阿波歩き遍路:那賀川筋大井からはじめ第二十一番 太龍寺を打ち第二十二番 平等寺へ;太龍寺道・いわや道・平等寺道・大根峠ルート ①

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先回は勝浦川筋の生名より鶴林寺道に取り付き、第二十番札所鶴林寺を打ち那賀川筋の大井の集落まで下った。全行程6キロほど、3時間の山越えであった。阿波の遍路道で「一に焼山、二にお鶴、三に太龍」と称される難路ということだが、整備された山道のおかげか、6キロほどの距離ゆえか、それほどの難路・険路というほどではなかった。

全体ルート図(Google Earthで作成
今回は「一に焼山、二にお鶴、三に太龍」と称される「大龍」、即ち難路・険路として知られる第二十一番札所太龍寺越えのアップ・ダウンの後、二十二番札所である平等寺への遍路道を辿る。全行程17キロといったところ。
ルートは那賀川筋の大井から太龍寺道を上り第二十一番札所太龍寺までおおよそ5キロ弱、標高40m弱の取り付き口から標高490mほどまで上る。比高差450mほど。太龍寺を打った後は「いわや道・平等寺道」と呼ばれる稜線部を6キロほど歩き、標高140mの阿瀬比の集落まで下る。比高差350mほど。この所謂、太龍寺越えの距離は11キロほど。
阿瀬比の集落から後は第二十二番札所平等寺までおおよそ6キロ。峠越えといっても比高差100mほどであるのでそれほど厳しくはないだろう。

このルートで全行程おおよそ17キロ。普通ならどうということのない距離だが、痛めた膝が太隆寺越えの下りでほぼアウト。阿瀬比の集落から平等寺までの6キロは普通に歩けば2時間もあれば十分だろうが3時間ほどかかってしまった。
結局全所要時間7時間半強。以下、一応ポイント毎に当日の時刻表示はするが、そういった事情でのコースタイムであり、実際はもっと早く進めるかと思う。

メモは2回に分ける。今回は那賀川の太龍寺道の取り付口から第二十一番札所太龍寺まで。次回は太龍寺から「いわや道・平等寺道・大根峠」を辿り第二十二番札所平等寺までの遍路道をメモする。


本日のルート;
那賀川筋水井橋から太龍寺道を第二十一番札所太龍寺へ
水井橋>地蔵座像と標石>中尾多七標石>10丁>11丁>12丁>休憩所>14丁>16丁>中尾多七奈標石1>17丁>中尾多七標石2> 中尾多七標石3 >遍路墓>19丁>20丁>21丁>23丁>24丁>25丁>尾根>27丁>21番太龍寺
第二十一番札所太龍寺からいわや道・平等寺道を阿瀬比集落へ下る
太龍寺>1丁石>舎心嶽>石仏と丁石〈4丁?)>茂兵衛道標>角柱標石>7丁>6丁?>9丁?>破損石仏>遍路墓>笠付標石>12丁>13丁>14丁>15丁>16丁>17丁>18丁>>19丁>20丁>阿瀬比3㎞>22丁>24丁>遍路墓>25丁>いわや道・平等寺道分岐点>阿瀬比集落1.6km>急坂>39丁>標石>平等寺5km>茂兵衛道標(169度目)
阿瀬比集落から大根峠を越えて第二十二番札所平等寺へ
中尾多七標石>標石2基>倒れた標石>大根峠>地蔵立像>角柱丁石(20丁)>休憩所>石仏群と15丁石>石仏群と11丁石>真言供養塔>岩戸橋北詰2基の標石>22番平等寺

勝浦川筋大井休憩所より太龍寺へ


那賀川筋水井橋から太龍寺道を第二十一番札所太龍寺へ

茂兵衛道標(100度目):午前7時43分
先回の終点である県道19号脇の大井休憩所からスタート。道の右手に「服部因幡守 源啓元」と刻まれた石柱。結構新しい。阿波細川氏の家臣団に服部因幡守の名が残るが、その他不詳。
遍路道は県道を少し東に向かい那賀川に架かる水井(すいい)橋を渡る。水井橋への左折点に茂兵衛道標。正面に手印、「太龍寺」と刻まれる。
右面には添歌「暮可希亭壱里もか礼ずあきの山」が刻まれると言う、「暮れかけて 一里も枯れず 秋の山」と刻まれる。臼杵陶庵の句。
陶庵添句
遍路歩きで茂兵衛道標に出合ったとき、時に添歌が刻まれる。チェックすると、茂兵衛道標253基のうち、37基に陶庵の和歌が刻まれる、と。臼杵陶庵。本名臼杵宗太郎。明治9年(1876)、12歳で第76番札所金蔵寺に入寺。和歌を学び、巡礼時金蔵寺で茂兵衛と出合った事を契機に和歌を添えるようになった、という。

