやかなこの石碑は、崇徳上皇暗殺説にまつわる地。讃州府誌にも長寛ニ年八月二条帝陰に讃の士人に命じ弑せしめたり(二条帝は讃岐の武士・三木近安(保)というものに命じて、崇徳上皇暗殺を計画した)と記されている。
その説によると、刺客の知らせを聞いた上皇は木の丸殿から綾川方面へと逃れる。川沿いには柳が立ち並んでおり、上皇は柳の根元の穴に隠れるも、衣が川面に映り刺客に誅せられた。以来、この地では柳が育たなくなったとか、刺客が白馬の馬に跨り紫の手綱であったことから、「紫」は禁色とされた、とか。
いつだったか白峰寺を訪れた時、白峯寺の幕には五色あったにもかかわらず、頓証寺殿の幕には紫と白が除かれ、三色の幕となっていた。この暗殺話と関係があるのだろうか。単なる妄想。根拠なし。因みに現在の綾川は当時の流路と変わっているので、柳田の碑と川筋が離れている。

讃岐国府跡
内裏泉まで戻り四つ辻を東に進む遍路道に戻る。予讃線手前、道の右手に「讃岐国司庁」の木標が立つ。国司庁とは国府の中枢施設。国司が政務を執る施設である。大化の改新後、国ごとに設けられた方5町の国府跡が残る。
国府印鑰明神遺跡
国府関連の遺跡と言えば、崇徳上皇の遺跡を求め柳田に向かう途中、水田の真ん中に石碑が見えた。柳田の碑かと思い、畦道を進むに、石碑には「国府印鑰明神遺跡」とある。
印鑰(いんやく)とは国庁の印鑑や鍵の保管庫こと。印鑑や鍵の重要性に鑑み、明神として祀り、関係役人のモチベーション高揚に役した。石碑の別面には、"府中邨奨學義田" と刻まれる、と。大正4、5年(1915,16)の頃、"奨学義会"という組織が、この周辺の民有地を買い上げ、遺跡として、当時の府中村に寄付した、ということである。
この国府印鑰明神遺跡に限らず、この辺りの本町には帳次(ちょうつぎ:諸帳簿を扱った役所)、状次(じょうつぎ:書状を扱った所)、正倉(しょうそう:国庁の倉)、印鑰(いんやく:国庁の印鑑、鍵の保管所)、聖堂(せいどう:学問所)といった地名が残っている、との記事もあった。

綾坂橋西詰めの標石
予讃線、県道33号を横切り綾川に。綾川に架かる綾坂橋の西詰に標石が立つ。 「城山神社七丁 鼓岡神社五丁 国庁之跡 西四丁 綾坂橋架設記念 昭和十年」と刻まれる。
更に橋の少し上流に2基の標石が見える。手印と共に「左へん路道 是与国分寺十八丁」の遍路標識と「延喜式内明神大社 城山神社 是よ里西に御座 天保六」と刻まれる。

綾坂説教所跡
橋を渡ると道は緩やかな上りとなる。国道11号坂出丸亀バイパスに沿って上りつめたところでバイパスと最接近する。
道なりに下ると道の右手、民家の玄関前に綾坂説教所跡の石碑が立つ。 説教所とは一般的に言えば、宗教法人法に縛られることなく、一般の建物に仏像を安置し、定期あるいは随時に布教を行う場所とされるが、この綾坂説教所がどのような性格のものであったか不詳である。



国道11 号バイパス東の遍路墓と地蔵標石
説教所を後に東に下る遍路道は県道33号の北で左に折れ、国道11号坂出丸亀バイパスの高架下を潜る。国道の東側は細い急坂となる。坂を上り緩やかに下る道を少し進むと、道の左手に遍路墓と地蔵標石があった。
遍路墓には「四国遍路常次郎墓 安政五年」、地蔵の台座には「国分寺江五丁 天王江七十丁 文化九 世話人前谷講中」といった文字が刻まれる。

日向王の塚
北東に進む遍路道が県道33号に最接近するところに日向王の塚があった。松の木の下に小石が積まれているのがその塚のようだ。その名が刻まれた灯籠が傍に立つ。
『全讃史』に景行天皇の御代、南海に大魚があり船を呑み込むなどして人々を苦しめていたため、武穀王(たけかいおう)に命じて退治させた。
武穀王は讃留霊王(さるれおう)とも称され、讃岐の国造であったとも伝えられる。日向王は讃留霊王の七代目の子孫。古代に綾川流域を中心とした阿野郡に勢力を誇った綾氏の祖先とされる。この塚が王の墓跡とされる」とある。
この南海の悪魚、武穀王・讃留霊王は、折に触れて登場する。南海の悪魚とは海賊のことであろうか。その海賊を退治したのが景行天皇の御子である日本武尊の第五子である武穀王。武穀王は讃留霊王とも称されるとあるが、讃留霊王は景行天皇の御子である神櫛王ともある。はるか昔の伝説であろうから、どちらがどちらであっても門外漢にはかまわないが、ともあれその讃留霊王は讃岐国造の始祖であり、綾氏の祖先とするようだ。
で、讃留霊王って、讃岐に留まる霊なる王と読める。武穀王であれ、神櫛王であれ「讃岐に留まり国造の祖となったが故の讃留」か?と妄想したのだが、本居宣長はこの漢字は後世の当て字であり。「サルレ」の音のみが有意とするとある。妄想だった。


第八十番札所 国分寺

道なりに進むと四国霊場第八十番札所国分寺の仁王門前に着く。国分寺には一度訪れたことがあるのだが、記憶は薄れイメージしていた国分寺は、備中の国分寺ではあった。それはともあれ、結構な構えのお寺さまである。
仁王門脇の「縁起略記」によると、「天平13年(741)、聖武天皇の勅願、行基菩薩の開基により国ごとに建立された讃岐の国分寺(金光明四天王護国之寺)。創建当時は二町四方(東西3町、南北2町、とも)あり、南より南大門を入り、東に七重の塔、中央に中門・金堂、講堂などの諸堂があった。現在古義真言宗御室派の別格本山で四国第八十番の札所である」とのこと。
仁王門前の標石
仁王門前、左手に4基の標石が並ぶ。手前の摩耗激しい標石には「扁ん路道  是与り** 寛延元」といった文字が刻まれる。ついでちょっと縦長の標石には「是よ里白峯五十丁 一のミや七十五丁 文化八」、その隣は茂兵衛道標。「一之宮道 是ヨリ七十五丁 左高松 明治十九年」と刻まれる。茂兵衛88度目の四国霊場巡礼時のもの。四つめの標石は、仁王門前、左手に立つ常夜灯傍にあった。自然石の標石には「右一の宮」と刻まれていた。
一の宮
一の宮は第八十三番札所。ここで八十三番札所を案内するということは、七十九番札所から八十一番白峰寺、そして八十二番根香寺を討ち終え、八十番国分寺へと下り、八十三番一の宮寺へと辿る遍路が多くいた、ということだろう。この逆打ちの高屋口ルートは後述。
七重塔礎石
仁王門を潜り境内に。参道の左右に八十八ヶ所霊場の石仏が並ぶ。参道右手に千躰地蔵堂。その前に大きな礎石が並ぶ。仁王門前の案内にあった七重の塔跡。であろう。
境内にあった「国分寺由来」によれば、「創草寺の七重塔礎石。すべての国分寺は五重塔ではなく七重塔であった。この塔址は心礎(中心柱が乗る礎石)とともに合計17個の礎石があり、5間四方の塔で、京都の東寺の五重塔(高さ東洋一)以上の大塔であった」と。現在は礎石の上に鎌倉時代に造られた石造りの七重の塔が残る。
梵鐘
参道左手に鐘楼。当山創建当時、奈良朝鋳造の旧国宝・重要文化財との案内があった。歴史のある鐘だけに、その歴史に相応しい伝説・実説も伝わる。大蛇の伝説や高松城の時鐘がそれである。
大蛇の伝説とは、その昔讃岐のある淵に棲む大蛇が近隣の人々を苦しめていた。それを聞いた弓矢の名人が、国分寺の千手観音の御加護のもと鐘をかぶり、現れた大蛇を退治。その鐘は国分寺に奉納された、といった話である。
また、高松城の時鐘とは、国分寺の鐘の音が気に入った高松の城主生駒一正公が、田一町を寄進し、その代わりとして鐘を城内に運び時鐘にせんとした。が、その鐘は少しもならず、城下では怪異な出来事が起き、また殿様までが病にかかり、その夢枕に毎夜鐘が立ち「もとの国分にいぬ いぬ」と。
これは鐘の祟りかと、鐘を国分寺に戻すと元の平静な城下に戻った、といった話である。「鐘がものいうた 国分の鐘が 元の国分にいぬというた」。この歌はそのときつくられたもので、そのことを記した証文が残る、という。実説とされる所以である。
金堂礎石
正面に本堂。その手前、梵鐘の左手に閻魔堂、梵鐘と本堂の間に毘沙門堂が建つが、そのあたり一面に礎石が並ぶ。その数三十三個。その昔の金堂(本堂)跡である。「国分寺由来」には。「実測間口東西14間(1間=1.8m)。奥行(南北)7間の大堂」とあった。
本堂
池に架かる橋を渡ると本堂。創建当初の講堂跡に建てられたものであり、九間四面の入母屋造り、本瓦葺き。鎌倉中期の建築といわれ重要文化財に指定されている。本堂には本尊の千手観音が佇む。約5m、欅材の一本造りの観音さまは重要文化財である。
大師堂
本堂前の池の脇には弁財天の小祠と七福神の石像が並ぶ。国分寺は「さぬき七福神」の中、弁財天を主尊としている。願かけ金箔大師像にお参りし、右手に進むと大師堂と納経所があった。多宝塔のような二重の塔が大師堂、手前の建物が納経所。堂の前には千体地蔵が群立する。

国家鎮護、社会の安定を祈願し建立された国分寺ではあるが、古代律令国家体制の崩壊とともに、国家による管理・庇護が受けられなくなり衰退する。そしてその中興の祖が弘法大師空海とも伝わる。弘仁年間(810-824)に弘法大師が訪れ、行基作の5・3mの大立像(本尊)を補修した、と。
しかしながら、中興された堂宇も、天正年間(1573-1592)、土佐の長曽我元親軍の兵火に晒され、本堂と鐘楼だけを残し全て焼失。慶長年間(1579~1614)、讃岐国主である生駒一正によって再興され、江戸時代には、高松藩主松平家代々によって庇護された、とのことである。


国分寺より八十一番札所白峰寺登山口までの遍路道


国分寺を討ち終えれば次は八十一番札所白峰寺。何度かメモしたように国分寺から八十一番白峰寺、八十二番根香寺は既に歩き終えている。国分寺から北に進み一本峠への急登を上っていったわけだ。
国分寺から先はその時のメモに任せてもいいかとも思ったのだが、当時は「遍路歩き」といった想いはなく、山歩きの面白いコースとして弟にガイドしてもらったということもあり、標石を目安にした旧遍路道を捜し歩いたわけではない。
その時歩いたルートは国分寺仁王門前にあった「歩きへんろさんへ」に案内のある、仁王門から東に進み次いで北へと向かうコースであるが、遍路標石は逆方向、西に少し戻りそれから北に進むルートに残っているとのこと。
どうせのことなら、白峰寺への登山口までは標石の残る旧遍路道をトレースし、そこから先は、既に歩き終えたメモに託すことにする。

築地塀に沿って北に
仁王門から少し西に戻ると直ぐに理髪店があり、その手前に北に進む細路がある。理髪店手前を右に折れ、復元された国分寺の築地塀に沿って進む。




地神と二丁標石
田圃の中を進むと緑に茂る木立が前面に見える。その木立の下は塚状となっており地神の小祠と舟形地蔵、そして石仏があった。舟形地蔵は標石となっており、「二丁目」と刻まれる。


三丁目標石
二丁目標石を右に折れ、田圃の畦道を進み、用水路を渡ったところに舟形地蔵。標石となっており、「三丁目」と刻まれる。








四丁目標石
用水路に沿って先に進む。ほどなく用水路から離れ左に弧を描く道の先に車道が見える。遍路道は車道に出ることなく先に進む。と、水路に沿った道端に舟形地蔵。「四丁目」と刻まれる標石となっている。





3基の標石
遍路道はT字路に当たる。左に折れ車道に出ると、その四つ辻の少し南に3基の標石が並ぶ。「五丁目」「*丁目」、手印と共に「へん***」といった文字が刻まれる。道路整備の折、どこからか移されたものだろう。






六丁標石
四つ辻からほんの少し北に車道を進むと、道の右手に舟形地蔵。「六丁目」と刻まれる。





神崎池
車道を進むと神崎池。「四国のみち」の木標に従い、遍路道はここで右に折れ、この池の南堤を東に向かう。








神崎池東の標石
神崎池の土手を東に進み、集落に入る。途中、国分寺仁王門から東に進んだ後北へと向かう遍路道とT字路で合流。そこから少し東に進みT字路角に標石。「扁ん路道」と刻まれる


一本松峠への登山口に
遍路道はここを左に折れ登山口へと向かう。しばらく歩き、墓地の辺りで舗装が切れ一本松への山道となる。ここから先はいつだったか歩いた散歩のメモに任す。



もうひとつの遍路道
神崎池を左に折れて一本松経由の遍路道に進むルートとは別に、神崎池の西側に標石が続く。ここから北に進み国分台の中央を直登し白峰へと進む遍路道もあったようだ。
2基の標石
車道を少し北に進むと2基の標石が立つ。手印と共に「右へんろ道」と刻まれた標石と、「八丁目」と刻まれた舟形地蔵標石。遍路道はここで車道を離れ、田圃の中を進む。





九丁目
田圃の畦道に小さな覆屋のついた舟形地蔵。「九丁目」と刻まれる。







十丁目
舗装された道に出る。少し左に北に進む道。その角に「十丁目」と刻まれた舟形地蔵と手印と共に「へんろ道」と刻まれる。
比較的新し目の石柱。「新へんろ道 (四国のみち)へ」とあり、手印は東を指す。




十一丁目
北へと国分台へと進む道の右手に十一丁目と刻まれた舟形標石。標石はこれで終わる。昔はここから白峰へと這い上がる遍路道もあったのだろう。
道隆寺から天皇寺までの旧遍路道歩きの2回目。郷照寺から天皇寺までの旧遍路道を、件(くだん)の如く標石を目安にトレースする。
今回も、途中「ゆるぎ岩」といった言葉に惹かれ、ちょっと寄り道をしながらの歩き遍路メモ。
本日のルート;
七十七番札所・道隆寺から七十八番郷照寺へ
七十七番札所・道隆寺>地蔵堂傍の茂兵衛道標>天満宮傍、T字路角の標石>塩屋別院>正宗寺>寿覚寺南の金毘羅標石>(太助灯篭へ>寿覚院山門前の常夜灯と標石>太助灯篭)>丸亀市街を抜け宇多津に入る>県道左側に地蔵堂>誰袖(たがそで)の標石>誰袖(たがそで)の標石>本妙寺>郷照寺参道前の徳右衛門道標>七十八番札所郷照寺
七十八番札所・郷照寺から七十九番札所・天皇寺へ
七十八番札所郷照寺>閻魔堂>大束川手前、公園傍の標石>西光寺>聖通寺分岐点の標石>(聖通山のゆるぎ石)>県道33号との交差角に標石>巨石に刻まれた不動尊>白金町の本街道右側に標石>本街道を東へ>標石2基の分岐点で本街道から右に折れる>予讃線・瀬戸大橋線踏切先の標石>八十場の霊泉>茂兵衛道標(100度目)>裏参道への標石>第七十九番札所高照院


七十八番札所郷照寺

大吉地蔵尊の前に標石
細くゆるやかな坂を上る。山門前に「大吉地蔵」と呼ばれる地蔵尊。台座に刻まれる「大吉」は願主の名。備中の人。「四国廿一度巡拝供養」とも刻まれる。 地蔵前の道脇に標石。手印と共に「大師道 弘化三年」といった文字が刻まれる。
鐘楼
山門を潜り、道を進むと堂宇の一段低い広場に鐘楼がある。なんとなく唐突な感があるが、元は大師堂傍にあったものがここに移されたようだ。が、鐘楼からの宇多津の眺めは、いい。
案内に鐘楼の鐘にまつわる伝説が記されていた。江戸の頃、この鐘が割れた。折しも堺から遍路にきていた鋳物師に鋳造依頼。金を鋳直す材料として蓄えていた銅鏡を山から運ぶことに。
と、とみくま村の庄屋さんと一緒に銅鏡を運んでくれたお爺さんが突然姿を消す。人々はそのお爺さんを春日明神であろうと噂をした、と。造り直した鐘はよく鳴り本州まで聞こえ、あまつさえその音色に誘われて龍神までも現れた、とか。
この鐘はその歴史的価値ゆえに戦時の金属供出にも免れ、現在に至る」と言ったことが書いてあった。
そのお爺さんは龍神の化身とか、鐘は鋳直しではなく富熊村の庄屋の心願成就の祝いに境から鐘を鋳る名人を呼び、鐘を造ったとかいろいとバリエーションがあるようだ。
本堂
石段を上ると右手に納経所、正面は本坊。右に折れると本堂がある。寛保年間と言うから18世紀中頃の建立。本尊は阿弥陀如来。御詠歌は「踊りはね念仏唱う道場寺 拍子それえて鉦を打つなり」。
御詠歌は踊り念仏を想起させる。札所の宗派は今までもあまり気にしたことはないのだが、御詠歌が気になりチェックすると宗派は踊り念仏で知られる一遍上人の時宗とのこと。四国札所で唯一の時宗の寺ではないだろうか。
Wikipediaに拠ると、「寺伝によれば、行基が神亀2年(725年)に一尺八寸(55cmという説も)の阿弥陀如来を本尊として道場寺の名で開基した。大同2年(807年)に空海(弘法大師)が伽藍を整備した。その時に厄除の誓願を修し大師像を納め、それが「厄除うたづ大師」として信仰されていると云われている。 仁寿年間(851年から854年)には理源大師が阿弥陀三昧の行を修した。寛和年間(985年から987年)には恵信僧都が釈迦如来の絵図を納め釈迦堂を建立した。
正応元年(1288年)には一遍上人が遊行の折に3か月逗留し踊り念仏の道場を開いた。その後も栄えたが天正の兵火(1576年から1585年)で堂宇を焼失するも寛文4年(1664年)高松藩主松平頼重により再興、その時の住持と徳川家の関係により、時宗に属し郷照寺と改称した。しかし、『四国遍礼名所図会』(1800年刊)にも1826年の納経帳にも道場寺となっている。四国八十八箇所では珍しい異なる2つの宗派が共存する寺になっている」とあった。
説明にある「ふたつの宗派が共存する」の意味するところは門外漢には不詳だが、開基の頃は天台宗。空海の縁で真言宗、その後荒れ果てていた堂宇を一遍が直し時宗、江戸の頃は浄土宗の僧が住職をつとめ、現在は時宗と宗派は何度か変わっている。また、道場寺の名前の示す如く、この寺は高野聖の往来する修験道と関係深い寺であった、とも。
寺名といえば、道場場から郷照寺となる間に、江照寺と称される時期もあったとする。入り江が入り込んでいた地形からの命名。その後町屋が増えたため郷照寺とした、とか。宗派だけでなく、寺名も何度か変わっているようだ。

「ふたつの宗派が共存する」と言えば札所六十七番の大興寺を思い起こす。真言と天台のふたつの大師堂が建っていた。
ぽっくりさん
本堂右前に3基の石仏。讃岐の三大ぽっくりさん、とのことだが、少し大きな釈迦座像の他2基がぽっくりさんなのだろうか。はっきりしなかった。また、三大という、その他の二つのポックリさんは?特段、これに関する記事はヒットしなかった。

庚申堂
本堂右前に庚申堂。お寺の境内に庚申堂が建つのは珍しい。内部には見ざる、言わざる、聞かざるの三猿を従えた青面金剛像が祀られるとのこと。お堂傍には撫で仏も佇んでいた。
庚申信仰と三猿
庚申信仰と三猿の関係は?庚申(かのえさる)からとも、また庚申の夜、天帝に宿主の罪を告げ口する三尸(さんし)の虫に己が罪を見なかった、聞かなかった、そして告げ口しないで、との願いから、とも。
道教では人には魂(コン)、魄(ハク)、三尸(さんし)という三つの霊が宿る、と言う。宿主が亡くなると魂(コン)は天に、魄(ハク)は地下に戻る。幽霊の決まり文句「恨めしや~、コンパクこの世にとどまりて恨みはらさずおくものか~」のコンパクがそれ。
三尸は宿主が亡くなると自由になれるとされる。自由になりたいがため、宿主がむなしくなることを待ち望むわけだ。この三尸、旧暦の60日ほどで一回というから、年に6,7回巡りくる庚申(かのえさる)の日、人が眠りにつくと宿主の体を抜け出す。天帝に宿主の罪を告げるためだが、そのレポートにより天帝は宿主の寿命を決める、とか。
宿主をむなしくし、はやく自由になりたい三尸に、あることないこと告げ口されたらかなわんと、人は寝ないで朝を迎えた。これが庚申待ち。眠らなければ三尸は体を抜けだすことができないためである。
庚申信仰と青面金剛
で、庚申信仰と青面金剛の関係は? 道教の天帝を仏教では帝釈天とみなすようであり、青面金剛がその帝釈天の使者であるが故と。また三尸の語呂合わせでもないだろうが、伝尸病(でんし;結核)に霊験あらたかとされるのが青面金剛であった故、とも。
大師堂
本堂の左を歩き、石段を上ると大師堂。上述の如く、大同2年(807年)に空海(弘法大師)が伽藍を整備した。その時に厄除の誓願を修し大師像を納め、それが「厄除うたづ大師」として信仰されていると云われている。




