日野は丘陵、台地、低地からなる地形をその特徴とする。市の北端を多摩川、中央部を浅川が流れ、この二つの河川に挟まれた一帯は、数段の河岸段丘からなる日野台地とその最下面の沖積低地が広がり、浅川の南には起伏に富んだ多摩丘陵・七生丘陵が連なる。
日野の低地は先回の散歩で彷徨った。多摩丘陵・七生丘陵も既に歩いた。残るは日野の台地部分を辿ること。「日野っ原」とも呼ばれる日野台地は数段の河岸段丘からなる。日野段丘面、多摩平段丘平面、豊田段丘面、石田段丘面などがそれ。悠久の昔、多摩川が運んだ礫による洲(日野段丘面)ができ、次いで浅川の流れにより多摩平段丘面がつくられ、さらには流路定まらぬ多摩川・浅川の流れにより豊田段丘面、石田段丘面などが出来上がっていたのだろう。
いつだったか甲州街道を車で走ったとき、JR日野駅あたりで低地から坂を上り台地に進み、しばらく台地を走り大和田あたりで再び台地を下り八王子に入ったことがある。道すがらの日野台とか、多摩平とか、豊田、そして石田といった地名がその段丘面の名残であろう、か。
日野台地散歩はJR豊田駅からはじめる。多摩平段丘面を下り、浅川北岸の河岸段丘崖を辿った後、一旦多摩平段丘面上る。その後、台地突端部をJR日野駅あたりへと下り、そこからは多摩川西岸の河岸段丘に沿ってJR八高線・小宮へと進もう、と。崖線に沿った湧水、台地上の西党・日奉氏の館址など時空(歴史+地形)散歩が楽しそうである。
七ッ塚古墳
成就院を離れ日奉氏の館があった伝わる台地へと向かう。道の途中に日野用水上堰にあたる。水路に沿った水車堀公園などを見やりながら台地へと取り付く。坂道をショートカットして段丘崖を直登といった案配。緑豊かな一帯は東光寺緑地と呼ばれ緑地保護地域となっている。
館跡の痕跡を求めて台地上を崖線に沿って彷徨う。これといった痕跡なし。成り行きで進み栄町5丁目交差点から上って来る坂道、たぶんこの坂道って「東光寺大坂」と呼ばれた坂道なのだろうが、その坂道が台地に上りきったあたりを西に進むと広場に出る。地図らしきものをチェックに向かうと「七ッ塚古墳群」の案内。シートで覆われ如何にも発掘作業中といった状況ではあったが、この古墳群は8世紀頃のもの。横穴式石室からは埴輪とか勾玉が発掘されている、と。古くから開けたこのあたりに日奉氏の館があったとの説もある。
神明社
七ッ塚古墳から谷地川方向へむかう。緩やかな坂の途中には埴輪公園などといった公園もあり、いかにも古代より開けた一帯といった感がある。先に進むと崖にあたり、下には谷地川が流れる。崖上から小宮の街並みを眺めながら崖線に沿って台地北端に向かう。北に多摩川を臨み武蔵野が一望のもと。西には谷地川を隔て加住丘陵の遥かかなたには秩父・奥多摩の山容が連なる。誠に見晴らしのいい台地である。日奉氏の館跡の特定はできなかったのだが、このあたりであったのだろう、ということで矛を収める。
崖線間際からの多摩川を眺めようと崖端に進むと社があった。崖面を少し下ると神明社とある。日奉氏の子孫が伊勢神宮を勧請したとの説もある。神明社の祭神って、天照=日神、であろうから太陽祭祀を司る日奉氏が勧請したとするのは、それなりに納得感が高い。
日野の低地は先回の散歩で彷徨った。多摩丘陵・七生丘陵も既に歩いた。残るは日野の台地部分を辿ること。「日野っ原」とも呼ばれる日野台地は数段の河岸段丘からなる。日野段丘面、多摩平段丘平面、豊田段丘面、石田段丘面などがそれ。悠久の昔、多摩川が運んだ礫による洲(日野段丘面)ができ、次いで浅川の流れにより多摩平段丘面がつくられ、さらには流路定まらぬ多摩川・浅川の流れにより豊田段丘面、石田段丘面などが出来上がっていたのだろう。
