人物付箋

坂本龍馬 予土国境・脱藩の道を歩く;土佐の梼原から予土の国境の峠を越えて伊予の大洲へと 2016年9月

坂本龍馬脱藩の道を歩くことにした。先輩諸氏から揶揄される常の如く、所謂「いいとこ取り」のルートである。トラックの排気ガスを吸い込みながらの車道歩きはかなわんと、土佐の高知から伊予の大洲への龍馬脱藩の道のうち、高知から梼原までの23里は避け、本格的な峠越えのはじまる土佐の梼原から伊予の大洲までの十三里を抜けることにした。十三里の内でも、勿論、山間部の山越え区間のみ、正確には梼原の西、本モ谷(おも)川筋・茶屋谷から、龍馬が舟で長浜に向かった小田川筋・亀の甲まで、である。

そのⅠ;本モ谷川筋茶屋谷・松ヶ峠・四万川筋高階野・韮ヶ峠

そのⅡ;韮ヶ峠・舟戸川筋色納集落・榎ヶ峠・河辺川筋神納集落

そのⅢ;河辺川筋・神納集落・封事ヶ峠・キビシ川筋・三杯谷集落・日除集落・水ヶ峠

そのⅣ;水ヶ峠・泉ヶ峠・耳取峠・石上峠・新田集落

そのⅤ;新田集落・白岩・弦巻集落・小田川筋・亀の甲



素白先生 白子の宿から平林寺へ 2007年 1月 10日 

水曜日「川 はみな曲がりくねって流れている。道も本来は曲がりくねっていたものであった。それを近年、広いまっすぐな新国道とか改正道路とかいうものができて、或い は旧い道の一部を削り、或いはまたその全部さえ消し去ってしまった。走るのには便利であるが、歩いての面白みは全 く無くなってしまったのである。
埼玉県白子の町は、昔は白子の宿と云った。私が初めて 武蔵野の中の禅林、野火止の平林寺を訪ねたのは、実に久しい以前のことで、まだ開けない全くの田舎であった成増の方から歩いて行った。その少し先が白子なのである。。。」。
素白先生こと、岩本素白の「独り行く(二)白子の宿」の書き出しである。新年、何処から歩き始めるか、少々迷ったとき、素白先生のこの書き出し部分を思い出 した。そもそも、素白先生のことを知ったのは、昨年、成増・赤塚台辺りを散歩していたときのこと。一瞬白子の町をかすめ 、その名前の面白さに惹かれ、あれこれ「白子」を調べているときに、偶然素白先生の「白子 の宿」の文章を見つけた。散歩の達人、散歩随筆の達人ということである。で、著書はなどと探してい ると、みすず書房から『素白先生の散歩(岩本素白)』が出版されており、上の随筆も収められている。早速に入手。
散歩の随筆といえば永井荷風の『日和下 駄』が知られているが、この素白先生の文章に大いに惹かれた。同書の帯に曰く;「愛用のステッキを友に、さび れた宿駅をめぐり、横丁の路地裏に遊ぶ素白先生。沁みるような哀感、えもいわれぬ豊かさ、 ひそやかな華やぎが匂う遊行随筆の名品」。そのとおり、である。素白先生の話になると、どこまで続くか分 からなくなる。このあたりで本筋に戻る。素白先生の書き出しにあるように、白子の宿から平林寺まで歩こう、ということ。素白先生の歩いた道筋を辿るって、 新年の歩きは じめには慶き事なり、と思った次第。


国木田独歩 出水川から黒目川に 2007年 4月 17日 火曜日

こういった、気楽な散歩がいい。段取りも何もなく、成行きで歩くのがいい。道に迷えば、迷ったなりに進めばいい。興味が向けば、それに向かってきままに進めばいい。国木田独歩の『武蔵野』の一節を思い出す:「武蔵野に散歩する人は、道に迷うことを苦にしてはならない。どの路でも足の向くほうへ行けば必ず其処に見るべく、感ずべき獲物がある。武蔵野の美はただその縦横に通ずる数千条の路を当てもなく歩くことに由って始めて獲られる。春、夏、秋、冬、朝、昼,夕、夜、月にも、雪にも、風にも、霧にも、霜にも、雨にも、時雨にも、ただこの路をぶらぶら歩いて思いつき次第に右し左すれば随所に吾等を満足さするものがある」
「同じ路を引きかえして帰るは愚である。迷った処が今の武 蔵野に過ぎない。まさかに行暮れて困ることもあるまい。帰りもやはり凡そその方角をきめて、別な路を当てもなく歩くが妙。そうすると思わず落日の美観をうる事がある。日は富士の背に落ちんとして未だ全く落ちず、富士の中腹に群がる雲は黄金色に染まって、見るがうちに様々の形に変ずる。連山の頂は白銀の鎖のような雪が次第に遠く北に走て、終は暗澹たる雲のうちに没し てしまう」。(国木田独歩『武蔵野』)。

