予土 土佐北街道 笹ヶ峰越え; 土佐の大豊から笹ヶ峰を越えて伊予の新宮へ

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土佐北街道散歩の2回目。先回の四国中央市の新宮から法皇山脈を越えて瀬戸内に面した川之江に至る横峰越えに続き、今回は土佐の大豊から予土国境の笹ヶ峰を越え新宮まで歩く。
土佐北街道は、土佐藩参勤交代の道として、享保3年(1718)の頃、古代の官道である南海道跡を基本に整備された道である。土佐藩の参勤交代はそれ以前、東土佐街道、通称野根山街道経由で阿波から海路を利用したようであるが、そのルートは海任せ・天候任せ。順調に進めば20日ほどで江戸に着いたというが、潮待ちなどにより50日ほどかかることもあった、と言う。
江戸到着予定日の遅参は「一大事」であり、遅参により改易の沙汰もあり得るといったものであり、遅参の怖れある場合は逐次幕府に報告をしなければならない。そんな面倒なことをやってられない、と思ったのか、海路の安定した瀬戸内の湊への道が拓かれた、とのことである。
ルートを想うに、先回の横峰越えは法皇山脈北麓の平山集落バス停付近に車をデポし、新宮からバスで平山まで戻れたが、今回は土佐から伊予を跨ぐルートであり、バスの便もあるように思えない。また、ピストン往復は少々厳しそう。ということで、今回は弟と一緒。車二台で進み、上り口と下り口に車をデポし、足の心配なく笹ヶ峰を越えようということに。
弟は愛媛の石鎚あたりから愛媛と高知の県境尾根を進み、吉野川を越え香川と徳島の県境尾根を剣岳に向かうため、水場探しに途中の山稜を訪ねており、今回の笹ヶ峰辺りも歩いているとのこと。先回の横峰越えの単独行とは異なり、ベテランガイド付きの優雅な峠越えとなった。
■古代の官道・南海道
古代の官道は、当初讃岐から伊予国府へのルートと、阿波から海路で土佐国府に向かうルートであったようだが、後に土佐へのルートは伊予から向かうようになり、12の駅が設けられた。しかしそのルートは大廻りであるとして(とは言うもののこのルート自体がはっきりしない;伊予の国府(現在の今治辺り)から南予>高知の幡田郡に向かった、とも)、今回辿る四国山地を越えるルートに変更され、土佐国に吾橋(高知県長岡郡本山町)と丹治川(長岡郡大豊町立川上名)の2駅が設定され、伊予の大岡(四国中央市妻鳥町松木)と山背(四国中央市新宮村馬立の堂成)の駅を結んだ。土佐藩参勤交代の道はこの古代の官道・南海道を基本にし、伊予では最短距離の道筋を新たに整備した、とのことである。


本日のルート;総野橋>県道5号崩壊>笹ヶ峰隧道(トンネル)>土佐北街道(笹ヶ峰入口)>(下り)>土佐北街道分岐点>番所跡>石の敷かれた街道>木橋>出会橋>史跡 駕籠立て>出会橋まで藪漕ぎ>(上り)出会橋から木番所に打ち返し>土佐北街道(笹ヶ峰入口)>笹ヶ峰峠>杖立地蔵>七曲がり>水無峠>笠取峠>徒武>樫のやすば>腹包丁>沢に沿って下る>里が見えてくる>下り付き(おりつき)>総野橋

総野橋
実家のある新居浜を出て、高速の松山道に入り、川之江ジャンクションで高知道に乗り換え、法皇トンネル(上り3120m;下り3123m)を抜け、銅山川に架かる橋を渡り直ぐに大影トンネル(上り1312m;下り1289m)に入る。トンネルから出ると馬立川に架かる橋を渡り、また直ぐに黒田トンネル(上り1865m;下り1483m)に入り、トンネルを抜け再び馬立川を渡り直し新宮インターで下車。
今でこそ建設技術力で力任せに山塊を穿ち直線に進むが、往昔は山塊の峠を越え、または山塊部避け川に沿って迂回し道が進んでいたのだろう。それはともあれ、インターを下り、県道5号を南に進み、新瀬川が馬立川に合流する辺りで新瀬川に架かる橋を渡り、馬立川に沿って進み総野橋で停車。
ここが今回の笹ヶ峰越えの下り口である。橋脇のスペースに車をデポし、弟の車に乗り換え5号線を走り、上り口である高知県長岡郡大豊町の出会橋へと向かう。