いつだったか甲州街道を車で走ったとき、JR日野駅あたりで低地から坂を上り台地に進み、しばらく台地を走り大和田あたりで再び台地を下り八王子に入ったことがある。道すがらの日野台とか、多摩平とか、豊田、そして石田といった地名がその段丘面の名残であろう、か。
日野台地散歩はJR豊田駅からはじめる。多摩平段丘面を下り、浅川北岸の河岸段丘崖を辿った後、一旦多摩平段丘面上る。その後、台地突端部をJR日野駅あたりへと下り、そこからは多摩川西岸の河岸段丘に沿ってJR八高線・小宮へと進もう、と。崖線に沿った湧水、台地上の西党・日奉氏の館址など時空(歴史+地形)散歩が楽しそうである。
本日のルート;JR豊田駅>清水谷公園>黒川>梵天山古道>日野台地・日野段丘面>JR日野駅>薬王寺>日野宮神社>日野用水>成就院>七ッ塚古墳>神明社>JR八高線・小宮駅
JR豊田駅
豊田駅で下車。駅の近く、崖線に沿って黒川湧水が流れる。先日、日野本陣跡にある観光協会を訪ねたとき、黒川湧水の案内を手に入れ、機会があれば歩いてみたいと思っていたところである。駅は崖面にあり南口は崖下、北口は崖上に出る。南口は豊田段丘面、北口は多摩平段丘面ではなかろう、か。豊田の名前の由来は、文字通り「豊かな地」、から。日野の低地は縦横に巡らされた用水路により実収3000石余あり、多摩の米蔵とも呼ばれる穀倉地帯であった。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)
清水谷公園
駅を離れ、成り行きで崖線へと進み坂を下る。雑木林と池があり、標識に清水谷公園とある。坂道からは谷戸奥の池の上流端には進めない。いかにも湧水池といった雰囲気もあり、谷戸奥に進もうと坂道を戻り、ぐるっと迂回するも、道は池から離れるばかりで、結局谷戸奥に進むことはできなかった。
崖上の道を進み多摩平第六公園脇を道なりに坂道を下る。道の左に黒川防災公園、右には山王下公園。山王下公園にはその昔、日枝神社があったとのことだが、現在では若宮神社に合祀されている。この若宮神社って、JR中央線の東、東豊田陸橋の近くにある若宮神社のことだろう、か。
山王と日枝について;日枝神社は、日吉山王権現が明治の神仏分離令によって改名したもの。「**神社」って呼び方はすべて明治になってからであり、それ以前は「日吉山王権現の社(やしろ)」のように呼ばれていた(『東京の街は骨だらけ』鈴木理生:筑摩文庫)。その日吉山王権現という名称であるが、これって、神+仏+神仏習合の合作といった命名法。日吉は、もともと比叡山(日枝山)にあった山岳信仰の神々のこと。日枝(日吉)の神々がいた、ということ。次いで、伝教大師・最澄が比叡山に天台宗を開いき、法華護持の神祇として山王祠をつくる。山王祠は最澄が留学修行した中国天台山・山王祠を模したもの。ここで、日吉の神々と山王(仏)が合体。権現は仏が神という仮(権)の姿で現れている、という意味。つまりは、仏さまが日吉の神々という仮の姿で現れ、衆生済度するということ。
黒川
黒川防災公園の広場に沿って進む。この公園は下水処理場跡、とか。ぐるっと一周すると四阿(あづまや)が見える。その四阿は湧水池・あずまや池で囲まれる。豊富な水量である。日野台地で涵養された地下水が崖線下から湧き出ているのだろう。横には山葵(わさび)田があった。 黒川はこのあずまや池からはじまる。その昔は多摩平段丘面が湧水によって刻まれた自然の河川であったのだろうが、現在は人工的に整備された小川となり崖線下を進む。崖線一帯に雑木林が広がり、林の中から幾多の湧水が黒川に注がれる。雑木林の中を進む。このあたり一帯の雑木林は黒川清流公園と呼ばれる。1975年には多摩平第六公園、清水谷公園を合わせた六万㎡もある緑地帯は東豊田緑地保全地域に指定され、自然保護が進められている。