徳富盧花 烏山緑道 北沢川 緑道を歩く 2005年 11月 01日 火曜日

芦花の『自然と人生』から: 「余は斯(こ)の雑木林を愛す。木は楢(なら)、櫟(くぬぎ)、榛(はん)、櫨(はじ)など、猶(なお)多かるべし。大木稀にして、多くは切株より族生せる若木なり。下ばへは大抵奇麗(きれい)に払ひあり。稀に赤松黒松の挺然林(ていぜんりん)より秀でて翆蓋(すいがい)を碧空に翳(かざ)すあり。霜落ち て、大根ひく頃は、一林の黄 葉錦してまた楓林(ふうりん)を羨まず。 ・・・春来たりて、淡褐、淡緑、淡紅、淡紫、嫩黄(どんこう )など和(やわら)かなる色の限りを尽くせる新芽をつくる時は、何ぞ独り桜花に狂せむや。 青葉の頃其林中に入りて見よ。葉々日を帯びて、緑玉 、碧玉、頭上に蓋を綴れば、吾面も青く、もし仮睡(うたたね)せば夢又緑ならむ。・・・ 。 」武 蔵野の豊かな自然が彷彿とする。昔は一体どういっ た詩趣をもつ地だったのだろう。とはいいながら、国木田独歩の『武蔵野』の冒頭;「武蔵野の俤(おもか げ)は今僅かに入間郡(こおり)に残れり」と。これって明治37年頃の文章。今は今で、昔は昔で、そのまた「昔」の風情を懐かしむってわけ。これ世の習い。



佐藤春夫 寺家ふるさと村から市ヶ尾の古墳群に 2007年8月9日 木曜日

桐蔭学園入口交差点を越え、中里学園交差点に。佐藤春夫の「田園の憂鬱」由来の地の記念碑があった。いつだったか古本屋で『郊外の風景;樋口忠彦(教育出版)』という本を買った。その中で、「佐藤春夫の近郊の風景」という箇所があった。なんとなく「田園の憂鬱」のことを書いていたのでは、と思い本棚から取り出した。まさしくその通りであった。「田園の憂鬱」は大正5年の晩春から晩秋までの半年ほど居住した神奈川県都築郡の寒村の生活を回想したもの。このあたりの風景を描いたところをメモする。
主人公が移り住むのは、「広い武蔵野が既にその南端になって尽きるところ、それが漸くに山国の地勢に入ろうとするところにある、山の辺の草深い農村である」「それは、TとYとHとの大きな都市をすぐ六七里の隣にして、たとえば三つの劇(はげ)しい旋風(つむじかぜ)の境目にできた真空のように、世紀から置きっ放しにされ、世界からは忘れられ、文明からは押し流されて、しょんぼりと置かれているのである」「この丘つづき、空と、雑木林と、田と、畑と、雲雀と村は、実に小さな散文詩であった」「とにかく、この丘が彼の目をひいた。そうして彼はこの丘を非常に好きになっていた」「フェアリー・ランドの丘は、今日は紺碧の空に、女の脇腹のような線を一しおくっきりと。浮き出させて、美しい雲が、丘の高い部分に聳えて末広に茂った梢のところから、いとも軽々と浮いて出る。黄ばんだ赤茶けた色が泣きたいほど美しい。その丘が、今日又一倍彼の目を牽きつける」
『田園の憂鬱』ではないが、同じ頃書いた短編『西班牙(スペイン)犬の家』には、このあたりの雑木林を描いた箇所がある。メモする。「何でも一面の雑木林である。その雑木林はかなり深いようだ。正午に間もない優しい春の日ざしが、楡や樫や栗や白樺などの芽生したばかりの爽やかな葉の透間から、煙のように、また匂いのように流れ込んで、その幹や地面やの日かげと日向との加減が、ちょっと口では言えない種類の美しさである」、と。当時佐藤春夫が住んでいたという家の周りを映した写真があるが、まっこと純正の「田園」である。佐藤春夫というか主人公は多摩の丘陵や美しい雑木林で癒されていた、ようだ。急激な市街地化が起きる前の、ほんとうに静かな田園の景観が目に浮かぶ。ちなみに上でメモしたTは東京、Yは横浜、Hは八王子である。

