二ヶ領用水散歩 そのⅡ 宿河原線・ニケ領本川:宿河原取水堰から用水を二ヶ領本川との合流点まで下り、二ヶ領本川を平瀬川まで辿る

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「榎戸から溝の口の方へ流れて行っている用水の岸は、ちょっと風情に富んでいる。第一、水量の多いのが気持ちが好い。榎戸の橋のところにある大堰からして既に見事である。四、五年前、暑い日に通った時には、この用水の岸は深樹と竹藪とに蔽われて、その中を用水が凄まじい音をたてて流れて行くというさまで、おりおり水に臨んで、夢見るような合歓(ねむ)の花が咲いているなど、そぞろに私達の心を惹いた。しかし、それから二、三年して行った時には、その岸の樹も伐られたりすかされたりして、風景が大分浅露になっていた。しかし、まだ捨てることの出来ないある特色を持っていた。それに、相模丘陵のすぐ近く迫っているのも好かった」。

田山花袋の『東京近郊 一日の行楽』の一節である。先回の散歩メモは上河原取水堰からはじめ、田山花袋の描く榎戸堰を経て宿河原取水堰からの用水(宿河原線)の合流点までカバーした。花袋の描く用水風景は大正初期の頃であり、コンクリートで護岸工事され、周囲に宅地が立ち並ぶ現在の二ヶ領用水本川に、当時の面影を偲ぶ縁(よすが)は望むべくもないのだが、ともあれ二ヶ領用水にあるふたつの取水口の上流の取水口からはじめ、下流に設けられた宿河原堰取水口からの用水合流点である落合までをメモした。
今回はその宿河原堰からはじめ、落合まで下り、合流点から二ヶ領本川を辿り、久地の円筒分水手前の平瀬川までをメモすることにする。



本日のルート:小田急線・登戸駅>宿河原堰堤>二ヶ領せせらぎ館>船島(ふねしま)稲荷社>JR南武線>北村橋>八幡下圦樋>多摩川旧堤防(「宿河原の霞堤」)>八幡堰>宿河原八幡宮>川崎市緑化センター>五ヶ村堀と八幡下の堰>宿之島橋>宿之島稲荷>中宿地蔵菩薩>徒然草の碑>前川堀が宿河原線に注ぐ>久地の合流点>鷹匠橋>堰前橋>久地の横土手>供養塔>久地分量樋跡>平瀬川>多摩川の旧堤防(「久地の霞堤」)

小田急線・登戸駅
宿河原堰堤の最寄駅である小田急線・登戸駅で下車。いつだったか、この登戸駅で下車し、多摩丘陵へと進んだことがある。登戸の「戸」は場所といった意味。多摩川の低湿地から多摩丘陵に登る場所であったのだろう。田山花袋は前述の『東京近郊 1日の行楽』で、「登戸河岸から見た多摩の上流の翠微、これがまた捨て難い。瀬の多い脈のように流れた川、その先に複雑した丘陵、またその先に奥深く多摩の山群が美しくかがやいていた」と描く。
登戸は、江戸から津久井に通じる津久井往還、また幾多ある大山道のひとつが通る道筋であり、津久井の絹や黒川の炭、禅寺丸柿を運ぶ商人、大山詣で賑わったことだろう。

登戸の渡し
此の地には多摩川を渡る渡し場のひとつである登戸の渡しがあった。江戸の頃は小田急線の鉄橋の辺り、明治にはやや上流に移り、明治の終わりの頃は、世田谷通りが通る水道橋辺りに渡し場があったようである。
登戸の渡は多摩川を狛江に渡り、現在の砧浄水場辺りまで東に進み、そこから北に上り慶元寺辺りに。そこからは大雑把に言って、「品川道」を南に下る道、三軒茶屋から往昔、武蔵国の郡衙のあった現在の皇居西の丸あたりに向かうふたつに分かれていたようである。狛江道、品川道を辿った狛江散歩が懐かしい。

宿河原堰堤
登戸駅から成り行きで多摩川堤に進み、宿河原堰堤に向かう。多摩川堤を進むも、宿河原取水口で行き止まり。少し下流を回り込み車道脇の船島人道橋を渡り、「二ヶ領せせらぎ館」を見遣りながら、とりあえず堰堤に向かう。
3つの魚道を持ち、固定部が洪水時の水をうまく流せるようにした、起伏式5門、引上式1門の可動式の堰からなる現在の宿河原堰堤が完成したのは平成11年(1999)のこと。
江戸の頃、竹で編んだ籠に砂利を詰めた蛇籠を並べて取水した堰が、上河原堰と同様に大正期の社会状況の変化に伴い、取水堰の改築が必要となった。多摩川の水位低下、そして灌漑用水だけでなく工業用水といった水需要の増大が発生し、安定的な取水量の確保が必要となったためである。
上河原堰は昭和16年(1941)に工事着工し、昭和20年(1945)に完成したが、宿河原堰の改築・コンクリート化工事は戦後になってから。完成は昭和24年(1949)のこと。工事責任者は上河原堰と同じく平賀栄治である。
ここにおいて一時的な蛇籠堰から恒久的なコンクリート堰となり、安定的な取水が可能となるが、このコンクリート堰は固定堰であったため、後に大災害を引き起こすこととなる。
昭和49年(1974)のこと、台風で狛江市猪方の多摩川堤防が決壊、家屋19軒が流失した。その要因は宿河原堰の固定堰に流れが遮られ、水位を増した多摩川の激流によって堤防が決壊したわけである。山田太一さんの原作・脚本になるテレビドラマ『岸辺のアルバム』での、崩壊した堤とともに民家が濁流に飲み込まれるシーンが、ジャニスイアンの主題歌とともに思い起こされる。
それはともあれ、その状況を踏まえ平成5年(1993)、宿河原堰の改築方法の検討を開始し、その結果完成したのが、現在の宿河原堰堤である。


