前職での監査役K氏から奈良・山の辺の道を歩きませんか、とのお誘い。奈良といえば、「山の辺の道」とか「竹内街道」は以前から名前だけは知っており、そのうち歩いてみたいと思っていた街道であり、即答で諾、と。
段取りはすべてK氏にお任せ。宿の手配から歩くルートまですべてK元監査役にお世話になった。それではと、道すがらの名所・旧跡などについて事前に調べれば少しはお役に立つかとも思うのだが、如何せん、実際に歩くまでは、よほどの険路・難所以外は事前に調べる気にならない「性分」である。それゆえ後の祭りもおおいのだが、今回も常のスタイル。実際に歩いて、何らかの「フック」がかかれば、それから調べよう、といったものであり、ルートも前泊の奈良のホテルでK元監査役から地図をもらい、はじめてわかった、といった為体(ていたらく)であった。
「山の辺の道」って「青山四周(よもめぐ)る」奈良を囲む、東の「畳なづく青垣」である大和高原の裾を、奈良から桜井まで進む道であることも奈良のホテルでの打ち合わせではじめてわかったこと。その山の辺の道を、今回の散歩では、天理市の石上神宮(いそのかみ)から桜井市の三輪山の山裾にある大神(おおみわ)神社まで歩くという。距離はおおよそ12キロから14キロ程度だろうか。
その時は山の辺の道の始まりの社、そして終点の社、また、途中に、これでもかというほど登場する、ヤマト王権のはじまりの頃の大王の古墳といった「古代史の謎」のど真ん中を歩くことなど夢にも思わず、山麓の小径をのんびり、ゆったり歩くといった想いではあった。
で、山の辺の道を歩いた後、さて散歩のメモを、と思うのだが、古代史にそれほどフックがかからない我が身には、少々荷が重い。始まりの石上神宮(いそのかみ)は「謎の物部氏」ゆかりの社であり、終わりの三輪山・大神神社(おおみわ)は、これまた謎多き「大物主・大国主」を祀る社、その途中に、思いもよらずの巨大古墳群が現れる。
高松塚古墳とか箸墓古墳くらいは知っていたのだが、奈良の大和高原の裾にこれほど多くの古墳があることを初めて知り、奈良の古代史といえば、飛鳥(明日香)宮>藤原京>平城京といった程度のお気楽な古代史の知識を一から整理しなければならなくなった。山の辺の道って、大和朝廷に繋がる古代ヤマト王権の地を辿る道であったわけである。
ことほど左様に、神話や歴史のレイヤーが幾重にも積み重なる古代史の迷路を解きほぐして、自分なりに納得できる散歩のメモが書けるとも思えない。気持ちは、今回の散歩メモはパスしたいのだが、「歩く・見る・書く」を基本としているわけで、それはならじと、気持ちを入れ替えて、お題が「謎からはじまり謎の地を辿り謎で終る」散歩であるので、あまり知らないヤマトの古代史をちょっとだけ覗いて。頭の整理をするにはいい機会かと、メモをはじめることにした。
本日のルート;石上神宮>高蘭子歌碑>阿波野青畝歌碑>僧正遍照歌碑>白山神社>大日十天不動明王の石標>芭蕉歌碑>内山永久寺跡>十市 遠忠歌碑>白山神社>天理観光農園>(東乗鞍古墳>夜都伎神社>竹之内環濠集落>「古事記・日本書記・万葉集」の案内>「大和古墳群」の案内>波多子塚古墳>柿本人麻呂の歌碑>西山塚古墳>萱生環濠集落>大神宮常夜灯>五社神社>手白香皇女衾田陵>燈籠山古墳>念仏寺>中山大塚古墳>大和神社の御旅所>歯定(はじょう)神社>柿本人麻呂歌碑>長岳寺>歴史的風土特別保存地区(祟神・景行天皇陵)>祟神天皇陵>櫛山古墳>作者不詳の歌碑>武田無涯子歌碑>景行天皇陵>天理市から桜井市穴師に入る>額田女王歌碑>柿本人麻呂歌碑>柿本人麻呂歌碑>桧原神社>前川佐美雄歌碑>高市皇子歌碑>玄賓庵>神武天皇歌碑>伊須気余理比売の歌碑>狭井川>三島由紀夫・「清明」の碑>狭井神社>磐座神社>大神(おおみわ)神社
近鉄奈良駅
前泊のホテルのある近鉄奈良駅近くのホテルでK元監査役と待ち合わせ。K元監査役は東海道、中山道、奥州街道などを歩き倒した猛者であるが、私は東海道の鈴鹿峠越え、中山道の碓井峠越え、和田峠越えなどをご一緒した。 トラックの排ガスを吸いこみながら国道を歩いたK元監査役には、常に「いいとこ取り」と言われるが、それでも峠を一人で歩くのは心細げで、それなりにお役に立ってはいるようである。
それはともあれ、ホテルで地図を広げ翌日のルートの説明を受ける。K元監査役も、その日のうちに東京に戻る必要があり、私も散歩を終えて、そのまま田舎の愛媛に戻る関係上、奈良からはじまり桜井まで続く山の辺道のうち、途中の天理市の石上神宮から桜井市の三輪山裾・大神(おおみわ)神社までとすることになった。
また、出発時間は余裕をもたすため、少し早めのJR奈良駅発7時31分、天理駅着7時47分。そして終了時間は3時をデッドラインとし、途中であってもその時間で切り上げることを基本とした。その時点では翌日待ち構える「謎」の数々など思いもよらず、お気楽に就寝した。
JR天理駅
予定通り7時47分にJR桜井線・天理駅に到着。K元監査役の希望もあり、駅から出発点の石上神宮まではタクシーを利用する。
タクシーの窓からは天理教の巨大な施設が続く。市の名前が私的団体に由来するのは、トヨタの豊田市と、この天理市のふたつだけ、とのことである。 で、何故にこの地に天理教が?天理教の教祖が江戸末期、この地、大和国山辺郡庄屋敷村(現在の奈良県天理市三島町)の庄屋の妻であったとのことであった。
タクシーは石上神宮前バス停の少し先、県道51号・布留交差点で下りる。緩やかな上り坂道の先に、緑の大和高原の支尾根が突き出ている。石上神宮の森ではあろう。
石上神宮
その緩やかな坂道を布留川を渡り、5分ほど進むと「石上神宮」と書かれた石柱と石灯籠がある。ここが参道入口。参道を進むと鳥居があり、その傍に歌碑があり、「柿本朝臣人麻呂 未通女等之 袖振山乃 水垣之 久時従 憶寸吾者」と刻まれる。
●柿本人麻呂の歌碑
「未通女等(おとめら)が 袖布留山(そでふるやま)の 瑞垣(みずかき)の 久しき時ゆ 思ひきわれは」と詠むようだ。昭和43年(1968)に建立された万葉歌碑であり、石材は後ほど訪れる内山永久寺跡の敷石が活用されたようである。 意味は「おとめ達が愛しき思いで袖を振る、布留山の社の瑞垣が神代の昔から続くように、長い年月私はあなたを恋い続けている」と言ったところだろうか。 「未通女等(おとめら)が 袖」までは地名「布留」を起こすための「序詞」であり、「振る>布留」と掛けて、石上神宮の鎮座する「布留山」を起こし、布留山の瑞垣に繋げている。また、「未通女等が 袖布留山の 瑞垣の」までのフレーズもまた、「久し」を引き出す序詞となっており、要は、「袖振る」で恋愛感情を想起させながら、「(神代の昔から続く)布留山の瑞垣」のように誠に長い年月、あなたを想い続けている。ということだろう。
◆布留山
で、ここで幾つかフックがかかる。まずは石上神社の鎮座する山が「布留山」と呼ばれたということ。大和高原の龍王山の西の麓、標高266mの山であり、山中には岩石からなる磐座(いわくら)がある、とのこと。神代の昔、山自体を神体とする神奈備山であったのだろう。
◆瑞垣
また、神代の昔からあったとされる「瑞垣」とは?チェックすると、石神神宮の拝殿の後方に、石上神宮の中で最も神聖な霊域とされている「禁足地」があり、その禁足地の周りを囲んでいる石垣根が「瑞垣」とのこと。神体山の祭祀をおこなった霊域とのことである。
●神杉
大鳥居を越えた参道脇に注連縄の張られた巨大な杉がある。幹囲り4m強、樹齢は400年前後、高さは40m弱にもなる、と言う。社の御神木である。人麻呂も社に茂る神杉を、「石上 布留の神杉 神さびし 恋をも我は 更にするかも」と詠む。「石上神宮の神杉のような神々しい恋をさせてほしい」といった意味かとも。
