土佐北街道散歩 立川川谷筋;柳瀬からはじめ旧立川番所書院へ

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何時だったか、銅山川疏水の資料がないものかと訪ねた四国中央市の市役所にあった「龍馬も歩いた土佐街道」のパンフレットにあった「土佐街道」という文字に惹かれ、四国中央市の市街と新宮を隔てる法皇山脈・横峰越えを辿った。
そのときはそれで終わりと思っていたのだが、メモをする段階で土佐藩主の参勤交代の道である土佐北街道は、高知の城下を発し四国中央市の川之江で瀬戸の海に船出する街道の途次、笹ヶ峰越え、国見峠越え()、権若峠越えといった「峠越え」で道を辿ったことを知った。「峠越え」フリークには惹かれる文字である。
法皇山脈・横峰越えをきっかけに土佐北街道の「峠越え」にフックがかかり、笹ヶ峰を越え、国見峠を越え、権若峠と途次ある峠を歩き終えた。笹ヶ峰も国見峠も結構険しい道ではあったが、最も苦労したのが権若峠。一見すると最も簡単そうなルートと思えたのだが倒木、ブッシュの難路・険路。一度目は途中撤退し、二度目に逆からのアプローチで何とかリベンジを果した。 で、少し時間は空いてしまったが、ついでのことでもあるので、高知城下から川之江まで、既に辿った峠と峠の間の道を繋いでみようと思った。
さてどこから。あれこれルートをチェックすると国見峠を越え笹ヶ峰越えにと進む立川川の谷筋、右岸の山腹を進み旧立川(たじかわ)番所書院までのルートが目に入った。高知の城下から權若峠まで、国見越えから柳瀬まで、また法皇山脈を抜け金田から川之江までの里道よりなんとなく面白そう。とりあえずこの谷筋をさっさと歩き終え、次いで里道歩きで土佐北街道を繋ごうと、立川川谷筋に沿った山道歩きに出かけた。
峠と峠の間の谷筋の山道。どうということはないだろうとお気楽に出かけたのだが、これが結構大変。スタート地点の立川川に架かる橋が数年前の大雨で崩落という状況からはじまり、道筋もあまり人も歩いていないのか踏み込まれた跡が見つからず山中を右往左往。結局第一回は日没時間切れで途中撤退とし、千本集落の立川川支流に下り浅瀬を渡り成川集落から県道5号を車デポ地まで戻った。
痛めた膝の養生に1週間ほど間隔をあけリベンジに。計画は権若峠と同様「逆」から攻め、道迷い地点を繋ぐことにした。スタート地点は「千本しらや橋」。土佐北街道でよく聞く橋名である。比定された場所から迷い道箇所まで繋ごうとの想いである。
さて踏み込まれた道あれかし、と願いながら歩き始めると突然前面の斜面が地滑りで大規模に抉られている。これが案内にあった「崩落」箇所だろう。出だしから強烈なパンチに見舞われたが、抉られ倒れた杉の大木を乗り越えたり潜ったりしながら崩落部を東側の枝尾根に這い上がる。
枝尾根に乗ると左下に林道が見える。国土地理院に破線で描かれたルートである。尾根筋から林道に下り少し先に進むがなんとなく落ち着かない。で、途中から斜面を?mほど這い上がると踏み込まれた道があった。崩落斜面をクリアした尾根筋から続いているようだ。この道を先に進み、先回道が消えた箇所までつなぐことができた。
メモでは便宜上、道が消えた箇所からピストンで戻った千本しらや橋までをメモする。時刻もピストンでの戻り所要時刻を参考に、1回目の時刻に続けて記すことにする。

ピストン復路は往路でほぼルートをカバーしているため特段の苦労もなく、といっても大崩落斜面部のトラバースは結構大変ではあったが、ともあれ千本しらや橋に戻り大休止。そこから立川までは特段の道迷いもなく順調に進み、立川(たじかわ)から県道5号を車デポ地の千本しらや橋傍に戻り散歩を終えた。
実際は2回かかった柳瀬から立川までの散歩ではあるが、メモでは一気通貫、「迷い道くねくね」のない散歩の記録として記すことにする。



