目黒区散歩 Ⅱ ; 碑文谷から羅漢寺川を歩く

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先日、駒沢陸上競技場に出かけた。娘の競技会のビデオ撮影のご下命を受けたため。で、競技終了後、ちょっと目黒を散歩する。いつもの行き当たりばったりの散歩とは異なり今回は準備万端、である。
競技会のビデオ班ご下命はたまにある。ために、以前競技会に来たとき、空き時間を利用して目黒区の郷土資料館を訪れていた。五本木の目黒区守屋教育会館内にある郷土資料館で『目黒区文化財地図』『みどりの散歩道 コースガイド』など資料を既に入手していたわけだ。
競技会が終わったのが午後の4時。夏場でもあり、6時過ぎまで歩けるだろう、とコースを探す。さてどこに向かうか、あれこれ地図を眺める。五百羅漢寺が目に留まる。なんとなく前から気になっていたお寺。江東区散歩のとき、出会っていた。このお寺、どういった経緯か忘れたのだが、目黒不動の近くに移っている。それともうひとつ、碑文谷八幡。この神社も前々から気になっていた。

(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


ということで、ルートは駒沢陸上競技場から碑文谷八幡、その後は羅漢寺川緑道 に沿って「林試の森」などを経由し、五百羅漢寺まで歩くことに。『目黒区文化財地図』を眺めると、途中に結構由緒ありげなお寺とか神社もある。果たして日没までにどこまで、とは思いながらも陸上競技場を後にした。(月曜日, 8月 21, 2006のブログを修正)




本日のルート;
①碑文谷・羅漢寺川ルート;駒沢競技場>(八雲)>呑川駒沢支流緑道>東光寺>金蔵院>八雲氷川神社>常円寺>北野神社>環七・柿の木坂>(碑文谷)>すずめのお宿>碑文谷八幡>高木神社>円融寺>正泉寺>法界塚馬頭観音・鬼子母神堂>稲荷大明神>清水池公園>羅漢寺川緑道>都立林試の森公園>成就院(たこ薬師)>瀧泉寺(目黒不動尊)>五百羅漢寺>山手通り>目黒川>太鼓橋>行人坂>JR目黒駅

②郷土資料室散歩ルート;駒沢競技場>駒沢通り>柿の木坂>八雲1丁目>目黒中央図書館>呑川柿の木坂支流緑道>柿の木坂上・環七通り>駒沢陸橋>駒沢通り>学芸大駅北>東急東横線交差>十日森稲荷>祐天寺>古本屋>駒沢競技場


駒沢通り
駒沢通りを東に。東京医療センター前交差点を越える。東京医療センターって、昔の「国立小児病院」。仕事で伺ったなあ、など昔を思う。交差点を越えると、駒沢通りを離れ南に下る。

衾(ふすま)町公園
八雲5丁目。落ち着いた住宅街。立派な邸宅が並ぶ。衾(ふすま)町公園。江戸時代はこのあたり、現在の環七通りの西南あたり一帯は衾(ふすま)村、と呼ばれていた。衾の地名の由来は、村の地形が衾=寝るときにかけた衣、に似ていたから、とか、このあたりは官牧(政府の牧場)や私牧が多く、その餌である衾=小麦をひいたときに残る皮、の産地であった、とか、例によっていろいろ。




呑川駒沢支流緑道
さらに下る。緑道に当たる。「呑川駒沢支流緑道」。川筋跡を地図でチェック。北に上った緑道は、駒沢公園の中を進み「東京医療センター」の北端に沿って北東方向に上っている。源流点は国道246号線の「真中交差点」の南にあった池、あたり、とか。
一方、南方向への「流れ」は、八雲学園の東を通り八雲2丁目で「呑川緑道」に合流する。これって呑川の本流跡。




呑川
昨年だったか、呑川を河口部近くの蒲田駅から歩いた。「池上通り」と交差>池上本門寺脇を進み>第二京浜を越え>東海道新幹線を越え>中原街道を越え>大岡山の東京工業大学脇に。ここで開渠は終わり暗渠となる。
先回は、そこから北に、東工大構内を分断する緑道を少々歩いた。が、川筋がここまで、つまりは八雲あたりまで続いているとは知らなかった。東工大から先の流路をチェック;大岡山>東横線・都立大駅西>「目黒通り」を越え西に向きを変え>八雲学園の南を西に>深沢1丁目あたりから北西に>「駒沢通り」を越え>深沢3丁目で国道246号と交差>その後桜新町。そのあたりまで水路跡が見える。世田谷区新町の旧厚木街道下からの湧き水が源流とのこと。
「新編武蔵風土記稿巻之三十九荏原郡之一」より呑川のメモ;「水源は郡中世田谷領深澤村より出て、わつかなる流なれと、衾、石川、雪ヶ谷の三村を歴、道々橋村に至て千束溜井の餘水合して一流となり、池上堤方に至る、この村内にて市倉村の方へ分流あり、すへて水源の近き處より此邊に至まて、深澤流といへり、是より下蒲田の方に至て呑川と唱ふ、下蒲田村にて六郷用水の枝流合し、又一流となり、御園、女塚、新宿、北蒲田、下袋の村々を経て、北大森村にて海に入」、と。

