狭山丘陵散歩 Ⅳ:東村山から小手指まで

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東村山から小手指まで散歩:東村山から小手指まで歩くことにした。理由はふたつ。ひとつは古戦場跡を巡ること。久米川古戦場跡と小手指原古戦場跡の二箇所。 どちらも新田義貞と鎌倉幕府との合戦の地。先日の狭山湖散歩のときの将軍塚、また府中の分倍河原合戦跡碑のときにこの二つの合戦のことをメモした。が、実際に行ってもないので、どんなところか気になっていたわけだ。二つ目の理由は古代の武蔵道、中世の鎌倉街道をちょっと「さわる」こと。東村山から小手指まで歩くのだから、どうせなら昔の道筋をなぞってみたいと考えた。(2月 05, 2009年にブログを修正)



本日のルート;駅西口>諏訪神社>ふるさと歴史館>鎌倉古街道>正福寺>北山公園>東京白十字病院>八国山>将軍塚>久米川古戦場>徳蔵寺(板碑保存館)>府中街道・久米川辻>梅岩寺>西武新宿線と交差>勢揃橋北詰>ニ瀬橋・柳瀬川と北川が合流>長久寺>南陵中>にじゅうにん坂>永源寺>岩崎>瑞岩寺>仏蔵院>来迎禅寺>勝光禅寺>山口城址>中氷川神社>高橋交差点>椿峰ニュータウン西>北野天神前>463号線・小手指ケ原>誓詞橋>市立埋蔵文化調査センター>小手指ケ原古戦場>白旗塚>誓詞橋>緑といこいの遊歩道>所沢西高>小手指駅に

ふるさと郷土館
西武線で東村山下車。西口に下り、まずは「ふるさと郷土館」を目指す。ふたつの合戦跡地を、というだけで、いつものようにとりたてて事前の調べも無し。とりあえず郷土館で資料収集をしようと思う。
道なりに諏訪神社。さっぱりしたお宮。その先に郷土館。展示室は「道」を大きなテーマとしているよう。ディスプレーを見ながら古代武蔵道のルート、鎌倉街道のルートを大雑把に頭にいれる。古代の武蔵道、幅が12メートルもあったとか。八国山にむかって一直線に道筋があったとか。鎌倉街道はいくつも道筋があったとか、いろいろと参考になった。
また、久米川の地での合戦にしても、新田義貞だけでなく、いくつもの歴史に残る合戦があったよう。このあたり、現在でいえば東京のはずれではあるが、昔はこのあたりが幹線道路。現在の都心など湿地と葦原、そして武蔵野の台地も一面の萱原であり、武蔵野国府から上野の国府へ抜けるには、このあたりの道筋を通るのがメーンルート。交通の要衝であり、戦略的に重要な場所だったのだろう。確かに八国山を敵方に押さえられれば、結構鬱陶しいことになりそうな気がする。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図25000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)

ふるさと郷土館で徳蔵寺・正福寺コースとか鎌倉古街道・梅岩寺コースなどいくつかの散歩コース資料も入手。鎌倉古街道・梅岩寺コースに「鎌倉古街道の碑」の案内があった。場所は本町2丁目というから少し駅のほうに戻ることになる。が、行かずばなるまい、ということで、ちょっと駅方向へ戻る。

鎌倉古街道の碑
西武線を渡り駅東側に。鎌倉古街道の碑、見つけるのが結構大変であった。結局は駅前の府中街道を少し北、なんとなくここかな、と思ったところを左に斜めに入ると碑があった。といっても普通の民家の前に「鎌倉古街道の跡」って書いてある碑があるだけ。資料のメモ;鎌倉幕府は重要基盤である関東地方を統治するため、鎌倉を基点として四方の街道を整備した。東村山には、市を南北に貫いて、上野へ向う上ツ道という重要な道が通り、日蓮上人の佐渡流刑、新田義貞の鎌倉攻めなど歴史の重要な役割を果たした(郷土館の資料より)」。
さてここからどのコース、と少々悩む。郷土館でもらったいくつかのコースを眺めながら結局正福寺経由で久米川古戦場に向うことにした。

正福寺
西 武線を再度渡り、駅西側に。八国山を目印に進む。先日八国山・将軍塚に行っているのでルーティングは楽。道なりにすすみ正福寺に。東京都で唯一の重要文化財、というか国宝のある寺。地蔵堂がそれ。鎌倉円覚寺舎利殿とともに禅宗様建築のお堂。垣根は最近新しく作り直した模様。お堂の渋さとまだシンクロしていない。