本日のルート;
柳瀬から千本しらや橋
柳瀬の土佐北街道入口>落橋>一の瀬集落・金五郎橋>柳瀬集落・落橋西詰に>木橋を渡る>「参勤交代道」標識>「北山越え」標識>高知自動車道下り線高架を潜る>高知自動車道上り線高架を潜る>木橋を渡る>虎ロープ>展望所>開けた場所に建屋>建屋の先を右に折れる>木橋を渡ると「北山越え」の標識>沢を2箇所渡る>虎ロープ>「北山越え」標識>「参勤交代道」標識>「北山越え」標識>道が消える>沢に倒木>沢で道が消える>前面が開ける>枝尾根に>林道に合流>大崩落斜面東端部に>大崩落部西端部に>千本しらや橋>「土佐北街道・北山越え」標識
千本しらや橋から旧立川番所書院 へ
杏谷橋>「北山越え」標識>「北山越え」標識>分岐点先に「北山越え」標識>分岐点先に「北山越え」標識>土砂崩れ防止工事箇所>土径に入ると「北山越え」標識>「土佐街道」標識>高知自動車道保線路(?)>荒れた沢>茶畑>立川川に架かる橋を渡る>旧立川番所書院>荷宿跡

柳瀬から千本しらや橋



柳瀬の土佐北街道入口;午前10時2分
家を出発し松山自動車道、高知自動車道を乗り継ぎ大豊ICで下車。吉野川水系立川川に沿って走る県道5号を北に戻り、県道筋より立川川を渡り土佐北街道に入る橋があると言う柳瀬集落のスタート地点に到着。
文字も消えた古い木製の街道案内標識のすぐ北に「土佐北街道」は左の案内がある。が、その下には「参勤交代道は災害による落橋、崩落等があり現在通行できません 立川番所保存会」とある。 さてどうしたものか。とりあえずどの程度の状況なのか行けるところまで進み、危険であれば引き返そうと県道から左に折れ立川川に集落の坂道を下る。

川まで下ると橋がない。落橋ってここ。出だしから躓いた。浅瀬を探し渡河しようか、などと橋傍に佇んでいると集落の方が「橋は数年前の大雨で落ちた。少し南に戻り一の瀬の金五郎橋を渡れば対岸に道があり、崩落橋の近く迄進める」と。
国見峠より一の瀬までの土佐北街道
国見峠を下りた土佐北街道は県道267号筋、??延に出る。そこから樫ノ川の左岸に渡り本山に。そこで宿泊した後、吉野川に沿って国道439号を東進。現在の本山東大橋で左岸に渡り県道262号を川口まで進み、立川川左岸に移り柳瀬へと北進する。

立川川右岸を柳瀬集落・落橋西詰に;午前10時33分
県道を南に一の瀬まで戻り、金五郎橋を渡り右岸細路を進む。道は簡易舗装されている。車一台ギリギリの幅であり、車の回転できる場所を探し乍ら進む。最初の沢を過ぎた先に少し広いスペースがあり車をデポ。そこから歩くことにする。

デポ地から先、簡易舗装が切れているところもあったが、概ね簡易舗装の道を進むと民家があり、そこから先は車は通ることができない。偶々ではあるがいい所にデポしたと思いながら民家前の細い道を進み柳瀬集落・落橋西詰に到着。
柳瀬集落に架かる橋が当面架け直す「積極的理由」も見つけられないので、今後このルートを歩く方は、一の瀬の金五郎橋から立川川右岸に入るしかないだろう。




木橋を渡る;午前10時41分
橋の西詰めより上る道の交差部に長年の風雨に晒されたためか、まったく文字の読めない案内板。先に進み右手に立川川を見遣り10分弱進むと小さな沢に木橋が架かる。