二ヶ領用水・宿河原堰の完成時期
ところで、江戸の頃、宿河原堰が完成したのは、上河原堰の完成した慶長16年(1611)に遅れること18年、寛永6年(1629)、関東郡代である伊奈忠治の手代である筧助兵衛の手になるものとされてきた。が、近年になり、慶長16年(1611)に小泉次太夫により最初に完成した二ヶ領用水の堰は、宿河原堰であるとか、完成は寛永6年(1629)であるが、普請者は田中丘隅であるとか、あれこれの説がでているようである。
どうしたところで、二ヶ領用水の資料は抹殺されたと言うか、残ってないわけであり、確とした説はないようだが、何となく気になるのは、上河原堰からの二ヶ領本川を「新川」とも称する、ということ。新川という以上、古川があったのだろうし、その古川のほうが古く開削されたとは想像できる。新川と呼ばれた時期がいつの頃か不明のため、何とも言えないが、二ヶ領用水開削期に呼ばれていたのであれば、宿河原が先、との説も少しは説得力を持つとは思える。

二ヶ領せせらぎ館
宿河原堰を離れ「二ヶ領せせらぎ館」に。多摩川や二ヶ領用水の歴史、堰の説明、多摩川の自然に関する資料を展示するこの施設ができたのは平成11年(1999)のこと。可動堰として改築された現在の宿河原堰の管理棟の一部を使って誕生した。
管理運営は「NPO法人 多摩川エコミュージアム」が行っており、今年(平成27年;2015)訪れた時、同NPOが制作した二ヶ領用水に関する資料である、「散策こみち案内 みんなで歩こうシリーズ」を数点買い求め、手懸りの無かった二ヶ領用水散歩に「取りつく島」が出来、散歩が結構豊かなものとなった。


島(ふねしま)稲荷社
「二ヶ領せせらぎ館」の少し南、多摩川堤の河道側、河川敷といった場所に船島稲荷社がある。細長く延びる参道の左手は多摩川である。明神形式の鳥居を潜り、二の鳥居の先に御嶽神社の小祠が祀られる。その先にある社殿はコンクリート造りであり、社殿の扉には草鞋がくくりつけられていた。
社殿脇にある「船島稲荷社のゆかり」と刻まれた石碑には「多摩川の川辺に古くは中の島、現在は舟島と言うふるさとがある此の地を開拓した我らの先祖は信仰の氏神として稲荷社を祀った。治水興農の守護神として爾来幾百年しばしば暴風雨水害に見舞はれ度々境内を移したりした。昭和十二年境内は決壊し樹齢数百年に及ぶ神木は流れ、社殿は水浸しとなるも常に霊験加護を信じ神徳に浴さんとする氏子の信仰心を結集し複興して今日にいたったのである」とあり、続いて、本殿を近代風に改築した旨が昭和54年の日付とともに刻まれていた。コンクリートの本殿は昭和54年(1979)に建て替えられたようである。
本殿の扉に草鞋が括り付けられているのは、馬の脚の無事なるを祈り、藁沓を奉納したのがはじまり、とも言われる。馬が日常生活からいなくなった今日では、足の怪我などに御利益があるとする。草鞋を持ちかえれば早く治り、そのお礼に新しい草鞋を奉納するようである。

それにしても、何故に暴れ川のすぐ傍に社を祭ったのだろう?ちょっと考える。と、多摩川の河道が現在のものとなったのは天正18年(1590)の洪水以降、という先回散歩のメモを思い出した。すでにメモしたように往昔の多摩川は、その流路定まること知らず、といったものであったにせよ、現在より多摩丘陵に近いところを南に下っていた、とのこと。所謂(いわゆる)、「多摩川の南流時代」の主たる川筋は上河原堰から下る現在のニケ領本川のルートとも言われる。 この社の創建は不詳ではあるが、中の島とも舟島(明治の地図には船嶋とある)とも称された氾濫原に浮かぶ自然堤防、微高地にあったにせよ、敢えて暴れ川の河原・河川敷に祀ることもないだろうから、創建時期は天正18年(1590)以前、ということではあろうか。
社には天保13年(1842)再建との古文書が残るとのこと。多摩川の川筋から少し離れた微高地にあった社も、多摩川の河道の変化により、予期せず川傍となってしまい、石碑にあったように、氏子が再建を繰り返してきた、ということではあろう。

JR南武線
船島橋手前にある取水ゲート(樋門)を見遣り、橋を越えて用水に沿って進む。用水の両岸は護岸工事がなされ、水辺を歩ける親水公園といった趣となっている。また、用水の両岸は、昭和34年(1959)頃から地元民により大々的に植樹され、現在450本以上の桜並木となっている。
新船島橋を越え先に進むと、南武線と交差。低いガードを、少し背を屈め、線路下を抜ける。




北村橋・前川堀並走
用水に沿って進むと、交通量の多い橋と交差する。その「北村橋」の手前、右岸から用水が接近し、コンクリートで仕切られた水路として二ヶ領用水・宿河原線と並走する。
この並走する用水は「前川堀」とのこと。二ヶ領用水・宿河原線と開渠で並走した前川堀は、ほどなく木やコンクリートで蓋をされ、遊歩道として南に下り、東名高速高架下辺りで宿河原線の用水に水を吐き出すことになる。
前川堀分岐

