別子銅山 遺構散歩;立川中宿から牛車道を端出場発電所沈砂池下まで辿り、発電所水圧鉄管路跡を端出場まで下る

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田舎の実家というか生家は愛媛県新居浜市、国領川が四国山地から平地に流れ出す山裾にある。
毎日1時間ほど散歩することを常としているのだが、特にどこと言って散歩ルートが想い浮かばないときは、山間の渓谷・名勝別子ラインを国領川の右岸県道47号、時には左岸旧道に沿って端出場方面へと辿ることが多い。片道1時間弱といったところだろうか。
端出場は昭和5年(1930)、銅山峰北嶺の標高750mの地、大正5年(1916)以来別子銅山の採鉱本部であった東平(とうなる)より採鉱本部が移され、昭和48年(1973)の閉山ま別子銅山の銅山現場運営の中心地となったところであるが、現在マイントピア別子という道の駅という名称の観光施設として多くの人を集めている。

Google Earthで作成
それはともあれ、その途中立川集落の国領川(上流部は足谷川とある)に架かる龍河橋、通称眼鏡橋の東詰、県道47号山側に「牛車道跡・眼鏡橋跡」の写真と案内があり、「The Ruins of ox carts road and Meganebashi Bridge 牛車道は、開抗以来の人肩運搬に代わる新車道。明治9年(1876)に着手したが、明治10年(1877)に勃発した西南の役により労働者や火薬の確保が困難になったことと、技術力の限界から一時開盤を中断した。
明治11年(1878) に開盤を再開し、明治13年(1880)に目出度町から銅山峰・石ケ山丈を経由して立川仲宿までの約20kmが完成した。翌年から立川仲宿から新居浜口屋までの約8kmが使用され、別子山の目出度町から新居浜口屋までの約28kmが使用された。牛車の牛は、広瀬宰平の故郷である近江牛が連れてこられた。(後略)」とある。 その案内板の傍、県道から逸れ山肌へとジグザグで上る道がある。何度かその案内前を通りながら素通りしていたのだが、あるとき、ひょっとしてこの地から案内にある牛車道が標高850mの石ヶ山丈、更には銅山峰を越えて旧別子まで続いているのではと思い至った。

で、地図でルートらしき目安はないものかとチェックすると、立川集落の上り口から龍河神社を経てその先までルートらしき実線が描かれている。実線は途中消えているのだが、更にその先に石ヶ山丈の下、いつだったか歩いた旧端出場発電所へと水を落とす水圧鉄管路の沈砂池近くまで、いかにも牛車が山を上るように等高線に抗うことなく緩やかに上り、結果山肌を長い距離進み蛇行を繰り返す実線が描かれている。
沈砂池付近からは実線は消え石ヶ山丈までのルートははっきりしないが、石ヶ山丈から先は、これもいつだったか歩いた、明治26年(1893)開業の別子銅山上部鉄道にそって角石原まで続いてようである。角石原から先は明治19年(1886)開通し、銅山峰の南嶺と北嶺を繋いた第一通洞を牛車道も利用したようであり、銅山峰を越える道は藪に消えてしまっているようである。

なんとなくルートがわかった。歩いてみよう、と。上り口から石ヶ山丈辺りまで片道3時間強かかるだろう。往復の時間を考えれば沈砂池あたりまで歩きピストンで上り口まで戻ることとし、ルート実線の消えた部分は道があればよし、無ければ藪漕ぎも如かずと散歩に出かけることにした。
結果は沈砂池の下までは順調に辿れたのだが、その先、谷筋が南に切り込む辺りで道が消えている。当日は事前準備もせずお気楽に出かけたため、消えた道のその先の切り替えし地点がわからない。で、当日はそこで撤退決定。旧端出場発電所導水路跡を沈砂池まで戻り、沈砂池の下の牛車道に復帰した。 当初の予定では牛車道を戻るつもりであったのだが、沈砂池下の牛車道から下を見ると旧端出場発電所に続く水圧鉄管跡が一直線に山肌を切り開いている。結構惹かれる。頃は冬。藪もそれほど激しくはないだろうし、直滑降で下りるわけで1時間半もあれば下山できるかと水圧鉄管跡を下ることにした。
これが思わぬ誤算、ザレ場、藪、茨などが厄介で結局3時間ほどかけて下山できた。
計画とは大きく異なる散歩とはなったが、山肌を大きく迂回しながら緩やかに、しかし単調な往路の単調な牛車道、崩落を避けてか尾根筋を一直線に下る険しい復路の旧端出場発電所水圧鉄管跡とそのテイストが大きく異なる往路・復路を楽しめた散歩となった。



本日のルート
立川中宿から龍河神社経由の谷筋牛車道
龍川橋>牛車道上り口>犬返し尾根筋への山入道龍河神社(りゅうがわじんじゃ)>最初の沢;「おんな こどもは無理」の標識>旧端出場発電所水圧鉄管道分岐>二番目の沢を下り、牛車道に復帰>鉄製桟道を渡り尾根に向かう牛車道に出る
山稜へと上る牛車道
最初のカーブ>第二のカーブ>3番目のカーブ>4番目のカーブ>ブ5番目のカーブ>6番目のカーブ>7番目のカーブ>稜線部に>種子川林道に合流>8番目のカーブ>9番目のカーブ>沈砂池下の尾根突端部に>道が消え、撤退>旧端出場発電所導水路跡を沈砂池に戻る>沈砂池下の牛車道に戻る
旧端出場発電所水圧鉄管跡を端出場へ下る
導水管跡1>導水管跡2>導水管跡3>導水管跡4>導水管跡5>牛車道交差A>牛車道交差B>導水管跡6>導水管跡7>導水管跡8>牛車道交差C>牛車道交差D>導水管跡9>牛車道交差E>導水管跡10>>牛車道交差F>>導水管跡11>>導水管跡12>送電線鉄塔>導水管跡13>導水管跡14>導水管跡15>>牛車道交差G>>導水管跡16>>導水管跡17>>導水管跡18>牛車道交差H>水圧鉄管跡への石段>導水管跡19>導水管跡20>導水管跡21>導水管跡22>旧端出場発電所


往路;牛車道

龍川橋
牛車道のスタート地点は国領川に架かる龍川橋東詰、県道47号の山側に立つ「牛車道跡・眼鏡橋跡」の傍。案内には「眼鏡橋は、明治11年(1878)に牛車道の一環として立川仲宿入口の国領川に一部花崗岩づくりで架けられた。その堅牢さから不朽橋と命名された。明治32年(1899)の別子大水害のときに、頑強であるが故にダムの役目を果たし、濁流を受け止めた後に流出した」とある。眼鏡橋は現在の龍川橋の少し上流に架かっていたようである。
立川中宿
『別子銅山〈合田正良;新居浜観光協会』
この辺りの集落名は立川。説明にあるようにかつて立川中宿があった。立川中宿は元祿15年(1702)に開かれた、とある。中宿を開いた理由は銅の運搬路の中継地を必要としたためである。
当時この地、銅山峰北麓の立川山村は西条藩領であった。この地に幕府天領の銅運搬路が開かれるまでの顛末をまとめておく(以下、散歩の雑文以外のデータは偶々家にあった『別子開坑百五十年史話;編集兼発行人 平塚正俊』より引用させて頂いた);
銅の運搬路
第一次泉屋道

