思いつくまま、気の向くままに歩いた伊予の峠越えの遍路道を、どうせのことなら繋いでしまおうと、卯之町の四十三番房所からはじめた「歩き遍路」も松山市街を越え五十二番札所・太山寺に至った。
この先は松山市内最後の札所である五十三番・円明寺を打ち、その先は今治市の五十四番札所・延命寺となる。円明寺から延命寺までは35キロの長丁場ではあるが、北条から菊間にかけての20キロほどの遍路道は「粟井坂越えの花遍路道(そのⅠ、そのⅡ)」「窓坂峠越え」といったキーフレーズに惹かれ、すでに数回に分けて歩いている。
今回の五十三番・円明寺から五十四番札所・延命寺を繋ぐ歩き遍路は、五十三番・円明寺から粟井坂越えの花遍路道まで辿り、その先は窓坂峠越えの最終地点である菊間の太陽石油精油所前の道標からはじめ、五十四番札所・延命寺までを繋ぐことにする。
粟井坂越えの花遍路道やその先の窓坂峠越えを歩いたのは2015年と2016年年。その時は、峠越えの遍路道を歩きながら、なにを好き好んでトラックの排ガスを吸い込みながらの国道歩きをと思っていたのだが、遍路道を繋ぐためには致し方なし、ということである。ともあれ、散歩を始める。
本日のルート;
■五十二番札所・太山寺から五十三番札所・円明寺へ■
五十二番札所・太山寺>県道183号・円明寺道の道標>和気小学校西門脇に舟形地蔵道標(?)>五十三番札所・円明寺
■五十三番札所・円明寺から五十四番札所・延命寺へ■
◇五十三番札所・円明寺から「花遍路の道・粟井坂」を繋ぐ◇
馬木の道標>大川・遍路橋東詰の道標>自然石の道標>郷谷川・前川橋北詰の十字路角の道標>堀江の里程石>堀江の茂兵衛道標>予讃線・堀江駅>大谷口バス停
◇粟井坂から花遍路の里を辿り鴻之坂の峠を越え浅海に◇
◇北条の浅海から窓坂峠を越え菊間まで◇
◇菊間から延命寺へと辿る◇
太陽石油精油所正門前の茂兵衛道標>青木地蔵堂>亀岡小学校校庭の里程石と道標>佐方川の舟形石仏>佐方の茂兵衛道標>高城の茂兵衛道標>大山八幡神社>碇掛天満宮>大西町脇地区の茂兵衛道標>宮脇川傍の里程石と徳右衛門道標・舟形道標>井手家屋敷>大西町新町三叉路の道標>安養寺の道標>品部川>乗禅寺>五十四番札所・延命寺
五十二番札所・太山寺
思いがけず堂々とした国宝の本堂に出合った太山寺を離れ次の札所・五十三番円明寺へと向かう。スタート地点は一の門。先回辿った遍路道を戻り、建て替えられたためだろうか、「えひめの記憶」にある道標すべてが見つからなかった鵜久森邸まで戻る。太山道と円明道が合わさる場所である。
県道183号・円明寺道の道標
鵜久森邸西南角から道を北に折れ、県道183号に合わさる箇所に円明寺を指す道標がある(「えひめの記憶:愛媛県生涯教育センター」)、と。自然石にわずかに「へんろ」らしき文字が読める。また手印は西を向いてようにも見える。現在はそのまま北に道が続くが、その昔の遍路道はもう少し西から大廻りしていたのだろか。
和気小学校西門脇に舟形地蔵道標(?)
県道183号を北に越え、道なりに久万川に架かる橋に向かう。「えひめの記憶」には「遍路道が久万川に架かる学橋(もとは遍路橋という)を渡ってすぐの松山市立和気小学校西門脇に舟形地蔵道標がある。これは昭和35年(1960)ころ、学橋改修の際、川から拾い上げられて橋のたもとに置かれ、同59年の橋の再改修で現在地に立てられたという」とあるが、それらしきものは見つからなかった。
五十三番札所・円明寺
「遍路道は小学校の北側を迂回して進み、やがて県道に合流する。400mほど進み和気の町中に入った県道183号は、県道松山港内宮線(39号)と交差し(中略)交差点で県道39号に振り替わった遍路道は、交差点を直進し120m余で円明寺に至る(「えひえの記憶」)」の記事を目安に円明寺に。
八脚門造りの仁王門をくぐり、境内に。左手に大師堂。参道を進むと鐘楼門となっている中門があり、正面に本堂。本堂右上の鴨居には左甚五郎の作という高さ1m、幅4mほどの龍の彫り物があったようだが、見逃した。
●由来
本堂にお参り。案内に拠れば、「四国八十八か所の五十三番札所である。須賀山正智院と号し、本尊は阿弥陀如来である。寺伝によると、天平年間(729~749年)、僧行基の創建で、聖武天皇の祈願所であったという。
この寺は元は、ここから西方の和気西山の海岸にあり海岸山圓明密寺と言われていた。五重塔もあり、立派な本堂など豪壮な七堂伽藍をそなえた寺院であったというが、いくたびかの戦禍により一山のほとんどを焼失し、寛永10(1633)年、須賀重久(私注;詳細不詳)が現在の地に再建したので須賀山円明寺といわれるようになった。寛永13年(1636)には仁和寺の直末に加えられ、正智院と号するようになったと伝えられている。
観音堂に安置されている十一面観音像は、慶長5(1600)年、河野家再興をはかった遺臣たちが、戦死者の菩提を弔うために奉納したといわれている」とあった。また、「えひめの記憶」には「慶安3年(1650)の銘文を持つ貴重な銅板製の納札が保存されていることでも知られる」との記事もあった。
円明寺の旧地については、「えひめの記憶」に「『予陽郡郷俚諺集』には、「元は西山の尾崎勝岡にありしを、中古今の地に移したり」とあって、円明寺の旧地が松山市勝岡町に奥の院として残っているところから、奥の院経由の円明寺への遍路道が一部で案内されている」とある。勝岡町は円明寺の西、五十二番札所・太山寺のある海岸線の独立丘陵地の瀬戸内側にその地名が見える。
●切支丹灯ろう
本堂左手の塀際に切支丹灯ろう。「十字架形の灯ろう」。高差40cm 合掌するマリア観音とおぼしき像が刻まれ、隠れキリシタンの信仰に使われたと説もある」との案内があった。
●円明寺八脚門
「円明寺は、真言宗智山派、四国八十八か所53番札所である。寺伝によれば、天平年間(729年~749年)に、僧行基によって近くの勝岡の地に七堂伽藍が創建されたという。その後兵火により荒廃し、寛永10年(1633年)にこの地に居住していた須賀専斎重久によって現在地に再興されたという。
八脚門の建物は、三間一戸、一重、入母屋造、一軒疎垂木(ひとのきまばらだるき)本瓦葺である。基礎は切り石を据え、柱は円柱で柱頭にのみ粽(ちまき)を付け、頭貫・台輪を通してその上に組物で軒を支え、柱間の中備には間斗束(正面のみ蓑束)を置く。室町時代の作とみられ、頭貫先端の木鼻の彫刻文様や組物の造りには古式が見られるが、その後再興時に改修の手が加えられ、創建時とは変容したことが推定される」との案内があった。
●駐車場端の道標
「えひめの記憶」には、「門前の駐車場北西角に道標がある。指示が合っておらず、もとは近くの十字路にあったという」とある。電柱脇にある一見すると道端の石のような道標に刻まれた文字は「右 へんろ」「左 松山 道後」と読める。記事にあるように方向が合っていなかった。
五十三番札所の次は今治市の延命寺まで35キロほどの長丁場となるのだが、その間松山市北条から菊間にかけての20キロほどの遍路道は、「花遍路 粟井坂越え」「窓坂峠越え」」といったキーワードに惹かれ既に歩いている。
ということで、今回の歩き遍路道を繋ぐ散歩は、まず「花遍路道」を辿った出発点の粟井坂まで繋ぎ、ついで、窓坂峠越えの最終地である菊間の太陽石油精油所からはじめ延命寺までの遍路道を繋ぐことにする。
「えひめの記憶」に拠ると、「円明寺を打ち終えると、次の札所は道標(私注:前述の円明寺南西角の道標)によると「九里八丁」の長丁場をたどる今治市阿方(あがた)の五十四番延命寺である。同じ読みの札所が続くので紛らわしい。それで札所番号を付けるか、「和気の円明寺」、「阿方の延命寺」などと呼んでいる。長丁場を嫌ってか、あるいは利用してか、このルートを遍路たちは様々な方法で通っている。
沿岸諸港から出る船便による海路の利用もその一つである。また、昭和2年(1927)に省線讃予線が松山まで延伸されると、円明寺近くの伊予和気駅から汽車に乗り、五十四番札所・遍照院のある菊間駅あるいは延命寺近くの大井駅(現大西駅)で下車する鉄道利用が案内され、利用者には便利になった。この方法は、昭和初期の遍路紀行物でしばしば取り上げられている」とある。
遍路歩きの動機は様々。癒し、非日常体験、信仰心故とあれこれあろう。最近の「お遍路ブーム」で、お大師さん(弘法大師空海)の修行の道を辿ろうと、歩き遍路に重きを置く方も多いと聞く。歩くしか術はない時代はいざ知らず、昔のお遍路さんは船を使ったり、汽車を利用したり、結構自由に「お四国さん」廻っていたようである。さてと、遍路道を繋ぐ散歩へと円明寺を離れる。
馬木の道標
「円明寺を出て、遍路道は県道松山港内宮線(39号)と一部重複しながら東へ向かう。松山市馬木町に入り、JR予讃線の踏切を渡って100mほど行くと県道との分かれ道に文久3年(1863)の重厚な道標が立つ。銘文「あかた圓明寺」は今治市の「あがた延命寺」のことである(「えひめの記憶」)」と記事にある馬木の道標に。
「へんろ道」「あかた圓明寺 九里八町」といった文字が読める。圓明寺とは「延命寺」のことである。
大川・遍路橋東詰の道標
「道は東進しやがて左折北進して県道を越え、大きく北方に迂回して回り込み、大川に架かる遍路橋の西たもとに出て再び県道と合流する。遍路橋を渡ると、南東たもとに字形・字配り・彫りのどれをとっても立派な順路と逆路を示す道標が立っている。道はここで、松山市鴨川から北上してきたいわゆる今治街道(以下「旧街道」と記す)に再び合流する(「えひめの記憶」)」との記述従い、大川に架かる遍路橋傍の道標に。
順路は「遍路道」、逆路は「へんろ道」と刻まれていた。ところで遍路橋の架かる大川。道後温泉から五十二番太山寺に向かって松山市街を横切る途中、城北の御幸寺山裾で出合い、志津川池までその流路に沿って遍路道を辿った。こんなこところで再び会うとは。どうでもいいことだけれども、結構嬉しい。
内宮町の自然石の道標
「旧街道を行く遍路道は北上する。50mほど進むと東側に脇道があって三差路となり、その東南角に自然石の道標がある。4、5年前までこの角の少し先、北東の空き地(旧福角(ふくずみ)村)にあったものを刻字の「大内平田村」に当たる現地に移したという。全体に造りは古風に見えるが、今まで報告記録されていないものである(「えひめの記憶」)」と記される道標に向かう。
説明では少しわかりにくく、あれこれ彷徨ったのだが、結論としては遍路橋から大川を少し下流に下り、土手道とわかれる(ここが三叉路のことだろうか?)道を北に進み、最初の角(T字路)を右折するところに自然石の道標があった。「へんろ」の文字がかすかに読める。
この先は松山市内最後の札所である五十三番・円明寺を打ち、その先は今治市の五十四番札所・延命寺となる。円明寺から延命寺までは35キロの長丁場ではあるが、北条から菊間にかけての20キロほどの遍路道は「粟井坂越えの花遍路道(そのⅠ、そのⅡ)」「窓坂峠越え」といったキーフレーズに惹かれ、すでに数回に分けて歩いている。
今回の五十三番・円明寺から五十四番札所・延命寺を繋ぐ歩き遍路は、五十三番・円明寺から粟井坂越えの花遍路道まで辿り、その先は窓坂峠越えの最終地点である菊間の太陽石油精油所前の道標からはじめ、五十四番札所・延命寺までを繋ぐことにする。
粟井坂越えの花遍路道やその先の窓坂峠越えを歩いたのは2015年と2016年年。その時は、峠越えの遍路道を歩きながら、なにを好き好んでトラックの排ガスを吸い込みながらの国道歩きをと思っていたのだが、遍路道を繋ぐためには致し方なし、ということである。ともあれ、散歩を始める。
本日のルート;
■五十二番札所・太山寺から五十三番札所・円明寺へ■
五十二番札所・太山寺>県道183号・円明寺道の道標>和気小学校西門脇に舟形地蔵道標(?)>五十三番札所・円明寺
■五十三番札所・円明寺から五十四番札所・延命寺へ■
◇五十三番札所・円明寺から「花遍路の道・粟井坂」を繋ぐ◇
馬木の道標>大川・遍路橋東詰の道標>自然石の道標>郷谷川・前川橋北詰の十字路角の道標>堀江の里程石>堀江の茂兵衛道標>予讃線・堀江駅>大谷口バス停
◇粟井坂から花遍路の里を辿り鴻之坂の峠を越え浅海に◇
◇北条の浅海から窓坂峠を越え菊間まで◇
◇菊間から延命寺へと辿る◇
太陽石油精油所正門前の茂兵衛道標>青木地蔵堂>亀岡小学校校庭の里程石と道標>佐方川の舟形石仏>佐方の茂兵衛道標>高城の茂兵衛道標>大山八幡神社>碇掛天満宮>大西町脇地区の茂兵衛道標>宮脇川傍の里程石と徳右衛門道標・舟形道標>井手家屋敷>大西町新町三叉路の道標>安養寺の道標>品部川>乗禅寺>五十四番札所・延命寺
■五十二番札所・太山寺から五十三番札所・円明寺へ■
五十二番札所・太山寺
思いがけず堂々とした国宝の本堂に出合った太山寺を離れ次の札所・五十三番円明寺へと向かう。スタート地点は一の門。先回辿った遍路道を戻り、建て替えられたためだろうか、「えひめの記憶」にある道標すべてが見つからなかった鵜久森邸まで戻る。太山道と円明道が合わさる場所である。
県道183号・円明寺道の道標
鵜久森邸西南角から道を北に折れ、県道183号に合わさる箇所に円明寺を指す道標がある(「えひめの記憶:愛媛県生涯教育センター」)、と。自然石にわずかに「へんろ」らしき文字が読める。また手印は西を向いてようにも見える。現在はそのまま北に道が続くが、その昔の遍路道はもう少し西から大廻りしていたのだろか。
和気小学校西門脇に舟形地蔵道標(?)
