奥多摩 廃線跡を辿る;水根貨物線の廃線跡を奥多摩駅から奥多摩湖まで辿る

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数年前のことになるだろうか、奥多摩の「水根貨物線」跡を辿ったことがある。水根貨物線は小河内ダム建設のためのセメントや川砂、建設資材を運ぶ目的で建設された東京都水道局の専用線である。正式名称は「東京都水道局小河内線」と呼ばれ、路線距離6.7キロ。23の隧道と23の橋梁で氷川駅(現在の奥多摩駅)とダム建設サイトの水根駅を繋いだ。運行期間は昭和27年(1952)の鉄路開通から昭和32年(1957)の小河内ダム竣工までの5年間だけである。
当初の計画では建設資材の輸送は鉄道ではなく、道路および索道による運搬計画が立案されていたようだ。昭和13年(1938)に地鎮祭が執り行われ工事開始となるも、昭和18年(1943)、戦局の悪化により工事中止。戦後昭和24年(1949)に工事再開されるに際し、東京都水道局は計画の見直しを行い鉄道建設に決定したとのことである。鉄道建設の工事設計施工は国鉄に委託された。
ダム竣工後は昭和38年(1963)西武鉄道、昭和53年(1978)には奥多摩工業に譲渡され「水根貨物線」と呼ばれるようになり、一時観光用鉄道としての企画もあったようだが、現在は廃線となっている。

水根貨物線のことを知ったのは、これもいつだったか、奥多摩駅より小河内ダムまで続く昔の青梅街道を遊歩道として整備した「奥多摩むかし道」を歩いたときのこと。道の途中でいかにも線路跡といった道筋や幾つかの橋脚が目に入り、チェックするとそれが既に廃線となった水根貨物線跡であった。

で、その水根貨物線跡を数年ぶりに辿ることになったわけだが、そのきっかけは夏に沢登りをガイドしている沢ガールのひとりが、秋には廃線か廃道を歩きませんか、との「ご下命」。それではと、廃道は既にブログにメモした明治の青梅街道である「黒川通り」、廃線は「水根貨物線」を散歩の候補とした。
廃道歩き候補の「黒川通り」は事前踏査するに、既にブログにアップしたメモの通り崩壊箇所が多く、余りに危険ということで選択肢から外す。一方、廃線歩き候補の「水根貨物線」は3箇所ほど崩壊鉄橋があり、そこが危険であることが以前の「水根貨物線」歩きでわかってはいた。で、いざの場合にと迂回路を探しに事前踏査に出かけ、3箇所とも迂回路があることがわかり、それではと「水根貨物線跡」に出かけることにした。
パーティは沢ガール2名、「廃道・廃線」とのキーワードにフックが掛かり参加表明の女性、そして30代の男性と私の5名。頃は秋。紅葉見物も兼ねて奥多摩駅に向かった。

○奥多摩湖ダム建設の経緯
水根貨物線建設の背景にある奥多摩湖ダム建設について、その経緯をまとめておく;東京都の水瓶と呼ばれていたい奥多摩湖。今でこそ、東京都民の水源は利根川・荒川水系にその水量の80%を頼り、多摩川水系の比率は18%程度とはなっているが(その他相模川水系1.8%,地下水0.2%)、昭和6年(1931)、当時の東京市がその市民の水資源確保と計画したのがこの奥多摩湖ダム・小河内ダムである。昭和6年(1931)に計画が発表されてから昭和32年(1957)のダムの竣工まで、結構時間がかかっている。その間の紆余曲折をまとめておく。
当時の東京市は大正末期より東京市民の水源確保のための候補地を検討。昭和6年(1931)には昔の三田郷である原・河内・河野・留浦の4部落からなる当時の小河内村を候補に選定。ダムはこの4村に丹波村、小菅村を加える大規模なものであり、ダム建設により水没する小河内村の村民は反対を表明。が、当時の村長である小沢市平氏、は「天子さまの御用水」第一と村民を説得し、無条件で了承し、昭和7年(1932)、東京市議会はダム建設を可決した。
土地買収がはじまろうとした昭和8年(1933)、「二ヶ領用水」を巡り神奈川県と水利紛争が発生。元禄時代に起工され、神奈川県の稲毛で多摩川から取水する「二ヶ領用水」の用水組合が多摩川の水利権をもっており、その組合が反対しダム建設計画は頓挫。その上、当初ダム建設地とされていた「女ヶ湯」の地が地質上不可ということで、ダム建設地が2キロ下流の「水根沢」に変更された。 このダブルの不手際に村民は抗議。白紙還元の動きも出る。工事の頓挫で土地移転の補償費が入らない村民は困窮。小沢村長は村の荒廃を防ぐべく奔走するも状況は好転せず、昭和19年(1935)には、堪忍の限度を超えた村民が蜂起。「蓆旗竹槍は多摩の伝統 猪突猛進は世代廼衣鉢」と小沢村長を先頭に村民が東京に直談判へと向かう。官憲は氷川大橋を阻止線とし、村民は奥氷川神社に押し込められ、代表が東京へ強談判に向かう。


