関ヶ原の合戦に続いて、備中高松城の水攻めの跡を辿ることにした。特段に、合戦地フリーク、というわけではないのだが、田舎の愛媛に帰る途中、岡山から四国へ常に直行も味気ない、どこか岡山乗り換え地近くで、半日程度歩けるとところはないかと、新幹線車内で地図を眺める。と、岡山駅から総社に向かう総社線・備中高松駅近くに、「高松城水攻築堤跡」が目に入った。秀吉の水攻めで知られる備中高松城が、新幹線岡山駅から20分程度。こんな近くにあるとは思わなかった。これが、備中高松へと向かうことになったきっかけである。
いつもながらの、行き当たりばったり、成り行き任せの散歩ではあるが,備中高松までの総社線の車窓に、備中一宮駅とか、吉備津彦神社とか、なにか有り難そうな場所が登場する。また、備中高松駅を下り、近くの観光案内を見ると、造山古墳とか、備中国分寺・国分尼寺跡といった、これまた、なんとなく有り難そうな遺跡がある。すべて後でわかったことではあるのだが、このあたりは古代に大和朝廷と張り合うほどの力をもっていた、吉備王国の中心地であった。高松城水攻め跡巡りがきっかけで始めた散歩ではあるが、気がつけば古代吉備王国のど真ん中を歩くことになっていた。事前調査無し、成り行き任せのため、「後の祭り」が多いのだが、今回ほど、そのことを実感したことは、ない。次回、田舎に帰るときには、今回取りこぼしたところをキチン、と辿ることを楽しみに、ということで、吉備の国への最初の散歩をはじめる。
本日のルート:JR岡山駅>吉備線・備中高松駅>蛙ヶ鼻築堤跡>最上稲荷の大鳥居>史跡船橋>高松城址公園資料館>本丸跡>宗治自刃跡>足守川の取水口跡>造山(ぞうざん)遺跡>備中高松駅
吉備線
岡山駅で新幹線を下り、吉備線に。元は高梁川の舟運の地、総社市湛井と岡山を結んだもの。備中松山や新見の当たりから高橋川を舟運で下ってきた物産を岡山に運ぶために建設された。後に高梁川に沿って伯備線が建設され舟運が衰退するとともに、湛井駅を廃し、総社駅で伯備線と繋げている。ワンマン運転の気動車には学生が溢れ、ローカルな雰囲気が如何にも、いい。岡山駅を離れ、備中高松駅までに幾つか駅があり、各駅に停車するのだが、その駅名も誠に興味深い。
備前三門駅:岡山を出て次の駅が、備前三門。三門という名前に惹かれる。「さんもん」ではなく、ここでは「みかど」と呼ぶ。お寺の「三解脱門」に由来する、と。「三解脱門」とは、涅槃(悟り)に至るために通過しなければならない三つの関門(空・無作・無相)を寺の門に擬したもの。駅の近くに妙林寺とか常福寺が地図に見えるが、この三門は常福寺のものの、よう。その昔、参勤交代の殿様が門の前を通るとき、籠の扉を開けて頭を下げた、とも伝わるようであり、格式の高い門であったのだろう。
ちなみに、山門とは門、というより、寺院そのものを指すようだ。元々寺院は山中にあり、山中の寺門、といった意味であったものが、近世、寺院が平地に建てられるようになってからも、特に禅宗寺院で使われるようになった、とか。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)数値地図25000(数値地図),及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平22業使、第497号)」)
大安寺駅;次の駅が大安寺。如何にも大寺を思い起こさせるこの駅名にも惹かれる。近くにそれらしき寺院は見かけられない。チェックすると、駅名の由来は此の辺りがその昔、奈良の大寺・大安寺の庄園があったことによる、と。大安寺は聖徳太子創建縁起をもつ、南都七寺のひとつ。奈良から平安前期にかけては、東大寺、興福寺と並ぶ大寺であった。
