伊予 丹原散歩 そのⅢ;丹原の利水史跡を辿る

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丹原の利水・治水史跡を巡る散歩も10箇所ほどカバーし終えた。場所の特定できる史跡は問題ないとして、特定できない史跡も運が味方してくれたのか、完璧ではないにしても、なんとかゲットできた。
今回散歩予定の史跡も「丹原町の史跡」に掲載されている情報以外に手掛かりは何もない。特に今回は関屋切抜水道という難物が控えている。沢に入り込むことになりそうだが、特段沢用の装備もしていないので、穏やかな沢であってほしいとの想いを抱き散歩に出かける。

○丹原利水史跡散歩
第一回;史跡①劈巌透水路史跡②中山川水菅橋>史跡③衝上断層>史跡④両岸分水工>史跡⑤志川堀抜隧道
第二回;史跡⑥釜之口井堰>史跡⑦掛井手(かけいで)>史跡⑧兼久の大池>史跡⑨高松の横井史跡>⑩西山興隆寺史跡>⑪古田の水路
第三回;史跡⑫関屋切抜水道>史跡⑬関屋川の堰堤>史跡⑬関屋川の堰堤>史跡⑭庄屋井手>史跡⑮中山川逆調整池>史跡⑯大頭(井)堰
(なお、史跡②中山川水菅橋、史跡④両岸分水工、史跡⑬関屋川の堰堤、史跡⑮中山川逆調整池、史跡⑯大頭(井)堰は「丹原町の史跡」に指定されているものではなく、個人の興味・関心より便宜的に史跡と表記した。また史跡⑯大頭(井)堰は丹原ではなく小松地区でもある)



今回のルート;史跡⑫ 関屋切抜水道>関屋の集落>関屋切抜水道の隧道出口>隧道出口から水路を里へと辿る>集落を下る水路を辿る>南沢を隧道入口へ向かう>取水口>隧道入口>崖を這い上がり隧道出口の道に>史跡⑬関屋川の堰堤>ウルメ川>田滝川>山之神神社>中之谷氏神神社>田滝の集落>史跡⑭庄屋井手>下千原集落>五社大明神>金比羅街道>史跡⑮中山川逆調整池>史跡⑯大頭(井)堰

関屋の集落
最初の目的地は関屋切抜水道。といっても、場所は「丹原町の史跡」にある「関屋南沢」と「中川地区」以外に手掛かりはない。中川地区は現在の地区区分では丹原町の西部の大部分を占め大きすぎるので、昔の中川村(劈巌透水路を明治に大改修した越智茂登太が中川村の村長)の範囲を調べると、1889年12月15日 - 町村制施行により周敷郡湯谷口村(ゆやぐち)、志川村(しかわ)、寺尾村(てらお)、来見村(くるみ)、石経村(いしきょう)、関屋村(せきや-)の6か村、及び明穂村(あかお)の一部が合併し周敷郡中川村として発足しているので、周桑平野が高縄山地と接する丹原の南西端一帯をカバーする。それともうひとつの手掛かりである「関屋南沢」を推測するに、地図には、田滝で北からくる田滝川に、西からの二つの沢が合流し、その下流を関屋川と記している。西から合流する二つの流れが南沢ではないかと推測。とりあえず関屋川に合流するふたつの沢の中にある関屋の集落に向かう。

実家のある新居浜を離れ国道11号を西に丹原に。湯ノ谷口交差点を右に折れ、県道48号を北に進み、関屋川手前を左に折れ県道152号を北西に向かい、関屋川の支流であるふたつの流れの間にある関屋の集会所に進む。

史跡⑫ 関屋切抜水道
■水利の悪かった中川地区には、関屋南谷の水を引用するための切抜水道がある。天保15年(1844),玉井又兵衛、渡辺伊勢八の主唱により、長さ45間(約81m),幅4尺(約1・2m)、高さ7尺(2.4m)の水路を竣工、10町歩の灌漑に充てていたが、その後改修により、現在20町歩の水田を潤している(「丹原町の文化財」より)