また、万葉集には作者不詳ではあるが、「石上 布留の神杉 神びにし 我れやさらさら 恋にあひにける」といった歌もある。「久しく恋とは無縁の生活(神びにし)を送っていた年を取った自分が、また恋に出会ってしまった」との解釈もあるようだ。歌の意味はともあれ、石上神宮の神杉が神奈備山ならではの「神々しい・恐れ多い」といったイメージをもつものだったのだろう。
●鶏
歌碑のチェックや神杉のチェックで、石上神宮のことが少しわかってきた。もとより、当日はそんなこと知るよしもなく、歌碑や杉の老木の写真を撮っただけではある。
参道を進む。と、参道を闊歩する長い鶏が目につく。石上神社の眷属だろうか。 眷属と言えば、お稲荷さんは狐、天神さんは牛、春日大社は鹿、日吉神社は猿、熊野大社は烏、三峰神社は狼、といった程度は知っていたのだが、チェックすると伊勢神宮も天の岩戸の長鳴鳥に由来する鶏が眷属とのこと。が、石上神社に鶏が闊歩しはじめたのはそんなに古いことでもないようで、「眷属」とまではなっていないような記事が多かった。
楼門
参道脇の手水舎で身を浄め、参道左手に建つ楼門より石上神宮の社に入る。鎌倉末期、後醍醐天皇の御世である文保2年(1318)の建立。重要文化財に指定されている。入母屋造・檜皮葺の美しい建物である、当初は鐘楼門であったようだが、明治の神仏分離令により鐘は取り外された
●入母屋
Wikipediaに拠れば、入母屋造とは、屋根が「上部においては切妻造(長辺側から見て前後2方向に勾配をもつ)、下部においては寄棟造(前後左右四方向へ勾配をもつ)となる構造をもつ」建物のこと。また、続いて、「日本においては古来より切妻屋根は寄棟屋根より尊ばれ、その組み合わせである入母屋造はもっとも格式が高い形式として重んじられた」とあった。
拝殿
楼門を入ると正面に拝殿が建つ。入母屋造 檜皮葺の美しい建物である。母屋(建物)の周囲には庇(ひさし)を巡らし、正面中央には向拝(江戸時代に増築)がついている。
建造は平安末期、白河天皇が五所の建物を移したとの言い伝えがあるも、建築様式からして鎌倉時代初期とされる。拝殿建築としては最も古い時期のものとされ、国宝に指定されている。
●拝殿が神奈備山・布留山に向かっていない?
拝殿にお参りしながら、ちょっと疑問。拝殿が神奈備山である布留山に向かっていない。これってなんだろう?この疑問は参道を進み、参道の正面ではなく、楼門を潜るため左に折れたときから感じていたことでもある。
何か拝殿の由緒に関する案内でもないものかと、あちこち見るも、それらしきものは見つからなかった。当日は、疑問のままにしておいたのだが、メモをする段階であれこれチェックすると、いくつか「妄想」のヒントになる事柄が見えてきた。
◆禁足地
既に人麻呂の歌碑のところで、「拝殿の後方に、石上神宮の中で最も神聖な霊域とされている「禁足地」があり、その禁足地の周りを囲んでいる石垣根が「瑞垣」と」とメモした。「布留社」とも称する。
現在は拝殿の後ろに本殿が建つが、それは明治7年(1874)に行われた禁足地の発掘調査により出土した、「布都御魂剣(ふつみたまのつるぎ)」などの神宝を祀るために、大正2年(1913年)に建てられたものとのことである。
◆布都御魂剣
で、その「布都御魂剣」であるが、石上神宮はその「布都御魂剣」に宿る「布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)」をその祭神とする。そして、その「布都御魂剣」は『日本書記』に、物部氏の租とされる神話上の神・饒速日命(ニギハヤヒ)と神武天皇の戦いの中に登場し、途中は省くが、結果的には饒速日命(ニギハヤヒ)の子である宇摩志麻治命(ウマシマジノミコト)が神剣・「布都御魂剣」を授かり、ヤマト王権(このメモをするまで「大和朝廷」と思っていたのだが、初期の頃は「ヤマト王権」、「ヤマト大王家」と称するようだ)の宮中にて奉祀することになる。
その後、祟神朝の頃(3世紀から4世紀にかけての時期)、伊香色雄命(イカガシコオノミコト)が、山辺郡の石上邑に建布都大神(たけふつのおおかみ;『日本書記』には経津主神(ふつぬし)、『古事記』では建御雷之男神とされる)を遷し、石上大神を創建。神剣・「布都御魂剣」は物部氏の氏神としたこの社に祀られることになった(『大和の豪族と渡来人;吉川弘文館(加藤謙吉)』)、と言う。
◆神奈備山信仰から戦の神への信仰に?
それでは、何故に神体山に向かうことなく、拝殿が建つのか、ということだが、これからは単なる妄想;元は神体山の祭祀の場として布留山に向き、物部氏(の先祖達)、そして物部氏の天孫(侵攻)以前にこの地を開いた人々も、神奈備山を祀っていたのではなかろうか。参道も現在の大きな参道ルートとは異なり、布留川を渡り社へと続いていたようだ(『大和・飛鳥考古学散歩;伊達宗泰(学生社)』)。
が、上でメモしたように、祟神朝の頃、「布都御魂剣」が石上大神と号した物部氏の氏神に「布都御魂大神」として祀られて以降、神奈備の布留山を祀るより、ヤマト王権の戦の死命を制する神宝である「布都御魂剣」の神を祀る方に重点が移り、鎌倉期に拝殿が造られた時には、神奈備山に頓着することなく、現在のような配置となったのではなかろうか、と。
◆物部氏の氏神・石上神宮は武器庫でもあった
実際、ヤマト王権にて武具の製造や管理を担うことになった物部氏に祭祀されたこの社は、ヤマト王権の武器庫ともされていたようだ。平安初期に武器を京都に移すに際し、武器の数が膨大で、運搬の人員に15万7千余人を要したと『日本書紀』にある(実際は中止となったようだ)。
また、物部氏は単に武器の管理を担うだけでなく、初期のヤマト王権・祟神天皇の先兵としてその軍事をもって王権確立に貢献し、後世、雄略天皇の時期に大王直属の軍事力を組織し、軍事力で奈良盆地に割拠する豪族を支配し、更には奈良の外へと王権の拡大に寄与したようである。
妄想をまとめるとすれば、ヤマト王権・王朝の拡大につれ、豊な山とそこから流れ出す水といった、神奈備の山への自然信仰より、動乱に勝利する武器・戦いの神へと、祭祀の主体が映った結果が神奈備山の布留山に拝殿が対していない要因かも。単なる妄想。根拠なし。
●物部氏と饒速日命(ニギハヤヒ)
「布都御魂剣」をチェックしながら、物部氏とその物部の祖にあたる饒速日命(ニギハヤヒノミコト)が結構気になった。『日本書紀』に「及至饒速日命乗天磐船。而翔行太虚也。睨是郷而降之。故因目之曰虚空見日本国矣」とある。 「饒速日命が天磐船(あめのいはふね)に乗(の)り、太虚(おほぞら)を翔行し、是(こ)の郷(くに)を睨(おほ)りて降(あまくだ)りたまふに及至(いた)りて、故(かれ)、因りて目(なづ)けて、「 虚空見(そらみ)つ日本(やまと)の国(くに) 」と曰(い)ふ」といった意味である。
◆饒速日命は神武天皇より先にヤマトに降臨(侵攻)
このフレーズの前提は、「東に美しき地(くに)あり 青山四周(よもめぐ)れり」と奈良盆地がミヤコにふさわしいとは思うのだが、このフレーズにあるように、その地には既に饒速日命(ニギハヤヒノミコト)が降臨し、日本(ヤマト)と名付けている、と「神武天皇」が教えられている、ということ。 この場合のヤマトとは広義の奈良盆地を指すのではなく、北は布留川から南は初瀬川に挟まれた大和高原の南東部裾野を指すようではあるが、それはともあれ、ポイントは神武天皇のヤマト降臨(侵攻)より先に饒速日命(ニギハヤヒノミコト)が降臨(侵攻)しているということである。
◆軍事力に勝る饒速日命は何故に、神武天皇に恭順したのだろう?
