讃岐 歩き遍路;八十六番札所 志度寺より八十七番番札所 長尾寺へ

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屋島寺、八栗寺、志度寺と讃岐の北東端の海沿いを辿った遍路道も、志度寺からは南に下り阿讃を画する山地へと向かう。
南に進んだ次の札所である八十八番長尾寺は未だ讃岐平野の中。大よそ7キロほどの行程。距離はみじかいのだが、志度寺であれこれ気になることが現れ、メモが少し多くなった。今回は志度寺から長尾寺までのメモとする。



本日のルート;
八十六番札所 志度寺>普門院>高松自動車道手前に山頭火歌碑>暮当・当願大明神>標石>萩地蔵>玉泉寺に2基の茂兵衛道標(241度目・143度目)>造田八幡の茂兵衛道標(159度目)>広瀬橋北詰の茂兵衛道標(181度目)>長尾橋(へんろ橋)北詰に2基の標石>茂兵衛道標〈175度目〉>住吉神社北の標石>秋田清水九兵衛道標>八十七番札所長尾寺

八十六番札所 志度寺

圓通寺・自性院
参道を仁王門へと進む。途中左手に圓通寺、右手に自性院。圓通寺は、元志度寺の末寺西林坊と称され、江戸時代、元和年間(17世紀初頭)の頃までは志度寺住職の隠居寺となっていたようだ。
自性院は元志度寺の御影堂跡とも言われ、境内に平賀源内の墓があることで知られる。源内の墓は浅草橋場の総泉寺跡にあるが、そこから分骨されたものとのこと。お墓の写真は常のごとく遠慮しておく。

仁王門
大型の八脚門。切妻造り・本瓦葺き。寺伝によれば寛文年間(17世紀中頃)再建と言われ、国の重要文化財に指定されている。仁王門に建つ金剛力士像は3mを越える大像であり、運慶作とも伝わる。
仁王門を潜り境内を進む。一万坪とも言われる境内には木々が茂り、森の中を歩くといった雰囲気。土佐と伊予の県境から讃岐へと多くのお寺さまを歩いて来たが、こういった参道が木々に覆われた境内はあまり見かけなかったように思う。境内を進み本坊・庫裏の前を左折し本堂に。

五重塔
本堂に向かう左手に五重塔。地元篤志家が建てたもので、昭和50年(1975)落成法要が行われている。その高さ33mと言われる。

奪衣婆堂
本堂手前の左手に奪衣婆堂。奪衣婆像とその左右には地蔵像と太山府君が並ぶとのこと。奪衣婆は三途の川で待ちかまえ、亡者の衣服をはぎ取り、その重さで三途の川の渡りかたを教える役割をもつ、と言う。楽に渡れるか苦労するか、亡者があの世で最初に出合う試練である。閻魔大王の妻とも言われ、民間信仰では重要な役割をもつ。
奪衣婆像の左右に並ぶ地蔵と太山府君。地蔵は閻魔の化身、また太山府君は閻魔さまと同じく地獄の10人の裁判官(十王のひとり)ともされる。

それはともあれ、奪衣婆が立派な堂に祀られることは四国の札所ではあまり見かけなかったように思う。この寺の境内には閻魔堂もあり、なんとなく閻魔様が重要視されているようだ。チェックすると、このお寺様は閻魔様の氏寺といった縁起があった;
御衣木縁起
寺に御衣木(みそぎ)縁起が残る。御衣木(みそぎ)とは神仏の像を造るために用いる木のことである、縁起に拠れば、はるか昔近江の国高島郡の深谷・白蓮華谷に瑞光・異香を薫じる大木があった。その大木が継体天皇の御代、天変地異により谷より流れ、琵琶湖、淀の津を経て海上に至り志度の浦に流れ着いた。その間数百年の歳月を経るも朽ちることはなかった、と。
推古天皇33年(626)、この地、志度寺直ぐ傍の地蔵寺の地に庵を結ぶ凡薗子尼(おおしそのこに、智法尼とも)がこの霊木を草庵へ持ち帰り安置した。と、しばらくして仏師が現れ、その霊木を刻み十一面観音を造立した。この仏師は補陀落観音の化現であった。
本尊はできた。が、それを安置する堂宇がない。さて、と思っていると番匠が現れ一間四面の堂宇を建てた。この番匠は閻魔大王の化現であった。閻志度寺が閻魔大王の氏寺と称される所以である。