県道183号を北に越え、道なりに久万川に架かる橋に向かう。「えひめの記憶」には「遍路道が久万川に架かる学橋(もとは遍路橋という)を渡ってすぐの松山市立和気小学校西門脇に舟形地蔵道標がある。これは昭和35年(1960)ころ、学橋改修の際、川から拾い上げられて橋のたもとに置かれ、同59年の橋の再改修で現在地に立てられたという」とあるが、それらしきものは見つからなかった。
五十三番札所・円明寺
「遍路道は小学校の北側を迂回して進み、やがて県道に合流する。400mほど進み和気の町中に入った県道183号は、県道松山港内宮線(39号)と交差し(中略)交差点で県道39号に振り替わった遍路道は、交差点を直進し120m余で円明寺に至る(「えひえの記憶」)」の記事を目安に円明寺に。
八脚門造りの仁王門をくぐり、境内に。左手に大師堂。参道を進むと鐘楼門となっている中門があり、正面に本堂。本堂右上の鴨居には左甚五郎の作という高さ1m、幅4mほどの龍の彫り物があったようだが、見逃した。
●由来
本堂にお参り。案内に拠れば、「四国八十八か所の五十三番札所である。須賀山正智院と号し、本尊は阿弥陀如来である。寺伝によると、天平年間(729~749年)、僧行基の創建で、聖武天皇の祈願所であったという。
この寺は元は、ここから西方の和気西山の海岸にあり海岸山圓明密寺と言われていた。五重塔もあり、立派な本堂など豪壮な七堂伽藍をそなえた寺院であったというが、いくたびかの戦禍により一山のほとんどを焼失し、寛永10(1633)年、須賀重久(私注;詳細不詳)が現在の地に再建したので須賀山円明寺といわれるようになった。寛永13年(1636)には仁和寺の直末に加えられ、正智院と号するようになったと伝えられている。
観音堂に安置されている十一面観音像は、慶長5(1600)年、河野家再興をはかった遺臣たちが、戦死者の菩提を弔うために奉納したといわれている」とあった。また、「えひめの記憶」には「慶安3年(1650)の銘文を持つ貴重な銅板製の納札が保存されていることでも知られる」との記事もあった。
円明寺の旧地については、「えひめの記憶」に「『予陽郡郷俚諺集』には、「元は西山の尾崎勝岡にありしを、中古今の地に移したり」とあって、円明寺の旧地が松山市勝岡町に奥の院として残っているところから、奥の院経由の円明寺への遍路道が一部で案内されている」とある。勝岡町は円明寺の西、五十二番札所・太山寺のある海岸線の独立丘陵地の瀬戸内側にその地名が見える。
●切支丹灯ろう
本堂左手の塀際に切支丹灯ろう。「十字架形の灯ろう」。高差40cm 合掌するマリア観音とおぼしき像が刻まれ、隠れキリシタンの信仰に使われたと説もある」との案内があった。
●円明寺八脚門
「円明寺は、真言宗智山派、四国八十八か所53番札所である。寺伝によれば、天平年間(729年~749年)に、僧行基によって近くの勝岡の地に七堂伽藍が創建されたという。その後兵火により荒廃し、寛永10年(1633年)にこの地に居住していた須賀専斎重久によって現在地に再興されたという。
八脚門の建物は、三間一戸、一重、入母屋造、一軒疎垂木(ひとのきまばらだるき)本瓦葺である。基礎は切り石を据え、柱は円柱で柱頭にのみ粽(ちまき)を付け、頭貫・台輪を通してその上に組物で軒を支え、柱間の中備には間斗束(正面のみ蓑束)を置く。室町時代の作とみられ、頭貫先端の木鼻の彫刻文様や組物の造りには古式が見られるが、その後再興時に改修の手が加えられ、創建時とは変容したことが推定される」との案内があった。
●駐車場端の道標
「えひめの記憶」には、「門前の駐車場北西角に道標がある。指示が合っておらず、もとは近くの十字路にあったという」とある。電柱脇にある一見すると道端の石のような道標に刻まれた文字は「右 へんろ」「左 松山 道後」と読める。記事にあるように方向が合っていなかった。
●南西角の道標
駐車場脇の対面、お寺さまの塀の外の南西角に立派な道標が立つ。「右 へんろ道」「「左 宮嶋道 是ヨリ船場へ五町 問屋関家好直(私注:町と直は見えないため「えひめの記憶」に拠る)」と刻まれる。
「えひめの記憶」に拠れば、この道標は「宮島(広島県宮島町の厳島(いつくしま)神社)への船乗り場(距離から見て和気浜港と思われる)と船問屋を案内している。
(中略)『明治十六年 四國道中記』と題する講中の定宿名簿があって、その中に、「同所(円明寺裏門)二宮島行 毎日出船あり 船問屋関家好直迄九丁)」との案内が掲載されている。年代も船問屋の名前も道標と同じで、ここからの道のりは船場が手前で、問屋がその先にあったようである。
昔は円明寺を打ち終えた後に宮島へ立ち寄る遍路がいたようで、こうした碑文や名簿の存在は、藩政時代にはこの辺からの出船は堀江浦と定められていたが、明治になって和気浜からの出船も可能になったことを示している」とあった。
駐車場脇の対面、お寺さまの塀の外の南西角に立派な道標が立つ。「右 へんろ道」「「左 宮嶋道 是ヨリ船場へ五町 問屋関家好直(私注:町と直は見えないため「えひめの記憶」に拠る)」と刻まれる。
「えひめの記憶」に拠れば、この道標は「宮島(広島県宮島町の厳島(いつくしま)神社)への船乗り場(距離から見て和気浜港と思われる)と船問屋を案内している。
(中略)『明治十六年 四國道中記』と題する講中の定宿名簿があって、その中に、「同所(円明寺裏門)二宮島行 毎日出船あり 船問屋関家好直迄九丁)」との案内が掲載されている。年代も船問屋の名前も道標と同じで、ここからの道のりは船場が手前で、問屋がその先にあったようである。
昔は円明寺を打ち終えた後に宮島へ立ち寄る遍路がいたようで、こうした碑文や名簿の存在は、藩政時代にはこの辺からの出船は堀江浦と定められていたが、明治になって和気浜からの出船も可能になったことを示している」とあった。
■五十三番札所・円明寺から五十四番札所・延命寺へ■
◇五十三番札所・円明寺から「花遍路の道・粟井坂」を繋ぐ◇
ということで、今回の歩き遍路道を繋ぐ散歩は、まず「花遍路道」を辿った出発点の粟井坂まで繋ぎ、ついで、窓坂峠越えの最終地である菊間の太陽石油精油所からはじめ延命寺までの遍路道を繋ぐことにする。
「えひめの記憶」に拠ると、「円明寺を打ち終えると、次の札所は道標(私注:前述の円明寺南西角の道標)によると「九里八丁」の長丁場をたどる今治市阿方(あがた)の五十四番延命寺である。同じ読みの札所が続くので紛らわしい。それで札所番号を付けるか、「和気の円明寺」、「阿方の延命寺」などと呼んでいる。長丁場を嫌ってか、あるいは利用してか、このルートを遍路たちは様々な方法で通っている。
沿岸諸港から出る船便による海路の利用もその一つである。また、昭和2年(1927)に省線讃予線が松山まで延伸されると、円明寺近くの伊予和気駅から汽車に乗り、五十四番札所・遍照院のある菊間駅あるいは延命寺近くの大井駅(現大西駅)で下車する鉄道利用が案内され、利用者には便利になった。この方法は、昭和初期の遍路紀行物でしばしば取り上げられている」とある。
遍路歩きの動機は様々。癒し、非日常体験、信仰心故とあれこれあろう。最近の「お遍路ブーム」で、お大師さん(弘法大師空海)の修行の道を辿ろうと、歩き遍路に重きを置く方も多いと聞く。歩くしか術はない時代はいざ知らず、昔のお遍路さんは船を使ったり、汽車を利用したり、結構自由に「お四国さん」廻っていたようである。さてと、遍路道を繋ぐ散歩へと円明寺を離れる。
馬木の道標
「円明寺を出て、遍路道は県道松山港内宮線(39号)と一部重複しながら東へ向かう。松山市馬木町に入り、JR予讃線の踏切を渡って100mほど行くと県道との分かれ道に文久3年(1863)の重厚な道標が立つ。銘文「あかた圓明寺」は今治市の「あがた延命寺」のことである(「えひめの記憶」)」と記事にある馬木の道標に。
「へんろ道」「あかた圓明寺 九里八町」といった文字が読める。圓明寺とは「延命寺」のことである。
大川・遍路橋東詰の道標
「道は東進しやがて左折北進して県道を越え、大きく北方に迂回して回り込み、大川に架かる遍路橋の西たもとに出て再び県道と合流する。遍路橋を渡ると、南東たもとに字形・字配り・彫りのどれをとっても立派な順路と逆路を示す道標が立っている。道はここで、松山市鴨川から北上してきたいわゆる今治街道(以下「旧街道」と記す)に再び合流する(「えひめの記憶」)」との記述従い、大川に架かる遍路橋傍の道標に。
順路は「遍路道」、逆路は「へんろ道」と刻まれていた。ところで遍路橋の架かる大川。道後温泉から五十二番太山寺に向かって松山市街を横切る途中、城北の御幸寺山裾で出合い、志津川池までその流路に沿って遍路道を辿った。こんなこところで再び会うとは。どうでもいいことだけれども、結構嬉しい。
内宮町の自然石の道標
「旧街道を行く遍路道は北上する。50mほど進むと東側に脇道があって三差路となり、その東南角に自然石の道標がある。4、5年前までこの角の少し先、北東の空き地(旧福角(ふくずみ)村)にあったものを刻字の「大内平田村」に当たる現地に移したという。全体に造りは古風に見えるが、今まで報告記録されていないものである(「えひめの記憶」)」と記される道標に向かう。
説明では少しわかりにくく、あれこれ彷徨ったのだが、結論としては遍路橋から大川を少し下流に下り、土手道とわかれる(ここが三叉路のことだろうか?)道を北に進み、最初の角(T字路)を右折するところに自然石の道標があった。「へんろ」の文字がかすかに読める。
郷谷川・前川橋北詰の十字路角の道標へ
「やがて松山市堀江町に入り明神川を渡ったところで道は、JR予讃線の線路によって90mほど消滅している。東側を並行する国道196号は跨線(こせん)橋で鉄道線路を越えている。線路の向こう側には旧街道を行く遍路道がずっと続いており、鉄道と国道との間を北上、権現川を渡り、家並みのある通りを抜けて郷谷川に架かる前川橋を渡る。
橋の北の十字路北東角にアスファルトに埋もれた道標がある。水害のたびに堤防がかさ上げされ、路面が高くなって埋もれたのだという。標石の二面は塀と電柱に接しているため刻字は読めない(「えひめの記憶」)」の記事を目安に郷谷川に架かる前川橋を目指す。
●お旅所
国道196号と予讃線が交差する少し手前に明神川の水路がある。記事に拠ればそこから先は、旧街道は消滅しているとのことであり、国道を跨線橋で渡り、右手に見える如何にも旧街道といった道筋に下りる。道を南に少し戻り旧街道南端を確認。国道と予讃線の土手に囲まれた旧街道南端部には「お旅所」の石碑があった。
「お旅所」は神社祭礼の際、神輿にのった神様が休憩・宿泊する場所。近くに「内宮」などと如何にもといった地名がある。この地名は神功皇后の三韓征伐といった神話において、この地に戦勝祈願のため内宮(ないぐう)を建てたことに由来し、その社は現在内外神社として福角町にある。その内外神社なのか、また同じく福角町にある正八幡神社のものか、ちょっとチェックしただけではわかのらなかった。
●郷谷川・前川橋北詰の道標
道を折り返し、権現川を渡り三叉路を右に道をとり郷谷川に架かる前川橋を渡ると、正面十字路角に、あらぬ方向を指す手印とともに、遍の字だけが読める、道に埋まった道標があった。
粟井坂から松山市の東端、今治市との境をなす浅海地区までは、先般歩いた「花遍路の里を歩く;粟井坂から花遍路の里を辿り鴻之坂の峠を越え浅海に(そのⅠ、そのⅡ)」の記事に任す。
このルートを歩いたきっかけは、図書館でたまたま目にした「鴻之坂の峠越へ」の記事。旧北条市(現在松山市)の東、市街を離れた下難波地区から腰折山の鞍部を抜け、今治市との境を接する浅海(あさなみ)地区に抜ける昔の遍路道とのことではあるが、如何せん距離が4~5キロ程度で余りに短すぎる。
で、その前後をルートに加えようと「えひめの記憶(愛媛県生涯教育センター)」の遍路道をチェックすると、松山の堀江から旧北条の小川の間に粟井坂があり、そこは旧和気郡と旧風早(かざはや)郡との郡境とのこと。鴻之坂の先にある窓峠は旧風早郡と旧野間郡の境でもあり、散歩の区切りとしてもよさそうである。 さらにこのふたつの坂の間の北条は、昔NHKのテレビドラマにあった「花へんろの里」と言う。もとより「花へんろ」は脚本家であり、北条出身の早坂暁氏の造語であり、今の北条市街にドラマにあった風情が残るとも思われないが、坂、と言うか小さな峠に囲まれた「花へんろの里」を歩くって、結構「収まりがいい」し、距離も12~13キロ程度で丁度いいと、辿った遍路道である。
先回の散歩、結果的には知らず四国八十八箇所の歩き遍路とはなっていたのだが、旧和気郡と旧風早郡の境にある粟井坂を越え、花遍路の里を辿り、鴻之坂の峠を越えて北条市の浅海(あさなみ)の地蔵堂まで歩いた。
と、浅海の先の遍路道として「窓坂」とか「ひろいあげ坂」という地名が登場する。峠越えフリークとしては、この言葉に惹かれ、浅海から「窓坂」とか「ひろいあげ坂」を経て菊間まで進むことにした(「四国 あるき遍路;北条の浅海から窓坂峠を越え菊間まで」の記事に託す)。
