待乳山聖天・今戸神社・橋場不動・石浜神社
布袋さま
浅草花川戸を離れ、待乳山聖天、今戸神社、橋場不動、石浜神社と、これから先は、白髭橋のあたりまで隅田川に沿って歩く。今戸、橋場、石浜といった地名は、江東区や墨田区を含めた東京下
町低地の地形や歴史を調べるときに、幾度となく目にしたところ。地形としては、白髭橋のあたりから浅草、そして鳥越あたりまで隅田川にそって砂州というか自然堤防として形つくられた微高地となっていた。それ以外はというと、浅草の西というか北というか、入谷・竜泉寺・千束一帯は「千束池」、その南上野駅の東一帯、下谷・浅草・鳥越一帯は「姫が池」が広がり、これらの池は小川でつながっているわけだから台東区一帯は沼地といったところであろう。これらの低湿地帯が埋め立てられ、現在の姿に近い地形になるのは徳川の時代になってからである。
本日のルート;大黒天(浅草寺)>恵比寿(浅草神社)>毘沙門(待乳山聖天)>福禄寿(今戸神社)>布袋尊(橋場不動院)>寿老人(石浜神社)>弁財天(吉原神社)>寿老人(鷲神社)
毘沙門;待乳山聖天
隅田川に沿った江戸通りを北に進む。吾妻橋西詰めから松屋の脇を進み、東武伊勢崎線のガードをくぐる。墨田公園を右手に眺めながら言問通り・言問橋西詰めを越え、微高地ルートの最初の目的地、待乳地山聖天(まつちやま・しょうでん)に。小高い丘になっている。昔は鬱蒼とした森であった、とか。推古3年というから595年。この地が一夜のうちに盛り上がる。推古36年の浅草観音出現への瑞兆と伝えられている。同時に龍が舞い降り、この丘を守護した、と。待乳山本龍院の由縁か。で、この「待乳山」って名前、少々艶かしい。が、もともとは「真土山」。本当の土といった意味。沖積低地部には珍しい洪積層=本当の土、の台地であるからだろう。いつのころからか、真土が待乳に変わった訳だが、聖天さまというのは夫婦和合の神様である。それはそれでなんとなく納得。
毘沙門;待乳山聖天
隅田川に沿った江戸通りを北に進む。吾妻橋西詰めから松屋の脇を進み、東武伊勢崎線のガードをくぐる。墨田公園を右手に眺めながら言問通り・言問橋西詰めを越え、微高地ルートの最初の目的地、待乳地山聖天(まつちやま・しょうでん)に。小高い丘になっている。昔は鬱蒼とした森であった、とか。推古3年というから595年。この地が一夜のうちに盛り上がる。推古36年の浅草観音出現への瑞兆と伝えられている。同時に龍が舞い降り、この丘を守護した、と。待乳山本龍院の由縁か。で、この「待乳山」って名前、少々艶かしい。が、もともとは「真土山」。本当の土といった意味。沖積低地部には珍しい洪積層=本当の土、の台地であるからだろう。いつのころからか、真土が待乳に変わった訳だが、聖天さまというのは夫婦和合の神様である。それはそれでなんとなく納得。
毘沙門;
毘沙門。もともと暗黒界の悪霊の主。が、ヒンズー教ではクベーラと呼ばれ財宝福徳を司る神に。で、仏教の世界では、仏教の守護神に。サンスクリット語でベイシラバナと呼ばれる。夜叉、羅刹を率いて帝釈天に従う四天王のひとり、となる。説法をよく聞いたということから、別名、多聞天とも呼ばれた、とか、同系の神として多聞天と習合された、とか諸説あり。知恵の神様としても信仰された、よう。日本では戦いの神様としても名高く、武将達の信仰が厚かった。鞍馬寺の毘沙門天が庶民の信仰を集め、七福神のメンバーとなった、とか。
聖天さまを離れ、江戸通り(昔の奥州街道)を北に進む。道路の左手には山谷掘跡。道脇に今戸橋跡。隅田川との合流点・山谷堀水門跡地一帯は、現在は埋め立てられ公園になっている。山谷堀は王子から流れる音無川の下流部。というよりも、明暦2年(1656年)浅草裏の田圃の中に生まれた新吉原に向かう川筋というか掘として知られる。猪牙舟という小さな舟を仕立て、浅草橋あたりから隅田川を上り、山谷堀を吉原に進むのが「カッコ良い」吉原通いであったよう。