「おお池」を過ぎJR中央線が緑地を切り開く手前に「ひょうたん池」がある。清水谷公園からおおよそ1.7キロ程度だろう。黒川の流れはこのひょうたん池の先で中央線に遮られ、排水溝へと吸い込まれてゆくが、地図を見ると中央線の少し東まで暗渠が続き、その先の神明第10緑地脇、日野市役所から下って来るあたりで再び地上に現れている。
ところで「黒川」の由来であるが、はっきりしない。はっきりしないが、『新編武蔵風土記』の豊田村のところに「村内スベテ平地ニシテ。土性ハ黒野土ナリ。田少ク畑多シ。民戸ハ七十五軒。處々ニ散住ス」、といった記述がある。この地ではないが、黒川の由来として「川の水が澄んで川底が黒く見えた、ため」といった記事もある。真偽のほどは定かではないが、黒土の中を流れる澄んだ川、といったところが黒川の由来だろう、か。
梵天山古道
中央線を越えるため国道20号線バイパスに上る。日野跨線橋で中央線を越え神明2交差点で再びバイパスを離れ脇道へ。道脇に「梵天山古道」の案内があった。梵天山って、神明第10緑地の昔の名前、とか。案内によると、「梵天山古道;往時の鎌倉道。八王子のさらに西からこの地をへて鎌倉に進んだ。昭和の初め頃までは稲城往還と呼ばれ、七生から日野台地へ、また稲城や多摩から八王子へ往来する人や荷馬車で賑わっていた。このあたりだけが往時の面影を残している。「ぼんせん坂」とも呼ばれる」、と。『新編武蔵風土記』にも「東西凡八丁。南北モマタ同ジ。土性黒野土ニシテ。水陸ノ田相半セリ。村内ニ一條ノ往還アリ。橘郡稲毛領ノ方ヨリ。郡中八王子宿ヘノ道ナリ」とある。
日野台地・日野段丘面
神明第10緑地をのんびりと進み、神明1丁目交差点あたりで再びバイパスを越え、崖線に沿って台地に向かう。これからは少しの間、日野台地を歩くことになる。
日野台地は明治・大正にかけ、「日野っ原」と呼ばれる雑木が一面に茂る台地であった、とか。明治22年、甲武鉄道が立川と八王子を結んだ頃も集落はほとんどなかったようだ。最大の理由は水が確保できないから、だろう。大正10年には、この「日野っ原」で陸軍大演習が行われたわけで、ことほど左様に人の住まない一帯であったのだろう。
一面に桑畑の広がる日野台地の様子が変わってきたのは昭和11年頃から。豊富な地下水をもとに工場誘致を行い日野五社と呼ばれる、六桜社(コニカミノルタ)、吉田時計店(オリエント時計)、東京自動車工業(日野自動車)、神鋼電機(現在都立日野台高校と市立大坂上中学校となっている)などがこの地に進出した、と。
JR日野駅
日野台地を進み、実践女子短大前交差点を越え神明4丁目交差点を過ぎると「市立新撰組のふるさと歴史館」。残念ながら休館日。先に進み神明3交差点で北に折れ、中央高速をくぐり台地を下りる。さらに進み都道256号線・市役所入口交差点を左に折れJR日野駅に。ここからは再び、崖線につかず離れず多摩川低地を進むことになる。
薬王寺
日野駅前の日野駅北交差点を北に進む。ほどなく水路に。日野用水上堰だろう。水量豊富な流れである。その先、道路右側に薬王寺。昭和50年代の頃までは少々朽ちた感があったと思うのだが、境内は再建され洒落たお寺さまに様変わりしていた。