道は海岸線に突き出た丘陵部に張り付くように進む現在の国道196号とは異なり、浅海から窓峠に上り、丘陵に南北を囲まれた道を菊間へと抜けることになる。土木建設の技術が発達する以前には海岸線を通る道は危険極まりなかったということではあろう。
円明寺から延命寺を繋ぐ遍路道散歩、途中の北条から菊間までの20キロほどのメモは上述リンク先の記事に任せ、今回の散歩は浅海から菊間へと抜ける窓峠越えの最終地とした太陽石油精油所手前にある道標から散歩を再開する。
太陽石油精油所正門前の茂兵衛道標
国道196から離れ、高田(こうだ)集落を進み太陽石油精油所正門手前200mほどのところにあった茂兵衛道標からスタート。
青木地蔵堂
国道に戻り、「えひめの記憶」に、「たちは坂の100mほど手前を右へ下ると、遍路道と国道との間に、青木地蔵堂があり、本堂から一段下がった所に覆屋(おおいや)のある井戸がある。この井戸は弘法大師が杖で場所を示し掘らせたものと伝えられ、覆屋の壁板の部分には、大師像を浮彫りにした直径1.5mほどの丸石が立ててあり、その前庭には「弘法大師加持水」と刻まれた石柱が立っている。 また本堂前の通夜堂の軒下には古い松葉杖やギブスなどがうずたかく積まれている。この通夜堂は畳も敷かれていて、今も遍路が無料で泊まれるお堂である」とある青木地蔵堂に向かう。
国道から左に折れ、青木地蔵堂に。記事にある如く通夜堂で歩き遍路の方がゆっくりくつろいでいた。地蔵堂・通夜堂より一段下の広場にある覆屋には大師像が浮き彫りにされた丸石、その前に石で囲まれた井戸水が見える。全国各地に伝わる「弘法大師杖の水」のひとつだろう。覆屋には幾多の石仏も並んでいた。
●青木地蔵堂の道標
「青木地蔵堂への下り道の右側斜面の草叢(むら)に、下部が埋もれた「(右手印)ぎゃく邊」と刻まれた道標が立っている(「えひめの記憶」)」と記される道標を探す。文字通りを解釈すれば、国道から青木地蔵堂へと下る坂道右側の草叢(むら)と読めるのだが、いくら探しても見つからない。
あきらめて、青木地蔵堂を離れ地蔵堂前旧道の坂を上り切ったところ。道の左手の草叢の中に道標が立っていた。これが上述道標のことであろう。なんらかの都合でここに移されたのだろうか。文字は読めないが、手印は逆打方向を示していた。
亀岡小学校校庭の里程石と道標
「地蔵堂を過ぎると遍路道は国道と合流し、そこから500m余り下ると三差路に至る。ここから遍路道は国道と分かれて右に入り種川を渡って、種の集落を北東へ進む。しばらく行くと右手にJR伊予亀岡駅、左手に亀岡小学校がある。 校門を入るとすぐ右側に「今治へ」と「菊間へ一里一丁三十一間」と刻む道標があり、左側植え込みの中にある池の奥に、「松山札辻より八里」の里程石が立っている。この里程石は、ここから1.2kmばかり北東にある高城の変電所付近にあったものという(「えひめの記憶」)」の記事を頼りに亀岡小学校の里程石と道標に向かう。
校庭内とは敷居が高い、と思っていたのだが、道標は正門内のすぐ右手、里程石は正門に接した庭に立っている。学校関係者にお断りを入れるのも仰々しいかと、構内に入らせてもあらう。道標を見た後、池の飛び石伝いに近づき里程石もゆっくりみることができた。道標には「菊間 一里」「今治」といった文字が読める。里程石には「松山札之辻」といった文字が読めた。
佐方川の舟形石仏
「遍路道は北東に進んで佐方川に至る。橋の西南詰の台石に2基の舟形石仏が乗っている。うち1基は道標を兼ねたものである(「えひめの記憶)」とある舟形石仏に向かう。
旧道を進み佐片川に。2基の舟形石仏のうち一基にはお地蔵さまとともに遍路道を示す手印が刻まれていた。
佐方の茂兵衛道標
「一筋に続く道を行くと佐方集落のはずれの三差路に茂兵衛道標が立っている。「左 新道...」と刻まれた大正2年(1913)建立のもので、明治43年(1910)にできた新道も案内している。
旧の遍路道はまっすぐにミカン畑の中を上り、左にカーブしながら家並みの中を下って国道を横切って高城に入る。道標(私注:茂兵衛道標)の「左 新道」に従って進むとすぐ国道に合流し、400mほどで、まっすぐ進んだ旧の遍路道と高城に入る地点で出合う(えひめの記憶)」との記事にある茂兵衛道標の立つ三叉路に。
「左 新道」と刻まれた道標南面には手印で延命寺と、同じく手印とともに円明寺が刻まれる。巡打ち、逆打ち双方を示す道標となっていた。 遍路道は延命寺を示す手印に従い東に向かい、予讃線を通すため切り開かれたような丘陵の間を抜け、佐方集落東端の田圃を見遣りながら国道196号に出る。そこが茂兵衛道標を左に新道を辿ったルートとの合流点である。
高城の茂兵衛道標
「国道から集落に入って50mほど進んだ左側の高城集会所前に茂兵衛道標がある。(中略)徳右衛門道標を改刻したと思われるもので、右面には「世話人朝倉村徳右衛門」の刻名が残されている(「えひめの記憶」)」とある高城集会所前に向かう。
高城集会所前には茂兵衛道標は見つからない。あちこち彷徨うと、国道196号から左に折れ、旧街道を高城に入る角に道標が立っていた。集会所前から移されたのだろうか。
道標には巡打ち、逆打ちの案内だろうか、延命寺と円明寺の文字と左右を示す手印が見える。また、「右 新道」とも刻まれていた。建立は大正5年(1916)とあるので、明治43年(1910)に完成した「新道」を案内していた。「えひめの記憶」に記す「世話人朝倉村徳右衛門」の文字は分からなかった。
大山八幡神社
「えひめの記憶」には、「遍路道は高城を約400m進むと再び国道に合流する。ここまでが菊間町(私注;今治市菊間町佐方)で、これからは越智郡大西町(私注;現在は今治市大西町別府)となる。大西町に入った遍路道は国道を北東に進む。1kmほど進み、国道と分かれた山側の遍路道は、別府の原集落に入る。
現在は国道筋だけになったこの1kmほどの道について、『今治街道』では、大西町に入った旧街道(遍路道)は、すぐ現在の国道と分かれて右手に入り400mほど進んで、また国道を横切り北側に出て大山八幡神社の東麓でカーブしながら、再び国道を横切って原集落へ続いたと推測しているが、「現在の道路からは確認できない」とも記している」とある。
要は、旧街道は辿れないということだ。実際、それらしき名残を感じるような道筋も全く残っていない。であれば、往昔の道筋であった大山八幡神社だけでも訪ねてみようと、今治市大西町別府を走る国道から左に折れ八幡様に。 鳥居を潜り、参道にある珍しい屋根付き注連石を越えて拝殿に。
案内には「祭神 高淤加美神・誉田別命・帯仲津彦命・息長帯姫命・雷神 境内神社 諏訪神社・得居神社・加代之宮社・小祭神社(龍神社等八社) 天明天皇の和銅五年(712)雷神、高淤加美神を勧請、清和天皇の貞観元年(859) 奈良大安寺の僧 行教が宇佐八幡宮より勧請した。また、宇多天皇の弘安五年 (1282)国守河野通有が筑前の宮崎八幡宮より勧請したとも伝えられている。 境内にある諏訪神社・得居神社は安産の神として崇拝され、妊婦は境内の砂を 一握り持ち帰り、無事出産すると、お礼として浜の砂を倍にしてお返しした」とあった。
別府(べふ)の地名由来が、この地に昔怒麻の国造の別館があったので、別府という地名が起こった、との説もあるように古い歴史のある地ではあろうが、神社縁起のレイヤーが重なり、どれが本命かよくわからない。この地の沖合にある怪島(けしま)は河野氏の将が砦を築き斎灘を護っていたとのことなので、河野氏ゆかりの縁起は、それなりに納得感はある。
メモをしながらちょっと気になることが。大山八幡神社って?大山祇神社と八幡神社を足して二で割ったような社名である。祭神もふたつの社に関係する(後付けではあろうが)。大山祇をまつる大三島の人々がこの地に移り社を建て、その後に勢力を増した八幡様も合わせ祀ったのだろうか。単なる妄想。根拠なし。
碇掛天満宮
次いで、「えひめの記憶」には「原を通る一直線の遍路道を1kmほど進むと、海寄りにカーブしてきた国道と再び合流する。合流点右側には菅原道真伝説が残る「碇掛(いかりかけ)天満宮」がある」と記す。 「碇掛」という名前に惹かれてちょっと立ち寄り。「合流点右側には」と軽く記されていたが、参道は国道に突き出た丘陵をぐるりと廻り、急な坂をのぼることになる。
●菅原道真伝説
仁和四年(888)菅原道真公が讃岐守のとき、父是善公が伊予権守をしていた伊予の国を訪ねたと言う。その帰途、三津の湊を船出し、北条の沖合に来た時、急に嵐となり、この地まで船が押し流される。碇を下して上陸し、暫くの間、苫屋に休まれた、とか。これが官公の伝説であり、碇掛天満宮の由来とか。 瀬戸内には道真公の暴風故の、あわや遭難といった船旅にまつわる伝説がいくつか伝わる。大宰府左遷の折とその前の讃岐守の時代のものカテゴリーに分かれ、西条市壬生川には大宰府左遷の下り、暴風に合い上陸し、網を敷いてもてなしてもらう、といった網敷の伝説など、バリエーションも多い。 難破>上陸>苫屋での休憩と天神さまを祀る関係がいまひとつ弱いが、この社は菅公が讃岐守の折の伝説のひとつだろう。
◆五郎兵衛大師
国道196号から碇掛天満宮に向かう分岐点に小祠がある。「五郎兵衛大師」とあった。案内には「悪病、悪霊の侵入を防ぐお大師さんとして信仰されている」と記される。詳しいことはわからなかった。
大西町脇地区の茂兵衛道標
碇掛天満宮から国道に戻ると、「まもなく左手に星の浦海浜公園が見えるが、遍路道はその手前で国道と分かれ右手の山側に入る。
遍路道はJR線沿いの県道大西波止浜港線(15号)を行く。JR線と共に大西跨線橋の下をくぐり、JR線と分かれて大西町新開の集落に入る。 200mほど進んで遍路道が脇川と出合う左手の角に、自然石の一字一石塔と並んで茂兵衛134度目の道標が立っている(「えひめの記憶」)」の記事にある脇川傍の茂兵衛道標に。
「穪讃浄土三部妙典一字一石塔」と刻まれた自然石の横に茂兵衛道標があった。道標の正面は遍路道を指す手印と施主名、その他の面には「明治二十七年」、「願主中務茂兵衛 周防・・四國一三四度目為供養」と刻まれる。 中務茂兵衛は一生を巡礼に捧げ、四国霊場巡礼の回数は280回に及ぶ、とか。この道標はその半分ほどの頃のもの。道標を立て始めたのは42歳、巡礼88度目からとのことである。
◆中務茂兵衛
中務茂兵衛。本名:中司(なかつかさ)亀吉。弘化2年(1845)周防(すおう)国大島郡椋野村 (現山口県久賀町椋野)で生まれた中務茂兵衛は、22歳の時に四国霊場巡礼をはじめ、大正11年(1922)に78歳で亡くなるまで生涯巡礼の旅を続け、実に280回もの巡礼遍路行を行った。
道標は、茂兵衛が厄年である42歳のとき、遍路行が88回を数えたことを記念して建立をはじめ、その数250基以上にも及ぶ(230基ほどは確認済、とか)。
文化遺産としても高く評価されている道標の特徴は、比較的太めの石の四角柱(道標高の平均約124cm)で、必ず建立年月と自らの巡拝回 数を刻んでいる、と。
●一字一石塔
「コトバンク」には「経典を小石に1字ずつ書写したもの。追善,供養などのために地中に埋め,その上に年月日,目的などを記した石塔の類を建てることが多い。江戸時代に盛行した」とある。
この一字一石塔には浄土三部妙典とある。浄土三部経の経典を書写しているのだろうか。
◇「浄土三部経(じょうどさんぶきょう)」
「浄土三部経(じょうどさんぶきょう)」とは、『仏説無量寿経』、『仏説観無量寿経』、『仏説阿弥陀経』の三経典をあわせた総称である。法然を宗祖とする浄土宗や親鸞を宗祖とする浄土真宗においては浄土三部経を根本経典としている。ただし時宗は『阿弥陀経』を重んじる(Wikipedia)」とある。
宮脇川傍の里程石と徳右衛門道標・舟形道標
「ここから道は東へ400mほど進んで山之内川を越え、大西小学校を左に見てさらにJR線を横切ると宮脇川にかかる。その手前に「松山札辻より九里」の里程石と並んで延命寺を案内した徳右衛門道標がある。このほか数基の舟形石仏もあり、中の1基は道標にもなっている(「えひめの記憶」)」の記事に従い旧街道の遍路道を東に進む。
宮脇川西詰、木立の中に「松山札辻より九里」と読める里程石、その脇に茂兵衛道標、里程石と茂兵衛道標を囲むようにいくつかの舟形石仏が並ぶ。徳右衛門道標には正面にはお地蔵さまの像とともに「是より延命寺迄一里」と刻まれているようだが、摩耗してよくわからなかった。舟形石仏の道標も中央の石仏に手印らしきものがかろうじて見えた(ように感じた)。
●一里塚
里程石脇にあった一里塚の案内には「一里塚 一里塚は道行く人に距離がわかるように立てた道しるべである。松山の札の辻(現在の松山城西堀北端地点で、もとここに松山藩の札場=制札を提示する場所があった)を起点として、一里(約4㎞)ごとに立てられたものである。
この付近の一里塚は
○菊間町佐方に 八里
○今治市(野間農協の所の四つ辻)に 十里
○波方町の樋口(沢の大池の所)に 十里
○波方小学校の所に 十一里
の一里塚が立っていたが、今では紛失して見られないところもある。この一里塚は当初は木の柱であったが、寛保元年(1741)祐筆水谷半蔵が達筆をふるい、石柱になったという記録がある」とあった。
