伊予 花遍路の里を歩く そのⅠ;粟井坂から花遍路の里を辿り鴻之坂の峠を越え浅海に

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月例の田舎帰省。お袋との話相手の合間にどこか歩こう、と。市立図書館を訪れあれこれ本を探すと、旧北条市(現在松山市)の東、市街を離れた下難波地区から腰折山の鞍部を抜け、今治市との境を接する浅海(あさなみ)地区に抜ける「鴻之坂の峠越へ」の道がある、と言う。昔の「歩き遍路」の道のようでもある。
これはいいかも、と思うのだが、如何せん距離が4~5キロ程度で余りに短すぎる。で、その前後をルートに加えようと「えひめの記憶(愛媛県生涯教育センター)」の遍路道をチェックすると、松山の堀江から旧北条の小川の間に粟井坂があり、そこは旧和気郡と旧風早(かざはや)郡との郡境とのこと。鴻之坂の先にある窓峠は旧風早郡と旧野間郡の境でもあり、散歩の区切りとしてもよさそうである。
さらにこの区間の遍路道筋には茂兵衛道標徳衛門道標など多くの遍路道標が残る、とのこと。また、ふたつの坂の間の北条は昔NHKのテレビドラマにあった「花へんろの里」と言う。もとより「花へんろ」は脚本家であり、北条出身の早坂暁氏の造語であり、今の北条市街にドラマにあった風情が残るとも思われないが、坂、と言うか小さな峠に囲まれた「花へんろの里」を歩くって、結構「収まりがいい」し、距離も12~13キロ程度で丁度いい。

ルートを想うに、遍路道に沿って予讃線が走っている。出発点寄りの駅近くの適当な場所に車をデポし、終着点近くの駅から列車で引き返し車をピックアップできる。ということで、車を出発点の松山の堀江から旧北条の小川の間の粟井坂最寄りの駅である、予讃線・光洋台駅近くで、どこか適当な所を探し車をデポし、花へんろの里を道標を目安に進み、鴻之坂を越えた後、最寄りの駅である予讃線・浅海(あさなみ)駅で列車に乗り、光洋台まで引き返すことにする。


本日のルート
Ⅰ;松山を経由し粟井坂に向かう>53番札所・円明寺>西山通周五右衛門堂>大谷口バス停>海岸の切り通し>粟井坂大師堂>小川四国八十八ヶ所>河野通清供養塔>古戦場跡>粟乃井>徳衛門道標>蓮福寺の道標>常楽院>里程標>徳衛門道標>龍宮神社>三穂神社>高浜虚子の句碑>赤地蔵>弥エ門地蔵堂>夜烏地蔵>自然石の道標>鹿島

Ⅱ;クランク状の道>三穂神社>お地蔵様>道標>杖大師>倉敷紡績北条工場跡>立岩川>下難波地区に>「鴻之坂(こうのさか)越え」>道標と地蔵堂>茂兵衛道標>鴻之坂線>鎌大師>エヒメアヤメ自生南限地>一茶の道>イヨスミレ 市指定史跡>峠に茂兵衛道標>分岐点に茂兵衛運道標>旧道を下る>阿弥陀堂と里程標>地蔵堂

松山を経由し粟井坂に向かう
実家の新居浜から松山に向かい、松山市街から国道196号を進み、途中でバイパス道となった国道196号と分かれ、旧国道196、現在の県道347号乗り換える。 県道を走っていると53番札所・円明寺の案内。予定には無かったのだが、道筋でもあるのでちょっと立ち寄り。

53番札所・円明寺
八脚門造りの仁王門をくぐり、境内に。左手に大師堂。参道を進むと鐘楼門となっている中門があり、正面に本堂。本堂右上の鴨居には左甚五郎の作という5cmほどの龍の彫り物があったようだが、見逃した。
本堂にお参り。案内に拠れば、「四国八十八か所の五十三番札所である。須賀山正智院と号し、本尊は阿弥陀如来である。寺伝によると、天平年間(729~749年)、僧行基の創建で、聖武天皇の祈願所であったという。
この寺は元は、ここから西方の和気西山の海岸にあり海岸山圓明密寺と言われていた。五重塔もあり、立派な本堂など豪壮な七堂伽藍をそなえた寺院であったというが、いくたびかの戦禍により一山のほとんどを焼失し、寛永10(1633)年、須賀重久が現在の地に再建したので須賀山円明寺といわれるようになった。寛永13年(1636)には仁和寺の直末に加えられ、正智院と号するようになったと伝えられている。
観音堂に安置されている十一面観音像は、慶長5(1600)年、河野家再興をはかった遺臣たちが、戦死者の菩提を弔うために奉納したといわれている」とあった。
●切支丹灯ろう
本堂左手の塀際に切支丹灯ろう。「十字架形の灯ろう」。高差40cm 合掌するマリア観音とおぼしき像が刻まれ、隠れキリシタンの信仰に使われたと説もある」との案内があった。











