千川上水散歩の二回目は中村橋から巣鴨の千川上水浄水場跡まで。途中、南長崎での尾根道乗り換えなど、地形フリークとしては面白いルートである。川は高きから低きに流れる。川が曲がるのは、その先に高みがあるから。川は高みを避けて迂回する。一方、用水・上水路は地形の高きところを縫って進む。宅地がなく自然の地形のままなら、尾根道ではあろう。
尾根道は往々にして川筋の分水界となる。千川上水は北の石神井川水系、南の神田川水系(妙正寺川や善福寺川なども)を分ける尾根道を進む。千川上水も北へ、南へと分水し地域を潤し、余水を石神井川や妙正寺川に流す。右に石神井川、左に妙正寺川の谷筋を意識しながら、千川上水の水路跡に沿って、武蔵野台地の尾根筋を歩くことにする。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)
本日のルート;西武池袋線・中村橋>千川通り>穴守稲荷神社>都道420号>西武池袋線交差>千川親水公園>要町3丁目交差点>板橋高等学校>板橋交通公園>川越街道>大山商店街>頭部東上線>東京都老人総合研究所>区立板橋第一中学校>板橋税務署>山手通り>板橋区役所>中山道>板橋郵便局>JR板橋駅>明治通り・堀割交差点>千川上水公園
西武池袋線中村橋
中村橋駅で下り千川通りに向かう。桜並木を少し進むと大山不動の慎ましやかな祠が佇む。相模の伊勢原にある大山詣への旅立ちに、水垢離で身を清め道中の安全を祈ったのであろう。練馬の大山道は、練馬区北町1丁目の旧川越街道から別れ、春日や高松あたりから谷原を経て北東から南西に延びる。現在その道筋は環八以西には一部、富士街道として残る。ということは、このあたりから大山道への支道があったのだろう、か。また、大山不動の近くには中村分水口があり、南に下り水田を潤した。
首つぎ地蔵
先に進み目白通りの手前、通りの南を少し下ったところに首つぎ地蔵や良弁塚、南蔵院がある。良弁塚(中村3-11)は南蔵院開基の良弁僧都が経典を埋めたところ。住宅街の片隅、鉄柵で保護された緑の中に、良弁廻国供養塔や七面七観音石塔、そして庚申塚が残っていた。少し南に下り、首つぎ地蔵の祠。中村南八幡神社の北にある。昭和の初め、信心深いふたりが見た夢をきっかけに離ればなれになっていたお地蔵様の首と胴体が繋がった、とのこと。折からの不況、首がつながる、と人々の信仰を集めた、と。中村南八幡は江戸の頃より、この地中村の産土神。境内の水盥には卍印が残る。卍って、如何にも仏教的。神仏混淆の名残であろう。
神社を離れ東に進み南蔵院に。良弁僧都が経塚を築き民衆を教化したのが寺の始まり。本堂、閻魔堂、薬師堂など、趣きのあるお寺さま。特に楼門、そして長屋門が印象に残る。南蔵院から東に進み学田公園に。明治の頃、村で学校を開くが資金不足。ために中新井川の水源であった池を開墾し水田とし資金を賄った。学田と呼ばれる所以である。現在は学田公園となっているが、公園脇を南に水路跡とおぼし道筋があった。中新井川の上流端あたりであろう。
そばくい地蔵
大急ぎで千川通りに戻る。豊玉北6丁目交差殿で目白通りを越え豊島園通り交差点に。交差点を少し北に上ったところに白山神社と十一ヵ寺、そして、そばくい地蔵がある。西武線の高架下を潜り成り行きで北に上り白山神社に。樹齢700年との800年とも伝わる大けやき。往古、このあたりには南北を結ぶ往還があったようで、このけやきも源義家が奥州征伐の途次奉納した苗がもと、と伝わる。
成り行きで少し北にすすみ十一ヵ寺域に。これら十一の寺は浅草の誓願寺の塔頭。誓願寺は江戸の頃、朱印300石を与えられ大名、御用商人が塔頭を宿坊として外護(特別に保護)した。関東大震災の後、この地に移ってきた。
寺域の中、九品院の脇にそばくい地蔵。江戸の頃、毎夜蕎麦を食べに来る僧がいた。仏心篤き主人は代金を頂戴することはなかった。とはいうものの、毎夜のことであるので少々素性をあやしみ、ある夜、僧の後を付けると西慶院の前で忽然と姿を消す。その夜、そばやの主人の夢枕に僧が現れ、「我は西慶院地蔵。汝の功徳に報いるため一家の諸難を退散せしめん」、と。その後江戸に疫病が蔓延したときも、この蕎麦屋一家は息災に過ごせた。その噂が広まり、庶民は西慶院地蔵を篤く信仰し、大願成就の折には蕎麦を奉納した。そばくい地蔵の由来である。
