杉並区散歩 そのⅠ;和泉から妙法寺・寺町を経て高円寺に

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9月のとある週末。例によって、散歩に出かけよう、とは思うのだが、これといって行き先が思い当たらない。はてさて、地図を眺める。が、決まらない。こんなときの解法の選択枝はそれほど多くない。とりあえず電車に乗り、その間に考える。これがひとつ。もうひとつは、古本屋に行く。そのくらいである。

今回は古本屋へ、ということにした。散歩をはじめて多くの古本屋に出会った。たまたま入った本屋で、探し歩いていた本を見つけたり、思わず惹かれる本に出会ったり、それはそれは、嬉しい限りである。はてさて、今回はどこに。
と、なんとなく高円寺駅前の古本屋に行こう、と思った。自宅は杉並・和泉。歩いていける距離である。で、ついでのことでもあるので、高円寺駅前商店街で見かけた桃園川跡を歩き、どこに行き着くのか、なりゆきで歩こう、ということにした。
高円寺の古本屋へは,何度も歩いている。が、メモは今まで書いていないように思う。いい機会なので、自宅まわりから高円寺まで、ついでのことなので杉並の「時空散歩」を楽しもう、と思う。



本日のルート;(神田川)和泉熊野神社>龍光寺>貴船神社>文殊院>方南通り>(善福寺川)堀ノ内熊野神社>妙法寺>高円寺>(桃園川>高円寺5丁目・大久保通り>宮園橋>中野5差路>上宮橋>もみじ山公園下>堀越学園前>谷戸小学校>宝仙寺>宮下・山手通り>田替橋>末広橋>神田川合流>北新宿>新宿)

和泉熊野神社
自宅は杉並・和泉。近くに神田川が流れる。川そばの台地に熊野神社がある。和泉熊野神社。旧和泉村の鎮守さま。創建は文永4年(1267年)、ということだ。現在の社殿は文久3年(1863年)の造営。明治4年に修復されている。境内からは縄文時代後期の土器・打石斧・石棒や,古墳時代の土師器が出土している。また,境内には,徳川家光が鷹狩りの折り、手植えした、との松の大木もある。とはいうものの、初詣、お祭りなど、折に触れてこのお宮さんに出かけているが、手植えの松などは目にしたことは未だ、ない。
この熊野神社のある台地に限らず、神田川流域の台地には縄文時代の遺跡がいくつもある。京王線・高井戸駅近くには「高井戸東遺跡」。杉並清掃工場の工事の時みつかった、とか。浜田山からの鎌倉街道が神田川と交差する鎌倉橋ちかくには「高井戸塚山遺跡」がある。杉並南部を流れるこの神田川流域に限らず、杉並北部の妙法寺川や中部を流れる善福寺川流域を合わすと、杉並区内の縄文時代の遺跡の 数は200を越える、という。水辺の台地には古くから人が住んでいた、ということ、か。

和泉の歴史は古い。宝徳3年(1451年)の「上杉家文書」には和田、堀の内とともに泉(和泉)が武蔵国中野郷に属する、との記述がある。また、永禄2年(1559年)の「小田原衆所領役帳」には高井堂(高井戸)とともに永福寺(永福町)が中野郷に属すると考えられる記述があるそうだ。つまるところ、このあたり和泉・永福は平安時代までには村、というか、ちょっとした集落が成立していた、ということ。

貴船神社
熊野神社から時空散歩が少々拡がった。先に進む。熊野神社の台地下を少し北に進んだところに貴船神社。江戸時代から和泉熊野神社の末社。創建は文永年間(1264~75)とのこと。山城国貴船神社を農作雨の神として勧請したと伝えられる。祭神は「たかおかみ神」。この神は山または川にいる雨水をつかさどる竜神。雨乞い,止雨に霊力があるとのこと。
境内に「御手洗の池」。昔は和泉が湧き出ていた。で、それが「和泉」の地名の由来、となった。神田川の改修工事や宅地化の影響で昭和40年頃に水が枯れてしまった、とか。

