港区散歩 Ⅱ ; 高輪から麻布を経て芝公園に

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港区散歩2回目は、よく耳にするのだが、未だに訪れていないお寺を巡ることにする。東禅寺、泉岳寺、善福寺、そして芝増上寺がそれ。(金曜日, 9月 08, 2006のブログを修正)



本日のルート:JR品川駅>高輪プリンス>高輪公園>東禅寺>桂坂>引き返し>高輪警察署前交差点>伊皿子交差点>伊皿子坂>泉岳寺>伊皿子交差点に引き返 し>魚藍坂>魚藍坂下>国道1号線・桜田通り>立行寺>白金商店街>四の橋>楽園坂>仙台坂上>仙台坂>善福寺>麻布十番>新一の橋>赤羽橋>芝公園>芝丸山古墳>東照宮>芝・増上寺>JR浜松町駅

R品川駅
東禅寺の最寄の駅JR品川駅に。品川駅は明治5年、横浜の桜木町駅とともに開場した日本最初の駅。品川区でメモしたように、この品川駅は港区にある。で、港区の名前の由来であるが、この地域が東京港を抱えているので、「東港区」という案があった。とはいうもの、「東京都東港区」では、早口言葉のトレーニング でもあるまいし、ということで「東」を除き、「港区」と。結構、いい加減。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


高輪公園
Jr品川駅・高輪口に出る。第一京浜・国道15号線を渡る。メリディアン・パシフィックホテル横の「さくら坂」をのぼる。道なりに進むと高輪プリンス・ホテル。エントランス付近に台地を下る階段。下ると「高輪公園」。案内板をメモ;
「この公園の付近は、三方を丘で囲まれた静かな窪地で、江戸入口の(高輪)大木戸から南方に当たり、国道東側まで海があって、景色のよいところであった。今から約300年前の寛永13年(1636年)に近くにある東禅寺が赤坂から移った。この禅寺を中心に多くの寺が建ち、その周辺には井伊家、本多家などの下屋敷があった。幕末には東禅寺は最初の英国公使館となった。付近の一部は江戸時代を通じ、荏原郡高輪村、と呼ばれた。高輪の名は、「高いところにある真っ直ぐな道」という意味の「高縄手道」が略されたもと、とか、岬を意味する「高鼻」がなまったもの、とも言われる。この地は酒井家のものであった」と。こういった、思いがけない案内に当たるのが、散歩の楽しみである。

東禅寺
公園のすく隣に東禅寺。東禅寺は、イギリスの初代公使であるオールコックと次代公使のパークスにより公使館として使用されていた。水戸藩士、信濃松本藩士などの攘夷派浪士の襲撃もあった、とか。襲撃の当日、福地源一郎(のちの桜痴)も外国方として詰めており、警備を担当していた幕府の別手組の隊士が襲撃浪士の「生首」を持ち来たり、「一番首の高名を記録してくれ」と。源一郎、驚きのあまり「狼狽」。「少々恥ずかしかった」と後に記している。



桂坂
東禅寺のある窪地から台地に戻る。北に進み、民家の軒下といった雰囲気の小道を通り、急な階段を上る。東に下る坂道になっている。名前は「桂坂」。この道筋は目黒通りの日吉坂上交差点から下る桑原坂>桜田通り・明治学院交差点>高輪警察前を経由して、最終的に桂坂として台地を下るルートであった。坂道にある標識:「むかし蔦葛(つたかずら・桂は当て字)がはびこっていた。また、かつらをかぶった僧が品川からの帰途急死したからともいう」、と。

高輪台の戦い
昔、このあたり一帯で合戦があった。1524年、小田原・北条氏と江戸城を居城とする扇谷上杉が覇権を求めて争った「高輪台の戦い」である。上杉軍は初戦で敗戦。川越に落ちる。勝利を得た北条氏綱は江戸城を手中におさめ、そこに遠山氏を置いた。その末裔が名奉行・遠山左衛門尉景元。あの遠山の金さん、である。

