荒川区散歩 そのⅢ; 荒川地区より隅田川に沿って町屋・尾久へと

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荒川地区よりはじめ、隅田川に沿って町屋地区から西の尾久地区へと進む

荒川散歩も3回目。日暮里、南千住地区を歩き、今回は中央部の荒川地区よりはじめ、隅田川に沿って町屋地区から西の尾久地区へと進む。
荒川地区はもとは三河島と呼ばれていたところ。歴史は古く、戦国期にはその名が登場する。三流の川があったとか、三河守がいたからとか、名前の由来はさまざま。この歴史のある三河島という名前が荒川に変わったのは、昭和36年になって、から。
町屋地区は地元で発見された板碑などから、室町期には既にこの地は開墾されていたとされる。町屋という名前が登場するのは江戸時代になって、から。

町屋の名前も諸説あり。文字通り、町屋があったから、との説がある。とはいっても、街道筋があるわけでもなく、?? 真土谷に由来する、って説もある。本当の土 = 洪積世の土が取れる谷 = 沢があったところ、と。屋 = 野、であり、真土野、とも言われるが、ともあれ、これは、待乳山( = 真土山)聖天さまの由来と同じである。入間川沿いの微高地に、川の流れによって堆積した土ではない、真の土=粘り気のある土があった、ということか。実際、この地の荒木田の土は、壁土や焼き物に重宝された良質の土であったという。この説に結構納得。
尾久も古い。室町期には既に「小具」として登場する。「越具」とも書かれる。「奥」とも書かれたので、江戸の奥、から来る、というのが地名の由来とも。それはないだろう、と。どうもよくわかっていない。
荒川区の名前の由来は荒川、から。現在荒川区の北を西から東に隅田川が流れるが、この川が「荒川」。隅田川となったのは昭和40年から。上流の岩淵水門より南東に下る人工の放水路が正式に「荒川」と命名されたため、もとももの「荒川」であった川筋が「隅田川」となったわけだ。荒川区が誕生したのは昭和7年。そのときは確かに荒川に沿った区であったわけで、至極普通な命名であったのだろうが、その荒川が「手元から抜け落ちる」などとは想像もしなかったのであろう。ともあれ、往時の名前を残す、「荒川地区」より散歩にでかける。




本日のコース: 都電荒川線・三ノ輪駅 > 隅田川堤 > ハンノキ山 > 荒木田の原 > 尾竹橋 > 尾久の原公園 > 小台橋 > あらかわ遊園 > 船方神社 > JR田端駅

都電荒川線・三ノ輪駅

地下鉄三ノ輪駅より、日光街道を越え、都電荒川線・三ノ輪駅に。近くの公春院横を北に進む。南千住警察署前に出る。少し広い道路。千住間道と呼ばれる。交差点を左折し西に進む。線路と交差。


隅田川の堤に
都電荒川線である。線路に沿って進むと、荒川自然公園に。線路から離れ、外周部を北に進み隅田川の堤に向かう。公園に続く三河島水再生センター外周部を廻りきったあたりから堤に出る。




ハンノキ山
隅田川を見ながら少し進む。京成線のガード。荒川五中前に。校門前に「ハンノキ山」の説明文。このあたり、隅田川が大きく湾曲する通称「マキノヤ」の下手、この中学校から先般の三河島水再生センターあたり一帯に、ハンノキが群生していた、と。
ハンノキは元々、湿原にある落葉喬木。ハンノキ山といっても山ではなく、平地の雑木林のことではある。が、歌川広重の描く、名所江戸百景「日暮里諏訪の台」にハンノキ山らしいとされる高木が描かれている。諏訪台といえば日暮里駅裏の台地。そこから見えるというのだから、結構の群生であり、「山」と言ってもいいくらいのボリューム感であったのであろう。


荒木田の原

先に進む。適当に左折。尾竹橋通り・荒木田交差点。江戸の昔は荒木田の原。一面の草原。『江戸遊覧花暦』に、「遊客酒肴をもたらしきたって興ずること、日の西山に傾くを知らず」と書かれるほどの行楽の地。荒木田近辺の畑の土は壁土、焼き物の土として珍重されたという。

尾竹橋
尾竹橋通りを北に進み尾竹橋に。この橋の名前を冠する尾竹橋通りは、足立区東伊興2丁目から荒川区をへて台東区根岸2丁目まで続く。尾竹の由来はこの橋の少し下流にあった、町屋と千住・西新井を結ぶ渡し、から。三軒茶屋(富士見屋・柳屋・大黒屋)があったので、「お茶屋の渡し」、と。また、茶店の看板娘にお竹さんがいたので、「お竹の渡し」とも。お竹>尾竹となったとか。

