いつだったか伊予の三坂峠を下り、四十六番札所浄瑠璃寺から八坂寺まで歩いた。その時は「JR四国バス・森松バス停(松山市森松町)」近くの神社に車をデポし、三坂峠から下ってきたため、八坂寺から八ッ塚までは遍路道を辿ったのだが、その後は成り行きで車デポ地まで戻った。
今回、四国霊場札所四十七番・八坂寺から四十八番西林寺へと遍路道を繋ごうと思うのだが、八坂寺から八ッ塚までは気分も新たに歩き直し、その後は常の如く、「えひめの記憶:愛媛県生涯教育センター」の記事を遍路道指南として道標、御堂を目安に遍路道を辿ることにした。
「えひめの記憶」に拠れば、札所四十七番から四十八番までの距離はそれほど長いものではないのだが、この間の遍路道は大きく分けてふたつあるとのこと。どうせのことなら両方をカバーすることにする。
本日のルート;札所47番・八坂寺へ>里程標>47番札所・八坂寺八坂寺>徳右衛門丁石> ■文殊院経由の遍路道■ 愛媛最古の道標>道標>文殊院>「左八塚道」の石標>八塚古墳>道標>大宮八幡神社東・三差路の茂兵衛道標>大正橋>道標>札始大師堂> (札始大師堂へのバリエーションルート)>県道207号の茂兵衛道標> ■月見大師堂・足跡大師堂経由の遍路道■ 道標>月見大師堂>足跡大師堂>渡辺家邸宅と道標>久米街道道標>道標 ■茂兵衛道標で「文殊院・八つ塚経由の遍路道」と合流■ 県道23号との交差点に道標>重信川を渡る>茂兵衛道標と道標>遍路墓>八ガ所大師堂脇の茂兵衛道標>西林寺前の徳右衛門道標>四十八番札所・西林寺>杖の淵 札所47番・八坂寺へ
実家のある新居浜から国道11号を進み、松山道・川内インター付近で県道23号に乗り換え、西に進み成り行きで県道194号に入り八坂寺へと向かう。
里程標
八坂寺近く、県道194号の道端に「松山札ノ辻より三里」と刻まれた里程標が建つ。結構新しい。レプリカではあろう。松山市内本町三丁目の電停辺り、かつて「札の辻」と称されていた高札場から土佐街道を進む目安とした里程標である。
本来の里程標は、上下に分かれて折れているようで、上半分は先般三坂峠から下るとき、御坂川に架かる窪野橋手前の藪の中に「松山札の辻より四里」と書かれた里程標があったが、その脇に古い石碑があり、それが三里の里程標の上半分であったように思う。
三里の里程標を新しく建てる際、建てるスペースがないということで、下半分がない古い三里・里程標を捨てたとのことだが、それを地元の方が大切に保管していたとのこと。何となく不自然ではあるのだが、これといったエビデンスも見つからないので、ママしておくことにする。また、下半分は個人所有と言う。
里程標から道端の小祠を見遣りながら進むとほどなく、八坂寺の参道にあたる。道を右折し駐車場に車をデポし散歩をはじめる。
47番札所・八坂寺八坂寺
上述の如く、八坂寺から八ッ塚までは先回と同じ遍路道であり、メモは先回の記事をママ掲載する。
白い塗塀の美しい民家の立つ道筋の先に八坂寺。山門前の左手に「手印の道標」、右手にも「三十五丁」と刻まれた道標が立つ。
○宝篋印塔
境内に入り、参道を進むと「宝篋印塔」。案内には「宝篋印塔 過去現在未来にわたる諸仏の全身舎利を奉蔵するために「宝篋印陀羅尼経」を納めた供養塔を宝篋印塔と言い、五輪塔とともに普遍的なものである。
宝篋印塔は平安末期から造立され、基礎(基台)・塔身・笠・相輪からなり、方柱の部分が宝である陀羅尼経を納める塔身である。本塔は190センチメートルで、石質は花崗岩である。笠の四隅の隅飾突起は直立ぎみであり、造立年銘を欠くが、像容、製作技法などが鎌倉様式であるので、鎌倉時代後期末と推定している」とあった。
○句碑
参道を進むと左手に鐘楼。鐘楼の参道逆側には「お遍路の誰もが持てる不仕合わせ」と刻まれた句碑がある。案内によると、明治32年(1899)に松山に生まれ高野山金剛峯寺第406世座主となった高僧の詠んだ句。高浜虚子と知己を得、師事。子供がむなしくなり、四国巡礼の旅に出たとき、「遍路の思いにはそれそれの想いと影があることを想いよんだもの」とあった。俳号森白像。
■縁起
参道を進むと正面に本堂が建つ。境内には左手に大師堂。大師堂と本堂の間には閻魔堂。その左には不動明王像。本堂右手には権現堂、その裏手に十二社権現が建つ。
お寺様の案内には、「四国八十八か所の四十七番札所である。熊野山妙見院と号し、真言宗醍醐寺の寺院である。寺伝によると、600年代に修験道の開祖役行者小角が開山、大宝元(701)年に文武天皇の勅願所として小千(越智)伊予守玉興が七堂伽藍を建てたという。
中世には、紀伊国(和歌山県)から熊野十二所権現を勧請され、熊野山八王寺と呼ばれるようになった。七堂伽藍をはじめ十二の宿坊、四十八の末寺を持つ大寺院で、修験道の根本道場として栄え、隆盛を極めたという。 戦国時代に兵火のため堂宇が灰燼に帰し、後に再興して今の地に移ったと伝えられる。この寺は修験道場のため、住職は代々八坂家の世襲であり、百数十代になるという。
本尊は阿弥陀如来坐像(愛媛県指定有形文化財)で鎌倉時代の恵心僧都源信の作と伝えられる(松山市教育委員会)」とあった。
八坂寺の寺名は、大友山に八箇所の坂を切り開いて修験の伽藍を創建し、かつ、ますます栄える「いやさか(八坂)」に由来する、とのことである。
山門に菊の御紋章があったのは、勅願寺であったためであろうか。また、弘法大師は寺の創建から百余年後の弘仁6年(815)、この寺を訪れ修法し荒廃した寺を再興して霊場と定めたと。
●越智玉興
越智河野氏系図に拠れば、玉興は河野氏の祖とされる越智玉澄の兄で、文武天皇の頃、越智郡大領となる、とある。越智氏に踏み込むのは、ここではちょっと遠慮しておく。
○徳右衛門丁石
ところで、山門横に「三十五丁」と刻まれた道標は「徳右衛門丁石」として知られる。
徳右衛門こと武田徳右衛門は越智郡朝倉村(現在の今治市)、今治平野の内陸部の庄屋の家系に生まれる。天明元年(1781)から寛政四年(1792)までの十一年間に、愛児一男四女を次々と失い、ひとり残った娘のためにも弘法大師の慈悲にすがるべし、との僧の勧めもあり、四国遍路の旅にでる。
その遍路旅は年に3回、10年間続いた。で、遍路旅をする中で、「道しるべ」の必要性を感じ、次の札所までの里数を刻んだ丁石建立を思い立ち、寛政6年(1794)に四国八十八ヶ所丁石建立を発願し、文化4年(1807)に成就した。その数は102基に及ぶとのことである(「えひめの記憶」を参考に概要をまとめる)。 因みに、幾多の遍路道標を建てた人物としては、この武田徳右衛門のほか、江戸時代の大坂寺嶋(現大阪市西区)の真念、明治・大正時代の周防国椋野(むくの)村(現山口県久賀町)の中務茂兵衛が知られる。四国では真念道標は 三十三基、茂兵衛道標は二百三十基余りが確認されている。
「えひめの記憶」に拠れば、八坂寺から西林寺へと進む遍路道は重信川を渡ることになるが、渡河地点に至るまでには文殊院経由と、「月見大師堂」や「足跡大師堂」経由の二つの遍路道があるとのこと、今回はふたつの遍路道をカバーするが、最初は先回途中まで歩いた文殊院の遍路道からはじめる。
四国で二番目に古い道標
八坂寺の山門を出ると、道標にすぐ左に折れる。水路に沿って小径を進み、えばら池(土用部池とも)に至る。池端にある「お遍路の里 えばらMAP」で今から訪ねる恵原町の概要を確認。
池の東側から北側の道に回り込みしばらく進み、右手へと分岐する道のある堤防下に「48番西林寺4.1km」と古い自然石。この石は愛媛で最古、四国で2番目に古い道標とのことである。「貞享二年三月吉日」と刻まれた文字と広げた掌。その下に「右 へんろ道」とある。なお、四国最古といわれる道標は、室戸市に「貞享二年二月吉日」建立のものであるという。
道標
道標に従い、池堤下の道から分かれ、左手に諏訪神社を見やりながら田圃の中を進み、県道194号と合流するところ、立派な生垣と瓦のついた白い塗塀に囲まれた民家の脇に手印のついた道標。手印の下には「ぎゃく へんろ道」とはっきりと刻まれている。
文殊院
道標から北に進むと文殊院がある。番外札所ではあるが、いくつかの名所案内に四国遍路の始祖伝説である衛門三郎の物語で知られる寺とあり、ちょっと立ち寄り。境内地は彼の屋敷跡であると伝えられる。
