臼井そして印旛沼疎水路下流部・花見川を東京湾に下る
印旛沼散歩も3回目。印旛沼の畔を歩き、次いで印旛沼疎水路上流部・新川をほぼカバー。
残すは印旛沼疎水路下流部だけとなった。疎水を下れば東京湾に出る。
どうせのことなら、印旛沼疎水路下流部・花見川を下り、沼から海へと襷をつなぐことに、した。
本日のルート:京成線・臼井駅>稲荷台>中宿>臼井城址>太田図書の碑>星神社>主郭跡>雷電為衛門の碑>道誉上人の碑>京成線・大和田駅>印旛沼疎水路下流部・花見川>勝田川の合流地点>弁天橋>花島橋>総武線・幕張駅
京成線・臼井駅
都営新宿線で本八幡に。京成線に乗り換え先回の終点・勝田台駅に向かう。車内で地図をチェック。臼井城址が目に留まる。場所は勝田台と佐倉の間。印旛沼の直ぐ近くにあるのだが、先回時間がなくパスしたところ、である。少々の思い残し感もあり、急遽予定を変更し最初に臼井をカバーすることに。
稲荷台
京成線・臼井駅で下車。臼井駅は東・西・南を台地で取り囲まれている。開口部は印旛沼に向かう北方向、だけである。駅を北に下りる。駅前に台地が迫る。地名も稲荷台と呼ばれている。
住宅街の坂を上る。尾根付近、といっても住宅街には変わりは無いのだが、そこに雷電公園がある。佐倉の観光協会でもらった臼井の資料に、この地に雷電為衛門のお墓がある、ということであった。が、この公園にはお墓はない。地図をチェックすると、台地下のお寺の近くにある。とりあえず臼井城まで進み、そのあとこの江戸期の大横綱・雷電のお墓でもおまいりしよう、と。
尾根を下る。途中にお稲荷さん。雷電公園の隣、といったところ。稲荷台の由来のお宮なのではあろう。境内にはケヤキの大木。また、敷石は雷電が寄進した、とか。お隣の公園が雷電公園と呼ばれる理由がこれで納得。
中宿
坂を下る。国道296号線・成田街道にあたる。成田街道を少し東に進むと「中宿」交差点。街道はここで南東に折れ佐倉に向かう。中宿、って如何にも宿場跡って地名。チェックする。この地の歴史は古い。縄文期の貝塚や土器が発見されている。数千年前からこの地には人が住んでいたのであろう。大化の改新の頃も、この地方の中心地であった、よう。が、歴史上に臼井が登場するのは平安末期(12世紀)に千葉氏の一族である臼井氏がこの地に居を構えてから。以来、12代に渡って臼井氏およびその一門がこの地に覇を唱える。が、それも小田原北条氏の滅亡とともに歴史の舞台から去る。その後お城は徳川一門の居城、幕府直轄地をへて元禄3年(1700年)には佐倉領に組み込まれることになった、とか。 (「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)
臼井城址
臼井城址に向かう。中宿交差点の一筋手前の道を台地へと進む。緩やかな坂道の途中に駐車場。駐車場の奥から城址に上る。上りきったところに道。遺構を守るために舗装されているが、往時の土橋、であろう。二郭と主郭をつなぐ。整備される前の写真が道脇にあったが、細い「通路」といった雰囲気。土橋の両側は堀であったのだろうが、現在はこれも少し埋められている、よう。
土橋を西というか北に進み二郭跡に。整地された大きな公園になっている。二郭を離れ三郭、というか外城をつなぐ土橋跡に出る。土橋とはいっても現在は車一台が通れる、といった生活道路。二郭を取り巻く堀はいかにも深い。上杉謙信の軍勢がこの城を落とすことができなかったと言われるが、成る程、この堀は難儀であっただろう。逆は自然の谷であろう、か。
太田図書の碑
土橋を先に進む。太田図書の碑。この地でなくなった太田道潅の弟・図書助資忠ほか53名をまつる。観光協会でもらったパンフレット『ゆったり臼井へ』によればその顛末は以下の通り;文明10年(1478年)千葉孝胤は、上杉家の重臣太田道潅に破れ、臼井城に撤退。翌年正月に道潅の弟・図書助資忠は千葉自胤(武蔵千葉氏)と臼井城を攻撃、戦死した、と。すっと流せばそれだけのことなのだが、ちょっと考え始めると、わかったようで、よくわからない。なぜ道潅が千葉氏と争う?なぜ千葉自胤は同盟軍?興味を覚えチェック。
