埼玉 古利根川散歩;元荒川を岩槻から中川合流点へ そのⅠ

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利根川東遷事業により瀬替えされ源頭部を失い廃川となった元の利根川本流(古利根川)、その廃川跡、といってもその後の新田開発のため用・排水路として整備されてはいるのだが、ともあれその流路を辿る散歩もやっと岩槻まで下ってきた。
東遷事業の嚆矢となる羽生市会の川締め切り跡(異説もある)からはじめ、数回に渡って歩いた古利根川散歩ではあるが、その間古利根川下流域である足立区と葛飾区の区境を流れる古隅田川を彷徨ったこともあり、もうすっかり歩き終えた気分になっていた。

いやいや、それはダメでしょう。と、久しぶりに空白部分を埋める散歩にでかけることにした。会の川から葛西用水、そして大落古利根川筋を下り、先回は往昔大落古利根川から古隅田川筋(春日部を流れる)に入り、現在は逆川となっている旧流路跡を元荒川に合流する岩槻まで歩いた。今回は岩槻から越谷に向かって下ることにする。

散歩に出かける前、今回は元荒川に沿ってのんびりゆったりのコースではあろうと思っていた。勿論当日はあれこれ??に思いながらも、基本のんびりゆったりではあったのだが、メモの段階で??をチェックすると、市街地に突然現れた不自然に広い空地が元荒川の旧流路であったり、また同じく民家の近くに続く小高い土手が、これも元荒川の自然堤防跡のようであったりと興味深い事象が現れた。
チェックの過程で知った国土地理院の「治水地形分類地図」も思わぬ副産物。旧流路や自然堤防が確認できる。水路フリークには誠にありがたい地図である。今回はこの地図を多用させてもらう。
基本、常の如く事前準備なしの散歩。散歩で見聞きした疑問を解決する過程で得られる「思わぬプレゼント」が誠に嬉しい。ともあれ、散歩に出かける。


本日のルート;大宮台地を岩槻駅へ>東武野田線・岩槻駅>龍門寺 >元荒川旧流路>南辻>赤間堀緑地>久伊豆神社>元荒川堤防に>岩槻城跡 >大野島水管橋>金山堤>武蔵第六天神社>末田須賀堰>地蔵尊と馬頭観音>金剛院>浄山寺>三野宮橋>一乗院>東武東上線大袋駅

大宮台地を岩槻駅へ
先回の散歩は春日部市で大落古利根川と分かれ、往昔の利根川流路であった古隅田川跡を辿り元荒川との推定合流地点へと歩いた。源頭部を閉ざされ廃川となり、水位が下がったためか(異説もある)、ささやかな水の流れも現在では元荒川方面から大落古利根川へと「逆川」となっており、元荒川に繋がってもいない。かつての流路跡であろう自然堤防の樹林帯を目安に元荒川筋へと進んだわけである。

先回の散歩の終点は岩槻大橋の近く。自然堤防はもう少し下流へとのびているが、当日は知る由もなく、そこが古利根川筋の流路跡と、故なき達成感に浸りながら最寄りの駅・東武野田線の東岩槻駅へと向かった。
今回の散歩は元荒川右岸、岩槻駅から先回散歩の終点へと向かい散歩をはじめることにした。特に理由はない。何となくである。
東武野田線・岩槻駅に向かう。JR大宮駅で東武野田線に乗り換え。電車は大宮のある大宮台地(北足立台地とも)の浦和大宮支台を東に進み、見沼代用水西縁や芝川の流れる低地を抜け大宮台地片柳支台に上り、さらに見沼代用水東縁や綾瀬川の低地を走り大宮台地岩槻支台に入り岩槻駅に着く。
いつだったか見沼代用水を歩いたのだが、その時、そして今回まで見沼代用水西縁、柴川、見沼代用水東縁は同じ低地にあるものだと思っていた。これらの流れが合流する八丁堤・見沼溜井の辺りが開けた低地となっているためそう思い込んでいたのだが、見沼代用水西縁、柴川と見沼代用水東縁は大宮台地片柳支台の東西に分かれて流れていた。分岐箇所は大宮台地から支台として分かれる片柳支台の北端辺りとなっていた。
大宮台地
国土地理院「治水地形分類図」をもとに作成
Wikipediaをもとにまとめる;
大宮台地(おおみやだいち)とは、関東平野中央部、埼玉県川口市から鴻巣市にかけて広がる関東ローム層からなる洪積台地である。かつての郡名(北足立郡)にちなんで北足立台地とも称された。
西を荒川および荒川低地、東を元荒川および中川低地に挟まれて南北に長い。北部は細く、南部に行くほど東西に厚くなる三角形をしており、南の川口低地へと張り出した形である。 大宮台地はその核となる台地から支台が分かれる。洪積世後期、海中に堆積した化成岩層が隆起し侵食され谷によって区切られたとされる支台とは以下の通り。
指扇支台 - 西に入間川および荒川。東に鴨川。現在の桶川市からさいたま市西区指扇を経て三橋まで。
与野支台 - 西に鴨川、東に高沼用水路。さいたま市北区日進町から中央区鈴谷まで。
浦和大宮支台 - 西に高沼用水路、東に芝川。各支台中最大の面積を持ち、大宮台地の主部をなす。
片柳支台 - 西に芝川、東に綾瀬川。上尾市東部からさいたま市見沼区片柳まで。以東で南東の鳩ヶ谷支台とつながる。
鳩ヶ谷支台(安行台地) - 片柳支台の南東で大宮台地の最南部をなす。川口市へ張り出している。
岩槻支台(岩槻台地) - 西に綾瀬川、東に元荒川。岩槻区に分布。
慈恩寺支台(慈恩寺台地) - 西に元荒川、東は大落古利根川。その名の通り慈恩寺が位置する事にちなむ。春日部市及び岩槻区に分布。

岩槻駅
駅を下り、先回散歩の最終地点に向かう。で、ルートを想うに、いつだったか岩槻から慈恩寺を経て豊春駅まで歩いたことがある。その時、古隅田川に出合い、それが逆川であり、かつ元の利根川流路跡であることを知ったのだが、それはともあれ、その時は駅の南(東口)を岩槻城方面へと向かった。ということもあり、今回は駅の北側(西口)を歩き成り行きで進み、先回も訪れた久伊豆神社にお参りして先回散歩の最終地点へ向かうことにした。
愛宕町を抜け道なりに進むと県道65号に出た。時に現れる古い民家などを見遣りながら進むと道脇に「龍門寺 久伊豆神社」の案内がある。どのようなお寺さまか知らないまま、とりあえず龍門寺に向かう。民家が切れその先には、なんだか不自然な空地が広がる手前、県道左手に龍門寺参道が現れた。