万体観音堂
大師堂の左、地下に万体観音堂がある。地下の回廊の左右に3万を越す小さな観音像が並ぶ。
淡島明神
大師堂の左、少し上ると淡島明神。案内には「以空上人と天女のはなし」とあり、大雑把にまとめると「江戸の頃、この讃岐の地で疫病がはやり、お産の後に体を壊す女性があまた出た。で、高野山の高僧以空上人にお願いし、この寺で安産子宝・女病平癒・良縁成就の請願を立て、加多の淡島神社より本尊を勧請。淡島明堂を建て女性達の守護神となした」とあった。
天女さまの言及はないが、和歌山市加多にある全国の粟島神社の総本社である淡嶋神社の淡島神は、住吉神の女妃。夫人の病に霊験あらたかともされるので、天女とは淡島神のこと?
以空上人
上人は木食上人として知られる。コトバンクには、「肉類,五穀を食べず,木の実や草などを食料として修行することを木食といい,その修行を続ける高僧を木食上人といった。
高野山の復興に尽くした安土桃山時代の応其(おうご)(木食応其)は,広く木食上人の名で知られるが,江戸時代前期には摂津の勝尾寺で苦行を続け霊験あらたかな僧として知られた以空(いくう),中期には京都五条坂の安祥院中興の祖となった養阿,江戸湯島の木食寺の開基として知られる義高,後期には特異な様式の仏像を彫刻して庶民教化に尽くした五行(木喰五行明満)があらわれるなど,木食上人として崇敬された高僧は少なくない。
木食は苦修練行の一つで,それを行うことによって身を浄め,心を堅固にすることができるとされたが,経典や儀軌の中に木食の典拠は見いだせない」とあった。
このお寺様の本堂裏手に木食上人堂がある、との記録もあったが見つからなかった。
常盤明神
淡島堂の左手に小さな社。常盤明神とあり、案内には「狸が神様になったりんお話」とあり、簡単にまとめると「足利時代、この寺にいた臨阿という僧が傷ついた狸を助けた。
臨阿が主人である細川頼之公の供で都に帰る。やがて飢饉や兵火が起こり、この寺も悪者に襲われる。が、狸は寺を護るべく奮闘。これを見た地元民も協力し、寺を護り今に伝いた」とあった。
小さな社の傍に狸が祀られたのは、それゆえのことであった。
細川頼之
いつだったか、伊予の河野氏ゆかりの地を訪ね歩いたとき、折に触れて細川来之が登場してきた。南北朝の争乱記、同じ武家方の細川と伊予の河野が相争うことに最初は混乱した。
「えひめの記憶」には「足利尊氏は、すでに幕府開設以前の建武三年(一三三六)二月、官軍と戦って九州へ敗走する途中、播磨国室津で細川一族(和氏・顕氏ら七人)を四国に派遣し、四国の平定を細川氏に委任した(梅松論)。 幕府成立後も、細川一族は四国各国の守護職にしばしば任じられ、南北朝末期(貞治四年~応安元年)、細川頼之のごときは、四国全域、四か国守護職を独占し、「四国管領」とまでいわれている(後愚昧記)。
もちろんこの「四国管領」というのは正式呼称ではなく、鎌倉府や九州探題のような広域を管轄する統治機構ではない。四国四か国守護職の併有という事態をさしたものであろう。頼之の父頼春も「四国ノ大将軍」と呼ばれているが(太平記)、これも正式呼称ではあるまい。
ともかく幕府は細川氏によって、四国支配を確立しようとしたことは確かである。その結果、細川氏は四国を基盤に畿内近国に一大勢力を築き上げ、さらにその力を背景に頼之系の細川氏(左京大夫に代々任じたので京兆家と呼ぶ)が本宗家となり、将軍を補佐して幕政を主導した。
南北朝末期、細川氏は二度(貞治三年、康暦元年)にわたって伊予へ侵攻し、河野通朝・通堯(通直)父子二代の当主を相ついで討死させた。侵攻にはそれぞれ理由があるが、その根底には、細川氏による四国の全域支配への野望があったのではないだろうか」とあった。
偶々であるがその細川氏の四国の拠点である宇多津を歩けて、なんとなくあれこれが繋がってきたように思える。


七十八番札所・郷照寺から七十九番札所・天皇寺へ■

閻魔堂
郷照寺を販れ遍路道に戻る。参道を下り切ったところ、徳右衛門道標の斜め前に閻魔道がある。「四国一のえんま大王像」と書かれた看板に惹かれお参り。堂内には閻魔様を中央に、左右に大王像が並ぶ。十王像だろうか。
十王とは閻魔王を含めた十尊。亡者の罪の多寡を審判し、地獄へ送るなど六道輪廻を司る。生前に十王を祀れば死して後の罪を軽減してくれるとの信仰がある。お寺さまに十王堂があるのはそのためだろう。が、閻魔様以外の尊像はあまり知名度がなく、ひとり閻魔さまだけが知られる。

大束川手前、公園傍の標石
古い宇多津の街並みを抜け、大束川を渡る手前、道の左手にある公園の前に標石がある。「東 高松 西 丸亀 道 すぐ金毘羅道 すぐ かわぐち 天保二年」と刻まれる。
「かわぐち」の意味するところは不詳だが、大束川に架かる橋の辺りが往昔の「鵜多の津」であったというから、そこを指すのだろうか。





西光寺
水門のある橋の手前、なまこ塀・土塀に囲まれた一見、武家屋敷といった風情の寺がある。西光寺である。
城郭伽藍様式の境内に。本堂の前面の勾欄には龍の彫り物が目立つ。本堂にお参り。本堂

左手の境内に舟屋形茶室があった。周囲は板戸で覆われ内部を見ることはできない。
案内には「江戸時代末期に建造した旧多度津藩藩主の御座船と伝えられる船屋形である。 由来については定かでないが六十二艘立の「順風丸」とする説や三十五反帆を誇った御座船 「日吉丸」とみる説などがあってその伝承も一定していない。
廃藩置県後西光寺境内に移し一部改造が 加えられたが昭和五十七年の移築解体修理によって創建当初の姿に復元されたこの種の遺構は殊に少なく 現在確認されている船屋形は本件を除けば旧姫路藩の船屋形(相楽園内)と旧熊本藩の細川家船屋形(熊本城内)と数えるのみである」とあった。





聖通寺分岐点の標石
クロスする県道193号を直進、瀬戸大橋線の高架を潜ると、その先に県道33号。遍路タグの案内があり、指示に従い県道のアンダーパスを潜り抜けると五差路。五差路といっても左手は工場跡の更地。大型ショッピングセンターが建ちはじめている。ここを北に進むと聖通寺。
その角に手印と共に「七十九番 天**」と刻まれた標石が立つ。遍路道はここを右に折れる。ここに遍路道案内のタグがあり迷うことはない。指示に従い、聖通寺山と右手の角山の鞍部に向かって緩やかな坂を進む。
聖通山のゆるぎ石
聖通寺山に聖通寺城があった、と言う。麓に聖通寺もある。細川氏由ゆかりの寺、ないしは館跡でもあったのだろうかとちょっと立ち寄り。古いお寺さまではあるが細川氏の館ではなく、館は郷照寺の南西の円通寺、多門寺の辺りであったよう。調べて行けばいいものを、成り行き任せであり、いか仕方なし。
で、地図をチェックすると聖通寺山に「ゆるぎ岩」のマークがある。なんとなく気になりゆるぎ岩に向かう。

途中聖通寺城跡である常盤公園がある。特段の遺構はなし。展望も木々に遮られ宇、それほどよくもなかった。
ゆるぎ岩は巨石が並ぶ。どれがゆるぎ岩かよくわからなかった。適当に岩を揺らすが、揺れることもなかった。後からあれこれ記事を読むと、岩を動かしている方も多いので、もう少々真面目にすれば動いたの、かも。




県道33号との交差角に標石
遍路道に戻る。上述道標に従い、ゆるやかな坂を上り切った鞍部、県道33号と交差する山側に石碑と共に標石がある。石碑には「奥院岩薬師如来」、標石には「へんろ道 東坂出へ 西宇多津町へ 七十八番?二十一丁、二キロ半 七十九番へ一里 四キロ」と刻まれる。







巨石に刻まれた不動尊
県道を渡ると道の左手に田尾公園がある。ここにも遍路道案内のタグがある。公園内を抜けるようだ。
指示に従い車道を左に折れ、公園へのアプローチ道に入ると、道の左手、民家の前に巨大な岩に彫られた不動明王の像があった。

白金町の本街道右側に標石
田尾公園を抜け、そのまま東に進む本街道に入り直進。右手に大きな境内をもつ八幡社、進んで右手に州賀金毘羅社の小さな社にお参りし、八幡町から白金町に入る。道の右手に「すぐ邊路路 左こんぴら道」と刻まれた標石があった。



本街道を東へ、坂出市街を抜ける
遍路道は交差点を越え、そのまま本町のアーケード商店街に入る。アーケードを抜けると元町・京町、室町、旭町、横津町と直進し坂出市街を抜ける。

標石2基の分岐点で本街道から右に折れる
横津川を越え、本街道が金山の山裾に接する辺り、道の右手に2基の標石がある。手印と共に、「七十八番 七十九番 扁ん路道」「邊ろ道 右七十九番崇徳**」といった文字が刻まれる。遍路道はここで本街道と分かれ右に折れる。




予讃線・瀬戸大橋線踏切先の標石
細い道を進み予讃線・瀬戸大橋線の「金山国道踏切」を渡り、少し進むと、道の左手に標石がある。手印と共に、「崇徳天皇道 札所へ四丁」と刻まれる。









八十場の霊泉
金山(標高280m)の東山裾を進むとやがて八十場の霊泉に着く。森と泉とお堂。崇徳上皇ゆかりの地と思うだけで、なんだかちょっと身構える。
泉の脇に石碑があり、「崇徳上皇御殯*御遺跡 白峰宮」と刻まれる。その脇の案内には、「八十蘇場の清水
  やそばの水はドンドン落ちる  つるべでくんで ヤッコでかやせ
むかしから讃岐のわらべたちに唱われたこの泉は、いかなる早天にも濡れることなく、今も清冽に流れている。

景行天皇の御代、南海に征して悪魚の毒に悩んだ讃留霊皇子(讃留霊王)とその軍兵八十八人は童子の捧げるこの水によって蘇ったがゆえに、八十蘇場の水との伝説を持ち、芳甘清碧な水は古くより薬水として尊ばれ、茶人にも愛されて、遠くは阿波山中より求め来る人も多いという。
八百年のむかし、保元の乱 によって綾北に配流された崇徳上皇が南狩 9年にして鼓岡行在所に崩ぜられるや御殯*の地となり、御尊体をこの霊水にひたして損腐を防いだ聖地でもある。 老杉は天を覆って森厳の気を生じ、清水は酒々として行人の心を濯ぐ、やそばはまごとに霊泉の聖地である 坂出ライオンズクラブ」とあった。

現在は八十場、昔は矢蘇場、この案内には八十蘇場、Googleの地図には野沢井(崇徳上皇ゆかりの地)とある。清水の傍にある地蔵堂脇には「西国三十三所石物観音彌蘇場道、とあった。
讃留霊王
綾氏の祖先とする。讃留霊王は景行天皇の御子神櫛王ともいわれ、「讃岐の国造の始祖」の系と言う。

茂兵衛道標(100度目)
清水の前は金山と城山の間を進んできた道が合わさるT字路。その角に「道場寺 第七十九番霊場 左 高松 明治廿一年」と刻まれる。第七十九番霊場の手印は右(南)を指す。左に進む遍路道もあるが、今回は道標に従い右に折れる。






裏参道への標石
ほどなく道は分岐。分岐点に手印と共に「左へんろみち」と刻まれる。左に折れる道は第七十九番札所高照院、というか天王寺というか、白峰宮の裏参道。第七十九番札所高照院に着いた。

2回に分けてメモした七十七番札所道隆寺から七十九番札所までの旧遍路道散歩を終える。



仲多度郡多度津町の道隆寺から、丸亀市域を抜け綾歌郡宇多津町の郷照寺を打ち、坂出市市街を抜けて天王寺まで、おおよそ13キロの遍路道を辿る。 当日は道隆寺から天皇寺まで進んだのだが、道隆寺から郷照寺までの間、あれこれ寄り道しメモが結構長くなってしまった。
今回のメモは郷照寺までの遍路道のメモとし、その先は次回に廻す。

本日のルート;
七十七番札所・道隆寺から七十八番郷照寺へ
七十七番札所・道隆寺>地蔵堂傍の茂兵衛道標>天満宮傍、T字路角の標石>塩屋別院>正宗寺>寿覚寺南の金毘羅標石>(太助灯篭へ>寿覚院山門前の常夜灯と標石>太助灯篭)>丸亀市街を抜け宇多津に入る>県道左側に地蔵堂>誰袖(たがそで)の標石>誰袖(たがそで)の標石>本妙寺>郷照寺参道前の徳右衛門道標>七十八番札所郷照寺
七十八番札所・郷照寺から七十九番札所・天皇寺へ
七十八番札所郷照寺>閻魔堂>大束川手前、公園傍の標石>西光寺>聖通寺分岐点の標石>(聖通山のゆるぎ石)>県道33号との交差角に標石>巨石に刻まれた不動尊>白金町の本街道右側に標石>本街道を東へ>標石2基の分岐点で本街道から右に折れる>予讃線・瀬戸大橋線踏切先の標石>八十場の霊泉>茂兵衛道標(100度目)>裏参道への標石>第七十九番札所高照院


七十七番札所・道隆寺から七十八番郷照寺へ■

七十七番札所・道隆寺からスタート
道隆寺を打ち終え、次の札所に向かう。境内から出るのも、また境内から少し離れた本坊からでるのも、遍路道は境内北側を丸亀市街へと走る車道を進むことになる。
本坊は結構風格がある。総本山醍醐寺のもと、全国に六つある真言宗醍醐派の大本山のひとつ。
こじんまりとした境内を歩きながら、第三世が空海の実弟である法光大師、第四世が円珍こと智証大師、第五世が理源大師と高僧が住職を務めたということに何となく??を感じていたのだが、この本坊を見て納得。
本坊北角の標石を直進し遍路道にでる。


地蔵堂傍の茂兵衛道標
道隆寺を出て東に向かった道はすぐ丸亀市域に入る。丸亀に入って直ぐ、道の右手に地蔵堂があり、その脇に茂兵衛道標が立つ。「右どう里う寺 左道場寺 明治二十七年」と刻まれる。茂兵衛134度目巡礼時のもの。道場寺は七十八番札所・郷照寺の古い呼び名である。

天満宮傍、T字路角の標石
金倉川を渡り、讃岐塩屋駅を越えると道の左手に天満宮。その東側、T字路角に標石が立つ。「本派本願寺 塩屋別院 本願寺坊舎」の文字と「逆へん路通りぬけ道あり」と刻まれる。「抜け道云々」の指示するところは不明だが、ここでちょっと遍路道を離れ標石の指す塩屋別院に立ち寄る。
本派本願寺
本派本願寺とは西本願寺の異称。大谷派本願寺に対してのもの。西本願寺とは浄土真宗本願寺派の本山である本願寺の通称。大谷派は浄土真宗十派の一。第12世教如が、徳川家康の寄進を受けて烏丸に東本願寺を建立したのち、独立したもの。明治14年(1881)東派から大谷派に改称(「コトバンク」より)。

塩屋別院
予讃線を潜るとほどなく誠に大きな山門と広い境内、堂々とした伽藍をもつ塩屋別院がある。本堂前にあった案内には、「本願寺塩屋別院の起源は、江戸時代の慶長20(1615)年に播州赤穂(現 兵庫県赤穂市)の教法寺と門徒30戸が塩田開墾のため、集団移住したのが始まりである。
当初は教法寺道場と称し、寛永20(1643)年讃州那珂郡塩屋村総道場教法寺と称する寺号を賜わり、以来、念仏者の中心道場となっていった。
当時の敷地は東西二十五間、南北三十間(750坪)本堂は東向き七間四面、境内の地上げに必要な築石は丸亀城築城の残石で補ったと言われている。
享保19(1734)年に本願寺塩屋別院となり、延享2(1745)年面積を六段六畝十三歩(1993坪)に拡大し、現在の本堂の建設に入り、それまでの本堂を対面所とした。
現在の本堂は、寛延2(1749)年に起工し、上棟は安永(1775)年でおよそ30年の歳月を要した。さらに完工までに相当の年月を要し、大工棟梁も3人目にして完成したと言い伝えられている。
また本堂完工後、書院・奥座敷・学寮・講堂・表門・鐘楼・表納所・経堂・土蔵・輪番所・講中詰所・集会所・茶室等が順次建てられ、全ての完成まで50年余りを要したと推測される。
平成5年より平成大修復を策定実施し、平成7年に本堂屋根修復・大書院の修復を完了し、平成9年には研修会館を新築した」とあった。

それにしても立派な構えである。讃岐遍路歩きの折々に、曼荼羅道での蛇岩や善通寺の法然上人逆修の塔など、上人ゆかりの地に出合った。承元の法難により讃岐配流となった上人は放免されるまでの10ヶ月間、讃岐各地での布教をおこなったというから、上人の浄土往生の教えが広まったのだろうか。
もとより、この塩屋別院は浄土真宗であり、法然の開いた浄土宗ではないが、浄土真宗の開祖親鸞は法然の教えを継承し発展させたものである。浄土真宗とは浄土往生を説く真実の教え、ということのようだ。
ドイツ兵俘虜収容所
尚また、案内には「本願寺塩屋別院におけるドイツ兵俘虜収容所」の案内があり、「大正3(1914)年に勃発した第一次世界大戦。イギリスと交戦中のドイツに対して、日本は同盟関係にあったイギリスとともに中国領土内でドイツと戦火を交えた。数か月間の攻防が続いた後、ドイツ軍は最後の砦となっていた青島(チンタオ)が陥落し、降伏した。その際、捕虜として捕えられたドイツ兵4,627人が、日本にあった12か所(四国には松山、徳島、丸亀の3か所)の俘虜収容所に送られた。
同年11月16日、多度津港へ入港後、丸亀俘虜収容所(本願寺塩屋別院)に収容された俘虜324人は2年5か月もの長い間、丸亀で俘虜生活を送ることとなる。その間の塩屋別院門信徒との交流・俘虜たちの暮らしぶり等、当時の貴重な写真も残っている。
当時の俘虜の生活は、個人個人を尊重した収容所運営を図っており、運動する事やビールを飲むこと等を許可する運営が行われていた。やがて彼らの能力を活かす機会も増え始めソーセージを作ったり技術者として学校等で技能の指導を行ったりしていた。
また、俘虜のエンゲルを中心に楽団を結成し、26回もの演奏会を開催している。その中で、男性合唱団も2団体結成され「収容所合唱団」として独自のコンサートも開催し、活発に活動していた。彼らの音楽活動は、丸亀の収容所から始まり、その後、徳島の板東俘虜収容所へ移り、そこでも音楽活動が盛んになった」との説明が当時の写真と共にあった。

第一次大戦の捕虜収容所といえば、松江中佐が所長であった徳島の坂東俘虜収容所が有名だが、偶々訪れたこの丸亀にも同様の精神で運営された収容所があった。松山で出合った日露戦争でのロシア兵捕虜収容所の写真、市民と道後温泉で寛ぐ姿、三津浜で海水浴を楽しむ姿、将校は市内の民家を借りて住むことも認められていた、といったことなどを思い起こす。
松江中佐と坂東俘虜収容所は『ふたつの山河;中村彰彦著(文春文庫)』に詳しい。

正宗寺
遍路道筋に戻り少し東に進むと、道の右手に正宗寺がある。何気なく立ち寄る。と、ここも法然上人ゆかりの地であった。
法然上人櫂堀井戸
道を少し南に折れ、境内入口に。入り口に佇む北向地蔵にお参りし境内に。境内南端に覆屋があり、その下が井戸となっている。
法然上人が、讃岐の塩飽諸島の笠島浦(かさじまうら)から、讃岐金刀比羅宮の東麓、九条家の荘園である小松庄へ移ることになり、船でこの地・塩屋に上陸。この時、水を願って船の櫂で地面を掘ると、水が湧きだしてきた、と。 櫂堀井戸の名前の由来である。当時はこの辺りが海岸線であったということだろう。
なお、安政五年(1858)の『西讃府誌』には「棹の清水」として伝えられ、「信じられないことであるが誰もがこのことを知っているので、仕方なく載せた」という内容の添え書きまであるという。
舟つ奈き岩
井戸の東、木の下に二つの石碑がある。ひとつは「舟つ奈き岩」とある。法然上人上が讃岐上陸の折の岩だろうか。またその横に自然石。何か刻まれているようだがはっきりしない。自然石に「ほうねん上人かいの水 南無(なむ)は船阿弥陀(あみだ)のかいで堀(ほる)清水(しみず)末の世までも仏仏(ふつふつ)とわく」と刻まれるとの記事があったので、その石碑かもしれない。

