鎌倉街道山ノ道 そのⅠ:高尾から秋川筋に

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高尾から秋川筋に
鎌倉街道山ノ道を高尾から秩父まで 歩くことにした。高尾からはじめ秋川筋に、次いで青梅筋、名栗の谷、そして最後は妻坂峠を越えて秩父に入る。それぞれ15キロ程度。4回に分ければ秩父に到着する。思ったよりも秩父は近い。
鎌倉街道とは世に言う、「いざ鎌倉」のときに馳せ参じる道である。もちろん軍事面だけでなく、政治・経済の幹線として鎌倉と結ばれていた。鎌倉街道には散歩の折々に出合う。武蔵の西部では「鎌倉街道上ノ道」、中央部では「鎌倉街道中ノ道」に出合った。東部には千葉から東京湾を越え、金沢八景から鎌倉へと続く「鎌倉街道下ノ道」がある、と言う。「鎌倉街道上ノ道」の大雑把なルートは;(上州)>児玉>大蔵>苫林>入間川>所沢>久米川>恋ケ窪>関戸>小野路>瀬谷>鎌倉。「鎌倉街道中ノ道」は(奥州)>古河>栗橋>鳩ヶ谷>川口>赤羽>王子>二子玉川> 荏田>中山>戸塚>大船>鎌倉、といったものである。
鎌倉街道といっても、そのために特段新しく造られた道というわけではないようだ。それ以前からあった道を鎌倉に向けて「整備」し直したといったもの。当然のこととして、上ノ道、中ノ道といった主要道のほかにも、多くの枝道、間道があったものと思える。
で、今回歩く鎌倉街道山ノ道、別名秩父道と呼ばれる。鎌倉と秩父、そしてその先の上州を結ぶもの。高尾から北は、幾つかの峠、幾つかの川筋を越えて秩父に向かう。高尾から南は、七国峠から相原十字路、相原駅へと進み、南町田で鎌倉街道上ツ道に合流し、鎌倉に向かう。
鎌倉街道山ノ道を歩こうと思ったきっかけは至極単純。鎌倉武士の鑑と呼ばれた、畠山重忠が館のある秩父からこの道を鎌倉に向かって往還した、という。妻と別れを惜しんだ妻坂峠など重忠が見た峠の風景を自分も体験しよう、と思ったわけである。さて、散歩に出かける。本日は16キロ程度だろう。



本日のルート;JR鷹尾駅>高尾街道>廿里の坂>城山大橋交差点>中央高速と交差>心源院>川原宿>モリアオガエルの道>圏央道交差>美山トンネル>山入川・美山橋>戸沢峠>秋川街道>川口川・重忠橋>駒繋石峠>山田大橋南詰め>秋川・網代橋>JR五日市線武蔵増戸駅

JR中央線高尾駅

JR中央線高尾駅で下車。駅前を進み甲州街道を渡り、そのまま北に進む。この道は高尾街道と呼ばれる。高尾街道はJR高尾駅からはじまり、北東に上り滝山街道戸吹交差点で終える。高尾街道は別名「オリンピック道路」とも呼ばれる。東京オリンピックのとき、自転車ロードレースのコースであった。

廿里(とどり)古戦場
南浅川にかかる敷島橋を渡ると、道は山裾を縫って上る。坂道の途中に「廿里(とどり)古戦場の碑」。北条と武田の古戦場跡。永禄12年(1569年)、武田軍主力が上州の碓氷峠を越えて武蔵に侵攻。小田原攻略のためである。で、この八王子に南下し北条の戦略拠点?・滝山城を攻める。この主力部隊に呼応し、小仏峠筋より奇襲攻撃をかけたのが大月城主・小山田信茂。難路・険阻な山塊が阻む小仏筋からの部隊侵攻を想定していなかった北条方は急遽、この廿里に出陣。合戦となるもあえなく武田軍に敗れた。北条氏がこの地の主城を滝山城から八王子城に移したのも、この負け戦、ゆえ。小仏筋からの侵攻に備え、小仏・裏高尾筋を押さえる位置に城を築いたわけである。

