伊予 土佐北街道 横峰越え;川之江の平山から法皇山脈を越えて銅山川の谷筋の町新宮へ下る

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恒例の田舎帰省の折、土佐北街道を歩くことにした。土佐街道を知ったきっかけは、銅山川疏水の資料があるかと四国中央市役所観光交流課を訪ねたとき手に入れた、「龍馬も歩いた 土佐街道」のパンフレット。「龍馬も歩いた」はいいとして、「土佐街道」という名前にフックがかかり、そのうちに歩いて見ようと思っていた。
土佐街道は古代の官道、江戸期の土佐藩の参勤交代の道筋とのことである。パンフレットに紹介されていた土佐北街道は、四国中央市のパンフレットでもあり、案内箇所は、当該行政区域内である愛媛と高知の県境尾根でもある、標高1016mの笹ヶ峰を越える地点から、馬立川に下り、馬立川と銅山川が合流する新宮の集落から法皇山脈を越えて川之江までがカバーされていた。
四国の山を歩き倒している弟によれば、土佐街道を歩く、と言えば笹ヶ峰を越えるルートを想い起こすようではあるが、笹ヶ峰越えの上り口、下り口のどちらにも通じるバス便はない。車2台あれば、上り口と下り口に車をデポし笹ヶ峰越えができるのだが、弟との日程が合わず後日のお楽しみとし、単独行の今回はJR伊予三島駅からバスの便がある新宮から、法皇山脈を越え川之江に至る「横峰越え」を辿ることにした。
新宮までのバスの便をチェックすると、11時に伊予三島駅を出発し、11時47分に新宮に到着する瀬戸内バスの便があった。また、道筋については、1万2500分の一の地図に、法皇山脈の尾根筋から、川之江の平山集落に向けてそれらしき道筋が描かれていた。その道筋は「龍馬も歩いた 土佐街道」にある、平山集落から法皇山脈に向かう道筋と同じように見える。 これで足の便も山地図も確保。基本計画はJR三島駅に車を置き、バスで新宮に。そこから横峰越えをへて川之江の平山地区に下り、後は成り行きでJR三島駅まで歩く、といったものとする。

当日を迎える。自宅を三島駅に向けて走りながら、三島駅から下山口の平山までの距離を想う。バスの便があることだけで嬉しくなり、下山口から先のことを考えないでいた。
ふと我に返り、横峰越えをから山道を下りた平山集落からの距離をチェックすると直線距離でも7キロほどありそう。夏の日の長い時はいいのいだが、日暮れの早い冬はちょっと勘弁。
ということで、平山集落の近くにJR三島駅から新宮に行くバス停がないものかとチェックすると、平山集落にバス停があった。11時に三島駅を出たバスは平山バス停に11時30分に到着する。で、急遽計画を変更し、車のデポ地点を「平山バス停」としナビに従い平山バス停に向かった。



本日のルート:平山バス停>土佐北街道と遍路道の道標>お小屋蔵跡・島屋跡>土佐北街道を上る>茂兵衛道標>土佐街道道標・廻国供養塔>間伐展示林の林道>史跡土佐街道お茶屋跡>堀切峠からの尾根道舗装道路>金比羅宮>土佐藩主・山内豊雍候 和歌の碑>銅山川の谷筋が見える>水ヶ峰地蔵>一升水>不動堂>下山地点>銅山川橋>熊野神社>新宮バス停

平山バス停;10時50分(標高224m)
自宅を出発し、国道11号を四国中央市へ。国道11号のバイパスに入り徳島に向かう国道192号に入り、松山自動車道を潜り金生川を越えた辺りで県道5号(通称;土佐街道)に入り南へと山麓を上り平山集落にある、平山バス停に。 車のデポ地点を探すに、バス停を少し北に坂を下るとT字路に当たり、そこに「椿堂 雲辺寺」の案内。
成り行きで少し東に向かうと、休憩用四阿(あずまや)と大きな駐車場。「三角寺4キロ 奥の院仙龍寺7キロ 椿堂・常福寺3キロ 雲辺寺29キロ」とありお遍路さんの休憩所となっている。65番札所・三角寺から椿堂を経て、66番雲辺寺へと向かうのであろうか、歩き遍路さんが休憩をとっていた。対面にある工務店のご厚意で建てられたもの、という。

○65番札所三角寺
いつだったか、三角寺に車で訪れたことがある。その途中で目にした「銅山川疏水」の案内がきっかけで、数回に渡る「銅山川疏水散歩」となったわけだが、それはともあれ、三角寺は標高500mの山麓にある札所。聖武天皇の勅願により行基菩薩が開基し、その後弘法大師が本尊の十一面観音、不動明王を刻み三角形の護摩壇を築き、21日間調伏の秘法を行ったと伝わる。今に残る三角の池はその遺構であり、寺名の由来でもある。また、愛媛で最後の札所である。