寺の開基年代は不詳だが、開山は慶長11年(1606年)との記録がある。高幡山金剛寺・高幡不動の末寺、と言うか、高幡不動の住職の隠居寺、とも。江戸時代には御朱印九石五斗の寺として幕府よりの保護を受け、寺の西北にある日野宮権現の別当寺として明治の神仏分離のときまで続いた。
朱印寺とは税の免除された土地を幕府より与えられたお寺さま。将軍の名に朱印を用いたことでこの名がついた。一石は人ひとりが1年間に食べるお米の量。米俵2.5表、150キロ程度。10斗で一石であるから、九石五斗とは9.5人の人が1年間に食べるお米の量で、およそ24俵といったもの。もっとも現代人が1年間に食べる量は65キロ程度というから、22人分となる。
この薬王寺のあたりは、江戸時代に甲州街道が開かれる前の日野の中心地であったところ、と言う。薬王寺の南に日野本郷と呼ばれる村があったとの記録が残るし、日野宮神社周辺の栄町遺跡、薬王寺付近の四ッ谷前遺跡などで遺跡が発掘されており、薬王寺周辺は奈良平安時代から中世にかけて、この辺り一帯の中心地であったのだろう。実際、このお寺さまが再建される前、寺の敷地には小田原北条家臣・竹間加賀入道の館跡の土塁が残っていたとのことである。
日野宮神社
薬王寺の西北に日野宮神社。武蔵七党のひとつ、西党の祖・日奉宗頼の子孫が祖先を祀って日野宮権現を建てたと伝わる。日奉氏は太陽祭祀を司る日奉部に起源を持つ氏族。6世紀の後半、大和朝廷はこの日奉部を全国に配置した。農作物のための順天を願ってのことであろう。日奉部の氏族は、この武蔵国では国衙のある府中西方日野(土淵)に土着し、祭祀集団として存在していたと伝わる。
西党の祖・日奉宗頼は、もとは都にあって藤原氏の一族であった、とか。それが中央の政争に敗れたとか、国司の任を得て下向したとか、あれこれと説があり定かではないが、ともあれこの武蔵国に赴き牧の別当となる。任を終えても都に戻らず、この日野の地に土着していた日奉部の氏族と縁を結び、父系・藤原氏+母系・日奉氏という一族が成立した、と。
日奉氏はこの地域を拠点とし、牧の管理で勢力を広げ、国衙(府中)の西、多摩の西南である「多西郡」を中心に勢力を伸ばした。ために多西ないし西を称するようになったというのが西党の由来である。もっとも、日奉(日祀)の音読みである「ニシ」から、との説もある。
日野用水
日野宮神社を離れ、道なりに多摩川の堤に向かう。途中に用水路。日野用水下堰であろう。日野市内には全長170キロにも及ぶ用水路網が広がる、とメモした。幹線用水だけでも多摩川と浅川の間の低地に8つ、浅川とその支流である程久保川の間に6つの用水路が流れ、多摩の米蔵とも呼ばれた穀倉地帯を支えていた。日野用水もそのひとつであり、最も古い歴史を持つ用水と言われる。
現在日野用水は八王子の北平町の平堰で取水され、日野市の北部を進む。途中で下堰堀と上堰堀に別れ、甲州街道に沿った日野市の中心部を挟むように舌状の沖積地を下り多摩川に注ぐ。取入口を含めて現在の姿になったのは戦後のことではあるが、日野用水の歴史は古く奈良時代まで遡る、とも。室町後期、永禄10年(1567)には、大規模改修工事を行った、との記録が残る。「永禄十年北条陸奥守様より隼人殿罪人をもらゐ、此村之用水を掘せ、茶屋・小屋をひつらゐ百姓之用水を取、東光寺之のみ水二成、大小之百姓末々迄難有可奉存候、当主計殿松を植候を拙者共聞申候(上佐藤家 「挨拶目録」より)」とある。美濃からやってきた上佐藤家の先祖・佐藤隼人が、滝山城主であり後に八王子城主となる北条氏照の力を借りて、罪人を使用しての工事であったようだ。ちなみに上佐藤家とは日野宿で大名が宿泊する本陣が置かれた名主の家柄。ついでに下佐藤家とは脇本陣が置かれた名主の家。もっとも幕末には下佐藤家が本陣となった、とか。
