道隆寺から天皇寺までの旧遍路道歩きの2回目。郷照寺から天皇寺までの旧遍路道を、件(くだん)の如く標石を目安にトレースする。
今回も、途中「ゆるぎ岩」といった言葉に惹かれ、ちょっと寄り道をしながらの歩き遍路メモ。
本日のルート;
■七十七番札所・道隆寺から七十八番郷照寺へ
七十七番札所・道隆寺>地蔵堂傍の茂兵衛道標>天満宮傍、T字路角の標石>塩屋別院>正宗寺>寿覚寺南の金毘羅標石>(太助灯篭へ>寿覚院山門前の常夜灯と標石>太助灯篭)>丸亀市街を抜け宇多津に入る>県道左側に地蔵堂>誰袖(たがそで)の標石>誰袖(たがそで)の標石>本妙寺>郷照寺参道前の徳右衛門道標>七十八番札所郷照寺
■七十八番札所・郷照寺から七十九番札所・天皇寺へ
七十八番札所郷照寺>閻魔堂>大束川手前、公園傍の標石>西光寺>聖通寺分岐点の標石>(聖通山のゆるぎ石)>県道33号との交差角に標石>巨石に刻まれた不動尊>白金町の本街道右側に標石>本街道を東へ>標石2基の分岐点で本街道から右に折れる>予讃線・瀬戸大橋線踏切先の標石>八十場の霊泉>茂兵衛道標(100度目)>裏参道への標石>第七十九番札所高照院
●大吉地蔵尊の前に標石
細くゆるやかな坂を上る。山門前に「大吉地蔵」と呼ばれる地蔵尊。台座に刻まれる「大吉」は願主の名。備中の人。「四国廿一度巡拝供養」とも刻まれる。 地蔵前の道脇に標石。手印と共に「大師道 弘化三年」といった文字が刻まれる。
●鐘楼
山門を潜り、道を進むと堂宇の一段低い広場に鐘楼がある。なんとなく唐突な感があるが、元は大師堂傍にあったものがここに移されたようだ。が、鐘楼からの宇多津の眺めは、いい。
案内に鐘楼の鐘にまつわる伝説が記されていた。江戸の頃、この鐘が割れた。折しも堺から遍路にきていた鋳物師に鋳造依頼。金を鋳直す材料として蓄えていた銅鏡を山から運ぶことに。
と、とみくま村の庄屋さんと一緒に銅鏡を運んでくれたお爺さんが突然姿を消す。人々はそのお爺さんを春日明神であろうと噂をした、と。造り直した鐘はよく鳴り本州まで聞こえ、あまつさえその音色に誘われて龍神までも現れた、とか。
この鐘はその歴史的価値ゆえに戦時の金属供出にも免れ、現在に至る」と言ったことが書いてあった。
そのお爺さんは龍神の化身とか、鐘は鋳直しではなく富熊村の庄屋の心願成就の祝いに境から鐘を鋳る名人を呼び、鐘を造ったとかいろいとバリエーションがあるようだ。
●本堂
石段を上ると右手に納経所、正面は本坊。右に折れると本堂がある。寛保年間と言うから18世紀中頃の建立。本尊は阿弥陀如来。御詠歌は「踊りはね念仏唱う道場寺 拍子それえて鉦を打つなり」。
御詠歌は踊り念仏を想起させる。札所の宗派は今までもあまり気にしたことはないのだが、御詠歌が気になりチェックすると宗派は踊り念仏で知られる一遍上人の時宗とのこと。四国札所で唯一の時宗の寺ではないだろうか。
Wikipediaに拠ると、「寺伝によれば、行基が神亀2年(725年)に一尺八寸(55cmという説も)の阿弥陀如来を本尊として道場寺の名で開基した。大同2年(807年)に空海(弘法大師)が伽藍を整備した。その時に厄除の誓願を修し大師像を納め、それが「厄除うたづ大師」として信仰されていると云われている。 仁寿年間(851年から854年)には理源大師が阿弥陀三昧の行を修した。寛和年間(985年から987年)には恵信僧都が釈迦如来の絵図を納め釈迦堂を建立した。
正応元年(1288年)には一遍上人が遊行の折に3か月逗留し踊り念仏の道場を開いた。その後も栄えたが天正の兵火(1576年から1585年)で堂宇を焼失するも寛文4年(1664年)高松藩主松平頼重により再興、その時の住持と徳川家の関係により、時宗に属し郷照寺と改称した。しかし、『四国遍礼名所図会』(1800年刊)にも1826年の納経帳にも道場寺となっている。四国八十八箇所では珍しい異なる2つの宗派が共存する寺になっている」とあった。