○三角寺奥の院 仙龍寺
三角寺の奥の院である仙龍寺は、三角寺から法皇山脈の地蔵峠を越え、急峻な坂を下り銅山川の川脇ににある。高知自動車道から国道319号を銅山川に沿って5キロ弱東に向かった辺りである。Wikipediaによれば、「伝説によれば法道仙人がこの地に居を構えたことに始まるとされる。平安時代初期の弘仁6年(815年)空海(弘法大師)が42歳の時にこの山を訪れた。空海はここに住んでいた法道仙人よりこの地を譲り受け、厄除と虫除五穀豊穣の護摩修行を21日間行ったとされる。修行満願成就の後に空海は自身の姿を刻んだと言われ、この本尊は「厄除大師」または「虫除大師」と呼ばれるようになった」とある。その幽玄なる立地故に「四国総奥の院」とも称される、とか。

○椿堂
別格13番札所 邦治山常福寺。案内によれば、「其の昔、大同2年(807)邦治居士(ほうじきょし)なる人この地に庵を結び、地蔵尊を祀る。弘仁6年(815)10月15日未明巡錫中の弘法大師がこの庵を訪れ、当時この地に熱病流行し住民の苦しめるのを知り、住民をこの庵に集めて手にせる杖を土にさして祈祷し、病を杖とともに土に封じて去る。後にこの杖より逆さなるも椿が芽を出し成長す。住民はこの椿大師お杖椿として信仰しこの庵を「椿堂」と呼び当地の地名ともなる」と。場所は国道192号が高知自動車道を越え2キロほど東である。

○66番札所雲辺寺
このお寺さまも、いつだったか車で訪れたことがある。寺伝によれば、桓武天皇の頃、延暦8年(789年)、善通寺の建材を求めて雲辺寺山を訪れた弘法大師が、この山を霊地と感得し、山頂近くに堂宇を建立したのがはじまりとされる。その後大同2年(807年)に秘密灌頂の修法を行い、さらに弘仁9年(818年)には、嵯峨天皇の勅願で再び訪れた弘法大師は本尊の千手観音を刻み、仏舎利と毘盧遮那法印(仏法石)を山中に納めて霊場と定めた、と。雲辺寺は四国の僧の学問道場として、学僧が集まり、四国高野と呼ばれて寺はとても栄えた、とのことである。四国霊場で最も高い標高911mの山頂にある。

土佐北街道と遍路道の道標;11時05分(標高227m)
バス停で時刻を確認すると、JR伊予三島駅を出たバスはこの「平山バス停」に11時30分に着く。余裕を見て家を出たため、時刻は11時前。バス停で30分以上もバスを待つのもなんだかなあ、と山地図を頼りに平山集落へと下りてくる土佐街道の出口の確認に向かう。
地図によれば、バス停から少し南東辺りへと土佐北街道は下りている。バス停南の石垣の坂を上り、成り行きで集落の道を東に向かうと道脇に「土佐街道」の石碑があり、「是より 南 水ケ峰 新宮村を経て高知に至る  北 川之江に至る」と刻まれている。石碑の南には民家の間を山へと上る急道がある。これが土佐北街道の平山集落への下り口ではあろう。川之江に至る道は、先が急斜面となり消えている。

○地蔵丁石
この「土佐街道」は結構新しいが、その横に二基の古き趣の道標が立つ。中央の石碑にはお地蔵様が刻まれる。「奥の院まで四十八丁」を示す地蔵丁石とのこと。

○茂兵衛道標
左に立つのは「茂兵衛道標」。中務茂兵衛の道標識には、先日80番札所である讃岐の国分寺の近くで出合った。中務茂兵衛は幕末から明治・大正にかけて遍路史に足跡を残す人物である。本名:中司(なかつかさ)亀吉。弘化2年(1845)周防(すおう)国大島郡椋野村 (現山口県久賀町椋野)で生まれた中務茂兵衛は、22歳の時に四国霊場巡礼をはじめ、大正11年(1922)に78歳で亡くなるまで生涯巡礼の旅を続け、実に280回もの巡礼遍路行を行った。四国遍路はおおよそ1,400キロと言うから、高松と東京を往復するくらいの距離である。一周するのに2カ月から3カ月かかるだろうから、1年で5回の遍路行が平均であろうから、280回を5で割ると56年。人生のすべてを遍路行に捧げている。
遍路行が88回を数えたことを記念して建立をはじめ、その数250基以上にも及ぶ(230基ほどは確認済、とか)道標建てたと言われるが、この道標は明治27年、138度目の遍路行を記念して建立したものと言われる。

手印は東を示し、雲辺寺方向を示す。この手印の逆方向を案内は、ない。この手印だけでは「何処から雲辺寺へ」示す道標がわからない。ちょっと気になり、後日札所65番三角寺から歩き遍路をしたのだが、寺から道なりに進むと途中遍路道の標識もあり、その道を辿るとこの道標の地についた。
で、この道標が、この札所65番からのものか、とも想ったのだが、後ほど、メモするが、土佐北街道と一部重なる札所65番三角寺奥の院・仙龍寺からの道導にも茂兵衛道標があった。とすれば、この道標は、奥の院からの打ち返し道の道標かとも思える。とは言え、65番三角寺から雲辺寺を目指す遍路道は、三角寺から南に下り国道192号を椿堂経由で進んだり、三角寺からこの平山集落を経由して椿堂、そして雲辺寺へと向かう道などバリエーションルートがいくつかあるようである。であれば、ふたつの遍路道の交わる地点の案内と考えるのが妥当かも。単なる妄想。根拠なし。

