大丸用水散歩のはじめは「菅掘」。「二ヶ領せせらぎ館(二ヶ領宿河原堰脇にある)」で買い求めた小冊子(製作;NPO法人多摩川エコミュージアム)、「散策こみち案内 みんなで歩こう二ヶ領用水」にある「大丸用水堰から菅掘を下る」のコースを頼りに「菅掘」を下ったのだが、途中で幾度も分流、そして合流を繰り返し、「二ヶ領用水」のほんの一支流だろう、などとお気楽にはじめた散歩であるが、雰囲気からして単なる一支流とは思えなくなった。
あれこれチェックすると、大丸用水は9つの幹線水路、200もの支流からなる総延長70キロとも称される巨大な用水路網であり、「菅掘」はその巨大な用水網の幹線ではあるが、そのほんの一部であることもわかった。
このメモには、分流・合流点について、その名称を記しているが、散歩の時点では単に分流点、合流点といったことしかわからず、名称はメモの段階でチェックして分かったものではあるのだが、メモには既知の如く各ポイントの名称を用いて説明する。
□「菅掘」のルートは以下の通り
大丸取水堰で「分量樋」で別れた「菅掘」は南武線の北を蛇行を繰り返しながら南武線・稲城長沼駅の北を進み、都道9号バイパスを渡る。その先、南武線・矢野口の手前で南武線の南に移り、京王線・稲田堤駅手前で再び南武線を北に移り、京王線・稲田堤駅、南武線・稲田堤駅の北を進み、菅稲田堤地区辺りで流路を南に向け、南武線に沿って三沢川に合流する。
現在の流路はここで切れるのだが、この三沢川は昭和18年((1493))に暴れ川である旧三沢川を改修し、素掘りで通した水路(旧三沢川は丘陵に沿って下り、南武線・中野島駅の南西にある川崎市立中野島中学辺りで「二ヶ領用水」に合流する)であり、江戸の頃はこの川はない。国土地理院の「今昔マップ首都 1896-1909」をチェックすると水路は先に進み、「二ヶ領用水」を越え、昔の「稲田村」辺りまで続いている。おおよそ8キロ弱といったところか。
本日のルート;南武線・南多摩駅>うち堀>南武線>武蔵野南線>三沢川分水路>南多摩水再生センター>大丸用水堰(多摩川取水口)>南武線と交差>分量樋;大堀(大丸用水)と別れる>吉田新田掘と交差>末新田掘分岐>押立掘分岐>吉田新田掘合流>新掘分岐>雁追橋・末新田掘が合流>葎草橋碑>喧嘩口(中野島掘と中掘分岐)>都道9号バイパスを越える>多摩川堤へ>津島神社>新掘合流>馬頭観音>南武線を潜る>都道9号>地蔵菩薩>暗渠>開渠>南武線を潜る>京王線の高架下を潜る>中野島用水堀に合流>三沢川に合流
南武線・南多摩駅
多摩川からの取水口である「大丸堰」の最寄りの駅である南武線・南多摩駅に向かう。京王線・稲田堤で南武線に乗り換える。南武線のはじまりは多摩川砂利の運搬、その後は青梅や五日市の石灰を京浜工業地帯に運ぶ貨物主体の路線であった、と言う。
稲田堤駅、矢野口駅、稲城長沼駅と進み南多摩駅に。駅前は工事跡が残る。駅前再開発とも思えずチェックすると、「JR南武線立体交差事業(高架切替え)」とあり、「東京都が事業主体となり稲城市とJR東日本が連携して、稲田堤駅から府中本町駅間約4.3キロメートルについて道路と鉄道との連続立体交差化を行い、あわせて築造される高架橋に沿って側道を整備するもの稲田堤駅から府中本町駅間約4.3キロメートルについて道路と鉄道との連続立体交差化を行い、あわせて築造される高架橋に沿って側道を整備するもの」との説明があった。
この工事の第2施工工事区間が稲城長沼駅東側から南多摩駅西側までであり、平成23年(2011)12月には下り線(立川方面)、平成25年(2013)12月には、上り線(川崎方面)の高架橋への切換えを実施し、事業区間内の全線高架化が完了したとのことであるので、工事完了直後の名残といったものではあろうか。そういえば、稲田堤から先の各駅は立派で当然のことながら高架線を走っていた。
それはともあれ、南武線・南多摩駅を訪れたのは数年ぶり。いつだったか、南多摩駅の南の丘陵にある大丸(おおまる)城址から稲城の丘陵を辿って以来である。そのとき、南多摩駅の南、丘陵裾にある大麻止乃豆乃天神社(おおまとのつのてんじんしゃ)にお参りしたのだが、地名の大丸(オオマル)は大麻止(オオマト)の訛りではないかとも言われている。
うち掘
駅前の都道9号交差点を東に進むと、左手に水路が見える。大丸取水堰から幹線水路に分流されるまでの水路で、「うち掘」とも称されるようである。幅2,3mほどの水路が民家脇を流れる。
南武線の堤に沿って進む
先に進むと正面に南武線の堤が見えてくる。水路も結構幅が広くなる。堤に沿って多摩川堤へと向かうと、右手に工場があり行き止まり?と一瞬不安に感じるも、堤下に先に抜ける通路があり一安心。
武蔵野南線(貨物線)
多摩川堤近くまで進むと南武線に平行して武蔵野南線(貨物線)が走る。この路線は武蔵野線の一部。武蔵野線は、横浜市鶴見駅から千葉県西船橋駅までが路線区間であるが、もともと山手貨物線の代替のための「東京外環貨物線」(貨物専用線)として計画されたものでもあり、定期での旅客営業を行っているのは府中本町から西船橋方面だけ。府中本町から鶴見駅までは土・休日の臨時列車以外は貨物専用線となっており、武蔵野貨物線、武蔵野南線と呼ばれているようである。