本堂
中世以来の密教本堂の姿を今に伝える本堂は国指定重要文化財。本尊の木造十一面観音も国指定重要文化財となっている。
補陀落山清浄光院志度寺。真言宗善通寺派の寺。補陀落山の由来は補陀落信仰の故。境内のすぐ北に迫る志度の海は、土佐の24番札所御崎寺、38番金剛福寺と共に補陀落渡海の海。補陀落浄土に繋がるとされ、極楽浄土を求める渡海者を生んだと言う。「死度の海」、「死門の海」とも称された。
死度の海
死度の海と言えば、この寺も「死度道場」とも呼ばれた、と。「讃州志度道場縁起」には:天智天皇の御代、藤原鎌足の娘・白光女が唐の高宗の妃となる。白光女は藤原氏の氏寺である興福寺に三つの宝珠を送るも、そのひとつ面向不背の珠が志度の浦で竜神に奪われる。
時を経て鎌足の子、藤原不比等が珠を取り戻すべく志度の浦に。3年の歳月が過ぎ海女との間に房崎を成す。不比等は素性を明かし、珠を竜神より取り返すことができたなら、房崎(次男であるが)を後継者とすると海女に告げる。
海女はわが子のために浦に潜り竜神より珠を取り戻すが、竜神との闘いの傷がもとでむなしくなる。不比等は五間四面の堂を立て海女を弔った。このお堂は「死度の道場」と名付けられた。「死んで帰る」の意である。不比等は都に戻り、房崎は長じて房前の大臣となった。この「海女の珠取り伝説」は謡曲「海人」として知られる。

元より藤原鎌足の娘が唐の皇帝の妃となったこともなく、不比等が志度の浦に来たこともないであろうが、「讃岐の志度道場」は平安時代後期の歌謡集である「梁塵秘抄(りょうじんひしょう)」には、信濃の戸隠、駿河の富士などとともに、「四方(よも)の霊験所(れいげんしょ)」として知られていたようであり、それ故に、志度の海は古くから異界へ通じる霊場とされていたようである。「死度」の所以ではあろうか。

因みに取り戻した珠は一時興福寺中金堂に戻るも、康平三年(1060)のお堂焼失後行方不明となる。が、はるか時を隔てた昭和51年(1976)に琵琶湖に浮かぶ竹生島の宝厳寺で見つかった、との記事があった。竹生島は越前の興福寺所領の海上輸送路上ではある。
また、珠を奪われた竜神は取り戻すべく奈良興福寺の猿沢の池に来たりて、奈良の竜神となった後、室生の善女竜神となった、と言う。これもなにか意味がありそうだが、深堀は一時思考停止。 因みに興福寺は藤原氏の氏寺である。

それはそれとして、何故に藤原不比等が志度寺の縁起に登場するのだろう。讃岐の代表的国人は讃岐氏、讃岐橘氏、讃岐藤原氏ともいう。そう言えば、遍路道すがら出合った香西氏も藤原氏の流れであった。そういった背景があっての藤原家の祖である不比等の登場だろうか。単なる妄想。根拠なし。

大師堂
本堂右手に大師堂。本堂と結ばれる。大師堂の傍に薬師如来、阿弥陀如来、観世音菩薩の坐像がある。初代藩主松平頼重が若き頃、家臣を切腹に処したことを後悔し別邸に祀ったもの。元禄15年(1702)住職が時の藩主頼常に願い当時に移したものである。

閻魔堂
大師堂の北に西面する閻魔堂。奪衣婆堂と対面する。お堂には十一面閻魔大王が祀られる。上述縁起の如く、志度寺は閻魔が番匠として化現し寺を建てたとされるが、その他の寺に伝わる縁起も閻魔大王による蘇生譚をベースとして寺の再建がなされたとの縁起がある。白杖童子、当願暮当、松竹童子縁起による平安時代の再興、また千歳童子、沙弥阿一の蘇生による鎌倉時代の寺の修造伝説がそれである。十一面観音の宝冠を戴く龍王=閻魔の慈悲により蘇生するといったストーリー・蘇生譚を語り修行僧が寺の修築費用を勧請して廻る拠り所としての縁起譚という記事も見かけた。
因みに、今回奪衣婆堂→本堂→大師堂→閻魔堂と巡ったが、志度寺はかつて「死渡道場」とも呼ばれ、この世とあの世の境と考えられていたわけで、とすれば三途の川でまず奪衣婆に出会い、観音様(本堂)、お大師様(大師堂)で功徳を積み、閻魔様の裁きで蘇生する、というストーリーがこの境内で展開されるよう配置されているとの記事もあった。

薬師堂
薬師堂前の石造香台は名古屋の伊藤萬蔵の寄進、世話人中務茂兵衛の手になるもの。茂兵衛道標で知られる中務茂兵衛は説明するまでもないだろう。
伊藤萬蔵
伊藤 萬蔵(いとう まんぞう、1833年(天保4年) -1927年(昭和2年)1月28日)は、尾張国出身の実業家、篤志家。丁稚奉公を経て、名古屋城下塩町四丁目において「平野屋」の屋号で開業。名古屋実業界において力をつけ、名古屋米商所設立に際して、発起人に名を連ねる。後に、全国各地の寺社に寄進を繰り返したことで知られる。68番神恵院の石灯籠、74番甲山寺の香台など遍路歩きの各所で萬蔵寄進の石灯籠、香台に出合った。