成就院
多摩川の堤に上り、多摩川の流れを眺めながらしばしの休憩の後、日野用水下堰に沿って先に進む。進むにつれて南の河岸段丘が近づいてくる。低地との比高差は20m弱といったところ。用水路を離れ、低地との比高差数メートルといった坂を上ると成就院に。
先ほど辿った日野用水は東光寺用水とも呼ばれる。近くには東光寺団地とか東光寺小学校といった名前が残る。このような地名にのみ名残を残す東光寺とは、この成就院の南にある台地に館を構えた、西党・日奉氏が建てた寺。館の鬼門に薬師堂と共に建てられた、とか。成就院は東光寺の一子院であったが、鎌倉期に日奉氏の凋落にともない東光寺ともども廃寺となる。その後、成就院は16世紀末に再建され、昭和46年には都市計画によって薬師堂を成就院の境内に移築し現在に至る。薬師堂は安産薬師として知られる。
JR豊田駅
豊田駅で下車。駅の近く、崖線に沿って黒川湧水が流れる。先日、日野本陣跡にある観光協会を訪ねたとき、黒川湧水の案内を手に入れ、機会があれば歩いてみたいと思っていたところである。駅は崖面にあり南口は崖下、北口は崖上に出る。南口は豊田段丘面、北口は多摩平段丘面ではなかろう、か。豊田の名前の由来は、文字通り「豊かな地」、から。日野の低地は縦横に巡らされた用水路により実収3000石余あり、多摩の米蔵とも呼ばれる穀倉地帯であった。(「この地図の作成にあたっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用した。(承認番号 平21業使、第275号)」)
清水谷公園
駅を離れ、成り行きで崖線へと進み坂を下る。雑木林と池があり、標識に清水谷公園とある。坂道からは谷戸奥の池の上流端には進めない。いかにも湧水池といった雰囲気もあり、谷戸奥に進もうと坂道を戻り、ぐるっと迂回するも、道は池から離れるばかりで、結局谷戸奥に進むことはできなかった。
崖上の道を進み多摩平第六公園脇を道なりに坂道を下る。道の左に黒川防災公園、右には山王下公園。山王下公園にはその昔、日枝神社があったとのことだが、現在では若宮神社に合祀されている。この若宮神社って、JR中央線の東、東豊田陸橋の近くにある若宮神社のことだろう、か。
山王と日枝について;日枝神社は、日吉山王権現が明治の神仏分離令によって改名したもの。「**神社」って呼び方はすべて明治になってからであり、それ以前は「日吉山王権現の社(やしろ)」のように呼ばれていた(『東京の街は骨だらけ』鈴木理生:筑摩文庫)。その日吉山王権現という名称であるが、これって、神+仏+神仏習合の合作といった命名法。日吉は、もともと比叡山(日枝山)にあった山岳信仰の神々のこと。日枝(日吉)の神々がいた、ということ。次いで、伝教大師・最澄が比叡山に天台宗を開いき、法華護持の神祇として山王祠をつくる。山王祠は最澄が留学修行した中国天台山・山王祠を模したもの。ここで、日吉の神々と山王(仏)が合体。権現は仏が神という仮(権)の姿で現れている、という意味。つまりは、仏さまが日吉の神々という仮の姿で現れ、衆生済度するということ。
黒川