福禄寿;今戸神社
今戸1丁目の今戸神社に。今戸神社は1063年、奥羽鎮守府将軍・源頼義、義家親子が勅令により奥州の安倍貞任・宗任討伐のとき、鎌倉の鶴ケ丘と浅草今之津(今戸)に京の石清水八幡宮を勧請したのがはじまり。今戸八幡と呼ばれる。その後1081年、清原武衡・家衡討伐のため源義家がこの地を通るにあたり、戦勝を祈願。勝ち戦に報いるため社殿を修復した、とか。戦火にあうたび再建が繰り返された。江戸時代には三代将軍家光も再建に尽力している。境内に沖田総司終焉の地の碑。京の地から江戸に引き上げた総司は松本良順の治療を受ける。官軍の江戸入りに際して、この地に居を構えていた良順のもと、今戸八幡に収容され治療にあたった。が、その甲斐もなくこの地で没した、と。
境内には「今戸焼」発祥の地の碑。また、この地は「招き猫」発祥の地でもある。商売繁盛の「招き猫」の登場は江戸になってから。人形の招き猫はこの地の今戸焼での人形がはじまり。浅草に住まいする老婆、その貧しさゆえに、可愛がっていた猫を手放す。夢枕に猫が現れ、「吾が姿を人形にすれば福が来る」と。で、つくった人形を浅草寺参道で売り出すと大評判になった。目出度し目出度し、ということで先に進む。
毘沙門。もともと暗黒界の悪霊の主。が、ヒンズー教ではクベーラと呼ばれ財宝福徳を司る神に。で、仏教の世界では、仏教の守護神に。サンスクリット語でベイシラバナと呼ばれる。夜叉、羅刹を率いて帝釈天に従う四天王のひとり、となる。説法をよく聞いたということから、別名、多聞天とも呼ばれた、とか、同系の神として多聞天と習合された、とか諸説あり。知恵の神様としても信仰された、よう。日本では戦いの神様としても名高く、武将達の信仰が厚かった。鞍馬寺の毘沙門天が庶民の信仰を集め、七福神のメンバーとなった、とか。
聖天さまを離れ、江戸通り(昔の奥州街道)を北に進む。道路の左手には山谷掘跡。道脇に今戸橋跡。隅田川との合流点・山谷堀水門跡地一帯は、現在は埋め立てられ公園になっている。山谷堀は王子から流れる音無川の下流部。というよりも、明暦2年(1656年)浅草裏の田圃の中に生まれた新吉原に向かう川筋というか掘として知られる。猪牙舟という小さな舟を仕立て、浅草橋あたりから隅田川を上り、山谷堀を吉原に進むのが「カッコ良い」吉原通いであったよう。
福禄寿;今戸神社
今戸1丁目の今戸神社に。今戸神社は1063年、奥羽鎮守府将軍・源頼義、義家親子が勅令により奥州の安倍貞任・宗任討伐のとき、鎌倉の鶴ケ丘と浅草今之津(今戸)に京の石清水八幡宮を勧請したのがはじまり。今戸八幡と呼ばれる。その後1081年、清原武衡・家衡討伐のため源義家がこの地を通るにあたり、戦勝を祈願。勝ち戦に報いるため社殿を修復した、とか。戦火にあうたび再建が繰り返された。江戸時代には三代将軍家光も再建に尽力している。境内に沖田総司終焉の地の碑。京の地から江戸に引き上げた総司は松本良順の治療を受ける。官軍の江戸入りに際して、この地に居を構えていた良順のもと、今戸八幡に収容され治療にあたった。が、その甲斐もなくこの地で没した、と。
境内には「今戸焼」発祥の地の碑。また、この地は「招き猫」発祥の地でもある。商売繁盛の「招き猫」の登場は江戸になってから。人形の招き猫はこの地の今戸焼での人形がはじまり。浅草に住まいする老婆、その貧しさゆえに、可愛がっていた猫を手放す。夢枕に猫が現れ、「吾が姿を人形にすれば福が来る」と。で、つくった人形を浅草寺参道で売り出すと大評判になった。目出度し目出度し、ということで先に進む。
福禄寿
