あれこれチェックすると、大丸用水は9つの幹線水路、200もの支流からなる総延長70キロとも称される巨大な用水路網であり、「菅掘」はその巨大な用水網の幹線ではあるが、そのほんの一部であることもわかった。
このメモには、分流・合流点について、その名称を記しているが、散歩の時点では単に分流点、合流点といったことしかわからず、名称はメモの段階でチェックして分かったものではあるのだが、メモには既知の如く各ポイントの名称を用いて説明する。
□「菅掘」のルートは以下の通り
現在の流路はここで切れるのだが、この三沢川は昭和18年((1493))に暴れ川である旧三沢川を改修し、素掘りで通した水路(旧三沢川は丘陵に沿って下り、南武線・中野島駅の南西にある川崎市立中野島中学辺りで「二ヶ領用水」に合流する)であり、江戸の頃はこの川はない。国土地理院の「今昔マップ首都 1896-1909」をチェックすると水路は先に進み、「二ヶ領用水」を越え、昔の「稲田村」辺りまで続いている。おおよそ8キロ弱といったところか。
本日のルート;南武線・南多摩駅>うち堀>南武線>武蔵野南線>三沢川分水路>南多摩水再生センター>大丸用水堰(多摩川取水口)>南武線と交差>分量樋;大堀(大丸用水)と別れる>吉田新田掘と交差>末新田掘分岐>押立掘分岐>吉田新田掘合流>新掘分岐>雁追橋・末新田掘が合流>葎草橋碑>喧嘩口(中野島掘と中掘分岐)>都道9号バイパスを越える>多摩川堤へ>津島神社>新掘合流>馬頭観音>南武線を潜る>都道9号>地蔵菩薩>暗渠>開渠>南武線を潜る>京王線の高架下を潜る>中野島用水堀に合流>三沢川に合流
南武線・南多摩駅

稲田堤駅、矢野口駅、稲城長沼駅と進み南多摩駅に。駅前は工事跡が残る。駅前再開発とも思えずチェックすると、「JR南武線立体交差事業(高架切替え)」とあり、「東京都が事業主体となり稲城市とJR東日本が連携して、稲田堤駅から府中本町駅間約4.3キロメートルについて道路と鉄道との連続立体交差化を行い、あわせて築造される高架橋に沿って側道を整備するもの稲田堤駅から府中本町駅間約4.3キロメートルについて道路と鉄道との連続立体交差化を行い、あわせて築造される高架橋に沿って側道を整備するもの」との説明があった。
この工事の第2施工工事区間が稲城長沼駅東側から南多摩駅西側までであり、平成23年(2011)12月には下り線(立川方面)、平成25年(2013)12月には、上り線(川崎方面)の高架橋への切換えを実施し、事業区間内の全線高架化が完了したとのことであるので、工事完了直後の名残といったものではあろうか。そういえば、稲田堤から先の各駅は立派で当然のことながら高架線を走っていた。
それはともあれ、南武線・南多摩駅を訪れたのは数年ぶり。いつだったか、南多摩駅の南の丘陵にある大丸(おおまる)城址から稲城の丘陵を辿って以来である。そのとき、南多摩駅の南、丘陵裾にある大麻止乃豆乃天神社(おおまとのつのてんじんしゃ)にお参りしたのだが、地名の大丸(オオマル)は大麻止(オオマト)の訛りではないかとも言われている。
うち掘
南武線の堤に沿って進む
武蔵野南線(貨物線)
多摩川を渡ってきた武蔵野貨物線は、この地まで地上に姿を見せるが、この地点より地下に潜り、川崎市宮前区の梶ヶ谷操車場辺りで一瞬地上に姿を現し、そこから再び地下に潜り武蔵小杉駅付近で東海道線と併走し新川崎駅辺りで姿を現し鶴見駅へと向かう。 武蔵野線の構想は戦前に企画されたものだが、戦後になって企画が再燃したのは、昭和42年(1967)の新宿駅での山手貨物線・列車転覆炎上事件。その列車が米軍の燃料輸送列車であったため、そんな危険な貨物が都心部を走るのは好ましくない、ということで都心を遠く離れたこの郊外に路線計画が再登場したと言う。都市伝説か?武蔵野貨物線辺りで水路は地中に潜る。
三沢川分水路