円明寺八脚門
「円明寺は、真言宗智山派、四国八十八か所53番札所である。寺伝によれば、天平年間(729年~749年)に、僧行基によって近くの勝岡の地に七堂伽藍が創建されたという。その後兵火により荒廃し、寛永10年(1633年)にこの地に居住していた須賀専斎重久によって現在地に再興されたという。
八脚門の建物は、三間一戸、一重、入母屋造、一軒疎垂木(ひとのきまばらだるき)本瓦葺である。基礎は切り石を据え、柱は円柱で柱頭にのみ粽(ちまき)を付け、頭貫・台輪を通してその上に組物で軒を支え、柱間の中備には間斗束(正面のみ蓑束)を置く。室町時代の作とみられ、頭貫先端の木鼻の彫刻文様や組物の造りには古式が見られるが、その後再興時に改修の手が加えられ、創建時とは変容したことが推定される」との案内があった。

この札所から次の札所である54番札所・延命寺(今治市)まではおよそ35キロの長丁場。今日のその間のほんの一部を歩くことになる。

西山通周五右衛門堂
円明寺からの遍路道筋には幾多の道標があるようだが、道筋に案内があったため円明寺に立ち寄っただけであり、少々準備不足。道標を辿りたい、との気持ちを抑えて出発点の粟井坂へと向かう。
県道347号を海岸に沿って進むと、海に迫る丘陵を国道196号・松山北条バイパスが二カ所トンネルで抜ける。最初のトンネルの入り口辺りの県道347号山側の道脇に小さなお堂と石碑が見える。ちょっと立ち寄り。

案内には「1630年(江戸時代前期)、和気郡の堀江地方では、作物がじゅうぶん実らず、農民は、大変苦しい生活をしていた。心配した西山五右衛門通周は、農民にかわって、何度も年貢米の免除を役所に願い出たが許されなかった。
そこで、通周は、農民の命を守るために、もみ米をこぎ取らせ、藁を田に集めて焼き、「不作で米が取れないから、稲を焼いてしまいました。」と言って、裁きを待った。役人は、通周を堀江東海岸の波打ち際で磔の刑にした。村人は、お堂を建てて通周をとむらった。このお堂を「五右衛門堂」と呼んでいる」とあった。
西山五右衛門通周は、かつて河野氏の家臣であり花見山城主(松山市堀江町)の第六代城主であったが、この事件の頃は庄屋となっていたようだ。

大谷口バス停
西山通周五右衛門堂を離れ、二番目のトンネル(粟井坂トンネル)のある丘陵との間の平地に大谷口バス停がある。
「えひめの記憶」に拠れば、堀江から県道347号を進んだ昔の遍路道は、このバス堤から右に折れ、JR 線路を越え、左折して線路沿いに北上し山道に入ったとのこと。粟井坂越えの道と呼ばれたこの道は現在は300mほどで行き止まりとなっているが、粟井坂越えの道はこの粟井坂トンネルの近くから山に上り、上り下りしながら海岸寄りに峠を越えて旧北条市側に降りていたようである。道筋はおおよそ現在のJRのトンネル上がそれ、と言う。
旧街道としてあるいは遍路道としての機能を失ってから久しく、荒廃してその姿を今日たどることはできない。ただ、坂の頂上には、反対側の北条市方面からは登ることができる」、とのことである。

海岸の切り通し
大谷口バス堤を越えると、丘陵部が海に迫った箇所が切り通しになっている。明治13年(1880)に海岸に切通しの新道が開かれたと記録にあるが、その箇所だろう。それまでは、先程の大谷口からの道を進んで松山市堀江から旧北条市小川、旧名で言えば旧和気郡と旧風早(かざはや)郡に入っていたわけだが、この切り通しの道が付けられることによって、上でメモした粟井坂越えの道は消滅した。
切り通しを越えると、松山市掘江から松山市小川(旧北条市小川)に入る。その境目小川側、道路右手にお堂が見える。粟井坂大師堂であり、本日の出発点。車を切り通し部分の展望所駐車場にデポし本日の散歩を開始する。