大雑把にまとめてみる;ややこしさのすべては上杉管領家と古河公方の争いに端を発する。鎌倉公方を補佐する管領と公方に争い、である。鎌倉公方が京都に反旗を翻す。足利将軍家の関東名代だけでは面白くなく、将軍になりたかった、とか。京都方についた上杉管領家に鎌倉公方は破れる。鎌倉から逃れて古河に拠点を構える。ために古河公方,と言う。 この争いに千葉氏も巻き込まれ一族は二つに別れる。
千葉宗家は上杉管領側。そして一族の重臣である馬加康胤、原胤房は古河公方につく。結局、千葉宗家は馬加、原氏の軍勢に急襲され破れる。嫡子・千葉自胤、実胤は武蔵に逃れ上杉管領家の庇護のもと武蔵千葉氏、となる。平安時代末期、上総介平忠常からはじまり、頼朝の挙兵を助けるなど一時期を画した千葉宗家は滅亡することになった。 で、この千葉宗家の系統を継ぐのは自分だ、と千葉氏を称したのが馬加(岩橋)康胤。さすがに居城までは千葉宗家があった亥鼻城(いのはな;中央区亥鼻町)では具合が悪かろう、と新たに移ったのが「本佐倉城」、ということだ。
上のメモで太田道潅と争った千葉孝胤とはこの馬加(まくわり)康胤の嫡男。太田道潅が千葉孝胤と戦ったのは、道潅が関東管領側であり千葉孝胤は古河公方側であるから。また、千葉自胤が道潅の弟・図書助資忠と臼井城を攻撃したのは、千葉孝胤が親の敵である馬加氏の流れであるから、である。謎解きができて、少々すっきり。
星神社
太田図書の碑の近くに星神社。臼井妙見社とも呼ばれるように、妙見様をおまつりする。北斗七星を神としたもの。千葉氏の氏神様といったもの。千葉一族の家紋である「月星」「日月」「九曜」は妙見さまに由来する。ちなみに妙見信仰といえば、先般歩いた秩父神社が思い出される。秩父神社は秩父平氏・平良文をまつる。平忠常を祖とする千葉氏も秩父平氏の流れを汲む、ということであり、これも大いに納得。 星神社を離れ台地上をブラブラ歩く。台地が北に続いている。どうもお城だけの独立丘陵といったものではないようだ。昔はこの台地上に出城というか支城というか、砦といったものが配置されていたの、だろうか。台地上から印旛沼を眺めよう、と思ったのだが崖線が近くにある、といった雰囲気でもない。お城跡へと引き返す。
主郭跡
二の郭から土橋を通り主郭に向かう。虎口を抜け主郭跡に。ここも公園となっている。主郭からの眺めは素晴らしい。印旛沼が一望のもと。昔は沼は台地下まで迫っていたのであろう。事実、いつだったか古本屋で買い求めた『利根川図志;赤松宗旦(岩波文庫)』に、安政年間(19世紀中頃)の臼井城のイラストが掲載されているが、確かにお城の台地下まで印旛沼が迫っている。
臼井城は、14世紀中頃に中世城郭としての形を整えたと言われる。臼井氏中興の祖と言われる臼井興胤の頃である。東西1キロ、南北2キロであった、とか。その後16世紀中頃には原氏が臼井城主となる。原氏が臼井氏の嫡子への後見役となったことがそのきっかけ、かと。原氏とは、上でメモしたように、馬加氏とともに千葉宗家を滅ぼした、あの原氏である。
城の主となった原氏は城の機能を拡充。戦国時代には、小田原北条氏の幕下に入り千葉氏をも凌ぐ勢力となる。永禄9年(1566)には上杉謙信の臼井城攻撃を撃退している。が、天正18年(1590)7月に原氏は北条氏とともに滅亡。翌8月には臼井城に徳川家康の家臣酒井家次が入城。文禄2年(1593年)に出火・消滅。その後、慶長9年(1604)、家次が上野国高崎に転封され臼井城は廃城 となった。
雷電為衛門の碑
臼井城址を離れる。次の目的地は「雷電為衛門」の碑。何故かは知らねど、雷電とか谷風といった江戸の相撲取りの名前を覚えている。子供のころ、なにかで読んでおぼえていたのであろう。