説明にある「ふたつの宗派が共存する」の意味するところは門外漢には不詳だが、開基の頃は天台宗。空海の縁で真言宗、その後荒れ果てていた堂宇を一遍が直し時宗、江戸の頃は浄土宗の僧が住職をつとめ、現在は時宗と宗派は何度か変わっている。また、道場寺の名前の示す如く、この寺は高野聖の往来する修験道と関係深い寺であった、とも。
寺名といえば、道場場から郷照寺となる間に、江照寺と称される時期もあったとする。入り江が入り込んでいた地形からの命名。その後町屋が増えたため郷照寺とした、とか。宗派だけでなく、寺名も何度か変わっているようだ。
「ふたつの宗派が共存する」と言えば札所六十七番の大興寺を思い起こす。真言と天台のふたつの大師堂が建っていた。
〇ぽっくりさん
本堂右前に3基の石仏。讃岐の三大ぽっくりさん、とのことだが、少し大きな釈迦座像の他2基がぽっくりさんなのだろうか。はっきりしなかった。また、三大という、その他の二つのポックリさんは?特段、これに関する記事はヒットしなかった。
●庚申堂
本堂右前に庚申堂。お寺の境内に庚申堂が建つのは珍しい。内部には見ざる、言わざる、聞かざるの三猿を従えた青面金剛像が祀られるとのこと。お堂傍には撫で仏も佇んでいた。
〇庚申信仰と三猿
庚申信仰と三猿の関係は?庚申(かのえさる)からとも、また庚申の夜、天帝に宿主の罪を告げ口する三尸(さんし)の虫に己が罪を見なかった、聞かなかった、そして告げ口しないで、との願いから、とも。
道教では人には魂(コン)、魄(ハク)、三尸(さんし)という三つの霊が宿る、と言う。宿主が亡くなると魂(コン)は天に、魄(ハク)は地下に戻る。幽霊の決まり文句「恨めしや~、コンパクこの世にとどまりて恨みはらさずおくものか~」のコンパクがそれ。
三尸は宿主が亡くなると自由になれるとされる。自由になりたいがため、宿主がむなしくなることを待ち望むわけだ。この三尸、旧暦の60日ほどで一回というから、年に6,7回巡りくる庚申(かのえさる)の日、人が眠りにつくと宿主の体を抜け出す。天帝に宿主の罪を告げるためだが、そのレポートにより天帝は宿主の寿命を決める、とか。
宿主をむなしくし、はやく自由になりたい三尸に、あることないこと告げ口されたらかなわんと、人は寝ないで朝を迎えた。これが庚申待ち。眠らなければ三尸は体を抜けだすことができないためである。
〇庚申信仰と青面金剛
で、庚申信仰と青面金剛の関係は? 道教の天帝を仏教では帝釈天とみなすようであり、青面金剛がその帝釈天の使者であるが故と。また三尸の語呂合わせでもないだろうが、伝尸病(でんし;結核)に霊験あらたかとされるのが青面金剛であった故、とも。
●大師堂
本堂の左を歩き、石段を上ると大師堂。上述の如く、大同2年(807年)に空海(弘法大師)が伽藍を整備した。その時に厄除の誓願を修し大師像を納め、それが「厄除うたづ大師」として信仰されていると云われている。
●万体観音堂
大師堂の左、地下に万体観音堂がある。地下の回廊の左右に3万を越す小さな観音像が並ぶ。
●淡島明神
大師堂の左、少し上ると淡島明神。案内には「以空上人と天女のはなし」とあり、大雑把にまとめると「江戸の頃、この讃岐の地で疫病がはやり、お産の後に体を壊す女性があまた出た。で、高野山の高僧以空上人にお願いし、この寺で安産子宝・女病平癒・良縁成就の請願を立て、加多の淡島神社より本尊を勧請。淡島明堂を建て女性達の守護神となした」とあった。
天女さまの言及はないが、和歌山市加多にある全国の粟島神社の総本社である淡嶋神社の淡島神は、住吉神の女妃。夫人の病に霊験あらたかともされるので、天女とは淡島神のこと?
