聖蹟桜ヶ丘散歩

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京王線に乗っていると、いくつか気になる駅がある。聖跡桜ヶ丘もそのひとつ。聖跡というからには、明治天皇ゆかりの地ではあろう。きっかけがあれば一度歩いてみようと思っていた。そんなおり、古本屋で『多摩歴史散歩;佐藤孝太郎(有峰書店新社)』という本を手に入れた。その中に関戸・連光寺地区のことが書かれている。関戸の渡し、関戸合戦、武蔵一の宮、鎌倉街道、霞ヶ関、そして桜ヶ丘公園。あれこれ見どころも多い。ということで、聖跡桜ヶ丘に。


本日のルート;京王線・聖蹟桜ヶ丘駅>一宮2丁目>多摩川堤>一宮1丁目・小野神社>関戸1丁目>関戸2丁目>鎌倉街道>新大栗橋・大栗川>乞田川>対鴎荘跡公園>小野小町歌碑>(向の丘大橋)陸橋・川崎街道>乞田川脇道に戻る>行幸橋>川崎街道・向の丘交差点への道>春日神社>蓮光寺3丁目>大谷戸公園>聖蹟記念館>桜ヶ丘公園>桜ヶ丘公園管理事務所>聖ケ丘中学>団地>聖ヶ丘遊歩道>多摩養護学校>道なりに連光寺2丁目>関戸5丁目・観音寺>丘に登る・団地>阿弥陀寺>熊野神社>旧鎌倉街道>多摩市役所・図書館>永山橋>乞田>乞田新大橋>鎌倉街道は南下>多摩ニュータウン通りに>愛宕交番前>貝取大通り>乞田川遊歩道>多摩センター入口>パルテノン多摩>多摩センター駅入口>多摩モノレールに沿って北上>三本松陸橋>大塚東公園>鹿島団地>大栗川交差>大塚八幡>野猿街道>大塚帝京大入口>大塚御手観音>野猿街道>中和田神社>大栗川交差>百草地区>稲荷塚古墳跡>桜ヶ丘>寿徳寺>とりで公園>延命寺>京王線・聖蹟桜ヶ丘駅

京王線・聖跡桜ヶ丘駅
京王線・聖跡桜ヶ丘駅で下車。元々は関戸駅と呼ばれていた。どういったきかっけかはしらないけれども、桜の名所「桜ヶ丘公園」と明治天皇が足跡を残した地・「聖跡」をコンバインしたわけである。

小野神社
北口から多摩川の堤に向かう。最初に小野神社を訪ねることにした。一ノ宮地区にある。駅から北西に500m程度。小野神社の名前の由来は、このあたりの地が小野県とか小野郷と呼ばれていたから。府中に国府が出来る前のことである。小野神社はこのあたりに地主神であった、ということだ。
小野県・郷の由来は小野氏による。小野妹子や篁を出したあの小野一族である。その小野氏がこのあたりで牧、つまりは、牧場を経営していた。その後、一族の小野利春が武蔵守として府中に赴任してくる。秩父での牧の経営で実績をあげた、とか。一族のものが国司となってきたわけであるから、土着の小野氏も元気百倍。牧も市営から公営となり、武蔵権介に出世するものの現れる。町田の小野路などで、小野神社といった小野氏の足跡をみることがあるのは、こういったことであった、のか、と納得。
主祭神は「天下春命(あめのしたはるのみこと」。知々夫国造(当地方)の祖神であるというのは、小野氏が秩父から移ってきたことを考えれば、それほど異なことではない。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


ひとつ疑問がある。武蔵一の宮といえば埼玉大宮の氷川神社が知られる。一の宮がいくつもあっていいものか?と、チェック。一ノ宮って、公式に決められたものではなかった。由緒や社勢により自然発生的に決まったもの。大宮の氷川神社は在地勢力の代表として「一ノ宮」と称し、この地の一の宮は、府中の国衙勢力が自分たちの力を誇示するため、近くの小野神社を一ノ宮とした、と。
大宮の氷川神社って斐川=出雲族の代表。その勢力に対抗すべく、国府=大和朝廷側が小野神社を一ノ宮とした、って説もある。ともあれ、一ノ宮って、それなりの「納得感」があれば言ったもの勝ち、というか。