千川上水散歩のつもりが、少々道草が多い。とはいうものの、国木田独歩の『武蔵野』の一節に「武蔵野に散歩する人は、道に迷うことを苦にしてはならない。どの路でも足の向くほうへ行けば必ず其処に見るべく、感ずべき獲物がある。(中略)同じ路を引きかえして帰るは愚である。迷った処が今の武 蔵野に過ぎない。まさかに行暮れて困ることもあるまい。帰りもやはり凡そその方角をきめて、別な路を当てもなく歩くが妙。そうすると思わず落日の美観をうる事がある(略)」、とある。とりあえず、すべて成り行きで散歩を楽しむべし。
筋違橋
千川通りに戻る。豊島園通り交差点の少し東に北西に向かう小径が別れるが、これは石神井川からの揚水路跡。千川上水の下流にある工場の工業用水の水量を維持するため石神井川からポンプアップし千川に導水していたようである。石神井川から直接取ればいいようなものではあるが、雨が降ると泥で汚れる石神井川の水では不都合と、この地で揚水していた、とのことである。文化センター入口交差点に進む。この交差点に向かって目白通り練馬警察南交差点から斜めに上ってくる道がある。この道は昔の新井薬師道。地図を見ると、中野にある新井薬師に向かって北西から南東に向かって続く道があるが、これって新井薬師道の名残であろう、か。前々から、この斜めに走る道に少々の「ノイズ」を感じていたのだが、新井薬師道跡、と言われれば納得できる。
文化センター交差点を超えたあたりに筋違橋があった。橋の袂にあった橋供養正(聖)観音は通り南にある大鳥神社そばの東神社に移されている。通りを離れ町屋の中に佇む大鳥神社と東神社にお詣りし通りに戻る。
清戸道
西武池袋線練馬駅前交差点を越えると再び桜並木が現れる。道脇に「清戸道と千川上水」の案内。清戸道は文京区関口の江戸川橋を起点に、武蔵国多摩郡清戸村(現在の清瀬市清戸)を結ぶ道。清戸村にあった尾張藩の鷹場への道、とも言われるが、近郊の野菜を江戸に運ぶ道として使われた。距離が20キロ強、といったものであり、夜明けに村を発ち、大江戸に野菜を運び、その日の内に村に帰るのに丁度いい距離であった、とか。帰り道には江戸野町の下肥を引き取って村に運ぶため、尾籠な話で恐縮ではあるが、別名「汚穢(おわい)道」とも呼ばれた。
道筋は、江戸川橋から椿山荘へと上り、目白通りの道筋を進む。山手通りを越えた先、中落合郵便局あたりで右に別れ、目白通りに平行に進み中野通りに交差するところで千川通りに入る。西武池袋線と平行に千川通りを進み、環七通りを越え西武池袋線・練馬駅の先の豊玉北6丁目交差点で再び目白通りに合流。
西武線を越え、中杉通りとの合流の少し手前で右にわかれ、向山を北西に登り石神井川を渡った先で再び目白通りと合流。笹目通りを越え、谷原小交差点先で目白通りから左に分岐、都道24号線に沿って清瀬へと向かう。
中新井分水
桜台駅前交差点を越える。標高39m。その昔ここには三枚の石からなる三枚橋が架かっており、その下流からは中新井分水(下新街分水、桜台分水、弁天分水、とも)が引かれていた。桜並木の中にある桜の碑(桜台1丁目4番)を見やりながら進み環七に。環七桜台陸橋を渡った西側には下練馬分水があり、この地から北に流れ下練馬の村を潤し石神井川に注いでいた、とのこと。また、環七を少し東に進んだところにも中新井分水があり、武蔵学園の構内を通り南に下っていた。濯(すすぎ)川と呼ばれていたその流路は構内に残る。中新井分水はこの地を潤し中新井川(江古田川)に注ぐ。
武蔵野稲荷神社
武蔵学園正門から少し東に行った千川通り北に武蔵野稲荷神社。境内に小高い塚があり、円形古墳跡とも言われているが、それはともあれ、その周囲の空堀には千川上水からの水が引かれていた。境内は随神門があったり、大黒様があったり、天神様があったりと、なんとなくよく見るお稲荷さまと趣が異なる。正面拝殿もお稲荷さま、という雰囲気でもない。現在この地は天理教系の日の本神誠講の本部ともなっており、そのことも全体の雰囲気それなりの影響をあたえているのだろう、か。
『練馬区の歴史;練馬郷土史研究会(名著出版)』に、この神社は子育稲荷としても知られる、とあった。南を通る清戸道に棲み着いたいたずら狐の子狐がなくなったとき、篤くとむらい、こどもがすこやかに育つよう子守塚をつくった。それがいつしか子育稲荷、といことのようであるが、それらしきお稲荷様は見つからなかった。