台地を下り、成田街道まで戻り、西に少し戻る。妙伝寺入口を北に折れ、お寺への台地手前を南に折れる。道成りに進み、公園というか地域のお年寄りの集会所といった施設の裏手あたりに進む。そこに、ひっそりと江戸時代の名大関の碑があった。
雷電は16年間大関をつとめた。とにかく強かったらしい。信濃生まれの雷電がこの地に眠るのは、妻がこの臼井上町にあった甘酒屋の娘であったため。ちなみに雷電は谷風(西の大関)の内弟子であった。刻まれた題字は幕末の名士佐久間象山のもの、と言われる。
と、あれこれメモしながら少し疑問が。これほど強い関取がどうして大関で、横綱でないのか。チェックする。 真相は単純。当時の相撲の最高位は大関であっただけ、のこと。横綱とは将軍の上覧相撲の栄誉に浴した大関に与えられる儀式免状であった、とか。儀式というか称号としての横綱が番付上の横綱として登場したのは明治42年(1909年)のことである。
ちなみに、雷電って、結構インテリであった、とか。文字の読み書きができ、足掛け27年に渡って旅日記『諸国相撲和帳』、通称『雷電日記』を書いている。これって当時の力士としては稀有の存在であった、よう。どこかの古本屋で買い求めた雑誌の中に書いてあった記事のうろ覚え。出典定かならず。
道誉上人の碑
雷電の碑を離れ駅に戻る。稲荷台の台地に戻る。途中、ちょっと寄り道。少し台地を下り道誉上人の碑に立ち寄る。どこかで聞いたことがある名前である、と思うのだがどうも思い出せない。そのうちにわかるかと、ともあれ、お墓のある長源寺に向かう。境内、というより、道脇の台地の中腹にお墓があった。
道誉上人は当時下総生実(おゆみ;千葉氏中央区生実)に居を構えていた原氏の招きで下総に。増上寺9世管主を経て長源寺を開山した高僧。おまいりし、脇の道を台地に上る。どうも昔の臼井城の砦があったところのよう。『利根川図志;赤松宗旦(岩波文庫)』にもいかにもこのあたりに「トリデ」のマークがあった。台地上から臼井駅のある低地を囲む台地を眺め臼井駅に。本日のメーンエベント・花見川散歩のスタート地点である京成線・大和田駅まで電車で向う。
京成線・大和田駅
京成線・大和田駅で下車。成田街道は駅の北を通る。八千代市役所も成田街道沿いにある。江戸時代、成田詣のために早朝江戸を出立した旅人は、最初夜は船橋宿か、この大和田宿で一夜を明かした、と言う。成田街道から離れたこの駅はこじんまりとしている。大正15年開業の八千代市で最も古い駅である、とか。 (「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)
印旛沼疎水路下流部・花見川
駅前を成行きで南に進む。直ぐに水路にあたる。源流を辿ると陸上自衛隊習志野駐屯地の演習場あたりまで確認できる。が、水路の名前はわからない。印旛沼疎水路下流部・花見川に向かって東に進む。ほどなく川筋に。住所は横戸町。
勝田川が東側より合流する。鷹の台カントリークラブがある台地下に沿って花見川が湾曲するあたりで、である。地図で源流を辿ると、この川も陸上自衛隊習志野駐屯地の演習場あたり。そこから四街道市、佐倉市の境を流れ、現在はこの地で花見川に合流し東京湾に下る。
現在、勝田川は花見川に合流する、とメモした。が。それは最近のこと。昭和23年(1948年)からはじまり昭和44年(1969年)に完成した印旛沼総合解発事業以降のことである。それ以前は、勝田川は現在の新川筋を流れ印旛沼に注いでいた。以前、印旛沼の水を東京湾に排水するため、印旛沼に注ぐ新川筋と、東京湾に注ぐ花見川を横戸のあたりで繋いだ、とメモした。ということは、その繋ぎの場所というのは、このあたりだったのだろう。
勝田川の合流地点
勝田川の合流部分は東西の台地が最も接近している。分水界となっていた台地を切り崩し、ふたつの川筋をつないだのであろう。二つの川筋を繋いだ、と書面だけで言われても、いまひとつ実感がなかった。どういうふうに繋げたのであろう、どういう地形なのだろう、などと疑問をもったのが、今回の花見川散歩の目的のひとつではあるのだが、勝田川の流路が逆転した、ということ、そしてその場所が如何にも狭隘な台地接近部であるという地形を見て、あらかたの疑問は解決。気持ちも軽く先に進む。