参勤交代道」標識;午前10時43分
木橋から数分歩くと「参勤交代道」の標識。左を指す。川筋から離れ山に入っていく。その先に石垣があり舗装道に出る。高知道の作業道だろうか。コンクリート擬木の手摺のついた石段を上る。


「北山越え」標識;午前10時48分
石段を上ると再び舗装道。作業道がカーブしてここに続いているようだ。そこに「北山越」の標識。標識に従い石段を上る。「北山越え」とは高知の城下より北に聳える四国山地を越える、といった意味のようである。






高知自動車道下り線高架を潜る;午前10時50分
石段を上ると直ぐ高知自動車道下り線を潜る。その先で擬木の手摺がある石段を上る。上り切るとよく踏み込まれた土径。前方に高知自動車道上り線の高架を見遣り先に進む。




高知自動車道上り線高架を潜る;午前10時55分
5分ほど歩き高知自動車道上り線を潜る。高架を潜った先は今までと一変。杉の木立に囲まれた山道に入る。






木橋を渡る;11時29分
高架を過ぎると土佐街道は左に折れて山に向かう。標識もなく、人も通らず道が踏まれてもおらず なんとも説明しようがないのだが、左に折れ先に進むと木橋があればそれがオンコースである。
注意点
さらっと道筋をメモしたが、当日は高架を潜りその先道筋らしきフラットな場所があったため直進した。が、その先で道が消える。踏み分け道を探して右往左往。川の岩壁に当たり岩場と川の間の崖を進む?。こんなところを参勤交代道が通るわけもないだろうと、山肌を這い上がり、道らしき箇所に復帰した。結局道に復帰まで20分ほどかかっただろうか。
念のために道に復帰した箇所から逆に直進した箇所まで戻ると、途中木橋があった。木橋を越えてその先も踏み込まれた道筋は残っていない。
高速の高架を越えると左の山側に入るとしか説明のしようがない。とりあえず「木橋」を見付けてください。

虎ロープ;午前11時36分
復帰した道を進む。急峻な崖の上を道は進む。高所恐怖症のわが身には結構辛い。途中危険箇所には虎ロープが張られていた。気持がずっと楽になる。




展望所;午前11時43分
虎ロープの先も、10分弱急峻な崖上の道を進むと尾根筋にあたり、そこに展望台があった。道迷いで山肌を上り下りしたため痛めている膝が結構キツイ。小休止。



開けた場所に建屋;午前11時51分
展望台から数分森の土径を進むと突然前方が開ける。藪が激しくはっきりとした道筋はないのだが、成り行きで進み道に出る。道は県道から続いているようだ。
道に出ると辺りは森の中に大きく開かれており、道の前方には石垣が組まれ、そこに建屋が見え里る。なにかの作業場のようにも思える。

建屋の先を右に折れる;午後12時5分
石垣のある敷地の中に入り建屋を越えた所で道を逸れて草の茂る広場を横切る。その先に見える木の橋が目印。
注意
石垣の中の敷地に入った道は山に向かって上ってゆく。右に折れる箇所には何も標識がないため、知らず先に進んでしまう畏れあり。実際私も道をしばらく上り、なんとなく「これは違うよな」と作業所辺りまで戻り、遠めに見える橋を見付けルートに入った次第。開けた場所に出てからオンコースの右折までに時間がかかっているのはそのためである。


木橋を渡ると「北山越え」の標識;午後12時7分
橋を渡ると「北山越え」の標識。杉林の中の道を進む。途中虎ロープが張られた箇所もあるが。道筋は何となく踏まれた感がありオンコースであることを感じる。



沢を2箇所渡る;午後12時40分:12時46分
標高400mから450mの間、国土地理院の地図に描かれた破線に沿って進む。しばらく進み西に台形型に切れ込んだ沢筋に入り、沢を2箇所渡る。