海女の墓
仁王門の北側に石塔群が建つ。上述『讃州志度道場縁起』には、藤原房前が行基菩薩とこの地を訪れ、母である海女の菩提を弔うため千基の石塔を建てたとあるが、石塔群はその名残である。

生駒親正の墓
海女の墓の傍に生駒親正の墓塔と伝わる五輪の塔がある。常の如く写真はパス。
美濃の生まれ。織田信長に仕え、のちに秀吉のもと身を立て、賤ヶ岳の合戦などの武功により、秀吉の天下の頃、天正15年(1587)には17万石を与えられ讃岐国主となり、高松城、丸亀城を築き善政を敷く。
朝鮮出兵の後は伏見城に戻り中老として豊臣政権を支える。関ケ原合戦時には西軍に与したため謹慎し、一時高野山に籠るも、一子一正の東軍での活躍によりその罪を許された。所領を安堵され、讃岐に戻り、慶長8年(1603年)に高松城にて没する。
案内には「隣の海女の墓は生駒家の先祖に当たるとして志度寺を崇敬した」とある。ということは生駒氏の先祖は藤原摂関家に繋がるとのことであろうか。チェックすると、生駒氏は藤原氏の末裔と称した、と、その故の不比等の珠取り伝説?とは思えども、志度寺縁起は鎌倉から室町の頃のものと言うから、生駒氏の来讃より古いわけで、妄想あえなく撃沈。

志度寺庭園
本坊の裏に庭園がある。室町期の文明5年(1473)頃、讃岐を支配していた細川氏により寄進された曲水式、回遊式池水庭園。長年荒廃したままであったようだが、昭和56年(1981)修復された。


お辻の井戸
回遊式庭園に続く無染庭の南にはお辻の井戸がある。田宮坊太郎の仇討ち成就を金毘羅大権現に祈願し満願の日に自害して果てた乳母のお辻ゆかりの井戸と言う。この井戸で水垢離をとったと伝わる。
田宮坊太郎
我々の世代には子供時代の読み物に登場した人物であり仇討物の主人公として知られるが、仇討のエピソードは信憑性が疑われており、芝居や講釈師や浪花節などから生まれた虚構との説もある。
それはそれとして、案内には「坊太郎の父田宮源太郎は文武にすぐれ讃岐丸亀藩の生駒氏に召し抱えられる。が、その信望の高まるのを恐れた藩の武芸指南である堀口源太左衛門によりだまし討ちにあう。
坊太郎を護るべく乳母のお辻は志度寺に逃れる。成人した坊太郎は江戸に出て柳生道場で剣の修行に励み、18歳になり丸亀に戻り藩主の許可を得て本懐を遂げる。坊太郎はその後仏門に入り父とお辻の冥福を祈り、二十二歳でその生涯を終えた」とあった。

上述の如く、数々の伝説に彩られたこの寺は源平合戦の舞台でもあった。平家は志度寺に陣を張っている。が、志度を目指した義経の率いる八十騎に不意を突かれ一戦も交えることなく海上に退いたとのこと。
室町時代には四国管領の細川氏が代々寄進を行い繁栄するが、その後、長曾我部の兵火により堂宇悉く焼失。江戸時代に入り、慶長9年(1604年)生駒親正の夫人教芳院が観音堂を再興。善年に亡くなった生駒親正の供養だろう。その後代々の生駒氏により寺は庇護され、寛文10年(1671)、には新たに高松藩主となった松平氏によりの本堂・仁王門などの寄進が行われ、寺は興された。

志度寺から長尾寺へ

普門院
志度寺山門を出て参道口を左に折れ南に下る。道の左手に普門院。境内を囲む塀が美しい。境内も落ち着いたお寺さま。世界的デザイナであるイサムノグチ氏の愛した寺とも言う。ロスの生まれ。高松市牟礼の花崗岩・庵治石を使ったことがきっかけで牟礼にアトリエを構えた、と。 道なりに進み、国道11号を越えると道は県道3号志度山川線となる。徳島県吉野川市へと抜ける道である。

高松自動車道手前に山頭火歌碑
更に南に進み、高松自動車道の少し手前で県道から右に入る道がある。これが旧遍路道。県道を離れ右に入ると高松自動車道の高架手前にお堂があり、傍に「カラスないてわたしもひとり 山頭火」と刻まれた石碑が立つ。
山頭火
種田山頭火。漂泊の自由律詩人として知られる。遍路歩きの途次、松山では終焉の地一草庵に出合った。また讃岐の出釈迦寺には「山あれば山を観る」と刻まれた大きな句碑も立っていた。 この句碑がここにあるのは、山頭火がこの地で詠んだ?チェックすると、この句は大正15年(1926)の俳誌「層雲」に掲載されたもので、詠まれたのは大正14年(1925)、熊本の味取観音堂での堂守の時。山口県防府市の実家破産の後、精神疾患などを病んだ末に熊本に居を移し、出家得度した時の作。添書きに「放哉居士の作に和して」とあるように、「層雲」に掲載された尾崎放哉の「咳をしても一人」を念頭に造られたもの。オリジナルは「鴉啼いてわたしも一人」。 漂白の詩人たる『解くすべもない惑ひを背負うて』、行乞(ぎょうこつ)流転の旅に出たのは大正15(1926)年のことであり、四国遍路は昭和3年(1928)、46歳の時と昭和14年(1839)57歳の時の二度と言う。ということは、この句はこの地の詠まれたものでもないし、漂白の旅の途次の作でもないようだ。寂しさの漂う詩情に故に立てられたものかと思える。