粟井坂大師堂
切り通しをこえた道の右手にお堂や石碑の建つ一画が現れる。粟井坂大師堂である。
大師堂はもと茶堂として坂の上の関所跡から少し下がった平地にあったようだが、文化6年(1809)に大師堂となり、明治10年(1877)ころに現在地に移されたという。「稚児大師」として案内されていたこともある。また、「小川大師堂」ともある。本堂には地蔵菩薩が祭られる。
木造地蔵菩薩座像
「木造「地蔵菩薩座像」1躯(松山市指定有形文化財) 昭和41年4月10日指定  この地蔵菩薩座像は、室町時代の應永2年(1395)に造られ、寛文9年(1669)修復されたことが像の体内に明記されている(「愛媛県金石史)。 寄木造りの仏高56センチメートル、台座25センチメートル、輪光の後背をつけ、玉眼で左手に宝珠、右手に宝瓶を持ち、結跏趺坐の姿をとっている。
北条地区にはこの粟井大師のような庵や仏堂が多く、生活と密着した敬神崇仏の心が培れている(松山市教育委員会)」と案内にある。

境内には、粟井坂開通の記念碑や句碑などのほか、「こんぴら大門より三十四里」の金毘羅道標など数多くの石碑が建つ。

粟井坂新道碑
境内に、高さ2.5m、幅1.5m、厚さ30cm板型自然石で作られた「粟井坂新道碑」が建つ。案内には「昔、風早郡と和気郡の境にある粟井坂は、交通の難所であった。大森盛壽(1829~1903 小川村里長 郡副長)は人馬の通行を便利にするため岩山を切り開き道路の建設を思い立ち上司に相談したが、受け入れられなかった。そこで、そこで貯金の策を設けて数年かかって金額が増えたので、念願の新道工事を当時の郡長長屋忠明を通して県令(知事)岩村高俊に願い出たところ県税八百九十余円の補助で盛壽の意志に賛同した。
明治十三年(1880)四月六日に着工し、工事人は延べ五千七十余人 工費二千七十余円を費やし七月二十七日遂に完成した。
瀬戸内海の風光明媚な海岸に完成した道は、山を越える坂道が無くなり車や人の通行が大変便利になった。この恩恵を受ける私たちは大森盛壽の功績を顕彰し感謝の気持ちを後世に語り継ぎたい(小川部落)」とあった。

大師内の句碑
境内には子規や漱石などの詠んだ幾つかの歌碑が建つ。
□子規と漱石の歌碑
子規と漱石の句がひとつの句碑に刻まれる
しほひがた隣の国へつづきけり  正岡子規
釣鐘のうなる許に野分かな    夏目漱石
案内には「子規の句は「寒山落木」に所有のもの。この地の対岸である広島で詠まれれたものであるが、松山と風早の郡境に相応しい句として選ばれたものであろう。
漱石の句は明治39年(1906)10月、松根東洋城宛の手紙に書いた作品として「漱石全集第23巻(岩波書店版)に所収されている。いずれの句も自筆。(松山市教育委員会 俳句の里 松山)」とある。
何故にふたり一緒に?チェックすると、愛媛の大教育者である森円月翁が子規と漱石に依頼し詠まれた句。子規没後、子規の詠んだ句と合わせ双幅(左右一対に仕立てられた書画の掛軸)にすべく、漱石に依頼し快諾された掛軸を、翁没後、松山市末広町にある正宗寺(子規堂)に保存されていた。その双幅を昭和51年(1976)の子規・漱石生誕110年を記念し此の地に歌碑を建てた。書体を厳密に模写し刻んでいる、と言う。

子規の句碑
「涼(すず)しさや馬も海向く淡井坂」  正岡子規 2基
案内には「JR予讃線粟井坂トンネルの上に残る細い道が昔の旧道で、この山越えの道が「粟井坂」と呼ばれる本来の場所であった。
粟井坂大師堂には、村上壷天子書の「涼(すず)しさや馬も海向く粟井坂」が建てられていたが、『寒山落木』に所収されている原句が「淡井坂」となっていることから、これに忠実にするため、昭和52年1月に、改めてこの句碑が建立され、古い句碑は大師堂の右奥に移された 俳句の里 (松山松山市教育委員会)」とあった。
元の句碑は昭和33年(1958)小川部落建立したものである。「粟井坂」と「淡井坂」。子規の思い違いか、それとも何か理由があるのだろうか。門外漢には不明である。

大森春恕の句碑
「淋(さび)しさや鴫(しぎ)さえ逃(に)げてうらの秋」大森春恕 18世紀中頃から末期にかけて風早郡の庄屋であった人物。池の築造などに貢献し、安永3年(1774)に一代限りの苗字帯刀を許される。昭和34年(1959)に此の地に建立。

金比羅道標
境内には金比羅道標も建つ。20cmほどの四角の石碑で高さ50cmほど。花崗岩には正面に「こんぴら大門より三十四里」と刻まれた文字かかろうじて読める。施主風早郡新屋又次郎・世話人野間郡紺原町□□、と刻まれているとのことである。