多摩川を渡ってきた武蔵野貨物線は、この地まで地上に姿を見せるが、この地点より地下に潜り、川崎市宮前区の梶ヶ谷操車場辺りで一瞬地上に姿を現し、そこから再び地下に潜り武蔵小杉駅付近で東海道線と併走し新川崎駅辺りで姿を現し鶴見駅へと向かう。 武蔵野線の構想は戦前に企画されたものだが、戦後になって企画が再燃したのは、昭和42年(1967)の新宿駅での山手貨物線・列車転覆炎上事件。その列車が米軍の燃料輸送列車であったため、そんな危険な貨物が都心部を走るのは好ましくない、ということで都心を遠く離れたこの郊外に路線計画が再登場したと言う。都市伝説か?武蔵野貨物線辺りで水路は地中に潜る。
三沢川分水路
堤の道を進むと左手にコンクリートの構造物があり「三沢川分水路」と銘が刻まれている。多摩川口には排水施設があるが、排水はされていなかった。三沢川分水路って?チェックすると建設の経緯に興味深い話が登場してきた。
三沢川分水路は稲城中央公園の下にトンネルを通し、三沢川の水を多摩川に落とすためのものである。開削の背景は三沢川左岸の若葉台、向陽台という多摩ニュータウン開発に伴う雨水処理の問題。里山を開発することにより雨量の地中への浸透力が弱まり、そのままでは、だだでさえ「暴れ川」と称された三沢川に洪水発生の危険増大が予測された。
洪水対策として三沢川の河川改修が必要となるが、三沢川の下流は神奈川県川崎市であり、多摩ニュータウンのある東京都の開発にともなう問題を他の自治体に負担してもらうことはできないわけで、神奈川県に「迷惑をかけないように」バイパス分水路を穿ち三沢川の洪水対策を講じたとのことである。物事にはそれなりの理由はあるものだ。
南多摩水再生センター
三沢川分水路の直ぐ先から大量に水が多摩川に排水されている。左手にある「南多摩水再生センター」からの水だろう。「南多摩水再生センター」は多摩ニュータウン建設と歩調を合わせて建設されたもの。多摩市、稲城市の大部分、八王子や日野市の一部の下水を著利する。この再生センターも含め、多摩川中流域にある「水再生センター」より多摩川に放流されるその水量は多摩川の水の半分程にもなる、と言う。多摩川水源の「ひとつ」か。
多摩川に限らず、湧水や地下水が涸れたり水脈が深くなり水源を失った東京の川の水源には、高度処理された下水の水が大活躍である。LEDイリュミネーションが話題となった渋谷川の水源は西落合の再生センターの下水である。また、パン工場や飲料水の工場から排出される高度処理された水が水源となっている川もあった。この話題は話が尽きそう、もないので、このあたりで止めておく。
大丸用水堰
水再生センターを越えると一瞬姿を現した水路は大丸用水の取水口(頭首工)に続く。取水口の施設は立ち入り禁止となっている。取水口が如何なる風情かその姿を見るため多摩川に下りる。堰の手前は半円錐型のコンクリート構造物が一面に敷き詰められており、ちょっと跳び撥ねながら川の中央部にある直線の水路のコンクリートの背の上を慎重に進む。これって魚道だろうとは思う。
大丸用水堰に立って取水口を見る。この堰も、もともとは竹籠を積み上げ堰としていたようだが、昭和34年(1959)に現在の鉄筋コンクリート堰となったようである。
分量樋
南武線・南多摩駅前まで戻る。駅の西側・都道9号交差点手前で地下に潜った水路は駅の東の交差点手前で姿を現す。水路にはコンクリートの「橋」が渡され中央には流れを分けるコンクリートの「樋」がある。大丸用水堰で取水された多摩川の水はここで二つの基幹水路に別れる。
右手は「大堀」、左手が今から下る「菅掘」である。交差点部分を地下に潜った「菅掘」は交差点先に姿を現している。
□大堀
「分量樋」で別れた「大堀」は南武線の南、都道9号の南を進み、南武線・矢野口駅南を下り、京王・稲田堤駅の西、穴沢天神社の東辺りで三沢川に合流する。清水川とも称される。おおよそ5キロ強の水路。
吉田新田掘水路橋と交差
開渠となった「菅掘」を先に進む。遊歩道のような水路脇の道を進むと、ささやかな「水路橋」が「菅掘」を斜めに横切る。「吉田新田掘」が「菅掘」を立体交差しているわけである。今はコンクリートだが、その昔は木か石の樋で渡っていたのだろうか。
◎吉田新田掘;「吉田新田掘」は、大丸取水堰で取水された多摩川の水が分量樋で「菅掘」と「大堀」に分かれる前の「うち掘」か、南多摩駅の西を多摩川に下る「谷戸川(駅付近は暗渠)から分流し、「菅掘」の北を東流し、ほどなく「菅掘」をちいさな水路橋で渡り、「菅掘」の南を平行に流れ、大丸自治会館辺りで「菅掘」に合流する。
末新田掘の分流点
水路が右に折れる地点、中央に一本の木が立つところで「菅掘」から一流が分かれる。直線に進む小さな流れが「末新田掘」である。「菅掘」は右に折れる。
◎末新田掘:南武線・南多摩駅辺りから「いちょう並木」の南を東流した「菅掘」が流路を南東に変える辺りで分流し、しばし「いちょう並木」に沿って東流した後、大丸自治会館に向かって南東に流路を変え、大丸自治会館脇で東に向かい「菅掘」に合流する。
押立用水掘の分流点
先に進むと「菅掘」に渡した橋の中央で水路は左右に分かれる。どちらも結構大きな水路であるが、左に分かれるのが「押立用水掘」。幹線水路の「菅掘」の準幹線水路といった用水路である。「菅掘」は右側を下ってゆく。