県道5号崩壊;8時45分(標高829m)
デポ地点から車で葛籠折れの県道5号を上る。ほどなく「数キロ先(何キロか忘れてしまった)通行止め」の案内。少々予定が狂う。取り敢えず、どこまで進めるか、行けるところまで行ってみようと。
結構道を進むと土砂崩れで通行止め。この復旧には「今年一杯通行止め」といった工事案内があったように思う。さて、どうする。少し考える。県道峠にある笹ヶ峰トンネルまで800mほど。トンネルからデポ予定・登山口の出会橋まで6キロ弱。元に戻ってピストンは論外として、笹ヶ峰トンネルから直接笹ヶ峰の峠に上り、そこから車をデポした総野橋に戻るか、2キロ強ほど県道を歩き、県道を離れ出会橋からの登山道を2キロ弱ほどピストンするか、との選択肢。結局、県道を進み、登山道を出会橋まで下り、ピストンで出会橋から笹ヶ峰へ上り返すことにした。

笹ヶ峰隧道(トンネル):8時39分(標高843m)
少し歩き愛媛と高知の県境を画する笹ヶ峰峠(1027m)の直下を抜ける笹ヶ峰トンネルに。距離は500m弱だろうか。通行止めで車が通る心配もないので、ライトを点けてトンネルを抜ける。







土佐北街道(笹ヶ峰入口);9時2分(標高802m)
トンネルを抜けると高知県長岡郡大豊町。土佐の山並みを眺めながら2キロ強県道を下ると道の左手に「土佐北街道」の案内。笹ヶ峰隧道からおおよそ15分弱で、道の左手に土佐北街道(笹ヶ峰入口)の案内が見えてきた。脇には「笹ヶ峰登山口 標高800m 笹ヶ峰山頂まで30分程  愛媛県境となる山頂付近は参勤交代時の土佐藩最後の休憩所であった(立川御殿保存会)」といった案内がある。ここは再び戻ることにして、先に進むとすぐ左手に道案内が現れる。

土佐北街道分岐点;9時3分(標高801m)
下りの分岐点には「木番所跡 標高約770m ここから約50m下 藩政期土佐藩最後の番所であり、木材の盗材や抜荷などの監視にあたった。これより下方新茶屋までの急坂な山道を土地の人は「そろばん坂」と詠んでいる(立川御殿保存会)」とあった。

土佐北街道を出合橋に下る




番所跡
分岐点から50mほど下ると右の右手に平坦な地がある。ただ、地形図で見ると道の左手には等高線から平場が見てとれる。どちらが番所跡だろう。特に案内はない。少し荒れた道を下る。道は尾根道を巻いて下る。
石の敷かれた街道;9時9分(標高705m)
土佐北街道分岐点から5分強下り標高700m辺りから、道は等高線をほぼ垂直に下るようになり、敷かれた石が見えてくる。急坂と言うほどの険路ではないが、石を敷かなければ雨などが降ると泥濘で荷物を運ぶ牛馬が難儀するのだろう。が、石はスリップして危なくて仕方がない。雨の箱根越えの石畳でスリップに難儀したことを想い出す。
進むにつれ大雑把に敷かれていた石が結構きちんと敷かれている箇所も多くなる。案内にあった「新茶屋」は案内もないため、どこか不詳であるが、標高750mから650m辺りまで等高線をおおよそ垂直に下るので、このあたりまでが「そろばん坂」なのだろうか。

木橋;9時23分(標高576m)
標高650mから600mまでは等高線に沿い、600mから550mまでは等高線を垂直に下ると、小さい沢にかかる木橋がある。木橋を渡ると道の右手に沢が見えてくる。地図には載っていない小沢である。先に進み小さな切り通しを抜けると道の左手から下る立川川の支流の谷筋に出る。


出会橋;9時時34分(標高480m)
川に架かる木橋を渡る。「出会橋」である。橋を渡ったところに、「土佐北街道(出会橋) 標高約470m 木番所跡の県道まで1.4キロ 標高差約315m 所要時間約1時間 急峻」とあった。当初の予定では車でここまで進み、橋脇にデポする予定の地である。