関屋切抜水道の隧道出口に向かう
さて、これから先どうしたものか、二つの沢の南側の沢から取水して、隧道を通り、この関屋集落へ水を通しているのだとは思うのだが、「関屋切抜水道」の場所をもう少し特定できないかと地元の方にお聞きすることに。
数人の方に聞くと、隧道出口は関屋集会所で北に向かう県道152号から離れ、窓峠へと続く道を進むべし、と。三島神社を越え、多くの幡のたつ建設資材置き場あたりが民家の切れるところであり、その先で道が大きくカーブする辺りから水路が続いているので、それを辿りクロスする沢を越えて進めば「関屋切抜水道」の出口に当たるとのこと。
水路がわからなければ、沢にかかる数メートルの橋があり、そこから水路溝といった造りが見えるので、それを目安に辿れば出口に当たるとのことでもあった。また、隧道の入口は二つの支流の南側の沢にあるとのこと。

大体の道筋はわかったので隧道探しの手順は、まずは隧道出口を確認し、状況次第で、その地点から南側の沢に向かって崖を這い上がり、そして沢に下り隧道入口をみつけることとする。

関屋切抜水道の隧道出口
車を勧め、途中三島神社にお参りし、民家が切れる資材置き場の先のカーブを回り車を進めるが、先が少々怖くなり結局バックで車を戻し、資材置き場の脇のカーブ手前に駐車し、出口探しに出発。
道を進みカーブを曲がり道脇に水路などないものかと注意しながら進むが、それらしきものは見当たらない。仕方なく沢を目安に進む。最初の沢は小さく、そこにかかる橋も小さい。次いで現れた沢は、架かる橋も結構大きく。そこかと思うがその沢には人工的な水路らしきものは見えない。
更に先に進みヘアピンカーブのターニングポイントのところが広場となっており、三角形の道がつくられ、林の中に用水施設らしきものもあるのだが、隧道出口といったものではない。
辺りを彷徨うがそれらしき手掛かりもない。ほとんど出口探しを諦めて、それでも大きめの沢になにか手掛りがないかと「ためすすがめつ」眺めるがそれらしき水路はみえない。さらに下り、最初に出合った小さめの沢を眺めると、水路ではないのだが、沢の中にコンクリートの枠がある流路が見えた。関屋の隧道からの水路ではないとは思うのだが、とりあえず沢に入ってみることに。

道から沢に下りる場所を探し、足場の悪い沢をコンクリートでつくられた「枠」を見ながら下ってゆくと、突然その沢を横断する立派な水路に出合った。これが関屋切抜水道出口からの水路に間違いなしと一安心。誠にラッキーであった。 そして、その水路を上流へと進むと今度は大きな沢を横断する。この沢が先ほどの大きめの橋のかかった沢ではあろう。沢をクロスし先に進むと関屋切抜水道出口があった。そしてその場所は、先ほど歩いたヘアピンカーブの曲がり角の東の崖下であった。

隧道出口から水路を里へと辿る
当初の予定では、水路を辿り隧道出口へ、ということであったのだが、結局成り行きでほぼ隧道出口へと出てしまった。ということで、里に続く水路を確認したく、予定を変更し、まずは水路を辿り里に下り、そこから南沢を上って隧道入口へと向かうことにした。
隧道出口からの水路に沿ってふたつの沢を横断し先に進む。水路はさきほど歩いてきた道に沿って進み、その比高差が次第に減ってゆく。そしてしばらく進むと水路が道とクロスし、そこからは水路は山側に移る。ここを歩いてきたのだが、全く気がつかなかった。
道をクロスした水路は、最初は道脇を流れているが、次第に道との比高差を上げ、またルートも道から離れ先に進む。どこに連れて行かれるのか少々不安になった頃、水路は先ほど歩いた道に向かって傾斜を持って下り、道の下を暗渠となって抜け、道の南で再び開渠となって里に下る。そしてその地点は、人家が切れて最初のカーブのところであった。山側から下る水路、道の南に下る水路を見落とさなければ、その水路に沿って辿れば隧道出口へと難なく行けたのだが、後の祭りではある。

集落を下る水路を辿る
道を離れ里への水路を辿る。左右の耕地への分水などが実感できる。また、このような標高の高い集落に水を導くに、更に標高の高い沢から、しかも間を遮る岩盤を穿って水を求める先人の努力が実際歩いて感じることができる。苦労して隧道を探すもの、書物での記述では実感できない何かを求めて歩くのかとも思う。
水路に沿って下ると萬福寺の境内前。そこから更に傾斜のある耕地を水路に沿って里に下り、今度は隧道入口探しに出かける。