元禄3年(1690)に鉱床が見つかり、翌元禄4年(1691)より操業をはじめた別子銅山の懸念のひとつにその運搬路があった。銅山峰を越え立川に下れば新居浜浦まで16キロであるが、銅山峰の北嶺は西条領であり、幕府天領に開かれた別子銅山の銅をこのルートで運ぶことは叶わず、銅鉱石は銅山峰北嶺足谷から弟地、保土野と吉野川水系銅山川を下り、小箱峠、出合峠を越え勘場平を通り土居(現在四国中央市)の天満浦までの36キロ、所謂「おばこ越え」で運ぶしか術はなかった(第一次泉屋道(あかがねの道;伊藤玉男)。 ために住友家は運搬路の打開策に腐心し、足谷より北方の分水嶺(銅山峰)を越え、立川山村を經て新居濱へ出る道路の建設使用方を、川之江(四国中央市)の幕府代官所および西條藩へ歎願した。この計画道筋はすべて西條藩の領内を通ることになるが、実現すると里程は大幅に短縮されることになる。
その道筋、銅山峰の北嶺には別子銅山より古い歴史をもつ立川銅山が稼働していたといった事情もあり、当初西条藩からの許可が出ることはなかったが、後に領内といへども新道を開設すれば許可するとの意向を傳へられたがため、元禄13 年(700)、川之江代官に対し新道普請の西条藩藩への斡旋を依頼し、翌元禄14年(701)六月に、西條藩の有司(役人)に下の歎願書を提出した。
「かうと谷と申山と赤太郎尾と申山の間に種子川へ過る小路あり、此小路を作り廣け種子川村に通じ、夫より新須賀村浜へ往來仕候へば、私共勝手にも能く候、然る上は山里の道筋作毛等少も痛不 申樣に可仕候、則一ヶ年金武百兩宛指上可、申、其外銅山仕候内は一ヶ年に御米三千石宛當座直段にて御買上可 仕候、中宿、 濱宿普講並に兩宿人馬或は買物、濱手借舟、私共勝手支配に被仰付度候
右之通御聞濟被寫仰付候はゞ難有奉存候、以上  元禄十四年巳六月 矢野十郎右衛門様」
この願書面「かうと谷」とあるは兜山であり、「赤太郎尾」は赤石山である。そこに記すルートは、別子本鋪(ほんじき;歓喜坑・歓東坑ふたつの坑(間歩)をあわせた一帯)より銅山峰へ出ることなく、斜めに西赤石山の南側に沿ひ西赤石、上兜の中間の峰を北へ渓谷に沿って小道を改修援張して運搬路となし、それより種子川村に下り、ここより新須賀村濱に進むものである。

当面の課題である運搬道は確保できた。しかし道路が他藩の領分であり、且つ銅山峰北嶺の立川銅山が他銅山師の請負であり、住友の銅山経営についてその徹底を期すことは困難であった。
そのような折、住友家に対し幕閣勘定奉行荻原重秀よりの召状。逼迫する幕府財政建て直しのための鉱業振興政策の諮問を受ける。当時の外国貿易の決済に銅が使われており、銅産出は幕政の重要案件でもあった。
その諮問奏上の助けもあり、西条藩へ出願の新道開削は幕府勘定奉行のお声がかりで急遽解決。新道建設が認められた。
そのルートは西条藩に申請したルートに若干の變更を加へ、西赤石、上兜の両山の間を縫へる樵徑を取り拡げて、西赤石の山腹を回つて石ヶ山丈(記録には石ヶ休場)に出で、そこより立川山村渡瀬へ下り、新居濱浦に到るもので、この年6月には渡瀬(眼鏡橋の西詰め)に中宿を設け、新居濱に口屋(浜宿)を建てた。これが立川中宿開設までの経緯である。上に掲載の「第一次泉屋道」にある地名より、なんとなく推察はできるが、このルートの詳細不明。
このとき、中宿、口屋ともに所在地は依然西條領であるが、幕領別子銅山附の施設として、その支配は川之江代官所に屬するものとなった。
翌年、元祿16年(1703)には、幕府は先づ立川銅山を別子同樣,その支配下に移すと同時に、両銅山の薪炭に要する山林、出銅運搬路等に関係ある村々をも幕領に収むるに決し、西條藩および宇摩郡津根陣屋一柳直增侯にその旨を傳へ、寶永元年(1904)中にその手続きを完了した。
その内容は、西條藩に對して、幕府は新居郡下の大永山、種子川山、立川山 (立川銅山)、両角野(西、東角野) 、 新須賀の五個村を公收し、その替地に宇摩郡内の幕領蕪崎、小林、長田、西寒川、東寒川、中之庄、上分、金川の八個村を与へ、次いで寶永3年(1906)に宇摩郡の津根、野田兩村を替地として、同郡上野村を幕府の領地とし、さらに後ち一柳直增侯に對して、さきに上野村の替地として與へたる津根五千石を公收するため、播州美嚢郡高木(三木町外) 五千石に移封するというものであった。

こうして立川銅山は別子銅山と共に、幕領として川之江代官所の所管に移り、行政上の統一を見たが、しかし住友の積年の臨みである立川・別子銅山一手稼ぎの願望を達して、大別子の經營を實現するのは、寛延2年(1749)12月、当時の立川銅山経営者である大阪屋久左衛門代理より立川銅山の引き渡しを受けるのを待つことになる。
牛車道

銅山峰北嶺の別子銅山(旧別子)より立川までの銅の運搬路はできた。が、江戸時代、立川中宿と別子銅山間の険しい山道は、立川中持ちと呼ばれる人々によって、生活物資の荷揚げと粗銅の荷下げが行われており、立川中宿がこれを統括した。そのため、立川中宿は銅蔵や米蔵など諸物資を一時保管するための蔵で囲まれていたようである。
この中持ちさんが背負った粗銅は男性45キロ、女性30キロであったと言う。それを牛車での運搬にするため開いた道が牛車道である。

その原案は明治7年(1874)、別子に招いた仏人鉱山技師ルイ・ラロック氏の作成した「目論見書」、すなわち「一、坑間の施設、すなはち坑道の開掘に關するもの、二、運搬上の施設、道路の建設および鐵道布設に關するもの、三、製錬上の施設、熔解所の設置および之に要する煉瓦製造等に關するもの、四、探鉱上の施設、礦石粉砕機その他洋式新機械器具の整備に關するもの」について提言されており、運搬路については、寛延年間立川銅山合併以來、百二十有餘年の長きにわたり使用しつっあった運搬路である、銅山峰より馬の背の険を伝って、三十三曲りの坂をり経て、国領川の崖に沿うて立川に出づる道路の、その難路の甚しきに驚き、別子の發展は、これを改修するより急務なるはなしと考え、特に道路の設計に意を用いた。「目論見書」の劈頭にも『彼地には......所謂道なるもの無し』。また『別子山中第一の問題は道路也』と記している。

