三増合戦の地を巡る:武田軍の帰路を相模湖へ

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津久井から相模湖に

ふとしたことから目にした三増合戦の記事に惹かれ、その戦いの地を二度に分けて歩いた。今回はその仕上げ。武田なのか北条なのか、どちらが勝ったのか、負けたのか今ひとつはっきりしないのだが、ともあれ、武田軍の甲斐への帰路を相模湖まで歩こうと思う。

武田軍の引き上げルートは、斐尾根から長竹三差路、三ヶ木をへて寸沢嵐(すあらし)に進み、そこで道志川を渡り相模湖へ、と伝えられている。ということで、今回の散歩のスタート地点は長竹三差路。先回辿った斐尾根から少し北にすすんだところにある。交通の便は少々よくない。先日と同じく、本厚木からバスに乗り、半原に、それから志田峠を越えて斐尾根へと進むのも芸がない。で、今回は橋本から三ヶ木行きバスに乗り、途中の太井で降り、そこから城山の南を進み、長竹三差路へ。長竹三差からは三ケ木、寸沢嵐、相模湖へと歩くことにする。(2009年9月の記事を移行)



本日のルート:太井>諏訪神社>パークセンター>巧雲寺>根小屋>串川>三増峠への道>串川橋>長竹三差路>青山神社>三ケ木>道志橋>寸沢嵐石器時代遺跡>正覚寺>鼠坂>相模湖

太井
京王線で橋本駅に。そこから三ケ木行きのバスに乗る。川尻、久保沢、城山高校前を過ぎると津久井湖。城山大橋というかダムの堰堤を通り、津久井城跡のある城山の北麓にそって湖畔を進むと太井に。太井は津久井城跡のある城山の麓、相模湖にかかる三井大
橋の近くにある。昔は太井の渡しがあり、津久井往還が相模川を越えるところであった、とか。ちなみに、ここから北に三井大橋を渡れば、峰の薬師への道がある。峰の薬師から城山湖への道もなかなかよかった。

諏訪神社
本日は太井のバス停から南に向かう。左手に津久井城のある城山を見やりながら、台地へと坂道を上る。この台地は相模川の河岸段丘。山梨から下る桂川と丹沢から流れ落ちてきた道志川の流れが合わさった大きな流れによってかたちづくられたのだろう。上りきったあたりに諏訪神社。道端にあるお地蔵さん。なかなか風情があった。境内にある樹齢800年の杉で知られる。

パークセンター
諏訪神社から南は下りとなる。尻久保川への谷筋に下る坂道の途中、道を少し東にはいったところにパークセンター。津久井城や城山についての歴史やハイキングコースなどの資料が整っている。
いつだったか津久井城跡を訪ねた折、このパークセンターに訪れたことがある。そこで見たジオラマに惹かれた。城山の南の地形、河岸段丘がいかにもおもしろい。城山の南を流れる串川の両側は、複雑で発達した河岸段丘が広がっていた。地形大好き人間としては、この先が楽しみではある。

巧雲寺
パークセンターを離れ、尻久保川へと下る。尻久保川にかかる根小屋橋の手前を東へと折れ、ゆるやかな坂を少し上ると巧雲寺。戦国時代の津久井城主内藤景定の開基。景定の子景豊の墓もある。景豊は三増合戦のときの津久井城主。三増合戦の折、城からの援軍を出すことも無く、「座視」。『八王子南郊 史話と伝説;小泉輝三郎(有峰書店新社)』によれば、合戦後、北條氏照が上杉に送った書状に「山家人衆、自由を遣うに依り罷り成らず(勝利が)、今般信玄を打留めざる事無念千万候」、とある。「津久井衆(山家人衆)が命令に従わず勝手に行動したため、信玄を撃ちもらし、悔しくてたまらん」、といった意味。「役御免、今後永久この分たるべし」と、禄高も10分の一に減額している。よほど腹に据えかねたのだろう。景豊の言い分はなにも残されていないので、真相は不明。

根小屋

巧雲寺を離れ、尻久保川にかかる根小屋橋を渡り、再び台地へと上る。ここから当分は台地の上を歩くことになる。なんとなく高原の地、といった雰囲気。先日歩いた斐尾根あたりと雰囲気が近い。発達した河岸段丘によってつくられた地形がもたらすものであろう。
根 小屋地区をのんびり歩く。根小屋って、城山の麓につくられた、家臣団の屋敷があるところ。散歩するまで知らなかった「単語」だが、歩いてみると結構多い。秩父であれ千葉であれ、「時空散歩」には、折にふれて登場する。「城山の根の処(こ)にある屋」という、こと。「根古屋」とも書く。