小野神社を離れ、ちょっと多摩川堤に。川向こうは府中あたりだろう、か。先日、府中の郷土の森博物館から国立に向かって多摩川の堤を歩いたわけだが、そのあたりであろう。いろいろ歩いていると、風景と地名、そしてそこの歴史が紐づいてくる。

「一ノ宮の渡し」の碑
堤近くに「一ノ宮の渡し」の碑。府中の四谷を結んでいた。昭和12年、関戸橋の開通まで使われていた、とか。ちなみに、鎌倉街道渡しとして、府中の中河原を結んでいた「関戸の渡し」は関戸橋の少し下流にあった。一ノ宮の渡しとおなじく、関戸橋が開通する昭和12年まで存続していた。

連光寺の丘に向かう
多摩川堤を離れ、次の目的地である「連光寺の丘」に向かう。昔、連光寺ってお寺があったようだが、今はない。

大栗川
聖蹟桜ヶ丘の駅まで引き返し、駅の南口から線路に沿って東に進み鎌倉街道に。大栗川にかかる新大栗橋を渡る。橋を渡ると東に折れる。大栗川は八王子鑓水地区の多摩美術大学あたりを源流とし、柚木街道・野猿街道、川崎街道につかず離れず進み、この聖蹟桜ヶ丘の東で多摩川に合流する。

乞田川
新大栗橋を渡りすぐに東に折れる。もうひとつの川筋。乞田川。小田急線・唐木田駅近くの鶴牧西公園あたりを源流点とし、多摩センターあたりを東に進み、永山あたりより、鎌倉街道にそって北に下り、聖跡桜ヶ丘で大栗川に合流する。

「対鴎荘跡」の案内

乞田川の向こうは連光寺の丘。通称「向の丘」と呼ばれる。この丘に対鴎荘とか、小野小町歌碑があるという。坂道をのぼる。整地された公園が。「対鴎荘跡」の案内。いつだったか隅田の川を歩いているとき、今戸神社近くの白鬚橋のところに「対鴎荘跡」の案内があった。三条実美の別邸であった。いつの頃からか、この地に移された、という。が、はてさて、いったいこんどはどこに移ったものだろう。チェックする。1980年頃まではこの地にあったよう。料亭として使われていた。が、その後荒れ果て、結局取り壊された、とか。

「小野小町歌碑」
公園を離れ、「小野小町歌碑」に向かう。どうも、丘の北端の尾根道にあるようだ。公園のある丘と歌碑のある丘の間には、川崎街道がとおっている。道路を跨ぐ橋・「向の丘大橋」を進むと「向いの丘公園」。対岸の眺めが美しい。桜並木の続く遊歩道の一角に歌碑はあった。ちょっとわかりにくい。「むさしのの向の丘の草なれば根をたずねてもあわれとぞ思う」、と。

小野小町って、散歩のいたるところで顔をだす。生まれたところ、なくなったところ、など小町ゆかりの地は日本28都道府県にある、という。日本人の「なにか」に訴える魅力をもっているのであろう。もっとも、このあたりは小野神社でもわかるように、小野一族が覇をとなえる地。あれこれ伝説がつくられても不思議ではない。
先日歩いた国分寺の「真姿の泉」も、病により顔が崩れた小町が、その泉の水で顔を洗うと、あら不思議、もとの美しい姿にもどった、と。