大安山駅の北に矢坂山という標高131m程度の独立丘陵がある。往昔、八坂山の西側は入り江であり、「奈良の津」と呼ばれていた、とのことだが、この入り江の東側に50町歩に及ぶ大安寺の庄園があった。公地公民が律令制の基本、とはいいながら、寺社はその「公共性」故に、田畑の私有が認められていたため、9世紀から12世紀に渡る平安時代、奈良・京都の社寺、貴族たちは荘園になるべき土地を朝廷から貰い受け、開拓していった。
この吉備の国には河川の扇状地や浅瀬の干潟など埋め立て・開墾に適した土地が点在している、これに目をつけた中央の大社寺は競って朝廷からこの土地を手に入れ開拓荘園を作っていった、と言う。この大安寺のあたりも、笹ヶ瀬川や中川、辛川、西辛川といった川筋が、八板山の西で合わさる。これら幾多の川によって形づくられた干潟を朝廷から貰い受け、大安寺が直接開拓し、荘園としたのであろう、か。
「濃尾の入り海」と呼ばれ、一面の干潟であった濃尾平野の干拓には、東大寺と地方の豪族のコラボレーションで数多くの東大寺荘園が作られている(『日本人はどのように国土をつくったか・地文学事始;学芸出版社』)。東大寺の財力と地元の労働力のコラボであろう。翻って、この地をみるに、大安寺の駅の北にある矢板山には50近くの群集墳がある、と言う。これら豪族が、濃尾での東大寺と同じスキームで大安寺より資金を借りて干潟を干拓し、その一部を庄園として寄進した、といったことも考えられる。
専門家ではないので、どのようなスキームで大安寺庄園が形づくられたのか定かではないが、日本の国土は基本、低湿地の埋め立てによって造られていったわけであり、大安寺庄園というキーワードがきっかけとなり、古代吉備の国つくりまで、空想・妄想は拡がっていく。
吉備の穴海
「濃尾の入り海」、と言えば、このあたり、岡山平野は往昔、「吉備の穴海」、と呼ばれる内海であった。今から約6,000~7,000年前は、縄文海進期と呼ばれ、現在よりも温暖な気候でもあり、海水面が現在よりも数m高かったと言われる。カシミール3Dで地形図をつくり、標高4mまでを「水色」で塗ってみると、児島半島を南に、20余の島々が点在し、岡山平野が環状に島で囲まれている。これが吉備の穴海といったものだろう。
その後、気候の寒冷化、中国山地に源を発する吉井川、旭川、高橋川によって運ばれる土砂の沖積作用によって、穴海が次第に埋められ、干潟となってゆく。また、河川による沖積作用は、この地方で盛んに行われたタタラ製鉄の発達により更に加速されることになった、と言う。「真金吹く吉備の国」、良質の鉄の一大産地と言われた中国山地では、タタラ製鉄に必要な火力を確保するため木材が伐採され、山々が荒れ、結果、崩れた大量の土砂が干潟に流れ込む、また山を崩して土砂を川に流すといった、砂鉄採取の製造プロセス故に、これまた、土砂が干潟に流れ込む。土砂に埋もれた河口は年々、南へと広がり、次第に干潟が埋められていった。
岡山城が築かれた16世紀末からは、吉備の穴海の大規模な干拓事業が開始される。宇喜多秀家に始まり、池田公が引き継ぎ、干拓事業は明治からさらに戦後まで続き、干潟が埋め立てられ、現在のような中国地方最大の平野がつくられた。岡山から児島までの四国連絡の車窓からは、現在では一面の平野が拡がり往昔の吉備の穴海を想像するのは少々難しい。
備前一宮・吉備津駅:大安寺駅の次は備前一宮駅。駅前には吉備津彦神社がある。如何にも有り難そうであり、高松城巡りの後に訪れることに。また、その次の駅は吉備津。駅前には吉備津神社がある。iPhoneでチェックすると備中一宮。ここにも吉備津彦が祀られる。これまた、有り難そう。高松城巡りの後、時間があれば立ち寄ることに。このときは、吉備津彦神社や吉備津神社の祭神である、吉備津彦が古代吉備の国を象徴する神であり、これら神社を山懐に抱える丘陵が多くの古墳を有し、吉備の中山とも呼ばれる古代吉備の国の中心地であったことなど、知るよしも、なし。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)数値地図25000(数値地図),及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平22業使、第497号)」)