梶原八幡
森林総合研究所のある山裾の坂道を上る。多摩森林科学館前交差点で大きな道路に合流。甲州街道の町田街道入口からのびる高尾街道のバイパスである。合流点より先も上り坂。左右は緑の山稜。道の東は多摩御陵、多摩東陵、武蔵野陵といった皇室のお墓。道の西は森の科学館が広がる。豊かな緑を目にしながら坂を下ると城山大橋の三叉路。高尾街道は北東に進むが、鎌倉街道は高尾街道を離れ、三叉路を北西方向に進む道筋となる。
新宮前橋で北淺川の支流・城山川を渡り、少し進むと宮の前交差点。宮前とか宮の前といった地名があるのは、道の東にある八幡様に由来する。この八幡様は鎌倉幕府の御家人・梶原景時が建てたと言われる。鎌倉の鶴ケ岡八幡の古神体をこの地に奉祀したもの、とか。参道に梶原杉といった切り株も残る。で、そもそも何故この地に梶原か、ということだが、梶原景時の母がこのあたりに覇をとなえた横山氏の出。この地に景時の領地もあった、よう。
梶原景時って、義経いじめ、といったイメージが強い。また、鎌倉散歩のとき、朝比奈切り通しで「梶原大刀洗水」といった清水の流れを目にした。頼朝の命により、上総介広常を討ち、その太刀を洗ったところ、とか。いずれにしても、あまりいい印象はない。
どういった人物か、ちょっとメモ;もともとは平氏方。坂東八平氏である鎌倉氏の一族であり、頼朝挙兵時の石橋山の合戦では一族の大場氏とともに頼朝と戦う。で、旗揚げの合戦に破れた頼朝の命を助けたため、後に頼朝に取り立てられ、頼朝の側近として活躍。教養豊かで都人からも一目置かれるが、義経とは相容れず対立。頼朝と義経の関係悪化をもたらしら張本人と評される。頼朝の死後は、鎌倉を追放され、一族もろとも滅ぼされた。

八王子城山入口
神社をはなれ、道を進むと中央高速と交差。その先の三叉路は八王子城山入口交差点。城跡は三叉路を西に1キロほど進むことになる。八王子城は北条氏の戦略拠点。北条氏照が築城。小仏筋からの武田軍に備えた。この城の落城は秀吉の小田原攻めの時。関東の北条方の城は無血開城、といったものが多いのに、この城だけは徹底的に潰されている。埼玉県寄居にある鉢形城攻めでの「軟弱」な対応を秀吉から叱責された攻城軍が、この城を「皆殺し」にすることにより、忠誠の証とした。一日の攻防で落城した、という。このお城には幾度も訪れているので今回はパス。道を急ぐ。

心源院

坂を上る。左右に霊園。誠に広い。坂を下り切るとまたまた前方に上り道。この上り道をそのまま進むと小 田野トンネルを抜け、川原宿交差点で陣場街道にあたるのだが、鎌倉街道は上り手前から分岐する小径に向かう。
交差点脇に休憩所といったものがある。これが目印。そこを左に折れて進む。のどかな田舎道。高尾を出てはじめて、古道といった道になる。緑の中をゆったり進む。ゆるやかな坂を上り、そして下ると左手に見える分岐路に大きな石の柱。心源院はその奥にある。
心源院は武田信玄の娘・松姫ゆかりのお寺。もともとはこの地に勢力を誇った大石定久が開いたた寺。滝山城を築き北条と覇を競った大石氏であるが、北条の力に敵わずと滝山城を北条氏照に譲り、自らは秋川筋の戸倉城に隠居した。とはいうものの、木曾義仲を祖とする名門・大石氏は北条に屈するのを潔しとせず、面従服背であった、とも。大石氏ゆかりの地には散歩の折々に出会う。戸倉城山にも上り、結構怖い思いもした。多摩の野猿街道あたりにも大石氏にまつわる話もあった。東久留米の古刹浄牧院も滝山城主大石氏が開いた、と。とはいうものの、この大石定久の最後については、よくわかっていないようだ。
で、松姫。武田家滅亡の折り、甲斐よりこの地に逃れてくる。悲劇の姫として気になる存在である。
7 歳で信長の嫡男・信忠と婚約。1572年。武田と徳川が争った三方原の合戦に織田が徳川の味方をした。ために、婚約は破棄。松姫11歳の時である。1573年信玄、没する。兄の仁科盛信の居城・高遠城に庇護される。が、1582年、信長の武田攻めのため、盛信や小山田信繁の姫を護って甲州を脱出。道無き道を辿り、和田峠を越え、陣馬山麓の金照庵に逃れ、北条氏照の助けを求めた、と。もっとも、松姫の脱出路は諸説ある。先日大菩薩峠を越えた時、牛尾根の東端に松姫峠があった。伝説では、松姫はこの峠を越えた、と言う。
1582年、武田勝頼、天目山で自害。武田滅亡。武田攻めの総大将は元の婚約者織田信忠。何たる因縁。信忠、松姫を救わんと迎えの使者を派遣。が、本能寺の変。信長共々信忠自刃。何たる因縁。
ともあれ、金照庵から移ってきたのが、この心源院。22歳のとき。ここで出家し信松尼となる。
1590年、八王子市内にある草庵に移り、近辺の子どもに読み書きを教えながら、幼い姫君を育て上げた、と。八王子は武田家遺臣が多く住む。八王子千人同心しかりである。大久保長安を筆頭とする武田家遺臣の心の支えでもあった、とか。
松姫の悲劇で思い出す姫君が源頼朝の娘・大姫。木曾義仲の嫡子・義高との婚約。が、義仲と頼朝の争い。頼朝の命による義高の誅殺。頼朝・政子に心を閉ざし生きる大姫。唐木順三さんの『あずまみちのく(中公文庫)』の大姫の記事などを思い出しながら心源院を離れる。