小川四国八十八ヶ所
大師堂横の坂道を河野通信供養塔に向かう。登り口の崖面にお地蔵様。小川村全体にあったお地蔵さまをこの地に移したもの、と言う。崖面のお地蔵様は八十八番。坂道に沿って道端に幾多のお地蔵様が佇む。小川四国八十八ヶ所 後で登場する風早四国八十八ヶ所と同じものであろうかと思う。

河野通清供養塔
お地蔵様に掌を合わせながら、「へんろみち」と刻んだ自然石の道標などを見遣りながら坂を上り切った辺りは平坦地となり、石柱が立っている。この道標は、小公園の中に設けられたミニ霊場の道標と思われる。道の左手に塀が見える塀の中のお堂には河野通清供養塔が祀られる。塀越しに見る瀬戸の斎灘は美しい。




河野通清
案内には「河野通清(生年不詳~1181年)は、高縄山に居城を構えた河野氏の祖で、源平合戦において源義経軍の雄として奮闘を称された通信の父である。 『東鑑』によれば、平氏に反旗を翻すものの、阿波の田口成良、備後の奴可(ぬか)入道西寂に山の神古戦場で敗れ、討死したと言われる。
通信は壇ノ浦海戦などで軍功をたて、鎌倉幕府成立ののち、御家人となるが、「承久の変」に敗れ、高縄山城は陥落、奥州平泉に配流された。
百回忌にあたる弘安2(1279)年、通清の曾孫にあたる一遍上人(1239~1289)がこの地で供養を営み、万霊塔を建てたと伝えられている。現在の供養塔は江戸時代中期以降の造立といわれ、「南無阿弥陀仏」の六文字が刻まれている(松山市教育委員会)」とあった。
高縄城
高縄山(標高986m)にあった山城。道前・道後を画する、このような高い山に城?チェックすると、「日本城郭大系16巻」には「この山を居城とするにはどう考えても不向きで、当山麓の台地に居館を置き、その東端に位置する雄甲(260m)・雌甲(192m)及び、北東に屹立する高穴(292m)の諸域が「高縄城」と総称されたものであった」とある。この説明に納得。
承久の変と河野氏
義経の亡き後、頼朝の旗下で活躍した通信(第23代当主)は鎌倉幕府成立後、実質的な伊予国守護となるも、頼朝亡き後、承久3年(1221)、後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対し倒幕の兵を挙げた際、北条氏を良しとしない河野氏のほとんどが宮側に与し、結果は敗退。
通信は平泉に配流され、一族の多くは討ち死や斬首。ひとり幕府側に与した一族(通久;第24代)が阿波に所領を得た他は、河野氏の所領は通俊(通久の兄弟)が僅かに桑村郡得能を領することを許されたに留まり(得能氏の祖)、ここに河野氏の権勢は完全に衰微することとなる。
その後、幕府派遣の地頭では河野氏の影響力の強い伊予を治め難く、阿波から久米郡石井郷に戻るも、河野氏の命脈をかろうじて維持するといった呈であった。
その状況が大きく変わったのが「元寇」。通有(通久の孫;第26代当主)の武功により河野氏は再び伊予での勢力を取り戻すことになる。南北朝騒乱の時代には宗家・通盛(第27代当主)は足利尊氏(北朝)に、得能・土居といった一族は南朝側に与し、一族相争うも、結果足利氏が勝利し、通盛は伊予の守護職となるまでに勢力を拡大。居城も松山市の湯築城に移された。室町期には一族の内紛もあり、結局戦国大名として名を馳せるまでには至らなかった。

郡境碑
供養塔の堂宇のある塀の中には、風化した寛保元年(1741)建立の郡境碑が建つ。 旧和気郡と旧風早(かざはや)郡の境を画した標識である。昭和46年(1971)建立の郡境碑も傍にあった。
和気も風早も惹かれる地名である。和気は景行天皇の皇子である十勝別王(ときわけのおう)の子孫が伊予別君(いよのわけきみ)が定住した地。「別」とは地方豪族の称号であったよう。この「別(わけ)」が和気の由来、とか。
風早は海辺で風が強い地形から、などとおもっていたのだが、北条の國津比古命神社の縁起に、この地の国造として、物部阿佐利風速が就いた、とある。惹かれた郡名は共に古代の豪族に由来するもののようである。



関所跡・道標
藩政時代には、この峠の手前に関所があったようで、関所跡と刻まれた石碑がある。結構新しい。また遍路道標もあり、こちらは享和3年(1803)の古いものである。