史跡 駕籠立て;9時42分(標高469m)
出会橋を渡った県道の山側に「右土佐北街道」の案内。弟が、少し道を下ったところにも土佐北街道の案内があり、そこからこの地に続いているのだろう、と。折角であるので、その地点から進むことにする。
県道を数分すすむと「左 土佐北街道(古代官道調査保存)」の案内と、「史跡 駕籠立て 参勤交代の折り、笹ヶ峰を越すため駕籠を休め隊形を建て直したところといわれている(この上50m)立川御殿保存会」とあった。


出会橋まで藪漕ぎ;10時10分(標高480m)
「土佐北街道」の案内に従い県道から山道に入る。成り行きで進むと平坦な地に出る。今は一面雑草で覆われたこの地がかつての「駕籠立て」の地だろうか。史跡と県道脇に案内があるわりには、現場に何の案内もない。また、平坦な地から先の道筋、踏み跡が見つからない。
成り行きで進むが、左手に切り込んだ沢筋がある。沢を越えられるあたりまで切れ込んだ沢を上り、細まった沢の箇所を渡る。その先もそれらしき道筋は見えない。すべて成り行きで、藪漕ぎをしながら進むとまた、ちょっとした平場に出る。
そこからも成り行きで進むと、県道5号に出る。が、その箇所は出会橋の対面にあった「土佐北街道」の案内の手前。
道を繋ぐべく、案内の箇所から逆に進むと、草に覆われた切り通しがあり、その先で平場に出た。平場から草に隠れた切り通しを見落とし、切り通しの左手を進んだようである。
しかし、この道をもう一度行け、と言われても、無理だろう。「駕籠立て」と出会橋の2箇所に「土佐北街道」の道案内があるわりには、途中がまったく道案内らしきものが、ない。左手に県道5号が、見えつ隠れつであるので気分的には楽ではあるが、ここを通る皆さんも難儀しているのではないだろうか。

出会橋から木番所に打ち返し;10時58分(標高782m)
出会橋から県道5号の「土佐北街道分岐点」の案内があった木番所まで戻る。下りは30分弱で下りてきたが、上りは45分ほどかかった。急峻というほどの上りという感は受けなかった。





土佐北街道(笹ヶ峰入口);10時59分(標高802m)
県道5号の土佐北街道分岐点から土佐北街道(笹ヶ峰入口)に。往きに案内板で見たように、山頂までおおよそ30分。上るにつれて明るいブナの林が広がり、誠に気持ちのいい山道となる。





笹ヶ峰峠;11時29分(標高1015m)
県境標
案内とほぼ同じ、30分程度で土佐と伊予の県境に到着。峠には木の県境標が建ち、「是ヨリ南高知県」「是ヨリ北愛媛県」と書かれる。傍には「笹ヶ峰山頂 標高1015m 参勤交代の土佐領最後の休憩所となる。従者の身分により、上段から順次下段まで、その場が定められていた。明治以降はわらじや餅などを売る茶店が出されていた」との案内があった。
案内には笹ヶ峰山頂とあったが、実際の山頂は左手の小高い丘である。山頂の笹ヶ峰の標識には1016mとあった。四国には笹ヶ峰が幾つかある。ブナ林に笹が茂る山が多くあるから、と言う。
因みに、境界標のことを「傍示杭」と称する。笹ヶ峰峠の愛媛と高知の県境尾根を東に進むと「三傍示山(標高1158m)」がある。この山は愛媛・高知・徳島三県の堺を画する山名である。