三沢川分水路は稲城中央公園の下にトンネルを通し、三沢川の水を多摩川に落とすためのものである。開削の背景は三沢川左岸の若葉台、向陽台という多摩ニュータウン開発に伴う雨水処理の問題。里山を開発することにより雨量の地中への浸透力が弱まり、そのままでは、だだでさえ「暴れ川」と称された三沢川に洪水発生の危険増大が予測された。
洪水対策として三沢川の河川改修が必要となるが、三沢川の下流は神奈川県川崎市であり、多摩ニュータウンのある東京都の開発にともなう問題を他の自治体に負担してもらうことはできないわけで、神奈川県に「迷惑をかけないように」バイパス分水路を穿ち三沢川の洪水対策を講じたとのことである。物事にはそれなりの理由はあるものだ。
南多摩水再生センター
多摩川に限らず、湧水や地下水が涸れたり水脈が深くなり水源を失った東京の川の水源には、高度処理された下水の水が大活躍である。LEDイリュミネーションが話題となった渋谷川の水源は西落合の再生センターの下水である。また、パン工場や飲料水の工場から排出される高度処理された水が水源となっている川もあった。この話題は話が尽きそう、もないので、このあたりで止めておく。
大丸用水堰
大丸用水堰に立って取水口を見る。この堰も、もともとは竹籠を積み上げ堰としていたようだが、昭和34年(1959)に現在の鉄筋コンクリート堰となったようである。
分量樋
右手は「大堀」、左手が今から下る「菅掘」である。交差点部分を地下に潜った「菅掘」は交差点先に姿を現している。
□大堀
「分量樋」で別れた「大堀」は南武線の南、都道9号の南を進み、南武線・矢野口駅南を下り、京王・稲田堤駅の西、穴沢天神社の東辺りで三沢川に合流する。清水川とも称される。おおよそ5キロ強の水路。
吉田新田掘水路橋と交差
◎吉田新田掘;「吉田新田掘」は、大丸取水堰で取水された多摩川の水が分量樋で「菅掘」と「大堀」に分かれる前の「うち掘」か、南多摩駅の西を多摩川に下る「谷戸川(駅付近は暗渠)から分流し、「菅掘」の北を東流し、ほどなく「菅掘」をちいさな水路橋で渡り、「菅掘」の南を平行に流れ、大丸自治会館辺りで「菅掘」に合流する。
末新田掘の分流点
◎末新田掘:南武線・南多摩駅辺りから「いちょう並木」の南を東流した「菅掘」が流路を南東に変える辺りで分流し、しばし「いちょう並木」に沿って東流した後、大丸自治会館に向かって南東に流路を変え、大丸自治会館脇で東に向かい「菅掘」に合流する。
押立用水掘の分流点
□押立用水掘:準一次幹線水路
分流点から、多摩川堤に向かって進み、稲城大橋から下る都道9号バイパスを渡り、流路を南東に変え、南武線・矢野口駅の北辺りで多摩川に注ぐ。
吉田新田掘が合流
新掘の分流点
□新堀;準一次幹線水路
稲城市大丸地区自治会館辺りで「菅掘」から分流し、南東に進み南武線を越え、南武線・稲城長沼駅の南を進み、駅の少し東で流路を北東に向け、南武線の北に進み、都道9号バイパスを越えた辺りで東流し、「菅掘」に合流する。なお、Wikipediaでは、「菅掘」との合流点で、「菅掘」は終わり、そこから先を「新堀」としている。
雁追橋跡で末新田掘が合流
なお、この雁追橋の辺りに「末新田掘」が合流する。「菅掘」に向かう「末新田掘」に水路は見えず、はっきりしないが、雁追橋跡の対面に「菅掘」に注ぐ水管が見えるが、それが「末新田掘」が「菅掘」に合流する地点だろうか。
◎末新田掘:南武線・南多摩駅辺りから「いちょう並木」の南を東流した「菅掘」が流路を南東に変える辺りで分流し、しばし「いちょう並木」に沿って東流した後、大丸自治会館に向かって南東に流路を変え、大丸自治会館脇で東に向かい「菅掘」に合流する。
蛇行を繰り返し「喧嘩口」へ
改修のされていない自然な流れが少し続くも、少し大きな道に当たると「人工」そのものの暗渠となるが、すぐに開渠となり又々弧を描いて北東に切れ上がる。道の途中には梨園があり、末流が耕地に向かっている。現在も「菅掘」が現役でいる証しであろうか。 喧嘩口に近づくと、水路は人工的な水路改修がなされず自然のままの趣きで流れる。結構、いい。