ラロックの立案した別子・立川間車道の設計は、高橋より銅山峰の西を迂回しつつ、峰を越えて立川村に下り、金子川の右岸傅ひに久保田に出で、橋梁を架して左岸へ渡り、再び川に沿うて川口すなはち現在の惣開に到り、ここに新たに設置すべき大製錬所に達せしむるにあつた。高橋を起点としたのは、将来來ここに溶鉱炉を置くことを前提としたためである。
その提言を踏まえ牛車道の敷設工事にかつたのは、明治9年(1876)中であつた。 元治2年・慶応元年(1865年)、僅か37歳で別子銅山の総支配人に任ぜられた廣瀬宰平はラロックの設計を踏まえにながらも独自のルートを計画。その因はラロックの設計通りにすれば、勾配は極めて緩やかで車馬の通行には適するものの、その距離が長くなるためであった。そのため一部迂回線を廃し勾配を急にして七里余に短縮することにした。
施工に際しても、特に專門技師を使用せず、すべて在來旧式の測量法に依り、或ひは断崖絶壁に縄を懸け、或は大木を倒し、巨岩を砕いて足場を作る等、幾多の困難を貸して敢行した。この新設計に依る工事予算はほとんど十萬圓(明治の1円は現在の3,800円といった説もある。とすれば3億8000万円。)に上り、これを一時に支出する余裕がなかつた爲め、工事を分つて新居濱立川間を第一期、立川別子間を第二期とし、5個年の継続事業として明治13年( 1880 )中に竣成せしめた。 工事中、新道開通によりこれまで荷物の運搬に從事せる村民が、その生業を奪はれむことを怨むのあまり、一日、廣瀨を馬脊越の瞬より駕籠もろとち鉛底へ突き落さうとした話がある。それほどに従来難渋を極めた別子新居濱間の交通が改善され、牛馬車に依る物資の運搬が自由になって、沿道の住民達にも、非常な衝動を與へたことが知られよう。
牛車道の開通により坦々とした道路が山稜まで開通したため「、立川村や、角野泉川両村から三人五人と、牛車をひっ張り出して貨物の運搬に當ったが、當時此の辺りの地牛は体が小さいが、性の荒い牝牛であったためで使ひにくく、一人が牛の手綱をとって前に立ち、一人が車の台の後方につけた撞木形の棒を、両手で握って後押しをし、少々牛があばれても車が転覆しないように用心した。こうして二人がかりでないと牛車は使用出來なかった。それを広瀬が見て、早速故郷の江州から、使ひ馴らされた大津牛を多數取り寄せた。大津牛は一名コッテ牛といひ、昔から京送りの江州米運搬に用いられた。
立川精錬所
明治2年(1869)、政府が山元での最終精錬を認めたため、別子銅山支配人広瀬宰平は、立川精銅所を新設し、大阪鰻谷の銅精錬にとって代わった。これは、徳川幕府が滅亡したため専売機関である銅座がなくなり、自由に企業活動ができるようになったため、とある。明治9年(1876)、組織改革によって立川出店となり、さらに明治15年(1882)、立川分店となって、精銅方・会計方・運輸方を置いた。
しかし、別子鉱山鉄道の完成(明治26年;1893)を間近に控え、明治24年(1891)4月、端出場-石ヶ山丈間の複式索道が完成すると、立川分店の運輸業務は、その役割を終える。
さらに、明治24年(1888)に操業を開始した惣開精錬所の型銅生産が軌道に乗ると、粗銅はすべて同所で型銅に精製されることになり、明治24年(1891)5月、立川分店は新居浜分店の出張所となった。

立川精錬所の痕跡でもないものかと眼鏡橋西詰の集落、かつて保育園のあった広場を彷徨っていると、その遺構は見当たらなかったが、広場傍に明治32年(1899)の別子大水害の供養塔が立っていた。

国領川の谷筋に沿って進む牛車道
立川中宿からしばらくは国領川、というかその上流部足谷川にそって牛車道は進む。
足谷川は悪(あし)谷川、銅採掘により濁り鉱毒を含んだ故の名前であろう。
因みに国領川は西条にある保国寺の領地であった故と聞いたことがある。


牛車道上り口(標高98m)

県道47号を逸れ、牛車道に入る。県道を折り返して山肌を上る坂を進むと直ぐ道はヘアピン状に曲がる。角には舟形地蔵石像が佇んでいた。ここから先、牛車道で舟形地蔵や石仏に出合うことはなかった。
道は舗装されており、立川集落の生活道となっている。
石仏から5分ほど歩くと再びヘアピンカーブ。カーブを曲がると集落から離れ、木々で覆われた道を進むことになる。
更に6分ほど歩くと三番目のヘアピンカーブ。標高は140mほどになっている。道を進むと右手下に立川集落が見える。県道47号から見るより結構大きな集落であった。牛車道筋には1,2軒の家が建つのみではあった。



犬返し尾根筋への山入道
カーブから5分ほど歩くと沢に架かる橋があり、そのすぐ先に山に入る土径がある。犬返し(標高579m)のある尾根筋に上る道のようだ。いまから進む牛車道は、この尾根筋まで上ることになる。
そういえば、いつだったか、鹿森ダム脇、遠登志(おとし)から東平(とうなる)へと上り、そこから上部鉄道跡を石ヶ山丈まで進み、一度魔戸の滝まで下った後尾根筋まで上り返し、犬返しの少し北、龍河神社分岐標識から立川に下りたことがある。その時の記事()を読み返すと、この地に下りてきたとあった。

沢に架かる橋を渡り10分強あること再び山入道。これも犬返しの尾根筋に上るルートが国土地理地図に描かれていた。前述山入り道とは途中、送電線鉄塔の建つところで合流する。そういえば、犬返しから立川に下りるときも、その送電線鉄塔を目印に下ったことを想いだした。山歩きでは送電線鉄塔は位置確認の有り難い標識ではある。

龍河神社(りゅうがわじんじゃ;標高175m)
上り始めておおよそ40分ほど、牛車道は龍河神社石段参道を横切る。舗装された道は参道まで。参道の先は土径となった道が続く。
龍河神社は散歩折、時に訪ねる社である。
今回はパスしたが概要をメモしておく; 参道口は県道47号沿い。鳥居傍には大正15年(1926)別子鉱業所支配人となった鷲尾勘解治翁揮毫の「龍河神社」の石が立つ。翁は青年鉱夫を訓育する私塾「自彊舎」の塾長としても知られる別子銅山経営の功労者。因みに「自彊舎(じきょうしゃ)」の命名は当時の住友総理事鈴木馬左也氏で、易経の「自彊不息(じきょうふそく)」(自ら彊〔つと〕めて息〔や〕まず)による。新居浜市を単に銅鉱業のみの地とすることなく、現在の工業都市としての基盤を整備した人物としても知られる。

285段とも言われる急な石段を上り、途中参道をクロスする牛車道を見遣り境内に。石段を上り詰めたところに「天然記念物 龍河神社社叢(りゅうかわじんじゃ しゃそう)」の案内。「昭和63年(1988)5月12日 市指定  面積(約1万平方メートル) 社叢(しゃそう)の特色  ツガ、ヒノキ等の針葉樹とコジイ、コバンモチ、アラカシ、アカガシ、ウラジロカシ、ツクバネカシ、サガキ、クスノキ、ヤブツバキ等のまじり合った照葉樹の自然林です。また、このように大木の多い自然の林は、数百年前ごろ、このあたりにどのような樹木が生えていたかどうかを、推理できる生きた植物資料として貴重な林です。この社叢(しゃそう)に生えているいろいろな植物を大切に保存することにつとめましょう」とある。
実のところ、子の案内を見るまで「龍河神社」を「たつかわ神社」と思い込んでいた。「りゅうかわじんじゃ」が正式な呼び名のようだ。
社殿祭神は「龍古乃別君(たつこのわけぎみ)」。 代々新居郡立川山の産土神とし祀られてきた神である。
龍古乃別君(たつこのわけぎみ)
「龍古乃別君(たつこのわけぎみ)」の遠祖は景行天皇の第十二皇子武国凝別命(たけくにこりわけのみこ)と伝わり、封をうけ伊予国御村に宮居し、その後裔は奈良朝に新居郡(旧神野郡)を中心にますます栄え、一族を御村別君(みむらわけぎみ)と称した。
御村氏のその後裔は奈良朝に入って新居郡(旧神野郡)を中心にますます榮え、その一族を御村別君(みむらわけぎみ)と稱した。
この「御村」は尊称のため、「三村(みむら)」とも書き、西条の伊曽乃神社のある中野村と、かつて隣接して存在した上野村・下野村の三村(さんそん)を指すとの説、新居・宇摩・周敷(しゅふ)の三郡のことなど諸説あるが、上述、新居郡(旧神野郡)を中心に覇を唱えたようである。実際、宇摩郡土居町(現在四国中央市)の延喜式内社・村山神社には天照大神、百済救援の途次、この社を仮宮としたとする斉明天皇、そして天智天皇が合祀されているが、共に武国凝別命も祀られているとの説もある。