尾久の原公
川端には道がない。少し引き返し川より一筋南の道を進む。町屋6丁目、5丁目と進み「尾久の原公園」に。旭電化跡地にできた公園。企業撤退の後、跡地利用の決定に時間がかかっているうちに自然体系が回復し、結局その自然を活かす公園とすることになった、とか。「とんぼ」の生息地として広く知られるまでになる。川の堤防は工事用のフェンスで囲われ無粋ではある。が、道から「尾久の原公園」方面に目をやると、素晴らしい景観。地形のうねりを感じる。遠くに見えるのは上中里方面の高台だろう。

小台橋
先に進み「尾久橋通り」に。西日暮里と足立区舎人のあたりをつないでいる。尾久橋通りを越えて堤から一筋南の道筋を進む。尾久8丁目。華蔵院。寺子屋が開かれ、このあたりの教育の中心として機能した、と。先に進む。道の正面に宝蔵院。ぐるりと迂回し「小台橋」の通る道筋に出る。小台の由来は文字通り、「ちょっとした台地」。隅田川でもメモした「微高地」といったところか。昔、このあたりに「小台の渡し」とか「尾久の渡し」と呼ばれる渡しがあった。

あらかわ遊園
川に沿って歩く。少し進むと「あらかわ遊園」。名前はよく聞くのだが、どこにあるのか知らなかった。あらかわ遊園を越えると、荒川から離れ、北区になる。本日最後の目的地、船方神社に。

船方神社
船方神社。質素なお宮様。神亀2年(725年)にはじめてつくられた、とか。本殿右脇に「十二天塚」があることから、「十二社」と呼ばれていた。船方神社となったのは明治12年。言い伝えによれば、この地域の荘園主 豊島清元(清光)が、熊野権現に祈願してひとりの娘を授かる。その娘、足立少輔に嫁ぐことに。が、 心ない仕打ちを受け、荒川に身を投げる。姫に仕えていた十二人の侍女たちも 姫に殉じる。
で、十二天とは、この十二人の侍女のこと。と同時に帝釈天をはじめとする十二の神々とされる。密教では非業の死をとげた人を鎮魂するため塚など祭壇におまつりした。本殿右手の十二天塚がそれ。民間伝承と密教が合体したわけだ。
密教と強くむすびついた熊野信仰もまた、この民間伝承を神様へと昇華するスキームに合流する。熊野信仰では熊野三社とよばれる本宮・那智・速玉の三社は、それぞれの祭神を相互にお祀りし、併せて天照大神はすべての神社が祀りしたので、一社4神 × 3 = 12神>十二所権現、十二社、と呼ばれていた。熊野信仰が盛んだった荒川流域の村々では、悲しい次女たちの地域伝承と密教の十二天、そして熊野信仰の十二社が結びつき、船方村の十二天としてまつられた、ということだろう。
この伝承は江戸時代の中頃に流行した、六阿弥陀札所参詣の縁起の「ネタ」となる。侍女の数が変わったり、苛めた悪役が地域によって正反対になったりと(実際、川を隔てた足立区では、敵役が足立氏ではなく豊島氏になっていたように思う)、少々のあらすじは換わって入るものの、ストーリーはこの神社に伝わる伝承とほぼ同じ。「六阿弥陀嫁の噂の捨て所」と言われるように、江戸の庶民のリクリエーションとして六阿弥陀詣でが広まっていった。ちなみに、江戸六阿弥陀とは、一番・西福寺(北区豊島)、二番・延命寺(足立区江北)、三番・無量寺(北区西ヶ原)、四番・与楽寺(北区田端)、五番・常楽院(調布市西つつじケ丘)、六番・常光寺(江東区亀戸)、木余りの弥陀・性翁寺(足立区扇)、木余りの観音・昌林寺(北区西が丘)。木余り、木残りのなんたるかは、足立:中央部散歩でメモしたとおり。

JR 田端駅
船方神社を離れ、どこか最寄の駅を目指す。南に向かう道筋、あらかわ遊園からの帰りの客と一緒に。都電荒川線まで結構賑わう。西尾久5丁目と西尾久7丁目の境あたりを南に下る。明治通りにあたる。当初尾久の駅、へと思っていたのだが、これって東北本線。田端駅にむかうことに。尾久操車場、田端操車場を右に眺めながら明治通りに沿って南東に下る。田端新町3丁目交差点右折し、道なりにすすみ線路を跨ぐ新田端大橋をこえて JR 田端駅に到着。予定やっと終了。荒川もこれで一通り歩いたことになる。 

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