歌碑
県境標の脇に土佐の九代藩主・山内豊雍(とよちか)候の詠んだ歌碑が建ち「朝風の音するミねの小笹ハら 聲打ちませて鶯ぞなく」と刻まれる。安永三年弥生八日の参勤交代の時の歌と言う。
弥生は3月のこと。『予土の峠をゆく;妻鳥和教著』に拠れば、土佐藩の参勤交代は3月5日に城を出立が多かったとのこと。高知のお城から笹ヶ峰までは15里。立川(たじかわ)本陣泊は出立3日目。立川出立が七つ時(午前四時)。道幅は籠が通れる一間幅(1.8m)あったと言われる。
峠の前で大休止。そこには階段状の成る地が造られ、2000人からなる先発隊、本隊、後続隊のうち本隊の1000人ほどが同一行動をとった、と(『予土の峠をゆく』)。
土佐の九代藩主・山内豊雍候には、昨年歩いた「土佐北街道 横峰越え」で豊雍侯の歌碑に出合った。日付も同じ安永三年(1774)三月八日である。同じ参勤交代の時に詠まれた歌であろう。土佐藩中興の名君として世に聞え、和歌も能くした豊雍(とよちか)侯は。時に24歳の若さであった。
因みに、今まで案内に「立川御殿保存会」との名称がしばしば登場したが、それは立川本陣となった土佐藩の番所書院のこと。立川御殿とも称され国の重要文化財に指定されている。道路通行止めがなければ、出会橋から南に進みこの御殿を訪れる予定ではあったが、予想外の展開で今回は訪ねることはできなかった。

杖立地蔵;11時57分(標高997m)
笹ヶ峰峠で笹ヶ峰山頂にちょっと立ち寄ったりと、20分ほど大休止。11時50分頃、峠より下りはじめる。尾根道を10分弱進むとお地蔵様が道端に建つ。四国では歩き遍路をしているためだろうか、峠路と言えばお地蔵様と連想されるのだが、そういえば、この土佐北街道笹ヶ峰越えでは、はじめてのお地蔵様である。
手を合わせ、傍の案内を読むと「笹ヶ峰より400mのところにある。今から130余年前、栄谷の内田種治氏の寄進によって建立された。かつては道を狭しと長く高く積まれた杖も今は朽ち果て、その面影もない。しかし、道行く人々が道中お世話になりましたと、感謝の念を杖立に現した素朴さに心打たれる」とあった。
いまひとつ説明内容がわからないため、チェックすると、前述『予土の峠をゆく』に拠れば、台座の正面に「奉造立尊像者 為道中安全 為諸人快楽 」、右には「安政五年 願主 栄谷(さかしだに)種治」左に「世話人馬立村 栄谷清助 忠吉 讃州 仁尾九兵衛」と刻まれる、と。
また、造立の主旨は同書少々の推測も交えながらも、行き倒れの人の供養に下付集落の村人栄谷(内田氏の祖)が仁尾の商人にファイナンスを頼み、大師像を建立。が、明治の廃物希釈で仏様の首が切り取られる災難に。戦後、大師像を造り直すも、造り直したお顔がお大師さまではなく、お地蔵様。胴体がお大師さまではあるが、お顔がお地蔵様であれば大師像とは言えない、ということで「杖立地蔵」と命名した、とのことである。
仁尾商人
造立の由来はなんとなくわかったが、それよりお金を工面した「讃州 仁尾九兵衛」にフックが掛かった。土佐街道は参勤交代の道とともに、お茶の道・塩の道とも称される。参勤交代の路として整備された往還が人と物の往来を賑やかなものとしたのだろう。そして、その商いで利を得たのが讃岐の仁尾の商人である。