金蔵院・氷川神社

散歩に戻る。八雲学園の東に金蔵院と氷川神社。金蔵院は氷川神社の別当寺。十一面観音や不動明王で知られる。氷川神社は衾村の鎮守様。癪(しゃく;腹痛)封じの霊験あらたか、とか。境内に枯れたアカガシの巨木の株。癪封じのご神木。皮をはぎ煎じ薬として使う人が引きもきらず。ために、枯れてしまった、と。また、おなじく「くずれ地蔵」が境内に。患部と同じ部分をなでると病が癒える。ということで、あまりに多くの人に触られ、お地蔵様が崩れてしまった、とも。
八雲の地名の由来は、この神社の祭神であるスサノオノミコト、から。八岐大蛇(やまたのおろち)を退治したときに詠んだ「八雲立つ 出雲八重垣妻ごみに 八重垣作る その八重垣を」から。

東光寺・常円寺
氷川神社の東に東光寺と常円寺。東光寺は貞治4年(1365年)、世田谷城主・吉良治家が夭逝した子息の菩提をとむらうため建立。吉良治家は奥州探題・吉良満家の子。上州から世田谷郷に移り覇をとなえる。豪徳寺の近くにあった世田谷城址がその主城址。貞治4年にはこのあたり衾・碑文谷も所領に加えた。このお寺、出城の役割ももっていたようだ。
隣に常円寺。本堂前の大イチョウは区内有数の巨木として知られる。常円寺の東は坂道。天神坂と呼ばれている。

北野神社
坂の東に北野神社、つまりは、天神様=菅原道真公がまつられているから。坂の上は都立大学の跡地。先日の散歩のとき、坂の上の八雲中央図書館に訪れた。あのときの道筋の先は、こうなっていたんだ、と、つながった「襷」がつくる風景を思い描く。

呑川柿ノ木坂支流緑道

北野神社を東に進む。再び緑道。「呑川柿ノ木坂支流緑道」。駒沢通りまで北にのぼり、そこからは北西に進み「東京医療センター」の北にある東根公園の北あたりまで水路跡が見て取れる。そのあたりで「呑川駒沢支流緑道」と合流。源流点は国道246合線の上馬交差点南、世田谷・目黒区境あたりの、よう。
ちなみに、呑川には、もうひとつ支流がある。九品仏川がそれ。九品仏で名高い浄真寺を取り巻く湿地の水が集まって、世田谷との区境を東流し、大井町線緑が丘駅南側で呑川に注いでいる。ここは昨年散歩済み。

先 回の散歩のとき八雲中央図書館を訪れたとメモした。中央図書館に行けば郷土資料があろうか、と思った次第。が、そこにはなく、東横線・祐天寺近くの五本木に郷土資料館がある、という。で、中央図書館から東に進み、「呑川柿ノ木坂支流緑道」を駒沢通りまで上る。環七・駒沢陸橋を越え、駒沢通りを東に進む。東横線と交差したあたりで駒沢通りをそれて北に折れ、五本木の目黒区守屋教育会館内にある郷土歴史資料室を訪れた。

目黒通り・柿の木坂
が、今回は、北に上ることなく、すぐ南を走る「目黒通り」に進む。環七との交差手前は「柿の木坂」。東横線と目黒通りが交差するあたりから結構な坂となる。名前の由来は、坂に大きな柿の木があった、から、というのが妥当なところか。例によってあれこれ説がある。この環七・柿の木坂陸橋あたりは複雑な地形。カシミール3Dで作成した地形図を見ると、環七は尾根道を進んでいる。呑川のふたつの支流は明らかに谷地を進んでいる。

すずめのお宿緑地公園

環 七・柿の木坂陸橋を越える。環七から東に目黒通りは台地を下る。ダイエー碑文谷店の手前を南に下り「すずめのお宿緑地公園」を目指す。目黒は昔、筍(タケノコ)の産地で有名。ということは竹林が多くあった、ということ。この緑地公園も今に残る数少ない竹林のひとつ。所有者の角田セイさんが国に寄贈。後に区の緑地公園となる。
昭和の初期まで、この竹林には数千羽のすずめが生息していたのが、名前の由来。竹林の一隅には古民家。衾村の旧家・栗山家の母屋を移転したもの。江戸時代半ばの姿が復元されている。