龍光寺
熊野神社と坂道を隔てた台地上、貴族船神社と逆方向に泉湧山医王院・龍光寺。真言宗室生寺派の寺院。本尊は薬師如来立像で平安時代末期(十二世紀後半)の造立。開創は承安2年(1172年)、と伝えられる。
山号の「泉湧」は貴船神社の泉から。院号の「医王」は、本尊の薬師如来から。寺号の「龍光」は神田川の源流・井之頭池に棲む竜が川を下り、このあたりで雷鳴をともども、光を放って昇天したことに由来する、とか。
実際のところ、除夜の鐘のとき以外、このお寺さまに出かけたことはなかった。今回寺域に入り、造作の落ち着いた雰囲気に結構惹かれた。境内裏手には四国八十八箇所巡りもある。いいお寺さまであった。

文殊院
神田川脇の遊歩道に戻り、先に進む。北に進む神田川が東に向きを変える和泉4丁目の台地のうえに文殊院。本尊の弘法大師坐像は室町末期のもの、とか。縁起によると、寺の起こりは1600年。家康が駿府に開創。1627年に浅草に移り、1696年には港区白金台に。現在地に移ったのは大正9年、とのこと。都市計画にともなうお寺の移転のモデルケース、って感じがする。
神田川はこのお寺のあるあたりから環七に交差するあたりまで、標高差のある台地下を流れることになる。環七を越えた神田川は方南通りを尾根道とし、東に突き出た舌状台地に沿って北に迂回し、台地先端部で善福寺川と合流する。

方南通り

文殊院から台地を下り、神田川を越え「方南通り」へと台地の坂を登る。方南の由来は不明。ここら一帯が和田村の南の方、であったから、という説や、幕府の鷹場である野方領の南の方、などあれこれ。

ついでのことながら、「和田」の由来。地名の由来・「東京23区辞典」によると、「和田」って一般的には和田義盛の館に関係する、ってことだが、「わだ」には「川が湾曲したところ」といった意味がある、よう。
また、区画された田を町田・角田>枡田・舛田・升田>増田というのに対して、自然のままの「丸い田」のことを、丸田・円田・輪田、という。「輪」を縁起のよい「和」に置き換え>和田、との説も。
また、古来の地名「海田(あまだ)郷」が、「わだ」に転化した、という説も。ここの和田は、はてさてどれであろう、か。

方南通りから北に台地を下る。堀ノ内1丁目。すぐに善福寺川にあたる。この善福寺川は昨年、源流から歩いた。環八より上流は川筋にさしたる遊歩道もなく、少々難儀した。源流点は杉並の北西の端。善福寺池をはじまりとし、南東に向けて流れ、途中大きく蛇行を繰り返しながら、杉並区の東端で神田川に合流する。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


杉並の地形
杉並の地形についてちょいとメモ。杉並区は標高30mから50mの武蔵野台地の中にある。西から東に向かってなだらかに標高が下がる。この台地を、前出の神田川、そしてこの善福寺川が気にとおくなるような年月をかけて浸食し、複雑な地形をつくる。
カシミールでつくった地形図を見る限りでは、川筋は周囲の台地より5mから10mほど削られた開析谷となっている。つまるところ杉並の地形とは、もともとの 武蔵野台地であった「平地」と、神田川と善福寺川及びそれらに流れ込む小さな川が掘り刻んだ谷筋の低地、そして、台地と谷筋との境界にある坂と、で形成されている、ということであろう。

堀ノ内熊野神社
善福寺川にかかる堀ノ内橋を渡り北に進む。堀ノ内熊野神社。旧堀ノ内村の鎮守。創建は文永4年(1267年)。戦国時代に「北条氏綱が上杉氏を破り江戸を略するや大いに社殿を修めて祝祭を行えり(豊多摩郡神社誌)」、と。本殿は安政4年(1857年)の建築。神社の前を東西に走る道は、中世の鎌倉街道と言われる。