案内に拠ると、「当院は、弘法大師が衛門三郎の子供の供養と共に、悪因縁切の御修法をなさった四国唯一の、有り難いお寺であります。本堂には大師が刻まれたご自身のお姿と延命子育地蔵尊をお祀り、四国遍路元祖、河野衛門三郎の物語が記された、寛正時代の巻物も保存しております。
その昔は徳盛寺と呼ばれていましたが、弘法大師が文殊菩薩様に導かれて逗留された後、文殊院と改められました。
昭和41年松山市久谷町植樹祭の際、天皇皇后両陛下行幸にあたり、故八木繁一博物館館長により、当院を四国八十八ヶ所発祥の地であると言上なさいました。当院の文殊菩薩さまは、お大師さまをお導きなさった知恵の文殊さま(後略)」とあった。
●衛門三郎
「えひめの記憶」を参考にまとめると、衛門三郎は四国遍路の元祖とされる。元祖たる所以は、性悪にして極悪非道であった衛門三郎が弘法大師の霊験に接し発心し、弘法大師を求めて四国遍路の旅を二十一度も辿る、といったもの。 この発心譚 が、元々は、特に弘法大師との関わりはなく邊路を辿り霊場訪ねると言った四国遍路が、中世期に「弘法大師を求めて=大師と共に(同行二人)」と言った弘法大師信仰を核に整備されてゆく四国遍路のモチーフにぴったりあてはまった故ではあろう。
◆衛門三郎の発心譚
伊予国荏原荘(現在の松山市恵原(えばら)町)に住む長者であった衛門三郎。性悪にして、ある日現れた托鉢の乞食僧の八日に渡る再三の喜捨の求めに応じず、あろうことか托鉢の鉢を叩き割る。八つに割れた鉢。その翌日から八日の間に八人の子供がむなしくなる。
子どもをなくしてはじめて己れの性、悪なるを知り、乞食僧こそ弘法大師と想い、己が罪を謝すべく僧のあとを追い四国路を辿る。故郷を捨てて四国路を巡ること二十一度目、阿波国は焼山寺の麓までたどりついたとき、衛門三郎はついに倒れる、と、今わの際に乞食僧・弘法大師が姿を見せる。大師は三郎の罪を許し、伊予の国主河野家の子として生まれかわりたいとの最後の願いを聞き届ける。
三郎を葬るにあたって、大師は彼の左手に「右衛門三郎」と記した小石を握らせた。その後、河野家に一人の男子が生まれ、その子は左手にしっかりと小石を握っており、そこには「右衛門三郎」の文字が記されていた、と。この話は松山市にある石手寺の名前の由来(安養寺から石手寺に変更)ともなり、その石は寺宝となっている、とのことである(「えひめの記憶」を参考にメモ)。
上でメモした「えひめの記憶」では衛門三郎発心譚に、唯一の願いは「河野氏」として生まれかわることとあったが、ここ文殊院では河野衛門三郎と記されていた。
四国遍路を「四国八十八ヵ所霊場」へと組み上げていった真念は、『四国遍礼功徳記』の中でも、「予州浮穴郡右衛門三郎事、四国にていひ伝えかくれなし。貪欲無道にて、遍礼の僧はちをこひしに、たヽかんとしける杖鉢にあたり、鉢を八つにうちわりしが、八人の子八日に頓死せり。是より驚きくやミ発心し、遍礼二十一反して、阿州焼山寺の麓にて死けり。其時大師御あひ、その願をきこしめし、石に其名を書にぎらしめ給ひければ、郡主河野氏の子にむまれ、かのにがりし石、そのまヽ手の内にありて、右衛門三郎なる事をしれり(「えひめの記憶」)」と記しているように、右衛門三郎は河野との姓はなく、所詮右衛門三郎であるのだが、この案内に「河野衛門三郎」とあるのは、伊予の豪族である河野氏の出自を聖ならしめるポリティックスが、効きすぎた結果であろう、か。
「左八塚道」の石標
文殊院から一筋先の四つ角に手印のついた道標。直進方向は「へんろ道 左八塚道」と刻まれる。大正2年(1913)に建てられたもの、とか。八塚道は八つの古墳群があるとのこと。左に折れて「八ッ塚」に向かう。
ちなみに、この道をそのまま直進すれば、道の直ぐ東に荏原城があったのだが、見逃した。
八塚古墳
道を進むと、道脇に塚があり塚の上には木が茂る。塚の前には「文殊院八塚群集古墳」と刻まれた石塔と案内。「ここから西方の松山平野の南丘陵部には、土壇原(どんだばら)、西野、大下田南、釈迦面山等の古墳群が数多くあり、八ツ塚はそれらに続く平野部に位置する八基の群集古墳である。
文殊院所有の、これらの墳丘の形は、後世の開発によって変形しているが、一号・三号・五号・八号墳が円墳、二号・四号・七号墳が方墳である。円墳は直径約七メートルから十四メートル、方墳は一辺十メートルをやや超える程度で、墳丘高はいずれも約一.五メートルから三.五メートルの規模である。石室は未調査だが横穴式石室、時代は古墳時代終末、農業祭祀の歳時墳と考えられている。
この八ツ塚は、四国遍路の元祖といわれる衛門三郎の八人の子供を祀ったとの伝説も残っており、塚には小祠が置かれ、石地蔵が祀られている。古墳と伝説の関係が、いつごろから語り伝えられるようになったのかは、不明である」とあった。
その他の塚は何処に?辺りを見廻すと、塚から北に進む水路沿いの道に木々の繁ったこんもりした塚らしきものが見える。とりあえず北に道を進み、これが古墳?などとちょっと不安になりながらも、先に進むと田圃の中に小さいけれども、如何にも古墳といった塚が幾つか続く。田圃の緑と、そこに浮かび上がる塚の緑とそこに茂る木の緑は誠に美しい。
田圃に沿って古墳を見遣りながら進み、北端にある古墳へと道を回り込み、古墳。というか、ちっちゃな塚に登り景観を楽しむ。
道標
先回は一番北の塚から西に向かい、森松バス停に向かったのだが、今回はここから東に、遍路道を辿ることにする。
「えひめの記憶」にはこの八つ目の塚の近くに道標があると記す。さて、何処だろう?それらしきものを探すと、塚の直ぐ北を東西に通る砂利道があり、その道の北に張られたフェンスに自然石と見まごう道標があった。
「右 へんろ道」と読める。案内に従い道を右に、県道194号方面に進む。
大宮八幡神社東・三差路の茂兵衛道標
県道194号に戻り、北に進むと大宮八幡神社の南を東西に延びる道が県道194号と交差する箇所で、県道から右に分岐する径がある。その三差路に道標が建つ。「左 松山道」と刻まれ、遍路道は手印で示される。
◆中務茂兵衛
中務茂兵衛。本名:中司(なかつかさ)亀吉。弘化2年(1845)周防(すおう)国大島郡椋野村 (現山口県久賀町椋野)で生まれた中務茂兵衛は、22歳の時に四国霊場巡礼をはじめ、大正11年(1922)に78歳で亡くなるまで生涯巡礼の旅を続け、実に280回もの巡礼遍路行を行った。四国遍路はおおよそ1,400キロと言うから、高松と東京を往復するくらいの距離である。一周するのに2カ月から3カ月かかるだろうから、1年で5回の遍路行が平均であろうから、280回を5で割ると56年。人生のすべてを遍路行に捧げている。
で、件(くだん)の道標であるが、中務茂兵衛が厄年である42歳のとき、遍路行が88回を数えたことを記念して建立をはじめ、その数250基以上にも及ぶ(230基ほどは確認済、とか)道標のひとつ。
文化遺産としても高く評価されている道標の特徴は、比較的太めの石の四角柱(道標高の平均約124cm)で、必ず建立年月と自らの巡拝回 数を刻んでいる、と
大正橋
道を北に進み御坂川に架かる橋に向かう道へと右に折れる。御坂川(久谷川)に架かる橋は大正橋とあった。
「えひめの記憶」に拠れば、「昭和7年(1932)ごろに遍路した宮尾しげをは、『画と文 四國遍路』の中で、「遍路道は田圃の中を通ってゐる。行く程に小さな川へ出る。向ふ岸に指先のついた遍路石が立ってゐるので、誰もが、その路標石を目當てに川を渡れば、いゝと考へ、バチャバチャ膝っ子位まで濡して渡ってゆく。中には衣類をぬらすまいと、眞裸になって、首へくくりつけて渡ってゆく者もある。28)」と記しており、橋のない時代に遍路が苦労して川を渡っていた様子がうかがえる。なお、かつて御坂川の対岸にあったという手印のついた道標は見当たらない」とある。
道標
橋を渡り、「えひめの記憶」に「遍路道は、大正橋で御坂川を渡り、左折して田んぼ道をしばらく進むと、建立者が米寿を記念して建てた「左へんろみち」と刻まれた道標がある」とする道標を探す。
既に田圃は消え去り、舗装された道と駐車場の間、暗渠のコンクリート蓋の上に道標が見える。「左 へんろみち」「米寿記念 三好孫太郎建立」と刻まれていた。
札始大師堂
道を少し北に進むと「右 札始大師堂」と刻まれた道標がある、なんとなく新しい趣の石標である。道標に従い先に進むと札始大師堂に出合う。「お大師さまお泊り跡」と刻まれた石碑が建つ。