南沢の隧道入口へ向かう
隧道入口の場所はわかったので入口の場所を推測。隧道入口のあったヘアピンカーブの東の崖下より標高の高い辺りを地図でチェックすると、南沢に沿って続く道を進み、道が切れた先に見える、ふたつほどの堰堤のどれかの辺りかと思う。

取水口
南沢に沿って道を進み、道が切れる辺りで沢に入る。それほど厳しい沢ではないので進むのには苦労しない。ただ、途中いくつかの堰堤を飛び出ている石を手掛り・足掛りに這い上がり、もうそろそろか、と思った辺りに現れた巨大な堰堤にウンザリしたとき、左手に人工的な石組みの水路らしきものが見えた。そこが取水口から隧道入口に続く水路であった。

関屋切抜水道の隧道入口
取水口からは川沿いの石組の水路、山中に入ると地面を掘割った水路を辿ると関屋切抜水道の隧道入口が現れた。

崖を這い上がり隧道出口の道へ
石組の隧道入口をしばし眺め、故なき達成感に一人悦にいる。しばし休憩し、隧道入口辺りから崖を這い上がる。結構急な崖ではあったが、上りきった辺りは隧道出口探しでイメージできるので怖くはない。
苦労して這い上がった先は、ペアピンカーブの回り角の辺りにあった三角形の道がつくられている平地であった。これで関屋切抜水道の隧道入口・出口をカバー。気持ちも軽く勝手知ったる山道を車の停めているところに戻る。

史跡⑬ 関屋川の堰堤
■高縄山系に源を発し、中山川に注ぐ関屋川は、普段は表流水の少ない典型的な天井川ですが、古くからひとたび大雨になると氾濫を繰り返し、流域の地区はその都度洪水の被害を受けてきました。
このため明治期から砂防工事が断続的に続けられ、階段状に砂防堤が連続する珍しい景観をもつ川となりました。特に支流のウルメ川の堰堤群は20mから30m間隔で多くの堰堤が連なっていることから(社)土木学会の近代土木遺産に指定されています。
護岸の改修と合わせたこうした河川工事により、往時のような洪水被害被害が防がれているのです。
愛媛県最大級の関屋川扇状地と、その地形を形成した川の流れ。長い時間と多くの人々の苦労によって川は姿を変えましたが、両者が織り成す扇状地の風景は、不可分な一体感も相まって、のどかながらとても印象的です(「西条市観光情報 ふるさと探訪76」より)。

予定では次の目的地は国道11号を松山方面に向かい、中山川逆貯水池近くにある千原の集落の「庄屋井手」ではあるのだが、この近辺に他に利水の史跡などないものかとWEBでチェックしていると、「西条市観光情報 ふるさと探訪76」に「関屋川の堰堤」が紹介されていた。連続する階段状の砂防堤が珍しいとのこと。関屋川水系の中でも、特に「ウルメ川の堰堤群」が名高い、と。
とはいうものの、ウルメ川がどこなのかわからない。関屋川として田滝で合流する三つの沢の内、西から注ぐふたつの流れの南側の沢は関屋切抜水道の隧道入口があった南沢、北の沢はその名称はわからない。そして残りの一つは田滝地区の上流は田滝川と称され、そこには幾つかの支流が注ぐ。そのどれかひとつではあろう。

ウルメ川
ということで、とりあえず車を県道151号に乗せ田滝地区に向かうと、ほどなく関屋川に合流する北側の沢に架かる橋。とりあえず車を停める。なるほど連続した階段状の堰堤が見える。実のところ、この沢が「ウルメ川」であったことが後からわかったのだが、その時は知るよしもなし。とりあえず写真だけは撮り田滝川の沢へと向かう。




田滝川

ウルメ川を越え、田滝の集落で県道151号を離れ、田滝川に沿って上流へと車を走らす。田滝川も連続した堰堤が続く。「西条市観光情報 ふるさと探訪76」には明治期から造られたとのことであるが、印象としては少し新しいように思う。その時は、もっと上流の沢に行けば、「西条市観光情報 ふるさと探訪76」に掲載されている「ウルメ沢」の堰堤があるかも、との想いのみ。