この御村別君(みむらわけぎみ)より十數世の後孫が加彌古乃別君(かにこのわけぎみ)。その孫がこの社の祭神「龍古乃別君(たつこのわけぎみ)」である。 で加彌古乃別君(かにこのわけぎみ)であるが、「加彌」は鑛土(かに)の意味であり、金屬の古語である。
金属を意味する神名を称することから、この時代には既に御村の氏族によりその領地である新居郡下で鉱山が開き、立川山村においても後に立川銅山とも長谷(ながたに)坑とも称される鉱床掘鑿がおこなわれていたことが推察される。
別子
なほ龍河(たつかわ)の河(かわ)は訓讀の古で、龍古(こ)すなはち龍河(たつかわ)であり、龍河は後ち、立川の文字に代へられた。また加彌古乃別君、龍古乃別君などの、その別君(わけぎみ)の呼称は、景行天皇が七十皇子を諸國に分封せしめた時に始まり、以來、別君は一種の姓となったものであるが、かやうに立川の地は加彌古、龍古の別君(わけぎみ)に依って鉱業を創始せられたため、村人は永くその縁故を尊び別子(わけのこ)と呼び、次いで別子(べっし)と音読し、古代新居郡東部の鉱山地帶を「別子」と称するに至った。
新居郡と神野郡
現在の旧西条市と新居浜市の地域は、おおむね大正時代以前は新居郡(にいぐん)と呼ばれていた。この地域が新居郡と呼ばれるようになったのは、平安期、嵯峨天皇の時代である。それまでの西条・新居浜の地域は神野郡(かんののこおり、かんのぐん)と呼ばれていたのだが、嵯峨天皇の諱(いみな)「加美野」に触れるため、大同4年(809年)9月に新居郡に郡名変更されたようである。


地図上からルート実線が消える
牛車道散歩に戻る。龍河神社参道を横切り牛車道を進む。よく踏み込まれた比較的広い道幅である。このような快適な道が続いて欲しいと思う間もなく5分弱歩くと道は荒れてくる。小さな沢筋を越え、木々の間から道の駅マイントピアの施設を見ながら荒れた道を進むとしっかりと組まれた石垣なども残る。その先、比較的大きな沢。参道口からおおよそ20分程度のところ。
沢筋を越えると地図上からはルートを示す実線が消える。さて、この先どうなることやらと思いながら先に進んだ。

最初の沢;「おんな こどもは無理」の標識(標高235m)
地図上からはルート実線は消えるが道は続く。と、沢から4分程度歩いたところで突然道が切れる。そこには「おんな こどもは無理」の文字と共に道を沢に下る方向指示がある。かつては橋か桟道かといった沢を跨ぐものがあったのだろうが、それが崩壊したのだろう。沢筋の向こうには道が見える。
指示に従い沢筋に下りる。道筋から沢まで結構深く少し険しいが、といってロープが必要といったほどでもない。少し危険ではあるが慎重に下れば「おんな こどもは無理」とは思えなかった。
5分ほどかけて沢を下り、上部に見える牛車道らしき辺りに崖に成り行きで取り付き上り牛車道に復帰する。


旧端出場発電所水圧鉄管跡と交差
牛車道に復帰するとほどなく道の左にコンクリート構造物があり「端出場水力発電所 水管跡 明治45年ー昭和45年」とあり、右には道に埋め込まれた鉄管がふたつ残る。道の上を覗くと急斜面にコンクリートの支持台が見える。

その遺構の直ぐ先、進行逆方向に下に下る道が分岐する。道を下ると旧端出場発電所に水を落とす水管道跡にあたる。
旧端出場発電所
明治45年(1912)完成。明治時代の後期、大量出鉱体制を整えつつあった別子銅山では、電力増強を急務の課題であった。そのため、銅山峰の南を流れる銅山川とその支流の水を利用した水力発電を行うこととした。銅山峰南麓、銅山川筋の日浦に集められた水は、日浦通洞(明治44年(1911) 貫通)と第三通洞 (明治35年(1902) 貫通)を通り、水路で石ヶ山丈(海抜約730m)の煉瓦造の水槽(沈砂地)まで引水し、当時日本一の落差 597.18mの水力を利用して発電を行った。
大正時代に入り、水路の拡張と発電機の増設を実施。この増設により、大正10年(1921)から始まった四阪島製錬所の大改造計画で急務とされた、蒸気動力の電気転換のための電気供給が可能となり、同11年新居浜-四阪島間 20kmの海底ケーブルが敷設され、送電が開始された。
昭和45年(1970)、発電所は廃止されたが、煉瓦造の建物内には、運転開始時のドイツ国シーメンス社製の発電機や同国フォイト社製の水車などが残っている。

この発電所建設は明治35年(1902)に工事着手するも、水力発電の許可申請が滞り、ために計画を変更し火力発電所として稼働を始めたようである。その後、明治41年(1908)9月には許可を得て、端出場の火力発電(90キロワット)裝置を水力発電に改むることとなり、これに要する導水路工事を起すと共に、第三通洞斜坑底附近の地点より延長し、日浦谷に通ずる大隧道を開鑿し発電所への水を供した。 因みに、落差597.18mの水圧鉄管は、水を落とすというより、鉄管は常に水で満たされ、その水圧をもって発電装置を動かしたようである。

二番目の沢を下り、牛車道に復帰
少し荒れてはいるが牛車道の風情を残す道を10分ほど進むと再び沢筋で道が途切れる。最初の沢ほど深くはないが、「足元注意」の標識に従い沢に下りる。上部に砂防ダムらしき下の岩場から小滝が落ちる。
沢からの上りは急。用意されていた「虎ロープ」を掴み牛車道に這い上がる