道教の神様、とか。が、正体は不明。星の神様であったり、仙人であったり、と諸説あり。頭が長い独特の風貌が絵柄として面白く、絵の「モデル」として室町時代に人気があった、とか。福(幸福)・禄(富)・寿(長寿)と、名前がいかにも縁起がよさそうなので、庶民の信仰の対象となり、七福神におさまった、とも。とはいうものの、あまり日本に馴染みのない神であり、七神とするための「添え物」的なものである、と『江戸の小さな神々;宮田登(青土社)』にコメン トあり。納得。
布袋尊;橋場不動院
明治通り手前、橋場2丁目に砂尾山・橋場寺不動。道からちょっと入った奥まったところにある。うっかりすると見逃しそう。こじんまりしたお不動さん。が。天平宝字四年(760)というから長い歴史をもつ古刹。江戸時代に描かれた図を見ると、おなじく道から奥まったところに本堂、いかにも草堂といった雰囲気のお堂がある。
道教の神様、とか。が、正体は不明。星の神様であったり、仙人であったり、と諸説あり。頭が長い独特の風貌が絵柄として面白く、絵の「モデル」として室町時代に人気があった、とか。福(幸福)・禄(富)・寿(長寿)と、名前がいかにも縁起がよさそうなので、庶民の信仰の対象となり、七福神におさまった、とも。とはいうものの、あまり日本に馴染みのない神であり、七神とするための「添え物」的なものである、と『江戸の小さな神々;宮田登(青土社)』にコメン トあり。納得。
布袋尊;橋場不動院
明治通り手前、橋場2丁目に砂尾山・橋場寺不動。道からちょっと入った奥まったところにある。うっかりすると見逃しそう。こじんまりしたお不動さん。が。天平宝字四年(760)というから長い歴史をもつ古刹。江戸時代に描かれた図を見ると、おなじく道から奥まったところに本堂、いかにも草堂といった雰囲気のお堂がある。
布袋さま
三神に次いで加わった毘沙門天の後、五番目にリスティングされたのが布袋さま。布袋尊とも呼ばれるように、お坊さん。神様ではない。9~10世紀頃の中国唐代の禅僧契此(かいし)。常に大きな布袋を担いで各地を放浪し、吉凶を占い、福を施した、と。弥勒菩薩の化身とも言われ、聖人として、神格化され崇められてきた。日本には禅画の中で竹林の七賢人という図柄で伝わった、と(『江戸の小さな神々;宮田登(青土社)』)。
寿老人;石浜神社
明治通りを越え、白髭橋西詰めのちょっと先に石浜神社。後ろには大きなガスタンク。周りは広々とした公園に整備されている。お宮も予想と異なり、都市計画で整備された中にたたずむお宮さんといった雰囲気。歴史は古い。聖武天皇の神亀元年(724)勅願によって鎮座。文治5年(1189)、源頼朝が奥州・藤原泰衡征討に際して戦勝を祈願し「神風や 伊勢の内外の大神を 武蔵野のここに 宮古川かな」と詠む。で、戦に勝利しそのお礼に社殿を寄進。境内にはいくつもの神社が集まっている。
「麁香神社(あらかじんじゃ)」は家つくり、ものつくりの神様。職人さんの信仰を集める。「日本大工祖神の碑」があるのもうなずける。「江戸神社」はこの地を治める江戸太郎重長が勧請した「牛頭天王社(ごずてんのうしゃ)」がはじまり。鈴木理生さんの『江戸の町は骨だらけ;筑摩文庫』に牛王天についての興味深い記事があった。どこかで牛王天のことをきちんとメモしようとは思うが、今日のところは、橋場の鎮守さまであったが、後に江戸神社となった、ということで止めておく。「北野神社」は言わずもがな。そのほか、妙義八幡神社とか寿老神とか。富士塚といった富士遥拝所もある。また「名にし負わば」の「都鳥歌碑」もある。