そして、それ以上に、なんとも解せないのは、先住の饒速日命勢は軍事的には神武勢を圧倒しているように思えるのだが、神武天皇に禅譲というか恭順していることである。その理由は?わからない。さっぱりわからない。
わからないが、唯一自分なりに納得できる解釈は、饒速日命は神武天皇にとって,軍事力では倒すことの出来ない存在、連盟・同盟関係を結ぶことによって神武天皇がヤマトに「入れる」存在であったことを、この神話が暗示しているのではないだろうか。要するに、天孫族って、降臨(侵攻)当初は、武力でもって先住豪族を支配できる力を持っていなかった、ということだろう。
◆大王家の祭祀を物部氏が担う?何故?
神話では続けて、饒速日命(ニギハヤヒ)の子である宇摩志麻治命(ウマシマジノミコト)が神剣・「布都御魂剣」を授かり、宮中にて奉祀することになる、とする。神剣=軍事力を暗示しながらも、ヤマト王権の祭祀を担うといった重要な位置を担うことになる。
この神話を「歴史?」に置き換えると、神武天皇=祟神天皇と比定されることが多い。ということは、饒速日命>宇摩志麻治命=物部氏が祟神天皇に協力し、初期のヤマト王権においては、その軍事力を背景に王家の祭祀権までも委ねられている、ということだろう。
実際、天皇の即位儀礼に物部氏の儀式がその中核となっている、と言う。宮中で旧暦11月におこなわれてきた鎮魂祭(たましずめのまつり)で「一二三四五六七八九十」(ひふみよいむなやこと)と唱えて、そのあとに「布瑠部由良由良止布瑠部」(ふるべゆらゆらとふるべ)と呪詞を加える儀式があると言うが、これは「物部の呪術」と同じフレーズとのことである。
◆国史に天皇家の正当性を減じる物部氏の租のエピソードを何故入れる?
それはそれとして、『古事記』、『日本書紀』は8世紀前半、律令体制を核にして中央集権国家をつくりあげようとする持統天皇・藤原不比等による国史である。そこに神話時代では、天孫族の降臨という天皇家の正当性を減ずるような、饒速日命のもうひとつの天孫降臨のエピソードを入れる理由、武力平定とは縁遠い神武勢の非力さ、また歴史時代(?)では神宝である神剣の祭祀を委ね、天皇の即位儀式さえ差配する物部氏のエピソードをこれほどまで盛り込む理由は何なのだろう?
◆天皇家も無視できなかった物部氏の軍事力?
初期のヤマト王権から大和朝廷に至るまで、王権・朝廷を支えた物部氏の軍事力は国史編纂の8世紀になっても無視することができなかったのだろうか? 初期のヤマト王権がヤマトに降臨(侵攻)した頃、奈良盆地には天理から桜井にかけてのヤマトの本貫地を支配する物部氏の他、北の奈良には和邇(わに)氏、南西の柏原には大伴・蘇我氏・羽田・巨勢氏、葛城山麓には葛城氏、北西の平群谷には平群氏といった豪族が割拠していたようだ。
その豪族達は、あるいはヤマト王権に平定され、また、あるいはヤマト王権の内紛に敗者側の大王につくことによりその勢を失う。初期のヤマト王権において大王と両頭政権と称あされる葛城氏も含め、奈良盆地の豪族は雄略天皇の時期(5世紀中頃?)にほとんどが滅亡する。
その大乱の中、雄略天皇を軍事面で支えたのが物部氏と大伴氏。しかし大伴氏も継体天皇の頃(6世紀前半?)には力を失い、結局豪族の中で国史編纂の頃まで有力な勢を持ち「生き残った」のが物部氏だけ、のようである。
◆国史編纂の頃まで「生き残った」物部氏
ヤマト王権の軍事面を担い、各地に兵を動かし平定するなど、強力な軍事力を保持した物部氏が8世紀になっても未だその威を示したとする以下のエピソードがある;「ますらをの鞆(とも)の音(ね)すなり もののふの大臣(おほまへつきみ)楯立つらしも」という歌があるが、これは元明天皇が藤原京から平城京に遷都する和銅3年(710)、旧都に置き去りにされた物部氏(石上朝臣麻呂)の鳴らす弓の弦、楯を立てる音(軍事的デモンストレーション)に元明天皇が怯えているとの意味とも言う。この時期になっても物部氏の軍事力を王権が無視できなかった、と言う。
以上、饒速日命と神武、物部氏と祟神天皇のアナロジーで妄想を進めてきた。妄想をまとめると、初期のヤマト王権の時代から、国史編纂の頃まで生き残った唯一の氏族であり、国史編纂の頃でも無視し得ない「力」を持っていた物部氏故の、神話における物部氏先祖である饒速日命の天孫族の一支流といった扱いのように思える。唯、余りの特別待遇に、少々のイクスキューズが必要と感じたのか、祟神天王の妃は饒速日命の後裔といった系譜を創り上げているのが、如何にも作為的で面白い。
◆「饒速日命・物部氏」のエピソードは奈良の先住豪族を一括りにしたもの?
と、ここまで饒速日命と神武、物部氏と祟神天皇についてあれこれ妄想をしてきたのだが、物部氏が有力な軍事勢力としてヤマト王権に貢献したのは雄略天皇の頃、と言う。とすれば、以上の饒速日命・物部氏のエピソードって、ひょっとしたら、天孫族が大和に降臨(侵攻)し、ヤマト王権から大和朝廷へと発展する過程において同盟・連合し、そして消えて行った奈良の先住豪族を「物部氏」に一括にまとめ、神話として創り上げているようにも思えてきた。
ヤマト王権は、当初先住豪族との連盟・協調によりはじまり、武力でもって豪族を支配できるようになったのは雄略天皇の頃から、と言うから、神武の饒速日命とのエピソードも、そう考えれば、なんとなくわかるような気にたってきた。素人の妄想。根拠なし。
◆歴史のIF
そして最後に。国史が編纂された8世紀頃から、物部氏もその勢を失い始める。6世紀後半に、蘇我氏との抗争に敗れ物部守屋が戦死し、物部氏は没落するも、その後を継いだのが、この石上神宮の辺りを本拠とした物部の一族が石上氏として桓武天皇の頃まで朝廷に影響力を残すも9世紀前半には政権中央から姿を消すことになる。ということは、国史編纂がもう少し遅ければ、神話に物部氏にまつわるエソードが書かれることはなかったのだろうか?
◆物部という名の疑問
あれこれと古代史に不案内の素人の妄想をメモした。ところで、いままで「物部」と簡単に書いて来たのだが、『大和の豪族と渡来人;加藤謙吉(吉川弘文館)』に拠れば、物部とは部制の名称。「物部」と称する部制が記録上に現れるのは継体天皇の頃というから、5世紀の中頃以降のことである。3世紀から4世紀ともと想定される祟神朝の頃には未だ「物部」という部制はなかったかとも思うのだが、「物部氏」はその頃どのように呼ばれていたのだろう? 大伴氏も伴造(とものみやつこ)の長を意味する大伴と称される前は来目氏と称したとも聞く。物部氏も場所から考えて「大三輪」、「倭」とでも称していたのだろうか。古代史の門外漢の素朴な疑問とする。
摂社
散歩当日は、石上神宮に関する由緒なども見つからず、10分も経たず拝殿を離れたのだが、常の如く、メモの段になってあれこれと気になることが登場し、頭の整理に結構時間がかかった。
とっとと先に向かおうと拝殿を出ると参道を隔てて石段があり、そこを登ると摂社である天神社、七座社、出雲建雄神社、猿田彦神社が祀られる。ここでまたもや、「足止め」となってしまった。
●天神社と七座社
石段を上ったところに天神社と七座社。案内には「摂社 天神社【てんじんしゃ】(西面)御祭神; 高皇産霊神【たかみむすびのかみ】 神皇産霊神【かみむすびのかみ】
七座社【ななざしゃ】(北面)
御祭神;生産霊神【いくむすびのかみ】 足産霊神【たるむすびのかみ】 魂留産霊神【たまつめむすびのかみ】 大宮能売神【おおみやのめのかみ】 御膳都神【みけつかみ】 辞代主神【ことしろぬしのかみ】 大直日神【おおなおびのかみ】
由緒 右二社ハ生命守護ノ大神等ニ坐ス古来当宮鎮魂祭関係深キヲ以テ上古ヨリ鎮座シ給フ所ナリ」とあった。
二社で鎮魂祭を司る、と。チェックすると、天皇家には天皇の健康を護る鎮魂八神が祀られ、その神々がこの二社に祀られた大直日神【おおなおびのかみ】以外の神とのこと。更に、この八神に、七座社に祀られた、禍(わざわい)や穢(けがれ)を改め直す大直日神を加えた9神により、宮中にて新嘗祭前日に鎮魂の祭祀が行われるようである。
●天照がいない?