黒川防災公園の広場に沿って進む。この公園は下水処理場跡、とか。ぐるっと一周すると四阿(あづまや)が見える。その四阿は湧水池・あずまや池で囲まれる。豊富な水量である。日野台地で涵養された地下水が崖線下から湧き出ているのだろう。横には山葵(わさび)田があった。 黒川はこのあずまや池からはじまる。その昔は多摩平段丘面が湧水によって刻まれた自然の河川であったのだろうが、現在は人工的に整備された小川となり崖線下を進む。崖線一帯に雑木林が広がり、林の中から幾多の湧水が黒川に注がれる。雑木林の中を進む。このあたり一帯の雑木林は黒川清流公園と呼ばれる。1975年には多摩平第六公園、清水谷公園を合わせた六万㎡もある緑地帯は東豊田緑地保全地域に指定され、自然保護が進められている。
「おお池」を過ぎJR中央線が緑地を切り開く手前に「ひょうたん池」がある。清水谷公園からおおよそ1.7キロ程度だろう。黒川の流れはこのひょうたん池の先で中央線に遮られ、排水溝へと吸い込まれてゆくが、地図を見ると中央線の少し東まで暗渠が続き、その先の神明第10緑地脇、日野市役所から下って来るあたりで再び地上に現れている。
ところで「黒川」の由来であるが、はっきりしない。はっきりしないが、『新編武蔵風土記』の豊田村のところに「村内スベテ平地ニシテ。土性ハ黒野土ナリ。田少ク畑多シ。民戸ハ七十五軒。處々ニ散住ス」、といった記述がある。この地ではないが、黒川の由来として「川の水が澄んで川底が黒く見えた、ため」といった記事もある。真偽のほどは定かではないが、黒土の中を流れる澄んだ川、といったところが黒川の由来だろう、か。
梵天山古道
中央線を越えるため国道20号線バイパスに上る。日野跨線橋で中央線を越え神明2交差点で再びバイパスを離れ脇道へ。道脇に「梵天山古道」の案内があった。梵天山って、神明第10緑地の昔の名前、とか。案内によると、「梵天山古道;往時の鎌倉道。八王子のさらに西からこの地をへて鎌倉に進んだ。昭和の初め頃までは稲城往還と呼ばれ、七生から日野台地へ、また稲城や多摩から八王子へ往来する人や荷馬車で賑わっていた。このあたりだけが往時の面影を残している。「ぼんせん坂」とも呼ばれる」、と。『新編武蔵風土記』にも「東西凡八丁。南北モマタ同ジ。土性黒野土ニシテ。水陸ノ田相半セリ。村内ニ一條ノ往還アリ。橘郡稲毛領ノ方ヨリ。郡中八王子宿ヘノ道ナリ」とある。
日野台地・日野段丘面
神明第10緑地をのんびりと進み、神明1丁目交差点あたりで再びバイパスを越え、崖線に沿って台地に向かう。これからは少しの間、日野台地を歩くことになる。
日野台地は明治・大正にかけ、「日野っ原」と呼ばれる雑木が一面に茂る台地であった、とか。明治22年、甲武鉄道が立川と八王子を結んだ頃も集落はほとんどなかったようだ。最大の理由は水が確保できないから、だろう。大正10年には、この「日野っ原」で陸軍大演習が行われたわけで、ことほど左様に人の住まない一帯であったのだろう。
一面に桑畑の広がる日野台地の様子が変わってきたのは昭和11年頃から。豊富な地下水をもとに工場誘致を行い日野五社と呼ばれる、六桜社(コニカミノルタ)、吉田時計店(オリエント時計)、東京自動車工業(日野自動車)、神鋼電機(現在都立日野台高校と市立大坂上中学校となっている)などがこの地に進出した、と。
JR日野駅
日野台地を進み、実践女子短大前交差点を越え神明4丁目交差点を過ぎると「市立新撰組のふるさと歴史館」。残念ながら休館日。先に進み神明3交差点で北に折れ、中央高速をくぐり台地を下りる。さらに進み都道256号線・市役所入口交差点を左に折れJR日野駅に。ここからは再び、崖線につかず離れず多摩川低地を進むことになる。
薬王寺
日野駅前の日野駅北交差点を北に進む。ほどなく水路に。日野用水上堰だろう。水量豊富な流れである。その先、道路右側に薬王寺。昭和50年代の頃までは少々朽ちた感があったと思うのだが、境内は再建され洒落たお寺さまに様変わりしていた。