浅間神社
西武池袋線江古田駅の北に浅間神社がある。往古、この辺りは一面の茅原であったため、茅原浅間神社と呼ばれていた。境内に富士塚があるため、富士浅間神社とも呼ばれ、冨士講の信者に信仰された、と言う。富士塚は富士の溶岩を持ち帰り造った人造の塚。江古田富士とも呼ばれ、国の重要有形民俗文化財に指定されている。
境内の駅よりのところには千川堤植桜楓碑。下練馬村など近隣の村民が大正天皇の即位を祝い、千川沿いに7キロ、千六百本ほどのソメイヨシノとカエデを植えたことを記念したもの。元々は千川沿いに建てられたが、暗渠工事に際しこの地に移された。参道も千川通りから続いていたようだが、西武線江古田駅建設の際に分断されてしまった。
江古田分水
江古田駅南口、現在は五叉路となっているが昔の江古田二又と呼ばれたところを越え、西武線を越えた北に能満寺。元和年間、と言うから縁起によれば17世紀の前半、「夏に雪が降り広い美しい原がある」と聞いた僧侶がこの地を訪れ堂宇を建てた、と。境内には古き風情の大日堂が建つ。境内にある千川延命地蔵は、大正年間に行われた千川の川浚いで見つかったもの、と言う。能満寺から千川通りに戻ったあたり、旭町1丁目38と45の間の小径は昔の江古田分水の水路跡。南に流れて水田を潤し、中新井川(江古田川)に注ぐ。江古田川、と言えば、その川は西武池袋線江古田駅からはるか遠く離れたところを流れる。そもそも、練馬の江古田駅付近には江古田という地名はなく、南に下った中野区にある。江古田川が流れるあたりである。千川通りの北側一帯はその昔、江古田新田と呼ばれていた。中野にある江古田の新田といったものであったのだろう。ちなみに江古田の由来は、古い田圃、荏胡麻、エゴの木、抉れる、等々諸説あり、定説なし。また、読みも「エコタ、エコダ、エゴタ、エコダ」など、これまた確定できないよう、だ。
道を進み、少し北に入ったところに千川子育稲荷(旭丘1丁目37)。誠に誠にささやかな祠が路地に佇む。元は千川上水脇にあったものが移され。子供の夜泣きに御利益があった、とか。千川通りに戻り更に先に進むと道脇に赤い鳥居。とりあえず左に折れ少し北に進むと民家の壁に張り付くように鳥居があり、そこに立つ赤い幟に穴守稲荷()とあった。雨や風がつくる穴なの街から田畑を守るのが名前の由来、とか。羽田空港近くに穴守稲荷駅という京急の駅があり、その由来も、嵐で堤防が決壊したときにお稲荷様をお祀りし、御利益があった、と言うもの。その穴守稲荷のイメージで訪れただけに、少々のギャップがあった。赤い窓枠にちょっと、お詣りし通りに戻る。
南長崎交差点
先に進むと千川通りは南長崎交差点で直角に曲がる。標高36m。交差点の角にはファミリーレストランがある。かつてはここに千川上水の水番所があり、その傍らにお地蔵さまがあった、とのこと。千川上水の川浚いで見つかり能満寺に納められた、と言うから、それって先ほど見た千川延命地蔵ではあろう。
千川通りとして青梅街道・関前1丁目交差点から続いた都道439号線もここで終わり、左に折れた道は都道420号線となり北東に板橋へ向かう。ちなみに交差点から南は中野通として品川区の八潮橋へと下る。この交差点あたりから西落合1丁目、2丁目を経て妙正寺川に落ちる灌漑用の落合分水があった、と言う。中野通りがこの地より哲学堂方面へと続くわけで何となく流路がイメージできる。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)
さて、南長崎交差点で直角に曲がる流路に興味を覚えたのが今回の千川上水散歩のきっかけでもある。上でもメモしたように石神井川水系と神田川水系(妙正寺川・善福寺川)を別ける尾根道を進んで来た千川上水は、この地で北東へと延びる舌状台地へと流路を変える。カシミール3Dでチェックすると、台地の先端は東武東上線大山駅をへて中山道の板橋区役所あたりとなっている。ここで尾根筋を乗り換えないで直進すれば、妙正寺川の谷筋に落ちるか、西武池袋線椎名町駅あたりまで切れ込んだ開析谷、つまりは、谷端(やばた)川に下ることになる。一度低地に落ちた水は高みには戻れないわけで、自然に逆らわず巣鴨の浄水場に水を送るには、この地で直角に廻り、板橋・巣鴨あたりが先端となる支尾根に乗り換えるしか術はない、ということであろう。