虎ロープ;午後12時50分
沢を越えるとちょっと厄介な箇所に。虎ロープが張られており慎重に岩場を上る。虎ロープが張られているということは道筋であるということ。標識はしばらく何も無いが、虎ロープがあるということはオンコースであろうと一安心。





「北山越え」標識;午後13時2分
虎ロープを過ぎると支尾根筋に。道は尾根筋と尾根を廻り込むものと二手に分かれる。標識は何もない。とりあえず尾根筋へと左折し少し上るが、なんとなくしっくりこない。で分岐点まで戻り、尾根筋を廻り込むと前方が草地となって少し開ける。

その地に下りると草地端に「北山越え」の標識。そこから再び山道に入る。









「参勤交代道」標識;午後13時6分
数分で「参勤交代道」の標識。オンコースを確認。










「北山越え」標識;午後13時9分
更に数分、今度は「北山越え」の標識。








道が消える;午後13時25分
踏み込まれた道をしばらく進むと杉林で道が消える。杉の枝葉が一面に落ち道筋が全くわからない。特に標識もない。ここは左手山側に向かい踏み込まれたような道に出るまで我慢するしかない。要点としては国土地理院の地図に描かれた破線の山側に進むこと。


一回目の道迷い・撤退箇所
この箇所が一回目の道迷い撤退決定箇所。直進方向がそれらしき道に見え、先に進むと上述道迷い同様大岩が先を塞ぐ。岩場の下を通るわけもいだろうし、何んとか岩場を抜ける道を探すがそれらしき道筋は見つからない。それではと、岩場の上を抜ける?と崖を這い上がるが踏み込まれた道は見つからなかった。
正確に言えば這い上がったときに道筋に出たのだが、後述道が崩れた沢筋であり、道筋らしき「風情」はなく、そこを越え更に上に這い上がったのだが岩場が切れそうもなく、結局再び道を探して下った。
その後は成りゆきで岩場を抜け尾根筋に出た。が、既に日没時間切れ。獣防止柵か崩壊危険個所への侵入防止柵か不明だが、その柵に沿って尾根筋を力任せで下山し高知自動車道高架下で立川川支流の浅瀬を渡り成川集落を経て一の瀬の車デポ地へと向かった。
二回目の道繋ぎでわかったのだが、土佐北街道は一回目に出た40mほど上で尾根筋を廻り、そこから尾根の西側をトラバース気味に下山箇所に進んでいた。

沢に倒木;13時30分
道が消えた箇所から左手山側に上る。杉の枝葉が一面を覆い踏まれた道は見えない。とりあえず国土地理院に描かれた「破線」の上側を進むと、少し踏まれたような道筋に出る、そこを進むと沢に大きな倒木が二本行く手を塞ぐ。大木の下を潜り沢のを渡る。ここに進めばオンコース。


沢で道が消える;13時35分
その先に比較的広い沢筋が拡がり、道は消える。道は消えるが水平に抜ければその先で踏まれた道に繋がるのは往路で確認済。
この箇所が一回目道を探して這い上がったところ。偶々斜面が崩れ道が消えていたため、更に上に這い上がり道を探したが見つからず、結局撤退とした。


前面が開ける;13時45分
道の消えた荒れた沢筋を抜けるとぼどなく尾根筋に。おおよそ等高線530m辺りを廻り込み、沢筋から8分ほどで杉林を抜け前面が開ける。
沢筋からおおよそ10分、眼下には高知自動車道が走る。いい眺め。道の谷側にはネット柵が張られている。道はネット柵に沿って下る。

この辺りから獣防止柵なのか崩落箇所侵入防止柵なのかよくわからないがネット柵が道に沿って張られている。先回撤退し30mから40m下った尾根筋に出たときも尾根の上から川の流れのところまで柵がはられていた。柵の前面の斜面は結構荒れており、その斜面を囲むように柵が造られているようにも思える。