「えひめの記憶」に拠れば、「江戸時代の土佐街道は、土佐藩の参勤交代路として大きな役割を果たしてきた。それとともに、山と海との物流が盛んに行われてきた道でもある。土佐の山分(やまぶん)(嶺北地域)の茶が大量に人の背や馬によって、笹ヶ峰を越え法皇山脈の横峰を越えて、伊予の川之江、讃岐の仁尾に送られている。
土佐の茶で有名なものが碁石茶である。碁石茶は発酵茶であり、その販路は瀬戸内海沿岸や島方であった。碁石茶は塩分を含んだ島方の水に合うためとか、島方で常用される「茶ガユ」の原料に用いるためとかいわれている。(中略)『大豊町史』によると、「碁石茶は土佐の嶺北山間の村々で生産され、特に東本山村(大杉村)・西豊永村で多く生産された。明治14年(1881年)に編集された本山郷下分17か村(旧大杉村)の村誌によると、その生産数量は3,580貫(13,425kg)余に上り、そのほとんどを愛媛県川之江方面に出荷している。」とある。
『仁尾町史』によれば、「最初土州侯より茶売買の特権を得た仁尾商人は12軒であったが、その後茶業繁栄の結果、幕末には18軒が茶商売を行っていた」。また「(中略)これらの商人は、購入した茶を土州山分より北山通り立川口番所を通り、山越をして伊予川之江、さらに和田浜へ運び、それより船にて仁尾へ送り、丸亀を始め瀬戸内沿岸の有名な都市に取引所や売店を設けて、仁尾茶として販売し大いに繁栄発展した。」と記述されている。このように藩政期には、仁尾商人と土佐(嶺北地方)との結びつきは強かった。
(中略)
土佐の山分から馬立を中継して、伊予川之江、讃岐仁尾の港に碁石茶が運ばれ、一方海から山へは塩が運ばれた。それを物語る史料として、次の切手が残っている。磯谷村の孫七ら8名の者の道中切手である。それによれば「右ハ此もの共予州馬立迄茶丸持越塩荷取二参上申候間其元にて御改之上御通し被下度奉存候已上磯谷村名本小左衛門図(印)卯八月十六日〔注:享保20年(1735年)〕本山与右衛門殿川井甚之烝殿」とある。
また享保19年・20年の道中切手和田村分だけでも、道中切手の行先は馬立、川之江、仁尾であり、送り荷は茶丸であり帰り荷は塩であった。
碁石茶の取り引きで活躍した仁尾商人が、明治維新で壊滅的打撃を受け、名声高かった仁尾茶が全讃岐より姿を消した。(中略)「土佐藩では幕末の財政危機で大量に藩札を発行した。取り引きもすべて藩札であった。明治維新で土佐藩の藩札の暴落で、仁尾商人が持っていた藩札は紙くず同然になってしまった」 とある(「えひめの記憶」より)。杖立地蔵の金主でもある仁尾九兵衛もこのような仁尾の商人のひとりではあろう。

七曲がり;12時13分(標高926m)
杖立地蔵から15分弱進むと「七曲がり」の案内。「笹ヶ峰に近く、登る者、下る者にとって難所のひとつ。急斜面の七曲がりに太政官道時代の伝馬をひく者、皆足もとに力の入ったことだろう。はるか北方に法皇山脈塩塚高原が展望できる」とある。
等高線をチェックすると1015mの笹ヶ峰峠から尾根路を下る街道は、標高970mから915mにかけて、尾根を右に左に折れて進み標高915m辺りから再び尾根筋を進む事になる。この間を七曲がりと称するのだろう。曲がりが多いのはここの標高970mから915mにかけて等高線が密になっており、曲がりくねって進まなければ牛馬が進めなかったのだろう、か。
太政官道と参勤交代の道
ところで、説明に太政官道時代の伝馬をひく者、とある。この参勤交代の道は古代官道に沿うものだと言われるが、古代の官道は遙か昔に廃道となっており、立川番所から笹ヶ峰(北山)越えの道は、ほとんど新設の道であったという。
既にメモしたように、当初海路をとった土佐藩参勤交代の道を、陸路をとり穏やかな瀬戸の海に出る検討が行われ、藩主の命を受けた郡奉行岡田又兵衛は、享保2年(1717年)2月立川から笹ヶ峰を越え、馬立村木地屋、市仲、さらに横峰を越え、川之江に、さらに讃岐の仁尾までのルートを調査した。
開削には、土佐の村々から7,000人の人夫が動員された。農民たちの血と汗によって作られた街道である。この道は6代藩主山内豊隆から16代山内豊範まで、文久3年(1863年)までの146年間利用された。翌年から蒸気船海路となり、以後この街道は民間の生活の道として利用されてきた(「えひめの記憶」)、とのことである。