法然堂もあるこのお寺さまは、法然上人が去ったあと、弟子の成阿坊が残り、草庵を守り教えを広めたとのことである。
北向き地蔵
散歩の折に触れて北向き地蔵に出合う。今までスルーしていたのだが、そもそも何故に「北向き」を特別視するのだろう。チェックする。 地蔵菩薩の住む浄土である?羅陀山(きゃらだせん;須弥山を囲む七金山のひとつ)は南にある。故におのずと地蔵は北を向くことになる、と言う。それはそれでいいのだが、北向き地蔵と敢えて挙げる説得力に乏しい。
北は鬼門など忌むべき方角とされる。それにも関わらず敢えて北を向くことが、逆に特別な霊威を感じるといった信仰故との説もある。また、中国には王者南面の思想がある、と言う。京都御所しかり、天皇陵(御醍醐帝を除き)しかりである。北は「下座」と言うことだろう。
で、何故に「北向き」を特別視するか、ということだが、それはお地蔵さまの「役割」をはっきりと表したもの故、と言う。釈迦入滅後、弥勒菩薩が現れるまでの気の遠くなるような間、この現世に仏が不在となる。その間仏に代わり六道を輪廻する衆生を済度するのが地蔵菩薩とされる。「一斉衆生済度の請願を果たさずば、我、菩薩界に戻らじ」と、地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道に現れ、下座にある我々に寄り添い済度するということだろう。
全国に北向き地蔵は400体ほどある、と言う。敢えて北を向く故の霊威なのか、民衆に寄り添う故の下座としての北向きなのか門外漢にはわからないが、何となく「北向き」を特別視する理由はわかったように思える。

寿覚院南に金毘羅標石
道を東に進み、西汐入橋に架かる塩屋橋を越え更に直進すると寺の境内に行く手を阻まれる。辺りはいくつもの寺が集まる寺町で寺のようだ。
T字路を右に折れ寿覚院の南、県道21号(丸亀宅間豊浜線)に入り、少し東に進むと県道33(交差点から北は県道204号)と交差する。その交差点の少し手前、県道21号の右側に金毘羅標石。
「左こんぴら道 すぐこんひら 右かわくち 明治十三」といった文字が刻まれる。
丸亀街道
金毘羅道標の脇に「こんぴら湊 丸亀街道」の案内が詳しいルート図と供にある。案内には「こんぴら湊 まるがめ街道  現在こんぴらさんとして親しまれている金刀比羅宮 は、古くから金毘羅大権現として広く信仰を集めていました。 特に江戸時代後期には金毘羅参詣が一般庶民の間で人気となり多くの人々が参詣に訪れるようになりました。
主な金毘羅街道として、丸亀街道 、高松街道 、多度津街道 、阿波街道 、伊予・土佐街道 の5街道 が知られています。この中でもっとも多くの参詣客が利用し、にぎわったといわれているのが丸亀街道です。 丸亀から金毘羅までの約3里(12km)の道筋には今も、道標 、丁石 (距離を表す単位である丁数が 刻まれている石造物 )、燈籠 が多く残され、往時のにぎわいを今に伝えています」とあった。

太助灯篭へ□

ルート図には随所に金毘羅標石が立っている。そのうちに歩いてみたい、などとルート図を辿っていると四国への上陸地点、金毘羅街道のスタート地点である丸亀湊に「太助灯篭」とある。何となく名前に惹かれちょっと立ち寄ることに。
寿覚院山門前の常夜灯と標石
ルート図を辿り金毘羅標石の道を隔てた北、寿覚院と民家の間の道を進む。と、ほどなく寿覚院山門前に金毘羅常夜灯と標石が立つ。常夜灯には「大阪講中」と刻まれる。標石には手印と共に、「こんぴら せんつじ へんろみち」「往昔金毘羅大権現 當山十一面観世音 明治五年」と言った文字が刻まれる。
京極家の前の丸亀藩主山崎氏の菩提寺である寿覚院の本尊は十一面観音である。
太助灯篭
予讃線・丸亀駅、更にみなと公園西側の道路脇にたつ常夜灯を見遣り丸亀港へ。港の太助灯篭は予想以上に大きくすぐわかった。傍にあった案内には「金毘羅講燈籠  丸亀 は金毘羅参詣客の上陸地で、門前みなととして栄えてきた。金毘羅講寄進のこの青銅燈籠は、天保九年 (一八三八)の製作で、高さ五・二八メート ル、蓮華をかたどり八角形である。
ここの船溜り(新堀湛甫)を築造するとき、当地の金毘羅宿の主人柏屋団次らが発起で江戸に行き、江戸および近国で千人講を作り、江戸本所相生町の富商塩原太助の奉納金八十両をはじめ、千三百五十七人が出し合った金でできた信仰と、航路標識とかねたもので、江戸講中の代表、八十両の最商領寄附者の名をととめて、一名「太助燈籠 」とも呼んでいる。
天保の昔、対岸にニ基・福島湛甫にニ基建てられたが、戦時中の金属回収で姿を消し、この一基だけが残っている。金毘羅街道 の「一の燈籠」である。 丸亀市教育委員会」とあった。
塩原太助
Wikipediaには「江戸の豪商。裸一貫から身を起こし、大商人へと成長。「本所に過ぎたるものが二つあり、津軽屋敷に炭屋塩原」と歌にまで詠われるほどの成功をおさめた」とある。
塩原太助には散歩の折々に出合った。隅田区では太助ゆかりの塩原橋に出合った。足立区の東陽寺では太助のお墓に出合った。群馬と新潟を隔てる三国峠を越えたとき、途中にあった猿ヶ京温泉の辺りは塩原太助の生まれたところ、と言う。長年歩いているとあれこれと繋がってくるものである。
因みに塩原太助を一躍有名人としたのは三遊亭円朝の『塩原太助一代記』と言う。

新堀湛甫・福島湛甫
湛甫(たんぽ)とは「船の停泊するところ」の意。太助灯篭の少し東、岸壁にあった石碑、「湛甫(しんぼりたんぽ)のみち」には、「天保3(1832)年、丸亀藩主は幕府の許可を得て、西平山の海岸に湛甫を築いた。東西80間(145,44m)、南北40間(72,72m)、入口15間(27,27m)の湛甫が完成された。
この湛甫を新堀湛甫(しんぼりたんぽ)と呼び、その付近一帯の地名を新堀と呼んだ。湛甫ができると、阪神、岡山からの金毘羅参拝の船が往来し、いままでにもまして丸亀はいっそう繁栄した」とある。
福島湛甫は新堀湛甫より以前、それまで船着場として使われていた内浦湛甫に代わり、文化三年(1806)に築造された。役夫およそ6万名弱が投入された、と言う。
上述太助灯篭は新堀湛甫築造に際し、夜間航行の標として十二基計画された灯篭の第一号。上述の説明に拠れば、太助灯篭を含め新堀湛甫には三基建てられた、ということになる。
港の公園には大阪と丸亀を結ぶ金毘羅参拝の定期舟船(月参船)である金参船をかたどった遊具などが造られていた。月参船は丸亀京極家の第六代藩主である京極高朗(在位1811‐1850)の頃就航した、と言う。
遍路道に戻る。

丸亀市街を抜け宇多津に入る
遍路道は上述金毘羅道標の先にある交差点を直進し丸亀市街を抜ける。右手には丸亀城が見える。
交差点を直進する四車線の道路は県道21号・県道33号重複路線。丸亀市街を抜ける遍路道には標識は残らない。道路整備により撤去され、お城近くの市立図書館の庭に道路元標識など他の石造物と共に集められているようである。
●丸亀城
丸亀城は以前訪れたこともあり、今回はパス。
標高66mの小山・亀山に築かれた城。「扇の勾配」と称される城壁のカーブが美しい。石垣の高さは日本一と言う。城は室町の頃、管領細川頼之の重臣である奈良元保安により築造。現在の構えは慶長2年(1598)から5年の歳月をかけ、生駒親正とその子・一正により、西讃防備のため高松城の支城として造られたもの、と。
後の寛永18年(1641)丸亀藩主として山崎家治が入城、次いで万治元年(1658)に京極高和が城主となり、明治まで京極六万石の城下町として栄えた。 因みに丸亀の由来は、城の築かれた亀山の姿より。円形のその姿より、生駒氏築城の頃は「円亀」と呼ばれたようだが、その後「丸亀」となった、とか。

県道左側に地蔵堂
土器川に架かる蓬莱橋を越え土器町にはいる。県道21号はここで終わり、この道は県道33号高松善通寺線となって東に進む。汐止めゲートらしき施設が海側にある新内橋を渡ると香川県綾歌郡宇多津町に入る。
道を進み、JR宇多津駅の駅前通りが県道にあわさるT字路に地蔵堂がある。地蔵堂の裏手は独立丘陵である青ノ山(標高224m)となっている。



誰袖(たがそで)の標石で県道を右折
地蔵堂から県道194号の高架を潜るとほどなく、道の左手に立派な標石がある。「西 丸亀道右 扁ん路道 文久三」が刻まれる。この標石は指にもった扇子が方向を示し、手元には袖が刻まれている。このような袖まで刻まれた標石のことを「誰袖(たがそで)の標石(しるべいし)」と呼ぶようだ。寄進者は宇多津の魚問屋の主人とのことである。
同様の「誰が袖道標」には愛媛県西条市丹原で出合った。





宇夫階(うぶしな)神社
標石を右折すると宇夫階神社の正面鳥居前に出る。趣のある社。Wikipediaには 「伝承では、宇夫階神社は紀元前から鵜多郡の郷に鎮座し、宇夫志奈大神として祀られている。景行天皇の皇子日本武尊の子、武殻王(たけかいこおう)が阿野郡に封ぜられた際に、瀬戸内海海岸を船で御巡視したが、暴風雨に遭遇し、王は驚いて宇夫志奈神に祈念すると、小烏が跳び風波を凌ぐ道しるべとなり王を導いた。 王は大変喜び、水夫に命じて烏に従い、泊島(丸亀市塩飽本島泊)に漂着し難を逃れた。これより宇夫志奈大神を一層篤く崇められ、小烏大神と称されるようになったとされる。現在でも「小烏(こがらす)さん」との別称が地域で受け継がれている。
また光仁天皇により、779年(宝亀10年)には社殿再興のことが伝えられている。 さらに平城天皇の806年(大同元年)10月、藤原鎌足四世の孫左京大夫藤麻呂の孫とされる、津の郷の長者、末包和直に宇夫志奈大神の託宣があり、末包は当時の国守に上申し、神主となり長く祭祀を行い来った。翌807年、平城天皇の治世に、社殿から光明が射すことが度々あり、勅命により現在の位置に遷座し社殿が造営された」とある。
古い社である。鉄筋コンクリート造りの拝殿は別として、境内の建物の多くは登録有形文化財に指定されていた。
本殿
本殿は伊勢神宮外宮の第一別宮である多賀宮の旧正殿を移している、と。当社の本殿・拝殿が昭和47年(1972)に火災により焼失。この年が伊勢神宮の式年遷宮の時期でもあったため、旧多賀宮を貰い受け本殿とした。20年毎にすべてを造り変え、本来であれば見ることのできない伊勢神宮の社が今に残る。
本殿を拝することができるのかどうか、伊勢様式を真似た神明造り鉄筋コンクリート造銅板葺の拝殿を奥へと回り込む。屋根全体が銅合金版で覆われており、元の白木屋根の多賀宮は奥に配されているのか、拝すること叶わず。本殿建物のどこまでが文化財の指定を受けているのか不明だが、昭和の建物が文化財指定を受けるのは珍しいようである。
巨石(いわさか)と御膳岩
本殿はともあれ、拝殿から奥へと回り込んでいると、「巨石(いわさか)と御膳岩」の案内があった。案内には「この巨岩は古代祭祀の遺跡である。いわさかは神座と呼ばれ、古代より信仰の対象としてあがめられていた。これに対し御前岩は神饌(私注;しんせん:神に供える酒食(しゅし))を置き献ったものである。
また、いわさかは巨石文化の遺構ともいわれ、その形状は高さ5.5m,直径4mであり、重さは三百トン以上と推定される」とある。




本殿裏手に巨大な岩があり、それが巨岩。本殿右手、これも巨大な石灯篭の立つあたりに御膳石があった。古代祭祀が行われていた場所に社が建てられた、ということだろうか。
宇夫階(うぶしな)
ところでこの宇夫階(うぶしな)神社に祀られる宇夫志奈大神って?チェックしてもヒットしない。が、なんとなく産土(うぶすな)神に関係ありそうな気がする。「産土神」とは、その地に生まれた人の守護神。地縁に基づく信仰である。谷川健一氏に拠れば、生まれ落ちて最初に触れる砂が産土の語源であり、その土地の霊が子供の守護神になるという信仰がその原点である、と。
実際、産土神を宇夫須那神、宇夫志奈神とも記すという。古代祭祀の頃まで遡る地域共同体の守護神といったところだろうか。単なる妄想。根拠なし。

□もうひとつの遍路道□

この鳥居前で、上述「誰袖の標石」ルートと合流するもうひとつの遍路道がある。そのルートは上述県道194号の高架を潜ると直ぐ県道を逸れ、右に折れる脇道に入る。ほどなく手印と共に「七十八番郷照寺」と刻まれた標石があり、そこを右折。緩やかな坂をのぼり、そして道なりに坂を下ると鳥居前に出る。遍路タグはこちらの道を示していた。



本妙寺
静かな佇まいの家並を進む。右手に建つ本妙寺。美しく整えられたアプローチ、その先に立つ2基の銅像に惹かれちょっと立ち寄り。銅像は日蓮大菩薩、日隆大聖人菩薩。山門を潜り本堂にお参り。
境内に大きな石柱。「日隆大聖人御舊跡 鳳凰霊水」とある。案内に拠ると「本妙寺はおよそ550年の昔、室町時代のはじめ後花園天皇の嘉吉2年、この地に布教に来られた法華宗中興の祖日隆聖人によって開かれた。聖人御歳五十八。秋山土佐守建立、日蓮大菩薩ゆかりの番神堂(私注;丸亀旧市街の番神宮)において法華教を説かれた。
当時この地は鵜足津と言い、将軍足利義満公を育てた細川頼之公の領国であり、居住地でもあったことから、讃岐の国の政治経済文化の中心地、港湾都市として大いに栄えていた。しかし、この地は海浜のため飲料に供する水が乏しく、人々は体調を損ね、大いに難渋しておりました。それを憐れんだ聖人は、自らの杖をもってこの地にあった桐の巨木の根本を掘られた。と、そこより清澄なる水が渾々と湧き出で、またその時、桐の巨木にはこの世の瑞鳥鳳凰が飛翔し舞い降りた。
人々は眼前の奇跡に驚き、聖人の教えに帰依し。 以来この水は、鳳凰霊水と呼ばれ、いかなる干ばつにも一日として涸れることなく 湧き続けており、御題目を唱えつつ戴くことによって、不老長寿、すなわち成人病等について霊験まこと にあらたかと伝えられる」と言いったことが書かれていた。
鵜足津
鵜足津は鵜足郡の津のこと。鵜足の津には古来、手置帆負命(たおきほおいのみこと)の子孫が代々、矛竿(ほこさお)を朝廷に献上するに際し、この津ヨリ船出した、との伝説が残る。
また、この矛竿の大和朝廷への貢物より古くは竿調国(さおつきのくに)と称され、それが「さぬき」に転化したとの説もある。讃岐国の由来である。 この地、津の郷が文献に現れるのは9世紀前半。このころ既に海上交通の要衝となっていた。
南北朝の頃、南朝方に与し阿波に下った従兄細川清氏が白峰城に陣を張ると、 室町幕府の管領細川頼之が宇多津に上陸。郷照寺裏の青ノ山に対陣し清氏を討つ。その後頼之は館を聖通寺城下に置き、宇多津は守護領国讃岐の政治の中心ともなり栄えることになる。聖通寺城は宇多津の東側、聖通寺山にあった。

郷照寺参道前の徳右衛門道標
本妙寺を離れ先に進むと、道の左手に自然石の門のような造作がある。壁はコンクリートブロックの上に古い屋根を被せたお堂。地蔵堂のようである。そこを少し東に進むと郷照寺の案内がある。
その角に「是より天の社まで一里半」と刻まれた徳右衛門道標がある。 天の社は七十九番札所 高照院天皇寺のこと。郷照寺はここを右に曲がり、ゆるやかな坂を上る。

あれこれ寄り道が多く、メモが結構長くなった。当日はこの先、天皇寺まで進んだのだが、今回のメモはここまで。郷照寺から先は次回に廻す。
先回は善通寺から七十六番 金倉寺までの旧遍路道をメモした。今回は金倉寺から七十七番札所 道隆寺への遍路道をメモする。
またついでのことでもあるので、善通寺から金毘羅さんを参拝し金倉寺への遍路道に戻るルートも加えた。善通寺から金毘羅さんはすぐお隣。これまた7キロほどである。善通寺から金毘羅宮を参詣し、七十六番 金倉寺への遍路道に戻る方も多いのでは、との想いではある。
更に追加。善通寺から道隆寺までの遍路道を歩いた後、善通寺赤門筋にある善通寺郷土館を訪れたのだが、そこで頂いた資料に善通寺市内、石神神社経由で金倉寺へと辿る遍路道があり、その遍路道のほうが先回歩いた金倉道への遍路道より古い、とのこと。
旧遍路道を辿る者としては、これをメモしないわけには、ということで元禄の頃の遍路道と郷土館の方がおっしゃる旧遍路道を最後に付け加える。

本日のルート;
第七十六番札所・金倉寺から第七十七番札所・道隆寺へ
76番札所・金倉寺>金倉寺駐車場入口の標石>県道33号手前に茂兵衛道標(115度目)>六条地蔵堂の標石>国道11号を越え葛原正八幡宮へ>お堂傍に標石>茂兵衛道標(143度目)>2基の標石>道隆寺南の標石>第七十七番札所・道隆寺

金毘羅経由、金倉寺への遍路道
多度津金毘羅道;善通寺から金毘羅宮
善通寺赤門>県道24号を右折>護国神社・乃木神社>県道47号に>南部小学校先で県道47号と分かれる>四つ辻の2基の標石(伽藍道が合流)>三界萬霊地蔵尊>原御堂>土讃線踏切手前の金毘羅標石>土讃線脇の金毘羅石灯籠>清少納言 史跡衣掛けの松跡>四国ガスのガスタンク>金倉川に沿って進む>39基の並び石灯籠>大宮橋東詰めに高灯籠>一の橋西詰の金毘羅宮参道口に
伽藍道(多度津金毘羅道の枝道)
南大門>鶴ケ峰西>樽池>四つ辻で多度津金毘羅道に合流
多度津金毘羅道・魚道・遍路道金毘羅宮から金倉寺;
四国ガスのガスタンクに戻る(多度津金毘羅道)>尽誠学園前の標石(魚道が寸断されており、国道319号・県道25号を進む)>金毘羅灯籠の標石へ>金倉寺への遍路道に

石神神社経由、金倉寺への遍路道
赤門>県道24号>旧多度津金毘羅道>県道48号>3基の標石>石神神社から高松自動車道へ>榎之木涌の標石>かりてい道>道隆寺



■第七十六番 金倉寺から第七十七番札所 道隆寺への遍路道■

金倉寺駐車場入口の標石
金倉寺を離れ、次の札所七十七番 道隆寺へ向かう。寺の西側にある金倉寺駐車場の入口、道脇に標石がある。手印と共に、「へん路みち 明治十九年」と刻まれる。






県道33号手前に茂兵衛道標(115度目)
駐車場を出て、境内西側の道を北に。道の対面にある御詠歌大和流の総本山・徳善寺を越えた先、県道33号の手前に徳善寺の境内に沿って左に弧を描く道があり、その角に茂兵衛道標が立つ。手印と共に「道隆寺 金倉寺 明治二十三年」の文字が刻まれる。茂兵衛115度目の巡礼時の道標である。

御詠歌大和流
詠歌とは元は和歌を詠むことを意味したが、御詠歌は巡礼歌の俗称として用いられる。平安期にその起源をもつという巡礼歌は、中世以降盛んとなり全国各地で発展した。大正10年(1921)になり各地に伝えられた巡礼歌を収集・編集し、従来の俗謡としての巡礼歌を近代的な理論に基ずく仏教音楽として巡礼歌を発展させたのが大和流と言う。
大和流は真言宗系ではあるも、特定宗派に属することはなかったが、その後徳的宗派に属する御詠歌流派が誕生した、と言う。

六条地蔵堂の標石
茂兵衛道標手前を左に折れ、弧を描く細路を50mほど西に進み県道を越える。県道を越えた処にある「へんろ道拡張整備」の竣工碑を見遣り北へと進むと、十字路北角に六条地蔵堂がある。その庵の前、石灯籠脇に「右 へんろミ* 明和」などと刻まれた標石がある。