向山遺跡
熊野神社のすぐ近く、神田川に沿って向山遺跡。古墳時代から近世にかけての集落跡、と。神田川とおなじく善福寺川筋にも多くの遺跡がある。堀ノ内には弥生から古墳時代を
中心とする複合遺跡・済美台遺跡。堀ノ内の隣の大宮地区には弥生時代末の大宮遺跡、松ノ木地区には古墳時代の松ノ木遺跡、といったように、川筋に沿って遺跡が点在する。

杉並の遺跡
縄文とか弥生とか古墳とか、いまひとつ興味がない。あまりに「遠すぎ」、リアリティがない、ということではある。が、ちょいと杉並の遺跡をまとめておく。
縄文前期には武蔵野台地最古の局部磨製石斧(約27,000年から30,000年前)を出土した高井戸東遺跡や下高井戸塚山遺跡など、神田川流域に多くの遺跡が見られる。また、妙正寺川の水源あたりには、縄文時代早期の井草遺跡が発見されている。神田川中流域には、縄文時代早創期(約12,000年前)の遺跡も発掘されている。縄文中期には、神田川流域の上にメモした塚山遺跡、善福寺川流域では松ノ木遺跡、後期には神田川流域にいくつかの遺跡が見つかっている。弥生時代には善福寺川流域の松ノ木・済美台など、神田川流域の鎌倉橋上遺跡など。いずれも直径100mを越す環濠集落を形成していた、と。古墳時代になると善福寺川流域にある大宮台地上に円形周溝墓が発見されている。6世紀前半にこの地を治めていた権力者の墓とのこと。

妙法寺
向山遺跡を離れ、環七に沿って北にすすむと妙法寺。寛永9年(1635年)の開創。元禄5年(1692年)、目黒碑文谷の法華寺より日蓮上人の木像を移して本尊とした。む?碑文谷の法華寺、ってあの円融寺、「不受不施」で物議をかましたあの円融寺 の旧名、である。
法華寺・円融寺のおさらい;もとは天台宗のお寺としてはじまったこの寺は、弘安6年(1283)日蓮宗に改宗。「法華寺」として世田谷城主吉良氏や徳川氏の保護を受け大寺院として約400年間大いに栄えた。
が、不受不施、つまりは、他宗派からは何も受けず、何も施さず、ただ信仰を同じくする人とのみ供に生きる、ってかたくなな教義のゆえ為政者からにらまれる。秀吉しかり。また、徳川幕府から大弾圧を受ける。
結果、元禄11年に法華寺は取り潰され、円融寺、となった、と。「目黒碑文谷の法華寺より日蓮上人の木像を移して本尊とした」って、その混乱・騒乱のときに起こった出来事ではなかろうか。

で、このご本尊は厄除けに霊験あらたか、ということで江戸市民の信仰をあつめ、堀ノ内の御祖師様、として大いに繁盛した、と。堂々とした仁王門、国重要文化財指定の鉄門などが知られる。

蓮華往生
ついでのことであるが、先日、種村季弘さんの『江戸東京<奇想>徘徊記;朝日文庫』を買った。その中に、「碑文谷の蓮華往生」って記事があった。法華寺の話である。
法華寺に限らず、日蓮宗のお寺には美男僧が多く、そのアイドル僧見たさに、女性の参拝が押し寄せた、と。まあ、これはご愛嬌。参拝客が押し寄せたのは、「蓮華往生」というイベントのため、というまことしやかな話もある。