広いお堂は入り口に「四国霊場 遍路開祖 衛門三郎 札始大師度」と書かれた木板があり、堂内で休憩できるようになっていた。今まで結構多くの大師堂に出合ったが、これほどオープンに休憩できるところはなかったように思う。 堂内の御本尊に御参りし少し休憩。
●小村大師堂縁起
堂内に小村大師堂縁起と書かれた案内がある。上述衛門三郎の発心譚とダブルところがあるが、大雑把にまとめておく;
「天長元年(824年)弘法大師が四国を歩かれて、この地予州・上浮穴の郡に来られ川を渡る際に日が暮れてしまい、中州の大松の下で露宿された(この川は慶長年間松山加藤嘉明の家臣足立重信が工事を行い久谷川と重信川となるまで伊予川と呼ばれた)。
折からの大雨による洪水を避ける為に弘法大師は法力でにわか造りの草庵を結ばれ、これを後世に小村に伝わる大師堂と名付けられた。上人はここを仮り宿と定め近傍各地を接化されたとのことである。
ここに荏原の里に衛門三郎という富豪がおり、人々からは強欲非道慳貪邪見の人とののしられていた。上人は一度この富豪を済度(又は相談)せんと門前に立って鉢を乞うたが、乞食として追い払われた。その後も何日か同様な事が続いたが、最後の日衛門三郎は竹箒で上人のもつ鉄鉢に打ちかかったため、鉢は地に落ちて八つに割れ空高く舞い上がった、という。落ちた山を八降山(鉢降山)、破片が地に落ちた窪地を八窪と言う。
が、どうしたことか、その後、衛門三郎の八人の子供が次々と亡くなった。子供の墓を土段原の土をもって造られたという(現在の八ッ塚に合祀されたと伝えられる)。衛門三郎は天をのろい地をのろって苦しんだ。
そして無常を悟ったとき、ふと乞食姿の旅僧のことを思い出した。或いはあのお方が今都で有名な生神様生仏様とあがめられる空海上人ではなかったか、そう思うと、上人は何か自分に相談することがあったのではないかと、思いあがった我が身を反省しながら考えた(上人は当時の伊予川に目をつけたものと思われる。衛門三郎が上人と共に工事をしていたら、衛門川とか三郎川となっていたかもしれない)。
衛門三郎は大勢のものに命じて近傍を探させたが上人は見つからず、彼は決心して家を整理して上人の跡を追うことになった。荷俵を背負い三衣を首に足中草履に杖笠を携えて(今日の遍路姿)上人に面会して行を詫びようと小村の中洲までやって来た。
老松の下の小さな庵に大師像があるのを見て俯仰百拝、ついに一夜を明かした。(この大師尊像は香木の流れたるもので両刀の鎌で御自像を彫られ現在の御本尊の御大師さまである)
翌朝名じるしに名札(木のそぎ)を附記して御跡を尋ねて旅路についたと伝えられる。
大老松は三代目と言われていたが、昭和17年台風で倒れる。伝説の中洲もその時実際に証明された(大戦前の五万分の一の地図には大松のしるしがのっている)。この故に小村の大師堂は大昔から遍路の開祖、衛門三郎札始めの大師と言う」とあった。
八降山は特定できなかったが、八窪はえばら湖の西南端から山道を上ったところに今も御加持水の霊跡(鉢の水大師)としても今も残る。
また説明に「名じるしに名札(木のそぎ)を附記して」とあるが、木を削いで札を作り、自分の名を記して堂に納めたということのようで、これを以て納札の始まりと言われ、ためにこの堂は札始大師堂と呼ばれるようになった、ということだろう。
大宮八幡神社東・三差路の茂兵衛道標から大正橋を渡りこの札始大師堂に進む遍路道の他、三差路から北に直進し「宮の北交差点」まで進み、交差点の電柱に括り付けられ道標から右に分岐し北東に進み上川原橋(当時は無かっただろうが)辺りを通って札始め大師堂に向かう遍路道もあったようだ。電柱に括り付けられた道標は大宮神社参道辺りにあったもの(「えひめの記憶」)とのことである。
県道207号の茂兵衛道標
「えひめの記憶」には「札始大師堂から北にしばらく田畑の中の道を進むと、道端に小さな道標がある。この道標の左を通り畦(あぜ)道や路地を通り抜けて400mほど北に進むと、県道207号と合流し、そこに茂兵衛道標が立っている」とある。
この記事に従い北に進むと「巡拝 右へんろ道」と刻まれた石碑が田の畔脇に立つ。結構新しい。が、その傍に古い道標も残っていた。「右 へんろ」と読める。
田圃の間、民家の間を抜けると県道207号に合流するところに茂兵衛道標が立っていた。手印で八坂寺、→で四十八番 西林寺と示されていた。
「えひめの記憶」にある八坂寺から西林寺へと進む遍路道は、重信川の渡河地点に至るまでには文殊院経由と、「月見大師堂」や「足跡大師堂」経由の二つの遍路道があると遍路道のうち、文殊院経由の道は一旦ここで終え、この地点に合流する、「月見大師堂」や「足跡大師堂」経由の遍路道を辿ることにする、
道標
「えひめの記憶」には「八坂寺の山門を出た遍路道は、参道をまっすぐ進み、八坂寺バス停から自動車修理工場前の三差路を左折して東に100mほど行くと、田んぼの畦(あぜ)に西林寺を案内する道標が立っている」とある。
自動車修理工場らしきものは見当たらない。続けて「この道標から東に100mほど進むと浄瑠璃公園に達し(「えひめの記憶」)とあるので、浄瑠璃公園を探し、そこに続く道筋だろうと見当をつける。八坂バス停から県道194号を少し南に進み、三差路といえば三差路との角を曲がり、田圃脇の道を進むと道標があった。「右 西林寺」と刻まれる。
月見大師堂
道標から東に浄瑠璃公園北を進み、そこから三坂川に注ぐ支流に沿って北に100mほど進むと、道脇に緑に囲まれた月見大師堂がある。比較的新しい造りである。
「えひめの記憶」には、「昭和のはじめころに堂宇が建ち、ご利益を求める参詣者がいたという。しかしその後、信仰がすたれて一坪あまりの場所に石柱と大きな石が残るだけになっていたが、平成6年に地元有志によってお堂が再建され、大きな石碑などが祀(まつ)られている」とあった。
お堂に掲げられた由来によれば。「月見弘法大師の由来 昔おへんろさんが浄瑠璃のある家に泊まっていたとき、月光のさえる中で東のほうに、誰か人が立っているのを見つけたそうです。
何とそれが弘法大師様だったので、おへんろさんは「ああもったいないことじゃ ありがたいこtじゃ」と云って一心におがむと、大師の姿はパッと消えて、そこには丸い満月の形をした石が残っていたそうです。その石には月見弘法大師ときざまれておりました。後のそれが月見大師となり、年々盛んにお祭りがもようされ、縁日には近郷近在からたくさんの参詣者があり、出店もあったそうです(後略)」とあった。
足跡大師堂
月見大師堂前の道を200mほど北に進み、右に折れて御坂川に架かる矢谷橋を渡ると県道207号に出る。合流箇所の直ぐ北に足跡大師堂がある。「えひめの記憶」には「昭和51年(1976)に地元有志によって建てられたこのお堂には、弘法大師がつけたといわれる「足跡石」と、「南無大師遍照金剛」と宝号を刻んだ「姿見の石」が祀られている。
またお堂の横には井戸もあって、昔は近郷の人々がご利益のある湧(わ)き水を汲(く)みに来たり、遍路もお堂をお参りしていたというが、今は嘉永2年(1849)と銘記された手水鉢(ちょうずばち)が昔の面影を残すだけとなり、訪れる人も少ない」とある。
お堂の中には弘法大師の足跡とされる窪みのついた石があるとのことだが、お堂の格子のため、中をしっかり見ることもできず、どれが窪みなのかわからなかった。
また、お堂下の泉は南海地震の際に枯れてしまって、と。Wikipediaには、狭義では南海地震とは1946年(昭和21年)に発生した昭和南海地震を指す名称である[が、広義には安政南海地震や宝永地震(南海トラフのほぼ全域が震源域)など南海道沖を震源域とする歴史地震も含まれるとされる。この場合、どの地震のことなのだろう。
渡辺家邸宅と道標
県道207を少し北に進むと分岐があり、右手の旧県道を800mほど進むと東西に通る道路に出合い、その北側に誠に立派なお屋敷が見える。渡辺家邸宅である。
長屋門に近づくと案内があり、「渡辺家住宅 四棟 (附 棟札四枚 祈祷札一枚塀 四棟 宅地
渡部家は、天保15年(1844年)に南方村(現在の東温市)から松山藩主の意向により3男が入庄屋として分家したことに始まる。以後この地で庄屋を勤めた。
棟札によると、慶応二(1866)上棟である。主屋は一部2階、入母屋造り、四面庇付、本瓦葺で桁行23.1メートル、梁間12メートル、平面関325.04平方メートル、土間上のみ茅葺の越屋根である。