この強談判が功を奏したのか、のらりくらりの官僚の態度が変化し、問題が次々解決されてゆく。そして昭和11年(1936)2月26日には「二ヶ領用水組合」との和解成立。この日は期しくも二・二六事件の日。また、当時の東京都知事は「二ヶ領用水組合」問題が紛糾したときの神奈川県の横山知事であった(昭和10年(1935)、東京都知事に)。
昭和12年(1937)に買収地価公表。あまりの低い買収地価のため騒動が起こるも、当時の官主導社会故に村民は泣き寝入り。昭和13年(1938)には妥結。八ヶ岳山麓など他の地への移転者には少額ながら更生資金が用意された。
昭和13年(1938)11月に地鎮祭。しかし戦局の悪化により昭和18年(1943)工事中止。戦後の昭和24年(1949)工事再開され昭和32年(1957)ダム竣工。奥多摩湖(小河内貯水池)は東京都民と神奈川県の一部に一定の水を安定的に供給するのが大前提であるため、ダム湖はその余水を貯蔵することになる。そのため湖が水に満たされるには結構日数がかかり、奥多摩湖が全容を表したのは昭和40年(1965)のことである。
現在奥多摩湖に貯水された水は、多摩川第一発電所に落とされ、その水褥池にたまった水は大半(一部は上でメモした氷川発電所に)が多摩川に放水され、約34キロ下流にある小作取水堰と、約36キロ下流にある羽村取水堰で水道原水として取水される。取水された原水は、自然流下により村山・山口貯水池、玉川上水路などを経て、東村山・境の各浄水場へ、導水ポンプにより小作浄水場へ送られる。また、東村山浄水場から原水連絡管により朝霞・三園の各浄水場へも送ることが可能となっている。「二ヶ領用水」は灌漑用水の重要性は当時とは異なるだろうが、現在でも取水堰があり、そこから取水されている。


本日のルート;奥多摩駅>奥多摩工業>北氷川橋>女夫(めおと)橋>■第一氷川橋梁>第一氷川隧道>日原川橋梁>第二氷川隧道>第二氷川橋梁>氷川疎水隧道>第三氷川隧道>第一弁天橋梁>第二弁天橋梁>第三氷川橋梁>第四氷川隧道>第一小留浦橋梁>第一小留浦隧道>第二小留浦橋梁>第二小留浦隧道>第三小留浦橋梁>第三小留浦隧道>第四小留浦橋梁>第四小留浦隧道>第五小留浦橋梁>第五小留浦隧道>第一境橋梁>桧村隧道;短い隧道>第一境隧道>第二境橋梁>第二境隧道>第三境橋梁>第三境隧道>第四境橋梁>白髭隧道>橋詰橋梁>栃寄橋梁>白髭橋梁>梅久保隧道>梅久保橋梁>惣獄橋梁>惣獄隧道>第一板小屋隧道>第二板小屋隧道>清水疎水隧道>清水隧道>第一桃ヶ沢隧道>桃ヶ沢橋梁>第二桃ヶ沢隧道>中山隧道>第一水根橋梁>水根隧道>第二水根橋梁■>「奥多摩水と緑のふれあい館」

奥多摩駅
永福町を出て青梅線の奥多摩駅に問到着。この「駅名が奥多摩駅となったのは昭和46年(1971)のこと。昭和19年(1944)、後述する奥多摩電気鉄道が保有していた御嶽駅と奥多摩間の鉄道敷設免許が国有化され、運輸通信省青梅線として開業されたときは氷川駅と呼ばれていたようである。

奥多摩工業
奥多摩駅を下り、常のバス路線とは逆、プラットフォームに沿って北に向かう。 進むにつれて、正面の工場に近づく。小川谷や倉沢谷に向かう途中、バスの窓からよく見る要塞の如き工場がそれである。 工場は奥多摩工業の石灰砕石・選鉱処理工場。日原集落に入る手前に見える巨大な裸山・日原鉱床(実際は、鉱床の乏しくなった日原鉱床の更に奥の天祖山で石灰石を採掘し、地下隧道を通り、立石・燕石の採掘場から三又を経由し日原鉱床に運ばれている)から無人トロッコ・曳索鉄道氷川線(一本のエンドレスロープで繋がれた多くの貨車がロープに曳かれて走る)でこの氷川工場に運ばれている。軌道のほとんどか隧道内であるが、沢を渡るとき、橋梁が現れる。倉沢や日原へのバスからも頭上に無人トロッコ・曳索鉄道氷川線が見える箇所もある。
奥多摩工業株式会社は、現在は上記の如く石灰の採掘・販売をおこなっているが、前身は昭和12年(1937)設立の奥多摩電気鉄道会社。御嶽駅と氷川を結ぶ鉄道路線の施設免許をもち設立するも、路線開通前に戦時の国策により免許を国に譲渡し、工事半ばで路線は国有化された。
昭和19年(1944)、奥多摩工業に社名変更。昭和21年(1946)に石灰石の採掘・販売を開始した。鉄路建設と石灰の、一見その結びつきは?と考える。実のところ、奥多摩電気鉄道は、昭和2年(1927)、浅野セメントが買収していた日原の山林を継ぎ、10年以内に当時の鉄道路線の最終駅であった青梅鉄道の御嶽駅から氷川までの鉄道を建設し、日原の石灰石の採掘を行うために日本鋼管と鶴見造船の出資で設立されたものである。
御嶽駅は昭和4年(1929)に青梅電気鉄道により開通しており、同線と繋ぎ、さらに甲武鉄道(現在の中央本線の一部)とつなぐことによって、石灰を首都圏に運ぼうとしたのであろう。