□押立用水掘:準一次幹線水路
分流点から、多摩川堤に向かって進み、稲城大橋から下る都道9号バイパスを渡り、流路を南東に変え、南武線・矢野口駅の北辺りで多摩川に注ぐ。
吉田新田掘が合流
ゆるやかに東流した「菅掘」が大きく向きを変え南東に下ると稲城市大丸自治会館手前の公園脇に「めがね橋」といった風情の橋があり、その手前左手に水管が見える。これが先ほど「菅掘」とクロスした「吉田新田掘」の合流点とのこと。水は流れていない。 また、大丸自治会館の南に立派な掘があり、そこからも水が「菅掘」に合流する。これも「吉田新田掘」からの合流する地点でもあった。
新掘の分流点
「吉田新田掘」が「菅掘」に合流した少し先、南下する流れが弧を描いてカーブする地点で水路が大きくふたつに分かれる。本流は左、右に分かれる水路は準幹線用水路である「新堀」である。
□新堀;準一次幹線水路
稲城市大丸地区自治会館辺りで「菅掘」から分流し、南東に進み南武線を越え、南武線・稲城長沼駅の南を進み、駅の少し東で流路を北東に向け、南武線の北に進み、都道9号バイパスを越えた辺りで東流し、「菅掘」に合流する。なお、Wikipediaでは、「菅掘」との合流点で、「菅掘」は終わり、そこから先を「新堀」としている。
雁追橋跡で末新田掘が合流
ぐるりと弧を廻り込み先に進むと右手に水路が分かれる。末流なのか名称は不明である。更に進と水路脇に「雁追(がんおい)」橋の石碑。石碑脇にある案内を簡単にまとめると、「江戸時代、この近くに美しく気立ての優しい女性が済んでいた。御殿女中を務めていたこの女性に言い寄る男達数知れず、といった案配であったが女性は誰も相手にすることなく、ために、当時多摩川に集う多くの雁に例え、「雁のように多くの男達が集まるが、すげなく追い返されてしまう」と噂した。女性は長くこの地に住むことになったが、ついには「雁追婆さん」と呼ばれるようになった」とか。橋の名前の由来である。
なお、この雁追橋の辺りに「末新田掘」が合流する。「菅掘」に向かう「末新田掘」に水路は見えず、はっきりしないが、雁追橋跡の対面に「菅掘」に注ぐ水管が見えるが、それが「末新田掘」が「菅掘」に合流する地点だろうか。
◎末新田掘:南武線・南多摩駅辺りから「いちょう並木」の南を東流した「菅掘」が流路を南東に変える辺りで分流し、しばし「いちょう並木」に沿って東流した後、大丸自治会館に向かって南東に流路を変え、大丸自治会館脇で東に向かい「菅掘」に合流する。
蛇行を繰り返し「喧嘩口」へ
雁追橋跡・末新田掘との合流点から先、「菅掘」は北に向かって開渠で弧を描きながら南多摩駅前から東に延びる道を越え、その先で再び道を南に越える。道を越えた水路は民家の間を、幅を狭め南東に下る。
改修のされていない自然な流れが少し続くも、少し大きな道に当たると「人工」そのものの暗渠となるが、すぐに開渠となり又々弧を描いて北東に切れ上がる。道の途中には梨園があり、末流が耕地に向かっている。現在も「菅掘」が現役でいる証しであろうか。 喧嘩口に近づくと、水路は人工的な水路改修がなされず自然のままの趣きで流れる。結構、いい。
○稲城の梨
稲城のブランド梨「稲城」は明治26年(1893)、川崎の大師河原で生まれた「赤梨」をもとに誕生した「長十郎」を品種改良を重ねてできたもの。昭和2年(1927)の小田急線開通にあわせ、「梨もぎとり観光」などで梨の栽培も盛り上がり、昭和11年(1936)頃、最盛期を迎えた(「散策こみち案内 みんなで歩こう二ヶ領用水(製作;NPO法人多摩川エコミュージアム)」より)。
葎草橋碑
北東に進む「菅掘」が、南多摩駅前から東に延びる車道手前で向きを東に変えるあたりに葎草橋がかかり、その脇に石碑が建つ。案内によれば、「この碑は、天保9年(1838年)に長沼、押立両村の協力で木橋を石橋にかけ替えたことを記念して建てられたもの。石碑の造立年代についての正確な年代は不明であるが、天保9年以降の幕末に建てられたものとのこと。側面には、「渠田川や多摩の葎の橋はしら、動ぬ御代の石と成蘭」という歌が刻まれている。穏やかな世を願う村民の気持ちをしめしたものであろう。また、江戸や八王子など八方面への道程が記されている。この橋のある道は、北に行くと多摩川の渡船場に通じ、当時の幹線道路のひとつであった(稲城市教育委員会)」とあった。
渡船場は「押立の渡し」であり、石碑は石橋記念碑であるとともに、道標の役割もはたしていたようである。因みに「葎」とは雑草のこと。
喧嘩口
葎草橋を抜けるとほどなく、「菅掘」は稲城大橋を渡り南に下る都道9号バイパス手前で二流に分かれる。「菅掘」は右手、左手は「中掘」である。また、「中掘」は分流点から直ぐに左手に「中野島用水掘」を分ける。
「喧嘩口」の由来は、往昔、三流に分水する水を求める諍いから。上流の村と下流の村の間で生命線でもある水をめぐり、宝暦2年(1752)には長沼村と菅村、明和8年(1771)にはや野口村と菅村・中野島村、明和9年(1772)には矢野口村と菅村との水争いの記録が残る(「散策こみち案内 みんなで歩こう二ヶ領用水(製作;NPO法人多摩川エコミュージアム)」より)。
都道9号バイパスを越える