備中高松駅
吉備津駅の次が備中高松。駅を下り、案内図を手に入れる。高松城水攻めに関する案内とともに、駅の西に造山遺跡とか備中国分尼寺跡とか備中国分寺跡が見て取れる。備中国分尼寺跡とか備中国分寺跡まで辿りたいとは思えども、さすがにそこまでの時間は、ない。せめてはと、古代吉備王国を代表する造山古墳へは辿るべし、と散歩コースをルーティング。
散歩のコースは、最初に足守川の川水を堰止めた築堤跡が残る、という築堤南端に進む。その後、高松城址を訪れ、次いで、足守川の水を築堤内へと取り込む取水口へと辿り、そこからは高松城水攻旧跡を離れ、古代吉備王国の象徴でもある造山遺跡へと進むことに。
ちなみに、高松の地名の由来であるが、今ひとつはっきりしない。香川県に高松市があるが、そこの地名の由来は、「大きく高い松があったから」、とか、「渡来人が常緑樹である松を、不老長寿の象徴としていたことから」といった説もあるが、平安時代の「和名類聚鈔」に高松の地が「多加津(たかつ)の郷」と記されている。この備中高松も、吉備の穴海の水際がこのあたりまで迫ってわけであろうから、たかの津、って可能性もある、かも。単なる妄想。根拠なし。
蛙ヶ鼻築堤跡
駅を離れ、少し南に成り行き出進み、石井山の南に残る蛙(かわず)ヶ鼻築堤跡に。築堤に上り整地された堤上を歩く。堤には樹木が茂っていることもあるのだろうが、この堤には人工的な趣きはあまり感じられない。この堤は、もともとの地形であり、築堤の南端として堤を石井山繋いだだけ、と言う人もいる。築堤は高さ7m余り、とも伝わるので、高さも少し低いようだ。
高松城水攻めの築堤は底辺24m、上幅11m、高さ7m。吉備線足守駅の少し下に築かれた取水席堰から、この蛙ヶ鼻まで3キロほど堰を築いた、とか。高松城攻めの主将秀吉に水攻めを進言したのは軍師・黒田官兵衛。工事は宇喜多勢が担当。12日間で築いたとのことであり、多くの百姓が賃金やお米と引き替えに動員されたのだろう。
城の水攻めと言えば、秀吉の小田原北条氏攻略の折の、忍(おし)城の水攻めを思い出す。埼玉の行田市にある「さきたま(埼玉)古墳群」を訪れたとき、その古墳のひとつ・丸墓山が忍城攻略の主将石田三成の本陣であり、水攻めのために築かれた堤が、現在も石田堤として残っていた。結局、忍城を落とすことができなかったが、そのプロトタイプがこの高松城水攻めであった、とか。
最上稲荷の大鳥居
築堤跡を離れ、成り行きで進むと県道241号に。いくつかの水路が県道に合わさる少し手前に、誠に強大な鳥居がある。この鳥居から北に2キロ強進んだところにある最上(さいじょう)稲荷の大鳥居である。正式名称は「最上稲荷山妙教寺」。日蓮宗のお寺でありながらの大鳥居。神仏習合の形を今に残す。
鳥居で大きいのは、この最上稲荷と京の平安神宮、そして大和の一宮である桜井の大神神社。高さは大神神社が32.2m, 最上稲荷27m,平安神宮は24.4m と全国第二位。柱径は最上稲荷4.6m, 平安神宮63m,大神神社3m と全国一位。重量は最上稲荷,2,800 t , 大神神社180t 、平安神宮不明と、圧倒的に全国一位。昭和47年建立の鉄筋コンクリート製の大鳥居である。なお、最上稲荷は伏見、豊川稲荷とともに、日本の三大稲荷(諸説ある)のひとつ、とも言う。