行幸橋
小町の碑を確認し、今来た道を引き返し乞田川脇に戻る。少し北にすすむ。行幸橋。「聖蹟」桜ヶ丘の名前の由来ともなった、明治天皇巡幸が名前の由来、であろう。

春日神社

行幸橋を東に折れ、坂道をのぼる。この道は、川崎街道・向の丘交差点に続く道。途中、坂をのぼりきったあたりに「春日神社」。おまいりを済ませ、桜が丘公園に進む。

大谷戸公園

連光寺3丁目を北に進むと、大谷戸公園。谷戸とか谷津って、台地に切れ込んだ谷地のこと。いかにもの命名。園内には池などもある。昔は谷戸特有の湿地帯があったのだろう、か。

桜ヶ丘公園

大谷戸公園を進む。大谷戸公園の南東部には桜ヶ丘公園の雑木林が広がる。この大谷戸公園は桜ヶ丘公園の導入部といった位置付け、といってもいい、か。深い緑の中を台地に向かって、どんどん上る。桜が丘公園という名前なので、もっと、いかにも「公園」といった風情を想像していたのだが、ここは緑豊かな台地をそのまま公園とした、といったものであった。

聖跡記念館

少々息を切らせ台地上に。聖跡記念館があった。ギリシャ風柱列の建物。昭和5年、元宮内大臣伯爵・田中光顕によって建てられたもの。明治天皇は雪の連光寺の山々での兎狩り、多摩川の清流での鮎漁などを楽しみにこの地を訪れた、とか。明治14年のことである。
前日、八王子で兎狩りを楽しんだ天皇は、ことのほか、これをよろこび、もう一日遊びたい、と。急遽、この地に来ることになった、と言う。それがきっかけとなったのか、この地がお狩場となる。天皇は翌年再度行幸されただけ(4度行幸があった、とも)のようだが、皇族方はあれこれこの地に訪れたようである。

桜丘公園管理事務所

明治天皇のお立ち台跡・御立野の碑、などを歩き、丘を下る。結構広い公園であり、いくつのもルートがある。雑木林の散策路としては、とびきりの出来のよさ。 どこを進んでも、なんとかなろう、と成り行きで台地を下る。どっちに向かって歩いているのかよくわからない。台地を下り道なりにすすむと「桜丘公園管理事務所」。なんとなく居場所を確認できたので、次の目的地である鎌倉街道・霞が関に向かう。

聖ヶ丘遊歩道

公園を離れ、聖ヶ丘中学脇を通り、団地近くに。聖ヶ丘遊歩道があった。道を進むと、多摩養護学校。連光寺2丁目を道なりに進み鎌倉街道におりる。

観音寺

熊野橋を渡り、関戸5丁目。鎌倉街道を少し北に戻り、一筋西の通りに。旧鎌倉街道。近くに観音寺がある。関戸の名主、相沢伴主が眠る。江戸期、允中流という生け花をはじめた人物。生け花にはそれほどの想いはないのだが、伴主が下絵を書き、『江戸名所図会』の絵師・長谷川雪旦の子の雪堤が仕上げ、木版刷りにした、「調布玉川惣画図」は魅力的。往時の多摩川の風景が蘇る。

観音寺から丘にのぼる。城郭跡があるとか、ないとか。とりあえず、どんな地形がみておこうと丘にとりついた次第。住宅街が広がる丘を進む。住宅街の真ん中に阿弥陀寺。城跡といった雰囲気の場所も見当たらないので、丘を降り熊野神社に向かう。

熊野神社
適当におりていくと、偶然にも熊野神社の脇にでた。熊野神社におまいりをすませ街道脇に下りると、「霞が関」の碑。鎌倉街道の通じるこの地は交通の要衝であった。幾多の合戦が行われているのは、そのためでもあろう。交通の要衝であるがゆえに、この地に関が設けられた。関戸という地名はそのことによる。