喧嘩口で分かれた「菅掘」はほどなく都道9号バイパスを渡る。どのように渡るのか、地下を通る道をチェックすると、空気抜き部分をコンクリート製の箱樋で抜けていた。このバイパスは稲城大橋から下る道が地下を走り、橋に向かう道が地上を走る。
津島神社
都道9号バイパスを抜けた「菅掘」は民家の間を河川改修のない姿で進み、ほどなく石組みの流路を抜けると、往昔の用水の趣を感じる姿で津島神社脇を流れる。結構、絵になる景観ではある。
この津島神社は尾張津島神社の分祠。創立年代は不詳。祭神は素戔嗚尊。尾張津島神社は中世・近世を通じて「津島牛頭天王社」と称し、牛頭天王を祭神としていたためか、この社も江戸時代末期には(牛頭)天王社と称していたとのことだが、明治期の神仏分離令に際し八坂神社と改称。その後に本社の津島神社改称に伴い、現在の津島神社という呼称になったと言う。
新掘が合流
津島神社から少しの間は河川改修のない自然な用水の姿で緩やかに南東に進み、南武線手前の道に出る。南武線に沿って少し先に進むと、道路の左手から勢いよく水が「菅掘」に注ぐ。ここが「新掘」が「菅掘」に合流する地点である、
□新堀;準一次幹線水路
稲城市大丸地区自治会館辺りで「菅掘」から分流し、南東に進み南武線を越え、南武線・稲城長沼駅の南を進み、駅の少し東で流路を北東に向け、南武線を越え都道9号バイパスを越えた辺りで東流し、この地で「菅掘」に合流する。なお、Wikipediaでは、菅掘との合流点で、「菅掘」は終え、そこから先を「新堀」としている。
馬頭観音
「菅掘」は「新堀」との合流点から北に弧を描き進むが、用水脇に道もないので、南武線に沿って少し東に進むと道脇に小祠が建ち馬頭観音が祀られる。周囲にも幾つか石碑が建つが、祠左手の石碑には「東 河崎道」と刻まれていた。道標ではあろう。
南武線と交差
北に弧を描いた水路は南武線の高架下を潜る。この高架も南多摩駅でメモした「JR南武線立体交差事業(高架切替え)」の賜ではあろう。南武線を越えた水路は都市型の開渠として都道9号に当たる。
都道9号
都道9号に当たった「菅掘」は暗渠となって南武線・矢野口駅の南を進み、都道9号と都道19号が交差する矢野口交差点を越えたところに交番があり、そこで一瞬開渠となる。
地蔵菩薩
開渠となった箇所に小祠があり地蔵菩薩が祀られる。案内によれば、「矢野口の渡船場から続く渡船場道と川崎街道が交差するこの場所は、古くから交通の要所として栄えて来ました。この場所から東は川崎、西は八王子、南は大山、北は多摩川を渡り江戸方面へと続いていました。
この場所の地蔵菩薩は村人の幸を守るために正徳三年(一七一三)に建立し祀られたもので、台石には遠く生田や柿生の人の名前も刻まれていて広い範囲の人々からも信仰されたことが分かります。
この地蔵菩薩は昭和三年に川崎街道の拡幅工事により道路の南側から現在地に移されましたが、稲城市指定保存樹木である銀杏の木も地蔵菩薩と共に移植されました。その時に大きな枝は切り詰めましたので樹高はありませんが、幹は年輪を感じ、また直径五~十五糎位(センチメートル)、長さが二十~五十糎位(センチメートル)の気根が十数本下がり素晴らしいものでした。また、移植の際に、経典供養として法華経を記した平たい丸い小さな石が役約百瓸位(キログラム)発見され、現在元通り埋められています(平成六年 敬愛会)」とあった。
矢野口の渡船場、「矢野口の渡し」は大正7年に矢野口と上石原共同で、現在の多摩川原橋の上流400mのところに新設された。それまでは「上菅の渡し」があったようだが、大正初年、矢野口村は「上菅の渡し」から撤退したとのことである(「散策こみち案内 みんなで歩こう二ヶ領用水(製作;NPO法人多摩川エコミュージアム)」)。
開渠となって都道9号から北東に向かう
都道9号に沿ってしばし進み、京王線・稲田堤駅の手前、菅4丁目辺りで開渠となり、民家の間へと北東に向かって進む。
南武線を潜る
住宅地の間を開渠で少し進むと「菅掘」は、「芝間土地改良碑」辺りでは、如何にも水路といった痕跡を残しながら地中を進む。その痕跡を辿りながら進むと再び開渠となり、水路は南武線を潜る。
京王線の高架下を潜る
南武線を越えた「菅掘」は民家の間を縫って開渠で進む。H鋼で補強された水路を辿ると水路は京王線の下を抜ける。
中野島用水堀に合流
京王線を越えた水路はH鋼で補強された姿で民家の間を抜け、また道路に沿って進み、結構大きなH鋼で補強された水路に合流する。この水路は「中野島用水堀」である。
三沢川に注ぐ
「中野島用水堀」はこの先、南武線に沿って進み三沢川に落ちる。「中野島用水堀」と「菅掘」の合流点から下流の「中野島用水」を「菅掘」と称するともあるようだ。
先回のメモでも触れたように、この三沢川は昭和18年(1493)に暴れ川である旧三沢川を改修し、素掘りで通した水路であり、旧三沢川は丘陵に沿って下り、南武線・中野島駅の南西にある川崎市立中野島中学辺りで「二ヶ領用水」に合流する。つまり、江戸の頃はこの川はなく、国土地理院の「今昔マップ首都 1896-1909」をチェックすると「中野島用水堀」の水路は先に進み、「二ヶ領用水」を越え、昔の「稲田村」辺りまで続く。
因みに、上に「中野島用水堀はこの先、南武線に沿って進み」とメモしたが、これは昭和初期に南武線が敷かれたときに南東へと下っていた水路を線路沿いに変更したものであり、往昔は、南武線を南東に下り、「二ヶ領用水」の中の島橋へと向かっていたとのことである。