国道11号を越え葛原正八幡宮へ
六条地蔵堂の十字路を直進し国道11号を抜けると畑の中を進む遍路道案内は右を示す。正面には清酒金陵の多度津工場があり、迂回するのだろう。右折点には標石らしき石が埋もれるが文字も読めず確証はない。
遍路道案内に従い右折し、畑の中の細路(軽自動車一台が通れる程度)を進み、成り行きで左折し鬱蒼と茂る森に向かう。森は葛原正八幡。玉垣に沿って道を進み、八幡の森ほたるの里とされる緑の中を歩くと立派な随身門がある。

葛原正八幡
随身門を潜り境内に入り拝殿にお参り。かつては一国一社と呼ばれた古い社である。延久五年(1073)、道隆寺住職の勧請による。往時は茶店、宿などで賑わったが、明治5年(1873)の大火により現状のものとなったようだ。
葛原八幡付近の旧遍路道
成り行きで随身門に進み拝殿から境内を北西に斜めに横切り出口へと向かった。出口は境内西側を北に向かう道に合流するが、その道が東西に走る道路と交差するところに2基の茂兵衛道標がある。
本来の遍路道、清酒工場が建つ前は、清酒工場前で左に折れることなく現在の工場敷地を横断し、この茂兵衛道標へと繋がっていたのではないかと思う。
延命地蔵尊
ということで手掛りでもないだろうかと社境内と清酒工場敷地が接するところまで戻る。途中には標石もあった。また清酒工場敷地が接する傍には延命地蔵堂が建っていた。
標石
延命地蔵堂から境内西側に沿う道を北に進み、右手に忠魂碑を見遣りながら進むと大木の下に「四国のみち」の石碑がある。そして、その横に標石が立つ。手印と共に「こんぞをじみち」と刻まれる。



2基の茂兵衛道標
上述境内出口の2基の道標。左手の道標には「こんぴら道 金倉寺道 明治十九年」、右手は「右丸亀 道隆寺 明治十九年」と刻まれる。共に茂兵衛88度目巡礼時のものである。






逆南無阿弥陀佛石碑
遍路標石ではないのだが、この社に逆南無阿弥陀佛石碑があると言う。逆文字、というか、裏側から見た南無阿弥陀佛の文字が刻まれる、と。八十八歳のお年寄りの女性が左手で書いたとのこと。物事は時に裏側から見ることも必要との教えのようだ。
これはおもしろそうと石碑を探す。最初は直ぐに見つかるだろうと高を括っていたのだが、これを見付けるのが結構大変だった。昔の資料にはお堂の傍にある、とのことだがお堂は延命地蔵堂だけ。その辺りには見つからない。
それではとグーグルで検索。写真が出て来た。曼珠沙華の花の中に立つとのコメント。お堂はない。曼珠沙華も花が咲いていればすぐわかるだろうが、その季節ではない。県指定天然記念物となっている社叢を彷徨い、それらしき草花が広がるところに石碑が立っていた。場所は上述忠魂碑の南側傍といったところであった。

お堂傍に標石
北にしばらく進むと、道の右手にお堂がある。その北側、畑の角に標石がある。「へんろ道」と刻まれる。






壊れた茂兵衛道標〈143度目

古い記録には、このお堂の東に破損した上部のみの茂兵衛道標が横倒しになって置いてある、と。あれこれ辺りを探すがそれらしにものは見つからない。 少し南に戻ると十字路角の民家にカーブミラーがあり、その傍に横倒しになった如何にも道標らしきものがあった。「道隆寺道 壱百四十三度目 中務」といった文字が残るとのことである。

茂兵衛道標(143度目)
北に道を進み豊原小学校を越えておおよそ100m、そこにも茂兵衛道標がある。 手印と共に「道隆寺 金倉寺 明治二十八年」といった文字が刻まれる。これも上述壊れた茂兵衛道標と同じく143度目の巡礼時のものである。

2基の標石
北に200mほど進むと、道の右手に2基の標石が立つ。ひとつは坐像の下に手印と共に「すぐへんろみち 是ヨリ札所江五丁」と刻まれた縦長の標石。もうひとつは舟形石仏であり、その台座に「北へん路道」と刻まれる。

道隆寺南の標石
道を少し進むと道の右手に「道隆寺右」の案内がある。そこを右に折れ先に進むと十字路に標石がある。手印と共に同じ面に「こんぴら こんさうじ せんつうじ 道」、また別の面には手印と共に「札所」と刻まれる。
札所への手印に従い左に折れると第七十七番札所 道隆寺の山門にあたる。


第七十七番札所・道隆寺

真言宗醍醐派大本山の寺院。詳しくは桑多山 明王院 道隆寺(そうたざん みょうおういん どうりゅうじ)と号する。本尊は薬師如来。

仁王門
山門となる仁王門を潜る。身の丈4mほどの仁王像は札所の中でも最大級のもの、とか。






ブロンズの観音像
境内に入ると参道脇に80センチほどのブロンズ製観音像が並ぶ。像は境内を縫って密門(裏門)までも続いていた。昭和49年(1974)、全国の観音霊場を参拝した信徒さんが発願いし、全国より浄財を集め昭和50年に完成した。その数200体弱とのことである。

本堂
境内を進むと正面に本堂。右手に鐘楼、大師堂、その奥に多宝塔と並ぶ。 本尊の薬師如来は秘仏で拝観できないが、脇佛として右に日光菩薩、左に月光菩薩と薬師三尊が並び、その他持国天、多聞天、増長天、広目天の仏法を守護する四天王が立つ。
薬師三尊
薬師如来を中尊とし、日光菩薩を左脇侍、月光菩薩(がっこうぼさつ)を右脇侍とする三尊形式。
日光菩薩・月光菩薩
日光菩薩・月光菩薩は、薬師如来の浄土である東方瑠璃光世界の主要な菩薩であるとして言及されるが、薬師如来の脇侍として造像される以外に、日光菩薩・月光菩薩単独での信仰や造像はないと言ってよい。
日光菩薩は、一千もの光明を発することによって広く天下を照らし、そのことで諸苦の根源たる無明の闇を滅尽するとされ、月光菩薩は月の様な清涼をもって衆生の生死煩悩の焦熱から離れるという意味がある(Wikipedia)。

Wikipediaには、「天平の頃この付近は桑園であった。寺伝によれば、和銅5年、当地の領主である和気道隆(私注:金倉寺を創建した和気道善の弟)が桑の大木が夜ごと怪しい光を放ったのでその方向に矢を射ると、矢が乳母に当たり誤って殺してしまった。これを悲しんだ道隆は桑の大木を切り、薬師如来を刻んで堂に安置したのが起源であるという。
道隆の子の朝祐は、大同2年(807年)唐から帰朝した空海に頼み、90cmほどの薬師如来を彫像し、その胎内に道隆の像を納め本尊とし、また、空海から受戒を受け第2世住職となって、七堂伽藍を建立し父の名から「道隆寺」と号した。
第3世は空海の実弟の真雅僧正(法光大師)が継ぎ23坊を建立、第4世は円珍(智証大師)で五大明王を彫像し護摩堂を建立し、第5世の聖宝(理源大師)の代には「宝祚祈願所」となり大いに栄えた。
しかし、貞元年間(976年から978年)の大地震による被害や、康平3年(1060年)の兵火や、天正の兵火による災難にあって興亡を繰り返した」とある。 「宝祚」とは天子、天皇の位のこと。天皇の祈願所ということだろ。 それほど大きなお寺さまでもないのだが、高僧が並ぶ。かつては大いに栄えたお寺様ではあったのだろう。

鐘楼
通常の鐘とは異なり、鐘の上部、音をためるための擬宝珠が無く梵字がついている、とのこと。それもあってか(?)戦時の供出を免れている。









大師堂・多宝塔・妙見宮
大師堂の傍には空海に許しを請う衛門三郎の像がある。多宝塔は二重塔。妙見宮は上述の寺伝にある、桑の木の光を妙見とみたて堂を建てた、と。この寺は妙見信仰で賑わったとのことである。
衛門三郎
伊予国荏原荘(現在の松山市恵原(えばら)町)に住む長者であった衛門三郎。性悪にして、ある日現れた托鉢の乞食僧の八日に渡る再三の喜捨の求めに応じず、あろうことか托鉢の鉢を叩き割る。八つに割れた鉢。その翌日から八日の間に八人の子供がむなしくなる。
子どもをなくしてはじめて己れの性、悪なるを知り、乞食僧こそ弘法大師と想い、己が罪を謝すべく僧のあとを追い四国路を辿る。故郷を捨てて四国路を巡ること二十一度目、阿波国は焼山寺の麓までたどりついたとき、衛門三郎はついに倒れる。
と、今わの際に乞食僧・弘法大師が姿を見せる。大師は三郎の罪を許し、伊予の国主河野家の子として生まれかわりたいとの最後の願いを聞き届ける。三郎を葬るにあたって、大師は彼の左手に「右衛門三郎」と記した小石を握らせた。 その後、河野家に一人の男子が生まれ、その子は左手にしっかりと小石を握っており、開こうとしない。そこで安養寺の住職に願い祈祷のおかげもあり、手を開くとそこには「右衛門三郎」の文字が記されていた、と。河野氏はこの不思議な石を寺に奉納し、寛平4年(892年)に、安養寺はその伝承にならって石手寺と改名した。五十一番札所石手寺の縁起である。

松山市の札所47番・八坂寺辺りから石手寺にかけて、幾たびか衛門三郎に「出合っ」た。邸宅があったとされる地区故のことではあろう。

粟島堂
境内左手にある。茶堂とある。かつては御接待所であったのだろうか。

潜徳院殿堂
本堂左手に京極家の御典医であった京極佐馬造高甫公を弔う五輪塔が祀られる。眼科医として知られ、死後も道隆寺に魂魄を留め眼病平癒を誓願した、と。潜徳院は戒名の一部。現在も目なおし観音として知られ、紙一面に「め」の字を書いたお札を納める。

密門(裏門)の標石
潜徳院殿堂を過ぎると裏門に出る。門脇に標石があり、「四国第七十七番 道隆寺 本尊薬師如来 是より右 宇多図津** 道場寺迄一里半**」とある。道場寺は78番札所郷照寺の別名である。
標石に従い、寺の北を東西に走る道を東へ、丸亀市街へと向かう。



本坊
現在の納経所はこの境内にあり、参拝を終えた遍路は裏門(密門)より次の札所へと向かう人もあるが、本来の札所のある本坊はこの境内から南東へと少し離れたところにある。
本坊へ向かう。
仁王門前の標石
仁王門の右手に標石があり、「是ヨリ七十八番ㇸ一里半」とある。手印は東を指す。手印に従い東に進む










湿地脇に標石
少し進むと水草の茂る湿地北に標石がある。「右金蔵寺 左うたつ道場寺・丸亀ミち 明治三年」と刻まれれる。この標石を南に折れる。
本坊
南に折れると誠に堂々とした土塀が続く。寺名碑には「大本山」と記される。真言宗醍醐派の大本山。総本山は醍醐寺。全国に六つある大本山のひとつ。
多くの高僧が住持したお寺さまにしては、こじんまりしているなあ、と思っていたのだが、大本山と書かれた本坊を目にし、また、かつてはこの本坊を含めた一帯が寺域ではあったのだろう。であれば納得。

本坊経由の遍路道は、湿地脇の標石まで戻り、そのまま北に進み、寺の裏門から出た道に合流して丸亀に向かう。

以上、金倉寺から道隆寺までの遍路道をメモした。これで善通寺から道隆寺への遍路道のメモを終え、次いで金毘羅さん経由の遍路道ルートをメモする。





■金毘羅宮経由、金倉寺への遍路道■

金毘羅道
善通寺市域から金毘羅宮へ続く、所謂金毘羅道は大きく分けて3ルートある。
そのⅠ;多度津金毘羅道
多度津港より南に下り、善通寺市内の中心部を抜け、市の南にある鶴ケ峰の東を上り、峠を越えて大麻山裾の集落に下り、おおよそ土讃線に沿って金毘羅さんへと続く道。
そのⅡ;伽藍道
上述多度津金毘羅道の枝道。善通寺市内から鶴ケ峰の西を上り、峠を越えた後、山裾に下る前に多度津金毘羅道に合流する。善通寺の伽藍境内から進む故の名ではあろうか。伽藍道から多度津金毘羅道を進むコースが善通寺と金毘羅さんの最短距離である。
そのⅢ;魚道
へんろ道とも呼ばれるように、多度津より南に道隆寺へと至り、そこからは遍路道を南下し、金倉寺への遍路道で出合った「左 こんぴら道五十丁」と刻まれた金毘羅灯籠まで進む。
ここから先は金倉川と土讃線の間を進み、土讃線が金倉川を渡る辺りで上述多度津金毘羅道に合流したようだが。現在ほとんど道は途切れている。尚、魚道は参詣人で賑わう琴平へ毎朝新鮮な魚を運んだ故の名である。

これを想うに、善通寺から金毘羅さん経由、金倉寺へのルートは、多度津金毘羅道またはその枝道である伽藍道を進み金毘羅さんへ。戻りは魚道を進み遍路道と魚道の分岐点、上述金毘羅灯籠を経て金倉寺へと向かうのがいいかと思う。


多度津金毘羅道を善通寺から金毘羅宮へ

県道24号を右折
善通寺から多度津金毘羅道へのアプローチは、善通寺赤門を出て赤門筋を進み県道24号を右折。右折した県道24号が多度津金毘羅道。
旧多度津金毘羅道
交差点を右折することなく、直進し本郷通りを少し進むと県道48号の一筋東に、旧多度津金毘羅道が残る。民家の間を縫う細い道筋である。

護国神社・乃木神社
道を進むと右手に護国神社、その手前に乃木将軍を祀る乃木神社がある。拝殿には乃木将軍と夫人の大きな写真が飾られていた。



県道47号に
陸上自衛隊善通寺駐屯地、元の陸軍第十一師団の敷地左に沿って南下しT字路に。県道24号は右に折れるが、金毘羅道はここを左折し少し進み、県道47号を右折。山麓への上りとなる。

南部小学校
南部小学校先で県道47号と分かれる 熊ヶ池の西、鶴ケ峰の東に沿って上る県道47号を進み峠を越え、南部小学校の南で県道から離れ南への道に入る。

四つ辻の2基の標石
道を少し進むと四つ辻があり、道の両側に標石が立つ。東側に立つのが金毘羅標石。手印と共に「金毘羅道 明治十」といった文字が刻まれる。
西側の標石は舟形地蔵標石。手印と共に「こんひらみち がらんみち」の文字が刻まれる。ここが多度津金毘羅道と伽藍道の合流点である。

地蔵池堤の三界萬霊地蔵尊
四つ辻を左に折れ道を進むと地蔵池の土手に。そこに三界萬霊地蔵尊が佇む。
三界萬霊
三界とは欲界、色界、無色界。欲界は食欲、睡眠欲、淫欲といった本能的欲望の世界。色界は形あるものの世界。欲界は越えるも、未だ物に囚われる世界。無色界は欲望も物へのこだわりからも自由になった精神世界のこと。三界萬霊はこれら三つの世界、すべての精霊を供養することのようだ。


原御堂
三界萬霊地蔵尊の手前で土手を下りる。直ぐ先に県道47号が走るが、県道に出ることなく、山裾の道を進み南光、西川の集落を抜ける。道なりに進むと県道47号に合流。道の反対側に原御堂がある。
原御堂には大師坐像が残る。文化二年と刻まれている、と。その右隣、小さな鐘堂前の石碑は芭蕉の句碑。「世を旅にしろかく小田の行もどり」と刻まれる、と。
「しろかく」は「代掻く」は田植え前の田をおこす作業のこと。田圃の中を行ったり来たりを、自分の往ったり来たりの漂白の旅に合わせているとのこと。 この句は各地に句碑として残り、尾張の医師で俳人である山本荷兮(やまもと-かけい)にあてたものともされるので、特段この地との関連はないようだ。
金毘羅石灯籠と金毘羅標石
原御堂から県道47号を少し善通寺方面へ戻ると、道の東側に金毘羅灯籠と金毘羅標石が立つ。標石には「左こんぴら道」と刻まれる。
金毘羅石灯籠には表に「金刀比羅神社」、裏に「出雲大社」と刻まれる。昔の記録に、県道47号に沿った多度津金毘羅道は、「金刀比羅神社」「出雲大社」と刻まれた金毘羅灯籠で左に折れ、広い道に出るとあるので、原御堂に出る手前、道なりに左の折れたあたりにあったものを移したものかもしれない。

土讃線踏切手前の金毘羅標石
県道47号を少し進むと土讃線踏切手前、日本独特(?)のホテルの脇に標石がある。「こんぴら せんつじ道 たきのみや道 大正三年」と刻まれたこの標石の指示に従い、県道47号を離れ右へと細路に入る。
たきのみや道は不詳だが、この地を東に向かったところに綾歌郡綾歌町瀧宮という地名があるので、そちら方面への道かもしれない。





土讃線脇の金毘羅石灯籠
昔の記録では県道47号から離れた道は現在土讃線のすぐ西に立つ金毘羅石灯籠の辺りで土讃線を渡り、その先、岩崎バス停のあたりで国道319号を越えた、とのこと。
左手の土讃線を注意しながら歩くと線路脇に立つ金毘羅石灯籠があった。踏切跡らしき風情はあるのだが、現在踏み切とはなっていないためそのまま先に進む。





清少納言 史跡衣掛けの松跡
道を進むとトンネルがあり、トンネルを抜けると道の左手に「清少納言 史跡衣掛けの松」の案内がある。石段もなにもないのだが、とりあえず崖をよじ登ると草に覆われた小さな平場があった。
松は枯れたのだろう、今は残らない。清少納言が金毘羅参拝の途中、この地で松に衣を掛け休息したとの伝承が残る。




四国ガスのガスタンク
道を進み大麻琴平買田線に合流する。この道を直進すれば琴平に着くのだが、古い記録では岩崎バス停あたりで国道を越えた多度津金毘羅道は、国道と金倉川の間を進み四国ガスのガスタンク辺りに向かったとのこと。
右手を見ると緑のガスタンクが見える。大麻琴平買田線と国道319号、そして金倉川に囲まれた場所である。目標を確認し、岩崎バス停あたりまで戻り、旧道を辿ろうとはしたのだが、用水路はガスタンクまで続くが、道らしきものはない。用水路に沿って進むプランは止めとしガスタンクへと向かう。このガスタンクの辺りで多度津金毘羅道と魚道が合流したようである。

金倉川に沿って進む
ガスタンクまで進むがそれから先に道はない。しかも土讃線で行く手が遮られる。仕方なく大麻琴平買田線まで戻り、土讃線を越えた先で金倉川の土手へと向かう。 古い記録に、金毘羅多度津道は金倉川の土手を進んだとあるのだが、現在は土手らしきものはない。また道も途中で切れる。さてこの先は? と、ガスタンクへと続いた用水路沿いに道がある。その道筋を進むと金倉川沿いの道に出た。
この路がオンコースかどうか不明だが、とりあえず先に進む。

39基の並び石灯籠
金倉川沿いの道を進み、昭和橋南詰め、次いで高薮橋南詰めを越えると道筋はカーブし、川から少し離れる。その曲がり角、道の右手民家の前に金毘羅石灯籠と39基の並び石灯籠が続く。
砂岩の軟質石材で造られた灯籠は文久、元治、慶応など幕末のものが目立つ。国も佐渡、越前、越後、甲州、松前、豊後など全国に及び、奉納講中には大阪陸尺(駕かき人足)、江戸の日雇い仲間一同といったものまである。金毘羅信仰の人気がこれだけでも十分確認できる。並び灯籠の間にある玄関から家人が出てくる。なんだか印象的な光景だ。国の重要有形民俗文化財に指定されている。
金毘羅鳥居跡の碑
並び石灯籠の南端に「金毘羅多度津旧街道遺跡並び灯籠及び鳥居跡 この地にありし粟島奉献の鳥居、昭和48年高灯籠前に移す」と刻まれた石碑が立つ。 この道筋が金毘羅道の御オンコースであることが確認でき、一安心。






大宮橋東詰めに高灯籠
道なりに進むと、金倉川の対岸、大宮橋の東詰めに高灯籠が見える。これが高灯籠だろう。上述高灯籠前に移すとあった鳥居を確認に向かう。琴電琴平駅横にある広場に高灯籠があり、それを囲む金毘羅宮北神苑と書かれた石碑横に鳥居があった。
高灯籠
慶応元年(1865)に建てられた高さ27mの灯籠。日本一高い灯籠であり、国の重要有形文化財に指定されている、瀬戸内海を航海する船の指標として建てられ、船人がこんぴらさんを拝む目標灯となっていた、とある。
内陸のこの地にある「灯台」が航海の標となるとは思えないが、その昔は10キ れています。ロほど離れた丸亀沖からもこの灯籠の「火」は見えたのだろう。電気も派手なネオンもなく、高い建物もない往時であれば可能かもしれない。 高い石の基壇の上に木製の灯台が築かれ内部は三階建て、壁に江戸時代の人々の落書きが今も残されている、とのことだが、現在内部には入れないようだった。