関戸の歴史

関戸の歴史を簡単にまとめておく;この地が交通の要衝となったのは、大化の改新で府中に国府が設置された、ため。府中を結ぶ官道がこの関戸を通ることになったわけだ。で、平安時代に「霞ヶ関」がおかれることになる。伝説によれは、平将門によって設けられた「関戸」を追討使・藤原秀郷(俵藤太)が「霞の関」と名付けて打ち破った、と。
鎌倉期には、鎌倉街道がこの地を貫く。府中分倍(河原)から関戸、乞田、貝取をへて鶴(小野路川村=町田市)に通じていた。関戸の地は鎌倉防衛の戦略要衝であった。霞ヶ関は「小山田関」とも呼ばれる。稲毛氏の一族である小山田氏の居館があった、ため。見つけることはできなかったが、城郭は小山田義保のものといわれる。
時代は下り、建武の中興の時、この関戸は西の吉野と並び、東の重要戦略拠点。分倍河原おいて、新田義貞との合戦に敗れた北条氏は総崩れ。関戸の地を敗走する。新田方の追討戦がこの地で繰り広げられる。関戸合戦と言う。太平記などで、合戦の模様が伝えられる。
討ち死に寸前となった北条方の大将・北条泰時を守るべく、身代わりとなってこの地に踏みとどまり奮戦したのが横溝八郎であり、阿保入道父子など。が、奮戦むなしく討ち死に。この地にお墓が残る。観音寺にも横溝八郎の位牌がある、という。また、地元の人達が現在でもなくなった武将の供養をしている、と。
分倍河原の合戦が元弘年(1333年)5月15日、関戸合戦が5月16日。新田軍は17日まで関戸に滞陣。5月18日鎌倉周辺での戦闘。5月21日、有名な稲村ガ崎突破。5月22日北条滅亡。横溝八郎、阿保入道といった忠臣の奮闘むなしく、結局は義貞に鎌倉を攻められ滅亡。
戦国時代に入ると関戸宿は小田原北条氏のもと発達。市が開かれ、商業も活発になり農民から商人になるものも現れる。が、江戸になると衰退する。鎌倉街道といった南北の道がそれほど重要なルートとはならなくなった。甲州街道といった、東西の道がメーンルートになったわけである。

多摩市役所

鎌倉街道を道ひとつ隔てた旧鎌倉街道を南に進む。しばらくすすむと多摩市役所。市役所前の古道に「古市場」の案内。上でメモした小田原北条時代の交易の場であった。市役所敷地に寄り道。ここに図書館がある。多摩市には郷土館が見当たらないので、図書館になんらか郷土資料などないものか、と寄り道。残念ながら、これといった資料は手に入らなかった。

次の目的地は、大塚御手観音。コースは多摩センターまで進むそこからモノレールに沿って北に進み、野猿街道に、といった段取り。

パルテノン多摩
図書館を離れ、永山駅近くの永山橋に。鎌倉街道はここから南に下る。道を西にとり、多摩ニュータウン通りに。愛宕交番前から貝取大通りをへて、乞田川遊歩道に。しばらく歩くと多摩センター入口に。ここでちょっと寄り道。「パルテノン多摩」に。駅から「パルテノン通り」をまっすく南に進んだところにある。コンサートホールなどもあるが、目的は「歴史ミュージアム」。多摩丘陵の開発の歴史が展示されている。一種の郷土資料館といったもの。丁度、相沢伴主の企画展がおこなわれていた。「調布玉川惣画図」もゆっくり見ることが出来た。あれこれ眺め、いくつか資料を買い求め、先にすすむ。


駅に戻り、多摩モノレールに沿って進む。坂をのぼると三本松陸橋交差点。道の東に「大塚東公園」。緑が美しい。ちょっと寄り道。なりゆきで台地を登る。台地上からは東の「愛宕山緑地」に向かって道が続く。比高差が結構ある。途中で切り上げ、北に向かって台地を下りる。下りると鹿島団地。団地の中を成行きで北に進む。大栗川と交差。
先に進むと大塚八幡神社。小高い丘に鎮座する。裏手に最照寺。お寺の脇を下ると野猿街道に。どこかで既にメモしたように、野猿の由来は結構面白い。戦国武将大石某が兜(甲)を置いた峠を「甲山峠」と。で、甲が申に書き間違えられ、いつしか、申(さる)が猿、と。わかったようでわからないけれども、妙に納得する。