山之神神社
ほどなく川脇に山之神神社。車を停めてお参り。この社には田滝川の上流の山中にある「黒滝神社」の遙拝所があるとのこと。
「愛媛の記憶」によれば、「丹原町田滝の「黒滝さん」は、桓武天皇の御代(七八八年)に三河国からの落武者神介四郎左衛門が権現谷で発見したといわれる。黒滝さんは女神とされ、兄の石鎚さんと力競べをした。黒滝さんの投げた石は石鎚さんのお庭に飛び、石鎚さんの投げた石は黒滝さんの拝殿の奥の大夫地に来た。兄妹喧嘩のため黒滝さんの氏子は石鎚さんには参詣しない」とのこと。石鎚さんの投げた石は黒滝さんの神域を侵したため、兄弟が仲違いし、そのため田滝の人は、石鎚山に登ったら石鎚大神に鎖から投げられるとの理由で参拝はしない習わし、とか。また権現山にある黒滝神社に泊まると、夜半に必ず笛や太鼓の音(カミカグラ)が間近に聞えるという言い伝えもあるそうです。
こんな縁起をパラパラ読んでいると、同じく「愛媛の記憶に」こんな記事があった;「黒滝神社の遥拝所の奥に12haの田んぼがあります。これは明和年間(1764~72年)に6ha、明治の初期に6haが開墾されたと聞いています。もともと、旧徳田(とくだ)村の田滝地区と旧中川村の関屋(せきや)地区は隣同士で、農業と林業をなりわいとしていて、境界のことでいさかいが絶えなかったようです。それで松山の殿様が仲裁に乗り出し、和解の代償として開墾された田んぼが田滝地区の農民に授けられたということです。その田んぼを奥新田といい、明治に開墾された田んぼを前新田と呼んでいます。また、関屋地区にはずい道を抜いて南谷(みなみだに)から水を引いてもらうようになったということです。昔から水の問題は深刻で、双方で傷害事件が起こるようなこともあったんです)、と。思わぬところで関屋切抜水道の「きっかけ」が登場した。とりあえず面倒がらず寄り道はするものである。

中之谷氏神神社
山之神神社から更に車を走らすと川沿いに中之谷氏神神社。集落もなにもないところに「氏神さま」って? 気になってチェックすると、これも「愛媛の記憶」の田滝集落の説明の中に「この集落は、元来現在地より一〇〇〇mほど奥地の扇頂部に立地していたものが、山津波によって明暦年間(一六五五~五八)現在地に移転してきたものと伝える。現在も奥地に集落の氏神が鎮座しているのは、その名残といえる」といった記事が目についた。明暦年間まではこのあたりに田滝の集落があったのだろう。物事にはすべからく、その拠ってたつ理由がある、ということ、か。

それはそれとして、神社にお参りし、車を神社脇に置き先に進む。と、行く手は採石場で立ち入り禁止。その先にも田滝川に注ぐ沢があるので、「ウルメ沢」の景観を求めて、川床に下り逆側の土手を進む。田滝川の堰堤は連続して続くが「西条市観光情報 ふるさと探訪76」に掲載された写真と比較すると、ちょっと新しいように思う。採石場の先でふたつに分かれる沢を確認するも、これといった趣のある堰堤群に出会うこともなく、結局引き返す。とっくに「ウルメ沢」に出合っているわけだから当然のことではあるが、その時は繰り返すが、知るよしもなし。