二本榎通り ・承教寺

坂をのぼり高輪警察署前交差点に。レトロな雰囲気の高輪消防署・二本榎出張所が目に付く。台地上を通る「二本榎通り」を少し進むと承教寺。英一蝶のお墓がある。江戸の人気画家。といってもその人生は波乱万丈。伊勢・亀山藩の医師の家に生まれる。両親が突如江戸に。その理由は不明。狩野派に弟子入り。17歳のとき破門。理由は不明。その後、多賀朝湖の名で絵を書く。また、俳諧でも名を高め、宝井其角(きかく)や芭蕉と親交を結ぶ。江戸の有名人に。が、二度の入牢。その理由は不明。二度目はついに遠島の刑。三宅島に島流し。将軍綱吉がなくなり、大赦。江戸帰還が許される。時に58歳。帰還の船で一匹の蝶。「一蝶」と。英は母親の姓「花房」から。最後の15年を江戸で暮らし、この地に眠る。
この承教寺、お寺には珍しい芝生の庭。変な顔の狛犬がいる。頭と体の大きさが、いかにもアンバランス。髭面のオヤジ顔。二本榎の説明文があった。メモする;その昔、江戸の時代、日本橋からきて品川宿の手前、右側の小高い丘陵地帯を「高縄手」と呼んでいましたが、そこにある寺に大木の榎が二本あって、旅人のよき目印になっていた。誰言うと無くその榎を「二本榎」と呼ぶようになった。それがそのまま、「二本榎」という地名となって続き、榎が枯れてからも地名だけが残った」、と。ちなみに、現在は二本榎という地名はなく、わずかに「二本榎通り」と、先ほどの高輪消防署・二本榎出張所などにその名を残す、のみ。

伊皿子交差点
二本榎通りを進み「伊皿子交差点」に。北西に下れば「魚藍坂」。南東に下れば「伊皿子坂」。目的地の泉岳寺は「伊皿子坂」下。坂の名の由来は、明国人「伊皿子 (いんべいす)」が住んでいたとか、大仏(おさらぎ)のなまりとも、更には、いいさらふ〔意味不明〕の変化とも、例によっていろいろ。

泉岳寺
伊皿子坂を下り、泉岳寺に。忠臣蔵で名高い寺ではある。寺格は結構高い。知らなかった。慶長16年(1612年)、徳川家康が門庵宗関を招き、今川義元の菩提をとむらうために開山。門庵宗関は今川義元の孫。もともとは外桜田、現在のホテルオークラのあたりにあった、とか。寛永18年(1641年)の寛永の大 火により焼失。その後、この地に移る。浅野家との因縁は、家光の命により、毛利・浅野・朽木・丹羽・水谷の五大名がこのお寺を復興することになって以来。往時は、学僧200名を有する、学寮として有名であった、と。四十七士のお墓におまいり。地形は台地の下の窪地、といった様。台地上には「二本榎通り」が走る。

討ち入り後、この泉岳寺までのルートをメモしておく。吉良邸を出たのが午前6時。泉岳寺に着いたのが午前10時頃、とされる。両国駅近くの吉良邸>回向院>万年橋>永代橋>霊岸島>稲荷橋>築地・鉄砲洲(浅野家上屋敷)>汐留橋>日比谷>金杉橋>将監橋>田町駅あたりの東海道(だろうか)道筋を泉岳寺へ。
回向院では入山を拒否された、とか。血まみれ、さんばら頭の姿をみて、坊さんは肝をつぶしたのだろうか。で、もともとは、両国橋東詰めで、追っ手を待って、切り合い、といった段取りではあったようだが、その気配もない。ということで、泉岳寺へと。それも、両国橋コースでは武家地が多く、なにが起きるかもわからない、ということで、町屋の多い永代橋コースを取った、と言われている。

魚藍坂
泉岳寺を離れ、伊皿子交差点に戻る。交差点から今度は魚藍坂を北西に台地を下る。魚藍坂の名前は、坂の中腹に魚藍観音を安置したお寺・魚藍寺があることから名付けられた。魚籃って、魚を入れる竹篭。魚籃観音って、その魚籃を持ち、魚を売り歩く美しい乙女姿の観音様。仏の功徳を町々に伝えたのであろうか。国道一号線・魚籃坂下交叉点に。