平面は三分され表側は客用、裏側は内用で、中間に小間、階段、産室(さんべや)等がある。表座敷は藩主を迎えるための本格的な書院造となっている。 床壁は土壁に白紙をはった「貼り付け壁」で神前の壁が「ドンデン返し」、屋根裏部屋に通じる「隠し階段」当がある。
これらには武家建築様式がうかがえる梁を幾重にも架けた梁架構等の手法に家の格式が読み取れる大型直屋(すごや)である。
この母屋のほか、表門(長屋門)、米倉、倉も重要文化財に指定されている。 松山市教育委員会」とあった。
「越屋根」は採光、換気、煙出しのため屋根の上に一段高い棟を持つ小屋根のこと、「直屋(すごや)」は「曲屋」に対するもので通常の日本の建物の形態、「産室(さんべや)」はなんとなく想像はできるものの、確認はできなかった。
このお屋敷の東南角に道標があるという。生垣に埋もれ少し見えにくいが道標があった。「嘉永二年」「是より金毘羅街道」といった文字が読める。西から邸宅前まで延びる道路が「讃岐街道」と地図にあるので、往昔の金比羅道の道標かもしれない。
久米街道道標
渡部邸の東に沿って御屋敷を眺めながら北に進むと、左手に分かれる道路との分岐点のお宅の前に道標がある。「久米一里 森松へ一里」と刻まれる。この道標は「久米街道」の道標のようである。「森松へ一里」とは土佐街道(久万道)の森松への近道ということだろうか。
国道11号・久米八幡(日尾八幡)交差点を起点として久谷地区坂本の御坂川に架かる出口橋を終点とする。出口橋で久米街道は土佐街道(久万道)に合流する。土佐街道の詳細は確認していないが、先般の散歩で見た里程標などで推測する限り、この辺りではおおよそ現在の県道194号と考えてもいいかと思う。
道標
更に少し北に進むと民家の生垣に隠れるように自然石の道標がある。「左 遍路道」と刻まれているようだ。「えひめの記憶」では、逆打巡拝の道標とする。
■茂兵衛道標で「文殊院・八つ塚経由の遍路道」と合流■
旧道を進み県道207号に合流し北に進むと、茂兵衛道標にあたる。ここで最初に辿った「文殊院・八つ塚経由の遍路道」と合流することになる。ここからは重信川を越えて西林寺に向かうことになる。
県道23号との交差点に道標
県道207号を北に進み、東西に走る県道23号と交差する民家生垣・石垣に埋め込まれたような道標が見える。「西林寺 約八丁 八坂寺 約三十丁」「森松 上林」などと刻まれた文字が読める。
重信川を渡る
交差点から北は県道40号となった道を進み、重信川に架かる久谷大橋を渡る。 昭和46年(1971)の完成。このあたりは終戦直後まで橋は無かったとのこと。 「えひめの記憶」には「西林寺に向かう遍路は、かつて重信川に橋がなかったころは浅瀬を歩いて渡っていた。円光寺の住職明月は、天明5年(1785)に重信川を渡った様子を、「見るに人跡無し、茫然渡口を辨ぜず。僕之を按じて曰く、南北岸上に各一柳を樹す、斜めに望めば、是れ當に對を為す、必ず道標なり、果たして正路を得、諸人僕の智を嘆ず」と記しており、両岸の柳を目印にして川を横切っていたことがわかる。
重信川の両岸の河原ではかつて多くの遍路が野宿をしていた。(中略)昭和10年(1935)ころには河原に多くの遍路が野宿して、周辺の農家を托(たく)鉢して回っていたという。昭和7年(1932)に重信川を渡った宮尾しげをは、土手の松林から川の瀬を歩いて渡った際に、河原にいる遍路が土鍋で煮炊きしている様子を見て、「林開腹を温めてゐる圖だ」と表現している。
このあたりの重信川の両岸には、遍路宿や接待所もあった。(中略)南高井地区から対岸へは太平洋戦争直後までは橋がなく、遍路に限らず、地元の住民も対岸の大橋町や小村町に行く際には、川の水につかって渡っていたよう(中略)遍路宿(私注;追加編集)は接待所にもなっていて、現温泉郡重信町や川内町の若者連中は、ニナイ(桶)に餅(もち)や米を入れて接待していたようで、遍路から返礼としてもらった納札を、宿の軒先に張り渡した縄に挟み込んでおき、持ち帰って地区の魔除けにしたという」とあった。
茂兵衛道標と道標
久谷大橋を渡り。「えひめの記憶」に「下流の堤防の下に」あると記される道標を探す。下流はわかるが、「堤防下」って?河川敷ではないだろうが、河川敷はパターゴルフ場となっているようで、ちょっと入るのは躊躇う。
と、堤防に沿った道の北、緑の藪の中に石碑が二基見えた。二基の間は通り抜けることができ、そこが遍路道のようである。
茂兵道標には手印による西林寺方向の案内とともに、「是レヨリ金刀比羅へ二十九里余」とも刻まれていた。
もう一基の道標にも「へんろ」とともに「金比羅大権現」との文字が刻まれていた。
遍路墓
二基の道標の間を抜け、松山自動車道の高架下を潜ると、高架下を東西に走る道路と遍路道が交差する箇所に小祠があり、その裏に遍路墓が並ぶ。「えひめの記憶」には、「行き倒れた遍路はお金を持ち合わせていれば、地元の人が銘を刻んで墓標を建てたが、大半の遍路はお金もなく、河原の自然石を墓石にして埋葬されていたという。昭和26年(1951)から重信川の堰堤(えんてい)工事が始まると、この辺一帯の自然石の墓石は河原に埋められてしまい、戒名(かいみょう)のついた墓だけが現在の場所に移された」とあった。
八ガ所大師堂脇の茂兵衛道標
遍路道を進み、真新しい供養塔がある。五体の石仏も立つのだが、何の供養塔か不明。遍路道は県道40号にあたり、道を突き切り先に進む。
合流箇所の八ガ所大師堂脇に茂兵衛道標がある。「淡路津名郡常盤村 / 施主 富田喜代蔵」「四國133度目為供養 / 願主 中務茂兵衛義教」「明治二十六年十二月吉日」などと刻まれる。順路は手印で示されていたが、西林寺の名は刻まれていなかった。
西林寺前の徳右衛門道標
遍路道を進み、県道193号を横切り内川に架かる太鼓橋に。手前にお堂があり「大師堂 番外札所 四国八十八ケ所」とある。
太鼓橋を渡ると北詰、西林寺仁王門の手前に徳右衛門道標がある。「これより浄土寺迄廿五丁」などと刻まれているとのことである。
四十八番札所・西林寺
仁王門を潜り境内に。左に鐘楼、正面に本堂、その右には大師堂。2008年の再建という。案内には「「四国八十八か所の四十八庵番札所である。寺名は清滝山西林寺。本尊は十一面観音菩薩である。
寺伝によると、天平13(741)、僧行基が開山、もと、堂宇はここから東北の地にあった(私注;在の松山市小野播磨塚あたり)、という。大同2(807)年、弘法大師が堂宇をこの地に移したと伝えられている。
江戸時代寂本の著した「四国遍礼霊場記」に、「寺の前に池あり、杖の渕と名づく。むかし大師此処を御杖を以て玉ひければ、水騰して、玉争ひ砕け、練色収まらず。人その端を測る事なし」と書かれている。
旱ばつに悩む村人を助けるために、大師が杖で大地を突いたところ、水が湧きでたという伝説で、清水に恵まれた土地ということで清滝山の山号が付けられたともいわれている。
現在の堂宇は寛永年間(1624-1643)に焼失したのを受けて、松山藩松平第四代藩主定直の時代に再建したものである」とあった。
●子規の句碑
門前には子規の句碑も立つ。「秋風や 高井のていれぎ 三津の鯉」
この句は明治28年(一八九五)の作で、「故郷の?鱸(じゅんろ)くひたしといひし人もありとか」と前書きしてこの句がある。「?鱸」とは「?羹(じゅうこう)・鱸膾(ろかい)」の略で、「じゅんさい(?)の吸物と、すずき(鱸)のなます」のこと。昔、中国の晋の張翰が、秋風が吹きはじめると、故郷のこの料理が食べたくて退官して郷里に帰った故事による言葉。子規の望郷の心があふれている」とある。
だから?「じゅんさい(?)の吸物と、すずき(鱸)」を「ていれぎと鯛」に置き替えて詠んだもの、とのこと。「ていれぎ」はのあたりの清流に自生し、刺身のツマに使われる水草のことのようである。 この句をつくった明治28年(1897)、子規は東京で病床にあり、故郷を想って詠んだ句である。
杖の淵
門前には「名水百選 杖の渕 ここより南西250メートルにある湧水は弘法大師に由来する伝説があり「杖の渕」と呼ばれています。