ところで、天皇家と言えば=天照、と思い浮かべる天照大神がこのラインアップに登場しない。チェックすると、「古代に天照大神が宮中に祀られたことはなく、『日本書紀』の記す伝承では天照大神は崇神天皇(第10代)の時に宮廷外に出されたとしている(現在の伊勢神宮)。通説では、実際に天照大神が朝廷の最高神に位置づけられるのは7世紀後半以降であり、それ以前の最高神は高皇産霊尊(高御産日神)であったとされる。このことから、7世紀末頃に高皇産霊尊は宮中に、天照大神は伊勢に住み分けたとする説もある」とWikipediaにあった。
へえ、そうなんだ、との想い。天神さまとは、後世の菅原道真でないことは言うまでもない。
出雲建雄神社
七座社の横に出雲建雄神社。案内には「摂社 出雲建雄神社【いずもたけお】 式内社 御祭神 出雲建雄神【いずもたけおのかみ】
由緒;出雲建雄神ハ草薙ノ剣ノ御霊ニ坐ス今ヲ去ルコト千三百余年前天武天皇朱鳥元年布留川上日ノ谷ニ瑞雲立チ上ル中神剣光ヲ放チテ現レ「今此地ニ天降リ諸ノ氏人ヲ守ラムト」宣リ給ヒ即チニ鎮座シ給フ」とある。
ささやかな社であるが、延喜式にも記載のある式内社と言うから、誠に古い歴史をもつ社である。また、祭神は神剣・草薙ノ剣に宿す出雲建雄神とのこと。草薙ノ剣って、素戔嗚が十拳剣を振るって八岐大蛇を退治した時、八岐大蛇の尾から取り出した剣と伝わる。
その剣は天照に献上され、その後、第12代景行天皇の子である日本武尊が東征に際し、この草薙ノ剣を渡されるも、尾張で娶った妻に預けたまま伊吹山でむなしくなる。そして妻が祀ったところが愛知の熱田神宮のはじまりとされる。
この案内に拠れば、天武天皇の御世、-朱鳥元年(686年))の時代、この地に神剣が下ったとされる。Wikipediaに拠ると、皇室の三種の神器とされるこの草薙ノ剣は、「熱田神宮に祀られていたが、天智天皇の時代(668年)、新羅人による盗難にあい、一時的に宮中で保管された。天武天皇の時代、天武天皇が病に倒れると、占いにより神剣の祟りだという事で再び熱田神宮へ戻された」とあった。
Wikipediaでは天武天皇の時代に神剣の祟りと熱田神宮に戻したとあり、この社の案内では天武天皇の御世、この地に神剣が下ったとある。ちょっと矛盾しているように思えるのだが?
それでは、出雲建雄神を祀る社に関する、何かの手がかりが無いものかと、ここ以外の出雲建雄神を祀る社をチェックすると、三輪山の南を流れる初瀬川を遡った奈良市藺生町にある葛神社と、さらに奥に入った奈良市都祁(つげ)白石の雄神神社の祭神が出雲建雄神となっており、全国にはこの二社と石上神社の摂社以外に出雲建雄神を祀る社はないようだ。
出雲建雄神は水神様?
葛神社は、元は出雲建雄神社と称されていたようで、初瀬川の水源地に近いこの地の水の神として祀られているようである。一方、都祁(つげ)白石の雄神神社は「三輪さんの奥の院」と称される山を神体とした自然信仰の形態を残す社。雄神神社が鎮座する辺りは水湧庄とも呼び、近くに都祁水分神社(みくまり。注;都祁水分神社は奈良盆地に流れ込む大和川水系ではなく、木津川水系ではあるが)もある。どうも二社ともその性格は、水分の神(「神名の通り、水の分配を司る神である。「くまり」は「配り(くばり)」の意で、水源地や水路の分水点などに祀られる(Wikipedia)」)。
で、この石上神社の出雲建雄神社であるが、エピソードに布留川の上流の日ノ谷に現れている。これも単なる妄想ではあるが、布留川の水の神、神体山から流れ出る命の源、田畑を潤す灌漑用水として水を祀る「水分の神」といったもののように思える。
神話には日本武尊にだまし討ちにあった出雲建という人物が登場するので、その人物ゆかりの社かとも思ったのだが、あまり関係はないようだ。なお、江戸時代には素戔嗚命が八岐大蛇を退治した「布都御魂剣」を祀るのが石上神宮で、その八岐大蛇の尾から取り出したのが草薙ノ剣。その草薙ノ剣に宿る神が出雲建雄神ということで、この社が石上神宮の「若宮」とされていた、ようである。
●水分神社(みくまり)
私のお気に入りの本の一冊に『日本人はどのように国土をつくったか;上田篤他(学芸出版社)』という本がある。その中に「秋津洲の山と神々(奈良盆地はいかにつくられたか)」という章があり、そこに水分神社の解説がある。
大雑把にまとめると、奈良盆地に流れる幾多の小河川はすべて大和川に合わさり、ひとつの流れとなって奈良盆地を出て河内平野に流れ出る。その大和川に注ぐ支流は流量が乏しく、年間を通じての供給量も不安定であった。その要因は、瀬戸内式気候もさることながら、「青山四周(よもめぐ)れり」と形容される、奈良盆地を囲む山稜は奈良盆地側の分水界が狭く、保水能力が乏しいことにある。
そのためか、大和の川(大和川、木津川、紀の川)の上流には、水を豊かに分かち与えてくれる水分神社が祀られている。これらの神社は『延喜式』の祝詞に奏上されるほど重視された社であった、と言う。
その水分神社と称する社の中で、大和川水系の水分神社は葛城川上流の葛城水分神社のみであるが、奈良盆地を囲む山麓地帯にある山口神社と呼ばれる社が14社ほどあり、その山口神社も水分神社とされる。山口に座す神は、勢いよく水を下し落とされる神であり、田畑を潤す灌漑用水をもたらす神故の命名であるとする。
大和盆地に割拠した古代豪族も水分神社のある場所を拠点としている。当然のことだろう。古代自然信仰として神奈備山を祀ったとされるが、山とは水を生み出す源であり、神奈備山を祀るということは、山の神であり、同時に水の神である神体山を祀るということではないだろうか。流量が少なく、それも季節によって流量が不安定な土地柄故に、水分神が奈良盆地では重要視されたように思える。
出雲建雄神社拝殿
出雲建雄神社の西、神奈備の布留山に向かって拝殿遥拝するように、誠にエレガントな拝殿が建つ。拝殿は建物が二つに分かれており、その中を通り抜けられるようになっている。割拝殿という建築様式とのこと。他ではあまり見られない珍しい様式国宝に指定されている建築で、とのことだが、元来は内山永久寺(うちやまえいきゅうじ)の鎮守の住吉社の拝殿であったとのこと。内山永久寺は後ほど訪れることになるが、鳥羽(とば)天皇の永久年間(1113~18)に創建された大寺院であったが、神仏分離令により明治9年に廃絶。鎮守社の住吉社はだけは残っていたが、その住吉社の本殿も明治23年に放火によって焼失し、荒廃したまま残されていた拝殿を大正3年に現在地に移築したとのことである。
当日はさらっと通り過ぎた石上神宮であるが、メモの段階であれこれ疑問が現れ、結構メモが長くなった。で、ある程度は自分なりに納得した、とは言うものの、そのソースは上に引用した3冊の書籍と、松岡正剛さんのWEB「松岡正剛の千夜千冊」の「1209夜 物部氏の正体(関祐二)のスキミング・スキャニングから得ただけのものである。 喧々諤々の議論がある古代史、古代史に興味のある方にとっては笑止千万のメモかとも思うが、所詮は山の辺の道を散歩したついでの戯言。単なる好奇心からのメモと御承知ください。
山の辺の散歩のメモではあるが、スタート地点の石上神宮のメモで力尽きた。次回は石上神宮のから離れ、山の辺の道を辿るメモとする。