(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)



川原宿
道を少し進み北浅川に架かる深沢橋を渡ると陣場街道に出る。西に折れ川原宿交差点に。川原宿って、いかにも宿場といった名前。陣場街道の宿場であったのか、と、チェック。が予想に反し、陣場街道という名前は最近付けられた、とか。東京オリンピックの頃と言う。それまでは案下道とか、佐野川往還と呼ばれ、和田峠を越えて藤野・佐野川に通じていた。街道筋には、四谷宿(八王子市四谷)、諏訪宿(八王子市諏訪)、川原宿、高留宿(上恩方町;夕焼け小焼けの里のあたり)といった宿場があった。この案下道は、厳しい小仏関のある甲州街道を嫌い、江戸と甲州を結ぶ裏街道として多くの人がr利用したと言う。

モリアオガエルの道

川原宿の交差点をしばらく進むと道は右手に曲がる。鎌倉街道はこのカーブがはじまるあたりで左に分岐する。分岐点にはお地蔵様。道の西は小高い山。東側は民家と畑。山に沿ってS字に続く道を進むと三叉路に当たる。真ん中に塚。桜の木と庚申塔や石碑がある。
交差点を西に走る道は小津道と呼ばれていた。現在は「モリアオガエルの道」と呼ばれる。鎌倉街道は本来、この小津道を少し西に進み、それから北に折れ山に入り、美山町荻園へと進んでいた、よう。残念ながら現在はそのルートは圏央道が通り古道は消滅している。仕方なく三叉路から東に折れ、川原宿から続く一度車道に出る。

美山こ道橋・圏央道
交差点を北に進むと小津川に架かる桜木橋。前方に丘稜が迫る。丘陵手前で圏央道を渡る。橋の名前は「美山こ道橋」。鎌倉古道を跨がっているから、であろう。圏央道を渡ると美山トンネル。トンネル内の側道を少々怖い思いをしながら進み丘陵を抜けると美山橋。山入川に架かる。この美山地区は昔、「山入り」と呼ばれていた。昔の秩父道は美山橋の下流、圏央道が山入川にかかる辺りにある荻園橋のあたりから、川筋に沿って進んできたのであろう、か。

戸沢峠
川を渡り先に進むと美山小東交差点。ここを先に進むと戸沢峠に進む。ゆったりとした勾配の坂道。峠も標高250m程。峠からの坂道を下り切ったところに上川橋。川口川に架かる。戸沢峠は美山小東交差点から上川橋まで、おおよそ2キロ程度。陣場街道の谷筋と秋川街道の谷筋を結ぶ峠道。武蔵名所図会には「戸沢嶺」と記載されているので、古い歴史をもつ峠道であろう。ちなみに、峠って、日本で造られた造語。「山と上と下」を重ね合わせてた誠に巧みな造語である。峠の語源は、たるんだ地形を表す「たわむ」を越える「たわごえ」が転化したもの、とか、往還の安全を感謝した「たむけ」が転化したとか、例によって諸説あり。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

秋川街道
上川橋を渡ればそこは秋川街道。本来の秩父道は、坂道の途中から戸沢集落へと入る小径であった、よう。道筋には馬頭観音などもあり、それなりの趣があったのだろうが、今回は見逃してしまった。
秋川街道は八王子で甲州街道から別れ、秋川筋の五日市に通る道。八王子道とも川口街道とも呼ばれる。ほぼ川口川に沿って走っている。川の中流域の広い範囲に川口町があるが、それが川の名前の由来だろう、か。