龍門寺
「将軍家 側用人 大岡氏」ゆかりの寺といった案内が入口に立つ。側用人 大岡?などと思いながらとりあえず参道を進む。
山門
参道を山門に向かう。落ちついた雰囲気の山門横にあった案内には:

龍門寺の文化財
戦国時代の天文十九年(1550)、小田原後北条氏の重臣佐枝若狭守が自らの館内に開創したのが龍門寺です。そのため、境内の西側と北側に残る土塁は佐枝氏の館の名残りと言われており、山号の玉峰山もこの若狭守の法号に因みます。
江戸時代には、幕府の祖、徳川家康を祀った日光東照宮に将軍が参詣する日光御成道に面するようになり、岩槻藩主大岡忠光の菩提寺としての歴史を刻んできました。
国指定重要文化財(工芸品) 刀 無銘 伝助真 一口
長さ七十センチメートルあまり、銘は失われていますが、備前国(岡山県)の福岡一文字派の名工助真(すけざね)の作と伝えられています。豪壮華麗で、鎌倉時代中期の特徴を持っています。岩槻藩主大岡忠光の遺品で、現在は埼玉県立歴史と民俗の博物館に寄託。
市指定有形文化財(歴史資料) 龍門寺所蔵資料 一括
宝暦十年(1760)に死去した岩槻藩主大岡忠光の墓誌のために、子の忠喜が、後に幕府を批判した思想書『柳子新論』を著した医師兼儒官・岩槻藩士山縣大弐に作成させた「大岡忠光行状記」や大岡忠光公関係甲冑その他や龍門寺の開基佐枝家関係資料、龍門寺経営資料など龍門寺に伝来した資料です。
現在は埼玉県立歴史と民俗の博物館、埼玉県立文書館に寄託。
市指定有形文化財(建造物) 龍門寺山門 一棟
  一間一戸で、柱が四本からなる薬医門形式。桁行約三・五メートル、梁間約ニ・四メートルを測ります。本柱は断面長方形の材の長辺を正面に据え、重厚な外観を創出しています。建立年代は明確ではありませんが、建築部材の絵様は江戸時代前半の特徴を示しています。なお、解体修理の際に、東側の破風登裏甲上面で寛政十年(1798)の墨書銘が発見されました。
市指定史跡 大岡家の墓
江戸幕府側用人で、岩槻藩主大岡忠光(1760年没)の墓。石組の基壇上に巨大な五輪塔を据え、他にも忠光の墓碑や石灯籠を配しています。 境内南側(山門入って左側)にあります。 平成二十八年三月 さいたま市教育委員会」とあった。
どのような人物が知らなかったが岩槻藩主・大岡忠光ゆかりのお寺さまであった。
大岡家の墓
本堂にお参りし、案内に従い「大岡家の墓」に向かう。案内には「大岡家の墓 江戸幕府側用人で、岩槻藩主大岡出雲守忠光(一七六〇年没)の墓です。扉に大岡家の家紋を配した瑞垣の中、石組の基壇上に上から空、風、火、水、地を表す巨大な五輪塔を据え、地輪の正面には「得祥院殿義山天忠大居士」、右側面には「武州岩槻城主従四品前雲州太守大岡氏藤原忠光之墓」と刻まれています。他にも明和事件の中心人物となる山縣大弐が関係した忠光の墓碑や石灯籠が残されています。
大岡家は三河以来の徳川家の譜代の幕臣で、一族の中からは名奉行として知られる大岡越前守忠相を輩出しました。
忠光は三〇〇石の旗本の家の生まれでしたが、その才能を発揮して、御側衆・御用御取次・若年寄(奥勤兼帯)、さらに側近として最高職の側用人まで出世し、第九代将軍徳川家重近くに仕えて厚い信任を得、幕府政治を長い間動かしてきました。 宝暦元年(一七五一)には勝浦(千葉県)一万石の大名となり、その後加増が続き、宝暦六年には二万石の岩槻藩主となりました。 岩槻藩主としての忠光の在任期間は四年間と短く、幕政の中心人物として多忙を極めました。宝暦十年四月に亡くなり、後の側用人田沼意次ほか幕閣要人や諸大名が関与する中、僧侶五十人余による盛大な葬儀が当山で行われています。
明治維新まで続く岩槻藩主大岡家八代の基礎を作った名君で、幕藩体制の維持に尽力した忠臣でもありました。さいたま市教育委員会掲示より」とあった。
忠光公墓誌
五輪塔の墓の手前、覆屋の下に石碑がある。忠光公の墓誌である。傍にあった説明には、「山県大弐関与 墓誌裏側 山形大弐が撰文・井書した墓誌の部分がザックリ削られた跡が見られる。大弐のおこした明和事件後、岩槻藩が改易転封を恐れて、大弐に関する物件の隠蔽を行ったのであろう。奇しくも、明和事件に対する幕府の厳しい追求を窺わせる物的証拠となっている。。。」とあった。尚、墓誌表面は、昌平黌の林大学頭の撰文とのことである。
山県大弐
尚また、傍に山県大弐についての解説もあった。
説明には、「革命思想家・山県大弐と龍門寺大岡忠光公は経王暦10年(1760)4月23日病没した。その際、忠光公側近の儒学者の山県大弐は忠光公の墓誌造立に深く関係し、さらに忠光公の生涯についてまとめた「行状記」を当山の一室に籠もって書き残した。これが現在当寺に残されている「大岡忠光公行状記」(市指定文化財)である。
山県大弐は忠光公の家臣時代に藩幕府思想の「柳子新論」を脱稿した。忠光公側近として幕府政治をつぶさに見、その実体験をもとに幕藩体制を痛烈に批判したものである。忠光公没後、当寺に残る行状記を書き記し、岩槻藩を致仕した。そして江戸に出て塾を開いた。そこで、兵学の話として「江戸城攻撃」について議論したため、先の「柳子新論」とあわせて幕府の怒りにふれ大弐に関係した者は捕らえられ、大弐は処刑された。これを明和事件という。大弐の著述は、没後も多くの人に密かに写本として読まれ百年後の明治維新の思想的原動力となった。
当山に残る「行状記」は、大弐が実践活動に移る、その転機に書かれた日本の近代成立史上の極めて重要な史料と言うことができる」とあった。
◎大岡忠光と忠相
大岡忠光の説明の中に、「一族には大岡越前守忠相がいる」、とある。どういう係累関係?チェックする;大岡家系譜では戦国時代、三河松平氏に仕えた大岡忠勝をその祖とする。忠勝の子忠政は家康の関東入府に従い武蔵国に。大岡家3代目当主は忠政の三男忠世が本家を継ぐ(資料により忠世の子・忠種が宗家養子に入り3代目当主となるともある)。忠政の長男・次男が戦死したためである。忠政の四男が忠吉。忠光も忠相も忠吉の系であり、忠相は忠吉の孫、忠光はひ孫にあたる。
忠光は忠吉の子・忠房の系。忠光は岩槻藩系大岡氏の祖となる。忠相は忠吉の子忠章の系であるが、忠相は本家筋3代目本家中世の子、第4代忠真の養子となったため、本家第5第当主となった。また三河の岡崎を領する西大平藩系大岡氏の祖となった。
側用人
側用人と言えば柳沢吉保であり田沼意次の名が思い浮かぶが、大岡忠光が側用人ということは知らなかった。チェックすると、柳沢吉保や間部詮房などの側用人制の弊害により一時衰えていた側用人制が忠光の時に復活した。その因は、将軍家重が極度の言語障害でありその言を聞き取れるのが忠光ただ一人であったためとも言う。また意次とは先輩後輩の関係であり、忠光により復した側用人の制を田沼意次が継いだとのことである。
解説にあった「土塁」は?と辺りを彷徨ったのだが、それらしき顕著な「高み」を認めることはできなかった。とまれ、知らず立ち寄ったお寺さまでちょっと歴史のお勉強ができた。