鉄製桟道を渡り尾根に向かう牛車道に出る(標高260m)
牛車道に復帰すると直ぐ鉄製桟道。桟道を渡ると木々に覆われた道筋から一転、空が大きく開けた道に出る。合流した道は県道47号より続いている。
この合流点まで龍河神社からおおよそ50分、標高を80mほど上げたことになる。牛に優しい緩やかな傾斜道である。国領川(足谷川)に沿って等高線に抗うことなく上って来た牛車道は、ここから石カ山丈への尾根筋に向かって上って行くことになる。
大斜坑跡
この合流点から少し下ったところに大斜坑跡がある。前述マイントピアの国領川(足谷川)を隔てた正面山肌、大送電線鉄塔の真下にコンクリート大構造部が見えるのだが、それってなんだろうとチェックすると別子銅山の大斜坑とのことであり、いつだったかGoogle mapにプロットされている場所に探しにでかけたのだが見つからない。プロットされている場所が大送電線鉄塔傍になっており、藪の中を探し回ったのだがそれらしきものが残っていなかった。マップにプロットされている場所が全然違っていたわけだ。
興味を持つ方がいらっしゃるかどうかわからないが、正確な場所を案内しておく: 県道47号を第四通洞を越えて進むと進行逆方向に上る道がある。道には「住友林業」の私有地であり立ち入り禁止の柵がある。申し訳ないのだが大斜坑見たさに柵の脇より中に入り、三つ目の曲がり角に曲がることなく直進する道があり舗装されている。
そこを進むと大斜坑コンクリート構造物の上部、粗鉱ビンと呼ばれる大斜坑から運ばれた鉱石を一時貯蔵していた貯鉱庫の上に出る、4,000トンの貯鉱能力があったようだ。
藪となった粗鉱ビン上部を先に進むと大斜坑の坑道跡も残っていた。

大斜坑は上部鉱床を掘り尽し、深部開発をもって銅山起死回生を図り昭和35年(1960)より着手されたもの。工期8年昭和43年(1968)9月に完成した大斜坑は約15度の傾斜、延長4,455メートル、海面下約1,000メートルに達したとのこと。大斜坑の完成により、鉱石はすべてスチール・コンベアーで運ばれ、46人乗りのケーブルカーも走るなど、人や機材の運搬活用された。
大斜坑は完成するも、鉱況、作業環境の悪化、地熱や盤圧の上昇からこれ以上の稼業は無理と判断し元禄4年(1691)操業開始した別子銅山は昭和48年(1973)閉山決定。282年にも及ぶその歴史の幕を閉じた。




山稜へと上る牛車道■




最初のヘアピンカーブ(午前8時34分;標高268m)

道に出て少し進むと道が二つに分かれる。外側の道は大送電鉄塔への保守化管理のために造られたようだ。牛車道は内側のヘアピン状の道を進むことになる。
この送電線鉄塔、他を圧する大きなもの。南北、東西からの送電線のジャンクションとなっていることもその一因なのだろうか。
前述マイントピアより足谷川を隔てた正面山肌に屹立するこの大鉄塔、大斜坑を示すピンがGoogle mapにこの大送電線鉄塔傍に立てられていたため、大斜坑跡を求めて彷徨った記憶が残る。

第二のヘアピンカーブ(午前9時3分;標高356m)
次のカーブまで30分かけて高度を80mほど上げることになる。「牛」にも優しい緩やかな道である。
途中、開けた道に出る前に渡った鉄製桟道が架かっていた沢の上流部であろう橋を渡る。道の上下に石組も残る。また、その時は気づかなかったのだが、道の途中で旧端出場発電所水圧鉄管が牛車道とクロスしていた。復路水圧鉄管跡を下った時にクロスしわかったことではあるが、道の下、道の上の藪を見ればすぐわかったのだろうが、お気楽に通り過ぎていた。

3番目のヘアピンカーブ(9時28分;標高426m)
次のカーブまでおおよそ30分弱、高度を70mほど上げる。緩やかな道とするため等高線に抗うことなく山肌を大きく廻り込むことになる。
牛車道上を通る送電線を仰ぎ見ながら道を進むと、時に木々の間から東の辻ヶ峰(標高958m)から北に続く稜線、稜線の先には新居浜市の里に落ちる稜線が見える。
また途中旧端出場発電所水圧鉄管路とクロスるのだが、この時もまた気付くことは無かった。

4番目のヘアピンカーブ(午前9時41分;標高463m)
稜線部に大分近づいたのか、九十九折れまでの距離が大分短くなり、16分弱歩き高度を40mほど上げるとヘアピンカーブに。ここもまた牛車道と交差する旧端出場発電所水圧鉄管ルートに気付くことなく通り過ぎてしまった。

5番目のヘアピンカーブ(午前9時53分;標高492m)
10分強歩き、高度を30m上げると5番目のカーブ。途中、東の辻ヶ峰(標高958m)から北に続く稜線、稜線の先には新居浜市の里に落ちる稜線の先に新居浜の街が見える。
ここでも旧端出場発電所水圧鉄管ルートが牛車道と交差するのだが、緩やかな道をのんびりと歩いていたため気付くことなく通り過ぎてしまった。

6番目のヘアピンカーブ(午前10時6分;標高534m)
10分ほど歩き高度を40mほど歩くと6番目のカーブを曲がる。途中、石ヶ山丈の稜線に突起状の山稜が見える。犬返しだろう。いつだったか、犬返しの少し北から立川へと下ったこと、途中下山道がはっきりせず藪を漕ぎ龍河神社に続く牛車道に出たことを想いだした。カーブする辺りはほとんど稜線部。そのすぐ北に538mピークがある。ここでも旧端出場発電所水圧鉄管ルートは気づかず通り過ぎた

7番目のヘアピンカーブ(午前10時16分;標高560m)
10分弱歩き、高度を30m弱上げると7番目のカーブ。途中、「犬返し」の標識。標指揮部で牛車道から分岐すれば犬返しへと続く稜線部に出るのだろう。旧端出場発電所水圧鉄管は曲がり角の直ぐ傍で牛車道とクロスするのだが、をここでお気づかず通り過ぎた。

稜線部に(午前10時23分;標高582m)
10分弱歩き、20m強高度を上げると石ヶ山丈に続く稜線部に出る。7番目のカーブを曲がると直ぐ旧端出場発電所水圧鉄管ルートが牛車道を交差するのだが、ここでも気がつくことはなかった。藪に隠れているとは言え(これは後でわかったことだた)、結局水圧鉄管路ルートとの交差箇所は一箇所も気付くことなく通り過ぎた。 その気で見なければ、見れども見えずではあったのだろうか。



種子川林道に合流(午前10時33分;標高593m)
稜線部を越えた牛車道は北に突き出た石ヶ山丈から犬返しに連なる尾根筋をほぼ等高線に沿って迂回し進む。10分ほど進むと牛車道は種子川の谷から上ってきた林道の合流する。








8番目のヘアピンカーブ(午前10時43;標高625m)
林道を10分弱歩くと尾根筋にあたる。道は尾根筋をぐるりと迂回することなく、尾根筋でヘアピン状に曲がり650m等高線辺りを東に向かう。地図を見ると尾根筋の西側には鋭く切り込んだ谷筋がある。道の崩落を避けての尾根筋でのヘアピンターンなのだろうか。





9番目のヘアピンカーブ(午前11時2分;標高667m)
650m等高線の辺りを東へと引っ張られた牛車道は、魔戸の滝が落ちる種子川(西谷川)の谷筋手前まで進みそこでヘアピン状に曲がる。石ヶ山丈から摩戸の滝へと下りる登山ルートの直ぐ手前である。この下山ルートも結構険しい道だった。

沈砂池下の尾根突端部に(午前11時19分;標高714m)
種子川谷筋手前のヘアピンカーブから17分ほど歩くと尾根筋突端部に。上を見るといつだったか旧端出場発電所導水路跡を辿った終点である沈砂池、その下の水圧鉄管支持台が見える。牛車道には「停車場」の文字と沈砂池方向を示すサインが木に打ち付けられている。石ヶ山丈にあったかつての別子銅山上部鉄道駅跡へのサインであろう。
ここまでの所要時間は立川上り口からおおよそ4時間といったところだろうか。