暮当・当願大明神
高松自動車道で一旦途切れた遍路道は、高速道路高架先から再び県道に沿って山側に入る。少し小高い所を進み再び県道3号に合流する箇所に「しこくの道」の指導標が立つ。
県道に合流した遍路道は幸田地区を進む。道の左手に幸田池(国土地理院地図は幸田池とあるが、Google mapは長行池とある)を見遣り長行地区に入ると、県道右手に幾多の石造物の立つ堂宇がある。暮当・当願大明神である。
暮当・当願については、志度寺の縁起に登場した。文字面に何となく惹かれたのだが、深堀すると大変そう、ということでスルーしたのだが、またまた現れた。案内には「延暦(約1200年前)の昔、此の長行に当願と暮当という仲の良い猟師が居た。ある日、志度寺の修築法要が営まれ、暮当は狩りに出たが、当願は志度寺に参拝した。法席にいながら当願は「暮当は大きな獲物を捕まえただろう」と殺生心を起こした。忽ち当願は口がきけず立つことが出来なくなった。
心配して迎えに来た暮当は、当願の下半身が蛇となっているのを見て驚いた。当願を背負って帰る途中、「体が熱いので池に入れてくれ」と云うので、しかたなく幸田の池に入れた。
この時に当願は片眼をくり抜き「この目玉を壷に入れておくと汲めども尽きに美酒ができる」と教えた。暮当は云うとおりにして売ると家は繁盛した。
当願の体は次第に大きくなり、幸田池から満濃池に、その後大槌、小槌の海に入って竜神となったという。里人はゆかりのある此処に二人を大明神として祀った。旱ばつの時に神酒を供えて雨乞いをする習慣が今も残っている」とある。

なんとなくわかったようでわからない。目玉をくり抜くくだり、そして特に後半部は結論を急ごう、といった風で繋がりがわからず、唐突感がある。あれこれチェックし補足する;
目玉をくり抜くくだりは、「蛇となった当願に暮当は毎日会いに来る。当願はそれを徳とし、一眼を抜いて暮当に与え、尽きることのない酒を手に入れることができるようにした」とある。
また後半部は、「この美酒の秘密に不審の念をもった暮当の妻が不思議の因が珠(目玉)にあることを知る。そのことが噂となり国主の耳に達する。曰く、「美酒を生み出すのが片目であるとすれば、もう一つの目も差し出せ」と。
暮当は深く悩みながらも大蛇となった当願にもうひとつの目を乞う。当願は快諾。暮当はもうひとつの目国司に献上するも褒賞も断り、それ以来行方不明となった。 当願はこのことを知り、悲しみ怒り、池を飛び出し高松・香西沖の大槌と小槌の島の間(槌の門)まで飛んでいき、竜神となった」ということである。
縁起仕様で読むと
なんとなくストーリーはつながった。が、志度寺の縁起という観点からこの話をどのように解釈すればいいのだろう。以下は妄想。
まずは暮当と当願という名前。猟師というより僧侶といった響きの名。暮当は「暮に当たる>末世を連想させる。当願は「仏に救いを願う」、また「とうがん>到岸=涅槃の岸」を連想させる。 次いで、当願が参列した志度寺の法要。これは山城淀の津の白杖童子が仏のお告げによって志度寺本堂を造営し、その落慶供養の席とのこと。その大切な法要で、有難い法華八講の最中、弟の狩りでの殺生・邪心を抱き念仏を唱えることもなかった、と。蛇となったのはその報いということだろうか。
暮当の行いを徳とし、一眼を抜いて暮当に与え、尽きることのない酒を与えるといったくだりは、暮当は「六根の缺ぬる者は成佛せす」とその申し出を断ろうとするが、当願は、「薩?は虎に身をほとこすといへとも皆是佛果を証」すと左眼を抜いて渡したようだ。如何にも仏の功徳といったテイストである。美酒を与えるとは邪心故に大蛇となった当願の菩薩行=利他行への境地を暗喩しているようにも思える。我流解釈ではあるが、なんとなく縁起話といったコンテクストになってきた。 境内の説明にはなかった、当願が行方不明となったというくだりは、単に己の行いを恥じた故のことか、それとも暮当と当願が一心同体の存在に昇華されたとの暗示?ちょっと強引だが。