元荒川旧流路
国土地理院「治水地形分類図」をもとに作成
龍門寺のメモで時間をとった。先に進む。参道を出て県道65号に戻ると前面が不自然に開けた空地となっている。散歩しながらGoogle Mapの衛星写真でチェックと元荒川に架かる慈恩寺橋上流からU字の、如何にも「河川敷」といった空地があり、U字ラインが元荒川に繋がる手前に調整池らしき施設も見える。
メモの段階で国土地理院の治水地形分類図でチェックすると旧流路跡が見て取れる。また、少し先走るが、後程訪れる岩槻城跡にあった岩槻城の縄張図にも龍門寺すぐ傍に元荒川が流れており、田中橋が架かっていた。
この流路はいつの頃河川改修が行われたのだろう。明治初年から中頃にかけて陸軍が作成した「関東平野迅速測図」には旧流路が記されている。はっきりした資料を見つけることができなかったが、大正末期から昭和初期にかけて元荒川支川改修事業が実施されているので、この時期かもしれない。

南辻
県道65号を進む。右手に人間総合科学大学岩槻キャンパスがある。元荒川の河川敷であったところに立地する。ということは、今はない田中橋を渡り、往昔の元荒川左岸に渡っているということだろう。
地名は南辻。明治22年、南辻を含め元荒川左岸の十ケ村が集まり慈恩寺村となっている。少なくとも明治22年までは元荒川は旧流路を流れていた、ということだ。

赤間堀緑地
久伊豆神社に向かい、成り行きで県道65号を右に曲がる。久伊豆神社の社叢の前に緑地が続く。赤間堀緑地とある。衛星写真で見た元荒川旧流路のつくった自然堤防だろう。メモの段階で、国土地理院の治水地形分類図でも自然堤防が確認できた。赤間堀の南は岩槻城の縄張りにあった新正寺曲輪。久伊豆神社の建つ新正寺曲輪は大宮台地岩槻支台の端かと思う。新正寺は久伊豆神社の塔頭に由来するようだ。

久伊豆神社
岩槻駅西口駅から成り行きで歩いた結果、龍門寺や元荒川の旧流路、そして元荒川の自然堤防などに出合った。ここまではよかったのだが、赤間堀緑地から傍に見える久伊豆神社は塀で囲まれ、緑地から直接入ることができない。結局、ぐるっと大きく迂回し東武野田線傍にある久伊豆神社参道入口まで歩くことになった。
台地と低地の境
参道から南、東武野田線の先は緩やかに下りとなっていた。ちょっと気になり治水地形分類図でチェックすると、東武野田線を境に台地と後背湿地に分かれている。後背湿地の南に岩槻支台が、ちょこっと突き出している。岩槻城の縄張りから見れば、堀に囲まれた本丸辺りではないかと思う。実際本丸跡とされる大田2-2-16はこの台地上に乗っていた。主郭部・曲輪は台地上、堀は後背湿地に元荒川の水を取り入れ、自然を生かした縄張りとなっている。



久伊豆神社由緒
鬱蒼とした社叢に覆われた参道を進む。枯山水の庭があった。この社には一度訪れたことがあるのだが、すっかり記憶から抜け落ちていた。拝殿にお参り。
境内にあった案内には「岩槻市総鎮守 御祭神大国主命 久伊豆神社は、今を去る千三百年前、欽明天皇の御代出雲の土師連の創建したものと伝えられる。その後相州鎌倉扇ヶ谷上杉定正が家老太田氏に命じ、岩槻に築城の際城の鎮守として現在地に奉鎮したといわれている。江戸時代歴代城主の崇敬厚く、特に家康公は江戸城の鬼門除けとして祈願せられた。
神社境内は城址の一部で、元荒川が東北に流れ、市内でも数少ない貴重な社叢として知られている。
明治八年一月十一日、火災に遭い、時の城主、町民より寄進された社殿等烏有に帰し、現社殿は、その後氏子崇敬者の誠意により再建されたものである。現在神域は次第に整い、神威はいよいよ高く神徳ますます輝きわたり岩槻市総鎮守として広く人々の崇敬をあつめている」とある。
久伊豆神社・香取神社・氷川神社
『幻の江戸百年:鈴木理生(ちくまライブラリー)
久伊豆神社の名前をはじめて知ったのは、鈴木理生さんの『幻の江戸百年:鈴木理生(ちくまライブラリー)』を読んだとき。関東における神社の祭祀圏がクッキリとわかれ描かれていた。利根川から東は香取神社。利根川の西の大宮台地・武蔵野台地部には氷川神社。この香取・氷川の二大祭祀圏に挟まれた元荒川の流域だけに80近い久伊豆神社が分布する。
大国主
香取神社の祭神はフツヌシノオオカミ(経津主大神)。荒ぶる出雲の神・オオクニヌシ(大国主命)を平定するために出向いた神。氷川神社の祭神はスサノオ・オオナムチ(オオクニヌシ;大国主命)・クシナダヒメといった出雲系の神々。が、この久伊豆神社の由来はよくわからないと書かれていた。
未だによくわからないのだけれど、以下妄想:この社の由緒には御祭神は出雲の神・オオクニヌシ(大国主命)とある。これでは氷川神社の出雲系の神を祖先神として武蔵国に入った部族と違いがよくわからない。違いのヒントは?と、由緒に出雲の土師連の創建とある。