一の橋西詰の金毘羅宮参道口に
更に道なりに進み、左に金倉川に架かる一の橋。ここを右に折れると金毘羅さんの参道となる。






伽藍道;多度津金毘羅道の枝道

善通寺から金毘羅道への最短ルート。善通寺を出て、上述2基の標石のある四つ辻で多度津金毘羅道に合流し、その先は多度津金毘羅道を進む。

南大門を出て県道24号へ南下
善通寺伽藍境内の南大門を出て、道なりに南下。ゆうゆうロードと呼ばれる陸上自衛隊善通寺駐屯地の敷地の間を南下し、県道24号と交差する。




乃木館
交差点の少し東、自衛隊利駐屯地の中に乃木館がある。建物は第十一師団司令部であったもの。執務室には初代司令官の乃木希典以下、代々の司令官が座る。館内には山下奉文をはじめとした著名な軍人の軍服や日露戦争の資料なども展示されていた。

地蔵堂
県道24号を突き切り、山麓への上り道にはいる。完全舗装の車道を少し進むと道の右手にお堂がある。特に名は書かれていないが、このあたりに「身代わり地蔵」があったとの記録もあるので、そのお堂かもしれない。




樽池傍の地蔵尊
鶴ヶ峰の西を上り八丁原を越え樽池に。この辺りが峠のようだ。池の傍に地蔵尊が佇む。道は整備され昔の金毘羅道の面影はないが、地蔵尊、地蔵堂がその名残だろうか。八丁原は南大門から八丁が地名の由来、とか。


四つ辻で多度津金毘羅道に合流
峠を越えると道は東に下る。少し進み右に折れ、上述四つ辻の標石へと向かう。伽藍道はこの先は多度津金毘羅道の道筋となる。



金毘羅宮から第七十六番札所・金倉寺へ

今回は金毘羅道のルート確認。何度もお参りしている金毘羅さんは今回はパスし、金倉寺へと折り返す。多度津金毘羅道と魚道の合流点であったとされる、上述四国ガスのガスタンクまで多度津金毘羅道を戻るが、その先の魚道は寸断されといる。
行きつ戻りつの旧魚道探しも楽しそうではあるが、今回の主旨は遍路道歩き。現在の国道319号と金倉川の間を抜けたというさ魚道はパスし、国道319号。県道25号を進み、先回の善通寺から金倉寺への遍路道にあった県道25号の標標石まで戻り、その先は遍路道を進むルートをメモする。

四国ガスのガスタンクに戻る
上述四国ガスのガスタンクまでは同じルートを戻る。往昔はこのガスタンクから先は金毘羅道のひとつである魚道として、国道319号と金倉川の間を進んだようだが、現在では道は寸断されているようだ。ということで、国道319号を北に進む。

県道25号、尽誠学園前の標石
国道319号をしばらく進み、生野南交差点で左に折れる県道25号に乗り換え、尽誠学園前に。道の左手、斜めに県道に交わる箇所に標石。「右 金蔵寺道 左 善通寺道」とある。
この斜めに県道に合わさる道は、先回の散歩で善通寺から金倉道へと向かう道筋で、赤門筋、本郷通りを直進し神櫛神社で左折した箇所。
この道筋は遍路道とは逆に神櫛神社を右折し斜めに進み、善通寺駅のすぐ南で土讃線を越えてこの標石へと続く。善通寺から魚道をつなぐ道筋である。かつては県道25号を越え、県道と金倉川の間を通る魚道へと向かったのだろう。

県道25号左手の標石へ
誠学園を越え、赤門筋から本郷通りへと延びる道筋が県道24号となって県道25号に合わさるT字路を越え、先回の遍路道でであった県道25号左手にある標石に。

金毘羅灯籠の標石へ
標石を右折。「左 こんぴら道五十丁 右せんつじ道 十八丁 安政六」と刻まれた金毘羅石灯籠の標石に進む。そこが遍路道と金毘羅街道魚道の分岐点。ここから北へと先回メモの遍路道を金倉寺へと向かう。

これで金毘羅宮経由、金倉寺への遍路道を繋いだ。


■石神神社経由の金倉寺への遍路道■

善通寺の郷土館で偶々教えてもらった石神神社経由の遍路道をメモする。先回辿った金倉寺への遍路道より古い、という言葉だけでフックが掛った。

旧多度津金毘羅道へ
遍路道は赤門筋を進み、本郷通りにはいるとすぐに左折。県道48号の一筋東の細路が旧多度津金毘羅道という。

3基の標石
旧多度津金毘羅道もすぐに県道48号に合流。交差点を越え県道212号となった通りを北に進む.瓢箪池を越えた先で県道212号と分かれ道を北進。ほどなく道の右手に3基の標石。
標石は右から真念道標。右面には「南無大師遍照金剛」、正面には「右へん路道 願主真念」などの文字が刻まれる。
中央は大師坐像が刻まれ、「へんろミち 是寄り石神御社へ八丁 是ヨリ金倉寺へ十八丁」の文字。
左の標石には「石神社 文化二」といった文字が刻まれる。
真念
真念は空海の霊場を巡ること二十余回に及んだと伝わる高野の僧。現在我々が辿る四国霊場八十八ヶ所はこの真念が、貞亭4年(1687)によって書いた「四国邊路道指南」によるところが多い、とか。四国霊場八十八ヶ所の全容をまとめた、一般庶民向けのガイドブックといったものである。霊場の番号付けも行い順序も決めた。ご詠歌もつくり、四国遍路八十八ヶ所の霊場を完成したとのことである。四国では真念道標は 三十三基残るとのこと。
遍路そのものの数は江戸時代に入ってもまだわずかであり、一般庶民の遍路の数は、僧侶の遍路を越えるものではなかようだが、江戸時代の中期、17世紀後半から18世紀初頭にかけての元禄年間(1688~1704)前後から民衆の生活も余裕が出始め、娯楽を兼ねた社寺参詣が盛んになり、それにともない、四国遍路もまた一般庶民が辿るようになった、とのことである。

石神神社から高松自動車道へ
標石に従い右折すると、道の右手に石神神社、その南に吉田八幡宮がある。この石神神社から、高松自動車道を越えるまでは高速道路建設のため標石も残らず、これといった目安がない。
香川県教育委員会などの調査報告書のルートを参考に進む。ルートはゆるやかな坂、というか湧水地(出水)への窪みを下りそして上る。そこに用水路があり、その用水路に沿って進むとある。
その案内に従い用水路脇の土径を進むが、ほどなく道が切れ、田圃の畦道を歩くことになった。
この箇所は用水路の直ぐ先にある立派な車道まで進み、そこを右折し高松自動車道を潜るのがいいようだ。

榎之木涌の標石
古い記録には道を直進し東西に走る旧十一号線を越え、50mほどのところを旧11号に沿って東西に走る「かりてい道」を右折する、とある。
「かりてい」とは、地元では「おかるてんさん」との愛称で親しまれた、札所道隆寺にあった詞利帝(かりてい)堂のことだろう。やっと道隆寺への遍路道の手掛かりが見えて来た。
とはいうものの、旧国道11号がどの道か不明だが、現在の国道11号の南を進む道が旧国道ではと北に進む。
旧国道筋らしき道に到着。予想に反し細い道筋であるので地図をチェック。と、少し西に「榎之木涌」と如何にも湧水といったマークが地図に載る。遍路道とは関係ないのだが、湧水フリークとしては見逃すわけにいかず、少し西に進むと道の北側に「榎之木涌」があった。
湧水池といったイメージとは異なりコンクリートで囲まれている。近年工事がなされたようだ。昔の写真をチェックすると、まるで趣の異なる野趣あふれる出水であった。
案内には「善通寺市周辺には出水(ですい) ・ 湧 (ゆう) と呼ばれる泉がたくさんあり、旱魃のときにも枯れることなく地域の人々の生活を支えてきました。
そのひとつで、善通寺市の下吉田町にある「榎之木湧(えのきゆう)」は、出水の近くに榎の大木があったことからこう呼ばれるようになったとも言われています。
この「榎之木湧」の清涼で豊富な湧水(わきみず)は、古くは地域住民の飲料水として利用され、現在では下流に広がる約17町歩の水田を潤すと共に、水辺には多くの人が集まり世間話に花を咲かせたり、子供たちが水しぶきを上げるなど、地域の人々の憩いの場所となっています。
その昔、丸亀京極藩(まるがめきょうごくはん)のお殿様が休憩するために永榎亭(えいかてい)と名づけられた「お茶屋」と呼ばれる休憩所があり、ところてんの名所であったとも言われています。生活に根ざしたこの出水は、地域の人々によって大切に守られています」とあった。

それはそれとして、「榎之木湧」に大きな標石が立つ。「東 高松七里 西 観音寺五里」と共に「右 金倉寺詞利帝」と刻まれる。この辺りを東西に進む道が「かりてい道」であった。ふと立ち寄ったところで思わぬ遍路道の手掛かりがみつかった。

かりてい道
「榎之木湧」から東に旧国道らしき道を東に進む。古い記録には「かりてい道」は旧国道の一筋北とある。それらしき、更に細い道が東西に続く。その道筋に乗り換え田圃の中の道を東に進む。途中地蔵堂もあり、なんとなく「かりい道」らしき風情。
道を進むと土讃線金蔵寺駅手前で旧国道筋らしき道に合流。

金倉寺
踏切を渡り県道25号を越えると左手に見慣れた新羅神社、そして金蔵寺山門が現れた。

これで今回のメモを終える。次回は丸亀市内を抜け宇多津の第78番札所・郷照寺を打ち、坂出市内の第79番札所・高照院(天皇寺)を目指す。
先回のメモでは七十二番札所 曼荼羅寺からはじめ、七十三番 出釈迦寺、七十四番 甲山寺を打ち七十五番札所 善通寺までの道筋を辿った。
今回は善通寺参拝からはじめ、七十六番 金倉寺を打ち七十七番札所 道隆寺へ と旧遍路道を辿る。おおよそ7キロほどだろう。
メモは2回に分ける。ついでのことではあるので、2回目には善通寺から金毘羅宮までの金毘羅道もメモした。善通寺から金毘羅さんはすぐお隣。これまた7キロほどである。善通寺から金毘羅宮を参詣し、七十六番 金倉寺への遍路道に戻る方も多いのでは、との想いではある。
本日のルート;第七十五番札所善通寺>赤門>乳薬師>神櫛神社で左折>県道25号を越える>金毘羅石灯籠の標石>村上池西の標石>旅姿大師の標石>民家脇の標石>茂兵衛道標(121度目)>第七十六番札所 金倉寺



第七十五番札所・善通寺

先回は七十四番札所・甲山寺から南に下り、善通寺の境内を二分する道に入り、西の本坊境内脇の水路に架かる廿日橋までメモした。今回は善通寺のメモから始める。

五岳山屏風ヶ浦誕生院善通寺。真言宗善通寺派総本山。真言宗では高野山金剛峰寺、京都の東寺と共に大師三大遺跡のひとつとされる。西の本坊境内、東の伽藍境内からなり、共に結構大きい。四国で最大の寺域と言う。それでも往時の半分のスケールとのこと。
空海誕生の地ともされる。誕生院の所以である。ちなみに屏風浦とは善通寺の西に連なる五岳山(香色山、筆ノ山、我拝師山、中山、火上山)の峰々が海に向かって屏風の如く屹立する故。かつてはこのあたりまで海が迫っていた、と言う。

空海生誕の地ともれえるこの地であるが、空海の生家である佐伯氏は、代々讃岐の国造の家系。善通寺域一帯が空海の父である佐伯善通卿の邸宅であったとも、佐伯氏の氏寺であったとも言う。

弘法大師生誕の地は、以前歩いた海岸寺も、そう呼ばれる。どちらが生誕の地であるか門外漢には分からないが、どちらも共に空海ゆかりの地ではあるのことに変わりはないだろう。

寺伝によれば、唐より帰朝した空海は大同2年(807)、この誕生の地に唐の都長安の青竜寺を模した寺院建立を計画。空海の父である佐伯善通卿よりこの地の寄進を受け竣工。父の名をとり善通寺とした。敷地は現在の凡そ倍。15の堂塔、49の僧坊よりなる大寺院であった、と。

その後一時荒廃した時期もあったようだが、その都度朝廷や時の権力者の助けにより寺威は続くも、永禄の大火により伽藍は悉く灰燼に帰す。現在の伽藍はその後再建されたものである。
永禄の大火
戦国時代、主の細川氏を倒し阿波をその手におさめた三好氏は讃岐に侵攻。東讃を抑え、次いで西讃を窺うが、西讃に覇を唱える香川氏が天霧城を拠点にそれに抗する。
戦は膠着状態となり三好氏は善通寺をその本陣とし相対する。結局は天霧城を攻略できず和議を結び阿波に戻ることになるが、退陣の折の残り火が燃え広がり善通寺は焼失した。これを永禄の大火と言う。永禄元年(1558)のことである。

さてと、かつては誕生院と善通寺という二つの寺でもあったと言われる本坊境内と伽藍境内、どちらからお参りしようか?
と、小学校の修学旅行での思い出、漆黒の通路を歩いたお堂からはじめようと思い立った。チェックするとそのお堂は本坊境内の御影堂、所謂大師堂の地下の戒壇巡りと言う。ということでまずは西の本坊境内、誕生院からお参りをはじめる。


■本坊境内■

廿日橋
廿日橋、といっても用水路に架かる石橋ではあるが、橋を渡る。勅願寺であった当寺は、一般の参拝は二十日だけと限られていたその歴史が橋名の由来、とか。橋の少し南には勅使門がある。

仁王門
金剛力士像は南北朝時代・応安3年(1370)の作と言う。運慶につながる運長の作との記事もあるが門外漢にはわからない。わからないが、運長といえば江戸時代の京都の仏師である北川運慶だろうし、であれば時代は大きく変わる。 運長は、西大寺(奈良県)の愛染明王(あいせんみょうおう)坐像(重文)や、高野山真言宗総本山金剛峯寺(和歌山県)の金剛力士立像(吽形(うんぎょう)像、重文)などの作者として知られる。

御影堂回廊
仁王堂を潜ると屋根付き回廊が御影堂へと続く。大正4年(1915)に建てられたというから、それほど古いものではない。が、なかなか、いい。






御影堂
大師堂のことを当寺は御影堂と称する。御影堂は札堂・中殿供養殿・奥殿と分かれ、奥殿には大師直筆の「目引き大師」の絵像が祀られるとのことだが、興味関心は何十年ぶりの漆黒の通路歩き。
戒壇めぐり
お堂に入り右手より階段を下りる。すぐに真っ暗。漆黒とはこういうことを指すのだろう。空間感覚もマヒ。
通路の壁に手を付け、それを頼りに進むしかない。通路には曼陀羅の諸仏が描かれているとのことだが、見えるはずもない。恐る恐るすり足で歩を進めると薄明りに地蔵尊が浮かぶ。ここが凸となっている地下通路の先端部。センサーで感じるのか、突然流れる空海のお話をしばし聞き、そこからまた漆黒の通路を戻りお堂に出る。
うっすらとした記憶ではコンクリートの通路ではなく木であったようにも思うのだが、はっきりしない。ともあれおおよそ100mほどの距離だが結構懐かしい思い出を追体験できた。

親鸞上人堂
御影堂に向かって右手、親鸞上人堂がある。親鸞上人自作の親鸞上人尊像が祀られる。案内に拠ると、「鎌田の御影」と称されるこの尊像は、上人が下総国鎌田庄(現在の千葉県市川市)の信者宅に滞在し法談。帰洛を惜しむ信者のため上人自ら木像を彫ったもの。
その背に残された「讃岐善通寺は弘法大師生誕の霊地にてわが師法然上人は彼の地に詣でて自ら逆修の塔を建てたまえ、我も彼の寺へ詣でなんと思えど、その願いを果たさず。願わくはこの像を彼の地に送り、今生の願望を遂げしめよ」との遺命によりこの地に送られたものとある。




■伽藍境内■



中門
廿日橋に戻り、中門を潜り伽藍境内に入る中門を潜る。五重塔、楠の巨木が印象的。

金堂
中門から境内を直進すると左手に金堂。所謂本堂である。七間四面、二層のどっしりした建物。本尊は薬師如来。空海の作とされる永禄の戦火で破損した元の薬師如来をその胸に納める、と。3メートル弱の仏さま。上述運長の作との記録が残る。
戦国時代に金堂が消失して以後、善通寺には金堂も五重塔もない状態が続くが、江戸期の入り元禄年間に再建の動きが本格化する。
元禄7年(1694)に、仁和寺門跡が大師誕生之霊地として善通寺伽藍再興をうながす令旨を出し、元禄?年(1699)金堂が棟上され、翌13年本尊薬師如来坐像が、上述京都御室の大仏師北川運長の手によって完成した、とのことである。




五重塔
境内に三間半四方、およそ45mの五重塔が聳える。現在のものは四代目。弘化2年(1846)着工、明治17年(1884)完成、総けやき造りの塔と言う。
「はあ、大師慕って霞に中を 娘遍路の鈴が鳴る 夢を誘うような五重の塔に  偲ぶ想いに花が咲く(?;このあたりうろ覚え) 来なよ 寄りなよ おいでなよ ほんまに ええとこ 善通寺 善通寺」。
小学校での修学旅行の時バスガイドさんに教えてもらい、いまだに忘れずにいる善通寺の歌を思わず小声で歌う。



楠の巨木
南大門を潜って左、楠の巨木が残る。幹の周囲12m、高さ40m。香川県の天然記念物に指定されている。その西側、善通寺領の氏神である五社明神社を覆うように、さらに巨大と思える楠の巨木が残る。案内に拠れば、空海はその著『三教指帰』に「楠が日を遮る浦に住まう」といったことを書いている。また、『全讃史』にも「楠の巨木があり大師誕生の時よりある」といったことを記していた。
楠の巨木と言えば、田舎である愛媛県新居浜市の家の周りにもいくつもあった。今はすべて伐採されてしまっている。この歳になってそれを惜しむ。

佐伯祖廟
五社明神社を覆う楠の巨木の近くにこじんまりとした社が建つ。案内には「弘法大師は宝亀5年(774)、讃岐国多度郡屏風浦(善通寺)にお生まれになりました。
この地方の豪族、佐伯直田公(さえきあたいたきみ)・善通卿と玉寄御前(たまよりごぜん)の三男です。
この佐伯祖廟堂には父君善通卿と母君玉寄御前の御尊像を泰安してあり、「佐伯明神」、「玉寄明神」と称しております。なお五色山の頂上には佐伯家代々の霊廟がございます」とあった。
香色山
案内にある五色山とは、善通寺の西隣、標高157mほどの香色山(こうしきやま)のことだろう。山頂には「佐伯直遠祖神」と刻まれた石碑が立つ。

三帝御廟
伽藍境内西南隅に三帝御廟がある。「総本山善通寺に綸旨院宣を賜い御信心深い後嵯峨・亀山・後宇多三天皇の御遺言により御爪髪を納め、宝塔を三基建立したる三帝の御廟であります」とあった。





南大門
かつての正面。日露戦争の戦勝を記念して明治41年(1908)に再建された。屋根の四隅に四天王像を配する。

法然上人 逆修の塔
本坊境内の親鸞上人堂でメモした「法然上人逆修の塔」がこれである。五重塔のすぐ南にある。
逆修塔とは、死後の往生をねがって生前に自らが建立するもの。塔は高さ4尺(約130cm)の石造の五輪塔。四国に流された浄土宗の開祖・法然上人が自身の爪髪を埋めて立てたと伝わる。
が、五輪塔の部材は法然が活躍した鎌倉期より後の室町から戦国時代にかけてのもとと言う。現存する五輪塔は法然が建立したものではない、ということか。
法然上人と善通寺
法然上人は所謂「承元の法難」により土佐配流に処される。時に75歳であった、と。
京を離れ土佐へと、丸亀の塩屋の津に上陸した法然上人は、法然に帰依していた関白藤原兼実公の計らいもあり、讃岐に留まることに。その折に空海ゆかりの善通寺に訪れたとのことである。
先般、曼陀羅道を歩き、曼陀羅寺へ向かう途中、法然上人ゆかりの蛇岩に出合った。
□承元の法難
Wikipediaには「承元の法難(じょうげんのほうなん)は、後鳥羽上皇によって法然の門弟4人が死罪とされ、法然と親鸞ら7人が流罪にされた事件。法然は土佐だが、その弟子親鸞は越後に流されることとなる。
「南無阿弥陀仏を認めるか認めないか」という純粋な宗教的対立がきっかけとなった事件ではない。法然の門弟たちが後鳥羽上皇の寵愛する女官たちと密通したうえ、上皇の留守中に彼女たちが出家してしまったため、後鳥羽上皇の逆鱗に触れたという話で、密通事件さえ起きなければ、宗教がもとで人が死ぬことはなかったと言える」とあった。

利生塔
五重塔の南東、東院の境内隅にある石塔。元は暦応元年(1338)、南北朝の戦乱犠牲者の菩薩を弔い国家安泰を祈念すべく足利尊氏・直義が命じた、「国ごとに一寺・一塔の建立」の内、讃岐の一塔として建てられた五重塔であった。が、上述、永禄の大火より焼失したため、後に石造の利生塔がその替わりとして建てられたと伝わる。高さ2.8mの角礫凝灰岩(かくれきぎょうかいがん)の石塔である。
一寺一塔
暦応元年(1338年)、足利尊氏・直義兄弟は夢窓疎石(むそうそせき)のすすめで、南北朝の戦乱による犠牲者の霊を弔い国家安泰を祈るため、日本60余州の国ごとに一寺一塔の建立を命じた。
寺は安国寺、塔は利生塔と呼ばれ、讃岐では安国寺を宇多津の長興寺に、利生塔は善通寺の五重塔があてられた。
利生塔は興国5年(1344年)、善通寺の中興の祖とも称される宥範(ゆうばん)によってもうひとつの五重塔として建てられた。