水無峠;12時22分(標高893m)
七曲がりを下り終え。平坦な尾根道を10分ほど進むと水無峠に。案内には「古代からの交通路、水無峠 水の湧出が無く、他から水を運んで茶店を開いたと言う。旅人達は此処で疲れを休めたり憩いを楽しむ等、茶屋の番茶に感謝もしたであろう。
此の地は清水産業株式会社の所有であるが、ご厚意によって水無峠の由緒ある天然杉を残して下さったことを感謝する」とある。
尾根の稜線、平坦部に水があるとも思えないが、面白い峠名である。チェックすると、各地に同じ名前の峠も散見する。この峠の直ぐ東で等高線が深く切れ込んでいる。そこが沢筋であれば、対比として面白いとは思うのだが、ともあれ単なる妄想である。
それはそうとして、峠である以上は、東西への往来か、東西からの往来があったのだろう。地図をチェックすると尾根の東は馬立川の谷筋・馬立村、西側は新瀬川水系の谷筋の新瀬川村。水無峠の少し北から新瀬川の谷筋へのルートが延びる。少なくとも新瀬川村の人々が尾根を土佐に向かうか、東の谷筋へ下っていったのだろうかと思う。
水無峠から案内にあった天然杉であろう杉林のある平坦な稜線を進み、左に新瀬川に向かって下る道を分け、標高830mあたりから780mまで等高線をほぼ垂直に下ると、再び平坦部となり、そこに「笠取峠」の案内があった。

笠取峠;12時41分(標高782m)
笠取峠の案内は稜線の平坦部ではなく、稜線の巻き道脇に無造作に置かれていた。案内には、「この峠に来ると笠を取って一息いれたい。歩きながらそんなゆとりの出てくるのは昔も今も変わらない。下り付けと笹ヶ峰との中間地点にあたる。
西側に通じる道は木地師の里木地屋への道、東側への道が犬の墓道(立川陣屋と新瀬川の脇本陣への犬の飛脚の墓)」との説明。
地形図を見ると、巻き道の上に平坦地が見える。そこが本来の峠ではあろうか。そこにはそれはともあれ、この峠からは、先ほどの水無峠で妄想した通り、東西の谷筋への道があるようだ。
西は木地師の里木地屋とあるが、どこかは特定できない。馬立村木地屋という地名は上でメモしたように、参勤交代の道を拓くべく郡奉行岡田又兵衛が「笹ヶ峰を越え、馬立村木地屋、市仲。。。」とあるので、馬立川の谷筋のどこかにあるのだろう。
新瀬川の脇本陣とは新瀬川土居の少年自然の家近くの山腹にあるとのこと。立川本陣と新瀬川の脇本陣の間を犬の飛脚が聯絡に使われた?よくわからない。

木地師の里
木地屋は特定できなかったが、『予土の峠をゆく』の記述を大雑把にまとめると「新宮には多くの木地師がいた。大木を切り、轆轤で細工し、直径10cmの木製の数珠を造り、川之江の問屋に卸す。そこから修験者が近畿の商家を廻り、先祖の供養を霊場のある四国で毎日行うというお題目で数珠を売り、数珠に商家の屋号と先祖供養の銘を掘り、永代供養料を受け取る。利益は修験者と木地師そして問屋で三等分した」とのことである。

徒武;12時53分(標高843m)
笠取峠の鞍部を越えると等高線800mから840mに向かって緩やかに上る。等高線840mに沿って進む。右手の台地上は三等三角点・徒武(860.52m)。等高線840mに沿って三角点のある台地を進む途中に「徒武」の案内。「とぶ」と詠む。 案内には「古代からの生活道、また参勤交代の道でもあった。土佐街道の地名である。徒武は武士が徒歩で通行したということか。付近に腹包丁、樫の休場、笠取峠の地名もあり、昔の往来通行の様子が偲ばれる。現在地の標高は約850mである」とあった。


樫のやすば;13時01分(標高782m)

等高線840mから稜線に沿って790mに向かって緩やかに下ると「樫のやすば」の案内。「腹包丁の登りつめた休み場が樫の休み場。段々に作られた休場が今に跡を止めているが、路に変更の跡がある。この付近の広葉樹は重要である。昔は此処に茶店もあった」とある。
地形図を見るに、「樫のやすば」の少し手前までは、1箇所ほど等高線に沿って進む箇所があるが、基本等高線を垂直にルートが進む。今回は逆でその坂を下りればいいのだが、逆に上りは、この平場での一休みは格別のものがあったのだろう。樫のやすばのあたりは一面石が敷かれている。

腹包丁;13時20分(標高558m)
「樫のやすば」から少しゆるやかな坂を下るが、等高線750mから先はルートは等高線を垂直に貫く。等高線560m、570m辺りに「腹包丁」の案内。案内には「笹ヶ峰越えの一番の険しい難所。武士が山を下りるとき、刀のこじりがつかえるので刀を腹のほうにまわして坂を下りたという由来による地名。
水戸の浪士青山鉄齋が「腹包丁の??は天下の??所 一歩誤れば千仞の谷」と詩われた所。大正年間この付近にも茶店があった」とある。
歩いた感じでは、それほど険路とも思えなかったが、等高線を切り抜くルートをみると、それなりの険路ではあったのだろう。