本日の「菅堀」散歩はここで終了。京王線・稲田堤駅に向かい、一路家路へと。
あれこれチェックすると、大丸用水は9つの幹線水路、200もの支流からなる総延長70キロとも称される巨大な用水路網であり、「菅掘」はその巨大な用水網の幹線ではあるが、そのほんの一部であることもわかった。
このメモには、分流・合流点について、その名称を記しているが、散歩の時点では単に分流点、合流点といったことしかわからず、名称はメモの段階でチェックして分かったものではあるのだが、メモには既知の如く各ポイントの名称を用いて説明する。
□「菅掘」のルートは以下の通り
大丸取水堰で「分量樋」で別れた「菅掘」は南武線の北を蛇行を繰り返しながら南武線・稲城長沼駅の北を進み、都道9号バイパスを渡る。その先、南武線・矢野口の手前で南武線の南に移り、京王線・稲田堤駅手前で再び南武線を北に移り、京王線・稲田堤駅、南武線・稲田堤駅の北を進み、菅稲田堤地区辺りで流路を南に向け、南武線に沿って三沢川に合流する。
現在の流路はここで切れるのだが、この三沢川は昭和18年((1493))に暴れ川である旧三沢川を改修し、素掘りで通した水路(旧三沢川は丘陵に沿って下り、南武線・中野島駅の南西にある川崎市立中野島中学辺りで「二ヶ領用水」に合流する)であり、江戸の頃はこの川はない。国土地理院の「今昔マップ首都 1896-1909」をチェックすると水路は先に進み、「二ヶ領用水」を越え、昔の「稲田村」辺りまで続いている。おおよそ8キロ弱といったところか。
本日のルート;南武線・南多摩駅>うち堀>南武線>武蔵野南線>三沢川分水路>南多摩水再生センター>大丸用水堰(多摩川取水口)>南武線と交差>分量樋;大堀(大丸用水)と別れる>吉田新田掘と交差>末新田掘分岐>押立掘分岐>吉田新田掘合流>新掘分岐>雁追橋・末新田掘が合流>葎草橋碑>喧嘩口(中野島掘と中掘分岐)>都道9号バイパスを越える>多摩川堤へ>津島神社>新掘合流>馬頭観音>南武線を潜る>都道9号>地蔵菩薩>暗渠>開渠>南武線を潜る>京王線の高架下を潜る>中野島用水堀に合流>三沢川に合流
南武線・南多摩駅
多摩川からの取水口である「大丸堰」の最寄りの駅である南武線・南多摩駅に向かう。京王線・稲田堤で南武線に乗り換える。南武線のはじまりは多摩川砂利の運搬、その後は青梅や五日市の石灰を京浜工業地帯に運ぶ貨物主体の路線であった、と言う。
稲田堤駅、矢野口駅、稲城長沼駅と進み南多摩駅に。駅前は工事跡が残る。駅前再開発とも思えずチェックすると、「JR南武線立体交差事業(高架切替え)」とあり、「東京都が事業主体となり稲城市とJR東日本が連携して、稲田堤駅から府中本町駅間約4.3キロメートルについて道路と鉄道との連続立体交差化を行い、あわせて築造される高架橋に沿って側道を整備するもの稲田堤駅から府中本町駅間約4.3キロメートルについて道路と鉄道との連続立体交差化を行い、あわせて築造される高架橋に沿って側道を整備するもの」との説明があった。
この工事の第2施工工事区間が稲城長沼駅東側から南多摩駅西側までであり、平成23年(2011)12月には下り線(立川方面)、平成25年(2013)12月には、上り線(川崎方面)の高架橋への切換えを実施し、事業区間内の全線高架化が完了したとのことであるので、工事完了直後の名残といったものではあろうか。そういえば、稲田堤から先の各駅は立派で当然のことながら高架線を走っていた。
それはともあれ、南武線・南多摩駅を訪れたのは数年ぶり。いつだったか、南多摩駅の南の丘陵にある大丸(おおまる)城址から稲城の丘陵を辿って以来である。そのとき、南多摩駅の南、丘陵裾にある大麻止乃豆乃天神社(おおまとのつのてんじんしゃ)にお参りしたのだが、地名の大丸(オオマル)は大麻止(オオマト)の訛りではないかとも言われている。
うち掘
駅前の都道9号交差点を東に進むと、左手に水路が見える。大丸取水堰から幹線水路に分流されるまでの水路で、「うち掘」とも称されるようである。幅2,3mほどの水路が民家脇を流れる。
南武線の堤に沿って進む
先に進むと正面に南武線の堤が見えてくる。水路も結構幅が広くなる。堤に沿って多摩川堤へと向かうと、右手に工場があり行き止まり?と一瞬不安に感じるも、堤下に先に抜ける通路があり一安心。
武蔵野南線(貨物線)
多摩川堤近くまで進むと南武線に平行して武蔵野南線(貨物線)が走る。この路線は武蔵野線の一部。武蔵野線は、横浜市鶴見駅から千葉県西船橋駅までが路線区間であるが、もともと山手貨物線の代替のための「東京外環貨物線」(貨物専用線)として計画されたものでもあり、定期での旅客営業を行っているのは府中本町から西船橋方面だけ。府中本町から鶴見駅までは土・休日の臨時列車以外は貨物専用線となっており、武蔵野貨物線、武蔵野南線と呼ばれているようである。
多摩川を渡ってきた武蔵野貨物線は、この地まで地上に姿を見せるが、この地点より地下に潜り、川崎市宮前区の梶ヶ谷操車場辺りで一瞬地上に姿を現し、そこから再び地下に潜り武蔵小杉駅付近で東海道線と併走し新川崎駅辺りで姿を現し鶴見駅へと向かう。 武蔵野線の構想は戦前に企画されたものだが、戦後になって企画が再燃したのは、昭和42年(1967)の新宿駅での山手貨物線・列車転覆炎上事件。その列車が米軍の燃料輸送列車であったため、そんな危険な貨物が都心部を走るのは好ましくない、ということで都心を遠く離れたこの郊外に路線計画が再登場したと言う。都市伝説か?武蔵野貨物線辺りで水路は地中に潜る。