善通寺から七十六番札所・金蔵寺への遍路道

赤門
善通寺参拝を終え次の札所・金倉寺への遍路道に向かう。遍路道は伽藍境内の東門、朱に塗らえる通称赤門口から進むことになる。







赤門七仏薬師(乳薬師)
善通寺の巡拝を終え、伽藍境内の東側にある赤門を離れ赤門筋に出る。美しく整備された道を直進すると、道の左手、善通寺郷土館の隣にお地蔵さま。赤門七仏薬師とも乳薬師とも称される。

案内によれば、「西に3キロ、??原大池のほとりに赤門七仏薬師(別名乳薬師)の本尊がある。弘法大師がお堂を建て、自ら薬師七体の石像を刻み、五穀豊穣と衆生の疫病退散を願う。
その後中世の戦乱で焼失するが、承応元年(1652)年、大池の工事中に石像が見つかり、現在の地にお祀りされ、安永八年(1779)には七仏薬師として再興された。
この七仏薬師にお参りするとお乳の出がよくなることから、乳薬師とも呼ばれ、昭和50年頃までは県外からのお参りもあったが、その後は訪れる人も減り、現在はその面影はない。
この赤門商店街の「赤門七仏薬師」は善通寺創建1200年を記念し、吉原七仏薬師寺より勧請された」とあった。

𠮷原の七仏薬師堂には、曼陀羅寺道を曼陀羅寺へと辿る途中で出合った。お堂はそれほど整備されているようには思えないが、案内に旧暦6月17日(十七夜)には本尊が公開されるとのことである。

神櫛神社で左折、細路に入る
赤門筋を進み県道48号を越えると、道は県道24号・本郷通りとなる。本郷通りを直進し神櫛神社まで進む。
神櫛神社の境内西端、本郷通りの左手に「76 金倉寺 2.7km」と刻まれた比較的新しそうな遍路標石がある。標石に従い左折し本郷通りを離れ細路に入る。
神櫛神社
社伝に拠れば、空海が勧請・創建。この地の産土神とする。祭神は神櫛王命、或は神櫛王の御子神、或は武國凝別皇子を祀るとも言われ、江戸時代までは皇子権現社と称された。
神櫛王
記紀に伝わる古代皇族。第十二代景行天皇の子とされる。『日本書記』では讃岐国造の祖とされる。讃岐の有力氏族がその祖とする所以だろう。墓は香川県高松市牟礼にある。

遍路道と金毘羅道分岐点
この地は金倉寺への遍路道と金毘羅宮への参拝道の分岐点でもあった。遍路道の逆、境内に沿って右に折れる道は金毘羅参拝道のひとつである「魚道」へとつながっていた。魚道を含めた金毘羅参拝道は次回のメモに廻す。

県道25号を越える
遍路道は北東へと進む。随所に遍路札の案内があり道を間違うことはないだろう。道なりに工場裏の細路を少し進むと右に折れて土讃線を越える。この右折点だけがちょっと注意必要。
土讃線を潜り県道25号に出る。県道対面に比較的新しい遍路標石があり、県道を渡り先に進む。

金毘羅石灯籠の標石
標石に従い軽自動車なら通れそうな細路を進むと、道は弧を描き先ほど分かれら県道24号に再びあたる。県道24号は県道25号に一時相乗りし東へとむかっているようだ。道の北側にも新しい遍路標石が整備されている。
ほどなく「四国のみち」の標石。遍路道を案内する。「七十六番 金倉寺 1.4km」とある。
その標石の対面、水路傍に金毘羅石灯籠。「左 こんぴら道五十丁 右せんつじ道 十八丁 安政六」と刻まれる。

こんぴら道
前述、金毘羅参拝道である「魚道」はこのあたりから琴平まで県道25号と金倉川の間を進んだという。今はその道筋は残っていないようだが、この金毘羅灯籠が記す「こんぴら道」は「魚道」のことだろう。
この道筋が多度津と琴平を結ぶ最短コースであり、金毘羅参りで賑わう琴平へと、多度津で水揚げされた魚が毎朝走ったのが、その名の由来とのこと。

村上池西の標石
金毘羅石灯籠からほどなく、右手に村上池の堤が見える道端、畑の角に標石がある。よく見ると彫られた僧の手が左を示す。注意深く見ると標石に刻まれた僧の姿もあれこれバリエーションがあるようだ。「右 まるかめ**」とも刻まれている、と。




旅姿大師の標石
遍路道はこの先で高松自動車道を潜る。道の左に山王地主権現の小石祠を認め、その先にある民家のブロック塀に張り付くように標石が立つ。笠を手にした、如何にも巡礼途中といった大師像が刻まれる。このような旅姿の大師像ははじめて見た。「是ヨリ金倉寺札所江三** 天保十五年」と刻まれる。



民家脇の標石
県道18号を越え先に進むと、道の左側、これも民家塀に張り付くように標石がある。「左 こんぞうじ道 四丁 右 ぜんつうじ道 廿五丁」と刻まれる。金倉寺まで400mほどになってきた。

集落の間の道を進むと、金倉寺の山門前に出る。門前前の名残を感じる昔風の家並も残る。

茂兵衛道標(121度目)
山門前T字路の道角に少し傾いた茂兵衛道標が立つ。手印と共に「善通寺 金毘羅 明治二十四年」の文字が刻まれる。
この道標には添句「真如乃月かゝや久や法の道 冷善」が刻まれる。茂兵衛121度目の巡礼時のものである。







第七十六番札所 金倉寺

鶏足山宝幢院(けいそくさんほうどういん)金倉寺。天台宗寺門派。本尊は薬師如来。

寺名石碑
山門前の左右に大きな石柱。右手の石柱には「四国第七十六番霊場 智証大師御誕生所 詞利帝母御出現之地 明治二十三年」、左手には「当山本尊薬師如来」と刻まれる。共に茂兵衛道標で知られる中務茂兵衛の周旋による。左手の石柱には「壱百拾五度目」と茂兵衛の巡礼時も刻まれる。

この寺は茂兵衛が得度を受け、法名義教をいただいた寺である。明治十年(1877)、茂兵衛30度目の巡礼の折、33歳のときのこと。
中務茂兵衛
中務茂兵衛。本名:中司(なかつかさ)亀吉。弘化2年(1845)周防(すおう)国大島郡椋野村 (現山口県久賀町椋野)で生まれた中務茂兵衛は、22歳の時に四国霊場巡礼をはじめ、大正11年(1922)に78歳で亡くなるまで生涯巡礼の旅を続け、実に280回もの巡礼遍路行を行った。
道標は、茂兵衛が厄年である42歳のとき、遍路行が88回を数えたことを記念して建立をはじめ、その数250基以上にも及ぶ(230基ほどは確認済、とか)。
文化遺産としても高く評価されている道標の特徴は、比較的太めの石の四角柱(道標高の平均約124cm)で、必ず建立年月と自らの巡拝回 数を刻んでいる、と。

鐘楼
仁王門を潜り境内へ。左手には高いところに鐘が吊られた鐘楼が建つ。高く延びた長い支柱が印象的。なんだか面白い。









本堂
境内を進むと正面に本堂。Wikipediaに拠れば、「774年(宝亀5年)景行天皇の子孫の和気道善(円珍の祖父)が金輪如意(如意輪観音)を祀って一堂を建立し自在王堂と呼ばれていた。 851年(仁寿元年)道善の子である和気宅成の上奏により、自在王堂を官寺とし道善寺と名付けた。
その後、宅成の子である円珍が846年(承和13年)に入唐、858年(天安2年)帰朝した後、故郷の当寺に訪れて長安の青龍寺に倣した伽藍を造営、薬師如来を彫像して本尊とした。
貞観3年(861)伽藍の造営を終え、落慶の斎会に円珍が再訪する。928年(延長6年)醍醐天皇の勅命により金倉郷(かなくらごう)から名前をとり現在の「金倉寺」、山号は釈迦十大弟子の迦葉尊者が入定した山名の「鶏足山」と改め隆盛をきわめた。
その後、幾多の兵火により重要文化財の自画像と本尊などの宝物以外は焼失、慶長11年(1606)それまで無住寺になっていたが、近くの真言寺院に後見してもらい一時期真言宗になるが、窮状を知った高松藩主の松平頼重により、天台宗に戻り再興、慶安4年(1651)には、智証大師御影堂を始め、諸堂や客殿、庫裏にいたるまで再建し現在に至る」とある。
智証大師円珍
山門前の石柱にあったように、この寺は智証大師円珍生誕の地。弘仁五年(814)のことである。母は空海の妹とも言われ、空海にとっては甥ということになる。空海の姪の子との説もあるが、ともあれ空海とは近しい縁者ではある。
十五歳で最長の弟子に師事。厳しい修行の後に入唐し在唐六年、帰朝後、天台宗第五代座主となる。

詞利帝堂
本堂左手に詞利帝堂。詞利帝母(かりていも)、所謂鬼子母神を祀る堂。円珍五歳の時現れたと伝わる。
詞利帝母
詞利帝母は夜叉を意味するサンスクリット語(ハーリーティー)の音写。500とも1000とも一万とも言われる子を持ち、その子たちを育てるため人の子供を食べていた。それをみかねた釈迦は詞利帝母の最愛の末子を隠す。半狂乱となり探すも見つからず、詞利帝母は釈迦に縋る。
釈迦は最愛の子を失う悲しみを説き、悔い改めた詞利帝母は仏法の守護神となった。子供の守り神との所以である。地元では「おかるてんさん」の愛称で呼ばれているとのこと。

大師堂
祖師堂とも呼ばれるこのお堂の扁額には中央に智証大師、右に弘法大師、左に神變菩薩とある。本堂に祀られるお像も、中央に智証大師、右に弘法大師、左に神變菩薩(役行者)と並ぶようだ。四国88箇所札所の中で、中央に弘法大師ではない像が祀られるのはこの寺だけとのことである。
大師号
「大師は弘法に奪われ、太閤は秀吉に奪わる」とのことばがある。大師=弘法大師と思い込んでしまいそうだが、大師は弘法大師だけでなく他にもたくさんいる。大師号は高徳な僧に朝廷から勅賜の形で贈られる尊称の一種で、多くは死後に賜る諡号である。
最初に大師号を賜ったのが最澄こと伝教大師であり、弘法大師がはじめてというわけでもなく、20名以上いる大師のひとりであるではあるのだが、お大師さんといえば弘法大師。空海の人気のほどが分かる。
茂兵衛道標
大師堂の右手に茂兵衛道標が立つ。明治廿一年の文字と共に、手印が大師堂を指す。また大師堂石段も茂兵衛の周旋による、と言う。









乃木将軍の銅像
大師堂左手前に羽織、袴姿の乃木希典将軍の像が立つ。元は軍服姿であったようだが、第二次世界大戦時に供出された。この銅像と軍馬の供出により、鐘楼の鐘が供出から免れた、とも。
●乃木将軍妻返しの松
このお寺様は乃木将軍の寓居であったとも言われ、境内には「乃木将軍妻返しの松」もあった。明治31年(1898)、善通寺第十一師団の師団長として着任。以来3年ほどこの寺を寓居としたが、訪れた婦人を玄関払いしたとのことである。寺に泊めるのを憚ってのこと、とも。

一太郎母子の松
戦前の軍国美談として小学校の国語読本にも載った、「一太郎やーい」の主人公岡田梶太郎とその母がこの寺に植えたものと言う。
日露戦争出征のため、多度津から軍船に乗る息子梶太郎の名を大群衆の中で叫び注目を浴びたため、照れ隠しで「天子さまに御奉公」と言ったことが、「一太郎」となって天皇への御奉公の美談として創られた。当の本人は長いことこの美談の主人公であったことを知らなかったようである。
明治生まれの祖父に連れられ、芝居小屋といった映画館に10円を払い、嵐寛寿郎主演の『明治天皇と日露大戦争』を見に行った世代にはわかるだろうが、今の世代に一太郎と言われても、なんこと、と思うだろうなあ。

金倉寺常接待処
境内を彷徨っていると奉納石に支えられた木造小屋の傍に何となく気になる石碑がある。見ると「金倉寺常接待処」と刻まれていた。かつて接待処として使われていたのだろうか。
結構札所を巡ったが、接待処の石碑ははじめて目にした。




神仏混淆の名残
境内には天満宮など神道の祠が残る。明治の神仏分離令以前の神仏混淆時代の名残だろう。境内の楠の巨木も印象的であった。






新羅神社
境内に接して新羅神社がある。境内はさっぱりとしたもの。渡来氏族である秦氏と関係深和気氏とのかかわりであろうか。チェックすると、和気氏ではなく智証大師との関りの社のようである。
唐より帰朝した智証大師こと円珍は、叡山に現れた老翁に導かれるまま山を下り、園城寺に。円珍は園城寺を再建し、そこにお堂を建て唐より持ち帰った経典を納めた。この老翁は園城寺の守護神である新羅明神であった。
かつての日本の朝廷は百済系、新羅系といった渡来系王族よりなる。壬申の乱の大友の皇子が百済系、大海皇子が新羅系とはよく聞く話である。
が、園城寺は百済系の大友皇子を弔うための寺。そこに新羅の神?これ以上はきちんと調べなければわからないが、円城寺のあるあたりには新羅系の渡来人が多く住んでいたようであり、園城寺建立以前からこの地の守護神として祀られていたのかもしれない。単なる妄想だが、道隆寺と新羅神社の繋がりを自分なりに納得。

善通寺のあれこれでメモが長くなった。今回はここまで。次回は金倉寺から道隆寺への遍路道をメモする。



七十一番札所 弥谷寺から七十二番札所 曼荼羅寺に至る二つの遍路道(海岸寺道曼荼羅道)をカバーし終え、七十三番 出釈迦寺、七十四番 甲山寺、七十五番 善通寺へと遍路道を辿る。距離は4キロほど。田舎の愛媛県新居浜市を朝に出たとしても十分に時間の余裕がある。
出釈迦寺奥の院禅定御行場の護摩壇
どこか立ち寄るところはとあれこれチェック。と、出釈迦寺の近くに西行ゆかりの庵がある。また、出釈迦寺の裏に聳える、といっても標高481mほどなのだが、その山・我拝師(がばいし)山に出釈迦寺の奥の院がある、という。地図を見るとヘアピンではあるが道は奥の院まで続いている。2時間もあればこの2か所もカバーできそう。
ということでルーティング。曼荼羅寺を出て、出釈迦寺、出釈迦寺奥の院、西行庵と辿り、道を東に折り返し甲山寺、そして善通寺へと向かうことにした。 出釈迦寺奥の院の行場は、高所恐怖症のわが身には少々キツイところではあったが、その眺望も含め結構な達成感を感じることになった。 そのため、というわけでもないのだ、出釈迦寺や奥の院のメモが結構長くなり、当日訪れた七十五番札所 善通寺のあれこれは次回に回し、今回は札所・善通寺到着までの遍路道のメモとする。

本日のルート;
七十二番札所 曼荼羅寺から七十三番 出釈迦寺へ
茂兵衛道標(151度目)>七十二番札所 出釈迦寺(しゅっしゃか)
出釈迦寺から奥の院禅定へ
奥の院禅定参道口駐車場>与謝野晶子・寛庭園>柳の水>西行法師禅定御遺跡>参詣道 世坂>西行法師腰掛石>西行法師腰掛石>風穴>奥の院参拝者駐車場
奥の院から御行場へ
奥の院山門>摩崖摩崖五輪塔>鐘楼>根本御堂>御行場入口>鎖場>>捨身ケ嶽の御行場
七十四番札所・甲山寺へ
出釈迦寺に戻る>西行庵西行庵分岐点の自然石道標>茂兵衛道標(88度目)>県道48号沿いの茂兵衛道標(241度目)>広田川沿いの標石>七十四番札所 甲山寺
七十四番 甲山寺から七十五番札所 善通寺へ
弘田川の用水路施設傍に標石>T字路の標石>国立病院機構こどもとおとなの医療センター>仙遊寺>犬塚>七十五番札所 善通寺の廿日橋


七十二番札所 曼荼羅寺から七十三番 出釈迦寺へ

茂兵衛道標(151度目)
曼荼羅寺を離れ、七十三番札所 出釈迦寺に向かう。南へおおよそ500mほどのところにある。境内を出てお接待のあるうどん屋さん前の三叉路に茂兵衛道標。 南へと上る緩やかな坂を示す手印と共に出釈迦寺の文字が刻まれる。明治29年(1894)、茂兵衛151度目の四国巡礼時のもの。手印の案内に従い舗装された道を南に向かう
茂兵衛道標(140度目)
上述舗装道の一筋東、耕地の間を南に抜ける簡易舗装がある。この道は少し進んだところで上述茂兵衛道標から上る舗装道と合わさるが、こちら道を歩く遍路もいたようで、途中道の右側に茂兵衛道標が立つ。
「右 彌谷寺」、手印と共に「七十三番 七十二番」と刻まれる。明治28年(1895)、茂兵衛140度目の四国巡礼のときのもの。コンクリート塀の前に立ち、裏面は読めないが、「鶴多ちしあとへ往きて徒む若菜可那(つゆたちし あとへゆきてつむ わかなかな)」と添歌が刻まれるとのこと。
ところで「右 彌谷寺」とあるのだが、右は耕地でそれらしき道はない。どこから移されたのかチェックする。どうもこの辺りにあった遍路宿・坂口屋前に立てられていたようである。坂口屋は茂兵衛定宿ではあったとのことである。

七十二番札所 出釈迦(しゅっしゃか)寺

簡易舗装の道と舗装道路が合わさるすぐ先に出釈迦寺がある。舗装道路の東側に大きな駐車場。山門への参道は舗装道の西側に続く緩やかな坂道を上る。
山頭火句碑
山門への坂道を上りはじめた一番手前に大きな石碑が建つ。結構新しいその石碑には「山あれば山を観る」と刻まれる。山頭火の句集『山行水行』の冒頭にある「山あれば山を観る 雨の日は雨を聴く 春夏秋冬 あしたもよろし ゆうべもよろし」からとられたものだろう。大きな句碑の前に小さな石碑がある。「飲みたい水が音をたてていた」といった句が刻まれるようだ。
山頭火は昭和3年(1928)、46歳の時と昭和14年(1839)57歳の時の二度、四国遍路の旅に出ている。が、『山行水行』は「昭和9年の秋、其中庵にて」とあり、そこに収められている句は「昨年の八月から今年の十月」までに詠んだ句の中から選んだものとある。昭和8年から9年にかけて山頭火は広島、神戸、京都、名古屋をへて木曽を旅しているが、四国遍路にはでていない。石碑の句は四国遍路とも出釈迦寺ともかかわりはなく、その描く光景ゆえに選ばれたもののようだ。実際、「飲みたい水が音をたてていた」も『山行水行』の木曽三句のひとつであった。
修行大師立像
石段の途中には「四国霊場 第七十二番 我拝師山 出釈迦寺」と刻まれた寺名碑と大きな修行大師立像が二体。山頭火の句碑同様、それほど古いものではないようだが、我拝師山を「借景」にした姿はなかなか、いい。
子宝の三鈷の松
参道脇に「子宝の三鈷の松」。「この松は雄の松で、『子宝の三鈷の松』と呼ばれています。親の大樹から、たくさんの小松が生まれ、また葉は三鈷の松になっている、珍しい松です」とある。
Wikipediaによれば、「三鈷」とは「密教の法具としての金剛杵は,この武器が堅固であらゆるものを摧破(さいは)するところから,煩悩を破る悟りの智慧の象徴として採り入れられたもので,両端の刃先の形によって,1本だけ鋭くとがった刃先の独鈷(独股)(とつこ),その刃先に両側から勾(かぎ)形に湾曲した刃を2本備えた三鈷(三股)」とあった。
それはそれでいいのだが、それでは通常の松の葉って、どんな形状だったっけ。 チェックすると二本で一組となっているのが多いとある。三鈷の松は三本で一組となっている松の葉のようだ。
当日は特に気にすることもなく通り過ぎたため、二本なのか三本なのか確認はしていないのだが、本家本元の高野山の三鈷の松も通常は二葉であるが、中に三葉のものも見つかるという。
そもそも、三鈷の松の由来は、空海が真言密教を中国で習得した後、日本のどこに道場を開いたものやらと、密教法具の三鈷杵を明州の浜より空高く投げたところ、帰国後空海が修行の地を探して訪れた高野山にて松にひっかかっている三鈷杵を見つけ、故にその地を真言密教の道場としたということにある。
ということは、三葉の松というより、三鈷杵がひっかかっていた故の「三鈷の松」の比重のほうが重い、ということだろう。それがいつしか高野山の三鈷の松にあやかって、この地に限らず各地に「三鈷の形をした松葉」となって広まったのだろう、かと。傍には安産地蔵尊も立つ。
山門手前の道標
坂を上ると山門手前、右手にひらべったい石に刻まれた道標がある。手印と共に「七十三番ココデス 捨身ケ嶽十三丁 七十二番ソコデス 七十四番十六丁」と刻まれる。
結構多くの道標を見てきたが、「ココデス ソコデス」はじめてのような気がする。