弁天橋
弁天橋を渡り花見川の東岸に移る。ここから花見川サイクリングコースがはじまる。川の両岸に台地が迫る。緑が深い。快い道筋である。散歩をはじめて、結構多くの遊歩道、緑道を歩いたが、その中でも印象に残る道筋のひとつと言える。
水色の水道橋が現れる。柏井浄水場から水を送っている。 弁天橋から1.5キロほど下ると柏井橋。道は橋の下をくぐる。新川筋と花見川筋を繋げるための分水界の開削は、弁天橋からこの柏井橋まであたりまでに及んだ、と。江戸時代幾度か開削が計画されながら、結局失敗に終わったということであるが、両側に迫るこの台地を切り崩すのは並大抵でなかったろう、と改めて実感。
で、ここまで歩いてきて、大和田機場に出会わないことに気がついた。印旛沼の水=新川を花見川に排水する施設であるが、後からチェックすると、場所は京成線より北、成田街道にかかる大和橋より更に北にあった。印旛沼の水を2日もあればすべて排水できるほどの強力なポンプがある、という。見てどうということはないのだが、とりあえずどんなものか見ておこう、と思ったのだが、後の祭り。とはいうものの、年に数回しか新川の水を汲み上げてはいないようなので、まあいいか、とも。
ところで、この大和田機場を境に新川と花見川の川床は数メートル差がある。花見川サイドの方が高い、と。それがこの排水機場でポンプアップする要因なのだろうが、これって何のため?チェックする。どうも設計段階から段差をつけた、よう。自然の勾配だけで印旛沼の水を流すと、勾配が緩やかになり、満潮時に海水が川筋を遡上し洪水の可能性がある、ということで、接合部の川床を高くした、と。わかったようで、よくわからない。
花島橋
あれこれと想いを巡らしながらも、まことにいい雰囲気の道を1キロ弱進むと花島橋。古い雰囲気の橋。500mほど下ると花見川大橋。結構新しそうな橋。道は青い橋桁の下を通る。橋の近くに赤い水道管が走る。少し下に水門。長作水門。水量を調節する、と。
直ぐ近くに天戸大橋。天戸大橋を過ぎると、台地から離れ平地に移る。牧歌的風景。 天戸大橋から1キロ程度進むと亥鼻橋。桜並木もさることながら、田園風景が美しい。もっと雑とした風景を想像していたので、予想外の展開。亥鼻橋からこれも1キロ弱進むと京葉道路と交差。
京葉道路手前に汐留橋。文字通り、汐留=海水の遡上をここで止めるわけであり、橋の下に堰が設けられている。ここまで汐がのぼってくる、ということであろうか。であれば上でメモした、大和田排水機場あたりの川床の高さや勾配に関するあれこれについて、急にリアリティが出てきた。
総武線・幕張駅
京葉道路をくぐり先に進む。川の東岸に花見川区役所。また西側前方には見慣れた幕張のビルが見えてくる。それにしても、少しは住宅が増えてきた、とはいうものの、ここまで下ってきても、のんびりした風景である。
更にくだると浪花橋。京葉道路から1キロほどのところ。ここから河口まで3キロ強、といったところだが、日没時間切れ。浪花橋を西に渡り、総武線に沿って進み総武線・幕張駅に進み、一路家路へと。本日の散歩はこれで終了。
ところで、花見川の名前の由来だが、川堤の桜が美しかったから、といった説もある。千葉実録には、源頼朝にこの地の桜の花の美しさを言上する千葉一門の口上がある。曰く:『この川上に桜の林これあり候、花盛りには吉野にも優り申すなり。この川の橋にて眺むる時は、川上より流るる花は水を包み、また川下よりは南風花を吹き戻す。よって水上へ花びら往来し、その景色言語に述べ難し』、と。