築樋跡
都道420号線を北に進むと、ほどなく西武池袋線の踏切。その先、区立明豊中学校のあたりでは車道が次第に低くなり歩道との差が1m以上にもなる。どうも石神井川に流れる水路があったようであり、そこに築樋が造られていた、と。歩道は千川上水の築樋跡を進むことになる。その先、千早高等学校のあたりで水路は都道420号と別れ、右に折れる小径に向かう。標高35m。ほどなく四基の庚申塔。元は五基あった、とのことだが、一時行方不明となり、その後板橋区大泉で発見され、この地に移された。少し進み、高校の校庭が切れるあたりで北に進路を変えると千川親水公園。先ほどの庚申塔はこの公園のあたりにあった、とか。親水公園を先に進み、如何にも流路跡といった雰囲気のフェンスに囲まれた駐輪場脇を進み要町3丁目越交差点に。
要町3丁目交差点
都道441号・池袋谷原線要町3丁目交差点。すぐ東が地下鉄有楽町線千川駅。いつだったかこの駅で下り、谷端川の水源である粟島神社の弁天池を訪ねたことがある。大通りの一筋内側の道を、池袋方面に少し戻った辺りに粟島神社がある。ここを源流点とする谷端川への養水として、交差点あたりから谷端川への分水・長崎分水があった。
谷端川はこの地から椎名町に向かって南東に下り、そこでほとんど180度Uターンし、池袋台地と挟まれた山手通りの谷筋を北上。千川上水は尾根道を、谷端川は谷筋を、といった案配でほぼ平行に北上し、JR板橋駅あたりで共に流路を変え南に下る。
板橋駅では千川上水と谷端川は急接近。駅を挟んで北側の尾根道を千川上水、南側を谷端川が通る。谷端川はその後、白山台地と小石川台地の間の谷間を進み後楽園にあった水戸藩上屋敷に注ぎ、余水は神田川に注ぐ。
川越街道
要町3丁目交差点を越えると都道420線から脇にそれ、マンションと民家に挟まれた小径を進む。都立板橋高校手前で右に折れ、桜並木の道を進む。桜並木が切れ、この先2トン車以上進入禁止、といった、いかにも水道道路っぽい五叉路の信号脇に庚申塔。注意しなければ見落としそうである。
先に進むと板橋区交通公園。標高34m。ここから30mほど先の左手、民家生け垣に境界石があるとのことだが、気がつかなかった。先に進み都道420号線に戻ると道脇に弁天祠(水神様)。上水の溺死者の供養に昭和になって建てられもの。田留水車の取水口もこのあたりにあった、と言う。ほどなく水路は川越街道を越える。水路は都道420号と川越街道が交差する脇にある田崎病院辺りを進んでいた、と言う。
山手通り交差
川越街道を越えた水路は、東京信用金庫脇を進み大山ハッピーロードへと向かう。交差するところに大山橋があったとのことだが、現在、その面影は何も、ない。商店街を斜めに横切り東武東上線を越えると道は広くなる。川越街道から東武東上線まで細路となった都道420号が広くなり、ここから先に続くことになる。
東京都健康長寿医療センター前を進み、区立板橋第一中学校前で脇にそれ、旧産文ホールとの間を通り先に進む。標高33m。橋税務署付近があるあたりには、青山(秋山)水車があった、と言う。ほどなく水路は山手通りを越える。
国道17号・中山道
山手通りを渡り、板橋区役所を右手に見て脇の道を進むと国道17号・中山道に。流路は中山道横断し、通りに沿って少し下り、ガソリンスタンドの先で、旧道を左に入り、半円状に迂回しながら再び17号に戻る。
流路を離れ、板橋区役所をそのまま進むと中山道板橋宿の仲宿にあたる。少し北の上宿、仲宿、そして下宿(板橋駅方面)から成る板橋宿の中心地である。
本陣、脇本陣などは先回の散歩で歩き終えているので、今回はパスし、旧中山道を少し下った板橋区観光センターに。先回も訪れ充実した資料を頂いたのだが、今回も何か新しい資料でも、との思いで訪れる。先回と同じく気持ちのいい接待を受け、またボランティアガイドの方から千川上水についてのお話も伺う。板橋宿の東にあった加賀前田藩下屋敷の池の水は千川から送られていた、とのことである。標高30m。
JR板橋駅