以上を志度寺の縁起風に読むならば、末世において彼岸の浄土を願う民が己の邪心故の咎として苦悩する(大蛇の姿)も、菩薩行を行い、自分だけでなく他人をも仏とする(美酒で象徴)といったストーリーとして読み解く。あくまでも妄想。なんら根拠なし。

標石
遍路道は堂宇脇から県道を逸れ土径を進む。ほどなく舗装された道となる遍路道を進む。農家の間、のどかな風景を見遣りながら歩くと道はふたつにあかれる。その分岐点、コンクリートの墓地土台前に標石。「右 扁んろみち」とある。
指示に従い右手の道を数進むと、ほどなく少し広い舗装道に出る。その箇所から先には如何にも遍路道らしき土径が続くのだが、遍路道はここを左折。道なりに進み県道3号に戻る。

萩地蔵
遍路道は県道を斜めに横切り、県道の左手に移るのだが、県道との交差点に萩地蔵が祀られたお堂がある。お堂といってもプレハブ造りで遍路休憩所を兼ねているようだ。飯田桃園の敷地にあり、飯田さんが管理してくださっている、とのこと。
お堂に入ると石造の地蔵坐像がある。台座には弘化三年と刻まれる。
お堂にあった萩地蔵の由来によれば、「本村大字宮西字長行に萩地蔵がある。地蔵堂は明治三十三年の頃までは今の場所で西に面していたのを志度脇町線の道路改修の時、東面に変更した。
この地蔵を萩地蔵と言うのは千百数十年前、弘法大師が四国開発のため志度から長尾に向かっていたところ、ここに萩の木があった。大師はこの萩の木を採取してその萩の木のあったところに安置し開眼し萩地蔵と言った。
そして*百年前、長尾寺本尊開帳及び寺宝展覧を行った時、弘法大師とゆかりのふかいのと隣村ということでこの萩地蔵尊を持ち帰り陳列した。展覧が終わっても返還しなかったので長行村の人がとりに行った。ところが寺の方は地蔵尊を紛失したといってその責任をとって今の石造りの地蔵尊を代償として送り今のところに安置したと伝えている。
なおもとの萩の地蔵尊は現在長尾寺の堂内に安置しているとのことである」とある。
この案内には手書きで補足修正がなされている。大師がこの地の萩の木を採取して尊像を彫った とのくだりには、「志度寺の本尊を作った、その余った木でつくったとの説あり。当時、鋸は無く、石を割るように、木を剥ぐ技法が使われていた」と書かれている。萩の木は尊像を彫れるような大きな木でもなく、本尊を彫るための木を剥ぐ>はぐ>萩という事だろう。
戻された石造りの地蔵尊については「衣をはぐってみると弘法大師の像の頭部と左手を壊し、別のもので急ぎつくった偽物地蔵であることが判明している」とあり、最後には「後年別の大師像も小さな像にすり替えられているので、そのままあったとしても盗難にあっていたはずなので、長尾寺恵良にあるほうが良策と思える」としていた。
なおまた、「四国のみち」にある案内は作り話で、この案内がこの地に伝わる伝承を記述した原本と一致するとのコメントも書かれていた。
まとめると、萩地蔵は萩の木で彫られたものではなく、志度寺の本尊を彫るために剥いだ木の余ったものを、貰い受け彫った〈剥地蔵>萩地蔵〉ものであり、木彫りが石造りとなっているのは長尾寺が木彫り地蔵に替えて石造地蔵を戻したため。ということだろう。「四国のみち」にある案内は目にしていないためコメントできず。

玉泉寺に2基の茂兵衛道標(241度目・143度目)
県道左手に移った遍路道を進むと、道の左手に玉泉寺がある。境内は道路より一段高いが道脇には2基の道標。共に茂兵衛道標である。
手前のものは茂兵衛241度目のもの。「八十七番奥の院」、また手印と共に「日切地蔵尊 明治四十四年」といった文字が刻まれる。もう1基には「ひだり 長尾寺 明治弐十八年」といった文字が刻まれる。巡礼回数は刻まれていないのは珍しいが、巡礼年度からして143度目のものである。このお寺は札所長尾寺の奥の院ということになる。

石段を上り境内はいる山門前に「お大師さんの休み場」の案内。「十六世紀の半ば過ぎに書かれた岡田大夫の『さぬき一円道者日記』には、西沢の里から宮の西の里の間に六人の道者の名が書かれている。このあたりが「お大師さんの休み場」と言われる由来も、ここがそのような聖なる場所であったためと思われる。『新撰讃岐圀風土記』には、宮の西に仏堂として「数珠くり地蔵」が載っている。門前に「お茶堂」があって、昔からお接待で賑わうミニ札所であった。
お地蔵さんは、この世とあの世を守る仏として、庶民に親しまれ、信仰されてきた。
玉泉寺の本尊日切地蔵の日切というには、日を限ってお願いすると功徳がいただけるというお地蔵さまである。
境内には六十年間に二百八十回巡拝した中務茂兵衛が建てた明治二十八年(1995)と明治四十四年の二つの道標がある。
同寺の本堂・庫裏・鐘楼は、昭和恐慌の不景気の最中に整備されたもので、山門は霊芝寺から移された薬医門である。本堂前の棚仕立ての古木〈白い房の長い藤の花〉は、近在きっての美しさである」とあった。