この神社には「真先神社」もある。天文年間に石浜城主となった千葉之介守胤が「真っ先駆けて」の武功を祈願した真先稲荷がはじまり。もとは隅田川沿岸にあり、門前は吉原豆腐でつくった田楽を売る茶屋でにぎわった、とか。吉原への遊びの客がこの地を訪れ詠んだ川柳;「田楽で帰るがほんの信者なり」。大正時代に石浜神社と一緒になりこの地に。この地、とはいうものの、石浜神社も真先神社も別の場所にあった。石浜神社の西隣にある大きなガスタンク・東京ガス千住整圧所。石浜神社はこの整圧所の北の方にあったらしい。真先神社は東の方墨田川寄りにあった、とか。で、工場建設に伴い現在の地に移転した、ということだ。お宮を離れる。あれ、神社の裏にお墓がある。「お申し込みは石浜神社に」、といった文句。神社にお墓ってなんとなく違和感。が、どうも都内唯一の神社霊園であるとか。
寿老人
福禄寿と同様、正体不詳。道教の祖・老子が神格化されたもの、との説も。福禄寿、寿老人を生み出した中国でもしばしば二人の仙人は混同されている。ともあれ、名前のとおり、長寿の神様として信仰された、よう。福禄寿と同様、七神とするための「添え物」的なものである、と『江戸の小さな神々;宮田登(青土社)』に書いてあった。
本日はここまで。
寿老人;石浜神社
明治通りを越え、白髭橋西詰めのちょっと先に石浜神社。後ろには大きなガスタンク。周りは広々とした公園に整備されている。お宮も予想と異なり、都市計画で整備された中にたたずむお宮さんといった雰囲気。歴史は古い。聖武天皇の神亀元年(724)勅願によって鎮座。文治5年(1189)、源頼朝が奥州・藤原泰衡征討に際して戦勝を祈願し「神風や 伊勢の内外の大神を 武蔵野のここに 宮古川かな」と詠む。で、戦に勝利しそのお礼に社殿を寄進。境内にはいくつもの神社が集まっている。
「麁香神社(あらかじんじゃ)」は家つくり、ものつくりの神様。職人さんの信仰を集める。「日本大工祖神の碑」があるのもうなずける。「江戸神社」はこの地を治める江戸太郎重長が勧請した「牛頭天王社(ごずてんのうしゃ)」がはじまり。鈴木理生さんの『江戸の町は骨だらけ;筑摩文庫』に牛王天についての興味深い記事があった。どこかで牛王天のことをきちんとメモしようとは思うが、今日のところは、橋場の鎮守さまであったが、後に江戸神社となった、ということで止めておく。「北野神社」は言わずもがな。そのほか、妙義八幡神社とか寿老神とか。富士塚といった富士遥拝所もある。また「名にし負わば」の「都鳥歌碑」もある。
この神社には「真先神社」もある。天文年間に石浜城主となった千葉之介守胤が「真っ先駆けて」の武功を祈願した真先稲荷がはじまり。もとは隅田川沿岸にあり、門前は吉原豆腐でつくった田楽を売る茶屋でにぎわった、とか。吉原への遊びの客がこの地を訪れ詠んだ川柳;「田楽で帰るがほんの信者なり」。大正時代に石浜神社と一緒になりこの地に。この地、とはいうものの、石浜神社も真先神社も別の場所にあった。石浜神社の西隣にある大きなガスタンク・東京ガス千住整圧所。石浜神社はこの整圧所の北の方にあったらしい。真先神社は東の方墨田川寄りにあった、とか。で、工場建設に伴い現在の地に移転した、ということだ。お宮を離れる。あれ、神社の裏にお墓がある。「お申し込みは石浜神社に」、といった文句。神社にお墓ってなんとなく違和感。が、どうも都内唯一の神社霊園であるとか。
寿老人
福禄寿と同様、正体不詳。道教の祖・老子が神格化されたもの、との説も。福禄寿、寿老人を生み出した中国でもしばしば二人の仙人は混同されている。ともあれ、名前のとおり、長寿の神様として信仰された、よう。福禄寿と同様、七神とするための「添え物」的なものである、と『江戸の小さな神々;宮田登(青土社)』に書いてあった。
本日はここまで。
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