田滝の集落
田滝の集落まで戻り、県道151号を進むと、田滝小学校脇に「踊り子」といった石像と説明があった。気になり車を停めて案内を読むと「お廉踊り;400年以上も前から田滝地区に伝わる。村が大変な旱魃に襲われた際、雨乞いのため黒滝神社に奉納されたのが起源。村人たちが交代で連日連夜踊り続けたところ、本殿の御廉が動いたかと思うと、にわかに大雨が降り出したことから、この踊りが「お廉踊り」と呼ばれるようになった。両手に持った金銀の扇子を蝶の羽ばたきのようにひらめかせる優美な舞が特徴で、踊り場のほめ言葉「早口口上」も珍しいと言われている」といった案内があった。造られたのは平成26年とのこと。
上で「この集落(は、元来現在地より一〇〇〇mほど奥地の扇頂部に立地していたものが、山津波によって明暦年間(一六五五~五八)現在地に移転してきたものと伝える」とメモした。「愛媛の記憶」には「田滝の集落は、周桑平野の西方、関屋川の形成する扇状地の扇頂部に立地する。関屋川扇状地は扇頂部が標高二五〇m、扇端部が五〇m程度であって、その間の距離は約四㎞で、県下でも最も模式的な扇状地である。土地利用は扇頂部と扇端部に水田が開け、扇央には愛宕柿やみかんなどの果樹園が開け、扇状地の集落立地と土地利用の典型的な姿を見せている。
田滝は扇頂に立地する集落の一つであるが、その立地点は、やや扇央に寄った山麓に立地している」とある。山津波により元々は扇頂部近くにあり、その場所は水に苦労することはなかったのだろうが、現在の立地点は扇中部に近く、地下水を得るためには、二〇m以上もの深井戸を掘らなければならなかった、とのことである。昔から「田滝の火事には石投げい」といわれたのは、水不足を端的に表す言葉であった。松山藩主が田滝の住民にのみ瓦葺きを許しだのは、火災への配慮であったという(「愛媛の記憶)。こういったことが「お廉踊り」の背景にはあったのだろう。因みに、案内にあった、珍しいとされるお廉踊りの「踊り場のほめ言葉「早口口上」は「愛媛の記憶」に詳しく掲載されている。

史跡⑭ 庄屋井手
■千原部落は急傾斜で水田面積は非常にすくない。藩政時代の石高は18石5斗3升3合で、松山藩内で小屋村、関屋村、上総村に次ぎ4番目にすくない。 庄屋は村の振興に水田開発の必須を感じ、水路の設置を行ったものとおもわれる。黒河丈左衛門という水利技術に抜きん出た人がおり、水路の開発を行った。現在自動車道の傍にその水路を見ることができる。黒河丈左衛門は後、高松村に迎えられ丹原より後妻をもらい水道の建設に偉業を残した(「丹原町の文化財」より)
次の目的地である千原集落の「庄屋井手」に向かう。田滝集落から成り行きで国道11号に乗り、史跡散歩の最初に訪れた劈巌透水路のある湯谷口に。既にメモしたように「中山川が四国山地と高縄山地に挟まれた狭隘部から周桑平野へと流れ出す」湯谷口から中山川に沿って四国山地と高縄山地の裂け目を通る国道11号に沿って西へと進み、鞍瀬川が中山川に合流する文字通りの「落合」地区を越え、更に中山川に沿って進み千原集落へ。
集落とはいいながら、国道脇には「名所 桜三里」との看板はあるものの開いている気配の感じられない食堂など数件が見えるだけである。中山川を隔て急峻な千羽ヶ岳が美しい。
車を食堂脇に停め「庄屋井手」探しを始める。「丹原町の文化財」の説明に「自動車道の傍」ということである。道路の山側を注意しながら進むと、食堂から西に進み最初のカーブの先、コンクリートの壁面が切れて鉄の柵になるところに、人が辛うじて入れるスペースがあった。なんとなく「ノイズ」を感じ、鉄柵の中を進むと水路があり、朽ちた蓋のある分水口も現れた。これが説明にある「庄屋井手」の水路ではあろう。

水路は見つかったが、これはどう見ても水路の末端部、中山川への排水部分といったもののように思える。また、水量も少なく現在も使われているようにも思えないが、「丹原町の文化財」の説明にあった、急傾斜で水田面積は非常にすくない千原部落に水田を開くために開削した水路の痕跡などないものかと水路を求め国道から山肌を上る。