ついでのことながら、四国遍路の道標としては、徳右衛門道標(丁石)と真念道標が知られる。

■徳右衛門道標
徳右衛門道標(丁石)には三坂峠からの歩き遍路で47番札所の八坂寺で出合った。徳右衛門こと武田徳右衛門は越智郡朝倉村(現在の今治市)、今治平野の内陸部の庄屋の家系に生まれる。天明元年(1781)から寛政四年(1792)までの十一年間に、愛児一男四女を次々と失い、ひとり残った娘のためにも弘法大師の慈悲にすがるべし、との僧の勧めもあり、四国遍路の旅にでる。
その遍路旅は年に3回、10年間続いた。で、遍路旅をする中で、「道しるべ」の必要性を感じ、次の札所までの里数を刻んだ丁石建立を思い立ち、寛政6年(1794)に四国八十八ヶ所丁石建立を発願し、文化4年(1807)に成就した。その数は102基に及ぶとのことである(「えひめの記憶」を参考に概要をまとめる)。

■真念
真念のことは歩き遍路の都度まとめたメモをコピー&ペーストする;真念は江戸時代の大坂寺嶋(現大阪市西区)の生まれ。空海の霊場を巡ること二十余回に及んだと伝わる高野の僧。現在我々が辿る四国霊場八十八ヶ所はこの真念が、貞亭4年(1687)によって書いた「四国邊路道指南」によるところが多い、とか。四国霊場八十八ヶ所の全容をまとめた、一般庶民向けのガイドブックといったものである。霊場の番号付けも行い順序も決めた。ご詠歌もつくり、四国遍路八十八ヶ所の霊場を完成したとのことである。四国では真念道標は 三十三基残るとのこと。
遍路そのものの数は江戸時代に入ってもまだわずかであり、一般庶民の遍路の数は、僧侶の遍路を越えるものではなかようだが、江戸時代の中期、17世紀後半から18世紀初頭にかけての元禄年間(1688~1704)前後から民衆の生活も余裕が出始め、娯楽を兼ねた社寺参詣が盛んになり、それにともない、四国遍路もまた一般庶民が辿るようになった、とか。

お小屋倉跡;11時10分(227m)
土佐街道の石碑から成り行きで東に少し進むと北が開け、四国中央市が一望のもと。と、道脇に割と新しい石碑があり「お小屋倉跡」と刻まれる。「土佐の国主が参勤交代の時、休み場が此処より1400米登ったところにあり、お茶屋と呼ばれここで休息される時、倉に格納してある組立式の材料を運びあげて臨時の休息所とされた」と書かれていた。




旅籠屋 島屋跡
その石碑には「旅籠屋 島屋跡」の案内も刻まれる。「薦田の家譜で約5アール(150坪余)の土地に広壮な建物があり、街道は屋敷の東(現在の谷)を下り隅で西に曲がり石垣の下を通っていた。石垣は土佐の石工が宿賃の代わりに積んだと言われ、兼山の鼠面積(長い石を奥行き深く使い太平洋の荒波にも強い)として有名である」。
兼山とは港湾整備など土木工事の実績で名高い土佐藩家老の野中兼山のこと。手結港や津呂港などの普請で知られるが、これも太平洋の荒波に耐える鼠面積で造られたのだろうか。
で、その石垣は何処に、と周辺を下り探したのだが、特に案内もなく、それらしき石垣はあったのだが、実際は今は無い、とのことである。 なお、島屋には土佐のお殿様は泊まることはなく、川之江の本陣に滞在したとのことである。

土佐北街道を上る;分岐:11時26分(標高227m)
土佐北街道の石碑のある場所に戻る。で、北街道がどのような道なのかちょっと上る。民家の間を抜け、畑地が切れる辺りまでは整備されてはいるのだが、その先から山に入る。山道ではあるがよく踏み分けられており、道筋は結構しっかりしている。
で、そこでちょっと考える。そろそろバスが来る時刻。ではあるのだが、峠から平山集落へと下りる分岐点が見つかるかどうかといった不安があり、それならと、方針を変更し、そのまま土佐北街道を進み、新宮まで向かうことにする。当初の真逆のルートではあるが、成り行き任せが基本の散歩スタイルの真骨頂ではある。

茂兵衛道標;11時34分(標高299m)
山道を30分弱進むと道脇に遍路道標が立つ。順路を示す「手印」のある正面には「大阪北区」、左面には「願主 壱百三十一度為供養、周防国 中務茂兵衛」、右面には、はっきりとはしないが「明治二十三年十月吉辰」と刻まれる。
どうも、中務茂兵衛の遍路道標のようである。この土佐北街道は遍路道の一部でもあった。道標から土佐街道と別れ東に向かう山道があるが、遍路道ではないようではある。
○奥の院からの遍路道
先にメモしたように、65番札所三角寺から66番札所雲辺寺への遍路道は、三角寺から山麓を平山の集落へと進むルートもあるが、この道はその遍路道ではなく、65番札所三角寺から三角寺奥の院である仙龍寺に向かい、そこから66番札所雲辺寺に進む遍路道の一部となっているようである。
そのルートは三角寺を出立し、法皇山脈の地蔵峠を越え、市仲(いっちゅう)を経る険路を下り銅山川脇の奥の院に。帰途は市仲まで打ち返し、法皇山脈の堀切峠を越え平山集落に下るようだが、この掘切峠から平山集落への遍路道は土佐北街道を下ったようである。
茂兵衛道標は既にメモした通り。この道標は明治26年、131度目の遍路行を記念して建立したものであろう。