川崎市の制作した用水マップに拠れば、二ヶ領本川に五反田川が合流する地点辺りから東に前川堀(中田堀とも)が分岐する。水路は小田急線・向ヶ岡遊園前の南、登戸地区と宿河原2丁目地区の境を東に向かい、宿河原小学校の二筋手前の道を、S字を描いて進み紺屋堀に合流。合流した水は宿河原堰で取水した宿河原線と並走し、東名高速高架下付近で宿河原線の用水に注ぐ。

八幡下圦樋
南武線・宿河原駅前から続く商店街の道筋が用水を渡る宿河原橋、次いで仲之橋を越えてくだると八幡下橋。橋の傍、というか橋上の一隅に、コンクリートのモニュメントがある。モニュメントは交差する樋の形をしており、「八幡下圦樋 明治四十三年四月竣工」とあり、脇にその案内がある。
案内には「八幡下圦樋」とは、この二ヶ領用水の水を堰止め調整したものである。当時の工事請負人関山五郎右衛門という人により明治四十三年四月に完成した。
その昔(年号不詳)、現在の宿河原二丁目二十四番地(宿河原幼稚園付近)を起点に東は高津区宇奈根まで多摩川の旧堤防が築かれていたが、洪水により下流の水害を防ぐために、ここに圦樋を造り、その上流三十米の八幡堀より多摩川に放流して水を調整したものである。
最近この圦樋が逆に堰となり、洪水に度に近隣の住宅に水害を起こすことにより取り壊されたのである。昭和六十三年十一月 吉日」とあった。
NPO法人 多摩川エコミュージアム制作の「散策こみち案内 みんなで歩こうシリーズ」には「古文書によれば、元禄15年(1702)にはじめて八幡下圦樋ができた。その後幾度も改修、移動があり明治43年(1910)大改修があり、コンクリートとなり、同時にこの年、下流の久地大圦樋、久地分量樋の改修もなされた」とあった。

多摩川旧堤防(「宿河原の霞堤」)
石碑の案内には「現在の宿河原二丁目二十四番地(宿河原幼稚園付近)を起点に東は高津区宇奈根まで多摩川の旧堤防が築かれていた」とあり、衛星写真には「多摩川の旧流路」が描かれていた。大雑把に言って、旧流路は八幡下堰辺りまでは二ヶ領本川とほぼ同じであるが、八幡下堰辺りからは二ヶ領本川を離れ、南武線を下辺として北に大きく半円を描き、その先は多摩川に向かって北東に向かっている。
NPO法人 多摩川エコミュージアム制作の「散策こみち案内 みんなで歩こうシリーズ」にある旧多摩川堤防の説明によれば、「現在のこのあたりの堤防は昭和7年頃から造られ始めたもので、それまでは近世以来の旧堤防(明治14年の地図にあり)が使われていた。その堤防は霞提で、ずっとつながったものではなく、稲田地区では3ヶ所あり、この宿河原あたりでは、常照寺近くからはじまり、堰(注;地区名)をとおり、宇奈根の多摩沿線道路まで続いていたよう。
現在、とくに新明国上教本部の裏手、南武線を渡りさらに北に行ったところには旧堤が高く盛られた形で残り、道になって東名高速下まで続き、旧堤の面影を残している。この宿河原の旧堤防の北側はかつて堤外地で、畑や桃、梨畑であった」と説明されていた。
石碑の案内にあった宿河原幼稚園は北村橋を南に下った宿河原交差点の東側、常照寺の少し東にある。Google Mapの衛星写真を見ると、南武線の北に如何にも堤跡といった緑に囲まれた道筋が見える。 二ヶ領本川の仲之橋辺りから堤防跡を辿ると、南武線・宿河原第一踏切の先から南武線・不動第二踏切の間で北に大きく弧を描き、そこからは明確に堤防と分かる「高みが宅地を分断し、北東へと向かい川崎市多摩区と高津区の境あたりまで続いていた。メモの都合上、この堤防を一応「宿河原の霞堤」と呼ぶことにする。
霞提
霞堤は伊奈流・関東流の特徴とされる治水工法。乗越堤、遊水地といった、河川を溢れさすことで洪水の勢いを制御するといった、自然と折り合いをつけた「自然に優しい工法」。しかし、それゆえに問題もあった。なかでも洪水の被害、そして乱流地帯が多くなり、新田開発には限界があった、と。
こういった関東流の手法に対し登場したのが、井沢弥惣兵衛為永を祖とする紀州流。八代将軍吉宗は地元の紀州から井沢弥惣兵衛為を呼び出し、新田開発を下命。関東平野の開発は紀州流に取って代わる。為永は乗越提や霞提を取り払い、蛇行河川を堤防などで固定し、直線化した。ために、遊水池や河川の乱流地帯はなくなり、広大な新田が生まれることになったようである。井沢弥惣兵衛為永の普請工事としては、見沼代用水が知られる。