上に、神仏習合の形を今に残す、とメモした。明治の神仏分離令によって、それまでの、神と仏が渾然一体となった状態・神仏混淆を切り離すべし、となった。神仏習合・混淆とは、神は仏が衆生済度のために仮の姿で現れたもの、といったことであり、それはまた、教義を持たないが日本古来の宗教であり民衆と密接に結びついていた神様と、膨大な教義をもち、理論的裏打ちされたものではあるが、外来のもので民衆には少々有り難すぎるといった仏様のコラボレーション。両者の一長一短を補い、普及のために協業して発展してきた日本の宗教形態であろうが、明治元年の神仏分離令によって大半の寺社は神と仏に分かれた。この最上稲荷はどういった経緯か定かではないが、神仏習合の状態のままで今に続いているようである。と、あれこれメモしたが、こういったことも、メモの段階でわかったこと。後の祭りのひとつである。高松城へと先を急ぐ。
史跡船橋
県道241号を離れ、成り行きで田畑の中の道を西に進む。備中高松駅の北側を南北に通る道が水路とクロスするところに木製欄干の小橋が架かり、そこに史跡船橋の案内があった。
かつて高松城は北、東、そして西の三方を沼で囲まれ、城と外部は人ひとり通れるかどうかといった小径で結ばれていた。その小径、というか畦道が通っていた城の南側も秀吉軍との戦に備えて、あたりの低湿地・深田を堀り、外濠とした。八反堀と呼ばれたこの外濠と外部を結んだのが、舟を繋いでつくった船橋。城よりの出撃のときはこれを利用し、城に戻ると舟を撤去し外部との連絡路を絶った。その長さは64mほどもあった、と言う。
高松城址公園資料館
左手に沼沢地を眺めながら道なりに進むと土蔵のような建物。資料館とあった。しばし資料館で時を過ごす。城主・清水宗治の陶像や秀吉、毛利勢の布陣図などが並ぶ。資料に寄れば、秀吉の最初の着陣は龍王山(現:最上稲荷)であったようだが、築堤開始頃には石井山が舌状に突き出た台地先端部に陣を移している。京より山陽道を下る信長を迎えるためである、とも。足守川の西、庚申山には吉川元春が布陣。吉備の中山の日差山には小早川隆景が陣を張る。また、1980年のこの辺りの洪水の写真などもあり、高松城水攻めに少々のリアリティが出てきた。資料を参考に秀吉勢、毛利勢の布陣をカシミール3Dで作成した。
資料館横の案内によれば、高松城とは、「備前の国に通じる平野の中心、しかも松山往来(板倉宿から備中松山城に至る)沿いの要衝の地にあり、天正10年の中国役の主戦場となった城跡。城は沼沢地に望む平城(沼城)で、石垣を築かず土壇だけで築城された「土城」である。城の周辺には東沼、沼田といった地名に象徴されるように、沼沢が天然の外堀をなしていた。縄張りは方形(一辺約50m)の土壇(本丸)を中核にして、堀を隔てて同規模の二の丸が南に並び、さらに三の丸と家中屋敷とが、コの字状に背後を囲む単純な形態。本丸跡は江戸時代も陣屋として活用した」、と。
資料館の辺りは二の丸と三の丸の境、とか。城郭の構造は平城梯郭式。本丸、二の丸、三の丸は梯子のように縦に順に並び、それぞれが細い通路で結ばれていたようだ。
現地にあった「中国役に関する説明」と「高松城水攻略史の案内」をもとに、高松城水攻めの概要をメモする;今から約400年前の天正10年(1582)、全国統一を目指した信長は西進をはかり毛利と対峙。織田信長の命を受け羽柴秀吉は、3万の大軍をもって、備中国南東部に侵入。毛利方は備中境に境目七城を築き秀吉に備える。境目七城の兵力は、南から、宮路山城(兵400)・冠山城(兵300)・加茂城(兵1000)・高松城(兵5000)日幡城(兵1000)・松島城(兵800)・庭瀬城(兵1000)。毛利勢は足守川を防御ラインとしていたようである。