土佐街道石碑;12時時3分(標高472m)
遍路道標から30分弱山道を進むと道脇に「土佐街道」と刻まれた石碑と、仏様と「南無阿弥陀仏」、そして札所への手印が刻まれた石碑がある。正面の手印下には「此方うんへん寺道 此方於くのいん道」と刻まれた文字、左側には「土佐 阿波上山」道などと刻まれた文字が読める。そのほか、「水ヶ峰迄十三丁/南無阿弥陀仏、日本廻國供養。。。」と刻まれている。土佐街道の道標、遍路道標を兼ねた廻国供養塔かとも思える。天保二年の建立とのことである。



○廻国供養塔

廻国供養塔とは、法華経を全国66ヶ所の寺社に一部ずつ納めて歩く巡礼を達成した記念、または巡礼の途中に、病などの為に不帰の人となった行者を供養する為に立てられたもの。「六十六部」または「六部」と称される行脚僧である。

平山集落からここまで重複していた土佐街道と遍路道、正確には65番札所三角寺から奥の院を辿り、打ち返して雲辺寺に向かう遍路道とはこの地で別れる。奥の院は土佐北街道から東へと向かう。





間伐展示林の林道;12時05分(4標高85m)
廻国供養塔から先に進むと地図にない林道に出る。土佐街道は東に向かうが、地図にない林道が西へと何処に続くのか道を逆に進むと、ほどなく尾根道・堀切峠手前の「峰の地蔵尊」前に出た。林道と舗装された尾根道のクロス部分には「間伐展示林」の看板があった。この林道は展示間伐用の林道ではあるのだろう。




「峰の地蔵」にお参りし林道を戻ると、途中に左に折れる分岐があり、その道を東に向かうと廻国供養塔の分岐点に出た。先ほど出合った廻国供養塔で別れた奥の院からの遍路道は、峯の薬師で尾根道に出て、その先の堀切峠辺りから銅山川筋へ下っているのだろう。当初は「峯の薬師」から遍路道が続くのかとも思ったのだが、それに関する案内はなかった。来年、雪が溶けた頃、奥の院への道を辿ってみようと思う。







史跡土佐街道お茶屋跡;12時時30分(標高502m)
間伐林道を峰の地蔵へと寄り道し、往復で20分程度を使った後、「土佐街道・廻国供養塔」分岐点から再び間伐林道へと戻り、林道を東に5分弱進むとささやかな沢があり、木橋を越えると木と石の碑があり、木には「お茶屋跡」、石碑の正面には「史跡土佐街道お茶屋跡」、側面には「この場所に泉があり土佐藩主山内公の参勤交代中の休み場であった。延べ50余mの石垣で三方を囲み、上段に70平方メートル余りの屋敷を構えた。先触があると1400メートル下の平山のお小屋倉から組立式の材料を運び上げて休息所を建てた」、「近年上からの排水で谷ができ旧跡は分断されている。藩主の乗り物はこの地点から休息所へ進んでいったという」と刻まれた川之江市教育委員会の案内があった。ここに、土佐北街道の上り口近くにあった「お小屋蔵」から材料を運び建てた休息所ではあろう。
泉の跡は石碑のある平場から少し離れたブッシュの仲に同じく木の「お茶屋跡」の案内があり、その案内の奥には「泉跡」の石碑が立っていた。
「お茶屋跡」の案内は上記の案内とほぼ同じ。「一般に「お茶屋」と呼ばれたこの地には、泉があり、すぐそばに大きな松の木があった。そのため、古くから旅人たちの休み場となっていた。江戸時代、土佐藩主山内侯が参勤交代でここを通るとき、先触れが来ると平山のお小屋蔵から木材を出し、臨時の休み場をここにしつらえていたと伝えられている(川之江市教育委員会)」。松の木茶屋とも称される所以ではあろう。

堀切峠からの尾根道舗装道路;12時分50分(標高513m)
お茶屋跡を離れ先に進むのだが、道の踏み分けがわかりにくくなる。3方向に踏み分けらしき跡があるのだが、どれもはっきりしない。なんとなく堀割りっぽい道を選んだのだが、どうも沢であったようであり進むのに難儀した。結局力任せに立木を踏みしだき15分程度進むと堀切峠からの尾根道の舗装道路に出た。後日歩き直した時も、はっきりした道はわからなかったが、沢の右手の踏み跡らしき道を辿ると、ぴったりと分岐点に出た。どうしたところで、お茶屋跡から尾根道まで150メートル程度なので、真っ直ぐ上って行けば尾根道にでるので踏み跡がわからなくても心配はないだろう。