枝尾根に;14時2分

支尾根よりトラバース気味に枝尾根に進む。道はしっかり踏み込まれ迷うことはない。途中倒木が道を塞ぐ。遠景を楽しんだところから15分ほど歩くと左手下に林道が見えてくる。往路で這い上がりこの道筋を見付けた林道だ。
20分弱で枝尾根に。その左手は往路難儀した大崩落箇所が切れ落ちる。

林道に合流;14時5分
枝尾根を下ると林道に合流。途中、なんとなく「ノイズ」を感じ、林道から這い上がり土佐北街道の道筋に出合ったが、もしそのまま先に進んでいたら、先回同様「迷い道くねくね」状態になってしまったかもしれない。

大崩落斜面東端に;14時7分
数分で大崩落斜面東端に。往路は国土地理院地図に破線で描かれた箇所に向かって、斜面に倒れ落ちた杉の大木を潜り、跨ぎで崩落斜面西端から東端の枝尾根へと這いずり回ったが、復路は西端部は既に往路で確認済であるのでそのポイントに向かってこれも這いずり回る。



大崩落部西端部に;14時33分
斜面をおおよそ30分弱かけて斜面大崩落部西端に這い上がる。そこから数分、藪の茂る道を下ると林道とその先、川に橋が架かる。





千本しらや橋;14時35分
林道手前に小さな木橋が架かる。これが千本しらや橋。往路、この地が土佐北街道であることを知り、先回撤退した道迷い箇所まで繋げることができた。イントロでもメモしたが道迷いで撤退した時は、逆側のはっきりした地点より逆から攻める手法で道を繋げることが多い。土佐北街道の権若峠越えのときも、同様の手法で道を繋ぐことができた。

「土佐北街道・北山越え」標識;午後14時35分
千本しらや橋を渡ると林道鰐に「土佐北街道・北山越え」標識の案内。方向の指示がいまひとつはっきりしない。千本しらや橋の横に広い作業道が開かれ工事作業車が止まる。Google Street Viewでこの標識をチェックした時は周囲は木々に覆われていたのだが、斜面崩落のため補強工事を進めるために開かれたのだろうか。
標識の方向だけを見れば、千本しらや橋を見落とし、工事作業道を土佐北街道と思うかもしれない。もっとも、どうしたところで大崩落斜面に出るわけで、それよりなにより「参勤交代道は災害による落橋、崩落等があり現在通行できません」とあるわけで、本来歩いてはいけないのではある。
千本
土佐地名往来」には「北山越えの官道が通る傾斜のきつい山地。崩壊を恐 れ千本の杭を打ち込んだ苦労を刻んだ地名」とあった。大崩落斜面を見るにつけ、地名はその地形を表すことを実感する。

当初予定した崩落橋から千本しらや橋までおおよそ3時間。予想以上に時間がかかった。道迷い、大崩壊斜面のトラバース、というか倒木や大岩を潜り、跨ぎ、乗り越えに時間がかかったのがその因ではある。
2回目のリベンジではこの千本しらや橋傍に車をデポし、道迷い地までピストン往復したわけで、車で大休止したのだが、メモではその時間を省き、当日の所要時間を勘案し時刻表示を示す.

千本しらや橋から立川集落へ




杏谷橋;午後14時36分
千本しらや橋のすぐ前に立川川の支流に架かる橋がある。杏谷橋とある。橋桁に刻まれた橋名は「きょうやはし」と読める。最初はこの橋が千本しらや橋と思い込み、林道脇に立つ「土佐北街道」「北山越え」の標識傍、藪に隠れた千本しらや橋を最初見逃していた。標識から左に逸れる工事作業道から偶々木橋が目に入り、それが千本しらや橋と思い、そこから土径を進み大崩落斜面西端まで進んだ次第である。