〇以空上人
上人は木食上人として知られる。コトバンクには、「肉類,五穀を食べず,木の実や草などを食料として修行することを木食といい,その修行を続ける高僧を木食上人といった。
高野山の復興に尽くした安土桃山時代の応其(おうご)(木食応其)は,広く木食上人の名で知られるが,江戸時代前期には摂津の勝尾寺で苦行を続け霊験あらたかな僧として知られた以空(いくう),中期には京都五条坂の安祥院中興の祖となった養阿,江戸湯島の木食寺の開基として知られる義高,後期には特異な様式の仏像を彫刻して庶民教化に尽くした五行(木喰五行明満)があらわれるなど,木食上人として崇敬された高僧は少なくない。
木食は苦修練行の一つで,それを行うことによって身を浄め,心を堅固にすることができるとされたが,経典や儀軌の中に木食の典拠は見いだせない」とあった。
このお寺様の本堂裏手に木食上人堂がある、との記録もあったが見つからなかった。
●常盤明神
淡島堂の左手に小さな社。常盤明神とあり、案内には「狸が神様になったりんお話」とあり、簡単にまとめると「足利時代、この寺にいた臨阿という僧が傷ついた狸を助けた。
臨阿が主人である細川頼之公の供で都に帰る。やがて飢饉や兵火が起こり、この寺も悪者に襲われる。が、狸は寺を護るべく奮闘。これを見た地元民も協力し、寺を護り今に伝いた」とあった。
小さな社の傍に狸が祀られたのは、それゆえのことであった。
〇細川頼之
いつだったか、伊予の河野氏ゆかりの地を訪ね歩いたとき、折に触れて細川来之が登場してきた。南北朝の争乱記、同じ武家方の細川と伊予の河野が相争うことに最初は混乱した。
「えひめの記憶」には「足利尊氏は、すでに幕府開設以前の建武三年(一三三六)二月、官軍と戦って九州へ敗走する途中、播磨国室津で細川一族(和氏・顕氏ら七人)を四国に派遣し、四国の平定を細川氏に委任した(梅松論)。 幕府成立後も、細川一族は四国各国の守護職にしばしば任じられ、南北朝末期(貞治四年~応安元年)、細川頼之のごときは、四国全域、四か国守護職を独占し、「四国管領」とまでいわれている(後愚昧記)。
もちろんこの「四国管領」というのは正式呼称ではなく、鎌倉府や九州探題のような広域を管轄する統治機構ではない。四国四か国守護職の併有という事態をさしたものであろう。頼之の父頼春も「四国ノ大将軍」と呼ばれているが(太平記)、これも正式呼称ではあるまい。
ともかく幕府は細川氏によって、四国支配を確立しようとしたことは確かである。その結果、細川氏は四国を基盤に畿内近国に一大勢力を築き上げ、さらにその力を背景に頼之系の細川氏(左京大夫に代々任じたので京兆家と呼ぶ)が本宗家となり、将軍を補佐して幕政を主導した。
南北朝末期、細川氏は二度(貞治三年、康暦元年)にわたって伊予へ侵攻し、河野通朝・通堯(通直)父子二代の当主を相ついで討死させた。侵攻にはそれぞれ理由があるが、その根底には、細川氏による四国の全域支配への野望があったのではないだろうか」とあった。
偶々であるがその細川氏の四国の拠点である宇多津を歩けて、なんとなくあれこれが繋がってきたように思える。
閻魔堂
郷照寺を販れ遍路道に戻る。参道を下り切ったところ、徳右衛門道標の斜め前に閻魔道がある。「四国一のえんま大王像」と書かれた看板に惹かれお参り。堂内には閻魔様を中央に、左右に大王像が並ぶ。十王像だろうか。
十王とは閻魔王を含めた十尊。亡者の罪の多寡を審判し、地獄へ送るなど六道輪廻を司る。生前に十王を祀れば死して後の罪を軽減してくれるとの信仰がある。お寺さまに十王堂があるのはそのためだろう。が、閻魔様以外の尊像はあまり知名度がなく、ひとり閻魔さまだけが知られる。
大束川手前、公園傍の標石
古い宇多津の街並みを抜け、大束川を渡る手前、道の左手にある公園の前に標石がある。「東 高松 西 丸亀 道 すぐ金毘羅道 すぐ かわぐち 天保二年」と刻まれる。
「かわぐち」の意味するところは不詳だが、大束川に架かる橋の辺りが往昔の「鵜多の津」であったというから、そこを指すのだろうか。
西光寺
水門のある橋の手前、なまこ塀・土塀に囲まれた一見、武家屋敷といった風情の寺がある。西光寺である。
城郭伽藍様式の境内に。本堂の前面の勾欄には龍の彫り物が目立つ。本堂にお参り。本堂
左手の境内に舟屋形茶室があった。周囲は板戸で覆われ内部を見ることはできない。