段取りはすべてK氏にお任せ。宿の手配から歩くルートまですべてK元監査役にお世話になった。それではと、道すがらの名所・旧跡などについて事前に調べれば少しはお役に立つかとも思うのだが、如何せん、実際に歩くまでは、よほどの険路・難所以外は事前に調べる気にならない「性分」である。それゆえ後の祭りもおおいのだが、今回も常のスタイル。実際に歩いて、何らかの「フック」がかかれば、それから調べよう、といったものであり、ルートも前泊の奈良のホテルでK元監査役から地図をもらい、はじめてわかった、といった為体(ていたらく)であった。
「山の辺の道」って「青山四周(よもめぐ)る」奈良を囲む、東の「畳なづく青垣」である大和高原の裾を、奈良から桜井まで進む道であることも奈良のホテルでの打ち合わせではじめてわかったこと。その山の辺の道を、今回の散歩では、天理市の石上神宮(いそのかみ)から桜井市の三輪山の山裾にある大神(おおみわ)神社まで歩くという。距離はおおよそ12キロから14キロ程度だろうか。
その時は山の辺の道の始まりの社、そして終点の社、また、途中に、これでもかというほど登場する、ヤマト王権のはじまりの頃の大王の古墳といった「古代史の謎」のど真ん中を歩くことなど夢にも思わず、山麓の小径をのんびり、ゆったり歩くといった想いではあった。
で、山の辺の道を歩いた後、さて散歩のメモを、と思うのだが、古代史にそれほどフックがかからない我が身には、少々荷が重い。始まりの石上神宮(いそのかみ)は「謎の物部氏」ゆかりの社であり、終わりの三輪山・大神神社(おおみわ)は、これまた謎多き「大物主・大国主」を祀る社、その途中に、思いもよらずの巨大古墳群が現れる。
高松塚古墳とか箸墓古墳くらいは知っていたのだが、奈良の大和高原の裾にこれほど多くの古墳があることを初めて知り、奈良の古代史といえば、飛鳥(明日香)宮>藤原京>平城京といった程度のお気楽な古代史の知識を一から整理しなければならなくなった。山の辺の道って、大和朝廷に繋がる古代ヤマト王権の地を辿る道であったわけである。
ことほど左様に、神話や歴史のレイヤーが幾重にも積み重なる古代史の迷路を解きほぐして、自分なりに納得できる散歩のメモが書けるとも思えない。気持ちは、今回の散歩メモはパスしたいのだが、「歩く・見る・書く」を基本としているわけで、それはならじと、気持ちを入れ替えて、お題が「謎からはじまり謎の地を辿り謎で終る」散歩であるので、あまり知らないヤマトの古代史をちょっとだけ覗いて。頭の整理をするにはいい機会かと、メモをはじめることにした。
本日のルート;石上神宮>高蘭子歌碑>阿波野青畝歌碑>僧正遍照歌碑>白山神社>大日十天不動明王の石標>芭蕉歌碑>内山永久寺跡>十市 遠忠歌碑>白山神社>天理観光農園>(東乗鞍古墳>夜都伎神社>竹之内環濠集落>「古事記・日本書記・万葉集」の案内>「大和古墳群」の案内>波多子塚古墳>柿本人麻呂の歌碑>西山塚古墳>萱生環濠集落>大神宮常夜灯>五社神社>手白香皇女衾田陵>燈籠山古墳>念仏寺>中山大塚古墳>大和神社の御旅所>歯定(はじょう)神社>柿本人麻呂歌碑>長岳寺>歴史的風土特別保存地区(祟神・景行天皇陵)>祟神天皇陵>櫛山古墳>作者不詳の歌碑>武田無涯子歌碑>景行天皇陵>天理市から桜井市穴師に入る>額田女王歌碑>柿本人麻呂歌碑>柿本人麻呂歌碑>桧原神社>前川佐美雄歌碑>高市皇子歌碑>玄賓庵>神武天皇歌碑>伊須気余理比売の歌碑>狭井川>三島由紀夫・「清明」の碑>狭井神社>磐座神社>大神(おおみわ)神社
近鉄奈良駅
前泊のホテルのある近鉄奈良駅近くのホテルでK元監査役と待ち合わせ。K元監査役は東海道、中山道、奥州街道などを歩き倒した猛者であるが、私は東海道の鈴鹿峠越え、中山道の碓井峠越え、和田峠越えなどをご一緒した。 トラックの排ガスを吸いこみながら国道を歩いたK元監査役には、常に「いいとこ取り」と言われるが、それでも峠を一人で歩くのは心細げで、それなりにお役に立ってはいるようである。
それはともあれ、ホテルで地図を広げ翌日のルートの説明を受ける。K元監査役も、その日のうちに東京に戻る必要があり、私も散歩を終えて、そのまま田舎の愛媛に戻る関係上、奈良からはじまり桜井まで続く山の辺道のうち、途中の天理市の石上神宮から桜井市の三輪山裾・大神(おおみわ)神社までとすることになった。
また、出発時間は余裕をもたすため、少し早めのJR奈良駅発7時31分、天理駅着7時47分。そして終了時間は3時をデッドラインとし、途中であってもその時間で切り上げることを基本とした。その時点では翌日待ち構える「謎」の数々など思いもよらず、お気楽に就寝した。
JR天理駅
予定通り7時47分にJR桜井線・天理駅に到着。K元監査役の希望もあり、駅から出発点の石上神宮まではタクシーを利用する。
タクシーの窓からは天理教の巨大な施設が続く。市の名前が私的団体に由来するのは、トヨタの豊田市と、この天理市のふたつだけ、とのことである。 で、何故にこの地に天理教が?天理教の教祖が江戸末期、この地、大和国山辺郡庄屋敷村(現在の奈良県天理市三島町)の庄屋の妻であったとのことであった。
タクシーは石上神宮前バス停の少し先、県道51号・布留交差点で下りる。緩やかな上り坂道の先に、緑の大和高原の支尾根が突き出ている。石上神宮の森ではあろう。
石上神宮
その緩やかな坂道を布留川を渡り、5分ほど進むと「石上神宮」と書かれた石柱と石灯籠がある。ここが参道入口。参道を進むと鳥居があり、その傍に歌碑があり、「柿本朝臣人麻呂 未通女等之 袖振山乃 水垣之 久時従 憶寸吾者」と刻まれる。
●柿本人麻呂の歌碑
「未通女等(おとめら)が 袖布留山(そでふるやま)の 瑞垣(みずかき)の 久しき時ゆ 思ひきわれは」と詠むようだ。昭和43年(1968)に建立された万葉歌碑であり、石材は後ほど訪れる内山永久寺跡の敷石が活用されたようである。 意味は「おとめ達が愛しき思いで袖を振る、布留山の社の瑞垣が神代の昔から続くように、長い年月私はあなたを恋い続けている」と言ったところだろうか。 「未通女等(おとめら)が 袖」までは地名「布留」を起こすための「序詞」であり、「振る>布留」と掛けて、石上神宮の鎮座する「布留山」を起こし、布留山の瑞垣に繋げている。また、「未通女等が 袖布留山の 瑞垣の」までのフレーズもまた、「久し」を引き出す序詞となっており、要は、「袖振る」で恋愛感情を想起させながら、「(神代の昔から続く)布留山の瑞垣」のように誠に長い年月、あなたを想い続けている。ということだろう。
◆布留山
で、ここで幾つかフックがかかる。まずは石上神社の鎮座する山が「布留山」と呼ばれたということ。大和高原の龍王山の西の麓、標高266mの山であり、山中には岩石からなる磐座(いわくら)がある、とのこと。神代の昔、山自体を神体とする神奈備山であったのだろう。
◆瑞垣
また、神代の昔からあったとされる「瑞垣」とは?チェックすると、石神神宮の拝殿の後方に、石上神宮の中で最も神聖な霊域とされている「禁足地」があり、その禁足地の周りを囲んでいる石垣根が「瑞垣」とのこと。神体山の祭祀をおこなった霊域とのことである。
●神杉
大鳥居を越えた参道脇に注連縄の張られた巨大な杉がある。幹囲り4m強、樹齢は400年前後、高さは40m弱にもなる、と言う。社の御神木である。人麻呂も社に茂る神杉を、「石上 布留の神杉 神さびし 恋をも我は 更にするかも」と詠む。「石上神宮の神杉のような神々しい恋をさせてほしい」といった意味かとも。
