戸川公園から辿った銅山川疏水散歩。しかし、途中の重石川から先は、まったく水路橋などに当たることはなかった。少々の未達感も残り、流路を調べ直し、再度疏水を辿ることにした。
図書館にいけばなんとかなるだろうと、新居浜市の図書館に行くも、『銅山川疏水史』といった疏水成立までの経緯をまとめた大作はあるも、流路に関する資料は皆無。それではと、伊予三島、今の四国中央市の図書館に行けば疏水の地元であり、なんらかの資料があるだろうと訪ねるが流路に関する資料はなかった。
さてどうしたものかと。WEBに掲載されていた「農林省 疏水百選・銅山川用水;銅山川疏水の歴史探訪」のページを見直し、どこか連絡先でもないものかとチェックすると問い合わせ先として愛媛県四国中央市農林土木課(実際は水産課)が掲載されていた。仕事の邪魔をして申し訳ないかとは思いながらも、他に手段が考えられず電話をかけ、疏水担当の紀井正明氏に直接お会いしお話を聞くことができた。
その資料をもとに、重石川までの水路橋などの施設名称、重石川から先の山中を進む隧道が沢を越えるときに現れる水路橋の場所などをお教え頂き、戸川公園から西に向かう銅山川疏水の施設名と位置が確認できた。散歩の時は単なる水路橋としかわからなかったものに名称をつけてメモすることができたるようになった。深謝!
で、今回の散歩は未達区間である重石川水路橋から新長谷寺までの水路橋を辿ることにする。紀井氏に教えて頂き地図上に施設マークがあるので、万全と思いきや、先回の散歩でメモしたように、楠谷川水路橋のある沢が完全に頭から抜け去っていたため、結構大騒動となってしまった。ちゃんと地図を読むといった基本を思い起こすためにも、ドタバタの顛末も含めメモを始める。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」)
図書館にいけばなんとかなるだろうと、新居浜市の図書館に行くも、『銅山川疏水史』といった疏水成立までの経緯をまとめた大作はあるも、流路に関する資料は皆無。それではと、伊予三島、今の四国中央市の図書館に行けば疏水の地元であり、なんらかの資料があるだろうと訪ねるが流路に関する資料はなかった。
さてどうしたものかと。WEBに掲載されていた「農林省 疏水百選・銅山川用水;銅山川疏水の歴史探訪」のページを見直し、どこか連絡先でもないものかとチェックすると問い合わせ先として愛媛県四国中央市農林土木課(実際は水産課)が掲載されていた。仕事の邪魔をして申し訳ないかとは思いながらも、他に手段が考えられず電話をかけ、疏水担当の紀井正明氏に直接お会いしお話を聞くことができた。
その資料をもとに、重石川までの水路橋などの施設名称、重石川から先の山中を進む隧道が沢を越えるときに現れる水路橋の場所などをお教え頂き、戸川公園から西に向かう銅山川疏水の施設名と位置が確認できた。散歩の時は単なる水路橋としかわからなかったものに名称をつけてメモすることができたるようになった。深謝!