案内には「江戸時代末期に建造した旧多度津藩藩主の御座船と伝えられる船屋形である。 由来については定かでないが六十二艘立の「順風丸」とする説や三十五反帆を誇った御座船 「日吉丸」とみる説などがあってその伝承も一定していない。
廃藩置県後西光寺境内に移し一部改造が 加えられたが昭和五十七年の移築解体修理によって創建当初の姿に復元されたこの種の遺構は殊に少なく 現在確認されている船屋形は本件を除けば旧姫路藩の船屋形(相楽園内)と旧熊本藩の細川家船屋形(熊本城内)と数えるのみである」とあった。
聖通寺分岐点の標石
クロスする県道193号を直進、瀬戸大橋線の高架を潜ると、その先に県道33号。遍路タグの案内があり、指示に従い県道のアンダーパスを潜り抜けると五差路。五差路といっても左手は工場跡の更地。大型ショッピングセンターが建ちはじめている。ここを北に進むと聖通寺。
その角に手印と共に「七十九番 天**」と刻まれた標石が立つ。遍路道はここを右に折れる。ここに遍路道案内のタグがあり迷うことはない。指示に従い、聖通寺山と右手の角山の鞍部に向かって緩やかな坂を進む。
●聖通山のゆるぎ石
聖通寺山に聖通寺城があった、と言う。麓に聖通寺もある。細川氏由ゆかりの寺、ないしは館跡でもあったのだろうかとちょっと立ち寄り。古いお寺さまではあるが細川氏の館ではなく、館は郷照寺の南西の円通寺、多門寺の辺りであったよう。調べて行けばいいものを、成り行き任せであり、いか仕方なし。
で、地図をチェックすると聖通寺山に「ゆるぎ岩」のマークがある。なんとなく気になりゆるぎ岩に向かう。
途中聖通寺城跡である常盤公園がある。特段の遺構はなし。展望も木々に遮られ宇、それほどよくもなかった。
ゆるぎ岩は巨石が並ぶ。どれがゆるぎ岩かよくわからなかった。適当に岩を揺らすが、揺れることもなかった。後からあれこれ記事を読むと、岩を動かしている方も多いので、もう少々真面目にすれば動いたの、かも。
県道33号との交差角に標石
遍路道に戻る。上述道標に従い、ゆるやかな坂を上り切った鞍部、県道33号と交差する山側に石碑と共に標石がある。石碑には「奥院岩薬師如来」、標石には「へんろ道 東坂出へ 西宇多津町へ 七十八番?二十一丁、二キロ半 七十九番へ一里 四キロ」と刻まれる。
巨石に刻まれた不動尊
県道を渡ると道の左手に田尾公園がある。ここにも遍路道案内のタグがある。公園内を抜けるようだ。
指示に従い車道を左に折れ、公園へのアプローチ道に入ると、道の左手、民家の前に巨大な岩に彫られた不動明王の像があった。
白金町の本街道右側に標石
田尾公園を抜け、そのまま東に進む本街道に入り直進。右手に大きな境内をもつ八幡社、進んで右手に州賀金毘羅社の小さな社にお参りし、八幡町から白金町に入る。道の右手に「すぐ邊路路 左こんぴら道」と刻まれた標石があった。
本街道を東へ、坂出市街を抜ける
遍路道は交差点を越え、そのまま本町のアーケード商店街に入る。アーケードを抜けると元町・京町、室町、旭町、横津町と直進し坂出市街を抜ける。
標石2基の分岐点で本街道から右に折れる
横津川を越え、本街道が金山の山裾に接する辺り、道の右手に2基の標石がある。手印と共に、「七十八番 七十九番 扁ん路道」「邊ろ道 右七十九番崇徳**」といった文字が刻まれる。遍路道はここで本街道と分かれ右に折れる。
予讃線・瀬戸大橋線踏切先の標石
細い道を進み予讃線・瀬戸大橋線の「金山国道踏切」を渡り、少し進むと、道の左手に標石がある。手印と共に、「崇徳天皇道 札所へ四丁」と刻まれる。
八十場の霊泉
金山(標高280m)の東山裾を進むとやがて八十場の霊泉に着く。森と泉とお堂。崇徳上皇ゆかりの地と思うだけで、なんだかちょっと身構える。
泉の脇に石碑があり、「崇徳上皇御殯*御遺跡 白峰宮」と刻まれる。その脇の案内には、「八十蘇場の清水
やそばの水はドンドン落ちる つるべでくんで ヤッコでかやせ
むかしから讃岐のわらべたちに唱われたこの泉は、いかなる早天にも濡れることなく、今も清冽に流れている。
景行天皇の御代、南海に征して悪魚の毒に悩んだ讃留霊皇子(讃留霊王)とその軍兵八十八人は童子の捧げるこの水によって蘇ったがゆえに、八十蘇場の水との伝説を持ち、芳甘清碧な水は古くより薬水として尊ばれ、茶人にも愛されて、遠くは阿波山中より求め来る人も多いという。