道が消え、撤退(午前11時35分;標高733m)
沈砂池下で少し休憩し、尾根筋をぐるりと廻り先に進む。牛車道らしき踏み込まれた道が続く。尾根筋を廻り込むと左手に、いつだったか歩いた沈砂池に続く旧端出場発電所導水路()の石垣らしきものが見える。東平から沈砂池まで途中崩壊部を迂回しながら導水路跡を辿ったときのことを想いだす。
踏み込まれた道を進むと石垣下に水路が走る。沈砂池からの排水路跡かと思う。排水路に沿って少し進むと道は排水路と交差する。その先、道がはっきりしない。地形図を見ると谷が南へと切れ込んでおり、土砂崩れで崩壊したのだろうか。沈砂池への導水路散歩の折も、途中土砂崩れで崩壊した導水路部の迂回で難儀したことを想いだした。

さてどうしたものかと考える。で、先の目安もなく進んでも仕方がないと。次回、東平から上部鉄道跡を石ヶ山丈まで進み、そこから牛車道を逆に辿り道を繋ぐのがいいかと思い撤退決定、ここで折り返すことにした。 実の所、家に戻り上述旧端出場発電所導水路を辿った時の記事を読むと、この谷筋のの先に導水路排水門があり、その先導水路トンネルが抜ける北に突き出た尾根筋にしっかり踏み込まれた牛車道があった。石ヶ山丈から逆に進めば消えた牛車道のがり角が見つかりそうに思えてきた。次回のお楽しみ。

旧端出場発電所導水路跡を沈砂池に戻る(午前11時49分;標高735m)
撤退を決め沈砂池排水路に沿って沈砂池に戻る。が、進むに連れて藪や倒木が水路を塞ぐ。ちょっと厄介。で、エスケープルートを探そうと排水路から這い上がると旧端出場発電所導水路に出た。
導水路の中を歩いたり、水路を跨いだり、バランスを取りながらコンクリート水路枠上を歩いたりと、15分ほどかけて沈砂池に戻る。
沈砂池の水門はふたつある。砂を落とし水圧鉄管に落とす沈砂池への水門と、もうひとつは余水吐の水門とも言われる。
沈砂池を囲む煉瓦の上を歩き沈砂池の出口に。鉄格子のごみ除去フィルターが残る。


沈砂池下の牛車道に戻る(午前11時52分;標高714m)
沈砂池下の牛車道に戻る。沈砂池から旧端出馬発電所水圧鉄管を通すため水圧鉄管の左右が大きく開削されている。
沈砂池直ぐ下の水圧鉄管の支持台がある。水圧鉄管だけの支持台、丸い鉄管を通す穴と四角の作業人の通路と言われる支持台を見遣り牛車道に戻る。






復路;旧端出場発電所水圧鉄管跡




沈砂池下の牛車道より水圧鉄管跡に入る(午前11時55分;標高714m)
沈砂池下の牛車道の下を見ると旧端出場発電所水圧鉄管跡ルートが一直線に下っている。結構惹かれる。当初の計画では復路も牛車道を戻るつもりであったのだが、水圧鉄管跡のルートを下ってみようかと少し考える。
このルートを這い上がった弟の話では結構な藪とのこと。が、時は冬。藪もそれほどではなかろうと、結局水圧鉄管跡を下ることにした。



牛車道A・B交差(午後12時19分;標高565m) 
水圧鉄管跡ルート中央部は道との段差が高くとても下りることはできない。左右を探り、結局右手より水圧鉄管跡ルートに入り込む。道からの見た目よりザレが激しく倒(こ)けつ転(まろ)びつルート中央部に。保守用の石段が下っており、その横に鉄管支持台(水圧鉄管1とする;以下同じ)がある。
目を上の向けるとコンクリートに〇と□の窪み。水圧鉄管は牛車道の下を抜けていたようだ。□は作業用の通路跡なのだろう。
40mほど下ると鉄管支持台(水圧鉄管2)。鉄管を通す支持台の横には四角の作業用通路を抜いた構造物がある。10mほど下ると水圧鉄管だけを通す支持台(水圧鉄管3)があった。
40m下ると地中に埋まった水圧鉄管があった(水圧鉄管4)。更に20mほど下ると上部の欠けた支持台が2つ並ぶ(水圧鉄管5)。
その先10mほど下ると突然道に出た。牛車道である。往路ではまったく気づかなかったのだが、旧端出場発電所水圧鉄管は牛車道を交差していたわけだ。地図で確認すると往路ヘアピンカーブ7曲がり角傍であった。すぐ先、ヘアピンカーブ7手前の牛車道に出る。
35分かけて標高50mほど下げた。思った以上に時間がかかりそう。
旧端出場発電所水圧鉄管ルートはこの先も牛車道と交差を繰り返し下っていくことになる。


牛車道交差C・D(午後12時47分;標高507m 午後12時52分;標高491m)
牛車道を離れ水圧鉄管道跡に入る。アプローチは簡単であったが、藪というか立ち枯れの木立が道を防ぐ。茨のついた小枝が厄介。牛車道から10mほど下ると水圧鉄管支持台と(水圧鉄管6)作業用石段を抜く四角い通路の設けられた構造物が並ぶ。この前後は結構強烈な立ち枯れ木立。茨を避けて折り敷き下る。
その先20mほど下ると水圧鉄管支持台(水圧鉄管7)があり、更に20mほど高度を下げたところに水圧鉄管支持台(水圧鉄管8)があり、その先が開いている。牛車道Bとの交差部である。標高50m下げるのに25分ほどかかったことになる。思った以上に大変だ。
この交差部は往路5番目ヘアピンカーブの辺りであり、交差部Cの直ぐ先で牛車道D(午後12時52分/標高490m)に出る。


牛車道交差E(午後12時58分;標高442m)
牛車道から10mほど下ると水圧鉄管支持台(水圧鉄管9)と作業用通路ががひとつになった構造物がある。山側が木々に覆われた支持台を抜ける。コンクリート面に水圧鉄管の通る○穴と人の通る□穴のコントラスがちょっと魅せる。
その下、水圧鉄管を支えた四角の支持台だけがいくつか残り、その先で牛車道(牛車道交差点E)に出る。10分弱で50mほど高度を下げる。この先もこのような道筋であれかし,と願う。


牛車道交差F(午後13時10分;標高414m)
牛車道から水圧鉄管跡にはそのまま下りることはできない。アプローチを探すと右手から入るのがよさそう。立ち枯れ木立、茨のついた木立、結構厄介。木々を踏みしだき水圧鉄管筋に出る。高度を20mほど下げたところに水圧鉄管を通す〇穴のついた支持台があった(水圧鉄管10)。
そこかから10mほど高度を下げると牛車道に出る(牛車道交差点F)。
10分強で高度を30mほど下げた。

送電線鉄塔(午後13時41分;標高385m)
牛車道から水圧鉄管筋を見ると結構荒れている。ブッシュ、木立が行く手を遮る。地図を見ると次の牛車道交差(牛車道交差点G)までは標高110mほど下ることになる。ちょっと厄介かな、などと思いながらも水圧鉄管ルートに入り込む。
20mほど下ると水圧鉄管支持台が2基続く(水圧鉄管11、12)。支持台脇に作業用石段があるのだが、藪や茨に覆われ楽はさせてくれない。
その下には上部が水圧鉄管を通す上部が欠けた支持台が2基連なる。