「北山越え」標識;午後14時27分
橋を渡ると直ぐ、車道の左手に斜めに上る坂がある。その上り口に「北山越え」の標識。その数分先にも「北山越え」の標識。水路や古い石段などが残り、千本集落の生活道の一部のようにも思える。


「北山越え」標識;午後14時35分
車道から上り始めて8分ほど、「北山越え」の標識が立つ。その先、獣防止柵に沿って道を進むと千本集落の民家が建つ。民家脇を更に上ると土径に入る。




分岐点先に「北山越え」標識;午後14時42分
 土径に入ると数分で分岐点。左に上る道と真っすぐ進む道。なんとなく直進であろうと進むと直ぐ「北山越え」の標識。オンコースを確認。その先に舗装された道が見える。 



 舗装された道が切れ土径に;午後14時47分
北山越えの標識から直ぐ舗装された道に出る。高知自動車道の下り線の先から車道を逸れて続いているようだ。
道を進むと左手山側に「土佐北街道」と書かれた木の標識が無雑作に置かれている。その直ぐ先に工事用プレハブがありそこで舗装が切れ、その先は土径に戻る。土径に入ったところに「土佐北街道」の標識がある。

土砂崩れ防止工事箇所;午後14時50分
土径を進むと直ぐ土砂崩れ防止の大規模工事箇所に出る。当初、リベンジ2回目のスタート地点に向かう途中、高知自動車道から大規模土砂崩れ防止工事箇所が左に見え、そこが柳瀬の集落にあった「参勤交代道は災害による落橋、崩落等があり現在通行できません」とあった「崩落」箇所かと思い、ここで道が切れると気になっていたのだが、工事箇所に人が通行できる水平通路が造られており、通り抜けることができた。ここも工事完了前は崩落箇所ではあったのだろう。
工事箇所からの眺めは結構、いい。
ふと思う。先ほどの舗装道はこの工事作業用に造られた道であったのだろう、と。

土径に入ると「北山越え」標識;午後14時53分
土砂崩れ工事箇所を抜け再び土径に入る。ほどなく「北山越え」の標識。数分進むと前面が開け茅の原っぱに。道筋はほとんどわからないが、成りゆきで進むと踏み込まれた道に出た。




「土佐街道」標識;午後15時6分
杉林の中の道はしっかり踏み込まれており何となく安心。道を進み木橋を渡り、そこから数分、杉の木に土佐北街道でよく見る「龍馬くん(?)」イラストが描かれた「土佐街道」標識がくくられていた。 茅が茂っていた辺りから立川トンネルの上を進んでいるようである。


高知自動車道保線路(?);午後15時12分
道を進むと木々の間から立川ンネルを出た高知自動車道が見えて来た。その先、道の右手に鉄の梯子が下に続く。高知自動車道保線路だろうか。




荒れた沢;午後15時17分
保線路(?)から5分ほどで荒れた沢に出る。沢筋の道を遮る倒木を潜り抜け道筋に戻る。その先はよく踏み込まれた道が続く。




茶畑;午後15時28分
しばらく進むと突然前面が開け茶畑の中を進む。往昔このあたりには警護屋敷があったようだが、今は何も残ってはいない。茶畑の中には作業小屋があり、その先道に沿って廃屋が残っていた。

 

立川川に架かる橋を渡る;午後15時33分
茶畑から5分ほどで立川川に架かる橋に出る。橋の南詰に「土佐北街道」の標識。橋のあったところは、往昔の「刈屋の渡し」があったようである。
また、その少し上流のには「藤川の渡し」もあったようであり、なんらかの痕跡がないものかと少し彷徨ったが特段の案内もなく、橋へと引き返した。