久米川古戦場跡
寺を出て、北山公園経由久米川古戦場跡を目指す。地図によれば八国山の東麓あたり。道なりに進み北山公園に。普通の・今風の植物公園って雰囲気。とっとと離れる。山麓の東京白十字病院に。古戦場跡はすぐ近く。が、ここまできたのだから八国山に登ってみようと。病院脇の道を尾根まで。将軍塚まで歩き、そのまま道なりに下る。相変わらずいい感じの山。丘陵東麓に。が、どこに下りたのか、場所がわからなくなった。あれこれ動く。結構迷う。川筋を歩き、徳蔵寺のすぐ近くの橋の袂で古戦場への案内板を見つける。とりあえず古戦場跡に。なんということのない小さな公園の一画にあった。
郷土館でもらった資料のメモ;狭山丘陵東麓から前川・後川をはさみ鎌倉街道一帯に広がっている。新田義貞の鎌倉攻めや1335年(建武2)北条高時の遺子時行と足利尊氏の弟直義らの戦い(中先代の戦い)や1352年(正平7)の武蔵野合戦(南北朝時代、新田・足利最後の決戦)など幾多の戦場となった。古代、久米川の宿のあったこのあたりは交通の要衝。戦略的陣取り合戦がおこなわれたのであろう。

徳蔵寺
久米川古戦場をあとに、徳蔵寺に。板碑が有名。「いたび」「いたひ」「ばんび」などと読む。鎌倉中期空戦国時代に作られた供養碑。徳蔵寺の板碑には新田義貞の鎌倉攻めに際し討ち死にした義貞の家臣の名が刻まれている。国の重要文化財。

梅岩寺

道を進み府中街道・久米川辻に。左折し、府中街道を北に進み梅岩寺に。久米川合戦の際、八国山の将軍塚に本陣をおいた義貞に対して、幕府軍はここが本陣。樹 齢700年以上のケヤキ、樹齢600年以上のカヤが。都の天然記念物に指定されている。また四国88箇所巡りの地蔵群も。

勢揃橋北詰

おまいりを済ませ、小手指ケ原に向って歩きはじめる。西武新宿線と交差。ガードをくぐるとニ瀬橋。北川が柳瀬川本流に合流する。北川は柳瀬川の支流。ともに源流点は狭山湖西側の金堀沢のあたりだが、現在は狭山湖、多摩湖によって堰止められている。ということは、この水は、湖の余水ということだろう、か。
西武新宿線に沿って少し進む。なんとなく左折。少し進むと勢揃橋北詰。ここに新田義貞の軍勢が勢揃いしたとか、しないとか。

長久寺

道なりにすすみ長久寺。時宗の寺。時宗の寺は鎌倉街道沿いに結構多い。お寺の前に旧鎌倉街道の標識。とはいうものの、どちらに進めば鎌倉街道なのか検討つかず。お寺の脇を北に上る坂を進む。すぐ左折。結局ここを左折しないで直進すれば所沢市街の新光寺まで、途中西武線でさえぎられてはいるものの、一直線で街道がすすんでいるとのことだった。が、あとの祭り。
で、左折し南陵中方向に。見落としたのだが、この南陵中の前の交差点には東山道武蔵路につながる古代の道の遺構「東の上遺跡」があったよう。八国山を目指し一直線に進んできた12メートルの古代・武蔵道は八国山麓を迂回し、この地に繋がっていたのだろう。

永源寺
南陵中を越え、左折。少し大きな通り。じゅうにん坂の交差点に。西武線に沿って所沢高校方面に永源寺が。曹洞宗。徳川家江戸入府依頼、14代にわたり徳川家より寺領30石の寄進あり。武蔵国守護代大石信重の墓塔も。

瑞岩寺
道なりに北西に進み、西所沢方面からくる結構車の多い通りと岩崎交差点で合流。左折し県道55号線山口・狭山湖方面に。瑞岩寺。結構立派な門構え。「山口城主の菩提寺」。石段に座りしばし休憩。一息ついた後、再び県道55号線山口・狭山湖方面を西に進む。ほどなく西武線と交差。

仏蔵院
仏蔵院に。由緒あるお寺。もともとは狭山湖の湖底に沈んだ勝楽村にあったとか。朝鮮半島から渡来した王辰爾(おうじんに)一族によって建立された。王辰爾 は、百済の人王仁(わに)五世の孫とされる。王仁は、百済からの渡来人。『論語』『千字文』などをもたらした。平安末期の頃は、『国分寺・一宮にもまさり、仏神の加護も尊く』といわれるほど、武蔵では一番の寺格。源頼朝の庇護も得た。所沢市域のなかで、歴史も古く最も大きな寺院であったようだ。

勝光禅寺
少し先に勝光禅寺。北条時が宗開基。家康以来、徳川家の庇護を得る。禅宗様式の楼門がどっしりとして美しい。

山口城址
下山口の駅を越え山口城址に。先日このあたりを歩いていたとき見逃したが、ほんの道脇にあった。というか案内のみ。跡地はスーパーだったか、ホームセンターになっていた。
この城は平安末期、武蔵村山党の山口氏によって築かれた。南北朝の14世紀中頃、新田義宗に与力し、武蔵平一揆の河越氏とともに鎌倉公方足利氏満と戦うが、上杉憲顕に破れ落城。14世紀末にも、南朝方として足利氏満と再び戦うも敗北。その後、山口氏は上杉陣営に。城も狭山湖北麓に根小屋城を築き、この地を離れる。上杉氏が衰えた後は小田原北条氏の旗下に参じるも、小田原合戦で破れ、城も廃城となる。