水路は再び国道17号に戻り、しばらく道なりに進み、板橋3丁目3番付近から斜めに国道を横断して板橋郵便局裏の道に入る。水路はこの先、旧中仙道とほぼ平行に流れる。道なりに進み、板橋一丁目児童遊園。ここには板橋火薬製造所(造兵工廠)への分水口があった。板橋火薬製造所は前田家加賀藩下屋敷跡にできたはずであるから、この地から石神井川の谷へと下っていったのであろう。板橋駅前で千川上水路は旧中山道にあたる。
水路はJR板橋駅脇で埼京線を越える。埼京線のすぐ東側に、石神井川へと流れる分水があった。青梅街道の水道端で善福寺に分水された余水は暗渠を進み、ここで石神井川に流される、と言う。つまるところ、この地が現在の千川上水跡の終点、ということだろう。
踏切のすぐ先にT字路。尾根の左右はゆるやかな下りとなっている。千川上水が尾根道を通っていることが如何にもよくわかる。実のところ、このT字路には数回訪れている。南に少し下ったJR板橋駅前に近藤勇の供養塔があるのだが、場所がよくわからず、この辺りを彷徨った。周囲から盛り上がったこの尾根道に少しの「ノイズ」を感じてはいたのだが、ここに千川上水が走っているとは全く知らなかった。
ついでのことであるので、近藤勇の供養塔について;オープンな雰囲気で、お墓というか記念碑といった風情。慶応4年(1868)、平尾一里塚付近、というから板橋駅付近で官軍により斬首された近藤勇の首級は京都に移送され、胴体はここに埋葬された。ここには近藤勇だけでなく副長の土方歳三、そしてこの供養塔造立の発起人でもある永倉新八が供養されている。そういえば石神井川を辿っていたとき、川脇の壽徳寺に「新撰組隊長近藤勇菩提寺」とあった。駅前の供養塔に訪れた後であり、少々面食らったのだが、よくよく読むと駅前の供養塔はこの寿徳寺の境外墓地であった。
千川上水分配堰碑
北区滝野川6丁目と7丁目の境界線上の尾根道を進む。左右は先ほどのT字路で見たようにゆるやかな下りとなっている。ほどなく交差点の角に馬頭観音の祠がある。水路は、ここから旧中山道から少し離れるように迂回するが、それは街道に沿って流れることによる河川の汚れを避けるため。元々は街道に沿って進んでいたようである。道なりに進むと明治通りにあたる。「千川上水分配堰碑」が道の脇、トラックの駐車場の片隅にパイロンと並んで建っていた。
「千川上水分配堰碑」によると、ここに設けられた堰で、利用者の取水量を分配していた。江戸の頃は慶応元年(1865年)に造られた幕府大砲製所(反射炉)用の分水だけであり、水利権はそれほど問題にはならないが、明治になると状況が異なってくる。千川上水の分水は、石神井川とともに現在の北区、荒川区、台東区の23の村の灌漑用水、また王子近辺の紡績工場、抄紙会社、大蔵省紙幣寮抄紙局の工業用水、そして千川上水本流も東京市内への飲料水として供された。ということで、利用者は水利権を明確にし、取り決めを遵守すべく、この碑を建てた、とか。樋口の大きさ、利用者、堰幅の長さ、公園内の溜池の水面の高さなどが記されている。
千川上水公園
分配堰碑を離れ山手通り堀割交差点を渡る。堀割は幕府の大砲製造所の水車を回すための王子方面への分水(王子分水)を開削する際につくった堀に由来する。堀割交差点から明治通りを少し下り、先ほどの分配堰碑の対面にある千川上水公園に。
かつてここには千川上水の浄水場があった。ここに造られた溜池(沈殿池)で砂やゴミなどを沈殿させた後、木樋や竹樋の暗渠となって江戸市中に給水されたわけだ。明治13年(1880年)には、岩崎弥太郎が設立した千川水道株式会社によって、本郷・小石川・下谷・神田への給水が始まった(明治41年に水道会社解散)。
公園に入る。上水公園は一見すると普通の公園。多くの高校生がダブルダッチの練習に励んでいた。練習の邪魔をしないように公園奥に進むと囲いがあり、「六義園給水用千川上水沈殿池(導水門)とあり、その中に水門のバルブ(巻揚機)が残っていた。この六義園への給水も昭和43年(1968年)、地下鉄6号線(現在の都営三田線)工事の際、六義園への水路が分断され、以降給水は停止した。千川上水散歩もこれでお終い。JR板橋駅に戻り、一路家路へと。
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