で、今回の散歩は未達区間である重石川水路橋から新長谷寺までの水路橋を辿ることにする。紀井氏に教えて頂き地図上に施設マークがあるので、万全と思いきや、先回の散歩でメモしたように、楠谷川水路橋のある沢が完全に頭から抜け去っていたため、結構大騒動となってしまった。ちゃんと地図を読むといった基本を思い起こすためにも、ドタバタの顛末も含めメモを始める。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平24業使、第709号)」)
本日のルート;新長谷寺>長谷川水路橋>沢遡上>小倉川堰堤の先の沢遡上>楠谷川水路橋>楠谷川分水口>大倉川水路橋>小倉川サイフォン>新長谷寺
新長谷寺
実家のある新居浜市から車で新長谷寺に。駐車場に車をデポし散歩開始。まずは再度境内の水路を訪れる。仁王門近くの橋から水路に下りるのは難しそうであり、一度仁王門を出て、水路へのアプローチを探し境内に。水路は上流から3段になって流れているのがよくわかる。これは水量による水争いを避けるため水量を上流から三段階でならす工夫とか。
水路は境内で3つの水路に分かれ、さらに分岐をしながら西寒川地区の生活水として流れていたようである。何度かメモしたように、この地区の特徴である発達した扇状地の厚く堆積した砂礫故に地下水位が深く、井戸を掘るのが困難であり、生活用水は河川の谷口、扇状地の扇頂から取り入れた水路を頼りとせざるを得ないため、各家庭は水路の水を「くみじ」を設けて引き込み、上水道が完備するまでは飲料水としても利用していたという。「くみじ」は長さ1.5m、幅70~80cm程度の長方形の水溜であり、水路の一角であったり、屋敷内に引き込んだりして造り、そこで汲み上げられた水は水瓶で濾過されて飲用された、とある。
長谷川水路橋
境内を離れ、長谷川から新長谷寺への水路取水口を見やりながら先に進むと、水槽らしきタンクが見える。銅山川疏水の長谷川水路橋はその少し先にあった。水路橋を隧道出口を見るために渡っているとモミジ見物の人たちから何を酔狂な、といった面持ちで見咎められた。結構堂々とした水路橋であった。
水路橋はここから西は再び隧道に入り、西谷川の川筋で再び姿を現す。長谷川水路橋から西の疏水と、戸川分水工から東の川之江方面に向かう銅山川東部幹線は次回帰省のときのお楽しみとする。
沢遡上
長谷川水路橋から次の目的地である「小倉川水路橋」に向かう。実はこの段階で前回からメモしている通り、楠谷川の沢筋が完全に頭に無く、結果的にそれから西の沢が一筋ごとずれてしまっていた。つまりは、小倉川を大倉川、大倉川を楠谷川と思い込んでいたのである。
で、結果として堰堤のある小倉川である川を大倉川と思い込んだ結果、そこまでの間に「小倉川」を見つけ出さなければならない。ということで、何とか沢筋がないものかと進むと、山からの落水により人がひとり通れるかどうかといった「沢」を見つけ、そこに這い上がる。山から流れる水によって、誠に狭いながらも「沢」とはなっており、その狭さ故に「小倉川」と呼ばれるのであろうと妄想し、沢をよじ登る。
道から15分ほど、比高差で30mほど沢を這い上がるが、水路橋など何も見当たらない。結局あえなく撤退。次の大倉川(本当はこれが小倉川)で堰堤の先を進み水路橋を見つけ、そこから「小倉川水路橋」へのあたりをつけようとの思惑である。
小倉川堰堤の先の沢遡上
道路に戻り、先に進みヘアピンで右に入る道に入り堰堤に。この段階で、水路橋は堰堤の先にある、と思い込んでいた。先回同様に、高巻きして堰堤に上り、堰堤脇から酷い藪を川筋に下りる。
堰堤での標高112m,時刻12時10分に沢を上り始める。途中、沢が分かれたり、水が切れたりするも、ひたすらに沢筋を這い上がる。が、いくら登っても水路橋は見つからない。ここで見つけないことには、と思うあまり、標高から考えても、疏水がこんな高いところを通るはずはないのはわかっていながらも、先に見えるものがすべて水路橋と見える有様。