また、万葉集には作者不詳ではあるが、「石上 布留の神杉 神びにし 我れやさらさら 恋にあひにける」といった歌もある。「久しく恋とは無縁の生活(神びにし)を送っていた年を取った自分が、また恋に出会ってしまった」との解釈もあるようだ。歌の意味はともあれ、石上神宮の神杉が神奈備山ならではの「神々しい・恐れ多い」といったイメージをもつものだったのだろう。
●鶏
歌碑のチェックや神杉のチェックで、石上神宮のことが少しわかってきた。もとより、当日はそんなこと知るよしもなく、歌碑や杉の老木の写真を撮っただけではある。
参道を進む。と、参道を闊歩する長い鶏が目につく。石上神社の眷属だろうか。 眷属と言えば、お稲荷さんは狐、天神さんは牛、春日大社は鹿、日吉神社は猿、熊野大社は烏、三峰神社は狼、といった程度は知っていたのだが、チェックすると伊勢神宮も天の岩戸の長鳴鳥に由来する鶏が眷属とのこと。が、石上神社に鶏が闊歩しはじめたのはそんなに古いことでもないようで、「眷属」とまではなっていないような記事が多かった。
楼門
参道脇の手水舎で身を浄め、参道左手に建つ楼門より石上神宮の社に入る。鎌倉末期、後醍醐天皇の御世である文保2年(1318)の建立。重要文化財に指定されている。入母屋造・檜皮葺の美しい建物である、当初は鐘楼門であったようだが、明治の神仏分離令により鐘は取り外された
●入母屋
Wikipediaに拠れば、入母屋造とは、屋根が「上部においては切妻造(長辺側から見て前後2方向に勾配をもつ)、下部においては寄棟造(前後左右四方向へ勾配をもつ)となる構造をもつ」建物のこと。また、続いて、「日本においては古来より切妻屋根は寄棟屋根より尊ばれ、その組み合わせである入母屋造はもっとも格式が高い形式として重んじられた」とあった。
拝殿
楼門を入ると正面に拝殿が建つ。入母屋造 檜皮葺の美しい建物である。母屋(建物)の周囲には庇(ひさし)を巡らし、正面中央には向拝(江戸時代に増築)がついている。
建造は平安末期、白河天皇が五所の建物を移したとの言い伝えがあるも、建築様式からして鎌倉時代初期とされる。拝殿建築としては最も古い時期のものとされ、国宝に指定されている。
●拝殿が神奈備山・布留山に向かっていない?
拝殿にお参りしながら、ちょっと疑問。拝殿が神奈備山である布留山に向かっていない。これってなんだろう?この疑問は参道を進み、参道の正面ではなく、楼門を潜るため左に折れたときから感じていたことでもある。
何か拝殿の由緒に関する案内でもないものかと、あちこち見るも、それらしきものは見つからなかった。当日は、疑問のままにしておいたのだが、メモをする段階であれこれチェックすると、いくつか「妄想」のヒントになる事柄が見えてきた。
◆禁足地
既に人麻呂の歌碑のところで、「拝殿の後方に、石上神宮の中で最も神聖な霊域とされている「禁足地」があり、その禁足地の周りを囲んでいる石垣根が「瑞垣」と」とメモした。「布留社」とも称する。
現在は拝殿の後ろに本殿が建つが、それは明治7年(1874)に行われた禁足地の発掘調査により出土した、「布都御魂剣(ふつみたまのつるぎ)」などの神宝を祀るために、大正2年(1913年)に建てられたものとのことである。
◆布都御魂剣
で、その「布都御魂剣」であるが、石上神宮はその「布都御魂剣」に宿る「布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)」をその祭神とする。そして、その「布都御魂剣」は『日本書記』に、物部氏の租とされる神話上の神・饒速日命(ニギハヤヒ)と神武天皇の戦いの中に登場し、途中は省くが、結果的には饒速日命(ニギハヤヒ)の子である宇摩志麻治命(ウマシマジノミコト)が神剣・「布都御魂剣」を授かり、ヤマト王権(このメモをするまで「大和朝廷」と思っていたのだが、初期の頃は「ヤマト王権」、「ヤマト大王家」と称するようだ)の宮中にて奉祀することになる。
その後、祟神朝の頃(3世紀から4世紀にかけての時期)、伊香色雄命(イカガシコオノミコト)が、山辺郡の石上邑に建布都大神(たけふつのおおかみ;『日本書記』には経津主神(ふつぬし)、『古事記』では建御雷之男神とされる)を遷し、石上大神を創建。神剣・「布都御魂剣」は物部氏の氏神としたこの社に祀られることになった(『大和の豪族と渡来人;吉川弘文館(加藤謙吉)』)、と言う。
◆神奈備山信仰から戦の神への信仰に?
それでは、何故に神体山に向かうことなく、拝殿が建つのか、ということだが、これからは単なる妄想;元は神体山の祭祀の場として布留山に向き、物部氏(の先祖達)、そして物部氏の天孫(侵攻)以前にこの地を開いた人々も、神奈備山を祀っていたのではなかろうか。参道も現在の大きな参道ルートとは異なり、布留川を渡り社へと続いていたようだ(『大和・飛鳥考古学散歩;伊達宗泰(学生社)』)。
が、上でメモしたように、祟神朝の頃、「布都御魂剣」が石上大神と号した物部氏の氏神に「布都御魂大神」として祀られて以降、神奈備の布留山を祀るより、ヤマト王権の戦の死命を制する神宝である「布都御魂剣」の神を祀る方に重点が移り、鎌倉期に拝殿が造られた時には、神奈備山に頓着することなく、現在のような配置となったのではなかろうか、と。
◆物部氏の氏神・石上神宮は武器庫でもあった
実際、ヤマト王権にて武具の製造や管理を担うことになった物部氏に祭祀されたこの社は、ヤマト王権の武器庫ともされていたようだ。平安初期に武器を京都に移すに際し、武器の数が膨大で、運搬の人員に15万7千余人を要したと『日本書紀』にある(実際は中止となったようだ)。
また、物部氏は単に武器の管理を担うだけでなく、初期のヤマト王権・祟神天皇の先兵としてその軍事をもって王権確立に貢献し、後世、雄略天皇の時期に大王直属の軍事力を組織し、軍事力で奈良盆地に割拠する豪族を支配し、更には奈良の外へと王権の拡大に寄与したようである。
妄想をまとめるとすれば、ヤマト王権・王朝の拡大につれ、豊な山とそこから流れ出す水といった、神奈備の山への自然信仰より、動乱に勝利する武器・戦いの神へと、祭祀の主体が映った結果が神奈備山の布留山に拝殿が対していない要因かも。単なる妄想。根拠なし。
●物部氏と饒速日命(ニギハヤヒ)
「布都御魂剣」をチェックしながら、物部氏とその物部の祖にあたる饒速日命(ニギハヤヒノミコト)が結構気になった。『日本書紀』に「及至饒速日命乗天磐船。而翔行太虚也。睨是郷而降之。故因目之曰虚空見日本国矣」とある。 「饒速日命が天磐船(あめのいはふね)に乗(の)り、太虚(おほぞら)を翔行し、是(こ)の郷(くに)を睨(おほ)りて降(あまくだ)りたまふに及至(いた)りて、故(かれ)、因りて目(なづ)けて、「 虚空見(そらみ)つ日本(やまと)の国(くに) 」と曰(い)ふ」といった意味である。
◆饒速日命は神武天皇より先にヤマトに降臨(侵攻)
このフレーズの前提は、「東に美しき地(くに)あり 青山四周(よもめぐ)れり」と奈良盆地がミヤコにふさわしいとは思うのだが、このフレーズにあるように、その地には既に饒速日命(ニギハヤヒノミコト)が降臨し、日本(ヤマト)と名付けている、と「神武天皇」が教えられている、ということ。 この場合のヤマトとは広義の奈良盆地を指すのではなく、北は布留川から南は初瀬川に挟まれた大和高原の南東部裾野を指すようではあるが、それはともあれ、ポイントは神武天皇のヤマト降臨(侵攻)より先に饒速日命(ニギハヤヒノミコト)が降臨(侵攻)しているということである。
◆軍事力に勝る饒速日命は何故に、神武天皇に恭順したのだろう?