村尾嘉陵 「小金牧」と「小金城址」を辿る 2007年4月11日水曜日

常磐線・南柏で下車。水戸街道を越えたあたりに「野馬土手」がある。「小金の牧」を歩こう、とはいうものの、柏や松戸といった都市に放牧場が残っているわけでもないだろう。牧の名残としては実際のところ、なにがあるのだろう、と思っていた。偶然のことながら、先回散歩のとき、松戸の駅で手に入れた観光パンフレットに、南柏の「野馬土手」が案内されていた。野馬土手は野馬除土手とも呼ばれる。野馬が牧の外に出て、人家や田畠を荒らさないようにと、つくられたもの。牧の名残りの一端でも感じることができれば、と南柏にやって来た。
「小金の牧」のことを知ったのは件(くだんの)の書・『江戸近郊ウォーク』。「小金の牧道くさ 下総国分寺」散歩随想の箇所があった。大江戸の散歩の達人・村尾嘉陵が、わざわざ訪ねきた「小金の牧」ってどんなところなのか気になっていた。文化14年(1817)の早朝に屋敷を出て小金牧を訪ねた、とある。 「松戸渡し、向ひにわたれば松戸宿、人家四五百戸...」と、江戸川の松戸の渡しより松戸宿へ。さらに、馬橋村(まばしむら・松戸市)などを経て向小金村(むこうこがねむら・流山市)の小金牧に歩いてきたわけだ。
『江戸近郊ウォーク』より小金牧の箇所をちょっとまとめる;「牧が7つある。水戸街道の北を上の牧。ヘイビ(蛇?)沢原、高田台(柏市高田辺り)、大田原。水戸街道の南を下の牧。日ぐらし山(松戸市日暮:白子についで多く馬100頭ほど)、五助原(船橋の台地)、平塚(印旛郡白井町)、白子(松戸の宿の東にあたり;500頭ぐらいの馬がいる)。西は船橋、中山、国府台、松戸、馬橋辺りの山を境にする。東南は下総佐倉の手前辺りを境として馬を放しているのだろう。上の牧は下の牧に比べてやや小さいと思われるが、確かなことはわからない。(中略)野馬は宵から暁にかけては、街道近くまで来て、人に馴れているような仕種を見せるが、昼間は人の近くには来ない。下の牧の中には、東北の果てに木立の茂っている山が見えるが、昼はその山に集まっている。この辺りには狼もいないので、馬が食われる心配はない。下の牧には追い込みの枡が3箇所。毎年11月15日過ぎに、江戸から吉川摂津守が来て、馬狩りをおこなう。牧師は全員ここに滞在し、毎日牧を見廻って損馬を改め、頭数を調べて台帳に記す。上・下合わせて1500、1600頭程度馬がいる。牧の入口に木戸がある。土居を築いて土に竹を植えて、里の牧との境としている。木戸に入ると小金の牧。」、と。南柏のこの野馬土手って柏市豊四季。千葉県流山市松ヶ丘との境界でもあるので、だいたいこのあたりを訪ねてきたのではなかろう、か。


巽聖歌  鷺宮・上高田・青梅街道・本町地区 2006年 10月 30日 月曜日

上高田4丁目から少し駅方面へと台地をのぼり、上高田3丁目に。3丁目―26-17に鈴木家の屋敷。江戸時代の上高田の 名主さま。鈴木家の「垣根」は、あの「たきび」の歌のモデル、とか。上高田4丁目に住んでいた巽聖歌(本名;野村七蔵)が、このお屋敷のあたりを散歩して いるときに詩情を湧かせた、と:
1 垣根の 垣根の 曲がり角
  焚き火だ 焚き火だ 落ち葉焚き
  あたろうか あたろうよ
  北風ピープー 吹いている
2 山茶花 山茶花 咲いた道
  焚き火だ 焚き火だ 落ち葉焚き
  あたろうか あたろうよ
  しもやけおててが もう痒い

 


鈴木理生
 さいたま:岩槻を歩く 2007年5月 29日火曜日

前々から結構気になっていた神社。最初にこの神社の名前を知ったのは、鈴木理生さんの『幻の江戸百年:鈴木理生(ちくまライブラ リー)』。関東における神社の祭祀圏がクッキリとわかれ描かれていた。利根川から東は香取神社。利根川の西の大宮台地・武蔵野台地部には氷川神社。この香 取・氷川の二大祭祀圏に挟まれた元荒川の流域に80近い久伊豆神社が分布する。香取神社の祭神はフツヌシノオオカミ(経津主大神)。荒ぶる出雲の神・オオ クニヌシ(大国主命)を平定するために出向いた神。氷川神社の祭神はスサノオ・オオナムチ(オオクニヌシ;大国主命)・クシナダヒメといった出雲系の神 々。が、この久伊豆神社の由来はよくわからない、と。神社に行けば何か分かるかと、期待しながら歩を進める。