○稲城の梨
稲城のブランド梨「稲城」は明治26年(1893)、川崎の大師河原で生まれた「赤梨」をもとに誕生した「長十郎」を品種改良を重ねてできたもの。昭和2年(1927)の小田急線開通にあわせ、「梨もぎとり観光」などで梨の栽培も盛り上がり、昭和11年(1936)頃、最盛期を迎えた(「散策こみち案内 みんなで歩こう二ヶ領用水(製作;NPO法人多摩川エコミュージアム)」より)。
葎草橋碑

渡船場は「押立の渡し」であり、石碑は石橋記念碑であるとともに、道標の役割もはたしていたようである。因みに「葎」とは雑草のこと。
喧嘩口
「喧嘩口」の由来は、往昔、三流に分水する水を求める諍いから。上流の村と下流の村の間で生命線でもある水をめぐり、宝暦2年(1752)には長沼村と菅村、明和8年(1771)にはや野口村と菅村・中野島村、明和9年(1772)には矢野口村と菅村との水争いの記録が残る(「散策こみち案内 みんなで歩こう二ヶ領用水(製作;NPO法人多摩川エコミュージアム)」より)。
都道9号バイパスを越える
津島神社
この津島神社は尾張津島神社の分祠。創立年代は不詳。祭神は素戔嗚尊。尾張津島神社は中世・近世を通じて「津島牛頭天王社」と称し、牛頭天王を祭神としていたためか、この社も江戸時代末期には(牛頭)天王社と称していたとのことだが、明治期の神仏分離令に際し八坂神社と改称。その後に本社の津島神社改称に伴い、現在の津島神社という呼称になったと言う。
新掘が合流
□新堀;準一次幹線水路
稲城市大丸地区自治会館辺りで「菅掘」から分流し、南東に進み南武線を越え、南武線・稲城長沼駅の南を進み、駅の少し東で流路を北東に向け、南武線を越え都道9号バイパスを越えた辺りで東流し、この地で「菅掘」に合流する。なお、Wikipediaでは、菅掘との合流点で、「菅掘」は終え、そこから先を「新堀」としている。
馬頭観音
南武線と交差
都道9号
都道9号に当たった「菅掘」は暗渠となって南武線・矢野口駅の南を進み、都道9号と都道19号が交差する矢野口交差点を越えたところに交番があり、そこで一瞬開渠となる。
地蔵菩薩
この場所の地蔵菩薩は村人の幸を守るために正徳三年(一七一三)に建立し祀られたもので、台石には遠く生田や柿生の人の名前も刻まれていて広い範囲の人々からも信仰されたことが分かります。
矢野口の渡船場、「矢野口の渡し」は大正7年に矢野口と上石原共同で、現在の多摩川原橋の上流400mのところに新設された。それまでは「上菅の渡し」があったようだが、大正初年、矢野口村は「上菅の渡し」から撤退したとのことである(「散策こみち案内 みんなで歩こう二ヶ領用水(製作;NPO法人多摩川エコミュージアム)」)。
開渠となって都道9号から北東に向かう
南武線を潜る
京王線の高架下を潜る
中野島用水堀に合流
三沢川に注ぐ
先回のメモでも触れたように、この三沢川は昭和18年(1493)に暴れ川である旧三沢川を改修し、素掘りで通した水路であり、旧三沢川は丘陵に沿って下り、南武線・中野島駅の南西にある川崎市立中野島中学辺りで「二ヶ領用水」に合流する。つまり、江戸の頃はこの川はなく、国土地理院の「今昔マップ首都 1896-1909」をチェックすると「中野島用水堀」の水路は先に進み、「二ヶ領用水」を越え、昔の「稲田村」辺りまで続く。
因みに、上に「中野島用水堀はこの先、南武線に沿って進み」とメモしたが、これは昭和初期に南武線が敷かれたときに南東へと下っていた水路を線路沿いに変更したものであり、往昔は、南武線を南東に下り、「二ヶ領用水」の中の島橋へと向かっていたとのことである。
本日の「菅堀」散歩はここで終了。京王線・稲田堤駅に向かい、一路家路へと。
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