菊間町佐方の八里の里程石は、亀岡小学校校庭で見た里程石である。十里の里程石のある野間農協とは現在の「JAおちいまばり乃万(今治市阿片波方)。波方のふたつの里程石は波止浜街道にある(あった)のだろうが未確認。
井手家屋敷
宮脇川を越え、「遍路道はさらに北東に600mほど進んで右折し、左に曲がるとJR大西駅前通りの新町に至る。新町は一直線に400~500mほど続く町並みで、大きな瓶(かめ)を二つ、天水桶として屋根に乗せた旧大庄屋井手家屋敷も残り、格子や土塀などのある旧家も多い。この井手家の前にも「左へんろ道」の道標があったが現在行方不明である(「えひめの記憶」)」との記事にある井出家屋敷に。
堂々としたお屋敷の塀にあった案内には、「天水瓶のある大庄屋井手家 江戸の初期、徳川家に味方した大庄屋井出家は、その功績により「なんでも望みをかなえてやる」とのお達しで、わらぶき屋根を瓦に変え、防火用に天瓶を置くことを許された。
その後、松山藩主の参勤交代の時には本陣(定宿)となっていた。昭和9年(1934)大井村が譲り受け、同18年内部や窓を大改造し役場として使用し昭和50年(1975)まで続いた。その後、農協や漁協にも利用されたことがある」とあった。
松山藩主の参勤交代のルートは三津の湊から海路をとり、北条沖を進み大三島の東の岩城島に泊まり、鞆・下津井と瀬戸の海を渡るといった記事を読んだことがある。参勤交代でこの地を通ることもあったのだろうか。
大西町新町三叉路の道標
井手家前の遍路道を進むと、「突き当たりの三差路に道標がある。今治街道と波止浜街道の分岐点である。この地は大井新町札場と呼ばれ、藩政時代の大制札場(藩の掟(おきて)・条目・禁令などを書いた板札を立てた場所)であったという(「えひめの記憶」)」三叉路に。
三差路には四国の道の石碑とともに、道標には手印とともにへんろ道と刻まれていた。
安養寺の道標
「遍路道は、道標(私注;上述大西町新町三叉路の道標)の指示に従って右折して、紺原を通り国道に合流し、品部川へと向かう。ここで遍路道を少し離れるが、1kmほど南東山麓の紺原中之谷に安養寺がある。その山門前のブロック塀の中に、「紺原地蔵」と共に遍路道標が立っている。戒名を刻んでおり、遍路墓を兼ねた道標は珍しい。
この道標は、もと新町から国道に出る三差路の手前10mmほどの所にある紺原集会所の辺りに、紺原地蔵と共にあったが、大正4~6年の耕地整理で共に現在地に移されたものという(「えひめの記憶」)」とある安養寺にちょっと立ち寄り。遍路墓を兼ねた道標がどういったものか、との想い。
旧街道から国道196号に合流し、ほどなく右折し成り行きで山裾にある安養寺に向かう。細い坂道を登り切ったところ、質素でいい雰囲気のお寺様。本堂、境内の小祠にお参り、お寺様の前の道脇にあるブロック塀で囲まれた一角に戻る。そこにはお地蔵さまとともに戒名が刻まれた道標があった(戒名は不敬にあたるかと思い記載せず)。延命寺という文字ははっきり読める。
一方、2基あるお地蔵さまには「紺原地蔵」と銘したものはなく台座に「ひとくろだけ地蔵」と銘したお地蔵さまがある。ブロック塀のあった案内には; 「お地蔵さん 江戸時代に建立されもとは旧道の紺原集会所付近にあった。その辺りで沢山のキリスト信者が処刑されたと言われ、これら受難者の霊を弔うため建てられたと伝えられる。四国遍路の道標もある」とあるが、この説明と紺原地蔵、そして「ひとくろだけ地蔵」の繋がりがよくわからない。
あれこれチェックすると、「ひとくろだけ地蔵」がキリシタン地蔵のことであり、ここからは推察だが、紺原集会所前にあったが故にこのキリシタン地蔵を「紺原地蔵」と称したのではないだろうか。「ひとくろだか」の意味は不明。 五十三番札所・円明寺にもキリシタン灯籠があった。愛媛のキリシタンについてちょっと調べてみようかとも思い始める。
●安養寺
創建は享保2年(1529)。その後荒廃していた時期をへて、豊後の久留島より来島の櫓を貰い受け堂宇を一新した。また、17世紀後半の延宝年間には先ほど出合った大庄屋・井手家の檀家寺としての知遇を受け、紺原の祈祷寺として今日にいたる、といった案内があった。
品部川
安養寺から国道に戻り品部川に架かる吉田橋を渡る。「品部」川ってなんとなく気になる。川の国道下流に「品部」という地名が見える。川名の由来は品部地区を下ることにあるのだろうが、その「品部」ってなんとなく大和政権における部民(べのたみ)に関りがあるように思える。特に根拠があるわけではない、妄想の類ではある。
部民とは大和政権において職業や技術をもって王に仕える集団のことであり、この品々(=様々な)部民の総称として「品部」が用いられたようである。 で、この地域の「品部」が部民制の「品部」に関係があるかどうか不詳ではある。
乗禅寺
品部川を越え700mほど国道を進むと三差路となり、国道は新・旧196号に分かれる。左の旧国道に入り800mほど進むと延喜店交差点に。番札所五十四番札所・延命寺は旧国道を東に進むが、ここで交差点を北に折れ、乗禅寺にちょっと立ち寄り。「えひめの記憶」に記される国の重要文化財に指定されている11基の石塔を訪ねることにする。
北に600mほど進み、成り行きで左に折れ山裾の乗禅寺に。いい感じのお寺さま。石段を上り山門を潜り本堂にお参り。境内には西国三十三観音霊場も見られた。本尊は後醍醐天皇ゆかりの観音様とのことである。
●国指定重要文化財の石塔11基
境内に石塔の写真のある案内がある。案内には「村上海賊の物語 戦国時代、宣教師ルイス・フロイスをして"日本最大の海賊"と言わしめた村上海賊。理不尽に船を襲い、金品を強奪する海賊(パイレーツ)とは対照的に、村上海賊は掟に従って航海の安全を保障し、瀬戸内海の交易・流通の秩序を支える海上活動を生業とした。
その本拠地「芸予諸島」には、活動拠点として築いた「海城」群など、海賊たちの記憶が色濃く残っている。尾道・今治をつなぐ芸予諸島をゆけば、急流が渦巻くこの地の利を活かし、中世の瀬戸内海航路を支配した村上海賊の生きた姿を現代において体感できる」との説明とともに芸予諸島に築かれた村上海賊の拠点地図と、また、「乃万地区の石塔群 村上海賊が台頭する前後の、鎌倉時代末期から南北朝時代に隆盛する石造文化を代表する宝篋印塔・五輪塔などの石造群。かつて「乃万」と呼ばれた延喜・野間・神宮などに多く見られる。その意匠に芸予諸島を介した職人の移動の証をみることができる。村上海賊の時代に発展を遂げる南北交流の礎となった」との説明があった。
案内のクレジットは「村上海賊魅力推進協議会」となっており、石塔群には村上海賊衆の存在が関与大いにあった、ということだろう。実際、来島村上氏ゆかりの地を訪ねるきっかけともなった来島は道を北に進んだ波止浜の少し沖合にある。
それはともあれ、肝心の石塔群の場所の案内がない。案内の写真をもとに神仏混淆の名残を伝える延喜天王社の裏手に廻り込むと、塗塀に囲われた一角に石造群(宝篋印塔5基、五輪塔4基、宝塔2基)が並んでいた。
●乗禅寺
このお寺さんは「延喜の観音さん」と称される。平安時代の延喜年間、後醍醐天皇の夢枕にこのお寺様の本尊の観音様が現れる。この故に後醍醐天皇の祈願所となり隆盛を極めた、と。後醍醐天皇からの祈祷申込書や足利尊氏の祈祷申込指令所も寺には原形のまま保存される、とのことである。 また、この地が延喜と呼ばれる所以は、上述延喜年間の後醍醐天皇の縁起に関わるものではあろう。
◆延喜天王社
境内にあった、神仏混淆の名残を残す社の名は「延喜天王社」とある。あまり聞いたこともない社名であり、この社名になった経緯など知りたいのだが、チェックしてもヒットしなかった。単に「延喜」の地にあるだけのことだろうか。
五十四番札所・延命寺
乗禅寺から延喜点交差点まで戻り、現在県道34号となった旧国道196号を東に向かう。交差点から500mほど進むと県道の左側に「四國霊場五十四番延命寺参道」とある大きな石柱がある。ここを左折するのが延命寺参道となるのだが、「えひめの記憶」には「この石柱から150m足らず手前の県道筋、歯科医院横の路地に入って北方へ進むと、突き当たりの三差路の山際に2基の道標が台石の上に並んでいる。この道もまた延命寺への遍路道であったと思われる。その三差路を右に100m余進むと前述の参道と合流する」とある。
●道標2基
記事に従い細路を進むと、かすかに手印が読める道標と舟形地蔵がある。舟形地蔵は摩耗し文字を読むことはできなかった。道標箇所から道なりに右に進むと上述参道との道に合わさる。
●駐車場入口の茂兵衛道標
「合流してすぐの所にある延命寺駐車場入口の左山際に茂兵衛道標がある。刻字の「是迄打もどり大便利」とは、延命寺巡拝後に、荷物をここに預け、次の札所南光坊を参拝して、この地まで逆戻りして、ここから泰山寺へ向かうのが便利であるとの意である(「えひめの記憶」)」とある茂兵衛道標に。 正面に延命寺を示す手印、その他の面には「右 五十・・願主中務茂兵衛」「五十・・南光坊」「大正四年」といった文字が読める。
「南光坊云々」の面には上記解説の文字が刻まれているのだろうが、摩耗して素人には読めない。また、この道標に五十三番圓明寺への逆打ち案内もきざまれているとのこと。「右 五十・・:」がその文字を刻んでいるのだろうか。大正四年は茂兵衛71歳、258回目の巡礼のときを示す。78歳で大往生するまで、生涯280回の遍路歩きの晩年の頃である。
なお、現在この駐車場は大型バスなどの駐車スペースとなっており、普通乗用車は参道を進んだ先にある。
●仁王門手前の道標2基
「えひめの記憶」に「仁王門の前には、「ぎゃく」の「ぎ」の一部が欠けて「さゃく 遍照院江三里十二丁」となった道標ともう1基の道標がある。また重藤久勝による明治35年(1902)巡拝10度目供養の4mほどの石柱もある。 この道標(私注:上述「もう1基の道標」は「延命寺」の部分だけが硯(すずり)の縁のような枠取りの中に彫り直されている。既述の安養寺の道標もそうであるが、今治市内には、このように「圓明寺」の部分だけを削り取って「延命寺」と彫り直したと思われる道標が何基かある」とある仁王門前の道標に。
仁王門前というより参道途中、大賀ハスで知られる池近くに大小2基の道標が立つ。ちいさいほうには「きゃく 遍照院(私注;今治市菊間にある)」といった文字が読める。大きな道標には「五十四番」の文字とともに、記事の如く「硯(すずり)の縁のような枠取りの中」に延命寺と刻まれていた。
●二の門前の徳右衛門道標
かつて今治城の城門であったとの二の門の左手に徳右衛門道標がある。「是ヨリ別宮迄一里」と読める。 別宮とは五十五番札所・南光坊に隣接する別宮大山祇神社のこと。大三島にある大山祇神社を勧請し建立したもの。本宮と区別するため別宮と称す。
南光坊は、元は大三島の大山祇神社の属坊のひとつであったが、別宮を移すときその別当寺として現在地に移った。 往昔、神仏混淆の時代は通称「別宮さん」と称される別宮大山祇神社と南光坊は一体のものであったが故の「別宮迄」の表記ではあろう。
「やがて松山市堀江町に入り明神川を渡ったところで道は、JR予讃線の線路によって90mほど消滅している。東側を並行する国道196号は跨線(こせん)橋で鉄道線路を越えている。線路の向こう側には旧街道を行く遍路道がずっと続いており、鉄道と国道との間を北上、権現川を渡り、家並みのある通りを抜けて郷谷川に架かる前川橋を渡る。
橋の北の十字路北東角にアスファルトに埋もれた道標がある。水害のたびに堤防がかさ上げされ、路面が高くなって埋もれたのだという。標石の二面は塀と電柱に接しているため刻字は読めない(「えひめの記憶」)」の記事を目安に郷谷川に架かる前川橋を目指す。
●お旅所
国道196号と予讃線が交差する少し手前に明神川の水路がある。記事に拠ればそこから先は、旧街道は消滅しているとのことであり、国道を跨線橋で渡り、右手に見える如何にも旧街道といった道筋に下りる。道を南に少し戻り旧街道南端を確認。国道と予讃線の土手に囲まれた旧街道南端部には「お旅所」の石碑があった。
「お旅所」は神社祭礼の際、神輿にのった神様が休憩・宿泊する場所。近くに「内宮」などと如何にもといった地名がある。この地名は神功皇后の三韓征伐といった神話において、この地に戦勝祈願のため内宮(ないぐう)を建てたことに由来し、その社は現在内外神社として福角町にある。その内外神社なのか、また同じく福角町にある正八幡神社のものか、ちょっとチェックしただけではわかのらなかった。
●郷谷川・前川橋北詰の道標
道を折り返し、権現川を渡り三叉路を右に道をとり郷谷川に架かる前川橋を渡ると、正面十字路角に、あらぬ方向を指す手印とともに、遍の字だけが読める、道に埋まった道標があった。
堀江の里程石
「ここからはしばらく遍路道は旧街道の面影を残している家並みを行く。北進して三差路を右折して東へ進む。この右折した東南角地を占める門屋邸(堀江町1526)内庭には、松山藩の里程石「松山札辻より弐里」が保存されている。