水井橋;午前7時46分
県道を左に折れ那賀川に架かる水井橋を渡る。道は鶴峠から下ってきた県道283号。橋の全長160m、幅3m、昭和40年(1965)完成。それ以前はここに那賀川の渡しがあったと言う。この辺りの遍路道について真念は『四国遍路道指南』に「これより太龍寺までは一里半、道ハちかミちなり。大師御行跡のすじハ加茂村、其ほど弐里旧跡もあり 〇大井村 なか川舟わたし。〇わかすぎ村、家四、五軒有」と記す。
かも道
真念が、「大師御行跡のすじハ加茂村、其ほど弐里旧跡もあり」と記すように、 往昔、この地から6キロほど下流に下り、加茂の集落にある弘法大師空海の旧跡・一宿庵に詣でたあと、尾根道を5キロ上り太龍寺へ向かったお遍路さんも多かったという。この遍路道は四国遍路が広まる以前の遍路道。鶴林道と同じく南北朝の頃に開かれた四国最古の遍路道とされる。
鶴林寺にあった注意書きには、悪路・一人歩き不適とあった。現状は不詳。

地蔵座像と標石;午前7時52分
県道283号・水井橋を渡る。道は右折し、その先直ぐふたつに分かれる。県道283号はそのまま那賀川に沿って進むが、遍路道は分岐点を左折し県道282号に乗り換える。
その分岐点、切通し手前に石仏と標石。傍に「遍路道沿いの石造物群」の案内があり「弘法大師坐像、地蔵尊、舟形地蔵丁石、遍路墓」が写真と共に記される。
「「明治期の大師坐像、文化年間の地蔵尊、「是ヨリ太龍寺マデ二十八丁」と刻まれた舟形地蔵丁石、遍路墓は切通の上に2基あり、また、いずれも水井渡しの船頭小屋横にあったが、水井橋の建設時(昭和40年)に移設された」といったことが説明されていた。

遍路道分岐点に中尾多七標石;午前7時57分
左折すると直ぐ「四国のみち」の木標、遍路タグ、「太龍寺 歩き遍路道」、標石などの道案内。県道を離れ右に入る。標石は中尾多七標石。

標石傍に「阿波遍路道の案内」。「国指定 阿波遍路道 太龍寺道・かも道・太龍寺境内・いわや道・平等寺道 四国八十八ヶ所霊場をめぐる遍路道は、四国4県にまたがる弘法大師ゆかりの寺院を巡る1,400kmに及ぶ壮大な巡礼道で、遍路道は古来より人々の往来や文化交流の舞台となり、丁石(札所寺院の距離を示す)・道標・遍路墓などの数多くの石造物等の文化財が残されている。
また、地元住民による「お接待」と呼ばれる心の文化も民衆が長い歴史の中で創り上げられたものである。すなわち遍路道には物心両面にわたり人びとにより今日まで受け継がれてきた数少ない巡礼に関する文化財が残されている古道として貴重である。 阿南市では平成22年8月5日に四国ではじめて「太龍寺道・いわや道」の一部が国史跡に指定、更に追加指定がなされ平成30年3月現在では「太龍寺道・かも道・いわや道・平等寺道」の一部約6.3kmが指定区間となっている。また平成29年2月9日には「太龍寺境内」が追加指定となった。
「太龍寺道」は鶴林寺から太龍寺までの区間で「遍路転がし」と呼ばれる急峻な、山道があり「一に焼山、二にお鶴、三に太龍」と言われている。「かも道」は南北朝期の丁石が残る四国最古の遍路道として、また大師行脚の道としても近年注目を浴びている。
「いわや道」は太龍寺から「龍の窟」へと向かう道で、多くの石造物のほか太龍寺建物や石段にも使用されている大理石(石灰岩)の採掘場も残されている。
「平等寺道」は「いわや道」からつづく22番札所平等寺までの通路道で、阿瀬比集落までの遍路道は近年地元住民による整備活動で復活した道である。
「龍の窟」とは弘法大師が悪龍を閉じこめたと伝説の残る石灰岩の刺激であるが、昭和49年(1974)には消滅した。 徳島県教育委員会/管理団体 阿南市教育委員会」とあった。
きちんとした地図も掲示されており誠に助かる。また、掲示横の小箱に「加茂谷へんろ道の会」作成の「あなん 遍路史跡めぐり」の小冊子が置かれていた。これも誠に有り難い。
実のところ、分岐点の石造物群のところで、「加茂谷へんろ道の会」に関係するご夫妻に出会い、石造物のお話と共に、この小箱に小冊子を置いていることをお教えいただいた。でなければ通り過ぎたかも。