八幡堰
八幡下圦樋の案内に「圦樋(注;水門)を造り、その上流三十米の八幡堀より多摩川に放流して水を調整した」とある。この水路は八幡堀と呼ばれる。圦樋の上流三十米にある、とのこと。少し用水を戻ると、用水左岸に宿河原仲町町会の防災プレハブ倉庫がある。八幡堀はかつて、この辺りから分岐し、八幡下圦樋で調整された水を多摩川に戻していたようである。
八幡堀
此の地で宿河原線から分岐した八幡堀は、南武線の下を潜り、北東に流れ、向の岡興業高校の先で多摩川に注ぐ。上で多摩川の旧堤防のメモをしたが、明治の地図を見ると、その南を堤防に沿って下っていたように見える。
堰の長池
明治の地図を見ていると、現在の新明国上教本部の北から向の岡興業高校近くまで、池、と言うか沼地といったものが描かれている。現在の東名高速辺りを中心に東西に細長くのびたこの池は、昔の多摩川の流路跡であったようで、「堰の長池」と呼ばれたとのこと。八幡堀はこの池に注ぎ多摩川へと下ったようである。
この池も現在の多摩川の堤防が築かれる昭和7年(1932)頃から、池の西半分は新明国上教(大正期にできた宗教団体)によって埋め立てられ宿坊や水田となり、池の東、堰地区も戦後埋め立てられ梨畑、そして現在では大半が宅地となっている(「NPO法人 多摩川エコミュージアム制作の「散策こみち案内 みんなで歩こうシリーズ」)。

宿河原八幡宮
八幡堀と言うからには、八幡さまが近くあるのだろうとチェック。宿河原橋の少し南に宿河原八幡宮がある。用水を仲之橋、宿河原橋へと戻り、宿河原八幡宮へ。
社にお参り。こじんまりとした宿河原村の鎮守さまである。元は多摩川北岸にあったとのことであるが、安政9年(1826)に多摩川の川瀬が北に移り、社は悉く流出。常照寺観音堂のあったこの地に移った、とのことである。
宿河原
宿とは集落の意味。河原にあった集落が村名の由来。武蔵風土記稿には「此処昔開墾の頃の村落なるにや、もとより多摩川の河原なれば宿河原を以(注;もって)村名とするならん」とあり、続けて「駒井(注;現在の東京都狛江市駒井)は地の続きし所なれば」と記されている。戦国期の小田原衆所領役帳には、「駒井宿河原」との記録があり、現在は多摩川の対岸となっている駒井地区と宿河原は、往昔一体であったことがうかがえる。安政9年(1826)の多摩川の流路の変更により、駒井と宿河原は泣き別れとなってしまったのであろう。
常照寺
真言宗豊山派のお寺さま。創建年度は不詳だが、15世紀末か16世紀初頭との説がある。結構古い歴史のあるお寺さまである。地図を見ると、お寺さまの南に開渠が見える。五ヶ村堀の用水路かと思う。五ヶ村堀はここから暗渠となり八幡様辺りを下り、下にメモする八幡下圦樋記念碑の残る八幡下橋の少し下流で、コンクリート架け樋となって二ヶ領用水を渡る。

川崎市緑化センター
八幡さまから用水に戻る。八幡下橋を越えて先に進むと、用水左岸に川崎市の緑化センターがある。HPの資料に拠ると、「神奈川県農業試験場東部園芸指導地が昭和11年(1936年)に開設されました。その後、この施設は昭和24年(1949年)に川崎市に移管され、川崎市園芸技術普及農場として、ナシやモモなどの果樹栽培技術の普及、家畜伝染病の予防、農業用機械の技術講習場として活用されたほか、土壌診断や野菜及び花卉に関する試験栽培の実施など、多種の業務により市内の農業技術の向上を担ってまいりました。
フルーツパーク(現川崎市農業技術支援センター)に果樹栽培試験に関する業務を移管後、昭和54年(1979年)に都市緑化の推進のために設定された川崎市緑化センター条例に基づき、「緑の相談所」の機能を持つ川崎市緑化センターとなりました」とあった。
四季折々には夥しい数の花が咲く園内では展示会、育成講習会なども開催されているとのことである。

五ヶ村堀と八幡下の堰
緑化センターを見遣りながら先に進むと。「川崎の歴史ガイド」のパネルがあり、「五ヶ村堀と八幡下の堰」とあった。
案内には、「五ヶ村堀はこの地点で本用水と立体交差をし、堰方面の田畑を潤す。近くにある八幡下の堰は、白秋の多摩川音頭で有名な「堰の長池」から多摩川に通じ、排水路の役割を果たした」とある。
案内に「近くにある八幡下の堰」以下の記述は、八幡下圦樋で堰止められた用水を堰の長池から多摩川に通じた排水路、とあるから上でメモした八幡堀のことだろう。
また、用水を掛渡しの樋でクロスするのは五ヶ村堀である。
五ヶ村堀のルート
小田急線・向ヶ岡遊園駅の少し東、小田急線の高架が二ヶ領本川を跨ぐ下にある取水口で取水された用水は、しばらく二ヶ領本川に沿って暗渠で流れた後、開渠の状態で宿河原に丁目を東から西に直線で進み、宿河原6丁目で宿河原堰から取水された宿河原線を樋で越え、南武線手前で流路を変え、線路に沿って南東に下り、東名高速を越えた先で北東に流れを変え、南武線を渡り多摩川に注ぐ。