○青梅電気鉄道
青梅電気鉄道の前身は、明治24年(1891)青梅・羽村・福生などの有力地主、深川セメント工場を政府から払い下げを受けた浅野総一郎などを発起人として設立した「青梅鉄道」。
日向和田村宮ノ平の石灰輸送を主眼とし、立川から日向和田間の軽便鉄道を申請。明治27年(1894)に立川・青梅間開通。明治29年(1896)には青梅・日向和田間が開通。大正3年(1914)には浅野セメントが二俣尾北の雷電山の石灰採掘場開業を受けて、日向和田・二俣尾間の面鏡を得、大正9年(1020)に同区間開業。
大正15年(1926)には電気運転に転換の故をもって青梅電気鉄道と改名。昭和2年(1927)には免許を受け、御嶽までの延長図り、昭和4年(1929)9月1日,二俣尾-御嶽間を開業させている。これは御嶽神社参詣客の便を図ったものであった.このころから,青梅電気鉄道は石灰石輸送とともに,観光輸送の比重の高い鉄道に変化していった、とのこと。

「女夫(めおと)橋」
道は奥多摩工業の敷地で遮られるため、奥多摩工業の手前で日原川に架かる北氷川橋を渡り、日原川の右岸に廻る。県道204号日原街道手前の道を右に折れ、先に進み「女夫橋(めおと)橋」を渡り再び左岸に。
橋から上流には日原川に架かる水根貨物線の「日原橋梁」が見える。橋詰の右には氷川国際マス釣場。前面には、いかにも線路を通すために築いたと思しき築堤が見える。

第一氷川橋梁
水根貨物線の築堤に上る道を探すため堤下にある氷川国際マス釣場の駐車場に進み、端から踏み分け道を築堤に向けて登ると「第一氷川隧道」の東口の先に出た。隧道逆方向にはフェンスで遮られたその向こうに「第一氷川橋梁」が目に入る。その昔は、氷川駅からずっと続いた線路が最初に渡った橋梁である。地形図で見ると、谷筋が深く刻まれている。谷奥には奥多摩工業の曳鉄線も沢筋に姿を現しているのではないだろう、か。



第一氷川隧道
水根貨物線の最初の隧道はフェンスで遮られおり、通り抜けはできない。上った踏み分け道を戻り氷川国際マス釣場の駐車場を抜け、右手上に見える築堤に沿って道を進む。日原川の少し手前で堤下にある石垣上のステップを進み、「日原橋梁」の手前で折り返し、「日原橋梁東詰」めの堤上に。
実のところ、道から水根貨物線の通る堤上に力任せで上れることもできるのだが、第一氷川隧道から日原橋梁までの線路跡には民家があり、民家軒先を歩くのは遠慮し、日原橋梁東詰めに這い上がったわけである。

日原川橋梁
鉄筋コンクリートの堂々としたアーチ橋である日原川橋梁を渡る。橋上には下草が茂りどこからら飛んできたのであろう種子が育った立木も生える。川床で楽しむ家族連れなどを見遣りながら橋を渡る。









第二氷川隧道東口
橋を渡り切ると崖面に「第二氷川隧道東口」がある。施工 熊谷組 昭和27年(1952)。通路は封鎖され、通ることはできない。隧道東口から先は弧を描き寿清院を越えた辺りまで地下を通る。
隧道東口から先のルートは、数年前の散歩では日原川橋梁を引き返し、「女夫橋(めおと)橋」から日原街道に戻り、日原街道入口交差点から国道411号を西に進み、奥多摩郵便局手前の信号脇にある「奥多摩むかし道」の案内板のある道を右に折れ、羽黒三田神社を右手に見ながら進み、線路跡のある水根貨物線跡に向かったわけだが、今回は事前踏査で見付けたルートを選んだ。



そのルートとは第二氷川隧道東口の右手に取り付けてある「鉄梯子」をよじ登ること。10m以上もあり、ちょっと怖いので、他にルートはないかと、隧道東口の左手にある沢を上ろうかと断崖上の踏み分け道を進んだのだが、結構危険そうであり、結局鉄梯子を利用させてもらった。
パーティの皆さんも特段鉄梯子を怖がることもなく、女性陣も平然と「上りましょう」とのことであり、慎重に梯子を握り上り切ると「日原街道」に出る。


追記;2018年12月
最近このページのアクセスが多いので状況の変化確認に訪れる。と、第二氷川隧道が通り抜けできるようになっていた。怖い鉄梯子を上らなくても先に進め、西口に出られる。


第二氷川橋梁
日原街道を国道411号・日原街道入口交差点方面に向かう。「根元神社」辺りから日原橋梁などを見遣りながら栃久保地区を進み、周慶院の門前を越え、中華料理店の「和尚」の手前から一直線に上る石段に折れる。石段を上りきったところで車道と出合い、その前に橋が見える。第二氷川橋梁である。「元巣の森の杉」の案内がある橋の東下の踏み分け道を2mほど上り橋梁上に。メモする段になって、この橋梁が水根貨物線唯一の現役遺構であることがわかった。
○「元巣の森の杉」の案内
元巣の森は、羽黒権現社(現羽黒三田神社)の旧地であることが、武蔵風土記にあります。南氷川は、むかしは「しゅく」と呼び、近所ではたんに「みなみ」と呼ばれていました。小河内谷、日原谷からの物資の集散地で賑わう宿場町でした。この杉に代表される、この森の樹々たちは、氷川の里の歴史を静かに見守っています(奥多摩町教育委員会」。