そこかから20mほど下ると送電線鉄塔がある。水圧鉄管筋すぐ傍。ちょっと立ち寄る。山道歩きに送電線鉄塔は心強い目安。今でこそGPSがあるので昔ほどでないにしても、ルート確認には欠かせないし、通常送電線保守道が続いてあろうから、そのことも道迷い時の「安心標識」ではある。

牛車道交差点G(午後13時56分;標高306m)
送電線鉄塔から水圧鉄管跡に戻る。直ぐ水圧鉄管支持台(水圧鉄管13)。そこから10mほど下ると水圧鉄管と作業用通路がひとつになった構造物(水圧鉄管14)。 通路を抜け、作業用石段を10mほど下ると水圧鉄管支持台(水圧鉄管15 )。 そこから50mほど下ると牛車道(牛車道交差点G)に出る。

牛車道交差点Fからこの牛車道交差部Gまで60分弱をかけ標高110mを下げた。結構時間がかかった。冬だからこの程度だがブッシュの激しい夏場であればどうなったのだろう。



牛車道交差点H(午後14時35分;標高240m)
旧端出場発電所水圧鉄管と尾根に上る牛車道との交差はここでお終い。次は龍河神社から国領川(足谷川)に沿って進む途次に出合った水圧鉄管交差部(牛車道交差点H)に下ることになる。比高差はおおよそ70m。
牛車道から水圧鉄管跡に直接下りることは難しそう。左右をチェックし結局右手から水圧鉄管筋に下りることにした。これが結構キツイ。大きな倒木が道を防ぐ。倒木を潜り抜けると今度は茨の木立。木立を折敷き水圧鉄管筋に入ると下半分が土砂に埋もれた水圧鉄管支持台(水圧鉄管16)
そこから10mほど下ると水圧鉄管支持台(水圧鉄管17)と作業用通路がひとつになった構造物。通路は人が通れそうもない。これも下半分が埋もれてしまっているのだろう。
そこから20mほど下ると水圧鉄管の穴を通した巨大な構造物が2基続く(水圧鉄管18)。支持台以外の用途もあったようにもおもうのだが、何だろう。なんだか気になる。
あれこれチェックすると、Wikipediaに「流体の過剰な流入量を一時的に蓄えることで流量を緩和して増減を平準化することを目的に備えられる各種の貯槽類」のことをサージタンクと呼ぶ、とあった。水圧鉄管にもサージタンクを設け、流量を調節していたようだ。門外漢のため的外れかもしれないが、この2基の構造物はサージタンクかもしれない。
その先は藪というか木立が行く手を遮る。藪の中には水圧鉄管部が欠けた支持台をふたつほど見遣り、藪漕ぎというか立ち木を折敷き?mほど下ると牛車道に出る(牛車道交差点H)。40分弱かけて比高差70mを下りてきた。

牛車道から水圧鉄管跡に下る作業用石段を下る(午後14時41分;標高240m)
ここから先、旧端出場発電所前の県道47号までは数回歩いている。比高差100mほどほぼ全部作業用石段が整備されているが、藪が激しく結構難儀した。今回は冬枯れの時期。少し楽に下れるだろうと牛車道交差点Hを少し先にある牛車道と水圧鉄管跡を繋ぐ石段を下りる





旧端出場発電所前に下りる(午後15時2分;標高152m)
石段を下りると水圧鉄管を通す〇穴を残す支持台(水圧鉄管19)。そこから山側を見ると牛車道の通る道筋は石垣が築かれ、そこには水圧鉄管を通す〇穴が開いていた。道の下を潜っていたわけだ。
そのすぐ下にも水圧鉄管の穴のついた支持台(水圧鉄管20)。作業用石段横、藪に隠れている。その先も藪に隠れた水圧鉄管支持台が続く(水圧鉄管21)。 作業用石段を下ると上に水圧鉄管を支える構造物の先に水圧鉄管を通す穴のついた支持台(水圧鉄管22)。これが最後の水圧鉄管支持台であった。

その先、網状の鉄橋を渡り作業用石段を下り、網状に組まれた鉄の橋を渡ると県道47号に出る。道を隔てた反対側、石垣下に現在修理中の旧端出場発電所が建っていた。
沈砂池下の水圧鉄管跡スタート地点から3時間強。570mほどを一直線に下りてきた。下りはじめるときは、直滑降に下りるわけだから1時間半もあれば十分かと思っていたのだが、痛めた膝のせいにするわけではないけれどちょっと甘かった。

計画した牛車道は当初予定の石ヶ山丈までは途中撤退のため行くことはできなかったが、復路何気に思った旧端出場発電所水圧鉄管跡を下り切った。往路は単調な道、復路は険路・難路。結構楽しめた。
次回は東平から別子銅山上部鉄道跡を辿り、終点の石ヶ山丈から逆に牛車道を辿り撤退地点まで繋ごうと思う。
時は冬。東平までの車道は冬季封鎖中。春を待たねばならない。

付記;立川銅山について
ふと思う。別子銅山についてはあれこれチェックしたことはあるのだが、よくよく考えると立川銅山については何も知らない。今回歩いたのは銅山峰北嶺、往昔の立川銅山のあったと言うところである。いい機会でもあるので,前述『別子開坑百五十年史話;編集兼発行人 平塚正俊』立川銅山をもとにまとめてみる;
場所
まずは、立川銅山ってどの辺りにあったのだろう。立川銅山の坑口として大黒間俯、都間符、大平坑、寛永谷や、寛永坑といった坑口名が記してある。場所をチェックすると東平から第三通洞のあるところから寛永谷川を遡上した源頭部の先、標高1,230mの辺りに大黒間符があり、その少し南に都間符、大平坑があるようだ。銅山峰は標高1294m。稜線部の直ぐ北といった場所である。寛永坑の場所は不詳だが寛永と名付く以上、寛永谷筋にあったのではないだろうか。坑口ではないが、寛永谷川筋に寛永谷横坑と称する取水坑がある。文字面から類推すれば寛永坑が昔あったとしてもおかしくはない(ちょっと強引)。
因みにこの寛永谷横坑は東を流れる柳谷川の「柳谷取水口」から水を通しい寛永谷川に落とし、別子ダムから導水した水と合わさり、旧端出場発電所導水路の水を養水しているようである。
歴史
開山から別子銅山に併合されるまでの経緯を上述『別子開坑百五十年史話;編集兼発行人 平塚正俊』をもとに概要をまとめる;
龍河神社の縁起にあるように、この地を治めた御村氏の祖である加彌古乃別君(かにこのわけぎみ)の「加彌」は鑛土(かに)であって、これは金屬の古語。この時代既に御村の氏族に依って、その領地であった新居郡下に鉱山が開かれていたことが推察される。
〇17世紀中頃には西条藩領内に立川山村に
時代は下り戦国乱世の頃、諸国の豪族はその武力を養う財源を得るため領内の鉱山開発に着目したというがその記録は無いようだ。
続く德川幕府の成立後、鉱業奨励政策の遂行を計るにおよび、立川もまたこの機運に乗じ、上代龍古乃別君以來、約九百年目にふたび稼行の日を迎へた、という。宝暦11年(1761)住友家より幕府巡見使に提出せる「立川御銅山仕格覚書」に『伊豫國新居郡立川山村之内長谷御銅山者百餘年以前一柳監物監物御領地之節始相稼』とある。河野氏の一族と言われる一柳監物監物伊予西条藩を封ぜられたのが寛永13年(1636)。17世紀中頃には既に立川山村に長谷御銅山(立川銅山)が稼行してたことがわかる。別子銅山の稼行が翌元禄4年(1691)であるから、それに先立つこと50年から60年も先のことである。
また新居郡立川山庄屋神野家の文書にも、立川山村が寛永13年(1636 )以来、西條藩主一柳侯(初代直盛、二代直重、三代 直興の領地であって、領内最初の稼行請負人は西條在の戸左衞門であると記録されてゐる。
立川銅山初代の請負人戸左衛門は、いくばくもなくその稼行を土佐の寺西喜助に譲り、さらに喜助の後ち、紀州の熊野屋彦四郎、大阪の渡海屋平左衛門、大阪屋吉兵衞と時に中絶しながら講負人は点々として変わると共に、領主もまた易つて寛文5年()に一柳侯は除封となり、同十年紀州藩の分家松平頼純侯がその後ちを承けた。
かやうに稼行者が、永續し難いのは、とりもなほさず鑛山經營の容易でないことを示すもので、開鑛當初は、極めて地表に近い富鉱帶のみを選んで稼行し得たものが、上鑛を探掘し盡くすと、掘場はしだいに行詰まり、せつかく採取せる多量の鉱石も銅分が少いため、製錬の結果は、到底稼行の経費を償ふことの出來なくなるからだ。殊に坑道が深所へ進むにつれて、地下水の湧出はますます激しくなり、その排水の労力と費用とが、探鑛のそれに何倍かするやうになると、いかに豐富な資本を以てするも、遂には損失に堪へ切れぬばかりか、官府(藩または幕府)へ納付すべき運上や、炭代の出どころもなくなつて、結局その稼行者は倒産してしまふのである。