昭和六十一年一月この杖の渕湧水はきれいな水と豊富な水量ならびに保存活動が評価され、環境庁により日本名水百選に選ばれました」との案内がある。 上述の江戸時代寂本の著した「四国遍礼霊場記」に、「寺の前に池あり、杖の渕と名づく。むかし大師此処を御杖を以て玉ひければ、水騰して、玉争ひ砕け、練色収まらず。人その端を測る事なし」がそれであろうと、足を運ぶ。
成り行きで進む。現在は杖ノ淵公園として整備されていた。湧水池は澄み切った、そして豊富な水量が今も保たれていた。湧水池の西は親水公園風になっており多くの家族連れが水遊びを楽しんでいた。杖ノ淵公園は西林寺奥の院とされている。
これで札所47番八坂寺から48番西林までのふたつの遍路道をカバーした。 次回は西林寺から浄土寺、繁多寺、そして石手寺、太山寺、円明寺へと辿り、いつだったか歩いた花遍路道へと繋ごうと思う。
今回、四国霊場札所四十七番・八坂寺から四十八番西林寺へと遍路道を繋ごうと思うのだが、八坂寺から八ッ塚までは気分も新たに歩き直し、その後は常の如く、「えひめの記憶:愛媛県生涯教育センター」の記事を遍路道指南として道標、御堂を目安に遍路道を辿ることにした。
「えひめの記憶」に拠れば、札所四十七番から四十八番までの距離はそれほど長いものではないのだが、この間の遍路道は大きく分けてふたつあるとのこと。どうせのことなら両方をカバーすることにする。
本日のルート;札所47番・八坂寺へ>里程標>47番札所・八坂寺八坂寺>徳右衛門丁石> ■文殊院経由の遍路道■ 愛媛最古の道標>道標>文殊院>「左八塚道」の石標>八塚古墳>道標>大宮八幡神社東・三差路の茂兵衛道標>大正橋>道標>札始大師堂> (札始大師堂へのバリエーションルート)>県道207号の茂兵衛道標> ■月見大師堂・足跡大師堂経由の遍路道■ 道標>月見大師堂>足跡大師堂>渡辺家邸宅と道標>久米街道道標>道標 ■茂兵衛道標で「文殊院・八つ塚経由の遍路道」と合流■ 県道23号との交差点に道標>重信川を渡る>茂兵衛道標と道標>遍路墓>八ガ所大師堂脇の茂兵衛道標>西林寺前の徳右衛門道標>四十八番札所・西林寺>杖の淵 札所47番・八坂寺へ
実家のある新居浜から国道11号を進み、松山道・川内インター付近で県道23号に乗り換え、西に進み成り行きで県道194号に入り八坂寺へと向かう。
里程標
八坂寺近く、県道194号の道端に「松山札ノ辻より三里」と刻まれた里程標が建つ。結構新しい。レプリカではあろう。松山市内本町三丁目の電停辺り、かつて「札の辻」と称されていた高札場から土佐街道を進む目安とした里程標である。
本来の里程標は、上下に分かれて折れているようで、上半分は先般三坂峠から下るとき、御坂川に架かる窪野橋手前の藪の中に「松山札の辻より四里」と書かれた里程標があったが、その脇に古い石碑があり、それが三里の里程標の上半分であったように思う。
三里の里程標を新しく建てる際、建てるスペースがないということで、下半分がない古い三里・里程標を捨てたとのことだが、それを地元の方が大切に保管していたとのこと。何となく不自然ではあるのだが、これといったエビデンスも見つからないので、ママしておくことにする。また、下半分は個人所有と言う。
里程標から道端の小祠を見遣りながら進むとほどなく、八坂寺の参道にあたる。道を右折し駐車場に車をデポし散歩をはじめる。
47番札所・八坂寺八坂寺
上述の如く、八坂寺から八ッ塚までは先回と同じ遍路道であり、メモは先回の記事をママ掲載する。
白い塗塀の美しい民家の立つ道筋の先に八坂寺。山門前の左手に「手印の道標」、右手にも「三十五丁」と刻まれた道標が立つ。
○宝篋印塔
境内に入り、参道を進むと「宝篋印塔」。案内には「宝篋印塔 過去現在未来にわたる諸仏の全身舎利を奉蔵するために「宝篋印陀羅尼経」を納めた供養塔を宝篋印塔と言い、五輪塔とともに普遍的なものである。
宝篋印塔は平安末期から造立され、基礎(基台)・塔身・笠・相輪からなり、方柱の部分が宝である陀羅尼経を納める塔身である。本塔は190センチメートルで、石質は花崗岩である。笠の四隅の隅飾突起は直立ぎみであり、造立年銘を欠くが、像容、製作技法などが鎌倉様式であるので、鎌倉時代後期末と推定している」とあった。
○句碑
参道を進むと左手に鐘楼。鐘楼の参道逆側には「お遍路の誰もが持てる不仕合わせ」と刻まれた句碑がある。案内によると、明治32年(1899)に松山に生まれ高野山金剛峯寺第406世座主となった高僧の詠んだ句。高浜虚子と知己を得、師事。子供がむなしくなり、四国巡礼の旅に出たとき、「遍路の思いにはそれそれの想いと影があることを想いよんだもの」とあった。俳号森白像。
■縁起
参道を進むと正面に本堂が建つ。境内には左手に大師堂。大師堂と本堂の間には閻魔堂。その左には不動明王像。本堂右手には権現堂、その裏手に十二社権現が建つ。
お寺様の案内には、「四国八十八か所の四十七番札所である。熊野山妙見院と号し、真言宗醍醐寺の寺院である。寺伝によると、600年代に修験道の開祖役行者小角が開山、大宝元(701)年に文武天皇の勅願所として小千(越智)伊予守玉興が七堂伽藍を建てたという。
中世には、紀伊国(和歌山県)から熊野十二所権現を勧請され、熊野山八王寺と呼ばれるようになった。七堂伽藍をはじめ十二の宿坊、四十八の末寺を持つ大寺院で、修験道の根本道場として栄え、隆盛を極めたという。 戦国時代に兵火のため堂宇が灰燼に帰し、後に再興して今の地に移ったと伝えられる。この寺は修験道場のため、住職は代々八坂家の世襲であり、百数十代になるという。
本尊は阿弥陀如来坐像(愛媛県指定有形文化財)で鎌倉時代の恵心僧都源信の作と伝えられる(松山市教育委員会)」とあった。
八坂寺の寺名は、大友山に八箇所の坂を切り開いて修験の伽藍を創建し、かつ、ますます栄える「いやさか(八坂)」に由来する、とのことである。
山門に菊の御紋章があったのは、勅願寺であったためであろうか。また、弘法大師は寺の創建から百余年後の弘仁6年(815)、この寺を訪れ修法し荒廃した寺を再興して霊場と定めたと。
●越智玉興
越智河野氏系図に拠れば、玉興は河野氏の祖とされる越智玉澄の兄で、文武天皇の頃、越智郡大領となる、とある。越智氏に踏み込むのは、ここではちょっと遠慮しておく。
○徳右衛門丁石
ところで、山門横に「三十五丁」と刻まれた道標は「徳右衛門丁石」として知られる。
徳右衛門こと武田徳右衛門は越智郡朝倉村(現在の今治市)、今治平野の内陸部の庄屋の家系に生まれる。天明元年(1781)から寛政四年(1792)までの十一年間に、愛児一男四女を次々と失い、ひとり残った娘のためにも弘法大師の慈悲にすがるべし、との僧の勧めもあり、四国遍路の旅にでる。
その遍路旅は年に3回、10年間続いた。で、遍路旅をする中で、「道しるべ」の必要性を感じ、次の札所までの里数を刻んだ丁石建立を思い立ち、寛政6年(1794)に四国八十八ヶ所丁石建立を発願し、文化4年(1807)に成就した。その数は102基に及ぶとのことである(「えひめの記憶」を参考に概要をまとめる)。 因みに、幾多の遍路道標を建てた人物としては、この武田徳右衛門のほか、江戸時代の大坂寺嶋(現大阪市西区)の真念、明治・大正時代の周防国椋野(むくの)村(現山口県久賀町)の中務茂兵衛が知られる。四国では真念道標は 三十三基、茂兵衛道標は二百三十基余りが確認されている。
■文殊院経由の遍路道■
四国で二番目に古い道標
八坂寺の山門を出ると、道標にすぐ左に折れる。水路に沿って小径を進み、えばら池(土用部池とも)に至る。池端にある「お遍路の里 えばらMAP」で今から訪ねる恵原町の概要を確認。
池の東側から北側の道に回り込みしばらく進み、右手へと分岐する道のある堤防下に「48番西林寺4.1km」と古い自然石。この石は愛媛で最古、四国で2番目に古い道標とのことである。「貞享二年三月吉日」と刻まれた文字と広げた掌。その下に「右 へんろ道」とある。なお、四国最古といわれる道標は、室戸市に「貞享二年二月吉日」建立のものであるという。
道標
道標に従い、池堤下の道から分かれ、左手に諏訪神社を見やりながら田圃の中を進み、県道194号と合流するところ、立派な生垣と瓦のついた白い塗塀に囲まれた民家の脇に手印のついた道標。手印の下には「ぎゃく へんろ道」とはっきりと刻まれている。
文殊院
道標から北に進むと文殊院がある。番外札所ではあるが、いくつかの名所案内に四国遍路の始祖伝説である衛門三郎の物語で知られる寺とあり、ちょっと立ち寄り。境内地は彼の屋敷跡であると伝えられる。