三沢川分水路
堤の道を進むと左手にコンクリートの構造物があり「三沢川分水路」と銘が刻まれている。多摩川口には排水施設があるが、排水はされていなかった。三沢川分水路って?チェックすると建設の経緯に興味深い話が登場してきた。
三沢川分水路は稲城中央公園の下にトンネルを通し、三沢川の水を多摩川に落とすためのものである。開削の背景は三沢川左岸の若葉台、向陽台という多摩ニュータウン開発に伴う雨水処理の問題。里山を開発することにより雨量の地中への浸透力が弱まり、そのままでは、だだでさえ「暴れ川」と称された三沢川に洪水発生の危険増大が予測された。
洪水対策として三沢川の河川改修が必要となるが、三沢川の下流は神奈川県川崎市であり、多摩ニュータウンのある東京都の開発にともなう問題を他の自治体に負担してもらうことはできないわけで、神奈川県に「迷惑をかけないように」バイパス分水路を穿ち三沢川の洪水対策を講じたとのことである。物事にはそれなりの理由はあるものだ。
南多摩水再生センター
三沢川分水路の直ぐ先から大量に水が多摩川に排水されている。左手にある「南多摩水再生センター」からの水だろう。「南多摩水再生センター」は多摩ニュータウン建設と歩調を合わせて建設されたもの。多摩市、稲城市の大部分、八王子や日野市の一部の下水を著利する。この再生センターも含め、多摩川中流域にある「水再生センター」より多摩川に放流されるその水量は多摩川の水の半分程にもなる、と言う。多摩川水源の「ひとつ」か。
多摩川に限らず、湧水や地下水が涸れたり水脈が深くなり水源を失った東京の川の水源には、高度処理された下水の水が大活躍である。LEDイリュミネーションが話題となった渋谷川の水源は西落合の再生センターの下水である。また、パン工場や飲料水の工場から排出される高度処理された水が水源となっている川もあった。この話題は話が尽きそう、もないので、このあたりで止めておく。
大丸用水堰
水再生センターを越えると一瞬姿を現した水路は大丸用水の取水口(頭首工)に続く。取水口の施設は立ち入り禁止となっている。取水口が如何なる風情かその姿を見るため多摩川に下りる。堰の手前は半円錐型のコンクリート構造物が一面に敷き詰められており、ちょっと跳び撥ねながら川の中央部にある直線の水路のコンクリートの背の上を慎重に進む。これって魚道だろうとは思う。
大丸用水堰に立って取水口を見る。この堰も、もともとは竹籠を積み上げ堰としていたようだが、昭和34年(1959)に現在の鉄筋コンクリート堰となったようである。
分量樋
南武線・南多摩駅前まで戻る。駅の西側・都道9号交差点手前で地下に潜った水路は駅の東の交差点手前で姿を現す。水路にはコンクリートの「橋」が渡され中央には流れを分けるコンクリートの「樋」がある。大丸用水堰で取水された多摩川の水はここで二つの基幹水路に別れる。
右手は「大堀」、左手が今から下る「菅掘」である。交差点部分を地下に潜った「菅掘」は交差点先に姿を現している。
□大堀
「分量樋」で別れた「大堀」は南武線の南、都道9号の南を進み、南武線・矢野口駅南を下り、京王・稲田堤駅の西、穴沢天神社の東辺りで三沢川に合流する。清水川とも称される。おおよそ5キロ強の水路。
吉田新田掘水路橋と交差
開渠となった「菅掘」を先に進む。遊歩道のような水路脇の道を進むと、ささやかな「水路橋」が「菅掘」を斜めに横切る。「吉田新田掘」が「菅掘」を立体交差しているわけである。今はコンクリートだが、その昔は木か石の樋で渡っていたのだろうか。
◎吉田新田掘;「吉田新田掘」は、大丸取水堰で取水された多摩川の水が分量樋で「菅掘」と「大堀」に分かれる前の「うち掘」か、南多摩駅の西を多摩川に下る「谷戸川(駅付近は暗渠)から分流し、「菅掘」の北を東流し、ほどなく「菅掘」をちいさな水路橋で渡り、「菅掘」の南を平行に流れ、大丸自治会館辺りで「菅掘」に合流する。
末新田掘の分流点
水路が右に折れる地点、中央に一本の木が立つところで「菅掘」から一流が分かれる。直線に進む小さな流れが「末新田掘」である。「菅掘」は右に折れる。
◎末新田掘:南武線・南多摩駅辺りから「いちょう並木」の南を東流した「菅掘」が流路を南東に変える辺りで分流し、しばし「いちょう並木」に沿って東流した後、大丸自治会館に向かって南東に流路を変え、大丸自治会館脇で東に向かい「菅掘」に合流する。
押立用水掘の分流点
先に進むと「菅掘」に渡した橋の中央で水路は左右に分かれる。どちらも結構大きな水路であるが、左に分かれるのが「押立用水掘」。幹線水路の「菅掘」の準幹線水路といった用水路である。「菅掘」は右側を下ってゆく。
□押立用水掘:準一次幹線水路
分流点から、多摩川堤に向かって進み、稲城大橋から下る都道9号バイパスを渡り、流路を南東に変え、南武線・矢野口駅の北辺りで多摩川に注ぐ。
吉田新田掘が合流