蓮華往生とは、信仰故に即身成仏を願う信者を蓮華の台にのせ、信者が周りでお題目を唱えれば、日蓮のご法力で極楽往生できるというもの。が、実際は、蓮華台の花を閉じ、周囲からわからないようにして下から槍で突き殺していた、と。悲鳴は周囲の読経や鐘・太鼓の音にかき消され、わかるはずもなく。後は火葬し家族に引き渡すので、殺人の証拠もない。逆に家族は成仏を喜び多額の喜捨をした、と。その額、百両とも二百両とも言われている。が、その悪事も露見。首謀社の坊主・日附は遠島処分となった、と。
こういったスキャンダルもあり、法華寺が取り潰された、とか、そもそもこの蓮華往生などというスキャンダルは、不受不施の教義を嫌った当局のでっち上げ、といった説もあり、その上、悪事を見つけたのは一心太助、といった説もあり、なにがなんだか、わからなくなってきた。このあたりでメモを止める。

八丈島流人帳
とはいいながら、もう少々話を続ける。本日、青山学院大学に仕事で行く途中、青山通り沿いの古本屋で『八丈島流人帳;今川徳三(毎日新聞社)』を見つけた。中に、「不受不
施僧」という記事。元禄4年、26人の不受不施僧の流人の記録。また、元禄11年には8人の不受不施僧の記録があり、その中には「碑文谷 法華寺 日附」と記されている。遠島の理由;八カ年以前、悲田派お停止の説、誓詞まで仕り候ところ、あひ背き、(中略)改派の催しに同心いたし候段、重罪につき遠島仰せつけ候」、と。あれこれ襷が繋がっていく。

寺町

妙法寺での時空散歩、結構深掘り、と相成った。先を進む。妙法寺の北、青梅街道とのあいだには寺が集まり寺町をつくっている。いずれも明治の末から大正にか けて都心から移ってきたもの。このあたりの地名、堀ノ内って、中世の武士や在地領主の館のこと
。館の周囲には堀を巡らしていたので、この名前がついたのだろう。土居、も同じ意味、と。また、梅里は梅が多くあった。というわけではなく、青梅街道に近い、というだけのこと。

青梅街道
青梅街道って、慶長11年(1605年)、大久保長安が、青梅の成木・小曾木の石灰を江戸に運ぶために整備した道。江戸城の白壁の材料につかうため、とか。 青梅というか八王子の裏手の山々で石灰を取り出すために山を切り崩した跡を目にした。実際八王子や秩父を歩いて、切り崩された山々を目にしたこともあり、 おおいに実感。

西方寺

寺町を成行きで進むと西方寺(さいほう)に。慶長10年(1605年)、家光の弟、駿河大納言忠長が創立、と。もとは新宿駅北口あたりにあったが、大正9年にここに移る。境内にはマリア観音と呼ばれる石仏・キリシタン灯籠。また、明治の政商山口(山城屋)和助の墓がある。
山県有朋の推挙で一時巨万の富を得たが、生糸の暴落で公金返還できず陸軍省内で割腹し果てた。で、忠長卿って、二代将軍秀忠の子。幼少のころ国松とよばれ、溺愛される、と。が、結局は兄の竹千代こと家光が三代将軍に。忠長は甲斐そして駿河の国を拝領。が、故なきご乱行のため、甲府での蟄居。秀忠死後は家光より高崎閉塞の命が下され、高崎城にて自害して果てる。ご乱行の真意についてはあれこれ諸説あり。

桃園川緑道
西方寺を離れ、北に進み五日市街道入口交差点に。すこし西に進み、高円寺パル商店街を北に進む。駅のすこし手前にいかにも川筋跡といった遊歩道。これが桃園川緑道。先日、この川筋跡を西に、阿佐ヶ谷方面に辿った。水源は天沼あたり。次回、この水源からもう一度阿佐ヶ谷まで下り、メモしようと思う。今回はここより下流へ歩く予定。駅前のガード下にある古本屋でのんびりした後、さてさて、緑道を歩くことにする。メモは少々長くなったので、本日はこれで終了。川筋下りのメモは後日

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