道5号出口に「「土佐北街道」標識;午後15時35分
橋を渡り成り行きで進むと数分で県道5号に出る。出たところのガードレールに「土佐北街道」の標識が立っていた。
千本しらや橋傍の上り口からおおよそ1時間15分ほどかかった。柳瀬からここまでは4時間強かかったことになる。結構かかった。大崩落箇所もさることながら、千本しらや橋からこの地まではそうでもないが、柳瀬から千本しらや橋まで肝心なところに標識がなく、どちらにルートをとるか見通しで結構時間がかかったようにも思う。とはいえ、「参勤交代道は災害による落橋、崩落等があり現在通行できません」とある以上、黙るしかない。

今回の目的である土佐北街道の柳瀬から(実際は柳瀬の橋が落ちていたので、ひとつ下流の金五郎橋から立川番所のあるこの地までカバーした。メモの時刻は初回の行程に合わせて調整しており午後3時35分となっているが、リベンジ2回目はもっと早く2時前に到着しており近くある立川番所書院跡に立ち寄ることにした。
立川
上に「この地」としているのは、立川川の橋を渡ったこの地をどう表示すればいいのかちょっと困ったためである。立川と書きたいのだが地図で確認すると立川川左岸は立川川が??野川に合流する辺りから笹ヶ峰の県境尾根まで立川下名とあり、右岸も一の瀬の少し南から笹ヶ峰県境まで立川上名とある。
正確に言えば一の瀬で金五郎橋を渡った辺りは立川上名(かみみょう)だが、少し北に進むと立川川右岸も立川下名(しもみょう)となっており高知自動車道から先が立川上名となっている。今回の散歩は立川下名からはじめ立川上名を辿り、立川橋を左岸に橋を渡り立川下名に戻ったわけである。結局大雑把に言えば「立川」を歩いているわけであり、到着地点を「立川」と書くのを躊躇ったわけである。上名、下名の由来は不詳。なお、立川は道。イタドリの古名「タジヒ」に拠る、と。愛媛ではタシッポだが、スカンポと呼ぶところもあると聞く。子供の頃、よく食べた。

旧立川番所書院
県道5号を少し北に進むと右折指示があり、坂を上ると旧旧立川番所書院が建っていた。落ちついたいい雰囲気である。
案内には「重要文化財 旧立川番所書院 山内治政の時代になって、参勤交代は海路をとっていたが、風浪や天候のため日数が定かでないので、六代藩主豊隆公が享保三年(一七一八)始めてこの陸路によった。高知を出発して布師田―領石―穴内―本山―川口を経て、立川から伊豫の馬立、川之江に出たので、立川番所(御殿)は土佐最後の宿所であった。又国境警備の要衝の一つ^として、野根山の岩佐口番所、池川口番所と共に三番所といわれ中でも立川番所は首位をしめていた。
現在の立川番所跡の建物は、番所役人、川井惣左衛門勝忠が寛政年間に建てたものといわれ、 すでに百七十年以上経た古い建物である。明治時代になって鈴木氏の手に渡り、旅人宿となって一部改装せられている。昭和四十八年町が鈴木氏より譲り受け、昭和四十九年、旧立川番所書院として、国の重要文化財に指定された。
その後建物の傷みが激しく、昭和五十五年より三ヶ年で、国県の助成を得て総工事費約一億円あまりをかけて解体復元工事がなされた。正面九間半(一七・七二五米 奥行六間半二・九九八米)七室からなり、藩主の寝所は一段高く書院づくりとなっている。 昭和五十六年度文化財保存事業 大豊町教育委員会」とあった。
立川の歴史
またその横に「立川の歴史」の案内。「古代律令制度のもとで和同四年(七一一)頃の南海道は紀伊~阿波~讃岐~伊豫~幡多~長岡の国府に至る遠回りの行程が想定されている。 奈良時代の続日本紀に養老二年(七一八)「...その道は 伊豫國を経る。行程は迂遠にして山谷険難なり」とあって國府からの奏請をうけ、この年阿波の国から土佐に通ずる道を選び路程を短縮したとあるが宿駅はあきらかにされていない。
降って平安時代「日本後記」に延暦十六年(七九六)「甲寅(きのえとら) 廃阿波國驛家  伊豫國十一、土佐國十二 新置土佐國吾橋 舟川驛」とあってそれまで敬遠されていた四國山脈の横断が始めて試みられている。 吾橋(あがはし)は今の本山であり、舟川は立川である。 伊豫の川之江から入るこの道の開設で都から土佐への距離は大巾に短縮され驛の設置によってこの地方は文化の流入経路となったのである。
延喜式兵部省の条に「土佐國驛馬 馬 頭驛 吾橋 丹治川 各五匹」とあり、又、土佐國(行程丗五日 下十八日 海路廿五日」と出ている。
このように立川は延暦十六年(七九七)には都と国府を結ぶ官道が置かれる古い歴史をもつ地である」とあった。