立行寺
魚籃坂下交叉点を少し西に。白金1丁目交差点。交差点から三光坂下への道筋にある立行寺(りゅうぎょうじ)に向かう。大久保彦左衛門が建てたお寺。もともとは麻布六本木にあったものが火災で焼失したため、寛文8年(1668年)この地に移る。彦左衛門のお墓の隣に一心太助も眠る。とはいっても太助さんは、講談に登場の人物。腕に「一心白道;ただこの道を一筋に、わき目をふらず目的に向かって行くこと。」の刺青があった、とか。お寺の前の道に。三光坂に続くこの道筋は彦左衛門の名前をとって、「大久保通り」と呼ばれていた。

重秀寺
すぐ裏手の台地上に重秀寺(ちょうしゅう)。坂道は結構きつい。開基は旗本・上田主水重秀(うえだもんどしげひで)。旗本のプライベート・MY菩提寺、ってほかにあるのだろうか。なんとなく惹かれる。

氷川神社
重秀寺の隣に氷川神社。これも台地の上に鎮座する。立派な構え。港区内には氷川神社は3社。赤坂、麻布、そしてここ白金。白金の氷川神社は区内でもっとも古い神社。7世紀後半につくられた白金総鎮守。氷川神社を少し西に進むと、先回散歩した三光坂下。なんとなくこのあたりの位置関係がわかってきた。「襷」がつながった。



麻布善福寺
三光寺坂下からは、次の目的地・麻布善福寺に向かって一直線に北に進む。道筋は、先回歩いた白金商店街を進み「四の橋」に出る。四の橋からは薬園坂をのぼる。周りにはお寺が多い。のぼりきったところが仙台坂上。坂の南、現在韓国大使館のあるあたり一帯に、仙台藩・松平陸奥守の下屋敷があったから。
善福寺。開基は天長元年(824年)。弘法大師が真言宗を武蔵一円に広めるために建てた、という。その規模高野山にならい、新高野と呼ばれ、関東屈指の霊場であった。都内では浅草・浅草寺に次ぐ古い歴史をもつ。
鎌倉時代になると、越後での流罪を許されて京に帰る途中の親鸞聖人が、この寺を訪れる。その謦咳に接した善福寺の了介上人は、全山あげて浄土真宗に改宗。以来、浄土真宗の寺として歴史を刻む。一向一揆や、大阪・石山本願寺など、浄土真宗と織田信長との争いには、援軍を送ったりもしている。秀吉は関東平定に際しても、寺領保護を約している。江戸になっても徳川家の庇護篤く、特に三代将軍家光は本堂を寄進したほど。寺領も広く、港区・虎ノ門という地名も、当時の善福寺の山門、とか。また、杉並の善福寺池は当時の奥の院跡、と言われている。広大な寺域を誇っていたのであろう。

このお寺は幕末の1859年には、初代アメリカ公使館。安政の仮条約以降明治まで、ハリス以下の公使館員を迎えることになる。福沢諭吉もこの寺に出入りしていた、とか。その故か、諭吉の墓はここにある。越路吹雪のお墓も、ここにある。
境内、というか総門内に「柳の井戸」。現在でも清水が湧き出ている。弘法大師が鹿島大明神に祈願して柳の下に錫丈(しゃくじょう)を突き立てると、清水が湧き出した。ために、鹿島神社の七つの井戸のうち一つは空井戸になった、とか。また、とある上人さまが柳の小枝で地面を払ったら清水が湧き出した、とも伝えられている。関東大震災や東京大空襲のとき、多くの人たちの渇きを癒した湧水、としても知られている。

元神明神社

寺を離れ、「二の橋」で古川を越え、そのまま東へ進む。オーストラリア大使館を越えたあたりで北に。先に進むと小高い台地に「元神明神社」。古いような、新しいような、なんとも言われぬ雰囲気に惹かれて石段をのぼる。思いがけない、「あれこれ」に出会うことになる。創建は平安時代の寛弘2年(1005年)。渡辺綱の産土神。
そういえばこの近くに「綱坂」などもあった。江戸になり、飯倉神明(芝大神宮)に移す、との徳川家の命に対して、ご神体を隠し留め、以来「元神明宮」として、多くの人々の信仰を受ける。