鈴木理生 東松山城と吉見百穴を辿る 2009年 3月 06日 金曜日,

稲荷神社って、全国で3万とも4万ともあると言われる。神社の中では最も多い。「稲成り」、として農業の神さま、また、「居成り」として国替えを逃れ、領地安泰を願う武家の屋敷神として敬われたのであろう。
散歩の道々、お稲荷さんによく出合う。が、いまひとつよくわからない。鈴木理生さんの『江戸の町は骨だらけ(桜桃書房)』によれば、イナリには神様系と仏様 系がある、と言う。神様系は伏見稲荷の流れ。京都伏見区稲荷山の西麓にある。有力帰化人である秦氏の守り神。狐が眷属となっているのは、狐は害虫を食べて くれる、から。稲の稔りの「守護神」としては如何にもわかりやすい。
仏様系とは京都の東寺の流れ。東寺建設の折、秦氏が稲荷山の木材を提供したこ とを謝し、稲荷神を東寺の守護神とした。仏教の荼枳尼天(だきにてん)が狐に跨がっていたということも関係したのか、荼枳尼天が稲荷神と習合。真言宗の普 及とともにお稲荷様も全国に広がっていった、とか。豊川稲荷がこれにあたる。

 
樋口忠彦 熊野散歩_2;那智熊野大社 2005年 11月 24日 木曜日,

 那智の大滝をとりまく、那智熊野の景観について樋口忠彦さんが書いた本、『日本の景観(ちくま学術文庫)』を読んだことがある。那智の風土を景観の観点からまとめた箇所があった。メモを以下まとめておく;
1.那智熊野の景観を隠国型景観と呼ぶ
2. 上代の土着計画としては、安住の地を求めて、水の音を慕って、川上へ遡った。上流遡行;精神の高揚感;日本の川は滝のよう>より遡行の感覚が明確になる。 この高揚感は遡った奥に別天地が開けるのでは、という期待感>水分神(みくまりのかみ;水の恵みを配ってくれる神)を中心とした安住の地であるとともに死 者の霊が上昇し昇華していく聖なる場所。
3.柳田邦夫;曽ては我々はこの現世の終わりに、小闇く寂かなる谷の奥に送られて、そこであらゆる汚濁と 別れ去り、高く昇つて行くものと考へられていたらしいのである。我々の祖霊は既に清まって、青雲たなびく嶺の上に休らひ、遠く国原を眺め見おろして居るよ うに、以前の人たちは想像して居た。それが氏神の祭りに先だって、まづ山宮の行事を営まうとした、最初の趣旨であったように私は思はれるのである。
4.山沿いの集落、そこを流れる川を上流に遡った小闇く寂かなる谷の奥の山宮、自分たちの集落のある国原を眺め見下ろすことのできる秀でた峰の霊山、これがセットになって、この世とあの世の共存する安住・定住の景観が成立。
5.谷はこの世からあの世に至る通路。谷の奥は現世とあの世の境目。こうった谷の奥の景観=隠国の景観;隠国=もとは、両側から山が迫っているこもった所、の意味。
6. 那智湾に面する浜の宮から、そこに注ぎ込む那智川の深い谷を上流に約6キロほど遡った谷の尽きる所に那智滝があり、其の近くに青岸渡寺、那智大社がある。 滝により、奥まった景観が形成。那智の滝の上流は妙法山。秀麗な山谷・滝・山の1セットで死霊が送られる隠国型の空間。妙法山;死者を送るときに用いられ る「しきみ」が積み重なってできた山、とか、日本中の霊が集まってくる山、とも
7.五来重氏;熊野は「死者の国」:死者の霊魂が山ふかくかくれこ もれるところはすべて「くまの」とよぶにふさわしい。出雲で神々の死を「八十くまでに隠りましぬ」と表現した「くまで」、「くまど」または「くまじ」は死 者の霊魂の隠るところで、冥土の古語である。これは万葉にしばしば死者の隠るところとしてうたわれる「隠国」とおなじで熊野は「隠野」であったろう。
8.海、谷、滝、山のセット;古代日本の他界観。山の奥から天に昇る
①海岸の洞窟などに葬られて、そこから舟に乗って海の向こうの補陀落へ行く
②熊野にはこのふたつが並存
③隠国型景観=谷の景観:宗教的空間の性格が強い。
集 落の周辺の奥まったところが死者を葬るところにふさわしい。其の場所の上方に秀麗な山が存在するなら、死者はそこから他界に昇ってゆく。あるいは、そこか ら祖霊として村人たちを見守るというイメージ。安息に満ちた生と死のイメージの基礎となり日本人の心に安らぎをあたえ続けてきた。
この本を読んだときには、こんなところで・こんなかたちで役に立つとは想像もしなかった。海、谷、滝、山のトータルコーディネーションによる那智=観音浄土のイメージ戦略、大いに納得。