そして、それ以上に、なんとも解せないのは、先住の饒速日命勢は軍事的には神武勢を圧倒しているように思えるのだが、神武天皇に禅譲というか恭順していることである。その理由は?わからない。さっぱりわからない。
わからないが、唯一自分なりに納得できる解釈は、饒速日命は神武天皇にとって,軍事力では倒すことの出来ない存在、連盟・同盟関係を結ぶことによって神武天皇がヤマトに「入れる」存在であったことを、この神話が暗示しているのではないだろうか。要するに、天孫族って、降臨(侵攻)当初は、武力でもって先住豪族を支配できる力を持っていなかった、ということだろう。
◆大王家の祭祀を物部氏が担う?何故?
神話では続けて、饒速日命(ニギハヤヒ)の子である宇摩志麻治命(ウマシマジノミコト)が神剣・「布都御魂剣」を授かり、宮中にて奉祀することになる、とする。神剣=軍事力を暗示しながらも、ヤマト王権の祭祀を担うといった重要な位置を担うことになる。
この神話を「歴史?」に置き換えると、神武天皇=祟神天皇と比定されることが多い。ということは、饒速日命>宇摩志麻治命=物部氏が祟神天皇に協力し、初期のヤマト王権においては、その軍事力を背景に王家の祭祀権までも委ねられている、ということだろう。
実際、天皇の即位儀礼に物部氏の儀式がその中核となっている、と言う。宮中で旧暦11月におこなわれてきた鎮魂祭(たましずめのまつり)で「一二三四五六七八九十」(ひふみよいむなやこと)と唱えて、そのあとに「布瑠部由良由良止布瑠部」(ふるべゆらゆらとふるべ)と呪詞を加える儀式があると言うが、これは「物部の呪術」と同じフレーズとのことである。
◆国史に天皇家の正当性を減じる物部氏の租のエピソードを何故入れる?
それはそれとして、『古事記』、『日本書紀』は8世紀前半、律令体制を核にして中央集権国家をつくりあげようとする持統天皇・藤原不比等による国史である。そこに神話時代では、天孫族の降臨という天皇家の正当性を減ずるような、饒速日命のもうひとつの天孫降臨のエピソードを入れる理由、武力平定とは縁遠い神武勢の非力さ、また歴史時代(?)では神宝である神剣の祭祀を委ね、天皇の即位儀式さえ差配する物部氏のエピソードをこれほどまで盛り込む理由は何なのだろう?
◆天皇家も無視できなかった物部氏の軍事力?
初期のヤマト王権から大和朝廷に至るまで、王権・朝廷を支えた物部氏の軍事力は国史編纂の8世紀になっても無視することができなかったのだろうか? 初期のヤマト王権がヤマトに降臨(侵攻)した頃、奈良盆地には天理から桜井にかけてのヤマトの本貫地を支配する物部氏の他、北の奈良には和邇(わに)氏、南西の柏原には大伴・蘇我氏・羽田・巨勢氏、葛城山麓には葛城氏、北西の平群谷には平群氏といった豪族が割拠していたようだ。
その豪族達は、あるいはヤマト王権に平定され、また、あるいはヤマト王権の内紛に敗者側の大王につくことによりその勢を失う。初期のヤマト王権において大王と両頭政権と称あされる葛城氏も含め、奈良盆地の豪族は雄略天皇の時期(5世紀中頃?)にほとんどが滅亡する。
その大乱の中、雄略天皇を軍事面で支えたのが物部氏と大伴氏。しかし大伴氏も継体天皇の頃(6世紀前半?)には力を失い、結局豪族の中で国史編纂の頃まで有力な勢を持ち「生き残った」のが物部氏だけ、のようである。
◆国史編纂の頃まで「生き残った」物部氏
ヤマト王権の軍事面を担い、各地に兵を動かし平定するなど、強力な軍事力を保持した物部氏が8世紀になっても未だその威を示したとする以下のエピソードがある;「ますらをの鞆(とも)の音(ね)すなり もののふの大臣(おほまへつきみ)楯立つらしも」という歌があるが、これは元明天皇が藤原京から平城京に遷都する和銅3年(710)、旧都に置き去りにされた物部氏(石上朝臣麻呂)の鳴らす弓の弦、楯を立てる音(軍事的デモンストレーション)に元明天皇が怯えているとの意味とも言う。この時期になっても物部氏の軍事力を王権が無視できなかった、と言う。
以上、饒速日命と神武、物部氏と祟神天皇のアナロジーで妄想を進めてきた。妄想をまとめると、初期のヤマト王権の時代から、国史編纂の頃まで生き残った唯一の氏族であり、国史編纂の頃でも無視し得ない「力」を持っていた物部氏故の、神話における物部氏先祖である饒速日命の天孫族の一支流といった扱いのように思える。唯、余りの特別待遇に、少々のイクスキューズが必要と感じたのか、祟神天王の妃は饒速日命の後裔といった系譜を創り上げているのが、如何にも作為的で面白い。
◆「饒速日命・物部氏」のエピソードは奈良の先住豪族を一括りにしたもの?
と、ここまで饒速日命と神武、物部氏と祟神天皇についてあれこれ妄想をしてきたのだが、物部氏が有力な軍事勢力としてヤマト王権に貢献したのは雄略天皇の頃、と言う。とすれば、以上の饒速日命・物部氏のエピソードって、ひょっとしたら、天孫族が大和に降臨(侵攻)し、ヤマト王権から大和朝廷へと発展する過程において同盟・連合し、そして消えて行った奈良の先住豪族を「物部氏」に一括にまとめ、神話として創り上げているようにも思えてきた。
ヤマト王権は、当初先住豪族との連盟・協調によりはじまり、武力でもって豪族を支配できるようになったのは雄略天皇の頃から、と言うから、神武の饒速日命とのエピソードも、そう考えれば、なんとなくわかるような気にたってきた。素人の妄想。根拠なし。
◆歴史のIF
そして最後に。国史が編纂された8世紀頃から、物部氏もその勢を失い始める。6世紀後半に、蘇我氏との抗争に敗れ物部守屋が戦死し、物部氏は没落するも、その後を継いだのが、この石上神宮の辺りを本拠とした物部の一族が石上氏として桓武天皇の頃まで朝廷に影響力を残すも9世紀前半には政権中央から姿を消すことになる。ということは、国史編纂がもう少し遅ければ、神話に物部氏にまつわるエソードが書かれることはなかったのだろうか?
◆物部という名の疑問
あれこれと古代史に不案内の素人の妄想をメモした。ところで、いままで「物部」と簡単に書いて来たのだが、『大和の豪族と渡来人;加藤謙吉(吉川弘文館)』に拠れば、物部とは部制の名称。「物部」と称する部制が記録上に現れるのは継体天皇の頃というから、5世紀の中頃以降のことである。3世紀から4世紀ともと想定される祟神朝の頃には未だ「物部」という部制はなかったかとも思うのだが、「物部氏」はその頃どのように呼ばれていたのだろう? 大伴氏も伴造(とものみやつこ)の長を意味する大伴と称される前は来目氏と称したとも聞く。物部氏も場所から考えて「大三輪」、「倭」とでも称していたのだろうか。古代史の門外漢の素朴な疑問とする。
摂社
散歩当日は、石上神宮に関する由緒なども見つからず、10分も経たず拝殿を離れたのだが、常の如く、メモの段になってあれこれと気になることが登場し、頭の整理に結構時間がかかった。
とっとと先に向かおうと拝殿を出ると参道を隔てて石段があり、そこを登ると摂社である天神社、七座社、出雲建雄神社、猿田彦神社が祀られる。ここでまたもや、「足止め」となってしまった。
●天神社と七座社
石段を上ったところに天神社と七座社。案内には「摂社 天神社【てんじんしゃ】(西面)御祭神; 高皇産霊神【たかみむすびのかみ】 神皇産霊神【かみむすびのかみ】
七座社【ななざしゃ】(北面)
御祭神;生産霊神【いくむすびのかみ】 足産霊神【たるむすびのかみ】 魂留産霊神【たまつめむすびのかみ】 大宮能売神【おおみやのめのかみ】 御膳都神【みけつかみ】 辞代主神【ことしろぬしのかみ】 大直日神【おおなおびのかみ】
由緒 右二社ハ生命守護ノ大神等ニ坐ス古来当宮鎮魂祭関係深キヲ以テ上古ヨリ鎮座シ給フ所ナリ」とあった。
二社で鎮魂祭を司る、と。チェックすると、天皇家には天皇の健康を護る鎮魂八神が祀られ、その神々がこの二社に祀られた大直日神【おおなおびのかみ】以外の神とのこと。更に、この八神に、七座社に祀られた、禍(わざわい)や穢(けがれ)を改め直す大直日神を加えた9神により、宮中にて新嘗祭前日に鎮魂の祭祀が行われるようである。
●天照がいない?