水天宮

またこのお宮さんには、水天宮が祀られている。この水天宮は隣接する有馬藩邸の屋敷神として、九州・久留米水天宮から分祀されたもの。明治元年有馬邸が青山に移るに際し、このお宮さんに分霊。その後青山の有馬邸は日本橋蛎殻町の現水天宮に移ったわけだ。『江戸切絵図』をチェックすると、中の橋から赤羽橋にかけて確かに、有馬中務大輔の屋敷が描かれている。
水天宮といえば、ほんの数日前、九州・福岡での学会に出席。少々の空き時間を見つけ、久留米まで足を延ばし、本家門元の「水天宮」、有馬侯の「篠山(ささやま)城」を見てきたばかり。奇しくも、というか、絶妙の「襷」のかかり方。
水天宮にはじめて出会ったのは、もちろん、子供の無事なる誕生を願ってのときではある。散歩で最初に出会ったのは確か狭山丘陵。トトロの森にあった久米水天宮。このとき、由来などチェックして、本家が九州の久留米にあることがわかった。久留米は親父が召集され、陸軍幹部候補生学校の生徒として青春の一時期を過ごしたところでもある。水天宮と親父の若かりし頃の地を求め、久留米に飛び出した、次第。それから数日もしないうちに、全くの偶然で「水天宮」&「有馬侯」と出会った。奇しくも、というより、予定調和、といった「襷」のかかり方であった。

中の橋・芝公園
元神明宮を離れ、「中の橋」交差点に。東に進み桜田通り・赤羽橋交差点を越えると芝公園。赤羽は、北区の赤羽とおなじく「赤埴」から。土器などをつくる良質の赤粘土がとれたのだろう。たしか、近くの麻生台2丁目には、「土器坂(かわらけざか)」といった、そのものずばりの地名もあった、よう。

芝・丸山古墳
芝公園の中に「芝・丸山古墳」がある。適当に公園に入る。結構な台地。こんなところに古墳があるとは、思ってもみなかった。それよりも、この公園の中に台地があるなど、想像もできなかった。古墳の麓に「丸山貝塚」の碑;「芝公園の丸山と呼ばれる丘陵東南斜面に貝層が残存。正式な学術調査はおこなわれていない。縄文時代後期のものと推測されている」。



台地をのぼる。「円山随身稲荷大明神」。このあたり一帯が古墳跡。案内板;「全長106m前後。後円部径64m。前方部前端幅約40m。くびれ幅約22m。都内最大級の前方後円墳。江戸時代以降、原型は相当損じられている。前方部が低く狭い形態や占地状態などから5世紀時代の築造考えられる。付近の低地の水田地帯に生産基盤をもち、南北の交通路を押さえていた、南武蔵有数の族長の墓だったと考えられる。坪井正五郎が発掘・調査した」と。
散歩をはじめるまであまり知らなかったのだが、東京にも結構古墳がある。多摩川台古墳群、亀甲山古墳、宝莱山古墳。上野公園・擂鉢山古墳。足立区・毛長川流域。北区・王子、葛飾の中川・江戸川流域などなど、散歩の時に出会った古墳も多い。今ひとつ、この時代のことに興味・関心が少々薄いのではあるが、そのうちに、あれこれ調べてみよう。

芝・東照宮

公園内を通り、芝・東照宮に。明治に神仏分離で増上寺から別れるまでは、安国殿と呼ばれる。家康公の法名「一品大相国安国院殿徳蓮社崇誉道大居士」に由来する。ご神体である家康の等身大の彫刻は家康が60歳のとき、自らつくらせた、とか。






芝・増上寺
お隣に芝・増上寺。もとは江戸貝塚(千代田区紀尾井町;平河町から麹町にかけて)に真言宗の寺院としてつくられる。当時は光明寺と呼ばれていた。明徳4年(1393年)浄土宗に改宗。以降、戦国から室町にかけて浄土宗の東国のかなめとして機能した。
江戸にはいり、徳川家康の庇護を受け、徳川家の菩提寺となり、慶長3年(1598年)には、現在の芝の地に移転。関東18壇林のひとつとして多くの学僧が学んでいた、とか。寺内には二代秀忠公、六代家宣公、七代家継公、九代家重公、十二代家慶公、十四代家茂公の、六人の将軍の墓所がもうけられている。この大伽藍も戦災で焼失。正面入口の山門とふたつの霊廟の入口にあった総門がかろうじて難を逃れた。現在の本堂は昭和49年再建されたものである。本日の散歩はこれで終了。芝大門からJR浜松町駅に進み、一路家路に。 

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