土師連
出雲の土師連創建といえば、鷲神社の系の由来と同じである。久伊豆神社の祭祀圏とほぼ同じ(東西に少しはみ出してはいるが)元荒川流域に鷲宮神社、大鷲神社、大鳥神社などと言う名で祀られる。土師宮とも称される鷲神社系の祭神は天穂日命とその子の武夷鳥命、および大己貴命。天穂日命って、アマテラスの子供。大国主を平定するために出雲に出向くが、逆に大国主に信服し家来となり、出雲国造の祖となった、とか。土師連創建の久伊豆神社が大国主命を御祭神とするのはこういった事情だろう。
なんだか面白い。氷川、香取、久伊豆、これらすべて核に大国主命がいる。大国主を祖先神とする氷川、大国主を平定しようとする香取、その間に大国主を平定しようとするが逆に信服した久伊豆。国津神(国造系)の氷川、天津神(天孫系)の香取、天津神から国津神(天孫系から国造系)となった久伊豆と読み替えてもいいかもしれない。
国津神系(国造)と天孫系(中央朝廷)の間に位置するのが、天孫系から国津神系となった久伊豆創建の土師連の祖先神。が、ここでもうひとつひねりがあるようだ。土師連の「連」とは天孫族であることの証明といったもの。もとは土師臣(天皇直属の部;技術者集団)であったものが、ある時期から「連」のカバネとなっている。ということは、土師氏の祖先神は天孫系から国津神系に一度はなったが、最終的には天孫系に戻ったと、と言える(?)かもしれない。国津神系の氷川祭祀圏と天孫系の香取祭祀圏の間に、国津神系と天孫系の間をとりもつような久伊豆や鷲神社系の神を祖先神とする部族がいたということだろうか。すべて素人の妄想であるが、それなりに結構面白い。


元荒川堤防に
久伊豆神社を離れ、大宮台地岩槻支台の東端辺りを成り行きで元荒川の旧流路跡に戻る。調整池なのか遊水池なのか治水施設がある。国土地理院の治水地形分類図と合わせてみると、池の幅が丁度元荒川旧流路の河川敷の幅のようだ。衛星写真でもそれが見て取れる。
先に進むと元荒川にあたる。旧流路らしき水路が元荒川に合わさるが、遊水地に水門があったので、そこから排水する流れかと思える(根拠はない)。

元荒川の土手を進む。東武野田線を潜り、少々ブッシュとなった箇所もあるが力任せに進むと岩槻橋西詰に出る。岩槻橋から先は土手を進むことはできない。上述治水地形分類図を見ると、岩槻橋の少し北辺りから自然堤防の微高地が氾濫平野となっている。氾濫平野とは河川の堆積作用によって形成された起伏の小さい低平地、有り体に言えば過去の洪水により造られた平野(氾濫原)で、地図では元荒川右岸のひとつ下流の岩槻大橋辺りまで氾濫平野が河川に沿って細長く続いているが、現在は護岸工事されたのであろう、それらしき風情は認められない。

岩槻城跡
岩槻橋を走る県道2号を右折し、最初の交差点の少し手前にある遊歩道を左に折れ、岩槻城址公園に向かう。道なりに進み、左手に城址公園の菖蒲池の見える辺りで城址公園に入る。池の畔には紅葉も残っていた。







白鶴城址碑
いつだったかこの城跡に訪れたことがある。おぼろげな記憶を頼りに城門のあった場所に向かう。途中に「白鶴城址碑」。白鶴城の由来は、この城を築いた(異説もある)とされる大田道潅が、二羽の白鳥が木の枝を沼に落としその上に舞い降りたことから、竹を束ねて沼を埋め盛土をして城を築いたことによる。ために「竹たばの城」「浮城」とも称されるようである(Wikipedia)。





空堀
成り行きで進むと左右に空堀が見える。結構深い。後でわかったことだが、この下に北条氏築城の特色ともなっている障子堀(箱根越え・西坂の山中城跡で出合った)が埋められており、現在より3mも深かったとのことである。なおまた、この空堀は新曲輪(北側というか内側)と鍛冶曲輪(南側というか外側)を画する、と。






岩槻城裏門
空堀に沿って進むと車道に出る。その角に新曲輪と書いた石碑が立っていた。車道に沿ってあったよな、と微かな記憶を頼りに道を進み岩槻城裏門に。案内を簡単にまとめると、 「門扉を付けた本柱と後方の控柱で屋根を支える薬医門形式の岩槻城城門。江戸時代の明和7年(1770年)に当時の岩槻城主大岡氏が建立し、文政6年(1823年)に補修の手が加えられたことが、ホゾの墨書銘に記される。城内での所在位置は不詳で、「裏門」とのみ伝えられている。廃藩置県に伴う岩槻城廃城後、個人に払い下げられたが、昭和55年(1980)に市に寄贈され、現在地に移築復原された。門扉右の袖塀はこの時付け加えられた。