ところで、天皇家と言えば=天照、と思い浮かべる天照大神がこのラインアップに登場しない。チェックすると、「古代に天照大神が宮中に祀られたことはなく、『日本書紀』の記す伝承では天照大神は崇神天皇(第10代)の時に宮廷外に出されたとしている(現在の伊勢神宮)。通説では、実際に天照大神が朝廷の最高神に位置づけられるのは7世紀後半以降であり、それ以前の最高神は高皇産霊尊(高御産日神)であったとされる。このことから、7世紀末頃に高皇産霊尊は宮中に、天照大神は伊勢に住み分けたとする説もある」とWikipediaにあった。
へえ、そうなんだ、との想い。天神さまとは、後世の菅原道真でないことは言うまでもない。
出雲建雄神社
七座社の横に出雲建雄神社。案内には「摂社 出雲建雄神社【いずもたけお】 式内社 御祭神 出雲建雄神【いずもたけおのかみ】
由緒;出雲建雄神ハ草薙ノ剣ノ御霊ニ坐ス今ヲ去ルコト千三百余年前天武天皇朱鳥元年布留川上日ノ谷ニ瑞雲立チ上ル中神剣光ヲ放チテ現レ「今此地ニ天降リ諸ノ氏人ヲ守ラムト」宣リ給ヒ即チニ鎮座シ給フ」とある。
ささやかな社であるが、延喜式にも記載のある式内社と言うから、誠に古い歴史をもつ社である。また、祭神は神剣・草薙ノ剣に宿す出雲建雄神とのこと。草薙ノ剣って、素戔嗚が十拳剣を振るって八岐大蛇を退治した時、八岐大蛇の尾から取り出した剣と伝わる。
その剣は天照に献上され、その後、第12代景行天皇の子である日本武尊が東征に際し、この草薙ノ剣を渡されるも、尾張で娶った妻に預けたまま伊吹山でむなしくなる。そして妻が祀ったところが愛知の熱田神宮のはじまりとされる。
この案内に拠れば、天武天皇の御世、-朱鳥元年(686年))の時代、この地に神剣が下ったとされる。Wikipediaに拠ると、皇室の三種の神器とされるこの草薙ノ剣は、「熱田神宮に祀られていたが、天智天皇の時代(668年)、新羅人による盗難にあい、一時的に宮中で保管された。天武天皇の時代、天武天皇が病に倒れると、占いにより神剣の祟りだという事で再び熱田神宮へ戻された」とあった。
Wikipediaでは天武天皇の時代に神剣の祟りと熱田神宮に戻したとあり、この社の案内では天武天皇の御世、この地に神剣が下ったとある。ちょっと矛盾しているように思えるのだが?
それでは、出雲建雄神を祀る社に関する、何かの手がかりが無いものかと、ここ以外の出雲建雄神を祀る社をチェックすると、三輪山の南を流れる初瀬川を遡った奈良市藺生町にある葛神社と、さらに奥に入った奈良市都祁(つげ)白石の雄神神社の祭神が出雲建雄神となっており、全国にはこの二社と石上神社の摂社以外に出雲建雄神を祀る社はないようだ。
出雲建雄神は水神様?
葛神社は、元は出雲建雄神社と称されていたようで、初瀬川の水源地に近いこの地の水の神として祀られているようである。一方、都祁(つげ)白石の雄神神社は「三輪さんの奥の院」と称される山を神体とした自然信仰の形態を残す社。雄神神社が鎮座する辺りは水湧庄とも呼び、近くに都祁水分神社(みくまり。注;都祁水分神社は奈良盆地に流れ込む大和川水系ではなく、木津川水系ではあるが)もある。どうも二社ともその性格は、水分の神(「神名の通り、水の分配を司る神である。「くまり」は「配り(くばり)」の意で、水源地や水路の分水点などに祀られる(Wikipedia)」)。
で、この石上神社の出雲建雄神社であるが、エピソードに布留川の上流の日ノ谷に現れている。これも単なる妄想ではあるが、布留川の水の神、神体山から流れ出る命の源、田畑を潤す灌漑用水として水を祀る「水分の神」といったもののように思える。
神話には日本武尊にだまし討ちにあった出雲建という人物が登場するので、その人物ゆかりの社かとも思ったのだが、あまり関係はないようだ。なお、江戸時代には素戔嗚命が八岐大蛇を退治した「布都御魂剣」を祀るのが石上神宮で、その八岐大蛇の尾から取り出したのが草薙ノ剣。その草薙ノ剣に宿る神が出雲建雄神ということで、この社が石上神宮の「若宮」とされていた、ようである。
●水分神社(みくまり)
私のお気に入りの本の一冊に『日本人はどのように国土をつくったか;上田篤他(学芸出版社)』という本がある。その中に「秋津洲の山と神々(奈良盆地はいかにつくられたか)」という章があり、そこに水分神社の解説がある。
大雑把にまとめると、奈良盆地に流れる幾多の小河川はすべて大和川に合わさり、ひとつの流れとなって奈良盆地を出て河内平野に流れ出る。その大和川に注ぐ支流は流量が乏しく、年間を通じての供給量も不安定であった。その要因は、瀬戸内式気候もさることながら、「青山四周(よもめぐ)れり」と形容される、奈良盆地を囲む山稜は奈良盆地側の分水界が狭く、保水能力が乏しいことにある。
そのためか、大和の川(大和川、木津川、紀の川)の上流には、水を豊かに分かち与えてくれる水分神社が祀られている。これらの神社は『延喜式』の祝詞に奏上されるほど重視された社であった、と言う。
その水分神社と称する社の中で、大和川水系の水分神社は葛城川上流の葛城水分神社のみであるが、奈良盆地を囲む山麓地帯にある山口神社と呼ばれる社が14社ほどあり、その山口神社も水分神社とされる。山口に座す神は、勢いよく水を下し落とされる神であり、田畑を潤す灌漑用水をもたらす神故の命名であるとする。
大和盆地に割拠した古代豪族も水分神社のある場所を拠点としている。当然のことだろう。古代自然信仰として神奈備山を祀ったとされるが、山とは水を生み出す源であり、神奈備山を祀るということは、山の神であり、同時に水の神である神体山を祀るということではないだろうか。流量が少なく、それも季節によって流量が不安定な土地柄故に、水分神が奈良盆地では重要視されたように思える。
出雲建雄神社拝殿
出雲建雄神社の西、神奈備の布留山に向かって拝殿遥拝するように、誠にエレガントな拝殿が建つ。拝殿は建物が二つに分かれており、その中を通り抜けられるようになっている。割拝殿という建築様式とのこと。他ではあまり見られない珍しい様式国宝に指定されている建築で、とのことだが、元来は内山永久寺(うちやまえいきゅうじ)の鎮守の住吉社の拝殿であったとのこと。内山永久寺は後ほど訪れることになるが、鳥羽(とば)天皇の永久年間(1113~18)に創建された大寺院であったが、神仏分離令により明治9年に廃絶。鎮守社の住吉社はだけは残っていたが、その住吉社の本殿も明治23年に放火によって焼失し、荒廃したまま残されていた拝殿を大正3年に現在地に移築したとのことである。
当日はさらっと通り過ぎた石上神宮であるが、メモの段階であれこれ疑問が現れ、結構メモが長くなった。で、ある程度は自分なりに納得した、とは言うものの、そのソースは上に引用した3冊の書籍と、松岡正剛さんのWEB「松岡正剛の千夜千冊」の「1209夜 物部氏の正体(関祐二)のスキミング・スキャニングから得ただけのものである。 喧々諤々の議論がある古代史、古代史に興味のある方にとっては笑止千万のメモかとも思うが、所詮は山の辺の道を散歩したついでの戯言。単なる好奇心からのメモと御承知ください。
山の辺の散歩のメモではあるが、スタート地点の石上神宮のメモで力尽きた。次回は石上神宮のから離れ、山の辺の道を辿るメモとする。
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