ほとんど意地になって沢を這い上がった結果、気が付けば標高300m。40分近く沢を上っていた。結局この沢も水路橋をみつけられないまま撤退。下りは転びつつ、まろびつつといった有様で足元は泥だらけとなって堰堤まで下り、少々悔しい思いをしながら道に戻る。道に戻ると時刻は13時15分となっていた。1時間ほど山中の沢を彷徨ったことになる。
それでも、なんとなく納得できず、紀井氏から頂いた地図のをみると、道から南東に上る道が水路橋あたりまで続いている。辺りをうろうろすると、ひとつそのような道があるがその道はすぐに川筋に辺り行き止まり(実は、この先に小倉川サイフォンがあったのだが)、それではと、その西にある墓地の山側にある柵に沿って道があるのだろかと這い上がるが、とても先に進めるようではないので元に戻る。はてさて。
楠谷川水路橋
さてどうしたものかとiphoneのGoogle Mapを見ていると、楠谷川のある沢筋が目に入った。何度かメモした、八皇子社に立ち寄った折に完全に失念した谷筋である。で、紀井氏にiphoneで撮らせてもらった地図を見ると、楠谷川水路橋の場所と完全に一致。また、楠谷川筋と思っていた妻鳥庵の西の川は大倉川、そして、今まで大倉川と思って山中を這いずり回った川筋は小倉川であることが判明。いままでの苦労は一体なんだったのか、とは思いながらも、ちゃんと地図を読むことを改めて心に刻む。
で、気分も新たに、ということで楠谷川から西に順に水路橋を辿ろうと、喜蔵川左岸に。川に沿って先に進むと楠谷川水路橋が現れた。ここさえ先回きちんと辿っておれば本日のドタバタは無かったかとも思うが、後の祭りである。
楠谷川分水口
楠谷川水路橋を渡り、お教え頂いた資料にある楠谷川分水口に向かう。水路は暗渠となるも、水路らしき道筋を辿るとささやかな祠の先に分水口らしき構造物が現れる。北方向に下る水路も見えるのでこれが楠谷分水口ではあろう。
大倉川水路橋
楠谷川を離れ、次は妻鳥庵の西の川筋にある大倉川水路橋に。この川筋も先回川筋のチェックを忘れたところ。堀子川を渡る時、松山自動車道の北側に移り、橋を渡り再び南側に移ったとき、うっかり忘れてしまったこともさることながら、銅山川疏水は松山道に沿って暗渠となって進んでいるのだろう、と思い込んでいたのだろう。今回は大倉川水路橋の地図も確認し、妻鳥庵から山に入る道を進むと大倉川水路橋が現れた。苔むした橋と竹林の姿は美しかった。
小倉川サイフォン
次は小倉川水路橋。地図で確認すると、大倉川と思い込んでいた堰堤のある川筋の堰堤手前にある。水路橋が堰堤の下にあるなど、水量が多いときに物騒でありえないと思い、堰堤の先の沢に這い上がり泥まみれになったのだが、教えて頂いた地図ではどう見ても堰堤の下にある。堰堤に進む道を先に進み、お墓の手間に左上へと登る道に入る。先回もこの道はチェックしたが、すぐに川筋に当たるため引き返した道でもある。
道を進むと護岸工事された川筋となり、そこを水路橋を求めて堰堤下まで進むがそれらしき橋は見つからない。堰堤下で引き返し、護岸工事の川筋を戻る途中、ちょっと気になる構造物が川筋の左右にある。ひょっとしたら水路橋ではなくサイホンでは。勝手な想像だが、堰堤ができるときに、その下流に架かる水路橋をサイフォンとして川筋の下を潜り、大水の被害を受けないようにしたのではと思う(後日、紀井氏より平成16年(2004)、護岸工事の際、水路橋では洪水に耐えきれないとの理由でサイフォンに変更された、とのご連絡を頂いた)。後からチェックするとWEBの「農林省 疏水百選・銅山川用水;銅山川疏水の歴史探訪」のページにも「小倉川サイフォン」となっていた。
新長谷寺