重忠橋

秋川街道を西に進む。ほどなく上川霊園入口交差点。秩父道はこのT字路を北に折れる。道はすぐに川口川と交差。重忠橋がかかる。橋の近くに田守神社があるが、この神社には畠山重忠の伝説が残る。失った守り本尊がこのあたりで見つかり、ためにこの神社を祀った、と。とはいうものの、田守神社って各地に残る。田舎の愛媛県新居浜には、田守神社だけでなく土守神社も残る。どうも、重忠の「守り」本尊と、田「守」を結びつけるのはちょっと無理があるか、とは思いながらも、伝説は伝説として残せばいいのか、とも。
畠山重忠は鎌倉時代の代表的武人。もとは、桓武平氏の流れをくむ坂東八平氏の一党。ために、頼朝挙兵の時は平氏方。後に頼朝方に参陣し武勲をたて、鎌倉武士の鑑として尊敬される。頼朝の死後、北条時政の謀略により二俣川で自刃して果てる。相鉄線鶴ヶ峰駅近くに自刃の地を訪ねた散歩を思い出す。

駒繋石峠・御前石峠

重忠橋を越え、秋川丘陵へと坂を上る。上川霊園前を過ぎると上川トンネル。秩父道はこのトンネルの手前の側道を峠に向かって上ることになる。上り切ったT字路が峠。この峠は駒繋峠とも御前石峠とも呼ばれる。秩父道はこの峠で秋川丘陵の尾根道を東から西に通ってきた古甲州街道と合流する。
峠を西に向かう。しばらく秩父道と古甲州街道が重なって進む。道の北側は金網のフェンス。フェンス下は大きく切り開かれており、排水処理センターとなっている。S字に曲がった道を少し上ったところに駒繋石(御前石、とも)。畠山重忠が馬を繋いだとの話が残る。道から少し入ったことろにあり、最初は見落としてしまった。また、繋いだとの穴が思いのほか小さく、何回も確認しなければならなかった。駒繋峠はこの三角錐の形をした石からきたものであることは、言うまでもない。
この駒繋峠は畠山重忠だけでなく、幾多の戦国武将が往還した。北条氏照は青梅筋・軍畑(いくさばた)の辛垣城を攻略するときこの峠を進む。秀吉の小田原攻めのときは、上杉景勝はこの峠を越えて八王子城に攻め込んだ、と言う。

山田大橋の南詰
道なりに峠道を下る。道の西にはゴルフ場が広がる。更に進み、道の東にも現れるゴルフ場を眺めながら坂を下ると車道に出る。そこは上川トンネルに続く網代トンネルの出口となっていた。この道を進むと秋川に架かる山田大橋。橋の上から秋川の美しい眺めをしばし楽しむ。秩父道はこの山田橋南詰めからS字に曲がる坂を下り、山田大橋の下あたりから秋川を渡った、と言う。S字カーブの途中にある民家の前の路地を進む。ここからはちょっとの間、旧甲州街道の道筋を進む。民家の先は緑の木立の中を進む道。少し進むと弁天橋。秋川の支流に架かる。ここからの眺めも美しい。
弁天橋を渡ると道脇に諏訪神社と禅昌寺。ちょっとお参りし、道なりに進み旅館網代のあたりに三叉路。そこを右に折れ、秋川に向かって坂を下ると網代橋。網代は木や竹で編んだ河川の漁具。このあたりは川魚の漁が盛んに行われていたのであろう。

JR五日市線武蔵増戸駅


秋川を渡り、車道に出る。山田大橋から進んできた車道を北に進むと五日市街道。五日市街道と呼ばれるようになったのは近世末期から近代になってから。それ以前は「伊奈道」と呼ばれていた。このあたりの地名は伊奈と呼ばれるが、ここでは伊奈石が採れた。平安末期には信州伊那谷の高遠から石工が集まっていた、と言う。で、江戸城築城に際し、この伊奈の石材を江戸に運ぶために整備された道が「伊奈道」である。伊奈道が五日市街道となったのは、伊奈に替わって五日市に焦点が移った、ため。木材の集積の中心として五日市が伊奈にとって替わった。ために、道筋も五日市まで延ばされ、名称も五日市街道になった、という。(『五日市市の古道と地名;五日市市郷土館』)
山田交差点を越えるとJR五日市線の武蔵増戸の駅はすぐそば。増戸って、江戸時代に石工の往来が盛んであり、それを「増」で表した、と言う説もあるが、そもそも増戸村ができたのは明治になってから。伊奈村、網代村などが合併した時に命名。とすれば、「合併した村の戸数が増す=発展する」ように、ということで命名されたようにも思える。我流解釈であり、真偽の程貞必ず。ともあれ、秩父道の第一ラウンドはこれで終了。

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