秀吉は諸城を次々と攻略し、最後に残ったのが備中高松城。秀吉は高松城の城主清水宗治に利をもって降伏するよう勧めたが、義を重んじる宗治はこれに応じなかった。高松城は深田や沼沢の中にかこまれた平城で水面との比高がわずかに4mしかなく、人馬の進み難い要害の城であった。攻めあぐねた秀吉は参謀黒田官兵衛の献策に戦史にも稀な水攻を断行、兵糧攻の策をとる。秀吉は、備前国主宇喜多氏の家臣千原九衛門勝利を奉行とし、3キロに及ぶ堤もわずか12日間で完成させた。時あたかも梅雨の頃で、増水した足守川の水を流し込み、たちまちにして188ヘクタールの大湖水ができ、城は孤立した。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)数値地図25000(数値地図),及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平22業使、第497号)」)
籠城1ヶ月を経て城兵が飢餓に陥った8月2日の未明、京都本能寺で信長は明智光秀に討たれた。秀吉はこれをかたく秘めて講和を急ぎ、毛利方の軍師、安国寺恵瓊を招き「今日中に和を結べば毛利から領土はとらない。宗治の首級だけで城兵の命は助ける」という条件で宗治を説得させる。宗治は「主家の安泰と部下5千の命が助かるなら明4日切腹する」と自刃を承諾した。時に8月4日巳の刻(午前10時)湖上に船を漕ぎ出し、秀吉から贈られた酒肴で最後の宴を張り、誓願寺の曲舞を舞い、「浮世をば 今こそ渡れ 武士の 名を高松の 苔に残して」と辞世の歌を残して48歳を一期として見事自刃した)、と。
信長が討たれたことを知った毛利方では、秀吉に騙されたと、追撃を主張する吉川勢などに対し、小早川は、和睦締結を決めたからにはそれを守るべし、と追撃を止めた。そのことを徳とした秀吉は、天下人となった後、毛利家を優遇した、とか。ちなみに、高松城水攻めの宗治自刃の場面として描かれている図には、湖上に浮かぶ舟の後ろに高松城が見える。そこには天守が描かれているが、実際は本丸は土壇で囲まれたものであり、天守はなかったようである。
本丸跡
資料館を離れ、橋を渡り本丸跡に進む。沼には蓮が咲く。往昔、蓮池と呼ばれていた、と。昭和67年、沼が復元された後、400年の時をへて自生した、と言う。沼と本丸跡は少し段差があり、土壇で囲まれていた往時の沼城のイメージが少しだけ、残る。
本丸跡には清水宗治 辞世の句碑;浮世をば 今こそ渡れ 武士の名を高松の 苔に残して 、が建つ。また、清水宗治の首塚もあった。秀吉の本陣のあった石井山の持宝院に葬られていたが、明治42年本丸跡に移された。江戸時代には陣屋が置かれていたようである。首塚、といえば、宗治の胴塚は、本丸から100mほど西側の住宅地、昔の渦中屋敷跡の一角に祀られている、とのこと。主君切腹の折の介錯人国府市正は亡骸を城内に埋め、自身も首を掻き切ってその中に倒れたとのこと。胴塚は、メモをはじめてわかったことではある。少々遅くなったが、合掌。
宗治自刃跡
本丸跡を離れ、宗治自刃の地に向かう。二の丸跡、といっても、ほとんどが民有地の畑であり宅地となっている。二の丸跡を成り行きで進み、三の丸跡にある宗治自刃の地に。星友寺境内外に供養の五輪塔 が残る。宗治自刃跡の少し南の田圃の中に、藪(やぶ)というか、ちょっとした木立。「こうやぶ」と呼ばれ、家臣殉死の跡と伝わる。
足守川の取水口跡