 
北原白秋 「小岩市川の渡し」から元佐倉道を下り、中央部・東部を歩く 2006年 6月 24日 土曜日

堤防脇の道を北に進む。八幡神社。北原白秋の歌碑がある。大正5年から1年間、小岩村三谷に住む。その住居を「紫烟(し えん)草舎」と呼ぶ。紫えん草舎は現在は市川にある。が、小岩を愛した白秋を偲んで、地元の人が八幡さまの境内にこの歌碑を作った。「いつしかに 夏のあ われとなりにけり 乾草小屋の桃色の月」。北原白秋もいろんなところに顔をだす。生涯に何度引越ししたのだろう、か。

北原白秋 千葉:市川・国府台に遊ぶ 2007年 3月 22日 木曜日

坂を登りきり、「里見公園入口」に。この公園には戦時中、高射砲陣地があった。また陸軍司令部を建設中に終戦となり、その後昭和34年に里美公園となった、とか。城址に向かう。といっても、これといった案内も見つからなかったので、成行きで崖の方に進む。
「紫 烟草舎」が登場。あれ、これって、白秋の住まい跡。昨年、小岩を歩いていたとき、北小岩8丁目の八幡神社に白秋の歌碑があった。そのとき、小岩にあった住 まいが江戸川の改修工事にひっかかり、市川に移した、ってことをメモした。それがこの「紫烟草舎」。ここで出会うとは予想外の展開。白秋ファンとしては望 外の喜び。
ちょっと調べると、小岩に移る前にはもともと市川・真間に住んでいた、とか。大正5年、真間の亀井院の庫裏に、江口章子と暮らしてい た、と。「葛飾閑吟集」には『葛飾の真間の手児奈が跡どころその水の辺のうきぐさの花』などの歌を残している。小岩に移ったのはその後のこと。1年2ヵ月 ほど小岩で暮らした、よう。その住まい「紫烟草舎」が上記理由により、この地に移った。真間と小岩で暮らした生活は、白秋の人生や詩作の転機になったとい われ、『白秋小品』『童心』『雀の卵』『雀の生活』『白秋小唄集』『二十虹』などの作品として残されている。
ちょっと寄り道。江口章子と暮らした この時期は白秋の再生の時期だった、とも。『邪宗門』で一躍時代の寵児となった白秋が、隣家の人妻・松下俊子と恋に落ち、姦通罪で拘置され、一瞬のうちに その地位・名誉を失う。「城ヶ島の雨」はそういった、傷心の時期に詠まれたもの。そう思えば、この歌詞の味合いも、ちょっと違ってくる、かも;「雨はふる ふる 城ヶ島の磯に 利休鼠の雨がふる雨は真珠か 夜明けの霧か それともわたしの忍び泣き船はゆくゆく 通り矢のはなを ぬれて帆上げたぬしの舟ええ  舟は櫓でやる 櫓は唄でやる 唄は船頭さんの心意気雨はふるふる 日はうす曇る 舟はゆくゆく帆がかすむ」。
ともあれ、松下俊子と結婚するも、そ れも長く続かず、その離婚をまって江口章子と結婚することになる。この真間・小岩でのふたりの関係も長くはつづかず、念願の洋館を小田原に建てたころには 江口章子は白秋のもとを去ることになる。その後、谷崎潤三郎のもとに走るなど、江口章子の「人生」をメモしはじめたキリがない。このあたりで散歩に戻る。

 
宮本常一  府中・国立散歩;崖線と湧水 2007年 6月 26日 火曜日

展示ホールに。「宮本常一生誕100年記念事業;宮本常一の足跡」という特別展示が行われていた。入口で宮本常一氏の足跡をたどった30分のビデオ放映。 大雑把にまとめる;広島県の瀬戸内に浮かぶ周防大島の生まれ。教師になるべく、大阪の高等師範学校に。徴兵で大阪の8連隊に入営。
8連隊といえば、子供の頃父親に「大阪の8連隊はあまり強くなく、また負けたか8連隊」といったせりふが言われていたと、聞いたことがある。事実かどうか定かではない。ともあれ、この8連隊に入隊しているとき同期の人から民俗学のことを教わった、と。
除 隊後、小学校の教員。このとき田舎の周防大島のことを書いた原稿が民俗学者・柳田國男の目にとまる。同好の士を紹介され研鑽に励む。渋沢敬三氏の突然の来 訪。敬三氏は渋沢栄一の孫として、第一銀行の役員といった実業界での要職とともに、民俗学者としても活躍。宮本氏は渋沢敬三氏の援助もあり、大阪から東京 に上京。敬三氏の邸内のアチック(屋根裏部屋)・ミュウジアム、後の「常民文化研究所」の研究員となる。