尾根道に這い上がったところから下山の分岐点を探しに東に進むと、ほどなく木標がある。大きく「とさかいどう ふるさとのみち」の案内に脇に、左右は「左 堀切峠0.7km  右 呉石高原4.3km」と書かれた木標、北向きに「土佐街道分岐点 お茶屋 平山を経て」と書かれた木標、そして「お茶屋の跡150m」といった木の案内が立木に取り付けられていた。これほどはっきりかかれておれば新宮方面から横峰越えを辿っても、土佐街道分岐点を見落とすことはないだろう。
○呉石高原
呉石高原、または呉石山とは法皇山系のピークのひとつ。標高800m。独立峰ではあるが、等高線を見ると平坦な形状となっており、それ故に呉石高原とも呼ばれるのだろう。遍路道は平山に降りず、そのまま呉石(くれいし)高原に向かって進み讃岐の山雲辺寺に向かう遍路道もある、と言う。

金比羅宮;12時55分(593m)
尾根道を進むと、右手山側にささやかな「金比羅宮」の案内がある。のんびり歩いていると見落としそうなものである。「金ぴらさんで知られている当社は遙拝所として建立されたらしく、昔は鳥居が建っていて旅人は道中の安全を祈った 右へ30米入る」とあるので、先に進むとおよそ10mほど入ったことろに小祠があった。その先に進んではみたのだが、それらしき祠はなかったので、その小祠が金比羅宮ではあろう。遙拝所とは言え、植林により木々で前面が遮られ、讃岐の山々を見ることはできなかった。
どうでもいいことなのだけど、山の道案内は実際の距離より短いことが多いように思う。この金比羅も実際は10mもいかないところにあった。あまり短いので更にブッシュを掻き分けて林の奥に入ったが特に何もなかった。実際より長い距離を書くのは何か理由があるのだろうか?

土佐藩主・山内豊雍候 和歌の碑:13時(標高622m)
舗装された尾根道を西に進むと大きな石碑が建つ。「うすくこく 遠近分けて 夕日影 霞む浪まの 沖の島々」と刻まれる。歌碑の脇に和歌建立の由来を刻んだ石碑があり、「北山越えの土佐街道は、土佐城下と伊予川之江を結ぶ交通の要路で、往古の太政官道であり、江戸期には主要参勤路であった。現今でも高速道路が通り、歴史は繰り返すの感が深い。
高知を発ち国見山、笹ヶ峰をはじめ多くの峰々を越え、最後の法皇山脈横峰を登り詰めると展望が開ける。眼下には川之江、夕日に映えて、北の方には瀬戸内の島々、中国筋の山並みがかすむ。振りかえれば苦しくも越してきた山々が重なって見える。
土佐藩中興の名君として世に聞え、和歌も能くした山内豊雍(とよちか)公が安永3年(1774)3月8日、江戸参勤の途次ここに立ち感慨深くこの歌を詠まれた、公時に24歳。
平成8年、文化庁より横峰越えが「歴史の道百選」に選出された事を機にこの歌碑を建立することとなった」とあった。 昔は見晴らしもよかったのだろうが、現在は植林だろう木々に遮られ瀬戸の海を見渡すことはできないが、昔は夕日に染まる美しい瀬戸の島々が見えたのだろう。

○土佐街道開削の経緯
「えひめの記憶(愛媛県生涯学習センター)」によれば、「土佐藩の参勤交代は、はじめ紀伊水道の海路をとっていたが、暴風波浪のためしばしば避難したり足止めされることが多く、その難を避けるため、6代藩主山内豊隆の時、北山越(笹ヶ峰)えによる陸路が検討された。
藩主の命を受けた郡奉行岡田又兵衛は、享保2年(1717年)2月立川から笹ヶ峰を越え、馬立村木地屋、市仲、さらに横峰を越え、川之江に、さらに讃岐の仁尾までのルートを調査した。
このルートは、古代官道に沿うものだといわれている。立川番所から北山越えの道は、ほとんど新設の道であったという。開削には、土佐の村々から7,000人の人夫が動員された。農民たちの血と汗によって作られた街道である。この道は6代藩主山内豊隆から16代山内豊範まで、文久3年(1863年)までの146年間利用された。翌年から蒸気船海路となり、以後この街道は民間の生活の道として利用されてきた)とある。
■古代官道
これも「えひめの記憶」を参考にまとめると、「新宮村を南北に横断する土佐街道は、土佐藩の参勤交代路として開削された道路であるが、新宮には古代の官道があったといわれる」とあり、続けて「古代、讃岐の国府(現香川県坂出市)から伊予の国府(現今治市)に通じる南海道の「伊予国駅馬」として、「大岡(川之江市;現四国中央市)、山背(新宮村)、近井(四国中央市土居)、新居(新居浜市)、周敷(西条市)、越知各五疋」とあり、伊予国内に駅を設け、各駅に五頭の馬を置くことを定めている。
それはともあれ、この駅の中で新宮村が瀬戸内に位置する他の駅に比べて四国山地の中に位置し、ちょっと違和感を覚えるが、それは「延暦15年(796年)には四国山地を越えて土佐国府(現高知県南国市)へ至る新道が開かれ、山背(やましろ)駅はそのために設けられた新駅である(日本後紀))」とのこと。
続けて、「えひめの記憶には」「土佐への道は大岡(おおおか)駅(現川之江市)から堀切峠を越えて銅山川の縦谷に下り、山背駅の跡地と推定される馬立川上流の馬立(現新宮村)から急坂を登り、笠取峠などを経て笹ヶ峰を越え、土佐の丹治川(たじがわ)駅(現大豊町)・吾椅(あがはし)駅(現本山町)・頭駅(づえき)(現土佐山田町)を経て土佐国府に達した。」とある。