高松城址を離れ、吉備線・足守駅近くにある高松城水攻めの取水口跡に向かう。足守川と吉備線・足守駅がクロスする少し南に取水口跡があった。跡、といっても案内があるだけで、往昔の名残は何も、ない。それにしても、長さ3キロ、基底部28m・上辺部11m、高さ7mといった巨大な築堤がこれほどまで完璧に焼消失するものだろう、か。秀吉が中国大返しのとき、毛利勢の追撃を防ぐため一面を水浸しとするため堤を崩し去った、と言うが、それにしても、そんな大規模な堤防をそれほど簡単に崩せるものだろう、か。人によっては、築堤は国道180線辺りまで築けば、城は水没する、とも言う。であれば築堤は200m程度で十分、とも。どちらが正しいのかわからないが、ともあれ、取水口跡辺りにむかって延びる舌状丘陵に猛将加藤清正が陣を張る。取水口を毛利勢より断固護るといった布陣であろうから、規模の大小はともあれ、築堤は築かれたのは事実ではあろう。
足守
ところで、足守駅の付近にこれといった街並みがみあたらない。地図をみると駅の北4キロほどのところに足守の町がある。秀吉の正室北政所の実兄木下家定が関が原合戦後この地を領有し、初代備中足守藩主となった。北政所は首尾一貫して徳川方に味方した故の処遇であろう、か。城はなく陣屋があったこの足守藩は、木下家の統治のもと、明治まで続いた。備中足守藩と言えば、緒方洪庵の出身地。大阪で蘭学塾「適塾」を開き、幕末から明治維新にかけて、多くの有為な人材を育てた。
足守の由来は「葦守」、から。『日本書紀』には応神天皇の行宮として「葉田の葦守宮」との記述がある。足守町の少し南にある葦守八幡がその跡地とのこと。葦はイネ科の植物。湿地を好む。往古より、足守川流域は低湿地で葦が茂っていたのであろうし、葦が茂るということは稲作にも適した土地、ということでもある。実際吉備の地は福岡県の板付遺跡とともに、弥生時代前期、日本で最初に稲作が始まった地、とも言われる。実際、吉備は弥生時代中期に稲作が急速に拡がった、とか。また、葦は屋根や垣根に使われる貴重な建材でもある。食料や建材として「守る」べき植物として、葦守という名前ができたのだろう。
応神天皇の行宮「葉田の葦守宮」跡と伝わる葦守八幡へと辿りたい、とは思えども時間的に少々きつそう。散歩はパス。見てきたような、なんとか、ということにはなるのだが、葦守宮が応神天皇の行宮ってことは、吉備王国と大和朝廷の関係が何か垣間見えそうに思える。チェックすると『日本書紀』には以下のような物語が描かれていた;応神天皇の妃、兄媛(えひめ)が故郷である吉備恋しさのあまり、「帰省」の許しを乞う。帰省を許したものの、兄媛に会いたいと応神天皇が吉備に下る。その行宮が葉田の葦守宮、である。応神天皇を迎えた兄媛(えひめ)の兄の御友別(みともわけ)は、一族をあげて歓待。それを徳、とした応神天皇は、御友別の支配する地域をその子らに分封し、その支配権を公に認めた、とある。
この『日本書紀』に描かれる、天皇が妃を焦がれて吉備まで、といった話はあまりにナイーブであり、文言通りにはとれないが、このエピソードから読み取れる大和と吉備の関係を、我流でまとめてみる。
吉備王国は3世紀から発展をはじめ5世紀頃には複数の首長を中心とした連合王国が成立。大和や出雲に匹敵する力をもつ王国となる。5世紀から6世紀はじめにかけて大和朝廷は吉備を支配下に置くべく謀略をはかり、7世紀にかけての分割支配体制により吉備国は崩壊をはじめ、8世紀には、備前・備中・備後・美作と完全に分割され、大和朝廷の支配下に入る。これが、時系列で見た吉備と大和の関係である。
で、上の応神のエピソードの解釈であるが、応神天皇は4世紀後半の天皇とされるので、可能性としては、拮抗した力関係もと姻戚関係を結んで吉備と大和が友好関係を保っている次期ともとれる。また、支配下に置くべく吉備に楔を打ち込むべく下向した、ともとれる。吉備王国は有力な首長による連合王国であった、とされる。親大和・反大和などさまざまな思惑の豪族の連合王国ではあろうが、その中で、応神天皇の后・兄媛(えひめ)の兄の御友別は、親大和朝廷系の豪族であったのかとも思う。