沢に沿って下る;13時31分(標高440m)
「腹包丁」の案内から先も等高線をほぼ垂直に下る。道を等高線420m辺りまで下ると右手に沢が見えてくる。結構荒れた沢で倒木が散乱していた。等高線350m辺りまで沢に沿って下る。





里が見えてくる;13時37分(標高380m)
標高330m辺りでは道は一面苔に覆われ結構美しい。苔の道を少し下ると民家が見えてきた。








山内豊重(容堂)侯歌碑
集落に入る手前にふたつの石碑。ひとつは土佐15代藩主・山内豊重(容堂)侯の歌碑。嘉永6年(1853)年5月15日、参勤交代の帰途、新宮の馬立本陣で休憩の後、険路・腹包丁を登り終えると雨が。その折りのことを詠んだ歌が刻まれる。
「雨来タリテ筧水(けんすい)ニ声ヲ生ズ
山道何ゾ匍匐(はらばう)ノ名ニ違(たが)ハン
ノヘ窮メント欲スレバ猶ノヘ
徐ニ飽履 白雲ノ行ク

匍匐山中ヲ過ギ 雨有リテ此詩
時ニ癸丑(きちゅう)五月十五日也 直養」

「ノヘ」は「への」ではない。これで一語の漢字である。「へつふつ」と読み、「(船などが)で揺れる様」を意味する。筧水(けんすい)は「懸樋の水」?飽履の意味は分からない。が、ぼんやりとはしているが、全体の意味はなんとなくわかる。
また、歌碑の横の石碑は文化庁が「歴史の道百選」として平成8年(1996)年に選定したことを記念し、新宮地域の「ふるさとに学ぶ会」が建てたものである。

下り付き(おりつき);13時47分(標高296m)
集落に入ると、民家脇に「下り付」と記された木の案内。文字も掠れているがなんとか判読でき、「この道は南海道太政官道であり、江戸時代には参勤交代路、江戸末期、明治大正時代には、紙の原料として、楮、三椏が運ばれ また、金毘羅講、仙龍寺奥之院講の講人なども行き交った古代からの交通路。人々は、笹ヶ峰を越え、腹包丁の急坂をやっと下り付き、此処で安堵した土佐候は此処で列を作り、本陣に向ったという」と書かれていた。

本陣とは「道の駅 霧の森」にある馬立本陣跡。仙龍寺奥之院は新宮から新宮ダム方向に銅山川を進んだところにある陸十五番札所三角寺奥の院のことである。楮、三椏についてははっきりしない。「えひめの記憶」に拠れば「土佐の楮、三椏は伊予に運ばれたがそれは大洲方面のようであり、この土佐北街道にかんして言えば、今治藩は安政七年(1778)馬立村(今治藩領)に紙楮の運上を仰せつけている。
その後天保から安政(一八五四~五九)・文久(一八六一~六三)・元治(一八六四)の幕末のころには、金砂村や新宮村の銅山川流域では、盛んに楮や三椏の栽培が行われ、自生のものと合わせて、年間四〇〇〇~五〇〇〇貫のものが、隣の三島や川之江地方に出荷されるようになった。そして交通の要路の上分には商店が発達し、楮・三椏を扱う商人が誕生した」とある。

総野橋;13時53分(標高271m)
集落を進み、車をデポした総野橋まで下り本日の散歩を終える。道路崩壊といった予想外の展開もあり、少々段取りは狂ったが、これで土佐北街道の横峰越えと笹ヶ峰越えを終えた。きっかけは銅山川疏水の資料探しに四国中央市の観光協会に行ったとき、偶々置いてあった「龍馬も歩いた 土佐北街道」のパンフレットである。横峰越えは単独行。それも写真の撮影ミスで二度ピストン散歩となった。今回も通行止め。土佐北街道散歩はなかなか予定通りに進まない、一筆書き人生を信条とする我が身には少々「迂遠」な散歩とはなった。

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