八百年のむかし、保元の乱 によって綾北に配流された崇徳上皇が南狩 9年にして鼓岡行在所に崩ぜられるや御殯*の地となり、御尊体をこの霊水にひたして損腐を防いだ聖地でもある。 老杉は天を覆って森厳の気を生じ、清水は酒々として行人の心を濯ぐ、やそばはまごとに霊泉の聖地である 坂出ライオンズクラブ」とあった。
現在は八十場、昔は矢蘇場、この案内には八十蘇場、Googleの地図には野沢井(崇徳上皇ゆかりの地)とある。清水の傍にある地蔵堂脇には「西国三十三所石物観音彌蘇場道、とあった。
●讃留霊王
綾氏の祖先とする。讃留霊王は景行天皇の御子神櫛王ともいわれ、「讃岐の国造の始祖」の系と言う。
茂兵衛道標(100度目)
清水の前は金山と城山の間を進んできた道が合わさるT字路。その角に「道場寺 第七十九番霊場 左 高松 明治廿一年」と刻まれる。第七十九番霊場の手印は右(南)を指す。左に進む遍路道もあるが、今回は道標に従い右に折れる。
裏参道への標石
ほどなく道は分岐。分岐点に手印と共に「左へんろみち」と刻まれる。左に折れる道は第七十九番札所高照院、というか天王寺というか、白峰宮の裏参道。第七十九番札所高照院に着いた。
2回に分けてメモした七十七番札所道隆寺から七十九番札所までの旧遍路道散歩を終える。
今回も、途中「ゆるぎ岩」といった言葉に惹かれ、ちょっと寄り道をしながらの歩き遍路メモ。
本日のルート;
■七十七番札所・道隆寺から七十八番郷照寺へ
七十七番札所・道隆寺>地蔵堂傍の茂兵衛道標>天満宮傍、T字路角の標石>塩屋別院>正宗寺>寿覚寺南の金毘羅標石>(太助灯篭へ>寿覚院山門前の常夜灯と標石>太助灯篭)>丸亀市街を抜け宇多津に入る>県道左側に地蔵堂>誰袖(たがそで)の標石>誰袖(たがそで)の標石>本妙寺>郷照寺参道前の徳右衛門道標>七十八番札所郷照寺
■七十八番札所・郷照寺から七十九番札所・天皇寺へ
七十八番札所郷照寺>閻魔堂>大束川手前、公園傍の標石>西光寺>聖通寺分岐点の標石>(聖通山のゆるぎ石)>県道33号との交差角に標石>巨石に刻まれた不動尊>白金町の本街道右側に標石>本街道を東へ>標石2基の分岐点で本街道から右に折れる>予讃線・瀬戸大橋線踏切先の標石>八十場の霊泉>茂兵衛道標(100度目)>裏参道への標石>第七十九番札所高照院
七十八番札所郷照寺
細くゆるやかな坂を上る。山門前に「大吉地蔵」と呼ばれる地蔵尊。台座に刻まれる「大吉」は願主の名。備中の人。「四国廿一度巡拝供養」とも刻まれる。 地蔵前の道脇に標石。手印と共に「大師道 弘化三年」といった文字が刻まれる。
●鐘楼
山門を潜り、道を進むと堂宇の一段低い広場に鐘楼がある。なんとなく唐突な感があるが、元は大師堂傍にあったものがここに移されたようだ。が、鐘楼からの宇多津の眺めは、いい。
案内に鐘楼の鐘にまつわる伝説が記されていた。江戸の頃、この鐘が割れた。折しも堺から遍路にきていた鋳物師に鋳造依頼。金を鋳直す材料として蓄えていた銅鏡を山から運ぶことに。
と、とみくま村の庄屋さんと一緒に銅鏡を運んでくれたお爺さんが突然姿を消す。人々はそのお爺さんを春日明神であろうと噂をした、と。造り直した鐘はよく鳴り本州まで聞こえ、あまつさえその音色に誘われて龍神までも現れた、とか。
この鐘はその歴史的価値ゆえに戦時の金属供出にも免れ、現在に至る」と言ったことが書いてあった。
そのお爺さんは龍神の化身とか、鐘は鋳直しではなく富熊村の庄屋の心願成就の祝いに境から鐘を鋳る名人を呼び、鐘を造ったとかいろいとバリエーションがあるようだ。
●本堂
石段を上ると右手に納経所、正面は本坊。右に折れると本堂がある。寛保年間と言うから18世紀中頃の建立。本尊は阿弥陀如来。御詠歌は「踊りはね念仏唱う道場寺 拍子それえて鉦を打つなり」。
御詠歌は踊り念仏を想起させる。札所の宗派は今までもあまり気にしたことはないのだが、御詠歌が気になりチェックすると宗派は踊り念仏で知られる一遍上人の時宗とのこと。四国札所で唯一の時宗の寺ではないだろうか。
Wikipediaに拠ると、「寺伝によれば、行基が神亀2年(725年)に一尺八寸(55cmという説も)の阿弥陀如来を本尊として道場寺の名で開基した。大同2年(807年)に空海(弘法大師)が伽藍を整備した。その時に厄除の誓願を修し大師像を納め、それが「厄除うたづ大師」として信仰されていると云われている。 仁寿年間(851年から854年)には理源大師が阿弥陀三昧の行を修した。寛和年間(985年から987年)には恵信僧都が釈迦如来の絵図を納め釈迦堂を建立した。