岩槻城城門
更に車道を進むと岩槻城城門。案内をまとめる;「門扉の両側に小部屋を付けた長屋門形式の城門。木材部分が黒く塗られており「黒門」とも称される。城内での本来の位置は不明だが、三の丸藩主居宅の長屋門の可能性が高いとされる。
岩槻城廃城(1871年)後、浦和に移され、埼玉県庁や県知事公舎の正門、岩槻市役所の通用門などに利用されたが、昭和29年(1954)岩槻市に払い下げられ、昭和45年岩槻公園内の現在地に移築された」。
岩槻城縄張案内
岩槻城城門から菖蒲池方面に向かうとすぐ傍に往昔の岩槻城の縄張り図とその解説がある。前述の岩槻城縄張り図とはここに掲載されていたものである。解説には;
「埼玉県指定史跡岩槻城跡 岩槻城は室町時代の末(15世紀中頃)に築かれたといわれています。江戸時代には江戸北方の守りの要として重要視され、有力譜代大名の居城となりました。
戦国時代には何回も大改修が行われ、戦国時代の末期には大幅に拡張されました。本丸・二の丸・三の丸などの城の主郭部、その周囲を取り囲む沼の北岸に位置する新正寺曲輪、南岸に位置する新曲輪という、3つのブロックから構成されていました。さらに城の西側及び南側の一帯には武家屋敷と町家、寺社地からなる城下町が形成・配置され、その周囲を巨大な土塁と堀からなる大構が取り囲んでいました。
この岩槻公園のあたりは、そのうちの新曲輪部分にあたっており、その大部分が埼玉県史跡に指定されています。新曲輪は戦国時代末の1580年代に、豊臣政権との軍事対決に備え、その頃岩槻城を支配していた小田原北条氏が岩槻城の防衛力を強化するために設けた曲輪と考えられ、新曲輪・鍛冶曲輪という二つの曲輪が主郭部南方の防備を固めていました。
明治維新後、開発が進んで城郭の面影が失われている主郭部とは対照的に新曲輪部分には、曲輪の外周に構築された土塁、発掘調査で堀障子が発見された空堀、外部との出入り口に配置された二つの馬出しなど、戦国時代末期の城の遺構が良好な状態で保存されています。
曲輪;城郭を構成する区画
土塁;土塁は土を土手状に盛り上げた防御施設。堀は地面を細長く堀り窪めた防御施設。多くの場合、堀を掘った土で土塁を造る。
堀障子;堀の底に設けられた障害物の一種。
馬山し;城の出入り口外側に設けられた施設で、出入り口の防備を固め、敵の城内への侵入を防ぎ、味方の出撃を容易にする」とある。

大田道潅
この解説ではあっさりと記されていた、室町時代の築城から小田原北条の支配までの間を補足する。

先回この城跡公園にあった解説を目にした解説には「岩槻城は室町時代に築かれた城郭。築城者については大田道潅とする説、父の大田道真とする説、そして後に忍(現行田市)城主となる成田氏とする説など様々。16世紀の前半には太田氏が城主。が、永禄10年(1567年)、三船台合戦(現千葉県富津市)で大田氏資が戦死すると小田原の北条氏が直接支配するところとなる」とあった。
築城は大田道潅とするのが通説のようだが、この地に城を築いた理由は下総古河に拠を構える古河公方に対するため。室町幕府は関東統治のため鎌倉に鎌倉公方を置き関東管領がそれを補佐したわけだが、両者に軋轢が起き公方は古河に逃れ古河公方と称した。古河公方の勢力範囲は利根川以東。上杉管領方はおおむね利根川以西。昔の荒川筋、利根川筋などが乱流する低湿地帯を挟んで両陣営が対立することになる。
大田道潅は関東管領上杉氏の重臣としてこの地に城を築いた。江戸城、川越城とともに古河公方に対する戦略的拠点ともされる。前面に流路定まらぬ元荒川(本来の荒川)、古利根川(本来の利根川)のつくった低湿地を配した、天然の要害ではあったのだろう。
大田氏と岩槻城
岩槻城は道潅が主家扇谷上杉氏の謀略により憤死した後、一時期古河公方の城となるも、大永2年(1522)大田資頼がこれを奪還。資頼は江戸系と岩槻系に分かれた道潅の子孫、岩槻系の武将。道潅のひ孫にあたる。
その後、岩槻城は関東管領上杉氏勢として、武蔵支配を目指し侵攻する小田原北条氏に抗する。天文⒖年〈1546〉の有名な「川越夜戦」により北条氏の関東支配が決定的になった後も、資頼の子資正は北条に抗するが永禄7年〈1564〉、資正の嫡子氏資が北条に内応し、以降北条方となった。以降は上掲解説の通りである。
縄張り
公園にあった解説には、「岩槻城が築かれた場所は市街地の東側。元荒川の後背湿地に半島状に突き出た台地の上に、本丸・二の丸・三の丸などの主要部が、沼地をはさんで北側に新正寺曲輪、沼地をはさんだ南側に新曲輪があった。
主要部の西側は掘によって区切られ、さらにその西側には武家屋敷や城下町が広がっていた。また城と城下町を囲むように大構が建てられていた。 岩槻城の場合、石垣は造られず、土を掘って掘をつくり、土を盛って土塁をつくるという関東では一般的なもの」とあった。
国土地理院の治水地形分類図と見比べると、前述の如く、主要部は大宮台地・岩槻支台、堀は後背湿地と重なるように思える。自然を生かした縄張りとなっている。土塁は先回の岩槻散歩の時、愛宕神社で大構跡に出合った。
堀障子(ほりしょうじ) 
岩槻城縄張案内のある場所から菖蒲池へと向かうと、すぐ右手に空堀が見え、手前に堀障子の案内。「堀障子(ほりしょうじ) 現在地は新曲輪と鍛冶曲輪との間の空堀である。 発掘調査の結果、掘底まで3メートル程度埋まっており掘底には堀障子ほりしょうじのあることが確認された。
堀障子は畝(うね)ともいい、城の堀に設けられた障害物のことである。堀に入った敵の移動をさまたげたり,飛び道具の命中率を上げることなどを目的として築かれたと考えられ、小田原の後北条氏の城である小田原城(神奈川県)、山中城(静岡県)や埼玉県内の 伊奈屋敷跡(伊奈町)などからも見つかっており後北条氏特有の築城技術とみられている。
岩槻城跡では三基の堀障子が見つかっており 底そこからの高さ約90センチ,幅が上で90センチ,下で150センチあり その間隔かんかくは約9メートルあった。 この遺構発見で、堀が戦国時代の終わり頃に後北条氏 によって造られたことなど様々な事が判明した」とあった。
遊歩道となった空堀の中を進み、途中先ほど出合った空堀を左右に分ける通路を上り下りし、元荒川に沿った車道へと戻る。