自然石碑
境内にある自然石には「この道を小林一茶も 学信も 中江藤樹も 蔵沢も おへんろさんも その他みんなの人が通った道ぞなもし」と刻まれる、と言う。 一茶は寛政七年(1795)伊予路を辿る。学信は越智郡出身の僧、中江藤樹は大洲藩の家臣であった祖父が、大洲領風早郡の代官として赴任した際に、10歳から13歳まで此の地で過ごした。近世初期、伊予は松山藩と大洲藩による二分領有であり、風早郡も二分されていた。
蔵沢は吉田蔵沢。松山藩士として風早郡・野間郡の代官を務める。南画家としても知られるようだ。

山の神古戦場跡
同じ道を戻るのも何だかなあ、と供養道の南に見える舗装道路を下る。この道筋にも幾多の石仏が佇む。しばらく下ると古戦場の案内。
「松山市指定文化財(史跡)指定 昭和41年4月10日 治承3年(1179)源頼朝より河野通清に依頼状があり(現在高野山金剛三昧院に保存)、これを快諾した通清は四面平家の勢力の中で敢然として頼朝に呼応したが、備後の奴可入道西寂が兵船3000をもって高縄城に侵攻、注進により道後館より一族16騎、兵120人をもって帰城途中、敵の伏兵と遭遇、大いに戦うも利あらず、治承4年1月15日山中の大松のもとで割腹し、家来の者その首級を持ち大栗へ落ちのびたと伝えられる。大松は昭和40年枯死した」殿案内があった。
古戦場跡付近にも幾多の歌碑が残る。全部トレースすると、なかなかメモを先に進めないので、省略する。

粟乃井
古戦場跡から里に下りるも、大師堂からどんどん離れてゆく。ちゃんとチェックすれば予讃線を潜る道があったようだが、とりあえず供養塔まで戻り、上った道を大師堂まで引き返す。
次の目標は「粟乃井」。「えひめの記憶」には「国道を挟んで向かいに屋根つきの井戸がある。ふつふつと泡が出るところから「粟乃井」と名づけられ、地名の由来となったという」とある。
大師堂から見渡しても対面にそれらしきものは見えない。対面に石垣を組んだえらく豪華な料亭がある。この工事の折りにでも壊されたのか、とも想いながら道を横切り、石垣の切れる辺りを少し海岸方面に入ると井戸があった。そこが「粟乃井」であった。

案内には「この井戸の水は古来泡粒のような水が、ブツブツといづむところから「粟之井」と呼び、粟井郷(後の粟井村)の地名の起こりとなり、また一名大師水とも伝えられ、難所粟井坂の登り下りの道行く人々の渇きを癒して大変親しまれたものです。碑の和歌は学信和尚が松山の大林寺を去って粟井坂に来たときに詠んだものです」とあった。
学信和尚とは、さきほど河野通清供養塔の自然石に刻まれていたお坊さんである。昔は、崖下にあったようだが周囲を埋め立てたため井戸の型にして後世に残したもの、とのこと。
釈学信の句
井戸の脇、右手に句碑。「すめる世に またも阿(あ)わ井の水ならば たち返り来てかげうつさまじ」と刻まれる。
学信
「学信」 享保7年(1722)の生まれの浄土真宗僧侶。越智郡立花村鳥生(現今治市鳥生)に生を受け、修行を重ね菩薩戒・八斎戒を受ける。松山八代藩主松平定静の帰依により菩提寺の大林寺住職に就任するも、罪に問われた人物の赦免運動が失敗するや、大林寺を去った、という。この折りに詠まれた句であろうか?

村上壷天子(こてんし)の句碑
井戸の脇、左手に大きな歌碑、「粟の井やそこ夏の海よりの風」と刻まれる。「村上壷天子」 は明治20年(1887)越智郡吉海町生まれの俳人。日本画・書もよくする。

徳衛門道標
大師堂から先の遍路道は、県道347号、また粟井川を渡ると県道179号に沿って進むことになる。県道347号を1キロ強ほど歩くと、和田のバス停留所近く、国道左手の住宅の角に道標がある。徳衛門道標である。「是より延命寺迄七里七丁」と刻まれる。

蓮福寺の道標
道を400mほど進み、粟井川の手前に蓮福寺。外側北西角に太字、深彫りの道標が建つ。「粟井坂高野山へ十三町」と刻まれる。粟井坂高野山とは先ほど訪れた粟井大師堂のこと。道標の方向が逆になっているのは、この道標が元は川を渡った道の反対側にあったため。道路整備に際してこの地に写された(「えひめの記憶」)。