宮西はこの辺り。西沢の里はどこなのか不明。お接待は盛んでたったようで、振る舞われたミカンの皮を頼りに歩けば長尾寺へと至った、とも。霊芝寺は、この地の東、野間池傍に見える。

山門を潜り境内に。こじんまりしたお寺さま。縁起によれば、大師がこの地に紫雲たなびく光明を発する霊石を感得し一宇を立て、地蔵菩薩を安置したのがはじまり。故に古くは霊石寺と称されたが、明治初年に廃寺となるも、昭和5年(1930)に観音寺の玉泉寺を移し寺名を玉泉寺とした、と言う。

造田八幡の茂兵衛道標(159度目)
道を南に下り、造田八幡の石段上り口に茂兵衛道標。「長尾寺 志度寺 明治参十壱年」、巡拝礼159度目のもの。手印が逆を指す。どこか、道の右手にあったものを移した故だろう。








広瀬橋北詰の茂兵衛道標(181度目)
道を進むと鴨部川に架かる広瀬橋北詰で遍路道は県道3号に合流。橋の北詰、県道右手に茂兵衛道標が建つ。手印と共に「長尾寺 志度寺」と刻まれる巡拝181度目のもの。 橋の南詰にも道標があるが、旧遍路道は橋を渡らず、鴨部川北岸の土手を西に向かう。




長尾橋(へんろ橋)北詰に2基の標石
鴨部川左岸の土手を進むと長尾橋が架かる。橋柱には「へんろ橋」と書かれる。その北詰に遍路休憩所があり、2基の標石も立つ。
木標の傍の標石には手印と共に「左 へんろ道 十三丁」、橋傍の標石には大師坐像と共に「左 扁んろ道 安政四」といった文字が刻まれる。手印に従い道を左に折れて橋を渡る。橋には「旧へんろ道」の案内もあった。


茂兵衛道標〈175度目〉
橋を渡ると道の左手に「京都中井氏の道標」の案内がある。地図と共に「図の吉田家のところにある道標の願主中務茂兵衛は大正十一年四国を巡拝すること二百八十度目の長尾寺を前にして、七十八歳で果てたのである。今までに知られている彼の名を刻んだ道標は、四国に二四〇基近くあるとされている。
施主は京都三条通東洞院西入の中井三郎兵衛とその妻ツタである。明治三三年三月にここに建てた道標は、中井氏先祖代々供養のためとして、長尾寺と志度寺の道しるべとなっている。 中井氏と中務氏が組んで建てた道標は、明治二四年に高坂市坂本に、明治三年に徳島県平等寺の近くに、明治三四年に愛媛県新宮村に建てられている。四国の四県に各一基ということになるが、いずれも、二か寺を案内する道標になっている。
中井三郎兵衛氏は、京都府会議員で、観光都市京都の発展に貢献した実業家である」と案内される。

地図に従い、「へんろ橋」の南詰めを左折し、土手道を50mほど進み道なりに南に折れる。この道筋は大正10年(1921)に遍路橋が架けられる以前(現在の橋は昭和39年(1964)のもの)、漁船のあがり底を針金で止めてつくられた「橋」を渡り、土手から続く遍路道とのこと。
集落を南に進むと四つ辻、農家の軒下に茂兵衛道標が立つ。道標の正面には「長尾寺 施主 京都三条通り」、右面には「志度寺 為中井氏先祖代**」、左面には「明治三十三年」、裏面には「百七十五度為供養 願主中務茂兵衛」と刻まれる。
中務茂兵衛終焉の地
「えひめの記憶」には、「最後の78歳280度目は6か月余りかかって、長尾寺と結願の大窪寺を目前にして、彼のよき支援者であり、信奉者であった久保ちか子方(香川県高松市通り町)で56年にわたる遍路生涯の幕を下ろして大往生を遂げた。時に、大正11年(1922) 3月20日午前1時であり、旧暦の2月23日であった」とある。

亡くなる10日前まで巡礼を続けていたとの記録もある。この辺りで倒れ、高松市内に運ばれたのだろう。
茂兵衛が道標を立てはじめたのは280回に及ぶ四国霊場巡拝の88度目から。明治19年(1886)からのことである。発願の88度目は19基、最大は明治21年(1888)の28基、建立のない年もある。願主として中井氏のような施主と共に建立するケースが多いが、自ら施主となっている道標もある。茂兵衛は単なる遍路というだけではなく住職の資格を持ち、念仏行者として祈祷し謝礼を得ることもでき、独力でも道標建立ができたわけである。
道標には添句が刻まれるものもある。「旅嬉し只一すじに法の道」「迷う身を教えて通す立石のこの世はおろか極楽の道」などが知られるが、「生まれきて 残れるものとて 石ばかり 我が身は消えし 昔なりけり」の句が、いい。