これで重石川以西の未達水路橋もすべてクリア。2回ほどとんでもない沢筋を這いずり回ったりしたものの、結果オーライということで気持ちも軽く車をデポした新長谷寺に戻り、本日の散歩を終える。次回は、新長谷寺以西の銅山川疏水西部幹線と、戸川の東西分水工から東の東部幹線を辿ろうと思う。
新長谷寺
実家のある新居浜市から車で新長谷寺に。駐車場に車をデポし散歩開始。まずは再度境内の水路を訪れる。仁王門近くの橋から水路に下りるのは難しそうであり、一度仁王門を出て、水路へのアプローチを探し境内に。水路は上流から3段になって流れているのがよくわかる。これは水量による水争いを避けるため水量を上流から三段階でならす工夫とか。
水路は境内で3つの水路に分かれ、さらに分岐をしながら西寒川地区の生活水として流れていたようである。何度かメモしたように、この地区の特徴である発達した扇状地の厚く堆積した砂礫故に地下水位が深く、井戸を掘るのが困難であり、生活用水は河川の谷口、扇状地の扇頂から取り入れた水路を頼りとせざるを得ないため、各家庭は水路の水を「くみじ」を設けて引き込み、上水道が完備するまでは飲料水としても利用していたという。「くみじ」は長さ1.5m、幅70~80cm程度の長方形の水溜であり、水路の一角であったり、屋敷内に引き込んだりして造り、そこで汲み上げられた水は水瓶で濾過されて飲用された、とある。
長谷川水路橋
境内を離れ、長谷川から新長谷寺への水路取水口を見やりながら先に進むと、水槽らしきタンクが見える。銅山川疏水の長谷川水路橋はその少し先にあった。水路橋を隧道出口を見るために渡っているとモミジ見物の人たちから何を酔狂な、といった面持ちで見咎められた。結構堂々とした水路橋であった。
水路橋はここから西は再び隧道に入り、西谷川の川筋で再び姿を現す。長谷川水路橋から西の疏水と、戸川分水工から東の川之江方面に向かう銅山川東部幹線は次回帰省のときのお楽しみとする。
沢遡上
長谷川水路橋から次の目的地である「小倉川水路橋」に向かう。実はこの段階で前回からメモしている通り、楠谷川の沢筋が完全に頭に無く、結果的にそれから西の沢が一筋ごとずれてしまっていた。つまりは、小倉川を大倉川、大倉川を楠谷川と思い込んでいたのである。
で、結果として堰堤のある小倉川である川を大倉川と思い込んだ結果、そこまでの間に「小倉川」を見つけ出さなければならない。ということで、何とか沢筋がないものかと進むと、山からの落水により人がひとり通れるかどうかといった「沢」を見つけ、そこに這い上がる。山から流れる水によって、誠に狭いながらも「沢」とはなっており、その狭さ故に「小倉川」と呼ばれるのであろうと妄想し、沢をよじ登る。
道から15分ほど、比高差で30mほど沢を這い上がるが、水路橋など何も見当たらない。結局あえなく撤退。次の大倉川(本当はこれが小倉川)で堰堤の先を進み水路橋を見つけ、そこから「小倉川水路橋」へのあたりをつけようとの思惑である。
小倉川堰堤の先の沢遡上
道路に戻り、先に進みヘアピンで右に入る道に入り堰堤に。この段階で、水路橋は堰堤の先にある、と思い込んでいた。先回同様に、高巻きして堰堤に上り、堰堤脇から酷い藪を川筋に下りる。
堰堤での標高112m,時刻12時10分に沢を上り始める。途中、沢が分かれたり、水が切れたりするも、ひたすらに沢筋を這い上がる。が、いくら登っても水路橋は見つからない。ここで見つけないことには、と思うあまり、標高から考えても、疏水がこんな高いところを通るはずはないのはわかっていながらも、先に見えるものがすべて水路橋と見える有様。
ほとんど意地になって沢を這い上がった結果、気が付けば標高300m。40分近く沢を上っていた。結局この沢も水路橋をみつけられないまま撤退。下りは転びつつ、まろびつつといった有様で足元は泥だらけとなって堰堤まで下り、少々悔しい思いをしながら道に戻る。道に戻ると時刻は13時15分となっていた。1時間ほど山中の沢を彷徨ったことになる。