この松山藩の里程石とは、松山城堀の西北角の「札の辻」を起点にして今治街道及び波止浜街道に一里ごとに設けられたもので、はじめ標木であったが寛保元年(1741)に標石を建立したという(「えひめの記憶」)」の記事を頼りに先に進む。門屋邸内庭にあるという里程標はさすがに見ることはできないだろうと思っていたのだが、お屋敷の門が空いており、道路から里程標を見ることができた。
「ここからはしばらく遍路道は旧街道の面影を残している家並みを行く。北進して三差路を右折して東へ進む。この右折した東南角地を占める門屋邸(堀江町1526)内庭には、松山藩の里程石「松山札辻より弐里」が保存されている。
この松山藩の里程石とは、松山城堀の西北角の「札の辻」を起点にして今治街道及び波止浜街道に一里ごとに設けられたもので、はじめ標木であったが寛保元年(1741)に標石を建立したという(「えひめの記憶」)」の記事を頼りに先に進む。門屋邸内庭にあるという里程標はさすがに見ることはできないだろうと思っていたのだが、お屋敷の門が空いており、道路から里程標を見ることができた。
●光明寺
「遍路道の行く方向とは逆に三差路を左折すると、すぐ突き当たりが光明寺で、門前には享保大飢饉の供養碑が立っている(「えひめの記憶」)という光明寺にちょっと立ち寄り。山門手前、右手のお堂の前に石碑が建つ。
「享保の飢饉の供養塔と追遠の碑 供養塔には「南無阿弥陀仏」が、1881年に建てられた追遠の碑には飢饉の惨状や村人の思いが刻まれている。
1732年(江戸時代中期)に起きた飢饉は、天候不順、ウンカ、メイチュウ、イナゴの大量発生で作物が食い荒らされたことによる。
人々は草の根や木の皮などを食料にしたが、飢え死にする者が多く松山藩では5700名余り、堀江村では人口800人余りの半数以上が餓死した。人々に分ける麦ぬかを積んだ船が堀江港に着くと、大勢の人が集まってきたが、途中で野垂れ死にする人も多かった。
堀江村の人々は野ざらしになっていた死体を光明寺前に集めた手厚く埋葬した」とあった。
堀江の茂兵衛道標
光明寺から旧街道を行く遍路道に戻り、「東へ150mほど行くと三差路があって、その東南の角に明治19年(1886)建立の茂兵衛「八十八度目為供養」の彫りが深くて重厚な道標(52)が立っている。順路と逆路と二つの遍路道のほか、「みやしま(宮島)出舟所」と堀江の港を案内している。旧街道を行く遍路道は指示通り直進である(「えひめの記憶」)」とある茂兵衛道標に。
手印とともに、「右 遍路道」「左 逆遍路道」、さらに北方向に手印とともに「みやしま*舟*」と刻まれた文字が読める。
●堀江港
堀江港へちょっと立ち寄り。道を北に進み県道347号・堀江港交差点を渡り更に北に直進すると港に着く。
「えひめの記憶」には「港へは道標(私注;三叉路の茂兵衛道標)の指示に従って左折北進し、国道196号(私注;現在は県道347号)を越えさらに進むと約400mで堀江港に至る。堀江は古くからの港で知られる。江戸時代には松山藩領内十三浦の一つで、領内の旅人が船出する所といわれ、本州方面への舟の発着場所として賑(にぎ)わっていた。
とくに円明寺を打った後、安芸の宮島へ立ち寄る遍路が相当数あったらしく、『伊予道後温泉略案内』の中にも、「みやじま (中略)へんろはほりえよりかいしやう(海上)かた道十九り えんめいじ下ニつく」などとある。すなわち、宮島等の参詣を組み入れた遍路行が、江戸後期から明治初期までしばしば行われたようである。三津と堀江の港がよく利用されていた(中略)。彼らは参詣後再び四国へ戻り、佐方(菊間町)、大井新町(大西町)などに上陸して延命寺へ向かった。結果的には、長丁場である「九里八丁」の陸路を舟で迂回して省略し、道中旅の楽しさを味わっているともいえる。
また、明治16年(1883)出版の『四国霊場略縁起 道中記大成』では、「是より安芸の宮嶋参詣の人は、五十二番五十三番(に)札(を)おさめ、それより十八丁行(き)、堀江町に宮嶋行(き)の早舟あり。上り所大井の町にて約束すべし61)」と案内している。明治の初めころまでは、宮島行きは堀江からの早舟が便利であったのであろうか。また、荷物の積み下ろしは堀江、客は三津浜という時代が帆前船から汽船に変わるまで続いたともいう」とある。
予讃線・堀江駅
「再び旧街道を行く遍路道に戻り、道標(私注:三叉路の茂兵衛道標)の指示に従って直進する。道はゆるやかに右カーブしつつJR堀江駅前に至る。この間の家並みには格子戸のある家が多く、かつては高橋屋・朝日屋などの遍路宿が営まれ、昔の旅龍屋(はたごや)の面影を残しているものもある。
JR堀江駅前の広場左角には毘沙門(びしゃもん)堂がある。駅前から道は放射線状になっている。左折し北西へ行く道は県道堀江港堀江停車場線で堀江港へ向かう。右側の道が旧街道を行く遍路道である。約200m進むと小川があり、その先は開発された住宅地になり道は消滅している。かつての道は小川を越えて200mほど北へ直進し、今は国道196号(私注;現在県道347号)となっている旧街道を行く遍路道につながっていた。今は小川に出たところで左折し、少し行って国道196号(私注;現在県道347号)に合流して進む(えひめの記憶」)」の記事に従い遍路道を進む。
堀江駅前で毘沙門堂を見遣り、道なりに進み県道347号に戻る。旧国道196号は現在松山北条バイパスとなり県道347号の東側を走っている。
大谷口バス停
「国道はJR線路に並行して、山が迫った海岸線を走る。約1km北に進むと大谷ロバス停留所があり、旧街道を行く遍路道はここで国道と分かれて右折しJR線路を越え、左折して線路沿いに北上し山道に入る。これからが粟井坂の難所であった。
現在この道は300mほどしか進むことができず、山中で行き止まりである。近年、この道の山側には国道196号松山北条バイパスが走り、すぐトンネルに入るようになっている。
かつて粟井坂越えの道はこのトンネルの近くから山に上り、上り下りしながら海岸寄りに峠を越えて北条市側に降りていたようである。旧街道としてあるいは遍路道としての機能を失ってから久しく、荒廃してその姿を今日たどることはできない。ただ、坂の頂上には、反対側の北条市方面からは登ることができる(「えひめの記憶」)」の記事にある、粟井坂西口にあたる大谷口バス停に。 海岸線に突き出た丘陵地を抜いた国道196号が顔を出し、再び粟井坂トンネルへと入る箇所である。
粟井坂は西から辿ることはできない。先般の「花遍路の道散歩で、粟井坂の東口から坂の頂上までは辿っているので、ここで一応「道を繋いだ」とみなす。
「遍路道の行く方向とは逆に三差路を左折すると、すぐ突き当たりが光明寺で、門前には享保大飢饉の供養碑が立っている(「えひめの記憶」)という光明寺にちょっと立ち寄り。山門手前、右手のお堂の前に石碑が建つ。
「享保の飢饉の供養塔と追遠の碑 供養塔には「南無阿弥陀仏」が、1881年に建てられた追遠の碑には飢饉の惨状や村人の思いが刻まれている。
1732年(江戸時代中期)に起きた飢饉は、天候不順、ウンカ、メイチュウ、イナゴの大量発生で作物が食い荒らされたことによる。
人々は草の根や木の皮などを食料にしたが、飢え死にする者が多く松山藩では5700名余り、堀江村では人口800人余りの半数以上が餓死した。人々に分ける麦ぬかを積んだ船が堀江港に着くと、大勢の人が集まってきたが、途中で野垂れ死にする人も多かった。
堀江村の人々は野ざらしになっていた死体を光明寺前に集めた手厚く埋葬した」とあった。
堀江の茂兵衛道標
光明寺から旧街道を行く遍路道に戻り、「東へ150mほど行くと三差路があって、その東南の角に明治19年(1886)建立の茂兵衛「八十八度目為供養」の彫りが深くて重厚な道標(52)が立っている。順路と逆路と二つの遍路道のほか、「みやしま(宮島)出舟所」と堀江の港を案内している。旧街道を行く遍路道は指示通り直進である(「えひめの記憶」)」とある茂兵衛道標に。
手印とともに、「右 遍路道」「左 逆遍路道」、さらに北方向に手印とともに「みやしま*舟*」と刻まれた文字が読める。
●堀江港
堀江港へちょっと立ち寄り。道を北に進み県道347号・堀江港交差点を渡り更に北に直進すると港に着く。
「えひめの記憶」には「港へは道標(私注;三叉路の茂兵衛道標)の指示に従って左折北進し、国道196号(私注;現在は県道347号)を越えさらに進むと約400mで堀江港に至る。堀江は古くからの港で知られる。江戸時代には松山藩領内十三浦の一つで、領内の旅人が船出する所といわれ、本州方面への舟の発着場所として賑(にぎ)わっていた。
とくに円明寺を打った後、安芸の宮島へ立ち寄る遍路が相当数あったらしく、『伊予道後温泉略案内』の中にも、「みやじま (中略)へんろはほりえよりかいしやう(海上)かた道十九り えんめいじ下ニつく」などとある。すなわち、宮島等の参詣を組み入れた遍路行が、江戸後期から明治初期までしばしば行われたようである。三津と堀江の港がよく利用されていた(中略)。彼らは参詣後再び四国へ戻り、佐方(菊間町)、大井新町(大西町)などに上陸して延命寺へ向かった。結果的には、長丁場である「九里八丁」の陸路を舟で迂回して省略し、道中旅の楽しさを味わっているともいえる。
また、明治16年(1883)出版の『四国霊場略縁起 道中記大成』では、「是より安芸の宮嶋参詣の人は、五十二番五十三番(に)札(を)おさめ、それより十八丁行(き)、堀江町に宮嶋行(き)の早舟あり。上り所大井の町にて約束すべし61)」と案内している。明治の初めころまでは、宮島行きは堀江からの早舟が便利であったのであろうか。また、荷物の積み下ろしは堀江、客は三津浜という時代が帆前船から汽船に変わるまで続いたともいう」とある。
予讃線・堀江駅
「再び旧街道を行く遍路道に戻り、道標(私注:三叉路の茂兵衛道標)の指示に従って直進する。道はゆるやかに右カーブしつつJR堀江駅前に至る。この間の家並みには格子戸のある家が多く、かつては高橋屋・朝日屋などの遍路宿が営まれ、昔の旅龍屋(はたごや)の面影を残しているものもある。
JR堀江駅前の広場左角には毘沙門(びしゃもん)堂がある。駅前から道は放射線状になっている。左折し北西へ行く道は県道堀江港堀江停車場線で堀江港へ向かう。右側の道が旧街道を行く遍路道である。約200m進むと小川があり、その先は開発された住宅地になり道は消滅している。かつての道は小川を越えて200mほど北へ直進し、今は国道196号(私注;現在県道347号)となっている旧街道を行く遍路道につながっていた。今は小川に出たところで左折し、少し行って国道196号(私注;現在県道347号)に合流して進む(えひめの記憶」)」の記事に従い遍路道を進む。
堀江駅前で毘沙門堂を見遣り、道なりに進み県道347号に戻る。旧国道196号は現在松山北条バイパスとなり県道347号の東側を走っている。
大谷口バス停
「国道はJR線路に並行して、山が迫った海岸線を走る。約1km北に進むと大谷ロバス停留所があり、旧街道を行く遍路道はここで国道と分かれて右折しJR線路を越え、左折して線路沿いに北上し山道に入る。これからが粟井坂の難所であった。
現在この道は300mほどしか進むことができず、山中で行き止まりである。近年、この道の山側には国道196号松山北条バイパスが走り、すぐトンネルに入るようになっている。
かつて粟井坂越えの道はこのトンネルの近くから山に上り、上り下りしながら海岸寄りに峠を越えて北条市側に降りていたようである。旧街道としてあるいは遍路道としての機能を失ってから久しく、荒廃してその姿を今日たどることはできない。ただ、坂の頂上には、反対側の北条市方面からは登ることができる(「えひめの記憶」)」の記事にある、粟井坂西口にあたる大谷口バス停に。 海岸線に突き出た丘陵地を抜いた国道196号が顔を出し、再び粟井坂トンネルへと入る箇所である。
粟井坂は西から辿ることはできない。先般の「花遍路の道散歩で、粟井坂の東口から坂の頂上までは辿っているので、ここで一応「道を繋いだ」とみなす。
◇粟井坂から花遍路の里を辿り鴻之坂の峠を越え浅海に◇
粟井坂から松山市の東端、今治市との境をなす浅海地区までは、先般歩いた「花遍路の里を歩く;粟井坂から花遍路の里を辿り鴻之坂の峠を越え浅海に(そのⅠ、そのⅡ)」の記事に任す。
このルートを歩いたきっかけは、図書館でたまたま目にした「鴻之坂の峠越へ」の記事。旧北条市(現在松山市)の東、市街を離れた下難波地区から腰折山の鞍部を抜け、今治市との境を接する浅海(あさなみ)地区に抜ける昔の遍路道とのことではあるが、如何せん距離が4~5キロ程度で余りに短すぎる。
で、その前後をルートに加えようと「えひめの記憶(愛媛県生涯教育センター)」の遍路道をチェックすると、松山の堀江から旧北条の小川の間に粟井坂があり、そこは旧和気郡と旧風早(かざはや)郡との郡境とのこと。鴻之坂の先にある窓峠は旧風早郡と旧野間郡の境でもあり、散歩の区切りとしてもよさそうである。 さらにこのふたつの坂の間の北条は、昔NHKのテレビドラマにあった「花へんろの里」と言う。もとより「花へんろ」は脚本家であり、北条出身の早坂暁氏の造語であり、今の北条市街にドラマにあった風情が残るとも思われないが、坂、と言うか小さな峠に囲まれた「花へんろの里」を歩くって、結構「収まりがいい」し、距離も12~13キロ程度で丁度いいと、辿った遍路道である。