住吉神社北の標石
茂兵衛道標の手印に従い四つ辻を右折し、へんろ橋からの道筋に戻る。その四つ辻、左角に標石。手印と「文政七」といった文字が刻まれる。四つ辻を南に進むと左手に住吉神社の社があった。




秋田清水九兵衛道標
道なりに進むと、道の右手に「秋田清水九兵衛道標」の案内。「明和三年に、出羽国(秋田県)の清水九兵衛が建てたもの。南無大師遍照金剛、これより六丁長尾寺までの距離を書く。六年後の明和九年に、南の県道高松・長尾・大内線と市道筒井・北原線の交差点北詰の、木戸家の墓地に清水九兵衛は立派な三界万霊供養の地蔵坐像を建立している」とある。
正面に「南無大師遍照金剛」の文字が読める。右面には「是より六丁 明和三」といった文字が刻まれているようだ。





八十七番札所長尾寺

道なりに南に進み、道の右手に長尾寺の東門を見遣り四つ辻に。そこを右折すると長尾寺の正門前に着く。

経幢2基
山門の左右に覆屋で保護された石造物が並ぶ。案内には「重要文化財 長尾寺経幢二基 経幢(きょうどう)は中国で唐から宋時代に流行したもので、わが国では鎌倉中期ごろからつくられ経文を埋納保存する施設、あるいは供養の標識として各地に建てられるようになった。この形式に単制と複制とがあり単制はこの経幢のようなもの、複制は幢身の上部に中台や龕(がん)部があって灯篭ふうになったものである。
この経幢は凝灰岩製で基礎の上に面取り四角形の幢身を立て、その上に重厚な八角の笠と低い宝珠をのせたもので東側のは弘安九年五月、西側のは弘安六年七月の銘があり一基ずつ相ついで奉納されたことがわかる」とある。
年代から見て、弘安の役での犠牲者の霊を供養するためのものとも伝わる。幢身上部には 阿弥陀如来、閼伽如来、宝生如来、不空成就如来といって尊像を象徴する種子(しゅじ;梵;)がうっすら残る。
種子
密教において仏尊を象徴する一音節の呪文(真言)。梵字で表記したものを、日本密教では特に種子字(しゅじじ)と言い、また種字(しゅじ)とも略称し、一般にはこの「種字」という表記が多用される。
これら種子は、密教の修法において本尊となる仏を想起するためのシンボルとなるので、これを植物の種に譬えて種子という。
また護符や曼荼羅などに、仏尊の絵姿の代わりに種子を書くことも多い。 これには、絵姿を描くより梵字で済ませた方が手間がかからないという実用的な意味もある、とWikipediaにある。 仏さまを表わす梵字は、基本となる一字(親)に点や線を付加えることで、色々な字(子)が生まれるので種子しゅじと称されるようである。

仁王門
山門より境内に入る。左右に仁王さまが立つ仁王門は日本三大名門のひとつとWikipediaにある。日本三大名門が何を指すのか不明であるが、それはそれとして、それほど大きくはないが寛文10年(1670年)建立とされる門は落ち着いた風情がある。