白秋の多摩川音頭
白秋の多摩川音頭って何?チェックすると、先回の散歩でメモした庚申塔を建立した丸山教のHPに多摩川音頭と白秋のことが記されていた。その記事に拠ると、多摩川音頭は、丸山教の教主が稲田村の青年団のために、白秋に依頼したもの。白秋は登戸の丸山教に度々訪れるも、酒宴に興じ、なかなか完成しなかったようだ。 で、しびれを切らした青年団は白秋を車に乗せ、菅の土手から中の島、登戸、枡形山、宿河原、堰など多摩川沿いの各地を回り、風景だけでなく言い伝え、行事を見て回り昭和3年(1928)、31節からなる郷土の民謡として生まれた、とのことである。
どういったものかチェックする。Youyubeに多摩川音頭がアップされていた。一部聞き取れないところもあったが、歌詞をメモする。

  囃せ 囃せや 多摩川音頭
  (ちりへうと ちりへうと ちりへうと へう へう)
  笠は鮎鷹 笠は鮎鷹 手はさらり 
  月の砧は昔のことよ いまは鮎鷹 ちりへうと へう へう(「月の砧は」の囃子は以下の節の後
  に合いの手で入る)
  菅の薬師は 雌獅子に牡獅子 わしもおまへも わしもおまへも 胸太鼓
  恋は(?) 百草は絡む  わしとおまえの わしとおまえの中の島
  多摩の登戸 六兵衛様よ 藤は六尺 藤は六尺 いま盛り 
   花は咲いたよ河原の桃が (?)
  堰の長池 でて見りゃ長い おまへ待つ夜は おまへ待つ夜は まだ長い
  稲田よいとこ 稲穂は垂れる 梨は明るむ 梨は明らむ 日は晴れる
  今朝も晴れたよ 秩父が晴れた 多摩の河原の 多摩の河原の風上に(?)

菅の薬師とは文治3年(1187)にこの地方の領主であった稲毛三郎重成が建立した薬師堂(多摩区菅北浦4-16-2)であり、境内で行われる獅子舞は菅の獅子舞として知られる。登戸の六兵衛さまとは、丸山教の教祖。境内には美しい藤棚があるようだ。堰の長池は既にメモした。
踊りは鮎鷹(コアジサシ)が小魚を捕る姿をイメージしたものであり、囃子の「ちりへうと ちりへうと」は 鮎鷹)の鳴き声をまねたものとのこと

なお、Youtubeの動画には31節からなる音頭はすべて含まれてないようで、
  わたしゃ鮎鷹 多摩川そだち 水の瀬の瀬を 水の瀬の瀬を 見てはやる
  酒は枡のみ 枡形山よ 山の横あな 山の横あな ほらばかり
  さらす調布(てづくり) さらさら流れ なぜかあのこが なぜかあの子が かう可愛い
といったフレーズもあるようだ。
また、先回のメモで稲田堤のところで記した
  咲いた咲いたよ 稲田のさくら 時は世ざかり 時は世ざかり 花ざかり
なども含まれているようだ。

枡形山は稲毛三郎の城がある丘陵。長者穴。山の横あなは、黄金を埋めたという伝説ののこるほら穴であり、ほら=法螺話をかけるいるようだ。
何度も聞いているうちに、多摩川音頭か頭の中をグルグル永久循環しはじめた。

宿之島橋
八幡下橋に戻り、用水を下り宿之島(しゅくのしま)橋に。橋の袂に地蔵の祠が佇む。三体の地蔵様は阿弥陀三尊であり、本尊と左右の脇侍仏よりなり、宿河原で最も大きな祠とのことで、上宿地蔵と称されるようだ。
御嶽神社代参大札
地蔵の祠には「武蔵国 御嶽神社代参祈祷神璽 講中安全」と書かれた、御嶽神社の御札が立てられている。
そう言えば、船島神社にも御嶽社の小祠があった。大田区には木曾の御嶽に関わりのある御嶽神社もあるようだが、こちらは「武蔵国」ともあり、青梅の御嶽神社の講中であろう。

狛江の御嶽講
この地の記録ではないが、往昔、宿河原と一体であったと上に記した狛江の駒井には現在でも御嶽講が残るとも聞く。
御嶽講は農業の神である作神様、盗難除けの神として信仰され、かつては狛江のどの村にも御嶽の講があったようだ。現在の代参は車で行き、お参りし、そのお札は各戸に配られるほか、「御嶽神社祈祷神璽 講中安全」と書かれた辻札と呼ばれる代参大札の2枚のうち一枚が杉の葉と一緒に細竹に挟み北向き地蔵のところに建てられる、とある。パターンとしては、この地のものと同じである。現在もこの地に御嶽講が残ってはいるのだろうか。

宿之島稲荷
高橋、中村橋、稲荷橋と進む。稲荷橋の右岸に宿之島稲荷、宿之島と下綱(現在は長尾)の守り神。明治8年(1875)の建立とのこと。
歳神御神体
境内左手に小祠があり石の御神体が祀られる。「当地、歳神御神体の由来」とある。
説明は長く、私の頭では少々論旨不明のところもあるため、正確か否かは別にして、自分なりにまとめると;家々では、お正月に稲・田の神である歳神さまをお迎えする。小正月になると再び山(天上)に戻る歳神様をお送りするため、竹・藁で小屋をつくり、中に火の神御神体の石を祭り込み、若い衆が一晩か二晩飲食を楽しんだ後、竹・藁の小屋を焼く、お焚き上げ行事を行う。
歳神さまはお焚き上げの煙とともに天上に戻り、お焚き上げで焼いた餅などを食べると無病息災などの御利益がある、と言う。
このお焚き上げ行事を「どんど焼き」と称する地方も多いが、サイト(バライ)とも呼ばれる。サイトは斎灯と書くようだが、これは村の道祖神のお祭りと結びついたため、とも言われる。道祖神は「塞(さい・さえ)の神」とも呼ばれており、サイトとは、塞神=道祖神を祀った場所がその由来のようである。 因みに、どんど焼きをサイト、サイトバライと称するのは長野、山梨、静岡、新潟などに多いようであるが、相模でもサイトバライと呼ぶこともあるようだ。先日、八菅修験の散歩で才戸橋に出合った。根拠はないが、この橋の由来も「サイト(バライ)」からだろうか。