第二氷川隧道西口
橋梁、といっても車がギリギリ交差できるといった程度の車道に架かる橋から道を「第二氷川隧道西口」方面に戻る。軽トラックなども往来する道を進むと右手下には氷川の町並みが一望のもと。
先に進むとバラックの建物が見える。建物脇の隙間を縫って進むと第二氷川隧道西口に。だが、先には進めない。坑道ではキノコ栽培などがおこなわれている、とのことである。




氷川疏水隧道
第二氷川橋梁まで戻り、道なりに先に第三氷川隧道の東口が見えてくるが、その手前の沢の東側に「氷川疏水隧道」がある。線路跡からは見つめるのは難しい。
第二氷川橋梁まで戻り、線路築堤を意識しながら第三氷川隧道に向かて進むと疏水隧道が見つかる。隧道といってもトンネルになっているわけでもなく、疏水が流れているわけでもなく、幅2m弱の人道を跨いでいるだけである。



第三氷川隧道
元の道を戻り、第二氷川橋梁からの線路跡を進み「氷川疏水隧道」を見遣りながら進むと「第三氷川隧道」が見えてくる。線路も残っており、如何にも廃線歩き、といった風情となる。施工は熊谷組。昭和27年(1952)。 隧道はすこしカーブしているが出口も見えており、懐中電灯は不要である。始点からここまでの二つの隧道は通り抜けできなかったが、ここから先の隧道はすべて通り抜けできる。



奥多摩むかし道と交差
隧道を抜けると線路も消え、線路跡であろう道を道なりに進むと、右手に山肌に沿って遊歩道が続く広場に出る。その遊歩道は「奥多摩むかし道」。
水根貨物線は広場先の草叢に直線で進む。広場先から草叢の境には線路が残る。 線路も3本ある。通常3本ある線路は3線軌条と呼ばれ、軌間の異なる車輌のためのものではあるが、この路線でそんな軌間の異なる車輌が走ることもないだろうから、単に脱線防止用の線路ではないだろうか。
○奥多摩むかし道
JR奥多摩駅から奥多摩湖まで、旧青梅街道を歩く「むかし道」の散策コース。峠や橋の袂には江戸時代の信仰を伝える道祖神や馬頭観音などが往時のまま残り、昔の面影を偲ばせる。約9キロ(奥多摩町役場)。

第一弁天橋梁
草叢にはいると知らず「第一弁天橋梁」に進む。橋梁の北側には崖が続いており、沢を渡る橋梁というより桟道といったものである。橋梁は線路が残り、枕木もしっかりしており、枕木間にも板が敷かれており、それほど危険というわけではない。それでも橋梁を渡るには線路の上に足を置きバランスを取りながら慎重に渡る必要がある。最初の「崩壊橋梁」ではある。
事前踏査の段階で、怖がる人のため迂回路を探す。沢はないので、あれこれチェックすると、「奥多摩むかし道」を進めば、「第一弁天橋梁」を迂回し、後ほどメモする「第四氷川隧道東口」脇に水根貨物線跡に下りる踏み分け道があることが分かった。が、パーティの皆さんは崩壊鉄橋を怖れることもなる、喜々として渡っていった。

第二弁天橋梁
最初の「崩壊橋梁」を何事もなく渡り終えると、第二弁天橋梁。普通に歩いていれば、橋梁とは気付かないかもしれない。等高線も線路跡と平行に続いており、ここも崖地に渡した桟道といったものではあろう。渡り終えた後、橋梁西詰めから橋脚を確認して橋梁であることを確認した。





第三氷川橋梁
先に進むと左右が開ける。等高線も北に大きく切れ込んでおり、沢筋ではあろう。進行方向右手の山肌には、切れ込んだ沢を迂回する「奥多摩むかし道」が見える。前面には第四氷川隧道の東口、その隧道真上には沢を迂回してきた「奥多摩むかし道」も通っている。
「奥多摩むかし道」には休憩用の木製ベンチもあり、そこから眺める第三氷川橋梁の姿はなかなか、いい。


第四氷川隧道
下草の茂る第三氷川橋梁を渡り終え「第四氷川隧道東口」に。坑口左手には既にメモした、第一弁天橋梁を迂回し「奥多摩むかし道」から水根貨物線跡に下りることのできる踏み分け道がある。
この隧道は多摩川に突き出た舌状台地(国道411号バイパスが国道411号愛宕大橋交差点にあたり、笹平橋を渡る箇所)を直線に掘っており、200m強の距離がある。
懐中電灯の光を頼りに隧道を抜ける。漆黒の隧道を歩くだけで、なんとなく廃道歩きの雰囲気が盛り上がる。なお、隧道の間で行政区域が奥多摩町氷川から「境」に変わる。境地区は水根貨物線の終点までカバーする。施工 鐵道建設興業 昭和27年(1952)。