下千原集落
取水の場所の情報は無いため、沢からの取水かとも思い、食堂脇の沢に沿った小道を上る。しばらく沢を進み、成り行きで階段状の耕地を這い上がる。階段上の耕地には水管が下るが、それが往昔の庄屋井手とも思へない。先に進むとそこには大きく開けた平坦な地があった。学校のような建物もある。旧千原小学校で、現在は千原児童遊園となっており、災害時の一時「避難所に指定されていた。結構大きな校舎である。昔は結構は人の住む集落ではあったのだろう。その辺りは下千原地区であった。
千原の集落はその上に中千原、上千原と続く。どこまで行こうかとも思ったのだが、Google Mapの航空写真で見るに、沢から離れているようであり、また、国道から見たときには想像もできなかった、下千原地区の大きく開けた平坦地にちょっと驚き、そこで何故か満足し、それから更に上に向かうのを止めてしまった。
メモをするにあたり、「愛媛の記憶」を見ると千原の集落の説明に、「桜樹村地区の西端に千原の集落がある。集落は上千原・中千原・下千原の三つの小集落から構成されているが、その三集落は標高二〇〇~四五〇mの西向きの山腹緩斜面に連なって立地する。千原の集落の立地する緩斜面は、桜樹地区で最大のものであるが、これは地すべり地に由来するものである。集落は散村状をなして山腹斜面に展開し、また随所に水田がみられるが、これは地すべり地特有の湧水が各所にあり、それが飲料水と灌漑水を提供していることによるものである」、とあった。沢から離れすぎるということで中千原・下千原へと上るのを止めたわけだが、「湧水」が用水水源の可能性があるとすれば、もう一度水源探しに出かけようとも思う。
因みに、「日本歴史地名体系39」によると、千原村 は宝永7年(1710) 田 4反4畝であったものが、明治初年 田 6町8反余、との記載があった。先人の努力の賜であろう。

五社大明神
旧千原小学校の校舎下に立派な社。五社大明神とある、祭神は素盞鳴命(すさのをのみこと)、保食命(うけもちのみこと)、稚日女命(わかひるめのみこと)、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)、伊邪那美命(いざなみのみこと)。稚日女命は、日本書紀では天照大神の妹とされ、高天原で織折りをしているとき、素盞嗚尊が馬を投げ込み、それが原因で亡くなってしまう。それを悲しんだ天照大神が天岩戸に隠れたとのこと。古事記には登場しないようである(Wikipedia)。境内にはムクノキ・イチョウ・ハナゴの巨樹が残る。

金比羅街道
五社大明神の前の道を国道へと下る。この道は古の金比羅街道である。ルートは千原集落の少し西で中山川筋から現在の国道11号に上り、そこから国道を越えて山裾をこの五社大明神の少し上に出る。後日、金比羅街道を歩いたことがあるのだが、道跡もなくブッシュの藪漕ぎ道となっていた。 そしてこの五社大明神から一一旦桜三里の食堂のあったあたりの国道まで下りるが、そこから沢に沿って上り、現在の国道に沿って山裾を鞍瀬川との合流点である落合の手前まで3進む。沢を越えて東に進む辺りは竹藪など藪が激しく藪漕ぎを強いられるが、ほどなく数メートルの幅のある整備された道跡が残る。要所には石垣が組まれており、確証はないが金比羅街道と考えてもほぼ間違いないだろう。

○金毘羅街道のルート;松山から丹原・釜之口関まで
金比羅街道とは讃岐の金刀比羅宮への参詣道。松山から道後平野を進み東温市横河原で重信川を越え、川内まで進み、中山川沿いの山間部を越え、来見(宿場町)を通り釜之口渡に至る。
中山川沿いの山間部を越える道を往昔「中山越え」と称した。川内町から県道327号に沿って山間部に入り、松山自動車道と平行に進んだ県道327号が北に向かうあたりで県道を離れ、南に折れ九十九折れの道を檜峠に。そこから板屋、土谷集落へと舗装された道を南に下り、国道11号への合流の手前から再び山中に入る。中山川の左岸の山中1.5キロ程進むと中山逆調整池の脇に2本の源田桜。桜三里とも称され、江戸の頃は8500本近くもあった桜も千原鉱山の煙害で現在はこの2本を残すのみ。往昔はこの辺りから中山川を橋で越えていたとのことだが、現在は中山逆調整池の底に沈み、道は中山逆調整池の堰堤を越え国道11号に出る。
一旦国道11号に出た金比羅道は、すぐに国道の南の山裾に入り千原集落の五所神社の辺りに出る。そこから一度国道11号まで下り、下り切ったとことろをから再び山へと道を折り返し、国道11号に沿って山裾を進む。道は荒れており、現在は人が通る気配のない道である。
藪道を数キロ進み、鞍瀬川が中山川に合流する落合の手前、松山自動車道の唐子川が聳える山道を川に沿って進み、笹ヶ峠との間の鞍部を抜け、里道を来見に進み、そこから中山川に沿って下り釜之口に至る。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」)