銅山川の谷筋が開ける;13時10分(標高612m)
和歌の碑から南に向かう「水ヶ峯 800m」への案内に従い舗装された尾根道を離れ新宮へと下る道に入る。右手は開け木々の間から銅山川の谷筋、その向こうに四国山地の山々が重なって聳える。道も舗装されており車も通れそうな緩やかでゆったりとした道を「水ヶ峰地蔵」へと向かう。





水ヶ峰地蔵;13時20分(標高609m)
先に進むとご神木である「ケヤキ」に迎えられて「水ヶ峰地蔵」境内に。正面に地蔵堂。お堂の横に石塔。そしてその右には滝が落ちる。地蔵堂の前にある「標高589米」を示す石碑と「水ヶ峰地蔵の由来」の案内。「境内にある三体の石佛は、江戸時代の文政十年(1827)川之江村在の2名(高津有友、土肥久米之助)、阿波美馬郡の1名(氏名不詳)の寄進による。中央が本尊の地蔵菩薩、向かって右が弘法大師、左に不動明王が安置されている。本堂右手の宝篋印塔も同年、出羽国米沢城下の神尾平九郎であることから、当地方のみならず各地の信仰をあつめたようである。
歴代土佐藩主も参勤の途次、主要道(横峰越え)としてここを通行した。この地に石佛三体が安置され、岩盤より湧き出る清水が、いつの頃からともなく、多くの人々に「地蔵尊の恵みの水として、人々が守られている」と口伝されている。地下に高速道路が建設されるにともない、古代よりの恵みの清水が変わらぬようにと、昭和62年春、金佛の延命地蔵菩薩の開眼法要が行われた。以来、水は絶えることはない」、とあった。
地蔵堂にあった新聞記事には文化11年(1814)には高知城下の吉助、与助両人の手によって線香立てまで奉納されており、案内にあるように古くからこの地だけでなく、遠く山形など各地の信仰をあつめていたようだ。
○宝篋印塔
宝篋印塔(ほうきょういんとう)は、墓塔・供養塔などに使われる仏塔の一種である。五輪塔とともに、石造の遺品が多い(Wikipedia)。願主は前述の如く神尾平九郎義政であるが、地蔵堂の新聞にあったように、遠く山形の人がどんな理由でこの地に立てたのか、誠に気になる。

■銅山川のダムについて
水ヶ峰地蔵から木々の間にダム湖が見える。境内にある案内によると、「水ヶ峯地蔵から眼下に新宮ダムが見えます。銅山川には3つの多目的ダムがあり、日本でも珍しい三連ダムである。これらのダムの貴重な水は、川之江・三島地区へ分水され、文字通り「命の水」として大切に使われています」との説明文とともにイラストで、三連の最下流は新宮ダム(高さ42m;水の量1300万立方メートル;洪水調整・灌漑用水・工業用水・発電)、その上流10キロのところに柳瀬ダム(高さ55.5m;水の量3220万立方メートル;洪水調整・灌漑用水・水道用水・工業用水・発電)、更に上流13キロのところに富郷ダム(高さ106m;水の量5200万立方メートル;洪水調整・水道用水・工業用水・発電)が案内されていた。
説明にある「命の水」の所以、また銅山川が注ぐ吉野川の水を巡る四国四県のあれこれは、先般メモした「銅山川疏水」をご覧ください。

一升水;13時40分(標高476m)
尾根道から分岐し、水ヶ峰地蔵まで続いた舗装道路もここで切れ、水ヶ峰地蔵から先は山道となる。境内脇の石段を下り、滝の水が下る沢を渡り、時に沢が切れ込み、狭まった山道をおよそ1キロ進み、竹林が見え始めると、そこに「一升水」がある。
水ヶ峰地蔵にあった新聞記事には「その昔この地を歩いた弘法大師が持っていた杖を突き立てたところ、およそ一升あろうかという水が湧き出たとも、のどの渇きひとしおで先を急ぐ旅人たちは、一升の水を飲んだともいう。
はなやかなりし頃は、四戸の民家があってうどんや草履、酒などを売っており縁台に腰掛け一杯やる人もいた。阿波からは上山を経てこの一升水に通じる道もあったので、人馬の往来も少なくなかったらしい。今では完全に廃屋となり、さびしい場所になってしまった」とあった。廃墟はないが、当時の生活を偲ばせるものとして数メートルにも積み上げられた石垣が残る」、とのこと。
ところで、記事に「阿波からは上山をへて」とあった。土佐北街道を尾根道へと上っていたときに出合った「廻国供養塔」に「土佐 阿波 上山道」と刻まれており、突然現れた「上山」の位置づけが今ひとつはっきりしなかったのだが、銅山川の谷筋の新宮は南から銅山川に合流する馬立川に沿った土佐との往還だけでなく、銅山川が東流し注ぐ吉野川が流れる阿波からの往還の経由地であった、ということだろう。