宮本常一は旅する民俗学者として 有名。生涯に歩いた距離は16万キロにもおよぶという。全国各地を旅し、フィールドワークを行い、地元の古老から聞き書きをし、貴重な記録をまとめあげ る。著作物も刊行し、実績もあげる。が、第二次世界大戦。渋沢邸も焼け、大阪の自宅も焼失。膨大な量のノートが消え去ったと。戦後は民俗学者というだけで なく、農林振興・離島振興に尽力。また、佐渡の鬼太鼓座とか周防の猿まわしといった芸能の復活にも尽力した。

後半生は武蔵野美術大学の教授、日本観光文化研究所(近畿日本ツーリスト)の所長として後身の育成に努める。ちなみに、研究所発行の月刊誌『あるくみるきく』のサンプルにおおいに惹かれる。どこかで実物を手に入れたい。
で、 宮本氏と府中との関係は、昭和36年からなくなるまでの20年、自宅を府中に置いたこと。また、郷土の森博物館の建設計画にも参与した、と。著作物には 『忘れられた日本人』など多数。未来社から『宮本常一著作集』が現在まで50巻刊行。すべてをカバーすると100巻にもなるという。

素敵なる人物でありました。歴史学者・網野善彦さんも『忘れられた日本人』についての評論を書いている。30分の紹介ビデオでも網野さんからの宮本常一さんに対するオマージュといったコメントもなされていた。
網野さんは『無縁・苦界・楽;平凡社』以来のファン。網野さんが大いに「良し」とする人物であれば本物に違いない。更に惹かれる。ちなみに網野さんは宗教学者の中澤新一さんの叔父さんにあたる。その交流は『ぼくのおじさん;集英社』に詳しい。

特 別展示を眺め、関連図書を購入。買い求めた『忘れられた日本人を旅する;宮本常一の軌跡;木村哲也(河出書房新社)』を、帰りの電車で読んでいると、その 本文に司馬遼太郎さんの宮本常一さんに対するコメントがあった;「宮本さんは、地面を空気のように動きながら、歩いて、歩き去りました。日本の人と山河を この人ほどたしかな目で見た人はすくないと思います」、と。折に触れ著作物を読んでみたい。手始めに『忘れられた日本人』『塩の道』あたりを購入しよう。

 
宮本常一  塩の道・千国街道散歩_(1)千国越え 2009年 6月 16日 火曜日,
コースは決まった。で、「道行きの日」ということになるのだが、さすがに初雪の峠越えは少々怖い、ということで、年を越し気候もよくなる5月ということに した。出発まで半年の準備期間。いきあたりばったりのお散歩を身上としているわが身には少々「まだるっこしい」のだが、宮本常一さんの『塩の道(講談社学 術文庫)』(講談社刊の『道の文化』でも同じ記事を読んだ)を読んだり、『北アルプス 小谷ものがたり;尾沢健造他(信濃路)』を読んだり、『塩の道を探 る;富岡儀八(岩波新書)』を読んだり、道があまり整備されていないかも、との恐れゆえGarmin社のGPS専用端末を購入したり、熊がでるかも、との 恐れゆえ3000円ほど投資し、スイスのアーミーナイフ・VICTORINOXを購入し、熊と戦うシミュレーションを繰り返し行うなど、それなりに熟成期 間を楽しみ出発の日を迎えた。