第一小留浦(ことずら)橋梁
隧道を抜けると線路跡は結構荒れている。谷側の風情から橋梁であろうと。渡り切ったところで橋脚を確認。第一小留浦橋梁である。
この辺り落石が多い。この水根貨物線は昭和38年(1963)、西武鉄道の所有となったと上にメモした、観光用に水根線を活用しよう企画したのかとも思うが、この落石の状態を見れば、メンテナンスや旅客の安全の観点から実現は困難ではあったのかと思う。実際水根貨物線が通っていた5年程度の間に150件弱の落石や土砂崩壊があったとのことである。

後日談;後日、水根貨物線跡にある橋梁の橋台の写真を撮りに出かけた。中山バス停で下り、第二桃ヶ沢隧から逆に奥多摩駅へと向かい、白髭隧道を抜けたところで成り行きで「奥多摩むかし道」に下り、道から見える橋梁に這い上がろうとしたのだが、後にメモする長大な第四境橋梁の写真を撮った後は、ほとんどの山肌が落石防止ネットで覆われており這い上がることができない。
道なりに「奥多摩むかし道」を進んでいると、これも後からメモする「第五小留浦橋梁」が道の上に見え、落石ネットもなき。ということで、五小留浦橋梁から沢への這い上がり・下りを第一小留浦橋梁まで繰り返した。
で、この第一小留浦橋梁は這い上がり。「奥多摩むかし道」から這い上がるとすぐに高い石垣がありちょっと苦労したが、なんとかクリアして橋台下に。アプローチ部分は沢ではあるのだが、橋台辺りは山肌と密着しており、ほとんど桟道。橋上に上るには、橋梁西詰めの崖の立木を頼りに、なんとかよじ登れた。

第一小留浦隧道
橋梁の先に隧道が見える。数30mといった短い隧道である。少し荒れてはいるが、線路は残っている。土被り部分もそれほど多くなく、隧道でなくても「切通し」でもよかったといった隧道ではある。施工 鐵道建設興業 昭和27年(1952)。






第二小留浦橋梁
隧道を抜けると橋梁が続く。この橋の箇所は等高線が少し北に切れ込んでおり、桟道ではなく少し橋梁の風情がある。橋梁の谷側には切れ込んだ沢に沿ってカーブする道が見える。「奥多摩むかし道」ではあろう。

後日談;橋台を取るため橋梁西詰めから沢に下る。急な崖ではあるが、ロープがなくても「奥多摩むかし道」に下りることができた。最後の、ささやかではあるが沢水が集まる岩の箇所は滑ららないように慎重に下りた。






第二小留浦隧道
第二小留浦隧道も40m程度といった短い隧道である。施工 鐵道建設興業 昭和27年(1952)。








第三小留浦橋梁
隧道を抜け、線路が残る快適な線路跡を進む。橋梁脇に切れ切れながら水路管が残る橋梁は第三小留浦橋梁。谷側すぐ下に「奥多摩むかし道」が蛇行しながら続く。いつだったか、「奥多摩むかし道」を歩いたことはあるのだが、その時は水根貨物線のことを知らず、道からみえたであろう橋台も気付くことはなかった。

後日談;奥多摩むかし道から這い上がる。石組みの防水・防砂の堰堤をクリアすれば、後は橋梁西詰めに楽に這い上がることができる。







第三小留浦隧道
また短い隧道が現れる。70mほどだろうか。岩壁を掘り割って進み、南に突きだした箇所は岩壁を穿ち隧道を通したのだろう。施工 鐵道建設興業 昭和27年(1952)。施工社の「鐵道建設興業」とは昭和19年(1944)設立の企業で、現在の鉄道建設株式会社である。





第四小留浦橋梁
線路が雑草に覆われた橋梁は第四小留浦橋梁。一本の水路管が橋脇に取り付けられている。

後日談;沢を下りる。結構荒れていた。石組の堰堤箇所はちょっと気をつけること以外、それほど難しい沢ではなかった。「奥多摩むかし道」からは、結構奥に見える。







第四小留浦隧道
次の隧道も70mといった短いもの。少しカーブしているが、出口は見える。施工 鐵道建設興業 昭和27年(1952)。








第五小留浦橋梁
切り通しを先に進むと線路が雑草で覆われ、しかも、どこからか飛んできた種子が育ったのだろう木立が橋梁上に立つのが第五小留浦橋梁。ここも橋脇に水路管が完全な状態で残っていた。

後日談;「奥多摩むかし道」を歩いていると、左手に迫力のある橋台が見えた。白髭隧道の東で線路跡から「奥多摩むかし道」に下りて以降、ずっと落石ネットで沢を這い上がることができなかったので、ここがはじめての橋梁へのアプローチ。沢は広くガレ場となっており、足元が崩れ不安定ではあったが、それほど難しい沢ではなかった。




第五小留浦隧道
第四氷川隧道から先の隧道は、おおよそ等高線に沿った岩壁を削ったような路線ではあったが、第五小留浦隧道は、第四氷川隧道と同じく多摩川に南に突き出た舌状台地(「小留浦地区、現在の国道411号の琴浦橋で多摩川南岸に渡り、檜村橋で多摩川北岸に渡り直す区間)を直線に貫く。他の小留浦隧道に比べて少し距離は長いが、出口の光が見える程度ではある。それでも150m以上あるように思う。鐵道建設興業 昭和27年(1952)。