常楽院
道を進むと右手道路脇に常楽院。門の右に「修験道別格寺」、左に「新熊野山常楽寺」とある。明治6年(1873)天台宗に属すも、昭和21年(1946)に独立し、昭和31年(1956)宗教法人修験道常楽院となった。「修験道別格寺」ってどういった位置づけのものかわからない。





里程標
粟井川を渡り500m弱進み、郵便局の対面に長屋門のある旧家の先、久保地区から鹿峰地区に入った境に理髪店があり、その角に下部が破損した里程標が残る。「松山札辻より三里」と刻まれる。

徳衛門道標
理髪店から道を隔てた反対側の民家の道脇に「徳衛門道標」。「菊間の遍照院への道標とのこと。遍照院は札所ではないが、遍路道筋にあり、遍路が札打ちした寺とのこと(「えひめの記憶」)。
JR 粟井駅前交差点で鹿峰地区から苞木地区に変わるが、ほどなく高山川の手前で河野中須賀地区となる。県道179号に沿って続く遍路道は中須賀地区の中頃で県道から一筋浜側を通り、浜の所有権を確保するように少々歪な区割りで浜にその地区を伸ばす片山、府中地区を越え柳原地区に入り、柳原バス堤近くで旧道は県道と合流する。

三穂神社
遍路道とは関係ないのだが、柳原港に「龍宮神社」が地図にある。いかなる由来の社かちょっと立ち寄り。柳原港に向かう途中に三穂神社。寛政年間(1789年~1801年)に勧請されたといわれるこの神社は大国主命(おおくにぬしのみこと)、事代主命(ことしろぬしのみこと)とともに蛭子(えびす)神が祭られている。地元ではこの氏神様をオエベッサンと呼ぶ。「エベッサン」、エビス信仰は漁業信仰として全国に見受けられる。
また、境内には太宰府天満宮のお守りの案内。境内に太宰府天満宮の分社がある、とのことである。
「柳原」の地名は古く、『二名集』の柳原村に始まることが境内の地名誕生之碑に刻まれていた。観応4年(1350年)、今から645年前のことである。

柳原港
柳原港は嘉永元年(1847)に築造されたもの。地乗り航路の潮待ち港として重要であった、とある(「えひめの記憶」)。
弘下元年(1844)に三津船入枡形築港の記録と共に記録に残るので、結構重要な湊であったのかも知れない。






龍宮神社
龍宮神社はまことにささやかな社。水の神、漁業の神である龍神を祀る。龍神は沖を向く」とのことである(「えひめの記憶)。
地乗り航路
1日2回の干満、6時間毎に潮流が逆転する瀬戸内では逆流を避け、また潮に乗るため潮待ちの湊を必要とした。航路は陸地に沿い、また島々を繋いで進むことになる。これを地乗り航路と称するようだ。通常は塩の流れの速い山陽沿岸を指す。
これに対する言葉は「沖乗り航路」。17世紀後半となり、帆走力の向上により、潮流の穏やかな沖合を逆流であっても帆走が可能となった、とのことである。

高浜虚子の句碑
河野川を渡ると橋の北詰に大師堂(風早四国八十八ヶ所四十七番)があり、その境内に高浜虚子の句碑と虚子の胸像が建ち、その横の松には「虚子の松」と書かれる。

虚子の句
「この松の下にたたずめば露のわれ」
句碑の正面には「この松の下にたたずめば露のわれ」と刻まれる。「ホトトギズ 大正六年十二月号に発表した句で、兄の法事のため帰省したとき、懐かしい西の下を詠んだもの。この句碑は虚子の句碑第一号」と案内にあった。8歳までこの柳原で過ごした虚子が、幼い時遊んだこの大師堂を訪ね、遍路松の下で詠んだ句とのことである。句碑は昭和3年(1028)に建てられた。なお、初代の遍路松は枯れ、現在ものはその横に新たに植えられたもの、と言う。






「道の辺の阿波のへんろの墓あはれ」
また句碑の側面には「道の辺の阿波のへんろの墓あはれ」と刻まれる。「昭和十年四月十五日、虚子は四国遍路の途上で病没した遍路の墓があるこの西ノ下大師堂を訪れ、鹿島に遊んだ 俳句の里松山(松山市教育委員会)」と案内にあった。大師堂の右、道路際に「阿波のへんろ之墓」と刻まれた墓石が古い石仏と並んで建つ。この墓石を詠んだのかとも想ったのだが、この墓石は後世の作とのこと(「えひめの記憶」)。境内の東には大きな石仏と「備中□阿智□本屋□女墓 文政十一年子七月六日」と刻まれた墓石が残っていた(お墓の写真は撮らないことにしている)。