赤松宗旦 印旛沼を歩く;その参 2007 911日 火曜日

二の郭から土橋を通り主郭に向かう。虎口を抜け主郭跡に。ここも公園となっている。主郭からの眺めは素晴らしい。印旛沼が一望のもと。昔は沼は台地下まで迫っていたのであろう。事実、いつだったか古本屋で買い求めた『利根川図志;赤松宗旦(岩波文庫)』に、安政年間(19世紀中頃)の臼井城のイラストが掲載されているが、確かにお城の台地下まで印旛沼が迫っている。
臼井城は、14世紀中頃に中世城郭としての形を整えたと言われる。臼井氏中興の祖と言われる臼井興胤の頃である。東西1キロ、南北2キロであった、とか。その後16世紀中頃には原氏が臼井城主となる。原氏が臼井氏の嫡子への後見役となったことがそのきっかけ、かと。原氏とは、上でメモしたように、馬加氏とともに千葉宗家を滅ぼした、あの原氏である。
城の主となった原氏は城の機能を拡充。戦国時代には、小田原北条氏の幕下に入り千葉氏をも凌ぐ勢力となる。永禄9年(1566)には上杉謙信の臼井城攻撃を撃退している。が、天正18年(15907月に原氏は北条氏とともに滅亡。翌8月には臼井城に徳川家康の家臣酒井家次が入城。文禄2年(1593年)に出火・消滅。その後、慶長9年(1604)、家次が上野国高崎に転封され臼井城は廃城 となった。



唐木順三 鎌倉散歩 (1):天園ハイキングコースから亀ケ谷・化粧坂切通しへ 2005年 9月6日 火曜日

本棚を探し唐木順三さんの『あづま みちのく』を取り出した。大学生の頃読んだ本である。中に、「頼朝の長女」という記述がある。これって、つまりは、鎌倉・岩船地蔵尊で出会った大姫のこと。「頼朝の娘・大姫の守り本尊と伝えられている。木曾義仲の長男義高に嫁いだ大姫は、父・源頼朝に夫を殺され自らも命を絶つ。その悲恋は「吾妻鏡」に記されている。」と簡単にメモした。が、「頼朝の長女」を読んで、簡単なメモではなく、ちょっとまとめておこうと思った。


佐江 衆一・栗田勇 熊野散歩6;一遍上人  2005年 11月29日 火曜日

いつだったか、佐江 衆一さんの書いた一遍上人の本を読んだことがある。『わが屍は野に捨てよ-一遍遊行,(佐江 衆一, 新潮社)』)という本。きっかけは、これもいつだったか埼玉の狭山丘陵を散歩しているとき時宗のお寺があったから。お寺に興味をもったわけではない。時 宗=開祖一遍上人、ということ。

とはいうものの、一遍上人って、一体どういう人物かよくしらない。で、前々から気にはなっていた栗田勇さんの『一遍上人』を探した。が、なかなか見つからない。そうこうしているうちに、どこかを散歩しているとき、ふと立ち寄った古本屋で見つけたのが佐江さんの本。

読 んでみた。一遍上人って伊予・愛媛の人。身近に感じた。読み終えた。その後、しばらくして書店で栗田勇さんの『一遍上人』も手に入れた。文庫版になってい た。読み終えた。なんとなく一遍さんとか時宗について、「つかんだ」。で今回の熊野。一遍上人が大きく登場してきた。時空散歩がつながった。



中里介山 古甲州道;大菩薩峠を越える 2009年8月14日 金曜日

歩き始めるとほどなく中里介山の文学碑。1.5mの五輪塔には「上求菩薩下化衆生」、と。「上求菩薩、下化衆生」は仏教の教義を意味する。上求菩薩とは、悟 りを求めて厳しい修行を行うこと。下化衆生とは、慈悲を持って他の衆生に救済の手を差し伸べること。仏の道を目指すものはこれら両方を合わせて修得すべき こととされている。 この文学碑は未完の長編小説『大菩薩峠』を記念するもの。「大菩薩峠(だいぼさつとうげ)は江戸を西に距(さ)る三十里、甲州 裏街道が甲斐国(かいのくに)東山梨郡|萩原(はぎわら)村に入って、その最も高く最も険(けわ)しきところ、上下八里にまたがる難所がそれです。   標高六千四百尺、昔、貴き聖(ひじり)が、この嶺(みね)の頂(いただき)に立って、東に落つる水も清かれ、西に落つる水も清かれと祈って、菩薩の像を埋 (う)めて置いた、それから東に落つる水は多摩川となり、西に流るるは笛吹(ふえふき)川となり、いずれも流れの末永く人を湿(うる)おし田を実(みの) らすと申し伝えられてあります。