「捨身(シャシン)ケ嶽禅定」の案内
小ぶりな山門を潜ると、境内左手に「捨身(シャシン)ケ嶽禅定」の案内がある。断崖絶壁を落ちる稚児とそれを受け止めようとする天女の絵と共に、「第七十三番 出釈迦寺 奥の院 捨身(シャシン)ケ嶽禅定 弘法大師(幼名 真魚 まお)七才の時救世の大誓願を立て、五岳の随一たる当山に登り三世の諸仏十方向の薩埵を念じ、「我仏法に入りて一切のの衆生を済度せんと欲す。吾願成就するものならば釈迦牟尼世尊影現して證明を与え給へ成就せざるものならば一命を捨てて此身を諸仏に供養し奉る」と唱え断崖絶壁の頂より白雲も迷う谷底に身を跳らし飛び給いし紫雲の湧き起せらる中に大光明を放って釈迦牟尼仏百宝の蓮花に座しご出現せられ羽衣を身に纏うた天女天降り大師を抱き止め「一生成仏」と宣り玉ふ。
この神秘不可思議なる仏陀の霊光に感謝し霊験を併給に記念し、世の人々に仏縁を結ばしめんが為に捨身ケ嶽(しゃしんがだけ)に寺を建立し、ご本尊釈迦牟尼仏を安置せられ捨身誓願の霊場として多くの善男善女の信仰の中心となっている霊山です」とある。
捨身飼虎(しゃしんしこ)説話
この稚児捨身のベースは有名な法隆寺の玉虫厨子に描かれる「捨身飼虎」の説話にあるとする。お釈迦さまがその前世にて薩埵王子と称された時、山中にて餓死しかかっていた親子の虎を救うべく、高所より身を投げ飢えた虎にその身を供した。このおこない故に王子は生まれ変わってお釈迦様となった言う。 幼き大師が身を投じた我拝師山も、かつては倭斯濃山と称されたと言う。「わしのやま」とはお釈迦さまゆかりの霊鷲山(りょうじゅせん)の和名である。この倭斯濃山も後付けの命名かもしれない。
捨身飼虎説話、山名が相まって、空海とお釈迦様の「つながり」を強める意図をもって後世に「つくられた」お話ではあろうか。

本堂・大師堂・地蔵堂(虚空蔵菩薩堂とも)
境内に入ると西側に本堂、その右手に大師堂、一段高いところに地蔵堂(虚空蔵菩薩堂?)が建つ。すべて東に向く。
寺名は我拝師山求聞持院出釈迦寺と称す。寺伝によれば、空海が釈迦如来出現の霊験により我拝師山頂(捨身ケ嶽)の少し下、現在の奥の院の地に堂宇を建て、自ら釈迦如来を刻み本尊となす。これが出釈迦寺の由来だろう。
山号となる我拝師山も釈迦如来出現をもって、倭斯濃山(これも後付けの命名かもしれないが)を改め我拝師山、私(空海)が御師である釈迦如来を拝した山としたのだろう。
求聞持院については、境内に「出釈迦寺は弘法大師七歳の捨身誓願の霊跡であるとともに大師は四国八十八ヶ所ご開創の砌り、再度当地に巡錫、虚空蔵求聞持の法を修行されました。故に当山院号を求聞持院と号します。この求聞持の法とは虚空蔵菩薩のご真言を二百遍お唱えする法でそのご修行のお姿が当山求聞持大師です。
この求聞持の法を修する事によって一切の教法の文義悉く暗記する事が出来るといわれています。故に学業成就又物忘れの多い方は是非ご利益をいただいて下さい」といった案内もあった」との求聞持院の由来も案内していた。
西行法師歌碑
求聞持大師像の横に西行法師歌碑の案内。小ぶりな石碑に「西行法師歌碑(江戸時代1779)七十三番出釈迦寺當山奥之院弘法大師道所禅定場江是ヨリ十三丁 南無阿弥陀佛行導所(梵字)西行上人
めぐりあはん ことのちぎりぞ たのもしき きびしき山の ちかいみるかな 安政八年(後略)施主 和州(後略)美野田弥八郎(後略)」と刻まれる。江戸時代に大和の国の美野田弥八郎さんによって建てられたもの。

歌は『山家集』に次の詞書とともに載る(注;原文はひらがな書):「曼荼羅寺の行道所へ登るは、世の大事にて、手を立てたるやうなり。大師の、御経書きて埋ませおはしましたる山の峯なり。坊の外は、一丈ばかりなる壇築きて建てられたり。それへ日毎に登らせおはしまして、行道しおはしましけると、申し伝へたり。巡り行道すべきやうに、壇も二重に築き廻されたり。登るほどの危ふさ、ことに大事なり。構へて這ひまはり着きて

めぐり逢はんことの契りぞありがたき厳しき山の誓ひ見るにも

歌の意味は「その昔弘法大師は、この地で釈迦如来にめぐりあわれたという。その契りのありがたさと同じく、自分も今大師行道の跡にめぐり逢うことのできた因縁をありがたく思う。この嶮しい山をよじ登り行道を行われた大師誓願の跡に立ち、大師を偲ぶにつけても」とのこと。
仁安3年(1168)、西行法師は白峰御陵を訪ね、その後善通寺の弘法大師の遺跡を巡り、この地に庵を結んだ。その折に詠まれた歌であろう。
曼荼羅寺奥の院
現在本堂、大師堂は山裾の地に建つが、上述の如く当初の堂宇は現在の奥の院の地にあり曼荼羅寺の奥の院であったようだ
承応2年(1653)、澄禅の『四国遍路日記』には「出釈迦山エ上ル(中略)少シ平成所在、是昔ノ堂ノ跡ナリ、釈迦如来石像、文殊菩薩石像ナト在、近年堂ヲ造立シタレバ、魔風起テ吹崩ナルト也。(中略)曼荼羅寺ノ奥院ト可云山也」とあり、山腹のお堂を曼荼羅寺の奥の院と記している。
寂本の『四国遍礼霊場記』。山上に堂跡。
麓に銅はあるが寺名はない。
元禄2年(1689)に書かれた寂本の『四国遍礼霊場記』にも出釈迦寺を我拝師山山上とし、堂はなく、これも曼荼羅寺奥の院とした上で、「宗善という入道が麓に寺を建立したそうだ」の一文を付けている。
同じ頃の真念の『四国遍路道指南』にも、「この寺の札所は山上にあるが、由緒あって堂宇はない。そのため近年になって麓に堂、寺を建て、札を納める」とある。
曼荼羅寺の奥の院から出釈迦寺として札所となったのは、この頃以降のことのようであり、上述西行の歌碑に「七十三番出釈迦寺當山奥之院」とあるように安永8年(1779)にはこの地に出釈迦寺が建ち、山上の堂宇は出釈迦寺奥の院となっている。
捨身ケ嶽遥拝所
本堂より一段高い地蔵堂(虚空蔵堂?)へと石段を上ると、捨身ケ嶽遥拝所がある。大師像の横に石碑があり、そこには身を投げる空海とそれを救う釈迦如来と天女の図が描かれるとのことだが、風雨に晒され絵柄を見ることができなかった。我拝師山をよく見れば、奥の院らしき建物も見える。遥拝所横に立つ石仏は虚空蔵菩薩と言う。




出釈迦寺から奥の院禅定へ

奥の院禅定に向かう;10時10分
境内から成り行きで山へと向かう簡易舗装の道を奥の院禅定へと向かう。道端には舟形石仏が立つ。四国遍路の札所の本尊石像のようだ。道はほどなく出釈迦寺東の駐車場と出釈迦寺の間を南に上ってきた車道と合流する。

奥の院禅定参道口駐車場;10時13分
割と新しい石灯籠の建ち並ぶ駐車場入口に、これも新しく立てられたような西行歌碑がある。「筆の山 かき登りても見つるかな 苔の下なる岩のけしきを」と刻まれるこの歌は、出釈迦寺で見た西行の歌と同じく『山家集』におさめられたものである。 
西行法師歌碑
詞書には「やがてそれが上は、大師の御師(釈迦如来)に逢ひまゐらせさせおはしましたる峯なり。「わがはいしさ」と、その山をば申すなり。その辺の人は「わがはいし」とぞ申しならひたる。山文字をば捨てて申さず。また筆の山とも名付けたり。遠くて見れば、筆に似て、まろまろと山の峯の先のとがりたるやうなるを、申し慣はしたるなめり。
行道所より、構へてかきつき登りて、峯にまゐりたれば、師にあはせおはしましたる所のしるしに、塔を建ておはしましたりけり。塔の礎はかりなく大きなり。高野の大塔などばかりなりける塔の跡と実。苔は深く埋みたれども、石大きにして、あらはに見ゆ。筆の山と申す名につきて」とあり歌(筆の山にかき登りても見つるかな苔の下なる岩の気色を)に続く。

歌に筆の山と記される山は、当時我拝師山のことを筆の山とも称したとある(西行の思い違いかもしれない)。現在我拝師山と並び北東に「筆ノ山」があり、詞書を読まなければ少々混乱しそう。

現在の奥の院のあるところには、かつて高野山の大塔のような塔が建っていたようだが、西行道行の頃には既になく、苔むしたその跡が残るのみ、であったようだ。
歌の意味は「筆の山に、筆で字を書きつけるごとくかきついて登り、見たことだ。今は苔の下に埋もれてしまっている塔の礎である大きな岩のさまを」。
なお、「やがてそれが上」とは上述境内の西行歌碑の詞書を踏まえたものである。

土径であろうとの予想に反し、舗装された奥の院参道を進む。寄進された石灯籠の多さに、このお寺さまへの信仰のほどが知られる。石灯籠は結構新しいが、四国遍路札所の舟形石仏は古い趣。19番札所、立江寺の本尊延命地蔵菩薩らしき石仏を見遣りながら進むと、参道左手に与謝野晶子・寛庭園がある。

与謝野晶子・寛庭園;10時15分
石碑には「讃岐路は 浄土めきたり 秋の日の五岳のおくに おつることさへ   晶子
昭和6年(1931)に善通寺で詠んだ歌。当時の善通寺高等女学校で講演を行った。この歌には善通寺五岳と讃岐の風土が想いを込めて詠まれている。晶子自筆の色紙は当時善通寺高等女学校の教諭であった武内正躬氏が所蔵していたもので、平成18年に発見された」といったことが刻まれていた。
石碑の横には与謝野晶子・寛の歌碑が立つ。
「讃岐路は浄土めきたり秋の日の五岳のおくにおつることさへ 晶子」
「たもとふり西行上人も見しるらん飯能の山のわが道に立つ  寛」
と刻まれるようである。
この公園は平成18年(2006)に造られたという。ということは、比較的新しめの石灯籠や舗装された参道はこの頃に建立・整備されたのだろうか。
●讃岐五岳
讃岐五岳とは札所・善通寺の裏から連なる山並み。香色山〔こうしきざん〕、筆の山、我拝師山、中山、火上山〔ひかみやま〕という五つの山のことを指す。なお、善通寺の山号は五岳山とする。大師修行の場とされる五岳ゆえの山号ではあろう。

参道を上る
石灯篭の間に菩提樹。「昔、お釈迦さまが、この樹下に座して覚りを開らかれた為にこの名がついた、神聖な木」といった案内を見やりながら参道を上る。右手には札所名は読めないが大日如来の石仏。
左手の石灯篭の竿を見ると、「秋風や 空海法師をさなくて 見たる讃岐の碧瑠璃の空 秋風遍路」と与謝野晶子、「善通寺 秋のゆうべに我が立つも 大師若くてふみませる土 秋風遍路」と与謝野寛の句が、家内安全や先祖供養などを記す石灯篭の中に見える。
さらに右手には御神木 ひのき(香川の保存木) の案内があり、次いで澤田ふじ子さんの『遍照の海』より選句された句碑が立てられ、「わが許に大師(ひと)ありますや遍路道」と刻まれる。なんだかもりだくさん。

柳の水;10時22分
その先に柳の水。禅定手水場 薬師瑠璃光如来と書かれた石碑が建つ。大師御加持水とも伝わるこの水場、当日目にすることはなかったのだが、「この柳の水は古くより多くの不治の病の人々を救った寺伝にもある霊験水です。現在も癌等病気の方が薬を飲む為に他県よりこの霊水に対し、三礼、おつとめをして水をくみにこられます。霊験水の近くでは決して不浄なことはしないで下さい。霊験水の病苦がつきます。禅定信徒総代」といった案内もある(あった?)ようだ。薬師瑠璃光如来の石碑が建つ所以である。

西行法師禅定御遺跡;10時23分
柳の水のすぐ上に西行法師禅定御遺跡。特段の説明はない。その右手には鎌倉時代の高野山の碩学の僧、道範阿闍梨の歌碑が立ち、 「鷲の山つねにすむなる夜半の月 きたりて照らす峯にぞありける」とある。寛元元年(1243)に禅定参拝の際に詠んだ句。一時期讃岐に流されたというからその折のことだろう。ということは、この頃、我拝師山は上述、鷲の山(倭斯濃山)と呼ばれていたのだろう。


参詣道 世坂;10時28分
道に「参詣道 世坂」と刻まれた石碑が建つ。その下に「大師行道所に至る 世に世坂と号す  道範阿闍梨 寛元元年(1243)九月二十一日参詣 同阿闍梨「南海流浪記」より」とある。
それはそれでいいのだが、何故世坂が不明。五来重氏によると、お接待の施物が置かれていたので「施坂」。それが転化しえ「世坂」とも。もっとも空海の出自である佐伯氏の氏寺である曼陀羅寺は、その昔「世坂寺」と称されたようであり、また前述の道範阿闍梨も『南海流浪記』には、「大師の御行道所に至る。世に世坂参詣と号す」と「世坂参詣」と記す。なんらか空海との繋がりをい感じる「世坂」ではある。単なる妄想。

世坂を上ると里の景色も見えてくる。石仏を見やりながら進むと「出釈迦寺祥桜」の案内。一木に一重と八重が咲く珍しい桜のようだ。
その先に「六甲の名花 幻の「七段花」の案内。江戸時代にオランダ人シーボルトが『日本植物誌』で紹介して以来、誰もがその実物を見たことがなく、幻の花と呼ばれていたが、昭和34年(1955)神戸の六甲山で見つかり栽培されている花とのこと。花音痴には吉祥桜共々、その有難さはあまりわからない。
里を背にした六十番札所・横峰寺の石仏(10時29分)を越した先で舗装道から右に折れる土径がある。







西行法師腰掛石;10時33分
そろそろ舗装も切れるのかと土径を進む。六十一番札所・香園寺の石仏の佇む道を進むと、ほどなく舗装道に合流。一瞬の土道であった。そこに西行法師腰掛岩があった。誰それの腰掛岩は散歩をはじめていくつ出合っただろう。


風穴
道の右手に高野杉を見遣りながら進むと、同じく道の右手に「風穴」の案内。とりたてて穴はみえないのだが、案内石碑を囲む石垣の間から風が送られてくるのだろうか。風穴の先には稚児桜があった。







の遠望;10時39分
急坂をこの辺りまで上ると里の景色が広がる。讃岐平野と瀬戸の海、先般、弥谷寺から海岸寺道を辿る途中に立ち寄った天霧山が一望。古き遍路札所の石仏が趣を添える。



奥の院参拝者駐車場;10時43分
左手には奥の院の堂宇もはっきりと見えてくる。結構急峻な岩場の上に建っている。ほどなく前方に山門、左手に参詣者駐車場が見えてくる。毎月、旧暦の5日に奥の院で法要があるとのこと。そのために車道、駐車場が整備されたのだろうか。山道を想定していたのだが、結局奥の院まで舗装された道が続いていた。
それにしても、この急坂を車で上るにはちょっと「勇気」がいるかも。昔神戸の御影辺りで歩いた屏風のような急坂を思い出した。


奥の院

奥の院山門;10時45分
奥の院山門に到着。出釈迦寺の境内を離れ歩きだしてからおおよそ30分かかった。山門には「捨身ケ嶽禅定」、石碑には「四国奥の院第一 禅定」とあった。
禅定
禅はサンスクリットの音訳、定は漢訳。禅すなわち定ということだろうか、意味は、精神を集中し、三昧(さんまい)に入り、寂静の心境に達すること、霊山に上り修行すること」と「コトバンク」にあった。
五岳山縦走ルート
山門右手に五岳山縦走ルートの案内がある。香色山、筆ノ山、我拝師山、中山、 火上山と続く大師ゆかりの聖域を辿るルート。善通寺のお供えや寺の造営以外に草木の伐採、また狩猟は禁じられていたとある。善通寺の山号が五岳山とされる所以を再確認。
我拝師山の説明に、「奥の院から50mほど岩場をよじ登った捨身ケ嶽は、弘法大師が身を投げたところと伝えられている。現在は岩場の上に護摩壇と稚児大師が祀られている」とある。高所恐怖症には少々キツイが、ちょっと寄ってみようと思う。 案内板脇には南に下るような「有坂方面 程坂下山道」の案内に「出釈迦寺迄2時間」とある。程坂は大日峠を超えてきた県道49号の辺りにある。そこから有岡方面へと北東に向かい、我拝師山と筆の山の鞍部を抜けて出釈迦寺に出るルートなのだろうか?案内の意図がわかりにくい。


摩崖摩崖五輪塔:10時48分
山門を潜り奥の院のお堂に進む。ここも道は舗装されていた。道の右手の大岩には張り付くように石仏が祀られている。その大岩の傍に「摩崖 五輪塔 室町時代初期」とある。どこだろうと探すと、大岩の表面に「五輪塔」らしきものがうっすら見える。これって、弥谷寺での摩崖五輪塔を見ていたので、なんとなくわかったが、そうでなければわからなかった、かも。


鐘楼;10時52分
お堂手前の岩場に鐘楼。先日高屋神社で天空の鳥居を見たが、これも天空の鐘楼といったもの。屹立する崖端に建つ。
鐘楼の隅、崖際に「層塔 奈良時代-平安時代中期」とある。古い趣。笠を三層に重ね、笠の上に相輪が立つ。相輪の上部が欠けているように見える。


鐘楼を乗せる大岩の表面には南北朝時代の摩崖五輪塔が刻まれる。これも初めて見る人には、よくわからない、かも。
五輪塔
下から四角の方形、球形、宝形屋根型、半球形、宝珠型の石が積まれるが、それぞれ、地・水・火・風・空といった古代インドで宇宙を構成する五大要素のことを象徴する、という。もっとも、五輪塔は本家インドにも、経由地中国にも存在しないようであり、平安時代後半に供養塔として日本で造立がはじまったようである。



粟島社・石鉄大神宮
鐘楼を支える大岩下に粟島社と石鉄太神宮の祠があった。石鉄とは石鎚神社のことだろうが、「太神宮」という名称はあまりみたことがない。また、粟島社とこの奥の院のかかわりも、よくわからない。少し寝たしておく。













根本御堂(ねもとみどう);10時53分
鐘楼の石段を下り、お堂にお参り。根本御堂(ねもとみどう)と称される。お堂の正面に「弘法大師捨身誓願遺跡」「釈迦如来出現之霊場」大書された表札が左右に懸る。お堂は通夜堂お堂は通夜堂にもなっており、毎月15日の法要には泊まる信者で賑わう、と。
このお堂は昭和の初め頃、点在していた小堂を統合して建てられたとWikipediaにある。ここが300年頃前に麓に寺が移されるまでは札所であった。


弘法大師建立大塔の跡
お堂の前に石碑が建ち、「弘法大師建立大塔の跡」とある。裏には上述、西行の『山家集』の詞書の一部、「師にあはせおはしましたる所の標に、塔を建ておはしましたりけり。塔の礎はかりなく大きなり。高野の大塔などばかりなりける塔の跡見ゆ。苔は深く埋みたれども、石大きにして、露に見ゆ。西行法師『山家集』より 仁安二年(1167年)禅定参拝」が刻まれる。
釈迦如来出現の標として、大師は大塔を建立したが、その建物は今はなく、礎石が苔むして埋もれている、と。


中務茂兵衛の名を刻んだ水盤
お堂の前に立つ水盤には正面に「奉納 中務茂兵衛」と刻まれていた。
〇中務茂兵衛
中務茂兵衛。本名:中司(なかつかさ)亀吉。弘化2年(1845)周防(すおう)国大島郡椋野村 (現山口県久賀町椋野)で生まれた中務茂兵衛は、22歳の時に四国霊場巡礼をはじめ、大正11年(1922)に78歳で亡くなるまで生涯巡礼の旅を続け、実に280回もの巡礼遍路行を行った。四国遍路はおおよそ1,400キロと言うから、高松と東京を往復するくらいの距離である。一周するのに2カ月から3カ月かかるだろうから、1年で5回の遍路行が平均であろうから、280回を5で割ると56年。人生のすべてを遍路行に捧げている。