「ここにまた住まばやと想う春の暮れ」
句碑とは別に、「高浜虚子胸像」の基壇に刻まれている句。案内には「昭和15年、父の五十年忌のために松山に帰省、旧居跡を訪ねたときの感慨を詠んだもので、句は「高浜虚子胸像」の基壇に刻まれている。
句の後に、「旧居の跡を訪ねて 七十六歳虚子」とある。胸像は、昭和62年3月に建立。なお、西の下(にしのげ)大師堂の北にある近くの空き地に「虚子先生生家池内邸址」の碑が建てられている 俳句の里松山(松山市教育委員会)」とあった。

赤地蔵

柳原地区から北条辻地区に入る。新開バス堤の対面の民家敷地内に道標があるとのことだが、外からはその姿を捉えることはできず、先に150mほど進み赤地蔵に。近年は赤く塗られた大師座像も合祀(ごうし)するところから「赤大師」とも呼ばれているようである。
案内「赤大師(赤地蔵さま)藩政時代に北条市上辻の庵(津地医王山薬師堂の煉瓦に河野家の定紋・隅折敷縮波三)に祀られてあった地蔵尊をどのようないきさつからか、松並木街道(現在の国道196号線)に移し祀るようになった。 里人は朝な夕なにお参りし、諸々の異を祈念、願のかなったお礼に"ベンガラ"でお地蔵さんを赤く化粧することがいつの間か習わしとなった。
こうしたことから地蔵尊を「赤大師」「赤地蔵」と呼び、供花は水々しく、線香の香りと煙は四六時中絶えることがない。
その当時の松並木街道は、赤大師(赤地蔵)の境内前で"二タ又道"になり、二タ又道の所で八郎川が淵のようになっていた。道不案内の旅人やお遍路さんが、月明かり道の光を頼りにお地蔵さんの前まで来て、右にしようか、左にしようかと迷いながらうかうかと行くうちに、ドンブッリコと淵にはまり込んで、底の泥沼に足を取られて、明くる朝に溺死体で発見された人は数知れない。 しかし、里人の温かい信仰は、溺死した人、行き倒れの人たちを(大正13年当時このあたりには家はない)この荒れ地に死体を手厚く埋葬し、無縁墓を建て、今なおこの供養は続けられている(平成26年 赤大師保存会)」とあった。

中司茂兵衛道標
お堂の背後に、小型の中司茂兵衛88度目の道標がある。「えひめの記憶」には「昭和62年(1987)、当地から東へ約500m、北条市辻の隅田川沿いの道と北条北中学校に通じる農道との交差地点にある水路に架けた石橋として発見され、現在地に移されたという。文面で「國」の文字を欠くこと、村名を「椋之村」と刻むことや刻字の表現様式、石材の質などから考えると、当地方でみられる他の茂兵衛道標とは異質のもののようにも見える。(中略)この道標は(中略)、旧街道を通る遍路道とは別の、今まで報告されてない遍路道が存在し、その道筋にこの道標が建てられていたのではないかと推察している」とある。

別の遍路道
その遍路道とは、北条市府中の西の下公園にある弥衛(エ)門地蔵堂から北へ進み、同市辻の黒岩を経て上辻の常夜灯前を過ぎて、辻北の地蔵堂(聖カタリナ女子大学の西側にあって、夜烏地蔵といわれる)を右に見て北進し、立岩川に至る。川を渡って(現在は大師橋がある)、下難波の田んぼ道を北上し、下池の西脇を通って山際の後述する鎌大師に至るという道であるという(「えへめの記憶)。
ついでのことではあるので、弥衛(エ)門地蔵堂を訪ねる。その後の「辻の黒岩を経て上辻の常夜灯前」はどこかわからなかったが、夜烏地蔵には辿りつけた。
弥エ門地蔵堂
境内に「弥エ門の墓」の案内。「和田弥エ門は切支丹です。当時の徳川幕府の禁教令により迫害を受け、この地が殉教の地となりました。
風早地方の切支丹の歴史上重要な史跡です。又、柳原には他に和田市兵衛、来島徳右衛門の墓が現存しています」とあった。
札所五三番・円明寺にも「切支丹灯ろう」があったが、柳原から府中地区にかけて「弥エ門の墓」の間には、田圃の曲がり角に14基ほどの切支丹の石地蔵が建つとのことである。
夜烏地蔵
聖カタリナ短大の脇、1車線の道を進むと「風早四国番外十番よからず地蔵」と刻まれた石碑とともに、風雪に耐えた趣のお堂が建っていた。
松山藩と大洲藩の二分領有であった風早郡一帯は寛永12年(1635)、松山藩領となったが、「えひめの記憶」に拠れば、「その前後に北条には「よがらす」と称される宿場が形成され、この付近を中心に市がたつようになった。
「よがらす」が宿場として知られるようになったのは一六五〇年ころからのことであるとされている。夏の牛市及び歳末の大市の二回が定期的に開かれ、風早一円の農家から買い物にやってくる人々でにぎわった。この大市は、明治末年まで開催されており、その中心地は明星川付近であった」とある。夜烏地蔵との関連は不詳ではあるが、この地蔵堂からの宿場名だろうか。なんとなく関連あるのでは、とは想うのだがエビデンス、なし。