不動堂;14時(標高317m)
一升水から1.3キロほど下り、不動坂の案内があい、その先の杉林の中不動堂が見える。札所65番三角寺との末庵との説もあるようで、堂の中には岩石をくり抜いた不動明王が祀られる、という。





下山地点;14時15分(標高281m)
不動堂から700mほどだろうか、山道が切れ舗装された道にでる。更に数百メートル下ると新宮小・中学校の手前に当たり、そこを折り返すと国道319号に出る。そこには「土佐街道」の石碑が建つ。平山口から此の地点までが「横峰越え」と称される道筋である。





銅山川橋;14時20分(標高193m)
国道脇には銅山川が流れる。かつて、この辺りに「中西 新宮渡し」の宿場があった、とのことである。
四国中央市観光協会の資料に拠れば、「大正14年(1925)に吊り橋ができるまでは舟により往来していた。銅山川橋のすぐ上に渡し跡があり、川岸の岩盤を削って造成した跡が今も残る。舟は人馬を渡せる大きなもので、川の両面に荒縄を引っ張り、船頭がそれをたぐりながら舟を渡していた。参勤交代は高知城発が旧暦3月5日が最も多い。それはその頃が最も雨の少ない時期であったから。参勤交代の時は2500名が渡るため、近くにあった渡し船9艘をあつめ舟橋を設けた」といったことが書かれてあった。
「えひめの記憶」に拠れば、「延宝8年(1680年)の土佐藩の参勤交代従者数は、総数1,413人とのことである。これら多人数の者が、先遣隊、本隊、後続隊と出発をずらして、この新宮の渡しを渡っていった。そのため参勤交代時は、臨時に川に船を並列してつなぎ、その上に板を敷きつめて、一種の船橋をつくって渡っていた。これら渡しの存在は、銅山川の水量の多さ、急な流れのため、橋のない時代の交通手段であったことを物語るものである。長い間人や馬、物資を渡していた新宮の渡しも大正14年(1925年)に渡し場の下流30mのところにつり橋が造られ、その姿を消していった)とある。舟橋云々のエビデンスである。

熊野神社
橋を渡り銅山川と馬立川が合流する手前にあるバス停に。次のバスは15時38分。バスの時刻まで1時間以上ある。「土佐街道・横峰越え」に4時間から5時間程度ほどかかるかと思っていたのだが、実際には途中「峰の地蔵」に寄り道しても3時間程度で越えて来たことになる。それはともあれ、バスまで時間があるので、旧新宮村、現在の四国中央市新宮町の中心部であろう一帯を彷徨う。

四国中央市新宮公民館の隣りに立派な構えの社がある。熊野神社である。四国中央市観光協会に資料によれば、「大同2年(807)に紀州の新宮から田邊、真鍋、三鍋氏一統によりこの地に勧請された、と言う。四国内にある熊野社のうちでも筆頭格に列せられる由緒ある社。最盛期には四国の大半の地域に勢力をもち、牛王の神符を配布していた、と。
権現造りの社の境内にある御神木の銀杏は市の天然記念物。また、近世に発見された神鏡は、貞応2年(1223)の銘。鎌倉時代の鏡として県の有形文化財となっている」といった記事があった。新宮村の名前の由来となった社である。

○四国中央市新宮町(旧宇摩郡新宮村)
ぶらぶら町を彷徨うに、新宮のことについて何も知らない。ついでのことなのでまとめることにする;Wikipediaを参考に大雑把にメモすると、新宮町は「四国のほぼ中央、愛媛県の東端に位置し、東は徳島県、南は高知県に1000メートル級の山々で接する。北は法皇山脈を境に川之江市と、西は伊予三島市の嶺南地域と接する。
人口1,700人の典型的な山村で、40以上の集落があるが、それぞれの間の距離がある。村の大部分は急傾斜の山林で、耕作地は少ない。集落は谷あい及び比較的傾斜のゆるやかな中腹に分散している。村を東西に銅山川が深い渓谷を形作りつつ貫流し、徳島県山城町に至る。銅山川には新宮村から上流には新宮ダムなどが連なる。土佐街道が村を南北に縦貫しており、歴史的遺産や言い伝えも数多く残っている」とある。
上にメモした阿波からの経由地である「上山」も、此の中心地から結構離れているが新宮の一部であるようだ。四方を山に囲まれ、東に流れる銅山川の谷筋だけが「開ける」新宮は旧街道時代、峠越えが交通の主力の時代は土佐・伊予・阿波を繋ぐ交通の要衝であったが、モータリゼーションの時代には四方の山塊に阻まれアクセスが極めて不便な地となっていた。
「えひめの記憶」によれば、「昭和42年(1967年)4月1日、新宮と大豊を結ぶ笹ヶ峰トンネルが開通し、ついで昭和55年(1980年)8月8日、村民宿願の新宮と川之江を結ぶ堀切トンネルが開通した。この堀切トンネルの開通によって、県道川之江・大豊線が昭和の土佐街道として機能するようになった。 さらに平成4年(1992年)1月30日、高知自動車道が川之江・大豊間に開通した。この自動車道の特色はトンネルが多いことである。新宮村だけでも五つのトンネルが抜けている。新宮には土佐街道の馬立本陣跡の土を走るインターチェンジが設けられ、平成の土佐街道として、高知・高松・松山・徳島の四国の県庁所在地は高速道で結ばれることになる。まさに新宮は四国のへそとして未来に大きな夢をつなぐことになった」とある。
■主要作物商品はお茶
町の主要商品作物はかつては葉たばこ、現在はお茶である。葉たばこは藩政時代より阿波よりもたらされた刻みたばこ用の阿波葉が栽培されていたが、昭和初期を最盛期に昭和40年を境にほとんど消えていった、と。
お茶は古くから「山茶」が自生していたが、戦後静岡より種を導入し、新芽の時期に黒色ネットを上からかけて育てる『かぶせ茶』という甘みの強い独自のお茶を開発し、活路を見いだしているとのことである。販路は愛媛の東予70%、松山を中心とした中予が20%とローカル中心の販路のようである。