碑文谷八幡
緑地公園の隣に「碑文谷八幡」さま。碑文谷の鎮守さま。創建は鎌倉とも室町とも。境内に「碑文石」。碑文、つまりは、大日如来とか勢至菩薩、観音菩薩を表す梵字(サンスクリット文字)が刻まれた石がある。これが碑文谷という地名の由来、とも。鎌倉か戦国時代の板碑の一種と言われている。
碑文谷って、なかなか渋い地名。地名の由来が表すように、目黒区内での古い歴史をもつ地域。江戸時代は目黒六カ村、つまりは、上目黒村・中目黒村・下目黒村・三田村・碑文谷村・衾村のひとつ。隣の衾村と合併した明治には碑衾村と呼ばれていた。
郷土資料室でもらった資料の昭和7年の碑文谷八幡あたりの写真を見ると、一面の畑地、そして民家が点在する。農村地帯であったこのあたりは、大正12年の関東大震災で家を失った人がこの地に移りすみ、また大正12年の目蒲線の開通、昭和2年の東横線の開通などにより、次第に宅地となった。とはいうものの、昭和7年の写真を見る限りでは、まだまだ牧歌的風景が広がっている。




立会川緑道
碑文谷八幡の参道を東に。境内を出たところに緑道が。「立会川緑道」。緑道を進む前に、少し寄り道。ちょっと南に高木神社。小さな社。江戸時代には「第六天」と。高木神社となったのは明治になってから。立会川緑道に戻る。
この立会川も前々から気になっていた川。もちろん、今は川跡、ではある。源流は碑文谷公園の碑文谷池と清水公園の清水池。この湧水を集めた池からの細流が、碑文谷八幡あたりから区を東に進み、目蒲線・西小山駅付近に。そこから「立会道路」が中原街道と交差するところまで南東に下る。これって、いかにも川跡って感じ。
昭和大学病院あたりで中原街道を交差した川筋は東急大井町線・荏原駅あたりを越えて東に進む。第二京浜を越え、横須賀線・西大井駅に。そこから北東にのぼり大井町駅に。東海道線を越えた川筋は線路に沿って南にくだる。しばらく進むと、開渠になっている、ように地図では見える。近いうちに一度歩いてみよう。

円融寺

散歩に戻る。立会川緑道を東に少し進むと少し北に円融寺。まことに立派なお寺さん。平安初期というから9世紀の中頃、天台宗の高僧・慈覚大師がこの地にお寺を建てる。当時は法服寺と呼ばれた。その後13世紀の後半に日源上人によって日蓮宗に改宗。法華寺となる。
世田谷城主吉良氏の庇護も受け大寺院に。が、日蓮宗以外の人からの供物を受けない、施しもしない、といった「不受不施」の教義のため、徳川幕府と対立。弾圧を受け元禄11年(1698年)に取り潰しにあう。再び天台宗の寺となり、名前も円融寺、と。境内には室町初期の建立といわれる釈迦堂が。品がいい。国の重要文化財。大いに納得。久しぶりに美しい建物を見た。また、山門の黒仁王さまも、江戸時代、「碑文谷の黒仁王」として多くの参詣者を集めた、と。

正泉寺
円融寺を離れ、少し東に。正泉寺。浄土宗のお寺さん。戦国時代に千葉に建てられたのがこのお寺のはじまり。その後、移転を繰り返し、明治になり港区の三田からこの地に移る。式亭三馬や羽倉簡堂のお墓が。式亭三馬は江戸の戯作者。「浮世風呂」で名高い。羽倉簡堂は江戸後期の儒学者。天保の改革を推進した水野忠邦に重用される。

法界塚と鬼子母神堂
正泉寺を出て、東に進む。少し大きな通りを北に進む。不規則な5差路。そのうちひとつは弧を描いて進む。交差点の少し北、平和通商店街の端に法界塚と鬼子母神堂。昔は樹木生い茂る一帯だったのだろうが、今は、道路脇に少々寂しげに佇む。法界塚は経塚なのか古墳跡なのか定かならず。少し戻り、弧を描く道を北に進む。いかにも川筋といった雰囲気。先に清水池公園がある。ということは、この道は立会川の支流・清水池からの川筋ではなかろうか、と。

清水池公園
清水池公園。1699平方メートルの池。区内唯一の釣堀がある公園ということで、多くの釣り人で賑わっている。目黒区では、目黒台と呼ばれる平坦な台地を浅く刻む支谷の谷頭部(谷の先端)には湧水点が多い。清水池もそのひとつ。立会川の源流でもあり、今から進む羅漢寺川の源流でもある。