案内に拠ると、「当院は、弘法大師が衛門三郎の子供の供養と共に、悪因縁切の御修法をなさった四国唯一の、有り難いお寺であります。本堂には大師が刻まれたご自身のお姿と延命子育地蔵尊をお祀り、四国遍路元祖、河野衛門三郎の物語が記された、寛正時代の巻物も保存しております。
その昔は徳盛寺と呼ばれていましたが、弘法大師が文殊菩薩様に導かれて逗留された後、文殊院と改められました。
昭和41年松山市久谷町植樹祭の際、天皇皇后両陛下行幸にあたり、故八木繁一博物館館長により、当院を四国八十八ヶ所発祥の地であると言上なさいました。当院の文殊菩薩さまは、お大師さまをお導きなさった知恵の文殊さま(後略)」とあった。
●衛門三郎
「えひめの記憶」を参考にまとめると、衛門三郎は四国遍路の元祖とされる。元祖たる所以は、性悪にして極悪非道であった衛門三郎が弘法大師の霊験に接し発心し、弘法大師を求めて四国遍路の旅を二十一度も辿る、といったもの。 この発心譚 が、元々は、特に弘法大師との関わりはなく邊路を辿り霊場訪ねると言った四国遍路が、中世期に「弘法大師を求めて=大師と共に(同行二人)」と言った弘法大師信仰を核に整備されてゆく四国遍路のモチーフにぴったりあてはまった故ではあろう。
◆衛門三郎の発心譚
伊予国荏原荘(現在の松山市恵原(えばら)町)に住む長者であった衛門三郎。性悪にして、ある日現れた托鉢の乞食僧の八日に渡る再三の喜捨の求めに応じず、あろうことか托鉢の鉢を叩き割る。八つに割れた鉢。その翌日から八日の間に八人の子供がむなしくなる。
子どもをなくしてはじめて己れの性、悪なるを知り、乞食僧こそ弘法大師と想い、己が罪を謝すべく僧のあとを追い四国路を辿る。故郷を捨てて四国路を巡ること二十一度目、阿波国は焼山寺の麓までたどりついたとき、衛門三郎はついに倒れる、と、今わの際に乞食僧・弘法大師が姿を見せる。大師は三郎の罪を許し、伊予の国主河野家の子として生まれかわりたいとの最後の願いを聞き届ける。
三郎を葬るにあたって、大師は彼の左手に「右衛門三郎」と記した小石を握らせた。その後、河野家に一人の男子が生まれ、その子は左手にしっかりと小石を握っており、そこには「右衛門三郎」の文字が記されていた、と。この話は松山市にある石手寺の名前の由来(安養寺から石手寺に変更)ともなり、その石は寺宝となっている、とのことである(「えひめの記憶」を参考にメモ)。
上でメモした「えひめの記憶」では衛門三郎発心譚に、唯一の願いは「河野氏」として生まれかわることとあったが、ここ文殊院では河野衛門三郎と記されていた。
四国遍路を「四国八十八ヵ所霊場」へと組み上げていった真念は、『四国遍礼功徳記』の中でも、「予州浮穴郡右衛門三郎事、四国にていひ伝えかくれなし。貪欲無道にて、遍礼の僧はちをこひしに、たヽかんとしける杖鉢にあたり、鉢を八つにうちわりしが、八人の子八日に頓死せり。是より驚きくやミ発心し、遍礼二十一反して、阿州焼山寺の麓にて死けり。其時大師御あひ、その願をきこしめし、石に其名を書にぎらしめ給ひければ、郡主河野氏の子にむまれ、かのにがりし石、そのまヽ手の内にありて、右衛門三郎なる事をしれり(「えひめの記憶」)」と記しているように、右衛門三郎は河野との姓はなく、所詮右衛門三郎であるのだが、この案内に「河野衛門三郎」とあるのは、伊予の豪族である河野氏の出自を聖ならしめるポリティックスが、効きすぎた結果であろう、か。
「左八塚道」の石標
文殊院から一筋先の四つ角に手印のついた道標。直進方向は「へんろ道 左八塚道」と刻まれる。大正2年(1913)に建てられたもの、とか。八塚道は八つの古墳群があるとのこと。左に折れて「八ッ塚」に向かう。
ちなみに、この道をそのまま直進すれば、道の直ぐ東に荏原城があったのだが、見逃した。
八塚古墳
道を進むと、道脇に塚があり塚の上には木が茂る。塚の前には「文殊院八塚群集古墳」と刻まれた石塔と案内。「ここから西方の松山平野の南丘陵部には、土壇原(どんだばら)、西野、大下田南、釈迦面山等の古墳群が数多くあり、八ツ塚はそれらに続く平野部に位置する八基の群集古墳である。
文殊院所有の、これらの墳丘の形は、後世の開発によって変形しているが、一号・三号・五号・八号墳が円墳、二号・四号・七号墳が方墳である。円墳は直径約七メートルから十四メートル、方墳は一辺十メートルをやや超える程度で、墳丘高はいずれも約一.五メートルから三.五メートルの規模である。石室は未調査だが横穴式石室、時代は古墳時代終末、農業祭祀の歳時墳と考えられている。
この八ツ塚は、四国遍路の元祖といわれる衛門三郎の八人の子供を祀ったとの伝説も残っており、塚には小祠が置かれ、石地蔵が祀られている。古墳と伝説の関係が、いつごろから語り伝えられるようになったのかは、不明である」とあった。
その他の塚は何処に?辺りを見廻すと、塚から北に進む水路沿いの道に木々の繁ったこんもりした塚らしきものが見える。とりあえず北に道を進み、これが古墳?などとちょっと不安になりながらも、先に進むと田圃の中に小さいけれども、如何にも古墳といった塚が幾つか続く。田圃の緑と、そこに浮かび上がる塚の緑とそこに茂る木の緑は誠に美しい。
田圃に沿って古墳を見遣りながら進み、北端にある古墳へと道を回り込み、古墳。というか、ちっちゃな塚に登り景観を楽しむ。
道標
先回は一番北の塚から西に向かい、森松バス停に向かったのだが、今回はここから東に、遍路道を辿ることにする。
「えひめの記憶」にはこの八つ目の塚の近くに道標があると記す。さて、何処だろう?それらしきものを探すと、塚の直ぐ北を東西に通る砂利道があり、その道の北に張られたフェンスに自然石と見まごう道標があった。
「右 へんろ道」と読める。案内に従い道を右に、県道194号方面に進む。
大宮八幡神社東・三差路の茂兵衛道標
県道194号に戻り、北に進むと大宮八幡神社の南を東西に延びる道が県道194号と交差する箇所で、県道から右に分岐する径がある。その三差路に道標が建つ。「左 松山道」と刻まれ、遍路道は手印で示される。
◆中務茂兵衛
中務茂兵衛。本名:中司(なかつかさ)亀吉。弘化2年(1845)周防(すおう)国大島郡椋野村 (現山口県久賀町椋野)で生まれた中務茂兵衛は、22歳の時に四国霊場巡礼をはじめ、大正11年(1922)に78歳で亡くなるまで生涯巡礼の旅を続け、実に280回もの巡礼遍路行を行った。四国遍路はおおよそ1,400キロと言うから、高松と東京を往復するくらいの距離である。一周するのに2カ月から3カ月かかるだろうから、1年で5回の遍路行が平均であろうから、280回を5で割ると56年。人生のすべてを遍路行に捧げている。
で、件(くだん)の道標であるが、中務茂兵衛が厄年である42歳のとき、遍路行が88回を数えたことを記念して建立をはじめ、その数250基以上にも及ぶ(230基ほどは確認済、とか)道標のひとつ。
文化遺産としても高く評価されている道標の特徴は、比較的太めの石の四角柱(道標高の平均約124cm)で、必ず建立年月と自らの巡拝回 数を刻んでいる、と
大正橋
道を北に進み御坂川に架かる橋に向かう道へと右に折れる。御坂川(久谷川)に架かる橋は大正橋とあった。
「えひめの記憶」に拠れば、「昭和7年(1932)ごろに遍路した宮尾しげをは、『画と文 四國遍路』の中で、「遍路道は田圃の中を通ってゐる。行く程に小さな川へ出る。向ふ岸に指先のついた遍路石が立ってゐるので、誰もが、その路標石を目當てに川を渡れば、いゝと考へ、バチャバチャ膝っ子位まで濡して渡ってゆく。中には衣類をぬらすまいと、眞裸になって、首へくくりつけて渡ってゆく者もある。28)」と記しており、橋のない時代に遍路が苦労して川を渡っていた様子がうかがえる。なお、かつて御坂川の対岸にあったという手印のついた道標は見当たらない」とある。
道標
橋を渡り、「えひめの記憶」に「遍路道は、大正橋で御坂川を渡り、左折して田んぼ道をしばらく進むと、建立者が米寿を記念して建てた「左へんろみち」と刻まれた道標がある」とする道標を探す。
既に田圃は消え去り、舗装された道と駐車場の間、暗渠のコンクリート蓋の上に道標が見える。「左 へんろみち」「米寿記念 三好孫太郎建立」と刻まれていた。
札始大師堂