寺の開基年代は不詳だが、開山は慶長11年(1606年)との記録がある。高幡山金剛寺・高幡不動の末寺、と言うか、高幡不動の住職の隠居寺、とも。江戸時代には御朱印九石五斗の寺として幕府よりの保護を受け、寺の西北にある日野宮権現の別当寺として明治の神仏分離のときまで続いた。
朱印寺とは税の免除された土地を幕府より与えられたお寺さま。将軍の名に朱印を用いたことでこの名がついた。一石は人ひとりが1年間に食べるお米の量。米俵2.5表、150キロ程度。10斗で一石であるから、九石五斗とは9.5人の人が1年間に食べるお米の量で、およそ24俵といったもの。もっとも現代人が1年間に食べる量は65キロ程度というから、22人分となる。
この薬王寺のあたりは、江戸時代に甲州街道が開かれる前の日野の中心地であったところ、と言う。薬王寺の南に日野本郷と呼ばれる村があったとの記録が残るし、日野宮神社周辺の栄町遺跡、薬王寺付近の四ッ谷前遺跡などで遺跡が発掘されており、薬王寺周辺は奈良平安時代から中世にかけて、この辺り一帯の中心地であったのだろう。実際、このお寺さまが再建される前、寺の敷地には小田原北条家臣・竹間加賀入道の館跡の土塁が残っていたとのことである。
日野宮神社
薬王寺の西北に日野宮神社。武蔵七党のひとつ、西党の祖・日奉宗頼の子孫が祖先を祀って日野宮権現を建てたと伝わる。日奉氏は太陽祭祀を司る日奉部に起源を持つ氏族。6世紀の後半、大和朝廷はこの日奉部を全国に配置した。農作物のための順天を願ってのことであろう。日奉部の氏族は、この武蔵国では国衙のある府中西方日野(土淵)に土着し、祭祀集団として存在していたと伝わる。
西党の祖・日奉宗頼は、もとは都にあって藤原氏の一族であった、とか。それが中央の政争に敗れたとか、国司の任を得て下向したとか、あれこれと説があり定かではないが、ともあれこの武蔵国に赴き牧の別当となる。任を終えても都に戻らず、この日野の地に土着していた日奉部の氏族と縁を結び、父系・藤原氏+母系・日奉氏という一族が成立した、と。
日奉氏はこの地域を拠点とし、牧の管理で勢力を広げ、国衙(府中)の西、多摩の西南である「多西郡」を中心に勢力を伸ばした。ために多西ないし西を称するようになったというのが西党の由来である。もっとも、日奉(日祀)の音読みである「ニシ」から、との説もある。
日野用水
日野宮神社を離れ、道なりに多摩川の堤に向かう。途中に用水路。日野用水下堰であろう。日野市内には全長170キロにも及ぶ用水路網が広がる、とメモした。幹線用水だけでも多摩川と浅川の間の低地に8つ、浅川とその支流である程久保川の間に6つの用水路が流れ、多摩の米蔵とも呼ばれた穀倉地帯を支えていた。日野用水もそのひとつであり、最も古い歴史を持つ用水と言われる。
現在日野用水は八王子の北平町の平堰で取水され、日野市の北部を進む。途中で下堰堀と上堰堀に別れ、甲州街道に沿った日野市の中心部を挟むように舌状の沖積地を下り多摩川に注ぐ。取入口を含めて現在の姿になったのは戦後のことではあるが、日野用水の歴史は古く奈良時代まで遡る、とも。室町後期、永禄10年(1567)には、大規模改修工事を行った、との記録が残る。「永禄十年北条陸奥守様より隼人殿罪人をもらゐ、此村之用水を掘せ、茶屋・小屋をひつらゐ百姓之用水を取、東光寺之のみ水二成、大小之百姓末々迄難有可奉存候、当主計殿松を植候を拙者共聞申候(上佐藤家 「挨拶目録」より)」とある。美濃からやってきた上佐藤家の先祖・佐藤隼人が、滝山城主であり後に八王子城主となる北条氏照の力を借りて、罪人を使用しての工事であったようだ。ちなみに上佐藤家とは日野宿で大名が宿泊する本陣が置かれた名主の家柄。ついでに下佐藤家とは脇本陣が置かれた名主の家。もっとも幕末には下佐藤家が本陣となった、とか。