正応元年(1288年)には一遍上人が遊行の折に3か月逗留し踊り念仏の道場を開いた。その後も栄えたが天正の兵火(1576年から1585年)で堂宇を焼失するも寛文4年(1664年)高松藩主松平頼重により再興、その時の住持と徳川家の関係により、時宗に属し郷照寺と改称した。しかし、『四国遍礼名所図会』(1800年刊)にも1826年の納経帳にも道場寺となっている。四国八十八箇所では珍しい異なる2つの宗派が共存する寺になっている」とあった。
説明にある「ふたつの宗派が共存する」の意味するところは門外漢には不詳だが、開基の頃は天台宗。空海の縁で真言宗、その後荒れ果てていた堂宇を一遍が直し時宗、江戸の頃は浄土宗の僧が住職をつとめ、現在は時宗と宗派は何度か変わっている。また、道場寺の名前の示す如く、この寺は高野聖の往来する修験道と関係深い寺であった、とも。
寺名といえば、道場場から郷照寺となる間に、江照寺と称される時期もあったとする。入り江が入り込んでいた地形からの命名。その後町屋が増えたため郷照寺とした、とか。宗派だけでなく、寺名も何度か変わっているようだ。
「ふたつの宗派が共存する」と言えば札所六十七番の大興寺を思い起こす。真言と天台のふたつの大師堂が建っていた。
〇ぽっくりさん
本堂右前に3基の石仏。讃岐の三大ぽっくりさん、とのことだが、少し大きな釈迦座像の他2基がぽっくりさんなのだろうか。はっきりしなかった。また、三大という、その他の二つのポックリさんは?特段、これに関する記事はヒットしなかった。
●庚申堂
本堂右前に庚申堂。お寺の境内に庚申堂が建つのは珍しい。内部には見ざる、言わざる、聞かざるの三猿を従えた青面金剛像が祀られるとのこと。お堂傍には撫で仏も佇んでいた。
〇庚申信仰と三猿
庚申信仰と三猿の関係は?庚申(かのえさる)からとも、また庚申の夜、天帝に宿主の罪を告げ口する三尸(さんし)の虫に己が罪を見なかった、聞かなかった、そして告げ口しないで、との願いから、とも。
道教では人には魂(コン)、魄(ハク)、三尸(さんし)という三つの霊が宿る、と言う。宿主が亡くなると魂(コン)は天に、魄(ハク)は地下に戻る。幽霊の決まり文句「恨めしや~、コンパクこの世にとどまりて恨みはらさずおくものか~」のコンパクがそれ。
三尸は宿主が亡くなると自由になれるとされる。自由になりたいがため、宿主がむなしくなることを待ち望むわけだ。この三尸、旧暦の60日ほどで一回というから、年に6,7回巡りくる庚申(かのえさる)の日、人が眠りにつくと宿主の体を抜け出す。天帝に宿主の罪を告げるためだが、そのレポートにより天帝は宿主の寿命を決める、とか。
宿主をむなしくし、はやく自由になりたい三尸に、あることないこと告げ口されたらかなわんと、人は寝ないで朝を迎えた。これが庚申待ち。眠らなければ三尸は体を抜けだすことができないためである。
〇庚申信仰と青面金剛
で、庚申信仰と青面金剛の関係は? 道教の天帝を仏教では帝釈天とみなすようであり、青面金剛がその帝釈天の使者であるが故と。また三尸の語呂合わせでもないだろうが、伝尸病(でんし;結核)に霊験あらたかとされるのが青面金剛であった故、とも。
●大師堂
本堂の左を歩き、石段を上ると大師堂。上述の如く、大同2年(807年)に空海(弘法大師)が伽藍を整備した。その時に厄除の誓願を修し大師像を納め、それが「厄除うたづ大師」として信仰されていると云われている。
●万体観音堂
大師堂の左、地下に万体観音堂がある。地下の回廊の左右に3万を越す小さな観音像が並ぶ。
●淡島明神
大師堂の左、少し上ると淡島明神。案内には「以空上人と天女のはなし」とあり、大雑把にまとめると「江戸の頃、この讃岐の地で疫病がはやり、お産の後に体を壊す女性があまた出た。で、高野山の高僧以空上人にお願いし、この寺で安産子宝・女病平癒・良縁成就の請願を立て、加多の淡島神社より本尊を勧請。淡島明堂を建て女性達の守護神となした」とあった。
天女さまの言及はないが、和歌山市加多にある全国の粟島神社の総本社である淡嶋神社の淡島神は、住吉神の女妃。夫人の病に霊験あらたかともされるので、天女とは淡島神のこと?