花見川の名前の由来は定まっているわけではないが、この口上ゆえに、結構納得。地名の由来のついでに、幕張。これって、臼井城のとことでメモした馬加(まくわり)から、との説もある、と。そういえば、馬加城って現在の幕張市幕張3丁目にあった、ということである。そのうちにこの馬加城、そして千葉宗家の居城のあった亥鼻城(いのはな;千葉市中央区亥鼻町)を歩いてみよう、と思う。
都営新宿線で本八幡に。京成線に乗り換え先回の終点・勝田台駅に向かう。車内で地図をチェック。臼井城址が目に留まる。場所は勝田台と佐倉の間。印旛沼の直ぐ近くにあるのだが、先回時間がなくパスしたところ、である。少々の思い残し感もあり、急遽予定を変更し最初に臼井をカバーすることに。
稲荷台
京成線・臼井駅で下車。臼井駅は東・西・南を台地で取り囲まれている。開口部は印旛沼に向かう北方向、だけである。駅を北に下りる。駅前に台地が迫る。地名も稲荷台と呼ばれている。
住宅街の坂を上る。尾根付近、といっても住宅街には変わりは無いのだが、そこに雷電公園がある。佐倉の観光協会でもらった臼井の資料に、この地に雷電為衛門のお墓がある、ということであった。が、この公園にはお墓はない。地図をチェックすると、台地下のお寺の近くにある。とりあえず臼井城まで進み、そのあとこの江戸期の大横綱・雷電のお墓でもおまいりしよう、と。
尾根を下る。途中にお稲荷さん。雷電公園の隣、といったところ。稲荷台の由来のお宮なのではあろう。境内にはケヤキの大木。また、敷石は雷電が寄進した、とか。お隣の公園が雷電公園と呼ばれる理由がこれで納得。
中宿
坂を下る。国道296号線・成田街道にあたる。成田街道を少し東に進むと「中宿」交差点。街道はここで南東に折れ佐倉に向かう。中宿、って如何にも宿場跡って地名。チェックする。この地の歴史は古い。縄文期の貝塚や土器が発見されている。数千年前からこの地には人が住んでいたのであろう。大化の改新の頃も、この地方の中心地であった、よう。が、歴史上に臼井が登場するのは平安末期(12世紀)に千葉氏の一族である臼井氏がこの地に居を構えてから。以来、12代に渡って臼井氏およびその一門がこの地に覇を唱える。が、それも小田原北条氏の滅亡とともに歴史の舞台から去る。その後お城は徳川一門の居城、幕府直轄地をへて元禄3年(1700年)には佐倉領に組み込まれることになった、とか。 (「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)
臼井城址
臼井城址に向かう。中宿交差点の一筋手前の道を台地へと進む。緩やかな坂道の途中に駐車場。駐車場の奥から城址に上る。上りきったところに道。遺構を守るために舗装されているが、往時の土橋、であろう。二郭と主郭をつなぐ。整備される前の写真が道脇にあったが、細い「通路」といった雰囲気。土橋の両側は堀であったのだろうが、現在はこれも少し埋められている、よう。
土橋を西というか北に進み二郭跡に。整地された大きな公園になっている。二郭を離れ三郭、というか外城をつなぐ土橋跡に出る。土橋とはいっても現在は車一台が通れる、といった生活道路。二郭を取り巻く堀はいかにも深い。上杉謙信の軍勢がこの城を落とすことができなかったと言われるが、成る程、この堀は難儀であっただろう。逆は自然の谷であろう、か。
太田図書の碑
土橋を先に進む。太田図書の碑。この地でなくなった太田道潅の弟・図書助資忠ほか53名をまつる。観光協会でもらったパンフレット『ゆったり臼井へ』によればその顛末は以下の通り;文明10年(1478年)千葉孝胤は、上杉家の重臣太田道潅に破れ、臼井城に撤退。翌年正月に道潅の弟・図書助資忠は千葉自胤(武蔵千葉氏)と臼井城を攻撃、戦死した、と。すっと流せばそれだけのことなのだが、ちょっと考え始めると、わかったようで、よくわからない。なぜ道潅が千葉氏と争う?なぜ千葉自胤は同盟軍?興味を覚えチェック。