奥の院から御行場へ

御行場入口;10時54分
奥の院山門傍の五岳山縦走ルートの我拝師山の案内にあった,大師捨身の捨身ケ嶽に向かう。アプローチを探すと、お堂の下に通路が抜けており、「御行場入口」の案内があった。
岩倉大師 
お堂の下を潜り堂裏に。お堂を裏に出たところに、岩倉大師という稚児大師が祀られる岩窟があったようだが見逃した。行場までは険路のためこの地にも稚児大師を安置した、と。禅定行場の篤信者からの寄進によるとのことである。


鎖場;10時55分
奥の岩場に偶然、
目治篭彫不動尊が写っていた
お堂の裏手に出ると眼前に岩場が広がる。岩場の入口には注連縄が張られ、いかにも修行の行場といった趣。スタートするとほどなく鎖場に。斜度はキツイが鎖を助けに岩場を進む。
目治篭彫不動尊(めなおしかごほりふどうそん)
当日は気づかなかったのだが、岩場南面の岩壁に目治篭彫不動尊(めなおしかごほりふどうそん)が彫られている、と。
明治の頃、重い目の病に冒された石工がこの捨身ケ嶽で行により病は回復、 石工はお大師さんへのお礼へと捨身ケ嶽の崖上から籠を吊るし、年月をかけてお不動さんを崖に彫り上げた、とのこと。メモの段階で写真を見ていると、偶然にも岩壁に彫られたお不動さまが鬱っていた。

捨身ケ嶽の御行場:11時
稚児大師
護摩壇
第一の鎖場を抜け、左手が切り立った崖の箇所(2,3mといったほんの僅かな距離)をへっぴり腰で山肌の小枝を握り、そこから岩場に這い上がる。岩場には鎖が整備されており、鎖を握ってやっと一安心。
岩場を上ると狭い平場に出る。北の崖面には稚児大師像。西に向かって護摩壇となっている。ここが幼き大師が身を投げたと伝わる「捨身ケ嶽の御行場」である。
「弘法大師旧跡 護摩壇」と刻まれた石碑の碕、崖際に小さな大師像が佇む。東は我拝師山頂に遮られ見通しはよくないが、南北と西の眺望は誠に、いい。高所恐怖症であり少々おっかなびっくりの岩場上りであったが、来てよかったと思う。
記事などを見ると、御行場をその厳しき岩場ゆえにパスしている方も多いようだが、わたしでもなんとか行けるので、大概の方は問題なく登れると思う。
捨身ケ嶽誓願の聖地
護摩壇のある平場のすぐ上に「捨身ケ嶽誓願の聖地」の石碑と共に幾多の石仏が並ぶ。何となく厳かな雰囲気を感じる。我拝師山頂はその先に見えるが、行場で十分とここで長めの休憩をとる。


出釈迦寺に戻る;12時
休憩を済ませ、再びおっかなびっくりで鎖を握りしめて岩場を下り、切り立った崖の箇所を右手を見ないように進み、鎖場を下り奥の院へ戻る。 後は来た道を下り出釈迦寺に戻る。時間は12時。往復おおよそ2時間の奥の院禅定散歩となった。

西行庵
出釈迦寺を離れ次の札所に向かう前、出釈迦寺の近くにある西行庵に立ち寄る。 出釈迦寺から遍路道を少し北に戻り、𠮷原大師堂対面に西に向かう道がある。その角にある「西行庵」の案内に従い道なりに西南に進む。途中、分岐に案内がなくちょっと戸惑ったが、なんとか西行庵に着く。おおよそ1キロ弱といったところだろうか。庵は竹藪の中に建つ。銅板葺きの庵は比較的新しい。再建されたもの。二間四方の広さであった。
庵の傍にあった案内には「平安時代を代表する歌人西行法師は、元永元年(1118)武士の家に生まれ俗名を佐藤義清(のりきよ)と名乗りました。
十八歳で京都御所を警護する「北面の武士」となり文武両道で活躍していましたが、二十三歳の時、突然出家して仏門に入り、僧「西行」となり諸国行脚の旅を重ねました。
仁安二年(1167)五十歳の頃、讃岐への旅に出、恩顧を受けた崇徳上皇の白峰御陵に参拝したあと、弘法大師の遺徳を偲んで善通寺を訪れ、大師が修行を積んだ我拝師山を仰ぐ当地に庵を結び(水茎の岡)、数年間(「西讃府志」では五年間)逗留しました。また、曼荼羅寺境内にも昼寝石や傘懸桜など西行に関わる伝承地が残されています。
曇りなき 山にて海の 月見れば 島ぞ氷の 絶え間なりける(山家集) 庵の跡は荒廃していましたが、地元有志が浄財を集め、西行法師800年忌にあたる平成元年(1989)、現在の「西行庵」を再建しました。 吉原地区連合自治会、吉原郷土研究か会、監修 善通寺市教育委員会」とあった。

歌に「島ぞ氷の 絶え間なりける」と詠まれる。氷と瀬戸の海は結びつき難い。どこか別の地で詠まれたものだろうか。チェックする。
『山家集』に「大師のおはしましける御あたりの山に庵結びて住みけるに、月いと明くて、海の方曇りなく見えければ
曇りなき山にて海の月見れば島ぞ氷の絶え間なりける」とある。
どうやらこの地で詠んだ歌のようだ。
庵の前面には天霧山が聳え、瀬戸の海は見えないが、どこか近くの山に上り詠んだのだろう、

この歌に続いて「山家集」は、次の歌を載せている。
「住みけるままに、庵いとあはれに覚えて
今よりはいとはじ命あればこそかかる住まひのあはれをも知れ」
厳しい庵の日々も、命あればこそ、と詠う。

更に、この歌に続けて
「庵の前に松の立てりけるを見て
ここをまたわれ住み憂きてうかれなば松はひとりにならんとすらん」とある。
この庵を去った後、松が取り残されてしまう、と詠っている。

西行の歌碑
庵の左手、なにかの台石の正面と側面に3首の歌が刻まれる。 「山さとにうき世いとわむ友もがな くやしくすぎし昔かたらむ」 「山里に秋の来にしと思ひしか 苦しかりける木枯の風」 「山里に人来る世とは思わねど とはるることのうとくなり行く」 とのことである。
石碑
庵の脇には「西行上人いほり跡」と刻まれた古い石碑も残っていた。

七十四番札所 甲山寺へ


西行庵へと寄り道したが、七十三番札所 出釈迦寺から七十四番札所 甲山寺への道ははっきりしない。手掛かりとしては海岸寺道を廻り曼陀羅寺へと進む遍路道、県道48号を南に折れ、曼陀羅寺へと向かう途中道端に立つ、茂兵衛道標(88度目)に「右 甲山寺」とあった。この道標まで戻り、甲山寺を目指すことにする。

西行庵分岐点の自然石道標
西行庵を離れ、少し西に進んだ後、北に丘を下る舗装された道を進み、曼陀羅道を曼陀羅寺へと歩いた途中にあった西行庵分岐点の自然石道標まで戻る。







茂兵衛道標(88度目)
西行庵分岐点の自然石道標を右に折れ、曼陀羅寺を目指し山門前の道を北に向かい茂兵衛道標(88度目)へと戻る。

県道48号沿いの茂兵衛道標(241度目)
県道48号へと北に進み、県道を右折ししばらく県道48号を東に進む。県道48号に県道217号が北から合流するT字路に茂兵衛道標(241度目)。この道標には「曼陀羅寺 出釈迦寺 弥谷寺」が刻まれ、特段甲山寺への遍路道を示すものではない。
甲山寺までおおよそ1キロ。甲山寺たる所以の標高87mの小高い独立丘陵である甲山も見える。現在では県道48号をそのまま東に進み甲山寺に向かうお遍路さんも多いようだが、甲山北麓の広田川傍に標石があるとのこと。その場所へと続く道を進むことにする。


弘田川沿いの標石
県道217号とのT字路を越えてすぐ、県道から左に入る道がある。左に折れると直ぐ「四国のみち」の石標があり、そこから東へ0.9キロの表示がある。甲山北麓へと真っすぐに東に続く道を進むと、弘田川へとあたる。その角に「甲山寺0.1km 出釈迦寺2.9km」と記された四国のみちの石標。この道筋が出釈迦っ寺からの遍路道であったようだ。
「四国のみち」の脇に「弥谷寺 へん路みち 弘化四年」と刻まれた標石があった。上述弘田川傍の標石がこれである。

七十四番札所 甲山寺

弘田川にそって少し上流に進むと、右手に甲山寺がある。甲山寺脇の水門から取水した用水路を斜めに覆うコンクリート蓋の先に「四国霊場 第七十四番」 「医王山多宝院 甲山寺」と刻まれた比較的新しい寺名碑が左右に並ぶ。
中門
境内へと進むと右に直角に曲がるように中門がある。なんとなく不自然なアプローチ。昔の境内図には弘田川から真っすぐにこの門へのアプローチがある。
この中門が昔の山門ではなかろうか。平成20年(2008)に、境内南の砕砂工場側、広い駐車場がある側に山門が建てられた、と言う。そのために現在では中門とされているのではないだろうか。




中門の2基の標石
中門(旧山門)前に2基の標石。右手は手印と共に「出釈迦寺 善通寺 大正四年」と刻まれる。手印からすれば、今回辿った甲山北麓裾を辿るルートが 遍路道のようだ。
門の左手には茂兵衛道標。「是ヨリ善通寺ㇸ十丁 明治廿一年」と刻まれる。茂兵衛100度目の四国巡礼のもの。







本堂
正面石段を上ると本堂。天正年間の兵火により伽藍焼失。『四国遍礼巡礼記(1689)』には「昔の大伽藍の所いえども荒涼せり」とあるが享保20年(1735)に再建された。本尊は薬師如来。弘仁12年(821)、空海が満濃池の築池別当の勅命を受けこの地に。工事完成を祈願し薬師如来を刻み仮堂に安置。工事が完成し朝廷よりくだされた銭二万をもって堂塔を建て、薬師如来を安置した、と。


香台
本堂前にある香台は「伊藤萬蔵寄進、周旋人中務茂兵衛 明治三十年」と刻まれる。札所観音寺では伊藤万蔵寄進の石灯篭に出会った。また、57番札所永福寺では同じく萬蔵寄進の香台を見た。
伊藤萬蔵
伊藤 萬蔵(いとう まんぞう、1833年(天保4年) -1927年(昭和2年)1月28日)は、尾張国出身の実業家、篤志家。丁稚奉公を経て、名古屋城下塩町四丁目において「平野屋」の屋号で開業。名古屋実業界において力をつけ、名古屋米商所設立に際して、発起人に名を連ねる。のち、各地の寺社に寄進を繰り返したことで知られる。

大師堂・毘沙門洞窟
本堂の左、一段高いところに鐘楼と大師堂。大師堂は寛保2年(1742)再建されたもの。
大師堂の左に毘沙門天を祀る洞窟がある。洞窟に入ると中央に石の毘沙門天が祀られる、と。

寺伝に拠れば、空海が善通寺と曼陀羅寺の間に霊地を探していると、この岩窟から老婆が現れ、この地に堂塔を建てよと告げたため、大師は毘沙門天を刻み洞窟に安置した。これがこのお寺のはじまりとのこと。 後年、この寺を甲山寺と名付けたのは、山容が毘沙門天の甲に似ていた故、という。





西国三十三所石造巡礼道
毘沙門洞窟の左に石碑があり、「従是 西国三十三所石造巡礼道」と刻まれる。江戸末期に開かれたという甲山を巡る巡礼道に上る。土径に並ぶ西国霊場の観音様にご挨拶しながら進むと表参道と裏参道と記された分岐。
とりあえず表参道を進むと独立丘陵頂上の平坦地に出る。頂上の草叢の中に菊の御紋とともに「神武天皇孝明天皇震儀」と刻まれた石が立っていた。
神武天皇孝明天皇震儀石
震儀の意味は不詳。漢語には「帝王の儀容」とある。儀礼にのっとったお姿といった意味だろうか。それがなにか分からないが、天皇の退位の折などに、祖先神である初代神武天王と高祖父、祖父などペアでその御陵に報告されるようだ。この石碑の建立時期は明治時代ともされるので、明治天皇の即位か退位の折に、祖先神の神武天皇と父の孝明天皇をお祀りしたのだろうか。単なる妄想。根拠なし。
朝比奈弥太郎
この甲山には天霧城の出城があり、香川氏の武将朝比奈弥太郎が居を構えた、と。元禄年間三好氏との元禄合戦において勇猛ぶりを発揮するが、武運つたなく虚しくなった。

山頂から巡礼道を戻り、途中から裏参道に入る。道なりに進むが麓に下りる直前の竹林で道が消える。里が見えるため成り行きで進むと運よく石段があり、里道に戻る。そこは甲山北麓を廻る道であり、甲山寺の境内から少し北に下りていた。


七十四番 甲山寺から七十五番札所 善通寺へ

甲山寺から善通寺に向かう。距離にして1キロほど。境内を離れ、弘田川に架かる橋に向かう。と、橋の少し北、用水路取水水門や取水施設のあるところに標石が立つ。

弘田川の用水路施設傍に標石
標石には「弘法大師御誕生所善通寺伽藍 東 高松・仏生山、瀧宮」「南 金毘羅・善通寺道」「北 丸亀 多度津 金倉寺 塩屋御坊」と刻まれる。その位置は前述中門の真東。昔の境内図には弘田川から真っすぐに山門(現在の中門)に進む参道が描かれる。現在は塀で閉ざされ、山門も南の駐車場に移っているが、ここがかつての三門へのアプロ―チだろう。
駐車場の石柱
また昔の記事には、山門へは瑠璃光橋という石橋を渡ったという。その石橋だが、善通寺第十一師団の火薬庫があったという現在の駐車場に、唐突な感じで3基の石柱が並べられていた。確かめたわけではないのだが、いかにもかつての石橋らしき「雰囲気」を醸し出していた。





T字路の標石
橋を渡り先に進むとT字路にあたる。その角に標石。手印と共に「へんろ」の文字が刻まれる。手印に従い右に折れ弘田川に注ぐ支流を渡り、道なりに左折。更に道なりに右折し「国立病院機構こどもとおとなの医療センター」前の通りに出る。



国立病院機構こどもとおとなの医療センター
かつての遍路道はここから南へと善通寺に向かったのだろうが、この地の南には明治(1897)に善通寺第十一師団の衛戍病院が建ち、現在も国立南病院機構こどもとおとなの医療センターの敷地となり通り抜けはできない。医療センターの敷地の北に沿う道を進み、敷地が切れる東北端角から南へ進む道へと迂回する。
国立病院機構こどもとおとなの医療センター
「こともとおとなの」って、あたりまえのことをわざわざ明記したようで、なんだか面白い。陸軍の衛戍病院が戦後国立善通寺病院と国立療養所小児病院と分かれたものが、平成25年(2013)に両病院が統合されるに際し、「合わせ技」の命名としたのだろうか。

仙遊寺
医療センターの少し東に仙遊寺がある。野木将軍ゆかりのお堂ともあるので、ちょっと立ち寄り。医療センター北端の道を進み、敷地に沿って南に曲がることなくそのまま東に少し入ると最近建て替えられたような新しいお堂が建つ。平成26年(2014)のGoogle Street Viewにはお堂がない。それ以降に建てられたということだろう。
境内入り口には「弘法大師幼児霊場 仙遊寺」とある。お堂の傍にあった案内は昭和の半ばころに書かれたもののようで、今風にまとめてみる。
仙遊寺縁起
「仙遊寺縁起 この寺は大師幼少の頃の霊場であり、幼くして崇仏の念のつよかった大師は、5,6歳の頃から泥土で仏像、御堂をつくり礼拝したと伝わる。
ある日、屏風ヶ浦の辺りを巡視した問民苦使(もんみんくんし、地方監察官)が、遊ぶ大師の姿を見て、跪づく。随員がその訳を尋ねると、「この子は凡人にあらず、四天王が白蓋(びゃっかい)を捧げてこれを護れと聞き伝える」と言った。
里人は大師を神童と称えて、後世にこの礼拝した土地を仙遊ヶ原として、此処に本尊・地蔵菩薩を安置して旧跡としたとされている。なお、この本尊は「夜泣地蔵」と申し、各所より沢山の人が礼拝に訪れる」とある。弘法大師幼児霊場の所以である。白蓋とは白い絹で張った天蓋のこと。
乃木将軍
案内には続けて、「また、かつて日本軍の第十一師団の練兵場を造るに際し、仙遊ヶ原の旧跡も他に移転したが、当時の師団長・乃木将軍は霊夢によって直ちに元の位置に戻すべしと、練兵場の中央に仙遊ヶ原の霊跡を保存し、現在に至る。
世界広しといえど、練兵場内に仏堂があったことは耳にしないとは。なお、昭和26年7月7日を以って寺名を旧跡に因んで仙遊寺と呼称することになった」とあった。
お堂の左手には「仙遊原古跡」の石碑と、その横に「第十一師団官下日露戦争戦病没者奉安殿」と書かれた小さなお堂が建っていた。

旧練兵場跡遺跡
練兵場でチェックしていると、頻繁に「旧練兵場跡遺跡」が登場する。西は上述医療センターから東は「国立研究開発法人農業・食品産業技術開発研究機構 西日本農業研究センター 四国研究センタ‐までの東西1キロ、南は四国学院大学辺りまでの0.5キロのおよそ45万平方キロという広大な地域に広がる縄文時代から中世にかけて、特に弥生時代前期から古墳時代にかけて栄えた大集落跡。大集落跡を示す数多くの建物遺構(竪穴式住居跡、掘立柱建物跡など)と共に、周辺地域との交流を示す物品・土器、鍛冶炉のある竪穴式住居といった鉄製品の加工をおこなった遺跡などが見つかっている、とのこと。
有岡古墳群
この善通寺地区、旧練兵場跡遺跡に限らず五岳山の南麓、弘田川が山間に流れ出る有岡地区には3世紀末から7世紀にかけての有岡古墳群があり、中でも野田古墳は全長44.5m.後円部径21mの前方後円墳。前方後円墳といえば大和朝廷、ということで、中央との深い関係が示される。
出釈迦寺の奥の院禅定でのハイキングコースの案内に、「有岡はこちらに下る」といった案内があり、有岡って何か見どころでもあるにだろか、などと思っていたのだが、古墳の里であったわけだ。

犬塚
医療センター北東角に戻り、ほんの少し進むと、東に入る細い道があり、その入り口に総本山善通寺の案内とともに「犬塚」右の矢印があった。 入り口には犬塚の案内があり、「この犬塚は、角礫凝灰岩製の笠塔婆で高さ2.5メートル、四方には風化しているが大日如来を示す梵字の"バンが刻まれている。作者は不明で鎌倉時代の作と推定される。
空海が唐から持ち帰った薬草(麦の種子)にまつわる義犬伝説があり、昭和六十二年七月二十一日、善通寺市の史跡として指定され、古くからの信仰を今に伝えている。善通寺市教育委員会」とある。

細路を奥に進むと屋根を葺いた小屋の中、玉垣に囲まれた笠塔婆が建っていた。 案内にあたように塔身に金剛界大日如来を示す「種子(しゅうじ、しゅじ)」が刻まれている。
種子は仏教において、仏尊を象徴する一音節の呪文(真言)。大日如来を示す種子(日本では種子梵字でもって表すことが普通のよう)の音読みが「バン(vam)]ということのようだ。
笠塔婆
種子が刻まれた笠塔婆は台の上に角柱の塔身を置き、その上に笠を乗せ、笠の上に宝珠・相輪を立たせる。板碑の先駆けとなる石塔と言われ、平安後期にはじまり、鎌倉後期に広まった。当初供養塔として建てられた笠塔婆も、時代とともにその目的も変わり、五穀豊穣などの民間信仰の対象となっていったようである。
義犬伝説
で、この笠塔婆にまつわる義犬伝説って? 「讃岐の伝説(草薙金四郎)」を参考に概略をまとめると;「空海が唐に留学していた時のこと。空海はある薬草を求めて天竺まで 行く。その薬草は厳しく管理され、薬草の畑には番人や番犬がいた。
空海は3粒の種を採取するも隠すところがない。仕方なく自分の股の肉を裂いてその中に隠すが、一匹の番犬が吠え立てる。番人は空海の体を調べるが、何も見つからない。怒った番人はその犬をたたき殺してしまった。
空海はその死骸を もらい受け、長安まで持ち帰り、真言密教の秘法をもってその犬を生き返らせた。犬は空海を慕い、仏教経典、薬草の種と共に帰朝する空海の供をし、その後も常に空海のそばを離れることなく、死んだあとはここに祀られた」。
どこが義犬かちょっとわかりにくいが、それよりなにより薬草の「種子」という言葉にフックがかかる。笠塔婆の「種子」と薬草の「種子」。このアナロジーにより「種子」にかかわるお話ができたのだろうか。何の根拠もないが、そうであれば誠に面白い。
ちなみに持ち帰った薬草は麦とある。ビタミン不足からくる脚気やくる病に効果があった「薬草」だったのだろう。その麦が讃岐名物のうどんのルーツでもある、とするのはあまりに空海贔屓となるのだろうか。

七十五番札所 善通寺の廿日橋
犬塚を出て道を南にくだり、右に本坊境内、左に善通寺伽藍を分ける廿日橋に到着。
本日は距離が短いわりに、あれこれ気になることも多くメモが長くなった。本日はここで打ち止め。札所善通寺のあれこれは次回のメモに回す。


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