御友別、といえば日本武尊の東征に吉備武彦命が従う、というくだりがある。吉備武彦命は『古事記』では御鉏友耳建日子(みすきともみみたけひこ)と呼ばれ、『日本書紀』の応神記に、吉備臣の祖先である「御友別」と同一人格か、祖先か、ともあれ、深い関係がある、とされる。その御鉏友耳建日子こと、吉備武彦命が日本武尊の東征に副官として従う、という神話の意味することは、吉備王国が大和朝廷によって侵略・平定された後、東国への軍事行動に吉備武彦命系列の吉備の豪族が参加・転戦した、ということであろう。
足守から葦守、そして応神天皇まで空想が拡がった。そろそろ、次ぎの目的地である造山古墳へと向かう。
造山(ぞうざん)遺跡
足守川取水口跡から足守川に沿って南に下る。国道180号を越え、岡山自動車道をくぐり、足守川に前川が合流する辺りで足守川を東に渡る。道の右手に舌状に突き出る丘陵は庚申山。毛利方の吉川元春の陣跡である。標高は74mほどの小高い丘陵に一万の軍勢を揃えた。田圃の中の道を先に進むにつれて前方に小高い独立丘陵が見えてくる。方向からして造山古墳ではあろう。古墳と知らなければ、ぱっと見た目には、自然の丘といった風情である。後でわかったことであるが、この古墳は低丘陵を切り離し、土を盛り平らに削り墳形を整えたということである。近づくにつれ、古墳の廻りには集落が見える。集落は古墳の東側に集中している。古墳へ上り口を探して集落を成り行きで進むと、古墳へと続く坂道に出た。
坂道を上り、平坦部より前方後円墳の前方部へと進む。前方部の墳丘は破壊されており、その跡に荒(こう)神社が祀られていた。逆方向の後円部は中世期には砦が築かれていたとのことであり、また、毛利方が後円部の周囲に土塁を築き、郭を2カ所、堅堀を3カ所築くなとしているので、原型からは大きく変わってはいるのだろう。平坦部も毛利勢によって大幅に削平されている、とのことである。
造山古墳に来るまで、全く知らなかったのだが、この造山古墳は全長350m、後円部の径200m、高さ28m、全国でも、仁徳天皇陵486m、応神天皇陵430m、履中天皇陵360m次いで、第四位の規模を誇る。古墳時代は4世紀から8世紀にかけて200年も続くわけだから、ひょっとすると、ある時期、日本最大のものであった可能性もある。かも。詳細な調査は未だされていないようだが、この古墳に祀られるのは豪族・首長の連合王国であった古代吉備王国の大首長の墓ではないか、とされる。
日本でも最初に稲作が始まり、弥生中期には豊穣なる稲穂が実り、中国山地からのたたら製鉄による鉄器を農具に武具に揃え、瀬戸内の制海権を支配した古代吉備王国は3世紀から力をつけ、4世紀から6世紀にかけて吉備王国は、大和・出雲王朝と拮抗するほどの勢力となっていた。この造山古墳は、古代吉備王国全盛期のものと言われる。
通常、前方後円墳は大和朝廷の権威の象徴として、服属した国々にその技術を伝えたと言われるが、造山古墳の築造時期は5世紀前半とされる。大和朝廷が吉備王国を支配すべく、その動きをはじめたのは5世紀後半から6世紀と伝わるので、吉備王国が大和朝廷の支配下に入る前であり、大和との交流の中で築造技術を入手したのか、とも推測される。吉備には100m以上の規模の古墳は20基ある、という。大和地方の40基は別としても、吉備王国の繁栄の程が偲ばれる。それにしても、これほどの古墳に自由に上れるとは思っていなかった。天皇家の墳墓ではない、ということが幸いした。ともあれ、思わず知らず、古代吉備王国の力の象徴であった巨大古墳を歩けたのは誠に、いい散歩となった。造山古墳は大正10年(1921)、周辺の6基の陪塚(一族か重臣の墓)とともに、国指定遺跡とはなっている。
備中高松駅