それでも、なんとなく納得できず、紀井氏から頂いた地図のをみると、道から南東に上る道が水路橋あたりまで続いている。辺りをうろうろすると、ひとつそのような道があるがその道はすぐに川筋に辺り行き止まり(実は、この先に小倉川サイフォンがあったのだが)、それではと、その西にある墓地の山側にある柵に沿って道があるのだろかと這い上がるが、とても先に進めるようではないので元に戻る。はてさて。
楠谷川水路橋
さてどうしたものかとiphoneのGoogle Mapを見ていると、楠谷川のある沢筋が目に入った。何度かメモした、八皇子社に立ち寄った折に完全に失念した谷筋である。で、紀井氏にiphoneで撮らせてもらった地図を見ると、楠谷川水路橋の場所と完全に一致。また、楠谷川筋と思っていた妻鳥庵の西の川は大倉川、そして、今まで大倉川と思って山中を這いずり回った川筋は小倉川であることが判明。いままでの苦労は一体なんだったのか、とは思いながらも、ちゃんと地図を読むことを改めて心に刻む。
で、気分も新たに、ということで楠谷川から西に順に水路橋を辿ろうと、喜蔵川左岸に。川に沿って先に進むと楠谷川水路橋が現れた。ここさえ先回きちんと辿っておれば本日のドタバタは無かったかとも思うが、後の祭りである。
楠谷川分水口
楠谷川水路橋を渡り、お教え頂いた資料にある楠谷川分水口に向かう。水路は暗渠となるも、水路らしき道筋を辿るとささやかな祠の先に分水口らしき構造物が現れる。北方向に下る水路も見えるのでこれが楠谷分水口ではあろう。
大倉川水路橋
楠谷川を離れ、次は妻鳥庵の西の川筋にある大倉川水路橋に。この川筋も先回川筋のチェックを忘れたところ。堀子川を渡る時、松山自動車道の北側に移り、橋を渡り再び南側に移ったとき、うっかり忘れてしまったこともさることながら、銅山川疏水は松山道に沿って暗渠となって進んでいるのだろう、と思い込んでいたのだろう。今回は大倉川水路橋の地図も確認し、妻鳥庵から山に入る道を進むと大倉川水路橋が現れた。苔むした橋と竹林の姿は美しかった。
小倉川サイフォン
次は小倉川水路橋。地図で確認すると、大倉川と思い込んでいた堰堤のある川筋の堰堤手前にある。水路橋が堰堤の下にあるなど、水量が多いときに物騒でありえないと思い、堰堤の先の沢に這い上がり泥まみれになったのだが、教えて頂いた地図ではどう見ても堰堤の下にある。堰堤に進む道を先に進み、お墓の手間に左上へと登る道に入る。先回もこの道はチェックしたが、すぐに川筋に当たるため引き返した道でもある。
道を進むと護岸工事された川筋となり、そこを水路橋を求めて堰堤下まで進むがそれらしき橋は見つからない。堰堤下で引き返し、護岸工事の川筋を戻る途中、ちょっと気になる構造物が川筋の左右にある。ひょっとしたら水路橋ではなくサイホンでは。勝手な想像だが、堰堤ができるときに、その下流に架かる水路橋をサイフォンとして川筋の下を潜り、大水の被害を受けないようにしたのではと思う(後日、紀井氏より平成16年(2004)、護岸工事の際、水路橋では洪水に耐えきれないとの理由でサイフォンに変更された、とのご連絡を頂いた)。後からチェックするとWEBの「農林省 疏水百選・銅山川用水;銅山川疏水の歴史探訪」のページにも「小倉川サイフォン」となっていた。
新長谷寺
これで重石川以西の未達水路橋もすべてクリア。2回ほどとんでもない沢筋を這いずり回ったりしたものの、結果オーライということで気持ちも軽く車をデポした新長谷寺に戻り、本日の散歩を終える。次回は、新長谷寺以西の銅山川疏水西部幹線と、戸川の東西分水工から東の東部幹線を辿ろうと思う。
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