■土佐街道は「お茶の道・塩の道」
お茶といえば、土佐街道は参勤交代の道とともに、お茶の道・塩の道とも称される。「えひめの記憶」に拠れば、「江戸時代の土佐街道は、土佐藩の参勤交代路として大きな役割を果たしてきた。それとともに、山と海との物流が盛んに行われてきた道でもある。土佐の山分(やまぶん)(嶺北地域)の茶が大量に人の背や馬によって、笹ヶ峰を越え法皇山脈の横峰を越えて、伊予の川之江、讃岐の仁尾に送られている。
土佐の茶で有名なものが碁石茶である。碁石茶は発酵茶であり、その販路は瀬戸内海沿岸や島方であった。碁石茶は塩分を含んだ島方の水に合うためとか、島方で常用される「茶ガユ」の原料に用いるためとかいわれている。(中略)『大豊町史』によると、「碁石茶は土佐の嶺北山間の村々で生産され、特に東本山村(大杉村)・西豊永村で多く生産された。明治14年(1881年)に編集された本山郷下分17か村(旧大杉村)の村誌によると、その生産数量は3,580貫(13,425kg)余に上り、そのほとんどを愛媛県川之江方面に出荷している。」とある。
『仁尾町史』によれば、「最初土州侯より茶売買の特権を得た仁尾商人は12軒であったが、その後茶業繁栄の結果、幕末には18軒が茶商売を行っていた」。また「(中略)これらの商人は、購入した茶を土州山分より北山通り立川口番所を通り、山越をして伊予川之江、さらに和田浜へ運び、それより船にて仁尾へ送り、丸亀を始め瀬戸内沿岸の有名な都市に取引所や売店を設けて、仁尾茶として販売し大いに繁栄発展した。」と記述されている。このように藩政期には、仁尾商人と土佐(嶺北地方)との結びつきは強かった。
(中略)
土佐の山分から馬立を中継して、伊予川之江、讃岐仁尾の港に碁石茶が運ばれ、一方海から山へは塩が運ばれた。それを物語る史料として、次の切手が残っている。磯谷村の孫七ら8名の者の道中切手である。それによれば「右ハ此もの共予州馬立迄茶丸持越塩荷取二参上申候間其元にて御改之上御通し被下度奉存候已上磯谷村名本小左衛門図(印)卯八月十六日〔注:享保20年(1735年)〕本山与右衛門殿川井甚之烝殿」とある。
また享保19年・20年の道中切手和田村分だけでも、道中切手の行先は馬立、川之江、仁尾であり、送り荷は茶丸であり帰り荷は塩であった。
碁石茶の取り引きで活躍した仁尾商人が、明治維新で壊滅的打撃を受け、名声高かった仁尾茶が全讃岐より姿を消した。(中略)「土佐藩では幕末の財政危機で大量に藩札を発行した。取り引きもすべて藩札であった。明治維新で土佐藩の藩札の暴落で、仁尾商人が持っていた藩札は紙くず同然になってしまった」 とある(「えひめの記憶」より)
呉石茶の山地だった土佐の霊北地区を歩いてみたくなった。雪がとけたら、土佐街道の愛媛と高知の県境である笹ヶ峰を越える、土佐街道・北山越えを辿って見ようと思う。

新宮バス停
熊野神社を離れ、馬立川が銅山川に合流する辺りを彷徨い、待ちわびた15時38分発のバスに乗り、堀切峠のトンネルを抜け平山のバス停で下車。これで本日の散歩を終えル。
因みに、雪景色の写真はデジカメの調子が悪くピンぼけばかりであったので、年末帰省の折に撮り直しで、同じコースを辿ったときのもの。新雪に鹿の足跡らしき踏み跡だけが残る土佐街道を歩くのも結構良かった。

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