10丁・11丁
法面に「若杉遺跡」との案内のある道を若杉谷川に沿って歩く。舗装された道も簡易舗装となり、20分強歩くと岩の上に舟形地蔵。「十丁」(午前8時21分)と刻まれる地蔵丁石(午前8時21分)だった。その先 にもの舟形地蔵丁石(午前8時27分)。[十一丁」のように思える。


休憩所:午前8時30分
若杉谷川の左岸を進んで来た道が右岸に渡ってすぐ、道脇に休憩所がある。そこに休憩所。傍に「国指定史跡 若杉山辰砂採掘遺跡」の案内。
「国指定史跡 若杉山辰砂採掘遺跡(所在地:徳島県阿南市水井町典田) 若杉山辰砂採掘遺跡 は、前方を流れる若杉谷川の対岸、若杉山の東斜面にあります。ここでは、弥生時代後期から古墳時代初頭(紀元前1世紀から3世紀)に水銀朱の原料となる辰砂が採掘されていました。
鮮やか赤色を発する水銀朱は、顔料として使用され、装飾として銅鐸や土器を彩ったほか、亡くなった人を埋葬する際に石室や棺に塗られました。徳島県内の弥生時代後期から古墳時代の墳墓でも葬送において水銀朱を使用した事例が見つかっています。
遺跡の発見は1953年(昭和28年)に「加茂谷村誌」の編集のために行われた、実地調査がきっかけとなりました。調査を視察した常松卓三(当時富岡西高等学校教諭)によって、遺跡の上部にある岩陰住居跡と考えられていた洞窟は、水銀朱の原料である辰砂を掘った跡であり、遺跡で採取される石杵と石臼は掘り出した辰砂を粉末にするために用いたものであると考えられました。これが、辰砂採掘遺跡として位置付けた最初の指摘となりました。
1984年(昭和159年)から1987年(昭和162年)には、徳島県博物館(徳島県立博物館の前身)によって、初めてとなる発掘調査が行われます。前方斜面の段々畑から、土器、石器、勾玉、獣骨、貝類、辰砂鉱石などが出土しました。なかでも採掘に使用された石杵と石臼があわせて400点余り出土し、採掘が大規模に行われていたことが明らかとなりました。
そして2017年(平成29年)からは徳島県教育委員会と阿南市が道跡の適切な保存と活用をはかるための発掘調査に着手しています。その結果、露天採掘によって辰砂の採掘を行った地点が特定されるとともに、遺跡の上部にある洞窟は、かつて常松氏が「辰砂を掘った跡」と指摘したとおり、辰砂をめざして掘り進んだ結果できた「採掘坑跡」であることが確かめられました。
「若杉山辰砂採掘遺跡は、弥生時代から古墳時代の辰砂の採掘方法を知ることができる全国で唯一の遺跡であり、弥生時代の社会を知るうえで重要な遺跡といえるでしょう」とあった。

地図を見ると川の対岸直ぐ近くに遺跡名が載るのだが、道案内が見当たらなかった。古代遺跡にそれほど「萌える」こともないので寄り道はパス。
一太郎pad
因みに説明文は最近お気に入りのiphoneアプリ、「一太郎pad」で作成したもの。iphoneで撮った写真を一太郎padで開き、完了を押すと写真にある文字をテキスト化してくれる。認識精度も高く、誠にありがたいアプリだ。しかも無料。今まで書き起こすことが大変だった案内、寺社の由緒のテキスト化が楽になった。

14丁・16丁
若杉川谷右岸を進む。左手に「十四丁」と刻まれた舟形地蔵丁石(午前8時38分)。その先に「十六丁」舟形地蔵丁石(午前8時44分)。




集落跡に中尾多七奈標石
その先一瞬平地が開ける(午前8時46分)。若杉と地図にあるが、真念が「四国遍路道指南」に「わかすぎ村、家四、五軒有」と記したように、集落があったのだろうか。地図には鳥居の印もあるが現在は何も残っていない。
その先、「四国のみち」の木標脇に中尾多七標石(午前8時48分)。下半分は埋まるが、中尾多七奈標石の特徴とする両端矢印と「へんろ」の文字が見える。