◇北条の浅海から窓坂峠を越え菊間まで◇
先回の散歩、結果的には知らず四国八十八箇所の歩き遍路とはなっていたのだが、旧和気郡と旧風早郡の境にある粟井坂を越え、花遍路の里を辿り、鴻之坂の峠を越えて北条市の浅海(あさなみ)の地蔵堂まで歩いた。
と、浅海の先の遍路道として「窓坂」とか「ひろいあげ坂」という地名が登場する。峠越えフリークとしては、この言葉に惹かれ、浅海から「窓坂」とか「ひろいあげ坂」を経て菊間まで進むことにした(「四国 あるき遍路;北条の浅海から窓坂峠を越え菊間まで」の記事に託す)。
道は海岸線に突き出た丘陵部に張り付くように進む現在の国道196号とは異なり、浅海から窓峠に上り、丘陵に南北を囲まれた道を菊間へと抜けることになる。土木建設の技術が発達する以前には海岸線を通る道は危険極まりなかったということではあろう。
◇菊間から延命寺へと辿る◇
円明寺から延命寺を繋ぐ遍路道散歩、途中の北条から菊間までの20キロほどのメモは上述リンク先の記事に任せ、今回の散歩は浅海から菊間へと抜ける窓峠越えの最終地とした太陽石油精油所手前にある道標から散歩を再開する。
太陽石油精油所正門前の茂兵衛道標
国道196から離れ、高田(こうだ)集落を進み太陽石油精油所正門手前200mほどのところにあった茂兵衛道標からスタート。
青木地蔵堂
国道に戻り、「えひめの記憶」に、「たちは坂の100mほど手前を右へ下ると、遍路道と国道との間に、青木地蔵堂があり、本堂から一段下がった所に覆屋(おおいや)のある井戸がある。この井戸は弘法大師が杖で場所を示し掘らせたものと伝えられ、覆屋の壁板の部分には、大師像を浮彫りにした直径1.5mほどの丸石が立ててあり、その前庭には「弘法大師加持水」と刻まれた石柱が立っている。 また本堂前の通夜堂の軒下には古い松葉杖やギブスなどがうずたかく積まれている。この通夜堂は畳も敷かれていて、今も遍路が無料で泊まれるお堂である」とある青木地蔵堂に向かう。
国道から左に折れ、青木地蔵堂に。記事にある如く通夜堂で歩き遍路の方がゆっくりくつろいでいた。地蔵堂・通夜堂より一段下の広場にある覆屋には大師像が浮き彫りにされた丸石、その前に石で囲まれた井戸水が見える。全国各地に伝わる「弘法大師杖の水」のひとつだろう。覆屋には幾多の石仏も並んでいた。
●青木地蔵堂の道標
「青木地蔵堂への下り道の右側斜面の草叢(むら)に、下部が埋もれた「(右手印)ぎゃく邊」と刻まれた道標が立っている(「えひめの記憶」)」と記される道標を探す。文字通りを解釈すれば、国道から青木地蔵堂へと下る坂道右側の草叢(むら)と読めるのだが、いくら探しても見つからない。
あきらめて、青木地蔵堂を離れ地蔵堂前旧道の坂を上り切ったところ。道の左手の草叢の中に道標が立っていた。これが上述道標のことであろう。なんらかの都合でここに移されたのだろうか。文字は読めないが、手印は逆打方向を示していた。
亀岡小学校校庭の里程石と道標
「地蔵堂を過ぎると遍路道は国道と合流し、そこから500m余り下ると三差路に至る。ここから遍路道は国道と分かれて右に入り種川を渡って、種の集落を北東へ進む。しばらく行くと右手にJR伊予亀岡駅、左手に亀岡小学校がある。 校門を入るとすぐ右側に「今治へ」と「菊間へ一里一丁三十一間」と刻む道標があり、左側植え込みの中にある池の奥に、「松山札辻より八里」の里程石が立っている。この里程石は、ここから1.2kmばかり北東にある高城の変電所付近にあったものという(「えひめの記憶」)」の記事を頼りに亀岡小学校の里程石と道標に向かう。
校庭内とは敷居が高い、と思っていたのだが、道標は正門内のすぐ右手、里程石は正門に接した庭に立っている。学校関係者にお断りを入れるのも仰々しいかと、構内に入らせてもあらう。道標を見た後、池の飛び石伝いに近づき里程石もゆっくりみることができた。道標には「菊間 一里」「今治」といった文字が読める。里程石には「松山札之辻」といった文字が読めた。
佐方川の舟形石仏
「遍路道は北東に進んで佐方川に至る。橋の西南詰の台石に2基の舟形石仏が乗っている。うち1基は道標を兼ねたものである(「えひめの記憶)」とある舟形石仏に向かう。
旧道を進み佐片川に。2基の舟形石仏のうち一基にはお地蔵さまとともに遍路道を示す手印が刻まれていた。
佐方の茂兵衛道標
「一筋に続く道を行くと佐方集落のはずれの三差路に茂兵衛道標が立っている。「左 新道...」と刻まれた大正2年(1913)建立のもので、明治43年(1910)にできた新道も案内している。
旧の遍路道はまっすぐにミカン畑の中を上り、左にカーブしながら家並みの中を下って国道を横切って高城に入る。道標(私注:茂兵衛道標)の「左 新道」に従って進むとすぐ国道に合流し、400mほどで、まっすぐ進んだ旧の遍路道と高城に入る地点で出合う(えひめの記憶)」との記事にある茂兵衛道標の立つ三叉路に。
「左 新道」と刻まれた道標南面には手印で延命寺と、同じく手印とともに円明寺が刻まれる。巡打ち、逆打ち双方を示す道標となっていた。 遍路道は延命寺を示す手印に従い東に向かい、予讃線を通すため切り開かれたような丘陵の間を抜け、佐方集落東端の田圃を見遣りながら国道196号に出る。そこが茂兵衛道標を左に新道を辿ったルートとの合流点である。
高城の茂兵衛道標
「国道から集落に入って50mほど進んだ左側の高城集会所前に茂兵衛道標がある。(中略)徳右衛門道標を改刻したと思われるもので、右面には「世話人朝倉村徳右衛門」の刻名が残されている(「えひめの記憶」)」とある高城集会所前に向かう。
高城集会所前には茂兵衛道標は見つからない。あちこち彷徨うと、国道196号から左に折れ、旧街道を高城に入る角に道標が立っていた。集会所前から移されたのだろうか。
道標には巡打ち、逆打ちの案内だろうか、延命寺と円明寺の文字と左右を示す手印が見える。また、「右 新道」とも刻まれていた。建立は大正5年(1916)とあるので、明治43年(1910)に完成した「新道」を案内していた。「えひめの記憶」に記す「世話人朝倉村徳右衛門」の文字は分からなかった。
大山八幡神社
「えひめの記憶」には、「遍路道は高城を約400m進むと再び国道に合流する。ここまでが菊間町(私注;今治市菊間町佐方)で、これからは越智郡大西町(私注;現在は今治市大西町別府)となる。大西町に入った遍路道は国道を北東に進む。1kmほど進み、国道と分かれた山側の遍路道は、別府の原集落に入る。
現在は国道筋だけになったこの1kmほどの道について、『今治街道』では、大西町に入った旧街道(遍路道)は、すぐ現在の国道と分かれて右手に入り400mほど進んで、また国道を横切り北側に出て大山八幡神社の東麓でカーブしながら、再び国道を横切って原集落へ続いたと推測しているが、「現在の道路からは確認できない」とも記している」とある。
要は、旧街道は辿れないということだ。実際、それらしき名残を感じるような道筋も全く残っていない。であれば、往昔の道筋であった大山八幡神社だけでも訪ねてみようと、今治市大西町別府を走る国道から左に折れ八幡様に。 鳥居を潜り、参道にある珍しい屋根付き注連石を越えて拝殿に。
案内には「祭神 高淤加美神・誉田別命・帯仲津彦命・息長帯姫命・雷神 境内神社 諏訪神社・得居神社・加代之宮社・小祭神社(龍神社等八社) 天明天皇の和銅五年(712)雷神、高淤加美神を勧請、清和天皇の貞観元年(859) 奈良大安寺の僧 行教が宇佐八幡宮より勧請した。また、宇多天皇の弘安五年 (1282)国守河野通有が筑前の宮崎八幡宮より勧請したとも伝えられている。 境内にある諏訪神社・得居神社は安産の神として崇拝され、妊婦は境内の砂を 一握り持ち帰り、無事出産すると、お礼として浜の砂を倍にしてお返しした」とあった。
別府(べふ)の地名由来が、この地に昔怒麻の国造の別館があったので、別府という地名が起こった、との説もあるように古い歴史のある地ではあろうが、神社縁起のレイヤーが重なり、どれが本命かよくわからない。この地の沖合にある怪島(けしま)は河野氏の将が砦を築き斎灘を護っていたとのことなので、河野氏ゆかりの縁起は、それなりに納得感はある。
メモをしながらちょっと気になることが。大山八幡神社って?大山祇神社と八幡神社を足して二で割ったような社名である。祭神もふたつの社に関係する(後付けではあろうが)。大山祇をまつる大三島の人々がこの地に移り社を建て、その後に勢力を増した八幡様も合わせ祀ったのだろうか。単なる妄想。根拠なし。
碇掛天満宮
次いで、「えひめの記憶」には「原を通る一直線の遍路道を1kmほど進むと、海寄りにカーブしてきた国道と再び合流する。合流点右側には菅原道真伝説が残る「碇掛(いかりかけ)天満宮」がある」と記す。 「碇掛」という名前に惹かれてちょっと立ち寄り。「合流点右側には」と軽く記されていたが、参道は国道に突き出た丘陵をぐるりと廻り、急な坂をのぼることになる。
●菅原道真伝説
仁和四年(888)菅原道真公が讃岐守のとき、父是善公が伊予権守をしていた伊予の国を訪ねたと言う。その帰途、三津の湊を船出し、北条の沖合に来た時、急に嵐となり、この地まで船が押し流される。碇を下して上陸し、暫くの間、苫屋に休まれた、とか。これが官公の伝説であり、碇掛天満宮の由来とか。 瀬戸内には道真公の暴風故の、あわや遭難といった船旅にまつわる伝説がいくつか伝わる。大宰府左遷の折とその前の讃岐守の時代のものカテゴリーに分かれ、西条市壬生川には大宰府左遷の下り、暴風に合い上陸し、網を敷いてもてなしてもらう、といった網敷の伝説など、バリエーションも多い。 難破>上陸>苫屋での休憩と天神さまを祀る関係がいまひとつ弱いが、この社は菅公が讃岐守の折の伝説のひとつだろう。
◆五郎兵衛大師
国道196号から碇掛天満宮に向かう分岐点に小祠がある。「五郎兵衛大師」とあった。案内には「悪病、悪霊の侵入を防ぐお大師さんとして信仰されている」と記される。詳しいことはわからなかった。
大西町脇地区の茂兵衛道標
碇掛天満宮から国道に戻ると、「まもなく左手に星の浦海浜公園が見えるが、遍路道はその手前で国道と分かれ右手の山側に入る。
遍路道はJR線沿いの県道大西波止浜港線(15号)を行く。JR線と共に大西跨線橋の下をくぐり、JR線と分かれて大西町新開の集落に入る。 200mほど進んで遍路道が脇川と出合う左手の角に、自然石の一字一石塔と並んで茂兵衛134度目の道標が立っている(「えひめの記憶」)」の記事にある脇川傍の茂兵衛道標に。
「穪讃浄土三部妙典一字一石塔」と刻まれた自然石の横に茂兵衛道標があった。道標の正面は遍路道を指す手印と施主名、その他の面には「明治二十七年」、「願主中務茂兵衛 周防・・四國一三四度目為供養」と刻まれる。 中務茂兵衛は一生を巡礼に捧げ、四国霊場巡礼の回数は280回に及ぶ、とか。この道標はその半分ほどの頃のもの。道標を立て始めたのは42歳、巡礼88度目からとのことである。
◆中務茂兵衛
中務茂兵衛。本名:中司(なかつかさ)亀吉。弘化2年(1845)周防(すおう)国大島郡椋野村 (現山口県久賀町椋野)で生まれた中務茂兵衛は、22歳の時に四国霊場巡礼をはじめ、大正11年(1922)に78歳で亡くなるまで生涯巡礼の旅を続け、実に280回もの巡礼遍路行を行った。
道標は、茂兵衛が厄年である42歳のとき、遍路行が88回を数えたことを記念して建立をはじめ、その数250基以上にも及ぶ(230基ほどは確認済、とか)。
文化遺産としても高く評価されている道標の特徴は、比較的太めの石の四角柱(道標高の平均約124cm)で、必ず建立年月と自らの巡拝回 数を刻んでいる、と。
●一字一石塔
「コトバンク」には「経典を小石に1字ずつ書写したもの。追善,供養などのために地中に埋め,その上に年月日,目的などを記した石塔の類を建てることが多い。江戸時代に盛行した」とある。
この一字一石塔には浄土三部妙典とある。浄土三部経の経典を書写しているのだろうか。
◇「浄土三部経(じょうどさんぶきょう)」
「浄土三部経(じょうどさんぶきょう)」とは、『仏説無量寿経』、『仏説観無量寿経』、『仏説阿弥陀経』の三経典をあわせた総称である。法然を宗祖とする浄土宗や親鸞を宗祖とする浄土真宗においては浄土三部経を根本経典としている。ただし時宗は『阿弥陀経』を重んじる(Wikipedia)」とある。
宮脇川傍の里程石と徳右衛門道標・舟形道標
「ここから道は東へ400mほど進んで山之内川を越え、大西小学校を左に見てさらにJR線を横切ると宮脇川にかかる。その手前に「松山札辻より九里」の里程石と並んで延命寺を案内した徳右衛門道標がある。このほか数基の舟形石仏もあり、中の1基は道標にもなっている(「えひめの記憶」)」の記事に従い旧街道の遍路道を東に進む。
宮脇川西詰、木立の中に「松山札辻より九里」と読める里程石、その脇に茂兵衛道標、里程石と茂兵衛道標を囲むようにいくつかの舟形石仏が並ぶ。徳右衛門道標には正面にはお地蔵さまの像とともに「是より延命寺迄一里」と刻まれているようだが、摩耗してよくわからなかった。舟形石仏の道標も中央の石仏に手印らしきものがかろうじて見えた(ように感じた)。