串川
台地を進み、道が大きく湾曲するあたりから台地のはるか下に串川の流れが見えてくる。結構な比高差。深い谷、といった雰囲気。現在の串川の規模には少々似つかわしくないほどの発達した河岸段丘である。気になり調べてみる。
かつての串川は早戸川(現在は中津川水系の支流。宮ヶ瀬ダムに注ぐ)とつながっていた。水量も豊富。発達した河岸段丘はその時のもの、である。その後、早戸川は中津川水系に流れを変えた。河川争奪である。5万年以上の昔、地殻変動によって引き起こされた、と。ために、早戸川は串川から切り離され、現在のような小さな川になってしまったよう、だ。
大きく弧を描き串川へと下る坂道の途中に飯綱神社。津久井ではこの飯綱神社をよく見かける。津久井城跡のあ る城山にもあった。津久井湖の東、津久井高校あたりから城山湖に上る道の途中にも飯綱大権現があった。高尾山もそうである。飯綱信仰は信州の飯綱より発し た山岳信仰。戦の神としても上杉謙信を筆頭に、戦国の武将に深く信仰された。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)


三増峠への道
坂を折りきると車道に交差。城山の東、相模川にかかる小倉橋から南西に、串川に沿って城山の南を走る道である。交差点を少し西に進むと、南から上ってくる道に合流。この道は、先日歩いた三増峠方面からの道。三増峠下のトンネルをとおり、一度串川に向かってくだり、再びこの道筋へとのぼってきている。
合流点から南の山稜を見る。正面方向が三増峠であろう、か。先日、峠を東に進まず、西に折れれば、この道におりることができたわけだ。道の雰囲気を感じるため、串川に向かって下る。串川にかかる中野橋まで進み、峠下のトンネルへと向かう上りの道を眺め、少々休憩し、もとの合流点へと戻る。
地図の上では三増峠と津久井城って結構離れている、と思えたのだが、実際に歩いてみると、そうでも、ない。武田軍が津久井城の動静に気を配ったわけが、なんとなく分かった、気がした。ちなみに、三増峠からの道は県道65号線。これって津久井の中野で国道413号線に合流している。つまりは、太井から歩いた道は、ほぼこの県道を進んできた、ということであった。

串川橋
合流点から串川に沿って進む道筋を長竹へと進む。西というか、南西に道を進む。道の北に春日神社。ちょっと立ち寄る。このあたりまで来ると、串川は山稜から離れてくる。離れるにしたがって串川も渓谷といった雰囲気もなくなり里をゆったりと流れる小川といった姿となる。串川の名前の由来は例によってあれこれ。櫛を川に落とした姫君の由来譚もそれなりに面白いのだが、実際は、地形から名づけられたものであろう。『相模川歴史ウォーク;前川静治(東京新聞出版局)』によれば、「くし」は海岸線や河川などの屈曲部のところを指す、という。
御堂橋で串川を渡る。このあたりでは串川は少し大きな「小川」といった雰囲気。更に進み、串川橋で再び串川を渡る。道はここで国道412号線と合流。412号線、って半原から斐尾根の台地を抜け進んできた道。先日、半原へと歩いた道である。
このあたりは、三増合戦のとき、武田軍が津久井城の北條方への抑えとしていたところ。『八王子南郊 史話と伝説;小泉輝三郎(有峰書店新社)』によれば、その場所は、山王の瀬の下、と。確かに串川橋の南に山王社がある。


長竹三差路

串川橋を離れ、道を西に。串川中学、串川小学校を過ぎると長竹三差路に当たる。三増合戦に登場する地名。津久井湖畔の中野から下る道、相模湖へと向かう道、串川沿い、または半原へと南に下る道が交差する。『八王子南郊 史話と伝説;小泉輝三郎(有峰書店新社)』によれば、津久井城から出撃するときは、三増峠に進もうが、半原・志田峠を目指そうが、必ずこの長竹三差路を通らなければならなかった、と。と言うことは、三増峠を貫く県道65号線の道筋などなかったのであろう。ともあれ、今も昔もクロスロードであった、ということ。

青山神社
先に進む。相模湖方面と、串川に沿って宮ケ瀬方面へと分岐する手前に青山神社。諏訪社、諏訪宮、諏訪大明神と呼ばれていたが、明治6年(1873年)八坂神社(天王宮)と御岳神社(御岳宮)を合わせ、青山神社と改称された。
境内に「咢堂桜」。尾崎行雄(咢堂)が東京市長のとき、日米友好を記念し、ワシントン市に贈った桜が里帰りしたもの。尾崎行雄がこの津久井出身と言うことで、この津久井に戻ってきた桜の苗木が32本のうちの一本。尾崎行雄は憲政の父。

三ケ木

青山神社を越えると412号線は三ケ木に向かって、北西に進む。道の両側に開けた青山集落を過ぎ、道の両サイドに山容が迫るあたりから青山川が顔を出す。しばらくは青山川に沿って進む。青山交差点で道志方面へと進む国道413号線との分岐手前に八坂神社。結構な石段をのぼる。
八坂神社を越えると青山川は北西に、道は北にと泣き別れ。青山川はそのまま進んで道志川に合流する。道をしばらく進むと周囲が開け、三ケ木の集落、に到着、だ。
三ケ木は「みかげ」と読む。由来は良く分からない。中世、「日影之村」の「三加木村」として現れる。集落と書いたが、このあたりではもっとも「にぎやかな」ところだろう。橋本からのバスも結構動いている。逆の相模湖方面にもまあまあ動いているよう、だ。