大雑把にまとめてみる;ややこしさのすべては上杉管領家と古河公方の争いに端を発する。鎌倉公方を補佐する管領と公方に争い、である。鎌倉公方が京都に反旗を翻す。足利将軍家の関東名代だけでは面白くなく、将軍になりたかった、とか。京都方についた上杉管領家に鎌倉公方は破れる。鎌倉から逃れて古河に拠点を構える。ために古河公方,と言う。 この争いに千葉氏も巻き込まれ一族は二つに別れる。
千葉宗家は上杉管領側。そして一族の重臣である馬加康胤、原胤房は古河公方につく。結局、千葉宗家は馬加、原氏の軍勢に急襲され破れる。嫡子・千葉自胤、実胤は武蔵に逃れ上杉管領家の庇護のもと武蔵千葉氏、となる。平安時代末期、上総介平忠常からはじまり、頼朝の挙兵を助けるなど一時期を画した千葉宗家は滅亡することになった。 で、この千葉宗家の系統を継ぐのは自分だ、と千葉氏を称したのが馬加(岩橋)康胤。さすがに居城までは千葉宗家があった亥鼻城(いのはな;中央区亥鼻町)では具合が悪かろう、と新たに移ったのが「本佐倉城」、ということだ。
上のメモで太田道潅と争った千葉孝胤とはこの馬加(まくわり)康胤の嫡男。太田道潅が千葉孝胤と戦ったのは、道潅が関東管領側であり千葉孝胤は古河公方側であるから。また、千葉自胤が道潅の弟・図書助資忠と臼井城を攻撃したのは、千葉孝胤が親の敵である馬加氏の流れであるから、である。謎解きができて、少々すっきり。
星神社
太田図書の碑の近くに星神社。臼井妙見社とも呼ばれるように、妙見様をおまつりする。北斗七星を神としたもの。千葉氏の氏神様といったもの。千葉一族の家紋である「月星」「日月」「九曜」は妙見さまに由来する。ちなみに妙見信仰といえば、先般歩いた秩父神社が思い出される。秩父神社は秩父平氏・平良文をまつる。平忠常を祖とする千葉氏も秩父平氏の流れを汲む、ということであり、これも大いに納得。 星神社を離れ台地上をブラブラ歩く。台地が北に続いている。どうもお城だけの独立丘陵といったものではないようだ。昔はこの台地上に出城というか支城というか、砦といったものが配置されていたの、だろうか。台地上から印旛沼を眺めよう、と思ったのだが崖線が近くにある、といった雰囲気でもない。お城跡へと引き返す。
主郭跡
二の郭から土橋を通り主郭に向かう。虎口を抜け主郭跡に。ここも公園となっている。主郭からの眺めは素晴らしい。印旛沼が一望のもと。昔は沼は台地下まで迫っていたのであろう。事実、いつだったか古本屋で買い求めた『利根川図志;赤松宗旦(岩波文庫)』に、安政年間(19世紀中頃)の臼井城のイラストが掲載されているが、確かにお城の台地下まで印旛沼が迫っている。
臼井城は、14世紀中頃に中世城郭としての形を整えたと言われる。臼井氏中興の祖と言われる臼井興胤の頃である。東西1キロ、南北2キロであった、とか。その後16世紀中頃には原氏が臼井城主となる。原氏が臼井氏の嫡子への後見役となったことがそのきっかけ、かと。原氏とは、上でメモしたように、馬加氏とともに千葉宗家を滅ぼした、あの原氏である。
城の主となった原氏は城の機能を拡充。戦国時代には、小田原北条氏の幕下に入り千葉氏をも凌ぐ勢力となる。永禄9年(1566)には上杉謙信の臼井城攻撃を撃退している。が、天正18年(1590)7月に原氏は北条氏とともに滅亡。翌8月には臼井城に徳川家康の家臣酒井家次が入城。文禄2年(1593年)に出火・消滅。その後、慶長9年(1604)、家次が上野国高崎に転封され臼井城は廃城 となった。
雷電為衛門の碑
臼井城址を離れる。次の目的地は「雷電為衛門」の碑。何故かは知らねど、雷電とか谷風といった江戸の相撲取りの名前を覚えている。子供のころ、なにかで読んでおぼえていたのであろう。
台地を下り、成田街道まで戻り、西に少し戻る。妙伝寺入口を北に折れ、お寺への台地手前を南に折れる。道成りに進み、公園というか地域のお年寄りの集会所といった施設の裏手あたりに進む。そこに、ひっそりと江戸時代の名大関の碑があった。
雷電は16年間大関をつとめた。とにかく強かったらしい。信濃生まれの雷電がこの地に眠るのは、妻がこの臼井上町にあった甘酒屋の娘であったため。ちなみに雷電は谷風(西の大関)の内弟子であった。刻まれた題字は幕末の名士佐久間象山のもの、と言われる。