●一里塚
里程石脇にあった一里塚の案内には「一里塚 一里塚は道行く人に距離がわかるように立てた道しるべである。松山の札の辻(現在の松山城西堀北端地点で、もとここに松山藩の札場=制札を提示する場所があった)を起点として、一里(約4㎞)ごとに立てられたものである。
この付近の一里塚は
○菊間町佐方に 八里
○今治市(野間農協の所の四つ辻)に 十里
○波方町の樋口(沢の大池の所)に 十里
○波方小学校の所に 十一里
の一里塚が立っていたが、今では紛失して見られないところもある。この一里塚は当初は木の柱であったが、寛保元年(1741)祐筆水谷半蔵が達筆をふるい、石柱になったという記録がある」とあった。
菊間町佐方の八里の里程石は、亀岡小学校校庭で見た里程石である。十里の里程石のある野間農協とは現在の「JAおちいまばり乃万(今治市阿片波方)。波方のふたつの里程石は波止浜街道にある(あった)のだろうが未確認。
井手家屋敷
宮脇川を越え、「遍路道はさらに北東に600mほど進んで右折し、左に曲がるとJR大西駅前通りの新町に至る。新町は一直線に400~500mほど続く町並みで、大きな瓶(かめ)を二つ、天水桶として屋根に乗せた旧大庄屋井手家屋敷も残り、格子や土塀などのある旧家も多い。この井手家の前にも「左へんろ道」の道標があったが現在行方不明である(「えひめの記憶」)」との記事にある井出家屋敷に。
堂々としたお屋敷の塀にあった案内には、「天水瓶のある大庄屋井手家 江戸の初期、徳川家に味方した大庄屋井出家は、その功績により「なんでも望みをかなえてやる」とのお達しで、わらぶき屋根を瓦に変え、防火用に天瓶を置くことを許された。
その後、松山藩主の参勤交代の時には本陣(定宿)となっていた。昭和9年(1934)大井村が譲り受け、同18年内部や窓を大改造し役場として使用し昭和50年(1975)まで続いた。その後、農協や漁協にも利用されたことがある」とあった。
松山藩主の参勤交代のルートは三津の湊から海路をとり、北条沖を進み大三島の東の岩城島に泊まり、鞆・下津井と瀬戸の海を渡るといった記事を読んだことがある。参勤交代でこの地を通ることもあったのだろうか。
大西町新町三叉路の道標
井手家前の遍路道を進むと、「突き当たりの三差路に道標がある。今治街道と波止浜街道の分岐点である。この地は大井新町札場と呼ばれ、藩政時代の大制札場(藩の掟(おきて)・条目・禁令などを書いた板札を立てた場所)であったという(「えひめの記憶」)」三叉路に。
三差路には四国の道の石碑とともに、道標には手印とともにへんろ道と刻まれていた。
安養寺の道標
「遍路道は、道標(私注;上述大西町新町三叉路の道標)の指示に従って右折して、紺原を通り国道に合流し、品部川へと向かう。ここで遍路道を少し離れるが、1kmほど南東山麓の紺原中之谷に安養寺がある。その山門前のブロック塀の中に、「紺原地蔵」と共に遍路道標が立っている。戒名を刻んでおり、遍路墓を兼ねた道標は珍しい。
この道標は、もと新町から国道に出る三差路の手前10mmほどの所にある紺原集会所の辺りに、紺原地蔵と共にあったが、大正4~6年の耕地整理で共に現在地に移されたものという(「えひめの記憶」)」とある安養寺にちょっと立ち寄り。遍路墓を兼ねた道標がどういったものか、との想い。
旧街道から国道196号に合流し、ほどなく右折し成り行きで山裾にある安養寺に向かう。細い坂道を登り切ったところ、質素でいい雰囲気のお寺様。本堂、境内の小祠にお参り、お寺様の前の道脇にあるブロック塀で囲まれた一角に戻る。そこにはお地蔵さまとともに戒名が刻まれた道標があった(戒名は不敬にあたるかと思い記載せず)。延命寺という文字ははっきり読める。
一方、2基あるお地蔵さまには「紺原地蔵」と銘したものはなく台座に「ひとくろだけ地蔵」と銘したお地蔵さまがある。ブロック塀のあった案内には; 「お地蔵さん 江戸時代に建立されもとは旧道の紺原集会所付近にあった。その辺りで沢山のキリスト信者が処刑されたと言われ、これら受難者の霊を弔うため建てられたと伝えられる。四国遍路の道標もある」とあるが、この説明と紺原地蔵、そして「ひとくろだけ地蔵」の繋がりがよくわからない。
あれこれチェックすると、「ひとくろだけ地蔵」がキリシタン地蔵のことであり、ここからは推察だが、紺原集会所前にあったが故にこのキリシタン地蔵を「紺原地蔵」と称したのではないだろうか。「ひとくろだか」の意味は不明。 五十三番札所・円明寺にもキリシタン灯籠があった。愛媛のキリシタンについてちょっと調べてみようかとも思い始める。
●安養寺
創建は享保2年(1529)。その後荒廃していた時期をへて、豊後の久留島より来島の櫓を貰い受け堂宇を一新した。また、17世紀後半の延宝年間には先ほど出合った大庄屋・井手家の檀家寺としての知遇を受け、紺原の祈祷寺として今日にいたる、といった案内があった。
品部川
安養寺から国道に戻り品部川に架かる吉田橋を渡る。「品部」川ってなんとなく気になる。川の国道下流に「品部」という地名が見える。川名の由来は品部地区を下ることにあるのだろうが、その「品部」ってなんとなく大和政権における部民(べのたみ)に関りがあるように思える。特に根拠があるわけではない、妄想の類ではある。
部民とは大和政権において職業や技術をもって王に仕える集団のことであり、この品々(=様々な)部民の総称として「品部」が用いられたようである。 で、この地域の「品部」が部民制の「品部」に関係があるかどうか不詳ではある。
乗禅寺
品部川を越え700mほど国道を進むと三差路となり、国道は新・旧196号に分かれる。左の旧国道に入り800mほど進むと延喜店交差点に。番札所五十四番札所・延命寺は旧国道を東に進むが、ここで交差点を北に折れ、乗禅寺にちょっと立ち寄り。「えひめの記憶」に記される国の重要文化財に指定されている11基の石塔を訪ねることにする。
北に600mほど進み、成り行きで左に折れ山裾の乗禅寺に。いい感じのお寺さま。石段を上り山門を潜り本堂にお参り。境内には西国三十三観音霊場も見られた。本尊は後醍醐天皇ゆかりの観音様とのことである。
●国指定重要文化財の石塔11基
境内に石塔の写真のある案内がある。案内には「村上海賊の物語 戦国時代、宣教師ルイス・フロイスをして"日本最大の海賊"と言わしめた村上海賊。理不尽に船を襲い、金品を強奪する海賊(パイレーツ)とは対照的に、村上海賊は掟に従って航海の安全を保障し、瀬戸内海の交易・流通の秩序を支える海上活動を生業とした。
その本拠地「芸予諸島」には、活動拠点として築いた「海城」群など、海賊たちの記憶が色濃く残っている。尾道・今治をつなぐ芸予諸島をゆけば、急流が渦巻くこの地の利を活かし、中世の瀬戸内海航路を支配した村上海賊の生きた姿を現代において体感できる」との説明とともに芸予諸島に築かれた村上海賊の拠点地図と、また、「乃万地区の石塔群 村上海賊が台頭する前後の、鎌倉時代末期から南北朝時代に隆盛する石造文化を代表する宝篋印塔・五輪塔などの石造群。かつて「乃万」と呼ばれた延喜・野間・神宮などに多く見られる。その意匠に芸予諸島を介した職人の移動の証をみることができる。村上海賊の時代に発展を遂げる南北交流の礎となった」との説明があった。
案内のクレジットは「村上海賊魅力推進協議会」となっており、石塔群には村上海賊衆の存在が関与大いにあった、ということだろう。実際、来島村上氏ゆかりの地を訪ねるきっかけともなった来島は道を北に進んだ波止浜の少し沖合にある。
それはともあれ、肝心の石塔群の場所の案内がない。案内の写真をもとに神仏混淆の名残を伝える延喜天王社の裏手に廻り込むと、塗塀に囲われた一角に石造群(宝篋印塔5基、五輪塔4基、宝塔2基)が並んでいた。
●乗禅寺
このお寺さんは「延喜の観音さん」と称される。平安時代の延喜年間、後醍醐天皇の夢枕にこのお寺様の本尊の観音様が現れる。この故に後醍醐天皇の祈願所となり隆盛を極めた、と。後醍醐天皇からの祈祷申込書や足利尊氏の祈祷申込指令所も寺には原形のまま保存される、とのことである。 また、この地が延喜と呼ばれる所以は、上述延喜年間の後醍醐天皇の縁起に関わるものではあろう。
◆延喜天王社
境内にあった、神仏混淆の名残を残す社の名は「延喜天王社」とある。あまり聞いたこともない社名であり、この社名になった経緯など知りたいのだが、チェックしてもヒットしなかった。単に「延喜」の地にあるだけのことだろうか。
五十四番札所・延命寺
乗禅寺から延喜点交差点まで戻り、現在県道34号となった旧国道196号を東に向かう。交差点から500mほど進むと県道の左側に「四國霊場五十四番延命寺参道」とある大きな石柱がある。ここを左折するのが延命寺参道となるのだが、「えひめの記憶」には「この石柱から150m足らず手前の県道筋、歯科医院横の路地に入って北方へ進むと、突き当たりの三差路の山際に2基の道標が台石の上に並んでいる。この道もまた延命寺への遍路道であったと思われる。その三差路を右に100m余進むと前述の参道と合流する」とある。
●道標2基
記事に従い細路を進むと、かすかに手印が読める道標と舟形地蔵がある。舟形地蔵は摩耗し文字を読むことはできなかった。道標箇所から道なりに右に進むと上述参道との道に合わさる。
●駐車場入口の茂兵衛道標
「合流してすぐの所にある延命寺駐車場入口の左山際に茂兵衛道標がある。刻字の「是迄打もどり大便利」とは、延命寺巡拝後に、荷物をここに預け、次の札所南光坊を参拝して、この地まで逆戻りして、ここから泰山寺へ向かうのが便利であるとの意である(「えひめの記憶」)」とある茂兵衛道標に。 正面に延命寺を示す手印、その他の面には「右 五十・・願主中務茂兵衛」「五十・・南光坊」「大正四年」といった文字が読める。
「南光坊云々」の面には上記解説の文字が刻まれているのだろうが、摩耗して素人には読めない。また、この道標に五十三番圓明寺への逆打ち案内もきざまれているとのこと。「右 五十・・:」がその文字を刻んでいるのだろうか。大正四年は茂兵衛71歳、258回目の巡礼のときを示す。78歳で大往生するまで、生涯280回の遍路歩きの晩年の頃である。
なお、現在この駐車場は大型バスなどの駐車スペースとなっており、普通乗用車は参道を進んだ先にある。
●仁王門手前の道標2基
「えひめの記憶」に「仁王門の前には、「ぎゃく」の「ぎ」の一部が欠けて「さゃく 遍照院江三里十二丁」となった道標ともう1基の道標がある。また重藤久勝による明治35年(1902)巡拝10度目供養の4mほどの石柱もある。 この道標(私注:上述「もう1基の道標」は「延命寺」の部分だけが硯(すずり)の縁のような枠取りの中に彫り直されている。既述の安養寺の道標もそうであるが、今治市内には、このように「圓明寺」の部分だけを削り取って「延命寺」と彫り直したと思われる道標が何基かある」とある仁王門前の道標に。
仁王門前というより参道途中、大賀ハスで知られる池近くに大小2基の道標が立つ。ちいさいほうには「きゃく 遍照院(私注;今治市菊間にある)」といった文字が読める。大きな道標には「五十四番」の文字とともに、記事の如く「硯(すずり)の縁のような枠取りの中」に延命寺と刻まれていた。
●二の門前の徳右衛門道標
かつて今治城の城門であったとの二の門の左手に徳右衛門道標がある。「是ヨリ別宮迄一里」と読める。 別宮とは五十五番札所・南光坊に隣接する別宮大山祇神社のこと。大三島にある大山祇神社を勧請し建立したもの。本宮と区別するため別宮と称す。
南光坊は、元は大三島の大山祇神社の属坊のひとつであったが、別宮を移すときその別当寺として現在地に移った。 往昔、神仏混淆の時代は通称「別宮さん」と称される別宮大山祇神社と南光坊は一体のものであったが故の「別宮迄」の表記ではあろう。
●鐘楼
二の門の左手に梵鐘がある。案内には「梵鐘(近見二郎) この鐘は四面に当山の歴史が刻まれてあるので、当山のみならず郷土史上にもかけがえのない文化財である。 去る大戦中、軍当局よりこの鐘を軍用に供出せよとの厳命を受けたが、故越智熊太郎先生の絶大なご尽力でからくも供出を免除され現存されているものである」とある。
延命寺の鐘には代々「近見山」から愛称がつけられ、永元年(1704)に造られたと伝わるこの梵鐘が近見二郎と記される所以である。もっとも、このお寺さまの山号が「近見山」であるのだが。どうでもいいことではあるが、近見山からの見下ろす瀬戸の景観は誠に素晴らしい。
●真念道標
二の門を潜り、本堂・大師堂にお参りし、「えひめの記憶」に「二の門を入ると大杉の右側に、真念道標がある。その左に凝然国師供養塔や県(あがた)村庄屋越智孫兵衛の供養塔、道標(私注;真念道標と並ぶ)の右には、21度四国遍路をした自覚法師の供養碑などが建てられている。
これらは平成4年に整備されたもので、真念道標は大杉の根元の植え込みの中、道標(私注;仁王門前の大きい道標)も境内植え込みの中に倒れていたものを立て直したものという。ただ『乃万村郷土誌』には、真念道標については、(高三尺 幅四寸 花岡岩 阿方延命寺門前ニアリ。四百半前ノモノナリト35)」と記されている)とある真念道標に。