井伏鱒二 寄居に鉢形城を訪ねる 2007年6月13日 水曜日 

『武州鉢形城』より;少し高みの諏訪曲輪の跡にのぼると線路があって電車が通りすぎた。城内を八高線が通過しているわけである。この曲輪には、諏訪神社という祠の前に大きな欅の木がある。鉢形合戦のとき、この曲輪へ徳川方の本多忠勝が車山から大砲で最初の一発を打ち込んだ。車山は真南の方角に少し霞んで見えていた。 「運転手さん、ここから車山まで、一千メートルの上もあるだろうか。一千百か二百ぐらいだろうか。」 「さあ、まだそれとは云わないでしょう。恰好がいい山は、近くに見えるんでしょうか。遠くに見えるんでしょうか。二千メートルに近いんじゃないでしょうか。一千七八百ぐらいですかね。」 「鉢形合戦時代の大砲は、一千七八百メートルも飛んだろうか。あの山から、この曲輪に撃ち込んでいるのだからね。」 「しかし、いいところ一千九百ですね。 先日、古本屋で見つけた井伏鱒二さんの『武州鉢形城』の一節。鉢形城の落城の様子が静かに、しかし迫力をもって描かれている。


十方庵敬順 志村・板橋・常盤台を歩く 2006年7月2日 金曜日

 中山道を南に下る。首都高速5号・池袋線と合流。少し南に歩き、稲荷通り商店街を西に入る。少し進むと清水稲荷神社。由緒書をメモ;創立年代不詳。十方庵敬順の『遊歴雑記』に「老親飲めば美酒、その子飲む時は清水なり、彼地を呼んで酒泉澗といい、後に清水村とあらためけるとなむ」とある。当時一丈 ばかりの高台に祀られていた小祠が、当稲荷神社であり、後世、中山道の支道の当地に移転され、古来清水村の鎮守として尊崇を集め伝統を守って今日に至る、 と。酒泉澗があったのは、この神社の少し北、志村第一小学校近くの清水児童公園あたり(泉町24)。出井川の源流点がここ、のはず。

十方庵敬順 日光街道・千住宿を歩く  2009年11月1日 日曜日   
悠々自適の隠居のお坊さん・十方庵敬順がたっぷりの余暇を生かし江戸近郊を散策し表した『遊暦雑記』には、牛田を愛でる記事がある。「此の双方の堤(掃部堤、 隅田堤)の眺望風色言わん方なく、なかんづく遥かに南面すれば綾瀬川のうねりて、右に関屋の里を見渡す勝景、天然にして論なし(『足立の史話』)」、と。 想えども、描けども、その景観は現れず。



田山花袋 中川水系の合流点 2007年5月30日 水曜日 

「日郊の特色が丘陵、雑木林、霜、風の音、日影、氷などであるのに引きかえて、東郊は、蘆荻、帆影、川に臨んだ堤、平蕪などであるのは面白い。これだけでも地形が夥しく変わっていることを思わなければならない。林の美、若葉の美などは、東郊は到底西郊と比すべくもない。その代わりに、水郷の美、沼沢の美は西郊に見ることの出来ないものである。 荒川と中川と小利根と、この三つは東郊の中心を成している。林がない代わりに、欅の並木があり、丘陵のない代わりに、折れ曲がって流れている川がある。あんなところに川があるかと思われるばかりに、白帆が緩やかに動いていったりする。 蘆荻には夏は剖葦が鳴いて、魚を釣る人の釣り竿に大きな鯉が金色を放って光る。(『東京近郊一日の行楽(田山花袋)』より)」。まことにゆったりとした一日の行楽を楽しんだ。



永井荷風 市川・元八幡から大町の谷津に遊ぶ 2007年3月26日 

月曜日 数ヶ月前池袋・雑司が谷近く、明治通り沿いの古本屋で見つけた『永井荷風の東京空間;松本哉(河出書房新社)』の中にこうった記述がある;「この流のいづこを過ぎて、いづこに行くものか、その道筋を見きわめたい」とずっと辿っていった、という。そのときの有様を晩年の最高傑作と言われる随筆『葛飾土産』に書いている。 「片側(東端)は江戸川に注ぎ、もう一方(南端)は海に注ぐ真間川はいったいとっちに向いて流れているのか、ボクが抱いた興味はそれでした。どちらも水の出口。北の方から流れ込んでくる支流の水を双方に流していることに気づきます。しかし、実際に辿ってみると、予想通り、そんな簡単なものではありませんでした。支流との合流点でもなんでもないところで突如流れの向きを変えているのです。やはり「川は生きもの」。こういう不思議な流れ方を見届けたのがボクの「葛飾土産」でした(『葛飾土産』)」。  荷風も疑問を抱いた、北も南も、どちらも水の出口、っていうのは、改修工事の結果であった。昔は、国分川とか大柏川といった流れを集めて江戸川に流れ込んでいたのだが、排水をよくし洪水を防ぐため、海沿いの砂州を切り開き東京湾に流れる人工の法水路をつくったわけだ。その結果、川の流れが西ではなく東と言うか南というか、ともあ

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