中氷川神社
更に進み中氷川神社。これも先回の散歩のとき見落とした。立派なお宮さん。ほんとうにこのあたりは、その昔あなどれない地域であったのだろう。この神社、武蔵三氷川のひとつ。あとふたつは、大宮の武蔵一の宮・氷川神社と奥多摩の奥氷川神社。この三社はほぼ一直線上に並んでいると。
先日奥多摩を歩いた時、奥氷川神社を訪れた。なんとなくさっぱりとしたお宮さま。武蔵の国造である出雲臣伊佐知直(いさちのあたい)が、故郷出雲で祖神をまつる地と似ているとちうことで、この地に武蔵で最初の氷川神社を建てたというのが、その奥氷川神社であった、とか。その後、中氷川、大宮の氷川神社を建てていった、との説もあるが、諸説入り交 じり、定説なし。氷川は元、出雲の簸川から。ほとんどが武蔵の国にある、関東ローカルなお宮さま。

北野天神
車の往来の多い道を更に進む。高橋交差点に。右折。椿峰ニュータウン西あたりを経て北野天神前交差点に。北野天神は、景行天皇40年に日本武尊が東征の折に当地に立ち寄り、櫛玉饒速日命・八千矛命の二柱を祀り、物部天神・国渭地祗神と崇拝したことに始まるといわれている。のち欽明天皇の頃、先に日本武尊が納めた神剣に霊験があったことから天照大神を合祀して「小手指明神」とよんだ、と。そもそもなんで北野天満宮。学問の神さまがなんでこの地に。由緒書を呼んで納得。天神様・菅原道真の子孫が武蔵野守となったとき当地を訪れ、京都の北野天神を分祀。坂東第1の天満宮とした。以来、このあたりを北野と呼ぶようになった。
境内に 宗良親王の御在陣跡の碑。南朝の征夷大将軍であった宗良親王が、新田義貞の遺児である新田義宗とともに、小手指ケ原において足利尊氏軍と戦ったときの陣跡。戦いに利あらず、宗良し親王は信濃に落ちた、と言う。

小手指ケ原古戦場

北野天神脇の道を北に進み463号線と合流。小手指ケ原の交差点。左折し誓詞橋に。新田義貞が鎌倉攻めの折、配下の武家に忠誠を誓わせたところとされる。小手指ケ原古
戦場の碑を探す。ちょっと迷った。誓詞橋の交差点を少し斜め、北野神社方面に戻る感じの道がオン・コース。「緑といこいの遊歩道」沿いに碑文があった。

小手指が原合戦の整理;新田義貞と鎌倉軍が最初に会い争った合戦。元弘3年(1333)5月8日、新田荘・生品神社でわずか百数十騎で倒幕の旗揚げをした義貞は、その日のうちに越後新田一族二千騎、利根川を渡る頃には越後、甲斐、信濃の源氏もはせ参じ大軍団に。一方鎌倉方は金沢貞将が新田 軍の背後に、桜田貞国を大将とする軍勢は鎌倉街道上道を入間川に向う。で、5月11日両軍この地で激突。勝敗はつかず、新田軍は入間川へ、鎌倉方は久米川へ退却。
翌12日新田軍、鎌倉方の久米川の陣を攻める。鎌倉軍、分倍河原まで退却。15日、新田軍は府中に攻め込む。鎌倉軍に北条泰家の援軍。新田方は堀兼まで退く。新田軍、三浦氏などの援軍を迎え、軍勢を立て直し、翌日再び分倍河原を攻める鎌倉方、総崩れ。新田軍は鎌倉まで攻め上る。、22日には稲村ヶ崎より鎌倉に攻め入り北条高時を攻め滅ぼす。鎌倉時代は幕を閉じる。生品明神での旗挙げから僅か14日間の出来事であった。

このあたり、街道の要衝地。鎌倉街道上道の支道の一つ。東村山市から西武遊園地、所沢市山口、北野神社からここに至る。ここから北の入間市方面には鎌倉時代には村山党金子氏や丹党加治氏などの本拠地があり、人々の往還が盛んであったのであろう。近くに市立埋蔵文化調査センターが。古い時代からの遺跡も多い。

白幡塚

最後の目的地は白幡塚。小手指ケ原古戦場の碑から少し奥まった西の森の中にあった。森というか前方後円墳型の塚。塚の頂上には白旗塚碑や石祠の浅間神社が。小手指ケ原の合戦の折、新田義貞がこの塚上に源氏の白旗を掲げたと言う伝承から名付けられたものだそう。本日の予定はこれで終了。後は、緑といこいの遊歩道を歩き、所沢西高を経て小手指駅に。

いやはや結構長かった。思いのほか歴史のある地域であった。そういえば、狭山丘陵一帯は、平氏の流れを汲む、武蔵七党のひとつ、武蔵村山党の本拠地であった。実際に歩いて、キラ星の如く現れる由緒ある神社・仏閣を目にすると、リアリティがグンと増す。どんど ん、歩く、べし。 

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