境内
境内には枝ぶりのいい松が、これも落ち着いた風情を呈する。正面に本堂、右側に大師堂、薬師堂、左側に常行堂、護摩堂と並ぶ。

補陀落山観音院長尾寺。天台宗寺門派のお寺さま。Wikipediaに拠れば本尊は聖観世音菩薩。寺伝によれば天平11年(739年)行基が当地で楊柳に霊夢を感じその木で聖観音菩薩像を刻み、堂宇に安置したのが始まりとされ、その当時は法相宗とされた。なお、寂本の『四国偏礼霊場記(1689年刊)』には、聖徳太子が創建し、本尊聖観音菩薩像は空海作で同時に阿弥陀如来を造り当寺を再興したとなっている
。 空海(弘法大師)が渡唐前、入唐求法の成功を祈願し年頭七夜の護摩の秘法を修し、その7日目の夜に護摩符を丘の上より人々に投げ与えたとの伝説があり、これは毎年1月7日の「大会陽福奪い」として今に伝わっている。天長2年(825年)唐より帰朝した空海は大日経を一石に一字写経の万霊供養塔(現存せず)を建立し伽藍を整え真言宗に改宗した。
その後、幾度かの兵火により堂宇は失われたが、慶長年間(1596~1615)生駒氏によって再興、長尾観音寺と呼ばれる。天和元年(1681)には藩主松平頼常が堂塔を寄進、翌々年には讃岐七観音の随一とし、真言宗から天台宗に改宗される。元禄6年(1693)には寺領を賜り観音院長尾寺と改称する」とある。
常行堂
常行三昧堂は天台宗の寺に見られる堂宇。「常行三昧」、ひたすら阿弥陀仏の名を唱えながら本尊を回る修行をするための道場、である。
常行堂という言葉に最初にフックがかかったのは姫路の書写山円教寺。ここに結構な構えの常行堂があった。菩薩行(利他行)をベースに現世功徳のイメージの強い法華教を根本経典とし、法華天台宗とも称される天台の寺に、何故に来世のイメージの強い阿弥陀仏がと思っていたのだが、「ブラタモリ」の比叡山延暦寺の放送で、延暦寺に常行堂があるのを知った。天台宗の僧の多くは「朝題目に夜念仏」と、現世は法華に来世は弥陀を頼みとした、とのことである。
〇天台宗への改宗
改宗は高松藩初代藩主である松平頼重の頃との記事もあった。幕府指南役でもあった上野寛永寺の天台僧である天海大僧正の教えを受けた頼重が、改宗を契機に堂宇の整備、料田の寄進が行われ、「賽銭無用」の寺であったとされる。
東門
仁王門に辿る途中、遍路道の右手にあった門。往昔この東門が正門であったよう。現在の門は、元は栗林公園の北側正門として18世紀中頃に建てられたもの。大正2年(1913)に移された。
静御前 剃髪塚
本堂左脇陣には静御前ゆかりの剃髪塚がある。案内には、「静御前 剃髪塚 平安時代の武将 源義経が愛したとされる静御前。
静は舞の名人であった母 磯禅師から舞を教わり、宮中で雨乞いの舞を披露した際に後白河天皇より"日本一の舞姫"と賞賛される。
母 磯禅師が東かがわ市小磯の生まれだった縁から静が晩年過ごしたとされる旧長尾町や三木町には史跡が数多くあり、その中の一つがこの「剃髪塚」。
静は奈良・吉野の山中で義経と別れた後、京へ帰ったが義経恋しさのあまり病気を患い、郷愁を感じていた母と共に讃岐の地へ帰ることになる
。 母と共に信仰の旅へ出た静は長尾寺へと辿り着き、住職の宥意和尚から「いろはうた」などにより世の無常を諭され、二人は得度した。静は宥意和尚の一文字をもらい「宥心尼(ゆうしんに)」、母は「磯禅尼(いそのぜんに)」となった。
その際に落とした静御前の髪が剃髪塚に納められているとされる」とある。

静御前にまつわる物語は全国にある。いつだったか利根川東遷事業の地を訪ねて埼玉県久喜市栗橋を訪れたとき、駅前に直ぐ近くに「静御前終焉の地」があるとの案内があった。奥州へ落ちのびた義経を追って、このあたりでその死を知り、落胆のあまり命を落とした、とか。 静御前終焉の地って全国に7箇所もあるようで、実際のところはよくわからないが、ここ栗橋駅周辺の伊坂の地は往時、静村と呼ばれていたようだし、この地の静御前の墓は、江戸末期の関東郡代・中川飛騨守忠秀が建てたとも伝えられるわけで、諸説の中では信憑性は高い、とは言われている、と。
とはいうものの、静御前は『吾妻鏡』にその名が出るだけで、他に資料は何もない。ちなみに長尾寺の南西2キロほどのところ、鍛冶池の畔に静御前が庵を結び義経の菩提を弔ったとの口伝のある静薬師堂があるとのことである。
長尾天満自在天神宮
本坊の南に鳥居の建つ社がある。長尾天満自在天神宮とある。案内には、「平安時代、当長尾寺に明印という名僧がいた。讃岐国司であった菅原道真公と親交厚く、延喜2年(902年)、道真公が九州へ左遷のときに志度浦に出て「不期天上一円月、忽入西方万里雲」の詩を贈って心を慰めた。公もまた詩と自画像を明印に与え別れを惜しんだが、後にこの古事により、宝永7年(1710年)、天満自在天神宮として建立、当山鎮守として祀られている」と記される。
「天満大自在天」とは菅原道真の御霊に追贈された神名。世界を創造し支配するヒンズー教のシバ神の漢訳である大自在天の威力を道真の御霊に習合させたものである。
この寺の天満自在堂は「幼な姿の天満宮」とも称される。上述明印の詩に対し、流人故の身を憚って童形の姿を描き答礼したという。その画像が今に残る、とか。
https://09270927.at.webry.info/201807/article_17.html 面白い 境内の標石
本堂右手の「四国八十七番霊場」と刻まれた碑の裏面には「左 志度道 明治」といって文字が刻まれる。「世話人 長州 中務茂兵」といった文字があるようで、茂兵衛道標ではとの記事もある。駐車場から境内を出る辺り、自在天満堂の傍にも手印と共に「右 へんろみかみち」と刻まれた標石がある。また山門右手に「大くぼじ江三里半 文政」と刻まれたもの、本坊そばにも2基の標石がある。

本日の散歩はこれでお終い。次回は結願の寺、88番札所大窪寺へ向かう。

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