史跡⑮ 中山川逆調整池
■五社大明神を国道まで下り、中山川逆調整池に向かう。当初、この千原集落の傍に中山川逆調整池があるとも思っていなかったのだが、国道のすぐ下が中山川逆調整池である。思いがけない利水施設の登場に心も軽く調整池への道を探す。
国道を西に進み、「庄屋井手」のあった先に「逆調整池」への案内。案内に従い道を下ると水を称えた堰堤があった。既にメモしてはあるが、「西条 水の歴史館」に「道前道後平野は瀬戸内海に面し雨量の少ない地方にあるため河川の流量が少なく、たびたび干魃の被害を受けてきました。このため、昭和32年から10年かけて面河ダムや道前道後平野に水を送る施設を国(農林水産省)がつくりました。面河ダムに貯留された水は隧道を通り中山川の逆調整池まで流下し、逆調整池で道前平野側と道後平野側に分水される。道前平野側では逆調整池で放水され、中山川を流下した面河ダム用水を、中山川取水堰から取り入れた後、両岸分水工で右岸幹線水路と、左岸幹線水路に分水しています。逆調整池で放水され、中山川を流下した面河ダム用水を、中山川取水堰から取り入れた後、両岸分水工で右岸幹線水路と、左岸幹線水路に分水しています。 一方道後平野側では逆調整池に設置されている千原取水塔より取水し、隧道を通り、南北分水口で北部幹線水路と南部幹線水路にそれぞれ分水されています」とあった。
因みに「逆調整池」とは、「ダムの上流に水力発電所がある場合、昼間と夜間の電力需要が著しく異なるため、昼間の流下水量と夜間それが大きく異なる。ために、下流への流下水量を調整し一定の水量を下流に流すためつくられるダムや堰堤のことを意味するようである。また、中山川取水口は劈巌透水路の少し上流に造られている。
また、既にメモした千原鉱山は、中山川逆調整池の下流、千羽ヶ岳が中山川に落ちる辺りにある、とのことである。

史跡⑯大頭(井)堰
■中山川逆調整池を見終え、国道を家路へと向かう。途中、「西条 水の歴史館」にあった中山川の取水堰として釜之口堰と同じく、戦国時代には既に築造されていたという「大頭堰」にちょっと立ち寄り。ここは丹原というか既に小松地区になっている。小松も古い歴史のある町であり、数年前だっただろうか『伊予小松藩会所日記;増川宏一(集英社新書)』なども面白く読んだりもしたが、今回は「丹原」ということで、あれこれはここでは省く。
国道11号を進み、明穂交差点を左に折れ、中山川に架かる「新金比羅橋」から少し上流に見える「大頭(井)堰」を眺める。この取水口は明穂・長野、小松地区の安井・大頭地区を潤す、とのことである。

○丹原の由来
これで丹原地区の利水・治水散歩のメモを終えよう、と思ったのだが、「丹原」の地名の由来のチェックをしていなかったのを思い出した。丹原の東、瀬戸内に面する地名が壬生川(丹生川)ということもあり、通常、丹=(水銀による)赤>丹原=赤い原(土地)、ということではあろう、と思いながらもチェックする。
あれこれチェックすると、壬生川はもともとは数条の川が流れる一帯であったため、「入り川(ニュウガワ)」と呼ばれていたようではあるが、川の上流で水銀が採集されだし、水銀を焼くと赤くなることから、延喜の頃(901~923)には「丹生川」と改名された、と。丹は朱砂を意味し、その鉱脈のあるところに丹生の名前があることが多い。
日本には丹(に・たん)のつく地名が各地にあるが、いずれも丹砂(タンシャ=硫化水銀)の産地であることを示している。中国の辰州が一大産地だったことで辰砂(シンシャ)とも呼ばれる水銀と硫黄の化合物で、朱砂や丹朱とも呼ばれる、とWIKIPEDIAにあった。
で、この「丹原」という地名は、江戸時代の1644年、時の藩主が代官に命じて、池田・今井・願連寺の原所と称する地を割いて新たに町を作り、商業地として免租し、他村より商家の移住を奨励して周布郡内における唯一の商業地として発展させた。これが町の始まりとされるが、この商業地として整備された土地が、赤色の砂礫の原野であったところに由来する、とのことであった。
数回にわたる丹原の利水史跡散歩もこれでほぼお終い。近くに住みながらも知らないこと多さに、改めて気付かされた。

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