中宿地蔵菩薩
稲荷橋から用水左岸を下ると東名高速の高架に近づく。道脇に二体の地蔵を祀る小祠がある。仲宿地蔵菩薩。造立は宝暦9年(1759)。宿河原最古の地蔵尊とのことである。

徒然草の碑
東名高速の高架手前に石碑があり、「徒然草 第百十五段 吉田兼好」と刻まれる。:本文には、「河原といふ所にて、ぼろぼろ多く集まりて、九品の念仏を申しけるに、外より入り来たるぼろぼろの、「もし、この御中に、いろをし房と申すぼろやおはします」と尋ねければ、その中より、「いろをし、こゝに候ふ。かくのたまふは、誰そ」と答ふれば、「しら梵字と申す者なり。己れが師、なにがしと申しし人、東国にて、いろをしと申すぼろに殺されけりと承りしかば、その人に逢ひ奉りて、恨み申さばやと思ひて、尋ね申すなり」と言ふ。いろをし、「ゆゝしくも尋ねおはしたり。さる事侍りき。こゝにて対面し奉らば、道場を汚し侍るべし。前の河原へ参りあはん。あなかしこ、わきざしたち、いづ方をもみつぎ給ふな。あまたのわづらひにならば、仏事の妨げに侍るべし」と言ひ定めて、二人、河原へ出であひて、心行くばかりに貫き合ひて、共に死ににけり」とある。
意味は訳すまでもないが、石碑には刻まれていないが徒然草の第百十五段には、続けて「ぼろぼろといふもの、昔はなかりけるにや。近き世に、ぼろんじ・梵字・漢字など云ひける者、その始めなりけるとかや。世を捨てたるに似て我執深く、仏道を願ふに似て闘諍を事とす。放逸・無慙の有様なれども、死を軽くして、少しもなづまざるかたのいさぎよく覚えて、人の語りしまゝに書き付け侍るなり」と続く。
この宿河原、この以外に大阪の茨木の宿河原にも徒然草の碑があるようだ。門外漢であり、どちらかはわからないが、「東国で殺されたと聞いたので訪ねてきた」と言うことから、この地との説も故なきわけではなさそうではある。

前川堀が宿河原線に注ぐ
前川橋の辺りからコンクリート壁で水路は隔てられ、二ヶ領用水・宿河原線と並走してきた前川堀の水は、東名高速の高架下でひっそりと宿河原線(用水)に注ぐ。







二ヶ領本川と宿河原からの用水合流点・落合
東名高速の高架下、そして南武線を跨ぐ道路下を潜り、先に進むと先回歩いた二ヶ領本川に宿河原堰からの用水が合流する箇所・落合に出る。ここからは二ヶ領本川を下ることになる。





久地の合流点
二ヶ領本川を少し下ると、南武線に当たる。手前に人道橋があり、脇に「川崎の歴史ガイド 久地の合流点」の案内パネルがあり、「ここで合流した用水は久地の円筒分水を経て稲毛・川崎領の田畑を潤した。現在の許容取水量は、1日あたり中野島から約46万トン、宿河原から約35万トン、合計80万トンである」とあった。
既にメモしたように、この許容取水量も現在では久地円筒分水手前の平瀬川でその80%を多摩川に戻すようである。久地の円筒分水は次回の散歩でメモする。



鷹匠橋
南武線の人道橋を渡り府中街道に出る。道の左手にある南武線・久地駅を見遣りながら進むと、久地駅前交差点に鷹匠橋が架かる、橋の中央に「川崎の歴史ガイド 鷹匠橋」とあり、「江戸時代、川崎にも将軍家の御鷹場があり、この近くに鷹匠を泊める名主の家があったが。そこには常に御鷹部屋という特別の部屋が設けられ、鷹や鷹匠は大変手厚くもてなされた」と案内があった。
久地駅
久地駅は昭和2年(1927)に「久地梅林停留場」として開業。付近には江戸時代から梅の栽培が盛んで、数百株の梅の名所として知られており、梅林を観光名所と目した命名である。昭和8年(1933)には北原白秋も久地梅林を訪れ「君がため未明(まだき)に起きて梅の花見に来たりけりまさやけき花」など十首を詠んでいる。
とは言うものの、田山花袋は『東京近郊 1日の行楽』で、「久地の梅は、依然たる田舎の梅林だ。ヤヤ世離れたという意味では面白いが、それほど大騒ぎするようなところでもない。梅もそんない多くない」と描く。