第一境橋梁
隧道を抜けると第一境橋梁。橋梁脇に棕櫚(シュロ)の木が立つ。この橋梁にも水管が取り付けられていた。








桧村隧道
次に現れた隧道は桧村隧道。短い隧道で、次の第一境隧道の東口も見えている。おおよそ20m程度の長さだろう。桧村は、先ほど通り抜けた第五小留浦隧道が貫く舌状台地の辺りを檜村と称するのがその名の由来かとも。施工 鐵道工業 昭和27年(1952)。

鐵道工業は設立は明治40年(1907)。鹿島建設とともに丹那トンネルの工事を手掛けるなど、鐵道土木、特にトンネル工事に実績を示すも、戦後清算され今はない。
鐵道工業といえば創業者に名を連ねた菅原某の子息で二代目社長の菅原通済が知られる。人物について詳しいことを知っているわけではないのだが、この人物の名前はなんとなく覚えている。若い頃は世界を歩き、放蕩の限りを尽くし、戦後は実業家として鎌倉の宅地開発や昭和電工の疑獄、小津安二郎監督のスポンサー、美術品収集家などとして登場する。戦後に登場した所謂フィクサーのひとりではあろう。

第一境隧道
桧村隧道を出るとすぐに第一境隧道に入る。隧道はちょっと長く懐中電灯で前を確認しながら進む。ここも線路が3本ある。脱線防止のためではあろう。そういえば、第一崩壊橋梁の第一弁天は4本のレールが敷かれていた(4線軌条)。隧道はS字に少しカーブしながら進む。長さは150m弱ほどだろう。施工 鐵道工業 昭和27年(1952)。





第二境橋梁

第二崩壊橋梁が現れる。剥き出しの鉄骨に朽ち始めた枕木が残るだけ。沢との比高差も10mほどはあるだろう。バランスを崩し、橋梁から落ちれば大怪我などではすまない。
数年前、はじめてこの橋梁を渡ったときはなんとか橋梁を渡った。今回の廃線歩きの事前踏査の時は、この橋梁に東詰めに立ったとき、西詰めに呆然として立ちゆくす高校生のグループがいた。
「この橋渡れますか?」との問いに「渡れるよ」と応え、西詰めまで渡って行ったのだが、引率の先生を含めた高校生5名ほどのグループは、とても渡れない、と。


それではと、西詰めから沢への迂回路を探すことに。沢への急な崖はロープを張り、安全確保して沢に下りる。沢は枯れ沢で渡ることは問題ない。沢を渡り、こんどは逆に急な崖を登ることになる。これも立木にロープを張り東詰めに上ってもらった。この崩壊鉄橋も迂回路を探すつもりでの事前踏査ではあったので、高校生グループのガイドで迂回できることが確認できた。

で、今回のパーティ、てっきり崩壊鉄橋で怖がるかと思ったのだが、渡る気満々。少々予想とは反応が異なったが、万が一を考え、皆様に「自重」願い、沢へと迂回する。沢ガールの皆さんには前もってハーネスと8環を持ってくるように伝えており、崖で懸垂下降のトレーニング。初参加の女性も私のハーネスと8環を使い、結構平気で崖を下りていった。


第二境隧道
沢を迂回し線路跡に上ると第二境隧道。東口には大岩が転がっており荒れている。隧道前後の線路は3本ある。急カーブの脱線防止のためだろう、か。隧道の長さは短く、西口が見えている。25m程度だろう。施工 鐵道工業 昭和27年(1952)。






第三境橋梁
切り通しを抜け先に進むと三番目の崩壊鉄橋。4本のレール(4線軌条)が朽ちた枕木に置かれている。水根貨物線跡で最も危険と思う崩壊鉄橋であろうと思う。
事前踏査では悩むことなく沢への迂回ルートを探し、沢の水量は多いが、なんとか濡れないで渡れそうな箇所があり、それで良し、とする。崖の上りはルートの取り方で難易度の変わるバリエーションルートがある。





で、当日。ここでもパーティの皆様は崩壊鉄橋を渡る気満々。ここも自重願い、沢に迂回。崖は懸垂下降の練習も兼ねて、20mほどロープを張り、少々困難なルートを下りてもらう。パーティ各位、軽々と下っていった。
美しい沢で崩壊橋梁を見上げながらお昼を取り、上りは沢登りの練習も兼ね少し困難なルートを上り西詰めに。


ところで、この沢、なかなか雰囲気がいい。メモの段階でチェックすると、「小中沢」という沢であり、沢登りを楽しむ人もいるようだ。源流を詰めての尾根這い上がりでも、途中から作業道を下ることもできそう。来年の夏の沢上りの候補を見付けた気分である。

第三境隧道
沢を迂回し水根貨物線跡を進むと、荒れた入口の隧道が見えてくる。東口には壊れたバリケードが残る。木の枠に鉄条網が張り巡らされたバリケードではあるが、壊れており隧道には木枠の間から入れた。
この隧道は結構長い。多摩川に向けて東に突き出した山塊を穿ち隧道を通している。懐中電灯で前を照らして進む。5分以上歩いたわけであるから距離は400mほどはあるだろうか。施工 鐵道工業 昭和27年(1952)。