延喜式兵部省の条にある「丹治川」は「立川」だろう。モ─タリゼション全盛の時代は山間の僻地ではあろうが、歩いて峠を越えて往くしか術はない時代、土佐藩最初の物流・文化の経由地として今とは違ったポジショニングを持つ地であったのだろう。

荷宿跡
旧立川番所書院より県道5号に沿って500mほど立川川支流を進んだところに荷宿跡がある、という。地図に龍馬・水戸藩士会見の地のピンが立つ。写真には川に鉄橋が架かり、背後に高知自動車道の高架橋が立つ。それらしき場所に行くが、WEBの写真にある「坂本龍馬会見の地」といった案内は見当たらない。鉄橋を渡ると平坦地がある。そこが荷宿跡ということだろうか(当日はこの地が荷宿跡とはわからず、写真を撮らなかった。掲載写真はGoogle Street Viewで作成したもの。そこには案内掲示が写っていた)。
高知県の坂本龍馬記念館の記事に拠れば、この地は藩政期、産物や商品の荷物の集散地であり、この付近が坂本龍馬らが水戸浪士と会見した地とされている所とのこと。
安政5(1858)年。尊王攘夷の水戸浪士住谷寅之助と大胡聿蔵は10月17日立川番所まで来るも、入国手形を持たなかったため入国できず、立川荷宿の木屋や岩吉の家で坂本龍馬に入国の周旋を依頼した。坂本龍馬は、川久保為助、甲藤馬太郎らと共に23日夜、雨中を駆けて立川まで来て会談したと言う。
この会談について住谷寅之助は『廻国日記』の中で「龍馬誠実可也ノ人物、併撃剣家」、そして「事情迂闊、何も不知トソ」と記す。誠実で剣に優れるが、政治情勢には疎く何も知らないとちょっと失望しているようだ。
龍馬は24歳。江戸の剣術修行から戻ったばかりで、未だ本格的に政治に目覚めてもおらず、期待に応える権限もなかったのだろう。協力を約して別れたがその後龍馬からの連絡はなかった。 土佐入国の理由は大老井伊直弼に対し諸藩の決起を促すため。土佐への入国ができなかった住谷は宇和島藩に向かうも、ここでも協力を拒まれ、予定していた薩摩藩行きを止め失意のうちのい江戸に戻ったようだ。
Wikipediaに拠ると「その後、安政6年(1859年)11月、安政の大獄に伴い住谷も職を免ぜられ蟄居処分を受けた。翌安政7年(1860年)2月、高橋多一郎らを中心とする大老井伊直弼の暗殺計画が藩に察知されると、住谷はその一味として投獄され禄を奪われた。3月3日に同志が井伊暗殺を実行し(桜田門外の変)、この変の後、幕府は水戸藩に対する弾圧を弱め、10月に住谷は罰を解かれている」とあった。

お気楽に出かけちょっと辛い目に遭った。権若峠の時と同じパターンである。ともあれ立川谷筋の土佐北街道はカバーした。次回は、国見の下山口から立川筋まで、または法皇山脈を越えた金田から川之江までのどちらにしようか。その時の気分で決めることにする。



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