本堂に向かって右手に「「真念法師建立の標石」があり「真念法師の出自は不詳であるが、元禄四年六月二十三日(1691)四国巡拝の途上寂となっている。五十余年の間に二十数回巡拝され、巡拝者のために数々の慈善事業をされている 道しるべ標石・札所間の里程・善根宿・四国遍礼霊場記、更に四国遍路功徳記(1690年記)等がそれである。 この標石は四国に24基建立された標石のひとつであり、次の文字が記されている。 為父母六親 菩提澄吟 別島也」とある。 案内下にある「左 遍ろ道」と読める道標がそれだろう。
◆真念
「えひめの記憶」をもとに真念についてまとめておく。「四国遍路が一般庶民の間に広まったのは江戸時代になってからといわれる。その功労者の一人に真念がいる。その真念の出自や活動については、ほとんど皆目といってよいほど明らかでない。
真念の著作(『四国邊路道指南(みちしるべ)』・『四国?礼功徳記(へんろくどくき)』)や、真念たちが資料を提供して寂本が著した『四国礼霊場記』の叙(序文)や跋(ばつ)(後書き)に拠れば、『霊場記』の叙に、著者寂本は、「茲に真念といふ者有り。抖?の桑門也。四国遍路すること、十数回」と讃え、また『功徳記』の践辞でも木峰中宜なる人物が、「真念はもとより頭陀の身なり。麻の衣やうやく肩をかくして余長なく、一鉢しばしば空しく、たゝ大師につかへ奉らんとふかく誓ひ、遍礼(へんろ)せる事二十余度に及べり」と記している。 あるいはまた『功徳記』の下巻で「某もとより人により人にはむ、抖?の身」とみずから書くように、真念は頭陀行を専らとする僧であり、なかでも弘法大師に帰依するところきわめて深く、四国八十八ヶ所の大師の霊跡を十数回ないしは二十数回も回るほどの篤信の遊行僧だった。あるいは高野山の学僧寂本や奥の院護摩堂の本樹軒洪卓らとのつながりから推して高野聖の一人だったと解してもよいだろう」とある。
ところで、現在我々が辿る四国霊場八十八ヶ所は貞亭4年(1687)真念によって書かれた「四国邊路道指南」によるところが多い、とか。「四国邊路道指南」は、空海の霊場を巡ることすること二十余回に及んだと伝わる高野の僧・真念によって四国霊場八十八ヶ所の全容をまとめた、一般庶民向けのガイドブックといったものである。霊場の番号付けも行い順序も決めた。ご詠歌もつくり、四国遍路八十八ヶ所の霊場を完成したとのことである。
遍路そのものの数は江戸時代に入ってもまだわずかであり、一般庶民の遍路の数は、僧侶の遍路を越えるものではなかったようだが、江戸時代の中期、17世紀後半から18世紀初頭にかけての元禄年間(1688~1704)前後から民衆の生活も余裕が出始め、娯楽を兼ねた社寺参詣が盛んになり、それにともない、四国遍路もまた一般庶民が辿るようになった、と言われる。
●供養塔
真念の案内に続けて「頓圓自覚法師碑」と記され「縣村の人、鴨狩りの名人半生に渡る、数々の殺生にある日ふとしたことからその愚行と世の無常を悟り、心機一転自ら自覚と号し、四国霊場21回を始め全国霊場を順次巡拝して自ら犯した罪を償った。1735年日本廻国供養碑を阿方村笠坊に建立。 1754年1月12日寂 阿方・川端・小沢家の人」とある。 真念道標と並ぶ道標の本堂側に大きな角柱石碑が立ち「南無大師遍照金剛 四国二十一度供」と読めるので、この石柱が自覚法師碑であろう。本堂側に並ぶ石碑は「えひめの記憶」にある供養塔であろう。
●延命寺縁起
寺伝によれば、聖武天皇の勅願を受けて養老4年(720年)に行基が不動明王を刻み堂宇を建立して開基。弘仁年間(810年?824年)に空海(弘法大師)が嵯峨天皇の勅命によって再興し、不動院圓明寺と名付けたという。 かつては現在地の北の近見山にあって、谷々に百坊を有し信仰と学問の中心であった。しかし、再三戦火に焼かれて境内を移転し、享保12年(1727年)に現在の地に移転した。 鎌倉時代には著書の多きこと日本一で学問は内外に通じ、深く後宇多天皇の尊崇を受け、生前に国師の号を賜ったほどの大学僧示観国師凝然がこの寺の西谷の坊で八宗綱要を著したことは有名である。明治の頃、五十三番札所の須賀山圓明寺との混同を避けるため、通称の延命寺を寺号とした(「えひめの記憶」)
◆圓明寺から延命寺
「この延命寺がかつて「圓明寺」と記されていたことは、鎌倉時代末期の僧凝然がこの寺で書いた『八宗綱要』の跋文に「文永五年(1268)戊辰正月二十九日於豫州圓明寺西谷記之(中略)凝然生年廿九)」と記していることや、境内に残る宝永元年(1704)鋳造の梵鐘(ぼんしょう)に「圓明寺」の文字が刻まれていることなどからも明らかである。その「圓明寺」から今日の「延命寺」へ寺名を変更したことについては、「この寺はもと円明寺(えんみょうじ)と称し、(中略)明治初年になって、第五十三番札所円明寺と同字同音なのを区別するため延命寺になった)」と記す書もある。
あるいは「明治初期まで五十三、五十四番が同じ『円明寺』となっているものが多く、『延命寺』という寺名も存在していたが、遍路宛の郵便、その他の混乱を防ぐため明治初期に五十四番は「延命寺」に統一、これを機に道標も五十四番『円明寺』は、『延命寺』に改刻された」ともいう。現在松山市馬木町には文久3年(1863)銘の「是よりあかた圓明寺九里六丁」と五十四番札所を「圓明寺」と記した道標(私注;上述「馬木の道標」)がある。
一方波止浜(今治市)にある文政13年(1830)銘のある道標には「延命寺へ一里」、文化11年(1814)に亡くなった武田徳右衛門が建てた、大西町にある道標にも「延命寺工一里」とあるように、江戸時代後期に「延命寺」と刻まれた道標も残っており、いつ「延命寺」になったかについては明らかではない(「えひめの記憶」)。
これで五十二番札所・太山寺から五十三番札所・円明寺を打ち松山を離れ、今治市にある五十四番札所・延命寺を繋いだ。次は逆打ちで辿った六十一番札所・香園寺から六十番札所・横峰寺への遍路道を繋ぐため今治市から西条市に向かうことにする。
二の門の左手に梵鐘がある。案内には「梵鐘(近見二郎) この鐘は四面に当山の歴史が刻まれてあるので、当山のみならず郷土史上にもかけがえのない文化財である。 去る大戦中、軍当局よりこの鐘を軍用に供出せよとの厳命を受けたが、故越智熊太郎先生の絶大なご尽力でからくも供出を免除され現存されているものである」とある。
延命寺の鐘には代々「近見山」から愛称がつけられ、永元年(1704)に造られたと伝わるこの梵鐘が近見二郎と記される所以である。もっとも、このお寺さまの山号が「近見山」であるのだが。どうでもいいことではあるが、近見山からの見下ろす瀬戸の景観は誠に素晴らしい。
●真念道標
二の門を潜り、本堂・大師堂にお参りし、「えひめの記憶」に「二の門を入ると大杉の右側に、真念道標がある。その左に凝然国師供養塔や県(あがた)村庄屋越智孫兵衛の供養塔、道標(私注;真念道標と並ぶ)の右には、21度四国遍路をした自覚法師の供養碑などが建てられている。
これらは平成4年に整備されたもので、真念道標は大杉の根元の植え込みの中、道標(私注;仁王門前の大きい道標)も境内植え込みの中に倒れていたものを立て直したものという。ただ『乃万村郷土誌』には、真念道標については、(高三尺 幅四寸 花岡岩 阿方延命寺門前ニアリ。四百半前ノモノナリト35)」と記されている)とある真念道標に。
本堂に向かって右手に「「真念法師建立の標石」があり「真念法師の出自は不詳であるが、元禄四年六月二十三日(1691)四国巡拝の途上寂となっている。五十余年の間に二十数回巡拝され、巡拝者のために数々の慈善事業をされている 道しるべ標石・札所間の里程・善根宿・四国遍礼霊場記、更に四国遍路功徳記(1690年記)等がそれである。 この標石は四国に24基建立された標石のひとつであり、次の文字が記されている。 為父母六親 菩提澄吟 別島也」とある。 案内下にある「左 遍ろ道」と読める道標がそれだろう。
◆真念
「えひめの記憶」をもとに真念についてまとめておく。「四国遍路が一般庶民の間に広まったのは江戸時代になってからといわれる。その功労者の一人に真念がいる。その真念の出自や活動については、ほとんど皆目といってよいほど明らかでない。
真念の著作(『四国邊路道指南(みちしるべ)』・『四国?礼功徳記(へんろくどくき)』)や、真念たちが資料を提供して寂本が著した『四国礼霊場記』の叙(序文)や跋(ばつ)(後書き)に拠れば、『霊場記』の叙に、著者寂本は、「茲に真念といふ者有り。抖?の桑門也。四国遍路すること、十数回」と讃え、また『功徳記』の践辞でも木峰中宜なる人物が、「真念はもとより頭陀の身なり。麻の衣やうやく肩をかくして余長なく、一鉢しばしば空しく、たゝ大師につかへ奉らんとふかく誓ひ、遍礼(へんろ)せる事二十余度に及べり」と記している。 あるいはまた『功徳記』の下巻で「某もとより人により人にはむ、抖?の身」とみずから書くように、真念は頭陀行を専らとする僧であり、なかでも弘法大師に帰依するところきわめて深く、四国八十八ヶ所の大師の霊跡を十数回ないしは二十数回も回るほどの篤信の遊行僧だった。あるいは高野山の学僧寂本や奥の院護摩堂の本樹軒洪卓らとのつながりから推して高野聖の一人だったと解してもよいだろう」とある。
ところで、現在我々が辿る四国霊場八十八ヶ所は貞亭4年(1687)真念によって書かれた「四国邊路道指南」によるところが多い、とか。「四国邊路道指南」は、空海の霊場を巡ることすること二十余回に及んだと伝わる高野の僧・真念によって四国霊場八十八ヶ所の全容をまとめた、一般庶民向けのガイドブックといったものである。霊場の番号付けも行い順序も決めた。ご詠歌もつくり、四国遍路八十八ヶ所の霊場を完成したとのことである。
遍路そのものの数は江戸時代に入ってもまだわずかであり、一般庶民の遍路の数は、僧侶の遍路を越えるものではなかったようだが、江戸時代の中期、17世紀後半から18世紀初頭にかけての元禄年間(1688~1704)前後から民衆の生活も余裕が出始め、娯楽を兼ねた社寺参詣が盛んになり、それにともない、四国遍路もまた一般庶民が辿るようになった、と言われる。
●供養塔
真念の案内に続けて「頓圓自覚法師碑」と記され「縣村の人、鴨狩りの名人半生に渡る、数々の殺生にある日ふとしたことからその愚行と世の無常を悟り、心機一転自ら自覚と号し、四国霊場21回を始め全国霊場を順次巡拝して自ら犯した罪を償った。1735年日本廻国供養碑を阿方村笠坊に建立。 1754年1月12日寂 阿方・川端・小沢家の人」とある。 真念道標と並ぶ道標の本堂側に大きな角柱石碑が立ち「南無大師遍照金剛 四国二十一度供」と読めるので、この石柱が自覚法師碑であろう。本堂側に並ぶ石碑は「えひめの記憶」にある供養塔であろう。
●延命寺縁起
寺伝によれば、聖武天皇の勅願を受けて養老4年(720年)に行基が不動明王を刻み堂宇を建立して開基。弘仁年間(810年?824年)に空海(弘法大師)が嵯峨天皇の勅命によって再興し、不動院圓明寺と名付けたという。 かつては現在地の北の近見山にあって、谷々に百坊を有し信仰と学問の中心であった。しかし、再三戦火に焼かれて境内を移転し、享保12年(1727年)に現在の地に移転した。 鎌倉時代には著書の多きこと日本一で学問は内外に通じ、深く後宇多天皇の尊崇を受け、生前に国師の号を賜ったほどの大学僧示観国師凝然がこの寺の西谷の坊で八宗綱要を著したことは有名である。明治の頃、五十三番札所の須賀山圓明寺との混同を避けるため、通称の延命寺を寺号とした(「えひめの記憶」)
◆圓明寺から延命寺
「この延命寺がかつて「圓明寺」と記されていたことは、鎌倉時代末期の僧凝然がこの寺で書いた『八宗綱要』の跋文に「文永五年(1268)戊辰正月二十九日於豫州圓明寺西谷記之(中略)凝然生年廿九)」と記していることや、境内に残る宝永元年(1704)鋳造の梵鐘(ぼんしょう)に「圓明寺」の文字が刻まれていることなどからも明らかである。その「圓明寺」から今日の「延命寺」へ寺名を変更したことについては、「この寺はもと円明寺(えんみょうじ)と称し、(中略)明治初年になって、第五十三番札所円明寺と同字同音なのを区別するため延命寺になった)」と記す書もある。
あるいは「明治初期まで五十三、五十四番が同じ『円明寺』となっているものが多く、『延命寺』という寺名も存在していたが、遍路宛の郵便、その他の混乱を防ぐため明治初期に五十四番は「延命寺」に統一、これを機に道標も五十四番『円明寺』は、『延命寺』に改刻された」ともいう。現在松山市馬木町には文久3年(1863)銘の「是よりあかた圓明寺九里六丁」と五十四番札所を「圓明寺」と記した道標(私注;上述「馬木の道標」)がある。
一方波止浜(今治市)にある文政13年(1830)銘のある道標には「延命寺へ一里」、文化11年(1814)に亡くなった武田徳右衛門が建てた、大西町にある道標にも「延命寺工一里」とあるように、江戸時代後期に「延命寺」と刻まれた道標も残っており、いつ「延命寺」になったかについては明らかではない(「えひめの記憶」)。
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