造山古墳の南の丘陵は日差山。標高172mのこの山には高松城攻城戦の折、小早川隆景勢二万が陣を張った。また、造山古墳から丘陵の狭間の道を南西に総社方面へと進むと備中国分尼寺や国分寺跡、幾多の古墳跡が見て取れる。が、残念ながら時間がない。日暮れも近い。とりあえず備中高松駅まで戻る。足早に田圃の中の道を進み、足守川を越え、岡山自動車道を抜け備中高松駅に。2キロ程度ではあるが駅についたのが午後5時15分。散歩に出かけたのが午後1時10分。結構時間がかかってしまった。予定にしていた備中一宮吉備津神社や備前吉備津彦神社も残念ながら、次回のお楽しみとして、岡山駅に向かい、一路田舎の愛媛へとむかうことにした。
吉備津彦について
実際に訪ねることはできなかったのだが、備中一宮吉備津神社や備前吉備津彦神社の主祭神である吉備津彦が気になってチェックした。『古事記』、『日本書記』によると、吉備津彦命は孝霊天皇と倭国香媛の子。五十狭芹彦命(ひこいさせりびこのみこと)、とも呼ばれた。孝霊天皇の時代に吉備国を平定。崇神天皇のときには四道将軍のひとりとして3、山陽道を制服するため派遣された、とある。
しかしながら、少々の疑問が芽生える。吉備を征服した大和の王族を、どうして吉備の人々が一宮の主祭神として祀るのであろう、か。それも、大和朝廷によって分割された備前・備中・備後・美作の一宮に主祭神として祀られる。『吉備の古代史;門脇禎治(NHKブックス)』など、あれこれ本を読んでも、いまひとつ門外漢には難しすぎて、よくわからなかった。が、ある日、何気なく立ち寄った近くの地域センターの図書ライブラリーで借りた『吉備王国残照;高見茂(東京経済)』を読み、なんとなく納得できる説明があった。
『吉備王国残照;高見茂(東京経済)』によると、吉備津彦は吉備王国の指導者であった、とする。5世紀頃、吉備王国は吉井川・旭川・高梁川・芦田川の流域に拡がる豊かな農業生産地帯と、中国山地の砂鉄資源に恵まれ、瀬戸内の製塩、また内海交通の制海権を掌握し、大和朝廷に拮抗する力をもつ王国であった。その中心地、吉備津、すなわち、吉備の湊の首長が吉備津彦であった。
その吉備王国を征服すべく大和朝廷から派遣されたのが五十狭芹彦命(ひこいさせりびこのみこと)。吉備津彦を中心とする吉備王国は激しく抵抗するも、吉備津彦は殺害され、吉備国は大和に敗れた。吉備津彦は大和朝廷に抵抗した吉備の英雄の名前であった。
五十狭芹彦命が吉備津彦と同一神となったロジックは、古代、征服者に自分の名前を与えるのが服属の証しであった、とのことから。そのことは、小碓命(おうすのみこと)と呼ばれていた日本武尊(やまとたける)が熊襲タケルを殺害した後、熊襲は服属の証しとして「タケル」を小碓命に与えたことにも顕れる、とする。かくして、『古事記』や『日本書紀』には、服属の証しとして与えられた吉備津彦の名が、大和天皇家の系譜に組み込まれ、吉備王国の征服者と記載された。一方、吉備の人々は征服者である大和朝廷に深い恨みを抱き、やがて吉備津彦は祟りの神となった。その怨霊を怖れた大和朝廷は、その怨霊を鎮めるべく吉備津彦を神として祀り、神社に高い位を与えた。吉備の人々は、吉備津彦を吉備王国の英雄として忘れることなく、吉備国が分割された後も、往昔の吉備王国の栄光の象徴として、それぞれの一宮の主祭神として祀られた。(『吉備王国残照;高見茂(東京経済)』)、とのことである。
ついでのことながら、同書(『吉備王国残照;高見茂(東京経済)』)に、桃太郎のお供が何故に、犬、猿、雉なのか、の説明があった。江戸時代の滝川馬琴による『燕石雑誌』を引用し、次のように説明する;桃太郎が退治する鬼の住む鬼門は丑虎(うしとら・東北)。これを退治する桃太郎の家来は、その逆方向にある申(猿)、酉(酉)、戌(犬)でなければ、ならなかった、とか。なんとなく面白い。
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