ゆるやかに東流した「菅掘」が大きく向きを変え南東に下ると稲城市大丸自治会館手前の公園脇に「めがね橋」といった風情の橋があり、その手前左手に水管が見える。これが先ほど「菅掘」とクロスした「吉田新田掘」の合流点とのこと。水は流れていない。 また、大丸自治会館の南に立派な掘があり、そこからも水が「菅掘」に合流する。これも「吉田新田掘」からの合流する地点でもあった。
新掘の分流点
「吉田新田掘」が「菅掘」に合流した少し先、南下する流れが弧を描いてカーブする地点で水路が大きくふたつに分かれる。本流は左、右に分かれる水路は準幹線用水路である「新堀」である。
□新堀;準一次幹線水路
稲城市大丸地区自治会館辺りで「菅掘」から分流し、南東に進み南武線を越え、南武線・稲城長沼駅の南を進み、駅の少し東で流路を北東に向け、南武線の北に進み、都道9号バイパスを越えた辺りで東流し、「菅掘」に合流する。なお、Wikipediaでは、「菅掘」との合流点で、「菅掘」は終わり、そこから先を「新堀」としている。
雁追橋跡で末新田掘が合流
ぐるりと弧を廻り込み先に進むと右手に水路が分かれる。末流なのか名称は不明である。更に進と水路脇に「雁追(がんおい)」橋の石碑。石碑脇にある案内を簡単にまとめると、「江戸時代、この近くに美しく気立ての優しい女性が済んでいた。御殿女中を務めていたこの女性に言い寄る男達数知れず、といった案配であったが女性は誰も相手にすることなく、ために、当時多摩川に集う多くの雁に例え、「雁のように多くの男達が集まるが、すげなく追い返されてしまう」と噂した。女性は長くこの地に住むことになったが、ついには「雁追婆さん」と呼ばれるようになった」とか。橋の名前の由来である。
なお、この雁追橋の辺りに「末新田掘」が合流する。「菅掘」に向かう「末新田掘」に水路は見えず、はっきりしないが、雁追橋跡の対面に「菅掘」に注ぐ水管が見えるが、それが「末新田掘」が「菅掘」に合流する地点だろうか。
◎末新田掘:南武線・南多摩駅辺りから「いちょう並木」の南を東流した「菅掘」が流路を南東に変える辺りで分流し、しばし「いちょう並木」に沿って東流した後、大丸自治会館に向かって南東に流路を変え、大丸自治会館脇で東に向かい「菅掘」に合流する。
蛇行を繰り返し「喧嘩口」へ
雁追橋跡・末新田掘との合流点から先、「菅掘」は北に向かって開渠で弧を描きながら南多摩駅前から東に延びる道を越え、その先で再び道を南に越える。道を越えた水路は民家の間を、幅を狭め南東に下る。
改修のされていない自然な流れが少し続くも、少し大きな道に当たると「人工」そのものの暗渠となるが、すぐに開渠となり又々弧を描いて北東に切れ上がる。道の途中には梨園があり、末流が耕地に向かっている。現在も「菅掘」が現役でいる証しであろうか。 喧嘩口に近づくと、水路は人工的な水路改修がなされず自然のままの趣きで流れる。結構、いい。
○稲城の梨
稲城のブランド梨「稲城」は明治26年(1893)、川崎の大師河原で生まれた「赤梨」をもとに誕生した「長十郎」を品種改良を重ねてできたもの。昭和2年(1927)の小田急線開通にあわせ、「梨もぎとり観光」などで梨の栽培も盛り上がり、昭和11年(1936)頃、最盛期を迎えた(「散策こみち案内 みんなで歩こう二ヶ領用水(製作;NPO法人多摩川エコミュージアム)」より)。
葎草橋碑
北東に進む「菅掘」が、南多摩駅前から東に延びる車道手前で向きを東に変えるあたりに葎草橋がかかり、その脇に石碑が建つ。案内によれば、「この碑は、天保9年(1838年)に長沼、押立両村の協力で木橋を石橋にかけ替えたことを記念して建てられたもの。石碑の造立年代についての正確な年代は不明であるが、天保9年以降の幕末に建てられたものとのこと。側面には、「渠田川や多摩の葎の橋はしら、動ぬ御代の石と成蘭」という歌が刻まれている。穏やかな世を願う村民の気持ちをしめしたものであろう。また、江戸や八王子など八方面への道程が記されている。この橋のある道は、北に行くと多摩川の渡船場に通じ、当時の幹線道路のひとつであった(稲城市教育委員会)」とあった。
渡船場は「押立の渡し」であり、石碑は石橋記念碑であるとともに、道標の役割もはたしていたようである。因みに「葎」とは雑草のこと。
喧嘩口
葎草橋を抜けるとほどなく、「菅掘」は稲城大橋を渡り南に下る都道9号バイパス手前で二流に分かれる。「菅掘」は右手、左手は「中掘」である。また、「中掘」は分流点から直ぐに左手に「中野島用水掘」を分ける。
「喧嘩口」の由来は、往昔、三流に分水する水を求める諍いから。上流の村と下流の村の間で生命線でもある水をめぐり、宝暦2年(1752)には長沼村と菅村、明和8年(1771)にはや野口村と菅村・中野島村、明和9年(1772)には矢野口村と菅村との水争いの記録が残る(「散策こみち案内 みんなで歩こう二ヶ領用水(製作;NPO法人多摩川エコミュージアム)」より)。
都道9号バイパスを越える
喧嘩口で分かれた「菅掘」はほどなく都道9号バイパスを渡る。どのように渡るのか、地下を通る道をチェックすると、空気抜き部分をコンクリート製の箱樋で抜けていた。このバイパスは稲城大橋から下る道が地下を走り、橋に向かう道が地上を走る。
津島神社
都道9号バイパスを抜けた「菅掘」は民家の間を河川改修のない姿で進み、ほどなく石組みの流路を抜けると、往昔の用水の趣を感じる姿で津島神社脇を流れる。結構、絵になる景観ではある。