寛永以來六人目の立川銅山経営が眞鍋彌一右衛門。西條藩の長者として事業經營の資力においては住友に譲るものではなかったが、立川銅山は開坑以來年を經て、謂はゆる老山深舖となりはじめている状況に加え、立川銅山にはその盛衰を左右する根本的な自然の條件が圧倒的に不利あつた。すなはち別子山の鉱床は、その上部において北四十五度の傾斜を以て、西北より東南へ斜めに落してゐるので、その大部分が別子側に偏つてをり、富鉱帶もまた走向に對して四十五度の傾斜をなして、底部へ延びてゐるため、別子側が非常に恵まれてゐるのに反し、立川側はいかに努力するも早晩鑛脈を掘り盡くして、没落するの外なき運命に置かれてみたのである(掲載図参照ください;「別子開坑百五十年史話」より)。
このように別子・立川銅山の盛衰が目立ち始め、両鉱山に反目が起きた頃、元禄7年(1694)四月二十五日、別子銅山で大火が起きる。尾根を越えて逃げる別子の鉱夫を待ち受けていたのは、沈火の為立川銅山が起こした迎え火。逃げ場を失なった別子の人々は火に包まれ、稼行依頼4年を迎えた別子銅山は灰燼に帰した。

翌元祿8年(1695)別子銅山と立川銅山の境界争いが起こる。境界爭ひは、現在の太平坑から遙か上手の大黑間符より掘り進んで來た立川方の廻切夫と、峰に近い大和間符から掘り込んで來た別子方の廻切夫とが、偶然その坑道を拔きあひ、互ひにぶつかつたのが發端となつて勃發した。元祿8年(1695)四月二十五日のことである。 この境界争いは幕府の評定所にもちこまれ、幕府の現地調査、3年越の大裁判となるも元禄10年(1699)2月4日、別子山村の勝訴となった。
立川中宿を抜ける別子銅山の運搬路
上述の如く、別子銅山の長年の願いであった銅山峰を越え立川に下りる中持さんによる運搬路が西条藩に打診されたのがこのような時期。別子大火の際に立川側からの迎え火で多くの人命を失ったことへの配慮も込め、領内といへども別に新道を開設すれば許可するとの意向を傳へられたが爲め、翌元祿3年(1700)、川之江代官西条藩への斡旋方を依頼し、さらにその翌元禄14(1701)年六月に、西條藩の有司へ歎願書を提出した。
〇立川山村、立川銅山が西条藩から幕府天領に
交渉は停滞するも折からの幕閣勘定奉行荻原茂秀の幕府財政立て直し策として鉱業振興策施行のため、交渉は急転直下解決。元禄15年(1702)10月中宿、口屋ともに所在地は西條領であるにしても、幕領別子銅山附の施設として、その支配は川之江代官所に屬するるものとなった。
次いで元祿16年(1703)に至りて、幕府は先づ立川銅山を別子同樣おのが支配下に移すと同時に、両銅山の薪炭に要する山林、出銅運搬路等に關係ある村々をも幕領に収むるに決し、西條藩および宇摩郡津根陣屋一柳直增侯にその旨を傳へ、寶永元年(1704)中に悉皆その手続きを完了した。
立川銅山を別子銅山が併する
この間立川銅山を10年経営してきた真鍋彌一衛門も稼行を断念、京都の糸割賦(幕府指定の生糸輸入商組合)に譲る。こうして元禄14年の頃と言う。
その京都の糸割賦も4年で資力枯渇し運上金も払えなくなり西条藩に公収されたようである。
その後享保12年(1727)に大阪屋久左衛門が稼行。いつだったか歩いた別子銅山に薪を運ぶ馬の道の尾根筋、大永山トンネルの西に「大阪屋敷越」の地名があり何だろうと思っていたのだが、大阪屋ゆかりのものだろう。この大阪屋、幕府より銅輸出の特許を得た銅商人22名のひとりという豪商ではあったが多くの困難に面することになる。
ひとつは鉱夫離山。折からの幕府財政立て直しのため悪化鋳造した賃金を支払うことにより170名の工夫が離山し別子に移る。元文3(1738)4年のことである。
次いで大阪屋と立川山村民との騒動。立川銅山の中持を担った村民の賃金値下げと入会地の出入り禁止がその発端。
また鉱山の状況も村民嘆願書に「上げ下げの荷物も数無く」「ただ今の銅山師、荷物の数なく」とあるように衰微極度に達していたようである。
寛延年間(1748-1751)には幕府への運上金未納の状態となり幕府に公収のおそれが生じる。ために大阪屋から住友に銅山引継ぎ打診。享保5年(1720)、伊予の幕府領のうち、宇摩、新居、伊予三郡を領することになった松山藩領に幕府に願書伝達。鉱毒による河川汚染を憂う新居郡西条藩の数ヶ村の反対を受け、住友は一時引継ぎを断る旨を伝える。鉱床の枯渇した古い銅山を敢えて引き継ぐ強い理由もなかった。 が、大阪屋も必死。幕府も住友の一山稼ぎを願い、松山藩と西条藩に命じ村民慰撫し寛延2年(1749)12月、大阪屋久左衛門代理より立川銅山の引き渡しを受けることになる。
当時としては銅山としての価値はなかった立川銅山を併したことは後の別子銅山にとっては大きな意味を持つように思える。と
銅山峰の南嶺より採鉱本部を北嶺の東平に移し得たのもそこが別子銅山の地となっていたからだろうし、当時その構想があったとも思えないが、明治の頃になってラロックをはじめとする別子銅山発展の大計画を作り得たのも、銅山峰の北嶺・南嶺の一手稼ぎとなっていたことがあってこそのことであったかと思える。







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