登山口に中尾多七標石;午前8時53分・標高170m
数分で「十七」と刻まれた舟形地蔵丁石(午前8時51分)。その先に「四国のみち」の木標脇で道を右に折れ山道に入る。擬木の敷かれた坂道の起点に中尾多七標石。両端矢印と「へんろ道」の文字が刻まれる。ここから太龍寺の建つお山に取り付くことになる。

標石・遍路墓
上りはじめると直ぐ標石(午前8時56分)。「太龍寺道 是より十二丁 大正十一年」といった文字が刻まれる。その先に遍路墓(午前9時1分)。戒名と共に「筑後国上妻郡柳瀬村 佐助娘ゑみ」と刻まれると言う。あまりにパーソナル。菩提を弔うべし。


19丁;午前9時3分・標高230m
直ぐ「十九丁」と刻まれた舟形地蔵丁石(午前9時3分)。等高線230mから250m等高線にトラバース気味に掘割り道を上る。





20丁・21丁石
等高線250m辺りに「二十丁」と刻まれた舟形地蔵丁石(午前9時9分)。⒛丁から先は支尾根筋に向かい等高線280m辺りで遍路道は支尾根に乗る。ここから先は基本、支尾根筋の突き出した等高線をほぼ垂直に上ることになる。
標高300m手前に「二十一丁」と刻まれた舟形地蔵丁石(午前9時15分)。地蔵の彫が深く、台座に寄進者大京原村 中野要碩」といった文字も読める。

23丁;午前9時26分・標高360m
擬木の敷かれた急坂が続く。「阿波遍路道 太龍寺道(あと1.1km)」といった案内を見ながら高度を上げる。標高360m辺りに「二十三丁」と刻まれた舟形地蔵(午前9時26分)。


24丁;午前9時32分・標高370m
直ぐ上部が欠けた丁石(午前9時32分)。「二十四丁」と刻まれる。24丁の先、一瞬緩やかな道。






25丁を越え稜線に;9時42分
ゆるやかな上りの先に「二十五丁」と刻まれた舟形地蔵丁石(午前9時36分)。その先、キツイ上りを50mほど上げると先に平坦な道が見える。稜線のようだ。太龍寺参道が近づいた。


黒河道・かも道合流点;午前9時45分
稜線に上ると「右 太龍寺」の標石。少し進むと稜線上の四つ辻に出る。角に「四国のみち」の木標が立ち「鶴林寺6.1km 平等寺11.3km 太龍寺0.4km」とその方向を示す。
木標が指す「平等寺」は、ここから加茂谷川筋を黒河集落に下り、県道28号を阿瀬比に向かい、そこから大根峠を越えて平等寺へ向かう遍路道を指す。黒河道と呼ばれるようだ。

と、「四国のみち」の先に尖塔方柱形式で頭部に切り込みが入る標石が見える。これって南北朝の頃に立てられた標石の特徴をなもの。ひょっとして南北朝の頃開かれた、四国最古の遍路道のひとつ「かも道」では?標石には「左 鶴林寺」「右 太龍寺」「右 かも道 富岡道」とある。一宿庵から上ってくる「かも道」の合流点だろう。



27丁・3丁(かも道)
太龍寺へと進む。数百メートルもあるだろうか結構長い。右手に「二十七」と刻まれる舟形地蔵丁石。その先に山門が見える。山門手前石段前に頭部に切り込みが入った尖塔方柱形式の標石(尖塔部分は摩耗?)。「三丁」と刻まれてる。流れから考えれば、「かも道」に立つ南北朝期の標石の続きでは?「かも道」の標石は太龍寺までの丁数を示すようであり、遍路道合流点の東に「七丁」標石がたつとの記事もあるので、ここに「三丁」があっても違和感はない、かと。