大野島水管橋
元荒川右岸を新曲輪橋、新岩槻大橋の西詰を抜け岩槻文化公園に。治水地形分類図を見ると後背湿地帯となっている。公園に池も残るが沼の痕跡ではあろう。明治の関東平野迅速図には「葦」といった記述もされている。
現在はきれいに整備された公園を進む。行き止まりにならないかと少々心配しながらではあったが、公園から堤防に戻る道がついていた。
堤防を進むと大野島水管橋がある。歩行者も渡れるようなので、何気なく左岸に渡る。橋を下りた県道325号手前に地蔵が彫られたような石碑が立つ。慈恩寺道を示す道標とのことである。この水管橋のあたりに村国の渡しがあったという。それと関係あるのだろうか。
慈恩寺
坂東観音霊場12番の札所。天長年間(824~34)慈寛大師の草創という。慈覚大師・円仁。下野国の生まれ。第三代比叡山・天台座主。最後の遣唐使でもある。慈寛大師にはて、いままでの散歩で、鎌倉の杉本寺、目黒不動・龍泉寺、川越の喜多院などで出合った。
慈恩寺は往時本坊四十二坊、新坊二十四坊といった大寺ではあったよう。境内も13万坪以上あった、と。このあたりの地名が慈恩寺と呼ばれているのはその名残りであろう。 江戸期には徳川家の庇護も篤く家康より寺領100石を賜っている。また、本尊は天海僧正の寄進によるもの、とか。ともあれ、天台宗の古刹であった。『坂東霊場記』に「近隣他境数里の境、貴賎道俗昼夜をわくなく歩を運び群集をなせり」、と描かれている。

金山堤
左岸堤防に沿った道を進むと、左手斜めから元荒川堤防に向かって雑木林が続く。当日は何だろうとは思いながら歩を進めたのだが、メモの段階でチェックするとそれは往昔の利根川の流れが造った自然堤防・微高地の名残であった。金山堤と称され奥州古道の道筋でもあった、と。



国土地理院「治水地形分類図」をもとに作成
先般の散歩では大落古利根川流路を辿り、春日部から古隅田川を元荒川との合流点と思しき南平野5丁目の大光池辺りから元荒川の堤防に出たのだが、国土地理院の治水地形分類図によると利根川の旧流路(古隅田川)は南平野5丁目で元荒川に最接近した後、逆S字を描いて更に南に下っていた。元荒川へと繋がる雑木林はその逆S字に沿った自然堤防であった。Google Mapの衛星写真で見ると、樹林帯背後の自然堤防上には民家が建ち並んでいる。先般であった大光寺に続き、3つの香取神社も鎮座する。洪水を避け自然堤防上に神も人も住まいする、ということだろう。

武蔵第六天神社
元荒川左岸を進む県道325号から右に折れ道を進むと第六天神社がある。この辺りが上述金山堤、古利根川の旧流路がつくった自然堤防が元荒川筋にあたる。往昔の古利根川と元荒川の合流点ということだろう。
社にお参り。結構な参拝客だ。最近新築されたのか拝殿が新しい。由緒を見る。「主神;面足尊(おもたるのみこと)と吾屋惶根尊(あやかしこねのみこと)
合祀神;経津主命(ふつぬしのみこと)・別雷神(わけいかづちのみこと)・市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)・ 熊野久須美命(くまのくすみのみこと)・家津御子命(けつみこのみこと)・速玉男命(はやたまおのみこと)
その昔、岩槻城下の繁栄を極めたる当時、江戸城の忌門寺として有名な華林山慈恩寺や、日光廟に往来した諸人は、日光街道を曲げて現在の元荒川沿いを下って岩槻城外の第六天神社に奉拝したといわれる。
武蔵国第六天の一として、古来より火難除け・盗賊除け・疫病を除去し、以て家内安全、五穀豊穣、商売繁盛の霊験著しく、江戸界隈の人たちや武蔵国の諸処から、崇敬者が加わり、今日では県内を始め、千葉県・茨城県・栃木県・群馬県・東京都の関東各地より講中を結成し、毎年三月より五月にかけて、大神の御加護を賜りて、自家の安泰と吾人永遠の幸福を祈り奉らんと、御眷属・授与品である天狗の神額を綬ける参拝者でにぎわい、一陽来福を祈る個人参拝者は全国より四季絶えることなく綿々と続き、これ偏に広大無辺、神徳無量なる御神徳と御威光の賜と存じております。
当社の創建は第119代光格天皇の御代、天明二年六月十五日の御鎮祭と伝えられており、 明治四十年六月二十八日、村社香取神社・無格社鳴雷神社・無格社厳島神社・無格社熊野神社を合祀し、 現在に至っております。
尚、境内には、樹齢数百年と言われる藤の花を始め、躑躅。牡丹・西洋藤・紫陽花が咲き乱れ、岸頭には桜並木が続き、門前には川魚料理家が建ち並ぶ埼玉の自然百選に認定された観光名所となっております」とあった。
第六天魔王
第六天神社も不思議な社である。祭祀圏は東日本に限定され、静岡・山梨以西に第六天神社は見当たらない。その因は?
神社という名称は明治以降のことというから、第六天の社とでも称されたのかと思うが、その主祭神は面足尊(オモダル)と吾屋惶根尊(アヤカシコネ)とされるが、それは明治の神仏分離令以降のこと。それ以前の神仏習合の時代は第六天魔王を祀ったとされる。
そしてその第六天魔王の化身と称したのが織田信長。Wikipediaに葛飾北斎が描く「仏法を滅ぼすため釈迦と仏弟子たちのもとへ来襲する第六天魔王」の絵があるが、信長の叡山焼き討ちなどを合わせてみれば、自身を第六天魔王(仏道修行を妨げる魔)とするのは頷ける。
それはともあれ、西日本に第六天が無いのは、信長の信奉した第六点の神威を恐れた秀吉が、勢力圏であった西日本の第六天の社を悉く廃社としたため、とWikipediaにある。なんとなくしっくりこない。
神世七代の第六天
天皇親政にそぐわない明治政府の方針故との記事も見る。これも東国は政府の威令に従わなかった故とする。アマテラスとその親であるイザナギ、イザナミをその祖先神とする天皇家を中核に置いた明治政府にとって、第六天魔王と習合された第六天神の社の主祭神である面足尊(オモダル)と吾屋惶根尊(アヤカシコネ)は「不適切」な存在であったとする。
日本神話において天地開闢のとき生成した七代の神・神世七代(かみのよ ななよ)において、足尊と吾屋惶根尊は第六代、イザナギ、イザナミは第七代。天皇の祖先神より古い神がいることは、恰好がつかない、といったところだろうが、この説もなんとなくしっくりこない。
魔王の力で悪霊を鎮める
とりあえず祭祀圏偏在の因は少し寝かしておくことにして、この社について;社の創建は天明二年〈1782〉と結構新しい。創建の背景は病魔や飢饉がその背景にあるのでは、との記事も多い。天魔故、それを祀ることによりその霊力でもって安寧を祈ったとする。天明3年(1783)には浅間山の大噴火、それにともなう大飢饉に見舞われており、何となく納得できる。
案内には関東各地から講を組み参詣したとする。この地域限定の社ではなく、その威は関東各地に及んでいたようで、各地に第六天を祀るに際し、この武蔵第六天を勧請したとも言う。
尚また、眷属を天狗とするのは神仏習合の時代、その基盤となった密教、そのうちの雑密である修験道との関りを感じさせる。