と、あれこれメモしながら少し疑問が。これほど強い関取がどうして大関で、横綱でないのか。チェックする。 真相は単純。当時の相撲の最高位は大関であっただけ、のこと。横綱とは将軍の上覧相撲の栄誉に浴した大関に与えられる儀式免状であった、とか。儀式というか称号としての横綱が番付上の横綱として登場したのは明治42年(1909年)のことである。
ちなみに、雷電って、結構インテリであった、とか。文字の読み書きができ、足掛け27年に渡って旅日記『諸国相撲和帳』、通称『雷電日記』を書いている。これって当時の力士としては稀有の存在であった、よう。どこかの古本屋で買い求めた雑誌の中に書いてあった記事のうろ覚え。出典定かならず。
道誉上人の碑
雷電の碑を離れ駅に戻る。稲荷台の台地に戻る。途中、ちょっと寄り道。少し台地を下り道誉上人の碑に立ち寄る。どこかで聞いたことがある名前である、と思うのだがどうも思い出せない。そのうちにわかるかと、ともあれ、お墓のある長源寺に向かう。境内、というより、道脇の台地の中腹にお墓があった。
道誉上人は当時下総生実(おゆみ;千葉氏中央区生実)に居を構えていた原氏の招きで下総に。増上寺9世管主を経て長源寺を開山した高僧。おまいりし、脇の道を台地に上る。どうも昔の臼井城の砦があったところのよう。『利根川図志;赤松宗旦(岩波文庫)』にもいかにもこのあたりに「トリデ」のマークがあった。台地上から臼井駅のある低地を囲む台地を眺め臼井駅に。本日のメーンエベント・花見川散歩のスタート地点である京成線・大和田駅まで電車で向う。
京成線・大和田駅
京成線・大和田駅で下車。成田街道は駅の北を通る。八千代市役所も成田街道沿いにある。江戸時代、成田詣のために早朝江戸を出立した旅人は、最初夜は船橋宿か、この大和田宿で一夜を明かした、と言う。成田街道から離れたこの駅はこじんまりとしている。大正15年開業の八千代市で最も古い駅である、とか。 (「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)
印旛沼疎水路下流部・花見川
駅前を成行きで南に進む。直ぐに水路にあたる。源流を辿ると陸上自衛隊習志野駐屯地の演習場あたりまで確認できる。が、水路の名前はわからない。印旛沼疎水路下流部・花見川に向かって東に進む。ほどなく川筋に。住所は横戸町。
勝田川が東側より合流する。鷹の台カントリークラブがある台地下に沿って花見川が湾曲するあたりで、である。地図で源流を辿ると、この川も陸上自衛隊習志野駐屯地の演習場あたり。そこから四街道市、佐倉市の境を流れ、現在はこの地で花見川に合流し東京湾に下る。
現在、勝田川は花見川に合流する、とメモした。が。それは最近のこと。昭和23年(1948年)からはじまり昭和44年(1969年)に完成した印旛沼総合解発事業以降のことである。それ以前は、勝田川は現在の新川筋を流れ印旛沼に注いでいた。以前、印旛沼の水を東京湾に排水するため、印旛沼に注ぐ新川筋と、東京湾に注ぐ花見川を横戸のあたりで繋いだ、とメモした。ということは、その繋ぎの場所というのは、このあたりだったのだろう。
勝田川の合流地点
勝田川の合流部分は東西の台地が最も接近している。分水界となっていた台地を切り崩し、ふたつの川筋をつないだのであろう。二つの川筋を繋いだ、と書面だけで言われても、いまひとつ実感がなかった。どういうふうに繋げたのであろう、どういう地形なのだろう、などと疑問をもったのが、今回の花見川散歩の目的のひとつではあるのだが、勝田川の流路が逆転した、ということ、そしてその場所が如何にも狭隘な台地接近部であるという地形を見て、あらかたの疑問は解決。気持ちも軽く先に進む。
弁天橋