道志橋
三ツ木の交差点から1キロ弱北西に進むと道志橋。道志川が津久井湖に注ぐところにある。橋の対岸は相模湖町寸沢嵐(すあらし)。信玄軍が道志川を渡ったところ言われる。一隊は三ヶ木から、落合坂を下り沼本の渡し(落合の渡し)を経て、また、他の一隊は三ヶ木新宿からみずく坂(七曲坂)を下り道志川を渡った、とある。
現在橋は川面よりはるか高いところ、高所恐怖症のひとであれば少々足がすくむ、といったところに架かっている。が、もとより、合戦当時の道は、ずっと低いところに下りていだのろう。実際、落合坂を下り切ったところは道志川と相模川の合流点であったという。湖も無いわけで、川幅も現在よりずっと狭かったのだろう、か。

寸沢嵐石器時代遺跡
道志橋を離れ、沼本地区を越え、津久井警察署の先から国道を離れ少し南に入ったところに寸沢嵐石器時代遺跡。地元の養蚕学校教諭、長谷川一郎氏が発掘し発表した。寸沢嵐は「すわらし」と読む。「スワ」は低湿地・沼沢・斜面。「アラシ」は川の斜面から材木を投げ下ろす場所、と(『相模川歴史ウォーク;前川静治(東京新聞出版局)』より)。近くに「首洗池」もある。武田軍が討ち取った首を洗ったと言われる池。その数3269、とも。またこの地ではじめて勝鬨をあげた、とも。戦場を大急ぎで離脱し、ここ、道志川を越えた台地上に着くまでひたすらに駆け抜けた、と。それって勝者の姿でもあるまいといった評価もあり、それが三増合戦の勝者を分かりにくくしている、という識者も多い、とか。

正覚寺
寸沢嵐石器時代遺跡を離れ、国道に戻る。少し西に進み阿津川にかかる阿津川橋を渡る。ここから道は阿津川に沿って進む。蛇行する川を、山口橋、正覚寺橋と渡る。道の北は相模湖林間公園。道のそば、深い緑の中に品のいいお寺様が見える。正覚寺。丁度境内
には五色椿が咲いていた。
縁起はともあれ、このお寺は柳田国男を中心とするチームによっておこなわれた日本で最初の民俗学の調査の本拠地。大正7年(1918年)のことである。チーム(郷土会)がこの地(内郷村)を選んだのは、その地形が「一方は高い嶺の石老山を境界とし
、他の三方は相模川と道志川に囲まれ、近年まで橋のない弧存状態にあり、農山村としての調査条件がそろっていた(『相模川歴史ウォーク;前川静治(東京新聞出版局)』より)」ということはもちろんである。が、同時に、長谷川一郎(寸沢嵐石器時代遺跡の発掘・発表者)さんの存在も大きい、かと。当時長谷川さんは地元の小学校の校長さん。こういった理解者があったことも実施を実現した大きなファクターであろう。長谷川さんはその後村長さんまでになった。柳田国男の句碑。「山寺やねぎとかぼちゃの十日間」

鼠坂
正覚寺を 離れ先に進む。道の北はさがみ湖ピクニックランド。しばらく歩く
と国道から分岐する道。分岐点に八幡神社。近くの民家、というか喫茶店のそばに「鼠坂関址」。メモする;「この関所は、寛永八年(1638)9月に設置された。ここは、小田原方面から甲州に通じる要塞の地で、地元民の他、往来を厳禁し、やむを得ず通過しようとする者は、必ず所定の通行手形が無ければ通れなかった。慶安四年(1651)には、由井正雪、丸橋忠弥の陰謀が発覚し、一味の逃亡を防 ぐため、郡内の村人が総動員し、鉄砲組みっと共にこの関を警固したという。この道は甲州街道の裏街道。この関も甲州街道の小仏関に対する裏関所といったものであったのだろう。ともあれ、一般庶民が往来するといったところではなかった、よう。

相模湖
鼠坂を離れ西に進む。峠を越えた辺りに関所跡。このあたりから道は下る。道の左手に湖が見えてくる。鼠坂より1.5キロほどで相模湖大橋。橋を渡り台地に上る。甲州街道を越える中央線相模湖駅に到着。三増合戦ゆかりの地を巡る津久井散歩もこれでお仕舞い、とする。

ちなみに、津久井って、もともとは三浦半島に覇をとなえた鎌倉期の武将三浦一族にはじまる。三浦一族の一武将が津久井の地(現在の横須賀市)に移り住み津久井氏を名乗った。その後、この地に移り築城。津久井城と名づけ、津久井衆と名乗った、ということだ。

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