この梅林も戦前の平瀬川の開削(次回散歩でメモする)、戦時中の食糧増産のため(梅が伐採され畑地になった、ということだろう)ほとんどが伐採され、また、戦後の工場進出や宅地化の進展のため往時の面影は少なくなり、梅園幼稚園とか久地梅林公園(平成14年;2002年開園)といった地名に往昔の名残を留める(久地梅林公園に上記白秋の歌碑が建つ)。
久地の由来
久地の地名の由来は例によって諸説ある。NPO法人 多摩川エコミュージアム制作の「散策こみち案内 みんなで歩こうシリーズ」には、溝の口に入り口であるところから、「くち」が「くじ」に転化、多摩川の幾度もの流路変更により、河岸が抉られた=くじられた(注;急な崖のことを「クジ」と言う)、久地地区の南の丘陵は現在津田山と呼ばれているが、元々、比丘尼山と呼ばれており、久地は比丘尼に因む(注;比丘尼を祀った弁天堂が小名の久地にあった、ということか)、または音が転化した、といった記述があった。比丘尼云々の話は今一つよくわからない。

堰前橋
鷹匠橋から用水に沿って先に進み、人道橋を越えると堰前橋。「散策こみち案内 みんなで歩こうシリーズ(NPO法人 多摩川エコミュージアム)」に拠ると、この辺りに久地の悪水吐けがあった、とのこと。カシミール3Dのプラグイン「タイルマップ一覧」の「今昔マップ 首都1896‐1909」でチェックすると、堰前橋の少し手前辺りから蛇行しながら北東へと流れ多摩川の河原に続く水路が見える。これが田畑を灌漑した余水を流す悪水路かと思う。

久地の横土手
堰前橋のひとつ下流の久地橋の左岸手前に「川崎の歴史ガイド 久地の横土手」がある。「多摩川に対して直角につくられた横土手。江戸時代、洪水時の水勢を弱める目的でつくられた。この土手を挟んで利害対立が激しく、工事は約三百メートル進んだところで中断した」と説明がある。
なるほど、用水に直角に広い道がある。土手と言うほどの堤はない。以前は両側に比べて一段高い土手があったようだが、現在は宅地開発で平坦に整地されている。
「散策こみち案内 みんなで歩こうシリーズ(NPO法人 多摩川エコミュージアム)」に拠れば、「元禄の頃(1700頃)、久地の大圦樋や分量樋(注;後述する)を護り、二千町歩の水田を多摩川の氾濫による水没から防ぐため、関東郡代伊奈半十郎は、久地の横土手の強化を決意。伊奈氏の甲州流治水のひとつ、霞土手とは河流に対して横方向に堤防を築いて氾濫した洪水を上流の低地に滞水させて水勢を弱め、川下の堤防の決壊を防ぐ手法。
横土手が作られたのは幕府直轄地であったが、その中に宇奈根村の飛地だけが井伊家の私領であったことが工事中にわかり、後の工事中断の一要因にもなった(井伊家の承諾なしに伊奈半十郎が工事を行った)。この横土手は当時としてはかなり大規模工事(下部の幅約30m、上部の幅約7m、長さ約240m)で、完成することなく半分ほどで中断されたが、作られた分の跡が今日まで伝えられているのは、この工事の陰には幾つかの悲話が残されているからであろうか」とある。

供養塔
「川崎の歴史ガイド 久地の横土手」の傍に小祠がある。水神様とも言われるが、横土手築造にかかわる伝説である「浄庵安正」の供養塔なのかも知れない。「散策こみち案内 みんなで歩こうシリーズ(NPO法人 多摩川エコミュージアム)」を読んでもはっきりしない。
「散策こみち案内 みんなで歩こうシリーズ(NPO法人 多摩川エコミュージアム)」に拠れば、浄庵安正の伝説とは、横土手の完成により水没する宇奈根、堰、宿河原の村民のために、工事役人を斬り殺した浄安安正の恩義に報うため、供養の塚を造ったとの言い伝え。村民の度重なる工事中止の懇請にもかかわらず、工事は強行され、横土手によって守られることになる村民との間で、諍いが起きるも役人は工事を強行。
堰村の名主屋敷に寄宿していた浄庵安正は、今こそ恩返しの時と、工事役人を斬り殺し、多摩川対岸にある支配違いの伊井領の役所に出頭。横土手の工事が進む宇奈根は井伊領の飛び地であり、その井伊家に無断で工事を進めていた工事役人は事が公になることを怖れ、事件をなかったことに始末し、工事も取りやめることなった、とのこと。
浄庵安正の恩義に報うため築いた「塚」は、この小祠の道を隔てた南、現在ガーデンマンションが建つ辺りであったが、その建設に伴い、平成17年(2005)に、この地に小公園がつくられ供養塔が移されたようである」といった説明があるのだが、この小祠が供養のために築かれた「供養塚」から移された「供養塔」なのかどうか、はっきりしない、ということである。