第四境橋梁
隧道を抜けると、全面が開け「第四境橋梁」が現れる。地形図を見ると等高線が西へと切り込んでおり、その先の東に突きだした箇所に向けて橋梁が架かっているようだ。
橋梁の左下は境の集落。西へと切り込んだ谷状地形に集落が形成されているのだろう。橋梁下に見える畑地は「山葵田」とのことではある。

橋梁からの眺めは素晴らしい。「トンネルを抜けると、そこは素晴らしい景観だった」などと呟くメンバーも。奥多摩の山々、先ほど抜けた多摩川へと南に突き出た第五小留浦隧道が通る舌状台地、国道411号・檜村橋で多摩川南岸に渡り、橋詰トンネルを抜け境橋で再び多摩川北岸に抜ける多摩川南岸箇所、そこは多摩川に向かい大きく北に突き出した箇所が一望のもとである。
で、橋梁を渡るのだが、ここも4本の線路(4線軌条)となっている。線路の敷かれた枕木は朽ちているようでもあり、ちょっとそこを歩く勇気はない。橋の右手に鉄の手すりのついた保線用の通路を歩く。足元にはスレートらしきものが敷かれているが、時に見える隙間からその幅を見た瞬間に思わず手すりを強く握りしめて先に進むことになった。橋の構造は桁橋、厚さのある板状の橋桁を支柱(橋脚)に乗せたプレートガーダー橋である。

白髭隧道
橋梁を渡りしばらくは等高線に沿って、のんびりと路線跡を辿る。倒木が線路跡を遮ることはあるも、美しい廃線跡である。先に進み、線路周辺には雑草が茂る箇所を抜け、伐採された木材が積まれた箇所を越えると白髭隧道が現れる。出口も見える50m弱の短い隧道である。施工 鐵道工業 昭和27年(1952)。





橋詰橋梁
白髭隧道西口を出たところに「橋詰橋梁」。桟道といった橋梁である。短い橋詰橋梁を渡る。足下は国道411号・白髭トンネルが抜けている場所あたりかと思う。







栃寄橋梁
栃寄橋梁は橋詰橋梁とは異なり、沢らしき箇所を跨いでいる。橋詰橋梁と同じく、足下は国道411号・白髭トンネルが抜けている場所あたりかと思う。







白髭橋梁

白髭橋梁。国道411号を奥多摩湖から奥多摩駅方面に向かうと、国道411号・白髭トンネルの西口に巨大な橋梁が山側にみえるのが、この白髭橋梁である。普通に歩いて居れば左手下に国道411号を見遣りながら、奥多摩の美しい景観を楽しめる散策路といったものである。


梅久保隧道
白髭橋梁を通り、次の梅久保隧道へ。尾根筋が多摩川に南に向かって少し突き出し、国道411号・梅久保トンネル(38m)が抜ける箇所の上を抜ける。少しカーブをしながらも、ほぼ直線に尾根筋の山塊を穿つ。距離は200m弱。施工 東鐵工業 昭和27年(1952)。

東鐵工業は昭和18年(1943)、鐵道省の要請により関東の建設業者が合同して設立された国策会社「東京鐵道株式会社」をその前身とする。現在の東鉄工業株式会社。


梅久保橋梁
隧道を越えると梅久保橋梁。結構大きな沢を渡る。









切り通し
梅久保橋梁を越えると切り通し。更にその先にも更に大きな切り通し。結構高さもあり、短い隧道との違いが今ひとつはっきりしない。予算の問題なのか、岩盤が固く崩落の危険がなかったのか、さてどちらだろう。





惣獄橋梁
その先には惣獄橋梁と続く。線路を覆う立木を折り敷き、下草の茂る線路跡を辿る。国道411号・惣獄トンネルを抜けたあたりの北に惣獄橋梁が遠くに顔を出す。





惣獄隧道
その先に惣獄隧道が現れる。国道411号・惣獄トンネル(149m)の上辺りではある。距離も出口が見える程度であるので150m強ほど、ではあろうか。数年前訪れた時は隧道西口側が砂防工事中とのことで、鉄のバリケードがあったのだが、今回は撤去されていた。施工 東鐵工業 昭和27年(1952)。





第一板小屋隧道
惣獄隧道を出ると大きな沢に出る。北に切れ込む急峻な沢の土砂崩れが激しいのか、数年間には工事中であったが、現在は沢筋に立派な砂防堰堤が完成していた。隧道の左右も法面吹き付け状態となっており土砂崩れ防止の工事が完成していた。
地形図を見るに、多摩川から等高線が北に鋭く切れ込んでおり、沢のすぐ下に国道411号が通っている。落石の危険のある急峻な沢にしっかりした砂防・土砂崩れ防止工事が必要だったのだろうか。等高線を見るだけで、あれこれと想像・妄想が膨らむ。この沢は国道411号・惣獄トンネルと板小屋トンネルの間の僅かな切れ目からみることができる。
線路を通した堤が消え、沢筋に盛り土した箇所を渡り第一板小屋隧道に。ここも80m程度の短い隧道である。施工 東鐵工業 昭和27年(1952)。