道を少し北に進むと「右 札始大師堂」と刻まれた道標がある、なんとなく新しい趣の石標である。道標に従い先に進むと札始大師堂に出合う。「お大師さまお泊り跡」と刻まれた石碑が建つ。
広いお堂は入り口に「四国霊場 遍路開祖 衛門三郎 札始大師度」と書かれた木板があり、堂内で休憩できるようになっていた。今まで結構多くの大師堂に出合ったが、これほどオープンに休憩できるところはなかったように思う。 堂内の御本尊に御参りし少し休憩。
●小村大師堂縁起
堂内に小村大師堂縁起と書かれた案内がある。上述衛門三郎の発心譚とダブルところがあるが、大雑把にまとめておく;
「天長元年(824年)弘法大師が四国を歩かれて、この地予州・上浮穴の郡に来られ川を渡る際に日が暮れてしまい、中州の大松の下で露宿された(この川は慶長年間松山加藤嘉明の家臣足立重信が工事を行い久谷川と重信川となるまで伊予川と呼ばれた)。
折からの大雨による洪水を避ける為に弘法大師は法力でにわか造りの草庵を結ばれ、これを後世に小村に伝わる大師堂と名付けられた。上人はここを仮り宿と定め近傍各地を接化されたとのことである。
ここに荏原の里に衛門三郎という富豪がおり、人々からは強欲非道慳貪邪見の人とののしられていた。上人は一度この富豪を済度(又は相談)せんと門前に立って鉢を乞うたが、乞食として追い払われた。その後も何日か同様な事が続いたが、最後の日衛門三郎は竹箒で上人のもつ鉄鉢に打ちかかったため、鉢は地に落ちて八つに割れ空高く舞い上がった、という。落ちた山を八降山(鉢降山)、破片が地に落ちた窪地を八窪と言う。
が、どうしたことか、その後、衛門三郎の八人の子供が次々と亡くなった。子供の墓を土段原の土をもって造られたという(現在の八ッ塚に合祀されたと伝えられる)。衛門三郎は天をのろい地をのろって苦しんだ。
そして無常を悟ったとき、ふと乞食姿の旅僧のことを思い出した。或いはあのお方が今都で有名な生神様生仏様とあがめられる空海上人ではなかったか、そう思うと、上人は何か自分に相談することがあったのではないかと、思いあがった我が身を反省しながら考えた(上人は当時の伊予川に目をつけたものと思われる。衛門三郎が上人と共に工事をしていたら、衛門川とか三郎川となっていたかもしれない)。
衛門三郎は大勢のものに命じて近傍を探させたが上人は見つからず、彼は決心して家を整理して上人の跡を追うことになった。荷俵を背負い三衣を首に足中草履に杖笠を携えて(今日の遍路姿)上人に面会して行を詫びようと小村の中洲までやって来た。
老松の下の小さな庵に大師像があるのを見て俯仰百拝、ついに一夜を明かした。(この大師尊像は香木の流れたるもので両刀の鎌で御自像を彫られ現在の御本尊の御大師さまである)
翌朝名じるしに名札(木のそぎ)を附記して御跡を尋ねて旅路についたと伝えられる。
大老松は三代目と言われていたが、昭和17年台風で倒れる。伝説の中洲もその時実際に証明された(大戦前の五万分の一の地図には大松のしるしがのっている)。この故に小村の大師堂は大昔から遍路の開祖、衛門三郎札始めの大師と言う」とあった。
八降山は特定できなかったが、八窪はえばら湖の西南端から山道を上ったところに今も御加持水の霊跡(鉢の水大師)としても今も残る。
また説明に「名じるしに名札(木のそぎ)を附記して」とあるが、木を削いで札を作り、自分の名を記して堂に納めたということのようで、これを以て納札の始まりと言われ、ためにこの堂は札始大師堂と呼ばれるようになった、ということだろう。
□札始大師堂へのバリエーションルート□
県道207号の茂兵衛道標
「えひめの記憶」には「札始大師堂から北にしばらく田畑の中の道を進むと、道端に小さな道標がある。この道標の左を通り畦(あぜ)道や路地を通り抜けて400mほど北に進むと、県道207号と合流し、そこに茂兵衛道標が立っている」とある。
この記事に従い北に進むと「巡拝 右へんろ道」と刻まれた石碑が田の畔脇に立つ。結構新しい。が、その傍に古い道標も残っていた。「右 へんろ」と読める。
田圃の間、民家の間を抜けると県道207号に合流するところに茂兵衛道標が立っていた。手印で八坂寺、→で四十八番 西林寺と示されていた。
■月見大師堂・足跡大師堂経由の遍路道■
道標
「えひめの記憶」には「八坂寺の山門を出た遍路道は、参道をまっすぐ進み、八坂寺バス停から自動車修理工場前の三差路を左折して東に100mほど行くと、田んぼの畦(あぜ)に西林寺を案内する道標が立っている」とある。
自動車修理工場らしきものは見当たらない。続けて「この道標から東に100mほど進むと浄瑠璃公園に達し(「えひめの記憶」)とあるので、浄瑠璃公園を探し、そこに続く道筋だろうと見当をつける。八坂バス停から県道194号を少し南に進み、三差路といえば三差路との角を曲がり、田圃脇の道を進むと道標があった。「右 西林寺」と刻まれる。
月見大師堂
道標から東に浄瑠璃公園北を進み、そこから三坂川に注ぐ支流に沿って北に100mほど進むと、道脇に緑に囲まれた月見大師堂がある。比較的新しい造りである。
「えひめの記憶」には、「昭和のはじめころに堂宇が建ち、ご利益を求める参詣者がいたという。しかしその後、信仰がすたれて一坪あまりの場所に石柱と大きな石が残るだけになっていたが、平成6年に地元有志によってお堂が再建され、大きな石碑などが祀(まつ)られている」とあった。
お堂に掲げられた由来によれば。「月見弘法大師の由来 昔おへんろさんが浄瑠璃のある家に泊まっていたとき、月光のさえる中で東のほうに、誰か人が立っているのを見つけたそうです。
何とそれが弘法大師様だったので、おへんろさんは「ああもったいないことじゃ ありがたいこtじゃ」と云って一心におがむと、大師の姿はパッと消えて、そこには丸い満月の形をした石が残っていたそうです。その石には月見弘法大師ときざまれておりました。後のそれが月見大師となり、年々盛んにお祭りがもようされ、縁日には近郷近在からたくさんの参詣者があり、出店もあったそうです(後略)」とあった。
足跡大師堂
月見大師堂前の道を200mほど北に進み、右に折れて御坂川に架かる矢谷橋を渡ると県道207号に出る。合流箇所の直ぐ北に足跡大師堂がある。「えひめの記憶」には「昭和51年(1976)に地元有志によって建てられたこのお堂には、弘法大師がつけたといわれる「足跡石」と、「南無大師遍照金剛」と宝号を刻んだ「姿見の石」が祀られている。
またお堂の横には井戸もあって、昔は近郷の人々がご利益のある湧(わ)き水を汲(く)みに来たり、遍路もお堂をお参りしていたというが、今は嘉永2年(1849)と銘記された手水鉢(ちょうずばち)が昔の面影を残すだけとなり、訪れる人も少ない」とある。
お堂の中には弘法大師の足跡とされる窪みのついた石があるとのことだが、お堂の格子のため、中をしっかり見ることもできず、どれが窪みなのかわからなかった。
また、お堂下の泉は南海地震の際に枯れてしまって、と。Wikipediaには、狭義では南海地震とは1946年(昭和21年)に発生した昭和南海地震を指す名称である[が、広義には安政南海地震や宝永地震(南海トラフのほぼ全域が震源域)など南海道沖を震源域とする歴史地震も含まれるとされる。この場合、どの地震のことなのだろう。
渡辺家邸宅と道標
県道207を少し北に進むと分岐があり、右手の旧県道を800mほど進むと東西に通る道路に出合い、その北側に誠に立派なお屋敷が見える。渡辺家邸宅である。
長屋門に近づくと案内があり、「渡辺家住宅 四棟 (附 棟札四枚 祈祷札一枚塀 四棟 宅地
渡部家は、天保15年(1844年)に南方村(現在の東温市)から松山藩主の意向により3男が入庄屋として分家したことに始まる。以後この地で庄屋を勤めた。
棟札によると、慶応二(1866)上棟である。主屋は一部2階、入母屋造り、四面庇付、本瓦葺で桁行23.1メートル、梁間12メートル、平面関325.04平方メートル、土間上のみ茅葺の越屋根である。
平面は三分され表側は客用、裏側は内用で、中間に小間、階段、産室(さんべや)等がある。表座敷は藩主を迎えるための本格的な書院造となっている。 床壁は土壁に白紙をはった「貼り付け壁」で神前の壁が「ドンデン返し」、屋根裏部屋に通じる「隠し階段」当がある。
これらには武家建築様式がうかがえる梁を幾重にも架けた梁架構等の手法に家の格式が読み取れる大型直屋(すごや)である。