〇以空上人
上人は木食上人として知られる。コトバンクには、「肉類,五穀を食べず,木の実や草などを食料として修行することを木食といい,その修行を続ける高僧を木食上人といった。
高野山の復興に尽くした安土桃山時代の応其(おうご)(木食応其)は,広く木食上人の名で知られるが,江戸時代前期には摂津の勝尾寺で苦行を続け霊験あらたかな僧として知られた以空(いくう),中期には京都五条坂の安祥院中興の祖となった養阿,江戸湯島の木食寺の開基として知られる義高,後期には特異な様式の仏像を彫刻して庶民教化に尽くした五行(木喰五行明満)があらわれるなど,木食上人として崇敬された高僧は少なくない。
木食は苦修練行の一つで,それを行うことによって身を浄め,心を堅固にすることができるとされたが,経典や儀軌の中に木食の典拠は見いだせない」とあった。
このお寺様の本堂裏手に木食上人堂がある、との記録もあったが見つからなかった。
●常盤明神
淡島堂の左手に小さな社。常盤明神とあり、案内には「狸が神様になったりんお話」とあり、簡単にまとめると「足利時代、この寺にいた臨阿という僧が傷ついた狸を助けた。
臨阿が主人である細川頼之公の供で都に帰る。やがて飢饉や兵火が起こり、この寺も悪者に襲われる。が、狸は寺を護るべく奮闘。これを見た地元民も協力し、寺を護り今に伝いた」とあった。
小さな社の傍に狸が祀られたのは、それゆえのことであった。
〇細川頼之
いつだったか、伊予の河野氏ゆかりの地を訪ね歩いたとき、折に触れて細川来之が登場してきた。南北朝の争乱記、同じ武家方の細川と伊予の河野が相争うことに最初は混乱した。
「えひめの記憶」には「足利尊氏は、すでに幕府開設以前の建武三年(一三三六)二月、官軍と戦って九州へ敗走する途中、播磨国室津で細川一族(和氏・顕氏ら七人)を四国に派遣し、四国の平定を細川氏に委任した(梅松論)。 幕府成立後も、細川一族は四国各国の守護職にしばしば任じられ、南北朝末期(貞治四年~応安元年)、細川頼之のごときは、四国全域、四か国守護職を独占し、「四国管領」とまでいわれている(後愚昧記)。
もちろんこの「四国管領」というのは正式呼称ではなく、鎌倉府や九州探題のような広域を管轄する統治機構ではない。四国四か国守護職の併有という事態をさしたものであろう。頼之の父頼春も「四国ノ大将軍」と呼ばれているが(太平記)、これも正式呼称ではあるまい。
ともかく幕府は細川氏によって、四国支配を確立しようとしたことは確かである。その結果、細川氏は四国を基盤に畿内近国に一大勢力を築き上げ、さらにその力を背景に頼之系の細川氏(左京大夫に代々任じたので京兆家と呼ぶ)が本宗家となり、将軍を補佐して幕政を主導した。
南北朝末期、細川氏は二度(貞治三年、康暦元年)にわたって伊予へ侵攻し、河野通朝・通堯(通直)父子二代の当主を相ついで討死させた。侵攻にはそれぞれ理由があるが、その根底には、細川氏による四国の全域支配への野望があったのではないだろうか」とあった。
偶々であるがその細川氏の四国の拠点である宇多津を歩けて、なんとなくあれこれが繋がってきたように思える。
■七十八番札所・郷照寺から七十九番札所・天皇寺へ■
閻魔堂
郷照寺を販れ遍路道に戻る。参道を下り切ったところ、徳右衛門道標の斜め前に閻魔道がある。「四国一のえんま大王像」と書かれた看板に惹かれお参り。堂内には閻魔様を中央に、左右に大王像が並ぶ。十王像だろうか。
十王とは閻魔王を含めた十尊。亡者の罪の多寡を審判し、地獄へ送るなど六道輪廻を司る。生前に十王を祀れば死して後の罪を軽減してくれるとの信仰がある。お寺さまに十王堂があるのはそのためだろう。が、閻魔様以外の尊像はあまり知名度がなく、ひとり閻魔さまだけが知られる。
大束川手前、公園傍の標石
古い宇多津の街並みを抜け、大束川を渡る手前、道の左手にある公園の前に標石がある。「東 高松 西 丸亀 道 すぐ金毘羅道 すぐ かわぐち 天保二年」と刻まれる。
「かわぐち」の意味するところは不詳だが、大束川に架かる橋の辺りが往昔の「鵜多の津」であったというから、そこを指すのだろうか。
西光寺
水門のある橋の手前、なまこ塀・土塀に囲まれた一見、武家屋敷といった風情の寺がある。西光寺である。
城郭伽藍様式の境内に。本堂の前面の勾欄には龍の彫り物が目立つ。本堂にお参り。本堂
左手の境内に舟屋形茶室があった。周囲は板戸で覆われ内部を見ることはできない。
案内には「江戸時代末期に建造した旧多度津藩藩主の御座船と伝えられる船屋形である。 由来については定かでないが六十二艘立の「順風丸」とする説や三十五反帆を誇った御座船 「日吉丸」とみる説などがあってその伝承も一定していない。
廃藩置県後西光寺境内に移し一部改造が 加えられたが昭和五十七年の移築解体修理によって創建当初の姿に復元されたこの種の遺構は殊に少なく 現在確認されている船屋形は本件を除けば旧姫路藩の船屋形(相楽園内)と旧熊本藩の細川家船屋形(熊本城内)と数えるのみである」とあった。
聖通寺分岐点の標石