この津島神社は尾張津島神社の分祠。創立年代は不詳。祭神は素戔嗚尊。尾張津島神社は中世・近世を通じて「津島牛頭天王社」と称し、牛頭天王を祭神としていたためか、この社も江戸時代末期には(牛頭)天王社と称していたとのことだが、明治期の神仏分離令に際し八坂神社と改称。その後に本社の津島神社改称に伴い、現在の津島神社という呼称になったと言う。
新掘が合流
津島神社から少しの間は河川改修のない自然な用水の姿で緩やかに南東に進み、南武線手前の道に出る。南武線に沿って少し先に進むと、道路の左手から勢いよく水が「菅掘」に注ぐ。ここが「新掘」が「菅掘」に合流する地点である、
□新堀;準一次幹線水路
稲城市大丸地区自治会館辺りで「菅掘」から分流し、南東に進み南武線を越え、南武線・稲城長沼駅の南を進み、駅の少し東で流路を北東に向け、南武線を越え都道9号バイパスを越えた辺りで東流し、この地で「菅掘」に合流する。なお、Wikipediaでは、菅掘との合流点で、「菅掘」は終え、そこから先を「新堀」としている。
馬頭観音
「菅掘」は「新堀」との合流点から北に弧を描き進むが、用水脇に道もないので、南武線に沿って少し東に進むと道脇に小祠が建ち馬頭観音が祀られる。周囲にも幾つか石碑が建つが、祠左手の石碑には「東 河崎道」と刻まれていた。道標ではあろう。
南武線と交差
北に弧を描いた水路は南武線の高架下を潜る。この高架も南多摩駅でメモした「JR南武線立体交差事業(高架切替え)」の賜ではあろう。南武線を越えた水路は都市型の開渠として都道9号に当たる。
都道9号
都道9号に当たった「菅掘」は暗渠となって南武線・矢野口駅の南を進み、都道9号と都道19号が交差する矢野口交差点を越えたところに交番があり、そこで一瞬開渠となる。
地蔵菩薩
開渠となった箇所に小祠があり地蔵菩薩が祀られる。案内によれば、「矢野口の渡船場から続く渡船場道と川崎街道が交差するこの場所は、古くから交通の要所として栄えて来ました。この場所から東は川崎、西は八王子、南は大山、北は多摩川を渡り江戸方面へと続いていました。
この場所の地蔵菩薩は村人の幸を守るために正徳三年(一七一三)に建立し祀られたもので、台石には遠く生田や柿生の人の名前も刻まれていて広い範囲の人々からも信仰されたことが分かります。
この地蔵菩薩は昭和三年に川崎街道の拡幅工事により道路の南側から現在地に移されましたが、稲城市指定保存樹木である銀杏の木も地蔵菩薩と共に移植されました。その時に大きな枝は切り詰めましたので樹高はありませんが、幹は年輪を感じ、また直径五~十五糎位(センチメートル)、長さが二十~五十糎位(センチメートル)の気根が十数本下がり素晴らしいものでした。また、移植の際に、経典供養として法華経を記した平たい丸い小さな石が役約百瓸位(キログラム)発見され、現在元通り埋められています(平成六年 敬愛会)」とあった。
矢野口の渡船場、「矢野口の渡し」は大正7年に矢野口と上石原共同で、現在の多摩川原橋の上流400mのところに新設された。それまでは「上菅の渡し」があったようだが、大正初年、矢野口村は「上菅の渡し」から撤退したとのことである(「散策こみち案内 みんなで歩こう二ヶ領用水(製作;NPO法人多摩川エコミュージアム)」)。
開渠となって都道9号から北東に向かう
都道9号に沿ってしばし進み、京王線・稲田堤駅の手前、菅4丁目辺りで開渠となり、民家の間へと北東に向かって進む。
南武線を潜る
住宅地の間を開渠で少し進むと「菅掘」は、「芝間土地改良碑」辺りでは、如何にも水路といった痕跡を残しながら地中を進む。その痕跡を辿りながら進むと再び開渠となり、水路は南武線を潜る。
京王線の高架下を潜る
南武線を越えた「菅掘」は民家の間を縫って開渠で進む。H鋼で補強された水路を辿ると水路は京王線の下を抜ける。
中野島用水堀に合流
京王線を越えた水路はH鋼で補強された姿で民家の間を抜け、また道路に沿って進み、結構大きなH鋼で補強された水路に合流する。この水路は「中野島用水堀」である。
三沢川に注ぐ
「中野島用水堀」はこの先、南武線に沿って進み三沢川に落ちる。「中野島用水堀」と「菅掘」の合流点から下流の「中野島用水」を「菅掘」と称するともあるようだ。
先回のメモでも触れたように、この三沢川は昭和18年(1493)に暴れ川である旧三沢川を改修し、素掘りで通した水路であり、旧三沢川は丘陵に沿って下り、南武線・中野島駅の南西にある川崎市立中野島中学辺りで「二ヶ領用水」に合流する。つまり、江戸の頃はこの川はなく、国土地理院の「今昔マップ首都 1896-1909」をチェックすると「中野島用水堀」の水路は先に進み、「二ヶ領用水」を越え、昔の「稲田村」辺りまで続く。
因みに、上に「中野島用水堀はこの先、南武線に沿って進み」とメモしたが、これは昭和初期に南武線が敷かれたときに南東へと下っていた水路を線路沿いに変更したものであり、往昔は、南武線を南東に下り、「二ヶ領用水」の中の島橋へと向かっていたとのことである。
本日の「菅堀」散歩はここで終了。京王線・稲田堤駅に向かい、一路家路へと。
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