この母屋のほか、表門(長屋門)、米倉、倉も重要文化財に指定されている。 松山市教育委員会」とあった。
「越屋根」は採光、換気、煙出しのため屋根の上に一段高い棟を持つ小屋根のこと、「直屋(すごや)」は「曲屋」に対するもので通常の日本の建物の形態、「産室(さんべや)」はなんとなく想像はできるものの、確認はできなかった。
このお屋敷の東南角に道標があるという。生垣に埋もれ少し見えにくいが道標があった。「嘉永二年」「是より金毘羅街道」といった文字が読める。西から邸宅前まで延びる道路が「讃岐街道」と地図にあるので、往昔の金比羅道の道標かもしれない。
久米街道道標
渡部邸の東に沿って御屋敷を眺めながら北に進むと、左手に分かれる道路との分岐点のお宅の前に道標がある。「久米一里 森松へ一里」と刻まれる。この道標は「久米街道」の道標のようである。「森松へ一里」とは土佐街道(久万道)の森松への近道ということだろうか。
国道11号・久米八幡(日尾八幡)交差点を起点として久谷地区坂本の御坂川に架かる出口橋を終点とする。出口橋で久米街道は土佐街道(久万道)に合流する。土佐街道の詳細は確認していないが、先般の散歩で見た里程標などで推測する限り、この辺りではおおよそ現在の県道194号と考えてもいいかと思う。
道標
更に少し北に進むと民家の生垣に隠れるように自然石の道標がある。「左 遍路道」と刻まれているようだ。「えひめの記憶」では、逆打巡拝の道標とする。
■茂兵衛道標で「文殊院・八つ塚経由の遍路道」と合流■
県道23号との交差点に道標
県道207号を北に進み、東西に走る県道23号と交差する民家生垣・石垣に埋め込まれたような道標が見える。「西林寺 約八丁 八坂寺 約三十丁」「森松 上林」などと刻まれた文字が読める。
重信川を渡る
交差点から北は県道40号となった道を進み、重信川に架かる久谷大橋を渡る。 昭和46年(1971)の完成。このあたりは終戦直後まで橋は無かったとのこと。 「えひめの記憶」には「西林寺に向かう遍路は、かつて重信川に橋がなかったころは浅瀬を歩いて渡っていた。円光寺の住職明月は、天明5年(1785)に重信川を渡った様子を、「見るに人跡無し、茫然渡口を辨ぜず。僕之を按じて曰く、南北岸上に各一柳を樹す、斜めに望めば、是れ當に對を為す、必ず道標なり、果たして正路を得、諸人僕の智を嘆ず」と記しており、両岸の柳を目印にして川を横切っていたことがわかる。
重信川の両岸の河原ではかつて多くの遍路が野宿をしていた。(中略)昭和10年(1935)ころには河原に多くの遍路が野宿して、周辺の農家を托(たく)鉢して回っていたという。昭和7年(1932)に重信川を渡った宮尾しげをは、土手の松林から川の瀬を歩いて渡った際に、河原にいる遍路が土鍋で煮炊きしている様子を見て、「林開腹を温めてゐる圖だ」と表現している。
このあたりの重信川の両岸には、遍路宿や接待所もあった。(中略)南高井地区から対岸へは太平洋戦争直後までは橋がなく、遍路に限らず、地元の住民も対岸の大橋町や小村町に行く際には、川の水につかって渡っていたよう(中略)遍路宿(私注;追加編集)は接待所にもなっていて、現温泉郡重信町や川内町の若者連中は、ニナイ(桶)に餅(もち)や米を入れて接待していたようで、遍路から返礼としてもらった納札を、宿の軒先に張り渡した縄に挟み込んでおき、持ち帰って地区の魔除けにしたという」とあった。
茂兵衛道標と道標
久谷大橋を渡り。「えひめの記憶」に「下流の堤防の下に」あると記される道標を探す。下流はわかるが、「堤防下」って?河川敷ではないだろうが、河川敷はパターゴルフ場となっているようで、ちょっと入るのは躊躇う。
と、堤防に沿った道の北、緑の藪の中に石碑が二基見えた。二基の間は通り抜けることができ、そこが遍路道のようである。
茂兵道標には手印による西林寺方向の案内とともに、「是レヨリ金刀比羅へ二十九里余」とも刻まれていた。
もう一基の道標にも「へんろ」とともに「金比羅大権現」との文字が刻まれていた。
遍路墓
二基の道標の間を抜け、松山自動車道の高架下を潜ると、高架下を東西に走る道路と遍路道が交差する箇所に小祠があり、その裏に遍路墓が並ぶ。「えひめの記憶」には、「行き倒れた遍路はお金を持ち合わせていれば、地元の人が銘を刻んで墓標を建てたが、大半の遍路はお金もなく、河原の自然石を墓石にして埋葬されていたという。昭和26年(1951)から重信川の堰堤(えんてい)工事が始まると、この辺一帯の自然石の墓石は河原に埋められてしまい、戒名(かいみょう)のついた墓だけが現在の場所に移された」とあった。
八ガ所大師堂脇の茂兵衛道標
遍路道を進み、真新しい供養塔がある。五体の石仏も立つのだが、何の供養塔か不明。遍路道は県道40号にあたり、道を突き切り先に進む。
合流箇所の八ガ所大師堂脇に茂兵衛道標がある。「淡路津名郡常盤村 / 施主 富田喜代蔵」「四國133度目為供養 / 願主 中務茂兵衛義教」「明治二十六年十二月吉日」などと刻まれる。順路は手印で示されていたが、西林寺の名は刻まれていなかった。
西林寺前の徳右衛門道標
遍路道を進み、県道193号を横切り内川に架かる太鼓橋に。手前にお堂があり「大師堂 番外札所 四国八十八ケ所」とある。
太鼓橋を渡ると北詰、西林寺仁王門の手前に徳右衛門道標がある。「これより浄土寺迄廿五丁」などと刻まれているとのことである。
四十八番札所・西林寺
仁王門を潜り境内に。左に鐘楼、正面に本堂、その右には大師堂。2008年の再建という。案内には「「四国八十八か所の四十八庵番札所である。寺名は清滝山西林寺。本尊は十一面観音菩薩である。
寺伝によると、天平13(741)、僧行基が開山、もと、堂宇はここから東北の地にあった(私注;在の松山市小野播磨塚あたり)、という。大同2(807)年、弘法大師が堂宇をこの地に移したと伝えられている。
江戸時代寂本の著した「四国遍礼霊場記」に、「寺の前に池あり、杖の渕と名づく。むかし大師此処を御杖を以て玉ひければ、水騰して、玉争ひ砕け、練色収まらず。人その端を測る事なし」と書かれている。
旱ばつに悩む村人を助けるために、大師が杖で大地を突いたところ、水が湧きでたという伝説で、清水に恵まれた土地ということで清滝山の山号が付けられたともいわれている。
現在の堂宇は寛永年間(1624-1643)に焼失したのを受けて、松山藩松平第四代藩主定直の時代に再建したものである」とあった。
●子規の句碑
門前には子規の句碑も立つ。「秋風や 高井のていれぎ 三津の鯉」
この句は明治28年(一八九五)の作で、「故郷の?鱸(じゅんろ)くひたしといひし人もありとか」と前書きしてこの句がある。「?鱸」とは「?羹(じゅうこう)・鱸膾(ろかい)」の略で、「じゅんさい(?)の吸物と、すずき(鱸)のなます」のこと。昔、中国の晋の張翰が、秋風が吹きはじめると、故郷のこの料理が食べたくて退官して郷里に帰った故事による言葉。子規の望郷の心があふれている」とある。
だから?「じゅんさい(?)の吸物と、すずき(鱸)」を「ていれぎと鯛」に置き替えて詠んだもの、とのこと。「ていれぎ」はのあたりの清流に自生し、刺身のツマに使われる水草のことのようである。 この句をつくった明治28年(1897)、子規は東京で病床にあり、故郷を想って詠んだ句である。
杖の淵
門前には「名水百選 杖の渕 ここより南西250メートルにある湧水は弘法大師に由来する伝説があり「杖の渕」と呼ばれています。
昭和六十一年一月この杖の渕湧水はきれいな水と豊富な水量ならびに保存活動が評価され、環境庁により日本名水百選に選ばれました」との案内がある。 上述の江戸時代寂本の著した「四国遍礼霊場記」に、「寺の前に池あり、杖の渕と名づく。むかし大師此処を御杖を以て玉ひければ、水騰して、玉争ひ砕け、練色収まらず。人その端を測る事なし」がそれであろうと、足を運ぶ。
成り行きで進む。現在は杖ノ淵公園として整備されていた。湧水池は澄み切った、そして豊富な水量が今も保たれていた。湧水池の西は親水公園風になっており多くの家族連れが水遊びを楽しんでいた。杖ノ淵公園は西林寺奥の院とされている。
これで札所47番八坂寺から48番西林までのふたつの遍路道をカバーした。 次回は西林寺から浄土寺、繁多寺、そして石手寺、太山寺、円明寺へと辿り、いつだったか歩いた花遍路道へと繋ごうと思う。
コメントする