大塚御手観音

野猿街道を渡る。一筋北にある通りに進み、大塚帝京大学入口交差点に。北に折れ、すこし坂をのぼると道脇に清鏡寺。「大塚御手観音」とも呼ばれる。
観音の本体は千手観音。秘仏として非公開。由来によれば、このお寺の住職の夢枕に仏が現れ、朽ちた仏像に唯一残った一本の手をもとに、仏像を修復してほしい、と。翌朝、近くのお堂で仏像の手を発見、鎌倉に出向き、腕自慢の老翁に修復を願う。その翁は運慶の弟子の湛慶。断わられるも、粘り勝ち。幾年かたち、できあがった仏像が届けられる。が、その先手観音様には999本の手。1本は仏像の腹の中にあった、と。これが御手観音の由来。
いまひとつ言わんとすることがよくわからないのだが、とりあえず、よし、とする。それよりも、この観音堂、秀吉の八王子攻略戦のころ、柚木領の北条武士の砦として使われた、とか。また、昔、観音堂の東に池があった、と。その池の水は少々しょっぱい、と。山塩があったのだろう。この観音堂から西の谷戸が塩釜谷戸と呼ばれていた。塩を焼く釜があったのだろう。このお寺を塩釜山清鏡寺とよばれるのは、このことによる。

御手の観音の次の目的地は「稲荷塚古墳跡」。野猿街道脇にある中和田神社にちょっとおまいりし、稲荷古墳跡のある「百草」に向かう。ちょっとややこしいのだが、「大塚御手の観音」から北に進んだ京王線・百草園駅方面の地名は「百草」。が、今から進む稲荷古墳のある百草は、逆方向。飛び地となっている。理由などそのうちに調べてみよう。

稲荷塚古墳跡
野猿街道を渡り、南東に下る。大栗川を渡り、百草1140に。EZナビのガイドが頼り。音声の命ずるままに進む。なにもない空き地に誘導。
案内もなにもない。釈然としない。あてどもなく周囲をブラブラ。一筋西に、いかにも古墳跡、といった場所を発見。案内によると7世紀前半の古墳、と。八角墳といった珍しい形であった、よう。このあたりはこの稲荷塚古墳だけでなく和田から百草にかけて古墳が点在している。この多摩の地には結構有力な集団がいた のであろう。

現在古墳上には恋路稲荷。『多摩歴史散歩;佐藤孝太郎(有峰書店新社)』によれば、昔には、恋路が池とか恋路が原という地名があった、よう。鎌倉の頃、そのあたりに「恋路」という遊女がおり、武家とのなさぬ仲をはかなみ、池に身を投げた、と。その太夫をとむらったもの、とか。 国分寺の恋ヶ窪における畠山重忠とあさづま太夫夙妻太夫の悲恋物語のアナロジー、といった趣もある。が、伝説は伝説として楽しんでおこう。

とりで公園
稲荷神社を離れ延命寺に向かう。少し進むと大きな道。野猿街道から多摩ニュータウン通りに南北に下りる道。先に進むと深い緑。寿徳寺がある。佐伯道永が再建した寺。道永は小田原北条の家臣。台地に上る。台地上をぐるっと廻ると見晴らしのいい公園。「とりで公園」と。なんから合戦に関係があるのであろうか。このあたりを「佐伯谷」と呼ばれてるのも、納得。

延命寺
「とりで公園」を離れ、最後の目的地・延命寺に。台地上に広がる桜ヶ丘の住 宅街をゆっくりと下る。桜ヶ丘集会所あたりにロータリー。北西に進み、台地をほとんどおりきったあたりに延命寺。横溝三郎が眠っている、とか。おまいりをすませ、台地を折りきり、再び聖蹟桜ヶ丘の駅に戻る。本日の予定はこれにて終了。


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