久地分量樋跡
用水に沿って下ると、用水右岸に丘陵の緑が繁る辺りの道脇に石碑があり「久地分量樋跡」とあり、「久地分量樋は、多摩川から二カ所で取入れられ、久地で合流した二ヶ領用水の水を、四つの幅に分け、堀ごとの水量比率を保つための施設で、江戸時代中期に田中丘隅(休愚)によって作られました。そして昭和16年(1941)年、久地円筒分水の完成により、役割を終えました」との説明があった。
「四つの幅に分けられた、各堀」とは川崎堀(取水路)、根方堀、久地・溝の口・二子堀、六ヶ村堀(各堀は次回メモ)。分量樋では各灌漑面積に比例した幅の樋(水門)によって水量比を保とうとしたが、この方法では用水中央部では流水量が多く、端は流水量が少ないといった事情もあり、正確に分水することが難しく、水の配分を巡り水騒動が起こることになったようである。
田山花袋の『東京近郊 1日の行楽』には「この用水は久地の梅のある少し手前で、大堰をつくって、溝の口の方へ流れて行っているが、その堰のあたりも、丘陵が迫って来ていて感じが好い。夏行った時には、其処で村の子供達が銅のような肌をして、河童のように潜ったり飛び込んだりしていた」と描く。
田中丘隅(休愚)
平沢村(現在のあきるの市で名主の子として生まれ、川崎宿の本陣を務める田中兵庫の養子となった丘隅(休愚)は、名主、問屋も兼ね、関東郡代伊奈忠逵(ただみち)と交渉し六郷川の渡しの権利により得、その利益で宿の繁栄に貢献。 50歳で江戸に出て荻生徂徠などに学び、その後農政・民生の意見をまとめた『民間省要』が大岡忠相の眼にとまり、八代将軍吉宗の御前にて農政・水利の意見を述べ、結果、川除普請奉行に命ぜられ荒川、多摩川、酒匂川の改修にあわせて、享保9年(1724)二ヶ領用水改修の命を受けた。丘隅は宿河原取水口の改修、開削以来百年を越えた総延長32キロに及ぶ用水の大浚い、そしてこの分量樋を造り、古くなった二ヶ領用水を蘇らせた。

久地大圦樋
また、分量樋の手前には、分量樋を洪水などの被害から護るための久地大圦樋(幹線水路の水量調節用の水門や、比較的大きい水門を圦碑)、そして、圦樋の手前には吐口があり、余剰水を多摩川に水路で流した。木製の大圦樋は明治43年(1910)1月に壊れたため、同年12月、コンクリート製に改築された。

平瀬川
先に進むと用水先に水門が見え、その先は平瀬川。久地の円筒分水は、川を越えた先にある。円筒分水からのメモは次回にまわし、今回の散歩は、久地大圦樋の辺りから現在の平瀬川の東に残る多摩川の旧堤防を締めとする。



多摩川の旧堤防(「久地の霞堤」)
「散策こみち案内 みんなで歩こうシリーズ(NPO法人 多摩川エコミュージアム)」に拠れば、久地大圦樋の辺りから多摩川に向かって北東に霞堤が残る、と言う。Google1 Mapの衛星写真にも明らかに堤防跡らしき緑の帯が続く。 平瀬川を渡るとほどなく、これも明確に堤とわかる「高み」が宅地のど真ん中を多摩川へと続いていた。この堤がいつ頃築造されたか不明であるが、途中には堤外排水施設(堤の北はかつての堤外、河川敷)や河口からの里程を示す標識らしきものが残り、つい最近まで多摩川の堤防であったような風情を呈していた。メモの都合上、この堤を「久地の霞堤」とする。
久地の横土手と霞堤
この「久地の霞堤」と「宿河原の霞堤」を歩いてみて、これらの多摩川の旧堤防と横土手の関係がよくわからなくなってきた。霞堤と言う以上、川筋に沿って、不連続ではあるが、上流側の堤防が下流側の堤防より河川側に入り込みながら平行して堤があったのだろうが、「宿河原の霞堤」とそれに不連続で続くであろう多摩川の霞堤に関する記述は、「久地の宿河原」しか見当たらない。 もし、この間に堤がなかったとすれば霞堤間は1キロ弱もある。河道に沿って微高地・自然堤防があったのか、蛇籠によって枡形が造られ多摩川の激流を防いだのか、はたまた、自然に任せた遊水地であったのか不明であるが、これほどの「開口部」である以上、どうしたところで洪水時には一帯は氾濫原となったかと思う。
その氾濫原に下流部を防ぐ横土手を造るからと言って、確かに堤の上流部の水位はあがるだろうが、所詮は横土手がなくても氾濫原であることには変わりない。また、すぐ下流に分水樋から延びる霞提があれば、あえて横土手を造る理由もわからない。

自分なりに納得できる「理屈」は、用水開削時には「久地の霞堤」は横土手築造時にはなく、横土手築造を断念した故の築造であろう、ということ。伊井家領との諍いを避け、横土手を断念した後、幕府直轄領に霞堤を築くことにしたのかとも妄想する。
「久地の霞堤」が無ければ、一帯が氾濫原であろうが、横土手築堤により、共に氾濫原という「痛み分け」のバランスが崩れ、堤の上流部だけが被害を受け、下流部だけが被害を免れるといったことが納得できず、堤の上流部と下流部の村民の諍となったのだろうか。
ひとつ気になることがある。横土手を巡る諍いは伊井家の領地が絡んでいるわけだが、先日読んだ『江戸村方騒動顛末記;高橋敏(ちくま新書)』には、井伊家領の宇奈根村の百姓が幕閣を相手に名主・村役人の不正と井伊家(彦根藩)の不備を訴える越訴をおこなっている事実が書かれていた。訴状を書き上げる力のある百姓がいた、ということである。
横土手も井伊家領宇奈根が絡む諍いである。同書に言う「ものいう百姓」が多数育っていたことが騒動の一因であろうか。久地の分量樋から多摩川に続く「久地の霞堤」は、「ものいう百姓」のいる井伊家領宇奈根村を避け、天領に築堤したのであろう。が、どうしたところで、氾濫原に堤防ができれば、その上流域の村民は洪水被害が増大するわけ、それにもかかわらず、これといった諍いの言い伝えは残っていない。はてさて。

今回のメモはここまで。次回は、平瀬川のあれこれ、円筒分水、また、かつては久地分量樋から分かれた川崎堀(取水路)、根方堀、久地・溝の口・二子堀、六ヶ村堀などのことなどからメモを再開しようと思う。

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