第二十一番札所番太龍寺

「三丁」標石から石段を上ると仁王門。朱塗りの仁王は鎌倉期の作と言う。仁王門は文化3年(1806年)建立。
仁王門を潜ると長い参道。右手に逸れると「北舎心」の祠がある。参道を進むと右手に六角堂、護摩堂、本坊と続く。一切経経蔵とも呼ばれる六角堂は古き趣。安政3年(1856年)の建立。護摩堂は明治34年(1901年)、本坊は明治28年(1895年)建立と言う。護摩堂の香台は伊藤萬蔵の寄進。
本坊(持仏堂?)の庭に「竜天井」の案内。廊下天井に龍の絵がちょっと見えた。土佐出身の画家竹内松嶺氏の作。明治の頃に描かれた、と。
その先、石段の上に堂々とした門が見える。明治36年(1903年)建立の鐘楼門。更に石段を上ると本堂に。嘉永5年(1852年)建立。
本堂をぐるりと右に廻り石段を上ると文久元年(1861年)建立の多宝塔。明治10年(1877年)建立の大師堂は更にその右にあった。
Wikipediaには、「太龍寺(たいりゅうじ)は、徳島県阿南市加茂町にある高野山真言宗の寺院。舎心山(しゃしんざん)、常住院(じょうじゅういん)と号する。本尊は虚空蔵菩薩。
太竜寺山弥山(標高600.1)の山頂近くに位置し、本堂は標高505m付近で八十八箇所で6番目の高さにあり、大師堂は、御廟の橋、拝殿、御廟が並び高野山奥の院と同じ配列になっていて、その大伽藍は「西の高野」と称され、阿南室戸歴史文化道の指定、とくしま88景の選定を受けている。阿波では「一に焼山、二にお鶴、三に太龍」と称され、へんろころがしと呼ばれる難所の一つである。
空海(弘法大師)の24歳での著作である三教指帰(さんごうしいき)の序文に「阿國大瀧嶽に...勤念す」と記されており、大瀧嶽は現在の大竜寺山であると考えられている。19歳で都の大学での学問に見切りをつけて修行に入った空海が、現在の境内の600m ほど西にある舎心嶽の岩上で百日間の虚空蔵求聞持法を修したとされる。山号はその舎心嶽から、寺名は修行中の空海を守護した大龍(龍神)にちなんでいる。
延暦12年(793年)に桓武天皇の勅願によって阿波の国司・藤原文山が伽藍を建立、堂塔が建立され、空海が虚空蔵菩薩像などを刻み安置したと伝えられている。
天長2年(825年)淳和天皇が寺領を寄進、嘉保2年(1095年)には白河上皇の命により東寺の長範が再興した。皇室や武家からの信仰が篤く寺勢は栄えたが、天正年間(1573年 - 1592年)に長宗我部元親の兵火によって焼失し衰退、その後も復興と荒廃を繰り返すが徳島藩主蜂須賀家の保護によって再建される。
戦後は山中の山寺ゆえに困窮の時代を迎え、龍の窟を失い、さらに昭和34年(1959年)には三重塔を失ったが、1992年に太龍寺ロープウェイ が運行するようになり車利用者でも約30分坂道を歩かないと行きつけない難所であったが容易に参拝できるようになり、遍路ブームの到来もあって隆盛時を迎えた。
2011年7月の台風6号により、樹齢400年に及ぶスギの先端およそ15メートルが折れて、本堂の屋根を突き破ったが数年後に復旧した。 また、大師堂もその後の台風で損傷していたが2018年には復旧している」とある。
虚空蔵求聞持法
『弘法大師伝記集覧』には、「舎心嶽の岩上での虚空蔵求聞持法の修行も、その悉地(祈願成就)を得ることなく、ために、一命を捨て三世の仏力を加えるべく岩頭から身を投げる(捨身)も諸仏によりその身を抱きかかえられ本願を成就した」とある。
同様のお話は讃岐の72番札所出釈迦寺でも出合った。こちらは大師七歳の時のストーリー。 捨身云々はよしとして、虚空蔵求聞持法の修行のことだが、虚空蔵菩薩の真言「ノウボウ アキャシャキャラバヤ オンアリキャ マリボリソワカ」を百万遍唱えることにより、一切の教法を暗記できるとする難行苦行。大師も幾度か挫折したとある。
大師自らの『御遺告』には「名山絶瞼のところ、嵯峨たる孤岸の原、遠然として独り向い淹留(おんりゅう)して苦行す。或は阿波の大滝の嶽に上って修行し、或は土佐の室生門の崎に於て寂暫して心観すれば明星口に入り、虚空蔵光明考し来て菩薩の威を顕わし、仏法の不二を現す」とあり、大師の著『三教指帰』にも「大聖の真言を信じて(中略)阿國大滝の獄によじのぼり、土州室戸の崎に勤念す。谷響を惜まず明星来影す」とある。
虚空蔵求聞持法の修行はこの地、舎心嶽での苦行の末、土佐の室戸において大願成就したようである。大師自らの著にはさすがに「捨身」のくだりはない。
因みに「舎心」って、「捨身」の当て字?その意との記事もあるが、心を舎(とど)めるの意のようである。

今回のメモはここまで。次回は太龍寺から平等寺までをメモする。


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