末田須賀堰
県道325号に戻り、少し進み永代橋北交差点を右に折れ、県道214号に乗り換え元荒川に架かる永代橋に進むと末田須賀堰がある。この堰は大戸の堰と呼ばれた歴史のある堰であり、堰き止められた水は溜井となり左岸は須賀用水、右岸は末田用水となって下る。また溜井により水位の上がった元荒川は、上流3キロ程までのいくつかの用水への水の供給源であったようだ。舟運の河岸もあったとのこと。
最初に堰が設けられたのは慶長19年(1614)頃と言う。寛永9年(1629)、荒川の背替えが行われる。ために、源頭部を失った元荒川の水量が減少。この堰で水を停めることにより、更に下流の越谷に設けられた瓦曽根溜井の水が不足し、その対策として水を利根川に求め逆川が開削されることになった、とのことである。
いつだったか逆川を訪ねたことがあるが、その開削に関わる堰であった。歩けばあれこれと繋がるものである。
須賀用水
末田用水
元荒川右岸を野島・砂原・西新井・七左・大間野を経て綾瀬川に注ぐ
須賀用水
元荒川左岸を、三野宮・大町・恩間・間久里・大間の灌漑に供した






 ●御定め杭
永代橋皆南詰にある遊歩道に御定め杭がある。寛延三年(1750)建立。元は右岸少し下流にあったものが、平成4年の堰改修の折、ここに移された。
「此定杭頭ヨリ石堰上端迄八尺五寸下リ」と刻まれるとのこと。堰の高さを定めるもの。堰が高ければ貯水量が増え下流用水への流量が増えるが、上流域は水位の上昇で排水不良となる。その上・下流の利害調整のため堰の高さを定めている。
上に溜井で堰止められ、水位を上げた元荒川の水は上流3キロほどの用水に供したとメモしたが、水位が高ければいいというわけでもなかった。用排水のバランスのいい水位上昇を定めていたのだろうか。
なお、「石堰」とはあるが、基礎に石をおき、その上に小石を詰めた蛇籠を並べた洗堰ではあったのだろう。

地蔵尊と馬頭観音
武蔵第六天参道と刻まれた石柱の立つ橋詰めから永代橋交差点を左に折れ、県道48号に入るが直ぐに県道から左に分かれる道に入る。特に理由はないのだが、地図にお寺さまのマークがふたつあったので、ちょっと訪ねてみようと思った。少し進むと道傍(旧岩槻道)に二体の石仏が立つ。Google Mapには地蔵尊と馬頭観音とある。大きい石仏は堰安全祈願碑とも言われる。


金剛院
道なりに進むと、左手に落ちついた門が見える。金剛院の仁王門。仁王門を潜り境内に入り本堂にお参り。
仁王門と金剛力士像
門傍にあった解説を簡単にまとめると、「金龍山妙音寺。元は岩槻にあり金剛坊と称したが寛正年間(15世紀中頃;室町後期)この地に移り金剛院と称した。
天正19年〈1591〉には家康から寺領10石の御朱印状を賜り、常法談林として僧侶を教化し、武蔵国移転寺十一か寺の一として由緒ある格式を誇る。
仁王門は、元禄10年(1697年)には、将軍徳川綱吉の生母桂昌院の寄進と伝えられ、簡素な造りではあるがが、三段に組み込まれた重木や屋根の形などに、当時の優雅な名残を伝えている建築です。屋根瓦の大部分を失っているのは惜しいが、堂々とした風格をもつ。
門の左右に配された阿吽の金剛力士像は、共に江戸時代前期の作と思われ、寄木造り、玉眼嵌入、胸上で着手式とし、体幹部は左右二材を基本として、各々補材を充て、仕上げは下地漆の上に布着せを行い彩色されている。
阿形は左手に金剛杵を執り、右手を力いっぱい広げて降ろし、吽形は左手を広げ挙げ、右手は強く握って降ろすという一般的な形だが、胸や腕、背中の筋力の表わし方や、均整のとれた姿態はこの時期のものとして優れた出来栄えを示し、昭和56年5月12日に、市指定文化財となっている」と。
談林は仏教学問所。常法ははっきりしないが、公の、とか正式の、といった意味だろうか。武蔵国移転寺と格式の関係は不明。

浄山寺
道を進むと行政域はおおみや市岩槻区を離れ越谷市に入る。道脇に道標と、「野島地蔵尊 浄山寺」の案内。なんとなく地蔵尊の言葉に引かれて右に折れちょっと立ち寄り。朱塗りの山門を入ると境内には朱塗りの鐘楼。あまり見かけない。
本堂にお参り。国の重要文化財に指定されている木造地蔵菩薩立像を本尊とする。毎年2月と8月の2回御開帳されるようだ。鰐口も大きなものであり、岩槻市の文化財に指定されている。
境内にある由緒や解説を読むと、ご本尊は江戸の頃から出開帳で評判を集めていたようだ。「早く行きたい 野島の地蔵に 好い子出来るように願がけに」と詠われた、とも。 「武州埼玉野島地蔵尊於湯島天神境内開帳之図」と呼ばれる三枚つづりの浮世絵も発売された。人気のほどが窺える。
なお、この地蔵菩薩が文化財として評価されたのはそれほど昔のことではない。平成23年(2010)の東日本大震災で倒れ両足が損壊。修復の過程で平安初期の木彫像に多いかや材を使った一本づくりであることなどから平成26年(2013)県の文化財、そして平成28年(2015)には地蔵菩薩としは屈指の古例であるとして国の文化財として指定されたようである。
木造地蔵菩薩立像
「本尊。縁起では貞観二年(八六〇)、天台宗の高僧・慈覚大師円仁が浄山寺(当時は慈福寺)を建建した折、自ら彫った三体の仏像の一体と言う。
古くから安産・子育ての「野島の地蔵尊」として信仰を集め、江戸時代には湯島天神で出開帳を行い大変な盛況であったと記録にある。一木造。肉付豊かな体躯、深く鋭い衣文表現に平安前期の特色をよく見せ9世紀前半に遡る可能性があり、地蔵菩薩像の屈指の古例として重要であることから国の重要文化財に指定されている(境内解説の重複を省きまとめる)」