品川用水
道を東に。目黒通りから武蔵小山駅方面に向かう補助26号線にあたる。このあたりには「品川用水」も交差している。品川用水は、武蔵野市で玉川上水を分流し、品川領戸越あたりまで流れている。そのうち流路をチェックして歩いてみよう。全長7里半というから、結構大変そうではある。

羅漢寺川緑道
補助26号線を越えたあたりから「羅漢寺川緑道」がはじまる。羅漢寺川は先ほどメモしたように、清水池からはじまり目黒川に合流する目黒川水系の支流のひとつ。羅漢寺川の下る道筋は人ひとり歩けるか、どうかといった細路。

林試の森

少し進むと道の南に「林試の森」。目黒と品川にまたがる都立公園。もとは国の林業試験場。時間があれば公園内を歩きたいのだが、如何せん時間切れ。日暮れが近い。

目黒不動商店街
緑道を進む。道の北には昔、「目黒競馬場」があった、とか。緑道が「林試の森」から離れるあたり、南は「石古坂」、北には「三折坂」。南に進み石古坂の手前を東に進む。目黒不動商店街。




蛸薬師
少し進んだところに成就院。通称「蛸薬師」。慈覚大師の創建。本尊は薬師如来。蓮華座の三匹の蛸が支えている。ために、「蛸薬師」と。何故ゆえに蛸?慈覚大師が中国から帰朝の途中、嵐を鎮めるべく薬師を海中に。が、その薬師が蛸に連れられて漂着した、とか。境内には二代将軍・秀忠の側室・お静の方に由来する「お静地蔵」が。お静の方はあの名君保科正之の母。信州高遠藩3万石の藩主からはじまり、会津23万石の藩主までに。わが子の栄達を祈ったお静の方が大願成就のお礼に奉納したのが「お静地蔵」。保科正之を主人公にした中村彰彦さんの『名君の碑』、また読み返してみようか、な。

五百羅漢寺

さてこの先は。目黒不動は先回の散歩で訪れた。で、今回の目的地である五百羅漢寺に。成就院前の道を北に。目黒不動の東端といったところに五百羅漢寺。予想に大きく反して近代的ビル、といった有様。もっともすでに開館時間は過ぎており、外から眺めるのみ。
このお寺、もとは本所五つ目、というから、現在の江東区大島3丁目にあったもの。江戸・元禄時代、松雲禅師が開山。もとは仏師。出家後、大分耶馬溪の五百羅漢に触発され羅漢像の制作に没頭。10年の歳月をかけ530余体の羅漢像を作り上げる。幕府の庇護もあり、本所に寺が創建。が、明治に入って寺は荒廃。明治41年この地に移る。こんど、開いている時間に、訪れるべし。

海福寺

五百羅漢寺の隣に海福寺。開山は隠元禅師。「インゲン豆」にその名を留める。もとは、深川に。が、明治43年水禍に遭い、この地に移る。山門が面白い。四脚の門。境内に永代橋の大惨事の供養等。文化4年(1807年)、深川・富岡八幡の祭礼に押し寄せた群衆の重みに耐えかね、永代橋が落ちる。多くの人が亡くなった、と、どこかでメモしたように思う。
インゲン豆は将軍・家綱の招きで来日した宇治・万福寺の開祖、隠元禅師が日本にもたらす。インゲン豆はもともとは中南米が原産地。インディオが食べていたものだが、大航海時代にトウモロコシやカボチャなどとおなじく欧州に伝わり、その後アジアにも広まった、もの。

蟠竜寺(ばんりゅうじ)

東に進み山手通り。少し北に進むと通りから少々奥まったところに蟠竜寺(ばんりゅうじ)。山手七福神のひとつ・「岩屋の弁財天」がまつられている。また、境内には「おしろい地蔵」が。江戸の頃、お地蔵さんの顔におしろいを塗り、残りを自分の顔につけると美人になると評判をとる。現在は戦火に見舞われ少々崩れてまってはいる。


JR目黒駅
今回の最大の目的であった五百羅漢は時間切れで見ることはできなかった。次回ということにして、山手通りを進み、目黒通りを渡り、太鼓橋、行人坂、と、先回の散歩と同じ道を戻り、JR目黒駅に。一路帰路につく。
今になってきになることが出てきた。羅漢寺川という川。五百羅漢寺がこの地に移ってきたのは明治。ということは、それ以前はどんな名前の川だったのだろう。五百羅漢寺がこの地に移る前に。それっぽい名前の川があるとも思えない。そのうちに調べておこう。
参考資料;『みどりの散歩道 コースガイド』


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