成就院
多摩川の堤に上り、多摩川の流れを眺めながらしばしの休憩の後、日野用水下堰に沿って先に進む。進むにつれて南の河岸段丘が近づいてくる。低地との比高差は20m弱といったところ。用水路を離れ、低地との比高差数メートルといった坂を上ると成就院に。
先ほど辿った日野用水は東光寺用水とも呼ばれる。近くには東光寺団地とか東光寺小学校といった名前が残る。このような地名にのみ名残を残す東光寺とは、この成就院の南にある台地に館を構えた、西党・日奉氏が建てた寺。館の鬼門に薬師堂と共に建てられた、とか。成就院は東光寺の一子院であったが、鎌倉期に日奉氏の凋落にともない東光寺ともども廃寺となる。その後、成就院は16世紀末に再建され、昭和46年には都市計画によって薬師堂を成就院の境内に移築し現在に至る。薬師堂は安産薬師として知られる。
七ッ塚古墳
成就院を離れ日奉氏の館があった伝わる台地へと向かう。道の途中に日野用水上堰にあたる。水路に沿った水車堀公園などを見やりながら台地へと取り付く。坂道をショートカットして段丘崖を直登といった案配。緑豊かな一帯は東光寺緑地と呼ばれ緑地保護地域となっている。
館跡の痕跡を求めて台地上を崖線に沿って彷徨う。これといった痕跡なし。成り行きで進み栄町5丁目交差点から上って来る坂道、たぶんこの坂道って「東光寺大坂」と呼ばれた坂道なのだろうが、その坂道が台地に上りきったあたりを西に進むと広場に出る。地図らしきものをチェックに向かうと「七ッ塚古墳群」の案内。シートで覆われ如何にも発掘作業中といった状況ではあったが、この古墳群は8世紀頃のもの。横穴式石室からは埴輪とか勾玉が発掘されている、と。古くから開けたこのあたりに日奉氏の館があったとの説もある。
神明社
七ッ塚古墳から谷地川方向へむかう。緩やかな坂の途中には埴輪公園などといった公園もあり、いかにも古代より開けた一帯といった感がある。先に進むと崖にあたり、下には谷地川が流れる。崖上から小宮の街並みを眺めながら崖線に沿って台地北端に向かう。北に多摩川を臨み武蔵野が一望のもと。西には谷地川を隔て加住丘陵の遥かかなたには秩父・奥多摩の山容が連なる。誠に見晴らしのいい台地である。日奉氏の館跡の特定はできなかったのだが、このあたりであったのだろう、ということで矛を収める。
崖線間際からの多摩川を眺めようと崖端に進むと社があった。崖面を少し下ると神明社とある。日奉氏の子孫が伊勢神宮を勧請したとの説もある。神明社の祭神って、天照=日神、であろうから太陽祭祀を司る日奉氏が勧請したとするのは、それなりに納得感が高い。
JR八高線・小宮駅
社にお参りし、崖線を南に戻り谷地川に下りる。谷地川は秋川南岸の秋川丘陵・川口丘陵からの水を集め、上戸吹から北の加住丘陵、南の犬目・矢野丘陵に挟まれた低地を、滝山街道に沿って下る。日野に入ると日野台地の北側をかすめる様に東流し、JR中央線の鉄橋付近で多摩川に注ぐ。谷地とは湿地の意味。内陸部の山間や丘陵地等の沼などの湿
地が多いところを谷地と呼ぶことが多い。現在は護岸工事がなされ湿地の名残はこれといって見ることもできないが、ともあれ谷地川を渡りJR八高線・小宮駅に向かい、本日の散歩を終える。
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