浄山寺の御朱印状
「野島浄山寺は、貞観二年(八六〇)慈覚大師の建立、本尊延命地蔵尊は大師一刀三礼の作と伝えられる。もと天台宗に属し慈福寺と号したがのち曹洞宗に転じ寺号も浄山寺と改められた。
天正十九年(一五九一)德川家康が当寺に詣でた折、寺領として三〇〇石を寄進したが、時の住職はこの寄進を過分であると辞退、それで家康は懐紙をとりだし高三石と記して住職に与えた。このため家康の朱印状を「鼻紙朱印状」と呼んだと伝える。なお、当寺には二代秀忠を除き、代々の朱印状が保存されている。 越谷市教育委員会掲示」

野島浄山寺の大鰐口
「大鰐口は天保12年〈1841〉に奉納されたもので厚さ二尺(60センチ)、直径六尺(176センチ)、重量二百貫(750kg)という全国でも稀にみる大きさである」
鰐口の表面には80名ほどの奉納者の名が刻まれており、在所は江戸から粕壁など広範囲に渡る。「大鰐口」の解説にも、「本尊の木造地蔵菩薩の出開帳を安永7年(1778)頃より行い評判を得、天明5年〈1785〉には同所を出張所と定めている。その間にも関東一円に出開帳し信者は各地に広がった(境内解説の重複を省きまとめる)」とあるが、このお寺様への関東各地の人々の信仰のほどが窺える」。

三野宮橋
浄山寺を離れ元荒川筋に戻る。途中、地図に浄山寺の南を走る水路を確認にちょっと立ち寄り。金剛院の南、末田鷲神社あたりから野島久伊豆神社を経て浄山寺の南へと続く水路が地図にあったため。水路自体は小さな溝状のものであったが、メモの段階で治水地形分類をみると、旧流路跡が描かれていた。元荒川の旧流路のように思える。社寺は川筋を避けて自然堤防上に並んでいた。
水路を確認し元荒川に架かる三野宮橋を渡り左岸に移る。
野島
野島の由来は、「シマ」は耕地を指すようで、野の中の耕地からとする。

一乗院
元荒川の左岸を進む。自然堤防には三野宮香取神社が建つ。冬の日暮れは近い。気になりながらもパスし道を進むと一乗院がある。 山門もないようだが、取敢えず境内に。参道左手に大きな石碑があった。明治23年(1890)の洪水に際し、排水を巡る地元人の紛争に巻き込まれ殉職した巡査。左岸の三野宮・大道が洪水で冠水。恩間の古堰を開けて排水する、しないで恩間の住民と騒動になった、と言う。本堂にお参り。
一乗院の建具
境内に「一乗院の建具」の解説がある。建具とは一枚板戸や欄間のとのことだが、「慶長15年(1610)、家康が建てた神奈川御殿の建具。元禄10年〈1697〉、将軍綱吉の母・桂昌院が金剛院に寄進したものであるが、平成11年()、一乗院の本堂再建に際し金剛院から譲り受けた、とあった。
三野宮
元仁元年(1224)源頼朝の妻政子のよる建立とされ、本尊の阿弥陀如来は、政子の安心仏とも。
室町中期、豪族三之宮氏の供養を一乗院で行われた、ために地名が風早村から三之宮に改められ、山号寺号も「稲荷山一乗院」と改名されたと伝えられる。
なお、三野宮の地名は、応永11年(1404)、将軍足利義満の三男(三の宮)が亡くなったとき、この地に三の宮稲荷大明神を祀った故とも伝わる。




東武東上線大袋駅
日も暮れ始めた。最寄りに駅の東武東上線・大袋駅に向かう。元荒川左岸を少し進み左に折れ、一直線に大袋駅へと抜ける、如何にも再開発地といった辺りを進む。左手には大きな調整池が見える。
その先になんだか奇妙な地形が現れる。土手が民家の間に数回、南北に続く。人工的に土手を築く必要もないよな、自然堤防?などと思いながらも、当日は大袋駅に急いだ。


元荒川旧路の自然堤防
国土地理院「治水地形分類図」をもとに作成
メモの段階で件(くだん)の国土地理院。・治水地形分類図を見ると、元荒川の堤防から駅までの間に5つの自然堤防が描かれていた。また、調整池は後背湿地の南端でもあった。
現在は河川改修により直線化されている(宝永3年;1706)元荒川であるが、治水地形分類図に描かれる旧流路は駅へと左に折れた少し下流から大袋駅を取り囲むように大きく蛇行している。いくつもの自然堤防があるのは、流路定まらぬ暴れ川故のことだろうか。
国土地理院1961空中写真をもとに作成;左上が大袋
昭和31年(1961)の国土地理院・空中写真にも、自然堤防上に並ぶ民家がみえる。窪状の影の影のように見える弧は旧流路の痕跡だろうか。また、現在の衛星写真(注;Google Mapを衛星モードに切り替えてください)にも旧流路の痕跡らしきものが見える。大袋駅から元荒川にかけての宅地は、見事なくらい自然堤防の内側に密集しているのが、それ。自然堤防より元荒川側は後背湿地であり氾濫原。人が住むには適していなかったのだろう。調整池あたりに開発されている再開発地は、氾濫原を商業地とする計画であろうか。
また、幾筋もある自然堤防の多くは宅地化で明瞭な土手は散歩では見えなかったが、衛星写真には南北に続く微かな緑の帯が、密集した宅地の中に続いていた。往昔の自然堤防跡かとも思える。
河畔砂丘
自然堤防の内側には河畔砂丘がある、という。河畔砂丘は会の川古隅田川など、古利根川散歩の折に触れて出合った。利根川特有のものであり、それゆえ元荒川が古利根川の旧流路とされる所以でもあるが、宅地化が進むこの地ではこれだ、と確認することはできなかった。
袋山
因みに大袋駅はかつての大袋村から。大竹、大道、袋山村などが合併してできた村。その中で、かつて蛇行していた元荒川に囲まれた地域が袋山村。文字通り元荒川が袋の様にこの地を囲み、押し流されてきた砂が山のように積み重なった故の命名であろう。ということは、往昔の袋山村は現在と異なり、元荒川右岸にあった、ということだ。 ついでのことながら、袋山と自然堤防を境に接する恩間も、もとは押し廻し、から。元荒川が土砂を押し廻したのだろう。
これで今回の散歩のメモは終わり。次回は大袋駅から越谷へと下る。

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