弁天橋を渡り花見川の東岸に移る。ここから花見川サイクリングコースがはじまる。川の両岸に台地が迫る。緑が深い。快い道筋である。散歩をはじめて、結構多くの遊歩道、緑道を歩いたが、その中でも印象に残る道筋のひとつと言える。
水色の水道橋が現れる。柏井浄水場から水を送っている。 弁天橋から1.5キロほど下ると柏井橋。道は橋の下をくぐる。新川筋と花見川筋を繋げるための分水界の開削は、弁天橋からこの柏井橋まであたりまでに及んだ、と。江戸時代幾度か開削が計画されながら、結局失敗に終わったということであるが、両側に迫るこの台地を切り崩すのは並大抵でなかったろう、と改めて実感。
で、ここまで歩いてきて、大和田機場に出会わないことに気がついた。印旛沼の水=新川を花見川に排水する施設であるが、後からチェックすると、場所は京成線より北、成田街道にかかる大和橋より更に北にあった。印旛沼の水を2日もあればすべて排水できるほどの強力なポンプがある、という。見てどうということはないのだが、とりあえずどんなものか見ておこう、と思ったのだが、後の祭り。とはいうものの、年に数回しか新川の水を汲み上げてはいないようなので、まあいいか、とも。
ところで、この大和田機場を境に新川と花見川の川床は数メートル差がある。花見川サイドの方が高い、と。それがこの排水機場でポンプアップする要因なのだろうが、これって何のため?チェックする。どうも設計段階から段差をつけた、よう。自然の勾配だけで印旛沼の水を流すと、勾配が緩やかになり、満潮時に海水が川筋を遡上し洪水の可能性がある、ということで、接合部の川床を高くした、と。わかったようで、よくわからない。
花島橋
あれこれと想いを巡らしながらも、まことにいい雰囲気の道を1キロ弱進むと花島橋。古い雰囲気の橋。500mほど下ると花見川大橋。結構新しそうな橋。道は青い橋桁の下を通る。橋の近くに赤い水道管が走る。少し下に水門。長作水門。水量を調節する、と。
直ぐ近くに天戸大橋。天戸大橋を過ぎると、台地から離れ平地に移る。牧歌的風景。 天戸大橋から1キロ程度進むと亥鼻橋。桜並木もさることながら、田園風景が美しい。もっと雑とした風景を想像していたので、予想外の展開。亥鼻橋からこれも1キロ弱進むと京葉道路と交差。
京葉道路手前に汐留橋。文字通り、汐留=海水の遡上をここで止めるわけであり、橋の下に堰が設けられている。ここまで汐がのぼってくる、ということであろうか。であれば上でメモした、大和田排水機場あたりの川床の高さや勾配に関するあれこれについて、急にリアリティが出てきた。
総武線・幕張駅
京葉道路をくぐり先に進む。川の東岸に花見川区役所。また西側前方には見慣れた幕張のビルが見えてくる。それにしても、少しは住宅が増えてきた、とはいうものの、ここまで下ってきても、のんびりした風景である。
更にくだると浪花橋。京葉道路から1キロほどのところ。ここから河口まで3キロ強、といったところだが、日没時間切れ。浪花橋を西に渡り、総武線に沿って進み総武線・幕張駅に進み、一路家路へと。本日の散歩はこれで終了。
ところで、花見川の名前の由来だが、川堤の桜が美しかったから、といった説もある。千葉実録には、源頼朝にこの地の桜の花の美しさを言上する千葉一門の口上がある。曰く:『この川上に桜の林これあり候、花盛りには吉野にも優り申すなり。この川の橋にて眺むる時は、川上より流るる花は水を包み、また川下よりは南風花を吹き戻す。よって水上へ花びら往来し、その景色言語に述べ難し』、と。
花見川の名前の由来は定まっているわけではないが、この口上ゆえに、結構納得。地名の由来のついでに、幕張。これって、臼井城のとことでメモした馬加(まくわり)から、との説もある、と。そういえば、馬加城って現在の幕張市幕張3丁目にあった、ということである。そのうちにこの馬加城、そして千葉宗家の居城のあった亥鼻城(いのはな;千葉市中央区亥鼻町)を歩いてみよう、と思う。
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