第二板小屋隧道
第一板小屋隧道を抜けると、すぐ先に第二板小屋隧道。40m強といった距離。東口脇に電柱が残っていた。水根線跡の南を進む国道411号は、南に大きく突き出た台地を穿った「板小屋トンネル」で抜けるが、その距離は115m。大雑把に言って、第一、第二板小屋隧道のふたつで国道の板小屋トンネル分をカバーしているように思える。施工 東鐵工業 昭和27年(1952)。




清水隧道
第二板小屋隧道を抜けると前面の築堤が完全に崩壊している。等高線が北に切れ込んだ沢(清水沢)となっており、水路部分は石組みで護岸工事されている。土石流対策の施策ではあろう。記録には「清水疏水隧道」といった水路を抜いた築堤があったとのことだが、その築堤が完全に流されてしまったのだろうか。 国道411号・板小屋トンネル手前の「体験の森」案内の掲示の西側に、護岸工事されたこの清水沢の水路が国道を潜る箇所があるが、結構急峻である。土砂崩れなのか、人工的に築堤が除かれたのか不明ではあるが、ともあれ、古い築堤が崩れ国道に影響を及ぼさない為の施策ではあろう、かと。
沢を渡り清水隧道に入る。結構長い隧道である。200m強あるだろうか。施工鹿島建設 昭和27年(1952)。



 第一桃ヶ沢隧道
落ち葉が一面に敷き詰められた線路跡を進むと第一桃ヶ沢隧道。多摩川に向かって南樹に突き出た尾根筋を一直線に貫く国道411号・桃ヶ沢トンネルの少し北を貫いている。国道の桃ヶ沢トンネルは275mある。この隧道も100m強ほどはありそうだ。施工鹿島建設 昭和27年(1952)。





桃ヶ沢橋梁
隧道を抜けると小さな橋梁がある。桃ヶ沢トンネルを出た国道411号は南に大きく半円を描き進むが、等高線を見るとトンネルを出た直後、等高線は北に切れ込んでいる。橋梁はその辺りに立っているのだろう。橋梁から国道411号は見えるのだが、国道からは落石ネットに遮られ見えずらい。





第二桃ヶ沢隧道
橋梁を渡ると第二桃ヶ沢隧道の東口がある。入口は木枠でバリケードが造られていた。この隧道は南に突き出た尾根筋の台地を一直線に面に貫いている。通常、国道はこういった場合尾根筋にトンネルを通しているのだが、ここだけは多摩川に突き出た岩壁部を迂回し先に進んでいる。その理由を知りたいとは思う。施工鹿島建設 昭和27年(1952)。




中山隧道
隧道を出ると左右が開ける。右手には民家も見える。左手下には民家もあり、中山バス停がある。第二桃ヶ沢隧道を抜け中山隧道に向かう築堤には「奥多摩むかし道」からの道案内があった。
本来の「奥多摩むかし道」はこの辺りでは、多摩川沿いに進み南端部で折り返し、北へと浅間神社に向かい中山トンネル上を越え「タキノリ沢」を渡り水根へと向かったのだが、平成17年(2005年)に土砂崩壊によりこのルートが通行不可となり、その迂回路として中山隧道を抜けて「タキノリ沢」に向かったようであるが、この案内はその当時の名残なのだろうか。

明るく開けた左右の景観を見遣りながらススキのなどの下草に覆われた線路跡を中山隧道に。水根貨物線の南を貫く国道411号・中山トンネルは391mある。この隧道も結構長い。470mといった記録もある。懐中電灯を灯し進む。時に天井から水が滴り落ちていた。

第一水根橋梁
中山隧道を出ると第一水根橋梁。左手下、直ぐ傍に国道411号が走り、その向こうに奥多摩湖の「余水吐(よすいはけ)」の堰堤が見える。なだらかなスロープは「越流堤」。ダム堰堤が溢れるときに水を流す放流設備である。
第一水根橋梁は国道411号の山側にその橋梁が姿を現すのだが、それが水根貨物線の橋梁であることは、この廃線を辿るまで全く知ることはなかった。

国道からの写真を入れる

水根隧道
先に進むとこの廃線最後の隧道、水根隧道となる。短い隧道である。40mもあるだろうか。施工 間組 昭和27年(1952)。








第二水根橋梁
隧道を出ると第二水根橋梁。国道411号を跨ぐ。線路も消え枕木は朽ちており、しっかりした箇所を選び進む。橋梁上には下草、立木と、橋梁が次第に「自然に」戻りはじめているようだ。







水根駅跡
橋梁を渡ると、しばらくは線路も残るが、それも消え、その先は雑草・立木が茂り先が見えない状態。取り敢えず、雑草・立木を折り敷き、藪漕ぎ状態で力任せで進む。ほどなく資材置き場といった広場に出る。そこが水根貨物線水根駅跡である。「水根積卸場」との記録もある。
歩き終えて一息つくと、種類は分からないが、夥しい数の小さい葉が衣類に張り付いている。落とすのに難儀した。藪漕ぎを避けるには、第一水根橋梁の辺りに国道に下りる踏み分け道があるようではある。

「奥多摩水と緑のふれあい館」
水根駅跡の資材置き場から国道に出ると直ぐ先に水根バス停があるのだが、最後の締め、ということで奥多摩湖の湖面を眺めるべく歩を進め、湖畔にある「奥多摩水と緑のふれあい館」で一休みし、バスで奥多摩駅に向かい、本日の散歩を終える。

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