クロスする県道193号を直進、瀬戸大橋線の高架を潜ると、その先に県道33号。遍路タグの案内があり、指示に従い県道のアンダーパスを潜り抜けると五差路。五差路といっても左手は工場跡の更地。大型ショッピングセンターが建ちはじめている。ここを北に進むと聖通寺。
その角に手印と共に「七十九番 天**」と刻まれた標石が立つ。遍路道はここを右に折れる。ここに遍路道案内のタグがあり迷うことはない。指示に従い、聖通寺山と右手の角山の鞍部に向かって緩やかな坂を進む。
●聖通山のゆるぎ石
聖通寺山に聖通寺城があった、と言う。麓に聖通寺もある。細川氏由ゆかりの寺、ないしは館跡でもあったのだろうかとちょっと立ち寄り。古いお寺さまではあるが細川氏の館ではなく、館は郷照寺の南西の円通寺、多門寺の辺りであったよう。調べて行けばいいものを、成り行き任せであり、いか仕方なし。
で、地図をチェックすると聖通寺山に「ゆるぎ岩」のマークがある。なんとなく気になりゆるぎ岩に向かう。
途中聖通寺城跡である常盤公園がある。特段の遺構はなし。展望も木々に遮られ宇、それほどよくもなかった。
ゆるぎ岩は巨石が並ぶ。どれがゆるぎ岩かよくわからなかった。適当に岩を揺らすが、揺れることもなかった。後からあれこれ記事を読むと、岩を動かしている方も多いので、もう少々真面目にすれば動いたの、かも。
県道33号との交差角に標石
遍路道に戻る。上述道標に従い、ゆるやかな坂を上り切った鞍部、県道33号と交差する山側に石碑と共に標石がある。石碑には「奥院岩薬師如来」、標石には「へんろ道 東坂出へ 西宇多津町へ 七十八番?二十一丁、二キロ半 七十九番へ一里 四キロ」と刻まれる。
巨石に刻まれた不動尊
県道を渡ると道の左手に田尾公園がある。ここにも遍路道案内のタグがある。公園内を抜けるようだ。
指示に従い車道を左に折れ、公園へのアプローチ道に入ると、道の左手、民家の前に巨大な岩に彫られた不動明王の像があった。
白金町の本街道右側に標石
田尾公園を抜け、そのまま東に進む本街道に入り直進。右手に大きな境内をもつ八幡社、進んで右手に州賀金毘羅社の小さな社にお参りし、八幡町から白金町に入る。道の右手に「すぐ邊路路 左こんぴら道」と刻まれた標石があった。
本街道を東へ、坂出市街を抜ける
遍路道は交差点を越え、そのまま本町のアーケード商店街に入る。アーケードを抜けると元町・京町、室町、旭町、横津町と直進し坂出市街を抜ける。
標石2基の分岐点で本街道から右に折れる
横津川を越え、本街道が金山の山裾に接する辺り、道の右手に2基の標石がある。手印と共に、「七十八番 七十九番 扁ん路道」「邊ろ道 右七十九番崇徳**」といった文字が刻まれる。遍路道はここで本街道と分かれ右に折れる。
予讃線・瀬戸大橋線踏切先の標石
細い道を進み予讃線・瀬戸大橋線の「金山国道踏切」を渡り、少し進むと、道の左手に標石がある。手印と共に、「崇徳天皇道 札所へ四丁」と刻まれる。
八十場の霊泉
金山(標高280m)の東山裾を進むとやがて八十場の霊泉に着く。森と泉とお堂。崇徳上皇ゆかりの地と思うだけで、なんだかちょっと身構える。
泉の脇に石碑があり、「崇徳上皇御殯*御遺跡 白峰宮」と刻まれる。その脇の案内には、「八十蘇場の清水
やそばの水はドンドン落ちる つるべでくんで ヤッコでかやせ
むかしから讃岐のわらべたちに唱われたこの泉は、いかなる早天にも濡れることなく、今も清冽に流れている。
景行天皇の御代、南海に征して悪魚の毒に悩んだ讃留霊皇子(讃留霊王)とその軍兵八十八人は童子の捧げるこの水によって蘇ったがゆえに、八十蘇場の水との伝説を持ち、芳甘清碧な水は古くより薬水として尊ばれ、茶人にも愛されて、遠くは阿波山中より求め来る人も多いという。
八百年のむかし、保元の乱 によって綾北に配流された崇徳上皇が南狩 9年にして鼓岡行在所に崩ぜられるや御殯*の地となり、御尊体をこの霊水にひたして損腐を防いだ聖地でもある。 老杉は天を覆って森厳の気を生じ、清水は酒々として行人の心を濯ぐ、やそばはまごとに霊泉の聖地である 坂出ライオンズクラブ」とあった。
現在は八十場、昔は矢蘇場、この案内には八十蘇場、Googleの地図には野沢井(崇徳上皇ゆかりの地)とある。清水の傍にある地蔵堂脇には「西国三十三所石物観音彌蘇場道、とあった。
●讃留霊王
綾氏の祖先とする。讃留霊王は景行天皇の御子神櫛王ともいわれ、「讃岐の国造の始祖」の系と言う。
茂兵衛道標(100度目)
清水の前は金山と城山の間を進んできた道が合わさるT字路。その角に「道場寺 第七十九番霊場 左 高松 明治廿一年」と刻まれる。第七十九番霊場の手印は右(南)を指す。左に進む遍路道もあるが、今回は道標に従い右に折れる。
裏参道への標石
ほどなく道は分岐。分岐点に手印と共に「左へんろみち」と刻まれる。左に折れる道は第七十九番札所高照院、というか天王寺というか、白峰宮の裏参道。第七十九番札所高照院に着いた。
2回に分けてメモした七十七番札所道隆寺から七十九番札所までの旧遍路道散歩を終える。
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