自然石の道標
元の道に戻り、北条辻地区に南北と西を囲まれた土手内地区の鹿島バス停脇に自然石の道標。最初は石垣かと想ったほど、風景に馴染んでいた。その前に建つ鹿島を案内する道標がなければ、探すのに難儀したかと想う。

鹿島
鹿島バス停を少し進むと、土手内地区から再び北条辻地区に戻る。北条駅前交差点を左に折れると北条港とその沖に鹿島。北条といえば鹿島でしょう、ということで、鹿島を眺めるために北条港へちょっと立ち寄り。
北条港
港に常夜灯が建つ。北条港は松山藩の13の湊のひとつ。先ほど訪れた柳原港と同じく、地乗り航路の潮待ち港として重要であった、と言う。「えひめの記憶」に拠れば、「北条港は古くは大津地あるいは津地港(辻港)などと称されていたが、商業活動が活発になるに伴い、明星川と長沢川の両河口にはさまれた沼地を浚渫して港を築造し、その土砂で「新地」の埋め立てを行なっている。元禄期(17世紀後半)には御城米を運ぶ船牛かおり、城米船も入港した。近国のほか越後・豊後・肥後・和泉の回船が入港し、米麦や薪炭等を上方へ運んでいる。 文政~天保年間(注;19世紀前半)及び弘化~嘉永年間(注;19世紀中頃)にそれぞれ改修工事を行なった。天保三年ごろは船三〇艘があり、波止も修築した。このような結果、出入船舶も増加し、『伊予国風早郡地誌』によれば「一〇〇〇~五〇〇石船七隻保有」とあり、明治一一年(一八七八)には一一〇〇隻の船舶が入港している。同年の辻村保有の船は五〇石以上三隻、五〇石未満八隻、漁船二七隻であり、商業活動の活発化に伴い船舶利用も増大していった。 同様に風早郡北条・柳原・安居島の三港も地乗り航路の潮待ち港として重要であった。北条港は元禄期(17世紀後半)には御城米を運ぶ船牛かおり、城米船も入港した。近国のほか越後・豊後・肥後・和泉の回船が入港し、米麦や薪炭等を上方へ運んでいる」と記される。
北条
ところで、「北条」って、如何なる由来の地名だろう。10世紀頃には「北条」との記録が残る、と言う。河野氏の一派との説もあり、此の地に住み「北条氏」を名乗ったとされる。これでは「北条」という地名の由来がわからない。
チェックすると、古代の条里制にまつわる用語に「北条」「中条」「南条」といったものが見つかった。実際、北条地区には条里制が敷かれていたとの記録もあるようだ。 条里制では三六町歩を一里、一里が東西に36個並んだ者を一条と呼ぶ。「北条」「中条」「南条」はその条と条の南北の位置関係を示す用語のようである。根拠はないが、古代条理制が北条の由来かと妄想する。

鹿島
鹿の棲む島として知られる鹿島は、その歴史は古く神功皇后が三韓征伐の途中にこの島に立ち寄り、神々に戦勝を祈願したという神話が残る。またこの島は、天智2年(663)の白村江の戦いで敗れた大和朝廷軍が、唐・新羅の侵攻に備え築城した対馬・筑紫・瀬戸内海の城のうち、瀬戸内海に築いた3つの城のうちのひとつ(鹿渡島)がこの鹿島だとも言われる。
山頂には中世の城址が残る。築城者は不明だが、一説では、河野水軍の拠点とも。建武年間(1334~1336)には、河野通盛が道後の湯築城へ本拠地を移すに当たり、海からの敵の侵入を防ぐ目的で城砦を築いたようだ。その後河野氏の一族が城主を務めるも、秀吉の四国攻めでは、河野氏から離反していた来島通総が豊臣方の先鋒として武功をたて、戦後、風早1万4千石を領有するとともに、鹿島城主に任ぜられた。
来島勢は慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは豊臣方に与したため、来島氏は豊後の森に転封(後に久留島氏と改名)され、鹿島城は廃城となった。 距離の割にメモが多くなってしまった。鹿島から先は次回に廻す。

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